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教員を目指すまで

中学校の時から植物学者になることを夢見ていましたが、「お前のやりたいことは大学院に行かないとできない」といわれて、気持ちがなくなってしまいました(大学に入ったら農学部によく遊びにいきました)。園芸科のある高校を目指そうとしたら塾の先生から「もっといい高校行きなよ。ここの理数科」といわれ、「なんだそんなものか」と進学高校を選択。とにかく進んで大学できっと植物の勉強するぞとおもって極度の勉強をしていたら引きこもりになる。引きこもりになりながら大学で勉強したいとおもいながら飛び入学ができる大学を探し校長に推薦をお願いするが「出席日数が危ないから」という理由でダメ(管理職はみな保身の道をゆく)。駅で尾崎豊を弾き語りしたりカントの哲学を読んで元気をだしながらなんとか大学進学をしたものの文系(高校2年生の夏からまったく受験勉強ができなかったので本を読んでいた)。大学生になって農学部にも通いつつ(農学部の先生と仲が良くなる)、「将来は何になるんだろう。何をするんだろう」とおもっているとき、無人島キャンプの大学生ボランティアに参加。二週間、無人島で小中学生とキャンプをして暮らす経験から「経験を誰かのために生かす」ことに感動して教員を目指す。大学3年生から2年間で無理やり単位履修、教員免許取得。


韓国の劇団に入るまで

大学を卒業し臨時採用で教員になるも、無人島キャンプでみていたような生き生きとした顔には出会うことができなかった。いくつかの高校に務めるがどこも教科指導よりも生徒指導で大変な学校。任期が終わる時に生徒から手紙をもらったのに後で教育委員会に目をつけられたら嫌だとおもって返事をしなかったことを今でも後悔している(本当に本当にごめん)。勇気を出して書いて渡してくれたのに。。。学校の中では勉強ができるようになることよりも、無難に卒業できるように、問題が起こらないようにという指導。「なんで、もっと先生が生徒の良いことを喋らないの?」(今思えば、仕方がないことだった)。学校の文化に馴染めなかった私は縁があって韓国の劇団に入団。韓国で3年間の劇団生活が始まる。


日本に戻るまで

劇団では他の俳優との共同生活をしながら韓国語を身につける。もちろん最初は英語だけでの会話。言葉のニュアンス、話し方、使い方、身体動作、木材加工の技術、音響技術はここで覚えた。イギリスの演出家が来た時に大学時代に作った曲を聞いてもらったら「今度の作品でマクベスの音楽を作らないか?つくろう!」と言われて作曲。初めての舞台音楽制作。その後も作曲家として外部からの依頼を受け国立劇場の作品でも音楽をつくる。韓国演劇ベスト3、ベスト7になった。韓国に手持ちの楽器を全部持っていくのが大変だった・・・。近代化した韓国には、まだ芸能、韓国に暮らす人たちの身体動作、呼吸法がなんとか残っている状態だった。私が所属していた劇団は伝統的な身体動作、発声法を志向していた。そこで団員の先輩に聞かれたことは「日本の伝統的な動きはなに?歴史は?」と言われた時に答えられなかったこと。世界中の国の台本を演劇にするとき、どうしても演出が必要になる。演出するために、他国の文化も、自国の文化もしらなくてはいけない。私は日本人として日本を知らないことに気がつき、日本に帰り勉強をすることにした。


いろいろあって、現在にいたるまで

日本に戻ってからアルバイトでいろいろな仕事をしながら、塾の講師もしながら、日本の伝統芸能、歴史の勉強をする。歴史が深く残る青森でアイヌ文化と三味線を学び、富山県で獅子舞を研究。その後ふとしたきっかけで児童福祉施設を見学したり、インドネシアの芸術家たちと出会うことを通じて、再び「経験を生かす」ところに戻って来た。芸術家として日本で暮らせるかどうかを、実験中。いろいろ考えています。

主に韓国でおとのねさんが作曲した音楽が視聴できます

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