結:ヒトとモノノケ/俳優と獅子

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結:ヒトとモノノケ/俳優と獅子

シシ頭

人々は熊が呪力をもっていることを信じていた。だから人は熊によって目に見えない災を避け、また目に見えない未来を占おうとした。利賀村では熊の腸をヒャクヒロ(百尋)と呼び、乾燥して妊婦の腹帯に舞い手安産の呪具とした。朝日町ではハラオビと称している。利賀村の伝承の中に、出産があった場合は、一週間から十日間入山しないのが通例であった。なお、妻が妊娠中の場合は、入山して狩猟しても、熊に弾が当たらぬともいわれており、事実そのようなことがあったという。平村下梨では熊を捕獲すると、獲物が大きい場合にはその場で、小さい場合にはさとへ丸ごと降ろして解体するが、それに先立ち捕獲後の熊の身体状況で持戒の猟の豊凶を卜占するという古風な伝承がある。熊野下顎部には少量の白毛が混在するのが常だが、下顎部が顕著に白い熊が存在し、これを地元では「アゴジロ」(顎白)と呼ぶ。この「アゴジロ」が猟期の最初にとれるとその年は猟があまりないという。今一つは、捕獲後の熊の下の状態で猟の豊凶を卜占することである。熊を仰向けにした状態で猟師から見て右側に(クマ自身から見ると左側に)、熊が下を出していれば、次にとれるのが早く、逆の場合、捕れるまで暇がかかると判断する。同様の伝承は石川県石川郡白峰村、越後の銀山平などにもある。八尾町谷折では捕り始めがメスだと後が早く(後ですぐ捕れる)雄だと後が遅いという。熊の力は人の肉体だけでなく精神も養ってきたのである。頭蓋骨も、人にとって利用価値のある道具であった。 送られ、葬られた熊の魂を人の手で目覚めさせ、使った。

江戸中期の国学者、山岡浚明の『類聚名物考』の式神の条に「これは人の魂魄を術をもてつかふ事なり。陰陽家につたえへし術有り。中古の物に多く見えたり。西土の書にも此術有り。髑髏神とも云ふ是なり。俗に外法ともいへり」とあって、陰陽師の間では式が身の形象を髑髏に求めていたらしいのである。『神と仏』の中で小松和彦は「称徳天皇呪詛事件で、佐保川の川辺から拾って来た髑髏の中に密かに手に入れた称徳天皇の髪の毛を入れて呪詛したという嫌疑か描けられた。此の当時既に邪悪な呪術の道具として頭蓋骨を利用することがあったということは大いに注目すべきことであろう。」と述べている。生霊が活発に活動した平安朝では当時の日記類や説話集、文学作品などにはおびただしい数の「生霊」の活動が記されている『紫式部日記』『枕草子』『栄華物語』『源氏物語』には六条御息所の生霊が葵の上に取り憑く話が有名である。カミも生霊も取り憑いたが、「もののけ」もあった。もののけとは、人間が互いを忘れ、知らぬ間に恐怖に隠されてしまった鬼であり、熊であり、同類である。次の文は日本民俗文化体系『神と仏』による。

徳島県美馬郡山城町の緒方俊仁家には、オオカミとみられる頭蓋骨が伝えられている。緒方家の先祖に行者や巫女がいたという伝承はないだ、此の頭蓋骨は犬神に憑かれた者から犬神を追い出す霊力をもつと信じられていた。そしてその頭蓋骨には、一枚の文書が添付されている。「阿波国中犬神を使ふ輩これありと云々、早く之を尋ね捜し、罪科に致すべきの胸、三郡諸領主に相触れ、堅く下知を加へらるべきの由候也、仍て執達件の如し 文明三年 八月十三日」と書かれており、文明四年(一四七二)に既に阿波で犬神を用いる者を取り締まっていたことがわかる。犬神とは、敵に憑依して殺す犬の魂魄であり、呪詛の方式の中で殺された犬の霊である。「犬神」もまた、犬の首を切り落とし、その魂魄を自在に操作するというものである。

江戸時代中期から明治にかけて刊行された谷川士清撰の辞書『和訓栞』は、次のように述べる。

犬神の義は四国にあり、甚だ人を害す。…雲州に狐蠱あり、…又、四国に蛇蠱をつかふ者あり。是をひべもちといふ。石見などにて、是を土瓶といふ器をもて名くるなるべしよつて、犬神とうびやうとならべいへり。邪術なり。か々る類は、其処の人も婚ち交を結ばず。又、備の前後州(備前・備後)に、猫神、猿など有て、狐神のごとし、…信州伊奈郡のくだ、上州南牧の大さき使も、同類成るべし」

『神と仏』で小松和彦は言う。「私が調査している高知県の物部村でも「生霊憑き」による病気は多い。此の地方では原因不明の病気になると、「何かがさわっているのではないか」との疑問を抱く。「さわり」には大別して「たたり」(祟り)と「すそ」(呪詛)がある。(略)「すそ」の招待を知るために祈祷師が雇われ、祈祷師は占いによって病気の招待を究明する。「すそ」の招待として最も多いのが「生霊」と「呪い調伏」であり、「犬神」や「猿神」などの「憑きもの」(動物霊)である。此の地方でも「生霊」は、本人が呪文を唱えたり、自分尾「生霊」が他人に取り憑いて苦しめてほしい、等と想わなくとも、勝手に人に憑依すると考えられており、村人の間でトラブルがあると「すそになるかもしれない」と人々は恐れる。というのは、そうしたトラブルによって恨みや憎しみの念が残ると、その人のそうした好ましくない感情が「生霊」を発動させ、本人の知らないうちに憎しみの対象に憑くと考えられているからである。喧嘩、土地争い、財産争い、縁談の恨み、こうしたことがしばしば「すそ」になり、「生霊憑き」を生じさせるのである。」

神の怒りと同様に、人の怒りも容易く「もののケ」にふれることになると恐れられていたことだろう。文政一三年(一八三〇)刊の喜多村信節『嬉遊笑覧』に引用されている『竜宮船』という書物には、人間の外法頭と動物の外法頭のことが載っている。近世の巫女も呪具として頭骨を持ち歩いた例がある。

子が隣家に、毎年相州より巫女来りけるが、来往の事を語るにあたらずといふ事なし。或時、服紗包を忘れ置たり。開きてみに、二寸許の厨子に一寸五分程の仏像ありて、何仏とも見分けがたく、外に猫の頭とも云ふべき干かたまりし物一つ有。ほどなくかの巫女大汗になりて走り来るり、服紗包を尋ける故、即出し遣し、扨是ハ何仏なるぞ、とたづねければ、是は我家の法術秘密の事なれども今日の報恩にあらあら語り申べし。是は今時のごとく太平の代にはいたしがたき事なり。此尊像も我まで六代持来れり。此法を行はんと思ふ人々幾人にてもいひ合せ、此法に用いる異形の人を常々見立置、生涯の時より約束をいたし、其人終らんとする前に首を切落し、往来しげき土中に埋み置事十二月にして取出し、髑髏に付たる土を取、いひ合せたる人数ほど此像をこしらへ、骨はよくよく弔ひ申事なり。此像はかの異形の神霊にて、是を懐中すれば、いかやうの事にても知れずといふ事なし、といふ。今一ッの獣の頭のこともたづねけるが、是は語りにくき訳あるにや、大切の事なり、とばかりいひけるよし。これなん世上にいふ外法つかひといふものなるべきか、と有り。

今日の民俗社会で活動している宗教者たちは、多かれ少なかれ、修験道や陰陽道の影響を受けており、「犬神使い」とか「クダ使い」とか「イズナ使い」とかいった人々は、「護法」もしくは「式神」の後裔としての神霊を操る人々であるといえるのである。そしてその使役霊は、正の側面をもちつつも、暗い負の側面をかかえもった「魔」の類いに属するものであるともいえるだろう。犬神などは、殆ど人々に恐れられ、忌避されてさえいる。柳田邦男は、こうした動物霊を操作する宗教者が近世に入って村落に定着するようになり、そのたえに「憑きもの筋」が形成されるようになった、つまり「憑きもの筋」とは宗教者の家筋であると説いたが、はたしてそうであるかは断定しえない。しかし、「犬神筋」が近世初期に存在していたことを考えれば、かなり妥当な見解であるとも思われる。

シシ舞

だが、頭蓋骨は元々、人を呪うために使われるものではなく、もっと深い所で熊と人とがまだ共に生きていた時代では考えられない使われていたことは、承知してもらえるとおもう。北見・十勝などで熊祭の最後の段階に於て、死体から切り離された熊の頭部ーその耳と耳との間に霊となった山の神が安坐しているーを美しく飾りつけ、それを山上の祭壇に持っていく儀事が行われ、それを「ケヨマンテ」(key-oman-te「頭を・山へ行か・せよ」)と云った。その熊の霊を送り出す際に歌い踊ったのが、次のウポポだったらしい。

kamuy 神様が
hopuni na お立ちになる
hio rimse そら踊を
hechiw 踊れ

知里真志保は「呪師とカワウソ」という章の「神謡の起源」で著者の述べる。

今の熊祭の前身は、狩猟前の季節祭だった。冬に鳴って山入りのときか近づくと、幸先を祝って猟運を確保するために、盛大な祭を行ったが、その際一つの演劇が行われた。すなわち、司祭者たる巫女は獲物たる動物ーアイヌに於いてはそれが神であるーに扮して、人間に捕獲されるさまを演技する。それがユカルの語源たる「ユ(ク、小文字)・カル」するー獲物のさまをなすー所以なのである。例えば、熊祭の場合ならば彼は屋内の壁際に掛けてあった熊の皮を頭からかぶる。すると彼はたちまち熊になる。そして今は熊なのだから熊の鳴声をしてフウェー・フウェー(hu-we(‘)e! hu-we(‘)e!)とか。。オウェーウェー(o-we(‘)e-wee!)とか言いながら場内に現れて舞を舞う。その舞に於て、冬ごもりの穴から出て来た熊が山を彷徨しているうちに人間の狩人に会ってその手に討取られるに至る経緯ーそれを神が天国鳴る自分の家を出て肉を手みやげに人間の里を訪れ、気に入った物を見付けてその者の許へ「客となる」(marapto ne)という風に所作で表すと同時に、その所作の一つ一つを言葉に表して歌う。その歌が後に神謡にまで発達したのであって、それが山の神の自叙の神謡となって現在各地に伝承されているのである。

そのような祭儀の呪術的な演劇に於て演戯者たる祭司の用いたと思われる仮装が後に象徴化し装飾化して、酋長の礼服の一部に今なお面影をとどめている。すなわち祭儀の際に尊長が頭にいただく礼冠ー北海道南部方言においてサパウンペ(sapa-un-pe阿多な。にはまる・もの)、北部方言においてパウンペ(pa-un-pe 頭に・はまる・もの)或はイナウル(inaw-ru 幣の・頭髪)などと称せられる礼冠の前頭部に、前立として附いている小さな木彫の動物で北部方言においてイノカ(i-noka 神の・姿)と称せられるものがそれである。たとえば礼冠に附いている熊のイノカは、司祭者が熊の演じる際、始めは本物の熊の皮を着て熊になったのが、後には礼冠の前頭部に熊の木彫をかざすことによって熊たることを示し、最後にはソレが装飾化して今見る礼冠の前立となり果てたものと考えられる。アイヌの爺さん婆さんたちの考えに従えば、我々の住むこの世界は、神と人との相持ち、相借屋の世界である。神と人とは、隣人同士のように、お互に相依って立つ存在で、即ち、神様は、人に崇められて始めて尊く、人は神様に守られて始めて栄える。人に崇められなかったら神様はみじめな暮らしをするし、神に護られなかったら人間の仕合せということが内。即ち部落の人々の頭には、個人の天才だの、能力だのは、神を考えずには考えられない。みなその人その人の護り神のせいに考えられている。故にこの人たちの日常は、神々の忌諱に触れないように気をつけ、神々の気にかなう祭りや讃美を怠らない。(『金田一京助』)

儀式においては、人間と熊は同化することが求められ、すすめられ、目標とされた。毛をホグことも、湯をたてることも、酒を飲むことも、贈る言葉を唱えることも、冠に頂く動物の象徴も、人が人の姿を捨てるための「足掻き」であった。 技術の変化によって熊と人を繋ぐ振る舞いが崩れた時、若しくは共同体と共に人間と動物という価値観が破壊された時、倒れ掛かった柱を立てるために生じたのが「演技」でり、「妄想」であった。

シャーマンは皆、熊の毛皮を着ていた。それは祖霊であり、私であり、ほふった同類であった。 土器を作る肉体動作と共に、人の精神は発達した。木の実をこねることから、土をねるようになり、それはうねり、ひねりを作り出した。これをカクことで、つまり掻くことによって土を欠き、描き、描いた。熊をたべる。かくというのはかじることでもあり、かむことでもあり、かぶりつく、食べることだった。また人は熊をきた。 熊が薮の中に潜むように、人は木物もしくは毛物の中に身を潜めていた。着るとは切ることであり、また伐ることであった。 切るという行為は皮を着ることになるし、皮は川のような面をもち、うねっているからそう呼ばれたかもしれない。勿論古語としてキル、やカワがどう使われていたか調べるにしても。剥いだ皮を逆さにかけるサカサガケ(阿仁はケボカイ)の儀礼を行う。この時の唱え詞は「センビキトモビキ」「センビキもマンビキも」などである。千匹というのは外来の観念であるが、毛を剥いだ後の姿は、遠目で見れば人間のようである。椋鳩十の物語や宮沢賢治「なめとこ山の熊」でも熊と人間が交錯し、見分けがつかなくなる。私が生きて、あなたが死ぬ。私が死んで、あなたが生きるシャーマンは、現実の世界で熊を演じ、まだ人も熊も同じだった頃の先祖にまで遡る。日本の本州でも受け継がれ、利用され、使役されることによってしか生き延びられなかった熊の頭骨である。熊の中でも、特に脅威となる部分は、鼻であった。現代でも獅子と一緒に現れる天狗の鼻にみた人々の驚きを想像してもよい。

仕留めたや呪の皮を剥ぐ前に、口の廻りの唇の皮、鼻や鼻孔と一緒にして引き離しておくのが、多くの民族の習慣である。(略)ヤクートもまた狐や北極狐の鼻面の皮を離す。アルタイ地方のタタール諸族には、狐や黒てんの鼻面を箱に入れてとっておき、その中に動物の《魂》がやどっているのだと信じているものがある。ソヨートは猟運にあづかろうとして、黒てんの口唇とひげをふところに入れている。チュクチは、家を守ってくれるからと、猛獣の鼻面を集めている。ギリヤークはやはりあざらしの鼻を切り取る。(略)これほど広い地域に渡って記録されている習慣が、太古からのものであることは明らかである。それがもとは熊に対する恐怖心をかき消すためのものであったことも明らかである。このような考え方をあらわにしているのは、中でも次のようなフィン族の熊歌の文句である。「私の熊の嗅覚が消え去るようにと、私はその鼻をとる」ギリヤークは、つかまえたあざらしの鼻と目を取り去って、水中に投ずるが、それは誰が殺したか知られたくないからである。サガイもまた熊を殺した時「もう人間をみられないように」と目を取り去る。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)

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人は、動物を模して、もしくは動物に取り憑かれて舞ったのであった。『身体の民俗学』で中山太郎の文を引く。

「類聚名物考」(江戸中期の百科事典)楽律部に、鳥舞。此の舞は頭に鳥居を戴き、背に鳥の羽を負ひて舞ふなり。二神未だ出現なき前は、交接事をなさず、或時は抱き、或時は手枕を並べて、和合はあれども、動く事なし。二神より始て動き始め給ふ秘事なり。鳥井は精交の姿、たとへば天の浮橋のこころなり。熊野山九本の鳥井は、老陽の數にして、出入ことをつかさどるのかたち、その外佛によせたる白河二道の舞なり云々(歌舞伎事始)

などと合計三つの舞いの説明をした後で、「此の三踊の説明には、著しき立川流真言の臭みが、加味されている上に、索強附会、愚にもつかぬ事までが記されているが、兎に角、此の種の踊りが、古く存していて、然もそれが、踊りの原始的面影を伝へたものとして、載せることとした」と念を押している。

飛騨国吉城群国府村の荒き神社に行われる鳥毛打と云ふ踊りは、背に鶏毛を負ひ、鳥兜を被って踊るが、その有様は、恰も鶏の蹴合のやうだと云ふことである(斐太後風土記)更に「飛州志」によれば、此の踊りは、飛騨国中の神事祭礼には、殆ど付き物であって、何れの村落でも行うように記してあるらしいから、獅子だけでなく、鳥の舞い、鶏舞も獅子と流れを一つにしている。青森では「けいばい」といい、夏になると墓の前で舞うのだそうだ。信州神田氏の祇園会に行われるシシ踊りなども、名が獅子と変わっているだけで、その紛争は、飛騨の鳥毛と、全く同じ者である。舞人は三名と限られ、頭から背まで、黒い鶏の尾を挿したものを被り、腰に五色の幣束、手に小団扇、更に黒い鶏の尾を挿した鍬形打ったものを頭に頂き、眼鼻ばかりの仮面を被って踊るのである(信濃奇勝録)という。

動物に模して踊ることはアイヌでも行われていた。雁、白鳥、熊、狐、犬、ウサギ、ネズミ、蛇、バッタ踊りなどの動物踊があったらしい証拠があり、それらの中には、古く狩猟に出る前に行われた予祝祭(さいさき祭)の仮装舞踏劇の所作から剥落したらしいものもある。そしてその際のかけ声が、後に神謡の折返しになったものもあるようである。(『知里真志保著作集』)シベリアでも同様である。

かつて私がイェニセイ下流で、あるシャマンの行動を観察した際、特に注意を惹かれたのはそのうごきと身振りであって、それはたぶん、歌謡よりも太鼓を打つ事と、より密接に結びついている。かりにこう呼べるとして、その舞踏は一種独得の身ぶるいによって装束につけた金属片をならせながら、一定の表紙で前へ動いてくる事である。そしてときおり奇妙なふうに廻ったり跳ねたりする。見物人には、それが何かある動物のまねをしているように見える。かつて、参会者たちは、シャマンが熊のように歩くと言ったことがある。二度、ほとんど激怒したようになって、その汗を浮かべた顔は威容で不安な様子を帯びるが、再び落ち着きを取り戻すと、ただちに虚脱状態に陥る。かれは身を動かしている間じゅう歌い、天幕に呼ばれた諸霊と離すか、使者の国への旅の模様を述べるシャマンが二、三節誦唱するたびに、樹種がそれを繰り返す。この原始的な歌謡の単調な調子に変化を添えるのは、シャマンがときどきやる、ささやきと叫喚であったり、自然の物音の模倣である。グメーリンが書いているように、ツングースのシャマンの歌謡は「熊野唸り声、獅子の吠え声、犬のなき声、猫のなき声」を再現しようとするものかもしれない。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)

神が動物の姿で現れる例は中国にもある。怪力乱神について記すことが多く、私は古代巫のテキストであったと考えている中国最古の地理書『山海経』には尸が多く登場する。一例だけあげる。

神あり。人面で犬の耳、獣身、二匹の青蛇を耳飾りとする。名は奢比の尸。(大荒東経)

これらの神はシャーマンが仮面をつけて演じていたと考えることができる。この古代祭祀の尸が巫覡の演じる直面・仮面の役柄にとって代わられていったのが、中国の祭りと芸能の大勢であった。祭司と尸の分業型から祝(祭司)と尸を一人の巫覡が演じる単独の兼務型へと推移したのであった。『日本のシャーマニズム』で堀一郎は獣と一体になる人の物語を挙げている。

ところでカリスマの聖なる力の特徴のもっとも原初的な源泉を、ウェーバーはベルゼルカーの狂躁的発作やシャーマンのてんかん性発作に求めている。『ユグリンガ・サガ』の第六章に、北欧神話の最高神オーディンの仲間たちについての物語に、「彼らは楯なくして進撃する。犬、狼のごとく向こう見ずに敵の楯にかみつき、熊、牡牛のごとく強き力もて人々を殺す。しかも火も鋼もかれらを倒すあたわず、これぞベルゼルカーの狂暴とよぶものなり」このベルゼルカーとは字義通りには「熊の皮をつけた戦士」の意で、呪術的に熊と一体化し、同時にしばしば狼や熊に変身する超人間的な力を身につけた勇士である。この描写こそ古代のインド・ゲルマン文明に有名な男性結社の記述と一致し、いわゆる戦士集団の加入札によって変質させられた戦士の姿なのである。すなわち激しい練武を伴うイニシエーョンを通して、「彼らは極度に興奮するようになり、神秘的な非人間的なまでの抵抗しがたい力に満ちあふれさせ、そのお戦闘力と気迫とは、彼の存在の最深部からふるいおこされる」

動物のもつ力をそのまま人に寄り憑かせるところにシャーマンの技術がある。動物の姿をするシャーマンは日本にもいた。『シシ踊り』の中で菊池和博は獅子舞の研究を振り返って述べる。

折口信夫は『万葉集』第十六の「乞食者詠二首」(三八八五)から、農村を荒らす動物の代表であり悪霊の代表とも見られていた鹿を謝らせて豊作を保証させる所作が古くからあったと指摘する。(略)次に、林屋辰三郎はシシ踊りは獣の真似をして戯れる「狩猟踊り」にあたると考えた。それは単なる遊戯ではなく、一首の壽詞とともに狩猟の予祝的意味をもっていたという。そして林屋は、天平宝字三年(七五九)九月に、越前・能登・越後など四国の不浪人(ウカレビト)二〇〇〇人を雄勝柵へ(『続日本書紀』巻第二十二淳仁天皇)、さらに天平宝字六年(七六二)十二月に乞食者(ホカイビト)一〇〇人を陸奥国へ、それぞれ移民させた記述に着目し、鹿踊りがホカイビトの手になるものであった可能性は一段と強められたと述べている。今日の鹿踊り(シシ踊り)の担い手は「東北におけるホカイビト」ともいえるというのである。さらに、森口多里は『万葉集』に現れる乞食者(ホカイビト)は鹿野紛争をして田の稔りを予祝して歩いたが、この下級宗教集団は社会の表面から隠れて秘密の結束のようなものをもって近世まで存続していたかもしれないと述べ、それが現在の鹿踊り(シシ踊り)につながっている考え方を示した。

たしかに、世に浮かれほぎ歩く人は、この芸を体得している。日次記事正月十八日の条、「禁裡左義長の式に唱門師の頭勤士する由を述べ、其徒は頭に赭熊を着け鬼の面を被り、羯鼓を打横笛を吹きて舞ふたり。」(「二たび越前万才に就きて」)という声聞師もその一人である。

乞食者(こつじきひと)詠歌二首

麗しい人、名のある方々、大勢がいらっしゃいますが、どこかに行くとは大変なことで、韓国にいる虎という神を生け捕りにして八頭も捕まえて来て、その皮を敷物に作って八重の敷物を重ねる平群の山並みに、四月と五月の間に薬狩に奉仕するときに、足を引くような険しい、この片山に二本立っている櫟の木の下で、梓弓を八つも手に持って、ひめ鏑を八つも手に持って、鹿を待って私がいると、牡鹿がやって来て嘆くには「すぐに私は死ぬでしょう。死んだら大君に私は奉仕しましょう。私の角は御笠の飾り、私の耳は御墨坩の飾り、私の目は真澄鏡に、私の爪は御弓の弓弭に、私の毛は御筆の飾りに、私の皮は御箱の皮に、私の肉は御膾の材料に、私の肝は御膾の材料に、私の眩は御塩つけの材料に、年老いた奴である私の体一つに、七重の花が咲く、八重の花が咲くと。大君に申し上げて誉めてください。申し上げて誉めてください」といへり。

右の謌一首は、鹿の為に痛みを述べてこれを作れり。

本来は、一匹で十分であるし、シシを通じて向こうの世界に通じる人間は特殊な巫女だったはずだ。それがいつのまにか、所作による「舞」となり、より大きく、より煌びやかになった。それでもシシがシシ頭に憑依する所作を取り入れているのはこのためである。と考えれば、事切れるように舞が終わり人が顔を出すのが正しい流儀だと想えてしまう。これらの舞を作るための素地を持っているのは、舞舞であり、声聞師であり、法師陰陽師であり、ナガレ巫女である。シシ舞と云えど、何を目の前にして踊るか、服従を表す、怒りを治める、ケンカ腰でいく、取り繕うなどという目的の所作をおこない、大きなカミへの交渉をおこなうのか、それともシシのもつカミの力を利用するために、カミのように振る舞うのか。それとも、シシを被って、シシの力の確かさを実演するのか。

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獅子舞は古く「伎楽」や「舞楽」あるいは「散楽」といって、中国、朝鮮半島、そして遠く西域の芸能として日本に伝来した芸能の一つであり、当時は「師子」の字が用いられていた。奈良正倉院御物の中に奈良時代の師子頭があり、天平十九(七四七)年の『法隆寺資財帳』に残る伎楽の仮面類の中にも師子がある。(略)また聖徳太子ゆかりの地として有名な摂津国四天王寺では、聖霊会の舞楽に際して行われる行道の「師子舞」が今に伝えられている。これらの獅子舞は獅子頭を持つ者と尻尾を持つ者が幕のなかに入って舞う二人立獅子舞である。(「東北地方における修験者と権現舞」『国立歴史民俗博物館研究報告 第一四二集』)

植木行宣は「『舞台芸能の伝流』の中で「王の舞・獅子舞・田楽という構成の神事芸能は、前述の通り平安末から鎌倉初期に中央で流行した形式であり、其の形式の祭礼芸能は地方の古社に点在する。」と書いている。其の通りで、富山県では現在でも「獅子舞」と称して天狗が鉾をもって獅子と対峙する物語に田楽の花笠をかぶった子どもがでてくる。諸国の獅子頭は往々にして信仰の対象であって、単に祭具として見られてはいない。「春先伊勢の神楽と称するシシ舞の者が村に来り家々を廻ると、頭痛疝気其他の持病ある者は、是に頼んでそれぞれの患部を獅子に噛んでもらう。」「下総印旛郡公津村大字船形字手黒の村社麻賀多神社に三箇の獅子面あり、」「毎年の春祈禱にはこれを被って神前に舞ひ五穀豊穣の祈りをするが、猶此面を水に映して其水を飲めば病気が治ると信ぜられて居た(印旛郡誌)」 獅子の頭は呪具であり、獅子の頭に宿る力に人々は期待したのである。獅子の振る舞いによって獅子の効果を発揮させる作法もあり、多様だ。山伏神楽の系統では、砂子沢の獅子舞は、足の踏み方がやかましく言われ、獅子頭をかぶってから、米をあげる前に「水叶」という字を書くように踏み、火伏せとする。また「み九字」と称し、九つに踏んで九字を切り、これを悪魔払いという。田子では舞曲を獅子舞と総称し、最初に必ず権現を舞わす。権現祈祷の一つに「墓獅子」があり、百日忌、一年忌、三年忌等の仏の供養に、神楽の一行が、招ぜられた家の仏壇の位牌の前か、墓の前に座して「みはかししのうたひ」を歌う。土地の風俗、歴史を飲み込みながら獅子は現在まで辿り着いた。

本田安次著『山伏神楽・番楽』の「早池峰神楽」のなかで、「獅子を権現とあがめ、この獅子を祈祷のために廻す神人達の持っていた芸能であったらしく、それは例えば、「祇園の社家記録(八坂神社叢書)康永二年(一三四二)十月十九日の情に今日御祈師子舞之。恒例春舞之処。依閉門延引。近日開門之間舞之(中略)猿楽三番仕之。師子者如於庭上舞之。猿楽之時。召上禮堂云々。白晝師子猿楽。於堂上沙汰無先例」と見えるような獅子猿楽が、山伏の祈祷の方便に仕組みなおされた」と述べている。(『日本の伝統芸能 第二巻 神楽Ⅱ』)

『岩手の獅子頭(権現さま)』の調査に依れば、紀銘のある権現サマは岩手県内には六十二頭残っている。このうち近世期以前の獅子頭は一〇頭あり、そのうち古いものを挙げると、南北朝期(一四世紀)宮古市黒森神社の権現様と文明一一年(一四七九)の久慈市丹内神社の権現様である。黒森神社の権現様は木造、麻布貼、漆塗で歯が上下ともに摩耗したものだという。日本海側の秋田県でも湯沢市山田の八幡神社には永和二年(一三七六)銘の獅子頭が現存する。(「東北地方における修験者と権現舞」『国立歴史民俗博物館研究報告 第一四二集』)

奥州南部北郡田名部の目名村の出来事である。菅江真澄『奥のてぶり』(寛政六年(一七九四)正月一三日)の項「一三日、大畑では目名の優婆塞が、三年に一度行われる獅子舞という神楽をして、熊野神社のお札を掲げ、笛太古ではやし立て、門ごとに巡って歩く。新築の家を祝うために、獅子舞がむれ入って祝う。」

修験者達が依拠してきた神社(権現社)の神霊を獅子頭に降臨させ、神々の象徴としての獅子頭を振り回し、祈祷として歩くことが、彼等の宗教活動の重要な一環であり、それは大きな収入源だったからだ。霞場という縄張り。黒森神楽の廻村は、霞をあらす存在でしかなかった。(山岳修験 第三二号)

ヒトは生きるために神を使った。

『雪之出羽路』巻八、平鹿郡浅舞町の条に、「昔此郡大森町にシシ舞あり。山田の獅子頭と闘ひて戦負けたれば此所に埋むと畏怖。大森獅子舞の浅舞に入り来しといふ物語あり。又獅子塚も所々にありて由来々。昔此わざ大いに募り多いにあらび、組合ひ、蹈合ひ喧嘩して死する者あり。之を埋めししるしなりとも云ふ」。又同書巻十一同郡河登の条にも、「獅子塚の梨木、周囲五尺余の空木、昔獅子頭埋めし塚と云へり。昔は獅子闘の事ありて、負けたる獅子にや勝ちたる獅子にや、地に埋めて塚として所々に在り。其村へは獅子舞の入り来ぬためしと云へり」とある。獅子は村を山ごと背負って争い、村を護る力を秘めていた。

元禄年中に、古河古松軒の記した「四神地名録」に「荏原郡大森村巌正寺(浄土宗)にては、毎年七月の仏祭に村の若い者大勢集まりて、終日獅子舞をして追善とす。古へよりの例なれども、其故解しがたし」と載せてある。しかるに文政年中に完成した『新編武蔵風土記稿』巻四一に拠ると、この獅子舞は雨乞いのために行ったが、恒例となったのである」と説明している。『中華全国民俗志』(下篇巻二)、山東省喪礼の条によれば、山東省(往古の呉国の在りしところで、我国とも腐海通商関係を有していた国である)では、死人があると、その親族や友人が、獅子を作って送り、霊を啓くに先立ち、棺前で舞踏するのである。 『勢陽五鈴遺響』に「河芸郡玉垣村大字岸岡に、式内の貴志神社あり、祭神は天鈿女なり。土人相伝ふ、住戸、金銅の獅子頭を、此の神社の檀下に埋めたり、これに依って今に至り、他社の獅子頭此の地を過ぎるときは、必ず頭を低て拝礼して去る。これ遺習なり」とある。勿論、獅子頭を埋めて獅子塚または獅子舞塚とした例は、伊勢に限ったことではなく、ほとんど全国的に在している。獅子の頭は呪具であり、丁重に扱い、利用できなくなればしかる手順で送らねばならぬ形代である。

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カグラと呼ばれる者の中で一人立つの獅子舞も、「こんな儀式があったんじゃが」というイメージを与えて、芸に達者な不浪人が「それならこうしましょう」といって、シシの面とその振る舞いを与えた。勿論昔は、シシになりきり、シシと交渉するという霊媒者の態であり、もはやその力をもつ人のいない社会では、彼らの模倣をするよりしかたがなかった。そのときにふかされたのが、陰陽的な呪師的な振る舞い、所作であった。生き物が別のモノで代用される。儀式も神に対する所作から、みている人の心をつかむような舞に変わっていく。神との語りから神とのやり取りを村人に物語るようになる。これは共同体の中に組み込まれていた媒介者が外に放り出されてから暮らしのために必要な演出だ。以後、神は登場しなくなり、現世の人間同士のやりとりが舞台に上がる。それでも人は亡霊、怨霊、化け物を演じるのだから、人の心の深さは計り知れない。札に書かれた’文字が呪力をもつようになったのは陰陽師。国が国民支配のためにつくった宗教、信仰と、土着の風俗は別々のものだ。シシの力を借りて、シシになって頭を噛む。信じる心は、必ず信じるに値する行為と、利益と結びついている。人間は病する動物である。シャーマンとはあちらの世界を通じて人を治療するところに、役割がある。キリストもそうだった。アラーは?仏陀は?道教、儒教の説いた倫理、道徳とは別の信仰がある。

獅子の頭は、自分の顔を隠す仮面でもある。中国楽戸は仮面芸能をも演じていた。喬健ほか著『楽戸―実地調査と歴史研究−』(江西人民出版社)は次のように指摘する。

楽戸は仮面をつけてさまざまな神々に扮した。また「八仙慶寿」「猿猴脱売」「真武降十帥」「月明和尚駄柳翠」「加官」「封相」などの演目で仮面をつけた。つよい仮面信仰を持ち、彼らにとって仮面は神霊であった。神霊に扮する際は仮面をつけ、平時も神霊として仮面を祀った。仮面をつけるときは香を焚き爆竹を鳴らした。終わって箱に納める際にも香を焚き爆竹を鳴らして感謝した。夏には一定時間仮面を取り出して晒した。その際にも香と爆竹と祈願を怠らなかった。病にかかったときにも仮面に香を焚いて祈願して薬を求めた。この信仰は楽戸から一般人にも影響し、彼らも同様に病気の際には仮面に祈祷した。

仮面の信仰はきわめて古い歴史を持ち、宋代の『萍州可談』という書に、「祭礼に仮面をつけて演じた。上演のまえに紙銭を燃やし、香を焚いて祈祷した。仮面を神のようにあがめて祈祷し、その後で仮面をつけ、種々の演技をした」とある。仮面を被る行為は風俗一般に行われ、盆の風俗では笠や覆面を被ることになる。どれも、現実の自我を越えて祖先となり、自然となる、人を捨てる行為である。

獅子舞はまた、北から南にわたって広く分布している中国の獅子ともよく似ている。たとえば、アンリ・デイディは北ラオスの霊鬼や妖術者について述べた『ロカパーラ』(一九五四)の中で、太鼓のリズムに会わせて漫歩したり歯を噛んだりする著名な獅子、シンカロの舞を記している。このシンカロということばは、梵語のシンハすなわち獅子のラオス語訛りなのである。『信西古楽図』にみられる朝鮮からわが国に渡来してきた獅子もまた、このような範疇の外にあるわけではあるまい。わたしは三〇年ほど前に、会津の東山村天寧の獅子舞を調査していたとき、詞章の一人が日清戦争で兵士として満州に渡り、たまたまラマ廟)での踊りー〈打鬼〉または〈跳鬼〉ーを見物して、自分の部落の獅子舞と踊り方がまったく同じだったと語ったことを思い浮かべる。(略)獅子の仮面とその舞踊は、わたしに奇妙にラマ教の悪鬼祓いの打鬼や跳鬼を連想させる。チベット人や蒙古人の住んでいる、中国の諸地域のラマ廟で、毎年六月に行われている大祭儀ほど珍しい怪奇で神秘的な行事はあるまい。ラマ教は仏教と民俗宗教とが混融したものといわれているが、この悪鬼祓いは、印度教の影響は強いにしても仏教的な要素は少なく、むしろシャマニズムや邪術の世界である。(古野清人『獅子の民俗』)

シシが語りを聞く時、そして、仮面を使って舞うことも、シシを被って舞うことも、地球上にいる「我々」にとってみな共通している。獅子や俳優の姿を通して私たちは人の暮らしと心が常に変化し続け、芸能も変化し、民族も言葉も語りも変化してきた。一方で、祈るということ、食べるということ、怖れるということ、演劇は今も変わりなく行われている。科学技術によってつくり上げられた「近代」という言葉を私たちは着こなせているのだろうか。窯の形態を例に出して、小西正捷はインドのとある部族の精神を読み取っている。最後に他人の引用で終わらせるのも気が引けるが、私が書くことに意味があるのだと思って書く。

つまりいったん大きなの(窯)を作ってしまうと、身動きができなくなるのを彼らは嫌う。定着の土器つくりの人たちでさえもがそうである。確かに窯をガッチリとした形でつくれば、焼成温度も七〇〇〜八〇〇度ぐらいまでは軽く上がり、一〇〇〇度ほども上げられる利点はある。一方、ただこう掘り窪めた、日本だったら縄文土器を焼くような形式の野積みだと、温度はたかだか六〇〇〜七〇〇度であろうか。しかし、かまどや窯の場合には、ある程度の個数がたまらないと焼けない。ところが野積みの場合には、いつでもどこでも、好きなだけ焼ける。それを彼らはよしとする。そういう気軽さの方をとるのである。(略)貧しくてもニコニコしているのは負け惜しみではなかろうか、などとわれわれは勘ぐったりするが、やはりもっと底の深い、五〇〇〇年を越える永い時代にわたって、伝統として一貫した地域性を保ってきた、そういうすごさに裏付けられた考え方がここにあるのだという点を、見落としたくないと思うのである。はじめに述べた、彩文土器の強い伝統もその霊である。図一一二で、西ないしは北西に向かって斜線を引いた地域が、今日でも彩文土器をつくり、使っている地域であるが、この範囲は、実はインダス文明が広がった範囲とちょうど重なる。しかもそののち、パンジャブーはパンジャブーの、スィンドはスィンドの地域的伝統をはっきりと今に伝えている。こういう地域性に結びついているからこそ、人々は単純に「われらインド人」などと一からげにされることを赦さない。われらラジャスターン人、われらマハーラーシュトラ人……そのような、明確な歴史と地域性をもった一つ一つの地域に、彼らはそのアイデンティティーを結びとめている。自分はこの文化を持っている人間なんだ、この文化こそが自分にとって、なくてはならない、この文化にこそ自分は属しているんだというこの矜持とホコリ。それを彼らは持ち続けている。(略)一方、振り返って日本の場合を考えると、私たちも本来以ていたはずの地域文化というものを、あっさりと捨て去ってしまった。津軽なら津軽、水戸なら水戸、薩摩なら薩摩の文化があったはずで、これこそ自分の分かだといって自らを結びとめることができたはずの文化を、あっさりと文部省教育やマスコミ文化に明け渡してしまったのではなかろうか。かくてアイヌも沖縄の人も、皆「日本人」ということでぬりつぶされてしまったが、私たちにとって、私を「私」としている文化というのが一体何なのか。このことをもう一度振り返って捉え直す必要があるのでは、という気がする。(アジア民族造形文化研究所『アジアと土器の世界』 二〇九頁)

日本という島国は国家が既に道路と自動車、インターネットを行き渡らせている。私たちはこれらを使って、「私」や「私たち」をみつめることが、現代に生きる不安を抱いて暮らす勇気になると思っている。