コドモの願い【命】

命は自分一人のためだけにあるのではない

万物とつながっていると感じるとき、あなたはまた万物に責任も感 じている。背を向けることはできない。あなたの運命は他者の運命と結びついている。世界を担うことを学ばねばならない。さもなけ ればあなたは世界に押し潰される。世界を愛せるだけ強く、しかも 世界の最悪の恐怖と同席できるだけ空虚にならねばならない。

アンドリュー・ボイド

情動に助けてもらう【前頭葉は優柔不断】

人生最大の選択?ー違和感を大切にする

「直感で!」「フィーリングで!」という時がありますね。「やっちゃえ!」とか「買っちゃえ!」という時もあります。

もうひとつ、きわめて「理性的な」決断を下す場面における情動の役割についても考えてみよ う。アイオワ大学医学部の神経科医アントニオ・ダマシオ博士は、前頭前野と扁桃核をつなぐ神 経回路に損傷をうけた患者たちがどのような障害を示すかを詳しく調査した。その結果、患者の 意思決定能力がひどく損われていることがわかった。しかし一方で、知能指数や認知能力はまったく損われていないこともわかった。患者たちは知能には何の問題もないのに、仕事や私生活に おいて破壊的な選択をし、人と会う約束を何時にするかというような単純な問題で延々と悩んで いた。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.54)

身に覚えがある人はいないでしょうか。知能を表すといわれるIQと情動への健康的な対処能力を表すEQは違う点はここにあります。

選択肢は少ない方が、楽。

ある店に行くと、ジャムが6個種類だけ置いてありました。別の店に行くと、ジャムが10種類以上置いてありました。棚の大きさは同じだとして、どちらの店の売り上げが多かったでしょうか?

行動経済学の答えによれば、選択肢の少ない方が、行動に移りやすい結果がでています。扁桃核という「象」があれこれと動き回る、前頭葉という「象使い」があれこれと考えて消耗するのを防ぐ心の動きが働いているのでしょう。2つのジャムのどちらを買うか、本当に合理的に、それこそ分析をしつくして買うとしたら?成分表、価格、新商品か、などなど考える項目はどれだけでも増えていきます。

こうした「判断」も経験的に覚えて行くもので、誰もが日常生活に支障を来さない「健康的な判断基準」をもっています。新皮質は「ああ、まぁいいんじゃない?」というのです。疲れるから。

選択する、その瞬間・・・情動のチカラ

ジャム理論、というものがあります。ストレスを減らすには選択肢を減らしたらいい、という考え方です。

何種類もあるジャムから一つを買うことができるのは、どうしてだろう?なぜ何時間もジャムの前で悩まずにすむのだろう。前頭葉だけでは動けない。ヒトは情動という「象」のチカラに頼ることで「のらり」と生きることができる。

ダマシオ博士は、理性的な判断を下すために感情は不可欠な要素である、と一種逆説的な主張をしている。感情によって私たちはまず大まかな方向性を与えられ、そ こではじめて論理的知力を発揮できる、というわけだ。この世はやっかいな問題(退職金の投資 方法は? 自分を幸せにしてくれる結婚相手は?)に満ちているが、経験から学習した情動の記 憶(投資でひどい失敗をしたこと、恋人とつらい別れをしたこと)が発する信号のおかげでまず 最初に大まかな取捨選択が可能になり、問題が整理できる。というわけで情動の脳は思考の脳と 同じくらい理性的判断にかかわっている、というのが博士の主張だ。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.54)

ビッグファイブ の「開放性」は前頭葉の働きと関わりが強いといいます。今までにない経験を「つなげる」クリエイティブな働きを支えるのも、情動のエネルギーなのでしょう。

恐れの気持ちが、「象」を縛りあげてしまっている人も、いるかもしれません。前頭葉にお父さんお母さんがいるとしたら、子どもらしさ、ありのままでいられる感覚、よろこびは扁桃核にいる。家族が脳の中で、幸せに、なってほしいものです。(新皮質がない生物は、子育てをしません)

野菜も、ならば人間も。

ファームオトノネで野菜がすくすく育っている。

 

ミニトマトの実がなっている。
まだ青くて小さいけれど・・・

畑をしている別の人の話では「うちでは実がなっていない」ということ。

そもそものトマトの種類が違うから(遺伝的に)「まだ」なのかもしれない。
日当たりとか土とか風とかいろんな要素(環境)のせいで「まだ」なのかもしれない。

トマトならアルカリに傾いた土がいいという話をスーパーサラリーマン山田さんから聞いた。
野菜によっても好ましい土とそうでない土がある。

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一つの土壌で「おれ育つの早いぜ!」というトマトもあれば、
「いやちょっと自分キツイな」というトマトもある。

トマトと思っていたら、実はジャガイモだったかもしれない。
「自分は」という問いかけをしてみる。

「実はにんじんでした!」ということにもなりかねない。

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今でも覚えているのが、利賀村で知り合ったおじいさんのトマト。
果実だった。
バリ島で「実のなる野菜はフルーツ」だと知った。

スーパーで売られている「トマトのふりをした何か」が自分の姿だとおもっていないか。

今生えている土で頑張るのも生き物。
次の世代で、別の土で頑張るのも生き物。

【インディアンの教え】ドリームタイム

夜、夜更かしをする。
ということが、よく思春期の子にはある。

大人でもよくある。

夜の時間は、ネイティブインディアンの言葉で「ドリームタイム」と呼ばれている。

神聖な時間。

不思議な時間。

神秘の時間。

つながる時間。

この時間に、現実の世界からちょっと離れて、
アニメを見る。

youtubeを見る。

そういう子どもたちは、まさに、「夢の時間」で、本当の気持ちを感じようとしているのかもしれない。

バリ島、夜、この時間まで儀式を続けていた。
夜の時間。

社会的にドリームタイムが、人の心のインフラとして整備されていた。

夜の時間が、何か大切なものを、教えてくれる。

子どものひとりひとりの「天の才」

小さい時はまだよくわからないかもしれない。

いつそれを感じられるかはわからないけれど。

その子を助けてくれる、その子のチカラになる、その子の生き方になる。
そういうチカラを子どもは育てている。守護霊、といってもいい。

「私は目標があればがっつりうごける」
「私はものごとを不思議におもうチカラがある」
「私には、超暗記能力がある(何かを不思議に感じるチカラはないが…)」とか。

それがいつわかるかわからない。
ただ受験受験、習い事習い事、勉強勉強、試験試験、課題課題でわからなくなることは多々ある。

だれかが「君にはこんなチカラがあるね」と言われなければわからないこともある。
自分で気がつくこともある。

高校生たちは社会に出ないと「自分の姿」がわかるようなきっかけがなかなかないのではないか。
学校の中で受ける先生たちの目線、お父さんお母さんの目線だけではみえないものもあるだろう。
慌ただしく暮らしていたら、自分の中にある芽に、気がつかないこともあるだろう。

お父さんお母さんが、そのチカラ(天の才)がでてきたときに、守ってあげるような環境をつくってあげてもいい。
それだけで、「自然に」伸びて行く。

youtubeをみて英語のチカラを勝手に伸ばすインドネシアの女の子。
「させる」以前に、開いた芽。
芽が開くように塾に「行かせる」、習い事を「させる」ことで、実際に開く芽もあるかもしれない。
それでストレスを受けて、開かれない世界の扉の前に呆然と立ちつくしている子どもがいるかもしれない。

不思議だ。

多くの人にとって、「大学」というものは「本当に自分と向き合えるような仲間と出会える」場所のようにおもう。
子供らしく、あそべる場所。本気で将来を考えられるばしょだとおもう。
ちゃんと遊べる仲間と出会える。
ちゃんと教えてくれる大人たちと出会える。
自分の種を大切にできる場所だとおもう。(もちろん、働いてもいい。働きながら、いろんな人と出会える)

そんな場所にいくまでの3年間、3年という時間を、どうか、心を守りながら、悠々と過ごしてほしいと僕はおもっている。

子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

ユング派の心理学者ジェームズ・ヒルマンは、著書『魂のコード 心のとびらをひらく』のなか で、人間の起源について、ドングリ説、なるものを唱えている。それによると、わたしたちはたん に遺伝的要素と環境と教育を組み合わせただけのものではない。ひとりひとりが独自の運命を持ち、 その運命を背負ってこの世に生まれてくる。「人間はそれぞれ独特であり、独特な生きかたをして いるが、その独特さは生まれる前からすでに定められている」この生来の独特さは生来の完全さで あり、ヒルマンによればそれを回想し、それを生きることがわたしたちの定めなのだ。 (『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.248)

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子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

託児所で学んだこと。

10ヶ月の子。

離乳食を口の中にスプーンで入れてもらった後に、指を口の中に入れる癖がある。
そこで保育士の先生。

指を口の中に入れる癖はよろしくない、それは癖になる。
ということで、「大丈夫、(食べ物はちゃんと)口の中に入っている(から指をいれなくてもいい)よ」と言って口に入れた指を手でどかす。
けどそれが何回も続くので、口に入れるスプーンをもっていく場所が悪いのか、という仮説を建てたその先生は、場所を変えて食べ物をあげて見た。
それでも、やっぱり指を入れる。ん?となって、また次の時に、どうして指を入れたがるのか、その先生は解明できるだろうか。

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子どもは小さい時、「泣いて勝とうとする」という。

泣いたら、何かしてもらえる、という癖をそのまま、2歳までもっていくと、いわゆる「魔の2歳」と呼ばれるのではないかと僕はおもっている。
泣くという行為(泣いたらなんとかしてくれる!)が、逃げ回ったり、手を出したりする行動(暴れたらなんとかしてくれる!)になるのではないか。

今度先生に聞いてみよう。。。

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小さい頃から濃い味に慣れてしまった子どもは、薄い味を食べられなくなる。
今時の小学生の給食で好まれるのは「ラーメンと唐揚げ」だという。仕事帰りのお父さんとおなじメニューじゃん。
いやいや、伝家の宝刀、カレーはもちろん。人気だそうです。(最近出会った栄養士さんの話)

どんな食生活をしているのか。
癖はなかなかなおらない。
いや、いつでも直せる。

直すための環境が揃えば。
自我が発達していれば。
自分で「あれ?」とおもうか、環境がそうさせるか。

だから離乳食のときに、食べ物を噛んで味わえるようになった時に、いろんな味を、歯ごたえを経験させることが大切だと、先生は言っていた。
その後、好き嫌いがでてきても、大人になってから、必ず、その味に、食材に、出会えるきっかけがある、とのことだ。

学校でも、いろんな先生に出会うだろう。
嫌いな食材を食べさせられることでまいってしまう子もいる。
今は、その子には、その食べ物は、人間関係は無理なのだ。

そんな人間関係を無理やり続けていたら、「無理な人間関係を続ける」癖ができるかもしれない。
家庭内暴力を受けてもDVだとおもわなくなるかもしれない。
ブラックな企業でも頑張って勤めるかもしれない(命を燃やすに値するブラック企業ならまだしも)

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「泣いて勝つ」というコミュニケーションの作戦を子どもはとろうとする。
乳児期に、離乳食の前までにそれを覚え、使い続けようとする。
けどいつまでもそれじゃダメだと、「教える」ことは大切だろう。

種を蒔こう。

「待たせる」こともあっていい。
ぜひ、待ってもらおう。
待って入ればちゃんと助けてもらえる、眼差しをくれる、暖かさをくれることを「教えて」あげよう。
待つことは、大切なメタスキルだ。発達の課題だ。

種を蒔こう。

待つという経験を、赤ちゃんの時からさせてみよう。
大丈夫だ、待たせても、死なないから。

たぶんそういうことなんじゃないか。

頭だけで考えてみれば、人見知りをするくらいになったら、十分、待たせてもいい気がする。
またはいはいができるようになったら、十分待たせてもいい気がする。

「魔の2歳児」が本当にあるかどうかわからないが(今度先生に聞いてみよう)、関わり方一つで、「教える」ことを意図することで、子どもは順序よく、無理なく発達していく。子どもという一つの宇宙が育っていくための、子どもというひとつの自然がシステムを作り出すための、必要な種を渡していく。そんなイメージだろうか。

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種を蒔いていく、蒔かれた種を育てていくはずの学校で、子どもの大地が、子どもの泉が、子どもの森がまるで「公害」のように汚染され、傷つけられていくことがある。もしくは、全く種がお世話されないか。子どもは泣くだろうか。暴れるだろうか。「学校に行きたくない」というだろうか。お父さんお母さんが子どものメッセージを受け取って、守ってあげたらどうなるだろう。習い事も同じ。「よかれ」とおもってやることが、子どもの自然をどんどん剥ぎ取ってしまっていないか。

とある英語教室を見学したときのこと。
小学3年生くらいだろうか。
お母さんが迎えに来るのを待っていた。
僕と遊んでいた。
お母さんがきた。
お母さんが来ないごっこをはじめた。
帰ったら、宿題を「やらなくちゃ」いけないらしい。

大好きなおかあさん、学校の成績じゃなくて、不確かな未来ではなくて、今目の前にいる子どもの心をみてあげていますか?

昔だったら、「おしん」の時代なら、小学生といえば、もう立派に仕事をして、働ける年齢。
大人が水をやり過ぎたり、日光を当て過ぎたりして種をダメにしてしまっていないか。
(そんなこといったら何をしていいかわからなくなってお母さんは不安になってしまうかもしれないが)

けど今の小学生は、、、学校以外に行き場がない子が多い。
学校は、この意味で、牢獄だ。
もっと子どもが子どもらしく、自然でいられる場所がたくさんできたらいいなぁ。

子どものための社会資源が足りない気がする。
子どもの自然を守り、小学校に上がる前に蒔かれた種が育つための環境が、整っていない。
そんな気がする。

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最近、安い納豆についているタレを使わずに、家にある醤油をかけて食べたら。
納豆がすっぱかった。
納豆の味は納豆のタレの味だったわけだ(それからちょっと高い「ちゃんとした」納豆を食べることにした)

安いものはいくらでも出回っている。
オトノネは、やっぱりちょっと高くていいとおもうがいかがだろうか。

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蒔かれ、育った命は燃える。
燃える命は、周りにある命を燃やす。
自然の中にある命は、お互いに照らしあい、燃やしあっている。

一方的に栄養を与え、培養し、育てる工場のような教育はオトノネがすることではない。
自然の中で、お互いに、共に育っていくイメージを、僕はもっている。僕は子どもからたくさん教えてもらっている。

体の大きさは違っていても、子どもには子どもの気持ちがあり、心があり、同じ人間であり、僕らの老後をたのしくしてくれる、頼もしい仲間なのだ。
生まれた時から持っている「天から与えられた才」という種がどんな花を咲かせるのか、どんな「自然」を作っていくのか、僕はたのしみでしようがない。

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朝顔、、いや、なんだっけ、あ、えっと、紫陽花!あじさい!

みんな遺伝子は同じだけど、土によって、環境によって、咲く花の色が違うという情報をいただきました。
そんな感じ。

『残酷すぎる成功法則』という本にも、書いてあることだ。
その子がタンポポか、ユリか。
育てることで、育て方を変えることで、花咲く種もある。
残酷すぎる成功法則

見事に花を咲かせたクシュラの話も読んで見てください。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)

「内向的な人が秘めている力」

Facebookを徘徊しながらこんな記事を見つける。

ふむ。

TEDって、価値の多様性、言葉のチカラを教えてくれる。

オトノネがやろうとしている児童発達支援、放課後学童保育も、「埋もれている内向性」、学校の中で、社会の中で興奮してしまった心を落ち着ける場所になるのではないかとおもっている。

人との出会いで、結びつきで、意味が生まれる。
まるで、真空中を飛び回るとある原子が、何かの原子と出会うように。

関連した記事も是非お読みください^^
ワーキングメモリ容量の個人差があまりにも大きすぎる件。
人はどこまで遺伝に左右されるか。
「内向的な人が秘めている力」
遅れは取り戻せるのか?発達の可逆性について。
子供のポテンシャルエネルギーを感じる

敬意を表する

人間ひとりの全体があるとして、たいていその一部しか、表に現れてこない。
ある人と会っている時の私と、別の人と会っているときの私は同じ私でも違う。

だから私が知っているあの人以外の、私の知らないあの人もいるということだ。
だから私は見えない部分に敬意を払いたい。

本人も気づかず、だれも気がついてもらっていないものにも敬意を払いたい。
まだ育っていないもの、これから出てこようとする力がある。

私は私の一部を、よくどこかに忘れてきてしまう。

人の奥深さ、わからなさに苛立ちを覚えたり、なんとかしようともがき疲れてきた。
まず手を合わせて祈り、そうして何かひとつ、小さなことをしてみよう。本当に何にもならない、小さなことでも。
行う行為の大きさよりも、小さな行為の後で、ちゃんとその反応をみること。

敬意を表するとは
ちゃんとみることなのだと、生まれて初めて今日おもった

夢見る時間を大切にする。

日常の動作がはじまってしまえば、消えてしまう。
きっと大切なものを見せてくれている。
けど、日常の中で、すぐに消えてしまう大切な時間がある。

記憶に残そうとしても、意識しようとしても、残らない。。。。

「夢見ている」状態でペンを握って、記録しよう、という考えが浮かんでも、夢見ている状態で、手を動かすことができない。
(自動書記ができる人がいるらしいが、僕にはまだ、まだ!できない)

いろんなものが詰まっている僕の頭が、話しかけてくる断片的な物語。
つじつまがない、子どものおしゃべりのような、物語。

意味がよくわからない話でも、子どもにとっては、何かしらの心の働きがあって、言葉になってでてきているものだ。
そうおもうと、子どもの「今日ね!◯◯ちゃんがね!」という話ひとつが、愛おしく感じられる。

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インディアンの人たちは伝統的に、黄昏の時間、夜の時間をdream timeと呼んで、特別な時間にしている。
夢を見ているような状態をdreamingという。

心を大事にしたいなら、眠りを、休息を、そして仲間を大事にしないとなぁ。
やっぱり、《放課後の学校》は無料にするか。

学習塾で、お金稼ぐ?
オトノネさんの単価は、どんどん低くなります。
そのうち空気みたいに、無料で、大切なものになるのでしょうか。

それでも、いい生き方だと、思えてしまうくらい、僕は今空気に憧れています。

そうしたファンタジーを大切にして、現実の壁を乗り越えて、プロセスを進めていこう。
というわけで、無料でいいですね?

1万6千円とか、普通の値段にするのは、いやです。
それよりも、無料にして、何が起こるか、みてみたい。

そっちのドキドキの方が、僕にとっては大切な事のように思える。

あれ?またコンビニのバイト始めないとムリじゃない?笑

誰か、影分身の術を教えてください。

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夢にいろいろ、教えてもらおう。

意識の世界ができることなんて、ほんとうに、小さなことなんだ。
それは不可解かもしれない。偶然かもしれない。
そんなものが今の僕をつくってきた。

だから、寝ます笑

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ファウストは、いろいろなことを知っていました。
ですが、大切なことがわからず、メフィストフェレスという悪魔と手を組むことになりました。

悪魔はファウストに、夢を見させたのです。

悪魔という名前でなかったとしたら、メフィストフェレスは、立派に、ファウストの「止まってしまった」思考、もう意識の世界では動かすことのできないプロセスを、動かしたのでした。そのように解釈することができる。

悪魔の名前を、感情知性と言うこともできる。

だから、寝ます笑

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僕が最後に、死ぬまでに曲をつけたいという戯曲が、実は、ファウストだったりするのです。
友達だもん。

すごく普遍性がある物語。
今の高校生たちにも、見てほしいな。
高校生バージョン、つくるよ笑

そういう芸術家としての僕を、まだ日本でちゃんと見てあげれていない、気がしている。
いつも、いつも、後回しになっちゃうね。ごめんねー。

夢で会えるかな

 

【しつけって何?】子どもには願いがある。大人の願いは何?

子どもの願いとおとなの願い

大人の願いとは?

「お守り」のことです。

 

大人の願いは、「しつけ」に限りません。

 

「特別支援教室に行ったら、将来、お嫁にいけなくなる」と相談にきたお母さんがいました。

将来の心配をしている、優しいお母さんであると同時に、目の前の子どもが何を求めているのか、何を感じているのかを理解できずに困っているお母さんでした。

子どもの将来を心配して「ラッピング」をして弱っていく「命」があります。

 

「願い」のズレ

「命」が望んでいることに気づかずにいれば、袋詰めにされて呼吸ができなくなった野菜のように、その子の「心」も弱っていくでしょう。

 

生後一○か月ころから生まれた「生活の主人公になりたい心」は、ますますその願いを強いものにしていくことでしょう。自分の手で食べたい願いにとどまらず、パンツも自分 で履こうとするし、エプロンも自分で被ろうとするし、お片づけにも自分で挑戦しようと するでしょう。手伝われるのがいやで、何でも自分でしないと気がすまなくなるのです。

この時期、子どもはなんでこんなに、自分ですることにこだわるのでしょうか。そしてこの時期は、子どもだけではなく、おとなも、子どもの身辺自立にこだわる時期でしょう。衣服の着脱も、排泄も、そして食事のマナーも、少しでも早く身につけてほしいし、実際一歳児はそれが可能な発達段階なのです。でもちょっとおかあさんが、急ぎすぎていないかなと感じる「しつけ」の姿を見ることがあります。たとえば、あるおかあさんは子どもがせっかく靴の片方を履いたのに、「もう一つも履かないとダメよ」とすぐ言ってしまいます。せっかくたくさんのおもちゃを片づけたのに、「ぜんぶ片づけなければダメ」とすぐ言ってしまいます。おとなは子どもの将来のことを思って、少しでも早く身につけてほしいと願っているのです。では、子どもも自分の将来のことを考えているのでしょうか。そんなことありません。

このおとなと子どもの「ずれ」に、育児や保育・教育の本質がよくあらわれています。 おとなの子どもへの願いと、子ども自身の願いは、必ずしも一致するわけではないのです。子どもの意図(願い)とお となの意図(願い)のあい だにある「ずれ」。そこがたいせつです。最近は、保育や教育において、子どもの心に寄り添うことのたいせつさが強調されています。しかし、けっして、何でも子どもの願いをかなえてあげるような寄り添い方をすることが、よいのではないでしょう。

おとなが子どもの将来を見通して、その将来に責任をもち、人生と歴史の先輩として、子どもを方向づけ、導いていくのは当然のことです。しかし、その導き方が、子どもにも自分なりの願いがあるのだということを知り、その願いとおとなの願いをうまくより合わそうとする、ふところの広いものでなくてはならないと思います。そのより合わせ方を考えるために、そして、子どもにもより合わせる力をはぐくむために、この一歳代はとてもたいせつな発達段階ではないでしょう か。ともかく、子どもの願いのなかに入ってみましょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.82)

 

子どもは自立して、自己調整を試みている

あるいは、「給食が終わったら、お馬さん(木馬)に乗るんだ」というように、みんなでいっしょにがんばった後に、自分の見通しで世界をつくろうとするでしょう。もちろん一歳代は、「みんなでごちそうさましなくちゃだめ」ということがたいせつな時期ではなく、見通しの主人公になって生活をきりひらくことが、たいせつな時期なのです。その子どもなりの見通しできりひらいた時間や空間は、子どもが主人公になれる楽しい遊びの場です。そこでは、ままごと道具で生活を再現しようとしたり、大型遊具に挑戦しようとしたり、子どもなりの生活のイメージや得意な遊びの広がりを垣間見ることができるでしょう。

そして、みんなといっしょにがんばったから、今度はゆっくり一人で楽しいことをしたいというように、自分なりの見通しをもって、生活のメリハリをつけようとします。そこには、緊張と弛緩とでも表現するべき、心のバランスを無意識にとろうとする姿があります。つまり、先生の願いが強く支配している場面でがんばったら、今度はその緊張を自分の願いで解放したいというような、子どもなりに自分を安息させる生活の流れが、自然につくられていくのです。そこでは、子どもは時間の主人公になっています。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.88)

 

「命」に責任を持つ

 

闇を歩くことに親しくなるか、光を歩くことに親しむか。
「命」を大切にできているのか。
(「命」は暗黙の次元に属するもの、スピノザのコナトゥス)
【暗黙の次元って何?】安冨歩さんの『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』のメモ

僕は多くの時間を闇の中で過ごした。
韓国で作曲をするときに「悲劇専門」と自分で気がついたほどだ。
作曲した曲は「僕自身」の心の表れ、台本を読んだ時の「世界の解釈」である。
劇場の中であれば僕の音楽は人を感動させられるけど、、劇場を出た後の僕はちょっと「生きにくい」感じだ。

日本ではそれを痛烈に感じる。

「日本で生きる」ことは僕にとって大きな課題だ。

今はとりあえず、「遊ぶ」ことに時間をかけて、いろいろ感じてみるつもりでいる。
オトノネのブログは多くの「闇」(学校という魔界、社会の負の側面)にフォーカスしてきた。
そんな昔の自分を、懐かしく感じるように。(けどその記事がたくさん読まれていたりするから不思議だ)

尾崎豊は自殺だか他殺だかわからないが、死んだ。
「闇」の世界を表現しすぎて、もしくは「観客から要求されすぎて」、そうではない「光の中の自分」を感じることができなかったのだろうか。

そんなことを、感じた。

味噌汁が美味しい。
梅のシロップが美味しい。
そうした身近な喜びで、今、体を慣らしているところだ。

他人は関係ない。
自分の「命」に自分が責任を持つ。
オトノネの「積極的自己責任」とは「自分の命に自分が責任を持つ」という当たり前のことを表現している。
(日本では「責任を負わずに回避する」文化がある。日本では「責任」という言葉が呪いとして使用される)
責任という言葉について

今まで閉じ込めてきた自分を、出してあげなきゃ、、、一緒に遊ぼう。

自他を含めた人を破壊する快楽追求ではなく、自他を含めた人を幸せにするような快楽を追求する「心」をつくれたら。とおもう。

 オプティミズムとは、世界を善悪こみであるがまま受け入れ、なおかつ、そこに潜むネガティブなものに屈しないこと。(この定義には感動した)


自分の気質、生き方にあった「オプティミズム」を作り上げることが、「心」を守るということなんだろう。

もし「しあわせになってほしい」と親が子供にねがうなら、何よりも「オプティミズム」を育てよう。
そのためには「遺伝」を理解しないといけないし、その子を「観察」しないといけない。

それはお金をかけて手に入れる「教育」ではなく、親自身が、そしてその周りのありふれた日常的な環境が相互作用して作り出すものだ。

「学歴」などよりも、なによりも優先されるべきことだ。

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生徒が教えてくれた。

お笑い芸人がボカロ曲を作っているという。

前向きな人、なんでも自分を表現する人、何か一つ、そして次、そうして自分を広げるサニーブレインというものが本当にあるんだなぁとおもう。

新しい働き方。役割に縛られた自分の一部だけでなくもっと広い自分を世の中で認めてもらえる働き方、生き方が、まぶしく見える。遊んでいる。

「安定した職」だとか「進路」とか選んでいるうちはまだまだだ。「命」の衝動に従っていけばいい。「心」が病んでいたら、その衝動は破壊的になるけれど。

だからやっぱり、「心」が大事。

遊ぶ神

 

ディオニソスとアポロンの二つの神がいる。
無秩序と、秩序、と言われている。

ディオニソスを遊びの神、と言い換えたら、とっても大切な神様じゃないか!!

バリ島では、ヒンズー教のシヴァがあちこちにいるのを見た。
シヴァは「破壊と創造」の神。遊びの達人だ。

日本に「遊ぶ神」はいるだろうか。
勝手気儘なスサノオだろうか。
母子分離ができなかったこの神に、「遊び」の姿を見出すことは、僕にはできない。(「遊ぶ神」がいるのかな?)

日本で「遊び」はどこにあるんだろうか?
それは「祭り」にある。
「神」にはない。

そこのところが、日本の「宗教心のなさ」につながるのかもしれない。(中国も韓国も「儒教」であって、神はいない気がするのだ)

神という「象徴」を作り上げる。
それはオトノネでいう「お守り」なのだ。
お守り

あーそーぼっ!

 

体は忘れない。体はあなたの気づきを待っている。


『The Key Muscles of Yoga: Your Guide to Functional Anatomy in Yoga』

体はしみついた癖をなかなか手放せない。声の研究をしていたとき、「Right to speak」という本を読んだ。その時に「人はほとんどが、神経に染み付いた緊張、こわばりのせいでその人の本当の声を出せずにいる。」と書いてあった。声だけではない。こわばった筋肉は肩こりになる。腹痛、頭痛は「違和感」からあなたへのメッセージだ。声は?人は気が付きにくい。表情、反応、いろいろな心が声の中にでてくる。姿勢の中に現れていると私はおもっている。

肩が凝った、というのでマッサージしてもらおう。けど肩がこる習慣がそのまま残ると、また肩がこる。けどマッサージを受けると、緊張がほぐれた体が一時的に「まだほぐれていたころ」を思い出す。すると心も落ち着く。気持ちが良くなる。こうしたふとした、ときほぐれたときにこそ、「ちゃんと自分の中にあるものを感じる、素直に、感情をだす」話すことをしてみたいとおもえる。夜、オフロに入った後、本当にぼーっうっと、「今、私は何をみて、何を感じてる?私は、なにか、言っている?」と。違和感があれば、感じておいたほうがいい。もしかしたら、ただの違和感が、モンスターになってあなたを病気にしたり、暴力的な人間にしてしまうかもしれない。

歌を歌おう。音楽をやろう。声を自由に使おう。表情を、そのままの姿を出せる場所、時間がある人は、幸せだ。そういう場所、時間は、とても大切なもので、守るに値すると私は感じる。

 

ちゃんと感じるための作法ーメッセージを受け取る

久しぶりに、小学生以来に、お絵かき教室の先生にあってきた。展覧会をしている公園のカフェにいく。絵は、見る場所で変わる。見方とはそんなものだ。近くでみるよりも、遠くで見た時のほうが、なにかこう、生き生きとしている。力が伝わる。感じるためには、それなりの体の状態、心の状態になることが大切。展示会の挨拶にこんなことが書かれていた。「ほぼ毎日、感動する場所で書く私、感動する自分でありたい」と。フシギだなと思えること、感じること、違和感はよくわからず曖昧なママ忘れられてしまうことが私には多い。夢のように。けど私が感じたことなのだ。頭をぐるぐる回す生活に慣れてしまったオトナには、感じたことをちゃんと感じるための「型」があってもいいのかもしれない。それが音楽であったり、お絵かきであったり、おしゃべりなのだろう。感じていることをちゃんと感じる時間を、私は大切にしてこれただろうか。

忙しい日常の世界、驚きや感動、発見を見て見ぬふりせず、コドモのように、時間をかけて、関わりあおう。と私はおもう。じゃないと自分の心の動きも、姿にも、気がつけなくなってしまう!

ブッダの気づきー「命」の健康さとは何か

あなたの脳は変えられる 「やめられない! 」の神経ループから抜け出す方法

興味深いことに、ブッダ自身、この耽溺と中毒のプロセスを残らず経験していた。 「私はかつて、この世の喜悦を求めた。この世で見つけたあらゆる喜悦である。この世の喜 悦がどこまで広がるか、私は知恵をもって明確に見定めた」

歴史上の人物としてのブッダは、ある国の王子として生まれた。伝承によれば、母親が彼 を身ごもったとき、多くの聖者が王宮に集まり、この子は長じて強大な君主となるか、ある いは偉大な霊的指導者となるだろうと予言した。この予言を聞いた父王は、息子が前者の道 を歩むよう手を尽くして彼を育てた。息子を「あらゆる困難と苦悩から遠ざけ、霊的な運命 が呼び覚まされないように」と考えたのである。王は若い王子を、あらゆる欲望に溺れさせ、 贅沢漬けにして堕落させた。

皮肉なことに、この一見理に適った方法が反動を呼んだ。ブッダは喜悦を味わい尽くすと、 それが永続的な満足をもたらさないことに気づいたのである。それは、さらなる欲望を生む だけであった。終わりのないこのサイクルについて深く考察したブッダは悟りを開き、この プロセスがどのように働き、そしてどうすればそこから抜け出せるかを理解した。 「比丘たちよ、私が本当の有り様を直に知らず、この世の喜悦を喜悦として知らなかったか ぎりにおいて、私はこのうえない完全な悟りに目覚めたと主張したことはなかった。しかし、 私がそのすべてを直に知ったとき、私は目覚めたと主張した。『私の心の解放は揺るがない』 という知と洞察が私の中に生じた」

これはつまり、自分が自分の行為から実際に得ているものについて、どの行為が幸福につ ながり、どの行為がストレスと苦悩をもたらしているかを明確に見て取ったときに初めて、そ れをどう変えられるかを理解できたということだ。ストレス・コンパスの読み方を知ったわ けである。(『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.226)

違和感と付き合うために

コドモが学ぶのはなんだろう。勉強、勉強以前に、暮らしながら、オトナに囲まれながら、コドモ同士で学ぶこと。
生きるうえで大切なことは、自分に責任をもつことだとおもう。自分のしたこと、考えたこと、思っていること、感じていることに、自分がどう反応するか、他人はそれで何をおもうか。人は誰かに迷惑をかけながら生きている。それでも自分に責任をもって生きるとは、不器用な人にはムズカシイ。私がそうだ。

私達は暮らしの中でいろいろな「違和感」に出くわす。私がよく感じる「違和感」は「それ、ちがうんじゃない?」ということだ。例えば「オトナ都合の保育・教育」といったこと。その気持に、オモイに自分がどう反応したらいいか。保育園に見学に行くたびに、実践を目の当たりにして、私がついついオトナ都合の、自分都合でコドモと関わりがちだ、反応しがちだと気がついて恥ずかしくなる。私はわたし自身に、ちゃんと向き合っているだろうか。私自身を焦らせたり、説き伏せたりしていないだろうか。向き合っているだろうか。

「誰かのために生きる」と言っても、結局は「自分のため」になる言葉のあやふやさ。この世界は人間にとって、合理的な、合意された世界に暮らしている私達にとって常に矛盾を、汚さを、割り切れなさを含んでいる。曖昧だ。だからはっきりと世界で怒っていることを、ちゃんとみることでしか其の曖昧さの中を生きることはムズカシイだろう。不安になってしまう。選択肢にあふれているこの世界で、自分はどう生きたらいい?

かつて韓国で作曲をしているとき、私はたまに俳優の役を振られたのだが、演技が下手だと他の人に役をとられてしまう。とられるというより、私に役は回ってこない。私はいなくてもいい、他の人がいる、ただソレだけのことが悲しかった。劇団は厳しかった。心が落ち着かないとき、よく私は「利用されているんだ」と思ってしまった。自分がその劇団にいて、自分の役を、自分の守るべき私の責任を果たすことに心が向いていなかったのだ。他の誰かが舞台に立って俳優をすることに一生懸命になっているように、私は私の仕事、音楽の役を果たせばよかった。あれやこれやと自分をひろげて、本当に見てほしい私の姿を自分でも見過ごしていた。あれこれと、「分」を超えて暮らしていた。よく私は「分」を超える。他の人の領域、他の人が大切にしているものを行為によって、簡単に傷つけてしまっていた。

作曲、音響という私の役割と真っ当して、守る。私は私に対して、その役を守る責任がある。ここからがムズカシイ。私が私の責任を真っ当するには、他の人とかかわらなくてはいけない。理解不能な、他者との関わり。人に認めてもらうこと。技術はもちろんだが、一人で舞台をつくるのではない。みんなで舞台をつくる。責任を果たすために「違和感」を持ち続ける。「いやそれちがうんじゃない?」とおもうことでも、自分の本意を果たすために、自分の音楽を認めてもらうために、使ってもらうために、話しをしたり、食事を食べたり。相手に合わせて暮らすことも「必要」だ。「この人とは価値観が違う」からといって、遠ざけては目的が果たせないことがほとんどだ。「目的のために手段を選ぶ」という言葉を聞いたのは高校生の時だった。今やっとその感覚がわかったようにおもえる。「わたしはこうだ」ということを曲げる必要はない。隠す必要もない。ただ、他の人も「わたしはこうだ」ということを曲げないし、態度や行動にでるものだ。たくさんの「わたし」の中で立ち振る舞わなくてはいけない。

ソレを葛藤といってもいいのだろうか。葛藤の中で、誰かを説き伏せたり、合理的になったり、誰かを支配しようとする癖を、私は学んできた。私の中の私を説き伏せたり、抑え込んで支配してきた。自分に対する関係が、他人に対する関係になる。
だから私はいつもオトナとケンカをしてきた。大切なものを守れず、責任も果たせなかった。どうしたら私は成長できるだろう?幸いにも私には「あなたは間違っている」と言ってくれた人がいた。幼児教育・保育に私の目を向かせてくれた人だ。私はこの道を信じている。この道のほうが、いいと感じているからだ。

「なにかちがう」「いやだ」「そうじゃない」と感じるときに、はっきりと自分の気持を見てみよう。正しいとか間違っているではなくて、自分の姿が、どんなに幼くても、どんなに見にくくても、揺れ動いている自分の心を感じられる人は、幸せだとおもう。「ちゃんと感じる」「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」ということが実は、私達現代人には不慣れなもので、困っているのだが。コドモのときに学べる一番大切なことだとおもう。目的、責任を自分に対して果たすために、自分の気持ちを守るために、大切な人を守るために、付き合わなくてはならない「違和感」を感じたとき、それを学ぶチャンスだ。

コドモに何かが起きる。なんでそうなったのかなって気になったら、あとで、例えばこう聞いてみよう「どうしたかったの?」きっと応えてくれる。多分、ムズカシイ言葉なんかじゃなくて、短い言葉で気持ちを込めて話してくれるだろう。その気持は「わがまま」かもしれない。文字通り、ありのままという意味ならば。ありのままの姿をみとめてくれる人がいたからこそ、私自身もありのままの他人を見ようとする気持ちが生まれる。私はまだコドモなのだとおもう。

 

逆境を乗り切る力。命の力。

残酷すぎる成功法則

リンカーン、ガンジー、ミケランジェロ、マーク・トウェイン。彼ら はいずれも一六歳になる前に親を失っている。早い時期に親を亡くしな がら目覚ましい成功を遂げた(または悪名高く影響力がある)人物は非 常に多く、そのなかには一五人のイギリスの首相も含まれる。

多くの者にとって、若くして親を失うことは大きな痛手で、マイナス の影響は計り知れない。だが、ダニエル・コイルが著書、『才能を伸ば すシンプルな本』(サンマーク出版)で指摘したように、親を失った悲 劇は子どもたちに、この世界は安全な場所ではなく、生き残るには多大 なエネルギーと努力が必要だという思いを植えつける。そうした特有の 状況と性格から、これらの遺児は悲劇を過剰補償(心理用語で、自分のコンプレックスを克服するだけでなく、人から認められたいという欲求を強く持つことを指す)し、成功への糧に転じる。

というわけで、然るべき状況下では、ネガティブな特性も大きな利点 に変わりうる。あなたの〝悪い〟特性も、じつは増強装置かもしれない。(『残酷すぎる成功法則』)

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