ゲーム

喜ばしいゲームの世界にひきこもる?

ゲームは喜ばしいだろうか。

ある子は「小学校に入る前からゲームをしている」という。

お兄ちゃんのお下がりで・・・・というか一緒にやっていたそうだ。

とても自然なゲームとの出会い。

今でもぽちぽちやっている。

片時も、ゲームから離れたことがない。

お守りだ。

 

小さいことに画面に集中することの弊害は色々と指摘されている。

一番は眼球運動、視野が狭くなるというものだろうか。

そんなことよりも。

 

私は思う。

色々な刺激に敏感な小さい頃に、人と喧嘩したり、人と喋ったり、手足を使って生きる時間をゲームに使った分だけ、育つ能力は変わると。人間関係、現実の困難に対処するスキルをゲームは教えてくれない(ただし人間関係もゲームだ、と応用できればいいのだが)。

私は思う。

ゲームは面白い。ハマる。ハマるようにできている。刺激がある。画面の中のキャラに夢中になる。報酬に夢中になる。勝ち負けが面白い。ゲームをして一生を終えることだってできる。では、ゲームの外の世界の喜びはないんだろうか。

 

ゲームがいいとか悪いとか言われている。

ゲームはある人にとっては中毒だ。

面白い。現実逃避をする道具になる。

喜びを他に感じられないような鬱々とした世界の救いになる。

 

ある人にとっては、良い気晴らし。

 

ゲームは悪いわけではない。

包丁が凶器ではないように。

ゲームは、プレイするものでしかない。

ゲームは、プレイヤーに使われるだけだ。

 

ゲームが好きで好きで、ゲームを作る仕事を選ぶ人がいる。

ゲームをやり込んだら、ゲームを「作る」スキルが手に入るわけではない。

 

結局、人生は、プレイヤー次第。

「どんな人がこのゲームを作っているのかな?」と聞いてみるのも、いいのかもしれない。

 

神経が成人の80%構成されるのが9歳と言われている。

子どもの神経の「デフォルト」にゲームを入れるか入れないかは、親が決めてもいいだろう。

小さい子供にとって、ゲームはどう写っているんだろう。

ゲームより面白いものはないんだろうか?

鬼ごっこをするよりも、ゲームでどんぱちする方が面白いのだろうか?

 

遊び場が少なくなり、規制され、逃げられない、面白みがなくなった世界で、子供たちは、ゲームに救いを求めているのかもしれない。

ひろゆきさんが考えるソシャゲ

ゲームはゲームでも色々ある。

ひろゆきさんはソシャゲをブランドとして考える。

他の人がやっているから。

自分を承認してもらえるもの、話のネタをソシャゲが提供してくれる。

ゴシップの話をしている、御近所さんの噂話をしている人と変わり無いような気がする。

ブランドを持っているだけで人に評価される世の中(ブランドで人を評価する人に溢れている)。

 

僕は別の考え方もしてみたら良いと思う。

子供だった頃に「キラキラしたものを集めた」だろうか。

それが昆虫だったり。

それがぬいぐるみだったり。

 

集めること、手に入れること、自分のものにすることで満たされる、落ち着く、安心する、強くなった気がするのは人間の本性だ。

ただそれに漬け込んでお金儲けをしている人がいる。

精神的に麻痺する、興奮状態が状態化しているとしたら、麻薬と同じ。

 

ソシャゲは、人の役に立つのか?

ソシャゲは、自分の役に立つのか?

ソシャゲをして、現実に、自分は強くなるのか?

 

ソシャゲ仲間に出会うのは楽しいかもしれない。

「そのアニメ、わたしも好き!」

 

けどその話題は「東京オリンピックについてどう思うよ」でも構わないはずだ。

 

子どもは刺激に弱いかもしれない。

ついつい、やってしまう。

 

だとしたら、大人たちが、子どもたちに「オトナらしさ」を見せたらどうだろう。

宿題、勉強、それ以外でどんな話をしているだろう。

 

小学高学年になったら、世の中の仕組みはとうに理解できるはずだ。

 

ちなみに、荒野行動だとか、APEXといったFPSが上手い人は陸軍からスカウトされるらしい。

らしい!

やばたにえんで考える「ゲームとは何か?」

生徒から教わった、ホラーなゲーム。

演出がホラーだけどリアルではないからなんとなく僕にもできた。

やってみた。無料だから是非是非。

これは、頭を使う。

推理して、やってみる。

できた!ときはよろこばしい。

 

パズルゲームはどれも「頭を使う」。

 


やばたにえんは少女たちを救うことがゲームの目的。

別々の場所にあるアイテムを、ある文脈で読むと、解決する。

 

例えば、ある場所でアイテムとして氷があった。

別の場所で、「お湯」の入った風呂みたいなものがあった。

 

この二つを、頭の中で結び付けられるか。

 

とある場所で手に入れたアイテムがある。

使い方がわからない。

とある場所で得られた情報と、そのアイテムを結びつけると・・・・

 

一人を助けようとすると、もう一人が助からない。どうするか?

ヒントをどう利用するのか・・・

 

わかってしまえば「ああ!!!!」となる。

 

ーー

 

やばたにえんは、スローリーもすごい。

助けた少女たちは、実は「いじめっ子」というか、「犯罪者」だった。

救った後で、罪悪感が残る。

 

ゲームの世界から、僕はいろんなことを学ぶ。

ファンタジーがリアルになる。

リアルがファンタジーになる。

 

ゲームは、ファンタジーでプレイできる。

リアルでプレイができない世界をつくってしまったのだから、ファンタジーの世界でプレイする。

 

遊ばなければ、人は生きていけない。

 

このゲームは、自分の心の世界をゲームの中で「プレイ」できるようにした。

 

こちらも、哲学的。

 

こちらのゲームは「過密」がテーマ。

文字によって理解するのではなく、プレイすることで理解する。

経験する。共感する。

 

文字から情報を得ることができない、と言ってしまえば、大人だったビクッとするはずだ。

 

大人も子供も、変わらない。

 

「ゲーム実況」というyoutubeのジャンルがある。

実況している人と「共感」することで自分もワクワクする。

テレビと変わらない。

 

誰かが着飾っているファッション雑誌を見つめている人と、変わらない。

「あの車いいなぁ」とおもっている人と、変わらない。

 

同じ人間。

ゲームの世界でなければ、この世の中で、人と出会えない。

そんな世界を、僕らは生きているのかも知れない。

感情を出すばしょ。ゲーム。

感情を抑える場所。現実。

そんな括りをまぜこぜにしてしまうほど、激しく生きたらいいのかもしれない。

子ども(大人)にとってゲームとは何か

子供にとってのゲームは、大人にとってのテレビと同じかもしれません。

。。。。。。

 

子どもがゲームをやりすぎて困っているというお母さんがいる。

ゲームから何を学んでいるのか、ゲームがなぜその子にとって大切なのか、魅力的なのかを知ることが先だとおもう。

ある子はゲームをしながら外国語を学んでいる。

ある子はゲームをしながらコミュニケーションをとっている。

ある子はゲームをしながら「まちづくり」をしている。

ゲームはコミュニケーションのツール、自己充実のためのツールであって、使い方次第。

ゲーム以外のポジティブになられるものが子どもの環境にないなら、子どもはゲームにハマって、当然だし、自然だ。

ストレス社会の中で、大人が酒を飲むように、ストレス社会で、大人が食べ歩いたり物欲を満たすように、子どももストレスに対して「自然」に反応している。

と僕は考えている。

もし「よりよく」なりたいのなら、「よりよい」環境をつくることにエネルギーを使ったらどうか。

ゲームを禁止することよりも、もっとみんなが幸せになるから。

ゲームは現代社会のサバイバルに必須!???かどうか。

人が快楽を感じるときはどういうときだろう。

「勝った!」がどの一つだ。

自分の成長を感じにくい無気力社会の中で、「強くなる」ことを経験する場所として、ゲームは暮らしの一部になるだろう。

依存ビジネスとしてのゲーム。

「課金」をすることで「強くなる」ゲームもある。

「課金」をすることで「自己顕示」できるゲームもある。

限定アイテムには大人でも弱い。

ブランドを買って見せびらかす人。

大人も子どもも、同じだと僕は思っている。

ゲームする子どもの心は、ゲームをする子どもに聞くのが一番だ。

だけど子どもはそれに気がついていないことがおおい。

だから僕は本を読む。

 

ゲームは悪いことではない。

心が大事。

ソーシャルメディアは人間疎外社会でオキシトシン(安心)を供給する

経済は「競争」では繁栄しない

つながりは信頼を育むので、どんなものであれ、濫用されないかぎり「ポジティブなフィードバッ ク・ループをもたらすのに役立つ」という証拠は圧倒的だ。HOMEシステムは、私たちが暮らす環 境に合うようにたえず自らを調整しているため、ある領域でつながりができると、私たちはほかの まざまな領域でも協力するように仕向けられ、それが最終的には繁栄を招く。すると、さらに信頼が 増し、私たちは気前よく協力的にふるまう意欲が高まる。

私は「ファスト・カンパニー」誌のために、とても非科学的な研究を行った。ビジネスライターの アダム・ペネンバーグを唯一の被験者として、たいていの西洋人が経験する社会的メディアの影響を 調べる実験をしたのだ。アダムが私の研究について記事を書くためにクレアモント大学院大学に来た ときに、彼がツイッターで5分間つぶやく前後に採血をした。すると、オキシトシン・レベルは3パ ーセント上がり、スト スホルモンのACTHは5パーセント減った。テクノロジーを介したこのご くカジュアルな相互作用(心理学者のウェンディ・ガードナーはそれを「社会的スナッキング」と呼 ぶ)をするだけでも、著しくポジティブな効果が出ることがあるようだ。

韓国放送サービス(KBS)のためにこの実験を繰り返したときには、私はとくに指示を与えるこ となく被験者にソーシャ ルメディアを私用で使ってもらい、その前後に採血した。すると、全員のオ キシトシン・レベルが上がり、その変化の幅は、つながりの度合いと相関関係があることがわかった。

ある若い男性被験者のオキシトシンは、なんと150パーセントも増えた。私はKBSへの報告書の 中で、この被験者はガールフレンドか母親とオンラインで接触したのではないかと推測した。KBS が調べると、彼はガールフレンドのフェイスブックのページに投稿していたことがわかった。彼の脳 は、このつながりの経験を、まるでガールフレンドが彼と同じ部屋にいるかのように処理していたのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.244)

ソーシャルメディア・ライン依存を考える

人間性を育むか、人間性を奪うか

ネットワーク化されたコンピューターの時代が来ると、文化的な接着剤の一形態としての放送は、 マルチキャスティングに取って代わられた。つまり、コミュニケーションはもう、万人へ伝達する単 一の供給者が支配するものではなくなり、誰もがメッセージをあらゆる人に発信できるようになったのだ。

続いてソーシャルメディアが爆発的に広まり、すでに見たとおり、今ではツイッターで「社会的ス ナッキング」をしたり、恋人のフェイスブックのページをチェックしたりするだけで、信頼を深める ような種類のオキシトシンの急増を引き起こすことができる。 「新しいメディアは信じられないほど強大な力であり、私たちの社会のいたるところで、またあらゆ る社会のあいだでも、理解を促す。だが、新しいメディアは慎重に使う必要があり、何事もそうであ るように、その成功の基準は、それによって起こることが「善循環」を現にどれだけ狭めるのではな く広げるかだ。それは、オキシトシンに駆り立てられたものなのか、それともテストステロンに突き 動かされたものなのか? そのコミュニケーションは人間的なつながりを育むのか、それとも共感の 余地がなくなるほどまで匿名化と抽象化を促すのか? 

昼夜の別なく年中無休のグローバルな電子的会話の一環として、膨大な数の人の声を聞く手段を提 供するのは、少なくとも理論上は名案に思えるが、それがオキシトシン・レベルも信頼のレベルも高い約束の地へと私たちを導いてくれるとはかぎらない。

そのような手段の提供は問題を孕んでいる。まず、「バベルの塔問題」とでも呼べるものがある。 ニュースやエンターテインメントが、何千とは言わないまでも、何百という区分に分割され、フィル ターにかけられていないいい加減な情報で世の中を埋め尽くしかねない。

次が、「自己陶酔のサイロ問題」だ。見るもの聞くもののほぼいっさいを自分向きに仕立てること ができてしまうので、オンラインでの経験とラジオやテレビを通しての経験のすべてから、自分の視 野をほんとうに広げるものや、好みや偏見に疑問を呈するものが排除されかねない。キース・オルバ ーマンあるいはビル・オライリーの時事解説が好きなので、そればかり聞いていたら、それは自分 信じていることを補強しているだけで、物事の全貌を知るのにはほど遠い。イスラム聖戦士のチャッ トのグループやキリスト教徒のチャットのグループ、あるいはケネディ暗殺のチャットのグループで 毎日世界じゅうの何百という人と交流しても、そのグループの外の人とつながるような考えにはまっ たく出会わない可能性がある。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.266)

テクノロジーに踊らされるか、一緒に踊るか、踊らないか。ネグレクトを生む可能性

カイザー家族財団の2010年の報告によれば、8歳から8歳までのアメリカ人は毎日平均で7時間半、何かしらの電子機器を使っているという。同じ年、ピュー・リサーチセンターの調査で、アメ リカのティーンエイジャーの半数が1日30通以上、3分の1が100通以上のメールを送信している ことがわかった。また、半数以上が友人たちに1日1回はメールを送るが、友人たちと毎日のように 顔を合わせて言葉を交わすと答えた人は3分の1しかいなかった。

思春期は昔から社会的な活動が盛んな時期だったが、発達の観点から言うと、脳の配線がまだ進行 中の時期でもある。すでに論じたように、HOMEシステムは幼少時の相互作用で「調整」され、友 達づきあいは子どもが家族以外の人への信頼を築くのを助け、健全な大人の人間関係の基礎を固める。 フェイスブックやグーグルプラス、ブログ、ツイッター、メールのおかげで、あまり社交的でない 子どもも人と交わり、特定の社会的な技能を伸ばせる。これは素晴らしいことだ。また、スマートフ ォンやノートパソコンを使えば、親が自宅で過ごせる時間が増えるので、親子の団欒が今より長くなると主張する専門家もいる。

その一方で、電子的なコミュニケーションは心理学者が「一本鎖相互作用」と呼ぶものにあたる。 つまり、表情やボディランゲージのような社会的な手がかりから得られる、ニュアンスの込められた やりとりが欠けているのだ。年少の「デジタルネイティブ」たちはすでに、そうした社会的な手がか りを読み取るのに苦労していると心配する神経科学者もいる(私はテレビの時代にさえ、学校の教師 がこぼしていたのを覚えている。子どもたちの注意を惹きたければ、「ジェニー、綴りの練習帳を出 しなさい。ジョニー、綴りの練習帳を出しなさい」というふうに、一人ひとりに呼びかけなければな らなくなったというのだ。クラス全体に呼びかけると、教室の前に立っている教師がただの背景雑音 であるかのような、虚ろな視線が返ってくる。子どもにしてみれば教師の言葉は、同じ部屋で親が見 ているテレビから流れてくる音程度でしかないという感じだった)。

これはまだ誰も証明した人はいないが、即座のフィードバックがないと、匿名化が促されたときと 同じで、場合によっては共感が減ってしまう心配もある。オンラインのティーンエイジ文化ではすで に深刻な問題になっている「ネットいじめ」は、これが原因かもしれない。わが家では、ただ自動車 に乗っているときにさえ、電子機器は使わないというルールが適用される。家族が互いに口をきくよ うに仕向けるだけで、うまくいっている。

手短に言えば、テクノロジーはつながりのための新たな機会を生み出すものの、ネグレクトの新た な機会を提供する場合もあるということだ。 マサチューセッツ工科大学の「テクノロジーと自己に関するイニシアチブ」の責任者シェリー・タ ークルは、著書『みんなで孤独 (Alone Together)』で、親が携帯型の電子機器に没頭すると子どもに どんな影響が出るかを探っている。彼女が面接した何百人もの子どもは、親が自分よりも電子機器に 多くの注意を向けているときに気持ちを傷つけられた経験を、口をそろえて語っている。そして、そ うした機器がとりわけ邪魔で有害な状況を三つ挙げている。食事のとき、学校や放課後の活動が終わ って迎えに来てもらったとき、スポーツの催しのときだ。タークルは、「ねえ、あと一つだけ。すぐ に終わるから」という親の懇願の台詞を紹介し、あと1杯だけという、アルコール依存症者の懇願に 似ているとさえ述べている。

いつもこんなふうに親の気がそれていたら、今日の子どもたちは、オキシトシンの受容体をうまく 発達させられるだろうか? いずれ答えが出るだろう。だが今度もまた、団欒の質は分泌されるオキ シトシンの量でもっとも正確に測れることを肝に銘じなくてはいけない。子どもには(いや、大人に も)、あなたがいつ注意を向けていて、いつ上の空になっているかがわかる。

結局、こういうことになる。新しいメディアは、人間関係を豊かにする新しい形態の会話で私たち を結びつけることもできれば、各自を自分だけの世界へ向かわせ、街角で見かける頭のおかしい人の ように独り言を言わせたり、ラジオのトーク番組に出てくる狂信者のようにわめき散らしたりさせる こともできる。新しいメディアを活かすには、本物のつながりを実際に追い求めるようにすることが 必要なのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.268)

不登校、ひきこもりになって、ゲームで成長する「よろこび」を体験する

ー子どもたちがゲームにハマるのはなぜだとおもいますか?ー

どんどん成長するからかもしれません。

目の前に敵がいて、最初は弱い。
自分も弱い。弱い敵を倒していくとどんどん自分が強くなって、
今度は強い敵と戦う。なんども挑戦してクリアすることがおもしろいのです。

勉強もゲームも、遊びも、この点は同じです。目の前にいる敵が強すぎたらやる気がなくなります。「次のステージはどんな場所で、どんな敵がいるんだろう」といったワクワクが子どもたちをゲーム好きにさせます。

小さな子どもたちが遊びに熱中するのはなぜですか?できることを使って新しいことを発見したり経験していくのが面白いからです。歩くだけで景色が変わることが面白いのです。遊んでいるうちに、できることが増えておもしろいのです。

勉強も同じです。勉強を感動の体験にすることが、先生の仕事です。

「喜び」の泉としての二次元はフロー体験か『あなたの脳は変えられる』

 

あなたの脳は変えられる 「やめられない! 」の神経ループから抜け出す方法

私が子どものころ、母はテレビにロックをかけていた。電源コードにスイッチを取り付け、 その鍵を自分で管理していた。父は私が6歳のときにいなくなり、母は長時間働きながら4 人の子どもを独力で育てた。テレビに鍵がかかっていなかったら、私たち兄弟は放課後や夏 休みに、テレビのマンガや冒険活劇にやすやすと魅了されていたことだろう。そして、快い 無気力な感覚を報酬として受けとるのだ。いわば、幻想やカメラの前で演じられる暮らしの 中に精神的に逃げ込んだはずだ。母は私たちに、彼女が言うところの「ばかブラウン管」を 見ながら育つことを望まなかった。もっと面白く、心を配れる(熱中できる)ものを私たちに見つけてほしかったのだ。アメリカ人は毎日平均4時間テレビを見るという。私は母の判断 に感謝している。

テレビの鍵のおかげで家の外で遊ばざるをえなかった。私が見つけた楽しみは自転車だっ た。中学生のころ、友人のチャーリーと私は時間を忘れてBMXで走り回ったり修理をした りして過ごした。新聞配達で稼いだお金を新しいパーツに注ぎ込み、少しでも泥が付こうも のならすぐに洗い落としたものだ。

家からそう遠くない林の中に舗装されていない小道があり、いくつかのランプ(盛り上が り)とかなり難しいダブルジャンプ(上りのランプと下りのランプが連続している)があった。 このダブルジャンプは、スピードをぴったり合わせないと飛べなかった。遅すぎると下りの ランプの縁に引っかかる。早すぎると飛び越してしまう。私たちはこのコースを時間が許す かぎり走り回り、飽きもせずに競争したりジャンプの練習をしたりした。 インディアナポリス育ちのチャーリーと私には、幸いなことにメイジャー・テイラー競輪 場が身近にあった。そこには本格的なレース仕様車で競技が行われる屋外の周回トラッ あり、隣接地には無料で利用できるBMX用ダートコースがあった。そこには、傾斜したカ ーブ(もちろんダート)や大きなランプ、テーブルトップ” ジャンプ、それにトリプ ンプまであった。夏の週末には母親たちに連れられて私たちはコースを走りに行ったものだ。

家を離れて大学に入ると、マウンテンバイクが流行りはじめた。1年のときに1台購入し て、それに乗ってどこへでも行った。キャンパスでも乗ったし、友人たちと近くのマウンテ

ンバイク用コースも走った。 「医学部に入るとフロント・サスペンションの付いたマウンテンバイクを買い、難しい地形 も走れるようになった。セントルイスから1時間以内で行けるところに素晴らしいコースが あったし、どのクラスにもつるんで走れるマウンテンバイク好きがいた(学業は厳しかったが、 なんとか時間を見つけては遠乗りに出かけた)。

夏には友人と「本物のマウンテン」で走れるコロラド州やワイオミング州に旅行するよう になった。コロラドのデュランゴの急な下り坂も、アラスカのキーナイ半島の長い一本道も 走った。このような大旅行では、私たちは自分の走りが良かったかどうかを、それがどのく らい「壮大」だったかで評価した。 「そのころから私はフローの状態に入るようになった。フローというのは習慣の対極にある 状態である。テレビをぼんやりと眺めたり、誰かと会ったときに「やあ、元気?」と無意識 にあいさつしたりするのは、刺激をきっかけに反応しながらも、気持ちがその場にない例で ある。自分がオートパイロットで動いていて、どこかを(どこだかわからないけれども)漂っ ているような感覚だ。夢の中にいて、意識がよそに飛んでいる感じと言ってもいい。これ 対してフローを体験中の意識は生き生きと輝き、その場に関わり合っている。その場にい と実感できるのだ。視点がまさにそこにあり、行為と深くつながっていて、自分が行為と別 にあるのを忘れる。(『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.263)

 

人生をゲームだと思うとうまくいく?『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

絶体絶命の極限状態から生還した男の「ひと工夫」

ペルー・アンデス山脈のシウラ・グランデ峰は六三四四メートルの高 さを誇る、南半球で最大の山だ。一九八五年、前人未踏だった標高差一 四〇〇メートルに及ぶその西壁に二人の冒険家が挑み、世界で初めて登頂に成功した。

ジョー・シンプソンは相棒のサイモン・イェーツと自分が成し遂げた ことに高揚していたが、同時に疲労しきっていた。あとはただ下山すれ ばよかったが、じつは遭難の八割は下山のときに起きている。ジョーは つまずいて滑落し、脚を骨折した。まだ先は遠いのに、高所で脚を骨折 し、救援もこない。死の宣告を受けたも同然だった。

だが二人は、残された可能性にかけて行動する。たがいの体をザイルで結びつけ、まずサイモンが雪の中に踏ん張り、急斜面に沿ってジョー の体を滑らせながら落とした。次に、ほとんど身動きできないジョーが、下りてくるサイモンを斜面で待つ。

その繰り返しで極度に遅いペースで進んでいると、突然、ジョーが落 下した。一五階建てのビルから落ちていく感じだ。真下に見えていた山 の麓ではなく、さらに落下し続ける──深さ一〇〇メートル以上の闇のクレバスのなかへ。

驚いたことにジョーは生きていた。運よくクレバスのなかの雪の上に 落下していたのだ。

「サイモン!」

漆黒の暗闇で、ジョーは死にもの狂いで叫んだ。返事はない。 次に、まだつながっていたザイルを引いてみた。向こう端にはサイモ ン──もしくは彼の死体があるはずだ。が、グイッと引っ張ると、ザイルはたるんだ。するすると簡単に引っ張れる。ついに端っこを手にしたと き、何が起きたのかはっきりと理解した。

サイモンは、相棒が死んだものと思い、ザイルを切断してしまったのだ。もう助けにもこないだろう。ジョーとて、彼を責めることはできな い。彼自身、自分がまだ生きているのが信じられないくらいだから。

どうあがいても上へ登るのは無理だった──とすると、唯一の活路は、 下に降りることだ。ジョーが暗闇に向かってゆっくりと降りていくと、 目にした光景にあっ気にとられた。

陽が射し込んでいる。ジョーの右手、一五メートルほど向こうに雪の 斜面があり、クレバスの出口へと続いていた。落ちた穴以外に出口が あったのだ。ジョーは何時間もよちよち歩きの子のように雪の斜面と格 闘し続け、ついにクレバスを脱け出した。陽の光をさんさんと浴び、至 福に浸った。

だがそれもつかの間だった。山の麓で周りを見渡しながら、まだベー スキャンプまで一〇キロ近くあることを思い出した。サイモンはどこに もいない。ジョーの脚は相変わらず脈打つように痛んでいた。

セリグマンの犬が無力感に陥ったように、闘い続けるべき、あるいは 闘い続けられる根拠は何もなかった。ならば、ジョー・シンプソンはな ぜ闘い続けられたのだろう? じつは最も危機的、かつ極限的な状況 で、彼は常軌を逸したことを思いついた。 

これはゲームだと考えることにしたのだ。ジョーは、目標物を設定しだした。 

「二〇分であの氷河まで行けるだろうか?」 

そしてその通りクリアできると、彼は歓喜した。だめなときはがっかりしたが、同時にいっそう執念を燃やした。「高揚感で背筋がゾクゾクし、私はすっかりのめり込んでいた。ゲームに夢中になり、やり続けな いと気が済まなかった」。

ジョーは、満身創痍の体を起こし、右手に持ったアックスを短い伺が わりに、片足だけで必死に前へ跳んだ。つまずくたびに、痺れるような 痛みが走った──しかし、あの雪堤まで行くのにあと一〇分しか残されて いない。なんとしても、この小さなゲームに勝たなければ。

ゲームをクリアすると、仲間と登ったときの足跡が見つかった。それ をたどれば帰れる。だが、体を動かそうとした瞬間、強風で吹きあげら れた雪で足跡は隠れてしまった。それでも彼はゲームに戻った。

「目標を設定。時計をチェック。プレー続行。時間内に次の目標に到達 せよ」

ジョーのペースは耐えがたいほどのろかったが、雪の地面が岩場に変 わったのでようやく気づいた。キャンプに近づきつつあったのだ。だが それまでの雪のほうがまだ寛容だった。岩と砂礫は、誤って脚をぶつけ ようものなら無慈悲で容赦なく、耐えがたい痛みに襲われた。

「それでもゲームを続行せよ」

次の目標物は湖だ。その近くに自分たちのキャンプがある。ジョーの 心に希望が満ち溢れた。「たどり着けるかもしれない!」 しかし、まだ誰かいるだろうか? もう四日も経っている。ザイルを 切断したサイモンは、ジョーはもう死んだと思っているだろう。彼はも うキャンプを後にしてしまっただろうか? もうじきまた夜だ。ジョー はここ数日ろくに眠っていない。それでも彼はゲームに戻った。ほかに やれることはなかった。今やジョーにとって唯一の願いは、独りで死に たくないということだけだった。

「二〇分で湖まで行こう。ゲーム続行」

夜のとばりが降り、ジョーはぐったりと衰弱し、錯乱状態で倒れこん だ。眠りに落ちたようだ。もはや起きているのか眠っているのか、境目 もわからない。やがてひどい臭気で目覚めた。その正体は……排泄物 だった。ジョーは辺りを見回した。そこはベースキャンプのトイレだっ た。彼は一瞬で正気を取り戻し、叫んだ。

「サイモン!」

ほどなく、遠くで灯りがゆらめいた。こちらにやってくる。声も聞こ える。ジョーは声を張りあげた。灯りはどんどん近づいてきて、眩しさ で何も見えない。と、そのときサイモンがジョーの両肩をつかみ、しっ かと抱きしめた。ジョーはゲームを勝ち抜いたのだ。

 

アライグマと人間のゲーム

アライグマのごみ荒らしは大問題で、市役所もここ一〇年来、対策に 躍起だ。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙によると、同市は二 〇〇二年、「アライグマ被害防止」用のごみ箱の開発に資金提供を行っ たほどだ。その結果、どこまで善戦しているかというと、二〇一五年に 同市は再度、最新式のごみ箱の開発に三一〇〇万カナダドルを費やした、とだけ言っておこう。つまり、市をあげて一〇年以上取り組んでき てもなお、戦況は芳しくないということだ。

このいたずら好きなコソ泥の勝因は何か? アライグマの脳は小さいのに、私がこの章で論じてきた法則の多くを実践している。彼らの楽観 主義は疑う余地がない。おそらく彼らにとって生ごみ荒らしは明らかに 楽しいゲームなのだ。スペンサー・グレンドンとピーター・ドラッカー は、アライグマの比類なき集中力に喝采を送るだろう。そしてこの悪党どもは、ごみ荒らしを阻止する最新式の試みに遭遇するたびに、いろいろな方法を試してくる。明らかに、彼らの〝小さな賭け〟は効果をあげていた。

では、人間側のありとあらゆる努力は、功を奏していただろうか? ほとんどだめだった。米国心理学会のサイトには次のように記されてい る。「アライグマは、人間が生活圏を拡大するとともに後退したのではなく、なおいっそう繁殖したので人びとの注目を集めた」。 この小さなコソ泥は繁栄しているだけではない。ごみ荒らしを阻止す る試みを乗り越えることによって、ますます賢くなったのだ。 スザンヌ・マクドナルドが、トロント都市部に棲むアライグマと野生で暮らす同朋の問題解決能力を比較研究したところ、「知能でも能力でも、都市に棲むアライグマが野生のアライグマを凌いでいる」ことがわかった。

人生を楽しく豊かにする????ゲームから学ぶリッチネス

生活や仕事にゲームの要素を取りいれているか?

A 私をマリオと呼んでほしい

B いまだに年に一度の業績評価を待っている

Aと答えた人は、その調子でゲームを続けること。途中を飛ばして次 の質問へ。

Bと答えた人は、WNGFを思い出そう。取り組む対象が何であれ、 熱中するにはゲームの四要素、勝てること、斬新であること、目標、 フィードバックが必要だ。

こう思ったことはないだろうか。「問題を抱えているほかの人を助け るのはわりと簡単なのに、自分の問題はどうしてこうも厄介なんだろう」と。それは、友人の問題に対する第三者的距離感によって、感情的にこみいった問題が面白い課題に切り替わるからだ。ストレスの塊だっ たものが、楽しいパズルになる。問題をゲームのような課題として再構成することで、取り組む際の粘り強さが増し、ストレスが減るのだ。 

仕事は、あなたの 、 、 、 、ゲームだということを忘れてはならない。ほかの誰かがあなたの仕事や人生を面白くしてくれるのを待っていてはいけない。

ゲームに学ぶ子育て:ハマる理由を理解して子供の脳を理解する

報酬の回路とドーパミン、面白さ『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

作家のデヴィッド・フォスター・ウォレスはかつてこう言った。 「もしも退屈というものに抵抗力ができれば、成し遂げられないものは 文字通り何もない」

いろいろな意味で、この言葉は真実だ。たとえばあなたが決して退屈 しない人間なら、かなりコンピュータに近づいている。コンピュータは ありとあらゆる退屈な作業を人間に代わってこなしてくれる。しかも迅 速かつ完璧に。

コンピュータには、ゲームのメカニズムがまったくいらない。退屈と も意欲の低下とも無縁だからだ。それでいて、人びとのオフィスは、ま るで機械のために設計されているようだ。人間はコンピュータではない のに。マルクス経済学は多くの点で間違っていたが、今になって正し

かったと言えることがいくつかある。労働者から仕事との心情的なつな がりを奪い、彼らをただ成果を生みだす機械として扱うと、労働者の魂 を殺すことになる、というのがその一つだ。

それでは、奪われた情緒的要素を元のように戻すことはできるのだろ うか? もちろんできる。しかも、じつはそれほど難しいことではな い。

イエール・イノベーション・チーム(イエール大学起業サークルの一 部)は、どうすればカフェテリアで食後に手を消毒する学生を増やせる かという課題に取り組んだ。彼らは学生たちにうるさく働きかけたわけ でも、大学の施設管理部に規則づくりを迫ったわけでもなかった。それ より手の消毒を面白くすることにしたのだ。

学生たちはただ、消毒剤の容器といくつかのスピーカーとiPodを接続し、誰かが消毒剤を使うたびに小気味いい音が鳴るようにした。ビ デオゲームで得点したときに鳴る効果音の類だ。結果はどうなっただろ う? 仕掛けをする前、消毒剤を使った者は一三名だったが、仕掛けを した後は九一名になった。ちょっとした工夫で面白くしたとたん、消毒 する学生が七倍に増えたのだ。

生活にゲームの仕組みを活かせば、退屈な瞬間を愉快なものに変えら れる。これを応用すれば、私たちは俄然仕事に打ち込めるようになり、 人生でも成功をおさめられるだろうか?

もちろん! 仕事はもうつまらないゲームではなくなる。ということ で、仕事にはウンザリするのに、なぜゲームにはワクワクするのかを究 明し、前者を後者に変える方法を学ぼう。

ゲームにハマる4つの理由。仕事がつまらない4つの理由。

面白いゲームに含まれる共通要素は、勝て ること(Winnable)、斬新であること(Novel)、目標(Goals)、 フィードバック(Feedback)の四つだからだ。

何かにたいしてイラつくなら、それはたぶん、この四つの要素の少な くともひとつが欠けているからだ。では、一つずつ見ていこう。

1 勝てること(Winnable)

良いゲームは、プレーヤーが勝てるデザインになっている。デザイ ナーたちは、勝てないゲームをつくらない。ゲームには明確なルールが あり、私たちは本能的にそれがわかり、粘り強くやれば勝算が見込める と判断できる。つまり、楽観的になれる正当な根拠が得られるわけだ。

ゲームはすべてのプレーヤーを、ジェームズ・ウォーターズのように、 地獄の訓練を耐え抜ける人間に変えてくれる。

この「正当な楽観主義」は、困難なことを面白くしてくれる。ゲーム は時として実生活より難しい。しかし、ゲームは難しいからこそ面白 く、易しければつまらない。ゲームコンサルタント会社社長、ニコー ル・ラザロの調査によれば、プレーヤーはゲーム中の約八〇%は失敗し ているという。研究者で、オンラインゲーム・デザイナーでもある ジェーン・マクゴニガルは次のように説明する。

プレーヤーは、だいたい五回中四回はミッションをクリアできず、時 間切れになる、パズルを解けない、戦闘に勝てない、得点をあげられない、衝突して炎上する、死亡する、といった結果を迎える。そこではた と疑問が湧く。果たしてプレーヤーは、失敗しても楽しんでいるのだろ うか? じつはそうなのだ。良くデザインされたゲームで遊んでいれば、失敗してもプレーヤーは失望しない。むしろ一種独特の幸福感を得る。彼らはワクワクし、興味をかき立てられ、なにより楽観的な気分になる。 

ゲームの枠組みを地獄の訓練、BUD/Sに当てはめてみるとよく理 解できる。BUD/Sは勝算のあるゲームだ。元来合格できる。プール で訓練生の口からレギュレータを引きはがそうとする教官は、じつは彼 らが溺れた際に身を伾して救おうと待機してくれている。ではなぜ不合 格者が出るのか? それはパニックのせいだ。彼らはこれがゲームであ ることを忘れ、本当に死ぬかもしれないと思ってしまう。ジョー・シン プソンは、自分が生還できるかどうかわからなかった。ところが、やっ てみたら二〇分以内に目標の岩まで到達できた。つまりそれは勝算のあ るゲームになり、最後までやり通すことができた。

一方、仕事はときに、勝算が見込めないゲームのようだし、自分が何をしてもあまり影響がないように感じる。誰がそんなゲームをしたいと 思うだろうか? しかし、状況を改善することはできる。会社のやり方 を徹底的に改めるのは無理だとしても、ジョー・シンプソンのように、 勝算が見込める自分なりのゲームを決め、それに取り組むことは可能だ。 

2 斬新な課題(Novel)

すぐれたゲームには必ず新たなステージ(レベル)、新たな敵、新た な功績が用意されている。人間の脳はたえず斬新さを求めるので、良くつくられたゲームは、プレーヤーがつねに目先の変わったものに刺激を受け、興味をそそられるように配慮している。 

ゲームは、その課題によってプレーヤーを没頭させる──言い換える と、ミハイ・チクセントミハイがいうところの「フロー」状態を生みだ すようにデザインされている。

フローとは、私たちが時間の経過も忘れるほど何かに没頭し、高揚感 に満たされている状態をいう。面白いゲームは決して退屈せず、また逆 に打ちのめされることもない。難しいが難しすぎない、易しいが易しす ぎないという絶妙なバランスが保たれているからだ。しかもプレーヤー の能力が上がるにつれて、ゲームの難易度も上がっていくように設計さ れているので、私たちはつねにやりがいを感じ、ゲームにはまっていら れるわけだ。マクゴニガルは次のように説明する。

チクセントミハイの研究によれば、フロー状態が最も確実に、効率よく生みだされるのは、自分が設定した目標、個人的に最適な障害、途切 れないフィードバックが揃ったときで、これらはまさに、ゲームプレーの基本的構造だという。「ゲーム類は明らかにフロー状態の源泉であり、遊びこそは卓越したフロー体験である」と同氏は述べている。

ジョー・シンプソンには多くの試練があった。脚の骨折に加えて、水 も食料もなかった。加えて、山は斬新な課題を与えてくれた──クレバス に雪、岩。彼は引きも切らず新たなステージに直面し、たえず脳が研ぎ 澄まされる刺激をもらっていた。

ここでちょっとふり返って、あなたの仕事の初日を思い出してみよ う。決して退屈な日ではなかったはずだ。覚えることが山ほどあり、耳 慣れない難しい事柄をたくさん吸収するのに精一杯。少し圧倒されそう に思いながらも、とにかく斬新で、やりがいのある経験だったにちがい ない。半年後、おそらく状況は変わっただろう。その後は同じステージでのゲームを毎日一〇時間、週に五日、何年もくり返すようなものだ。 面白いゲームではない。

職場は、従業員が仕事に熟達することを望んでいる。当然のことだ。 しかしそれはいわば、プレーヤーが飽和状態になっているゲームで、退 屈このうえない。良いゲームは失敗率八〇%で、それがプレーヤーの情 熱を掻きたて、ゲームを続けさせる。ところが職場は失敗を嫌う。失敗 がゼロなら、面白味もゼロだ。そして世の中には課題がなく、ただただ忙しいという仕事が溢れている。およそ魅力的とはいえない。 ただし良い情報もある。面白いゲームができるかどうかは、私たち自 身にかかっているということだ。調査によると、私たちは自分を最大限 幸せにすることではなく、簡単なことを選んでしまいがちだという。た とえば、今日は友人と外出するのは億劫だなと思いながら、それでも出 かけてみると、とても楽しかったりする。自分では家で休みたいと思っ ていても、私たちが本当に望んでいるのは種類の異なる課題なのだ。

人は、いつでも楽であることを求めるが、じつは本当の幸せをもたら すのは刺激である。私たちは楽をしようとしてあまり働かなくなり、お ざなりに仕事をこなし、早々に退社する。これは燃え尽きの兆候だ。こんなときは何かを差し引くより、むしろ新たな課題を加えるほうが仕事 への情熱を生むことがある。 

ダン・アリエリーが、興味深い実例を紹介している。ピルズベリーと いう食品会社は一九四〇年、インスタントのケーキミックスを発売した が、あまり売れなかった。同社は首をかしげた。手間がかからない楽な 商品をつくったのに、主婦たちに受けない。やがて思い当たった。ケー キづくりは単なる骨折り仕事ではなく、家族への愛情表現だったのだ。 そこで、卵を加えなければならないなど、ひと手間必要なケーキミック スを作ったところ、売り上げが跳ねあがったという。

というわけで、仕事を面白くするには、課題を加えること。仕事であ れ何であれ、その行為に意味を持たせ、没頭するには、結局のところ私 たちは自分の痕跡を残したいのだ。

3 目標(Goals)

姫を救出するマリオであろうと、『コール・オブ・デューティー』最新版での敵を壊滅させるスペシャル兵士であろうと、すぐれたゲームでは攻略法が明確だ。それでプレーヤーは焦点に集中でき、意思決定をくだしやすい。

ジョー・シンプソンは次の目標物まで二〇分で行くという時間制限を設けた。本人が任意に決めたルールだが、ゲームの成否を判断する枠組みになった。タイラー・コーエンの言うストーリーが、〝ごちゃごちゃ〟な人生を〝筋の通った〟ものに変えたように、ゲームのルール が、シンプソンの混乱状態に秩序を与えたのだ。

職場にもたしかに目標がある。だが、それはあなたの 、 、 、 、目標だろう か? 会社が目標を達成するとき、あなたの目標も叶えられているだろ うか? そうとは言い切れないのではないか?

また目標は、プレッシャーや脅威にもなりうる。私たちは失敗したくないがために、目標を定めなかったりする。けれども勝算が見込める形 でゲームを定めれば、目標は脅威ではなくなる。それにゲームで失敗す るのはOKなのだ。ゲームは失敗することでより面白くなるのだから。

4 フィードバック(Feedback)

ゲームのプレーヤーが適切なことをすれば、得点、報奨、新たなスキ ルなどが得られる。間違ったことをすればペナルティが課される。そし てこれらはすべて瞬時に行われる。

会社の構造を変えるコンサルティングを手がけるアーロン・ディグナンによれば、あなたはつねに、ゲームのなかで、今自分がどんな状況にあって、どんなことをしているか、パフォーマンスを上げるにはどうすれば良いのかを把握している。 

人を最もやる気にさせるのは、やりがいのある作業で進展が感じられ るときだと、調査でも示されている。感じられる進歩は、ささやかなも のでいい。ハーバード・ビジネススクールのテレサ・アマビールは言 う。「各企業内での調査によると、社員に意欲を起こさせる最善の方法 は、毎日の仕事で、容易に進歩が得られるようにすることでした」。 実際、たえずささやかな成功が得られるほうが、ときどき大きな成功を手にするより、幸福感につながることがデータによって示されてい る。「大きな功績にしか関心を示さない者より、小さな成果を途切れなく感じている者のほうが、人生に対する満足感が二二%高い」という。 ナポレオンはこう言った。

「兵士は、わずかばかりの色つきリボンのために、延々と命がけで戦うようになる」

ゲームがプレーヤーに与える戦利品も、たいていは格好いいバッジか ご褒美動画くらいのものだ。でも、そんな他愛ない物を目当てに人びと はゲームをし続ける。

「ささやかな成功」を祝うという行動は、グリットで苦境を生き抜いた 者たちに共通して見られる。アルコール中毒者更生会(AA)が成果を あげた理由の一つもこの方法だ。一日を、飲酒せずに過ごせたらそれは 小さな成功だ。そして心理学の一流専門誌、『アメリカン・サイコロジ スト』に掲載された論文によれば、「一度小さな成功が得られたら、次の小さな成功も得たいという弾みがつく」のだという。

要するに、すぐれたゲームはたえず直接的なフィードバックを与える ことにより、人びとにプレーを続けさせる。では、仕事はどうだろ う? 勤務評価を受けるのは年に一度だけ。ジェーン・マクゴニガルの 著書によると、三流レベルの会社幹部の多くが職場でコンピュータ・ ゲームに興じているという。その理由は、「生産性を感じられるから」 だそうだ。なんとも皮肉な話だ。 

フィードバックをもらえないなら、求めよう。上司と一定の頻度でコ ミュニケーションを取ってあなたへの評価を確かめるのだ。 第2章でジェフリー・フェファーが言っていたように、上司へのゴマ すりは効果がある。しかし、もっと誠実に得点できる方法がある。私の働きぶりはどうか? もっと成果をあげるにはどうすれば良いか? と 上司に定期的に尋ねることだ。もしあなたが上司で、部下から定期的に 「どうしたらもっとお役に立てるでしょう?」と言われたら、どんな反応を示すだろう? そう、決して悪い気はしないはずだ。 

ゲームには中毒性がある。だから、もしあなたが仕事をゲーム仕立て にできれば、ポジティブなフィードバックループ(フィードバックを繰 り返すことで、結果が増幅されていくこと)を形成し、成功と幸福感を同時に見いだすことができる。マクゴニガルが言うように、「これは明らかに、たとえ負けても勝てるゲーム」なのだ。

さらに、このゲームの視点を人生のほかの領域にも取りいれれば、そ こでも「レベルアップ」を図ることができる。夫(妻)として、親とし て、または友人、隣人として、今自分がしていることに勝算があるかどうか、斬新で、課題とフィードバックがあるかどうかという視点を導入 すれば、さまざまな恩恵を得られるだろう。それに、ゲームはやはり誰かと一緒にやるほうが面白い。

コピー機会社のお兄さんとゲーム

otononeに複合機がやってきました。製本もできる優れもの。
ところでこの複合機を設置して、コンピューターから信号を送ったり受けたりする設定をしてくれたお兄さんと話をしていたらおもしろかった。
ゲームを作る学校にいて、ゲーム会社にいたけど、それから営業というか、人と関わる方に向いていると思って、いまに至るという。やさしい感じのお兄さんだ。今でも、どこぞのゲームショウの会場では、お兄さんが卒業した学校はお兄さんのつくった卒業制作のゲームを展示しているという。

パソコンの設定がうまくいかなかったのだが、いろんな人に聞いてもらったり、自分で調べたりして、どこまでできるか、何ができないか、もしそうしたら、どうなるか、などなど詳しく話をしてくれた。自分に合っている仕事を選べば、自分がじぶんらしく振る舞える仕事を選べば、いいんだろう。そう思えた。いろいろな人生がある。「先生にもなれるんじゃない?」と僕がいうと、お兄さんは「相手の持っている知識とか、知っていることに合わせて話すのが、それから何よりも、待つのが苦手なんです笑」と。

小学生のころ「ゲームを作る会社に入る」といっていた、ゲーム好きの友達は今、何をしているんだろうか。

不登校、ひきこもりの生徒と現在のゲーム社会について生徒と話す。

昔は、僕の生きていた時代は、ポケモンで「対戦ができる」ことがまず新しかった。
もちろん「線で繋げて」目の前の相手とポケモンを交換したり、バトルした。

今はどうか?
インターネットでも、無線でも、いろんな人と繋がれる。
もう時代が変わりすぎた。テクノロジーによって変わったものがある。
時代を超えても変わらないものもある。

ただ、これから生きる若い人たちの心を大人が理解していくには、今と昔とでは、状況が全く違う、(ポケベルの時代を僕は知らない)、ということを知って置いたらいいのかもしれない。家の固定電話でなければ友達の家に連絡ができなかった時代に、僕は育った。家に電話などなかった時代も、もちろんあったのだ。

で、技術は進歩していくけれど、文化は変わっていっただろうか?

僕ら大人は、新しい時代と、きちんと関わっているだろうか。

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ミアティブというゲームの配信アプリがある。

このアプリを使うと「配信」ができる。
「配信」すると、全世界の人と一緒にゲームが楽しめる。
で、今日、配信をしていて授業に遅れた子がいる。

「2000人以上、見にきてて、やめられなかったんです」という。
一度にプレイするわけではなく、4人づつ招待できる。一回負けたら一旦交代、というルールを彼が作って、、、「次俺!次俺!」ということになり、なかんだかんだして、遅れた。という。

実際に彼の配信を見たことはないが、これが、彼の暮らしている「ゲーム世界」だぁぁぁ!

SNSの情報は生きている。どう使うか。

SNSのおかげで、マスメディアや権力者によって消されてしまうような、もしくは「話題性」がないような、でも大切ないろんな物語を知ることができる。本も、SNSの後追いででてくるケースがたくさんあるくらいだ。

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勉強と同じで、人生と同じで、学校と同じで、SNSも、ひとそれぞれに使い方がある。
ゲーム一つにしても、スマホ一つにしても。

独自の進化の道をたどる。

道具を使うための人間性を、人は大切にしてきただろうか。
僕は大切にしてきただろうか。

ひきこもりでも不登校でもそれぞれの未来へ

「最近何かに感動した?」と聞いたら生徒が教えてくれたゲーム、ポケモンのエンディングの曲。
『それぞれの未来へ』

またプレーしたくなる、勇ましい感じ。

励ましてくれる音楽。

だそうだ。

【今日の面談】不安定な状況の大切さ。生活習慣病・ひきこもりは「自然」か。

最近、春先で頭がぼうっとしていて話題がたまに飛んだりします。
自覚あり。

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今日、飛び入りで面談があった。
言葉のレッスンに興味をもってくれたお母さんが来てくれた。

そこで「子どもがモニターラブ」な状況を話してくれた。
人と関わるよりも、モニターと関わる方が、好き、らしい。

それで「ちょっと心配」というお話だ。

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最近、お金の勉強をしながら、
全米No.1バンカーが教える 世界最新メソッドでお金に強い子どもに育てる方法

家庭教育の重みを感じる。

「自然」に任せていては「やりたいほうだい」になってしまう。
けれどもやりすぎると心が荒んでしまう。

いやいや、簡単なことで、家族のルールを決めたらいいんだろうか。
言葉がけなしに、自然と「できる」ようになることはない。
「いいか」「わるいか」の判断が自分でできるようになるには、試さなくてはいけない。

「それをやったら、どんな悪いことがおきるのか」

子どもはわからない。

何が「いい」のか。
何が「悪い」のか。

それを大人がどこまで伝えたらいいのか。
「大切なこと」はなんなのか。

それを学ぶための適切な「ギャップ」が必要なのだろう。
ギャップとは生態学用語で、生態系が局所的に変異するための環境の変化のこと。

それは時として不慣れで不安定になる状況を作り出すだろう。
けどれそれによって新しい生態系が生まれる。
あたらしい仕組みが生まれる。
あたらしい関係性がうまれる。

新しい技能、新しい価値観、新しい感性が生まれる。

その不安定な「ギャップ」は、「お勉強」の本質だ。
新しい言葉、新しい規則、新しい物語を取り入れるために、記憶を再編成する。

不安定な状況を作り上げる。
これが教育の一つの役割かもしれない。

そして、不安定さの中で、学ぶための命のエネルギーを絶やさずに、どうして教育の価値を謳うことができるだろう。

不安定さに対してどのようにバランスを取るのか。
その方法が、その子のキャラクターになる。

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「子どもがモニターラブ」な状況についていえば、、、
大人を含めた社会全体がモニターラブになっていると思えば、とても「自然」なことだともおもう。
(例えば、食生活を考えてみると、「健康的な」=「自然」とは言えないかもしれない)

人との付き合いが希薄になってきた世の中と思えば、それも「自然」だとおもう。
外で遊ぶのが好きでない、という子は普通にいる。

だからモニターを使ってどんなことができるのかを極めるのもいいかもしれない。
(インドネシアの小学生でyoutubeで英語の動画を見まくって英語が喋れる子がいた。そういう使い方は誰もが「OK」というだろう)

その子は趣味で絵をかくというのだから、タブレットで絵を描いて投稿するのもいいだろう。
お絵かき日記をつけるのもいいかもしれない。

「モニター」からでも多くのことを学べる。

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大人の知らない世界に子どもたちは生きている。(少なからず、別の世界をもっている)

ゲームの世界、ネットの世界、、、、
(もしかしたら、大人であっても、人によって世界は違う)

学校でもなく、ゲームやネットでもない世界があるんだ、わくわくできる場所があるんだ、とおもえたら、
そんな経験をしたら、そんな人と出会ったら、新しい扉ができるだろうか。

新しい扉の価値は、人生を豊かにする価値。
ネットの世界では、無限にコンテンツを享受できる。
扉はいつだって「リンク」の先に開いている。

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「人との付き合い」はネットの世界と現実の世界では違う。
どの世界で暮らすのか、、、、「自然」はモニターの世界へと人を誘うかもしれない。

現実の世界は、魅力がない、、、、のかもしれない。。。。
現実の世界の魅力を、大人は伝えているだろうか?子どもは感じているだろうか?

子どもは、何を「よろこび」と感じているんだろうか。

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気質はかわらないかもしれない。
インドアが好きな子、だっているだろう。

けど、

「本人の気持ち」が一番、というけど、本人の中に眠っている気持ち、というものもある。

かもしれない。

家の窓を開けて空気を入れ替えるように、子どもの心に風を送り込んであげることを、子育てに取り入れるのもいいとおもう。
美術館に行く、お出かけする、公園で遊ぶ、山に行く。。。

年齢によっては、もう「できちゃってる」子もいる。
9歳、がひとつの目安。

自分の能力の限界を知って、その中で、うまく生きようとする。
そんな9歳の生き方を理解してくれる大人と出会った子どもはしあわせだ。

オトノネは、ある意味で子どもの「ギャップ」になるだろう。
学校に適応した子にとっては「自己」が求められるオトノネは脅威だ。

キビシイ笑

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教育とはなんだろうか、ということをちょっと考えてみた。
伝えるべきこと、伝えてはいけないことが何か、僕が教師になった時からもんもんとしていること。

縄文時代であれば、はっきりと「生きる仕事」の手伝い=学びだったろう。
それも大人の真似から始まった。
大人の手伝いから始まった。

教育は、子どもではなく、大人の問題なのかもしれない。

「大切なこと」はなんだろう。
お守り
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えーストレス『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』

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飴玉が目の前にあるという環境で窒息死してしまう人がいる。
足腰が弱って寝たきりになって、寝たきりが加速して死んで行く人がいる。
ストレスで飽食したりアルコール中毒になったりして死んで行く人がいる。

「自然」は恐ろしい?

生まれて死んで行くだけなのに、やたら心配しちゃうなぁ

環境、遺伝、それから意志。

環境は変えられる。
意志は変えられる。
遺伝も変えられる(エピジェネティクスの範囲で)。

生まれて死んで行くだけなのに、やたらやきもきしちゃうなぁ

あそぶ習慣とゲームという習慣

「退屈」「つまらない」という子がいるかもしれない。すでに「きちんと」あそべなくなっているのだ。
ゲームがなければなにをしていいかわからない。習い事と宿題と移動に追われて、「ちゃんと」あそぶことができない。
テレビを見ては退屈をまぎらわし、ゲームをしては退屈を紛らわし、習い事でお友達と喋ったり体を動かしてストレスを発散する(体を動かすこと自体がストレスになっている子もいるだろう)。

自分で自分を楽しませることができない。
物思いにふけることもできない。
心を埋めるために、スマホで友達とライン、ゲーム。

これが現代の「普通」であり、「スタンダード」だとしたら、「退屈」がスタンダードだ。
退屈な世界で子どもたちが見つけた最後の砦。喜び。スマホは現代のおもちゃ箱であって、眼球が動かなくなったり、周囲に注意を向けられなくなったり、ゲームを通じてしか友達と関われない子(ゲームの話しかできない子)に育つかもしれない。ゲームは、プレイヤーがゲームに依存するようにデザインされている。そうだ、頭を使うことは、楽しいことなのだ!ゲームとは、宗教のようなもので、しがみついてしまうと、離れられなくなり、一緒にいると安心し、一人になると、どうしたらいいかわからなくなる。

世界宗教は、コミュニティーに存在していた既存の「精神的支柱(シャーマン的存在)」を壊すことで不安を生じさせ、広まってきた(国教として強要し、次の世代にはごくごく当たり前の環境のごとく、人々は受け入れていくだろう)経緯がある。これと同じことが、子どもの世界で起きていると考えてもいい。習い事や学校で子どもの「あそび」が奪われ、それを補うための「ゲーム」を受け入れるしかなかったのかもしれない。(スマホ会社は「子どもの安全のため」とか「子ども用」とか言い、ゲーム環境を作り上げている。スマホを使ってくれた方が経済が動く。見えないくらいの小さな不幸が、みえないくらい小さく刻まれて、ばらまかれている)

日本は変な国だ。アイドルの新聞がでたり、とにかくみんな身近にある人との関わり合いよりも、スマホを通じた関係が多くなっている気がする。スマホが作り出す世界が、本当の世界のように。実際、どちらもバランスよく行き来できたらおもしろいのだろうが・・・スマホで新しい出会いができる。これだけバラバラにされた世界で、スマホという「式神」を扱う方法を学、賢くなるというのが一番だとおもう。そのためには、スマホに依存せずに心をあそばせる習慣をつけたらどうだろう。(深夜になっても友達と話していないと落ち着かないなら、精神科に行くか、学校をサボって一日中友達とおしゃべりしてもいい。)とにかく、スマホは「道具」だ。使い方を学ぼう。スマホを使える人間になろう。(スマホを見て、いろんなキラキラしている人を見て逆に消極的な感情を抱いてしまう人もいる。見ないほうがいい!)

さて、スマホの弊害をまともに研究した人が果たしているだろうか。(結論は、単に道具としてスマホをどう使うか、なんだけどね)
みんな闇討ちされるのが怖くて、研究しないのだろうか。国を挙げてスマホを応援しているようなものなのだから、文科省も企業も研究予算を下ろさないんだろう。と、勝手な憶測をしている。

ゲームの効用(個性化の過程はとまらない)

チカラになる

ウノ、大富豪は勝率が上がるパターンを探すゲームだということはどこかの記事で書いた気がする。
ただの運任せではない。試行錯誤をして、パターンを見つけていく、手を考えるゲームだ。
同じ風にゲームをしてても、ゲームとその人との関わり方によって、効用が変わってくる。

ポケモンには英語版があるらしいではないか!これで英語に慣れたり。
ぷよぷよなどは、試行錯誤、実験の連続だという。
ポケモンでカタカナを学ぶ。できるようになったら漢字を選ぶ。
(例えばそのゲームがマリオカートとかスマブラとかなら、また別の神経が鍛えられるだろう)

そういえば僕もブラインドタッチをパソコンのチャットで鍛えた。
もちろん楽しくてやるのだが。

ゲームをやりまくる。量をこなす。たくさん試す、それで見えてくる。
一定量をこなす。カッテがわからない、数をこなしながら、こうしたらどうかな?という工夫ができる。

アニメが好きならアニメをたくさんみて、ふかく考える。
サイコパスやハルヒなどなど、また何気ない日常モノの中にも、学べることはたくさんある。
そうした心が豊かになるアニメと出会うためには、いろんなアニメをみてみることだろう。

ーーー

それは勉強も同じだ。
本気でやっことが、ホントにチカラになる。
オトノネの座右の名。
効率化、自分の勉強法の確立をするためにも、取り組まなくてはいけない。
取り組まずにはいられないような、ファンタジーを与えてくれるのが塾であり学校であり、社会なのかもしれない。
(オトノネはファンタジー破りの方向ですが。やらないならやらないで、今の自分の大切なものを見つめるところから、気持ちを確立するところから、うわついた状態で勉強をしない、勉強そのものでなかったとしても、今の生徒の課題に向き合ってもらうのがオトノネ流です)

あそびは個性化の過程、他の人と同じ動作をしたとしても同じようにならない、自分にあったやり方を自分で見つける。
自分を本気にさせる対象と関わる。深く関わる。本気で関わる。

そのチカラが、他のいろんなところで応用できる。
子ども時代の一見なんでもないあそびは、大人になってから大切になるという結論は、まだ変わりそうにない。

さぁ、勉強をしてあそぼう^^

 

【暴力にあふれた世界で】「ゲーム」の意味。

ゲームの世界は、「武力」のない、平和な、秩序ある世界だ。
とおもえた。

ゲームの世界は、心の健康を守る、避難所のようだ。

youtuberの多くがゲーム実況をしている、ということから、感じた。

僕がゲームを心底肯定的にとらえたのは、これが初めてです。
それだけ僕は今、あふれかえった「暴力」を感じています。

そんな世界で、滅入っている、おとのねさんです。

 

【命のサプリメント?】ゲームをする人の「心」を感じて見る【ゲーム善悪論を超えて】

 

ゲームが大好きな生徒がいる。

暇があればゲーム。

人の話を聞かずにゲーム。

興味がなければゲーム。

とにかくゲーム三昧だ。

で、お気に入りのゲームの話を聞いて見た。

フェイト、というゲーム。

アニメで見たことがある。

ゲームが人気だったからアニメ化された、らしい!

 

その結果、面白いことに気が付いた。

 

  • イベントがある→限定キャラクターとか限定アイテムとかでてくる。
  • キャラを友達と共有できる
  • ストーリーがある。(どんどん追加されていくから終わらない)

ふつう、といえば普通だが。

生徒の話っぷり、情熱を感じながらその心を推測してみた。

1:レベル上げ、自分がキャラを育てる

たまごっちやん。

2:アイテムや召喚するキャラなどはガチャガチャ形式(運)

ガチャガチャやん。

 

人が熱中する仕掛け。

 

3:レアキャラがでてくると嬉しい。

というかその生徒は誇らしげに「これはレアキャラで!」と説明していた。

 

4:時間とお金をかければどんだけでも強くなる。

「課金」をするとチャンスが増える。

「戦う」ほどチャンスは増える。

 

5:自分の好きなキャラを育てられる。

自分好みの、自分が憧れるキャラと、毎日会える!?

ーーーー

 

ゲームの良し悪し、というのも含めて。

 

僕はゲームに「人間性」を感じない。

もちろんeスポーツという名前で、もしくはオンラインで人と人は関わる。

ゲームで知り合って、オフで知り合って友達になったという人もいる。

らしい。

けどゲームに費やしている時間、人と関わっているわけではない。

人を想うわけでもない。
ただ自分の「心」を埋め合わせているように、僕にはおもえる。

 

「人間」が不足している世の中、子どもも大人もゲームをするのは、「心」を守ろうとしているからだと解釈してもいいようにおもう。

 

「自分に自信を持ちたい」

だから僕はキャラのレベルを上げる。

「自分の好きな友達と一緒にいたい」

だから僕は好きなキャラを育てる。

「自分を誇りたい」

だから僕は課金する。

 

そういったひとらしい「心」を僕は感じてしまう

(僕がそう感じているだけ)

 

もちろんゲーマーと呼ばれる人でも人間性がある人もいる。

ただ、僕は人の世界を広げる窓が液晶とつながっていることで窓から入ってくるいろんな生々しいもの、「他者」との関わりが減らされていくようにおもう。

 

ーーーーー

 

ゲームをしている生徒をみると、「すごいな」と正直に思える。

その「チカラ」や「情熱」はどこからでてくるのか、とおもう。

「え?なに?その単語??」ゲームのボキャブラリーがすごい。

「え?なに?その言葉の勢い??」授業中には見られない目の輝き。

 

それくらい、ゲームは、自然に心に入ってくる。

「キャラ」を愛でる心。(カッコいい!かわいい!憧れちゃうぜ!仲間になろうぜ!)

 

 

ゲームをして、プログラマーを志す、ゲームをして、ゲームの世界に入っていく人がいる。

そうした手ほどきをしてくれる大人がいたり、自分から「人」と自分をつなぐツールとしてゲームとの関係を作っている人は、いいバランスをとっているのだとおもう。

ゲームは、サプリメントだ。

「栄養」のある食べ物が少ないこの世の中で、「命」が弱っていくこの世の中で、なんとか「心」に栄養をあげる・・・その身近で簡単、そして自然な選択肢としてゲームをする。

 

健全な「食」が提供されていないから、サプリメントを選ぶ。

健全な「人」がいなから、ゲームを選ぶ。

 

たとえばそういう視点でゲームをみてみれば、子どもに「否」とはいえないのではないか。

 

が、しかし。

僕が個人的に「ゲームいやだな」とおもう理由は以下のよう。

 

ゲーム(自分の内的な世界に閉じこもる)をしている時間、ゲームをしていない人間との接点は断たれる(これが僕には一番悲しい。あなたの目の前にぼくはいないのだろうか、と感じてしまう

 

人間よりもゲームの方に興味がある、というのが僕には悔しいだけかもしれない。

 

ーーーーー

 

ゲームはただの「快楽」だともおもえる。

単純に、ヴィジュアルや音声、そしてストーリーなどを楽しむ。

だとしたらそれはコントロールされればいいものだし、コントロールのできるように「発達」を促すだけで事足りる。

 

4歳にはその能力が萌芽して、9歳には、完成している、のだけれど

 

なんの問題もない!

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同じ「ゲーム」でも、ボードゲーム、カードゲーム、パチンコ、麻雀、選挙、はたまたボーリングなどなど。いろいろある。大人もゲームを楽しみ、子供も「一緒に」楽しみたい。

 

人生は「あそび」。

「あそび」の心をどう作っていくかが、「命」そのものになるように感じている。

 

 

インスタグラムという居場所が中学生、高校生にとって大切である理由

最近、中学生高校生のことを知りたいとおもって、インスタグラムを始めた。

まだ機能がよくわかっていないのだが。
LIVEという機能がある。

ニコニコ動画の生中継みたいなことが、簡単にできる!すごい。
そこでたまたまお邪魔したLIVEで、女の子がこう言っていた。

「いいですね。なんか、話をしながら、自分のこと、いろいろわかった気がします。」

観客がいること、目の前に誰かがいること、それだけでも、意識が変わる。
意識が、無意識とつながる、引き出される。

ナラティブという心理学用語を出す必要もなく、インスタグラムをつかって、こういう現象が起きていることに、私は驚いた。

子供達はインスタグラムに自分の場所を作っている。
秘密の隠れ家がみつからないこの世の中で、子供達がみつけたのは、インスタグラムであった。
大人が何をなげこうが、子どもたちは、自分たちで答えを見つけていく。

だからメッセージを残したり、「いいね!」を送るにも、その、秘密の小部屋にお邪魔するという意識をもちたいと思えた。
コメントした後返事が返ってこないときとか、特に!

だれかにちゃんとみて欲しい
私はがんばっているよ

「いいね」をもらえるだけでも嬉しい。
そのいいねは、学校で勝手に出てくる成績とは違って、誰かが、誰かの気持ちで、押してくれたものだから。

わんぴーす

日本はマンガ大国だ。アニメ大国だ。語り物の歴史はどの国にもあろうが、どうしてかそれがマンガという媒体になって広まった。

ワンピースというマンガがある。
いろんなひとがいうとおり、この漫画には人の生き方、関わり方のエッセンスが盛り込まれている。バトルシーンがドキドキするだけではない。それは過去に縛られていた、過去に生きていた仲間が、今を生きる感覚を取り戻していく物語。主人公の味方の過去も、敵の過去までも物語る。主人公のルフィーは、自分の生き方にゆるぎがない。仲間の大切さもしっている。幼いころにそのすべての経験をしている。

ルフィーは「一緒に行こう」とか「ぶったおす」とかいう。自分の気持ち、道をひたむきに進む。そして、そんな自分が出会った人にできること。それを表す言葉の一つが「仲間になろう」だ。今、この時を、この瞬間を大切にしようぜ。一緒に冒険しようぜ。生きようよ。彼の言葉の力は、彼の拳は、強い。泣きながら、心の堰を外して叫ぶ。「いきたい」

今、ここ、それが本当の自分、成長したい自分、打ち破りたい自分と繋がった時、人は命をまっとうしているのだと思う。
ただその時、誰かが呼びかけてくれることが、どれほどの助けになるだろう。過去に、感情に囚われているこころに、触れてくれる人。
進むだけではない。その場で、戦いながら、過去の苦しみを味わい尽くして、嘗め尽くすからこそ今の、自分の、気持ちがわかるんだろう。苦しんで、苦しんで、その苦しみも抱いて、世界に飛び出す時に、仲間がいてくれることは、どれだけ心強いのだろう。

兄、エースを失った時、悲しみにくれていたとき、真っ暗になったとき、喪失に耐えかねていたとき、ジンベエがいてくれなったら、ジンベエの声がなかったら、ルフィーはどうなっていたのだろう。その一声が、もしかしたら、今の僕の周りにも、あるのかもしれない。その声に気がつくまでが、そしてその声に応えることが、ひとつのドラマなのだ。泣いていいのだ。泣いたらいいのだ。

外からの呼びかけを感じ取ろう。
戦いながらでも、へたれこみながらでも。
それは人かもしれないし、空や、草木や、太陽や、風かもしれない。もしかしたら、自分の内にいる、自分の一部かもしれない。自分の一部に、耳を傾ける。

誰もが旗を持っているのだ。旗を掲げる人生。
人とのかかわり合い、忘れられているものが、マンガの中には、まだ残っている。現実は?僕達の生きている現実は?

 

ゲームは子どもの発達によいのか悪いのか(知育ゲームってどうなの)

ゲームは、悪いのか。
悪くないのか。買って与えるべきか。
買わざるべきか。

それが問題だ。

電車の中にいれば過半数がゲームをしているこの世の中。
ゲームは生活の中に溶け込んでいる。

人生これすなわちRPGとある業界(自己啓発・セミナー・企業などなど)では言われているほどだ。

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ゲームは悪いものではない。
と僕は思う。

ものすごい哲学が隠されているゲームもある。

疲れた心を現実から逃避させる、ゆとりをつくる効果もあるだろう。

昔と違って、今はゲームを通して世界中、日本中のプレイヤーとコミュニケーションが取れるようになった。
(有線でケーブル繋がないと対戦できなかったあの時代は、どこにいった?)

ゲームの良いと思われる側面をとらえるとそうなる。

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ゲームは、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

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あるゲームづくしの毎日を過ごしている子はこう言った。
「ゲームして一生を終えますよ。親のお金使い切って、それで終わりです。」

ゲームの世界「だけ」で生きるという暮らしを確立している!

中学生、高校生、思春期を超える頃にはある程度ゲーム世界との関わり方も固定されるかもしれない。

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ゲームを通じて活かされている人もいる。
ゲームを通じて、生きる希望を持っている人もいる。(世界一の大会にでるなんて、すごいことじゃないか??)

ゲームには、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

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例えばパズルゲーム。
これは頭を使う!
そのゲームの「ルール」を理解して、それで試行錯誤を繰り返して、繰り返して、強くなって行く。
(ゲームはゲームが好きになるように、モチベーションが上がるように映像だとか効果音だとかボーナスだとかレベルアップとか新しい技とかアイテムという快楽回路が刺激される仕組み満載だ。)

ゲームは、やればやるほど、はまるようにできている。
(もし「ルール」を理解して試行錯誤しても強くならないのなら、自分にあったゲームを探せばいい。あなたが快楽を感じるゲームはいくらでも探せる)

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けど、やってもやってもうまくいかないことがあるのが人生だ。
ゲームから何を学ぶか。
ゲーム世界とどう関わるか。

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ゲームを悪く言うこともできる。
主に身体的な意味からだ。

まずゲームのやりすぎで眼球運動が苦手になる。
黒板が見られない。
目でものを終えない。

指先の操作はうまくなるかもしれないが腕や肩との協調運動ができなくなる(肩も使うタイプのゲーム機があるらしいが除外しておく)
ゲームの話しかできなくなる(青春はゲームの中)

とにかく時間を取られて他のことができない。
言葉が拙くなる。

(そしてこれらの話の例外も、そこらへんにゴロゴロ転がっている。めちゃくちゃ喋るのがうまいゲーム界の住人もいる。運動が超絶的なゲーマーもいる。さてさて、どうしたものか…)

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子どもにゲーム機を持たせるのはいいことか?
スマホを持たせるべきか?持たせぬべきか?
親はある意味で、神だ。

はい、ここからが本題です。

ゲームの世界の外でも楽しみを見つけられる子になればいいと僕は思う。

そのためには、大事な大事な思春期まで、中学校頃までは、ゲームを与えないという選択肢が、賢明かもしれないと僕は思う。
子供がゲームをするかどうか、ということよりも、その子が日常の中で、一生懸命になる場面が、現実の世界で、笑顔になる場面があるかどうかを省みてみてほしい。

ゲームは悪いわけではない。
ただ、ゲームは「はまる」ようにデザインされている。
他の遊びだって同じだ。ゲームは悪いわけではない。

児童発達支援をしていたとき、未就学児の子がお母さんからゲームを与えられていたのを見ている。(知育ゲームである)
企業は、知育ゲームを開発してやらせてそのあとどうなるか、きちんと研究をしてくれないものだろうか。

公害は企業の責任が囚われた。心の問題は、企業に責任はないのだろうか?
「私たちには責任はありません。だって、選んで買っているんでしょ?」

子どもたちは、イヤホンをしている間、鳥の声を、虫の声を、聞いているだろうか。
画面を見ている間、目の前にいる人の表情を、人間を、感じているだろうか。

ゲームをしない時間も、大切にしてほしいとおもう。

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