【凹凸としての不安型・回避型愛着障害】幼少期最大の危機

  1. 【凹凸としての不安型・回避型愛着障害】幼少期最大の危機
    1. 不安な性格・避ける性格ー不安定型・回避型愛着障害
    2. 融通がきかない、適切な調整ができない、不健康な型
  2. 『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック
  3. 【Are you Abe?】「安倍晋三」というありふれた人間性について
  4. 愛着障害はオキシトシン欠乏障害ー草食系男子が増えた理由?
  5. 愛着障害を越えるためのマインドセット
    1. 認知によって愛着障害を超える
    2. ハグを大切にする。愛情のひとつのあり方
  6. 無邪気なオトナ『魂の殺人―親は子どもに何をしたか』A.ミラー
  7. 「小池百合子」というありふれた人間性について
  8. 【アタッチメント(愛着)の深い意味】幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、しあわせの種をまける。
    1. 学童期のくもんとそろばんにお金をかけるまえに。
    2. 愛着障害は前頭葉の発達を阻害する。
    3. 心の教師、命の教師として親が子供にお守りを持たせること
  9. ははは『精神保健および教育分野における音楽療法』
  10. トラウマという普遍的な人間の病(これは悲観というより楽観です)
  11. 『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』愛着障害とトラウマを癒す:未成熟な大人が子どもをやりなおす
    1. 子供として未成熟な大人が子どもをやりなおす
    2. 子供が家族の中で演じる5つの役割(第6章)
  12. コドモとして未成熟なオトナ
  13. 「へずまりゅう」というありふれた人間性について
  14. おやとこ

【凹凸としての不安型・回避型愛着障害】幼少期最大の危機

この記事のまとめ

子どもはお母さんから「しあわせ」が何かを学びます。

愛着障害、と呼ばれているものがあります。

幼少期、学童期に「愛」をどのように受けてきたかがその人の「しあわせを感じる力」を決めてしまいます。

どちらも「しあわせを感じる力」を学べずに育った結果です。

不安感、恐れから回復できない「不安型」

情動に過剰に反応してしまうタイプ、うまく吐き出す、処理することができずに溜めてしまう。不安でいっぱいになっていたら、人のサインに気がつけない。また他人の情動から自分を守れない。

情動を乱されないように避ける「回避型」

避けていたら、他人の心とつきあうすべを学べない。情動的な関係を、人間の豊かなエネルギーとつきあえない。他人の情動を感じないようにしてしまう。情動を避けることで身を守るタイプ。

愛着とは「心のお守り」のことで、愛着障害とは「心のお守り」をつくれずに起こるものです。

「心のお守り」は「安全基地」とも言われています。

安心できる人、愛してくれる人、情動を調整するのを手伝ってくれる他者のことです。

https://otonone.com/ura/creativity.html

不安な性格・避ける性格ー不安定型・回避型愛着障害

ブレンダとボブの娘が生後九カ月で睡眠中に突然死してから、一年近くになる。 ボブが座って新聞を読んでいる部屋へ、ブレンダがはいってきた。手に写真を持ち、目を赤く泣き はらしている。

あの子を浜辺に連れていったときの写真を見つけたの、と、ブレンダはボブに話しかける。 ボブは新聞から顔も上げず、「そう」とつぶやいただけだ。 「あの子、あなたのお母さんが買ってくれた帽子をかぶっているの」ブレンダが話しかける。 「ふーん」ボブはおざなりな返事をするだけで、やはりブレンダのほうを見ようとしない。あきらか に無関心だ。 「写真、見る?」と、ブレンダが尋ねる。 ボブは、「いや」とぶっきらぼうに答え、新聞のページをめくって、あてもなく紙面に目を走らせる。

だまってボブを見つめるブレンダの目に涙があふれる。「あなたって人がわからないわ。あの子は、 わたしたちの赤ちゃんだったのよ? 淋しくないの?どうでもいいわけ?」 「淋しいに決まってるだろ! その話はしたくないだけだ」ボブはどなり、荒々しく部屋を出ていった。

こうしたやりとりを見ると、愛着の型の違いによって、夫婦のあいだで―共通のトラウマへの対。

処だけでなく、それ以外のほとんどすべてのことについて――同調性が失われる場合があることがわ かる。ブレンダは自分の感情について話をしたいと思っているが、ボブはそういうことを避けたいと 思っている。ブレンダは、ボブを冷たくて思いやりのない人間だと思ってしまう。ボブは、ブレンダ を要求の多いうるさい人間だと思ってしまう。ブレンダがボブを話題に引きこもうとすればするほど、 ボブは逃げてしまう。 (『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.219)

 

ボブは回避的なタイプで、強い情動を不快に感じ、そうしたものを最小限にしておこうとする。ブ レンダは不安なタイプで、湧きあがる感情を抑えることができず、それを口にせずにはいられない。ボブやブレンダのようなタイプの他に、情動を避けることなく、かといって頭が情動に占領されて しまうこともない安定したタイプもある。ボブが安定したタイプであれば、ブレンダの気持ちを受けとめてやることができただろう。一方、ブレンダが安定したタイプであれば、ボブに無理やり共感を 求めなくてもすんだはずだ。

人間の愛着の型は、子供時代にいったんできあがってしまうと、そのままほとんど変わることがな い。愛着の型は、日常の親しい人間関係においてもある程度は顔を出すが、とくに恋愛関係において 強く表れる。愛着と人間関係についてさまざまな研究をおこなっているカリフォルニア大学の心理学 者フィリップ・シェイヴァーによれば、どの愛着の型も人間関係にそれぞれ特有の形で影響を及ぼす、 という。

シェイヴァーは、ジョン・ボウルビーからメアリ・エインズワースへと続く学派の流れを汲む学者 だ。エインズワースは、生後九カ月の乳児を短時間だけ母親から引き離したときの反応を調べて乳児 によって愛着の安定度に差があることを最初に指摘した学者だ。シェイヴァーはエインズワースの発 見を大人の人間関係に応用して、友人、夫婦、親子などの親しい人間関係に見られる愛着の型をあき らかにした。

シェイヴァーの研究グループによると、アメリカ人の五五パーセントは「安定」型の愛着を示し、 気楽に他人と仲良くなったり他人に頼ったりできる。「安定」型の人たちは、恋愛関係においても、 相手が情動面で自分に応えてくれる――つらいときや苦しいときに支えてくれる――だろうし、自分 も相手にそうするだろう、と考えている。彼らは気楽に他人と親しくなれる。また、自分のことを関 心や思いやりや愛情を受けるに値する人間であると思い、他人は自分が働きかければ応えてくれるも の、頼りにできるもの、自分に善意をもって接してくれるものであると考えている。したがって、親 密で信頼に満ちた人間関係を結ぶことができる。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.293)

融通がきかない、適切な調整ができない、不健康な型

「不安」型も「回避」型も、融通のなさ、という問題が根底にある。どちらのタイプも状況しだいで は適切な対応といえる場合もあるのだが、問題は、そうした対応ではうまくいかないときに他の対応 をとることができない、という点にある。たとえば、ほんとうに危険がある場合、「不安」型の対応 は準備怠りなく適切、と言えよう。しかし、必要のない場面で「不安」型の対応をすれば、人間関係が行き詰まってしまう。 ストレスに直面した場合に自分自身を落ち着かせる対応も、それぞれのタイプによって違う。ブレ ンダのような「不安」型の人間は、他人に慰めてもらおうとする。夫のボブのような「回避」型の人 間は、あくまでも独力で対処しようとする。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.294)

 

心配しすぎる傾向の強い「不安」型の女性では、前側頭極(悲しいときに活性化する部分)や前部 帯状回(情動が燃えあがる部分)や海馬(記憶をつかさどる部分)など「裏の道」の領域に活性化が認められた。この領域は、一般的な懸念ではなく、人間関係に関する不安という特定の状況において 活性化する。「不安」型の女性は、意識的に努力しても、人間関係について不安を抱くこの神経回路 を遮断することができなかった。強迫的な不安感が脳の意識的な働きを上回るのである。

対照的に、「安定」型の女性は、他のことを考えるようにすれば、すぐに悲しみを喚起する前側頭 極の活動が鎮まって、恋人と別れることに対する不安を遮断することができた。決定的な違いは、 「安定」型の女性の脳内では前側頭極が発信する苦痛の信号を鎮める働きをもつ眼窩前頭皮質がすぐ に活性化したのに対して、「不安」型の女性の脳内ではこの「表の道」がうまく機能しない、という 点にある。くりかえすが、「不安」型の女性の脳内でこの神経回路がうまく働かないのは、恋人との 関係に関して不安を抱いた場合に限られる。他の不安に関しては、この回路はきちんと機能した。

同様に、「不安」型の女性は、他の女性に比べて、恋人との関係に関する不安を喚起する特定の場 面を頭に思い浮かべやすい、という傾向が認められた。このタイプの女性は恋人との関係が心配で そのことで頭がいっぱいになってしまうために、建設的な対応を考える能力が阻害されてしまう場合 が多い、と、シェイヴァーは指摘している。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.295)

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック

子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

ーーーーー

子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

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さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。
https://www.ask.or.jp/article/alcohol/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%96%A2%E9%80%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8D%E3%81%86/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A3%B2%E9%85%92%E5%AE%9F%E6%85%8B
家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です
https://www.kakekomu.com/media/5993/

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
【令和元年12月1日現在(概算値)】
<総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

【Are you Abe?】「安倍晋三」というありふれた人間性について

下の動画は、1分くらいから本題に入ります。流して聞いて見てください。
安倍晋三という人がどういう人か、話が聞けます。

のっけから安倍晋三という人について語る宮台真司さん

宮台真司さんは社会学で面白い研究をやってきた。
僕が高校生の時に出会った人で、感性が好きだ。
その人がいうから、間違いないとおもうし、なるほどと納得することがある。

簡単に言うと、安倍晋三という人は、劣等感の塊だとうこと。

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これを僕が解釈すると、

劣等感を補うために、、、(自己欺瞞を続けるために)
いろんな人に利用されている。
自分を守るために、他の人の言うことを聞く。
自分の感覚がない。

自分がしたことが国民にどう影響するか考えない。
自分の仲間(利用しようとする人しか近づかないが)から見捨てられるのが怖い。
人に流される。
付和雷同する。
自分の意見が言えない(というか意見そのものがない?)

とにかく自分というものがない。
自信がない。
考えを持てない。

こういう人が、総理大臣にされて、利用されている。(みんな悪党だ)
僕らが選んだ総理大臣ではない。魔界はそういうしくみになっている。

自民党公明党にとって都合がいい人物だったからだ。
人が組織を作ったのではなく、組織が人を作った。いやこれは鶏か卵かということになってあまりおもしろくない。

とにかく、どんな施策を行っても、それがどんなに悪かろうと、彼が、自民党が、公明党が政治をやっている限り、「自然」なこと。
ブーブー文句をいって「定期テスト対策」しようとしても、労力の無駄だ。

今起きているのは「当然」のこと。
それに気が付いて、、、、「大人の宿題」に一人一人が向き合わなかったら、また「自然」と魔界は開かれる。
不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??

ーーーーーー

「安倍晋三」はこの世の中に、日本にたくさんいる。
たまたま、たまたま!爆担がれてその一人が総理大臣になっただけで、学校、家、会社、隣近所のどこかに、どこにでも、「安倍晋三」はいる。
会社の上司も同僚も、学校の先生も、保育所の先生も、もしかしたらお父さんお母さんも、、、、、
少なくとも、多くの人の心の一部に「安倍晋三」はいる。

そういう認識ができなかったら、また繰り返す。

そうしてまた、繰り返すんだろう。
と、悲観諦観してしまうおとのねさんです。

自己疎外、自己嫌悪、劣等感、言い訳、見て見ぬ振り、感情を偽る、抑圧する、偽りの「正常」を飾り立てる、ラッピング、、

コロナよりも、多くの人が、今現在、罹っている呪いだ。

とりあえず一発、自分自身を殴ってみる。
【ファンタジーのリアル】敵がみえない世界。敵を殴って倒せない世界。

コロナ騒ぎで頭を回す前に、心を、大事にしてみよう。
感じてみよう。

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?

愛着障害はオキシトシン欠乏障害ー草食系男子が増えた理由?

 

章の冒頭に出てきたアリシアのような多くの人たちにとっては、さらに根深い問題がある。彼らの 共感障害は一時的な状態ではなく、深刻な心の傷の結果として深くとどまるのだ。おもな原因は幼少期の虐待であり、それにはネグレクトや育児放棄も含まれる。子猫は光を奪われると、脳の視覚を司 る領域が萎縮する。同様に、オキシトシン受容体は早い時期に愛情や思いやりによって刺激されなけ れば、発達しそこなう。 1958年、心理学者のハリー・ハーロウは悪名高い実験を行った。生まれたばかりのアカゲザル を母親から引き離すというものだ。赤ん坊ザルたちには2体の代理母を与えた。一つはワイヤーで、 もう一つは柔らかい布でできている。どちらか一方にミルク瓶がつけられたが、どちらの「母親」が 食事を与えるかにはかかわらず、赤ん坊ザルは、布でできた模型のほうにしがみついてほとんどの時 間を過ごし、驚いたときやあわてたときにはすぐにそちらに駆け寄った。

ただし、母親は食事さえ与えていればいいというものではないのと同じで、養育とは赤ん坊に刹那 的に快感を与えればいいものでもないことがわかった。のちに、ワイヤーの母親といたサルには、精神面と情緒面の発達に重大な遅れが見られた。隔離されて育ったサルはさらに悪かった。群れに戻さ れたあとでさえ、ぽつんと座って体を前後に揺すってばかりいた。彼らは遊び仲間に対して極端に攻 撃的であり、大人になってからも正常な愛着を育めなかったし、ごく基本的な社会的技能さえ身につ けられなかった。社会的関係に乏しい、つまり、オキシトシンが欠乏した状態で過ごしてきたメスは、 発情期に正常なオスに求愛されると下半身を突き出すかわりに床にしゃがみ込んだ。以前隔離されていたオスは、発情期のメスに求愛するときにメスの下半身のかわりに頭部を抱き抱えて体を突き動かしはじめた。 

オキシトシンが欠乏した状態で育ったメスは、育児能力がない母親や虐待をする母親になった。た とえほかのサルの様子を見ることも匂いを嗅ぐことも声を聞くこともできたとしても、接触することはできないケージの中で育ったサルは、仲間から孤立して、しきりに体を揺すり、度の過ぎたグルー ミングをしたり自分の体を抱き締めたりする習性を見せた。

ハーロウの実験は残酷だったが、もしその教訓がもっと広く浸透してさえいれば、人道主義の危機 を避ける手助けにはなっただろう。だが、その後の数十年間、多くの孤児が、情動面で強制労働収容 所に相当する施設に入れられる事態になった。とくにひどかったのがルーマニアだ。かつての独裁者 ニコラエ・チャウシェスクが確立したシステムでは、1人の世話係に20人の幼児の面倒を見させた。 これはつまり基本的な衛生上の世話をする時間もないということだ。ハグやその他の愛情のこもった 世話などは問題外だった。 1989年にそれらの孤児院が外の世界に解放されたとき、国外の衛生当局者が目にしたのは、泣きもしゃべりもしない3歳児たちだった。この子どもたちは、身体発育や運動能力や精神発達にはな はだしい遅れを見せた。ハーロウの、オキシトシンが欠乏したサルのように、自分の体を抱き締め、 黙って体を前後に揺すっていた。 

その後アメリカの科学者たちが、これらの孤児のうち養子になった子どもを調査した。養父母と遊 ばせてから、尿を採取した。愛情のある家庭で3年間過ごしたあとでさえ、赤ん坊のころに情緒面での養育を受けなかった子どもたちは、親子で30分間遊んでもオキシトシンは増えなかった。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.165)

愛着障害を越えるためのマインドセット

認知によって愛着障害を超える

親との関係でも、これと同じようなことが起こりうる。親子関係がうまくいかないのは、親 と自分、どちらのせいか。十分に愛してもらえなかったのは、親がひどい親だったからなのか、 それとも、自分が可愛げのない子だったからなのか。マインドセットが硬直していると、そん な醜い思いにとらわれたまま、抜けだせなくなってしまう。

まさしく私がそうだった。母は私を愛してくれない人だった。幼い頃からずっと私は、母を 責め、母を恨むことで何とかやってきた。ところが、そうやって自分をかばっているだけでは、 どうにも満たされないものを感じるようになった。お互いに愛しあえる母と娘になれたらどん なにいいだろう。でも、冷淡な親に取り入るようなことだけはしたくない。そのとき、私ははたと気づいたのだ。親子関係の半分は私が握っている。親子関係の半分は私の意志で変えられ る。少なくとも、母を愛する娘になることだけなら、自分が望めばできる。母がどうするかは、 ある意味で、たいしたことではない。私が一歩前進したことに変わりはないのだから。

それでどうなったか。母への恨みをすっぱりと捨て去り、歩み寄る努力をするようになって、 自分が大きく成長した気がした。その後のことは本当はどうでもよいのだが、一応お話ししよ う。思ってもみなかったことが起きたのである。3年後に、母の口からこんな言葉を聞いた。 「当時、『あなたは子どもたちを愛していない』なんて人に言われたら、きっと憤慨していただ ろうけど、今にして思うと、やはりそうだったのね。自分自身が親に愛されなかったからなの か、自分のことで精一杯だったからなのか、愛するってどういうことかわからなかったからな のか。でも、ようやくわかったわ、愛するってどういうことなのかが」

そのとき以来、2年後に亡くなるまで、母と私の距離はますます縮まっていき、お互いの中 で大きな位置を占めるようになった。数年前に母が脳卒中で倒れたとき、医師からは、もう言 葉がしゃべれず、回復の見込みもないと言われた。ところが、病室に入った私を見るなり、母 は「キャロル、すてきな服じゃない」と言ってくれたのだ。 「あの最初の一歩を踏みださせたものは、何だったのだろう。拒絶されてもいいから前に進も うという気にさせたものは、何だったのだろう。マインドセットが硬直していたときの私は、 人を責め、恨まずにはいられなかった。そうすることでやっと、自分は悪くない、ダメ人間な んかじゃないと思うことができたのだ。ところが、マインドセットがしなやかになってからは、 人を責める気持ちを捨てて、前に歩みだせるようになった。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.230)

ハグを大切にする。愛情のひとつのあり方

私は誰でもハグしたくなるこの性癖のせいで、「ファスト・カンパニー」誌のライターのアダム・ ペネンバーグをハグしたあと、同誌に「ドクター・ラブ」に任命された。そこでこのドクター・ラブ に一つ処方箋を出させてほしい。1日ハグ8回。1日8回ハグすれば、今より幸せになれることが私 たちの研究からわかっている。そして、世界ももっとよい場所になるだろう。あなたがほかの にオキシトシンを分泌させることになるからだ。そして、その人たちもほかの人たちと前よりうまく つながり、相手を寛大に扱い、オキシトシンの分泌を促す……そう、「善循環」はハグから始まる。 誰かが会いに来たときに私がすることがもう一つある。私がどうすれば、この訪問を最高に価値のあ る充実したものにできるか、尋ねるのだ。これはその場に完全に身を置き、相手の要望に応えられるようにすることの一環で、これまたモラル分子から学んだ教訓だ。 「私は自分の日常生活でもこの知恵を活かすことを心がけていて、そのおかげで前よりもよい教師や チームリーダー、夫、父親になれたと思う。自分がずっと幸せな人間になれたことは間違いない。私 が新たにしたことのほとんどは、小さなこと――子どもたちのために犬を手に入れたり、彼らとずっ と多くの時間をかけて遊 んだりといったことだ。

こうした変化が自分のオキシトシン受容体を調整したと断言することはできないが、身長193セ ンチの元運動選手で、とんまで、更生中の数学馬鹿であるこの私が、今では妻と二人の娘とソファー の上で身を寄せあい、小さな女の子たちと口をきくウサギたちについての映画を見てぼろぼろ涙を流 す以上に楽しいことはないと断言できるのは確かだ。こんな姿は、10代のころ、フットボールをした り自動車の手入れをしたりしていたときには想像もしなかったのだが。

母が私に叩き込もうとした「汝~すべし」という宗教的な教えは、とうの昔に頭から消えてしまっ たが、皮肉にも、その核心にあったものは今も残っている。生殖ホルモンのオキシトシンは私たちを 道徳的にしてくれる、ということは、最終的には、私たちは性的な生き物を起源とするおかげで道徳 的になれたのだといえる。そこで、神は愛である、あるいはひょっとしたら愛は神であるという、と てもキリスト教めいた考えに逆戻りすることになる。だが、すでに見たとおり、「エロス(性愛)」は 愛の一種類にすぎず、オキシトシンはすべての愛を網羅する。「フィリア」として知られる他者への 愛や、「ストルゲー」という家族の愛、「アガペー」という自己超越の感覚(踊りや瞑想や魔法のあい だに得られる感覚)を通して私たちが求める神の愛も、オキシトシンは感じさせてくれる。 

母の信仰は、「神の国はあなたの中にある」とも主張していたが、これは根本的には、まぎれもな くボトムアップ型の考えだ。神は愛である。神はあなたの中にいる。オキシトシンは愛だ。オキシト シンはあなたの中にある。

というわけで、じつは古代の賢人たちは正確そのものだったわけだ。オキシトシンが支配する共感 的な人間のつながりは、信頼と愛と繁栄のカギを握っている。共感的な人間のつながりこそが、私た ちの追い求める「善」なのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.287)

無邪気なオトナ『魂の殺人―親は子どもに何をしたか』A.ミラー

『魂の殺人―親は子どもに何をしたか』A.ミラー 言葉は、言葉を発するココロは一言で人を生かしもするし、殺しもする。 殺す例が多い。塾の先生がただ「君には無理だ」ということ。その一言の言い方によってはもちろん、人を生かすことおもあるが、この一言でその子が死ぬか、生きるか、どちらにも行く可能性があるという言葉の重さを知っているオトナが教育の現場にはいない。学校の先生は筋を通せとか、詭弁を用いて雄弁に語るから言葉を教わることはない。 面白い話は、精神病の患者に「死のうと思います」と言われて「死ねば?」と言って、結局その患者は生きた。ただ医者の一言の言い方、それこそ重みがあったのだろう。その患者が感じているコト、その場で起きているココロの動きに合わせたのかもしれない。言葉の技術はプログラム不可能だ。ペーパーテストなどで測れるものでもない。どれだけ言葉が疎かにされてきたか。 本のタイトルには親とあるが、親が生きている時代そのものが、コドモの魂を殺している。コドモの魂の発達を阻害する。育てつつ、バランスをとるような、絶対に切り離せない自分の一部を無視して、抑圧させて、つながりをないものにして、ココロの一部、魂の一部だけが育てられたアンバランスさが、問題を引き起こす。勿論完璧な人はいない。お互いが部分を担いながら、ただ自分自身が苦手な部分をどう生きるか、そういった工夫、本人にとっていちばん大切な課題に気が付かずに入試問題を解くなどナンセンスだ。 親が育てなくてもいい。親は親で役割がある。全部やらなくてもいい。 ちゃんと向き合ってくれて、真剣で、感情を、言葉を、ココロを打ち合えるオトナと出会えたコドモは幸せだ。

「小池百合子」というありふれた人間性について

かつて書いたこの記事を焼きませるので焼きましてみる。 【Are you Abe?】「安倍晋三」というありふれた人間性について 小池さんについてはいろいろ書いてきた。 【学校で子どもが学ぶこと】小池さんが当選した理由は【人間不信】かもしれない。 都知事選と株と金と「命」とキュウリと曹操 で、この動画をみてなんだ同じかとおもう。 「安倍やめろ」というタグを打つのはいいが、それで世の中が変わるとおもっているとしたら、その人も狂っている。 そしてそれも、ありふれた人間性なのだろう。 小池さんが親にかけられた呪いのように、その人も小池さんに呪いをかけようとしているだけなのだから。 その人がかけられた呪いを、今度は別の人にかけているだけなのだから。 東大教授と語る・小池知事【カイロ大学首席卒業問題】を子供時代の虐待と暴力の観点で考える。安冨歩教授電話出演。一月万冊清水有高

女帝小池百合子さんの子供時代に注目する。権力者の幼少期が社会に拡張するなら個人を叩くのではなく社会の問題として考える。今一生さんと一月万冊清水有高。

【アタッチメント(愛着)の深い意味】幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、しあわせの種をまける。

学童期のくもんとそろばんにお金をかけるまえに。

『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフ https://otonone.com/wp/neuro/junioristhebest/ という記事を書いたことがあるが。 このデータは「子育てに意識ある親(所得が低い高いに限らず)」は、小中高のなかで、小学校を一番大事にしているという現象を教えてくれた。 けどその中身が、学習塾とか、スキルアップのための習い事になっていないかどうか、わからない。 非認知能力が学びのメタスキルとなるために、「泳げるようになるために」水泳に行かせるとか「ピアノが弾けるようになるために」ピアノ教室に行くのであっては本末転倒だ。 話がそれましたゴメンナサイ 本当は、小学校に入る前の関わり合いが、非認知能力、生きる力、「しあわせ」になるためには大切だ!というお話。 こちらは非認知能力を情動知性という言葉で説明したものです。トレンドが変わっただけで、意味は同じだとおもってください。

youtubeの再生リストから0から8歳までの詳細の解説がみられます。 このダラダラした記事の結論は『アタッチメントと言われているものは、親と子の信頼関係であり、守ってくれる人がいるから子どもは頑張ろうとおもえるという、ごくごく当たり前のことを意味する』ということです。人から学ぶ。それが人間らしさをつくるとしたら。アタッチメントは、人生で最初の先生としてお母さんを選ぶ、という事実を述べているにすぎない。 お母さんは、何を教えますか? 何を伝えたいですか? ーーーー

ーーー 肝心の話は、ここからです。

 

ある見積もりによれば、アメリカでは幼い子供のための公的資金のうち、3歳児未満の子供向けのプログラムに費やされるのはたったの6%であるという。残りの94%は三歳児向け、、4歳児向け、5歳児向けのプログラムに使われる。この配分の偏りは問題だ。いまや、のちの成功に影響を及ぼす脳の発達は、人生の最初の3年間に起こるとはっきりわかっているのだから。(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.47)

これはアメリカの話ですが。日本ではどうでしょうか。 ーーーー

ーー アメリカではなく、日本の話はこちらから

出典:OECD Child well-being module(IN2.1: Public spending by age of the child) The three age groups concerned are: early childhood (ages 0-5 years), middle childhood (ages 6-11 years) and late childhood (ages 12-17 years). で分けられている。つまり未就学児、小学生、中高生。 public expenditureとは、公的な支出、行政がどれだけの予算を、それぞれの年齢にかけているか。 グラフは、0歳から17歳までに使う公的な予算を100として、各段階に使うお金を%で表している。(つまり3つ全部足したら100になる) 5歳以前が・・・低い! 15%くらいだろうか。 18年間のうちの6年間、ということは、もし均一に割り振られたとしたら33%になるところが。 15%かいなー けどそれが、今の「教育」のあり方。 テスト、テストの認知能力を追求した古い時代の「教育」の方針。 その内約は詳細不明だが、

これをみると、5際以前はeducationに使われていないことがわかる。 そもそも、childcareとeducationって何が違うか、定義が乗っていなかった。educationって何だろう。。 childcareには、医療費などが含まれているのだろうか・・・だとしたら、「しあわせ」のスキルを学ぶ(これが教育の定義だと僕はおもう)一番大切な時期に、国は予算を使っていない!ことになる。 あ、そうか、教育って、「しあわせのスキルを学ぶこと」なのかもね。 それはまさに、非認知能力。 で、自治体はまだこの研究成果に気が付いていないかもしれないし、気が付いていても「しがらみ」のせいで実行にはうつせないだろう。 どうしましょう。 ーーーーー

ーーー どうしましょう、といいつつも。 非認知能力、「しあわせ」のスキルは、教わるものでなく、環境から学ぶもの。 お母さんが作り出す言語環境、知的な、そして論理的で刺激的で、ファンタジーに富んだ会話、そして安心感。 そういったものが大切です。 結論、 小学校になってからの習い事、中学校になってからの学習塾など、「子ども」にお金をかけるような世の中の傾向がありますが、それは間違いです。 幼児期の「お母さん」の豊かな生活(「子どもの言語環境」)に、お金をかけた方が、のちのちその子は、しあわせになるという、お話でした。 就学以前から「どこそこにいれる」とかいう話ではありませんよ〜

子供の語句や読み書きのスキルをターゲットとした介入には、それほど確かなエビデンスはない。この種の介入は、子供が幼い頃に接する話し言葉・書き言葉は親の階級に大きく左右されているという現実を前提としている。裕福な家の子供たちはたいてい、より多くの本屋印刷物に接している。また、裕福な親は低所得層の親よりも子供に多くーいくつかの概算によれば、はるかに多くー話しかける。使う言葉そのものもより複雑である。こうした傾向は、入園時に低所得者層の子どもたちに言語面での大幅な遅れがあることの説明になる。(略)乳幼児は、親が言葉を教えることに専念している瞬間だけでなく、つねに親から言葉を吸収している。だからもしあなたが親であり、限られた語彙しかもっていなければー多くの低所得層の親はそうなのだがー子どもの語彙を豊富にするのはむずかしい(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.52)

アタッチメント(愛着)とは、「この人からは、安心して言葉・しあわせになるメタスキルをたくさん学べるんだ!」という子どもと養育者の信頼関係(教育協定)のことである。 と僕はおもう。 もちろん、安心感からくる、探究心、意欲なども、しあわせになる大切な、メタスキルだ。 そうして得られる自信、自立心は、とっても大切な、しあわせのメタスキルだ。 ストレスでドキドキしていたらちゃんとした遊びはできない。

ネガティブな感情が思考を狭めるのとは対照的に、ポジティブな感情には思考や行動の幅を「広げて養う」効果があるとフレデリク村は主要する。たとえば、喜びを抱いている時は、遊びたくなる。遊びには台本があるわけではなく、しようと思うものごとの幅を広げる。あれこれと考えて、新たな活動を探したり発明したりしたくなる。さらに、喜びは遊びを促すため、資質やスキルを養うことにつながる。たとえば、子供は混沌とした遊びを通じて身体能力を養う。おもちゃ、ブロック、クレヨンを使って遊ぶことで、モノの使い方を覚える。動物や英雄になりきることで、他人とのつきあい方を学ぶ。「興味」というポジティブな感情は、好奇心の幅を広げる。興味を持つと、それにかかわったり、新たな物事を学んだり、新たな体験をしたりしたくなる。そして、新しい考え方に心を開くようになる。個人的な目標を実現した時に湧き上がる「自信」というポジティブな感情は、将来の活動の幅を広げ、さらに大きな目標を追い求めるきっかけになる。私たちが組織や社会で目にする大きな問題のほとんどは、あいまいで変化し続けている。人々に困難な計画を理解させて本気で取り組んでもらわなければならない「燃える足場」のような状況ばかりではない。より大規模であいまいな問題を解決するには、柔軟な心、創造性、希望をはぐくむ必要があるのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.168)

ーーーーーーー 小学校になって、子どもが意味不明な宿題に手を拱いているのを「なんでできないの!?」とキリキリするお母さんは、大いに、間違っているかもしれない。 子どもはいうだろう。「なんで、お母さんは、小学校に入るまでの間に、僕の非認知能力を育ててくれなかったの?もっとたくさんの言葉をかけてくれなかったの?」 いやいや、それだけでない、発達特性があることも、あります。 そういうお子さんの現状をちゃんとみて、それからじゃぁ、どうしようかと、一緒に考えていきましょう。 正しい認識の上で、改めて、お子さんと向き合ってみませんか? 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと1 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない) 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと3 【高次認知的情動】とは?情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。 【8才からの内言】自立心と感情のコントロールと思春期 個別化・自立のための小学生の「お勉強」法(小学3年生からの家庭教育) ====

愛着障害は前頭葉の発達を阻害する。

=== アタッチメント(愛着)の意味は、もう一つある。 ストレスマネジメントを手伝い、前頭葉の発達を助けることだ。

環境による影響の中で子供の発達を最も左右するのは、ストレスなのだ。子供たちは、いくつかの環境要因によって、 長気にわたり不健全な圧迫を受け続けることがある。こうしたストレス要因が子供の心を体の健全な発達を阻害する度合いは、従来の一般的な認識よりもはるかに大きい。 逆境は、とくに幼い時期ほど、体内の複雑なストレス反応のネットワークー脳と免疫システムと内分泌システム(コルチゾールなどのストレスホルモンを作り、放出する内分泌腺)を結ぶネットワークーの発達に強い影響を及ぼす、特にこの時期にネットワークが環境からの信号に敏感に反応するのは、これからの先の長い人生において何に備えるべきか、体に知らせる信号を常に探しているからだ。この先の人生が困難であることが信号によって示されれば、ネットワークはトラブルに備えるための反応をする。血圧を上げ、アドレナリンの分泌を増やして警戒を高める。 短期的に見れば、特に危険な環境では利点もある。「闘争・逃走反応」とも呼ばれる脅威検知システムが作動し、つねにトラブルに備えている状態なので、すぐに反応できる。このように、危険な環境への適応の発達には確固たる理由があるのだ。しかしこの適応が長期にわたってつづくと、かずかずの生理的な問題の引き金ともなる。免疫系がうまく働かなくなり、体重増加の一因となる代謝の変化が起こって、のちに喘息から心臓病までさまざまな病気を引き起こす。さらに厄介なことに、ストレスは脳の発達にも影響を及ぼす可能性がある。とりわけ幼い時期に経験した高レベルのストレスは、前頭前皮質、つまり知的機能を司る最も繊細で複雑な脳の部位の発達を阻害し、感情面や認知面での制御能力が育つのを妨げる。 感情面で見ると、幼い時期に慢性的なストレスを受けた子供はーいまでは大勢の研究者がこれを有害ストレスと呼ぶがー失望や怒りへの反応を抑えることに困難を覚えるようになる。小さな挫折が圧倒的な敗北のように感じられ、ほんのすこし軽く扱われたように感じただけでも深刻な対立関係に陥る。月皇生活では、つねに脅威を警戒し続ける強度に敏感なストレス反応尻手むは、自滅的な行動パターンを引き起こす。けんか、口答え、教室内でのわがままなふるまい。もうすこし目立たないものとしては、クラスメートとのつながりをつねに警戒し、教師や大人から差し伸べられた手を拒むようになる。 認知面でみると、不安定な環境で育ち、そうした環境が生む慢性的強いストレスにさらされた場合、前頭前皮質が制御する、実行機能と呼ばれる一連の能力の発達が阻害される。実行機能は、脳の働きを監督する航空管制官のチームに例えられることのある高次の認知的能力ー作業記憶、自己調整、認識の柔軟性などを含むものーで、これが発達のための神経系の基盤となり、粘り強さやレジリエンスといった非認知能力の支えとなる。不慣れな状況を切り抜けたり、新しい情報を処理したりする際に非常に役立つ、まさに日々の学校生活で求められる能力である。この実行機能がきちんと発達していないと、複雑な指示に集中できず、学校生活にいつも不満を抱くようになってしまう。(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.28)

マギル大学の研究者らは、母ラットの特定の行動が、子ラットのDNAの配列に起こるメチル化に影響を与えることを明らかにした。子ラットがストレスを受けた時に母ラットが示す温かく繊細な対応、とくにリッキング・アンド・グルーミングと呼ばれるなだめるような行動が、DNA上で海馬を制御する部位のメチル化を抑制するのだ。海馬は、成長した時にストレスホルモンを処理する部位だ。まだ検証段階だが、人間の場合にも同様の効果があるとみられている。マギル大学の研究は、多くの親の(そして子ども時代を振り返ることのできる人々の)直感を裏づけている、。親のほんの小さな配慮が、非常に深いところからーきわめて重要な遺伝情報に関わる部分まで掘り下げるようにしてー子供の発達を助けるのだ。(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.33)

もし不利な条件下にある子供がよりよい人生を送れるように手助けがしたいなら、プラスに働く介入の機会を連続体の中でできるだけ多く探す必要がある。しかしそれでもなお、6歳児未満の幼い時期、もっといえば3歳未満の時期こそが、子供のは発達を促す絶好のチャンスでもあり、危機が潜む期間でもあるのだ。これには確固たるエビデンスがある。ごく幼い時期の子供の脳は最も柔らかく、ほかのどの時期よりも環境からの影響を受けやすい。のちに様々な能力を支えることになる神経系の基盤が形成の途上にあるからだ。この基盤が関わる能力には、読み書き計算や比較、推測を扱う知的能力だけでなく、学校の内外で生きていくためのっ頃の習慣や力、ものの味方まで含まれる。幼い頃に環境から受けた影響は増幅される。よい環境にいれば先々の発達にとって非常によく、悪い環境にいれば非常に悪い影響が出る。(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.45)

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心の教師、命の教師として親が子供にお守りを持たせること

アタッチメントといえば、幼い子どもと母親の関係だが、ラポールという言葉が昔流行ったように、学童期、青年期になってからも信頼できる大人と出合い、関わることの大切さも忘れられている。

未来のイノベーターはどう育つか

学びのイノベーション

「この子たちは本当に偉い」と、ローゼンバーグはいう。「私だったら彼らの多くが経験してきたことに耐えられたかどうかわかりません。彼らは他人との結びつきや、まじめに受け止めてもらうことや、生きる目的を渇望しています。だから人お人を結ぶ糸を見つけて、タネを巻き、目的意識を育む手段や枠組みを与えてやるのが私たちの仕事です。目的意識がある人間は、多くのことに耐えられる。この部分が現在の教育システムにはすっぽりかけています。目的もわからずにあんな暗記作業をやりたい人間なんてどこにいるでしょうか」ローゼンバーグの問いは的を得ている。彼は生徒たちの情熱を目的意識を育てて、勉強する理由を持たせた。そして学校の玄関で子どもたちが「遊ぶ」様子を観察して、自分たちの遊びをもっと本格的にやってみろと挑発した。子どもたちが好奇心を持って学ぶ出発点として、音楽と若者文化を利用したのだ。ローゼンバーグの助けで子どもたちの「遊び」は情熱になり、その情熱が時間をかけて強烈な目的意識に発展し、子どもたちは成功に欠かせない自制心を養って言った。シリータの高校にローゼンバーグのような先生がいたら、つまり若者文化を真剣に受け止め、その活力とメイナス面の両方を子どもたちが理解できるよう助けてくれる人がいたら、シリータにとって大きな助けになっただろう。ローゼンバーグは子どもたちに、自分の経験や考えをもとに、自分の文化を作るよう教えていたのだ。本書で紹介してきた創造力豊かな教師たちと同じように、ローゼンバーグは実践的で、分野横断的で、グループベースの学習環境を創った。それはローゼンバーグ自身が子どもたちの内的な学習意欲を発見し、伸ばしてやれる環境でもある。そして彼もまた、学校では例外的な存在で、重要な活動の一部を学校の外に出さなければならなかった。ローゼンバーグの成功は、子供たちに深い敬意を払いながら信頼関係を築く重要性を指名sている。彼は子供たちの「目を見つめた」だけではない。カレッラの話に長い時間真剣に耳を傾け、子どもたちが自分のアイデアや夢を声に出すのを手伝った。若者たちがいうことの中には、挑戦的だったり破壊的なこともあるだろう。だが私たちが本当に「ひとりも落ちこぼれを作らず」に、すべての若者をイノベーターにしたいなら、そうした意見が出てくるリスクも受け止める必要がある。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.189)

これはアタッチメントの本当の意味に通じると思う。約束ができる人。言葉を信じてくれる人。 かつて韓国で演劇をしていた時に、ある舞台俳優はこう言った。「自分の言葉を、セリフを信じてもらえるように舞台の上で努力をするんだ。自分が本当に観客に伝えたい言葉に注いだ魂を観客に伝えるためには、そのセリフを出すまで一生懸命演じて、観客に、僕という存在を信じてもらわなくちゃいけない。」 親であれ、教師であれ、「この人の言葉を信じよう」「この人がいうならやってみよう」と思ってもらうこと。 そうした大人の存在が、子どもの「遊び」を「情熱」にして、さらには「目的意識」へと変化させるために大切だ。 子どもがそれを自然に、誰の手も借りずに「遊び」を「目的意識」つまり社会的に価値のある活動にすることは困難だ。日本ではそれがスポーツや学習発表会、大会の中に閉じ込められている。スポーツ・音楽は「遊び」であり、「情熱」を注ぐように大人は促す。そして大会という「目的意識」が準備されている。これが遊びではなく仕事となり、情熱ではなく忍耐になっていく子どもの姿をみると、どうも大人たちは本当にスポーツや音楽を理解しているとは思えない。強制参加、罰。こうしたものはどれも創造性には結びつかない。その先にあるものは、管理社会。(といってもケジメ、教えるべきことはきちんと教えること。教えるべきことはなんなのか、きちんと大人が見定めること) 教えるべきことはなにか。 教えてはいけないことは何か。 「宿題を毎日こなすこと」を教えるべきなのか。 もっと大切な、「教えるべきこと」はないだろうか。

ははは『精神保健および教育分野における音楽療法』

母親の重要性というか、社会の中で母性的なものが失われつつある、いうならば母という精神、存在を支えていた文化、社会がなくなっているんじゃないかとおもえる。お母さんは一生懸命生きている。誰にも頼れず子どもを育てるお母さんもいる。神話の中でも引き合いにだされるように、母と子、父と母の物語は、世界共通だ。ゆにヴぁーさる。人が生きる、そして死んでいく、エネルギーにあふれている。

『精神保健および教育分野における音楽療法』でコンティンメントという言葉が出てきたので調べてみた。噛み砕いていえば、ある困難で生まれた否定的な感情、また本人が対処不能な状況を、まるごと引き受ける精神的な器(コンテナー)によって、恐怖や不安などを感情をコントロールしてもらう経験が、以後、精神的な成長に役立つ。というものの見方だ。こころを、気持ちを包容してもらう、抱きしめてもらうということだろう。もっと意味を広げれば、言葉がけや振る舞いによって、もてあましていた感情を腑に落とす手助けをすることだろう。子どもは大人を真似る、誰かを、必要としている。それも、身体的に、社会的に安全だと言われる学童期になった後でも、彼らの発達は、他者との関わりつづける限り終わらない。コンテナに入り切らない感情に出会うかもしれない。不測の事態はそこらじゅうにある。そのとき生まれた感情を一人で吸って、きちんと、吐き出せるか。吸ったまま溜め込んでいないか。たまにはつついて、息を抜いたらいい。必要。息を抜く。いいことばだ。

必要という言葉もおかしなことばだ。明治以降に翻訳された二字熟語の使い方には〈気を使ったほうがいい〉。(〈注意した方がいい〉、というよりも、通じる気がしませんか)今日本で流行っているアタッチメントという言葉を似たような意味合いで使うこともできる。しかしどうして人は言葉を作りつづけるのか。この営みは、人間臭い。喋る人が違えば、その言葉が違えば、語り方が違えば、同じことをいうにしても、違って聞こえるということ。同じものを見ても、全く違った印象に鳴る。絵画ならそれがわかりやすい。人間臭い。

平井正三センセイの本の、内容が詳しく紹介されていました。『精神分析的心理療法と象徴化 ―コンテインメントを巡る臨床思考』

ビオンの本、いろいろある。

 

トラウマという普遍的な人間の病(これは悲観というより楽観です)

トラウマという言葉は一般的には「何か事件があってそれがフラッシュバックする」ことをいう。

フラッシュバックして困る、ことを言う。

 

フラッシュバックまではいかなくても、心が重おもたくなったり、ふと思い出して嫌な気持ちになることがあるのが人間だ。

ついつい「べきべきねばねば」思考になるのも、トラウマが日常的になったものと思えなくもないか。

 

心の仕組みをつくり、人は命を守ろうとする。

心の仕組みを作る過程で出会う人たちその関係性が、心をつくる。

 

たとえば、「優しい洗脳」というのはトラウマをつくることだろう。

東大京大早慶以外は問題外?親から子への「ソフトな洗脳」にご用心!(おおたとしまさ)
中学受験に挑むのは、よりよい教育、子どもに合った教育を受けさせたいという親の気持ちや、この学校に行きたいという子どもの思いなど様々な理由があるだろう。素晴らしい教育環境に身を置きたい、置かせたいと思うのは当然のことだ。ただ、時として親の思い...

親の支配下から受けられない、思春期を思春期として迎えられないのも「トラウマ」のせいだ。

トラウマよりももっとしんどくて、今でも「事件」は続いている。

児童虐待もそうだ。

カバートアグレッションもそうだ。

DVもそうだ。

そうして心は外傷を負う。

「命」が弱くなってしまう。

「心」は精一杯、自分自身を守るために、生き延びるために、我慢をしたり、「命」の叫びを無視する。

飲酒やギャンブルは、トラウマに対する防衛機構だとおもったらいい。

トラウマという言葉はそこまで一般化できるとおもう。

 

僕自身がそうだ。

「なにやってんだよ」と思えることの連続だ。

オトノネは、僕のためにもやっている笑

 

ーーーー

 

トラウマといえば、「体が反応する」「感情が吹き出して止まらない」暴走状態に入ること。

不登校でこれに当たるケースがある。

学校が子どもたちにトラウマを与えているという解釈ができる。

学習性無気力もそうだ。

「私バカだから」という子に出会ったことがある。

これはもうトラウマそのものだ。

人間関係は「トラウマ作り」といえるかもしれない。

感情が沸き起こらない、感情に気づかないくらい「反射的」になっている。

トラウマの植え付けあい!???

(どこかで「しあわせのトラウマ」の話をした気がするのだが忘れた。「お守り」のことだ。)

お守り

そう考えると、人はトラウマのなかで生きているようにおもう。

よくもわるくも。

 

で、トラウマの治療、トラウマで「反応してしまう」自分の心を落ち着かせるには?「大丈夫だよ」と言えるようになるには?

 

本を読んだ覚えがあるが、忘れてしまった。

『マシュマロテスト』ウォルター・ ミシェル.1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。

これだけ思い出した。

 

怒りや恐怖、でてきてしまう感情。

感情は出るものだ。それは「命」の振る舞いであるといえる、

だがそれを「心」がどう処理するのか。

 

「命」は完全に、神秘であり、僕はこれを認めたい。

ただこの「命」を「人」としてどう使うのかは、「心」にかかっているとおもう。

 

ある人は「トラウマ」経験を暴力に変換する「心」をつくる。

ある人は「トラウマ」経験を衝動買に変換する「心」をつくる。

ある人は「トラウマ」経験を涙に変換する「心」をつくる。

ある人は「トラウマ」経験を喜びとして解釈する「心」をつくる。

ある人は「トラウマ」経験から離れるような「心」をつくる。

ある人は「トラウマ」経験を、命のエネルギーにする「心」をつくる。

 

どれだけ医療が発達しても、人の心をつくるのは社会だ。

トラウマに対して、定期テスト対策でなく、学びによって答えられたら、人として成長するのだろううか。

とおもう。

 

トラウマと向き合うのは大変なことだ。

アダルトチルドレンという言葉もここから生まれる。

ああ、トラウマさんよ、あなたは虎なんですか、馬なんですか。

 

トラウマと向き合うのはむずかしい。

できるなら、一度死んで、もう一度生まれ変わったらいいのだろうか。

眠りから覚めて、目を覚ました時に、目の前にトラウマくんがいたら、どうしよう!?

 

トラウマの集合体が、社会か。

だとしたら、あと30年は、健全に生きることは、難しい。

なんとかまぁ笑いながら生きようぜ!自分の「命」だもの

なんて思いながら、眠る。

 

トラウマや、心のなにがしかは、癒すという他動詞よりも癒えるという自動詞がよく似合う。

癒えるのは自然の流れ。

自然の流れを止めるものを突き止めないまま、癒そうとすることが、トラウマを重ねることだと気づいている人は、少ないのかもしれない。

 

命は神秘である。

『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』愛着障害とトラウマを癒す:未成熟な大人が子どもをやりなおす

『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』

アダルト・チャイルドが自分と向きあう本

学校と塾と、何が違うか。
学校では保護者、という存在がほとんどない。
生徒指導で退学を迫るときにどうやって退学させるかとか、子どもを学校のコントロール下に置くために親をマインドコントロールするとか、無視するとか。

塾では、親と先に出会うパターンすらある。
そうしてみてみると、ほとんどのお母さんは不安の塊だ。
子供の姿が見えていない。(特に金沢では強くこれを感じた)

自分の感情に子どもを付き合わせるのに、子どもの感情には付き合わない。
それは差別だし、不平等だし、公平でないし、正しくない。暴力だ。横暴だ。
こういった暴力のありかたが、家庭という社会の中ですでに認められてしまっている。
こうした見えない暴力が、子どもに毎日、のしかかっている。

学校でも。家でも。
(いやいや、素晴らしいバランスを保っている家庭もありますよ!もちろん!学校はほとんどダメだけど)

それでも笑ったり、ひょんなきっかけでぽっと変われる子どもたちを、なんとまぁ、本当に、僕は尊敬してしまう。

お母さんの宿題、お父さんの宿題、子供の頃にやり残した自分の宿題を子供にやらせるパターンが多い。それが幼児期の宿題の人もいれば、思春期の宿題の人もいる。
例えばそれが精神的なものである場合もあるし、単純に「情報リテラシー」を得られなくて情報に振り回されている場合もある。どちらにしても、「知」は「心」であるから、お父さんお母さんが育てられなかった「心」の重荷を子供に背負わせていることには変わりがないのだが。。。

親が、「NO」ということを言えなかった。本当なら、思春期に世界を作り直すときに、自分自身が作り上げて来た価値観に対して「NO」ということが必要だった。それができずに、今まで「NO」といったことのない苦しみを、子供にぶるける人もいるだろう。子供にも、「NO」を言わせないのだ。自分への無意識の怒り、悲しみを、一人で処理できないのだ。

世の中の圧力にも「NO」といえないために、子供を戦場に送り出すしかない。
そんなお母さんもいるだろう。
「どこの戦場に行く?」という選択の自由を与えているから、いいのだ!と勘違いしている人もいる。

子供として未成熟な大人が子どもをやりなおす

親のニーズ、親の価値観、感じ方から抜け出して、生き直す。
その思春期の子どもとしての課題をきちんと学び取れる子どもはしあわせだ。
お腹の中からでてきたのに、お腹の中で暮らし続けなくてはいけない子どもは、不幸せだ。

「あなたの不安は僕の不安ではありません」
「あなたの怒りは僕の怒りではありません」
こういう当たり前のことが、わからなくなってしまった大人がたくさんいる。

自分の仕事がうまくいっていない、人生に不満がある。不安がある。
それは、子どもとは関係がないですね???
(子どもがいる、ということだけでも不安になっているお母さんもいるだろう。こんなにも不安な日本という国なのだから本当に狂っている)

本当に、子どもは、大人を背負って生まれてくる。
大人は、背負われていることに気がついていない。
といったら、子どもの見方が変わるだろうか。

気がついて、いない。
気がついているフリをしていることもある。

実は、一人では難しいのだ。
誰かに言われたり、誰かと一緒に子どもへ眼差しを向けることで、子どもの本当の姿に気がつけるものなのだとおもう。
オトノネはそんな場所です^^

子どものオトノネに、耳をすませてみませんか。
あなたのオトノネに、耳をすませてみませんか。

泣けなくなった、ちょっとだけ体が大きくなった子どもが泣いている、声が、きこえてきますか。

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アルコール依存症のいる家庭で育つ子供の多くは、「いい子」になります。
飲んでいる親と、飲酒問題をなんとかしようと必死になっているもうひとりの親の間で、小さい頃から少しでも親を助けよう、親の役に立とう、親に世話をかけないようにしようとします。問題を一緒にか行けるしようとしたり、家族間の緊張をやわらげようとします。親をかばって、親の秘密を守ろうとします。でも、いくらがんばっても、自体はよくならないのです。だから、もっとがんばります。

懸命に親の期待に応えようとします。親から愛されよう、見捨てられまいとして、中には自分が問題を起こしたり病気になることで、体をはって両親を繋ぎとめようとする子どももいます。無意識の行動であっても、結果的には子どもはこうした問題を起こすことで家庭の崩壊をぎりぎりでくいとめている場合も多いのです。

つまり子どもたちは、自分が望むようにではなく、周囲の状況に反応して行動する自分をつくりあげます。「ありのままの自分」でいると、周囲に受け入れられず、傷ついてしまう。だから「ありのままの自分」は心の奥底に閉じ込めて、身を守るのです。このような、自分主体ではなく他人や周囲を主体とすることで自分を守ろうとする生き方を、「共依存」といいます。

子ども時代の生き方は、パターンとして身についていきます。大人になっても、このパターンは続きます。

そして、自分の人生が自分のものでないような気がするのです。

これは、アルコール依存症者のいる家庭だけに起こることではありません。両親の間がしっくりいかないなど、何かの問題のためにうまく機能しない家庭でも、子どもあちは自分の感情やニーズ・欲求はそっちのけにして、親の愛情・注目・評価を得ようと格闘します。ACという言葉の指す範囲は今ではアルコールに限らず、機能不全家や、感情を抑圧された家族のもとで育った人たちを広くさすようになりました。ー必死にがんばるのに、まだまだ足りない。周囲に期待される役割に縛られ、自分らしくいきられない。この苦しいパターンを作り出すのは、私たちが育った家族(原家族)だけではありません。社会も、こうしたパターンを私たちに植えつけます。(p.10)

ここに書かれていることは、ほとんど完璧?に、子どもが「家庭という社会の決定的な構成員であるにも関わらず構成員の一人としての敬意が払われない」現代社会の現実を表しているように思う。

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子供が家族の中で演じる5つの役割(第6章)

ヒーロー・スーパーチャイルド(優等生/家族の誇り)
評価されようと頑張る。家族の期待に応えようとする。
完璧に期待に応えようとするが、疲れていて、休みたい。無邪気に遊びたい。けど努力をやめたら認めてくれないとおもっている。

スケープゴート(問題児/いけにえ)
トラブルを起こす。悪いことをすることで家族の問題を自分のせいにして、家族の崩壊を防ぐ。
または全く無視されているために「見て欲しい」から問題を起こす。
「さびしい」「助けて」といった感情を言えず、もやもやした気持ちを怒りや破壊的行動で表す。

ロスト・チャイルド(いないふり/忘れられた子/仲間はずれ)
隅っこで息をひそめる。目立たないようにして傷つけられることから身を守る。
誰かと繋がりたい、でも、自分の殻の中から踏み出すのがこわい。

クラウン/マスコット/ファミリーペット(道化師/甘えっ子)
おどけて家族の緊張をやわらげる。争いを回避しようとして笑う。注意を自分に向けさせる。
自分の感情ははっきり言葉にしない。

ケアテイカー/プライケイター(お世話やき/なだめ役)
親の面倒を見たり、愚痴や相談を聞いたり、後始末をする。
「自分がなにをしたいのか」わからない。

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過去と現在を見ていく地、自分が驚くほど同じパターンでものごとに反応し、行動していることに気づきます。
〈優等生〉は、今も周囲の期待を背負って努力奮闘しているかもしれません。
〈問題児〉は、今大胆な行動でまわりを引きずり回しているかもしれません。
〈忘れられた子〉は、今もひっそり部屋で思いをめぐらしているかもしれません。
〈道化師〉を演じていた人は、今も周囲が緊張すると、なんとかなごませようと必死かもしれません。
〈お世話やき〉の人は、今も周囲のケアを続けているかもしれません。
こうしたパターンは、私たちの個性や長所にもなります。同時に、その役割に縛られることで苦しさを作り出すもとにもなるのです。

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私たちアダルトチャイルド(AC)がかかえる苦しさの核にあるのは、共依存=「自己の喪失」です。程度の違いはあっても、次のような傾向はACに共通するものです。

自分の感情やニーズ欲求がよくわからない
自分を主張できない
相手と自分との境界線が混乱している
ありのままの自分でよいと思えない。
自分が大切うな存在だと思えない。

ACの中には、周囲の期待に答えてがばり続け、挫折もなく、とくに問題を感じていない人もいるかもしれません、けれど多くのACは、なぜ、同じことが繰り返し自分の人生に起きるのかと、嘆いています。よくあるのは、人間関係でのつまずきです。とくに、親密な関係を作ったり維持していくことに困難を覚えます。恋愛や結婚に踏み込めずに悩んでいる人もいれば、度重なる破局に傷ついている人もいます。暴力や暴言に満ちた理不尽な関係から抜け出せずにいる人、見捨てられるう不安から相手にしがみついて結局は関係を壊してしまう人。YES・NOがはっきり言えずに相手につけこまれる人もいます、親と同じような問題をかかえた相手をパートナーに選ぶ場合も多いのです。また、「がんばりすぎ」もACに特徴的な傾向です。多くの仕事を抱え込んで仕事中毒になったり、自分を犠牲にしてまで相手の世話を焼いたりします。リラックスするのが苦手で、自分に必要な休息を与えてあげることができません。楽しむことにも罪悪感を感じます。(p.18)

アダルトチャイルド(AC)が育った家族には、どんな問題が起きていたでしょうか?

(略)両親のコミュニケーションがううまきっていなかったのかもしれません。たとえば、対面はつくろっていても関係は冷えていて、家庭内離婚んお状態だった。あるいは嫁姑の間の確執があった。父親が仕事依存で、妻にも家庭にも目を向けられない状態だった、夫の権威に妻が自分を殺して従わなければならない状態だった。どちらかの親が別の異性関係にはまり込んでいた、などです。親の満たされない思いが子供に向かっていったかもしれません。

たとえば、親として精神的に未成熟だったり、自己イメージがゆがんでいて、子供に自分の不満や怒りをぶつけていた。親が自分自身の生き方を見出せなかったり、目標を喪失していて、子どもにすべての期待をかけることで自己実現しようとした、などです。(略)

これは、「親が悪かった」という意味ではありません。たとえ「すばらしい人」の集まりであっても、関係として機能しない、ということはあるのです。(p.38)

共依存のルール(第5章)
話すな
信頼するな
感じるな

機能不全家族の8つのルール
問題について話し合うのはよくない。
感情は率直に表現してはいけない。
言いたいことは直接言わず、第三者を介す。
非現実的な期待ー強く、正しく、完全であれ。
利己的であってはならない。
私が言うようにせよ、するようにはするな。
遊んだり、楽しんだりしてはならない。
波風をたてるな。

逆に健康な家庭は、このルールを逆にしたもの。

問題があったら話あう。
感情は率直に表現する。
言いたいことは、直接言う。
現実的な期待ー弱くても、まちがっても、完全でなくてもいい。
自分のことを第一に考えていい。
本音で話す。
大いに遊び、楽しむ。
変化はワクワクするチャレンジだ。

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多くのどもたちは、泣くことが上手です。痛い時、つらいとき、何かが満たされない時、混乱してわけがわからないとき、声を限りに泣きます。

こんな場面にであっ歌ことはありませんか?

迷子になってしまった子どもが、表情をこわばらせています。お母さんがやってきたとたん、緊張が破れ、わーっと泣きながら抱きつくのでs。子どもは、やさしくなでてもらいながら、気がすむまで泣きます。やがて大泣きはすすり泣きに変わり、ひとしきりしゃくりあげたと思ったら、けろっとして元気に歩きだすのです。

十分泣いた子どもは、悲しみを引きずることがありません。「お母さんがいない」というショックと悲しみは、安心感に包まれて思いきりなくことで癒されたのです。

でも、もしもこのとき、しっかりと抱きとめてもらえなかったら?「泣いていないで、さっさと歩きなさい!」と叱られたら?どんな気持ちになるでしょうか。(p.92)

「ぼーっとしていないで、さっさと宿題をやりなさい!」

ぼーっとしている姿が、僕には泣いているように見えるときがあるのだけれど。

 

コドモとして未成熟なオトナ

文章を書くときには、これが誰に読まれる文章なのか、わからないのが1番困る。

お母さんもいろんな状況の中にいる。
「イイ先生」に出会えなくて辛い思いをしているお母さんもいる。

こどもを苦しめているお母さんもいる。。。。
子供を苦しめていることにも気づかないお母さん。
「また怒ってしまった」といつも反省しているお母さんもいる。

いろんなお母さんがいて、ひとりひとりの気持ちも心も違う。
だからこそ、直接、話さないと、何も生まれないような気がする。

ブログに書いてもなぁ・・・・

といいながら、最近「こどもとして未成熟なおとな」という言葉を思いついたので、書き残して置こうとおもう。

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世の中の不幸を拾い集めると、大人の大人としての未熟さ、大人の子どもとしての未熟さを感じる。
僕自身も未熟さをもっている。
そんななかで学ぶ人、気づく人、と学ばない人、気づかない人がいる。
魔王もいる笑

たとえば「こどもとして未成熟」であれば、大人は無条件で愛されたかったという願望を、もしくはもっと別の人生を歩みたかったという願望を子供にぶつけているかもしれません。

たとえば「おとなとして未成熟」であれば、今この世のなかのメディアが流す、もしくは巷で流されている情報を丸呑みにしてしまって子供に無駄な、理不尽なプレッシャーを与えているかもしれません。

この両方が、混ざっていることもあります。

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そんなとき、子どもは、「沈黙」や「暴力(いじめを含む)」や「小さなガンジー」になって、お母さんに訴えるかもしれません。
小さなガンジーとは?

お母さんが大切にできなかったこと、お母さんが忘れていたこと、我慢してきたことを、子どもは教えてくれます。
将来への不安も、誰かへの怒りも、誰からも認められないというわだかまりも、もしかしたら、結婚を通じて感じている、パートナーへの不信感も。。。。子どもは僕らに伝えてくれています。言葉でなくても、行動でも。(お母さんは、なんとか大丈夫だったことでも、子どもはまだ、大丈夫にできるまで心のしくみができていないのです)

お母さんよりも、より繊細になっているかもしれません。

例えば、お母さんのその行為は、学校のためなのか、学校の先生のためなのか、自分のためなのか、それとも親のためなのか、ママ友のためなのか、果たして、よくわからない、ありもしない将来のためなのか・・・(結局それは誰のための将来なのか)

ということを、こどもはおそらく感じているのです。

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お父さんなら、小さい頃から親にコントロールされて育ったため、大人になっても殴ったり蹴ったり、言葉を荒げて命令口調になるという、自分がやられたことを繰り返してしまうこともあります。自分がたくさん要求されて来た過去を、子どもにも繰り返すという状況は、よくあることです。

おそらく会社でもこき使われたり、感情を押し殺したりして、ストレスが溜まっているかもしれません。
お父さんはお父さんで、自分のケジメをつけられていないかもしれません。
それは大人として、というより、大人の「子どもとしての未成熟さ」と呼べるものだとおもいます。


大人の(大人としての、もしくは子どもとしての)未成熟な心を、子どもは写し返してくれます。

(未熟な大人が作った社会で、子どもたちは暮らしています。「成熟した大人」の知恵はすでに崩壊しています。)

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例えば、恋愛の時から、「未成熟さ」をほとんど誰もがもっている、と考えていいかもしれません。

価値がない自分だから、、、頼られたい。
そうやって始めた恋愛で子どもが生まれて、子どもを甘やかして(頼らせて)しまう人がいるかもしれません。

とにかく認めて欲しい・・・
そうやって恋愛を重ねながら、つぎつぎと男女関係を変えていく人もいます。

傷ついてしまうから、関係を作るのが怖い・・・という人もいるでしょう。

パートナーとの関係の悪さを、子供にぶつけてしまう・・・という人もいるでしょう。

いろいろありすぎて書ききれません笑

恋愛中は気づかなくても、結婚してから気づくこともあるでしょう。

いつもぐるぐる、何度も同じ場所を、過去を繰り返している、、、と気づくかもしれません。
「ああ、またやってしまった・・・・」

何をしても、何度繰り返しても・・・

やっぱり、一人では、ムズカシイのです。
ここが辛いところです。

何かの、誰かの、助けがないと、なかなか、うまくいかないものです。
パートナーと、お互いのそうしたうまくいかないことを励まし合いながら、認め合いながら、少しずつ、何か、何か!変化する日常を作り出せるなら、しあわせです。
だから子どもといるお母さんは、しあわせなのだと僕はおもいます。
子供から、いろんなチカラをもらえるのですから。。

例えば、感じている怒りを遊びのなかで、もしくは絵や音楽の中で表現する子もいます。
遊びの中で、芸術の中で体を使って懸命に外に出そうとします。
素晴らしいことではないですか?
大人が表現できないことでも、子供は表現できるのです。

溜まっていたものを出す。
出したものを、誰かに見せる。言葉を使ってもいい。体を使ってもいい。
それだけでも、プロセスは動き始めます。

それを受け取る大人の準備ができていれば、そのプロセスはよりはっきり、強く、動いて行くでしょう。

ーーーーー

「小さなガンジー」もそうです。
学校に行かない、というだけで、新しいプロセスは動き始めます。
ただただ息を殺して学校に行ったらただただ抑圧される感情を、別のエネルギーに変えることができれば、心は息を吹き替えすかもしれません。(そこで孤独になってしまう子が多い、子どもと子どもが出会う場所が学校の外にあまりない、というのが、未成熟な大人の作り出したこの日本の社会です。子育ては一人でするものではありませんから。)

それを受け取る大人の準備ができていれば、そのプロセスはよりはっきり、強く、動いて行くでしょう。


大抵の大人は、大人としての、もしくは子どもとしての自分の未成熟さを、認められない。

気づけない。
どうしたらいいか、わからない。

そうすると、プロセスが止まってしまいます。
成長できなくなってしまいます。

子どもが変わるよりも、大人が変わった方が、より多くの場合、子どもにとってよい影響を与えます。大人は子供の大切な、環境の一部ですから。だから大人が変わると子どもも変わります。オトノネでは、子どもとオトノネの関わり合いを通じて、子供の成長をみて、大人が学んでいくようです(それに気づけないお母さんも、もちろんいますが)。そうしてイイ循環が生まれたら、もうオトノネ卒業です笑ホースセラピーとかドルフィンセラピーとかドッグセラピーとかあるから、チャイルドセラピーがあってもいいのかもしれませんね。

子どもが問題ではなく、
お父さんやお母さんの不安が問題なのかもしれません。

やり残した宿題に、お子さんと一緒に、オトノネで取り組んでみませんか。

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こどもは自立する心を、生まれた時からもっている。
それを感じられれば、いいのだと、僕はおもっています。

どれだけ心配しても、障害を取り除こうとしても、予測のできないことは起きて来ます。
その全てに保険をかけることはできませんから。。。。

目の前で成長していくこどもを、今ここで、強くしていく。
親が将来が不安だから、、、、子供に○○させる、では殺されてしまう心があります。
それも、こどもの発達段階に応じて、大きく変わっていくものです。

今、伸びようとしている、輝こうとしている命を大切にする。
それがオトノネのやり方です。

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こどもの成長を促すものがあって、はじめてお母さんの「お母さん」としての役割が生まれます。
こどもの成長を促すものとは?それは人であったり、環境であったりそれぞれです。

自律・自立の欲求にたいして困難に立ち向かう時に、「お母さん」の役割が生まれます。
こどもの心に生まれた感情をつまらせずに、排泄してあげる、外に出すときに「お母さん」の役割が生まれます。
健康的な探索、冒険を阻むもの(大抵大人が作り出したどうしようもないもの)からこどもの心を守る時に、「お母さん」の役割が生まれます。


よくよく考えれば、こうしてみると、「お母さん」の役割は、こどもとかかわるただの「人間」ではないか、と僕にはおもうのですが。

いかがでしょうか。

他者の情動世界に敏感性をもって共感的にかかわる方法を伝える、一番子供の近くにいる人が、一番親しい人が、お母さんだというだけではないでしょうか。
お母さんが一人で子育てする必要はないし、それはキビシイです。。

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ただ笑いながら、暮らしていきたいだけなのに、
なかなか難しいようにおもえてしまう世の中になりました。

いえい!

成熟したオトナって、どんな人なんだろう?

「へずまりゅう」というありふれた人間性について

ありふれた人間シリーズ第3弾。
政治に関わるツイートでも、なんでも。

学校の先生でもふつうにいます。
こういう人から「命」を守る「心」を育てるのとどうじに、こうした人たちを生み出す社会があるという自覚をもちたい。

「小池百合子」というありふれた人間性について
【Are you Abe?】「安倍晋三」というありふれた人間性について


はじめしゃちょーがこの動画でもいっているけど、僕もこういう記事を書くのをやめて「自分のために時間をつかう」ことをしたらいいのだろうとおもった。

僕自身が自分の「命」を大切にできていない。

無責任であふれた社会で

 

おやとこ

公園。中国語が聞こえるとおもったら、縄遊びを、おとなとこどもがやっていた。おとなが3人、子どもが7人くらい。幼稚園から小学生くらいの子があそぶ。走りながら、声を上げながら、笑いながら、きゃー!うわぁー!芝生の上で、太陽の光にあたりながら。とびまわっている。おとなもこどもも、大声を上げて、きらきらとびまわっている。

僕はベンチに座ってみていた。日本人の子どもが目の前を走ってくる。ころんだ。片手だけついて。すぐ後ろをみると、お母さんがやってくる。大丈夫だ。心配ないと僕はおもう。男の子はお母さんがやってくるまでには一人で立ち上がった。お母さんは歩くスピードをまったく変えずに、男の子を通り過ぎていく。2mくらい男の子の先をいってから弱々しい声でこういった。「あと30分しかないよ。遅れちゃうよ」しゃべる間も、歩く速度は落とさずに。男の子は、うっ、うっといって、泣きかけた。泣かなかった。そして走ってまた、歩く速度を変えないお母さんの後ろを追いかけていった。お母さんは一度も、振り向かなかったのだ。

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