キーワードを入れて記事を探せます(。☌ᴗ☌。)
日本で一番「心」を大事にする学習塾の心

- 心を大事にするオトノネ
- 最強フィードバックのオトノネ
- 変化する時間『SQ 生きかたの知能指数』
- 個性値とは?
- 勉強はワーカホリックか、フローか。
- 頭ではなく、心が大事。
- 僕にはやりたいことはたくさんある
- 心のレッスン
- 参考書を使った勉強法
- おとのねさんは生徒が卒業する時を待っている。
- オトノネとおとのねさんの関係
- オトノネが公的機関でないからいいところ
- 2つの世界の間にて2つの世界の間にて
- おとのねさんの人となりと言葉について
- おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを支払う動物か)
- 【大人の宿題】「愛」を学ぶ心の屋根裏部屋otonone-オトノネ-
- 【子育ての原理】フルーツバスケット
- 聞くこと
- なんで勉強しなくちゃいけないの?
- 「本気」の「本」とはどんな意味か。【オトノネの座右の銘を解説】
- 【失敗はない】オトノネ流、学びのプロセス。
- 健康が大事。受験の極意は健康から。学校に引っ張られている足をどうする?
- 勉強をする意味って何?
- なんで勉強しなくちゃいけないの?2
- オトノネのしていることを学問的に理解しようとすると大変、難しくなる件
- 教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)
- Teachers do not teach. Students learn by themselves.
- さくらのき
- 「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。
- みなさんへの冬休みの宿題。
- 【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。
- 会社の経営と子育ては同じ。
- 本気になること
- 筆ペンをもつだけで!そう、お母さんと塾の先生で役割分担しましょう。
- 佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。
- うちの子、大丈夫?「大丈夫です」
- 失敗は成功のもとという。そうして赤ちゃんは大人になるように。
- 子どもとお花見に行ってきたらドラマがあった。
- 小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。
- 4時間で何ができるか。
- 成長の場
- 花が咲くように
- 心身症:場面緘黙の本
- 学校の先生は残酷か。
- 個別指導を極めたらどうなるか。
- 学ぶ力とは何か。自立学習とは何か。メタスキルとは何か。
- 時間がかかるのは、学んでいるから?
- 一対一、個別指導とはどういうことか(保育園で気づいたこと)
- 機械仕掛けの人間の心
- 金沢からきてくれる
- 科学の実験をする塾の先生
心を大事にするオトノネ
ふつうのことをあたりまえに
学習塾をはじめようとおもった私は、ある日ある保育園を訪ねました。どうして学習塾と保育所に関係があるのでしょうか。。。ある保育士さんが1歳児の何人かに向かって絵本を読んでいました。案内してくれていた理事長さんが「ひとりの子に読んであげて」といいました。それからどれだけコドモの反応が変わったか。私は驚きました。世の中は生産性・合理性のために「みんな」でやることが多い。当たり前になってしまって、わからなかったことだが、私自身にも覚えがある。誰にも経験があるはずだ。本当に人生で大切なことを学ぶのは、目の前のひとりの人間と真剣に向かい合って、本気で言葉を交わしているときだ。そこにはいろんな感情があり、オモイがある。言葉のキャッチボールではナマヌルイ。拳を合わせる、お互いの力を、心を感じながら一言一言、手合わせをするような関係が、大切なものをつくる。私がもっと感動したのは、絵本を読んでいた保育者の後ろで、次に絵本を読んでほしそうに、ひとりの子が待っていたこと!1歳児の子です。2歳から5歳の異年齢保育の部屋に行ったときのこと。多くのコドモがわらべうたを歌っていたとき、一人の女の子が積み木を使って、みんなが歌っているのに合わせてリズムをとっていた。人の中にいくのが怖いのかもしれない。「じゃぁ一緒に行こうよ」というのではなく、僕は彼女と一緒に積み木を叩きに行った。後で理事長先生から「あの子はとても音に敏感でね、内向的で、保育者との関係もつくれていなかったんだけど最近になって」と。集団のなかに入れない子、フツウじゃない子はオトナと関係がもてずにひとりぼっちになりがちだ。彼女が友達と二人でお昼寝のベッドを部屋にもっていく途中「ちょっとまってよ!どうしてまってくれないの!」と友達から怒りの感情を受けていた。怒った子はふつうに「ちょっとまって!他のベットが邪魔で」とは言えない。もしかしたら、内向的な彼女はこういう経験を小学校に入ってからもしていくだろう。私は彼女の敏感さ、他の人とは違うことを大切にして、彼女の感じていることを大切にしてほしいとおもう。
ホメナイ。オダテナイ。
「もっと社会的になるように導く」などというのは、オトナのおせっかいだ。彼女には彼女の生まれがあって、生き方がある。コドモはコドモで悩みがある。オトナができることは、フツウな子にもフツウでない子にもフツウに接して、かかわり合いをもって、コドモの姿を、心のありさまをちゃんとみて、その子が目の前にいるときは真剣にその子と向き合うことだとおもう。彼女は彼女で生きている。オトナにできることは、彼女が彼女自身を大切にできるように、大切な人を、大切なこと、大切な心を守れるように、ちゃんと向き合って、ひとりの人間として関わることなんだとおもう。言葉は大切だ。たった一言で人を殺しも、生かしもする。言葉は重い。言葉を大切にして、心を大切にして、私はコドモと関わり合いたい。そんなオモイを忘れずにいたい。《otonone》はそんなフツウを目指している富山県高岡市の学習塾です。成績を上げる塾ではありません。このトンチがわかったらこっそり教えに来てください。
オトノネのポリシー
- 第一優先は「命」と「心」
- 認知の準備ができたら「集中してお勉強する」
オトノネは現状に「違和感」を持っている方のための保健室です。 お勉強はもちろんしていきますが、お子さんの希望に応じて 心のレッスン(人間関係のレッスン)や言葉のレッスンを同時にすることもできます。 「世の中こんなもんだ」と決め込んでしまい「心」をすり減らして「命」が弱まっているお子さんがいます。 小学生・中学生・高校生・社会人・お父さんお母さん、誰でもOKです。 心を大事にしたい人。 少し休んでから、また一歩踏み出そうとしている人。 うまくいかずに悩んでいる人。 おとのねさんがサポートします^^
おとのねさんがボカロ曲つくったってよ!
学校の教師の人間性の低さが子どもたちの人間性を、豊かさを奪っていきます。 アニメ、音楽、子どもたちが発信し、共感する文化をみれば大人でも感じることができるでしょうか。 コメントに注目です。
このたかやんという人のコメント欄は共感を求めている人のコミュニティーになっているようです。
破壊的な関係をつくろうとする友達とどう関わればよいでしょうか? 破壊的な関係をつくろうとする教師とどう関わればよいでしょうか? 不安や恐怖に心のエネルギーが取られていませんか? 古い物語を捨てられますか? 「自分はバカだ」「自分はできない」「やっても意味ない」という気持ちをもっていますか? 捨ててください。 すぐには捨てられないかもしれませんが。 人は誰でも、時としては自分に対しても「自分勝手な物語」を相手に押し付けます。 けど一番大事なのは「心」ある物語です。 誰もがもっている素敵な心を大事にしてほしい、それがおとのねさんのオモイです。 今まで持っていた理想像、自分の姿ではなく、自分のありのままの姿を見るのは怖いことです。 多くの人が「本心」を忘れるようにして慌ただしく生きています。 体の調子は悪くないですか? 「無理をしている」「心が擦り切れている」と感じませんか? 頑張らなくていいのです。 今までたくさんつらい思いをしてきた子と一緒に学んで来ました。 オトノネでは、我慢しなくてよいのです。
オトノネのポリシー
- 第一優先は「命」と「心」
- 認知の準備ができたら「集中してお勉強する」
オトノネに出会ったのですから、今までつくってきた物語は必要ありません。 捨てても大丈夫です。 新しい物語をつくるのですから。 学校で教わったやり方ではできるようにならないのです。 オトノネではじましょう。 生まれて初めての「勉強」を楽しみましょう。
今までの勉強を続けて、やっぱりダメだと気がついた時に、オトノネにきてください。 (心が潰れているなら、休んで少し元気になってから遊びに来てください) 「変えたい」と思ったときが、「変わる」チャンスです。 徐々に変えていく、のは効果的ではありません。 一気に変えましょう。(もちろん、少しずつ・・・でも大丈夫です) オトノネに来てよかった、と思ってもらいたいとおもいます。
オトノネのポリシー
- 第一優先は「命」と「心」
- 認知の準備ができたら「集中してお勉強する」
オトノネはこんなお子さん向けです。
「みんな一緒」が無理な人 自称進学校で潰された・潰れている人 克服したい苦手教科がある人 学校に行きたくない人 学校で無理をしている人 人間関係で悩んでいる人 プロに教わりたい人 医学部を目指している人 どうしても行きたいところがある人 芸術的な人 勉強どころではない人 学習障害、発達障害といわれている人 難関大を目指しているが実力が伴っていない人 「人間」を探している人 高い志をもっているけど気持ちがついていかない人 進路が不安な人 学校をすでにやめている人 大検を目指している人 文法問題は解けるけど英文が読めない人 基礎問題は解けるけど応用問題が解けない人 計算はできるけど文章題ができない人 何やったらいいかわからない人 フィーリングでやってきた人 勉強する習慣がない人 「やっている」のに「成果がでない」人 ちゃんとした「お勉強」をしたい人 「別の世界」を知りたい人 大人が信頼できない人 大人に騙されてきたと感じている人 心を大切にしたい人 おとのねさんが気になる人 分数がわからない人 定期テストの点数はいいのに模試で結果が出ない人 AO入試で自分を生かしてみたい人 自分にあった生き方を探している人 体が疲れやすい人 神経質(繊細・敏感)な人(おとのねさんも大概敏感なおかげでいろいろと学びました) 県外からやってきた方OK!
- 「学校についていけない。」
- 「そもそも学校があてにならない。」
- 「一からやり直してでも、行きたい学校がある。」
- 「学校って行く意味がないとおもう」
- 「高校生になって急にわからなくなった」
- 「将来のことがわからない。これからどうなるの?」
- 「ワタシノナニガワルイノ?」
- 「塾?勉強?塾?宿題?塾?なにするの?」
- 「理系志望だけど数学ができない。」
- 「現代文ってどうやって勉強したらいいの?」
- 「“ヤバい”の一言に尽きます。。。」
こんなお母さんもいらしてください。
学校などの組織に依存しない中立的なアドバイスが欲しい人。 お子さんの成績が上がらないと不安な人 看護学校・資格試験など試験に挑む人 県外の人(心が擦り切れている人) 本当の「学校」を探している人 子どもの発達、世の中(学校・社会)の「しくみ」を学びたい人 おとのねさんが気になる人
富山中部高校、富山高校、高岡高校は東大合格のためのカリキュラムを組んでいます。
けれども大学入試は大学によって試験科目が違う、問題が違う、研ぎ澄まさなければいけないスキルが大学によって違います。
高校受験のやり方で、全てをこなそうとして大学受験をしてしまうと大変つらいことになります。
誤って「みんなと同じ」勉強をしてしまうと、努力が実らないかもしれません。
だからotonone-オトノネ-は完全個別指導にこだわります。
AO入試、大検、小論文、英語検定、はたまた保育士資格!たいていなんでもいけます。

最強フィードバックのオトノネ
「学」とは?1
お子さんがお子さんとして生まれてきた意味を探すプロセスのことです。「みんなといっしょ」でありたければ必要ありません。「知」は個別的なものです。なので「学」も個別的になります。ひとりひとりちがった学び方がある、ということをオトノネで体験してほしいとおもいます。心を大事に、オトノネは学びのためのフィードバックのレベル2までやります。
「学」とは?2
フィードバックの回路そのものを変えていくこと(レベル2)です。生き方を変えることです。いいままでと同じ生き方、自分のあり方を続けようとしていればレベル2にはいけません。新しい環境にできないばかりか、逆に環境に対して自己調整ができないために自己を偽ることになります。本来、思春期に大きなフィードバック回路の転換が起こります。親の価値観、世の中から与えられていた価値観(こういう時はああする、こうなったらこう補正するやり方)を変えていく時期が、思春期です。「違和感」を感じたときに自己修正できる、「うまくいかない」ときに自分を観察し、変革していこうとする回路です。多くの人は「学習することをやめる」という学習をしてフィードバックの回路を閉じています。本当に感じていることから目を背けて「偽正常」に止まります。すると、何も起きません。。
「自己」と「学」
「学」は一人一人ちがいます。一人一人が別々の身体をもっているために感じていること、考えることが違うのと同時に、置かれている状況も違います。だから「学」びのプロセスも、「学」ぶことも異なります。ある人にとっては本当に思えることも別の人にとっては嘘のように思えることもあります。「学」は個別的です。もっとはっきりいえば、世界は一人一人の「自己」が別々の学習をするためにあります。「自己」の分だけ世界があります。世界が一つだけというのは幻想です。世界は「自己」が関わることによって常に変化していきます。世界は変わります。他者がいるからです。だから「自己」も変わります。変えていかなければいけません。自己確立などはありえません。もちろん、自分の傾向や適性などは分かってくるでしょうが、「自己」はもっと広い、あなた全体を表す言葉です。
「仮」の世界
自己は変わり続ける、世界も変わり続けるといいました。「本当らしいこと」はあっても、「本当」だとは言えません。自分自身のイメージも変わってくるでしょう。もしそれを固定してしまったら、「学」びの回路は閉ざされてしまいます。つまり、何事も「仮」の姿であって、「とりあえずそれで実験をしてみる」「その結果を受け止めて、しばらくそれでやっていく」「結果がおもわしくなかったらまだ別の「仮」で試してみる」ことが大切になります。「とりあえずやってみる」「素直に結果を受け止める」ことが「学」びです。
フィードバックなし
フィードバックがないと、ただただ繰り返し「作業」をしているだけになります。結果を見ずに、ただただ、惰性でこなすだけです。仕事でも、同じこと、していませんか?笑

レベル1
今度は、結果に対して、「ああ、少し工夫しようかな」というわけで、やり方を変えます。例えば「効率的に作業するには」という点で、工夫をするわけです。関数fを「宿題をやる範囲」としてみましょう。多すぎず、少なすぎず、自分に適した範囲をみつけるように、変数xを変えていきます。ただ、同じ方法を続けて「あれ?これでいいのかな?」と思う瞬間がくるかもしれません。生き方を変える瞬間が、人生にもあるように。それがオトノネの専売特許、フィードバックのレベル2です。

レベル2
レベル1では、例えば「一週間で勉強する範囲」を指定する関数fだけを使っていました。けれども今度は「うまくやるためには別の方法でなくては」というわけで、新しいフィードバック関数gを使う、というわけです。フィードバック機構そのものを変える、ということになります。例えば「いつまでたっても、同じことばかりくりかえす」なら、やり方を、取り組み方を、言葉がけを変えないといけないですね。相手を見て、振る舞いを観察して、相手の気持ちになって、ではどうするか、大人が工夫を重ねてあげることがレベル2の特徴です。赤ちゃんが泣いているとき「オムツか」「ミルクか」最初はわからないものです。関係性を作り上げるなかで、ひとつづつ、おとのねさんはお子さんを理解していきます。そうして理解を重ねていくうちに「あ、この子は今、この部分は動かせないから、こっちで言葉がけをしてみようかな」といった工夫ができるようになります。レベル1は機械的にできますが、レベル2は、関数が準備されていないです。お子さんと関わり合いながら、お子さんの特性、お子さんの心の状態を理解して(子育てと同じように)反応を返してあげます。

PDCAサイクルとの違い
よくあるPDCAサイクルは、フィードバックと似ています。ただ決定的に違うのは、PDCAサイクルが「与えられた目標」にたいしてかけるフィードバックである(サイクルがプラン、計画から始まる)のに対し、オトノネのフィードバックは「目標をふくめたフレームワーク自体を変える」可能性のある、より大きなフィードバックを返します。より柔軟なPDCAサイクルと呼んでもいいでしょう。会社でいえば、たとえば「そもそもこんなのやる必要あるの?」というものです。「うちの部署よりあっちでやったほうがいいんじゃない?」という人間的な営みは、PDCAサイクルでは説明できません。お勉強で言えば、「そもそも今やっているのは、定期テスト対策だよね?それで本番の受験で成果がでる?」という問いを発するかもしれません。「勉強する教科を変えようか」といったフィードバックもありえます。そもそも無理な目標を立てていた場合は、目標の見直しをします。(別のPDCAサイクルを回す、といってもいいでしょう)
変化する時間『SQ 生きかたの知能指数』
学習を促進するためにどのような教室の雰囲気が望ましいか、この実験から大いに学ぶことがある。 前述したように、社会的環境は脳内におけるニューロン新生のスピードとその後の成熟に影響を与え る。新しいニューロンが成熟するには約一カ月かかり、他のニューロンとしっかりした結合を形成す るにはさらに四カ月かかる。この時期における環境は、ニューロンの最終的な形状や機能を決定する。 学校で学んだことを記憶するのに役立つ新しいニューロンは、他のニューロンとの結合を通じて学習 した内容を記憶に刻んでいく。その際の環境が学習にふさわしければ、それだけ記憶はしっかり刻ま れる。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.405)
個性値とは?
今までというか、今も偏差値偏重でコドモを評価していますが、これからの時代、コドモのコドモの時代には、偏差値がいくら高い大学に行っても、、、仕事がない、ひきこもる、死ぬなどの社会現象が激化していきます(富山高校・富山中部高校・高岡高校の卒業生が社会復帰のためにサポステに通う社会現象は最近、激しくなったようです)。そんな時代を生きるには、もちろん、学歴というラッピングでもなければ、偏差値という数字でもありません。本気を追求して行く、という情熱が、子供の命を支えて行くのだと、僕は思っています。なので特色入試・AO入試は、新しい時代に生まれる新しい子どもたちにぴったりの入試制度だと、おもうのです^^(最近は、大学に行くことは子供の将来のリスクを高めることにならないか、とすらおもっているのですが)
勉強はワーカホリックか、フローか。
情動の波がない状態?
集中しているとき。ただただ、目の前にある何かに向かっている。そういう状態を「フロー」という。
「フロー」の特徴である内発的な歓喜や効力感は、大脳辺縁系の波動に脳全体が支配される情動 のハイジャックとはまったく別のものだ。「フロー」における注意力は、リラックスしながら高 度に集中している。疲れたり退屈しているときに無理に気持ちを集中しようとする状態とはちが う。また、不安や怒りなど強い情動のせいで集中力が停止してしまった状態ともちがう。 「フロー」は、軽いエクスタシーが生起する強い動機づけを別にすれば、情動の音から一切解放された状態だ。この場合のエクスタシーは、「フロー」に至るために必要な集中力がもたらす 副産物と思われる。事実、瞑想をテーマにした古典には至福の瞬間として訪れる一心不乱の境地 が描写されている。これも、やはり強烈な意識の集中から生じた「フロー」だ。 「フロー」状態の人を見ていると、難しいことを簡単にこなしている印象を受ける。最高の能力 を発揮しているのに、ごく自然であたりまえの動作をしているように見える。じつは、こうした 印象と同様のパラドックスが脳の中でも起こっている。最も難しい課題が最も少量の知的エネル ギーで処理されているのだ。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.148)
この心の状態は、ある意味でワーカホリックと似ていると私はおもう。時間を忘れるという点において。ただ、ワーカホリックは「情動を抑圧して」目の前のワークをこなすように心のしくみを作り上げることをいうのでしょう。
勉強中にフロー
勉強するしない、というのは、勉強が心地よいものだ、楽しめるものだ、没頭できるものだ、知的におもしろいという経験をしてきたかどうかにかかっている。
学校にそういう環境がないなら、学校の外で探すしかない。環境がものをいう。ぐだぐだとただ宿題ばかりをしていても、成績は伸びない。
生徒たちの気分を分析してみたところ、はっきりとした特徴があらわれた。成績の優秀な生徒 も優秀でない生徒も、テレビを見るなど何の知的挑戦にもならないような退屈な時間を毎日長々 とすごしていた。ティーンエージャーは、だいたいこのようなものだ。重要なちがいは、勉強し ている時間の質にあった。成績の高いグループは、学習の歓喜と挑戦に満ちた「フロー」の状態 が勉強時間の四〇パーセントを占めていた。成績の低いグループでは「フロー」は勉強時間の一 六パーセントにしかならず、それよりむしろ自分の能力を超える課題に取り組まなくてはならな い不安を感じていた。彼らは勉強よりも友だちとの社交に歓喜や「フロー」を見いだしていた。
要するに、自分の能力以上のものを出しきれる生徒は「フロー」の歓喜にひかれて勉強している 場合が多い。残念なことに、成績の低い生徒は自分の能力を「フロー」が経験できるレベルまで 出しきれないために勉強する楽しみを失い、知的能力を伸ばす努力を放棄しようとしている。 (『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.151)
フローを感じるには、自分の能力よりちょっと難しい、挑戦できる、自分が「やった!」と思える課題が必要だといいます。内的な動機を高めるための教材を、大人が子供の環境として準備さえすれば、もっと多くの子供たちが知的になるということでしょう。
知性の多重性理論を展開したハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーは、「フロー」 に代表される心理状態を最も健全な教育方法のひとつとして評価している。脅しやほうびのよう な手段を使わず、子供たちを内面から動機づける方法だからだ。「私たちは子供の積極的な状態 を利用して、それぞれの子が自分に向いている分野で学習に熱中するよう導いてやらなくてはい けません」とガードナーは提言している。「フローは、子供が自分に向いた課題に熱中して取り 組んでいるときにあらわれる心理状態です。自分の好きなことを見つけて努力するのは大切なこ とです。子供たちが学校でケンカしたりふざけたりするのは、勉強が退屈なときです。不安になるのは、課題がむずかしすぎるときです。でも、何か興味を持てる対象があってそれに取り組む のが楽しく思えるとき、勉強はいちばん良く進むのです」。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.152)
ランナーズハイ、と呼ばれている状態をフローということもできるでしょうか。無我の境地。没頭。それが人生を豊かにしてくれるなら、このフローの経験は、大人になっても子供たちの「お守り」になると私は信じています。
情動を超えた「動」
「フロー」と呼ばれる集中状態があります。「象」も「象使い」も一体となって、ただただ「自然」に物事に向かっている状態、と呼んでもいいでしょう。
不安もなく、ただ目の前のなにかに熱中する瞬間、「情」が消えて「動」だけが残るといってもいいでしょうか。このような状態になったとき、ソクラテスのいう「魂の世話」ができている状態といえるのでしょうか。
情動を生産的な目標に向けて活用していく力こそ才能の総元 締めということになる。衝動をコントロールし欲求の充足をがまんする能力も、自分の感情を思 考の妨げではなく助けになるよう調整する能力も、目標から後退したときに自分を励まし耐えて 挑戦しつづける能力も、自分自身を「フロー」状態へ導く方法をみつけて才能の向上をめざす能 力も、すべて人間の努力を実りある方向へ導いていく情動のパワーを物語っている。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.153)
素直に、自分の心に従う。
ノイズのない、ただ肉体が魂に従っている、魂に心が従っている、そんな状態でしょうか。
美しい世界、のように、私には感じられます。
頭ではなく、心が大事。
「どれだけ課題をこなすか」ではなく、
「どのように課題に向き合うか」が大事です。
オトノネも課題をだすかもしれません。けれども。
発達段階を超えた、準備が整っていない、生徒の気持ちと分離している課題は出しません。
闇雲に焦っている、追いかけられているのでは一流の学習者とはいえません。
一流の大学に入るのなら、一流の学習者を目指しましょう。
だからotonone-オトノネ-はIQよりもEQ、EQよりも心を大事にします。

受験の正しい知識で、心を守りましょう。
例えば、模試の結果をみて一喜一憂していませんか?
A判定が出ても、実際には合格しなかった先輩の話をよく聞きます。
偏差値とは何でしょうか?どのように役立てたらいいのでしょうか?
学校の成績と大学入試の結果の相関はどれだけあるのでしょうか?
基礎と演習の違いは何でしょうか?
otonone-オトノネ-は溢れかえった情報から生徒の心を守ります。
otonone-オトノネ-は、新しい時代に生きる子どものための、学校です。「やらされ勉強」からの脱却をしませんか?

積極的自由と積極的責任
だれもが「天から与えられた才」をもって生まれます。
それはお父さんお母さんが望むものでなかったとしても。
生まれ持った種、育ちながら蒔かれた種が育っていくことをオトノネは見守ります。
otonone-オトノネ-は子どもが「自由に」「自然に」生きていくためのお手伝いをします。
そのために自ら積極的に、自分の行動に対して責任を負うことが、オトノネの基本です。
あなたの音楽を奏でてください。
僕にはやりたいことはたくさんある
少子化も高齢化社会も
農林水産業の衰退も
人口減少も
芸術家が生きていけない日本文化も
一度に全部解消するアイデアをもっている。
人が互いに学び合い、成長できる場所だ。
otonone-オトノネ-はその中心。
みなさん、otonone-オトノネ-のシンボルマーク知っていますか?
やりたいことが多すぎて、小学校からの友達にこう言われたことある。
「来世でやれ!」
まず最初に、こちらのリンクをたどって気になる記事を読んでみてください。
「儒教と学歴」はオススメです。
「生きにくさ」を「生きる」ための記事一覧
「現代日本」を理解した後で、先のことを考えてみませんか?
ーーー
心のレッスン
子どもたちのなかには人間関係で悩んだり、人間関係に縛られて勉強どころではない人がたくさんいます。
例えば「無理やりいろいろ聞いてくる人がいる。嫌だけど仲間はずれにされるのも嫌だから我慢している」とか。
例えば「嫌なことを人に押し付けてくる人がいる。嫌だけど仲間はずれにされるのも嫌だから我慢している」とか。
学校の宿題にしても、課題にしても同じです。
自分の心を学ぶための対人関係、人間関係を学ぶためのレッスンをオトノネで受けてみませんか。
「誰かに言われたことを断れない」
「人の目を気にして行動してしまう」
心を守るための方法・技術をお子さんは学んでいますか。
心をまもって、命を強くすることをオトノネは大切にしています。
「お勉強」よりも大切なことではないでしょうか。
人間関係で疲れてしまい勉強どころではない、というお子さんにも、オトノネをお勧めします。
この音楽は多くの女子高校生たちの共感を得ています。
コメント欄をみてみてください。
子どもたちの声に、耳を傾けたいと思います。
[embedyt] https://www.youtube.com/embed?listType=playlist&list=UUHGGjDM6Z7nq5qBIPzn1D7Q&layout=gallery[/embedyt]
人間関係を学ぶ、「こういうときどうしたらいいのかな?」とか「どうしたらいいかわからない」といったお子さんへのレッスンも通常のレッスンと同じです。
大切な「命」と「心」をオトノネで見つめ直してみませんか。
参考書を使った勉強法
あなたに必要な順序で、必要なだけ、必要なものを勉強しましょう
otononeではとにかく「みんな」でするのをやめます。そして次のことを原則として、みなさんとお勉強をしていきます。
- あなたが希望する学校に合格するために戦略的に勉強する。
- あなたの感性に合う参考書をつかう。
- 数多くある参考書を、基礎から順序だててとりくむ。
例えば数学。もし数学が苦手!で理系だったとします。センターの配点が高い地方国立大学だとしましょう。そしたら、二次の勉強まで一生懸命やるよりも、もしかしたら2次は他の教科で点数を取る方がいいかもしれません。所詮受験勉強です。されど受験勉強です。受かるための、やったことが実れば、うれしいですよね。また、あなたの現在の学力、勉強の癖、学校生活をふくめて、本当に勉強の成果をだすためにはどこからはじめたらいいか、きちんと見定めます。基礎もできていないのに英語の長文や文法問題集ばかり解いているようではいけません。世の中の人は「できる人が有名大学に入学すれば塾の名声があがるから、できない子はそのままにすればいい」という考えの人がいます。合理的ですね。だからotononeは非合理的な塾かもしれません。完全個別指導専門だからです。
あなたが使っている参考書は、あなたのよき友ですか。
大学受験といえば参考書。学校で指定される問題集です。「全員」同じものをやらなければなりませんね。けれど、もしその参考書とあなたの感性が合っていなければ、高校3年間、「気の合わない人」と付き合い続けることになります。それではお勉強がはかどりません。「だれとでも仲良く」なんてできません。無理です。そんないろんな個性を持つ参考書を種類分けしました。あなたのもっている(学校指定の)参考書はどのタイプでしょうか。
- 辞書・辞典みたいな参考書
- 会話してくれる、ドラマチックな参考書
これに加えて、次の要素が絡み合います。
- 参考書が対象としている学習者かどうか/li>
- 口語体か、文語体かどうか
- 本質的・系統的かどうか
例えば有名な数学の「チャート式」や英語の「vintage」は辞書みたいな参考書であり、ドラマにかけます。また口語体つまり会話口調ではなく文語体、硬い言葉です。本質的かといえば、私の考えでは、実は本質的な部分がわからないつくりになっています。今例にあげた2つの参考書は、勉強に慣れている人であれば使えるでしょう。けれども勉強が苦手、その教科苦手!という人が使った場合、この2つの参考書は、お勉強の役に立たないかもしれません。加えてvintageなどの文法問題集は、肝心の英語力とは関係がなく、文法問題を解くための問題集、になってしまう危険性があります。「会話してくれる、ドラマチックな参考書」とはどんな参考書でしょうか。会話体でできている、直感的に読める、字体が興味をそそる、次の展開が、何が起こるか楽しめる、そういう参考書です。例え英語であれば「成川のinput,output」、数学なら「やさしい高校数学」でしょう。どちらも口語体で書かれています。本質的・系統的とはなんのことでしょうか?例えば数学の「チャート式」は解放を覚えていく、暗記型、辞書を破り捨てて食べていくタイプであって、「じゃぁどの問題が大切なの?」かわかりません。その点、「駿台基本演習」は大切な問題がきちんと細分化されています。本質的であるとは、積み上げていけるということ。もしくは学問的に正しいこと。本質的でないとは、マスを埋めていくようなイメージです。上も下もなく、埋まっていないマスを埋めていく作業。もしくは学問的に間違っている、大切なことをちゃんと大切にして喋ってくれない。これが辞書・辞典みたいな参考書の特徴です。もちろん、そのやり方が合っている人もいるから、人間は不思議です。
おとのねさんは生徒が卒業する時を待っている。
カウンセリングも同じで、人との付き合いも同じで、お互いの役割を終えたら、別れるようになっている気がする。
通い続ける塾に意味はない。
一人でできるようになればいい。(それまでの間、力を蓄えてほしい)
自分のことがわかって、ああこうしたら、こう考えたらということが、お母さんがわかれば、小学生は大丈夫だ。
高校生では、進路さえはっきりしていれば、やり方まで身につければ、あとはぐんぐん進んでいくだけでいい。
僕の数学の講義(開成高校の生徒と一緒に受けていたあの塾の4時間講義のアレンジ短縮受験特化バージョン)を必要とする人は、富山にはほとんどいないだろう。
(みんな大手のなんちゃらセンターに流れるらしい)
ある子なら、オトノネにいるよりも、別のプロ、その道の仲間に出会った方が有意義かもしれない。
ある子なら、もう悠々と一人で黙々と勉強をしていったらいいかもしれない。
ある子なら、、、、
そのときは、突然、やってくるものだから僕が考えてもどうしようもないけれど。
ーーーーー
大切なお金を、その子のために、ナニに使っていったらいいか。
その子のことをおもったら、個別化することを考えたら、、、、
そんなクソ真面目だから、頭おかしくなるんでしょうか。
オトノネとおとのねさんの関係
今でも覚えている。ある日突然、英語の辞書を引いているとき、手が止まった。窓際の、教室の真ん中くらいの席だった。私は鉛筆を置き、立ち止まった。私は「無意味さ」「生きる意味」を考えることになった。それを書き連ねて今もどこかにデータとして残されている膨大な文字たちのほとんどは、命という現象がただ私の中で鈍く輝いていることを表しているにすぎなかった。と、少したってから気がついた。「生きる無意味さ」と「死ぬ無意味さ」のなかで生きているのか死んでいるのかわからない妄想の世界をしばらくの間、とぼとぼと歩いていた。私はある時ふと、何かの拍子で「生きるというのはただの現象なのだ」という言葉でそれを理解した。生きるとはなんであろうか?それはただ火が燃えているのと同じ、現象なのだ。どうして火は燃えるのか、という問いの答えの果てにあるものは、宇宙である。夜、空を見上げれば天上に見える、星空は、宇宙である。私は宇宙の中でただただその光が消えるまで燃えているだけなのだったと、私は突然、感じられるようになったのである。
私は「意味」を探していた。けどその答えは、私の探していた場所には見つからず、突然どこからかふっと湧いてきたのか、わからない。とにかくやってきた。やってきた言葉を育てて、自分サイズにしていくのに、またまだ時間がかかりそうだ。命という現象を、身体化することに、私はだいぶ手間取っている。
「どうして生きるのか」「生きる意味とはなにか」「生きる価値とはなにか」という問いの答えが全くの死角から、世界のどこからかわからぬ場所からやってきた。同じような問いを、今度はされる側になってみよう。「どうして人を殺したらいけないの?」と子どもに聞かれたら僕はなんと答えるだろうか。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いが発せられる現象が表しているものは何か、という問いの方が、大切なのではないかと私はおもう。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いを子供の心に生み出した社会のあり方、人間関係、子ども時代が、この問いを生み出した。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いに「人は一人では…」とか「自己は他者がいるから…」などと回答することは、不安げに差し出された眼差しに、平手打ちを食らわせるようなものだ。この問いを、言葉を、心を、すくい上げて目の前に見せてくれたその子の魂を抱きしめる他に、何ができるだろうか。
このように考えられるようになったのも、言葉の背景にある心の存在、言葉に含有されない心の不思議さを僕が知ることになったからだともう。僕がかつてそうであったように、言葉の背景にある心の世界を感じられない人がたくさんいる。僕がかつてそうであったように。みんなそのうち気づけるかな、とおもうこともできるが、どうやら、死ぬまで気づけなさそうな人たちがたくさんいるのだと、最近になって思い始めた。子どもたちが、そのおかげで苦しんでいる。心が擦り切れている。平手打ちを食らわされている。僕に何ができるだろうか?心を失った親から離れられない子どもに?学校で暴力を受けている子どもに?
そこで僕は思う。何かできるか、と思うことが、厚かましいのではないか。子どもは子どもで、生きている。僕は僕の命を輝かせればいい。生きるという現象を、強めていけばいい。風除けが必要なくらい小さな火だったのが、強くなって、山火事くらいになったら、みんなの命も燃え始めるかもしれない。今はそうおもって、薪を集めているところだと、自分で言い聞かせている。だがそれは自分の無力さを、小ささを隠すための私の心の弱さだった。自己欺瞞であった。
僕は小さい。小さいなりに音を出していこう。それが私にとっての、オトノネである。
オトノネという実験劇場で、僕はぼくなりに、しばらくやってみようとおもう。
オトノネが公的機関でないからいいところ
DVの現場に子どもがいる場合、それは面前DVといい、児童虐待として発見者が児童相談所に通達することになっている。DVされているお母さんがよくても、その子がそれでいいのかどうか。法律の答えは、NOだ。
もし法律がなくても、オトノネはNOという。
DVのような大げさなものでなかったとしても。
それが、子どもにとってどんな影響を与えているのかをしっかりと観察し、感じてもらって、しあわせが育つことを祈り続ける。
機関どうしての「なわばり」など子どもには関係ない。
大人の都合で子どもが困りすぎだ。
公的機関になると、業務が細分化され、「これはうちのいうことじゃないから」といって、かゆいところに手が届かない、大事なことを言えない、気が付いていても、話せないことがたくさんある。
学校の先生は学校の先生の領分で話す。
おかげで、本当にその子にとって大切なことを、言うことができない(先生だって学校の呪縛にかけられた犠牲者かもしれない)。
ただ何者にも縛られずに、その子の成長を祈る一人の大人がいる場所。それがオトノネです。
2つの世界の間にて2つの世界の間にて
昼間。せいさ高校の生徒たちと話す。
夜間。富山高校の生徒たちと話す。
ふたつの人生がもっているストーリーの違いがあまりにも大きすぎて、僕の体は二つに引き裂かれてしまった。ような感じ。
違和感が残ったまま、今日も眠る。
「偏差値が上がると、精神年齢が低くなる」というのは富山高校の生徒の発見。
いや実に、そうかもしれない。そうみようと思えば、そう見える。
だが。
憐れむことも、羨むこともない。
だれもが、だれもが、本気で生きている。
この街のどこかで今も誰かが叫び声をあげている。
生徒が来なさすぎてほとんど塾を諦めかけて最後くらい富山中部高校の高校生に全力アタックしようとしているおとのねさん。
今まで自分が歩いてきた道は、運命の糸は、もう、どこか僕の知らないところで別の紋様を描いているのかもしれない。
それが誰かの声を無視することになろうとも。
不完全な部分を、別の誰かにおぎなってもらおう、とおもう。
ーーーー
高度経済成長の時代、働くだけ物が手に入り、人は興奮し、喜んだ。
そのような時代だった。
そんな時代(いや、もうちょっと前の時代だったか)でも、工場に働く女性労働者たちは性の暴力を受けていたのも民俗学の本に記録されている。
高校進学率が高くなったのはいつからか。
大学進学率が高くなったのはいつからか。
いったい、もう一つの世界を作ろうとした人は、何を狙っているのか。
工業でそこまでの成長が見込めなくなったとある人が、教育業というものでお金を稼ぎ始めたのだろうか。
嘘でも真でも、人々が信じればそうなる。
ベビーブームで人が増えた。
社会が人を品定めし始め、教育が競争を表すようになった。
ーーーー
二つの世界の両方で、しばらく感じることを、感じていこうとおもう。
おとのねさんの人となりと言葉について
おとのねさんはいろんな言葉を使う。
カウンセリングっぽいとき
「教える」とき
ブログかくとき
買い物するとき
面談のとき
だれか一人だけいるとき
複数いるとき
おなかすいているとき
ねむたいとき
子どもと遊んでいるとき
youtubeの動画にコメントするとき
Facebookに投稿するとき
「いいお母さん」を演じているお母さんと話すとき
心を開いている人と話すとき
(面談の時、一瞬、怖いイメージをもった、という人がいる。多分僕が瞬間的に「どんな言葉をつかったらいいんだろうかな」と考えていて真顔になっていたのかもしれない笑物腰、言葉遣い、表情、素ぶり、ひとつひとつが僕が言葉を選ぶ要素になる。頭おかしくなる。)
誰に話すか、どんな状況で話すか、そういう条件がひとつ違えば、雰囲気も変わる。(変わらない人もいるだろうが)
(このブログは僕のメモがわりに書いているものであって、決して読みやすく書いてはいない。多少は、配慮しているが笑)
場所が違えば文化も違う。
僕はそこになんとなく合わせているのか、変わってしまう。
たとえば、ウラとオモテで、オトノネの雰囲気は変わったとおもう。(問い合わせのおフォームとかないからね!ウラだからね!屋根裏部屋!)
どちらもオトノネです。
どれもぜんぶ、おとのねさんです。
よ!
人間だもの
おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを支払う動物か)
話し方にはいろいろある。
いろんな分類ができる。
感情レベル
認知レベル
行為レベル
例えば、幼児期の子ども
感情レベルでは、「痛かったね」「嫌だったね」「悲しかったね」「楽しいね」といった感情と言葉を結びつけることとか
認知レベルでは、「あ、ほら、あそこに何々がいるよ」とか「待っているからね、ゆっくりでいいよ」とか
行為レベルでは、「おしっこしてくる?」「ほら、カバン入れるの忘れてるよ」とか
行為レベルのほとんどが、実は子どもからの応答になることが多いのだが。。
具体例をみればわかるように、
3つを厳密には区別できないくらい、つながっている。
特に近接する感情と認知、認知と行為の言葉の繋がりは大きい。
例えば、悩める高校生の話
例えば学校ではこういうことを言われるだろう
行為レベル「これをしなさい」「あれをしなさい」「君は補習だ(来なさい)」
認知レベル「この参考書は今頃、◯周目に入っているものだ」「うちの高校は多くの優秀な人材を…」
感情レベル、思いつきません。
人によって、状況によって、どのレベルで話をしらたいいか、どのレベルなら、今、受け取れるかを、伝えられるかを考えて、僕は話のレベルを変える。
今その状況では「感情レベル」や「行為レベル」を伝えない方がいい場合が多い。
小さい子であれば、「認知レベル」での話もできない可能性がある。(話して聞かせることができても、対話ができない場合、話をせずに、非言語で関わりあうことを僕はする)
僕が喋るほとんどが「認知」レベルの話だし、このブログにつらつらと書きとどめているのも「認知」レベルの話がほとんどだ。
(そしてできるだけ「感情」レベルの内言に触れるようにしているつもりだ)
ーーーーーー
その点、純粋な物語(教訓とかそんなものが含まれていない不思議なもの)は、どのレベルにも等距離にあって、聞く人を「誘う」だろう。
「導く」「任せる」「誘う」。ご招待。
読み手に多くのことを「誘う」。
何も感じない人には感じない。
話しての、書き手の話し方、書き方によって感じれないだけかもしれない。
「任せる」という言葉が少し消極的であるとしたら、
「誘う」は積極的な意味を含めている。
話し手は、書き手、は、「任せる」以前に「誘う」ように、話し方を、書き方を強めていったらいい。
そうすることで多くの心が動くから。
ーーーーーーー
大きなスケールで考えてみよう。
行動レベルで、視点を大きくしてみようとしてみよう。
大きな時間の中で、考えてみよう。(例を出すだけで、もちろん別の言葉を考えることもできます)
学校や保育園の先生、お父さんお母さん、いろんな人がいろんな「行動レベル」の言葉を使っていると僕はおもう。
就学以前は?子どもが小学生になって、「椅子に座っていられるように」「宿題ができるように」「一人でもできるように(自立)」
小学生は?「先生にいわれたことをするように」「テストで悪い点をとらないように」「友達とたくさん遊べるように」
高校生は?「いい大学にいけるように」「あなたは、◯◯センターに行きなさい」社会に出て、「いい会社に行けるように」「会社を選べるように」
行動レベルで触れる多くは、他者からの言葉がけであるように感じた。
認知レベルでみてみよう。
就学以前は?「」
おとのねさんは今ふとおもった。
行動レベルの言葉をマクロで考えると、どこか「目標」めいたものがでてくる。しかもそれが「子どもの心と離れている」言葉が多いようにおもえる。(僕の頭がそうなっている)
認知レベルの言葉をマクロにするとどうなるか。
再度挑戦。
認知レベルでみてみよう。(言葉を使う人を、本人の内言とする)
就学以前は?「いろんな失敗はあるかもだけど、助けてくれる人がいる」「「やらなきゃいけないこと」をやったら、あそべる!」
小学生は?「世の中おもしろいことはたくさんある」「学校はつまんないことが多いけど、友達と会えるのはここしかない」「お父さんお母さんはこういう人間だから、私はこういう作戦でお父さんお母さんと関わろう」
高校生は?「僕たちの青春は、漆黒のブラックに染まっている」「課題の海で溺れている」「わけがわからない」「しゃーなしや!」
拙い例しかでてこなくて申し訳がない。
認知レベルはどこか「世界観」「世界のルール」、性格に関わってくるように思える。
感情レベルは?(内言として考えました)
「◯◯たのしい!」「◯◯したい!」「◯◯、行きたい!」「◯◯嫌だ!」「◯◯つらい…」
この部分は、未就学児でも高校生でも変わらないような気がする。
心に一番近い部分だからだだろうか。
うーん。
ーーーーーー
抽象化するのも少し気がひけるが、
愛とはなにか?
感情とは、「情(心的エネルギー)を感じる」チカラであって、得体の知れぬ「気持ち」を表すだけではない。
感情豊かに、という言葉がその使用例。
そうすると、感情的に、という言葉は心的エネルギーを感じながら、という意味になる。
多くの心の「症状」はこの心的エネルギーがうまく「まわらない」「だせない」ことで起きてくるようにおもう。
情を感じるチカラで、心を大事にしてほしいと、僕はおもう。
ーーーーーーー
子ども時代は、厳しい現実から離れて、大人から守られている。
(大人ほどに現実の厳しさはない。愛をたくさんもらえる)
だからこそ、大人が作り出した環境が大切になる。そうでしょう?
「子ども時代」が長引くようになったこの世の中で、大人は、きちんと大人としての責任を自覚しているだろうか。
保育園卒業時の目標が「椅子に長時間座れること」だとしたら、認知レベルはどうなっているのか?感情レベルはどうなっているのか?小学校で子どもが突き当たるであろう困難さ、試練に対して、就学以前にどんな知恵を、振る舞いを与えて、自立していってもらうか。
願いであり祈りの言葉がけ。
おとのねさんは、「今目の前の状況に困っている」ことは、「死ぬまでの間にもう何度か出会うであろう困難さ」と向き合うための学びを得られる場所だとおもっています。だからそれは「行為レベル」であるよりも、「認知レベル」であることが多いし、「感情レベル」で感じてもらった方がいいこともある、ということを考えます。
おとのねさんは「こうすればああなる」という世界ではないという認識をしています。
不確定、不安の時代だから、です。日本が。
ーーーーーーーー
AI、AIというが、もしそう言う時代になったら、行為レベルの関わり合いが強まるきがする。認知レベルも強まるだろう(AIの得意分野だ。ただ、データの外にある認知には疎い!)、そして、心の部分が、削がれていくだろう(インターネット上で「心」の現象を再現できても、どれもインターネットという限界を超えることができない。AIが進化するための条件、ビッグデータにどれだけ「心」が含まれているか)。
Siriを引き合いに出して申し訳ないが
「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「深呼吸をして、温かいお茶を飲んでみてください(行為レベル)」
「この前もそんなこと言ってたよね」
「てへへ」
「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「それはこうこうこういうことだからだとおもいます(認知レベル)」
「いやそれはわかっているんだけどさぁ」
「てへへ」
「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「嫌だったのですね(感情レベル)」
「そうそう、僕の愚痴を聞いてくれるかい?」
「聞きますよ」
…そうしていろんなパターンを学びながら、フィードバックを受けながら、人の心と関わる機械が生まれるかもしれない。
かもしれない!かもね。けどそこに限界があると僕には思う。これから、人間が機械に近づいて行かない限りは…
機械の限界の中でしか暮らせない人間がいたとしたら、少し、僕にとっては、おもしろくない。
ーーーーーーーーーーーー
人は、税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か。
大切なものを、大事にしていたら、お金に追われながらも、時間に追われながらお、しあわせになれはしないかと、僕はおもっている。
お金とどう関わるか、どのように死ぬか、そうした一人一人の人生観を、死生観を、子どもに伝えていけないだろうか。
(そのグランドデザインをつくる学校という場所が、病気だから、お父さんお母さんがしっかりしたほうがいい)
けど人はひとりひとり違う(課題がちがう。大抵、お父さんお母さんのやり残した課題に再び取り組む場合が多い)
この時代に生まれ、生きているというオリジナリティーもある。
だから、その子が進もうとしている場所に、一歩踏み出すだけでいい。と僕はおもう。
踏み出した先でまた、その子なりに取り組めるように。
同じところをぐるぐる回っている子(あ、これはあの時の繰り返しだと気づいた子)がいたら、オトノネさんはたぶん役に立つ。
非言語で。
言語で。
「教えるべきこと」と「教えてはいけないこと」を、今でもまだ考え続けている。
【大人の宿題】「愛」を学ぶ心の屋根裏部屋otonone-オトノネ-
カウンセリングルームでもつくろうかなとおもってきた。
そんなお話。
ーーーーーーーーー
お母さんが学ばないといけない理由は何度か記事にしてきたがもう一度。。
一人の人間を尊重するというのは、「人間」を尊重するのであって、「人間」でなければ尊重する必要はない(機械を尊重する必要はないのと同様)。
ただ、うまい具合に対処するだけだ。(日本は、そういう国だ。もう認めるしかない。)
考えること、感じることができない、目の前の子どもが見えていない人に子どものことを考えろ!感じろ!といっても無理なのだ。
だから、
学校の先生に何をっても、無理なのだ。
保育園の先生に、何を言っても、無理なのだ。
と割り切ってしまったほうが、自分自身の成長が望める。子どもにもプラスだ。
(「学び」の回路が閉じた人と関わってもなにも学べない)
そのくらい、「人間」らしさのない人間が多い世の中だ。
そんな「人間」が希少なこの世の中で、富山県で、子育てしているお母さんがいる。
本当に、大変なことだとおもう。
さて、僕にできることはなんだろう。
オトノネで試したいことはなんだろう。
大人の宿題のお手伝いかなーとおもっている。(大人は子供に宿題を出すが、子どもも、大人に宿題をだしている)
子育てのパートナーとして。
それは僕のお母さん自身が一人で、孤独で、悩みながら、狂いながら、僕を育ててくれたことに対する、僕なりの、なにがしかなようにおもっている。
子どもを塾に行かせるだけで子どもがしあわせになることはほとんど望めない。
お母さんが学ばないと、子どもはしあわせになれない。
そんな時代になってしまった。お母さんは、「ビジネスの原理」からの暴力のなかで、暮らしているからだ。
お母さんが自分を守る術を、学んだほうがいい。
しわよせは子どもにいく。
コメント欄まで全部読んでみてほしい、物語。振り返って、見る。 https://t.co/j7SqCLWWP3
— otononeオトノネさん (@otononesan) February 20, 2020
==============
お母さんに自覚的になってほしいことは次の二点。
どんな人になってほしいか。
お守り
そのためにどんな関わり合いをするか。
愛とは何か?
子育ては、この二点。
「自然」に任せていたら、「命」の輝きがが消されてしまう時代だから。
不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えー『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』
好きなことをして学ぶ。遊びながら学ぶ。子どもの自然な姿。
脳は断捨離する。そして自然のあるところに知恵は生まれる。
心に留めておいたほうがいい。
呪いのかかった暴力の支配する世界で、お守りと、愛がなかったら、子どもを魔王の世界に丁稚奉公させることになる。
つまるところ、自分自身を、子どもを、人間として尊重しているか、人間としてつきあっているか、というお話。
ウハウハ期!https://t.co/DiknDhQVtu https://t.co/9Ef79WN801
— otononeオトノネさん (@otononesan) February 13, 2020
ーーーーーーーーーーー
第一段階は、「どんな人になってほしいか」という願い。
何を子どもに望むか。でもいい。
「何も望んでいません。この子の自由で」という言葉が返ってきたら、違和感を覚えるかもしれない。
「いい親」を演じているだけかどうか、それこそ、僕はちゃんと判断するだろう。
そのために、「自由とはなんですか?」と聞くだろう。
おそらく抽象的な答えが返ってくるだろう。
それを僕は具体化してもらう。
今現実の話をしてもらう。
「どんなときに、子供を心から褒めたか。感動したか」をはなしてくれたらいい。
目の前の「困りごと」はひとつのきっかけ。
「どんな人になってほしいか」を言葉にして出していくプロセスが必要な人もいれば、すでに答えを出せている人がいる。
対話をしながら、屋根裏部屋に閉じ込められた心の大事な部分を見つけていってもいい。
具体的なエピソードを語る。
子どものエピソードではなく、お母さんのエピソードを話してくれてもいい。
(というかお母さん自身が「生きる」価値を、よろこびを、積極的に捉えているかどうか、ただ擦り切れていくだけの暮らしをしているのかが、子どもにも影響している。人は人から学ぶ。お母さんの価値観がそのまま子どもに伝わると考えるのが自然だ)
言葉がでてこないなら、自分を感じる時間が、体験がプロセスを動かすきっかけになるだろう。
そのための「しかけ」をおとのねさんは考える。
=============
多くのお母さんたちの心は不安や恐怖でいっぱいになっていて、子どもの姿や自分の気持ちがわかっていない。
自分の不安を直視せずに、とにかく子どもを使って自分の不安を消そうとする。
「塾」に行かせて終わりのパターンだ。
第一段階でつまずく人は多い。
自分を騙している、自己欺瞞の程度が強いほど、心は落ち着かない。
どれだけ自分が自分の気持ちを隠蔽しているのか(政治家や企業がよくやる隠蔽よりも大切なことだ)。
どれだけ押しつぶされて「生き延びて」きたか。
そういう自覚のある人であれば、第一段階はとりあえず、終わっているといえる。
============
第二段階は、現実的な話であるがゆえに、また別の困難さがある。
時間もお金も有限だ。
大切なものを守るために何をどうするのか。
いままで作り上げていきた自分自身の「伝統」をどう作り変えていくか。
変えていくか。
それこそ、成績が上がらないといって地団駄を踏んでいる子ども(実際は成績など大して気にしていないのだが)と変わらない。
変えていくための、現実との折り合いのつけ方を学ぶ。
その過程で、「お守り」も変わっていくかもしれない。
ーーーー
オトノネに長く、深く、関わってくれているお母さんの話を聞くと、親子関係がよくなった、子どもがすくすくと成長しているのを感じてうれしくなったらしい。
それが、僕が子どもに言う言葉を家でも使ってくれているらしい笑
言葉は心。
お母さんが子どもから学べるなら、それが一番いい。
子どもをちゃんとみられるなら、オトノネで変化する、もしくはオトノネで見せる子どもの様子をきちんと見つけられるお母さんなら、それで十分だ。
けどそれができないお母さんもいる。
そういうお母さんは、塾の代用としてオトノネを使っている。
笑うということがない。
===========
本当に変えたい人でないと、オトノネを使うことはできない。
「定期テスト対策」が好きな人、「宿題をやらなきゃいけない」と思っている人に、オトノネは合わない。
そんな風に、僕は思った。
自覚がない、堕ちきっていない人は、まずちゃんと、ボロボロにならないといけない。
それが、「大人の宿題」の基礎だ。
ボロボロになってから、オトノネに来てください。
僕自身がそうでした。きっと人間、そんなものなんだろうとおもっています。
ドラッカーが言う通り、自分を知ることが、マネジメントの基本だ。
家、家族をマネジメントするために、「大人の宿題」をきちんと認識してみてほしい。
その上で「質問」をしてほしい。
子どもの人生を変えたいなら、親の人生を変えるといい。
それが嫌で、無い物ねだりをして「塾」に甘えて子どもを強制収用するから、子どもはかわいそうだ。
そういう暴力的なお母さんが、たくさんいる。
ーーーーーー
ただ、ボロボロにならなくても済んでしまうようなさまざまな仕掛けを、文化は用意しているから、本当に日本は魔界そのものだとおもう笑
「甘え」の関係は、創造的であると同時に、破壊的だ。
「分別」とは、人間の理性とは、どちらに転ぶかわからない綱渡りを無事に終え、子どものように笑いながら死んでいくために、使うといいのかもしれない。
ねぇ、そうでしょう、ツァラツストラ。
【子育ての原理】フルーツバスケット
フルーツバスケット
子育ての原理の体現者??
本田透さん
アニメから、学ぶ。
聞くこと
小学3年生の子がオトノネに来ている。
その子にこんな質問をした。
「今日楽しいことあった?」
「全然!」
「どんなことがあった?」
「ドッチボールをしていて・・・」
当たったんだけど、上級生の子が「バウンドしたから当たってない!」といって、負けたと。
どんな気持ちだったかと聞くと、悔しいと。
お母さんが迎えに来た時にそのことを話した。
私の前では言葉だけだったが、お母さんの近くで悔しそうに、足で地面を踏んづけて、泣いた。
学校の授業中でも、学校の休み時間にも、いろんな出来事が起きる。
感情が出てくる。
感情を一つ一つきちんと感じて、その気持ちとどう付き合ったらいいのか。
発散したらいいのか。
悪いものをためないようにするための関係づくりをしていきたい。
思春期を迎えるとこの感情処理システムはだいぶ固定されるように思える。
勉強だけでなく、その子自身の心と向き合える時間をつくりたいとおもった。
なんで勉強しなくちゃいけないの?
こんな質問をたくさんうける。
いろいろな答え方をしてきた。
今日はもうはっきり短く答えてみよう。
「あなたがしているのは〈勉強〉ではなく、課題であり業務であり労働です。」
勉強が〈勉強〉にも受験勉強にもなっていない子が多い。
教えるプロではなく、受験のプロの助けが必要なら、オトノネで始めてみませんか?
「本気」の「本」とはどんな意味か。【オトノネの座右の銘を解説】
当たり前のことだとおもっていたけど、当たり前ではなかった話。
1回目の挑戦
「本気」の「本」はどういう意味かと生徒に聞いた。
よく伝わらなかった。
2回目の挑戦
「本」という漢字を含んだ言葉を羅列してもらった。
紙に書き出してもらった。
生徒曰く「クイズ番組みたいですね」
まぁね!
生徒が出したもの。
本
本体
本田
本棚
本調子
本題
資本
脚本
基本
絵本
日本
本能
本命
本心
本店
本人
見本
原本
僕はこういうのを出して欲しかった。
根本
本当
本音
本来
抜本的
本位
本性
本質
本望
本意
じゃぁ、「本気」の「本」ってどういう意味かと聞いた。
3回目の挑戦
例えば、「目に見えるもの」「人の気持ち」という答えが・・・
それは、二字熟語全体の意味であって、聞きたかったのは「本」という漢字のイメージだった。
では、漢字辞典を引いて、「本」の語義を確かめてみよう!
漢字辞典の弾き方しらなかったから一緒にひいた。
でてきた!!
「木の太い根元につけられた印」らしい。
それから辞書には細かく語義が分類されている。
①「もと」
イ:「物事の大切な部分」(同意語:要)
ウ:「農業」(例:農は国の本(もと))
エ:「心」
②「ほん」
イ:「物事の基礎。土台。」(例:基本、資本金)
エ:「中心となる部分」(例:本業、本社)
オ:「この(近い人や物事を指す語)」(例:本書、本人、本日)
カ:「正式の(法律・規則などで正しいと認められている)」、
「正しい」(例:本名、本物)
キ:「習う人が見たり聞いたりして学ぶべき物事」(例:手本、見本)
ク:「書物」、「文書」(例:絵本、古本、台本)
ケ:「昔から同じである事」、「それが当たり前である事」(例:本来)
③「それが土台となって起こる」
このイメージを助けにして、「本」の意味をグループ分けしてみよう。
もちろん分け方はひとそれぞれだけど。
4度目の挑戦
できた!
実はこのレッスン、「君が一番本気になったのはいつ?」という質問から始まっている。
その時を10だとしたら、今勉強に対してかけている本気度はいくつか。と、問う。
本気度に応じた結果しかでてこない、ということを真面目に伝える。
(もちろん、そもそもが遺伝的に能力がある子は本気でなくとも結果はでてくるのだが。だから高校で困る子がいるのだが)
勉強と部活以外にやることがない、大人が楽しそうなことをしていて、一緒に楽しんだり、子供同士が遊べる場所がない、という過酷な現代社会を子供は生きている。
ただ僕ができることを、伝えられることを、伝えるべきことを、誠実に伝えることで精一杯だ。
「資本」がこんなにも枯渇した社会。
「本心」を探していってほしい。
【失敗はない】オトノネ流、学びのプロセス。
成長!といわれたら、直線的なイメージを思い浮かべていませんか?
伸びていく一方、とか。(某大手予備校の矢印のイメージ)
ビジネスの世界で伸び続けることはできるかもしれません。(富国強兵、経済的な利益を無理に伸ばそうとして自民党公明党は国民の安全安心を無視していますね。)
ですが子育て、学びの世界では、伸び続ける、ということは、ちょっと変な話です。
(子育てをしている家庭は全員、少なからず野党に投票してほしいとおもいます。ちょっと学べば、そう思えるはずです)
ホルモン剤を射ったら数値が上がるとかそういうものではないです。学びは。
と、僕はおもうのです。
ライフステージのそれぞれで、らせんの大きな変化が生まれたりします。
らせんを描きながら、小さく振動しているような学びもあります。
壮大な、ぐるぐる。
健康が大事。受験の極意は健康から。学校に引っ張られている足をどうする?

健康第一。安全よりも健康。で、集中できないとか、いろんな相談をオトノネは受けるのだが。体が問題を抱えていたら、勉強どころではない。勉強は遊びだ!おもいっきり遊べるように、体をゆるめてあげなくちゃ!というわけで、今日はストレッチの練習をした。
健康とは、病名がついていないことではない。心を、体が支えられているか、応援できているか、体が、心とつながっているか、ということだ。命が燃えている。魂が喜んでいる状態だ。(健全な肉体に・・・という文句は誤訳であることはご存知だろうか。そもそも、健全な肉体に宿った不健康な精神が世の中にはたくさんある。健全さとはなにかはさておき、私にはそうおもう)
姿勢を保てない、どこかに力がかかってすぐに疲れる・・・そんな体でお勉強できるか!本気で遊べるか!受験という経験は、遊びと同じで、自分の能力を最大限に使う経験だ。本気を出せる状態を作り出した人が、いい受験を経験できる。
日本人はあまり呼吸をしない。韓国にいくとみんな目に見えるくらい息を吸ったり履いている。外国人が話すときはジェスチャーをつかったり、体全体で息を巡らせている。インドネシア人は、笑顔で話している。日本人は、太陽神経叢が弱い。。。日本人は、と言ったら誤解があるかもしれない。現代人は。。ストレスに耐えきれずに、体が陰性になっている人がおおい。塾の宿題ができなかったことを僕に話す時、息が詰まったように話す生徒。「学校でもそうなんじゃない?」と聞くと、「そうなんです」と答えてくれる。神経は記憶している。宿題ができなかった理由はさておき、息が詰まっているのがいかにも辛そうだ。仕方がない。。。試しに体を緩める経験を受験時代にしておいてもいいだろうとおもい、やってもらうことにした。
姿勢を変えるということは、肩こりをなくすということは、喋り方を変えるということは、生き方が変わるということで、そう簡単には変わらない。だから一時的なマッサージを受けるだけでなんとかしのぐ人がほとんどだ。けど、すぐに、神経が記憶しているルーチンに戻って、すぐに体がもとにもどる。剥がした筋肉がまたくっつく。
できるだけ、体がゆるまっている時間を、体に味わってもらおう。それを寝る前、毎日、体に、神経に、記憶してもらおう。力をぬくことから、新しい学びがはじまる。息を吐きながら、身体中の緊張を、吐き出そう。さぁ、君は捨てられるか。
僕は学校でびくびくして神経をすり減らす時間が君の心をすり減らしているようでいいようにおもえない。
勉強をする意味って何?
生きる意味ってなに?という質問くらい、謎めいた質問であって、大抵の大人たちが困る質問です。答え方も人それぞれ。
意味はどうやってできるのでしょうか。サルトルは「人間とは、存在するために、自らを投企する存在」みたいなことを言いました。
実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(中略)人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。
つまり、自分が作り上げた人間が自分だ、意味(本質)は創造されるものだということです。勉強をする意味も、生きる意味も、自分で作らなくてはいけない。それが人間だといいます。キェルケゴールは関係性によって移り変わる本質の姿を描写しました。
「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。 」
学校での勉強、会社での勉強、人間としての勉強、同じ勉強でも意味が変わるかもしれません。大人になってから「ああ、勉強していたらよかった」ということも、世界と自分との関わり方が変わるからです。
結局、「勉強する意味がわからないからやらない」ではいつまでたっても意味などわからないということです。意味がわからないけど、やってみないと、意味はつくられない。それが人間の姿です。とにかく1分でも30秒でも、1個でもやってみる。
私は、高校生が進路に向けて勉強する意味は、利害関係に満ち溢れた「大人たちの世界」と対等に関係を結ぶための、人間として自立するための練習をすることだと思っています。戦場のような場所で「自分と向き合う」「自分を知る」、孤独な営みかもしれません。だからこそ、誰かに支えられながら、前に進んでいって、たくさんのことを学んで、春になって、新しい世界でうんと体を伸ばして、にこやかに、ごくごく自然に、また次の世界に進んでいってほしいとおもっています。
なんで勉強しなくちゃいけないの?2
〈勉強〉はよりよい人間にたるためにする。
よりよい人間とは?
「いい学校」「いい会社」を目指すのではなく、「いい人間」を目指すのが〈勉強〉だ。
「いい人間」になるために「いい学校」「いい会社」に行くこともできるし、
「いい学校」「いい会社」に行かなくても「いい人間」にはなれる。
よりよい人間とは?
幸せになる人間である。
どんな人が幸せな人間だろうか?
世界観、人生観を問わなくてはいけない。
これまでの社会は与えられた作業をこなし、与えられる賃金をもらい、与えられたサービスを消費することが幸せの定義であった。
競争に勝ち、より多くの給料、より高い地位・名声を得ることが幸せの定義であった。
現代では「ふつう」になることが幸せになること、だといわれているかもしれない。
では「ふつう」とは?
「ふつう」という概念は社会的に決められている。「ふつう」という幻想を与えられている。
〈ふつう〉という生き方のタイプは目指すものではなく、後になって得られるものである。
世の中にはいろいろな〈ふつう〉がある。
いろいろな幸せのカタチがあるといってもいい。
自分はどんなチカラを発揮して、どんな場所で、どんな人と関わることが〈ふつう〉なことなのか。
そういった世界観、人生観を作り上げていくことが〈勉強〉であると私はおもう。
オトノネのしていることを学問的に理解しようとすると大変、難しくなる件
だからもう不思議の国のおとのねということにしてください。 ーーーーーーーーーー おとのねは 現代物理学の不確定性 生態学と文化の多様性 建築学と演劇の身体性 哲学の反省性と寛容性 科学の合理性と論理性 芸術の根源性と抽象性 そして心理学の統合性に基づいた関わり合いをしていきます。 それが教育・保育・療育を超えた人間性につながると考えています。 漢字が多くて意味不明ですね。おとのねさんは真面目だということです。 多くのお母さんたちは「塾」に現代物理学の原則に反する「確実性」を求めていると思いますが。 オトノネはそのようなものは出せません。合格実績も残念ながら、出しません。 他人の合格実績よりも大切なこと(オトノネの合格実績ポリシー) 科学的な「合理性(効率性)」ならいくらでも出せますが。 だからまず最初に、当然ながら、効率を求めるなら、まず非効率な課題をやめようぜ!ということができますが、それは心理学の「統合性」に反するケースがとても多いです。 つまるところもうがんじがらめで課題に心が囚われているところで、(学校の先生のプレッシャーが引き起こした心身症・学校恐怖症で「学習性無気力」で)課題をやらない、という選択肢を選べない子が多い。 それで、無理やり「やらせない」ようにして心が崩れてしまっても困るなぁと頭をかかえるのがおとのねさんです。 やってもいいんだけどさぁ、時間は限られているのよ?両方やってみる?やってみてもいいよ?けどルールを決めよ? という感じ。 課題やテストをうまいとこマネージしないと「本気」が出せないくらい、課題が恐ろしいくらい出るのも事実。 学校が足枷になっている人がたくさんいる。(サーカスの像の話を、聞いたことはないですか?本当は、囚われていないのに、小さい時に、鎖を繋いでおくと、「学習性無気力」によって、大きくなってから、逃げられるはずなのに、「どーせ逃げられないんだろー!」といって、ちっぽけな杭を引き抜けなくなっているという話) 絶対に合格したい大学がある。 けどいくらやっても成績が上がらない。 なんでうまくいかないかわからない。 すでにムリをして心と体が疲れ切ってしまった。 けどしっかり将来を見据えて高校生活を送りたい。 受験勉強はもうしたくない。 小論文、AO入試で大学に行きたい。 けど何をしたらいいかわからない。 世の中がつまらない。 おもしろいことないの? 子どもが勉強しない。 子どもは平気そうだが私(お父さんやお母さん)が心配をしている。 子どもが不登校になった。 なにをどうしていいかわからない。 学校のやり方が変だとおもう。 新しい時代に向けてその子らしく学んでいってほしい。 けどそんな場所、どこにもなさそうだ。 そんな「アンビバレント」な人のためのおとのねです。 欅坂(けやきざか)46の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)
教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)
小学生のお母さんからの問い合わせ。
教えても教えてもできない、学校でも、困っているというお話。
そういう子は、他にもたくさんいるというお話。。。
小学3年生で、「できない」というのは、つまり学校の授業においていかれている、ということ。
学校という場所、教室という場所、特定の環境において学び得ることができない子どものケースは多々ある。
場所を選ぶだけで、学び方を選ぶだけで、学ぶ人を選ぶだけで、それは変わりうる。
学び方を学ぶ、それが学びのメタスキルだし、自分を知ることにもなる。
大切なことだ。
「クシュラ」と絵本の物語にあるように、教育とはある一定の「人間らしさ」に至るための個別的なプロセスのことだとおもう。
そのプロセスを集団の中で「回す」ことができる子と、そうでない子がいる。
クシュラの話も読んで見てください。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』
タンポポのようにどこでも育つ花もあれば、ユリのように環境を整えて綺麗に咲く花もある。
『残酷すぎる成功法則』にも書かれている、当たり前すぎる事実だ。
そうした個性化の過程を、当たり前に、必要としている子どもがいる。
そんな「ふつう」が「特別」なのが、学校だ。
もっと、いろんな学校があっていい。
あなただけの道を、歩んだらいい。
きっとその風景を楽しめるようになるから。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.
教育の現場の方と最近話す機会があり、こういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.
子どもは大人の背中をみて育つ。
という言葉がある。
たとえば今の世の中、「好きなことをしなさい」「やりたいことをやりなさい」という言葉が溢れている。
けど学校の先生は好きで学校にいるわけではないし、やりたいことをやっているわけではない。
(そのなかで生徒をちゃんとみてくれる先生と出会えたなら、しあわせだ)
思春期に教わるべきなにかを学校の先生から学ぶことはできない。いや、そんなもの教わるものでもないのだろうか。
高校卒業までにしておきたい発達の課題、は、大学まで先延ばしか。学校は学校で、自分たちの課題で忙しい。高校生の課題に付き合っている余裕はない。
何しろ、お金がないのだ。「大学進学実績」を出さなければ、予算が入らない、潰される、統合される、先生が職と名誉を失うかもしれない(自己保身)。。。。そういう恐怖と戦っている。もう教師という仕事に魅力がない。公務員試験に合格し教員になった人が、やめていく。そんなことは、かつて、絶対になかった時代は終わったらしい。試験を受けたら入れる、そんな時代になった。人材が入ってこない。人材を選べない。。。。(素晴らしい先生もいますよ、もちろん!)
大学に入ったら、大学に入ったで、みな「就活」をするという。まぁ、そりゃそうか。
生き方、世の中について教えてくれる人はいない。そんなもの教わるものでもないのだろうが。
結局、自分で気づく、自分で学ぶ、自分で道を作っていくというメタスキル をもっていないと、どこかでこの課題をやり直すことになるだろう。自立するということだ。学校からも。親からも。
親が80になってもこの課題に取り組み続ける人もいる。
そしてこういった人たちの福祉のために国は予算を削る。負の連鎖ですね。
僕も含めて、人間はそういう生き物なのだろうけれど。。
もう時代は変わって、やるべき「本当の課題」が変わったと僕には思える。
(今の僕の課題は大企業に勤めてお金を稼いで結婚して家や車を買うことではない。)
お母さんがそれを知っている場合が多い。
なぜか、オトノネにきてくれるお母さんは、それを知っている。。。
けど、「じゃぁ、実際どうしたら?」がわからないことが多い。
それを手伝うのがオトノネだ。
子どもは、だから、自分でこの道を開こうとして、友達関係を広げたり、ネット社会に溶け込んだりする。その他色々。つまるところ、社会化したり、特殊化する。個別化する。わかりやすくいえば、役割を探す。自分が溶け込むべき風景を探す。と僕には思えるのだが。
子どもは子どもで、自分でなんとかしようとしている。彼らの本当の課題に取り組もうとしている。僕は僕なりに一緒になんとかまぁできることというか見守るくらいしかできないかもだけど(やるのは本人だ)、それでも言葉をかけ、想いをかけることはできる。オトノネは、「本当の課題」に取り組もうとしている高校生を応援しています。
発達段階として適切な課題に取り組めず、「課題」に心をすり減らされているだけだとしたら、なんと苦しい高校生活だろう。
教育の現場に長く勤めていた方と最近話す機会があり、そういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.
さくらのき
朝、街中の公園に行く。ベンチに座ると、ちょっと枝を切っているもんでね、あぶないから他のベンチにすわってくださいよといわれた。この木はサクラですかと僕は聞いた。そうですと。弱って、死んだ枝を切り落としているという。僕は地面を見た。学校の校庭のような砂利。庭師の人はこの木に注射をして腐らないようにもしているという。そうしてこの木は生きて、春になると、ありったけの花を咲かせる。
僕が悲しいのは、そのサクラの木の物語に、人が気が付かずに、ただ春になれば、キレイだね、といわれることなのだ。いやいや、僕は悲しまなくていい。誇らしい、僕はこのサクラの木をみて、そうおもう。
その木は、いまここで生きているのだから。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。
おとのねさんの頭は混乱しています。
僕はいくつかの保育園で仕事(勉強)をしているが。
僕は僕なりに勉強をしていた。
(それが実はアンガーマネジメントとよばれるものだったりするのだが)
小さな子どもと関わり、慣れてきた最近。
とある保育士の先生からいろいろと言葉をもらった。
「ぼうっとしてるよ」
「何かしてあげないの?」
「導いてあげないのね」
公園に行ったらタンポポをふーっとしてみせていた。
それからその子は自分でもふーっとやるようになった。
園に帰ってシャボン玉をふーっとしてみせていた。
それから今日、その子は生まれて初めて、自分でシャボン玉を吹いた!
(もちろん、シャボン液につけるところは先生がやった)
1歳8ヶ月の子。
言葉がけや振る舞いのひとつひとつの意味の深さ、繋がりをしる。
できなかったことができるようになったその子は、とても、満足そうだった。
言葉にも、笑顔にもでていないが、真剣な顔、表情、その子が出す雰囲気をみたら、どんなに今彼が自分に驚いて、楽しくて、誇らしく思っているのか、感じることができた。
ーーーーーー
僕は「ぼうっと」しながら、子どもをみていた。
その場で何が起きるのか。子どもは何を見つけ、どのように関わろうとするのか。
僕が気になっていたのはそこだったから。
けどその先生は、何かを起こそうとして、環境を作っていた。関わり合いをし続けていた。
公園にいくときには「公園で何ができるか」考えていっていた。
公園を、その子たちが使い尽くせるような関わり合いをしているという。
日が強い日は日陰が多い公園を選ぶ、とかそういうレベルではない。
なるほど。
シャボン玉を膨らませるなど、教わらなければできないことだ。
そして目の前で、1歳8ヶ月の子がシャボン玉を吹いて満足している。
シャボン玉をこの歳に吹けるように「導く」先生の関わりがあったからだ。
ーーーーー
教育界で最近、話題の坪田信貴さんの指導法も、僕にとっては「導く」ものだ。
定めた目標に向かって、「進ませる」言葉がけ、関わり合いをする。
「導く」という言葉では生ぬるい、「引きずっていく」くらいがちょうどいいかもしれない。
引きずられて、心が擦り切れている子がたくさんいる。
「コレができるように」という目標設定がある。
僕にはそれはできないと思っている。
(まだ、僕にはできない)
(いやいや、目標が決まれば、それに本気で関われる状態になった人に対しては、「道案内」をすることができるし、それが学習塾オトノネの売りだぜ!導くって言葉が、僕にはどこか、合わない)
ーーーーーーー
「導く」か「任せる」か
それが問題だ。
「導かれる」ことで幸せになる人がいるかもしれない。
(実際、坪田さんの著書のあちこちに、「導かれて」人生が変わった人たちの記事が載ってる)
「導かれる」ことで多くの高校生たちが、大量の課題と学校の先生の呪いの言葉に埋もれて窒息しそうな暗い顔をしているのも現実。
「導く」ことの責任が、僕にはこわいのかもしれない。
(というか僕は五行でいうと「水」らしく、僕自身が「委ねる」感じの人間なのかもしれない。けど逆に解釈すると、悠々と誰かを「導く」チカラももっているかもしれない。言葉って難しい)
ーーーーーー
例えばネイチャーゲームとか、学校の授業もそうか。
「自然に触れる密度を高める」ための「導き」がある。
「自然にまかせていたら、得られない学び」をえるための「導き」がある。
そうおもったら、僕が不得手な「導く」という言葉も悪くない。
「任せる」ことができる環境に「誘う」と言い換えてもいいかもしれない。
喜び合えることが一つでも増えていけるように、という愛情だけではどうにもならない。
愛情にはカタチがない。
「導く」という愛もあっていい。
学校に行きたくないんだけど学校に行かなきゃと思っている子に、
「休んでもいいよ」という言葉は、「誘い」であり、「導き」であり、「任せる」ことの全てを含んでいるようにおもう。
保育士のプロは、愛をもって、知恵をもって、子どもと関わる。
その知恵が、保育園という場所で継承されているという。
僕はその知恵を、どうにかして体系化したいとおもっている。
オトノネをお母さんたちの仕事場にするために。(どうやら僕はここが気になっているらしい)
勉強する時間つくるか。
うーん。フルで働くか。保育園で。
あは
ーーーーーーーーーーー
「導いてもらいたい」という気持ちでお父さんお母さんは塾に子どもを通わせるだろう。
そこでオトノネは「いやここは任せるところですよ」というわけだから、度肝を抜くお父さんお母さんもいるだろう。
「導かれて」しあわせになるとはどういうことか、僕にはよくわかっていなかった。
ただ、目の前でシャボン玉を吹けるようになった(真面目な顔で、なんどもなんども吹いている!)その子の顔をみて、
僕は研究を始めようとおもった。
ーーーーーーーー
オトノネの本棚には、ずらりと高校入試、大学入試の「参考書」が並んでいる。
おとのねさんは、その子の発達段階、学習段階に応じて、そして志望校に応じてカリキュラムを組み立てられる。
そのために、どんなスケジュールで進めて行ったらいいかもいえる。(行為レベルの話ができる)
おとのねさんの話し方
今度は、別の棚に、「おもちゃ」を並べて、同じようなことをしようというのが、オトノネさんの計画だ。
その点、「勉強」も「遊び」も変わらないのかもね。
「導く」も「任せる」も、どちらでもいい。
どっちもあっていい。
どっちも必要だろう。
モンテッソーリ教具がその極みかもしれない。
「任せる」と同時に「導く」。
けど僕はもう少し、ぼくなりに、もっと素朴に、おもしろく、「あそびの体系化」をしていきたいなぁとおもった。
例えば、「ひも」というものでどんなあそびが発展していくのか。
乳児期の「ひも」との関わり合い
幼児期の「ひも」との関わり合い
学童期の「ひも」との関わり合い
この流れを体系化していけば、「あそび」がいわゆる「お勉強」にとって大切であると胸を張って言えるようになるかもしれない。
ーーーーーー
保育所でフルに働くかー
どうしよかー
ああーーーーー
残業とかまじで僕無理っすよ?
嫌なんだよなぁ‥保護者を喜ばせるための運動会とか、出し物を「やらせる」とか。(年長になったらやってもいいとおもうが)
その考え方も、改めないといけないかもしれないけど。
(イベント行事を一切(年に一回だけ)やめている保育所を知っている。日々、日常の保育のなかに全てを注ぐというスタンスの園だ。僕としてはそっちの方が好きなんだが。だって、保育士の先生の負担の代わりに得られるものが、小さすぎる(子どものアルバムの写真が増えるだけだ)と、僕はおもうから。子どもはそんな年に一回のイベントがきっかけを学びの時間にするチカラがあるだろうか?年長くらいになったら、できるのかな)
ーーーーーーーーー
有名な倉橋惣三という保育実践者がいる。
この人が掲げた「誘導保育」という考え方は、これなんだろうと、しみじみ、実感した。
「誘う」を英語にすると何か、グーグル先生に聞いてみた。
invite
と出た。
素敵だなぁとおもう。
くるかこないかはわからない。
けど、お誘いしますよ。という姿勢。
その距離感がいい。
この「誘い」を悪用すると、悪徳商法、マインドコントロールになってしまうところが人間臭い。
心が大事。
混乱していた頭が、少し整理できた。
ーーーーーー
あーでも保育園って、やっぱり文化があるから、いろんな保育園で「観察」した方がいいかなー
そうすると、アルバイトができなくなり、金欠になるなぁ困った!
とりあえず笑っとこう!
ーーーーーー
みなさんへの冬休みの宿題。
よし!冬休みだし。
少子化についての話。出生率とかいう数字は、かなりはぐらかされていて少子化という現象の「事実」が伝わっていない。と思うのは僕だけ?お金の問題ではないとおもうのだけど。 https://t.co/RMEKynAe2Z
— otononeオトノネさん (@otononesan) December 28, 2019
このツイートのコメント欄には、いろんな情報がコメントされていておもしろかった。
そこで、、、いや、少子化対策で「子どもの福祉」だとか「無償化」とかは間違ってるよね?
そもそもそんな予算、割かれていないし変わっていない。
まぁいいや。
「少子化の原因は何か」
これがおとのねさんからみなさんへの宿題です。
ググるといろんなのがでてきます。
僕はこういうデータが役にたつかなとおもいますが、ひとりひとり観点がちがうので、違うからこそ、楽しいのです。学びになるのです。
果たして、「給付金」「無償化」で少子化はとまるのか??????
いや、お金の問題だろ!という方は、そのようなデータを、探してみてください。
僕は違った観点から、データを探してみました。
キーワードさえわかれば、、、辿っていけるはず・・・(ちなみにこうした大切な研究は「お金」にならないため大学でも行えていません。大学の先生も「定期テスト対策」で忙しいのです。大切なことだとおもうんだけどな。こういう問題を喋る人は全部「お金」の問題にしてしまう。僕は違和感を感じる。いやそもそも少子化は問題でもなんでもない。という人もいる。現象は、ただ生きて通り過ぎるためのものであると。。。政府は少子化してほしいと実は思っていたりする。労働力は海外から得た方が安い。給料も保険もいらない。会社は「お金」的に得をする)
あ、こんなのもあった。。。
『日本の世帯数の将来推計(全国推計) 2015(平成27)年~2040(平成52)年 2018(平成30年)年推計』
あ、あと、僕としては、あのデータもほしいかな・・・・とか、これが僕の、学び方です。
まず、直感。推論。根拠を探す。それでいけるっぽい!なら、いく!仮説を、検証していく。
知るって、ドキドキすることじゃないか!!??
少子化という抽象語を、現象として、具象として、きちんとみてみる。
そこに、「怪獣」がいるかもしれない。
大人も、宿題!笑(*’∀’人)
【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。
学ぶということはどういうことか。
本当に学ぶとは、自分の精神を未知の世界、危険にさらすことだ。
という一面があるように感じたので書き綴って見る。
封印されていた「事実」を知る。
感じられていなかった「本当の世界」を感じる。
そうした「知」が、人を不安にさせるかもしれない、ということだ。
日本の現実、本当の姿を知った人は、悲観せざるを得ないかもしれない。(喪失体験)
絶望するかもしれない。
そうして死んでしまうかもしれない。
「知る」ということと同時に、「心をつくる」こと。
知行合一というが、僕は知心合一と言ってみたい。
でなければ、心は崩壊してしまう。。。。とおもった。
「知」のレベルは「心」が決める。というか、「知」はチカラだ。そのチカラを使うメタなチカラが、「心」だ。
心が大事。
だから逆に、心がしっかりしていなかったら、「学び」は薄っぺらくもたれかかる紙切れになってしまうだるおお。
心が、意味を、「知」の響きを感じられないからだ。
そう考えると、世の中で「知」と呼ばれているものは、大したことではないのだ。
ただの不安や欲求をかき乱す刺激なのだなとおもえてしまう。
だからオトノネ!笑
ーーーーーーーー
僕が心を揺るがした記事はこれ。
人類とネアンデルタール人が想定よりも古くからセックスしていたことが判明
結構古い記事だ。
嫉妬がネアンデルタール人を絶滅に追いやった!
こっちの記事は、本当かどうかわからないけどいろんな情報が詰まっていて、刺激になる。書いた人の妄想、推測の部分が多い、。。。
で、僕はこういう疑問を持ってこれらの記事を読んだということ。
「人間の暴力性は、人間の本質なのか」
ーーーーーー
かつて、「ホモ・サピエンスってネアンデルタール人に犯されてたんだってよ」と友達が言っていたのを覚えている。
それで、ネアンデルタール人が凶暴性をもっていた、暴力性がつよかった・・・・という前提で僕の思考は進む。
それでも死者を埋葬するという文化(?)があったらしいのだが。ネアンデルタール人の埋葬を改めて確認
ーーーーーー
ネアンデルタール人は、狩がうまいとか、肉体的に強かった、という記述がある。
こういうところから、ネアンデルタール人→暴力性というイメージがでるのかも。
「ヒトは何故生き残ったのか 第二集の見どころ」
それが正しいとしよう。
また、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人よりも多様な音声言語が使えたという。
それも正しいとしよう。
ということは、ネアンデルタール人は埋葬の文化とかあったみたいだけど、文化を伝えるとかそういうものにはよわかったっぽい。
だからネアンデルタール人→新しい状況に耐えられない(暮らしを変更できない)
ホモ・サピエンスはなぜ生き残れたのか【ネアンデルタール人との違い】
ネアンデルタール人のネアンデルタール人らしさは、狩に行く男にあり、
ホモ・サピエンスのホモ・サピエンスらしさは、文化を子供に伝えたり、道具をつくる(?)女にある、としたら。。。
ネアンデルタールがお父さんで、ホモ・サピエンスがお母さんの組み合わせが最強だ。
もっとも環境に適応しやすかっただろう。
もっとも暴力的な男性が集団に必要な狩を成功させるために必要とされた。
またその男を組織化させるような平和的な女性が、集団を成立させるために必要とされた。
この記事にはこんなことが書いてある。
これまで、ヒトの起源であるホモ・サピエンスは、約6万年前にアフリカ大陸から移動を開始して世界各地に広がって行ったと考えられていました。その拡散の過程で、ホモ・サピエンスは当時まだ生存していたネアンデルタール人と交配を繰り返していたことが判明しています。これを裏付けるのが、現代のヒトが持つゲノムの中には、ネアンデルタール人に由来するDNAが1%から4%の割合で含まれているという事実です。なお、このDNAはヒトが持つ鬱(うつ)やニコチン中毒といった症状の元になっているとのこと。
ん?薬物とか酒とかタバコとかの依存症になるのは男性が多いってこういうこと?
男性の方が女性より、ネアンデルタール人のDNAが多いのかな???
=========
こうして妄想を進めると、人類の父であるネアンデルタール人はそもそも暴力性をもっており、
人類の母であるホモ・サピエンスは平和性(暴力性の対義語ってなんだっけ)をもっている、、という短絡的な人類像にいたる。
(この知識の不確かさはさておき)
そうすると、今の社会、というより人間の社会は、男性が動かしている限り平和にはならないというフェミニズムめいた考えになることもでき、さらにはかつて母系社会だったという話の意味もわかるかもしれない。中国の神話では女媧と伏犠が絡み合って世界を成り立たせている図がある。
また男と女の戦い(駆け引き)というものが、神話の世界にもよくある話。
一人の人間の中でも、この暴力性と平和性(いい言葉が浮かばない)が混ざっているとしたら。
一人の人間という宇宙のバランスを保つための心がなければ、どうして暴力性を止められるだろうか。
暴力も、平和も、人間の中に半分ずつ組み込まれている。
暴力は、人間の世界に、ある、のである。
平和も、人間の世界に、ある、のである。
ーーーーーーーーー
同じ話を、縄文人と弥生人でしてもいい。
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた
大和朝廷、現在の日本人のルーツとなる人たちは、日本の原住民、縄文人を制圧していった。(日本の歴史によれば)
南から、北へ、、、、先住民のたちは征服民の人たちから蝦夷の人と呼ばれていた。
なぜ、征服していったのか?
なぜ、人は、侵略するのか?
なぜ、人は争うのか?
平和に暮らせないのか?
平和とはなんなんだ!?
土着の人は、住んでたんだよ!
(侵略の歴史・暴力の歴史が、人類の歴史なのだろうか。実際、そんな歴史ばかりを学校で習う笑)
鬱=不安という感情の処理がうまくできず(言葉=心)、支配=コントロールという暴力に頼るしかなかったという、未熟な人間の姿が、今も、昔も、変わらないのではないかとおもってしまう。
ーーーーーーーー
暴力性が、人間が生まれたときから刻まれている本性だとしたら。。。
この社会は、とても自然な状態であり、別に、泣いても笑っても、悲しんでも喜んでもなんでもない、ただただ、人間らしい姿なのだとおもえてしまう。暴力は人間の本性なのだと。支配は、人間の本性なのだと。児童虐待も、自殺も、DVも、人間の本性なのだと。
これが事実だとして、その事実を心はどう受け止めるか。
「だから、私もその暴力に加担しよう。暴力の中で生きよう」とおもうだろうか。
「だから、子どもにも暴力を持たせよう。子どもを、戦場に送ろう」とおもうだろうか。
「心」は「知」に耐えられるだろうか。
ーーーーーー
もっと別のことを考えてもいいだろう。
女性が女性らしく生きる、ということは、男性と同じように働くこと、ではない、のではないか。
と僕はおもう。
男性と女性が、二つ合わさって、人間ができるのだから。
トランスジェンダーという言葉が最近話題になっているようだが。
それは、平和と暴力の境界、支配と自由の話なのかなと、僕はおもう。
ーーーーーーー
結局は女性の(男性)社会進出ではなく、
男性が女性社会を守るだけでいいのに。。。と僕は言葉を漏らして見みる。
女性社会とはなんだろうか?
人間として、女性という個性が尊重されることだろう。
子どもの個性は勝手に伸びると、とある先生はのたまったが、女性の個性は潰されていないか。
男性が、暴力があふれた世界で、女性を人間の個性として、捉え直してみたら、どうだろう。
お互いの世界を守る、お互いの本質を理解する。少なからず理解する、そういう世界があったらいいのだと思おもう。(だから男の人のオイタなことも、女の人は大目に見たらいいのかもしれないし、女の人のオイタなことも、男の人は大目に見たらいいのかな?)
心が大事。
現実を知るためにも。
心を育てよう。
暴力にさらされている命があることに、気づけるような心を。
自分の中にいる男性と女性が、自分の心の中で、平和な家庭を築けるような心を。
パーソナリティ特性の記事でも書いた気がするが、人間の半分は遺伝であり、半分は環境であるという。
富山県・もしくは日本という場所は、可能性の半分である環境がほとんど絶望的だとおもったら、もしそれが「現実」だとしたら、、、
その「知」に耐えるための「心」を、僕はもっているだろうか?
絶望の中で漂泊する人生を、送ってしまわないだろうか?
こういう戯言を、今日も長々と書いてしまって、全く申し訳なくおもう。
ーーーーーー
子どもは環境に順応する天才だ。
お父さんお母さんの心の歪みにも順応する。
お父さんお母さんの硬直した、「現実」を受け付けない心にも順応する。
順応した結果、「立ち止まる」かもしれない。
「立ち止まる」ことができなかった、大人の代わりに。(大人は、失敗したのだ!)
「立ち止まる」とは、成績が落ちるとか、勉強しないとか、病気になるとか、グレルとかそういうものも含めて。
性をもって生まれてくる子供。
命をもって生まれてくる子供。
親という環境、大人という環境の中でもう一度生まれ直したいとおもう子供もいる。
それすら支配してしまうなら、親の名前を捨ててヒトラーを名乗るといい。
「小さなブッダ」
「小さなガンジー」が僕らを見つめている。
あなたを見つめている。
ーーーーーーー
ネット上で、悪口をいうことが流行っている。
いやいや、事実を書き綴っているだけかもしれないが、、怒りを感じる。
僕が富山高校とか高岡高校とか富山中部高校とかに限らず事実を伝えながらも、僕の感情もでてきてしまうからいたしかたない、といえばそうだが。
怒りを感じて、
怒りを発信して、それで、何か、いいことがあっただろうか。
なんども怒りを発信して、暮らしは豊かになっただろうか。
いろいろな事実、相手を非難する事実を見つけては投稿し、罵るような人がいる。
同じ事実を見つめる人でも、その刺激に対して心の反応はまちまちだ。
「知」は生き方を生み出さない。生き方を生み出すのは、「心」だ。
やっぱり、心が大事。
ワクチンか何かを発見した人は、たしか、「たまたま」ウィルスが死んでいく現象を目撃した。
日常的に誰でも目にする「事実」でも、それに気付けない人がいる。
気づくことができるような、自然な心のあり方すら、暴力によって、壊されてしまっていないか。
僕自身、しっかり感じなきゃなとおもう。
会社の経営と子育ては同じ。
新生児の母は学校で育児を学ぶといい。
小学生の全員がフリースクールに通うといい。
—
若い人に責任を与えない、自由を与えないこと。
それが家庭でも繰り返されていないか。
不安だからと、お金を使わずに溜め込む会社。
不安だからと、冒険や自由を与えない親。
子どもも、社員も、やらされるだけの仕事をしていたら、育たない。
使えるチカラを使わなかったら、育たない。
小学生になって、習い事をだらだらと続けさせるのは意欲をだらだらと奪い続ける結果になりはしないか。
その作業は「いうことだけやっていたらまぁ生きていけるか」という価値観を育ててはいないか。
責任を与えること。自由を与えること。
そうでなければ、世界はおもしろくなりはしない。
と、私はおもっている。
どうぞ、お子さんが生まれたら、オトノネにきてみてください。
学校では教えてもらえない、大切なことを、まずはお母さんにお伝えしたいとおもいます。
でないと、世の中を楽しくしてくれる子が育たなくて、私はつまらなくていやなんです。
本気になること
今日、とある大人の人と話をした。
短く言うと、
体が大きかったから、手加減をしないと、他の人を困らせたり、一緒に遊んだりできなかった、という話。
本気になってやれることが、部活動、円盤投げだったと。
1人で練習して、一生懸命になれた。それで結果がでた。
けど、進学校だったから学校の先生は一生懸命やっている(テスト期間中も一生懸命やっていたために)のを白い目でみていたという。
1人でコーチを探して、1人で研究をして、1人でトレーニングを積んでいった。
ーー
「本気を出せる」ことが、限られているような気がした。
「それは将来役に立たない」「これをやりなさい」という大人の世界で
「いや、それは私のやることではない」といって、自分の世界に埋没するのに勇気がいるような雰囲気だ。
大人が、子どもの独自性、世界に一人しかいないその子の創造性を狭めていないか。
内気な子がいた。
その子は「ピアノの先生」になるために人生が計画されているようだった。
もう小学生なのだから、好きなら続ければいいし、それが適しているなら、将来そうなるだろう。
けれども「あなたはこうなる」「あなたはこうしなきゃ」という考えがちらっとでもあるなら、それは子どもに伝わる。
そしてそれが子どもの価値観になる。
夢中になって遊ぶ経験を、大人になってからも自分にさせてあげることが、大切だと思う。
大人がそういう遊ぶ姿を見せてあげることが、子どものしあわせを育てることになるんだとおもう。
子どもを育てるには、大人が自分を育てていくのが一番だ。
大人が挑戦しなければ、子どもも挑戦しようとはおもえない。それだけ子どもは、大人から、環境から、学んでいく。
知性溢れる、創造性溢れる大人と一緒にいる時間が、子どもを知的に、創造的にする。
筆ペンをもつだけで!そう、お母さんと塾の先生で役割分担しましょう。
本屋さんに行って、なんかいい本ないかなーとふらふらしていたら、学習参考書の本棚の前でお母さんがいた。
小学生の漢字のドリルを探していた。
話を聞くと、文字を書きたくない、読みたくない、という。
僕もペンとか鉛筆はあんまり好きでなくて、筆ペンが好きだった。
「筆ペン使ったらどうですか?」
というと、お母さんははっとした顔。
そうやって子どもを発見していくのが、私は楽しいし、お母さんももっと楽しんだらいいとおもっている。
「できないできない」と言って教育業界の罠にハマりがちな世の中。
教育業界は不安にさせて、ドリルなんか、通信教育やら、タブレットを売る。
教育は消費活動ではない。
教育は創造的な営みであるはずだ。
もうそこんとこ、わからないでしょう、お母さん。社会の仕組み。学校で教わらないからね。。。
お母さんは教育の素人でも、愛情のプロ。
どんな立派な先生でも、本当に子どもがチカラをもらうのは、お母さんの愛情です。
役割分担、しましょう。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。
先日、富山大学附属特別支援学校でたまたま佐藤学という有名な先生の話を聞く機会に恵まれた。
いるんだね!こういう人!というか、友達になりたいとおもった。
「学びの共同体」という言葉で、理想の教育の姿を説明してくれた。
むかーしっから、やっているようです。
学びの共同体研究会
石川県金沢市立紫錦台中学校も参加しているらしい。
こちらが金沢市立紫錦台中学校のHPです!
富山県で「学びの共同体」を実施している場所は、みつからなかった…
ーーーーーーーーーーー
メモにとったもの。
学ぶことは、しあわせなことだ。
一人で学ぶことはできない。学びは、社会的なものであって、孤立していたらできない。
人間の大脳新皮質は他者との協同により発達する。
ペア、グループ、コの字型で向かい合うのが基本。
小学3年生にならないと、内言ができない。考えることができない。(経験的な法則)
だから小学1、2年生はペア。それ以降は、3人、4人にする。
学びは既知の世界から未知の世界への旅であり、新しい世界、新しい他者、新しい自己との出会いと対話である。
学びは個人的活動ではなく社会的活動であり、自然的過程(能力や技術の形式)ではなく、文化的過程(意味と関係の構築)である。
人間の学びはコピー(模倣)ではなく、再創造
人間の学びはコミュニケーションによる意味の再構成(社会的文化的実践)
学びを対象世界(テキスト)との対話、他者との対話、自己との対話の三つの対話的実践。
学びは認知的実践(世界づくり)であり、対人的実践(仲間づくり)であり、実存的実践(自分づくり)である。
人間の学びは、ほとんど短期記憶にしかならない。
人間は学び続けないといけない。
動物は生まれてからすぐ、立ち上がる。模倣のプロ。
人間は、模倣する力が動物より弱い。短期記憶にしかならない。
一歳になるまでに、一度シナプスが削ぎ落とされる。軸索を残して、消える。
1歳になったら、シナプスがズバーと出てくる。そうすると、言語が生まれる。
シナプスのつながり、すなわち関係の構築。
1”5”20
意味を、共同で見つける時、それが長期的な記憶、知恵になる。
東京オリンピックのときには、空港が無人化する。
35%が人工知能で賄われるらしいよ。
創造・探究・共同
今のところできないこと。。
もう、今までの教育は役に立たない。
理解中心から探究中心へ
「わからないこと」を恥じるのでなく、「探そうという気がないこと」を恥じ得る時代。
140年前に成立した一斉授業
世界からは30年前に消えている一斉授業
安い単純労働者をつくるシステム。単純労働をする?
エリートはコの字のテーブルで育つ。ハーバード大学の講義室(黒板に全ての机が向かっている教室)は一つだけ。
コピーで済むような授業はいらない。
経済が発達している国はアクティブラーニングをやっている。30年前に
30年前、TOP30のうち21社が日本
今、TOP30のうちで、ゼロ。
この30年間で変わった。
学ぶということが、即幸福である。
人間は7つの領域に分かれている。
Howard Gardner
あらゆる能力を持った人はいない。
なんの能力ももたない人もいない。
孤立して生きてはいけない。
一人で生きようとしてはいけない。
人との関係の中で、多元的に見なくてはいけない。
抜群の能力がある。
デザインはビジョンによって
プランは目標によって生まれるもの。
建築家はビジョンを見る。
デザインは生かそうとする。
目標思考の仕事workと労働labor
創造的な時間。activityはビジョン、デザインの世界。
文化的な意味と、社会的な関係を想像する。
学ぶ権利の実現。
「待つこと」「見守ること」(谷川俊太郎、すきすき、きゅっ、好き好き、ちゅっ)子どもを受け入れられるか。
「させること」ではない。ここもおとのねだ。
おkどもへの信頼、子どもを尊敬する。これもオトノネだ。オトノネはこれを「自立している」と表現している。
学びの共同体は、リスペクトの共同体だ。そして、ケアの共同体
特別支援学校っで主流になっている「行動療法」は研究者が論文を書きやすいから。
「させる」ことで条件付けをする。それは「発達(心)」ではない。
行動レベルの導きだ。
思考、学習、内言。
外言が先。だから内言ができない子がたくさんいる。
対話の相手がいることで、モデルを得ることで、内言できる。
経験的に小学3年生。4人組で(人の話がきける?)
小学1、2年生は「考えることができない」まだ内言が使えない。無理無理!ペア。
「待てない」手を出す口を出す。がダメだ。
教師の仕事〈聴く・(子どもと子どもを)つなぐ・もどす(もう一回)〉
「だれだれくんの言ったこと、どうおもう?」
子どもが、学びの主人公だというのが基本。
いい教師は〈目と耳〉で仕事をする。
子どものテンポはゆっくり。教師が先に行かないで、待つこと。
ある意味で、戦国時代、三国志時代の武将のようである。
共有の学び:ほぼ全ての子どもたちが達成できるレベル
挑戦的な学び:三分の一の子どもたちの達成を期待する、つまり三分の2の生徒が「できない」課題を与える。
難しい問題だからこそ、子どもたちは大好き。飛びついてくる。
基礎を丁寧、丁寧に、積み上げるというやり方ではない。積み上げずに、引き上げる。
(そんなん無理無理!というものを出してみると、一生懸命に挑戦する子がいる)
——-
オトノネではメタスキルと呼ぶ「コミュニケーション能力」
創造的な仕事。
多様な人間が、それぞれの持分を出すことでしあわせがうまれる。
オトノネが求めている「先生像」
まことに同感できる、こういうことをきちんと言ってくれる人がいる。
昔の昔から、活動していて、少しずつ、広がっている。
こうした時代の流れの中に、オトノネはいる。
富山県に、オトノネは、いる笑
オトノネは「学校」をつくるにしたら、どうしたらいいかなと思っていたところで、いいモデルを見つけられた。
少しずつ。少しずつ。時に、大胆に。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
うちの子、大丈夫?「大丈夫です」
お母さんが不安で、塾やら、発達支援サービスを利用するケースが多い。
新しい大人と出会う、環境が変わる、ということは悪いことではないが、子どもの経験の全体性が失われないか。塾に行く分、発達支援サービスを受ける分、子どもは「しゃべりたいこと」が増えるはずだ。小学生くらいなら。
もし塾のこと、習い事のこと、学校のことを話さないとしたら、子どもの「気が滅入っている」サインだとおもったらいいかもしれない。小学生くらいなら。(塾にいって、話したい!と思えるような出来事が、そもそもあるんだろうか?)
子どものサインに、気がつくだけでいいんです。
大丈夫です。
子どもが教えてくれます。
言葉がでないのは、心が閉じているから。
子供の心に一番近づけるのは、お母さん。「お母さんには内緒ね!」といって、イヤなことをさせられているんだーということを話してくれた子がいる。もう、子供でも、小学生になったら、十分、お母さんに気を使う。お母さんに、心を使っている。
心が開く経験。
(人に対してね。テレビのキャラクターに心が向くのは、テレビのキャラクター、ゲームのキャラクターと経験を共にする時間が長いし、おもしろいから!で、テレビアニメをみて、何が育つんだろう?)
失敗は成功のもとという。そうして赤ちゃんは大人になるように。
子供は失敗を許される。
といより、学ぶということは失敗の連続だ。
子供が言葉を覚える時に「言葉の意味を知っている」状態で使い始めるのではない。「言葉の使い方もしらないけど、使い始める」のである。使いながら、「ああ、そうなのね」と自分で修正して行く。「そうやって使うのね」と。
発音も。小さな子は/s/の音をだせずに「しゅいか」とかいう。ある単語では/t/が言えても別の単語では/t/が言えない場合もある。それでも喋る。そして、言葉が正確でなくても伝わるものでコミュニケーションする。使いながら、口を動かしながら、絶えず「次に喋れるようになる音」に向かって喋り続ける。もし言葉が遅れている、としたら、言葉を使う量が少ないのかもしれない。それには失敗をしてもたくさん使って行く意欲を受け取る大人の存在が大切だ。
文を喋れるようになるまでに、子供はその使い方を、日常会話の中で学ぶ。大人の会話を聞きながら学ぶ。この動詞には「てにをは」のどの助詞を使うのかな、とか。これも最初は間違いながら、使ってみて、実際にやってみて、少しずつ「あ、こっちかー」と思いながら、改善をしていく。
「できるようになるまで待つ」のでは、できるようにならないことがある。(子育ての永遠のテーマかもしれない。。。)
できるようになるためには刺激の量が必要だ。あかちゃんは何度も繰り返し、聞き、使い、規則性を発見していく。勝手に覚える、のではない。環境、言葉が、思いやりある眼差しがなければいけない。聞くたびに。だから注意力とか、関心とか、信頼できる人間関係、おもしろいとおもうできごとに心を開くことは、言葉を学ぶ一流の人間としてのあかちゃんの成長を支える、言葉の基礎なのだ。
繰り返し与えられた刺激が「困難」であれば、無気力になったりもする。その見極めをするには、、、それが人間性を問われる教師の仕事のはずだ!
失敗しないように、転ばないように、鞭を打つ、という生き方がある。それに疲れてしまっている人がいる。鞭を打つのをやめてみよう。「恐れる気持ち」「鞭を打つあなた自身の気持ち」とどう付き合うか。今までずっとそうして生きてきたのだから。。。だから、離れがたい。
失敗してもいい、鞭を打たなくてもいい、正しいと思っていたことをとりあえず保留にして、小さな「悪」をはたらいてもいい。小さな子供をみてみよう。毎日毎日、おおらかに、あそびながら、暮らしながら、失敗を積み重ねて、二本足で立ったり、走ったりできるようになる。成長するための時間を、小さな失敗で埋め続ける。
失敗の仕方も、段階を追っている。いきなり文を話す前にまずいろいろな音を出し、一語で何かを表してコミュニケートする。大人のぐちゃぐちゃした会話から、「使える情報」を抜き出すには、子ども自身がその言葉を使って、その言葉にフォーカスされた情報(反応)をしることが大切だろう。2語文以前にゆたかな言葉の経験があるからこそ、「言葉には規則がある。私は私にできる分だけ、規則を覚えよう。大丈夫だ。私はそれを聞いてきた」というのが赤ちゃんの主張かもしれない。
鞭を自分に振らずに、少しでもゆたかに、暮らしてみたい。
子どもとお花見に行ってきたらドラマがあった。
いろいろあったー。

オトノネはなにをするところかよくわからない。間違いない表現をするなら、「おとのねさんがいるところ」がおとのねだ。で、川べりにいって、前回僕が話した「ヒメオドリコソウ」の話題を発展させてくれて「教科書に書いてあった!」といいながら、「オオイヌノフグリもかわいいよ!」といって見つけて、教えてくれた。かわいいやんか。白い謎の花が近くにあったから、「これ知ってる?」と聞くと知らないというので、教科書でみたら教えてねーと言った。で、ご飯を食べて、今日買った絵の具で絵描く?と聞くと描くというから書いてみる。最初は人を書いていたのが、お母さんに「せっかくだから桜かいたら?」といわれて桜をかいてみるその素直さが子どもらしく、のびのびとなんでもやってみようという気持ちを感じた。

この絵を描く前、この子の弟くんがやってきて、「僕もやる!」といった(そのとき僕は桜を描いていた)。で、僕が目を話した隙に・・・僕の絵に黒い絵の具でぶっとい線をぶっとく描いた!「だー!あー!」と僕は転げて泣き叫んだ!(その子は前にも壊したら人が悲しむものを壊した子だ)僕がめそめそしていると、体操座りになって反省会をはじめた(僕の悲しみを感じているんじゃないか。すごい)それをみて、僕も絵一枚で大人気ない、もっと子どもらしく執着しないでなんとか・・・と思ったその矢先、お姉さんが「枝にしたらいいじゃん」と。
天才じゃないか。それでその子に「この絵、僕が描いたんだけど、この線を枝にしたらおもしろそうだから、続き、描いてよ」と言った。気を取り直した彼は、書き始めた。うん、おもしろい絵になった。こういうこともあるんだなぁ。

ひとつの絵を描きながらドラマが起きる。(もっとたくさんのドラマがあったが割愛)それが個性であったり、発達の段階であったり、心の憂鬱として気持ちだったり、よろこびであったり。絵が上手くなることが大切なのではない。絵を描きながら、人間が人間と一緒にいる時間が大切なのだとおもえる。心から。そんな、昼下がりでした。
ちなみに、弟くんが気を取り直して絵を描き始めて、パレットの絵の具を使おうとしたとき、「これ、使っていい?」とちゃんと聞いてくれました。「僕はこの色しか使わないから、他の色は大丈夫だよ」と答えた。聞いてくれたね。お気遣いありがとう。お心遣い、ありがとう。「世界はいろんな意図で、意味で、計り知れない他人の心であふれている」ということを、体験して、学んでくれたのかもしれない。僕も、お姉ちゃんの一言から「創造的になること」を学びました。弟くんからも、人の成長する姿を、学びました。
ありがとう。楽しかったね!
小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。
「自由にさせたい」
ということが一つのキーワードになる。
ひとりひとりが自由に世界をつくっていけば、世の中はもっとおもしろくなるだろう。
では、
子どもに「自由に生きて欲しい」という祈りを届けるための、愛とは何か。
ーーーー
さっき、ドジョウが2匹、死んだ。
正確に言えば蘇生しようとしているのか、死んでいこうとしているのかわからない。
とりあえず、フタをせずに「カルキも抜きたいし、水たっぷりにして泳がせたいし」ということで2匹が今、埃にまみれて瀕死。
奇跡的におとのねさんに食べられることを免れた命。
飼うつもりだった。
生存者は3名
ーーーーー
「自由にさせたい」
けれども、守らなくてはいけない。
何を?命を。
人間なら、僕はもっと別のものを大切にしてほしいと思っている。
心だ。
命、といってもいい。
その人が生まれて来て、燃やせるもの。
他の人にも与えられる炎。
で。
「自由」がうまく働かない場合がある。
自由は条件付きだ。
「みんなで一緒」で小学校・中学校を過ごした子どもたちが、高校になって、「みんなで一緒」になって、本気をだせずにいる。
「個別化」されるべき進路を「課題」に阻まれている。
3年間を学校で「みんなで一緒」のわけのわからない課題に耐え、終わる。
それがお父さんお母さんの望んだ「自由」の結果だろうか。
(学校変えるか、課題や定期テストを拒否するだけでいいのに…それは困難なのだろう)
それで、子どもは、「殺された」と言えないか。
お母さん、お父さんが「自由だ」といって子どもの大切な心を、命を殺していないか。
おとのねさんも「自由だ」といって子どもの心を殺してはいないか。
そこはおとのねさん、実にドライだ。
「もう育ってしまった。もう思春期を超えた。あとは、今あるものでやっていくしかない。もう高校生になったなら、痛みがなければ、変わらない」
発達課題を、思春期の意味を僕はそのように理解している。
入試が終わった後で、希望しない大学に入学した後で、大切なことに気がつけばいい。
ーーーーーーー
「自由」を大切にすることはいいことだとおもう。
ただそれで「自由」を発揮するチカラを育てられているか。
「自由」にすることで「不自由」になっていないか。
「教えてはいけないこと」と「教えるべきこと」をはっきりさせているか。
「みんな一緒」から子どもを守ることがお父さんお母さんの役割ではないのか。
学校で「みんな一緒」の価値観で育った心が「自由」を発揮する、「個性」を生かすチカラを発揮することができるだろうか。
障害にならないか。
学校という環境がつくる心から、子どもの命を守ることが大事ではないのか。
それほど学校の先生は、学校というシステムのなかで生き延びることに精一杯なことが多い。
(一部の先生が生徒の心に大きな負担をかけることも往往にしてある)
ーーーー
もし本当に「自由」を、「その子らしさ」を育てるなら、学校から子どもの心を「守る」ような関わり合いをしなくてはいけないのではないか。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
それは学校から「自立」することも意味するだろうとおもう。
「先生、いろいろ大変だね。まぁ、私は私でやっていくよ」という目線。
心を圧迫してくるあらゆる言葉、振る舞い(時として脅迫や精神的苦痛といういじめに相当するものが公然と教育の名で行われることもある)から自立すること。僕がよくDVをDVだと思わないお母さんの話をするが、それの学校バージョンだ。毒親の支配から逃げられない子どもに例えてもいい。
小学校、中学校の発達の課題には学校からの「自立」がある。
だからこれを意識して就学以前から、低学年から関わりあうこと。
小学校になってからも、「自立」できるように子どもの心を守ること。
ーーーー
テストの点数が悪くてもいいよ!とはいっていない。
学校という環境の中で、「その子」をみつけて、どうしたら「その子」が「その子」として自立できるか、かけがえのない命を燃やせるのか、他の誰かを照らす炎になるのか。見て、守ってあげることが大事だとおもう。(場合によっては、学校がいうことなど気にしなくていいと、言えるだろうか)
ーーーーー
子どもを「守る」ために課題をやらせ、テストの点数をあげさせようとするお父さんお母さんの心はわかる。
ドジョウを2匹、自由にして殺してしまった気持ちだ。
「自由」になるために「檻に入れる」のだ。
ーーーーー
勉強「させる」、習い事を「させる」のは悪いこととは限らない。
ただ発達の過程で刷り込まれた神経は残るということは知恵として知っておいて欲しいとおもう。
小さな子どもの「気を引き締める」「ケジメをつけさせる」のも同じだ。
その一挙手一投足が、子どもの心をつくる。神経を作り上げる。
ーーーーーー
命を守るとはどういうことだろう。
僕は生まれて来た命にかける願いを、祈りを、言葉で、仕草で、振る舞いで子どもにかけたい。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
そして高校生になったときに、本当の自分を社会にプロデュースするという課題に、向き合えるように。
そのための基礎が「自立」する心であって、これはつねに自分という物差しで、自分の心で世界をみる行い(自分が自分のことを語るという単純なこと)の繰り返しで強められる。
小学校、中学校で「みんな一緒」の「定期テストに追われる」、「学校の先生が怖くて従う」、「友達の視線が気になる」神経を作り上げる学校の環境から子どもを守ることが、「自由」のために教えなくてはいけないことではないのだろうか。命を、殺さないために。
小学校、中学校で「死にに行く」ことを覚えた体は、高校になってから「個別化」を拒むだろう。「自立」することが難しくなるだろう。
身体は記憶する。
気持ちとか、精神論とか、正論は関係ない。
わかっちゃいるけど、、
先生に頭ごなしに否定されると体がすくんで、心の元気がなくなる。
身体は記憶する。
心理学の一般書のコーナーにいけば、すぐにでも手に入る真実だ。
ーーーーーーーー
別に課題をしなくてもいい。
勉強しなくてもいい。
本気になれることさえあるなら。
それが個別化だ。
勉強ができなくても、しあわせを育てている人を、僕はたくさん知っている。
勉強ができても、しあわせそうではない人も、僕はたくさん知っている。
ーーーーー
自由にさせて、小学校・中学校で心をすり減らしていないだろうか。
「みんな一緒」を神経に、体に刷り込まれていないだろうか。
それは僕には、発達障害のようにもおもえる。「え?まだ学校から自立できていないの?」
子どもの命を殺していないだろうか。
知恵をもって、仕草をもって、愛のある言葉をもって、子どもと関わりたい。
(ブログの記事)
愛とはなにか?
そうして僕は、ドジョウを入れたボールにラップをかけた。
ボールの外から飛び出して「死ぬ」のは自由。
けどそれは、言い方を変えれば僕がラップをかけずに「殺した」ことにもなる。
小さな赤ん坊が、歩き始めた時、わけもわからず車道に出ようとするのを引き止めるように、学校から子どもを守ることも、命を守ることになるのではないかと、僕はおもっている。それほど学校は、生徒たちの心をすり減らしている。子どもたちは、笑いながら、「自由」であり続ける。
僕は子どもたちに、どんな祈りの言葉をかけよう。
小学校、中学校の発達の課題は学校からの「自立」と「個別化」だとおもう。
学校は利用するのであって、機会は「与えられている」のであって、「従わなければならない」法はない。
教育基本法 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。
4時間で何ができるか。
今日は4時間の授業。
1時間とか1時間半の授業が「ふつう」になってしまったこの時代に4時間なんて!とおもうだろうか。
考える時間を作る、考えるための問いをつくる、答える時間をつくる、プロセスをその場でまとめてみる。
そういったひとつひとつの出来事を、一問一問から学べるすべてを大切にしていくと、4時間はあっという間に終わる。
こういった学ぶ時間が学校でも、塾でも確保されていない。
解法を説明して暗記させるような学び方をするのは「それはダメ。これが正しい。こうしなさい」という子育てと同じで、子どもは成長しない。
成長の場
PDCAサイクルという言葉がある。
嫌な言葉だなぁと思いながら。。(だってPDCAと言ったらそれだけで賢こそうに聞こえてしまって人を騙せそうだから)Plan, Do, Check, Actionのことだ。
大事なのは、Action。これを改善と訳す場合が多い。
改善するためには?よくよく、やっていることを見る必要がある。これがCheck!評価だ。評価するためには数値化したり、視覚化ができるといい。はっきりできるといい。
何を評価するかといえば、行動がうまくいっているか、という評価をしなくてはいけないから、行動しないといけない。Doだ。Doだ!で、行動する前に、計画を立てる。
つまるところ行動を評価し、改善をし新しい計画をたて、実行することの繰り返しが成長するということ。
子供が遊びに熱中していたり、独楽回しをしたり、いろいろとごちゃごちゃやっている時、このサイクルを自然にやっている。「ん?うまくいかん。だめや。失敗や。こうしたらええんか?あかん。作戦変更や。こうしたろか。ん?ええんちゃうん?ええんちゃうん?できた!」みたいな光景を見たことはないだろうか。とにかく量をこなしている。その中でうまく行くパターンを見つけていく。PDCAのサイクルを回して行くこと、回しながら、上昇して行くこと。これが成長だ。どこかにたどり着くのではない。回り続けることだ。作業、退屈は人を人として成長させない。
前回はこうだった。今回はもっとこういう風にしたい。次回は・・・そういう風に、次の一歩を踏み出した先の風景が、より美しく、おもしろく、そして違って見えることを喜べるのが、成長することの醍醐味であると私は思っている。
「よりよい自分」へのまなざしが、あなたを加速させる。
「考えて勉強する」というコトバがある。もしかすると、問題を解くために考える、という以上に、PDCAサイクル(学習サイクル)の見直しをして「もっとよくなるためには?」と自問自答する意味が含まれているのではないかとおもえる。心が大事、ということだ。偏差値が上がる、55を超えるというのは、他の人が努力だけをしてなし得なかったことをする意味がある。心を育てた人が、55を超えるのかもしれない。
花が咲くように
花を蕾から育てるのは、実は初めてだ。
ずっと観葉植物を育ててきたから。
なぜか花がつかない植物に魅力を感じてきた。
最近は、花を、育てたいとおもって買った、ラベンダーと、キンギョソウ
花が、うまく咲かなかったラベンダー。
今まで買ったことがなかった肥料をあげたら、咲いてくれた。
うれしい。
キンギョソウ、咲いていた花が全て枯れてしまったあと、「一年草だし、もうダメかな・・・」と思っていたら、蕾が膨らんでいることに気がついた。
気がついた!
うれしくなって、「ツボミには栄養やらなくちゃな」とおもって肥料をあげた。
蕾が大きくなってきた。
うれしい。
多分僕も、今まで自分の花の部分を育ててきていなかったのかもしれない。
生徒にも、花を育てて欲しい。僕も初めてだし、生徒も初めてかもしれない。
リービッヒの最小律というものがある。
栄養や日光、水のうち、バランスが取れなくなったところで成長が止まるというものだ。
君には何が足りないんだろうか。
成長するために、「あなた」に必要なものをちゃんとみてくれる人と出会えた人は、幸せだ。
心身症:場面緘黙の本
結局、発達障害も、場面緘黙も、人との関わり合いが原因となる場合が多い。(自閉症は先天的なもの「らしい」ということになるが、それが「困難」となるのは人との関わり合いのせいなのは間違いない)
私はいつも「家庭」か「学校(という社会)」が子どものこうした傾向の大部分を決めるとおもっている。
言葉を使うことに対する恐怖。
言葉の無力さ、言葉の有害さ(?)を学ぶ?
心を守るためにでてくる反応。
ーーー
見方によっては日本人はほとんど緘黙をもっている。とみることもできる。
例えば、他の国から来た人が日本の学校の授業をみたら、「え?みんな場面緘黙?」ということになる。
「あれ?みんな自閉症?(目線が合わない!?聴覚情報が伝わらず視覚的なプリントばかりやらせる!?)」ということになる。
いやいや、それは日本のやり方ですから・・・と説明したらいいけれど。
ーーーーー
心身症、発達障害といわれるものの多くは環境にたいする子どもたちの反応であり、防衛であり、心がそれなしにはうまく働かなくなったシルシ。悲しすぎて、悲しみを感じないように心の仕組みをつくること。
と、理解をしてみると、環境が大切だと思えるだろうか。
学校の先生は残酷か。
ひとりひとりの生徒の自立心、意欲を管理と干渉、命令で抑圧することが、残酷かどうか。
でもこれは一部のお父さんお母さんも当然のようにやっていることだ。
会社という組織でも同じ。会社には会社のやりかたがある。
子どもは子どもでじゃぁどうやって世界で生き残るか、工夫していく。「この世はもっとしあわせなことがある、幸せを感じるようにしよう」という心をつくる子もいれば、「戦わなくちゃ!頑張らなくちゃ!」という子もいる。「え?ノープロブレムだけど?」という子もいる。うまくやるひとはうまくやる。羨ましいくらいに!生きていくために、仲間をつくる、仲間と出会う、仲間を集める、それもひとつのうまいやり方だ。
教育基本法、児童の権利条約に定められている「個人の尊重」という文言と実際が違うじゃないか、条約違反、法律違反だと言うこともできる。ただ、それを「罰する」人がいない。(実際、だれかが時間とお金を使って裁判を起こすこともできるのだが。実験して見てみたい。行政が機能していなければ、司法のほうからアプローチするのも手ではないのか。子どもの権利条約は、国連に申し出ればいいんだろうか?今度問い合わせをしてみようか。正直、ハッピーにならない気がする。)
学校で自殺する子どもを殺したのは誰?親?学校?友達?責任は不在で、誰も咎められない(責任についてはたくさん記事を書いてきた)。学校を卒業してしまえば、赤の他人、関係ない。そうだ、自立した人間なのだから。不登校、成績不振も咎められることではなく、学校という営みは保たれる。そして学校の外で塾やら、なんやらができてくる。「助けるシステム」をつくっていく。安心できる場所を外に見つける。これが子どもを(大人をも)とりまく「ルール」だ。
世の中の「ルール」を知り、その中でどう立ち回るか。教えてくれるひとは少ない。自分の心は自分で守る。あっぷあっぷな保育所のおとな、学校のおとなをどうして罰することができるだろうか。あっぷあっぷなお父さんお母さんをどうして罰することができるだろうか。とびっきりへんてこな歴史をもった日本という行政単位をどうして罰することができるだろうか。みんな、自分を守ることで精一杯だ。だからこそ、思いやりの心は、とびっきりうつくしくみえてしまうのだろう。
怒りにフォーカスしてしまう心よりも、今の時代、喜びにフォーカスができるように、子どもたちと、大人たちと、関わっていきたいとおもえた。
DV防止法というものがある。正確には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」だ。見ての通り、暴力を振るった側には「罰」を与えることはできない。ケッキョク、自分の身は自分で守るということなんだ。
人間が暮らしていく過程で、いろんな協力体制を築き上げた。家族は、婚姻は、かつては村の出来事であって、個人の出来事に留まることはなかった。現代における子供と親の関係、子どもとそのまわりの大人の関係も変わってきた。あたらしい「協力体制」が少しでも、利己的な個々人がしあわせな暮らし、リッチな暮らしを実現する助けになればいいとおもう。そんなオトノネになろう。
進学校の生徒、まさにセンター試験前の心境を聞いた。
学校の先生はひとりひとりの目標、能力をみる余裕なんてない。
生徒も自分のことをわからない。
もうぐちゃぐちゃだ。
「どこまで何をしたらいいのかわからなくて不安なんです」とその子はいっていた。
その子にとっては初めての受験。
学校の先生は無慈悲だ。どうして毎日顔をあわせる生徒にこれだけ無情でいられるのか。
話を聞く時間も心もなければ、答える技術も専門性もない。それが学校の先生だと私はおもっている。
生徒の気持ちを感じられないほどに、学校は疲れている。なぜか。それでいいのか。
不思議すぎて、よくわからない。
個別指導を極めたらどうなるか。
otononeは個別指導を極めようとしている。
ひとりひとりの成長と本気で付き合いたいからだ。
するとどうなるだろうか。
おそらく、1日に一人しかみられないだろう。
さぁ、どうやって食べて行ったらいいだろうか?
思い出すとすれば、アリストテレスがアレクサンドロス大王の家庭教師をしていた話。
歴史の中で王様、王様の子供についた家庭教師、教育係。
たぶん私はそのレベルで考えている。
本当のことを学べる塾なんて、そうそうないのだから。
無料で教えてみようか?
お金を受け取らずにハイレベルな学びを提供した歴史的人物がいる。
道端で若者をたぶらかしてつかまって死刑になったソクラテスだ。
ソクラテスは一応、市民だったから、暮らしていけたのだ。
学ぶことは、とうことであったから、無料であっても、自分自身の学びのために、ソクラテスは道端で超高級な授業をしたのかもしれない。
今の時代、ちゃんと学ぶということが難しくなった。
ちゃんと学ぶということが何なのかすら、わからない人が多くなった。
どうやら、私は、otononeをはじめて初めて、そのことに気がついた。
フランチャイズのお手軽な個別指導塾が流行るワケかもしれない。
学ぶ目的が、学校の成績を上げることになっているとは、思いもしなかった。
つらい課題を、少しでも進めるために行くのが塾であるとは、考えもしなかった。
otononeは、この地方の「塾」の定義には入らないような、気がしている。
さて、どうしたものか。
メタスキルを使って、乗り越えるしかない。
君たちがしているのは「勉強」であって「学び」ではない。
ほんとうのお勉強を、始めたい人、きてー
学ぶ力とは何か。自立学習とは何か。メタスキルとは何か。
otononeの代表はメタスキル メタスキル とうるさい。
ホントに入試問題とけるの?
いい質問だ。
解けない問題もたくさんあるだろう。
なにしろ、高校2年の夏に鬱になって受験勉強をやめてしまったのだから!
基礎だけみっちり、2年間やってきた。それでまだ英単語をいくつも覚えているのだから大したものだと自分を褒めているのだが。。。
わからない問題もあるだろう。
わからないときにどうするか?どうやって考えるか?
私からそのメタスキル を学んで欲しい。
学ぶということ、新しい知識をどうやって頭の中に入れて行くか、疑問におもったことにどうやって答えるかというスキル。
受験業界だけで生活をしてきた先生なら、問題が解ける、解説できることを誇りにしているかもしれない。
肝心なことは生徒が学べるにはどうしたらいいか、問題解説を聞いて、自分でできるようになるには、また新しい問題にぶち当たったときに、自分で解決できるようになるにはどうしたらいいか、なのだが。
ほとんどの先生は問題解説しかしない。
メタスキルの伸ばし方をしらない。
実際に、メタスキル を使っているところを見せればいいのだ。
だがほとんどの先生は「できる」ところをみせる。
生徒が自分で解説みればわかるようになるようなメタスキルを与えない。
それを与えたら、商売できなくなるからだ。
先生が用無しになってしまう。
(解法暗記している、解き方を教えるだけの先生が多すぎることも、その原因だが)
生徒が自立するならそれでいいのに。。。。
自立して学ぶ。それがlearn。
けどほとんどの人がbe taughtで終わる。
自立学習は「自分で勤勉に机に向かう」という態度のことではない。
自分で学び取る力があって初めてできることだ。
「うちの塾は自主性を育てます。自立学習です」といって、勤勉さが自立学習だと思わせるフランチャイズが多すぎる。
メタスキル をしらずに進める学習は自立ではなく寝そべってする勉強だ、といったら怒られそうだが、それくらい違うものだ。
先生から教わるとしたら、学び方を教わって欲しい。
学び方を教われる先生に出会えたあなたは幸せだ。
otononeに来るだけでいいのだが。
時間がかかるのは、学んでいるから?
オトノネのHPは私が作っている。
検索結果の上位に表示されてみんなに見てもらうにはどうしたらいいか、試行錯誤だ。
もし業者に頼んだらどうなるだろう?
「こうしてください」「ああしてください」
もしくはもう何もしないで成果がでるかもしれない。
そこに学びがあるだろうか?
業者に依頼することは、私の学びになるだろうか?
成果を求めるのは当たり前だ。
その過程で学びがあるか。
解法を暗記して成績が上がっても、将来、解法を暗記することはもうほとんどない。
公務員試験などの資格試験でもその量に圧倒されてしまう。
定期テストでなければ、暗記は、ほとんどの人にとって役に立たない。
ツライし!
成果を出すために、生徒が試行錯誤をする、心を勉強に向ける時間があるかないか。
たったそれだけで将来が変わる。
進路に悩んでいる生徒は勉強しながら進路についてなやんだらいい。
苦手教科で悩んでいる人は、苦手教科にじっくり、じっくり時間をかけて、本気で取り組んだらいい。
それをベルトコンベヤー式で検品「合格!」したら先に進むという作業にしてしまったら、何を学べるだろう?
「んー、点数はいいけど、どうなの?無理してない?暗記してない?ちょっとこの問題、説明して見てよ」
その一言で、作業が学びに変わるかもしれない。
試行錯誤も一人だけでやるとツライ。
だからやっぱり、プロに頼んだ方がいいかなぁと、私も考えているところだ。
だけどHPno作り方を学んで、自由に、いろんな発想をすぐにHPに書き込めた時、やっぱり「時間をかけて学んでよかったなぁ」とおもうのである。
一対一、個別指導とはどういうことか(保育園で気づいたこと)
流山の松の実保育園を見学したとき、1才児のクラスだった。コドモがオトナに絵本を読んでもらっていた。その子の隣にもコドモがいた。オトナは二人の子に見えるように絵本を広げて、コドモ・コドモ・オトナの順番で並んでいる。その時理事長先生が、「一人のコドモに読んであげなさい」といって、ほんの角度、オトナの体の傾きを変えた。すると、見た目でもコドモとオトナの関係がすっと入ってくる。とてつもない、演出、演劇だ。
もっと驚いたことは、その後ろで、絵本を手にしているコドモがいたことだ。たぶん、次、読んでほしい本をもって、待っているのだと思う。本人に聞いたわけではないが、そのとおりだとおもう。
よくある話し、1歳になるとあれこれやてくれ、あーだこうだと喋りまくるという。本当に、保育園もうるさい。うるさい!声をどうつかったらいいかコドモは学べない。学べるような関係をつくれるオトナがいないのだ。オトナはそれで平気で過ごしている。一度に話しかけてもわからないのに、一度に話しかけてこられたら?ただ本当にありのままの気持ちで言葉を使うだけなのに、オトナにはその余裕がない。イライラして声をあげて「後にして!」というのがフツウの保育所。後っていつ?
だから、一人の人間が複数の人間と同時に関係をつくろうとしたら、ほとんどマインドコントロール、いい気分にさせるような術を使うことになる。特別な技術が必要になる。それが集団授業のスタンダードだ。ふつうだ。小学校から真剣勝負をしてくれるオトナとめぐりあう機会はどんどん少なくなる。コドモは、人間は、それぞれの段階で誰もが真剣に向かい合ってくれる人を必要としているのに。(ちなみに演劇の場合は、一人の俳優が観客に見てもらうための技術をちゃんと修得しなくてはいけない。これができない俳優が多いのだが)
集団は、一方的になりがちだ。というより、集団では育たない大切なものがある。それは言葉だ。「フツウ」の子は集団で「フツウ」のコミュニケーションを覚え「フツウ」に暮らしていく。ただ、「フツウ」でない子は?風の流れに敏感な子、音の響きに敏感な子、ひとりひとり違う。声が聞き取りにくい子もいる。私がびっくりしたことがある。多くのコドモがわらべうたを歌っている外で、一人で積み木で遊んでいる子がいた。私は気が付かなかったのだが、理事長は彼女がわらべうたのリズムを積み木で叩いていた!ソレに気がついて私も耳を傾けると、とてもおもしろいリズムを刻んでいる。楽しそう!といって混ざると「こっちの積み木のほうがいい音がでるよ」みたいなことを喋って積み木を渡してくれた。あとから聞いた話、彼女は音に敏感で、内側に意識が向かう傾向がある(音に敏感な子はそうなのか…)。だから保育者から理解されないで、関係をもてていない時期があった。今は自分なりに遊べるようになったと。「フツウ」でないコドモ、「フツウ」でないのに「フツウ」であろうとするコドモ、いろんなコドモがいる。
「フツウ」の人間は「フツウ」以外のものと関わり合うのが苦手だ。
それは自分の中の「フツウ」じゃない部分と付き合うことが苦手なのだと私は思っている。
私自身が、年をとりながら、いろんな自分と付き合いを深めていく、自分と関係をちゃんともとうとしている。
機械仕掛けの人間の心
ちょっと具合が悪くて印刷機の裏側を開けてみてもらった。
外見ではわからないいろんな回路、配線がある!
劇場で働いていたときも、同じ感覚を覚えたことがある。
劇場にはいろんな配線、電気関係の装置がある。舞台のために、ステージをかこんではりめぐらされる、まるで神経だ。
情報を伝える、エネルギーを送る、ということのシンボルが、糸、なのかもしれない。
私たちは機械の中で暮らしている。
機械の使い方、ボタンを押すといろんなことをしてくれる。
私たちは人間の中で暮らしている。
決められた状況で決められたスイッチを押すと決められたことをするような関係だけになっていないか。
人間らしさとはなんだろう。
見てくれをみる限り、機械とあまり変わらない。
心があるかないかが、やっぱり違う。
何が起こるかわからない。
ひとりひとり違う心を大切にしたい。
プログラムや機械ではなく、人間らしい心で人と関わっていきたい。
金沢からきてくれる
今日なぜかふと、金沢からも生徒が来てくれるかともった。
金沢の塾で先生をしていたころ、あまりにも、勉強法を間違っていて頭がこんがらがっている生徒をたくさんみてきたから。
ほとんど、もう、勉強なんてできていない。
君はそもそも勉強をしているだろうか。
私は君が勉強なんかこれっぽっちもしてこなかったかもしれないとおもっている。
辛いなら、それは勉強じゃない。
不安なら、それは勉強じゃない。
今すぐやめたほうがいい。君の本当の気持ちがわからなくなってしまう前に。
otononeでちゃんと勉強をはじめませんか。
そういうことを、金沢で苦しんでいる子たちにも伝えたい。
科学の実験をする塾の先生
実は私は科学者です。
ヘリウムの中では音が変わる、という話をよく聞く。
本当か?
嘘くさい。ということが私の意見だ。ドップラー効果も嘘くさいとおもっている。
ということで、実験をした。
結果は、ヘリウムが音を変える、変え方は、音の発生の仕方で違うということ。
ああ、おもしろかった。
実験をしながらアイデアがでてくる。
道中を楽しみながらいくと、おもわぬ出来事にでくわすことがある。
それが私の人生を豊かに、リッチにしていく。
人間関係も同じだと思う。
心を開いて付き合える人との間に生まれてくる何かに気がつけるように、目の前の大切な人との間に生まれてくる何かに気が付けるように、いつも心を開いていたい。
実験の様子はそのうちyoutubeにアップします。