誰でも

私はバカなんで。私は頭が悪いから。という人。

信頼できる大人に出会うこと。成長させてくれる人に出会うこと。

マインドセット

私が小学1年生の中ごろ、うちの一家は引っ越しをした。突然転校するはめになった私は、 何から何まで新しい環境に放りこまれた。先生も、友だちも、勉強内容も。特に恐ろしかったのは授業だ。前の学校よりもはるかに進んでいたから――少なくとも私にはそう思えたから ーである。字の書き方なんて私はまだ習ったことがないのに、他の子はみんな書いている。ど んなことにも決まったルールがあって、みんなはそれを知っているのに、私だけ知らない。だ から、先生に「さあ、プリントの正しい場所に自分の名前を書きましょう」と言われても、何 をどうすればいいのか、私にはさっぱりわからなかった。 

私は泣いた。毎日、どうすればよいのかわからないことばかり。そのたびに途方にくれて、 すっかりまいってしまったのだ。でも、なぜひとこと先生に「私はまだ習ってないんです。や り方を教えてくれませんか」と言わなかったのだろう。 「私はこれまでの研究の中で、自分と同じような子どもたちをたくさん見てきた。聡明で機転 が利きそうなのに、ひとたびつまずくとにっちもさっちもいかなくなる子。ちょっとした行動 に出るだけで物事がうまくいくはずなのに、何もしようとしない子。それはみな、マインドセ ットが硬直した子どもたちなのである。思い通りにいかないと、すぐに無力感や無能感にとら われてしまうのだ。 

私は今でも、何かうまくいかないことがあったり、期待どおりに事が運ばなかったりすると、 一瞬、自分はもうダメだと思ってしまう。私は昔と全然変わっていないのだろうか。 そんなことはない。「変わる」といっても、外科手術を受けたように変わるわけではない。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.302)  

自分の脳のお世話をしたら、脳は自然に成長する。

 数年前から私たちは、こうした生徒たちのためのワークショップを開いてきた。しなやかマインドセットとは何か、それをどのように勉強に活かせばよいかを教えるワークショップであ る。まず、生徒たちに次のように説明する。 

人間の脳はまだ神秘に包まれており、知能や脳の働きについてはわかっていないことがた くさんあります。知能と言うと、人間には頭の良い人、普通の人、悪い人がいて、一生そ のままだと思っている人が大勢いますが、最近の研究でそうではないことがわかってきま した。脳は、筋肉と同じく、使えば使うほど性能がアップするのです。新しいことを学ぶ と脳が成長して、頭が良くなっていくことが科学的に証明されています。 

それから、学習や経験によって神経回路網に新たな合が生まれ、脳が「成長」していく様 子を話して聞かせる。 

新しいことを学ぶと、実際に、このような脳内の微小な結合の数が増え、結びつきも強く なります。頭を使って勉強すればするほど、脳細胞が成長するので、以前はすごく難しか ったことやできるわけがないと思ったことが――外国語を話したり、数学の問題を解いた りすることが簡単に思えてきます。それは脳の性能がアップしたからなのです。 

ここで、赤ちゃんを引き合いに出す。「おしゃべりができないからといって、赤ちゃんをあ ざ笑ったり、この子はバカだなんて言う人はいませんね。おしゃべりができないのは、まだし ゃべり方を知らないからにすぎません」。そして、生まれて間もない赤ちゃんが、ものに注意 を払い、周囲を探索し、物事のやり方を習得していくにつれて、脳の神経細胞の結合が密にな っていく様子を記録した写真を生徒たちに見せる。 

体験学習や話しあいを含めた一連のセッションで、学習スキルを身につけさせるとともに、 しなやかマインドセットの教えを学校の勉強や自宅学習にどう活かせばよいかも教えていく。 

生徒たちは脳の話に大いに興味を示し、活発に意見を述べてくれる。しかし何よりも嬉しい のは、生徒たちの自分に対する見方が変わっていくことだ。第3章で紹介したジミーには、ワ ークショップの初回からびっくりさせられた。まるでやる気のなかった彼が目に涙を浮かべな がら「ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね」と言ったのである。 

このようなやる気がないと思われている生徒でも、どうにかしたいという気持ちがないわけ ではないのだ。どんな人間だって、自分をダメだなんて思いたくはない。ワークショップでは ジミーにこう告げた。「あなたは自分の脳の世話係なのよ。正しい使い方をすれば、脳の成長 を助けてやることができるわ」。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.311)  

しなやかマインドセットの先生に出会うことが大切

ベンジャミン・ブルームは、120名にのぼる世界的なピアニスト、彫刻家、水泳選手、テ ニス選手、数学者、神経学者を調査して、非常に興味深いことを発見した。彼ら彼女らのほと んどが、驚くほど温かくて度量の大きい教師に最初の手ほどきを受けていたのである。 けっし て基準を下げたりしないが、生徒に評価を下すのではなく、信頼しあえる雰囲気で生徒を包み こむ教師たち。「才能を値踏みしてやろう」ではなく、「教え導いていこう」というメッセージ を発している教師たちだった。 ・コリンズやエスキスが生徒たちに――それも全員に課した目標を知って驚かされる。

コ リンズは、学校を拡大して幼児も入学させると、9月に入ってきた4歳児全員に、クリスマス までに本が読めるようになることを求めた。できなかった子はひとりもいなかった。3~4歳児が『高校生のための語彙』という単語帳を用い、7歳児が『ウォールストリート・ジャーナ ル』を読んでいた。さらに年長の子たちは、プラトンの『共和国』にはじまって、トックヴ ルの『アメリカのデモクラシー』、オーウェルの『動物農場』、マキアヴェリ、さらにシカゴ市 議会について話しあった。コリンズの高学年向け必読書リストには、シェークスピアをはじめ として『アントン・チェーホフ戯曲全集』『実験物理学』『カンタベリー物語』などが挙げられ ていた。

初めのうち、飛びだしナイフを向けてきたような少年たちでさえ、シェークスピアが 大好きになり、もっと読みたがるようになったという。 その一方で、コリンズはつねに温かい雰囲気を絶やさなかった。規律は厳しいが、愛情にみ ちた学校だった。子どもの欠点をあげつらうのが仕事のような教師のもとにいた子どもたちだ ということがわかったコリンズは、とにかくまず、自分は教師として、人間として、徹底的に 愛情を注ぐつもりであることを子どもたちに伝えたのである。 エスキスも教育基準を下げることに批判的だ。最近、彼の学校では、全国平均を20点下回る リーディングスコアに大喜びした。前年よりも1、2点上がったからなのだが、彼はそれを嘆 いてこう語る。 「良いところを見つけて楽天的になることも大切だろう。でも、真実から目をそむけていても 解決にはならない。低い成績に甘んじる教師は、低賃金のバイトに甘んじてしまう昨今の生徒たちの力にはなれない……遅れているならば、その事実を子どもにはっきりと告げて、追いつ くための積極的な学習計画を立ててやれる人間が必要なのだ」 エスキスのクラスの小学5年生全員が必読書リストを制覇したが、それには、スタインベッ クの『二十日鼠と人間』、リチャード・ライトの『アメリカの息子』、ディー・ブラウンの『わ が魂を聖地に埋めよ』、エイミー・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』、アンネ・フランクの 『アンネの日記』、ハーパー・リーの『アラバマ物語』、ジョン・ノウルズの『友だち』などが 含まれていた。また、中学2、3年でもほとんどの生徒が落ちる代数の最終試験に、6年生が ひとり残らず合格した。しかし、何度も言うが、このような成果はすべて、1人ひとりに対す る細やかな愛情と、深い人間的なかかわりの上に達成されたものなのである。

「難しい課題を与えて、惜しみなく愛情を注ぐ」というやり方は、ディレイの教育方法とも共 通する。ディレイのかつての教え子がこう述べている。 「ディレイ先生の指導を受けると、だれもが自分の最大限の力を発揮できるような気持ちにな ってくる―それが先生のすごいところです。可能性の限界に挑戦しようという気にさせる先 生などめったにいませんが、ディレイ先生にはそういう才能があります。難しい課題を与えま すが、同時に、自分は愛され育まれているという気持ちにさせてくれるのです」

けれども、課題を与えて愛情を注げばそれでいいのだろうか。 答えはノー。優れた教師たちはみな、いかにすればその高い努力目標に到達できるかをきち んと生徒に教える。コリンズもエスキスも、子どもたちに必読書リストを渡しっぱなしではな かった。コリンズは、『マクベス』をひとくだり読むごとに、それについて話しあいながら授 業を進めていった。エスキスは、本のどの部分を授業で取り上げるか、何時間もかけて計画を 練った。「あの子なら、このもっとも難解な部分も読みこなせるだろうとか、入ってきたばか りで尻込みしているあの子にもわかる部分を入れておこうとか、いろいろなことを考えあわせ て、けっして成り行きまかせにはしない……ものすごいエネルギーを必要としますが、授業中、 古典のひとことひとことに耳を傾け、私がやめるともっと読んでとせがんでくる子どもたちの ことを考えると、まるで苦にならない」

そのようにして、この教師たちは生徒に何を教えているのだろう。勉強を好きになること。 自分の力で学び、自分の力で考えられるようになること。そして基本をおろそかにしないこと、 である。エスキスのクラスではよく、始業前や放課後、それから休暇中に集まって、国語や算 数の基本を徹底的にマスターする。勉強が難しくなってくると特にひんぱんに行なう。勉強に「近道はない」というのがエスキスのモットーである。コリンズもまったく同じ趣旨のことを、 クラスの子どもたちにこんなふうに伝えている。「ここでは魔法なんて起こりません。先生は 魔法使いじゃないから、水の上を歩いたり、海を2つに分けたりはできないわ。ただ、あなた たちが大好きだから、ほかの人よりもよけいに頑張っているだけ。だから、みんなも頑張ってね」 ディレイは生徒に大きな期待をかけるが、同時に、その目標達成に向かってしっかりと教え 導く。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.290)  

 

誠実だから甘やかさない。あなたの成長を願うマインドセット。

やる気のない生徒や勉強嫌いの生徒はどうすればいいのだろう。次に示すのは、コリンズと ゲーリーのやりとりの一部である。ゲーリーは勉強が大嫌いで、宿題もやってこなければ、授 業にも参加しない。コリンズは、何とかして黒板で問題を解かせようとしている。 

コリンズ ゲーリー、これからあなたはどうするの? 人生をムダにするの? ゲーリー つまらない勉強なんて絶対にやるもんか。 コリンズ 私はあなたがやる気になるまであきらめません。自分に見切りをつけるようなことはさせないわ。1日中、そうやって壁に寄りかかっていると、一生涯、だれか や何かにすがって生きることになるのよ。あなたは、その優れた頭脳を封じこめ たまま、ムダにしようとしているのよ。 

そう言われて、ゲーリーは黒板のところまで出ていったが、問題を解こうとはしなかった。 しばらくして、コリンズが言った。 「どうしてもやりたくないのなら、お母さんに電話していらっしゃい。『ここは勉強するとこ ろで、ふざける場所じゃないってコリンズ先生が言うので、迎えに来てください』って」 

ついにゲーリーは黒板に答えを書きはじめた。それをきっかけに、ゲーリーはまじめに授業 に参加するようになり、熱心に作文を書くようにもなった。その学年の終わりに、授業でマク べスを取り上げた。誤った考えがマクべスを殺人にかりたてたのだという話になったとき、ゲ ーリーが口をはさんだ。「先生、ソクラテスがそういうことを言ってたね。マクべスも『正し い心の持ち方をしてこそ、正しい生き方ができる』って知っていればよかったのに」 

あるときゲーリーは宿題にこんな詩を書いた。「眠りの神、ソムススよ、われらを目覚めさ せたまえ。まどろんでいる間に、無知が世界を乗っ取ってしまう……われらをそなたの呪縛か ら解き放ちたまえ。無知が世界を占領するまでに残された時間はもういくばくもない」 – 教師が生徒に優劣の評価をくだしていると、生徒は努力を拒むことで教師の邪魔をしようと する。けれども、学校は自分のためにある――自分を成長させてくれるところだとわかれ ば、そんなことはしなくなる。 

研究を進める中で私は、腕白坊主たちが、勉強すれば賢くなれると知って涙を流すのを目の 当たりにしてきた。学校にそっぽを向いて、やる気のないふりをしている子どもは大勢いる。 けれども、そういう子どもたちがみな勉強に関心がないと思ったら、大間違いなのである。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.295)  

子どもの限界(発達段階)を知ることの意味

昔はたくさんの子供たちがすぐ近くにいて、お母さんたちも子供になにができるか、どう言う順序で、いつぐらいに何ができるかがわかっていたのが、子供が親から離れる時間が増え、わからなくなった。「お母さんが勉強したほうがいい」というのは、子どもを観察したり、子供と関わりながら子供に学べない(メディアに翻弄されている)お母さんのための言葉だ。 1歳児の子、公園の外に何も考えずに飛び出す。車がくるかもしれないのに・・・・自分がこうしたら、未来はこうなる、車はこういう風に走っている(運転手は飛び出しても止まってくれない)ということがわかっていない。できること、できないことがある。「なんで公園の中にいないの!」といっても無理だ。これが2歳、3歳になると、公園の外に行きたいという感情、衝動を抑えることや、これをしたら危ない、これは一人では無理だということもわかってくる。(1歳の子が、ギリギリ登れるか登れないかの滑り台の階段に挑戦してみて「やっぱり今日はやめよう」ということもあるが) 子どもの能力の自然な限界を知って、安全を守り、手助けをしよう。まだバランスが取れない、前のめりになって頭をごつんとやってしまった時、いや、それは自然なことで、別に死なないし、びっくりして泣くかもしれないけど、命に危険はない。びっくりして混乱しているのを「大丈夫大丈夫」と声をかけてあげたらいい。まだ立体視ができない1歳児はよく頭をごつんとやる。これはもう見えていないから安全に配慮したほうがいい。一つ一つ、子どもの「自然な暮らしぶり」がわかれば、落ち着いて子育てができる。

【メタスキル 】すべてをこなすことはできない。

今、この時代を生きる人にとって大切なことはなんだろか。 自分のものとして、自分の人生を生きること。 だと思う。 与えられるものではなく、自分が感じて、自分が意欲して、自分が欲して得るもの。 たとえそれが「欲しない」ということだとしても。 それ自体、欲しなくては得られない心のしくみなのだから。 そのためのメタスキル (感情知性といってもいい)には、「自分の痛みを自分のものとして認めて、自分で処理する。対処法を生み出して行く」ことがあるだろう。 ーーーーー 学校ではあれもこれも教わる。 というか、目の前にチラチラ入ってくる。 それこそテストは「全教科」やらなきゃいけない。 「やらなきゃいけないの?????」 それを「やること」として当たり前のように「自然」にやってきてダメになる子がおおい。 ひとりひとりの能力、関心、適性が違うにも関わらず、中学校になっても、高校になっても、同じやり方をする。 アホか、とおもう。 事実、学校は、アホなのだ。 狂っている。 「いやいやそうではないですよ」といっても、救いにならない。 データをだそうか??? その一言で終わる。 何が終わるかって、、、、話が通じない「魔王」だということがわかって、話が、終わる笑 AIだから、話ができないのだ。 ーーーーー で、オトノネは「お勉強」を「心を守る」練習としてとらえている。 自分で選ぶ。 自分で責任を持つ。 その練習を、一人では難しいから、おとのねさんと一緒にやる。 「自分の気持ちを大切にする」ことが大切だとおもう。 勉強したくないならしなくていいと僕はいう。 「ただこのスピードだとあれだね、間に合わないねーどうするー???」という。 あせらない。 あせらせない。 あせらせていいことない笑 作業だったら焦っていいけど笑 ーーーー 高校入試は全教科まんべんなく出る。 それで塾ならば「全教科やらなきゃですね」とかいってお金を巻き上げて結局なんにもならずに終わる。 そんなビジネスであり「魔王」が塾には住んでいる。 そもそもが全部やろうとするからダメなのだ。 ーーーーーーー 点数が伸びない、成績が伸びない。。。 なんで???? いやいや好きな教科ひとつ伸びないんだったら何ものびないでしょう。 ということで好きな教科ひとつを極める中で、他の教科にも使えるメタスキルを育てる。 目の前の定期テストに追われていたらそんなことはできない。 捨てるしかない。 手離すしかない。 不安で手離せないなら・・・まぁそのまま進んでみなよ。というしかない。 僕の人生ではないから。 ーーーーーーー 与えられた課題を全て処理しなくてはいけないとうAI化の呪いを解かなくては、始まらない。 それこそAIとして与えられる仕事を放棄しなければ、人間にはなれない。 では、いつ始まるのか? 無料面談と有料体験の間で「気づいた」人は、オトノネで初めてください。 気づけなかった人は、気づけるまではじめられません。気づいてから、オトノネに来てください。 もっというなら、勉強よりも大切なことに、気づいてほしいのだけれど。 最低限、「塾」を諦めてから、オトノネにくると、とてもスムーズです。

リービッヒの最小律

という言葉で思い出したことがある。 陰陽説だ。 占いはもちろん医学にも、人間関係にも使われる陰と陽の二つの気。 バランスが崩れると、不調を起こす、問題が起きるという説。 受験生は陽の気をたくさんもっている。 がんばらないと! 課題終わらせないと! 急がないと! あれもやらないと! !がたくさんでてくる。 もっと?を大切にしてほしい。 !が外側に出すエネルギーだとしたら、 ?は内側に取り込むエネルギーのことだ。 なんでこんなツライんだろう?何か間違ってるのかな? 違和感を感じる、体がだるい。どうしてだろう? 模試の結果も安定しないし、何か違うのかな? 本当にコレでいいのかな? 走っているときの「!」ももちろん大切だが、 立ち止まってちゃんと感じる「?」も大切にしてほしい。 バランスが崩れていたら成長できないのは、真理だ。学問的な事実だ。 けど学校も塾も「!」ばかりだ。 オトノネは走ってばかりで息を切らしてばかりの受験が、心を広げてちゃんと感じて、再び「!」の海へ飛び込む前に一休みする、海に浮かぶ一本のブイでありたい。

「立たせること」と「立つこと」

勉強をやらせる 「丸々しなさい」というと受け身の心が育つ。 立つことは自発的で、 立たせるとは受動的だ。 受け身の中で暮らしているとどうなるか? アウシュビッツで生き残った人たちは、家族に会うこと、生きてそこを出る希望で命を燃やしていた。 学校で受け身の姿勢を取らされ続ける子どもたちが生き残って学校をでるたの家庭であってほしいとおもう。

できないこと、しないこと、やれないこと、やらないこと。

小学生の時、僕は宿題を熱心にやらなかった。その時決まって先生にいうセリフがある。「宿題はできませんでした」と。しかし気が付いていた。「やろうとおもえばできたのだが、やらなかったのだ。だからできませんでしたではなくてやりませんでしたと言った方が正確ではないか」と。しかし、子供ながらに「やりませんでした」と言った場合、めんどくさくなるということを察知して「できませんでした」を採用することにした。それが小学6年生の話だ(自分のためにならない作業をどうしてこの時期、遊ぶ時間を減らしてまでやらなくちゃいけないんだろう?)。 ーーーーーーー この時期になると志望校を決める、今までの勉強法を振り返って焦る、そんな時期。 不安になる時期だ。これでいいんだろうか?いわゆる「自称進学校」の生徒のお母さんから「うちの子は大丈夫でしょうか」という問い合わせが増えるこの時期。 今まで勉強をしてこなかったから、これからやればできる、と考えることもできる。 「やってなかっただけさ!」その通りだ。が。 『ビリギャル』の成功例や数々の風の噂が生み出す(そして多くのお母さんたちがそこにしがみつく)バイアス(心のお守り)の存在はさておき。 ーーーー 勉強を果たして、してこなかったのか。 してこなかったのかもしれない。 やれなかった、のではないかどうか。 要するに、意思ではどうにもならない迷宮ラビリンスに入っている可能性はないか。 だとしたら、「これからやればできる」というのは、とりあえずうろうろと歩き回っていた迷路をダッシュで駆け抜けようとするのと同じで、同じ迷路の中にいることには変わりがない。 というのが僕の考えだ。 しなかったのではない。 できなかったのだ。 やらなかったのではない。 やれなかったのだ。 迷路から抜け出せなかったのだ。 道に迷って、もうダメだと、とぼとぼと歩いていたのだ。走れる気力がなかったのだ。走らなかったのではなく、走れなかったのだ。 迷路から抜け出すか、自分でできる? もちろん、迷路を疾走してもいい。 もし抜け出したいと思うなら、「もう無理!」なら、オトノネに来てみたらいいとおもう。 一人じゃできない、やれない、のか、 一人でできる、やれる。のか。 オトノネは、一人じゃできない、やれない、わからない、そういう人のための学び場です。 ーーーーー 今から初めてみるといいかもしれない。 「しなかっただけだ。やればできる。できないのではない、やらなかっただけだ。」と考えてみて、ダッシュで迷宮を駆け抜けて成果が出る人もいるだろう。 なにせ発達は人それぞれ、十人十色、いろんなゴールの仕方がある。 やってみたらいい。できなかったら?できなかったのだ。。ということがわかるのは、おそらく合格発表が出てからだろう。そうして多くの人が、受験という経験を、受験という儀式を、未完了のまま、ただただ終える。「長い定期テスト期間だった」と。 オトノネなら、迷路を進むか、迷路に穴を開けてとりあえず抜け出して最短距離を走るか、そもそもゲームを降りるか(爆)というところから、問いかけたいとおもっている。もちろん、ひとそれぞれ。迷路から出た時の、あまりにも長い、遠い、ゴールまでの最短距離を目の当たりにして愕然とする人もいるだろう(自称進学校でバイアスをかけられた多くの生徒たち)。そもそもゴールが見えないほどの迷宮でずっとさまよっていたのだから。塾や学校の課題、一斉授業という小さな世界でしか暮らしてこなかったのだから。途方も無い世界の広さに、驚くかもしれない。遠くのものがもう見えなくなっている子もいる。 ーーーーー 有名な話だが、野生動物は、体の調子が悪いとき、自分で「必要なものを食べる」「必要なだけ休む」。 放牧された牛は、自分の健康管理を自分でする。草を選んで食べるのだ。 それと同じことが、人間にも言える。 与えられた飼料(課題)だけを食べて健康を保てていればそれでもいい。 けどそれでどれだけの鶏が短命で、病気になっていくか。 自主自立とは、「自分で選んで食べる」ことだ。 何をどう食べたらいいのか。 選ぶ力、食べる力は、小学生までにほとんどできあがっていると、僕はおもっている。 ーーーーー 人それぞれに完全に対応するのがオトノネの完全子別指導です。 ーーー お子さんへの期待に「愛」が込められていますか? 今のお子さんの姿を、きちんと見れていますか。見えないですか。見ることが、できませんか。見てみませんか? 受験勉強と、定期テスト対策勉強は違うのだということを、ご存知ですか? 思えば、フランチャイズの塾で働いていた時代、「あ、この子は、お母さんの影響が強すぎて勉強に迎えていないんだ」という生徒がたくさんいた。自営業を始めた今ならそのことをきちんという。言うからお客さん来ないんだろう。自分のしていることに気づかないお母さんが多い。フランチャイズ時代は、「お母さんは塾に、安心感、自分はこれでいいのだという安心感を買いに来る。だから「無理」な生徒でもだれでもかまわない、とにかく買いては保護者だ。お母さんさえ安心できればいい。多くのお母さんは子どもの成績はみているかもしれないが、子供はみていない。」ということを学んだ。 オトノネの生徒が増えないのも、そういった事情があるからなのだとおもう。

授業においていかれたら

もしくは、授業が簡単すぎてつまらない、でもいい。

さぁ、どうする!???

それこそ、考えよう!というより、ひらめこう!

原理は簡単。「どうやったら、目の前で淡々と進んでいく無慈悲なこの世界で権威の支配を受けながら私は成長していくか?」である。「ここで眠っておいて生気を養い次の時間に頑張る」のもありだろう。「先生が言っていることがわからないけどとりあえずでてきた公式全部証明してみよう」とか「なんやこの英文簡単だなじゃぁ要約してみるか」とか「この授業が終わるまでにこの英文は暗記しちゃおう」とか「もはや自習しよう」とか「筆ペンでこの初めて見る二字熟語を今の感情を込めて書いてみよう」とか。「先生の回答よくないな。書き直してみよう」とか。

キレーにノートを書くとか意味のないことはやめよう。

自分にとって最適な課題を正しく設定すること。

点滴受けながら集中治療室でゼーゼーいっているような授業の受け方をしている人!いませんかー!つまらない授業(おいていかれた授業)は、ゲームにしてみてください。ルールは自分でかんがる。隠れて内職するゲームでもいい。なんでもいい。大丈夫だ。先生といくら喧嘩しても、出席日数さえあれば留年はしない。留年の手続きが先生にとってとても面倒臭いからだ。

宿題だったところからランダムに生徒に当てて黒板に書かせるスタイルの先生がいた。私は宿題をしていかない(他にやることがあった)。私は授業中、先生に当てられてから、解き始める。そして他の生徒が説いている途中で黒板の前にゆき、書きはじめ、まぁちょっとイライラしてみている先生を横目に見ながら書き終わり。席に戻る。そういうゲームをしていた。

屍(置いていかれた人)を脇目にもせずつきすすむ戦場の兵士(先生という名の隊長と部下という名の生徒)たちの教室で、屍が蘇るのだから、さぞかしみな驚くだろう。驚かしてやってもいい。だって、学校は戦場なのだから。

さぁ、ルールを考えよう!  

「自己内対話」のメタスキルを伝える

メタスキル をもっている人は、どうやって勉強しているんだろう? 「できる」人と「できない」人の違いはなんなんだろう? オトノネは、メタスキルを伸ばすために考えます。 例えば、「今の自分が取り組める量は、このくらいだ」というメタ認知をする能力。 この能力がないと、ただただ量に圧倒されて「できない」で終わる。 一斉授業であれば、ただ受けるだけで終わり、このメタ認知は育たない。 どんどん先に進むのにただついていくだけだからだ。 個別指導だと・・・分量を少なくするとか、やる範囲を狭めるとか、工夫はしてもらえるだろう。 もしくは丁寧に一問一問解説をしていくだけで終わるだろう。 それはそれでその子の役に立つかもしれない。 (ただしそれでメタスキルを育てずに先生に依存してしまう子もいる。) オトノネは? もしかしたら、「問う」メタスキルが使えていないのでは・・・・とおもう。 「問う」メタスキル は、実は、小さい頃に誰でも通ってきた遊びから学べることだ。 当てっこゲームというものがある。 誰か1人が、答えを決める。例えば、ライオン。 それから最初にヒントを出す。「毛が生えています」 それから、当てる側の人間は質問していく。「かわいいですか?」 YESかNOで答えられることもあれば、そうでないこともある。 「どこに住んでいますか?」 ライオンというもののありとあらゆる情報を、頭の中でつなげていく。 クイズが面白くなるように、答え方も考える。質問の仕方も考える。 ーーーーー 答えを「温暖前線」にしてみよう。 ここにたどり着くために、いろんな質問をしてみよう。 「どの単元ですか?」・・・地学ですね。 「宇宙と関係ありますか?」・・・ありませんね。 「寒い暑いに関係ありますか?」・・・・ありますね。(この時点で地質の範囲ではないとわかる) 「動きますか?」動きます。 「雨と関係ありますか?」ありますね。 「前線って言葉は入っていますか?」入っていますね。 「積乱雲ができますか、乱層雲ができますか?」。。。乱層雲です。 わかった!温暖前線だ! というように。 こうした「問う」「答える」の繰り返しを、誰かとやるとゲームになる。 これを、1人でできるか?(「温暖前線」が答えになるような問いを自分で作れるか) 1人で問いを立て、答えるというメタスキルだ。 このスキルは人間の精神活動そのものだと僕はおもう。 ーーーーー こういった学び方は、日常生活の中で出会ういろんな違和感、不思議に「問う」ことから自然と身につくもの。 大人が「それ、何?どんなの?教えて」という問いかけをすることで、子どものなかにできる言葉のチカラ。 大人の助けを借りて、内言が開花する9歳以降、子供は自分自身で内省をするようになる。 一つの言葉をいろんな言葉で説明していく。 つながっていく。 理解していく。 そうしたつながりを、問いを立てずにただただ「暗記」していく「定期テスト対策」でメタスキル は育たない。 もちろん、「問題」を解きまくることで「問い」をもらい続けることもできる。 与えられた「問い」に答えながら、「答える」ことができる。 けどそればかりでは「問う」スキルは得られない。 中学生くらいになったら、ほとんど成績の順位がかわらない(?)というのは、その時点ですでにこのメタスキルが「できる」子と「できない」子がいるからではないか。自問自答のメタスキル、抽象化、仮説をつくり始める年齢は9歳だ。小学校卒業までには「問い」を深めることができるようになる。 中学校になると、その範囲が広がる。 「問う」スキルが前提となって、宿題やら何やらがでてくる。 「問う」ことができずに、「教えてもらう」ことしかできない子が多いのは、そのせいかもしれない。 ーーーーー 自ら「問う」ことを励まさず、「行為」を要求するだけの大人が多すぎないか。 言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。 他者から与えられる「問い」も大切だ。 だがそれに答えるためにもっと多くの「問い」を発するのが「自己内対話」である。 他者から与えられる「問い」も大切だ。 自己内対話だけでやってしまうと鬱になることもある。 他者は必要だ。 そのバランスをとることが、大切だとおもう。 「話す」こともメタスキルだ。 ーーーーーーーーー 自己内対話のメタスキル、実は多くのスポーツ選手や芸術家がもっている。 「どうしたら、こうなるのか。よくなるのか。早く走れるのか。早く投げられるのか。強く蹴れるのか」 「どうしたらいい音がでるのか。どんな色が欲しいのか。どうやって書いたらいいのか。何を書くか。何を奏でるか」 その答えを探す道そのものが対話。 練習。 この場合は、肉体との対話になるわけだが。。。 スポーツができるのに、「勉強」はできない、、、という人もいる。 それがその子の特性だと認めなくてはならないかもしれない。 だとしたら、その天の才を自覚しながら、伸ばしながら、せめて「勉強」ではなく、自分自身の人生を「問う」、流されずに進んでいくメタスキルを伸ばしてほしいとおもう。 「問う」メタスキル は、きっとチカラになると、僕は信じている。 「問う」ことの限界も、その中で見えてくるはずだ。 その時その時、人生で「問い」、本気で「応える」積み重ねをしていくと、深みのある人間になると僕は思っている。 ーーーー メタスキル はメタスキル を育てる。 「問う」メタスキル によって、「聞く」メタスキル も育つ。 他者理解、他者との対話メタスキル も、育つ。 メタスキル とは、そういうものなのです。

やる気がでない高校生に告ぐ。

 

何を暗い顔をしているんだ。 何を不安そうにしているんだ。 もう息も絶え絶えで神経質な顔をして学校に向かう高校生たちを私は見てきた。 押しつぶされそうな生活で唯一の楽しみは遊ぶことだろう? 友達と喋ること。 仲間。 そう、仲間。 課題もほどほどに、大切な仲間といる時間を大切に。 大切なものがある人は、大切なものに気がついている人は幸せだ。 大切なものに出会えた人は幸せだ。 そして自分のチカラをもてあまさずに、使える人は幸せだ。 受験勉強と、大切なものがつながっている人は、もっと幸せだ。 やる気が出ない高校生へ。   リア充、爆発しろ!

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