【受験とは?】思春期と成人儀式の関係。日本とバリ島とインディアンの儀式。

【受験とは?】思春期と成人儀式の関係。日本とバリ島とインディアンの儀式。

日本の成人儀式

高校生。 就職をするか、 受験をして進学するか。 私は今日、ふと、思春期のことを考えた。 中学校に入ってから、おそらくは高校を卒業をするまでが、思春期であるようにおもう。 思春期はどんな時期か。 体が一度、壊れる時期だ。 体をめぐる物質が変わっていく。 そこで物の見方も変わっていきながら、今まで見て来た世界と、今見えている、変わっていく世界との間で葛藤する時期。 そうだ、と私は思った。 通過儀礼というものがある。 身体的に痛みを与え、試練を与え、それを乗り越えた後に、大人として認められるという共同体のシステムがあった。 受験勉強は、通過儀礼であって、痛みを伴い、試練であり、社会的に与えられたシステムではないか。 高校卒業後就職する人、勉強をしない人にとっての通過儀礼は何かよくわからないが。 「受験って何ですか?」 高校生に聞かれたこの質問が頭の中で回り続けているのかもしれない。 私がその価値、その意義を、受験生にとって受験はどのような役割を果たすのかを知らなくて、その大切さを知らなくて、どうする。 正直、今まで気がついていなかった。 この通過儀礼を一人で、塾に行かずにやり通す人もいる。 まるで自分で悟りを開いていくイメージで、なんとまぁ珍しい人、といえるかもしれない。 塾の役割は何か。 一人では儀礼を完了できない人たちの手伝いをする。 試練を与え、そして儀式が無事に終わるように手助けをする人のことだとおもえた。 儀式は辛いものだ。何日も続く。その中で、必要な食べ物や水を準備してくれる人たちが、通過儀礼を支えている。 成績をあげに塾に来る人がほとんどだろう。 私は試練を与えよう。試練をやり通せるように支えていこう。 と、思った。   ーーー ーーー 富山県では学校の課題をこなすということが、十分に通過儀礼になってしまうほどの試練である。 学校で儀礼を完了したければ、その儀礼を選んでもいい。 この大切な、大人への仲間入りをする、壮大な経験を、私に託してくれる人がいるとしたら。 私はどれだけの責任と、事の重大さを背負って、その使命を果たさなければならないか。 人生に関わり、人に関わる、それ以上に、受験に関わることが、これほど重たい事のように思えたのは、今日が初めてである。

お金がない人が儀式を共同して行うバリ島の「流れ作業」儀式

バリ島に行った時の話。 バリ島にも成人する前の儀式がある。 この儀式には、お金がかかる。 僧侶を読んだり、来てくれた人にご馳走を出したり。。。 本来は村ごと、家族ごとにやることであるが、それができない人たちが集まって、お金を出し合って、もっとたくさんの人が一度にこの成人式(ポトンギギ)を行う現場に行ったことがある。 学校は、みんなでいっしょにこの通過儀礼を完了する目的で作られている。 成績を上げるために学校があるのではない。 そう思えた私は、「そうか、学校は成績を上げる場所ではないんだ」と気がついて、怒りが薄らいだ。 「校則・課題・非人道的圧政」によって3年間、試練を与え続ける。 その間に、高校生たちはお互いを慰めあったり、気晴らしに遊びにいきながら、この試練を乗り越える。 バリ島の共同儀式の現場の雰囲気を今でも覚えている。 流れ作業である。 それでも、仕方ない。 学校は宗教組織だ。 改宗したいなら、otononeへどうぞと言ってしまえば、だれもこないだろう。 店じまいをする準備をした方がいいだろうか。 人生に関わり、人に関わる、それ以上に、受験に関わることが、これほど重たい事のように思えたのは、今日が初めてである。 学校の先生は、その重さを知らない。 安価で、大量に、この儀式を終わらせる作業をしているのだから。 学校は、学ぶ場所ではない。その結論は、まだ変わりそうにない。

ネィティブ・アメリカンの儀式は、やさしさと厳しさに包まれている

ネィティブアメリカンのひとつの部族に「スー」がある。

松木正さんの話。

そこでは過酷な「サンダンス」という儀式がある。成人の儀式ではないのだが・・・

三日三晩、だったか、一本の木の柱の頂点と自分の耳を紐で結びつける。そして日のある間はずっと踊る。水は日が落ちている時にしか飲めない。食べるのも、夜だけだ。

これは過酷だ。

そして最後には、耳に開けた穴に括られた紐を、自分の力で引きちぎるのだ。

なんでこんな過酷な儀式をするのだろうか?

儀式の意味、意義はさておき、この儀式を通じて部族は一丸となる。

誰もがサンダンサー(踊り手)を助ける。

食事を用意したり、水を用意したり、何かが起こった時には・・・

そうして人が人を助ける。

人がひとりひとりの役割を担う。

この儀式は、助け合い、なのだ。

成人の儀式は、ビジョンクエストと言われている。

4日間だったか、山にこもるのだ。

山に入る前には「動物性の食事は取らない」といったルールがある。文字通り、ビジョンをみられるように体を整えておくためだ。

山に入ってから、誰もこない。

一人だ。

けれども、何かがあったら・・・

 

山にこもっている間、いろんなことが起きる。

 

自分の「神秘」とつながるこの儀式でも、サポートしてくれる人がいる。

だからこそ「やり遂げる」ことができるのだ。

 

受験という儀式は、誰がサポートするかで結果が分かれる。

といっていいだろう。

 

自分をサポートしてくれる、自分を成長させてくれる人との関係を強める。

それが、受験という儀式ではないかと僕は思っている。

「受験」を生き残るためには?『残酷すぎる成功法則』より

残酷すぎる成功法則

極限状態で、生きる力を与えてくれるものは何か 

一九四四年、アウシュビッツ。二〇〇人収容の建物に、一五〇〇人が 詰めこまれていた。窓の外に有刺鉄線と監視棟が見える。囚人たちに は、週に二切れのパンが配られ、それで命をつなぐ。先週、料理用の深 鍋から人肉が見つかったと聞かされても、驚くに値しない。追い詰めら れた者が食人にいたったのだ。 

恐怖は果てしなく続いた。 

多くの者が、電流が流れている有刺鉄線へ飛び込んだ。自殺だった。 そのうち、次に誰が飛びこむか察しがつくようになった。煙草をふかし ている連中だ。煙草は金銭と同じで、食べ物や、手助けなど、あらゆるものと交換できる。それを自分で喫うのは、最後の最後にやることだ。 

海軍シールズと違って、これはシミュレーションではない。ある者 死に、ある者は生き残った。では、生き永らえたのは誰か? 屈強な者 は、長く耐えられなかった。若者も耐えられなかった。勇ましい者も、 従順な者もだめだった。 

自らも収容されていた精神科医のヴィクトール・フランクルは、この 世で最も過酷な場所で、恐怖に耐えて生き続けられる者は、生きる意味 を見いだしている者だと悟った。 

愛情をもって自分を待ちわびてくれる人間や、やり残した仕事に対する責任を自覚する者は、決して人生を投げだすことができない。彼は 〝なぜ〟自分が生存すべきかを知っているので、ほぼ〝どんな〟状態で の生存にも耐え抜くことができるのだ。

自らの命が自分自身より大きな理由のために存在していることを知る者は生き残り、それ以外の者は、煙草を一服したのち、電気柵に向かっ て最後の疾走をした。 

フランクルは、四六時中妻のことを考えていた。じつのところ、もは や妻が生きているかどうかさえわからなかったのだが、それはあまり問題ではなかった。線路を敷設する工事をしながら、たえず妻に語りかけた。そのストーリーは彼の苦しみより強力で、それが彼の生きる原動力 になった。 

人は、自分のためより、誰かのためのほうが頑張れる。母親はわが子 のために無償で尽くし、兵士は祖国のために命を捧げる。 もし人生の意義が快楽なら、それが愉快でなくなったり、都合の良い ものでなくなったとたん、あなたはそれを棄ててしまうだろう。ところ が人生に心地よさを求めるのをやめ、自分よりも偉大な何かのために生 きるとき、私たちはもはや苦痛と闘う必要はなく、それを犠牲として受 けいれることができる。 

フランクルは、「周りを照らす者は、自らを燃焼させなければならな い」と言う。 

私たちを前進させ続けてくれるのは、自分自身に語りかけるストーリーだ。ストーリーはときには崇高な真理かもしれないが、じつは、真実でなくても構わない場合も多い。

オトノネの指導法を登山で喩える

いつかの記事で登山ガイドの話をしたとおもう。
書き改めてオトノネの教育観、指導法を書こう。

いろんなツアーガイドがいる。
時間は限られている。その中で、どんな体験をしてもらおう?

大きな会社の登山ガイドは「みんないっしょ」が原則だ。
「右手に見えるのは・・・」そうして通り過ぎていく。

ひとりひとり気持ちは違う。その風景に見とれてもっとそこで感じていたい人もいる。
一人だけもう疲れた、休みたい、という人もいれば、もっと先に進みたくてわくわくしている人もいる。

みんないっしょだと学とれないことがある。
感じ取れないことがある。

もし一つの場所にずっといて、当初の目的地にたどり着けそうになかったら?
「このままのペースだと、あそこまでいけなくて、ここまでだけど、どうしますか?」
おとのね登山ガイドはこう聞くだろう。あなたが山を歩くために、おとのねはあなたと歩く。

もし危ないことが起こりそうだったら、ちゃんと引き返す。それはダメだという。
命に関わることは、ちゃんと喋る。
登山ツアーの悲劇でこんなことがあった。
悪天候時。お客さんが「あそこまでいきたい」といったのを、ガイドがダメだといわずに、連れて行った。
そして遭難した。

多くの塾はお客さんとして生徒をみる。
危ないことも、その子にとって価値がない(学びのない、おもしろくない)ツアーも、マニュアル通り実行する。

受験というツライ道のりを一緒に歩いていく人がいるだけでも、きっと生徒たちの助けになっているんだろう。
けどもしそこから多くの学びを得たいのであれば、プロのガイドに頼むのが、一番だ。
マニュアルではなく、体験の一つ一つを感動や学びに変えてくれる、プロの先生と出会えた人は、幸せだ。

受験とは?

受験とはなんでしょうか。 ひとりひとり意味は違います。 受験も「学校」という試練の一部だからです。 受験とは、「学校」という試練で得た答えはなんですか?と問われる試練です。 フィードバック=創造的対話 だから、「学校」で与えられた試練から学んだことが何なのかわからなければ、答えられません。 「学校」という試練の中で、どんな問いを発して、どのように答えましたか。 正直、どこの学校を受験してもいいのです。 「学校は自分にとってどんな意味があるのか」を問うのと同様に「受験は自分にとってどんな意味があるのか」を問うのです。 自分で問うことさえすれば、そして答えられるだけの「自分」ができていれば、受験は成功なのです。 積極的自己責任とは?   どこにいようが、自分が「問い」自分が「答える」プロセスで多くのことを学びます。 自分の学びは自分に責任を持つ。 「命」を大切にするとは、そういうことだと僕は思っています。 「命」を大切にするために、「心」を守ってほしいと思います。

小学生の算数が大変な話

富山県の高校入試制度はAI型

富山中部 高岡高校 富山高校の偏差値・進学実績の影で泣いている高校生がいます

石川県の高校入試制度と比較してみる

金沢泉丘高校、錦丘高校の偏差値・進学実績の影で泣いている高校生がいます

『バガボンド』を読みながら『教育の根底にあるもの』

最近「あなたにとって教育とはなんですか」と聞かれた。 教育なんて固い言葉は使わずにただ生きればいい。ただ暮らすだけなのに。と今は思うけれども。 昔、学生時代に読んだ本に林竹二の『教育の根底にあるもの』がある。 たしかこの本だっただろうか。「子どもに教えたらできることがあるけれども、子どもはできるんだけど、やらせてはいけないことがある」 この言葉と出会ってから「何を教えるべきか。何を教えてはいけないか」もんもんとしていたものだ。 年をとって、この問に答える心持ちも変わってきた。 最近「あなたにとって教育とはなんですか」と聞かれた。 今答えるなら「その時代を、その場所を、生きるために、忘れがちなことを、ボク自身が忘れないこと」 くらいに曖昧に答えたい。もしくは 「一緒に笑うところで笑うこと、泣くところで泣くこと」とか。 「その場にあるリッチネスをみつける、探す、捕まえること」とか?いくらでもものは言いようだ。 床屋で待っている間、『バガボンド』というマンガを読んだ。 宮本武蔵に、村の女集が「強くなりたいんです」といって、剣の教えを請うた。 彼女たちが剣を振る、ということは、なんなのだろう。戦で手柄を立てて武士になるわけではない。 彼女たちが剣を習いたいとおもう気持ちがある。それは、宮本武蔵の時代では、宮本武蔵の前では、剣であった。 気持ちが、剣というカタチに注がれた。 今この時代で、彼女たちのように「成長したい」「変わりたい」「守りたい」「強くなりたい」という気持ちがあるとしたら、 一体、私は何を教えられるだろうか?「それならいい大学に入っていい会社に行きなさい」というのか。 戦で手柄を立てなさいということと同じに聞こえて、少しおかしくなる。 間違いのない答えがあるとしたら、 教育とは、大切にしたいものを一緒に育てていくことだろう。 ほんの束の間、夢のような、刹那だとしても。 明日もボクは、自分を教育する。

受験ってなんだろう

ふと思いつく。 受験とは何かという記事で「思春期」と絡めて書いた記事がある。 それとは別の言い方で。 http://otonone.com/wp/otonone/nayami/whatisjyuken-2/ 新しい「受験」の表現はこちら。 「受験」とは、「成績が伸びない」という問題を「解決する能力」が試されるイベントのこと。 「受験にどう挑む?」という問いに答えることだ。 どれだけ試行錯誤したのか。 どれだけ失敗し、新しいことを試みてきたのか。 どれだけ「探し続けたのか」「満足しなかったのか」 支えられて来たのか。 受験生の「受験」という問題解決能力を、受験は問うている。 オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

勉強とは何か

勉強とは何か、何度か記事を書いて来た。 最近、勉強というのは、本当にただのおもしろくもなんともない、学校に行くために根性見せるためのものかもしれないとおもいはじめた。 関所を通るために頑張って山伏の扮装をした義経一行のような準備をするのが受験。 バレないように! 現代の社会のこと、制度、現実、しくみ、どれも受験勉強では学べない。 受験は勉強する能力をみるためにあって、勉強したこと自体は正直、受験が終わったら使わない。(もちろん、技術者たちの多くは使う。英語も使う人は使う)。 「うちはこんな関所だよ。君はどうやって通過して行くかい?」と聞かれているわけだ。 自分の力を「受験勉強」に使う能力をみるのが受験。 力の使い方を学ぶのが、受験勉強。 そうおもったら、肩の力を抜いて、課題課題に終われなくてもいいんだと、おもえないだろうか。 オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

楽しい学校とは

先生が、創造的な学校である。 創造することが許される学校である。 たのしそーだねー!

学校を楽しむ

勝手になってみるだけで本当かどうかは知らないけれども。 好きなことを「ダメ!」といわれて禁止されたり制止させられる子供の気持ち。 大好きな大好物をるんるんで心を躍らせながら味わっているときに突然料理が下げられてしまう。 学校がつまらなくて部活をやるがまぁ授業よりはマシだという感じで「部活は?」の問いに「ふつう」と答える子供の気持ち 獄中でトランプを与えられて楽しくもないがまぁ時間潰しにはなるかぁ 私が大学生の時、重度な精神障害者施設で実習をした。施設にいるのは幼児の子達だった。まったくコミュニケーションが取れず、何をしてイイかわからず、実習の途中で私は泣き出した。 私は久しぶりに、そのことを思い出した。 お母さんの気持ちが見えても、子供の気持ちが見えない。 みえない。 今思い出しても、泣きたくなってくる。

「お勉強」ができない子でも思いやりがある子が幸せになる世界。

ふと思い出した。 富山市の確か、龍谷高校の生徒だった。 困っていることない?と聞くと、最近、お父さんが倒れたという。 病院に行っても原因不明。 看病をしていて、学校に来るのも久しぶりだという。 顔つきがしっかりした、言葉をはっきり使う子だった。 神経質になってストレスを顔一面に出している(自称)進学高校の生徒よりも、人間らしいと感じた。 自分の困りごとではなく、家族の問題を話してくれた。 勉強ってなんだろう。 教育業界が市場を拡大するためにお母さんを不安にさせるようなコマーシャルを打って来た。 教材もいろいろとマーケティングされている。 「勉強しなさい」という親から人を思いやる気持ちを学ぶことはできないようにおもう。 だって、勉強をしたくない気持ちを思いやってもらわなかったのだから。 しあわせはどこにあるんだろう? 僕はしあわせを育てていきたい。

プログラミング型勉強法

プログラミングが必須になるとか、ならないとか。 その良し悪しの話ではなく・・・ プログラミングとはなんだろう。 機械に、「こういうときはああするんだよ」という知識を与える。 知識というより、反応パターンを与える。 情報を処理し、与えられた情報から答えを出す。 それって今の学校や塾でやっている受験勉強と同じ。 「答えを出す」マニュアルを見ながら、マニュアルなしで答えがでるように訓練するのが今の受験勉強。 人間を「受験マシン」としてプログラミングすることが受験勉強だ。 それが暗記型、マニュアル経営型、プログラミング型勉強法であり、学校やほとんどの塾が採用している勉強法だ。 なぜかって、安価で、「いい先生」は必要ないから。 上手に知識を与えてくれる先生はたくさんいる。 (というか動画授業をみればいい。塾に行く必要はない。) 与えられるばかりで考えることができない。 そういう人は、仕事がなくなる。 AIに人間が負ける。 今、人がやっている仕事の多くがAIで代行されるという時代がくる。 オトノネは考えて、考えて、答えを導く人間らしさの体験ができる場所にしたい。 「考えること」がどういうことか、 「クリエイティブ」とはどういうことか、 「自分らしく」がどういうことかわからなくなる時代。 「考えること」ができない人、 「クリエイティブ」でない人、 「自分らしく」ない人が多くなった世界で、意欲を失った人は、機械に負ける。 そして、外国人労働者にも負ける! 人間らしく、学んで欲しい。

マックでバイトした時のこと

こんな思い出がある。

マックでバイトしていて、「競技大会」があるという話を聞いた。どれだけ正確に、早く、ハンバーガーを作れるかを競う。

高校生くらいの子が、賞をとったらしい。

学校では認められたことがない、褒められたことがない、そういう子が承認を得られる場所として、マックがあり、大会がある。「人より秀でる」競争する気持ちが人の心にはある(かもしれない)。自尊心は、誰にでもある。「私ってバカだから」という高校生を思い出す。

勉強ができる子も、勉強だけをして、それで「数字」がでてきて、褒められてまた勉強をする、ということはないだろうか。それは「今まで」のやり方だったし、これからも当分そうだろう。大人になってからそれに気がつくよりも、今気がついて、別の道を行くのがいい。

もう

勉強する意味・何故勉強する・勉強する理由・どうして勉強しなくちゃいけないの?

テキストとは、本来、「問いかけるもの」である。 教科書とは、テキストブックである。 けれども日本は「再現させる内容」を一方的に「喋る」ものだ。 だから、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という問いかけは、「なんで一方的なおしゃべりをずっときいていなくちゃいけないの?」という問いだとおもっていい、と僕はおもっている。 ーー ーーー 残念ながら、富山県、石川県の高校で「一方的なおしゃべりを聞く」以外の授業は受けられないと、僕はおもっている。 大人のつくった「しくみ」に君たちがどう答えるか、大人はそれにどう答えるか。 ーーーー ーーー 学校で学ぶべき(「べき」という言葉を強く使いたい)ことは、メタスキル である。 一人一人の生きている世界が違う、価値観が違う、そんな世界で生きて行くことを学ぶためのスキル。 それがメタスキル だ。 メタスキル は学ぶために必要なスキルだ。 もしくは学んだことを使うスキルだ。 ーーーーー ーーーー 学校で学んだメタスキルを使う、自分たちのフィールドが、どこか。 それがわからないまま、なんとなく、大学に流れてただただ、ベルトコンベアの終着地点でまた次の工場に向けて集荷されていく高校生がいる。 学んだメタスキル を生かす場所が、時間が、子どもたちの近くにあるか。 子供達は、定期テスト、外部模試以外で、自分の得たスキル、メタスキル を試す場所があるか。 「なんで一方的なおしゃべりをずっときいていなくちゃいけないの?」とう問いが起きる理由であると思う。 高校生たちがストレスを感じている状況を、こう説明したい。 自己と対話するメタスキル 他者と対話するメタスキル 世界と対話するメタスキル このような対話を、学びのカリキュラムを発動させる学びの場が日本の公教育で(特に高等学校で)デザインされていない。 ーーーー 簡単に申し上げると。 問い:勉強する意味とは・何故勉強するか・勉強する理由・どうして勉強しなくちゃいけないの? 答え:そんな問いがでてくる勉強なら、しなくていい。 これが僕の、答え。 もし、これが君がほしい答えではなかったとしたら、 別の聞き方をしてみてほしい。

これが中国の「大学入学試験」の様子。

これで、一つの学校、一つの学年(第3学年)。 中国統一の試験で、どこに行けるかが決まる。二次試験なし。 これはベビーブームの時の子供達の最後の世代、らしい。 人数半端ない。 街中につくられたゲートは、保護者が寄付をして、この日のために用意したものだという。 親が、学校を動かす。 日本でも、親が、土曜日の補講をさせている。

勉強させなきゃ!と思わせる市場のしくみ

プレジデントという雑誌だったか。東洋経済か。 わすれたけれどもふとよみながら「ああ、学歴が大切って思わせる世の中の仕組みはこれか」とおもう。 私も今、学歴があればよかったなぁとおもってしまうほど、人は「ネームバリュー」で判断することが多い。 それだけ情報がたくさんあり、ひとつひとつ考えていられないからだ。 そう、インタビューの記事、学歴がみんな高い。 学歴が高い人が世の中で「名」を挙げている。 学歴がない人でも幸せに生きている人たちがいるのに・・・ そういう人はたぶんFACEBOOKとか別の媒体を使っているのだろうけれども。 学歴が大切だとすれば、学歴が高いと自信がもてること、学歴が高いと周りに金持ちが多い、ということ。 世の中にはいろいろな仕組みがある。 商品を買わせるために、サービスを売るために、「ニーズ」をつくるために、いろんな伏線を作る。 「不安を煽る」「憧れさせる」アイドルがダイエットをしているのを真似して小学生がキャベツしか食べないという話を聞いた。 そういう社会になった。 いろんな仕組みから「心」を守って育てることが、子育てなのかもしれないし、教育なのだろうとおもう。 キャベツを食べてダイエットしている小学生は、もしかしたら、友達と問題を抱えているのかもしれない。

通知表をもらったら

通知書を出す中学校も悪いが、通知書を受け取る子どもの気持ちをわかっているのだろうか。 それは、どんなメッセージなのか。 翻訳してほしい。 その数字は、何を意味しているのか。 中学校の先生。高校の先生(小学校にも成績があったかしらん)。 答えてくれますか?それは、学校から生徒への、学校からお父さんお母さんへの、どんなメッセージですか? 多くのお父さんお母さんはそれを読み違えているようにおもう。 そもそも学校で何も教えてもらっていない子が、成績がいいはずがない。 「私は、あなたのお子さんに何も教えることができませんでした」という気持ちを数字に込めているのか。 この記事を見た、お母さん、お父さん、ぜひ学校に行って、聞いて来てください。 「この数字の意味は、なんですか?私は何を理解したらいいのですか?」 「学校で、うちの子は何を学んでいるのでしょうか?」 その結果を、otononeに教えてください。

池田・ロバートソン会談

日本の教育は2%のエリートをつくることをアメリカと約束しているらしいということを耳にした。今更聞いて驚かないが、残りの98%は不良品ということだろうか? 僕はこの比率を逆転させたらいいとおもう。

スーパーで学ぶ競争社会

「他店に対抗!」と書いてあって、卵が激安だった。 ああ、競いあわなくちゃ、生き残れないのか、ふりむいてくれなくなるのか、とおもった。私が一番避けて来たことだ。 競い合っていたら、みえなくなる自分がいる。けどついつい競い合ってしまう。大切なことのために競い合う勇気が、なかったなと気がつく。 世の中にはSEO対策というものがある。昨日、SEO対策を、捨てて、 本当にわかることだけを目指してHPを作り直した。 私は本当に、頭がわるいのだ。   あくるひ。 最近オープンしたスーパーマーケットに入ってびっくりした。この間はレタスが68円だったのが、今日はキャベツが98円だ!あまりにも驚きすぎて、近くにいる店員さんに話しかけてしまった。「こんなやすくて大丈夫なんですか」「いやぁ、この店は呉西地区にはまだ少なくて、オープンしたばっかりだし、やっぱりいろんな人に来て欲しいから、やってるんです!」「いやぁ、まいりました!」という会話をした。 印象を与える、店を入って目の前の野菜のコーナー。まさか、他の店では298円で売っているキャベルまるまる一つがこの値段!そうした驚きが、お店を印象付ける。なるほど、otononeも学ばなくちゃなぁ、ということでさっそくホームページを変えた。印象をもってもらう、スーパーで買い物に来る人には値段で。otononeは?と考えて、「あなたの参考書はあなたのよき友ですか」みたいな見出しをつけることにした。 気がつこうとおもったら、日常生活のなかにいろんなきっかけがある。受験生は試験の時、そんなドラマチックなことを考えてはいられないだろう。だから受験勉強をしているときは、とびっきりドラマチックに、ドキドキしたらいいとおもう。そういう参考書を、otononeでは使っています。

黒船がきた!君はどうする!?

さぁ、君ならどうする。 最近市役所や学校といった公の組織と何かができないかとおもって話を聞いている。 話ができない。話にならない場合がほとんどだ。「責任がとれませんから」とか「もう年度の初めにすべて決まっているので」とか「忙しくて」とか。本当に何かを生み出すような対話にならない。丁重に断るために話を聞いてやっている、という気持ちすら伝わってくる。「クレームがあると・・・」という言葉が常套句。忙しい忙しいで大変な学校で暮らす生徒は主体的、個性的な自分自身を忘れていくかもしれない。オトナは生活を管理し、課題を出す看守のようだ。囚人はその作業をこなしていく。これが私の学校観。 思えば組織というものは保守的だ。組織を守るために個人を利用する。個人もその組織があるからこそ守られているから、お互いに助け合っている、といえる。それを「日本を守るために」といっていたあの時代と変わらない、と思った人はするどい。また黒船が来た時、日本が二つに別れた。例えば坂本龍馬はそれで会社をつくった!日本が動いている、別に「まるまる主義」「まるまる派」でなくても、自分ができること、したいことをする。そういう態度が龍馬の魅力なのだろう。 時代遅れのものというのは、時代をみていない、時代をみて、時代が動いているリズム、すでにもう生まれ、鳴り響いている時代のメロディーとどう関わりあうかだ。何も見えず、聞こえず、感じない世界が、これからやってくるかもしれない。「生徒たちは学校が終わったら家に帰ってゲーム」というのもどの学校も同じだ。もう、面白くないのだ。地域振興、地域復興というが、コドモたちが家に引きこもる地域だったらだめだ。私はだめと言い切ってしまう。道を歩いていても人がいない、面白い人がいない、とにかく人がいない、どこにいっていいかもわからない。ゲームをするのが一番合理的だ。賢い選択だ。ゲームはまっていればいくらでも新しいものがでてくる。スマートフォンという時代と共演している。 役所も学校(文部科学省)も、まだ戦時・戦後の「立場主義」を守り抜き、いまだに「国家総戦力」を演じている。戦う相手は決まっている。黒船だ。私たちは、工場で働いたりや兵隊さんになる代わりに、よりよい消費者になり、労働者となることを求められている。まさに学校がそうではないか!学歴社会でなくなった今でも、高学歴社会を演じている。もう高度経済成長期は終わっているのに、当時の文化がまだ残っている。日本は、どうも、そういう国らしい。 さぁ、君ならどうする。 新しいゲーム機を買おう!?

「みんな一緒」に楽しめるものは少ない。人間だもの。

どこかにいって何か記事を書こうとしてわすれた。

なので最近の話。学校に勤めている。偏差値でいうとかなりひくい公立高校(偏差値の高い学校に配属されたことはない。なぜだろう?)。

授業について考えた。

生徒全員にとって有意義な授業、有意義な時間をつくれるか。

いつもいつもそのことを考えている。

今日は「星の王子様」の英語版と「残酷すぎる成功法則」の英語版を読んでみた。

9割は寝てしまった。

1割が目をキラキラさせていた。

うーん。。。(学校の先生失格か?)

「授業」が当たり前の世界で、やっぱりこれは変だ、とおもう。ある生徒に聞いたら「仕方がないですよ。ミュージシャンでも、自分のやる音楽が嫌いな人が目の前にいるかもしれないで弾くんですから」という話。たしかにそうだが。

生徒たちは高校卒業資格を得るためにか、なぜだかしらないが高校に入ることになっている。そんな生徒にとって、授業とはなんなんだろう?学校とは?

 

うーん。ひとりでなやんでもこたえでない。

 

コドモはもっとオトナに怒ってもいい。

HPをつくりながら、いろいろな塾の「文句」を見た。 どこそこ高校合格! 何日で学校の成績がアップ! 苦手だった英語が得意科目に! 世間体、親の心に訴える文句かもしれないが、その文句に引っかかる心は虚栄心に近い。 親のプライドに近い。そしてコドモがそれを感じているとしたら、その子は変なプライドをもって育てられてきた子だ。 それがワルイわけではないが、そのプライドのせいで、他の人との関係性をつくれなくなる、調節ができなくなるコドモやオトナがいる。 言葉は時として人に呪いをかける。 オトナは塾に来てほしいから「文句」にしているだけなのだが、成績が上がることはいいことだというメッセージをコドモは受け取ってしまうかもしれない。 そしてどの塾もそうなのだから、成績がワルイコトはワルイコトなのだと思ってしまう。 大切なことはそんなことじゃないでしょう。 学校の先生もコドモを焦らせる。「最近成績が悪くて」などという学校の先生がいたら、気をつけたほうがいい。成績というものは相対評価で、必ず誰かは成績がワルイのだ。そしてその評価方法を作っているのは学校だ。だから正確には「私たちはあなたは学業不振であるというレッテルをつけました」という意味になる。 こういった当たり前のことに気がついて、違和感を感じている人は、私はフツウだとおもう。 コドモはもっとオトナに怒ってもいい。どうして、ホントウのことを言ってくれないのかと。 コドモはオトナに、呆れているのではないだろうかと、私はひそかにおもっている。  

学校の教員

とある、学校の先生が集まって話す会があった。 学校にいい印象はないのだが、行ってみた。改めて、学校関係の人と話しをしてみたかった。 学校というのはフシギな場所だ。 いい学校は少ないが、いい先生はそこそこいる。 そして学校になんでいくのかはわからない。「学校が来てくれないから」か? イイセンセイはいる。それが私の学んだことだ。 だが学校の「しくみ」はサンサンたるものだ。 教育相談、不登校の生徒のための施設の職員が「校長」になるためだけに施設長になる。2年経ったらまた人が変わる。 教育委員会のイジメというべき「異動」でせっかくよくなった学校の雰囲気もまたガラリと変わる。 一体、生徒とは何なんだろう。 私も教員時代、いろいろな先生に会ってきた。先生はいい人が多いとイイタイ。 けど学校として、教員として、私にはムズムズしてしまうことが多かった。 学校を卒業させればいい。学校のために進学率をあげるために生徒を使う。 そういう学校が多いのではないか。荒れている学校なら荒れないように、アメとムチ。 「生徒が昼間に街の中を歩いていたら、何をするかわからないでしょ?だから学校に閉じ込めておくんだよ」という先生もいた。 職員室では生徒の悪口をする先生。学校が卒業ゲームに見えてしまう。 イイセンセイもいる。特殊学級でガムランをやっていた先生。 耳が聞こえない子でも、肌で音を感じれる。耳が聞こえなくても、目で見て音をだすタイミングをあわせられる。 いろんな楽しいことをしている先生もいる。逆に、ストレスで潰れている先生もいる。 オトナの世界も、コドモの世界も、似たようなものにみえてしまう。 学校の利益のために、会社の利益のために? そんなこと気にしないで振る舞える人もいる。 その重圧を背負ってしまう人もいる。 それでもみんな生きているから、フシギだ。 私たちはどのようにして、生き方を学ぶんだろう。

なんで勉強しなくちゃいけないの?1

まずこの言葉がでてきたら 「勉強はしなくてはならないものだと勘違いしている」 「学校の勉強が〈勉強〉だとおもっている」 「勉強が嫌になっている」 かどうか聞いてみて欲しい。 勉強から離れたい、という気持ちが「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という言葉で表されているかもしれない。 「勉強して何になるの?」 「こんなことしているんだったら、ゲームをしていたいよ。勉強はおもしろくない」 勉強がおもしろくないことをずばり主張している。 ーーーーー 〈勉強〉は知識をため込んだり、解答用紙に解答を書く作業でもありません。 小学校の勉強も、中学校の勉強も、高校の勉強も、「覚えたこと」はなんの役にも立たない。といってしまってもいい。(言い過ぎですが。漢字は役に立ちますね!) 〈勉強〉は価値観を作るためにするものです。 〈勉強〉は学習者の心を育て、心を助ける言葉と出会う営みです。 〈勉強〉は人格をつくります。 勉強をするか〈勉強〉をするか、 12年間という時間をどちらで満たすか。 ーーーーー 成長することは、本当は喜ばしいものです。 けどうれしくもなんともないなら・・・ お子さんは勉強をしています。勉強のしすぎです。 〈勉強〉をはじめるチャンスです。 「なんで勉強しなくちゃいけないの?」と聞かれたら、オトノネにきてください。 その子は〈勉強〉の世界に足を踏み入れようとしています。

ムリゲー

何ヶ月か前にクレーンゲームをしたことを思い出した。 ゲームと名のつくものには「ムリゲー」という物がある。 クリアできない、攻略でいない、進めない、倒せないゲームだ。 クレーンの景品はBluetoothヘッドホンだった。 どんなものだろうと思って、やってみた。 クレーンの腕、アームの動ける範囲がコンピューターで決められており、 またアームが商品の急所に届かないように、仕切りがつくられている。想像できるだろうか。 「ムリゲー」なのだ。 それでも「次は落ちるかな」「次こそはこうすれば取れるはず」と期待して、コインをいれる。 「今にも落ちそうだし、次、きっととれるよ!やってみようよ!」 何度かやってみた。何度もダメだった。「ああ、コレもダメだ」という動きでヘッドホンを掴んだ3秒後に商品は落ちた。 投げればそのうち当たるものだ。 緻密な計算も、合理も、「取りたい」という気持ちも、コンピューターのプログラムとプラスチックの板で役に立たちそうにない。 定められた運命に身を委ねる、お金を委ねているようで少し嫌な気持ちがした。 教育も同じだろう。 やろうとしても、やろうとしても、いや、その状況ではムリ、ということがある。 その決められたルールのなかでゲームをしなくてはいけない。 そういう生き方もある。たいていは、なにかしらのルールに従わざるをえないから。 だからこういうこともできる。自分はどのルールの中で行きていくか。それを決断できる人は、勇敢だ。 家のルール、学校のルール、会社のルール、日本のルール、人間のルール。 結局は、誰と一緒に生きたいかなのだろう。大抵の人はルールのなかで生きることを教えられる。 ルールを決めることを教えたほうが、もっと面白いと思うのだが。 自分のルールを、まず、決めれるだろうか。私自身の中に居るたくさんの私が、それぞれにちゃんと生きられる心。 教育・保育の現場で「流れ作業」をしている人がいる。教育実習に行った時に、中学校の校長先生が「教育は工場と一緒だ」と言っていたのはおそらくベルランカスター法の歴史をいっているのだとおもうが、私は事実、大人たちがどれほど業務としてコドモと関わっているのだろうかとおもう。多くの大人たちが、宿題をこなすことを、より印象的に教わっているのだから。教育が変わらなければ、オトナが変わらなければ、何も変わらない。私自身の中にもオトナとコドモがいる。自分の中のコドモをオトナがちゃんと大切にできなければ、日々毎日を「いつも通りの流れ作業」にしていたら、コドモは成長できないのだ。社会を変えることはない。自分自身を変えること。 教育者とは、常に自分の教育をしている者のことだ。 自分の中のコドモへの関わり合いがそのまま、コドモへの関わり合いとなる。 だから先生という仕事は、本当に、イヤニナッチャウのだ。 自分のつくったルールを壊たりつくったりし続けるのだから。

教育県富山の学校教育

富山は教育県だという話をどこそことなく聞く 今日、富山駅でグンデルをしていた。勉強が嫌いな子の言い分。 「富山も高岡もみんな勉強嫌いだよ。できる人でも嫌いだよ」だそうだ。 やらされている、通わされている、なんでも受け身でやっているから多分そうなんだろうなと合点してしまった。 その子は「富山県で塾やるのやめた方がいいよ」と私にアドバイスしてくれた。 別の子。 「塾を最近、開いたんだ」と私がいう。 「また塾ふえるんだ…」とても憂鬱そうに、その子はいう。 塾がモンスターかなにか、避けて通りたい場所のように聞こえてしまう。 これほどまでに勉強が嫌いな子が多いのか。 教育とは、教える人間側の言葉だ。「教育する」である。 教わる側が中心の言葉は「学ぶ」「勉強する」である。 課題を与えて「教育する」ことに熱心だから教育県という言い方は正しい。 だがそれで生徒は学べているのか。勉強が嫌いな子が増える教育でいいのか。 「勉強する」子は少なく、「勉強させられる」子が多いのも事実だろう。 なにせ、あの課題の量なのだから。 ー ー さて、私は学ぶことが楽しくなるのは当たり前だとおもっている。 どんどんわかるようになるからだ。 できることがふえたら嬉しいのが人間だ。 新しい回路ができたら、世界が広がったら、脳細胞が喜ぶからだ。 成績が上がる前に、脳細胞が喜ぶ塾、それがotonone-オトノネ-です。 いろんな塾にいっても、予備校に行っても、 成績だけ上がって、学べていない人がたくさんいる。 成績すら上がらない人もいる。 そんな困っている人のための学び場所として、otonone-オトノネ-を続けられるだろうか。 みんなotonone-オトノネ-をみつけて、選んでくれるだろうか。 学校の成績だけでなく、受験のチカラも伸びて、春に笑いながら「いってきます!」と卒業してくれる生徒の顔を、はやく見てみたい。 今度、フランチャイズ、大手の店舗の数を都会と比べてみようとおもう。 この結果がでたら、もしかしたら私はおどろくかもしれない。 教育県であるから、まずはお父さんお母さんが塾や予備校、受験のことを知ってほしいとおもう。 HPで、情報をどんどん公開していきたい。 お父さん、お母さん、偏差値の高い高校に行ったら難関大学に行けると誤解していませんか?

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