難関大学とは何か。教養とは何か。

難関大学とは何か。教養とは何か。

教養と東大のアドミッションポリシー

まずは「入学試験の基本方針」を読んでみてください。
 したがって,東京大学の入試問題は,どの問題であれ,高等学校できちんと学び,身につけた力をもってすれば,決してハードルの高いものではありません。期待する学生を選抜するために実施される本学の学部入学試験は,以下の三つの基本方針に支えられています。 第一に,試験問題の内容は,高等学校教育段階において達成を目指すものと軌を一にしています。 第二に,入学後の教養教育に十分に対応できる資質として,文系・理系にとらわれず幅広く学習し,国際的な広い視野と外国語によるコミュニケーション能力を備えていることを重視します。そのため,文科各類の受験者にも理系の基礎知識や能力を求め,理科各類の受験者にも文系の基礎知識や能力を求めるほか,いずれの科類の受験者についても,外国語の基礎的な能力を要求します。 第三に,知識を詰めこむことよりも,持っている知識を関連づけて解を導く能力の高さを重視します。 東京大学は,志望する皆さんが以上のことを念頭に,高等学校までの教育からできるだけ多くのことを,できるだけ深く学ぶよう期待します。
東京大学のアドミッションポリシーへのリンクはこちら したがって、次のような勉強をしている人は、アドミッションポリシーに反することになります。
  • 宿題や課題をただただこなしている
  • 長文が読めても英作文、英会話ができない
「それ、私じゃん・・・」とおもう人がたくさんいるとおもいます。 大学は多かれ少なかれ、似たようなポリシーをもっています。 ポリシーが名実ともに入試問題に現れているのが、難関大学の問題です。

大学は教養を求めている。

次に「期待する学生像」の項目を見てみましょう。
 東京大学は,このような教育理念に共鳴し,強い意欲を持って学ぼうとする志の高い皆さんを,日本のみならず世界の各地から積極的に受け入れたいと考えています。東京大学が求めているのは,本学の教育研究環境を積極的に最大限活用して,自ら主体的に学び,各分野で創造的役割を果たす人間へと成長していこうとする意志を持った学生です。何よりもまず大切なのは,上に述べたような本学の使命や教育理念への共感と,本学における学びに対する旺盛な興味や関心,そして,その学びを通じた人間的成長への強い意欲です。そうした意味で,入学試験の得点だけを意識した,視野の狭い受験勉強のみに意を注ぐ人よりも,学校の授業の内外で,自らの興味・関心を生かして幅広く学び,その過程で見出されるに違いない諸問題を関連づける広い視野,あるいは自らの問題意識を掘り下げて追究するための深い洞察力を真剣に獲得しようとする人を東京大学は歓迎します。
そんな高校生いるのかと思いたくなります。 けどこれが難関大学が求めている人材です。 最後に「東京大学の使命と教育理念」をみてみましょう。
1877年に創立された我が国最初の国立大学である東京大学は,国内外の様々な分野で指導的役割を果たしうる「世界的視野をもった市民的エリート」(東京大学憲章)を育成することが,社会から負託された自らの使命であると考えています。このような使命のもとで本学が目指すのは,自国の歴史や文化に深い理解を示すとともに,国際的な広い視野を持ち,高度な専門知識を基盤に,問題を発見し,解決する意欲と能力を備え,市民としての公共的な責任を引き受けながら,強靭な開拓者精神を発揮して,自ら考え,行動できる人材の育成です。 そのため,東京大学に入学する学生は,健全な倫理観と責任感,主体性と行動力を持っていることが期待され,前期課程における教養教育(リベラル・アーツ教育)から可能な限り多くを学び,広範で深い教養とさらに豊かな人間性を培うことが要求されます。この教養教育において,どの専門分野でも必要とされる基礎的な知識と学術的な方法が身につくとともに,自分の進むべき専門分野が何であるのかを見極める力が養われるはずです。本学のカリキュラムは,このように幅広く分厚い教養教育を基盤とし,その基盤と有機的に結びついた各学部・学科での多様な専門教育へと展開されており,そのいずれもが大学院や研究所などで行われている世界最先端の研究へとつながっています。
つまり東京大学が受験生に求めているものを抽象的に言えば「教養」です。

教養の歴史は大学(アカデメイア)の歴史

教養は英語でliberal artsと言います。 人間が人間らしく(自由に)生きるために必要なartsのことです。 artとは何でしょうか。 技であり、技術のことです。学んで行くものです。 歴史的には次の7つの科目があります。 文法学・論理学・修辞学・幾何学・算術・天文学・音楽です。 これは英語・国語・数学・科学・芸術と言えるでしょう。 「歴史」が作られた現在はここに歴史が入るわけです。 ギリシャ時代では「知を愛する」philosophyとして学ばれていました。 中世のヨーロッパにおいてはこれらは「神を知るため」に必要な学問として体系化されました。 人間を知るために、自然を知るために、みえないものとの繋がりを知ろうとする中で生まれて来たものが教養です。 私は教養を「自由に学ぶための技術」と呼びたいとおもいます。

教養を身につけて難関大学に行こう

otononeでは教養(学ぶ技術)をメタスキルと表現しています。 メタスキルを持って生まれた人は、生まれてからずっと持っています。 実は赤ちゃんはメタスキル の塊です。 いつでも興味深く目を見開いて、世界と関わり合いながらたくさんのことを学んでいます。 それが、受験勉強、暗記の勉強、課題、テストに追われてできなくなっていきます。 もともと、だれでもメタスキル をもっています。 私はそれが「こうして勉強したら」という勉強法や「これをやりなさい」という本人の意思とは関係なくやらされる課題によって使えない状態でいる高校生がほとんどだと考えています。 「期待する学生像」に書いてある通り「主体的に」学べていない高校生はなかなか試験に合格しないのです。 それでも課題をやり続けて難関大学に合格する高校生もいます。 あなたは、どんな風に受験勉強をしたいですか? メタスキルを先生と一緒に学べる塾、otononeで学ぶのも選択肢にいれてみてください。

難関大学を目指すあなたへのメッセージ

一流の学習者になってください。 課題の海で溺れている、課題の森で迷っているうちは、一流の学習者にはなれません。 目の前に現れる矢継ぎ早の定期テスト、やたらうけさせられる意味不明な進研模試、参加任意と言って強制される土曜模試、与えられた課題をこなすことに心を砕くのは一流の「労働者」であっても、一流の「学習者」ではありません。 学校には学校の都合があります。 一流は、一流なりに都合をつけて生きています。 一流の大学は「労働者」を求めていません。 AO入試を探してみてください。 あなたは大学に「求められいる」人間ですか? 一流の学習者になってください。 日々、自分にフィードバックして、改善を積み重ね、全力を尽くしてみてください。 「あれ?うまくいかない」とおもってもなお、「労働者」であり続けるなら、そのまま試験に挑んでみてください。 もしかしたら、合格するかもしれません。 大学が求めている人材ではないと、僕はおもうのですが。 「あれ?うまくいかない」とおもえないのも、大学受験の難しさ。 (僕も当時、うまくいっていなかったことに気がつきませんでした) 若さゆえか。 だから僕はオトノネをつくったんですけどね。 大学受験というものは、とてつもない、かけがえのない経験になります。 いろんな人と出会って、助けてもらいながら、突き進んで、早いとこ高校を卒業しましょう。 一番近くで見守ってくれている人へ、感謝の気持ちを抱きながら。 進んでいってほしいとおもいます。 世界で奇跡的に生まれたあなたの命を大事にしてほしいとおもいます。 しあわせを育てられるように。誰かの心をあたためられるように。  

難関大学って何?私も目指せるの?

目指してもいいですが、目指すなら、学び方を変えなくてはいけないかもしれません。 難関大学にはいろんなイメージがあるでしょう。 みなさんがすぐにおもいつく定義は何ですか?
  • 偏差値が高い
  • ネームバリューがある
いろんな定義の仕方があります。 私は大学入試問題をみていて気がつきました。 「どんな生徒に入って欲しいか」が難関大学といわれている大学と他の大学とは違うのです。

難問は、大学からのメッセージ

難関大学は
  • 好奇心を持って深く学べる学生を求めている
これが私の難関大学の定義です。 難関大学の問題は「好奇心・興味をもって深く学んだか」を問います。 「問題の解法を覚えて問題だけ解けるようにした生徒は来ないでください」というメッセージが問題の中に込められています。 という本屋に行って「難問」と向き合って見てください。きっと、面食らうとおもいます。

難関大学が求める勉強を、あなたはできていますか

東大が、円周率の定義を聞く問題を出したことがありますね。 ムズカシイ問題をたくさんといてばかりいて、解法を暗記していて、本質を知らない、本質を気にしない人は研究者として失格です。ウチの大学にはいりません。 というメッセージです。 大学は研究機関です。好奇心なくして、興味なくして、研究はできません。 「おもしろい!」とおもえることを突き詰めてくれる生徒を求めています。 なので、難関大学を目指している人は、自分自身に問いかけてみてください。
  • 「私は興味をもって、勉強ができているだろうか」
  • 「イヤイヤやらされたり、まわりの雰囲気に流されていないだろうか」

「あなたの道」は難関大ではないかもしれない。

難関大学に入ることが、イイことだというわけではありません。 ひとりひとりの生き方が違うのですから。 今のあなたの気持ちを確かめてみてください。 もう一度、聞きます。 「勉強をしていて、もっと知りたい、深めたい、おもしろいとおもっているだろうか?」 この問いかけに「はい」と答えられる人は、そのまま勉強を続けてみてください。 あなたは自分でいろいろ調べたり、見つけたり、気が付いたり、つなげて行きながら、勉強を楽しんで、遊びながら勉強をしているのだとおもいます。 そうやって勉強ができる人は、きっとどんどんチカラをつけていけるはずです。 もしそれで勉強が進んで行かないのであれば、成績が届かないのであれば、otononeに相談しに来てください。 まわりに流されてなんとなく目指している人は、立ち止まって、一息いれるのも、いいことなのかもしれません。

言葉と意識と行為

なぜ目の前にあるソレを「いぬ」というのだろう。

誰もがソレを「いぬ」といって、問題がないし、便利だから。

なぜこういうときはああするんだろう。

引っ越してきたとき、隣近所の人に挨拶と、手土産を持っていくのはなぜだろう。(それが大和の紙袋にはいっていたほうがよりよいのはなぜだろう)

規範、道徳、倫理、こういったものは地域によって、文化によって違う。富山県の小学生は集団で投稿するし、石川県の小学生は一人でも道を歩く。富山県の小学生は「知らない人は恐ろしい人、無視しないといけません」と教わるかもしれない。

「いい」とおもうからそうさせるのだし、「わるい」とおもったらそうさせない。

 

「いい」「わるい」は会社によっても違う。組織が違えば違う。

組織が違えば意識が変わる。その組織で使われている言葉が意識をつくり、行為を作り上げる。言葉は、口から出てくるメッセージではなく、人の意識そのものをつくる。ブラック企業はブラックの価値観を当然のものとして語り、行わせ、それを意識させる。

 

寺院で、教会で、偉い人が「説教」をするのも同じ。物語を聞かせて、その世界をいしきさせる。それから、寄付やvolunteerなどの行為によって、意識を強める。信じる、というのはそういうことだ。

自分の感じたことを大切にして、慣習的な、与えられた外部のルールと、自分自身の幸せのための積極的に創造的につくるルールを分けて考える癖をつけてみよう。信じたことを、意識を、言葉で、行為で強めてみよう(中村天風の実践はここにある)。

今でも覚えている。青森県のねぶた祭りで出会った人は「私はブラック企業で働いているんですけど、ねぶたの日だけは何があっても休みます。休めないなら会社辞めますっていってあるんです」と話をしてくれた。ねぶたの仲間は、その人にとって本当に大切な、大切な、守って生きたい大事なものなんだと、感じた。

蛇足:ギリシャ時代のポリスでは「自由」とか「平等」とかいう話をしていたようだが、市民たちの生活は奴隷によって支えられていた。という。市民権があるかどうか、それが問題であった。私たちは自分たちが生きる権利をきちんとつかえているだろうか。。。奴隷として生きていないだろうか。黒人迫害時代のアメリカでは、黒人たちがそのエネルギーを音楽に費やした、らしいではないか。それが今は、黒人音楽、ジャズとして、世界の人たちを魅了している。結局何がなんだかわからないから、広い世界のことなど考えずにじぶんのサイズで暮らしてみたらいいんだろう。。

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