子どもを守る心のお守りを言葉で、振る舞いでつくっていく子育て

親に殴られる子は、友達を殴る。友達に殴られた子どもは、どうして別の友達を殴るのだろうか?親が子どもを殴るのは、殴っても大丈夫だと判断するから殴る。友達を殴る子どもは、その子を殴っても大丈夫だと判断するからなぐる。その友達に殴られた子は、また別の「弱い子」を殴る。「強い子」になろう。「守れる子」になろう。誰かの怒りに触れたら、いったいどうやったら、自分を、大切な人を守れるだろうか?否定的な感情に向き合う、対処する、受け流す、吐き出す作法を大人から学びとろう。  

  1. 人間関係を布とボールに例える
  2. ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心
  3. 心は命を守る、無意識の仕組み『忘れる技術』岡野 憲一郎
  4. 2種類の幸福ー人工的幸福と自然発生的幸福
  5. 心のお守り「大丈夫」。根拠も理由もない安心が役に立つ時『残酷すぎる成功法則』
  6. 合理性と感覚以前の、感情と豊かさと、大人と子ども。
  7. 言葉の学びは心の学び
  8. 人間関係を布とボールに例える
  9. ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心
  10. 心は命を守る、無意識の仕組み『忘れる技術』岡野 憲一郎
  11. 2種類の幸福ー人工的幸福と自然発生的幸福
  12. 心のお守り「大丈夫」。根拠も理由もない安心が役に立つ時『残酷すぎる成功法則』
  13. 愛とは何か?
  14. お守り
  15. 相手を観察し、心をつくっていく『あなたの脳は変えられる』
  16. 食べない子
  17. 【ヘックマンのペリープロジェクト】テストでは計測できない“非”認知的能力が大切すぎる件『本当のかしこさとは何か』
  18. 嫌いな食べ物を食べない子ーコドモを信じて、よりよく関わる
  19. 名前の付け方
  20. 【言葉を超えたもの】『僕の青春ラブコメはまちがっている』と「欺瞞」
  21. 道端で困っているおじいちゃん
  22. 親になって気がつくこと
  23. テディーベア
  24. 感情は消える。時間の中で成長しながら、心が変わる。
  25. 『スイッチ! ──「変われない」を変える方法』
  26. 保育士、お母さんたち必読の書。平井信義さんの「意欲」と「思いやり」の子育て。
  27. 【子どもに学ぶお城の壊し方】生きるとは○○○○○をつくること【批判的精神とは】
  28. 『自我の育ちと探究活動』『幼児期ー子どもは世界をどうつかむか』
  29. いじめのない社会(学校)は存在しないか。『子どもの遊びは魔法の授業』
  30. 合理性と感覚以前の、感情と豊かさと、大人と子ども。
  31. 言葉の学びは心の学び
  32. 人間関係を布とボールに例える
  33. ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心
  34. 心は命を守る、無意識の仕組み『忘れる技術』岡野 憲一郎
  35. 2種類の幸福ー人工的幸福と自然発生的幸福
  36. 心のお守り「大丈夫」。根拠も理由もない安心が役に立つ時『残酷すぎる成功法則』

人間関係を布とボールに例える

久しく会っていない友だちと話をした。夢の中で彼をみたから電話したのだ。15年ぶりだ。 「おまえは変わっていないな」ということになった。 同じところをぐるぐるしていてあのころのままだ。それでもその行動力は俺にはないから見習いたい、だそうだ。 人間関係のことを話した。 そこで一つ思いついたことがある。 ここに2つのモノがある。なんでもいい。この2つのモノの関係を、位置関係で表したらどのくらいのパターンが生まれるだろうか。 それが3つになったら?そこに「場」が加わったら? 先生と生徒、弟子と師匠、親と子、社員と社長、あなたとわたし、道端で会った人とわたし。 それはもしかしたら、分子や原子が互いにつながったり、遠ざかったりする運動みたいに見えるかもしれない。 強い力のように硬く結びついたものもある。それすら崩壊する。 原子や分子は常に、動きを変えて、形を変えて、つながりをかえていく。 ファンデルワールス力のようにとても小さいけれど、表面が大きくなると働く力もある。 化学の世界で絶対的に「支配的な原子」などない。ただ「ほうそく」に従うだけだ。 お互いの条件が満たされている時、それらは反応する。 何かが上手く行っていなかったり。違和感を感じたら、視覚的に、感覚的に捉えてみるのもいいかもしれない。 目の前に相手の「ココロ」がある。それを例えば布にしよう。例えばボールにしよう。あなたはその「ココロ」とどう関わっているのか。 目の前に自分の「ココロ」がある。それをあなたは今、どうしているのか。 世界は円環だという。 おもうにそれはフラクタルだろう。 どんな入り方もできる。 ただその中で自分の場所を見つけて、回ること。 他のワと触れながら、回り、回し合うこと。 回らないとしたら、何か、違和感を感じるはずだ。 もしかしたら、油を塗ればいいかもしれない。 もしかしたら、モウヒトツかフタツ、歯車を付け足さないと行けないかもしれない。 歯車の場所が違っているのかもしれない。 求め、受け取る 捧げ、与える。 自分に何かを捧げ、与えるワタシ 誰かに何かを捧げ、与えるワタシ 自分に何かを求め、受け取るワタシ 誰かに何かを求め、受け取るワタシ きくこととはなすこと どれかひとつが円環から外れても、具合がわるいのかもわからない。 上手く回っていない歯車を、取り外してみること。 上手く回っていない歯車を、磨き直してみること。 回りすぎている歯車を、取り外してみること。 大きく回そうとせず、小さく回してみること。 私はそのようにして「変わっていきたい」「成長したい」とおもっている。 固定されたアイデンティティーというものではなく、変わり続ける世界に、関係に、やわらかく合わせていく。 「変えるって、大変なことだよ。苦しいよ」と最後に彼は言った。 苦しみが、尊いものに聞こえてしまう。 彼の視線が、声が、私を助けた。幸せ者だし、夢をみた自分に素直に従ってみた自分を、褒めてあげたい。 ありがたい。ありがたい。  

ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心

今僕の目の前には、韓国で買ってきた、掛け軸、水墨画の複製がある。 もちろんお土産屋でみつけた安物だ。 この年になって、やっと、ちゃんと、眺められるようになった。見られるようになった。 若い頃は、ただなんとなく、いいなとおもって、買ったものだ。 今になって、その絵を眺めながら、絵というのは、別の世界の扉のように思えてくる。 好きなアーティストの写真や音楽のジャケットなんかも、今ココにある日常の世界とは違う世界への入り口のようなものだ。 見ながらたくさんのことを「感じられる」。不思議と魅了される、心が出ていくような感覚。 同じ絵を一緒に眺めながら、ただ眺めながら、感じる時間を大切にしよう。ただその時間を過ごすことが、大切なのだ。 現実の、皆が承認している、確定している、どこかわかりきった世界とは別の、 不思議で、日常から離れた、何かが起きそうな、そういう世界。 絵を眺めるというのは、創造的な赤ちゃんの心になろうとする心の動きなのかもしれない。 だから人は絵を買う。ビートルズの古いLPのジャケットに惚れて買う。 ドキドキの入り口を買う。 ちゃんと「絵を見る」「見入る」のは、絵を買うこととは別の行為であり、心の動きだ。 絵の「リッチネス」を引き出すのは、人の心だ。絵を見てどきどきできる人は幸せだ。 曼荼羅、ドリームキャッチャー、五芒星、いろいろな入り口がある。 そっちの世界にいくための、リッチネスをつかむための心持ちというものがありそうだ。 昔の人は、神社にお参りにいくこと、祈ることがそうした非日常の世界につながる入り口だったろう。あの鳥居がまさしく。 昔の人が鳥居の前に立つときのような気持ちを、いまの僕らはいつどこで感じるのだろうか。 絵の前で。ビートルズの古いLPのジャケットの前で。 裏山で見つけた石を拾うこと、道を歩きながらみつけた風景を写真にとるのと同じように、絵を買おう。それがこの固くなった日常の時間を止める役に立つはずだ。 昔、多分、10年前、東京のギャラリーで「絵を買う人」について考えてから、長い時間がたった。 答えというものは、知らず知らずにやってくる。求めていても、追いかけても、得られないものだ。 インドネシアに行った時、ジョグジャでバチックを買わなかったことを後悔している。あれは、とても、心が惹かれる絵だったのだ。 帰りの飛行機代が心配で、買えなかったのだ。  

心は命を守る、無意識の仕組み『忘れる技術』岡野 憲一郎

『忘れる技術』岡野 憲一郎 忘れる技術 不安になったら振り向いて安心してまた探索を始めるとか、お母さんから安心をもらって内在化するといった言葉がよくわからなかった。 それは、意識しなく打てもキーボードが叩けるようになる、意識しなくても歩けるようになるのと同じように、記憶の中に、仕組みができるということだ、とわかった。(そんなことは書いてないが、それで説明できるからよし) 例えばキーボード。 「う」を打ちたい。 「う」ってどこだっけ? ああこれこれ、どの指で押そうか? 人差し指にしよう。 押す。 を、 「う」を打ちたい。押す。 に省略できる。 間の記憶は、もう意識せずに、体が覚えていてくれる。 例えばお母さんからの安心。 嫌なことがあった。 不安になつた。 お母さんに離してみた。 眼差しをくれる。聞いてくれる。言葉をかけてくれる。 大丈夫だと思える。 を、 嫌なことがあった。けど大丈夫だと思える。 に短縮すること。 手続きを、省略できること。 無意識の中で、シミュレートしてしまうこと? 意識しているときは新皮質、無意識に落とされた部分は辺縁系で処理されるという。 お守りは、辺縁系にあるわけだ。 脳の中に、記憶に、しかるべき居場所をつくること。 これが忘れるということらしい。 決して消えるわけではない。もしかしたら、深く、刻まれるといっていいかもしれない。 ただその記憶に(怒りや悲しみに)居場所が与えられるということ。 ====

==== 次の話題。 記憶には「頭の記憶」と「体の記憶」がある。 「体の記憶」は感情に関するもの。怖い、うれしい、ほがらか、悲しい、たのしい、そう感覚になるとき、身体はしらずと反応しています。動向が開いたり、汗がでたり、筋肉がほぐれたり、ひきつったり。 一方の「頭の記憶」はいつどこでなにが起こったか。どこになにがあったとか、どんな風景だったかとか、どんなことを話したとか、「体の記憶」にはならなかった記憶、情報だといえばわかりやすいでしょうか。 ちなみに「体の記憶」は扁桃核、「頭の記憶」は海馬で処理されるそうです。 扁桃体は好き嫌い、快不快を判断する場所ですね。 で、「体の記憶」と「頭の記憶」が一緒にならないで、どちらかになってしまうと、忘れられない記憶になってしまうという話。 え!!???? 忘れられない記憶は、扁桃核と海馬の強調が崩れたとき、だと書かれています。 え!!!!???? ーー

ーー 感動した出来事はよく記憶に残ります。(感情を伴って学ばないと、すぐ忘れる。暗記が不毛だという話) それは扁桃体が強く反応する出来事に対して、扁桃体が海馬に「ちょっとこれ、大切だから覚えておいてよ!」と信号を送るそうです。 が!!!!!! 扁桃体があまりに強く反応してしまう場合、 あまりにも感情が揺れ動いた場合、海馬は、止まってしまう。 らしいのです。 信号が強すぎて、神経回路が壊れてしまうイメージでしょうか。 最後にこの本では忘れる技術が11くらい書かれている。 怒りは殴ると治るとか。 水を浴びると治るとか。 薬を飲むとか。 思考停止術を使うとか。 相手について知るとか。 話すとか。 これはひとつ、いいなぁとおもったのは、 与える人生を歩むこと。 何かを欲するのではなく、与えてみること。 あともう一つ。

訴えなくても、指摘はするべき。 法雨的手段に訴えるほど深刻な状況でなくても、相手から被った被害や不当さをなんらかの形で告発したくなる場面は、日常にいくらでもあります。たとえば職場で、皆の前で上司は軽い気持ちでも、受ける側にとってはかなりつらいものです。もしそれが限度を超えて、我慢できないときは、それをはっきりと相手に指摘するのも一つの方法です。 例えば某右舷を吐かれたら、「私がいたらなかったことは申し訳なく思っていますが、今の言い方はひじょうに不適切だと思います。その気持ちだけはお伝えしておきます」というのです。たとえ言っても、何も具体的に変わらないかもしれません。 しかしそれをはっきり言ったということで、あなたの気持ちはかなりしずまるでしょうし、上司への恨み、憎しみが忘れられないという悶々とした状態からは脱出できます。

これをしたら、あとで仕返しをされるのではないか、という不安が先立つとおもう。 日本ではいじめなど日常の一部だし、上司部下の関係ははっきり言って暴力の関係で成り立っているようなもの。 日本なら、影で愚痴ることで解消する文化があるかもしれない。 それだけ日本の歴史は暴力で支配されてきたということだろう。 ーーー 経済行動学の何かの本で、「しっぺがえし作戦」が有効だという話がある。 要するに、最初は「協調」する。相手が「裏切」ったらこちらも「裏切」る相手が「協調」したら、こちらも「協調」するというもの。 舐められない、きちんと威嚇する。 そういう姿勢が、ゲームの中では、有効だという。 現実の世界は、、、、どうなのだろう。 先にやったもん勝ち、というのが、一つの答えとして返ってくる。 「仕返し」はチームワークに有効とは言えない 「フリーライダー」を更生させる戦略はある? これが競争(ビジネス)の原理である。 子育ての原理ではない。  

2種類の幸福ー人工的幸福と自然発生的幸福

The surprising science of happiness 高校の授業のゲストで、岩井伸太郎さんがきてくれた。 世界一周をした経験から瞑想、マインドフルネスを加賀市で実践している。 子どもたちが生き方を学ぶ、勉強も教える塾をやっているそうだ。 塾生が増えているということで、いやぁ、おとのねも見習いたい。 そんなかんだで、僕も「夏休み前だし!」とおもって、英語の授業で「しあわせ」についてみんなとなんかやろうとおもった。 そこで見つけたのが、このTEDの映像。 ーー

ーーー 幸福には2種類がある。 自然発生的幸福と、人工的幸福。 自然発生的幸福は、「欲しいものを手に入れる」時に得られるしあわせ。 人工的幸福は、「自分でつくりだす」しあわせ。 「え?不幸じゃないの?」と一見、思える状況でも「しあわせです」と言える人は、人工的幸福を作り出せる人だ。 僕はこういうとき、いつもDVの被害者の状況を重ねてしまう。 一見、はたからみると「それって幸せ?」とおもえることでも、「しあわせ」にしてしまう、脳の働きがある。 (この脳の働きを利用してみんなで幸せになろう!というのが、ブッダのオリジナルの仏教かもしれない) けど、この人工的幸福の価値は、世間では一般的ではないという。 みんな、「ほしい」未来に向かっている。 子どもたちに「こうなってほしい」未来に向かわせているお父さん、お母さんがいる。 今、この時に、この場所で、しあわせを感じられているだろうか。 「今ここ」でしあわせを感じるチカラも、大切にできているだろうか。 僕自身、よくよく思い返したい。。。。 ーーー

ーーー 自然発生的幸福とは、「得られるよろこび」である。 「こうなったらいいな。ああなったらいいな」とおもったものが、得られたとき、しあわせになる。 自由、選択、意志、といった近代的な価値観は、自然発生的幸福観の土壌になっているという。 マーケットの原理だ。 もし僧侶のように人々が「そのままでしあわせ」になったら、イオンも、ファボーレも成り立たない。 経済が動かない。行政に税金が入らない。だから「もうこれで、いい」ではなく、「もっと、もっと!」しあわせになれるように、行政も働きかける。 (よく、子どもの数が少なくなった、ヤバイ!日本の未来が!というが、それは「しくみ」を変えれば済む話で、別の「しあわせ」の形を探せばいいだけの話で、子どもを増やして昔のままの価値観を維持しようとすることが、また働き続けて昔のままの価値観を維持しようとすることが、果たして「政策」として本当に民意にあっていることか。そもそも「しくみ」の話を学校でも教わらないから、旧来の「しあわせ」に誘導されているとおもっていい。) ーーー

ーーーー オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。 自立する、という意味で。 けど実際、自由、選択、意志が及ばない「天の才」、「宿命」を受け入れることでたどり着ける境地があるとも思っている。 オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。 「世の中の思惑」から、自立する、という意味で。 「天の才」、「宿命」を受け入れるために。 自分らしく、命を尊ぶために。 要するに、使い方なのだ。 ーーーー

ーーーー 自然発生的幸福は、いってしまえば狩猟時代に「獲物が捕れた幸せ」に相当するだろう。 次の狩りへの動機付けにもなる。 これは大脳辺縁系、扁桃体とかそこらへんが絡んでいるしあわせのようにおもえる。(勉強したい) ある意味で、動物的なしあわせだ。 人工的幸福は、これは「つくられたしあわせ」であって、ファンタジーの世界だ そこにないものを、作り出す前頭葉(大脳新皮質の一部分)の働きだろう。(勉強したい) これは、人間的なしあわせである。 どれだけ、人工的に、しあわせをつくれるか。 人工的にしあわせをつくりだすための「インフラ」をつくるか。 これが人生の楽しみであり、ワクワクであるようにおもう。 ーーー

ーーーーー どこかに辿りつくまでの道すがら、しあわせを集めること。 「我慢我慢。この労働(課題)の果てに、しあわせになる!」といいながら、不確定な世界で、「得られなかった」時の幻滅、失望は計り知れないかもしれない(給料は必ずやってくるからまだいい。課題は最悪)。やってみるといい。そのあとで、しあわせへの道をさがしたらいい。僕も長い間「求めよ、さらば、与えられん」の道を歩いてきた。ある意味でそれも真実だが、「求めなければ、得られるもの」もある。 カスカネダが記述したインディアンの教えでは、これを「心ある道」と呼んでいる。 これは実は、道教のタオ(道)でもある。 入り口を探すまでもない、道。 僕は今、入り口を探しているような気がしている。 そんなものないのに笑 On the path to happiness, you will discover all that you want to be or do, or have. しあわせへの道すがら、あなたはあなたがなりたいあなた、あなたしたいこと、あなたがほしいこと、全てに出会えるだろう。 ーー

ーーー 完全個別指導の学習塾、少人数の《放課後の学校》のレッスン料は高い。 それは「求める」ことでしか得られないものだろう。 どこかで矛盾していることが、わかっているから、僕はいつも、困っている。 けど、家でなにがしかの節約をして、「しあわせ」のやりくりをすることで、払えない金額ではない、ともおもっている。 お母さんのハートワークを増やしたい、と願うオトノネさん。 そのためにお金を稼がないといけないと思うオトノネさん。 この心を大切にするために、やっぱり、お金が、必要なのです。 この心を大切にするために、やっぱり、個別、少人数にしたいのです。 わがままですか? 僕のわがままに付き合ってくれる方に、オトノネを応援してもらえたら、うれしいです。

 

心のお守り「大丈夫」。根拠も理由もない安心が役に立つ時『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

基礎水中爆破訓練(BUD/S)に合格する者とベルを鳴らして脱落 していく者の違いは何か? 驚いたことに、以前は海軍自体も把握しておらず、それが大きな問題 だった。九・一一の同時多発テロ以降、海軍は特殊部隊員を増員する必 要に迫られていた。だが隊員の質が落ちてしまっては目的が果たせな い。彼らは回答を探していた。どんな人材を採用すればいいのか? ま た、志願者が厳しい入隊訓練に合格しやすくなるように、どんな指導をしたらいいだろう? 

その結果思いついた策は、奇想天外なものだった。もしかしたら海軍は、屈強な若者を求めるかわりに保険の外交員を増やすほうが得策かも しれない、と。聞き間違いではない、保険の外交員だ。その理由は何 だったのか。 

海軍の調査で、グリットを持った人びとが逆境に耐える際に行っている(ときに無意識に)いくつかのことが明らかになった。そのなかに、 心理学的調査で何度も浮かびあがった一つの習性があった。 

それは「ポジティブな心のつぶやき」だった。もちろん、海軍シール ズは腕っぷしの強い者を求めていたが、そうした隊員になれる秘訣の一つは「小さな機関車リトルエンジン」のように、「だいじょうぶ、だい じょうぶ」と自分を励ますことだったのだ。 

人は毎分頭のなかで、三〇〇~一〇〇〇語もの言葉をつぶやいている という。そのなかにはポジティブな言葉(「きっとできる」)も、ネガ ティブな言葉(「ああ、もう我慢できない」)も含まれている。そして 前向きな言葉は、私たちの精神的な強さややり抜く力に大きなプラスの影響をもたらすことがわかった。このことは、その後に行われた陸軍に よる研究でも裏づけられている。 

そこで海軍は、BUD/S志願者に、自分に対してポジティブに語り かけるようにと、ほかの精神療法とあわせて指導した。その結果、訓練 の合格率が一〇%向上したという。 

もちろん、BUD/Sに合格するには肉体的苦痛に耐えなければなら ないが、脱落するかどうかを左右するのは精神的な要因だ。 で? それが保険の外交員とどうつながるかって? ちょっと考えて みてほしい。保険の勧誘を受けた相手はどんな反応をするだろうか。痛い目に遭うのはシールズ隊員だけではない。保険の外交員も日々くり返し拒絶されている。 

良い営業マンになる秘訣は、人と接するのが得意なこととか、外向的 なことだと思うかもしれないが、調査によると、決め手は楽観主義であ ること、その一点に絞られるという。研究者たちは、「楽観的傾向で上 位一〇%に入った外交員は、悲観的傾向で上位一〇%だった者より売り 上げが八八%多い」ことを発見した。

いじめのない世界はつくれるかもしれない。多くの大人がよりリッチでありさえすれば。(リッチネスについては別の記事でたくさん書いています。検索してみてください^^)    

合理性と感覚以前の、感情と豊かさと、大人と子ども。

このあいだ、数学を一緒にやりながらいろいろと考えた。

三角関数にはいろんな変換がある。よくぞこれだけ見方を変えるな、というほど。それを一つ一つ、「いざ」というときに使えるだろうか?知ってはいる。ただ目の前に「問題」が出た時に、それが使える状態にあるかどうか。

左脳は合理的、言語的で右脳は音楽的、空間的だと言われる。『ことばでつまずく子どもたち』で竹下研三さんは、右脳のことを「空想的」といっていた。なるほど。ぼんやりと脳の中でいろんな変換、いわゆる公式を思い浮かべる、空想する、変形したり、元に戻ったり、いろいろなパターン、模様を作り出す。中学数学で問題になる図形なども右脳だ。ひねったり周り足し動かしたり、そういう働きは全て右脳だ。となると、

数学ができないのは、右脳が育っていないから?(いやいや、右脳と左脳のバランス)

外からの情報は大脳の「視床(辺縁系の一部)」「辺縁系」の順(内側から外側)で情報が回って行く。赤ちゃんもこの順序で成長していく。視床には内側膝状体というものがあり、これを経由して辺縁系に伝えられる。この交差点で、音声の信号は扁桃体という場所にも送られる。ここはうれしいとかかなしいという「情動・感情」を生み出す場所らしい。小さな子がお母さんの声を聞いて安心しながら、まずこの場所が育つ。(完全に完成するまで6、7年かかるという)大人になってくると、自分に必要がない音が辺縁系に行く前にカットしてしまう(聞こえないことにする)カクテルパーティー効果は、この部分で情報を取捨選択して生まれるという。辺縁系は他の動物にもみられるように、本能に関わる部分である。脳の中心部(人間の軸)に近いこの部分は「暮らし」「豊かさ」と関わる脳なのかもしれない。(パン屋のいい匂いを嗅ぐと、優しい気持ちになるのは、この部分の働きだ。)

で、情報は辺縁系のあとに「大脳皮質」「大脳新皮質(連合野も含む)」にもいく。この段階で左右が生まれる。そして音が「ことば」として意味を持つようになる。左右を結ぶのは「脳梁(のうりょう)」である。梁!

世の中にはたくさんの理不尽さがあり、残酷さがあり、嫌なことや戸惑いに出会うことが少なからずある。その時に、まず最初に扁桃体が反応する。「なんだ!いやだこんなの!」頭を抱えて泣き叫んでいる。次に前頭葉さんが登場する。「あー、大丈夫大丈夫。こういう時は、こうするんだよー」と笑いながら、落ち着いて、包み込んでくれる。そういう関係が、実は、子どもが大人とコミュニケーションしながら、学んでいってほしい、本当に大切なことなのだが。理不尽さと矛盾にあふれたこの世界を受け止める心を大切にしたい。「嫌なことだけどする」ことも、大切な何かを守るためには必要なのだと、伝えたい。大切でもないことならケラケラ笑いながら、「なかったこと」にしてもいい。大切なものを守りながら暮らしている人は、美しい。

そのために言葉、習慣、振る舞い、暮らしを選んでいくことが、子育ての、人間育ての要点です。

言葉の学びは心の学び

学校で悪い言葉を覚える子がいる。

言葉と一緒に、心も覚える。「このやろー!」「ばかやろー!」「なぐるぞ!」

実際、こういう言葉を小学生が使っている(らしい)。

何処で教わるかといえば、テレビかお父さん、お母さんから教わる。

教わらない言葉は使えないはずだからだ。

家族が喧嘩している時の汚い言葉も覚える。

 

聞いて覚える。とにかく使ってみる。そこで「そんな言葉使っちゃいけません!」といわれても、大人が使っているのだからどうしてダメなのか、小さい子はわからないかもしれない。家で喧嘩ばかり、学校で罵ってばかりの環境で暮らせば、「人ってそういうものなんだ」と思うのも当然だ。話をきちんと聞いてもらえなかった子は話を聞いてあげられない子になる。

中学校、高校までに心が自立できなかった子は(小学校も今、けっこうあぶない)、学校のやり方をそのまま身につける。「怒り」「命令」「干渉」「支配」これらが全て、子どもたちが親になった時に繰り返される。児童虐待の根っこは、学校教育にある(なんどもいうが、仕方がないのだ。私たちは自分の身を自分で守ろう)。

人の心は6歳には、自立できている。自立できる。人格をもっている。自立できていない状態で学校に行くことは子どもにとってキビシイ試練になるかもしれない。その子は、学校という場所で起こるいろいろな「残酷な世の中の出来事」に対処する準備ができているだろうか?自律的に、心を守っていけるだろうか?心が擦り切れた友達と一緒にいて、一緒に心が擦り切れてしまわないだろうか?学校の先生の支配に心が折れてしまわないだろうか?

いい友達、いい先生と出会うこと、何よりも、いい人と関わり合えることが、子供にとって一番だ。

親に殴られる子は、友達を殴る。友達に殴られた子どもは、どうして別の友達を殴るのだろうか?親が子どもを殴るのは、殴っても大丈夫だと判断するから殴る。友達を殴る子どもは、その子を殴っても大丈夫だと判断するからなぐる。その友達に殴られた子は、また別の「弱い子」を殴る。「強い子」になろう。「守れる子」になろう。誰かの怒りに触れたら、いったいどうやったら、自分を、大切な人を守れるだろうか?否定的な感情に向き合う、対処する、受け流す、吐き出す作法を大人から学びとろう。  

人間関係を布とボールに例える

久しく会っていない友だちと話をした。夢の中で彼をみたから電話したのだ。15年ぶりだ。 「おまえは変わっていないな」ということになった。 同じところをぐるぐるしていてあのころのままだ。それでもその行動力は俺にはないから見習いたい、だそうだ。 人間関係のことを話した。 そこで一つ思いついたことがある。 ここに2つのモノがある。なんでもいい。この2つのモノの関係を、位置関係で表したらどのくらいのパターンが生まれるだろうか。 それが3つになったら?そこに「場」が加わったら? 先生と生徒、弟子と師匠、親と子、社員と社長、あなたとわたし、道端で会った人とわたし。 それはもしかしたら、分子や原子が互いにつながったり、遠ざかったりする運動みたいに見えるかもしれない。 強い力のように硬く結びついたものもある。それすら崩壊する。 原子や分子は常に、動きを変えて、形を変えて、つながりをかえていく。 ファンデルワールス力のようにとても小さいけれど、表面が大きくなると働く力もある。 化学の世界で絶対的に「支配的な原子」などない。ただ「ほうそく」に従うだけだ。 お互いの条件が満たされている時、それらは反応する。 何かが上手く行っていなかったり。違和感を感じたら、視覚的に、感覚的に捉えてみるのもいいかもしれない。 目の前に相手の「ココロ」がある。それを例えば布にしよう。例えばボールにしよう。あなたはその「ココロ」とどう関わっているのか。 目の前に自分の「ココロ」がある。それをあなたは今、どうしているのか。 世界は円環だという。 おもうにそれはフラクタルだろう。 どんな入り方もできる。 ただその中で自分の場所を見つけて、回ること。 他のワと触れながら、回り、回し合うこと。 回らないとしたら、何か、違和感を感じるはずだ。 もしかしたら、油を塗ればいいかもしれない。 もしかしたら、モウヒトツかフタツ、歯車を付け足さないと行けないかもしれない。 歯車の場所が違っているのかもしれない。 求め、受け取る 捧げ、与える。 自分に何かを捧げ、与えるワタシ 誰かに何かを捧げ、与えるワタシ 自分に何かを求め、受け取るワタシ 誰かに何かを求め、受け取るワタシ きくこととはなすこと どれかひとつが円環から外れても、具合がわるいのかもわからない。 上手く回っていない歯車を、取り外してみること。 上手く回っていない歯車を、磨き直してみること。 回りすぎている歯車を、取り外してみること。 大きく回そうとせず、小さく回してみること。 私はそのようにして「変わっていきたい」「成長したい」とおもっている。 固定されたアイデンティティーというものではなく、変わり続ける世界に、関係に、やわらかく合わせていく。 「変えるって、大変なことだよ。苦しいよ」と最後に彼は言った。 苦しみが、尊いものに聞こえてしまう。 彼の視線が、声が、私を助けた。幸せ者だし、夢をみた自分に素直に従ってみた自分を、褒めてあげたい。 ありがたい。ありがたい。  

ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心

今僕の目の前には、韓国で買ってきた、掛け軸、水墨画の複製がある。 もちろんお土産屋でみつけた安物だ。 この年になって、やっと、ちゃんと、眺められるようになった。見られるようになった。 若い頃は、ただなんとなく、いいなとおもって、買ったものだ。 今になって、その絵を眺めながら、絵というのは、別の世界の扉のように思えてくる。 好きなアーティストの写真や音楽のジャケットなんかも、今ココにある日常の世界とは違う世界への入り口のようなものだ。 見ながらたくさんのことを「感じられる」。不思議と魅了される、心が出ていくような感覚。 同じ絵を一緒に眺めながら、ただ眺めながら、感じる時間を大切にしよう。ただその時間を過ごすことが、大切なのだ。 現実の、皆が承認している、確定している、どこかわかりきった世界とは別の、 不思議で、日常から離れた、何かが起きそうな、そういう世界。 絵を眺めるというのは、創造的な赤ちゃんの心になろうとする心の動きなのかもしれない。 だから人は絵を買う。ビートルズの古いLPのジャケットに惚れて買う。 ドキドキの入り口を買う。 ちゃんと「絵を見る」「見入る」のは、絵を買うこととは別の行為であり、心の動きだ。 絵の「リッチネス」を引き出すのは、人の心だ。絵を見てどきどきできる人は幸せだ。 曼荼羅、ドリームキャッチャー、五芒星、いろいろな入り口がある。 そっちの世界にいくための、リッチネスをつかむための心持ちというものがありそうだ。 昔の人は、神社にお参りにいくこと、祈ることがそうした非日常の世界につながる入り口だったろう。あの鳥居がまさしく。 昔の人が鳥居の前に立つときのような気持ちを、いまの僕らはいつどこで感じるのだろうか。 絵の前で。ビートルズの古いLPのジャケットの前で。 裏山で見つけた石を拾うこと、道を歩きながらみつけた風景を写真にとるのと同じように、絵を買おう。それがこの固くなった日常の時間を止める役に立つはずだ。 昔、多分、10年前、東京のギャラリーで「絵を買う人」について考えてから、長い時間がたった。 答えというものは、知らず知らずにやってくる。求めていても、追いかけても、得られないものだ。 インドネシアに行った時、ジョグジャでバチックを買わなかったことを後悔している。あれは、とても、心が惹かれる絵だったのだ。 帰りの飛行機代が心配で、買えなかったのだ。  

心は命を守る、無意識の仕組み『忘れる技術』岡野 憲一郎

『忘れる技術』岡野 憲一郎 忘れる技術 不安になったら振り向いて安心してまた探索を始めるとか、お母さんから安心をもらって内在化するといった言葉がよくわからなかった。 それは、意識しなく打てもキーボードが叩けるようになる、意識しなくても歩けるようになるのと同じように、記憶の中に、仕組みができるということだ、とわかった。(そんなことは書いてないが、それで説明できるからよし) 例えばキーボード。 「う」を打ちたい。 「う」ってどこだっけ? ああこれこれ、どの指で押そうか? 人差し指にしよう。 押す。 を、 「う」を打ちたい。押す。 に省略できる。 間の記憶は、もう意識せずに、体が覚えていてくれる。 例えばお母さんからの安心。 嫌なことがあった。 不安になつた。 お母さんに離してみた。 眼差しをくれる。聞いてくれる。言葉をかけてくれる。 大丈夫だと思える。 を、 嫌なことがあった。けど大丈夫だと思える。 に短縮すること。 手続きを、省略できること。 無意識の中で、シミュレートしてしまうこと? 意識しているときは新皮質、無意識に落とされた部分は辺縁系で処理されるという。 お守りは、辺縁系にあるわけだ。 脳の中に、記憶に、しかるべき居場所をつくること。 これが忘れるということらしい。 決して消えるわけではない。もしかしたら、深く、刻まれるといっていいかもしれない。 ただその記憶に(怒りや悲しみに)居場所が与えられるということ。 ====

==== 次の話題。 記憶には「頭の記憶」と「体の記憶」がある。 「体の記憶」は感情に関するもの。怖い、うれしい、ほがらか、悲しい、たのしい、そう感覚になるとき、身体はしらずと反応しています。動向が開いたり、汗がでたり、筋肉がほぐれたり、ひきつったり。 一方の「頭の記憶」はいつどこでなにが起こったか。どこになにがあったとか、どんな風景だったかとか、どんなことを話したとか、「体の記憶」にはならなかった記憶、情報だといえばわかりやすいでしょうか。 ちなみに「体の記憶」は扁桃核、「頭の記憶」は海馬で処理されるそうです。 扁桃体は好き嫌い、快不快を判断する場所ですね。 で、「体の記憶」と「頭の記憶」が一緒にならないで、どちらかになってしまうと、忘れられない記憶になってしまうという話。 え!!???? 忘れられない記憶は、扁桃核と海馬の強調が崩れたとき、だと書かれています。 え!!!!???? ーー

ーー 感動した出来事はよく記憶に残ります。(感情を伴って学ばないと、すぐ忘れる。暗記が不毛だという話) それは扁桃体が強く反応する出来事に対して、扁桃体が海馬に「ちょっとこれ、大切だから覚えておいてよ!」と信号を送るそうです。 が!!!!!! 扁桃体があまりに強く反応してしまう場合、 あまりにも感情が揺れ動いた場合、海馬は、止まってしまう。 らしいのです。 信号が強すぎて、神経回路が壊れてしまうイメージでしょうか。 最後にこの本では忘れる技術が11くらい書かれている。 怒りは殴ると治るとか。 水を浴びると治るとか。 薬を飲むとか。 思考停止術を使うとか。 相手について知るとか。 話すとか。 これはひとつ、いいなぁとおもったのは、 与える人生を歩むこと。 何かを欲するのではなく、与えてみること。 あともう一つ。

訴えなくても、指摘はするべき。 法雨的手段に訴えるほど深刻な状況でなくても、相手から被った被害や不当さをなんらかの形で告発したくなる場面は、日常にいくらでもあります。たとえば職場で、皆の前で上司は軽い気持ちでも、受ける側にとってはかなりつらいものです。もしそれが限度を超えて、我慢できないときは、それをはっきりと相手に指摘するのも一つの方法です。 例えば某右舷を吐かれたら、「私がいたらなかったことは申し訳なく思っていますが、今の言い方はひじょうに不適切だと思います。その気持ちだけはお伝えしておきます」というのです。たとえ言っても、何も具体的に変わらないかもしれません。 しかしそれをはっきり言ったということで、あなたの気持ちはかなりしずまるでしょうし、上司への恨み、憎しみが忘れられないという悶々とした状態からは脱出できます。

これをしたら、あとで仕返しをされるのではないか、という不安が先立つとおもう。 日本ではいじめなど日常の一部だし、上司部下の関係ははっきり言って暴力の関係で成り立っているようなもの。 日本なら、影で愚痴ることで解消する文化があるかもしれない。 それだけ日本の歴史は暴力で支配されてきたということだろう。 ーーー 経済行動学の何かの本で、「しっぺがえし作戦」が有効だという話がある。 要するに、最初は「協調」する。相手が「裏切」ったらこちらも「裏切」る相手が「協調」したら、こちらも「協調」するというもの。 舐められない、きちんと威嚇する。 そういう姿勢が、ゲームの中では、有効だという。 現実の世界は、、、、どうなのだろう。 先にやったもん勝ち、というのが、一つの答えとして返ってくる。 「仕返し」はチームワークに有効とは言えない 「フリーライダー」を更生させる戦略はある? これが競争(ビジネス)の原理である。 子育ての原理ではない。  

2種類の幸福ー人工的幸福と自然発生的幸福

The surprising science of happiness 高校の授業のゲストで、岩井伸太郎さんがきてくれた。 世界一周をした経験から瞑想、マインドフルネスを加賀市で実践している。 子どもたちが生き方を学ぶ、勉強も教える塾をやっているそうだ。 塾生が増えているということで、いやぁ、おとのねも見習いたい。 そんなかんだで、僕も「夏休み前だし!」とおもって、英語の授業で「しあわせ」についてみんなとなんかやろうとおもった。 そこで見つけたのが、このTEDの映像。 ーー

ーーー 幸福には2種類がある。 自然発生的幸福と、人工的幸福。 自然発生的幸福は、「欲しいものを手に入れる」時に得られるしあわせ。 人工的幸福は、「自分でつくりだす」しあわせ。 「え?不幸じゃないの?」と一見、思える状況でも「しあわせです」と言える人は、人工的幸福を作り出せる人だ。 僕はこういうとき、いつもDVの被害者の状況を重ねてしまう。 一見、はたからみると「それって幸せ?」とおもえることでも、「しあわせ」にしてしまう、脳の働きがある。 (この脳の働きを利用してみんなで幸せになろう!というのが、ブッダのオリジナルの仏教かもしれない) けど、この人工的幸福の価値は、世間では一般的ではないという。 みんな、「ほしい」未来に向かっている。 子どもたちに「こうなってほしい」未来に向かわせているお父さん、お母さんがいる。 今、この時に、この場所で、しあわせを感じられているだろうか。 「今ここ」でしあわせを感じるチカラも、大切にできているだろうか。 僕自身、よくよく思い返したい。。。。 ーーー

ーーー 自然発生的幸福とは、「得られるよろこび」である。 「こうなったらいいな。ああなったらいいな」とおもったものが、得られたとき、しあわせになる。 自由、選択、意志、といった近代的な価値観は、自然発生的幸福観の土壌になっているという。 マーケットの原理だ。 もし僧侶のように人々が「そのままでしあわせ」になったら、イオンも、ファボーレも成り立たない。 経済が動かない。行政に税金が入らない。だから「もうこれで、いい」ではなく、「もっと、もっと!」しあわせになれるように、行政も働きかける。 (よく、子どもの数が少なくなった、ヤバイ!日本の未来が!というが、それは「しくみ」を変えれば済む話で、別の「しあわせ」の形を探せばいいだけの話で、子どもを増やして昔のままの価値観を維持しようとすることが、また働き続けて昔のままの価値観を維持しようとすることが、果たして「政策」として本当に民意にあっていることか。そもそも「しくみ」の話を学校でも教わらないから、旧来の「しあわせ」に誘導されているとおもっていい。) ーーー

ーーーー オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。 自立する、という意味で。 けど実際、自由、選択、意志が及ばない「天の才」、「宿命」を受け入れることでたどり着ける境地があるとも思っている。 オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。 「世の中の思惑」から、自立する、という意味で。 「天の才」、「宿命」を受け入れるために。 自分らしく、命を尊ぶために。 要するに、使い方なのだ。 ーーーー

ーーーー 自然発生的幸福は、いってしまえば狩猟時代に「獲物が捕れた幸せ」に相当するだろう。 次の狩りへの動機付けにもなる。 これは大脳辺縁系、扁桃体とかそこらへんが絡んでいるしあわせのようにおもえる。(勉強したい) ある意味で、動物的なしあわせだ。 人工的幸福は、これは「つくられたしあわせ」であって、ファンタジーの世界だ そこにないものを、作り出す前頭葉(大脳新皮質の一部分)の働きだろう。(勉強したい) これは、人間的なしあわせである。 どれだけ、人工的に、しあわせをつくれるか。 人工的にしあわせをつくりだすための「インフラ」をつくるか。 これが人生の楽しみであり、ワクワクであるようにおもう。 ーーー

ーーーーー どこかに辿りつくまでの道すがら、しあわせを集めること。 「我慢我慢。この労働(課題)の果てに、しあわせになる!」といいながら、不確定な世界で、「得られなかった」時の幻滅、失望は計り知れないかもしれない(給料は必ずやってくるからまだいい。課題は最悪)。やってみるといい。そのあとで、しあわせへの道をさがしたらいい。僕も長い間「求めよ、さらば、与えられん」の道を歩いてきた。ある意味でそれも真実だが、「求めなければ、得られるもの」もある。 カスカネダが記述したインディアンの教えでは、これを「心ある道」と呼んでいる。 これは実は、道教のタオ(道)でもある。 入り口を探すまでもない、道。 僕は今、入り口を探しているような気がしている。 そんなものないのに笑 On the path to happiness, you will discover all that you want to be or do, or have. しあわせへの道すがら、あなたはあなたがなりたいあなた、あなたしたいこと、あなたがほしいこと、全てに出会えるだろう。 ーー

ーーー 完全個別指導の学習塾、少人数の《放課後の学校》のレッスン料は高い。 それは「求める」ことでしか得られないものだろう。 どこかで矛盾していることが、わかっているから、僕はいつも、困っている。 けど、家でなにがしかの節約をして、「しあわせ」のやりくりをすることで、払えない金額ではない、ともおもっている。 お母さんのハートワークを増やしたい、と願うオトノネさん。 そのためにお金を稼がないといけないと思うオトノネさん。 この心を大切にするために、やっぱり、お金が、必要なのです。 この心を大切にするために、やっぱり、個別、少人数にしたいのです。 わがままですか? 僕のわがままに付き合ってくれる方に、オトノネを応援してもらえたら、うれしいです。

 

心のお守り「大丈夫」。根拠も理由もない安心が役に立つ時『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

基礎水中爆破訓練(BUD/S)に合格する者とベルを鳴らして脱落 していく者の違いは何か? 驚いたことに、以前は海軍自体も把握しておらず、それが大きな問題 だった。九・一一の同時多発テロ以降、海軍は特殊部隊員を増員する必 要に迫られていた。だが隊員の質が落ちてしまっては目的が果たせな い。彼らは回答を探していた。どんな人材を採用すればいいのか? ま た、志願者が厳しい入隊訓練に合格しやすくなるように、どんな指導をしたらいいだろう? 

その結果思いついた策は、奇想天外なものだった。もしかしたら海軍は、屈強な若者を求めるかわりに保険の外交員を増やすほうが得策かも しれない、と。聞き間違いではない、保険の外交員だ。その理由は何 だったのか。 

海軍の調査で、グリットを持った人びとが逆境に耐える際に行っている(ときに無意識に)いくつかのことが明らかになった。そのなかに、 心理学的調査で何度も浮かびあがった一つの習性があった。 

それは「ポジティブな心のつぶやき」だった。もちろん、海軍シール ズは腕っぷしの強い者を求めていたが、そうした隊員になれる秘訣の一つは「小さな機関車リトルエンジン」のように、「だいじょうぶ、だい じょうぶ」と自分を励ますことだったのだ。 

人は毎分頭のなかで、三〇〇~一〇〇〇語もの言葉をつぶやいている という。そのなかにはポジティブな言葉(「きっとできる」)も、ネガ ティブな言葉(「ああ、もう我慢できない」)も含まれている。そして 前向きな言葉は、私たちの精神的な強さややり抜く力に大きなプラスの影響をもたらすことがわかった。このことは、その後に行われた陸軍に よる研究でも裏づけられている。 

そこで海軍は、BUD/S志願者に、自分に対してポジティブに語り かけるようにと、ほかの精神療法とあわせて指導した。その結果、訓練 の合格率が一〇%向上したという。 

もちろん、BUD/Sに合格するには肉体的苦痛に耐えなければなら ないが、脱落するかどうかを左右するのは精神的な要因だ。 で? それが保険の外交員とどうつながるかって? ちょっと考えて みてほしい。保険の勧誘を受けた相手はどんな反応をするだろうか。痛い目に遭うのはシールズ隊員だけではない。保険の外交員も日々くり返し拒絶されている。 

良い営業マンになる秘訣は、人と接するのが得意なこととか、外向的 なことだと思うかもしれないが、調査によると、決め手は楽観主義であ ること、その一点に絞られるという。研究者たちは、「楽観的傾向で上 位一〇%に入った外交員は、悲観的傾向で上位一〇%だった者より売り 上げが八八%多い」ことを発見した。

愛とは何か?

たまたまおとのねさんの頭に浮かんだ言葉

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愛とは

大切なものを大切にする知恵と、
知恵を身体化した振る舞いと言葉づかいの総称である。

情とは

心のエネルギーである。

愛なき愛情は、レバーなきニラレバのように、何かが足りていない。

大切にするとは、どういうことだろうか?

大切にするとは、尊敬するということだ。
一人の自立した、自発的な、意欲ある、創造的な、天の才を持って生まれた一人の人間であることを、認めることだ。

誤った知恵によって、大切なものを大切にできない人がいる。

それはニラだ。レバニラではない。

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みつめあい
なぞりあい
だきあい
かけあい

愛の所作

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愛とは

学び、身につけなければいけない他者への敬意である。

愛とは

ゆえに困難なものであるように、僕にはおもえる。

愛とは

直接、経験しなければ、学べないものである。

愛とは

ゆえに困難なものであるように、僕にはおもえる。

支配・暴力・管理・干渉が愛という名の下に公然と行われることがある。
ゆえに愛とは、困難なものであるように、僕にはおもえる。

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体が大きくなるほどに、自由が大きくならないなら、それは、愛ではない。
生まれ落ちて、ずっとへその緒で胎盤に繋がれたまま、死んでいく人もいる。

それは愛ではない。

へその緒が切れた瞬間から、その人は、あなたから、自由なのだ。

誤った知恵による愛を与えられた人は、へその緒がなくなった瞬間、エネルギー不足で、死んでしまうだろう。

へその緒を持ち歩くといいかもしれない。
その人は、もう、私とは、切れているのだと、いつでも感じられるように。

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こちらは

富山市の個別×子別指導学習塾オトノネ堀川教室

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富山市の個別指導塾オトノネ堀川教室

ここからは文体が変わります。

愛する能力は環境の産物であって、遺伝のせいではない。(先天的な「特性」「器質的欠如」はありうるとして)
愛する能力は、学ぶもの。

愛する習慣は伝わる。

なめられたり毛づくろいをしたりする頻度は母親から子どもに受け継がれる遺伝的な特性のようなものだろうか、とミーニーは考えた。おそらく神経質な母ラットはおなじ気質の子ラットを産み、そういう母ラットはなめたり毛づくろいをしたりする頻度も低いのだろうと思った。この仮説を検証するために、ミーニーと研究者たちは親をこう悪寒する実験を行った。高LGの母ラットから生まれた子ラットを生後すぐに引き離し、低LGの母ラットのケージに移した。その反対も行った。あらゆる組み合わせで実験をした。しかしどう入れ替えてどんな実験をしても結果は同じだった。問題は生物学上の母親の習慣ではなく、育てた母親の習慣だった。生まれてすぐのころになめられたり毛づくろいをされたりした心地よい経験を持つ子ラットは、そういう経験のない子ラットよりも勇敢で大胆に育ち、環境にもうまく適応した。生物学上の母ラットのLGの高低は関係がなかった。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.67)

愛を知らずに育った人は、人生をかけて、愛を学ぶしかない。

みつめあい
なぞりあい
だきあい
かけあい

こうした心が生み出される場にいあわせるしあわせ。
漱石は「月が綺麗ですね」とのたもうた。まさに、愛の中にあって生まれる「愛の言葉」。「愛」という言葉に、出る幕は、なさそうだ。

【花火大会】お餅を食べて、学んだこと。
しあわせって何?
投稿日: 2019年8月8日 投稿者: otonone-オトノネ- しあわせって何?ーICF国際生活分類の答えー学校についていけなくなった子のためにできること
心はしあわせの所作を生む

お守り

子ども時代とは、新しく生まれてきた人に、大人がお守りを渡せる時間のこと。 どんな心を、お守りに入れてあげますか? どんな記憶を、お守りに入れてあげますか? どんな祈りを、お守りにかけますか? 子ども時代とは、新しく生まれてきてからだいぶ時間が経った人に、子どもがお守りを渡せる時間のこと。 どんな心が、お守りに入れてありますか? どんな記憶が、お守りに入れてありますか? どんな祈りが、お守りにかけられていますか? そのお守りをつくっているその人の姿を思い浮かべるだけでもいい。 どんな表情で どんな歌を口ずさみながら どんな手つきで どんなそぶりで どんな物腰で お守りを縫い合わせたのか。 命を、つむぎ出してきた、そのへその緒でできた、お守り。 命が、つむぎ出されてきた、そのへその緒でできた、お守り。 生まれ出た命のあたたかさを思い出すだけでもいい。 思い出してみて、感じたことを、考えずに、心に、抱き続けてみてほしい。 お守りをくれるお母さんもいる。      

「自然」に任せて子育てをすると、なかなか不健全になりやすいこの世の中、祈りの言葉を、お守りにかけておいてほしいと、おとのねさんはおもっています。     

相手を観察し、心をつくっていく『あなたの脳は変えられる』

あなたの脳は変えられる 「やめられない! 」の神経ループから抜け出す方法

マインドフルネスは物事を明確に見る際に役に立つ。バチェラーは、この明確 さこそが「エゴイズムという内的な傾向」を打ち破るために大切であり、それを打破すれば 「利己的な反応を手放せる」と結論づけている。 自分に焦点化した主観的バイアスの眼鏡をかけていると、恐怖や怒りなどを通じて世界に 習慣的に反応するようになる。目を曇らせるこの眼鏡を外せば、自分の行為の結果を(他者 のボディーランゲージをうまく読み取って)もっと明確に見通せるようになり、そのときそのと きの独特な環境にうまく対応できるだろう。 人との出会いに十全な気づきを持ち込めば、「なぜ私がそれをしなければいけないのか」「な ぜそれが私に適用されるのか」という疑問から導かれる包括的な行動規範を飛び越える助け になるかもしれない。誰かに「デブ」と言うときに相手の顔の反応を見れば、言葉がなくて も、そうすべきでなかった十分な理由がわかるだろう。 「子どもたちは、成長と共に自分の行動の結果を学んでいくにつれて、人から課される制限の抜け穴や回避法をすぐに探そうとする(とくに若者はこのようなやり方を取りやすい)のでは なく、「意地悪になるな」という規則の適用をさまざまな道徳的判断に拡張していくのではな いだろうか。人間は学習する生物として進化してきた。それゆえ自分の身体が語りかけてく ることに素直に注意を向けはじめれば、規則はもっと単純になるだろう(容易になるとはかぎ らないが)。たとえば、きっかけをつかんで嫌なヤツになろう。そして、それが自分と相手に どれほどの痛みを与えるかを見極めるのだ。ただし、それを繰り返してはならない。 (『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.257)

 

医療現場における実践は1つの例にすぎない。仕事や私生活の中で自らの体験に周波数を 合わせ、利己的な反応(「私」を守ることに偏っている)と無私の反応(状況に応じた自発的なも の)とを区別するあり方は無数にある。 他人の苦しみを自分のこととして受けとらなければ、そこで余ったエネルギーを再び人助 けに回せる。 実際私自身も、人の苦しみがはっきりと見えれば、自然に助けようという気持ちになる。そ ういう体験をしたことのある人も多いはずだ。落ち込み苦しんでいる友人から電話がかかっ てきたり、大災害のニュースを見たりしたとき、自分自身の心配から一歩引いてみたらどう なるだろう。不思議なことに、私たちは苦しんでいる人のほうに身を乗り出すのである。友 人の話に耳を傾けたり、寄付金を送ったりする。なぜなのか。確実なことは言えないが、慈 悲や寛大さがそうであるように、人助けは間違いなく気持ちが良いからだろう。そして、こ の種の報酬は、自己防衛などの反応的習慣の放棄を後押しするため、自然にレジリエンスを 高めてくれる。 (『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.296)

食べない子

「食べる子が勝つ」という言葉を聞いたことがある。小さい頃からフライドポテトとレンジでチンのご飯だけで過ごした子と、野菜やお米を食べた子ではやはり何か違う。それから、食べることへの意欲。毎日フライドポテトだったら、弁当食べたくなくなるのもわかる。それでケチャップだらだらつけて食べていたら、コメが食べられなくなるのもわかる(味わって食べる習慣つかないから)。 ある子がお弁当を食べている途中から弁当に手を出さなくなった。どうしてかな、と隣でただただみていると、保育士の先生が口に持って行って食べさせた! 食べた! 食べたくない!気持ちがあったのだが、その先生の気迫に負けたのか、食べたかったが集中力が切れて口に運べなかっただけなのか、スプーンを握りたくなかったのか。。。(別の日にその子は、おにぎりを最後に残して、手で食べ始めた) 体が食べたくない、というなら、まぁ食べなくてもいいのだろうけれど。「全然食べない・・・」とおもったら、「遊び足りないのか」と考えてもよし。「美味しいものだけ食べるな」とおもうなら、美味しいものを無くしてみるのもよし(お腹が空いていたらなんでも美味しい)。食べなくても死なない。死にそうになったら食べる。 スプーンでもっていってあげたら食べるけど、「自分で食べないんです!」というお母さんもいる。 そのまま2、3日でも、放っておいたらいいんです。自分で食べるから。本当ですよ! 生き物ですから。

【ヘックマンのペリープロジェクト】テストでは計測できない“非”認知的能力が大切すぎる件『本当のかしこさとは何か』

バクノビ
坪田さんの本『バクノビ』

坪田信貴さんの本は、受験勉強だけでなく、成長、成功、受験勉強を超えた人間としての生き方を教えてくれる。 受験勉強といえば、IQ,IQ、知能指数に目が向くが、実は大切なのはEQ(感情知能数)だというお話。知能指数は脳のごく一部、前頭前野(感覚野にも運動野にも属さない連合野と言われる部分で、前頭葉という場所にある)の能力だが、EQは扁桃体をコントロールする能力、「喜怒哀楽」や「目的達成力」を司る。扁桃体が「自制心」や「同情心」といった「情動」の泉だ。 あ、EQはEmotional Intelligence Quotientであって、EI(感情知能)の指数(高い低い)を表す言葉です。 感情知性を数で測ることはできないとおもいますが、便宜的に。 ーーー

ーーーー 感情をコントロールする自制心、他人の心の底にある感情を読み取る同情心が受験に役立つのだろうか?役立つ。 自制心は「あれしたい、これしたいけど勉強しなくちゃ」とか「あれ怖い、あれ心配、でもやってみよう」という心であって、同情心(共感能力)は思いやりであり、一つには助けてくれる家族や先生への感謝、周りの人の気持ちをもらいながら受験という試練を乗り越える力になる。また同情心は「間主観性」つまり第三者の視点をもつ力であり、問題を解く時、問題作成者の意図を考えて正解を導くことができる。 悲しみや怒り、模試の結果に一喜一憂するのではなく、目標に向かってちゃんと進むためにはこの間主観性「自分と他人を相対的に眺める」視点は大切だ。「自分は、自分は」といって感情に、主観に心をまかせずに前頭葉を使って扁桃体(感情は人間のエネルギーだ!)を理性的に、「ああ、今は悲しいんだ。不安なんだ」と俯瞰して眺めるチカラは、高校を卒業してからいろんな人と出会い、いろんな出来事を経験して行くなかでその人をよりよく成長させるチカラになる。目的を見据え、冷静になって、感情に振り回されないチカラだ。 で、この能力は学校教育以前の親子の関わり合い、就学以前の人間関係、言葉がけ、暮らしによってほとんど基礎ができてしまう。また小学校、中学校を通じて環境が変わる中であたらしい「出来事」と対峙しながら、つねに鍛えられる能力だ。 勉強ができないのは勉強をしないからでなくて、勉強以前にEQ(人間の人間らしさ)を育てられなかったからだとおもえば、少し立ち止まって、自分を見つめ直し、新しい一歩を踏み出す勇気がでるだろうか。勉強以前に、不安をきちんと見つめ、不安をコントロールし、信じられる人間関係をつくり、高校生活を送ってほしい。 高岡高校、富山高校、富山中部高校の生徒が「自分の進路とは関係のない課題をやらなくちゃいけない」といって嘆いているのを思い出す。やらなければいいのに!やらなくちゃいけないと心が、体が、反応してしまう。これは富山県の学校生活、富山県の暮らしの中で育っていった心のしくみであって、「しなければいけない。罰がある。逃げられない。いわれたことはやるしかない」という閉塞感、抑圧感、恐怖感で扁桃体が満杯になっている状態だ(家でも勉強勉強といわれていたらなおさら)。もしそこで自分の成長、自分のための人生、と前頭葉ではっきり決断できれば、扁桃体に染み込んでいる「いわれたことをしない」不安や心配をコントロールできれば、(家族や塾の先生がはっきりとそれを全力で指し示せばいいのだろうか?)受験というものを自立した人間として、やりきることができるとおもう。 そして決断というものはどこから生み出されるかというと。。。「やってみよう」という意欲、「大丈夫だよ」という安心感、「できるできる!」という自信などなどがごちゃ混ぜに作用して生まれる。これは前頭葉というより、もっと脳の中心部にある、扁桃体の役割だ(結局扁桃体!?)。扁桃体に働きかけるきっかけとして、「精神論」ではなく「データ」として前頭葉にいろんな理解をしてもらう(進学高校の進学実績など)ことも大切だろう。どうしたら、これまで長い間育ててきた心を変えられるだろうか?目標を叶えるために。 (最近、) 多くの受験生に必要なのは、受験を自分のものとして経験するには、オーバーライトする(書き換える)力。昔の自分を忘れる力。今、生まれてきた新しい心と向き合うこと。新しく生れ変わる力といえるかもしれない。そのためには、誰かが、今本人が作り上げた「こうするもんだ」という物語とは別の物語を語ることが第一歩だと私は信じている。笑いながら^^今選んだことの積み重ねが未来でしかない。過去はすっぱり忘れる。そのために、毎日、自分に呪文を唱えてもいい。本当に、呪文を唱えてもいい。唱えよう。新しい心を育てるために「今」何をしたらいいか、生徒に伝えていこう。 あなただけしか叶えられない、あなただけしか生きられない、あなただけの人生を、暮らしを、今この時を、大切にしてほしい。そういう気持ちで、生徒と関わっていこう。 「どんな自分でありたいか」に素直に。そうしたら、気持ちに素直なあなたをみて、周りの人が応援してくれたり、わらってくれるはず。そんな仲間がつくれる人は、しあわせだろう。

     本当のかしこさとは何か

こんな実験データがある。 3歳から2年にわたって、家庭教師や幼児教育のプログラム、遊びを提供したり、子どもたちの様子や発達や教育のあり方について話し合いをもつ機会を与えられた子どもたちと、こうした環境を全く与えない子どもとで、IQの伸びと、高校卒業率、収入、持ち家率、離婚率、犯罪率、生活ほど受給率を40才まで追跡して比べたところ、、、、 環境を与えられた子どもたちは、幼稚園や家庭でさまざまな教育プログラムを受けたので、その後、IQの伸びには目を見張るものがありました。が、二年間にわたる介入計画が終了したあと、IQの差は縮まってゆき、8歳の時点で、豊かな教育環境を与えられた子どもとそうでない子どものIQの差はなくなり、40歳の時点での経済状況や幸福・適応状態においては歴然とした違いが認められました。すなわち健全な市民としての適応的な生活を享受するために、IQは必要ない、ということです。

ヘックマンは、この結果を受けて、乳幼児期において重要なのは、認知的能力ではなく、むしろ“非”認知的能力を身につけることが重要であるとはっきりと言明することになります。 この非認知的能力とはいってみれば、一連の社会情動的な能力や、スキル、例えばやればできるのだという動機付けの感覚、長期的な計画に基づいて行動する力、そして自分や他者を信頼し、自分の感情をうまく律し調節するための力です。 このようにヘックマンの主張は、発達の早期段階において、日々の安定した環境の中で信頼できる大人とのやりとりを通じて、とりわけEIの基盤となるものを確かに獲得しておくことの生涯にわたっての重要性を強調するものであると読み替えることができます。(『本当のかしこさとは何か』p.160)

科学的に、IQ偏重は、もうアカン!ことが証明されています。 お父さん、お母さん、お子さんのしあわせを育ててあげませんか? 先生を、選びませんか? 今注目の非認知能力!学力テストでは測れない、多様な社会で生きる子どもたちにとって大切な資質とその伸ばし方とは? 英才教育をしても、IQは無残にも消えて行くことがこちらのブログにも書かれていました。 教育熱心な幼稚園、保育園を卒園したら

嫌いな食べ物を食べない子ーコドモを信じて、よりよく関わる

離乳食で手を抜かない! 今まで何でも食べてきた1歳半の子が、今日、初めて、ピーマンを食べなくなった。今まで食べていたのに。。。 そこでベテランの先生がいうに。 「離乳食のときに全部経験させる。それから嫌いなものを食べなくなる、ものの味がわかるようになって食べなくなるけど、心が大人になれば、また食べるようになる」と。 その時のピーマンは焼かれていたけれど少し生っぽくて苦かったかな、もうすこしやわらかい味にしたら食べてくれたかもしれない。そういう工夫もして、離乳食の時にいろんな食べ物を食べてもらうといい。 ピーマンだとわからないように工夫して料理の中に入れるのもいいけれども、そうして「食べさせよう」としなくてもいい。大人だって食べたくないものがある。大人になるにつれて「子供の頃、嫌だったけど、食べてみようかな」と思えるくらいにしておいたらいい。そのために、一度、あらゆる食べ物を”離乳食”のときに食べてもらうことが大切だという。もちろん、食べちゃいけないものもあるけれど・・・ 離乳食の時に薬局で売っている離乳食(薬めし)ばかり食べていたら、お米を食べられなくなる。野菜も苦手になる。うまく咬めなくなる。離乳食が終わった後でも、弁当に野菜が入っていない、揚げ物ばかりの子の将来はもう見えている。 離乳食の時に一度食べた経験のある食べ物は、幼児期に嫌いになるかもしれない。けれど、将来、心が育った後に、食べられるようになる(そのきっかけがやってくる)。 保育料無償化の時代、なんでも保育士にまかせた結果、肝心の家での食生活がわからなくなるお母さんも増えるだろう。朝ごはん、晩ごはんに何をつくったらいいか?大人と同じように、薬局で買った「薬局飯」でいいのか? しあわせを育てるには、心を込めた「しあわせをつくる」時間が大切なのかもしれない。    

名前の付け方

「子どもの名前、どうしようかと。。」 という話。 「生まれてから、この名前にしようと思っていた名前があったけど、変えた。という話も聞いているので、それでいいかな!とおもっています」 という話。 名前・・・不思議なものだ。 お母さんがその名前でその子を読んで気持ちがいいかどうか、とか?うーん、わからない。 歴史的には、例えば出産するときに雷が落ちたから、雷という言葉を入れることもあるし、神様が生きている国では、神様から名前をとることがある。階級を表す言葉が入ることもあれば、太郎、次郎のようなパターンもある。その地域のシャーマン的な人に命名してもらうことも、多々ある。 これから何人生まれるかもわからないし・・・ いろんなお母さんがいる。 漢字一文字!と決めて、じゃぁどうしようかと考えるお母さん。 とにかくひらがな3文字!を大切にするお母さんもいる。 他の国の言葉を知っているなら、多国籍の人なら、そっと、その国の言葉を名前に入れてあげるのも、いいだろう。 「月」という意味の言葉の音を、日本語で読ませて漢字に当てはめる名前を持った子がいた。子どもが大きくなったときに「どうしてこの名前にしたの?」と聞くことが必ず、あるだろう。そのときに、名前がうまれた「物語」を話してあげられるような、名前の付け方がいいのではないだろうか。「こんな気持ちで、君をこう呼ぶことにしたんだよ」と、しあわせを見つめながら、話しかけられるように。

【言葉を超えたもの】『僕の青春ラブコメはまちがっている』と「欺瞞」

【言葉を超えたもの】僕の青春ラブコメはまちがっている。

  言葉は、伝えるもの。 言葉は、不完全なもの。 言葉は、補うもの。 言葉は、交わすもの。 言葉は、支えるもの。 言葉は、つなぐもの。 言葉のお守り

 

言葉は、破壊するもの。 このアニメのテーマはなんだろう、と言われたら、欺瞞、だろうか。 

ところで魔法アニメ、全然、違うテーマを扱っているのが『ふらいんぐうぃっち』 【魔法の使い方】『ふらいんぐうぃっち』  

道端で困っているおじいちゃん

がいた。 え?こんな夜に? この通りはそういう場所ではない。。。。 雨降ってきたし。 声をかけてみる。 「靴履けますか?」そう、片足が脱げていた。 足を上げたくても上げられなくて困っていたのだ。 靴を履いた。うん。帰れるかな。 一度お別れをして、またすぐに戻ってみた。 いやぁ心配になりますよそりゃ。 昔図書館で本を読んでいるとき、突然、ガタリと物音がした。 よくわからなかったのでよくわからないままに時間が過ぎて、あとでおじいちゃんが倒れた、ということを知った。 その時、とても情けなくなった経験がある。 おじいちゃん、大丈夫かな。。。 おじいちゃんは同じ場所にいた。 結局、名前を聞いて警察に電話をして、家族とも連絡がついたということでめでたしめでたし。 おじいちゃん、家に帰れたよね。 最近高齢者関係の人と会うことがあって、話を聞いていたところ。 いろいろと考えてしまった。 おじいちゃんの手冷たくなってたな。。。今はぬくぬくしていることだろう。よかったよかった。 いわゆる「徘徊」というもの。 感情が関係しているのか、無意識なのか、私は勉強がしたことがないのだが。 あとで警察から連絡があった。 「無事に、家族が迎えにきて家に戻りました!」 そして私の個人情報は伏せた、という。 こういうところでできるつながりも大切にしたいのだが、警察は警察の事情があるんだろう。 あとでごたごたあると面倒なんだろう。。。 昔だったら、「どこそこのだれだれさんがねぇ」とかそういう話になっていただろうとおもっている。 人と人が遠くなった。。。 いろいろ話をきけたらよかったんだけど。 おじいちゃんおばあちゃん向けの何かはじめてみようかな??? 今度会ったら、オトノネに遊びに来てグンデルの音を聞いて欲しいなぁ。  

親になって気がつくこと

「私が子供の時は、選べなかった。そんなものがあるなんてことも、知らなかったんです。母も教えてくれなかったし、誰も教えてくれなかったんです」 という話。 なのでこのお母さんは、勉強を子供と一緒に始めたい、といってオトノネに来てくれた。子供と一緒に悔しがりながら、泣きながら、勉強をしてみたいと。お母さんが子供の時は、お母さんのお母さんからとくに勉強のことも何も言われず育ったが、いざ、親となると、「今、親とは違う生き方を選ぶことを考えはじめたんです」というお母さん。 「赤ちゃんからやろうとおもって!」 という意気込み。いやぁ、見習いたい。赤ちゃんから、たくさんのことを学べる。私も学ぼう。 例えば、「私は高校を卒業しなかったから、子どもには高校を卒業して欲しい」というお母さんもいる。その気持ちを聞いて「卒業はしないといけないし、お母さんのためにも卒業したい」という高校生もいる。できなかったことはさせてあげたいし、したくなかったことは、させない。なるほど。。。 お母さんが、生まれてくる子に特別な想いをもつのは、とても自然なことだとおもう。 生まれてくる新しい命。お母さんから出てくる、命。新しい! これから自立していく命、しあわせになる命。。。輝いていく命・・・ 「親になって親のありがたさがわかる」というが、逆に「親になって、親にされてありがたくなかったこともわかる」かもしれない。お母さんになって、「この子は、こう育てたい、こう育って欲しい」という想いがあるだろう。 多分、子供を育てながら、お母さん自身も、もう一度育ち直しをしていくのだとおもう。 子どもと一緒に学んでほしい。子どもは学びの天才だから、お母さんを助けてくれるはずだから。 子どももお母さんも、もちろん私にも、なんらかの「課題」というか、「方向性」をもっているとオトノネは考えている。「お母さんにされたこと」とは違う「新しいこと」をするなら、きっと失敗もするし、悩みもするはずだ。そういうチャレンジを、お母さんたちの学びを、オトノネは応援したいと思っている。 そのうち(8歳と12歳と15歳)、子どもは自立していく。子どもといっしょに学び直した、第二のお母さんが、子どもから自立して、社会に飛び出す時だ!  

テディーベア

クマのぬいぐるみが流行った時期がある。 今でもぬいぐるみはいつの時代でも必需品だ。 昔から「おにんぎょさん」がある。 おにんぎょさんじゃなくて実際に赤ちゃんだった時代もある。 イギリスかどこかでホテルの忘れ物のぬいぐるみの持ち主を調査したところ、過半数が大人の持ち物だったという結果がある。 人生とは、こういった落ち着くアイテムを手に入れながら、この世の中を生き抜く(息抜く)ゲームなのかとおもってしまう。 人生は有能になり、勝ち残る、他の人より秀でるために何かするとかいうことを考えてもいいだろう。 けどそのなかで息抜きアイテムをゲットしていかなくてはいけないのも現実だろう。 これ基本! ご飯を味わうこと、食べることの喜びなんていうのも、いつの間にか味わえなくなったなぁ。昔は本当に毎回美味しく食べていたような気がする。 子どもは自然と、このアイテムを手に入れていくものだろうか。

感情は消える。時間の中で成長しながら、心が変わる。

情動、感情はそんなに長くは持たないが、気分Moodは長時間、感じられる。 フロイトさんの「抑圧」によって「症状」が起きるという考えは、放出できず溜め込まれた心のエネルギーが「いきば」を失い腐ってしまう、淀んでしまう、と例えることができるだろう。だからやっぱり、「腐った水をまずは出す」ことが必要なのだと。これがカウンセリングの基本になったりすりわけだが。 悠々と流れる、偉大な「時間」というものがある。 「時間」はいろんなものを「流して」くれる。薄めてくれる。消去してくれる。 人の心の動きはそれぞれ違う。今の誰かにとっては、もう「時間」というプロセスがすでに心を癒していることもある。(それによって、DVを受けている人が「あれはDVではない」と言うように、完全に幻想世界に入っている可能性もあるが、それはそれで、時間を経て心がそのように適応したのだからOK!と考える)。 思い出してしまえば、言葉にして意識してしまえば、悪い情動、感情の波に押し流されてしまう。心がもたない。そういう経験をしてきた人がいる(うまく消去できずに妄想やら幻覚のように繰り返し困難な過去を思い出して頭が割れる思いをして心療内科に駆け込む人もいる。うまく消去もできない不器用な人間だ)。 ーーーーー 心的エネルギーが「たまって」うまく流れなくなる、と言う表現はこのように考えたらいい。「とりあえず」その場をしのぐ、その時の心の発達段階としてもっとも適当な作戦を使い、「防御」に徹したとしよう。「防御」に徹するというクセは残る。「防御」を選びがちになる。けど心が育ってきて、「攻撃」(実際になぐるわけではない)とか「逃げる」というコマンドをつかけるようになったけど、相変わらず癖で「防御」しかしないことを、「たまってしまう」「流れていない」つまり、心が育った新しい部分まで心的エネルギーが流れなくなる、とイメージしてもらったらいいとおもう。 ーーーーー 感情を消す、忘れるという操作が人を救うことはよくある。 その日に感じたイライラ、違和感を「消してしまえ!」といわんがごとく、音楽を聴いたり、好きな色の服を着たり、おいしいご飯を食べに行ったり、ドライブをしてみたり、花の匂いを嗅いで見たり。  

『スイッチ! ──「変われない」を変える方法』

思い出したのでこちらも紹介。 「サニーブレイン」「レイニーブレイン」はもちろん小さい頃から「脳」がどんな刺激を受けてきたのかで変わっていくが、小学校高学年、思春期の始まりから「自己評価」を始める子供達の「性格」が大きく試される。 成績、学校での評価をどう「受け止めたらいいのか」「解釈したらいいのか」を大人が伝えられるだろうか。  

中学校時代はこちこちマインドセットの子供にとっては、ターニングポイントだ。ドゥエックは、小学校ではこひこちのマインドセットの子供としなやかマインドセットの子どもにそれほど能力差はないものの、中学校に入るとこちこちマインドセットの子供の成績がすぐに落ちはじめ、それから数年で下がり続けることを発見した。ドゥエックの研究対象になった子供たちは、「僕はバカだから」とか「私は数学がダメだから」というように、成績の低下についてこちこちマインドセット特有の言い訳をすることが多かった。注目すべきは、子どもたちが自分の能力を普遍の性質のように語っている点だ。まるで、「私の目は茶色い」と言っているようなものだ(他にも、「先生の教え方がへたくそだから」とか「数学の教師はデブでいやなやつ」など、人のせいにする子どももいた)。(略)しなやかなマインドセットを教えた生徒には、脳は筋肉と同じで練習すれば鍛えられると伝えた。(略)なかには劇的な変化を遂げた生徒もいた。 『「やればできる!」の研究』のなかで、ドゥエックはこう述べている。「ある日、研究に参加してくれる生徒たちにしなやかマインドセットについて説明していると、突如、ジミーという、どうにも無気力で投げやりな生徒が目に涙を浮かべてこう言ったのだ。”ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね”。その日を境にしてジミーはがらりと変わった。夜遅くまで宿題と格闘するなんて、生まれて初めてのことだった。そうやってきちんと早めに宿題を提出するようになったので、返されてから間違いを見直すこともできるようになり、ジミーはめざましい進歩を遂げていった。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.224)

  成長している新しい自分、成長していく新しい自分に目を向けるように、大人が「お守り」を渡す。

変化の時期には、自分自身や相手にも言い聞かせなければならない基本的な事実がある。脳や能力は筋肉と同じで練習すれば鍛えられるという事実だ。私たちはスケートボーダー、科学者、看護師として生まれるわけではない。スケボーの乗り方、科学の手法、病人の看護方法を学ぶ必要がある。そして、そのアイデンティティに従って行きたいという願いが、自分自身を変える意欲につながるのだモリー・ハワードのエピソードからわかるのは、新しいアイデンティティの向上心としなやかマインドセットの粘り強さを組み合わせれば、驚くべき偉業を実現できるということだ。人を育てるとはそういうことなのだ。この行動の変化は命をも救った。飲酒関連の交通事故の死亡者数は1988年の2万3626人から1992年の1万7858人まで減少した。ウィステンはテレビのパワーを利用して社会規範を疑似的に作り出した。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.236)

  関連記事 「マインドセット」とは「世界観」のことであって、自己理解はもちろんのこと、他者理解の能力にも関わる。

保育士、お母さんたち必読の書。平井信義さんの「意欲」と「思いやり」の子育て。

保育と言いつつも完全に受験生の悩みと同じであることが、興味深いというか、 この事実を受け止めずにまだ教育と福祉をバラバラにしてしまうのかと呆れてものがいえない。 ものをいわなくなってはいけないのだが。 平井さんの本はたくさんあるが、どれも読みやすく、事例の紹介の仕方もうまく、論理、話の流れが明確だ。 (私のもっている知識・経験を加えたらさらにいい本ができるとおもうのだが。共同執筆してくれるだろうか。)

心の基地はおかあさん

例えばこの本。もっと体系的にというか、別の書き方でも書いてくれているが、どの本でも繰り返し、言い換えて、同じ言葉がでてくる。 意欲、創造性、自発性がないと子どもは不登校登校拒否になったりやる気がなくてニートになったりする。 思いやりのある子育て、叱らない、しつけない子育て、甘やかさずに甘えさせる子育てが、子供を意欲的に、自発的に、創造的にする。 いたずら、反抗期は正常な発達であって、それは悪いことではない。 いい子にしている子は、反抗期が来なかったり、あとで不登校になったりする。 ルールに従わせる、自発性を奪う関わり方をしてしまうのは、大人が自分を省みていないから。 そういう話だ。 つまるところ「ちゃんと子どもを子どもとして理解しましょう」 「不登校になる、やる気のない子になる原因ははっきりしています。今すぐ命令・支配・干渉・過保護をやめましょう」 という話だ。 なんともすっきりしていて、わかりやすい。 平井信義さんが長い間研究し、相談を受けていた経験があるから、納得してしまう。 なによりも子どものチカラを信じている。 この文章に社会学、もっと大きな枠で統計やらなにやらを加えたらどうなるだろうか。 もうずっと昔の本だが、今になって、とても意味のある文章になっている。 教育退国日本で、どうしても読み継いでいきたい本。 新しく出てくるメソッドやら何やらを手にするお母さんが多い中で、フランチャイズや大手の予備校で学ぶ人がたくさんいるなかで、 学問の基礎、哲学をもった人たちがきちんと生き残れる世の中であってほしいとおもう。  

【子どもに学ぶお城の壊し方】生きるとは○○○○○をつくること【批判的精神とは】

○の中に何が入るでしょうか。 仲間? 家族? お金? 時間? 地位? ーー

ーーー 最近、生きるということが「自分ルールをつくること」だと感じた。 「ルール」を変えていくこと。といってもいいだろう。 もちろん「自分ルール」だ。 今まで作ってきたルールがある。 あるものは無意識であって、あるものは意識できる。 例えば食。 習慣になっているというのは、無意識のルールになっているといってもいい。 レトルトのカレーを食べ続けて肝臓を壊したおとのねさんは再び大豆を中心にした生活にシフトしました。 対人的なルールもある。 「心」のあり方だ。 例えば「これこれこういう人に会ったらこうする」とか、「こういう状況ではこうする」といったもの。 「心」のルールの多くは自分を守るものだ。 「命」のルールは、自分がより自分として生きる、喜びを感じるものだろう。 命を大切にするルールを、僕らは顧みているだろうか。 「心」のすり減りを食い止めようとする、なんとか耐え忍ぶためだけにエネルギーを使っていないだろうか。 僕たちは「命」を大切にしているだろうか。 ーーー

ーー ダイゴが「習慣にすると楽だ」といっていた。 習慣になるまで、意識的に続けてみる。そうすると、「次」がある。 自分で決めた新しいルールを身につけていこう。 例えばかの有名なジョブズは着る服をルーチン化して、無意識にして、意識は創造的な仕事にまわした。 イチローはカレーを食べ続けていたらしい。 心のエネルギーは限られている。 選択肢を減らして、創造的になれる生き方を目指すには、「自分ルール」をつくることが大切だ。 僕の師匠であるアーティストのガクトもそういっていた。 今になって、なるほどとおもう。 例えば部屋を片付ける、いらないものを捨てる、というのも「自分ルール」をつくることになる。 情報を整理し、取捨選択し、「実行」することにエネルギーを注ぐ。 「ルール」とは行動の枠組みをつくるものだ。 ーー

ーー 数学で学ぶメタスキル も同じだったりする。 ただし数学ではルールは決まっている。 ルールを知って、習慣になるまで、考えなくてもできるようになるまで基本的な所作を身につける。 そうすると、次の新しい何かが入ってくる。 頭で理解しただけではだめだ。 無意識にできるようになるまで、鍛錬すること。繰り返すこと。 そうすると、次に進める。 もっと別のことを感じることができる。 数学には原理や公理があるように、「自分ルール」でも原理や公理をつくることができる。 それすらも変えられるのが、人間の凄みのようにおもう。 ルールを自分でつくるのだ。 (そうしてソクラテスは毒杯を飲み干した) ーー

ーーー 「自分ルール」を作り出すのは魂だ。命だ。 ある人はブラック企業、ブラック学校で、もしくはブラック家庭で「とりあえずやりすごす」心の仕組みをつくるかもしれない。 それも「自分ルール」だ。 「自分ルール」には2種類あるとおもう。 一つは「闇を歩く」ルール。 もう一つは「光を歩く」ルール。 我慢、忍耐、辛抱、ただただ心をすり減らす、弱らせていくルールを課している人もいる。 一方では心を開いて命が強くなるようなルールを課す人もいる。 (最近僕は、闇を歩くために強くなった自分というものは、社会的にはあまり認められないとおもうようになった。自分がしあわせにはならないと感じ始めた。もちろん、闇ルートを歩いて強くなった自分も、自分なのだが。光のルートを今、探っている) 「ルール」は「心」のあり方であり、「命」の燃やし方だ。 ー

ーー 多くの人は、僕も含めて、今まで使ってきた「ルール」に縛られている。 「こうすべき」「ああすべき」「こういうときはこうする」 けど、それが不思議に思われる、違和感を感じるときがある。 どうしようもなく堕落したとき。 体が悲鳴をあげるとき。 そういった瞬間に、「ルールを変える」ことを意識してやっていきたい。 「ルールを変える」のは、実は、5歳くらいになって僕らがだれでも遊びの中で経験することだ。 5歳のときに学んだこのメタスキル は一生使える。 ルールを作り、おもしろくなかったら、不都合があったら、どんどん変えていく。 「学校に行く」「宿題をする」「会社で働く」「みんなと仲良しする」 「命」のあり方を、「心」が支えいる。 批判的な精神とは、このようにまず自分に向けられるものであって、他者の悪口をいうものではない。 ということを忘れずにいたいものだ。 ーーー

ーー 無意識の自分ルールを「自動思考」と呼ぶことがある。 自分を相対化できない、客観視できない、ただ流されているだけ、振り返れない、感じられない。 仕事で、宿題で、「どうしようもない」状況で、「ルールに従う」ことで精一杯になっていないか。 そういう時もある。 だからこそ、「違和感」を感じた瞬間を大切にしたい。 「ルールを作り出す」ことこそが、僕には人間らしいようにおもえる。 「違和感」は「命」の叫びだ。 よくよく感じ取って、「命」を「心」で抱きしめてあげよう。 と、僕も自分に言い聞かせる。 「命」は「わたし」を超越している。 生きるとは、「心」で自分の「命」を大切にすることなのだとおもう。 命を大切にするルールを、作り続けていこう。 変え続けていこう。 「わたし」の「命」の本質がわかって、「心」を使うことほど、しあわせな生き方はないように、僕はおもう。 誰も「わたし」の「命」になど興味はない。 「わたし」が自分の「命」を大切にて燃やさなかったら、宇宙の片隅で鈍く光る「わたし」を見つけてくれる人が、一体どこにいるだろうか。 そうして多くの人が、「ブランド」「ラッピング」という「他人のルール」にこだわる。 ようにおもう。 僕にはそれが、不自然におもえるのだ。 ーーー

ーー 自分で作った砂の城を簡単に壊して笑っている子どものように、自分で一生懸命つくりだした「自分ルール」を笑いながら壊していく心を、子どもから学びたい。

『自我の育ちと探究活動』『幼児期ー子どもは世界をどうつかむか』

だいぶご無沙汰でございます。久しぶりに何かを書こうとおもう。 『幼児期ー子どもは世界をどうつかむか』この本は「ふつうのおかあさん」にはよくわからない専門用語が使われているにもかからわず、「しつけ」というものがどういうものか、本当に大切なことが書かれている。私たちがいつの間にか社会に慣れ親しみ、人間関係を気付く。大人になって、いや何かちがうんじゃないかということを感じたりするのも、この頃に作られた「慣れ親しみ方」があるからだろう。大人になってその慣れしたしんだ人との関わり方に疑問がでることがある。そうしたとき、子供の頃の感覚を思い出せるてだてが、よりよく、楽に、らしく、生きるために役立つような気がする。

自分で自分を励まさねばならぬ時に用いていることばの出自をたどる時、それはこれまでの生活のどこかで、親しい人がその子ことを込めて自分にかけてくれたことばであったことに気付くはずです。幼児期はとりわけそうした自己督励の原型が出来上がる時期です。しかもここでつけ加えておかねばならぬのは、自己督励となることばをかけてくれる他者、つまり自己への取り入れの対象となる他者は、誰であっても可能だというのでなく、自分と生活をともにし、経験を共有し、相互に理解し合っている「好きな人」であるという点です。子どもは好きな人のことばを自己のことばに取り入れてゆきまs.その人とよく交わした対話自体を、「ひとり対話」として自分の中でも交わすのです。「ボク、コワイナアー大丈夫、大丈夫、こわくないよ」というのが自己督励の中味です。。(『幼児期ー子どもは世界をどうつかむかー』p187)

『自我の育ちと探究活動』 いろんな事例を出しながら、自我の育ちがどんなものかということを話してくれる。自発性、創造性、大人の関わり方一つで、子どもは生き方の癖を身に着けていく。子どもはよく大人をみている。大人からよく学んでいる。

幼い子どもたちがものの奪い合いなどをはじめると、そばにいるおとなが「貸してっていいなさい」などいち早くことばでいわせることを求めることが多いのですが、私は、ことばが身体や行動からなれていくことを性急に求めすぎてはいけないとおもっています。経験を代行する機能をもつことばをいち早く得とくしてしまったために、もっとゆっくり、もっとじっくり自分の手や体でとらえてほしいことを素通りしてしまっている子供たちが、いま増えつつあることはとても悲しいことだと思います。(〈自我の育ちと探索活動p143〉)

 

いじめのない社会(学校)は存在しないか。『子どもの遊びは魔法の授業』

 

いじめっ子もいじめられっ子も、ある典型的な特徴を持っている傾向があることを研究者たちは発見してきた。たとえば、いじめられる子の大部分は、やりかえせずにいじめっ子の要求に屈し、泣いたり、防御の姿勢をとったりすることで、いじめを助長している。また、いじめられる子供は、過干渉や過保護な親に育てられた経歴を持っている可能性が強い。こうした育児行動は不安、自尊心の欠如、依存心などを助長し、いかにも傷つきやすい印象を周囲に与える子供を生み出す。いじめっ子は犠牲者の依存心や傷つきやすさをあてにしていることが多い。相手がやり返さないことを知っているのだ。だから、いじめっ子が自分のパワーを感じるのにもってこいなのだ。もちろん、いじめっ子も社交性に問題を持っている。彼らは愛情や温かさがほとんどない家庭の出である場合が多い。家族の者たちも、気持ちを分かち合うことができないと報告する。いじめっ子の親はときに質っ気が厳しく、子どもをよく罰する。最後に、いじめっ子は痛みや苦しみを引き起こすことを想像したときに、普通の子ほど不快感を覚えないことをしてきしておいたほうがいいだろう。(『子どもの遊びは魔法の授業』p.325)

養育者は子供の感情に気がつき、問いかけ、言葉をうながし、感情を整理するレッスンをしていくことで子供の社交性を育てることができる。言葉はなんのためにあるのか?テストでいい点をとるためではない。子どもが残酷な世の中を生きる「心の強さ」を育てるためにある。僕はそう信じている。否定的感情を言葉にせず、抑圧したり暴力に向かわせるようになったら、自分や他人を傷つけることになる。それはしあわせな、リッチな暮らしとはいえない。

いじめのない世界はつくれるかもしれない。多くの大人がよりリッチでありさえすれば。(リッチネスについては別の記事でたくさん書いています。検索してみてください^^)    

合理性と感覚以前の、感情と豊かさと、大人と子ども。

このあいだ、数学を一緒にやりながらいろいろと考えた。

三角関数にはいろんな変換がある。よくぞこれだけ見方を変えるな、というほど。それを一つ一つ、「いざ」というときに使えるだろうか?知ってはいる。ただ目の前に「問題」が出た時に、それが使える状態にあるかどうか。

左脳は合理的、言語的で右脳は音楽的、空間的だと言われる。『ことばでつまずく子どもたち』で竹下研三さんは、右脳のことを「空想的」といっていた。なるほど。ぼんやりと脳の中でいろんな変換、いわゆる公式を思い浮かべる、空想する、変形したり、元に戻ったり、いろいろなパターン、模様を作り出す。中学数学で問題になる図形なども右脳だ。ひねったり周り足し動かしたり、そういう働きは全て右脳だ。となると、

数学ができないのは、右脳が育っていないから?(いやいや、右脳と左脳のバランス)

外からの情報は大脳の「視床(辺縁系の一部)」「辺縁系」の順(内側から外側)で情報が回って行く。赤ちゃんもこの順序で成長していく。視床には内側膝状体というものがあり、これを経由して辺縁系に伝えられる。この交差点で、音声の信号は扁桃体という場所にも送られる。ここはうれしいとかかなしいという「情動・感情」を生み出す場所らしい。小さな子がお母さんの声を聞いて安心しながら、まずこの場所が育つ。(完全に完成するまで6、7年かかるという)大人になってくると、自分に必要がない音が辺縁系に行く前にカットしてしまう(聞こえないことにする)カクテルパーティー効果は、この部分で情報を取捨選択して生まれるという。辺縁系は他の動物にもみられるように、本能に関わる部分である。脳の中心部(人間の軸)に近いこの部分は「暮らし」「豊かさ」と関わる脳なのかもしれない。(パン屋のいい匂いを嗅ぐと、優しい気持ちになるのは、この部分の働きだ。)

で、情報は辺縁系のあとに「大脳皮質」「大脳新皮質(連合野も含む)」にもいく。この段階で左右が生まれる。そして音が「ことば」として意味を持つようになる。左右を結ぶのは「脳梁(のうりょう)」である。梁!

世の中にはたくさんの理不尽さがあり、残酷さがあり、嫌なことや戸惑いに出会うことが少なからずある。その時に、まず最初に扁桃体が反応する。「なんだ!いやだこんなの!」頭を抱えて泣き叫んでいる。次に前頭葉さんが登場する。「あー、大丈夫大丈夫。こういう時は、こうするんだよー」と笑いながら、落ち着いて、包み込んでくれる。そういう関係が、実は、子どもが大人とコミュニケーションしながら、学んでいってほしい、本当に大切なことなのだが。理不尽さと矛盾にあふれたこの世界を受け止める心を大切にしたい。「嫌なことだけどする」ことも、大切な何かを守るためには必要なのだと、伝えたい。大切でもないことならケラケラ笑いながら、「なかったこと」にしてもいい。大切なものを守りながら暮らしている人は、美しい。

そのために言葉、習慣、振る舞い、暮らしを選んでいくことが、子育ての、人間育ての要点です。

言葉の学びは心の学び

学校で悪い言葉を覚える子がいる。

言葉と一緒に、心も覚える。「このやろー!」「ばかやろー!」「なぐるぞ!」

実際、こういう言葉を小学生が使っている(らしい)。

何処で教わるかといえば、テレビかお父さん、お母さんから教わる。

教わらない言葉は使えないはずだからだ。

家族が喧嘩している時の汚い言葉も覚える。

 

聞いて覚える。とにかく使ってみる。そこで「そんな言葉使っちゃいけません!」といわれても、大人が使っているのだからどうしてダメなのか、小さい子はわからないかもしれない。家で喧嘩ばかり、学校で罵ってばかりの環境で暮らせば、「人ってそういうものなんだ」と思うのも当然だ。話をきちんと聞いてもらえなかった子は話を聞いてあげられない子になる。

中学校、高校までに心が自立できなかった子は(小学校も今、けっこうあぶない)、学校のやり方をそのまま身につける。「怒り」「命令」「干渉」「支配」これらが全て、子どもたちが親になった時に繰り返される。児童虐待の根っこは、学校教育にある(なんどもいうが、仕方がないのだ。私たちは自分の身を自分で守ろう)。

人の心は6歳には、自立できている。自立できる。人格をもっている。自立できていない状態で学校に行くことは子どもにとってキビシイ試練になるかもしれない。その子は、学校という場所で起こるいろいろな「残酷な世の中の出来事」に対処する準備ができているだろうか?自律的に、心を守っていけるだろうか?心が擦り切れた友達と一緒にいて、一緒に心が擦り切れてしまわないだろうか?学校の先生の支配に心が折れてしまわないだろうか?

いい友達、いい先生と出会うこと、何よりも、いい人と関わり合えることが、子供にとって一番だ。

親に殴られる子は、友達を殴る。友達に殴られた子どもは、どうして別の友達を殴るのだろうか?親が子どもを殴るのは、殴っても大丈夫だと判断するから殴る。友達を殴る子どもは、その子を殴っても大丈夫だと判断するからなぐる。その友達に殴られた子は、また別の「弱い子」を殴る。「強い子」になろう。「守れる子」になろう。誰かの怒りに触れたら、いったいどうやったら、自分を、大切な人を守れるだろうか?否定的な感情に向き合う、対処する、受け流す、吐き出す作法を大人から学びとろう。  

人間関係を布とボールに例える

久しく会っていない友だちと話をした。夢の中で彼をみたから電話したのだ。15年ぶりだ。 「おまえは変わっていないな」ということになった。 同じところをぐるぐるしていてあのころのままだ。それでもその行動力は俺にはないから見習いたい、だそうだ。 人間関係のことを話した。 そこで一つ思いついたことがある。 ここに2つのモノがある。なんでもいい。この2つのモノの関係を、位置関係で表したらどのくらいのパターンが生まれるだろうか。 それが3つになったら?そこに「場」が加わったら? 先生と生徒、弟子と師匠、親と子、社員と社長、あなたとわたし、道端で会った人とわたし。 それはもしかしたら、分子や原子が互いにつながったり、遠ざかったりする運動みたいに見えるかもしれない。 強い力のように硬く結びついたものもある。それすら崩壊する。 原子や分子は常に、動きを変えて、形を変えて、つながりをかえていく。 ファンデルワールス力のようにとても小さいけれど、表面が大きくなると働く力もある。 化学の世界で絶対的に「支配的な原子」などない。ただ「ほうそく」に従うだけだ。 お互いの条件が満たされている時、それらは反応する。 何かが上手く行っていなかったり。違和感を感じたら、視覚的に、感覚的に捉えてみるのもいいかもしれない。 目の前に相手の「ココロ」がある。それを例えば布にしよう。例えばボールにしよう。あなたはその「ココロ」とどう関わっているのか。 目の前に自分の「ココロ」がある。それをあなたは今、どうしているのか。 世界は円環だという。 おもうにそれはフラクタルだろう。 どんな入り方もできる。 ただその中で自分の場所を見つけて、回ること。 他のワと触れながら、回り、回し合うこと。 回らないとしたら、何か、違和感を感じるはずだ。 もしかしたら、油を塗ればいいかもしれない。 もしかしたら、モウヒトツかフタツ、歯車を付け足さないと行けないかもしれない。 歯車の場所が違っているのかもしれない。 求め、受け取る 捧げ、与える。 自分に何かを捧げ、与えるワタシ 誰かに何かを捧げ、与えるワタシ 自分に何かを求め、受け取るワタシ 誰かに何かを求め、受け取るワタシ きくこととはなすこと どれかひとつが円環から外れても、具合がわるいのかもわからない。 上手く回っていない歯車を、取り外してみること。 上手く回っていない歯車を、磨き直してみること。 回りすぎている歯車を、取り外してみること。 大きく回そうとせず、小さく回してみること。 私はそのようにして「変わっていきたい」「成長したい」とおもっている。 固定されたアイデンティティーというものではなく、変わり続ける世界に、関係に、やわらかく合わせていく。 「変えるって、大変なことだよ。苦しいよ」と最後に彼は言った。 苦しみが、尊いものに聞こえてしまう。 彼の視線が、声が、私を助けた。幸せ者だし、夢をみた自分に素直に従ってみた自分を、褒めてあげたい。 ありがたい。ありがたい。  

ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心

今僕の目の前には、韓国で買ってきた、掛け軸、水墨画の複製がある。 もちろんお土産屋でみつけた安物だ。 この年になって、やっと、ちゃんと、眺められるようになった。見られるようになった。 若い頃は、ただなんとなく、いいなとおもって、買ったものだ。 今になって、その絵を眺めながら、絵というのは、別の世界の扉のように思えてくる。 好きなアーティストの写真や音楽のジャケットなんかも、今ココにある日常の世界とは違う世界への入り口のようなものだ。 見ながらたくさんのことを「感じられる」。不思議と魅了される、心が出ていくような感覚。 同じ絵を一緒に眺めながら、ただ眺めながら、感じる時間を大切にしよう。ただその時間を過ごすことが、大切なのだ。 現実の、皆が承認している、確定している、どこかわかりきった世界とは別の、 不思議で、日常から離れた、何かが起きそうな、そういう世界。 絵を眺めるというのは、創造的な赤ちゃんの心になろうとする心の動きなのかもしれない。 だから人は絵を買う。ビートルズの古いLPのジャケットに惚れて買う。 ドキドキの入り口を買う。 ちゃんと「絵を見る」「見入る」のは、絵を買うこととは別の行為であり、心の動きだ。 絵の「リッチネス」を引き出すのは、人の心だ。絵を見てどきどきできる人は幸せだ。 曼荼羅、ドリームキャッチャー、五芒星、いろいろな入り口がある。 そっちの世界にいくための、リッチネスをつかむための心持ちというものがありそうだ。 昔の人は、神社にお参りにいくこと、祈ることがそうした非日常の世界につながる入り口だったろう。あの鳥居がまさしく。 昔の人が鳥居の前に立つときのような気持ちを、いまの僕らはいつどこで感じるのだろうか。 絵の前で。ビートルズの古いLPのジャケットの前で。 裏山で見つけた石を拾うこと、道を歩きながらみつけた風景を写真にとるのと同じように、絵を買おう。それがこの固くなった日常の時間を止める役に立つはずだ。 昔、多分、10年前、東京のギャラリーで「絵を買う人」について考えてから、長い時間がたった。 答えというものは、知らず知らずにやってくる。求めていても、追いかけても、得られないものだ。 インドネシアに行った時、ジョグジャでバチックを買わなかったことを後悔している。あれは、とても、心が惹かれる絵だったのだ。 帰りの飛行機代が心配で、買えなかったのだ。  

心は命を守る、無意識の仕組み『忘れる技術』岡野 憲一郎

『忘れる技術』岡野 憲一郎 忘れる技術 不安になったら振り向いて安心してまた探索を始めるとか、お母さんから安心をもらって内在化するといった言葉がよくわからなかった。 それは、意識しなく打てもキーボードが叩けるようになる、意識しなくても歩けるようになるのと同じように、記憶の中に、仕組みができるということだ、とわかった。(そんなことは書いてないが、それで説明できるからよし) 例えばキーボード。 「う」を打ちたい。 「う」ってどこだっけ? ああこれこれ、どの指で押そうか? 人差し指にしよう。 押す。 を、 「う」を打ちたい。押す。 に省略できる。 間の記憶は、もう意識せずに、体が覚えていてくれる。 例えばお母さんからの安心。 嫌なことがあった。 不安になつた。 お母さんに離してみた。 眼差しをくれる。聞いてくれる。言葉をかけてくれる。 大丈夫だと思える。 を、 嫌なことがあった。けど大丈夫だと思える。 に短縮すること。 手続きを、省略できること。 無意識の中で、シミュレートしてしまうこと? 意識しているときは新皮質、無意識に落とされた部分は辺縁系で処理されるという。 お守りは、辺縁系にあるわけだ。 脳の中に、記憶に、しかるべき居場所をつくること。 これが忘れるということらしい。 決して消えるわけではない。もしかしたら、深く、刻まれるといっていいかもしれない。 ただその記憶に(怒りや悲しみに)居場所が与えられるということ。 ====

==== 次の話題。 記憶には「頭の記憶」と「体の記憶」がある。 「体の記憶」は感情に関するもの。怖い、うれしい、ほがらか、悲しい、たのしい、そう感覚になるとき、身体はしらずと反応しています。動向が開いたり、汗がでたり、筋肉がほぐれたり、ひきつったり。 一方の「頭の記憶」はいつどこでなにが起こったか。どこになにがあったとか、どんな風景だったかとか、どんなことを話したとか、「体の記憶」にはならなかった記憶、情報だといえばわかりやすいでしょうか。 ちなみに「体の記憶」は扁桃核、「頭の記憶」は海馬で処理されるそうです。 扁桃体は好き嫌い、快不快を判断する場所ですね。 で、「体の記憶」と「頭の記憶」が一緒にならないで、どちらかになってしまうと、忘れられない記憶になってしまうという話。 え!!???? 忘れられない記憶は、扁桃核と海馬の強調が崩れたとき、だと書かれています。 え!!!!???? ーー

ーー 感動した出来事はよく記憶に残ります。(感情を伴って学ばないと、すぐ忘れる。暗記が不毛だという話) それは扁桃体が強く反応する出来事に対して、扁桃体が海馬に「ちょっとこれ、大切だから覚えておいてよ!」と信号を送るそうです。 が!!!!!! 扁桃体があまりに強く反応してしまう場合、 あまりにも感情が揺れ動いた場合、海馬は、止まってしまう。 らしいのです。 信号が強すぎて、神経回路が壊れてしまうイメージでしょうか。 最後にこの本では忘れる技術が11くらい書かれている。 怒りは殴ると治るとか。 水を浴びると治るとか。 薬を飲むとか。 思考停止術を使うとか。 相手について知るとか。 話すとか。 これはひとつ、いいなぁとおもったのは、 与える人生を歩むこと。 何かを欲するのではなく、与えてみること。 あともう一つ。

訴えなくても、指摘はするべき。 法雨的手段に訴えるほど深刻な状況でなくても、相手から被った被害や不当さをなんらかの形で告発したくなる場面は、日常にいくらでもあります。たとえば職場で、皆の前で上司は軽い気持ちでも、受ける側にとってはかなりつらいものです。もしそれが限度を超えて、我慢できないときは、それをはっきりと相手に指摘するのも一つの方法です。 例えば某右舷を吐かれたら、「私がいたらなかったことは申し訳なく思っていますが、今の言い方はひじょうに不適切だと思います。その気持ちだけはお伝えしておきます」というのです。たとえ言っても、何も具体的に変わらないかもしれません。 しかしそれをはっきり言ったということで、あなたの気持ちはかなりしずまるでしょうし、上司への恨み、憎しみが忘れられないという悶々とした状態からは脱出できます。

これをしたら、あとで仕返しをされるのではないか、という不安が先立つとおもう。 日本ではいじめなど日常の一部だし、上司部下の関係ははっきり言って暴力の関係で成り立っているようなもの。 日本なら、影で愚痴ることで解消する文化があるかもしれない。 それだけ日本の歴史は暴力で支配されてきたということだろう。 ーーー 経済行動学の何かの本で、「しっぺがえし作戦」が有効だという話がある。 要するに、最初は「協調」する。相手が「裏切」ったらこちらも「裏切」る相手が「協調」したら、こちらも「協調」するというもの。 舐められない、きちんと威嚇する。 そういう姿勢が、ゲームの中では、有効だという。 現実の世界は、、、、どうなのだろう。 先にやったもん勝ち、というのが、一つの答えとして返ってくる。 「仕返し」はチームワークに有効とは言えない 「フリーライダー」を更生させる戦略はある? これが競争(ビジネス)の原理である。 子育ての原理ではない。  

2種類の幸福ー人工的幸福と自然発生的幸福

The surprising science of happiness 高校の授業のゲストで、岩井伸太郎さんがきてくれた。 世界一周をした経験から瞑想、マインドフルネスを加賀市で実践している。 子どもたちが生き方を学ぶ、勉強も教える塾をやっているそうだ。 塾生が増えているということで、いやぁ、おとのねも見習いたい。 そんなかんだで、僕も「夏休み前だし!」とおもって、英語の授業で「しあわせ」についてみんなとなんかやろうとおもった。 そこで見つけたのが、このTEDの映像。 ーー

ーーー 幸福には2種類がある。 自然発生的幸福と、人工的幸福。 自然発生的幸福は、「欲しいものを手に入れる」時に得られるしあわせ。 人工的幸福は、「自分でつくりだす」しあわせ。 「え?不幸じゃないの?」と一見、思える状況でも「しあわせです」と言える人は、人工的幸福を作り出せる人だ。 僕はこういうとき、いつもDVの被害者の状況を重ねてしまう。 一見、はたからみると「それって幸せ?」とおもえることでも、「しあわせ」にしてしまう、脳の働きがある。 (この脳の働きを利用してみんなで幸せになろう!というのが、ブッダのオリジナルの仏教かもしれない) けど、この人工的幸福の価値は、世間では一般的ではないという。 みんな、「ほしい」未来に向かっている。 子どもたちに「こうなってほしい」未来に向かわせているお父さん、お母さんがいる。 今、この時に、この場所で、しあわせを感じられているだろうか。 「今ここ」でしあわせを感じるチカラも、大切にできているだろうか。 僕自身、よくよく思い返したい。。。。 ーーー

ーーー 自然発生的幸福とは、「得られるよろこび」である。 「こうなったらいいな。ああなったらいいな」とおもったものが、得られたとき、しあわせになる。 自由、選択、意志、といった近代的な価値観は、自然発生的幸福観の土壌になっているという。 マーケットの原理だ。 もし僧侶のように人々が「そのままでしあわせ」になったら、イオンも、ファボーレも成り立たない。 経済が動かない。行政に税金が入らない。だから「もうこれで、いい」ではなく、「もっと、もっと!」しあわせになれるように、行政も働きかける。 (よく、子どもの数が少なくなった、ヤバイ!日本の未来が!というが、それは「しくみ」を変えれば済む話で、別の「しあわせ」の形を探せばいいだけの話で、子どもを増やして昔のままの価値観を維持しようとすることが、また働き続けて昔のままの価値観を維持しようとすることが、果たして「政策」として本当に民意にあっていることか。そもそも「しくみ」の話を学校でも教わらないから、旧来の「しあわせ」に誘導されているとおもっていい。) ーーー

ーーーー オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。 自立する、という意味で。 けど実際、自由、選択、意志が及ばない「天の才」、「宿命」を受け入れることでたどり着ける境地があるとも思っている。 オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。 「世の中の思惑」から、自立する、という意味で。 「天の才」、「宿命」を受け入れるために。 自分らしく、命を尊ぶために。 要するに、使い方なのだ。 ーーーー

ーーーー 自然発生的幸福は、いってしまえば狩猟時代に「獲物が捕れた幸せ」に相当するだろう。 次の狩りへの動機付けにもなる。 これは大脳辺縁系、扁桃体とかそこらへんが絡んでいるしあわせのようにおもえる。(勉強したい) ある意味で、動物的なしあわせだ。 人工的幸福は、これは「つくられたしあわせ」であって、ファンタジーの世界だ そこにないものを、作り出す前頭葉(大脳新皮質の一部分)の働きだろう。(勉強したい) これは、人間的なしあわせである。 どれだけ、人工的に、しあわせをつくれるか。 人工的にしあわせをつくりだすための「インフラ」をつくるか。 これが人生の楽しみであり、ワクワクであるようにおもう。 ーーー

ーーーーー どこかに辿りつくまでの道すがら、しあわせを集めること。 「我慢我慢。この労働(課題)の果てに、しあわせになる!」といいながら、不確定な世界で、「得られなかった」時の幻滅、失望は計り知れないかもしれない(給料は必ずやってくるからまだいい。課題は最悪)。やってみるといい。そのあとで、しあわせへの道をさがしたらいい。僕も長い間「求めよ、さらば、与えられん」の道を歩いてきた。ある意味でそれも真実だが、「求めなければ、得られるもの」もある。 カスカネダが記述したインディアンの教えでは、これを「心ある道」と呼んでいる。 これは実は、道教のタオ(道)でもある。 入り口を探すまでもない、道。 僕は今、入り口を探しているような気がしている。 そんなものないのに笑 On the path to happiness, you will discover all that you want to be or do, or have. しあわせへの道すがら、あなたはあなたがなりたいあなた、あなたしたいこと、あなたがほしいこと、全てに出会えるだろう。 ーー

ーーー 完全個別指導の学習塾、少人数の《放課後の学校》のレッスン料は高い。 それは「求める」ことでしか得られないものだろう。 どこかで矛盾していることが、わかっているから、僕はいつも、困っている。 けど、家でなにがしかの節約をして、「しあわせ」のやりくりをすることで、払えない金額ではない、ともおもっている。 お母さんのハートワークを増やしたい、と願うオトノネさん。 そのためにお金を稼がないといけないと思うオトノネさん。 この心を大切にするために、やっぱり、お金が、必要なのです。 この心を大切にするために、やっぱり、個別、少人数にしたいのです。 わがままですか? 僕のわがままに付き合ってくれる方に、オトノネを応援してもらえたら、うれしいです。

 

心のお守り「大丈夫」。根拠も理由もない安心が役に立つ時『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

基礎水中爆破訓練(BUD/S)に合格する者とベルを鳴らして脱落 していく者の違いは何か? 驚いたことに、以前は海軍自体も把握しておらず、それが大きな問題 だった。九・一一の同時多発テロ以降、海軍は特殊部隊員を増員する必 要に迫られていた。だが隊員の質が落ちてしまっては目的が果たせな い。彼らは回答を探していた。どんな人材を採用すればいいのか? ま た、志願者が厳しい入隊訓練に合格しやすくなるように、どんな指導をしたらいいだろう? 

その結果思いついた策は、奇想天外なものだった。もしかしたら海軍は、屈強な若者を求めるかわりに保険の外交員を増やすほうが得策かも しれない、と。聞き間違いではない、保険の外交員だ。その理由は何 だったのか。 

海軍の調査で、グリットを持った人びとが逆境に耐える際に行っている(ときに無意識に)いくつかのことが明らかになった。そのなかに、 心理学的調査で何度も浮かびあがった一つの習性があった。 

それは「ポジティブな心のつぶやき」だった。もちろん、海軍シール ズは腕っぷしの強い者を求めていたが、そうした隊員になれる秘訣の一つは「小さな機関車リトルエンジン」のように、「だいじょうぶ、だい じょうぶ」と自分を励ますことだったのだ。 

人は毎分頭のなかで、三〇〇~一〇〇〇語もの言葉をつぶやいている という。そのなかにはポジティブな言葉(「きっとできる」)も、ネガ ティブな言葉(「ああ、もう我慢できない」)も含まれている。そして 前向きな言葉は、私たちの精神的な強さややり抜く力に大きなプラスの影響をもたらすことがわかった。このことは、その後に行われた陸軍に よる研究でも裏づけられている。 

そこで海軍は、BUD/S志願者に、自分に対してポジティブに語り かけるようにと、ほかの精神療法とあわせて指導した。その結果、訓練 の合格率が一〇%向上したという。 

もちろん、BUD/Sに合格するには肉体的苦痛に耐えなければなら ないが、脱落するかどうかを左右するのは精神的な要因だ。 で? それが保険の外交員とどうつながるかって? ちょっと考えて みてほしい。保険の勧誘を受けた相手はどんな反応をするだろうか。痛い目に遭うのはシールズ隊員だけではない。保険の外交員も日々くり返し拒絶されている。 

良い営業マンになる秘訣は、人と接するのが得意なこととか、外向的 なことだと思うかもしれないが、調査によると、決め手は楽観主義であ ること、その一点に絞られるという。研究者たちは、「楽観的傾向で上 位一〇%に入った外交員は、悲観的傾向で上位一〇%だった者より売り 上げが八八%多い」ことを発見した。

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