他人の合格実績よりも大切なこと(オトノネの合格実績ポリシー)

実はこれを勘違いしていて「失敗」する受験生が多いのではないかと、僕はおもっている。
「受験」とは何か、「受験勉強」とは何をすることなのかがわかっていないと、合格実績で判断することになると、僕はおもっている。

なぜ「合格実績」のある塾に入るのか?
なぜ「合格実績」の影で泣いている子どもたちのことをみれていないのか?
(もはや、泣くこともできないくらい、疲れ切っている子どもたちの姿が眼に浮かぶ)

「合格実績」はお父さんお母さんに、生徒に、物語を与える。
「ここにきて、勉強していたら、合格できるよ!」
「私も!」
「うちの子も!」

その物語が、他人のものであって、その子の物語ではないけれども。
みんな安心したいのだろう。
こんなにも不確実で、不確かな時代を生きるための物語が。

SNSにもよく流れている「◯週間で◯◯!」と同じだ。

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オトノネはつくったばかり。
そこでよく耳にする「合格実績がないから信用できない」という言葉。

合格実績があるから、信用がないという声だ。
なんの信用か?合格させてくれるという?

実は合格実績自体が信用できない。

1。合格実績がある。
2。合格実績を作るような優秀な生徒がくる。
3。合格実績がでる。

が実態であって、「合格実績をつくるような優秀な生徒」でなければ合格実績にのるような成果は出せない。

1。合格実績がある。
2。うちの子も合格できる。

ではない。

「合格実績をつくるような優秀な生徒」がくるから、「合格実績」がある。

「その塾に行ったら、伸ばしてもらえる」ような伸ばし方をしている塾は、マレだ。
(オトノネの場合、「伸ばす」のではなく「伸びる」ような環境作りに時間をかける。疲れている心、すり減らされている心では、伸びるものも伸びない。レディネスがない状態でする勉強は、非効率的だ。)

(最近出会った人が金沢市で「絶対に志望校に合格させる」で有名な塾があると教えてくれました。その塾の先生はいつも生徒を励まし、合格させるために疲弊していて、一方で生徒は心をすり減らしながら、実際に、合格していくそうです。そして、たぶん、高校にいって、、、どうなっているかはわかりませんが。個人経営の小さな塾だそうです)

昔話になる。
泉丘の生徒だった。
課題、課題、課題。志望校合格のために、全教科を「やらされていた」それを「しなくてはならない」と思っていた。
明らかに、無理だった。

浪人は確実だった。
「本当に心からそこを目指しているなら、来年に向けて意味ある勉強を、今から始めよう」と僕は言った。
その子は、僕の話を聞いて、納得した。
そして、勉強する教科を、2つに絞った。
頑張って、頑張って、自分を攻め抜いて、疲れ切っていたその子は、それから、目標を見定めて、彼女の道をちゃんと歩き始めることができた。

フィードバックのない受け身の一斉授業も、
フィードバックが適切に与えられてない自立型学習も、生徒をただ疲れさえているだけの場合が多い。

勉強以前に、心が弱り切っている子が多い。

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富山市の民間学童保育

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大手の塾にいくなど、お金を捨てるようなものだ。
とオトノネさんは考えています。

けど「安心」のために、「物語のなかに子どもを入れる」ために、「ファンタジーの世界に浸る」ために「合格実績」のある塾を選ぶ人が多いのが事実。

何人がその塾に通って、どれだけの人が合格実績に乗らないか、想像がつきませんか?
授業料は生徒を募集するための広告費に使われ、先生たちは安月給で雇い、多くの受講生からお金をとるのが大手の塾です。

合格実績を信じて、合格実績の裏で泣いている生徒たちがたくさんいることを知っていますか?
学校だけでなく、塾も同じです。

もし合格実績が有用な判断材料になるには、合格実績に名を残した人の物語を最初から(もしかしたら生まれた時から、家族の生い立ちから)読まないといけないだろう・・・(ビリギャルの物語はその点、とても説得力があります。ビリギャルはどんな女の子だったか。どんなチカラがあったか。どれだけ努力してきたか。どれだけ、学校から自立していたか。どれだけ、お母さんに支えられてきたか。お父さんにも、助けてもらっていたか。。。)

医学部に入学しました!というが、実はセンター試験だけでいける制度を使っていた、で、たまたまセンターの結果がよかった、とか。
そういうオチがついている合格実績もある。

逆に、どん底の成績だったけど、なんとか、県立高校に入学できた、という「合格実績」の隅に埋もれてしまうような子もいる。
その子なりの目標があり、目指すものがある。
合格実績を「エライ順」に出すとか、僕には考えられない。

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「偏差値30から難関大に入りました!」というSNSビジネスのような宣伝の仕方もある(その手に弱い人が多いのだ。その手に弱い人がたくさんいる)。
フランチャイズ時代にも、その謳い文句をみて来てくれた子がいた。その子は、最初に聞いた。「本当に、偏差値30から合格できるんですか?」

「偏差値30ってなんのもしで偏差値30かわからないよね。逆転合格したその子は、君と全く別の人間だから。君のことはわからないよ」
と僕ははっきりと言った。けどその子は頑張って僕に付いて来てくれた。

私の勤めていたとあるフランチャイズでは全国にあるフランチャイズ、支部の合格実績を集めて「難関大合格者◯◯人!」などと書いていた。
フランチャイズの塾は、特に学生のアルバイトを雇っている場合(ほとんどそうだ)、都市か田舎かによってメソッドが通じないことがある。地方の学生は都会の学生と比べて受験経験が浅い、薄い学生が多いので、仲のいい友達になって授業時間、雑談することがメインで、勉強にはならないケースがほとんどだった(精神的な安定のために塾にいく。勉強はしないケース。受験をサバイバルするために大金を払う価値があるか考えてみてください)。実際に勤めてみてそうだ。(もちろんそれで勉強ができるようになる子もいますよ!ごくまれに!)

「うちの子も偏差値30だから、この塾でいけるはず・・・」
「みんな行っているからうちの子も・・・」
「合格実績があるから、大丈夫。。。」

偏差値30の意味を誤解しているかもしれない。
お子さんと他人の子が別の子だということはごくごく当然なのですが。
受験勉強というものがどういうものか、理解していないのかもしれない。
合格実績が「お子さん」の合格と関係がないことを説明したページはコチラです。塾の選び方。あなたの塾選びは大丈夫?

とある全国的な映像授業の予備校を盲目的に信じて疑わない生徒もいた。
「そこの授業はイイから、受けておいて損はない」みたいな考え方をしていた。
頭の裏には「カリスマ講師から教わっている!」という喜びや、全国の合格者を寄せ集めた(ほとんどおそらく都会の高校生の)輝かしい実績で勉強どころではなかったっかもしれない。一流の大学に入るには、一流の学習者になる必要がある。一流の学習者は、きちんと学びの質、量をフィードバックによって調節していく。

が、合格実績をみて、合格ストーリー(ファンタジー)に入っていき、勉強していくことには意味があるだろう。合格者の声などをみることによる、また誇大広告によるプラセボ効果がある。どれだけファンタジーの中にいたら、狂人か。この境目が大切だとおもう。

別の例では、生徒は全く受験どころではなく家庭や学校での問題(かなり無理をしていた)があったのに親が塾に行かせていることがあった。合格実績、メソッドの新しさ、宣伝文句をみて「30台から合格できるの??」っということでやってくるケース。。。他の塾に行くよりは、僕のところで休んだらいい、とおもい、話はした。フランチャイズ時代に出会った生徒の話だ。

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合格実績を誠実に発表している塾は多くない(誇大広告がほとんど)。
合格実績という情報を役立てられるお父さんお母さん、生徒はほとんどいない(情報リテラシー)。
というか、合格実績という情報が役に立たない。
これが僕の実感です。

面白いのが、とある難関国立大学に合格した子。
その塾の合格実績には、もちろんどうどうとその大学名が乗る!すごい!となる。
けど勉強面ではなく、メンタル的に支えられていただけだった。
自習室と、勉強の雰囲気が欲しくてその塾にいただけだった。
できる子がたまたまその塾に行っただけで、その塾の合格実績になる。なんの実績でしょうか?

そういうパターンもある。
その子その子で、何が必要かはわからない。
(ちなみにその子が、私が雇われて射たその塾ではじめての難関大合格者だった。その子は合格実績をみてその塾を選んだのではない。雰囲気で選んだのだ)

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合格実績をみるより、先生に質問を一つして、答えてもらって、直接出会って話をして、目を見て、雰囲気を感じて、ちゃんと人を見て判断したらどうですか?そのチカラが、受験の結果にそのまま繋がるとおもうのですが。

一流の学習者なら、きちんと、自分が得られるものがあるか、よく人をみて、自分の状況も分析したうえで、自分に必要な環境の一部として、塾を利用するでしょう。「通わせていたら、大丈夫」などと思っているのは、一流の考え方ではありません。

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お子さんは、世界でたった一人の人間です。
他人の「成功ストーリー」に乗っかるのはいいですが、そのストーリーを歩くのは、お子さん自身です。
エベレストにいく道はすでに作られています。けど全員が頂上にたどり着けるのではないですね。

都会ではよくある「セミナー」も同じ手法をとります。
誰かの成功ストーリーをみせる。聞かせる。
そして「あなたも、できますよ」という。

実際に、その可能性はある。
信じることで、チカラがでてくることもある。

けどその子は将来、自分のチカラを信じることができなくなるかもしれない。
大きくなっても、他人のストーリーに依存してしまうかもしれない。

お子さんが今、どんな気持ちで、どんな状態か。
「今」お子さんが感じていることは大切なことではないのでしょうか。
お父さんお母さんの焦りが子どもに伝わっていないでしょうか。

いろいろと言葉を尽くしても、心がわからなくなって、ちゃんと感じられない人が多い。
何も感じられないくらい、心が疲れてしまっているのだ。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

休んでほしい。
いいよ、休んでも。

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塾選びは、先生選び。
先生を見る目が、先生を選ぶ能力が、一番大切な、学ぶチカラです。
ブランド、合格実績に目が眩んでいては、見えないかもしれません。
ぜひ、「この先生はどんな先生か」知るために、入塾の前に、いろいろと質問をしてみてください。
きちんと答えてくれる、きちんとした言葉を使ってくれる先生を選んでみてほしいとおもいます。
(実際に教わる先生と面談で話せない塾をどうして信用できるのか僕には理解できません)

オトノネははじめたばかりの、小さな小さな学習塾です。
もし将来的に合格実績を出すなら、学習歴、生徒の合格ストーリーをきちんとお伝えしようとおもいます。
ひとりひとり違った道があって、感性があって、違った言葉が必要で、違ったリズム、速さをもっています。
オトノネは、生徒の違いを大切にしていく、小さな小さな学習塾です。

小さすぎて、笑ってしまいます^^

オトノネは、安心を売っていません。
オトノネは、心を売っています。
安くありませんよ^^

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

数字を使ったトリックは、よくあります。
学校では教えてくれませんよー。

「え?嘘じゃないよ。ほら、説明していないけど。」

よくある「ぐーんと合格実績が伸びました!」という図。矢印が書いてあったりもする。
「え?イメージって書いてあるでしょ?そうそう、体積の方が、大きくなった(実績が大きく増えた)心理的な効果を狙えるのよ。本当はね、この図、適当に大きく見えるように書いただけだからね」

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オトノネひろげるシェアぼたん

論理を伝えること、論理の前提が崩れているとき、先生としての責務を果たすことと課題の多さの関係について。

論理的に話すということが無意味に感じることがある。

例えば学校で授業中に友達と話す子。
「なぜ授業中にはなしたらいけないとおもう?」
こういう問いをしてくれる先生がいるだろうか。

論理的に話すとこうなる。
「授業はみんなのためにやっているのであって、他の人の邪魔をするのは、他の人の迷惑になるから」
とても簡単だ。

教室は静かにするところ、では納得がいかない。論理的にそれがなぜか、落とせるところまで落とすとそういう答えになる。

もしこれが子どもに通じないとしたら?
話ができないとしたら?
大人はその子にどうかかわればいいのだろう?


私はいつも「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」を考えている。

それをはっきりさせるのが教育者の務めだと考えている。
教室の中で授業中友達と喋ることを黙認することは、身体的にそれを許していることになる。
「授業中、友達と喋っていてもいい」ことを教えていることになる。
私にとって、先生としての責務を果たすとは、「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」をはっきり伝えることだ。

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ちなみに、いつもでも友達がいないと何もできない、時間が過ごせない、というパターンは1歳すぎたらもう出来上がっているようだ。
先天的なものもあるだろうが、養育者との関わりも大きな要因になっているようだ。
保育園で働いているからわかることかもしれない。。。。

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子どもの言い分もあるだろう。
「だって授業がつまらない」「意味がない」「役に立たない」
こういう言葉を聞いた時に、大人は何を感じるだろうか。論理の前提が違うとき!

私ならこう応える。
「意味がないと感じるなら話を聞かなくてもいい。それは自分の責任で。ただ、他の人の時間を傷つけるのは悪いことだ」

それで無言になって、結局喋り続ける子がいる。
論理の前提が、そもそも違う(ただ喋りたい一心なのだ!)ケースだ。
もっとよくあるケースは「勉強してなんの役に立つの?」という疑問がでるほど、学校生活が窮屈な場合。
どちらの場合も、生徒の心は擦り切れている。

健康的とは言えない。

そんなとき、僕はこう考える。
「本当にその子にとって有意義な、成長できる時間をつくるためには何をしたらいいのだろう?」
授業という形態、学校というシステムにも限界がある。
果たして、学校は、組織は、大人は、こうして育ってきて今も成長している子どもたちに何ができるか???

(ちなみに、学校の先生は、生徒が同感・同情してくれるような言葉かけ、振る舞いを日常的にしていることがある。「この先生だから、静かにしていよう」というやつだ。生徒指導の怖い先生の前では静かにしている、というパターンをつくりだす。それも一つの手なのだが。人を見てコロコロと態度を変える就学以前の子どもたちと同じだ。もちろん、それは人間関係の基本ではあるが、その「手」が新任の先生がどんどん辞めていく原因のひとつとなっている)

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全ての学校に、通信課程を導入するのも手だ。
友達と喋りたい!なら単位は通信課程で。
自習室で友達と喋りながら勉強したらいい。(そっちの方が勉強になるかもしれない!???)
授業が嫌だ!意味がわからない。それでも単位が欲しいなら、友達とおしゃべりしたいなら、通信課程で。
通信課程と一斉授業の仕組みが流動的に使えるようになればいい。

決して他の人の邪魔をしてはいけない。
学校の本分が、教室という場所が、そのようにできているから。
「教えなくてはいけないこと・教えてはならないこと」をはっきりと伝えて、なおかつ、生徒の教育上の安全も確保しよう。

学ぶ意味がわからない、こんなもの役に立たない、とおもう子のための学校があるだろうか?
友達とのおしゃべりを楽しむ以外で、《行き甲斐》のある学校があるだろうか?

大人がそういう問いを立ててもいい。
(私なりの答えがotonone-オトノネ-なのだが)

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その子を否定するのではない。排除するのではない。
そのためには、
その子が学校でその子なりに、高校生活という経験を全うするための手立てを、学校が持っていることが必要なのではないか。
(その一つの答えに「特別支援級」があったりする)

そして大人がきちんと「教えなくてはならないこと」を伝えること。
学校の先生には、こういう意識が必要なのではないかとおもう。
(教えるという言葉が妙な響きに聞こえるかもしれない。心を表すこと、と言い換えてもらえてもらってもいい)

論理を、そしてベースとなる「相手の気持ちと自分の気持ち」という人間の根本原理を教えること。
それはいい子になる、というものではない。それさえあれば、世の中やっていけるというくらい大切なことだと僕はおもっている。

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「難関国立大学に合格させる」という責務を負った進学校を選んで入る人は、課題を当然ながら、あまんじてこなすべきだと考えてもいい。
そこを選んで入ったのだから。

先生はその責務を果たそうとしている。

ただ、大量の課題や途切れのない模試・テストという方法にあまり実りがないことは、大人がきちんと考えなくてはいけないことだと思う。
大人は「課題についていけないない子に対して、学校が本分を果たすにはどうしたらいいか?」考えているだろうか。

業務(先生たちにも「課題」がある)から自立して、考えているだろうか?
業務自体が「教えてはならないこと」を伝えていないだろうか?(潜在的カリキュラムという)
考えていない、工夫ができていない、先生自身が成長できていないとすれば、先生としての責務を果たせていないことになるというのは、論理的に正しいだろう。しかしこの論理の前提が崩れているから、困るのだが。

otonone-オトノネ-は壊れた前提の中で、それでも成長していこうとする子どもたちを応援しています^^

オトノネひろげるシェアぼたん

【教えて!】金沢で何かあったの?知っていますか?

今までは
こっちのページ(富山県)の方が
こっちのページ(石川県)より

たくさんの人に見てもらっていたのですが。

最近、石川県のページがよく見られるようになりました。(富山県と同じくらいみてもらっています)

なぜでしょうか。

石川県の学校で何かあったのでしょうか。。。

ご存知の方、ぜひ教えてください。

オトノネひろげるシェアぼたん

ゲームの効用(個性化の過程はとまらない)

チカラになる

ウノ、大富豪は勝率が上がるパターンを探すゲームだということはどこかの記事で書いた気がする。
ただの運任せではない。試行錯誤をして、パターンを見つけていく、手を考えるゲームだ。
同じ風にゲームをしてても、ゲームとその人との関わり方によって、効用が変わってくる。

ポケモンには英語版があるらしいではないか!これで英語に慣れたり。
ぷよぷよなどは、試行錯誤、実験の連続だという。
ポケモンでカタカナを学ぶ。できるようになったら漢字を選ぶ。
(例えばそのゲームがマリオカートとかスマブラとかなら、また別の神経が鍛えられるだろう)

そういえば僕もブラインドタッチをパソコンのチャットで鍛えた。
もちろん楽しくてやるのだが。

ゲームをやりまくる。量をこなす。たくさん試す、それで見えてくる。
一定量をこなす。カッテがわからない、数をこなしながら、こうしたらどうかな?という工夫ができる。

アニメが好きならアニメをたくさんみて、ふかく考える。
サイコパスやハルヒなどなど、また何気ない日常モノの中にも、学べることはたくさんある。
そうした心が豊かになるアニメと出会うためには、いろんなアニメをみてみることだろう。

ーーー

それは勉強も同じだ。
本気でやっことが、ホントにチカラになる。
オトノネの座右の名。
効率化、自分の勉強法の確立をするためにも、取り組まなくてはいけない。
取り組まずにはいられないような、ファンタジーを与えてくれるのが塾であり学校であり、社会なのかもしれない。
(オトノネはファンタジー破りの方向ですが。やらないならやらないで、今の自分の大切なものを見つめるところから、気持ちを確立するところから、うわついた状態で勉強をしない、勉強そのものでなかったとしても、今の生徒の課題に向き合ってもらうのがオトノネ流です)

あそびは個性化の過程、他の人と同じ動作をしたとしても同じようにならない、自分にあったやり方を自分で見つける。
自分を本気にさせる対象と関わる。深く関わる。本気で関わる。

そのチカラが、他のいろんなところで応用できる。
子ども時代の一見なんでもないあそびは、大人になってから大切になるという結論は、まだ変わりそうにない。

さぁ、勉強をしてあそぼう^^

オトノネひろげるシェアぼたん

【高校選び】進学高校の高校生たちのブラックな青春が青になるとき

体育祭の季節。

高岡高校生の話。
とんでもなく青春だ!この時ばかりは、空が青くなる。爽快!だと!

前にいた生徒の体育大会をみに行ったことがある。
その時の生徒の張り切り方はいつもの(校門前で出会う)生徒の表情とは違っていたことが印象的だったが。
その話を聞いて、ああ、なるほどなとおもった。

ダンスができる人、人を笑わせる人、絵を描くのが上手い人、いろいろまとめてくれる人。
いろんな人が、それぞれの役割をもって、全力であそんでいる。

文化祭のとき、教室まるまる一個の大きな回るコーヒーカップが作られたことがあるという。
その発想をする高校生もすごいが、それを実際につくるチカラもすごい。
木材でつくったそうで。技術者がいたのだろう。

ひとりではできないこと、みんなでやるからできる大きなこと、一緒にやりながら、いつもは話しかけにくい子から話しかけられたり、人間関係が一気に変わる、作られていく。ドラマチックだ!

金沢の二水高校の生徒に、アンケートで「二水高校に入ってよかったとおもったことは?」と聞いたことがある。
「二水祭」と書いてくれた。いやぁ、文化祭は、青春の空が真っ青に晴れ渡るときのようだ。

体育祭、文化祭のあとに、曇り空。いや、雨、雨空。銀を燻したような実力テストが待ち構えていることは、ちょっとしたオチ話にしかならないくらい、空が青く晴れ渡る、青春の一コマだ。

富山中部の生徒にも聞いたことがある富山ブラックの話をした後、「青春が青色になるのはいつ?」と聞くと、「体育祭です」と答えが返って来た。
高校生が高校生らしく、全力であそぶチカラを発揮できる文化祭、体育祭の感動は、そのままその高校の生徒のポテンシャルを表しているのかもしれない。

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どの高校でも、進学校なら課題に苦しむのは同じ。
富山東高校の卒業生の話では、入学式の時に、「高校生の青春は灰色です」と言われたそうです。
それがデフォルト。進学校を選んだら基本、ブラック。

だとしたら、どうやって高校を選ぼう?
文化祭に行って、一番楽しそうな、生徒が笑っている高校を選ぶのもいいかもしれない。
いろんな高校を回って、一番感動したところに入ったらいい。

そういう決め方でもいいな、と思えた。
それくらい、文化祭、体育祭の話をしている時の生徒の顔は、清々しかった。
(といっても、富山高校の文化祭に行って「ココがいい!」と思って入学してしまった子が、文字通り、登校できなくなってしまった話も、実話です。各自、性格・能力・希望に応じた賢明な判断をしてみてください)

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え?青春のブルーって、マタニティーブルーみたいな、ちょっとマイナス的言葉じゃないの?
とツッコミを入れてくれた人、座布団一枚!笑
ちなみに、ブルーカラーといえば青色の作業着、肉体労働者を表す言葉でもある。

ブルーは憂鬱という意味もある。
青春とは、高校時代とは、そもそもが、ブルーな時代なのかもしれないねぇ。
清々しい体育大会の青空をみながら、僕が今見ているのは、宇宙なのだとおもった。
世の中には、いろんな青がある。

憂鬱で、課題という作業をこなす春、それが僕らの青春時代!?

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感情
祭り、というものは、僕自身が日本の芸能史を研究しながら興味を持って調べてきたもの。
儀式、といってもいい。(儀式と平行して行われる場合がほとんどだ)

この本の中で「気分操作の身体的技法」という小節がある。
そこに書かれていることは「パーティー」が人間にとって欠かせない、文化的・社会的な「幸福のシステム」だ!ということだ。
(この本では「文化祭」の話は一切しておりません。「こうしたイベント」とは、大人向けの「パーティー」のことです)

こうしたイベントでは、言語的、感覚的、化学的、身体的といった、全範囲の情動的技法が、きわめて強度の幸福感を生み出すべく、結び合せられる。さまざまに色付けられた光は私たちをクラクラさせ、私たちの目を楽しませる。リズムのある音楽は心を揺さぶる。エクスタシーは脳の中で大量のセロトニンを分泌させ、気の利いたドリンク類は(興奮作用のある)カフェインを少しだけ与えてくれる。また、野生的な踊りはトランス状態を引き起こす。(略)こうした情動的技法は決して今に始まった新しいものではない。人類の夜明け以来、人は定期的に集い、そこで踊り、また何らかの薬物を摂取していたのである。こうしたパーティーこそが、究極的な幸福感への近道であると考えても別段、おかしくはないのかも知れない。(『感情』ディラン・エヴァンズ p.105)

そうしていつも、ブラック企業に勤めながら「青森のねぶた」で一年に一回の祭りのために、一年に一度の幸福のために、暮らしている人と出会ったときのことを、思い出すおとのねさんでした。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

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オトノネひろげるシェアぼたん

アウシュビッツで生き残った人の言葉のチカラ

このツイートに書かれたコメントが面白い。読んでみてください!

それで・・・

僕はよくアウシュビッツの物語を思い出す。
いつ終わるかもわからない。
いつ死ぬかもわからない。
そんな暮らしをするために必要なのは、自分自身が自分に投げかける言葉だった。
とおもっている。

真剣なごっこ遊びであるとも、ファンタジーともいえる。

アウシュビッツに入るまえに、その言葉を生み出す経験がなければならなかった。
人生の意味を見出していなければならなかった。
他者にとっての自分の価値を知っていなければならなかった。

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一方で!

自分に投げかける、生きるチカラを与える言葉が生まれてこない心がある。
困難に直面しても、ファンタジーを見せてくれない心がある。
電気柵に体当たりする人たちのこと。

言葉を自分に投げかけられない人でも、アウシュビッツで生き残る術が一つある。
しあわせを生み出す言葉を使う人になりきることである。
言葉も、振る舞いも、呼吸も真似ることである。(行動を真似ることが大切。特に歩き方、喋り方、深層筋の使い方、ありとあらゆるデテェイル)
同じ夢をみるほどに。
行動を一緒にすること。
同じ空気を吸うこと。
同じ位置に立って、同じ景色を眺めてみること。(キングダムで、信が「将軍の馬」にのったアレ)

ただの夢見ではなく、実際にそれを行うこと。
(よくセミナーで一流になりたいなら一流の振る舞いをしなさいというアレ)

これが方法の一つではないかと、ふと思えた。

自分にとっての現実を捨てて、みている世界すら、その人と同じになってしまうくらい、真似る。
実はそれは、思春期に至るまでに、子どもがやっていることではないかとおもう。
お母さんやお父さんに対して。

思春期とは、親以外の人をモデルとして自分を作り直す時期だとおもえる。
だから思春期には、恋をするのだろうか。

ーーーーー

蛇足:プラスの言葉を使うように心がけましょう。というのがある。
プラスのことしか書かない日記をつけることを、僕もいつの間にかやらなくなってしまった。
と、気がつくたびに、「自分を褒めるノートを書いてみたら?」と行ってくれた友達の声を思い出す。
そういう人が、すぐ近くにいてくれる人は、しあわせだ。

ーーーーー

ちなみに、「これは違う!おかしい!」と抗議をしても殺されるだけ。
むしろ「これでもういいや。シカタガナイ」と思って生きている人の方が長生きする。

憐れむことも、羨むこともなく、自分の命をマットウしよう。

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しあわせな人は、俳優になれない。
真似をする必要がないからだ。

しあわせな人は、俳優だ。
きっと、しあわせな人の真似をしているからだ。

オトノネひろげるシェアぼたん

富山大学附属中学校と富山(中部)高校のギャップ

富山高校生、もと附属中学校の生徒の話。

その前に、、前提知識。
富山大学附属中学校の70人中50人が富山中部に入る。(調べて見たら附属中学こうの生徒の160人中70か80人でした。数字全然違った!)
富山高校の生徒の出身中学は公開されていない。
で、問題はここから。

中学校のときは、先生がよかった。自分で頭を働かせて、主体的に授業がうけれた、というか、学べた。
高校になったら、受け身の授業で勉強する気がなくなった。

そのギャップに苦しんでいるというお話しだ。(富山から高岡に会いに来てくれた人がいる)

附属中の生徒が簡単に富山高校や富山中部高校に入れるのは、もちろん、主体的な授業で「言葉の力」があそびによって鍛えられているからだろう。
富山県の高校入試は暗記ができればいいのだから、とりあえず覚えれば入れるでしょ?という簡単な流れ。
親が教育熱心である、という理由もあるかもしれない。

で、ギャップという話。

ーーーー

僕の大学生の時の後輩が、今、宗教に入っている。キリスト教。で、昔その子の家にいっておしゃべりをしていると、同じアパートに住む「友達」がやってきた。同じ宗教をしている子だ。その子の話。「大学生の間、ずっとスポーツをしてきました。けど大学が終わってから、何をしていいかわからなくて」

突然、今までしていたことがわからなくなる。
何をしてきたのか、物語が、途中で終わってしまった。
あれ?

どうやって動かせばいいのかわからない、心が動かなくなったのだろう。
そして宗教はそのきっかけを与えた。
新しい物語を彼に与えたのだった。

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で、附属中学の教育は、先生は、すばらしいように思える。実際は知らないけど。けど少なからず、高校にいったら「何これ?」となる。予習をやってきて、生徒が板書して、先生が解説、いやいや、先生いる意味ないでしょ。という話をよく聞く。受け身の授業、意識が朦朧とする。。。あれは、中学生活は、一体、なんだったのか。。。附属中学校の玄関に掲げられている文字は、なんだったのか・・・

実は富山でも高校生をターゲットにした宗教がいくつか存在している。
え?知らないですか?

もちろん、附属中学校で鍛えられて、高校生活を有意義に、送る人もいる。
人それぞれ。

目が覚めた時、次は誰のファンタジーのなかにいるんだろう。
本当の自分の物語を語ることなんて、できるんだろうか。

真実か、正しいのかなんて関係なくて、誰かが近くにいてくれて、ぐるぐるまわっていく運命にちょっとしたいたずらをしていくのを楽しむくらいがちょうどいいのかもしれない。

高校生と話をしながら、僕が高校生だったころの自分の感覚を思い出している。
もう少し、彼らと一緒に何かをしていこう。
僕にとってのおとのねは、自分の心の成長する場所だ。
もしそれが生徒にとっても同じであれば、嬉しい限りだ。
そういう子が、おとのね にきてくれたらいいとおもっている。
悩みながらも、本気で、彼らに応えていきたい。
それが僕の感謝のカタチだ。

というわけで、(そんなものいらないが)結論。

今やっているゲームを降りて別のゲームをするのも、人生というゲームのルールのうち。
同じゲームをやり続けて、誰が褒めてくれるだろう?もしその人生に、幸せを感じていないとしたら。自分が自分を褒められないとしたら。

橋を渡って結婚式をあげたときに男女が初めて顔を合わせていたような時代とは、商品化されたゲームはかなり変わってしまったきがする。
自分でゲームをつくってもいい。もちろん、全てがオリジナルでなかったとしても。

中学生のときに思い描いた「学び」の姿、学んでいる自分の姿を書き換えなければならないような、そんな高校生活に身を置いている高校生のために、僕はotonone-オトノネ-をつくったのだけれども。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

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オトノネひろげるシェアぼたん

2つの世界の間にて

昼間。せいさ高校の生徒たちと話す。
夜間。富山高校の生徒たちと話す。

ふたつの人生がもっているストーリーの違いがあまりにも大きすぎて、僕の体は二つに引き裂かれてしまった。ような感じ。
違和感が残ったまま、今日も眠る。

「偏差値が上がると、精神年齢が低くなる」というのは富山高校の生徒の発見。
いや実に、そうかもしれない。そうみようと思えば、そう見える。

だが。

憐れむことも、羨むこともない。

だれもが、だれもが、本気で生きている。

この街のどこかで今も誰かが叫び声をあげている。

生徒が来なさすぎてほとんど塾を諦めかけて最後くらい富山中部高校の高校生に全力アタックしようとしているおとのねさん。
今まで自分が歩いてきた道は、運命の糸は、もう、どこか僕の知らないところで別の紋様を描いているのかもしれない。

それが誰かの声を無視することになろうとも。
不完全な部分を、別の誰かにおぎなってもらおう、とおもう。

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高度経済成長の時代、働くだけ物が手に入り、人は興奮し、喜んだ。
そのような時代だった。
そんな時代(いや、もうちょっと前の時代だったか)でも、工場に働く女性労働者たちは性の暴力を受けていたのも民俗学の本に記録されている。

高校進学率が高くなったのはいつからか。
大学進学率が高くなったのはいつからか。
いったい、もう一つの世界を作ろうとした人は、何を狙っているのか。

工業でそこまでの成長が見込めなくなったとある人が、教育業というものでお金を稼ぎ始めたのだろうか。
嘘でも真でも、人々が信じればそうなる。
ベビーブームで人が増えた。
社会が人を品定めし始め、教育が競争を表すようになった。

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二つの世界の両方で、しばらく感じることを、感じていこうとおもう。

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東京医科歯科大学を目指していた砺波高校の生徒との思い出

といっても、チラシを配りに砺波高校に行った時、門の前で話をしただけの子だが。

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おとのねに問い合わせがあった。
砺波高校、今年はあまりにも進学実績が悪かった。心配です。
というお子さんが砺波高校に在学している子のお母さん。

砺波高校はそもそも進学校ではないし・・・
情報は伝えた。
砺波高校は、そもそも(僕の定義によると)進学校ではない。かなり特殊な学校だ。
(保護者の方から聞いた話では、「安全」な進路選択をさせたい家庭の生徒が通う傾向があるそうだ。浪人する人の数が極端に低いのもそのせいだろう)

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今日、ふと思い出して砺波高校の進学実績(平成31年)を見て見た。

「東京医科歯科大学を目指していた、あの子は受かったのかな…」
東京医科歯科大学といえば、医学部は難関大の定義におさまるが、看護は難関大の定義にはおさまらない。

富山県で出会うのはなかなか珍しい、はっきりと言葉を使って、はっきりと正面を向いて、明るく、前向きに言葉を使う子だった。
この子は、言葉の力をもっている。そう直感できる子だった。看護を目指していたのだろうか。おとのねとしては応援したい子だった。

門の前で立ち止まって、僕と話をしてくれた。東京からきたんだよーと話すと、「私、今年受験なんです。東京医科歯科大学って難しいですか?」とか、本当に短い時間だったけれども。少しだけ話をして、いやぁちょっと話長くなるからおとのね遊びにきて!といって、最後はおじぎをして校舎に入っていった。チラシを配りにいって喋っておじぎをしてくれたのはその子が初めてでそのあと一回もない。印象的な子だった。

合格実績の一覧に、東京医科歯科大学の名前はなかった。なかったよね?
ないよね?

ひとりの生徒の思いを、どれだけ大人は真剣に受け止めて、感じて、気がついていただろうか。
その子は最後まで全力で、受験という経験をやりおえられたのだろうか。
最後は本人だ。
けど、

だけれども。
初めての大学受験で、大人がどれだけ知恵を与え、どれだけ「正しい道」を指し示したかで、結果が変わってしまうと思えば、悲しい。
(僕自身が、高校生のとき、努力を実らせる方向に勉強ができていなかった。開成とか上位校の生徒が通う塾に「ついていくだけ」でよかったはずがないのだった・・・演習の仕方を、間違っていた)その子は、課題をこなして、自信があったのだろうか。進研模試を受けて、間違った判定で志望校を決めていたのだろうか。本当に必要な勉強をできていなかったのではないだろうか。二次試験が英語だけなのに、センター試験を超えた他教科の課題をこなしていたか。小論文の対策ができていなかったからか。恐ろしいセンター試験の魔の手にかかってしまったか・・・

それでも

あの子は、今どこか別の場所で、笑っているだろう。
そう思えるような子だった。

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ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

残酷すぎる成功法則

ながながしいが、引用。

困難に際して、マシュマロ実験で子供たちはただただ我慢をしたのではなかった!!

つまるところ、想像力を使って、目の前に立ちはだかる困難を「操作」すること。
ファンタジーの世界を「使って」現実の困難を、なんでもないこと、にするチカラだ。
ゲーム化するチカラ、といってもいい。

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ウォルター・ミシェルによる「マシュマロ実験」は広く知られているが、通常は、意志力との関連で語られることが多い。簡単に要約すると、「マシュマロをすぐ一個もらう? それとも我慢して、あとで二個もらう?」と尋ねられた幼児のなかで、我慢することができ、意志力を示した子は、後年社会的に成功する確率が高かったことを証明した研究である。
 しかしこの研究におけるもう一つの興味深い要素は、我慢した子のうち、かなり多くの子が誘惑を回避しようとした方法にあった。ほとんどの子が、ただ歯を食いしばって食べたい衝動を抑えつけたのではなく、超人的な意志力を示した。
 驚くべきことに、この子たちは「認知的再評価」を達成していたのだ。つまり、自分の置かれた状況を別のレンズを通して見たり、ゲームに見立てたりしていた。ミシェルは説明する。

子どもたちは、マシュマロを〝もっちりしたおいしいおやつ〟としてではなく、〝空中に漂うフワフワの雲〟として認識したのです。その場合、彼らはマシュマロとベルを目の前に置かれながら、私と大学院生たちがネをあげるまでじっと座っていました」

「認知的再評価」に取り組むこと、すなわち、自分自身に見方や発想を変えたストーリーを語ることにより、じつは従来の意志力のパラダイム全体を覆すことができる。

 元来、意志力は筋肉と同じで、使いすぎれば疲弊するといわれてきた。しかし意志力が枯渇するのは、そこに葛藤があるからだ。ところがゲームはこの葛藤を別のものに変えてくれる。ゲームはその過程を面白いものに変えるので、マシュマロ実験が示したように、私たちは意志力を枯渇させることなく、はるかに長く持ちこたえることができる。
 たとえば、あなたの目の前に山積みのコカインが置かれたとしよう(ここではあなたはコカイン中毒者ではないとする)。あなたはコカインから快感が得られると知っている。理由があるから人びとはコカインを吸う。ところが大多数の人は「いりません」と断る。その理由はなぜか?

 それはあなたのストーリーと一致しないからだ。

 私はコカインを吸うような人間ではない、と認識しているのである。そしてあなたはコカインがいらないさまざまな理由を思いつくだろう。あなたは目を閉じ、拳を握りしめ、お願いだからコカインを持ち去ってくれと懇願するだろうか? そんなことはしないだろう。コカインを拒絶するのに、意志力を働かせる必要がまったくないからだ。
 ところがこれが、肉汁のしたたるステーキだったらどうだろう? しかもあなたがステーキに目がなく、とくに空腹だったら? あなたが採食主義者でないかぎり、葛藤が生じ、意志力が消耗される。が、ここで自分に語るストーリーを変えてみると、ステーキを断っても意志力をまったく使わずに済む。ストーリーを変えれば、あなたの行動を変えられるのだ。そしてゲームも別の種類のストーリー、それも面白いストーリーだ。
 空想話は楽しいが、ここで人生の話に戻ろう。仕事はなぜ面白くないのだろう? じつはその答えは極めて単純だ。今日私たちの知っている仕事はつまらないゲームだからだ。

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よく、心理学の領域でも「言葉にして、物語ること」「物語を書き換えること」が行われる。
今見ている世界の見方を変える。空想の世界、ゲームの世界、ありもしない「モノ」に目の前のものを置き換える。
そう思い込んで、浸る。

そうすると、心をすり減らさずに、意志を持続させられる、という。
いやぁ、勉強になりました。

よく引き合いに出してしまうが(それほど僕にとっては印象的なのだが)、DVをDVだとおもわない人(実は星の王子様を書いたサンテクジュペリもその一人)、学校の課題を当然のものと受け入れてしまう人は、きっと、それなりの空想に浸っているに違いない。

そうおもうと、誰もが、それぞれの空想の中で生きているのだ。
そうおもうと、現実も、虚構も、同じものなのかなとおもえる。

自分のストーリーを生きよう。
ただ、そうやってあそんで、明けて、暮らしていくのが人の性。
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遊びをせむとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ

『梁塵秘抄』

誰に何を言われようと、もし思い描いたファンタジーのなかで、他の誰かが、誰かが笑ってくれるのをみたなら、
誰に何を言われようとも、たった一度きりの命、つないでいく命、燃やさない手はない。と、僕はおもっている。

そこにビジネスマインドが入る余地があるか!?

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新しい知見を得ました。こちらもどうぞ!
マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。

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