【思春期(ウハウハ期)】1歳半【発達の質的転換期2】から

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1歳半:発達の質的転換期2

一歳半の「思春期」

「自分でしたい!」という気持ちは、大きくなっていく、成長する、強くなる自分の「命」への願いです。

「二分的世界」の不安という与えられた試練をのりこえることによって、子どもは新しい主人公に生まれかわっていきます。それが、この「指さしの主人公」によって代表される姿です。主人公への生まれかわりの姿は、指さしだけではありません。それまで、口ま で運んでもらい、食べさせてもらっていたごはんも、わざわざ自分の手で口から出し、目で確かめてから、食べ直そうとするでしょう。そして、オムツを換えてもらうことも、オマルにかけさせられることも、抵抗しようとするでしょう。さらに、食べこぼしたごはんをお皿の中へ戻してあげただけで、子どもは怒りだします。なぜでしょう。

それは、受け身がいやなのです。「される」ことを嫌い、自分でしたくなるのです。ま さに「自分でしたい」という「自分」が生まれてきているのです。「生活の主人公」への 生まれかわりというべき姿でしょう。

この主人公への生まれかわりは、生後一○か月ごろからはじまります。ちょうどこのこ ろは、入れ物や引き出しから、物を出す一方だった手の活動が、手に持った物を器に入れ たり、相手に渡したりできるようになっていきます。この入れる・渡す力によって、子ど もは大好きなおとなの口に食べものを入れてくれたり、手に持ったラッパをおとなにさし 出してくれたりするでしょう。まさに、人間関係においても、自分が主人公として振る舞 うようになるのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.71)

 

一歳半の発達の質的転換期は、何でも自分で挑戦してみたい子どもの発達の願いの高まりにまかせて、その挑戦を応援していくことがたいせつな発達段階なのです。挑戦には失敗がつきものですが、失敗しなければ失敗から学んで自分の活動を修正していくこともで きないし、失敗を恐れず挑戦する勇気も、子どものなかに育たないのではないでしょうか。 ときどき、子どもよりもおとなの方が、子どもの失敗を恐れていることがあります。子どもの失敗を恐れない親や指導者の姿勢が、実は子どもの勇気を支え、子どもをたくましく育てるために、肝心要なものだと思います。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.101)

子どもに無用な挫折感を与 えないということを前提と して、失敗から学ぶことの たいせつさを認識したいものです。

 

 

憧れの心を能動的身体の使用で強くする「センス・オブ・ワンダー」

この「センス・オブ・ワンダー」ということばを、私は「なにごとも不思議と思う心」と訳したいと思っています。この心が、人さし指の先から世界を知り始めた子どもに宿っているのです。願わくは、子どもたちの「いいもの探しのまなざし」をいつでも輝かせて くれる世界を残したいと思います。都会の子どもたちは、いいもの探しをしようと思って も、その心にかなうのは、清涼飲料水などの自動販売機ばかりでしょう。それでも春になると、家さきのプランターにかわいらしい花がたくさん咲いています。しかし、その花はあまりにも存在感がありすぎます。子どもたちは、アスファルトの間からやっとの思いで芽を出したタンポポの方に、そのまなざしを向けるのではありませんか。小さな子どもたちは、本当の自然やその生命力を感じ取る力をもっているようです。そんな子どもの本性に出会ったなら、私たちは、わずかに残された自然を子どもたちのために残すことのたいせつさを、自覚することができるでしょう。

子どもが、人さし指で、その発見の喜びを伝えてくれるとき、おとなは無言では通りすぎません。「わあ、赤い赤いお花ね」「ワンワン、うふぁうふぁ怒っているね」などなど、子どもの目の高さで、子どもと同じことを感じ取り、そして子どもの心のことばを聞き取る自然な心を、おとなももっているはずです。この「ともに感じる」共感の世界のなかで、子どもは確実に人間としての感情を育てていくのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.76)

 

「いいもの探しの行進」は、一人ぼっちの散歩ではありません。一人の子どもが感動した事物は、他の友だちにとっても光輝いて見えるのです。友だちの見つけたものだから、いっそうすばらしく見えるのでしょう。それは、憧れと呼ぶべきたいせつな心のはたらき、あなた、なにを見つけたのです。憧れの心は、「あなたと同じものがほしいわ」からはじまって、「あなたと同じことしたいわ」になり、やがては「あなたと同じような人になりたいわ」という願いに発展していくことでしょう。

もちろん、子どもの人格は、自分の外にあるものを憧れによって吸収するだけで、つくられていくのではありません。それでも憧れの心こそ、外の世界にあるものを、自分のなかに吸収していくための、一番大きなエネルギーではないでしょうか。憧れの心は、「いいもの探し」で互いの発見の感動を共有し合うなかで、いっそう確かになっていくのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.78)

喜びを分かち合いたい1歳半

生活の主人公になって、どんどん新しいことに挑戦しできるようになるこの時期。

「イヤイヤ期」といった悪い印象があるかもしれませんが・・・・

 

自分でできる喜びを味わいたい、一緒に喜びたい心を大切にすることが、もっともっと大切なことです。

子どもは、おもちゃを籠に一つ片づけたら、必ずおとなと目を合わせて、その「しごと」の喜びを分かち合おうとするでしょう。このような相手と交わす共感のまなざしの回数は、 一歳三か月から六か月ごろが一番多いのです。そのまなざしの多さに、たいせつな子ども にとっての意味、つまり子どもの願いが隠されています。なにより自分でできる喜びを味わいたいし、そして、相手もいっしょに喜んでほしいのです。そのまなざしには、いっしょに喜んでくれるであろう相手の心への期待が、満ち溢れています。だから、「じょうず にお片づけしてくれてありがとう、じゃあ、ぜんぶ片づけようね」「じょうずに一つお靴履けたね、もう一つも履こうね」と、願いがかなった喜びを受けとめることからはじめましょう。「子どもの心に寄り添う」とは、まず子どもの願いの世界に入り、その願いを理解することからはじまります。そして、その願いのたいせつさをおとなも理解できるなら、 それがかなうようにいっしょにがんばることであり、そして、願いがかなったことを、わ がこととしていっしょに喜び合えるような自然な関係のことではないでしょうか。

このような寄り添う共感があることによって、子どものなかには「もっとがんばってみ よう」とする「心のバネ」がつくられていきます。なにごとにおいても、「できたーできない」という結果だけがたいせつなのではなく、「できた」ことが子どもの心のなかに、 新しい変化を生んでいることがたいせつなのです。その「心のバネ」によって、子どもは 自分の力で新しいことに挑戦し、自分を豊かにしていくことができるのですから。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.83)

行動の切り替え(「○○ではない○○だ」)と「2つ」の物に関わる能力

二つの器を用意して、「どちらにも同じに入れてね」と促すと、一歳前半では最初に入れた器に全部入れてしまわないと気が済まない反応ばかりなのに、一歳中頃になると、他方にも入れようとするような「入れわけ」をするようになります。しかし、このような入れ分けをするまでのプロセスが大切で、一方に全部を入れようと頑張りつつ、その器に入りきらないと他方の器に視線を移したり、他方の器に全部入れ替えようとするような、子供なりの試行錯誤を見せます。つまり、うまくいかないという失敗の中から、自分なりに考えて行動を切り換えようとするのです。このような試行錯誤を繰り返しつつ、失敗する前に考えて「○○ではない○○だ」と活動切り換えられるようになるのが、対象を操作しつつ思考が内面化していく一歳半の発達の質的転換期の大切な特徴といってよいでしょう。(『発達相談室の窓から』p.51)

 

砂を一つの器からもう一つの器に入れ替える。一歳半には試行錯誤しながら「入れ分ける」ことができる。袖を片方に通したら、「もう片方」も入れようとする。←もう一つに意識を向ける「間」を大切に!

ある方法がだめなら、次、どうするか?
自分の思惑と、相手の要求があるとき、どうするか?

積み木を高く積む課題:「積みきる」ことへの欲求。失敗してからの「立ち直り」(心のバネ)。「○○ではない○○だ」という思考の内面化。積みきったあとの「次はどうしいよう」という次なる活動の意図を産む。(失敗してももう一度挑戦しようとするかをみる)靴を履く、服を着る・・・生活は挑戦の連続!!!

 

 

「見る側」から「見られる側」へ
自分のやっていることをみてもらう

「絵指示」課題で「反対の目は?」に答えられる。(他者の質問の意図に答えられる)

8個の積木を机上の標準点に提示し、「高い高いしてね」などと言いながら、 積木を積むことを促す。1歳3か月頃までは、積むことに達成感があり、一つ積 んでは、また他の積木にも同じように積むような2個の積木の塔を並列させて いくことが多い。これは、積むという「定位的活動」に達成感を覚えている姿 だろう。そのときに子どもは、積木を提示した他者に積んだ事実を伝えようとまなざしを送る。検査者は、それに応えて「上手だね」などと賞賛するだろう。 そのような関係によって生じた達成感を基盤として、子どもは一つだけではない「もっとたくさん」の積木を積み上げようとする

しかし、検査用の積木は一辺が 2.5cmであり、容易には積み上げることがで きない。途中で崩れてしまうことも経験する。子どもは積むことを躊躇したりす るが、言葉かけや積木を手渡されることによって励まされて、挑戦を再開する だろう。自らの能力を見極めるように、ある程度の個数で中断して、別の場所 に積み上げようとすることもある。子どもなりに自らの能力を感じ取っているよ うだ。しかし、すべての積木を「積み切る」ことへの要求は確かであり、検査 者や近くにいる家族などと視線を交わし、激励や承認を求め、それを契機にして、 さらなる挑戦を続ける

1歳半頃は、この「積み切る」要求が確かになるときであり、それゆえに積 み切れた喜びは大きいものがある。失敗やそこで生じた躊躇の感情に負けない で、自分の感情と操作を対象化して調整を試みようとするのだ。この「立ち直り」 をつかさどる主体こそ、1歳半の発達の質的転換期に芽生え、強くなっていく自 我の働きの一つの側面である。このとき、「どこから積み始めようか」というよ うに、最初の1個の積木を自分で選択するようになる。この始点の自己決定を「自 己領域の決定」と称することにする。

1歳後半になると、積み上げる過程での他者との視線の交流は少なくなり、積 み切ったときにはじめて「ほら、積めたでしょ」と伝えようとするまなざしを向 けてくる。子どもが、他者の激励や承認に依存せず、自らの意図で積み切ろう とするようになったからだろう。その意図に導かれるように、積んでいるとき には崩れないように積木の向きを調整したり、他方の手を添えたりする。また、 右にある積木は右手で、左にある積木は左手で取って積もうとするだろう。そ れは、状況に応じて手を使い分けようとする姿であり、「○○ではない口口だ」 という「1次元可逆操作」が思考として内面化している。換言すれば、表象のレベルでの選択性の始まりでもある。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.65)

1歳前半の発達段階におい て子どもは、「定位的活動」で最初に行った経験的な事実を守ろうとする要求が ある。その一方で、それをやりきったとき、あるいはうまくいかなかったときに、 他方に「転じる」こともできるようになる。日常生活においても、母親がショッ ピングバッグを手にすれば、外に連れて行ってもらえるというような一対一対 応の認知をするが、いつでも連れて行ってもらえるわけではないという現実に 出会って、「外に行くのではない○○なのだ」という転換を学んでいく。このよ うに「転じる」ことへの抵抗は、必然的に「転じる」ことを招来し、そこから「○○ではない□□だ」というような内面化した思考が可能になっていく。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.72)

自分で片付けをする子どもの心は?

このような積み切ったという子どもの意図の達成は、「次はどうしよう」とい うような、次なる活動の意図を生むことになる。そうやって活動は単位を形成し、 新しい単位へとつながっていく。

子どもが自らの意図で「積み切る」ことに挑戦するのは、「第三者」たる検査 者との共感、激励、承認などの関係があればこそだ。そこには、子どもの主体 的な「定位的活動」を喜びをもって受けとめ、意味づけ、価値づけていく働き かけがある。自閉的な傾向のある子どもの場合、このような共感的な関係が創 りにくいことに障害の一つの特徴が表れているが、大人の側も子どもの意図の 達成としての定位的活動を「受けとめる」関わりが乏しくなることもある

生後 10 か月頃の「示性数3形成期」から、「入れる」「渡す」「載せる」「指さす」 などの「定位的活動」が拡大していくが、それによって他者の受容的、共感的 な関わりも自然に拡大していく。まさに「主客の転倒」によって子どもは、自 らの世界の共有者として大人を引き込もうとする。子どもは、他者の共感や意 味づけに対する期待があってこそ、「定位的活動」を試みるのだが、自閉的な傾 向のある子どもには、そのような感情は確認されにくく、他者とりわけ「第三者」 に対して、あるいは「第三者」を意識して、自発的な「定位的活動」を行うこ とはまれである。

そのような発達状況にあっても、自ら運んで行って他者に手渡したり、籠から出して遊んでいた遊具を自発的に片づけたりすることがある。それらの「定位的活動」に心からの共感や意味づけを行えるかという大人のあり方が問われている。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.68)

 

「だだこね」自分で決めたい心

心のなかに意図、あるいは目的が生まれるのは、生後10か月ころの 「主人公になりたい心」が生まれるときです。このときは、一定のこと ばの理解ができるようになるので、相手の意図をことばで理解すること ができるようになるときでもあります。しかし、相手の意図に従うので はなくて、主人公になるために、あくまで自分の意図を通そうとするこ とでしょう。1歳半ころの発達の質的転換期において、心のなかに対ができると、対の一方に自分の意図を置き、他方に相手の意図を置くよう になります。つまり、心のなかで自分の意図と相手の意図を並べてとら えることができるようになったのです。そして、相手の意図にたいして、 いっそう自分の意図を強く主張するようになります。自分の意図が相手 に受け入れられないときには、「だだこね」というからだで表現する 「ことばの前のことば」を使って、自己主張することでしょう。しかし、 たいせつなことは、自分の意図を通そうとするだけではないということ です。相手の意図を受け入れていかなければならないという思いはある のです。だから、「ダメって言ったら、ダメなの!」と、おとなが自分 の意図を通そうとすれば、子どもはいっそう強く自己主張するでしょう が、子どもには必ず立ち直りのきっかけを探す姿がみられるようになる はずです。その自分からの立ち直りを見守り、「それじゃあ、いっしょ にお散歩行こうか」などと立ち直りのきっかけを与えてあげる役割をお となが果たせるなら、子どももいつまでも「だだこね」にこだわること はないはずです。(白石正久『発達の扉(上)』p.126)

2、3歳

比べる能力と不安(引っ込み思案)

「どちらが大きい丸ですか」と聞くと大きい丸を指さすのは2歳の中頃から

「1つ」と「もう1つ」の認識が「1つ」「2つ」にもなる。「一つは大きい」「もう1つは小さい」にもなる。

我慢する?

【2歳3歳の関心ごと】発達段階を理解して子どもに伝わる言葉を選ぶ。

 

比べることばが理解できるようになると、友だちの力を感じはじめ、ついつい自分の力が出せなくなってしまったりします。また、保母さんが用意してくれた遊びが自分にとって、得意か苦手かをあらかじめ感じはじめ、じょうずにできないと、それが苦手意識として子どものなかに固まってくるのです。

実は、この時期から四歳にかけての心の葛藤が、指すい、儀式的なこだわり、吃音、自家中毒症、チックなどの、おとなが気になる「くせ」の背景にあるといわれています。指すいが、あたかも親の愛情不足の結果のようにいわれることがあります。これは根拠に乏しい見方であり、おとなが本当に理解しなければならないことから遠ざかる結果になってしまいます。このような「わかっちゃいるけど、やめられない」くせの多くは、子どもの前向きな発達の願いと、でもそうなれない葛藤、悩みを映し出しているのです。それは、「大きい自分になりたい」葛藤と呼んでもよいでしょう
そんなとき、指すいを叱ったり、指すいしている自分を自覚させるような直接的な指導やことばかけでは、指すいを本当にやめさせることはできません。背景に横たわる葛藤を子どもが自分でのりこえていったときに、いつのまにか消えていくのが、この時期の「くせ」なのです。ここでも、遠い見通しでの指導が必要になります。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.136)

行動のつながり(「〇〇してから〇〇する」)と見通す能力

しかし、 既に述べたような思考の内面化が遅れる発達のずれを残したままだと、言語の獲得だけではなく、自分で考えて生活の見通しを持ったり、自分で考えて書いたり作ったりすることに、弱さを残すことがあります。特に、この発達段階は、例えば積み木で縦と横の軸を組み合わせて「トラック」をつくったり、縦線と横線の組み合わせで「十字」を描くことができるときですが、そのような表現の基本単位がなかなか獲得されません。つまり、「〇〇してから〇〇する」という思考が難しいのです。(『発達相談室の窓から』p.54)

 

子どもにとっての身辺自立は、自分でできる喜びを味わいたいという 願いとともに、次の楽しいことのためにがんばろうとする見通しの力を ともなっています。楽しい散歩があるから、自分で靴を出そうとするし、 やがて自分で履こうとするようになるでしょう。楽しい給食があるから、 自分で椅子を出そうとしたり、エプロンを首からかぶろうとするでしょ う。楽しいことと結びついて、ひとつひとつの生活の力は子どもによっ て獲得されていくのです。言い方をかえるなら、靴の向こうに散歩が見 え、エプロンの向こうに給食が見えるようになるのです。身辺自立が良 き見通しの力と結びつきはじめているのです。この力は、やがて幼児期 の発達の世界において、とてもたいせつな役割を演じるようになります。 それは、「○○してから○○する」という見通しの力に発展し、そして 目前にないことをイメージする力にも結びついていくのです。(白石正久『発達の扉(上)』p.109)

意図的な模倣

トラックと家の課題:他者の意図を受け入れ、自分で「つなげて」再構成する。
逆丸の課題:子どもが書いた方向とは逆の方向に丸を描くように伝える。試験者が見せて、真似をしてもらう。

 

イヤイヤ!?ウハウハ!?「イヤ」の裏側にある「心」

二、三歳の子どもたちは、おなかが空いているはずなのに、「ごはんだよ」といえば、 「イヤ! いらない」といいます。大好きな散歩のはずなのに、「イヤ! 行かない」とい います。なんで「イヤ」ばかりいいたいのでしょうか。そして、どうしたらいいのでしょ うか。

実は、「イヤ」の裏には、二、三歳の子どもたちの新しい発達への願いが隠されている のです。第7章で述べたように、二、三歳は、「大きい―小さい」などの比べることばの 認識が、獲得されていくときでした。比べるのは、ことばの認識にとどまってはいません。 それは、小さい自分ではない、大きい自分を求める願いにも発展することでしょう。だか ら、一歳児クラスの子どもたちをみていると、同じクラスの少し小さい友だちの着替えを 手伝ってあげようとしたり、手を引いてリズムの輪のなかに誘うこともみられるのではな いでしょうか。さらに、「あかちゃんクラス」の子どもたちのことが気になったり、自分のことを「ひよこぐみじゃない!」などと、強調したくなるのです。そこには、大きい自 分になりたい願いと、大きい自分を認めてほしい願いが溢れています。それは「おにいちゃんになりたい」「おねえちゃんになりたい」願いといってもよいでしょう

「大きい自分になりたい」願いをもっている子どもは、自分より大きい存在として、「ご はん食べなさい」などと指示してくるおとなの姿勢が受け入れられないのでしょう。そし て、願い通り大きい自分になれたらいいのですが、まだ自分ではできないことがいっぱい あり、おにいちゃん、おねえちゃんとしては、まだまだ認めてもらえない存在なのです。 「イヤ」は、子どもが小さい自分から大きい自分に生まれかわろうと願っているのに、現実にはそうなれないで葛藤している心のあらわれれといってもよいのではないでしょうか。

この葛藤は、「大きい自分」を実感し、そして他者からもそれが認めてもらえることを 積み重ねながら、しだいにのりこえていくものです。だからこそ、集団のなかで「おにいちゃん」「おねえちゃん」としての自分を実感できる場面がたいせつです。そう考えると 保育園は、いながらにして「大きい自分」を実感し、発揮できるすばらしい舞台にみえてくるでしょう。 「大きい自分」になれる集団や活動の保障は、葛藤をのりこえるための支えを子どもの 心のなかにつくるための、長い見通しでの指導といってよいでしょう。指導には、その場面でその子どもをどう指導するかという、短い時間の単位のなかでのものと、このように 長い見通しでの指導のたい せつさ。子どもの未来に長 い見通しをもてるために、 私たちは発達を学びます。

長い見通しのなかで、一歩一歩目標に近づいていく、長い時間の単位のなかでのものがあ るのです。往々にして、この長い時間の単位での指導のたいせつさを私たちは見失うこと があります。 そうはいっても、「イヤ」にどう対応するかは、そのときそのときで考えなくてはなりません。「イヤ」に正面から立ち向かっても、子どもはおとなの願いを受け入れてはくれないでしょう。子どもは自分のことを「大きい」存在として認めてもらえるかどうか、おとなの心に疑心暗鬼なのです。いわば「イヤ」という電波を発して、おとながどう反応するかをみているのです。だから子どもの「イヤ」を頭から否定してはならないでしょう

しかし、「イヤ」を受け入れるだけでは、子どもの本当の願いを理解することにはなりま せん。子どもが自分で納得して、その「イヤ」をふところにしまいこめるだけの時間的な 余裕や、子どもにとっての「きっかけ」が必要なのではないでしょうか。たとえば、「じゃあ、ごはん食べる前におかあさんに、じょうずな○○みせてくれるかな」と、「大きい 自分」が発揮できる舞台を用意してみましょう。このことばは、けっして子どもをだまそ うとするものではありません。子どもの大きくなりたい願いがわかり、それを尊重できる おとなの心を伝えるのです。「大きい自分」が表現できるときに、子どもは他者を受け入れる心の窓を、少し大きく開いてくれるはずです。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.127)

4歳

同時操作「〇〇しながら〇〇する」

二つのことなった操作を結びつける。
左右の手を互い違いに握ったり開いたりする。ケンケンしながら前進する。「4739」と言われて復唱させると「3」か「7」が欠落する(「47」「39」の二つを同時に記憶できない)。
「不器用さ」バランスの悪さ、一回聞いただけではわからない、記憶できない「理解の難しさ」が目立つ。
ハサミで曲線を切る。

READ  怒りとの付き合い方

耳位に手を当てて前進の跳躍をするうさぎ跳び。

バランスをとりながら、線の上を歩く。

「発達の最近接領域」とは、子どもの中にある子どもの願いと現実の自分の力の矛盾、子ども本人が心に抱いている現実的な矛盾を内包しているということです。(『子どものねがい・子どものなやみ』p.163)

「大小」を比べた思考・操作ができる。

「よりよい自分」のために相手を尊重する

4歳は「マシュマロテスト」ができる年齢。

ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

【ストレスは敵?】『マシュマロ・テストー成功する子・しない子』ウォルター・ミシェル のメモ

『マシュマロテスト』ウォルター・ ミシェル.1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。

【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?

マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。

 

そして、「心の理論」ができる年齢です。

思いやりと「心の理論」の関係

四歳に近づいてくると、子どもは遊ぶために生まれてきたのだとその姿で主張するよう に、友だちとのみたて・つもり遊びやブロック遊びなどに没頭するようになります。とく に、朝の自由遊び、給食のあとの昼寝までの時間、そして降園まえの時間などは、自由を謳歌し、遊びの花を部屋のいたるところで咲かせていることでしょう。そして、そろそろ「お迎え」の時間となります。ところが、しごとに疲れたおかあさん、おとうさんが保育所に帰ってきたときに、子どもは今の遊びをそう簡単にしめくくるわけにはいきません。「いや、かえらないの!」と 自分の結論を言うのです。

家庭生活の段取りがあるおかあさん、おとうさんは、この「いや」を聞くと、「いつまで、わからないことを言うのか」と急に気持ちがイライラしはじ めます。ついつい、「すぐ帰りのしたくをしないと、今夜のカレーライスの約束はやめる」 などと説得にかかるのです。しかし、そのことばを聞くと、今度は子どもがイライラしは じめます。相手の心への過敏性が生まれているゆえに、自分が尊重されていないことへの いらだちを覚えるようになってきているのです。それは、裏を返せば自分が成長している こと、おかあさんやおとうさんを尊重できる年齢になっていることを実感しはじめている からでしょう。しかし、その実感ほどには、おとなは自分のことを尊重してくれないのです。

こんなにすばらしい発達のときなのだということを、保護者の方に感じていただくことも、保育者のたいせつなしごとでしょう。おかあさん、おとうさんからの信頼を感じたと きに子どもは、それを心のよりどころにして、自分の要求をふところにしまうことができ るのです。だから、「おかあさん、そのブロックつくるの全部見ててあげたいけど、カレ ーライスのお買い物して帰らなくちゃならないの。でも、その飛行機の翼つくるの待ってるね。そうしたら、いっしょにお買い物にいこうね」と、少し子どもを尊重してあげてほしいのです。この尊重は、おとなの願いを受け入れる力をもちはじめているはずだという、わが子への信頼を包みこんでいなくてはなりません。自らの選択によって、おとなを受け入れることができた実感があれば、子どもはいっそう自分の成長を感じることができるで しょう。「いやだけれども、がんばってみる」という自制心は、このような一こま一こまの積み重ねによって、子どものなかにつくられていくのです。それは、「悪い自分ではない、より良い自分を選び取りたい心」といってもよいでしょう。つまり対比的な認識が獲得され はじめると、このような葛藤を自らつくり、そして解決していきます。わざとおとなを困 らせたり、甘えたりするのは、それ自体が子どもの願いではなく、より良い自分を選び取 るための心の跳躍台なのでしょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.166)

「よりよい自分」のために、自制心を鍛える

もちろん、自分を尊重してくれる「ひと」がいるからこそ、がんばれるのです。

三歳の後半にさしかかっている子どものはにかみは、もうこれまでのものと同じではありません。それは、ちょっとむずかしいことにも挑戦しようとする姿と同じに、はにかみのなかに、何か新しい前向きな意思を感じ取ることができるはずです。それ は、「ずっと恥ずかしがっていちゃだめだ。どうしたら元気にごあいさつすることができ るだろう」と心のなかで反芻している姿なのです。「恥ずかしいけれど、ちゃんとお話しなくちゃ」と自らを励ましている自制心の芽生えを感じさせる姿です。けっして急いではいけません。子どもの心の動きがからだのどこかにあらわれているはずです。それは、しだいに相手を力強く見つめてくれるまなざしであったり、くわえた指がしだいに口から離れるきざしであったり、さまざまでしょう。その表情は、明らかに新しい人間関係を結んでいこうとする前向きな葛藤の波動に、揺れているのです。その葛藤を待つ「間」、つま りおとなの余裕がたいせつです

その前向きな心を感じ取ることができたなら、相手を受け入れる助走がはじまっているのです。最後の飛躍を助けるために、たとえばその子の一番得意なことを演じてもらいましょう。「じゃあ、大好きなウルトラマンしてくれる」などと。自分の世界が関心をもって受けとめられると、相手への信頼と相手を受け入れる心があらわれだすのです

三歳児健診は、このような自制心の芽生えを粘り強く待ち、そして導く構えをもって臨まないと、発達の評価は、かたちだけの問診で終わってしまい、たいせつな援助の機会を失うことにもなりかねません。つけ加えるなら、すでに述べてきた、二~三歳の発達特徴である「大きい―小さい」などの対比的なことばの理解、「一つから二つ」までの数の理解、そして積木でのトラック構成や十字の描画などは、確実に確認しておきたいことです。同時に、すでに述べたように、三歳中ごろは、四歳に向けてからだや手指の操作、そして認識においても、新しい力が芽生えてくるときです。「重い―軽い」の対比的なことばの理解、「三つ」の理解、正方形の描きはじまり、手の交互開閉のできはじまり、ケンケンのできはじまりなどの特徴も、健診では確かめておきたいものです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.170)

5、6、7歳

系列化(大中小、「3つ目」の獲得)

「小さい丸からだんだん大きくなるまでを順番にたくさん書いてごらん」という「円の系列化」課題を、与えてみましょう。普通5歳の後半になると、この円の系列化だけではなく、積み木で「だんだん高くなる」階段を作るような「階段再生」課題も、できるようになります。この系列化とともに、「きのう・きょう・あした」のような時間の系列、「近いところ・少し近いところ・もっと遠いところ」などという空間の系列も生まれます。そして、自分自身をそんな系列の中で捉えようとして、次第に成長してきた手応えを、喜びを持って表現するようになるでしょう。たとえば、「おねしょをしなくなった自分」というように。(『発達相談室の窓から』p.59)

 

ところが難治性てんかんを持っている子供たちの中に、この系列化に困難を示す事例が少なからずあります。小さい丸に続けて大きい丸を書いても、三つ目の丸がまた小さい丸になってしまいます。「だんだん大きく」という基準枠を持ち続けて、丸を書くことが難しいのです。このような傾向が続く子どもたちの場合、「二次元可逆操作」の獲得に、先述のような弱さを持っている場合が少なくありません。 (『発達相談室の窓から』p.60)

 

系列化操作のむずかしさ

しげちゃんは、地域の小学校に就学し、高学年で障害児学級が開設さ れると、そこに通うことになりました。低学年の間に、苦手だった人物 画にも胴体から手足が出るようになりました。

しかし、しだいにはっきりしてきた問題として、系列化操作が確実に ならないのです。しげちゃんには、「小さいマルからだんだん大きくな るマルを順番にたくさん書いてごらん」という課題に、たびたびとりく んでもらいました。「だんだん大きくする」という活動が依拠する基準 枠を最後まで忘れず、一つひとつマルをつなげていくことを求める課題 です。これを書けるようになると、「大きい一小さい」だけではなく、 「中くらい」を問うても答えられるようになります。対比的認識を確実 にしたうえに、大でもない小でもない、「もう一つ」の中間の世界を認 識して、「大中小」の関係をとらえる系列的認識が、5歳後半からの特徴 の一つなのです。同じ力として、「きのう・きょう・あした」を認識して、時間の系列が生まれたり、単に「好き・嫌い」ではない、「好きで も嫌いでもない」という多面性をもった認識が可能になっていくのです。 このような力を獲得すると、すじ道を立てて考え一つの全体をつくりあ げるようになるので、伝えたいテーマを意識して文を書く、いわば書き ことばの基礎がつくられてきます。

しげちゃんの「だんだん大きくなる」マルは、いつも次のような表現 になっていました(図1)。つまり、「だんだん大きく」が、とぎれやすく、 まだ「小・大」という「対の世界」に発達が引きずられていたのでした。 (『発達相談室の窓から』p.162)

大中小がある世界

 

 

大小しかない世界(それでも中を書こうとしいている!)

 

発達が進み、「これは違う」と自分でバツ(✖️)をつけられるようになった。

「中」のある豊かな世界に向けて

さて、その四歳児がやがて迎えることになる五歳とはどんな発達段階なのでしょう。まず、その発達の特徴を、のぞいてみましょう。たとえば、こんなことを子どもにしてもらいました。B4判くらいの紙を与え、「一番小さい丸から、一番大きい丸まで、だんだん 大きくなるように、順番にたくさん書いてね」と言うのです。 四歳では、一つ目は小さく、一つ目は大きく書けたとしても、きっと、三つ目は、また小さくなってしまうでしょう。そこで気がついたように、また大きい丸を書きますが、しかし、もっと大きい丸を書くことはできません。基本的には、「小さい―大きい」という、対の世界で生きており、二つを一つの単位として、考えることはできます。しかし、その「小さい大きい」という二つの関係を頭に入れて、もっと大きいという「もう一つ」をつなげて、三つで一つの単位をつくることがむずかしいのでしょう。

さて、五歳になったらどうでしょう。五歳前半では、おそらく、はじめの最初の数個の 丸はだんだん大きくすることができるでしょう。しかし、やがて小さくなってしまうという「崩れ」をみせます。その崩れから立ち直るように、再び大きくかけますが、また小さく崩れてしまうでしょう。つまり、三つ目を視野に入れて、だんだん大きくすることはできるのですが、その力は生まれたばかりで、最後まで続けて発揮することができないのです。このとき、「一番小さい丸」、「中くらいの丸」、「一番大きい丸」はどれですかと問うと、「一番大きい丸」が「一番小さい丸」の隣になってしまい、「中くらいの丸」は動揺して答えられないことがあります。まだ、全体を見渡し、そのなかでのそれぞれの関係をわかる力にはなっていないのです。しかし、「どこか失敗したところはないかな? よく見て考えてね」と言えば、表現の崩れがわかって、もう一度やり直してくれるたいせつな変化が見られます。つまり、自らの表現を見つめるきっかけを与えれば、自分を修正する力こんなところに、「発達の最近接領域」のあらわれが あります。が育ってきているということです。

それが、五歳後半になると、「だんだん大きく」が紙の余白がなくなるまで表現でき、最初から最後まで、だんだん大きくすることができるようになります。そして、「一番小さい丸」、「一番大きい丸」の問いにも正しく両端の丸を示し、そして「中くらいの丸」の問いにも、端から端まで見渡した後で、ちょうど適当な大きさの丸を、さしてくれること でしょう。

「四歳までの「小さい!大きい」という二つの関係しかない一分的な思考から卒業し、「小」にも、「一番小さい小」、「少し小さい小」、「大」にも、「一番大きい大」、「少し大き い大」など、さまざまな「小」や「大」があることをわかります。そして、そのなかには、 「小」とも「大」ともいえない、「中くらい」の世界があることをわかるようになっている のです。このように、それまでの二分的ともいえる思考のなかに、あいだをとらえる思考ができるようになり、「だんだん大きく」や「上・中・大」などの三つ以上の単位をもった認識と思考ができることを、系列化といいます。後で述べますが、系列化は、「だんだ ん」や「中くらい」がわかるような力であるとともに、自分の活動を見つめながら、「だ んだん」調整・修正する力にもなっていきます。

 このような「小」でも「大」でもない「中くらい」の世界がわかるようになると、「おかあさん好きか?」と問えば四歳児らしい元気さで、「嫌い嫌い大嫌い!」などといっていた子どもたちが、「好きなときもあるけどなあ、ときどき嫌いになる、どんなときだと思う?」などと応えたり、「おとうさん好きか、それともおかあさん好きか?」と問えば、正直に応えていたのが、「まあ、それはむずかしい質問やな」などと、口を濁すようにな るのです。また、赤と白の水彩絵具を混ぜると、きれいなピンクができること、青と白を混ぜると、さまざまな空色ができることに感動し、パステルカラーや色彩のニュアンスに、感性が広がる発達段階でもあります。

人間の記憶は、およそ四歳ころから、おとなまで残るものがつくられていくといいます が、その時期は、「○○へ行った」「○○に乗った」などという具体的な経験の断片的な記 憶にとどまっていることでしょう。しかし、この「中くらい」がわかり、「中くらい」のニュアンスに開かれた感性をもつと、「はじめて見た海に沈む夕陽」の色などに心奪われ、しばし見入るような、新しい自然への感動が、記憶としてとどまるようになるのです

「中くらい」がわかるようになると、さまざまな点で子どもの世界は豊かになっていきます。

まず、時間の世界でも、四歳では「きのう」や「あした」ということばをつかっても、 それが先週のことであったり、数日先のことであったりしたのですが、この時期から「きのう」・「きょう」・「あした」が、ほぼ正確に使え、さらに、「朝」・「昼」・「夜」、「去年」・ 「今年」・「来年」なども、大まかにわかりはじめます。このような時間の流れをとらえる ことができると、自分の「去年」(年中組時代)、「来年」(小学校一年生)などという自分 の過去と未来を考える力にもなり、「去年はオネショしてたのに、今年はしなくなったな」、「去年は遅刻すると泣いてたのに、今年はぜんぜん泣かない」などと、自分の成長を喜び、おとなにも誇るようになるのです

また、空間の世界においても、四歳までなら、「一番遠いところ」は、「おばあちゃんが 旅行に行ったハワイ」などというように、自分の経験のなかでの認識であったのに、この時期になると、「もっと遠いアメリカがある」などと、客観的な認識をもっていることを 相手に誇るようになるでしょう。このような空間の認識ができるようになるので、太陽が 沈む山の向こう、空の上の宇宙、地面のなかの基地など、地上のものではないものへ、強い興味をもつようになります。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.176)

 

他者を自己に「上手に」取り入れる、ギャングエイジ!

思春期の子どもといえば、仲間でつるむ、ギャング!

小学校低学年以降は「お母さん」よりも「友達」の影響が強くなる。

5歳、6歳から「友達」とうまく関係をつくる「心」ができているなら、学校でサバイバルすることもできるかもしれない!

 

さて、このような親とでもない、家族とでもない、家庭でもない、園でもない、友だちだけの世界を、「第三の世界」ということがあります。

「第三の世界」をつくりはじめた子どもたちも、相変わらずケンカがたえません。給食の片づけ当番が終わったら、保育園のホールにいるアカチャン(乳児)たちと遊んでいいといわれたのに、その約束を守らないで、先に遊びにいってしまった同じ班のあけみちゃんに、ゆきちゃんが泣いて抗議しています。自分の遊びたいアカチャンが、先にとられてしまったのです。そのいざこざを見ていた他の班の友だちが、ゆきちゃんのところにやっ てきて、「どうして泣いているの」とやさしく問いかけます。「だって、給食の後片づけし ないで、あけみちゃんがアカチャンところにいったから、ずるいっていってるの」と涙の訴えです。今度は友だちは、あけみちゃんのところにいって、それをそのまま代弁してく れます。あけみちゃんは、「だって、ゆきちゃんだって、この前、全部片づけないでアカ チャンと遊んだし、私だって、早く遊びたかったんだもん」と、応えました。友だちは、ゆきちゃんのところにもどって、あけみちゃんの主張を伝えつつ、「一回ずつずるかったんだから、引き分け。だから、今度は、いっしょに当番を終わって、いっしょにアカチャンのところに行くって約束しようよ」と、仲裁の弁を考えだすのです。ゆきちゃんが、「あけみちゃんが、約束を守るっていわなかったら、わたしいや」と応えれば、あけみちゃんのところにいって、「あけみちゃんが、今度はいっしょに行くって約束したら、仲直りしてもいいっていってるよ」と、あけみちゃんの前向きなことばを引き出せるように、語りかけるのです。

友だちと友だちのあいだに立ち、それぞれの考えを聞きながら仲裁しようとしてくれる、そんな力をもちはじめるのも、五、六歳の子どもたちです。大でもない、小でもない、中くらいをとらえることができるようになるのとときを同じくして、このように一つの考え力のあいだをとり、それぞれを調整しようとするような考え方ができるようになるのです。順番の約束を守らないで、おもちゃを先取りしてしまったことを先生から叱られたときにも、「だって…」といいつつ、じっと押し黙って、自分の言い分を探そうとするのです。

しかし、自分に非があることは、どうやっても否定できません。その「だって…」ということばを、今度は飲み込むようにして、友だちから奪ってしまったおもちゃを、しぶしぶでも返しにいくことでしょう。相手の言い分と自分の言い分、あるいは、約束ごとと自分の行動を頭のなかで並べてみて、どちらが正しいかを考え、自らの非を直すことができはじめるようになっていくのです

このように、客観的に考えることができはじめるとき、「だって…」といいつつ、押し 黙ってしまうような、時間的な間が必要なのです。それは、相手の言い分を理解し、受け入れていくために、そして、自分の非を認め、自分の言い分をふところにしまうために、なくてはならない時間なのでしょう。おとなは、この時間的な間のたいせつさがなかなか わかりません。だから、それまでと同様に、「あんたはいつまでたっても、そんなわがままばかり言って」とお決まりの叱りことばを、かけてしまうのです。そういわれると、せっかくの前向きな子どもの心が、急になえてしまうでしょう。

私の大好きだった先生は、口癖のように「よーく考えてごらん」と言いつつ、けっして、頭から「良い悪い」を言いませんでした。この何度も聞かされた「よーく考えてごらん」 ということばこそ、五、六歳の子どもたちの前向きな心の葛藤を、信頼してくれていた先生の姿勢のあらわれだったのだと、最近になって思えるのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.197)

 

思い出したことがある。

東京で「美術の時間」をとりいれている素敵な保育園がある。

そこで「友達の心配」を僕に話してくれた子がいた。

富山の保育園では、そんな子にまだ、出会っていない。

(高校で一人だけ出会った!)

「仲間」との学び合い

今年(一九九八年)の冬、わが家のある山梨県もかつてない大雪で、私は、近所の友人たちと子どもの心にかえって、はじめて「かまくら」づくりに挑戦したのです。穴掘りのむずかしかったこと。 札幌の小さな子どもたちの姿が、うらやましく思い出されたのです。「シャベルをそっと、ゆっくり、横に動かしてね。そうしないと、天井が落ちてくるかもしれないからね。雪がたまったら、外に出さないと、だんだん穴のなかが、雪でいっぱいになっちゃうよ。みんなで少しずつがんばればいいんだから。そうしたら少しずつでも、毎日たくさん掘れるからね」などと友だちに語りかけ、自分の会得したコツを、次の穴掘り役の友だちに、本当に懇切ていねいに、伝えようとしていたのです。すじ道立てて考え、表現することができるようになったからこそ、はじめはへただったけれど、しだいにじょうずになってきた自分がわかるのです。そのなかで、「こうすれば もっとじょうずにできる」という自分なりのコツを、会得することができるのでしょう。 そして、一つの目標を共有しあって、がんばることの喜びを知りはじめているからこそ、 自分ががんばるだけではなく、同じように友だちにも、じょうずにがんばってほしいので す。そうすれば、きっと立派な「かまくら」ができあがっていくだろうと、友だちに思いを託す真剣な姿がそこにはあります。友だちに教えることをしながら、友だちには友だちの感じ方や得手不得手があることにも気づき、相手にわかりやすく教えることのむずかしさも、感じはじめることでしょう。そんななかで、相手の立場にたって考えることのたいせつさを、しだいに身につけていくのです。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.208)

小学校にいったら、孤立化させられる子どもたち。

面食らうにちがいない。

 

オトノネひろげるシェアぼたん

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