【ヒトラーに捧げる】『対象喪失の乗りこえ方』加藤諦三

【ヒトラーに捧げる】『対象喪失の乗りこえ方』加藤 諦三

 

堕落は。自己イメージに固執している人間の姿です。誰もが堕落していると捉えて欲しいのです。

今いる自分は大切なものです。自分が感じているものが脳の働きで固定されている場合、何か問題が起きるときに、自分の姿を振り返ってみてほしいとおもいます。

自己イメージを見つめる、自己イメージをリセットする方法はこちらです。

進学校で疲れ果てた落ちこぼれたもう無理ぽな【自己イメージをリセットする方法】

 

坂口安吾の堕落論を直接扱った記事はこちらです。

堕落して初めて課題を真面目にやる無意味さに気づく(坂口安吾の『堕落論』)

『対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~』加藤 諦三

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

前書きにこう書いてある。

人は自分を支えてきた夢を捨てる時につらい思いをする。しかし、若い頃描いた夢がすべて実現するなどということはない。 「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。一つひとつの悩みを、その時その時に解決しながら生きている人がいる。逆に悩みが解決しないままで生きているひとがいる。その違いは悩みの核心を理解するか、しないかである。核心を理解できれば、先に進める。この本ではその核心を理解しようとした。(略)孤独に苦しんでいる人がいる。しかしその人は今現在、実際に「孤独と追放」をされているだけではなく、小さい頃に体験した「孤独と追放」を再体験して苦しんでいるだけということがある。小さい頃の体験で、長い人生を無駄にして良いのか?(略)仕事も、勉強も、運動も、恋愛も、何もかも「自分の不幸に気づかないようにする」ためであることがわかる。やることなすことすべて「自分の不幸に気づかないようにする」ための行為である。極端に言えば、息をするのも「自分の不幸に気づかないようにする」ためである。しかし大切なのは、現実に直面して先に進むことである。そのためには逃げている不幸に正面から向き合い、それを整理して心の中で消化することである。心の新陳代謝を活発にすることである。幸せの幻想を捨てて、先に進むにはどうしたら良いかをこの本では考えた。(p.5)

『悲しみに言葉を』は学術的に書かれているが、こちらは、もっとエッセイ風、というより、作者の思いを思う存分ぶちまけている文体である。

過去を恨むことに人生を支配されてはいけない。
「私は、愛のない家庭の育ったから、愛のある家庭を築きたい」といって早く結婚をして、失敗する人と、成功する人がいる。成功する人は、その自分の成長した家庭を自分の運命として受け入れた人である。断念した人である。その苦しみと悲しみを心底味わい、命をかけて乗り越えて心理的に成長する。その上で自分は「愛のある家庭を築きたい」と願い、行動する。(略)困難から立ち上がる人は、今までのひどい人間関係を直視する。そして、その人たちとは距離を置く。その人たちを恨むことで、その人たちに絡んで行かない。恨み続けて自分の人生を台無しにしない。つらい運命の自分を受け入れる。(p.24)

こっちで書いたことの、一つの答えがこの本では提示されている(驚いたことに、だ。)
子どもの自立と長男信仰と喪失経験『悲しみに言葉を』

つまり、「長男信仰」だろうがなんだろうが、それを「困難」と感じたところがスタート。それにどうやって自分を関わらせるかで、人生は変わるのだと。

結局、教育なのだ。
結局、心なのだ。

家庭を変えるなどできない。
誰かを恨むことでは変わらない。

自分が変わるしかない。
少なからず、きっかけは、(どれだけ小さくてもきっかけはきっかけだ)自分にある。

得られなかった「幸せな家庭生活」(つまるところ「嫌な思い出ばかりの家庭生活」)で暮らしている現状そのものが、悲哀のプロセス(喪失経験)の始まりなのだと。(ちなみにこの本では、「引っ越し」も「住み慣れた生活様式からの離別」として対象喪失の一つに数えている。なるほどだ。定年退職も、社会的な地位の喪失、今まで築いてきた関係性の喪失、という意味で、喪失だ。天下りというのは、こういう関係性を喪失させないようにするためのしくみだろう。未成熟な大人たちの「生き残る作戦」だろうか。長男が「家」に帰って来るようにしむける仕組みもある。これも長男を喪失しないように、という未成熟な大人の「甘え」だろうか。もうそんなことはどうでもいい。私は私で生きる。だって、私の生きている時代は、もうあなたの生きた時代ではないのだから。といえるようになれば、きっと楽に生きられるのかもしれない)

 

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対象喪失には色々なものがある。失恋も、近親者の死も、故郷からの別れも、希望の喪失も、役割の喪失も様々なものがある。夫を失った妻がいる。悲しみを回避するために子供の教育に逃げた。子どもの幸せのために子供の教育に集中したのではない。夫を失った悲しみから逃げるためである。教育熱心の動機は苦痛回避である。表面的には立派な女性に見える。しかし子どもは躁鬱病になった。彼女はよりつらくなる。人は対象喪失の悲哀を経て回復する。一般に健康な人間は対象喪失にどのような反応をするのか。事業に失敗する、失恋する、そうした喪失が起きた時、誰でも素直に受け入れられない。夢ではないかとおもったり、何かの間違いではないかと思ったりする。失恋の場合であれば、「あの人は私の愛をためしているのではないか」「いつかきっと帰ってくる」などなど様々なことを考える。誰にでもそうした対象喪失を否認する時期がある。しかしやがて、失恋ということを認めざるを得なくなる時が来る。そうなれば今度は、自分を捨てていった恋人を恨んだり泣き叫んだりする。激しい憎しみにかられ、怒り心頭に発することもある。捨てられたとわかっても、なかにはしつこくつきまとう人がいる。そういう時期というものがある。これをいつまでもすると、相手の中にまだのこっている愛情まで失う。そのような悶え苦しむ時期を経て、喪失を最終的に受け入れていく。「だめだった」と断念する。そして断念の時を経て、新しい情熱の対象を発見する。しかし、これはあくまでの正常なケースである。逆境に強い人のケースである。逆境に強い人は解決を焦らない。待つことができる。アドラーが生きるのに望ましくない性格として「待てない」ということをあげえちるのがまさにその通りである。生きていく以上、誰にでも逆境は避けられない。誰にでも逆境の時はある。その逆境をじっと耐えられるかどうかである。逆境はすぐには終わらない。心も体も消耗する。冬が終わり、三寒四温で春が来るように、いつかやがて心身ともに回復するという心の姿勢が大切である。いつか時を経て傷ついた心が、自分のパーソナリティーのなかに組み込まれて、豊かな自分に成長する、そう信じて焦らない。それができれば人生を最後まで無事に生き抜ける。対象喪失の悲哀の過程を完遂すること。その一つひとつの完遂が、最高の自分への道である。その対象喪失の連続の中で人は成長する。(p.18)

スピード感のある、しかしなんとも爽快な書き方だ。
どストレートだ。見習いたい。

ある意味で神経症的傾向の強い人とは、断念できない人である、断念しようとしながらも断念できない、。それが人間である。しかし「それにもかかわらず」人間は断念しなければ生きていけないとフランクルはいう。私もそう思う。自らの運命を受け入れるということは、断念するということである。私は20歳前後の頃、枕元にニーチェを置いて寝ていた時がある。ニーチェのいう「運命を愛する」ということも、断念することであろうと私は理解している。まさに断念こそ「出口なし」といわれる人間の最後の出口なのである。絶望と断念は違う。断念は生きることである。逆境の中で生き抜くことである。(p.28)

断念できないのが人間だが、それでも断念せよ。というのは、目の前で断念できずに悶え苦しんでいるひとには酷だろうか。

「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。それは定年退職のような時ばかりではない。例えば自分は音楽が好きであった。しかし音楽を捨てなければならない時も来る。自分は音楽では食べて行かれない、そういう現実に直面しなければならない時もくる。希望の喪失である。自分の可能性が一つひとつ消えていく。そして悲哀を味わい絶望し、やがて「これが私の人生であった」と、素直に自分の人生を受け入れる。そうして心安らかに生きていく。そこに自分の人生の固有の意味を感じる。それこそが対象喪失の悲哀の過程を完遂したことである。(p.40)

どこか、日本仏教の説教を聞いているような・・・

実際、「オトナ」たちの話を聞くと、いろんな「諦め」をしてきた人がいるわいるわ。
諦めて(受け入れて)、捨てて、別の道にいって「落ち着く」という道筋は自然におもえる。

試してみた、信じていることを、貫こうとした。
本気でやってみた。進んでみた。
けどやっぱりちがったようだということはごくごく普通にある。

それなのに子供達に「こうしたらああなる」と言い続けたら、子どもは誤った心のしくみをつくるかもしれない。
教えてはならないことなのだ。

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別の実験に移ることの大切さ『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』

 

断念する、ということに関しては、『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』にも書いてある。
残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

ようするに、「やり続けたほうがいいのか」「途中でやめたほうがいいのか」という問いだ。
いくつかのケースを具体的に示した後に出した答えは、、、「五分五分」であった。

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こんなことが書いてあった。

絶望してカルト集団に入っていく人も、もし執着していることを断念できたなら、カルト集団に入らなくて済んだのである。(p.48)

子どもに教えるべきは、断念する、ということなのだろうか。
例えば、ねだっていたものを断念する。
例えば、なりたかったリレーの選手になれなかったことを受け入れる。
テストで欲していた結果が出なかったのを、受け入れる。

この受け入れ(断念)が、本当に本人の納得いく形で行われなければ、恨みやら妬みになるかもしれない、とおもうのは僕だけだろうか。

本気でやって、やりぬいて、それで、ダメだった・・・そこまで子どもが味わい尽くすまで、大人は待てるだろうか。

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いいヒントがあった。

心理的に安定して成長した人は、目的を変えることもできるし、適切な目的なら引き続き頑張る。まず心の葛藤でエネルギーを消耗していないから、目的が適切なら、妨害に打ち勝とうとする努力の強化ができる。(略)執着性格者は、心のゆとりがないから、そのことに執着する。頑固とか意地をはるというのは、心にゆとりのない時の心理である。周りが敵の時である。ケチで頑固を特徴とするう肛門性格などは、実は何よりも心のゆとりがないということである。(p.56)

変化をつけるには、どうしたらいいか?
心のエネルギーを、葛藤で消耗させず、ゆとりをもつように、まずはすることだと。

ゆとりをつくる、エネルギーを消耗させない、という振る舞いは「小さなガンジー」とか、引きこもりとかいう現象になることもあるだろう。うつ状態になるのは、心の健全な回復プロセスの一部だと考えていい。

同じ「会社をやめる」でも、怠け者で「イヤ」になって会社を辞める人と、柔軟性があるから会社を辞める人がいる。この二人は生きる姿勢が根本から違う。この同期の違いを理解しない指導者は、創造的な人を「こらえ性がない」などといって、才能を潰してしまう。柔軟性があるから、会社を辞める人は次のことを始める。怠け者は会社を辞めても次にすることがない。
「会社を辞める」にも、色々な人がいる。
第一にうつ病の人や燃え尽きる人がいる。やり直しのきかない人、エネルギーのない人。そういう人には願望がない。
第二は怠け者だから辞める人。
第三は心が柔軟だから辞める人。
(略)
心の空洞がもたらす執着や無気力は、「このままこの道を進んではいけない」というメッセージである。(p.59)

だから、同じ「学校をやめる」「学校に行かない」にも3種類ある、ということだ。
(「不登校」という言葉がどれだけ曖昧か、意味不明か、現象の一部を切り取っているだけか、わかるだろう)

逆に考えると、同じ「学校に通う」「学校に行く」にも3種類ある、ということだろうか。
第一に、「学校に行くのは偉いんだ」「皆勤賞はすごいんだ」とか「私はいい子だ」とか「私はあの子よりすごい」と優越感で通う人。(「暴力・服従」)
第二は、イヤでイヤで仕方ないけど「行く」ことになっている人。(「非暴力・服従」)
第三は、心が柔軟だから通える人(先生のいうこともテキトーに聞く)。(「非暴力・不服従」)

学校に行く子のなかにも、「小さなガンジー」がいるようだ。

 

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「長男」を家に結びつけて離さない長男信仰は、空虚になったおじいちゃんの心を満たすために、存続している?古き良き時代への種着か。長男という確かな(?)「システム」の頂点には、まだ私がいる・・・・その幻想を支えたいのか?DVをうけても気がつかないお母さんと、DVするお父さんの関係のようにおもえてしまう。

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「僕は4番打者で投手になりたい」と願う。
すると、そうなれないことに悩み苦しむ。
そうなれないのは他人が悪いとなってしまう。
心理的健康な人は、「自分の野球の能力ではどのポジションかな」と考える。
自分の適性や能力や素質といったものを考えて、「選手になれるかなれないか」と考える。
そしてどうしたら選手になれるかを考える。
選手になれなくても苦しまない。
なぜなら自分を受け入れているから。(p.74)

これって、個性値教育だよね、。
イチローがこれだよね。

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自分を受け入れずに、騙し続けることを、自己欺瞞といったり、自己疎外といったりもする。
また自分を卑下する自己蔑視ともいえる。「どうせ自分は、、、」というやつだ。
心理学の用語ではよく、抑圧、とか、自己防衛、という言葉をつかう。
本当の自分の姿を欺いてみせたり、自分自身が本当の自分を感じないようにすることだ。
僕ならば、自分の声を、殺す、ということになるだろう。

自己実現・自己表現・自己表出をせずに、自分の声を出さずに、隠してしまう、本当の自分を閉じ込めてしまうことだ。
そう考えると、自己実現というものは、ありのままの自分を「今ここで」出すことを表しているにすぎないのではないか。

と思える。

小さな自己実現・自己表現が連続して行く先に、今の大人たちがよく考えるような「成功」が待っているようだ。
本当は、小さな(ありのままを出していくという!)「成功」が山のように、積み重なっての「実現」ということになる。

なるほど。

自分で言うのもあれだがいい考えだ。

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八方美人、誰かに合わせて自分を出さない、媚びへつらう、認められたい人は、孤立感をもっている。
どこかに所属するというだけで、強くなった気になる。
けど本当は「本当の自分」でないために、孤立感に悩み続ける。
こうすると、所属する組織に依存することになる。(それが自治会でも会社でも政治組織でも家庭でも友達でも)

自分を守るために、他人の虚栄心、自己中心性、利己主義を満たす道具に自ら進んでなる。
自分を守るために、暴力の一部になる。

孤立している「本当の自分」を認めずに、実現せずに、誰かに気に入られることで(隷属することで)満たされようとした心がある。
自分の意思をもたず、付和雷同する、いじめられていた側が、いじめる側になる。「だって、そうしなきゃいじめられる(孤立する)」
孤立する、という自分の本性と向き合うのは大変かもしれない。
孤立させられた(つながりを失った)という現実を認めるのは大変かもしれない。

それでも、「その手を離してごらん」というのが、この本の、シンプルな答えのようだ。

仮面をかぶって自己卑下をし続けて本当の自分を隠し続けられるほど、人は強くない。

たよりないけどその手を離してごらん、私たち人間には、それしか生きる道はない。(p.183)

なるほど
これはもはや、知恵のレベルで、言い聞かすしかないのだろうか。
こっちの歌よりは安全で役に立つとおもう。

自己蔑視・自己卑下・自己憐憫

 

話が逸れてしまった。
自己蔑視・自己卑下は例えば「お前はダメなやつだ」と言われたり他人に期待されてそうなったとか、原因はいろいろあるけど結局は自分に対する怒りを生み出す。「お前はダメだ!」「お前はこうしなくちゃいけないんだ!」と自分が自分自身に言う(自己実現しない)のが自己卑下であるから、本当の自分は「何くそ!」と怒るのである。これが、人が変わった時に、例えば弱者に対して、現れる。

本当は自分自身に感じている怒りを、弱者に、ある時は子供に、ある時はパートナーに向けて打ち付ける。
(それが学校の先生とか保育所の先生とか会社の上司であることもこの時代、よくあること。)

誰かに満たしてもらえなかった感情を、別の人で満たそうとする。
その間、喪失は終わることなく、不安、怒り、妬み、恨み、苛立ちで自らを、もしくは他者を傷つける。
子供のよくやる、癇癪というやつだ。
子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。

モラハラ、パワハラ、DV、児童虐待、いじめ、犯罪は、実現されなかったことがらへの癇癪である。
こどもとして未成熟な大人は、こうして暴力を世の中にばらまく。

子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。
いつまで傷つけるのだろうか?

私は教育心理学者バスカリアの本を訳した。そのなかに、人は心理的に辞めば病むほど行動の選択の幅は狭くなる、とある。悲しみや靴から自分を守るために、自分の心を操作することでも挫折するが、また単純にこの対象喪失の悲しみに耐えられないというケースである。逆境を抜け出す人は焦らない。苦しみは瞬時に消えるものではない。時が熟するのを待つことである。なく時期があってこそ、苦しみを耐えていかれるよううに成長もする。朗らかに生きられる日が来る。いけないのは成長できないことである。長い人生には演歌をう歌う時期もあれば、同時に明るい南米の歌があってもいいのである。心豊かな人生とは、対象喪失に適応した人生である。それは決して悲哀のない人生ではない。悲哀に満ちた人生である。しかしそれは、その時々で悲しい過去と縁を切った人生である。心貧しい人とは、対象喪失という状態への不適応である。それは、先に進めない人生だから。(p.167)

俳優の字を語った時に、
優を憂う人と書いた。それがなぜ、優れていることになるのか。
こういう文章をよんではっとする瞬間があるのだなぁ。。。。
言葉の重み(俳優と演出家の役割)

なるほど。

子育てで大切なのは、断念すること。
これはケジメのことだろう。
躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』
感情知性といってもよい。
アンガーマネージメントといってもよい。
社会認知的スキルといってもよい(?)

自分の生きて行く道にいは必ず自分の生き方を妨害する人がいる。その人を「悔しい」と思っていたら、生きる道を踏み外す。ひどいい仕打ちにあって、「悔しい!」と眠れない夜を数越している時がまさに人生の道を踏み外す時である。自分を見失う時である。自分の中に核となる部分が無ければないほど、人はこのマイナスの感情に振り回されてしまう。その「悔しい」という感情で緊張し、所望し、病気にもなり早死にするのである。「あいつとは関係ない」と心の中でその人たちを断ち切ることである。回復力、復元力、立ち直り力の強い人は、皆心のなかに核をもっている。(p.195)

この「核」が何を示すのか、この本には書かれていない。。。笑!

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擬似成長、という言葉をマズローは使ったらしい。
これは僕の「コドモとして未成熟なオトナ」と似ている言葉のようにおもう。

擬似家族

「仲のいいように見える」家庭の子が親を殺す。
社会的には適応しているが、情緒的には適応できていない。
仮面はかぶるが、心は、無意識は荒れ狂う感情を抑圧するうことにエネルギーが消費され、成長することがない。
外から見れば、成長している、円満な家族であっても、心理的には成長していない、戦争状態である。

小学生、中学生、高校生の生理学的な「思春期」すらも抑圧されている子がいる。
命が、、、、、、、命が。。。。。。。

これは家族単位での自己卑下であり自己抑圧、自己欺瞞、であろう。
これが学校単位、地域単位、国単位であるとしたら・・・もう本当に、どうしたらいいのかわからなくなる。

そうだ、まず、自分なのだ!

自己否定・自己卑下をやめて、どんなに小さいことでも自己実現・自己表現・自己認識。
子どものときなら、お母さんが排泄物を処理してくれたように、体に悪い、心に溜まってしまう感情を拭い取って気持ちよく笑えたかもしれない。今、ひとりで、どうしたらいいのか?わからなくなったら?

まずそのわからない苛立ちをそのまま抱いてみることなのだろう。
焦らない。ひとつひとつ、感じていけばいい。
投げ出さずに、時間をかけていい。
実はそれが、アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学の原理なのだが。

オムツにうんこをもらしてしまったとしよう。
「うんこでびしゃびしゃだよ!うわー!びしゃびしゃだ!」
しばらくその不快さを味わって、当たり散らすかもしれない。「気持ちわりんだよ!」と誰かに暴力を振るうかもしれない。誰かに媚びへつらってオシメを変えてもらいたいと告げるかもしれない。それでも誰もおしめを変えてくれないところまで、うんこと付き合ったのち、自分で新しいオムツを用意して、自分でうんこを処理することになるのかもしれない。

うんこをすることを禁止されている人がいるかもしれない。
もう、うんこをしたくても、できない体になってしまったような・・・
「まぁ、それならそれで出るまで待つさ」といえるかどか。
「うーん、野菜食べてみようか?」
お腹が痛くても、出ない、ということもあるかもしれない。

ながい、ながい、時間がかかる。
この辛いプロセスを、誰かと一緒に、片方の手を離す代わりに、もう片方の手を握ってくれる人がいてくれるなら、しあわせだ。

オトノネは、その片方の手になりたいとおもっている。
できんのかな笑いやいいや、やってきた。

メモ:交流分析のグールディングと言う人が書いた『自己実現への再決断』という本があるらしい。どんなものか。

 

手を離そう。

休もう。

止めよう。

大人も子どもも。

手放すには、落ちき切るまで、落ちていかなくてはいけないのかもしれないけれど。
それも、プロセス。

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

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あ、そうそう、ヒトラーも安倍さんも劣等感の塊ですね。
そういう風に、育てられたのです。

さて、誰に悪口をいったらいいでしょうか?
歴史の勉強をしなかったあなた自身でしょうか。
彼らを生んだ母親でしょうか。
父親でしょうか。
それとも彼らの学校の先生でしょうか。

破壊と創造の連続:人は堕落しながら成長する

SQ生きかたの知能指数

『SQ生きかたの知能指数』ダニエル・ゴールマン

この記事のまとめ

痛みを受け入れて「命」は強くなります。

「失敗したくない」

人間には「悪いこと」に対して過剰に反応する脳の仕組みをもっています。が、この働きが強すぎて「本来の自分」の命の力を弱めている人がたくさんいます。

人は変わるものです。

成長していきます。

成長しない人は人間ではありません。

組織は成長するけれど、人間が成長しない組織がたくさんあります。

それでは、人間に何の価値があるのでしょうか?

浮き沈みする人生を、「問いかけ」として捉えて答えていく、失敗を「問いかけ」としてそれに関わっていくことでしか、心は成長していかないでしょう。

完成形はない、という事実を受け入れて、のびのびとゆっくり生きて、死んで生きましょう。

SQの高い人生でさえ、わたしたちに提供 できるのはせいぜい小さな救済の連続であり、当面の癒しでしかなく、将来、また別の難題が起き てくることは火を見るより明らかである。

 

今日、あなたは見失っていた自分の一部を見つけるかもしれないが、寸断された自己のほかの部 分はまだ姿をあらわさずに待機している。だがそう思うこと自体が、癒しのひとつの形である。人 生と精神の継続的な深いプロセスをじれったがるのではなく、そこに安らぎを見いだして受けいれ ていけばよいのだ。

 

J・R・R・トールキンの『指輪物語』のなかで、主人公ビルボ・バギンズは、 偉大な冒険に旅立つにあたり、つぎのように言っている。

 

道はつづくよ、先へ先へと、

戸口より出て、遠くへつづく。

道はつづくよ、さらに先へと、

道を辿って、わたしは行こう、

つかれた足をふみしめながら、

いつかゆきあう、より広い道へ、

多くの小道と多くの使命が、

そこに落ちあう、より広い道へ。

そこからさきは、わたしは知らぬ

 

瀬田貞二訳『指輪物語』(評論社)より(『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.266)

破壊と創造といえば、ヒンズー教の神様「シヴァ」を思い出します。シヴァは第三の目をもっており、「真実を見る目」とされています。一体、シヴァはどんな世界をみているのでしょうか。

 

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『SQ 魂の知能指数』の著者の堕落経験

精神の危機が生じると、人生のすべての意味、そしておそらく人生の価値にも疑問が生じてくる。 わたしたちはストレスを受け、あるいは落ちこみ、ドラッグやアルコールに一時的な救いをもとめ たり、無気力で日常生活に支障をきたしたり、とり乱すことさえある。そのような危機は苦しいも .のだが、勇気を持って立ち向かい、利用すれば、回想の機会となり、その結果、自己を修復して変 革することができる。

本書の背景にはわたしの個人的な体験があり、その体験が、精神の危機とはどういうものなのか、 そして癒しと成長のために回想やSQに救いをもとめるとはどういうことなのかについての、具体 的な例になってくれるかもしれない。著者にとって、著作のもととなった個人的な体験をさらけ出 すのはつらいことであり、ときには危険なことにもなりかねないが、わたしが説明しようとしてい るプロセスを解明してくれるかもしれないので、ここにご披露することにする。 わたしが本書の構想を思いついてから、書きはじめられるようになるまでには、まるまる一年の時間がかかった。わたしの、ひどい年 , が始まったのは、著作にとりかかる前に休暇をとってお こうと、家族とともにカトマンズに向けて出発した直後だった。それまで何カ月間か講演旅行をし ていたので、わたしは精神的に消耗し、情緒不安定になっていた。夜、家族はすやすやと眠ってい るのに、わたしは胃がかっかしてきりきりと痛み、横になっても寝つかれなかった。ようやく眠っ たかと思うと、毎晩のようにいやな夢を見た。子供時代の家族関係にがんじがらめになっている夢 だった。じきにわたしは不眠症になり、それが何カ月もつづいた。英国に帰国したとき、著作にと りかかろうとしたものの、どうしても筆を起こせなかった。

その後の数カ月間は、ほぼおなじような調子だった。夜になると眠れず、かならず子供時代のい やな夢を見た。昼間は十二時間から十六時間も眠った。眼が覚めているときはいつも、カーテンを 引いて暗くした居間に坐り、大酒を飲んでいた。

こうしてじっと家にこもっているあいだ、出版社は新しい著書の版権をどんどん海外に売ってい た。その出版社の期待も、ほかの出版社の期待も、日毎に膨らんでいった。「執筆ははかどってい ますか?」と彼らは訊いた。わたしはせっぱ詰まり、最終的にセラピストに診てもらうことにした。 いっしょに、子供時代の夢はわたしに何を語りかけようとしているのか、そして完全に燃えつきた ような感じがするのはなぜなのか、検討することになった。

わたしの父は、前にも述べたとおり、アイルランド系とポーランド系の混じった無学な鉄道労働 者で、アルコール依存症だった。母は高等教育を受けた古典の教師で、ドラッグを乱用していた。

結婚生活のなかで暴力沙汰が何度もあり、わたしが五歳になるころには両親は離婚していた。その ときからずっと、わたしは父に会ってはいけないと言われていた。父は家族の影であり、心の 奥底に抑えこんで忘れてしまうべき存在だった。学校でいい成績をおさめたり、賞をもらったり、 大学で優秀だったりすると、わたしは母にとってのいい子だった。「母さんがおまえをかわいがる のは、おまえが賞をもらったからだよ」母は何度もわたしにそう言った。何か悪いことをしたり、 何かに失敗したり、思春期になって自分の肉体もてあますようになると、わたしは、ちびっ子ロガ ニンスキーだった――父の名前をもじった悪口で、ポーランド系の父のルーツを思いださせる呼 び名だ。わたしはいい子になろうといつも必死にがんばっていた。父に会ったことはなく、意識し て父を想うこともめったになかった。

成人するとわたしは、著述家として成功するようになった。『クォンタム・セルフ/意識の量子 物理学』やそれにつづく著書を出版したあと、ささやかながらも国際的に名が通るようになり、ひ っきりなしに講演に招かれ、インタビューを受けた。母のように、わたしも,教師”になったのだ。 それでも賞賛や要求が高まるにつれ、ほんとうは、悪い子”だ、自分という存在の中心には堕落し て腐敗した幼子が隠れている、というネガティブな感情も強くなっていった。 「自分の講演への反応が輝かしいものになるにつれ、わたしはますます落ちこむようになった。母 が自殺したあとは、どんなに賞賛されても落ちこみから抜けだせなかった。こういったことすべて が、カトマンズで頂点に達した。何かがわたしのなかで砕けたのだ。「もう母さんの思惑どおりにはなりたくない」。教師、 の役割が大嫌いになり、意志の力ではどうすることもできずに、自殺と いう考えを公然と口にするようになった。

そんな動けない状態が何カ月かつづいたあと、休暇でギリシアに行き、そこでわたしは決定的な 夢を見た。その夢のなかでは、わたしはもう子供ではなく、父を訪ねようとしていた。父は三人の 怒りっぽい老女といっしょに住んでいた。女たちはわたしを追い返そうとして、訪ねてこられても 迷惑だと言った。女たちは明らかにアルコール依存症で、父が前夜の酔いをさますために二階で寝 ているのも明らかだった。 「気にしないでちょうだい、わたしも酒浸りなんだから。理解できるわ」などとわたしが言ってい ると、父が階下に下りてきて挨拶した。アルコールと睡眠でむくんだ顔をしていた。たちまちわた しは父が好きになり、父もわたしを見て喜んだ。ふたりでときどき会おうと約束し、父はわたしを 玄関口まで見送りにきた。だが父の家の玄関口で、ふたりの警官がわたしに言った。「こんなポン 引きの麻薬密売人を相手に何をしている?」わたしは父が悪徳にまみれた生活を送っていることを 知った。

父は日中、頻繁に会ってくれたが、夜には会ってくれなかった。夜は街の悪の巣窟ですごしてい ることがわかっていたので、わたしはそこで父を探すことにした。そして街の中心部に行ってみる と、父はふたりの手下を使い、わたしがあとを追えないようにした。「あんたの親父さんに言われ てね、ここであんたに親父さんを探させるわけにはいかないんだ」そう言われてわたしは、父は黄泉の国の王なのだと気づいた。

この夢から覚めたとき、わたしは爽快な解放感を感じて微笑んでいた。「なるほど、父は ~悪魔” なのね。わたしは悪魔の娘なんだ。それでも父はわたしを守りたがっている」父に対してとても温 かな気持ちになり、父(悪魔)がある種の精神的気高さを持っているような気がした。わたしは堕 天使としての悪魔――神の最愛の天使だったのに、いまでは有罪宣告を受けて黄泉の国を支配する ようになっている悪魔――についてあらゆる連想をし、父を悲劇的な人物として見るようになっ た。

わたしの夢は、本書では、SQの高い、夢と呼ばれてもいいようなものだった。『SQが高い。 ということは、すべてに触れていることであり、文字どおり自分が完全であるという感覚を持つこ とである。あの夢のおかげでわたしは自分の失われた暗い,面に触れ、その面を所有したくなっ た。自分自身を回想し、自分を完全にしたくなった。あの夢はまた、あまりにもつらくて思いだす ことも受け入れることもできなかった子供時代に,神話的な、次元をつけ加えてくれた。

だが回想したいと思い、完全になりたいと思うのは、癒しのプロセスの第一歩でしかなく、その あとは長くて苦しいものになりかねない。夢を見たあと何カ月間も、わたしは父を知りたいとせつ に願い、その願いがかなわないのをひどく嘆いた。父はもう何年も前に他界していたからだ。わた しは父が,街の中心部、で見つけられるのをいやがっていたという夢のメッセージを無視し、とき どき、ぜひ父をそこで見つけなければ、とか、わたしが”堕落”と呼ぶ内面の儀式を通過しなければ、と思い詰めた。

ますます大酒を飲むようになり、どこで講演を頼まれようと、その見知らぬ街の暗いナイトクラ ブに足を運ぶようになった。父を探して、堕落、して。自分の失われた面をとりもどそうとして いるのだということには、まだ気づいていなかった。ようやくそれがはっきりしたのは、数カ月後、 ふたたびカトマンズに滞在しているあいだに見た夢のなかでだった。

前述の夢のなかでは、父は街の暗い中心部で自分を探すなと、明確にわたしに禁じていた。わた しはどこか昼の陽射しのなかで父と会わなければならなかった。いまにして思えばあれは、わたし 自身のなかに父を探さなければならないという意味だったのだ。今度の夢のなかのわたしはダンサ ーで、自分の意志の力ではとうていできないほど優雅に踊っていた。最初のうち、操り人形のよう に手足が糸で引っぱられているのだと思った。だが気づいてみると、わたしは内側から動かされて いた。身体のなかに、わたしという存在のなかに内在している力が、優雅な動作を可能にしていた のだ。

その夢を見たあとわたしは、内側から動かされているという感覚をまざまざと実感した。自分の なかに活動的な中心があり、その中心が優雅さを(動作の優雅さに象徴されていた)授けてくれる という深い感覚だ。この内なる力に動かされているという感覚は、ネパールの人々のあいだにはし っかりと息づいているように見うけられ、わたしは感心した。そしてこの感覚を胸に秘めたまま、 帰途についた。もちろんそれは、わたし自身のSQの癒しの呼び声だった。

自己の深い中心から――分裂したせいであれ、一面だけ発達したせいであれ、苦痛を感じたせい であれ、とり乱したせいであれ――切り離されているとき、わたしたちは暗闇のなかで小さなたい まつしか持たずにぬかるみを歩いているようなものだ。道路の穴をひとつずつ用心深く避けてよろ よろと足を進め、一歩先を見通すことすらできない。おなじ道を昼間に歩くときは、もっとずっと 先まで見通しがきく。景色全体のなかで道路の穴が見え、自信を持ってらくらくと穴を避けること ができる。SQという内面の光は、人生の,道路の穴” に対してそういう効果を持っている。

SQを使うとき、わたしたちはものごとを中心から見ている。感情やできごとをより広い視野の なかに置き、ばらばらに見えていたものを関連づけ、関係やパターンを見てとったり作りあげたり している。〈自己のハスの花〉全体で生きているのだ。だがどうすればこの内面の光でものを見る ようになれるのだろう? かならず自力でその境地に達しなければならないのだろうか、それとも 何らかの助力が得られるのだろうか?

(『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.251)

子どもの自立は喪失経験?『悲しみに言葉を』ジョン・H. ハーヴェイ

悲しみに言葉を

『悲しみに言葉を』 喪失(そうしつ)経験、という言葉がある。 誰かを失った、何かを失った。。。 安定していたものが、不安定になる。 そういう気持ちを言葉にすることが、安定への第一歩だ。という本。 喪失の経験が、成長につながると。

でも、そうした喪失を体験すれば、誰でも成長することができるのだろうか。私には、そうは思われない。本書で私は、喪失から何かしら肯定的なものに変容しようとするときに大切なことは、喪失を意味付けること、喪失から学び洞察を得ること、そして経験にもとづいて何か肯定的な事柄を他者に伝えるという、心の中の大変困難な作用であることを主張したいとおもう。(略)ヴィオストの本の真価は、生きている間じゅう、人はさまざまなタイプの喪失を経験するのだといことを伝えている点にあると思う。(p.5)

例えば、志望校には入れなかったことも喪失経験になるかもしれない。 バラ色の結婚生活だったものが、変わったことも、喪失経験といえるかもしれない。 「うまくいく」と思っていたことが失敗することも、喪失かもしれない。 女の人であれば、流産、子供ができない、、、といった状況も、喪失体験と呼べるかもしれない。 男性には感じられない深い命の感覚を、女性はもっていると僕はおもう。 ーー

ーー ちなみにこの本で取り扱っている喪失経験は次のよう。 親しい人の死による喪失 離婚・離別による喪失 理不尽な暴力による喪失(DVや性的虐待、犯罪) 戦争や大量虐殺による喪失 病気や事故による喪失(慢性的な病気や加齢を含む) 貧困、ホームレス、失業 ===

===== 目次を読んでいると、こんな項目がみつかる「西側からの『喪失の輸入』ー映画・テレビの暴力とタバコ」 モノが、モノの移動が、喪失をもたらすという視点だ。 また、「公認されていない悲嘆とスティグマ化」では自殺や近親相姦、摂食障害にもふれている。 公認されていないとは、「悲しむことが認められていない」という意味でとらえてよいかしらん。 ========

人生のある時点における重大な喪失に圧倒されてしまい、その喪失を十分に消化できないまま、その後の人生で出会う喪失によってさらにひどく打ちのめされてしまう人もいる。(p.6)

 

 

打ちのめされるタイプはビッグファイブでいうところの神経質傾向がある人だろう。 打ちのめされずに、他人に暴力を振るう、支配的になるというタイプもいる。 打ちのめされる(自分を打ちのめす)にしても、(誰かを)打ちのめすにしても、どこかに歪みが生まれる。 自分自身の内的な問題として心に抱える心の仕組みを作った人などは、自分から苦しみに耐えかねてカウンセリングを受けるかもしれない。宗教に入るかもしれない。 打ちのめす側(例えばDVとか、ストーカーとか、犯罪とか、ネットで誹謗中傷、脅しをかける人とか)の問題は、なかなか取りざたされない。(日本の政治家のほとんどは、打ちのめす側にまわる。学校の先生も一部は自分が打ちのめされ、ほとんどの場合、こどもを打ちのめすことをしている。本人は、気づいていない。) じつは打ちのめす側の人が、世の中にたくさんいる世の中が(打ちのめす側が有利な世の中が)、現実なのだが。 ーーー

ーーーー 僕は、人が生きるために大切なものが、最初からなくなってしまったのではないか(喪失している)と感じている。 簡単に言えば、人が生きるために大切な「人間」がいなくなってしまったと、感じている。 かつては、共同体の中で、精神的な支柱になるようなシャーマン、巫女、知恵をもった人がいた。 現代では、なかなかみつからない。(それで間違ってカルトに入ったりする) そんななかで、「人間」と出会えた人はしあわせだ。 大地とともに、空を見上げることを教えてくれる人がそばにいてくれたら、しあわせだ。 ーーー

ーーーー 心は、語りたがる。 人も、語りたがる。(嫌な気持ちを口にするだけでも、愚痴るだけでも、気持ちが晴れるものだ) 『悲しみに言葉を』では、語るということが心にどんな開放感、前進する力を与えるのか書いてくれている。 悲しみを忘れるわけではない。 悲しみは忘れられるものではない。 ただ、悲しみは自分の一部であるし、それに寄り添って言葉をかけてあげる、悲しみの言葉を、自分が聞いてあげること。祈ること。そうした行動を積み重ねること。それを喪失経験という。 喪失を、きちんと、経験するということだ。 まるで、自分の中にいる悲しんでいるこどもを抱きしめて、声をかけてあげるようだ。 忘れる、ということとは、少し違うような気がする。 ーー

ーーー 話し始めると、まとまりがないかもしれない。 そのまとまりのない状態も、こどもにもよくあること。 言葉にしながら、気持ちを整理していく。 その時間が、プロセスが大切。 ーーー

ーーー 子供の成績が悪くて、もしくは子供の振る舞いが気に入らなくて「怒る」感情は、どこからくるのか?それも「悲しみ」に還元できるのか?(実は怒りの方が一次的な感情であるらしいのだが。そうすると、この本のタイトルは『怒りに言葉を』になるだろう) といったことを考えてみてもおもしろい。 バリ島では、感情は3つにまとめられている。 怒りと悲しみと、平穏である。 ーーーーーー

離婚を乗り切るための有用な入門書としては、クラインクの『人生の問題に対処する』があげられる。彼のアドバイスは論理的かつ直接的である。彼によると、全体的に、どうしたら悲観の過程を進められるのかを知ることが必要だという。これには、われわれは他者や他者の決定を自分のものにしたりコントロールすることはできないという事実を受け入れることが含まれる。われわれはしばしば、たとえば彼らの決定が自分の欲求や利益に反するものであっても、それを尊重し受け入れなければならない。

親は、子供をコントロールできない、ということを、きちんと、本当に、心から、受け入れられるか。 コントロールにもいろんな程度があるだろう。 「育英に通わないと、お母さんが困るから」といって育英に通い続ける子がいる。 コドモはお母さんに気を使って、自分を犠牲にして生きているかもしれない。 親が、子供の選択肢を限りなく限定していることが、多々ある。 それでいて、「子供に選ばせている」という人がいるから、なかなかだ。 「あなたのため」は呪いの言葉でもあるが、脅迫でもあると僕はおもう。 詐欺でも使える言葉の響きをもっている。 ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち

ツイッターのコメントで見るニュースサイト・セロン

悲哀の仕事という課題を成し遂げるために十分に時間を取ること。それには、喪失という現実を受け入れること、苦痛や非嘆を経験すること、新しい生活に適応すること、新しい生活をうまくやっていくこと、などが含まれる。

受け入れるためには、長い時間がかかるかもしれない。 その間に、子供は成長して行く。成長する姿を、オトノネで感じながら、お母さんが「子どもを失う」、つまり子供が自立していく経験をしていくことが、大切なのかもしれません。 それは、考える、とか、無理やりそのように思考する、といったものではありません。 心が、大事なのです。 時間がかかることかもしれません。 だから、お母さんにも、お子さんにとっても、オトノネを大切にして欲しいのです。 響き渡るための、時間を。感じるための時間を、大切にして欲しいと思います。 その貴重な時間を、不安でいっぱいの定期テスト対策で終わらせて欲しくない、というのが、オトノネの思いです。 「この子はもう、大丈夫なんだ」と思えるようになるまで、お母さんがお子さんにしがみついたり、お世話を続けて行くと、サポステに行くことになります。高学歴な人が、社会に出られない、どうしたらいいかわからないという状況になる背景には、「させられた」勉強、「させられた」人生に対する無力感があるとおもっています。親が用意してくれなかったら、できない、という状態です。   子供を自立させる、それは、お母さんにとっては「こども」の喪失経験になるかもしれません。 こどもが「おとな」になることをお母さんが恐れていたら、こどもは「こどもとして未熟」のままオトナになるかもしれません。 これが、僕が「10歳になったらもうオトナ」と言う理由です。「こどもとして成熟」していなくてはいけない。10歳からは「未熟な大人」として関わって欲しいのです。そうして18歳には、「成熟した大人」として子どもが一歩、踏み出せるように。 ====

 

 

===== 最後に、この本には「適応」という章がある。 喪失の経験を完了するための、語る以外の方法があるとしている。 その中のEMDRは、トラウマをなくす、忘れるために、記憶を思い出すと同時に眼球を左右に振るといいう動作をするだけである。 またロゴセラピーは苦悩を身体的・心理的な問題ではなく、目標の欠如から生まれるとして、意味ある目標へと向け直す方法をとっている。ブリーフセラピーやヨガ・ダルシャナの考えと類似している点だ。 例えば、ピアノを弾いたり、音楽をしたり、絵を描いたり、そういうコミュニティーの中で自分の新しい姿を想像すること。(例えばそれが旅行だとか食事だとかブランドのバックとかで作り上げる新しい自分では、消費だけだからおすすめしたくない) 怒りや悲しみに対して、「不安」や「絶望」を餌として与えないこと。 もっと別のもの、平穏を育てよう。という考え方だ。 そうして「子供」や「家庭」、「会社」以外に意味を作り出すことは大切だとおもう。 自分の人生を自分でつくること。 自分で選ぶこと。 これができて、成熟した大人になるのではないかとおもう。 だから大学受験というか、就職試験というのは、成人の儀式だと、僕はおもうのだ。 受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。 「そんなもの、わからないよ。新しい意味なんて」という人は、ダイゴのこの動画をみてもいいかもしれない。

人生の意味の喪失、これも、喪失経験かもしれない。慢性的!?? それから、こういう言葉が役に立つかもしれない。アインシュタインの言葉らしい。

人間は、私たちが宇宙と呼ぶ大きな全体の一部である。人間は、自分自身、そして自分の考えや感情を、それ以外のものと切り離されているかのように思っているが、それは人間の意識がなせる一種の錯覚である。この錯覚は私たちを個人的な欲望の世界に閉じ込め、自分の周りのごくわずかな人たちにしか愛情を向けないようにしてしまう。この錯覚は、私たちにとって監獄のようなものなのだ。私たちの課題は、この監獄から自らを解き放つことである。それは、私たちの思いやりの輪を広げて、生きとし生けるものすべてを、美しい自然の全てを包み込むことによって可能になる。(p.348)

日本であれば、「家系」とか「家」という概念はすでに壊れただと認める段階にあるのかもしれない。 そういう、宇宙的な時代がやってきている。 人は、宇宙に行ったらしいが、魂は地球においてきてしまった。 そんなかんじだ。 「家系」とか「家」とか「分家」とか「本家」とか「長男」という言葉で、どれだけの人が足止めを食らっているのか。(その悲劇を、本人は認めていない。喪失を、きちんと経験できていないとおもえば理解しやすいだろう) ーーーーー

ーーーーー ある人は、人生の意味、自分の価値というものを埋める物語をつくるために、ボランティアに没頭する。 ある人は、お金儲け、会社の仕事に没頭するかもしれない。 ある人は、「古き良き時代」の喪失経験をしたくない(できない)ために、子どもを「つなぎとめる」ことに没頭するのかもしれない。立場主義を貫き既得権を放棄したくないということだろうか。古い世代の物語をきっと、ずっと語り続けるのだろうか。「おじいちゃん、今、2020年だよ!?こんな世の中なんだよ!?」と教えてあげたらいいのだろうか。経済学講義をしなくてはいけないのか?サポステの話をしたらいいのだろうか?大切な家族なら、そうして喪失経験を一緒にしてあげることも必要なのか?家族とはなんだろうか? もしかしたら、子供自身が「そのような家に生まれてきたのだ」ということをきちんと受け止めること(喪失経験)だ大切なのだ、ということもできる、、、、かもしれないと思うと、誰が悪いわけでもない。 一体、どうしたころだろう?????? いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。 ある人は、「こどもとして未成熟」なままで、政治家になってしまったりもする。 いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。 そのバランスをとるための政治が、偏っているのは、僕にはいただけない。 暴力であふれた世界は、僕にはいただけない。 僕はだから、これから、音楽をすることになるんだとおもう。 それが僕の中で、僕自身のバランスをとることなのだと、そうおもう。 結局、誰かが悪いのではない、自分自身をよくするしかない、ということなのだろう。 ーーーーー

ーーーー 悲嘆に対して、ネガティブな感情に対して、中村天風は様々な実践を説いた。 笑う、ということだ。 中村天風の実践哲学における「笑い」で食卓を見直す 笑顔に包まれた食卓、それだけでも、人は生きる意味を作り出せる。 本当に、ただそれだけでも。 笑いあえる仲間に出会えた人は、しあわせだ。 誰にでも実践できること。 お試しあれ!

変われない人、変われない組織の堕落「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」『心がつながるのが怖い』

だれもが、プロセスの中にいる。 いつ起きるかわからない心の動きで、人生が変わって行ったり、同じことを繰り返したりを繰り返しながら、進んでいく。 オトノネにきて、新しい心の動きが、人生を新しいプロセスに向かわせるように変わっていく人もいる。 いろんな人がいる。 ぐるぐるしながら、進んでいく。 いろんな人に出会いながら、人と出会うことで、変わっていく。 僕もそうしてオトノネを始めることになった。 人との出会いと同じくらい、お母さんにとっては「子ども」と出会うことは、とってもとっても、大切なことだとおもう。 誰かと一緒にいるから、何かが起きる。 近くにいる、誰かの心を大切にしているだろうか。 ーーーーーーーーーー 心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。 こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。 「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。 それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。 また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。 「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。 無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。 その時は、役に立った。 困難を切り抜ける作戦として、有効だった。 しかし、 自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。 「何か変だ・・・」 ーー

ーーー この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。 心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。 「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。 カウンセラーは、そのお手伝いをする。 本人が気がつかないような身体のメッセージがある。 少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。 自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。 そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。 こう語りかける。 「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。 「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。 けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい? 怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。 子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。 自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。 「大丈夫だよ、ほら、だって、今、あなたに僕の姿がみえるでしょう。僕のことを抱きしめてくれているでしょう。僕を、ちゃんと感じてくれているでしょう?」 子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。(それは子ども時代、に限ったことではないが。) けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。 大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君(もしくは、大人になった後の、あの時の、あなた)を、おもいやれる。 だから、大丈夫だ。 悲しみを暖かく抱きしめる、今の私と、かつて悲しみにくれていた私が、出会う。 自分を抱きしめてみてもいい。 大切な誰かを抱きしめてみてもいい。 自分の心と、相手(自分自身)の心、を感じられたら、きっと、何かが動き出す。 動いていく心を感じてみよう。 ーー

ーー 無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。 感じること、を通じて、子どもの時の自分(もしくは大人になってからの、あの時の自分)、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。 感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。 そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか? 自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか? (あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?繰り返される「自動思考」で頭がパンクしていないだろうか?) 「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。 今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・ 「防衛」とは「感じないようにする」ことだ。 本当の自分を感じないようにして、誰かのために命を捧げることも、「防衛」といえる。 心を安定させるために、「その時」選んだ、最適解。 だから、防衛を解いて、感じることは、ある意味とてもつらいことだ。 一人では、とてもやっていけないくらい、つらいこと。 だから、、、、 だから、一人でがんばれる!とはおもってほしくない。 ーーー

 

ーーーー 自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。 もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。 そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。 これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。 「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。 「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。 もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。 目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。 君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。 本当にいるんだろうか? ーーー

ーーー 多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。 それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。 「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。 「怒り」に気がつかない。 「怒り」にもいろんな名前がある。 妬み、憎しみ、悲しみ、恨み、、、、、 怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。 自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせることをしている親がいる。 子どもは、お父さん、お母さんが好きだから、 満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする人がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。 けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。 同じ人生を歩かせようとしてはいないか。 子どもはやさしい。 お父さん、お母さんを愛している。 だから、命をかけて、命を燃やして、身を捧げて、応えようとしているかもしれない。 その子の、一番大切なものを、捧げていく。 それは本当に「その子」のためだろうか。 子どもが大切な「今」を差し出している。 大人は、そんな子どもの心に、どんな「今」を差し出せるだろうか。 大切なものを、差し出せるだろうか。 ーー

ーー 悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。 「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」 そうして悲しみを自分の一部にすること。 少しずつでも、少しずつでも、、、、 ーーー

ーー 痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。 苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。 弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。 (これを心理学用語で投影といいます。別に悪いことではありません。そういう現象を、投影といっているだけです) 嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。 情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。 心に向き合う時間を大切にしたい。 人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。 愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。 ーーー

ーー 古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。 個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。 「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」 という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。 人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。 輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。 それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。 人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。 「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」 痛みを感じないわけではない。 痛みと寄り添えるようになること。 痛みを抱きしめられるようになること。 それだけで、プロセスは動き出す。 大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。 学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。 心が大事。 ーーー

ーー 自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。 だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。 多くの受験生にとって、「やってたことをやる」習慣や、「できる自分」へのプライドがある。 「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。 「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。 大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。 それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。 思春期だと、おもっている。 もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。 先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。 僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

 

硬直マインドセットの復讐心・恨み・妬み v.s.幻滅から脱却するしなやかマインドセット

堕落への道を突き進む硬直マインドセット

失恋の痛手 はだれにでも経験がある。けれども、それにどう対処したかは、人によってまちまちだった。 失恋体験を語ってもらった後で、次のような質問をした。 その体験はあなたにとってどんな意味を持つものでしたか。それにどう対処しましたか。ど うしたいと思いましたか。

硬直マインドセットの人たちは、相手に拒絶されると、自分を否定されたように感じた。消 えないインクで、額に「魅力なし」と書かれたような!そして激しい憤りを感じた。硬直マ インドセットの人には、受けた傷を癒す手立てがない。だから、自分を苦しめた相手に痛手を 負わせてやりたいと念じることしかできない。先ほどの体験を語ったリディアも、激しい恨み をずっと抱き続けたという。「仕返ししてやりたい。できることなら、痛い目にあわせてやり たい。それが当然の報いだもの」

硬直マインドセットの人たちが望んだのは、とにかく復讐すること。ある男性はこう語った。 「彼女はぼくの価値を奪い去っていった。どうやって償ってもらおうか、1日たりと考えなか った日はない」。この研究に参加してくれた私の友人が、離婚体験について語ったときの言葉 が印象に残っている。「私が幸せになるか、彼が不幸になるか、ふたつにひとつしかないとし たら、当然、彼に不幸になってもらうわ」 「復讐は甘美なり」という箴言の作者、つまり復讐することで救われると思っていたその人は、 硬直マインドセットだったに違いない。しなやかマインドセットの人は復讐を好まない。同じ ようにつらい失恋体験をしても、その後の対処の仕方がまるで違っていた。

しなやかマインドセットの人たちは、相手を理解して、許し、そして前向きに進もうとした。 深く傷ついてもそこから何かを学びとろうとした。「彼女とあんな結末を迎えたことで、コミ ュニケーションの大切さを痛感した。それまでは愛さえあれば何でも解決すると思っていたが、 関係を育てていく努力が必要なことに気づいた」。この男性はさらに「どんな相手とならばう まくいきそうかもわかってきた。人とのつきあいはすべて、自分にふさわしい相手を知るのに 役立つと思う」と語った。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.210)

人間関係は、育む努力をしないかぎり、ダメになる一方で、けっして良くなりはしない。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.221)

 

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幻滅で終わらないしなやかマインドセット:失敗からコミュニケーションが始まる

じつは、どちらにも悪気などなかった。ブレンダは、その日の職場での手柄をジャックに聞 いてほしかったのだが、自慢話だと思われたくないから、遠まわしに、どうでもいいようなことばかりしゃべった。ジャックはジャックで、ぶしつけな人間だと思われたくないから、いっ たい何が言いたいのさと尋ねることもできずに、話が終わるまでじっと待っていた。 ジャックがひとこと、こう言えば良かったのだ。「ねえ、そんなにくわしく話されても、何 が言いたいのかわからなくて、いらいらしちゃうよ。その仕事がどうしてそんなに楽しかった のか、それを聞かせてよ」

これはコミュニケーションの問題であって、人格や性格の問題ではなかった。けれども、マ インドセットが硬直していたせいで、もうあんな相手と一緒にやってられるかという気持ちに なってしまったのだ。

硬直マインドセットの2人が一緒になると、相手の長所がことごとく欠点に見えてきたりす る。アーロン・ベックが紹介しているテッドとカレンの話を読むと、なぜそうなるのかがよく わかる。 | テッドとカレンが出会ったとき、2人は互いに自分にないものに惹かれあっていた。カレン は眩しいくらいに伸びやかで明るい女性。世界の重荷を一身に担っているような生真面目なテ ッドにとって、楽天的な彼女の存在は、人生を一変させてくれるものだった。「言うこと、やること、すべてが可愛いんだ」ともう夢中。一方、カレンにとっても、岩のごとく落ち着いた テッドは、初めて経験する「父親のような」男性。安心感を与えてくれる、頼りがいのある存 在だった。

ところが何年もたたないうちに、テッドはカレンを無責任きわまりない空っぽ頭と思うよう になった。「ものごとを真面目に考えたことなんてないんだから……まったく当てにならない よ」。一方、カレンはテッドを、自分の考えを振りかざして一挙手一投足に文句をつけてくる 人と思うようになった。

けれども、2人は何とか破局に至らずにすんだ。相手に腹を立ててレッテル貼りをするので はなく、助けあって行動することを学んだのだ。カレンが仕事に忙殺されていたある日、テッ ドが帰宅すると、家の中は散らかり放題だった。むっとして文句を言いそうになったが、ベッ クに教わった通り、口をつぐんで自問してみた。「どうするのがいちばん賢明だろうか」。その 答えとして、まず家の中を片づけはじめた。カレンを批判するよりも、手助けすることを考え たのである。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.226)

宗教とは何か。

 

平和に生きる。
心豊かに
ただただよいものを見つめて

そうすると、自民公明党がつくる地獄絵図を投票によってどうにかするということに意識がむかないかもしれない。
政治は、触れたら痛い、不快になる話に、おおいになりうるから。

ただただ良いものに関わる。
そのアプローチで幸福を得ようとする人の心を、宗教と呼んでいいのかもしれない。

宗教は心の免疫機能を集団で高めようとするしくみだ。
それがうまく機能すればいい。

ただ、選挙の時だけは「戦う人」の仮面を被って、あの無機質な選挙会場に赴くのはどうだろうかと、僕はおもうのだが。
自民公明党以外にとりあえず一票を。子どもたちのために。僕はれいわ新撰組の安冨さんにいれますが。

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こんな記事を書いたことがある。

で、宗教について。

言い方によっては、オトノネも宗教だし、学校も宗教だし、なんらかの価値観をもっている人たちがその信念をもって人と関わるものは全て宗教とすれば資本主義、共産主義、主義のつくものはみな宗教だ。
心理学自体、科学的に裏付けられた宗教といえるかもしれない。

人間は神秘の塊だ。
理解不能に苦しむ前頭前皮質と苦しみを生み出す扁桃体の果てしない戦いといってもいい。
と僕は思っている。

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バリヒンズーの話をすると。

バリではほとんどの人がヒンズーだ。バリの土着の信仰と、インド由来のヒンズー教が合わさってできたもの。
日本の原始信仰と仏教が合わさって日本仏教という世界にない、唯一の仏教が出来上がったのと同じ。

宗教は生活の一部だ。
宗教は、人が集まる場所をつくる。
宗教は、ごくごく自然なコミュニティーをつくる。
「祭りをすることになっている」から祭りをするのであり、その機能は人々がそこに何を求めるかできまる。

バリ島では、ほとんど儀式のために生活しているようなものだ。
儀式は装飾品(結構高い)で飾られ、食べ物が供され、芸能に人々は目の耳を楽しませる。
もちろん神様に向けてやるものであるが。十分に行きている人たちも楽しむ。
一族が、血を同じくした王家があつまる儀式(寺)もあれば、その地域に住む神様とつながった人たちが集まる儀式(寺)もある。

この場合、宗教は暮らしの一部であり、伝統と神様と人のつながりを守り、また子供達が芸能を通じて大人の社会にでる場所であった。
バリヒンズーはこのように機能している(だが近代化で、昔は夜通しやっていたものが短くなったり、いろいろ変わってきているが)。

儀式の中で、神がかる人がいる。
踊りながら、楽器を演奏しながら、とりつかれてしまう人がいる。
そういうことが許されているのがバリヒンズーだ。
そしてその人を「正気」にする手順もちゃんとある。

狂うことが許されている。
それがバリヒンズーであり、それを代表するのが「ランダとバロン」の戦いだと僕は思う。

バロンは、鬼母神であって、子どもを育てるいい母親と子どもを食らう悪い母親の両面を持つ。
日本で言えば山姥だ。金太郎のお母さんだ。善とともに悪である(鬼母神は歴史の中でおそらく獅子舞に吸収された日本である)。

バロンは聖なる動物で、善を司る。

で、ふたつの神はバトル。
そして、どちらも勝者にならず、儀式は終わる。

バリヒンズーはそういう世界。

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仏教はどうか。

仏教は「離れる」ところに焦点化される。現世を離れて涅槃にたどり着く。
ブッダが科学的に実験した末にたどり着いた、幸福のあり方。
それは社会的な祭りというよりも、個人的な修行、振る舞い、思考法によって完成される。
ブッダが寺をもったかはしらないが、もっていなかったのではないかとおもう。

ブッダの仏教には神はいなかった。
あるのは、「仏」の姿、修行した末の人間の姿だ。

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キリスト教。

ニーチェが「神は死んだ」と言ったことは有名だ。
神の死亡宣言は、どんな意味があったのか。

キリスト教が作り上げた中世、封建制で人々は教会に集まった。
教会は神とつながる場所であり、言葉は特権的な階級である人々に独占されていた。
人々は、祈った。

救われた。

ニーチェはいう。
そんなお手軽なのはなぜか。
それは、弱さだと。

人間の弱さを包み隠すために、教会があるのだと。
(教会がポルノの図書館であったことは有名な話だ)

それって変じゃないかということで、プロテスタントがでてくるわけだが。

ニーチェはそれを含めて、「いやいや、人間は人間らしく、人間らしい強さを大切にしたいよね」といったのだ。
だから弱さを隠してしまう、そして弱いものが集まって慰めあっているキリスト教を批判したのだ。

宗教は、人間観を表す。

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日本仏教はどうか。

日本仏教は、時代と主に大きく変わる。
中世まではだいたい貴族の教養。庶民に定着したのは何かといわれれば、歌や踊りの要素を深めた娯楽的なもの。
近世に入ってからはこの機能は大阪や江戸では歌舞伎が担うこととなった。武士は寺というよりも儒教、朱子学といった実利的なものを学んでいた。
明治になってからはもうボロボロ。

あまりにもめまぐるしく変わっていった。

現在は多くの新興宗教がある。

僕が大学時代に出会った人は「環境問題」に取り組む人で、いわゆる専業主婦のお母さんたちから高額のお布施(もちろん、金額は指定しないが一回、一筆文字を書くだけで1万円とか普通にもらっていた)をもらう。
グリーンピースだったか、クジラをまもるんだ!といいながらスポンサーからお金を集めている過激な団体もある。
富山では心に病んだ高校生を狙って神秘体験をさせる古着屋があったりする。結構な高校生がそこに通っているらしい。

富山県もいろんな信仰をもっている。
持ち家信仰。
長男信仰。
この二つは大きい。
学校信仰もある。
ママ友信仰。
野球信仰。

これをまとめて富山教と呼んでもいい。
生活に根ざした宗教だ。

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で、結局、宗教とはなんだろう。

そんなどうしようもない問いを立てる僕は研究者教かもしれないし、白痴にみえるかもしれない。

僕は宗教の機能を考えたい。

宗教は人が欲しいものを与える。
それがお金であれば、いわゆる「自己改革セミナー」とか。

宗教は人が一番欲しいものを与える。
たとえば「仲間」とか。

東京で阿波踊りを楽しみにしている人が集まって練習をしている。
それを宗教団体としてもいい。

宗教は人が欲しいものを与える。
点数が欲しくて塾に行かせるなら、塾も十分に宗教だ。

宗教は人が欲しいものを与える。
そこには、日常生活では聞くことのできない言葉に溢れている。

宗教は人が欲しいものを与える。
それは自分が何か力をもっているという証であるかもしれない。

とおもったときに、バリヒンズーはどこにも該当しない。

資本主義という宗教は、人々に渇きを与える。
欲しくないものでも。ただ生活の中にもう住み着いている。

ニーチェは言っている。
「神を勝手に作って、都合のいいように使うな」と。

真言宗の開祖空海は、実は本当は密教をやりたかった。
というか、山々を歩き回っているとおり、修験道の人間であった。
それがどうしてそうなったか、そう、人間の勝手で、新しい宗教の手本にされてしまった。
「いや、そんなつもりなかったんだけど」というのが、空海の気持ちではないか。
けど由緒正しさが求められる日本、空海は神様に祭り上げられた。

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最後に、シャーマニズムの話。

あれ?スエットロッジの話はどこかで書いたような・・・・

シャーマニズムは信仰の世界だ。
どれだけ人間に眠る神聖を自然と繋げるか。
自然に結びつけるか。

シャーマニズムは、基本、完全個別だ。
シャーマニズムが宗教とは違う点だと僕は思う。

祭司としての特権的な地位を持っているわけでもない。

そして、信頼は集めるが、お金はもらわない。
シャーマンとしての能力が、与えられているものだからだ。
それは運命であって、そうなるべくしてなった、といってもいい。
ぎゃくに、シャーマンとして生きなければ、死んでしまう。

お金にならなくても、やる。

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僕は、ちょっとその古着屋に関わっている高校生にはこう言った。
「お金がからむなら、やめておいたほうがいいよ」

何を得たいか。

宗教集団に限らず、組織は文化を持つ。
自分がしあわせを、よろこびを感じる組織や文化に所属したいとおもうのは当然だろう。
結局、ひとりひとりにとって、しあわせは違うのだ、というだけか。

芸能人に、少女たちに、お布施を渡している人が、たくさんいるではないか。

駅前で、お父さん、お母さん、子どもの3人が新興宗教のチラシを配っているのを見かけたとき、僕はおもう。
「この人は、しあわせになるために、お金をいくら払い続けるんだろう」

全国ツアーに同行する熱狂的なファンもいる。
その人は、しあわせになるために、お金をいつまで払い続けるんだろう。

貪るように本を読む人がいる。
その人は、しあわせになるために、お金をいつまで払い続けるんだろう。

新興宗教に入っている人は、選挙について考えるんだろうか?
宗教は、現実の問いには触れないのだろうか。
宗教は、たぶん、心のせいにするだろう。
環境のせいにはしない。社会のせいにはしない。
弱さのせいにはしない。強さのせいにもしない。
ただ、修行が足りないからだ。一緒にやろう。とかいうだろうか。

それだけの人が集まって、お金もあって、広範囲でやっていて、どうして社会は変わらないのか?
僕はいわゆる「宗教団体」をそのように見ている。
それだけ人が集まっても、世の中は変わらないのか。
人間には無理なのか。

宗教は、弱さなのか。
弱さを集めるから、弱いままなのか。

僕は人間の強さを発見したい。
人間の強さを生かしたい。

よりよく生きるためのエネルギー、力であるお金と時間の使い方が、果たしてそれでいいのだろうか。
僕自身にも全く同じことがいえる。だから僕は、オトノネをやりながら、自分なりのオトノネの形を、探しているところだ。

僕の強さのために。
しなやかさのために。

宗教団体、別にいいじゃん。

自分が力を感じる場所が、命を感じる場所が増えていけばいいとおもう。

誰もが、無力感、弱さを感じる心をもっている。
その心とどう向き合うか。きっかけも、みちのりも、歩き方も、人それぞれだ。

宗教団体の内部でコミュニケーションがとれても、外部では何も変わらないことがおおい。
それでも、何か「変わった!」といういっときがあるだけでも、楽になるものだ。
たとえ一時的であっても、それが何かのきっかけになることがあるだろう。

ただ、それだけ。
ただ、オトノネにお金が入らないから、僕はかなりふてくされているとおもう。

学校の先生が宗教団体に入らなくちゃならないほど、子どもの先生が宗教に入らないといけないほど。
学校の先生はもう限界。助けを求めている。

不登校の親の会みたいなのも、人によっちゃ「宗教みたいにあやしい」となるだろうか。
そう考えると、人が集まればなんでも宗教だ。

機械で24時間作業させ、人間が機械に従事する「二交替教」とか笑

 

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