言葉が育てるもの。言葉が傷つけるもの。

お母さんにはお母さんの考えがあって、言葉を使う。

例えば「こんなルールがあるのっておかしくない?」
と、子どもが言ったとする。
子どもが「違和感」を感じた瞬間だ。
この「違和感」というものは、とても大切なものだとおもう。
世界に対する不思議。人間世界と関わり合っていくきっかけ。
頭が混乱している。どうしたらいいの?

お母さんはどう答える?

ーーーーーーー

ひとつの「いい」関わりとしては

「なんて言われたの?」
「何があったの?」
「どう答えたの?」といって、その状況にもう一度子どもを立戻らせて、想像させて、再現してもらうことだろう。

それから

「どんな風にかんじた?」
「嫌だった?」
「怒りたくなった?」
「悲しかった?」

そのときの子どもの感情を聞く。
聞く。

そうすることで、「ああ、その時自分は、こうだったんだ。とにかく、そうなっていたんだ。私の心は」と、子どもは「ちゃんと」経験をモノにできる。
何があったか。何を感じたか。

子どもの言葉、仕草の調子をみて、「ここは、その子にとって大事そうなところだな」とおもったら、繰り返して言ってあげたり、「もう少し話、してみて」といったり。

日常的な会話のギアがあるとしたら、この時のギアは限りなくゼロに近い感じがするだろう。
呼吸が落ちて、相手の息遣いを感じられるかもしれない。

ーーーーーー

もしかしたらお母さんは、「そういうときは、こうする」といって指示をだしたり、「それは◯◯だよ!」といって価値観を与えてしまうかもしれない。その時、お母さんが言葉を使う響きが、言葉をつかうときの感情が、子どもにも伝わる。

「ああ、これはダメなんだ」
「ああ、これは間違っているんだ」
「ああ、私が悪いんだ」

もしくは

「ああ、私は間違っていなかった」
「ああ、私はこれでいいんだ」

とおもう。

イイこととワルイことが生まれる。
そのうち、「これはイイ」「これはダメ」で思考が停止するかもしれない。

ーーーーーー

子どもは世界を解釈しようとしている。
子どもの目線で。子ども自身の心で。

大切なことを学ぼうとしている。
「こんなとき、どうしたらいいんだろう?」
頭が混乱している。わからない。けど、「違和感」は感じている。

そんなとき、
「そんなルールなんて、意味ないよ!おかしいよ!自由にやりなよ!」といったり、
「ルールは大切よ。守りなさい。ルールを守るから、好きなことができるのよ」ということもできる。

それは「教えていいこと」なのか。
「教えてはいけないこと」なのか。

一口には言えない。
僕にはわからない。

ただ、子どもが生きている環境は、お母さんが生きていた、お母さんが生きてきた環境とは違うだろう。
時代が違う。地域が違う。周りの仲間も違う。

その子が生きているこの時代、この場所で、子どもはどんなふうに生きたらいいのか。
誰もわからない??

だから、一番、間違いがなくて、危険のない、そして、経験してきた感情と出来事をちゃんと整理するような言葉がけは「いい」ことだとおもう。

その子がこれから出会って行く、お母さんが出会ったことのない出来事に、その子が対処していけるように。
自立できるように。

ーーーーーーー

例えば、「ルールは大切よ。守りなさい。ルールを守るから、好きなことができるのよ」と言ったとき。
お母さんだったら、その「作戦」を取れたかもしれないが、子どもはその「作戦」を実行して、心に負担がかかるかもしれない。
その子はその子の心をもっている。
「ルールを守る」ということを身につけ、「自分を守る」ことができなくなるかもしれない。

例えば、「そんなルールなんて、意味ないよ!おかしいよ!」と言ったとき。
「ルールは破ってもいい」と覚えて、ルール(時として理不尽で意味不明)の中に潜んでいる大切な意味を感じられなくなってしまうかもしれない。

お母さんが生き延びてくるときに使ってきた言葉は、お母さんが生き延びるために必要な価値観(言葉)だった。

今その言葉は、その子に必要か。

今その子がもっている可能性を、自然さを、壊してしまわないだろうか。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

そういうことをまだ自然にできないから、オトノネさんはいつもカロリーを消費してしまう。
燃費がワルイ。

ーーーーーー

スクールカウンセラーの話。
子どもが不登校になったとき。
カウンセラーの先生は、「お父さんお母さんの目標地点は、どこですか?(カウンセリングを通じて、どこに向かいたいですか?)」と聞くという。
多くのお母さんは「子どもが学校に行けるように」というらしい。

そこから大切な子どもの心を、大事にするプロセスが、生まれてくるだろうか。

本当にその姿勢で、その子の心を守れるか。
「学校にいけない」子どもの心と、向き合えるのか。

どうなんだろう。

ーーーーーー

子どもが自分に起こった出来事を振り返り、そして、感情を言葉によって再体験し、その場に、お母さんは一緒に居合わせる。
不安定だった、落ち着かなかった、心の中で整理ができなかった「違和感」を捕まえる。味わう。

この時の言葉のやりとりは、日常の会話の速度ではないだろう。
味わうのだ。辛かったかもしれない。けれども味わうといい。
(全然、辛くないというかもしれない。学年が上がると、言いにくくなることがあるかもしれない)

そして、「あなたはどうしたいの?」
「で、今、今、あなたはどうおもう?」と聞いてみるといい。

子どもが自分で答えを出す前に、大人が答えを出すということは、僕には恐ろしいものだと思えることがある。

ーーーーーー

たぶん、そうやってきちんと感情を、出来事を味わい、自分なりのこたえを出したあとで、子どもは、笑いながら「じゃぁ、やってみる!」といって、「新しい経験」を積んで行く。同じ状況になっても、全く違った経験ができる。その繰り返しをしながら、子どもは自分で学べるようになる。

自立していく。

これから先の時代、どうなるかわからない。
僕ら大人たちの知っている世界ではなさそうだ。
そもそも、子どもは親とは別の心をもった人間だ。

お父さんお母さんと同じ「型」に入れられたら、死んでしまう心もある。

ーーーーーーー

大丈夫だ。
思春期というものがある。
余り余ったエネルギーが溢れ出す。
その時に感じる「違和感」と、自分で、一人で向き合えるチカラが育っていない時、子どもは世界と自己を調節できず、親の作った道、親の言葉、親の指示で生きて行くしかなくなるかもしれない。自立できないかもしれない。

もし、人間社会と摩擦が起きないような生き方を「させて」いても、それが子どもの心と摩擦を起こしているかどうか。

心が大事。

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もし、価値観を与える言葉を使うとしたら、こんな言葉がいいのかもしれない。
「世の中、おかしいことだらけだよ。全部気にしてたら、疲れちゃうよ?それはあなたにとって、大切なことなの?」

「違和感」はマイナスのイメージがあるが、こういう語りかけを「イイこと」にも使っていきたい。
しあわせをきちんと味わって、感じて、笑い合う。「どうだった?」「そうだね、楽しかったね」「じゃぁ、次はこうしてみよっか!」

子どもはしあわせを作る「天の才」をもっている。
あそびながらどんどん、しあわせをつくる。
少し、分けてもらったらいい。
簡単なことで、仲間に入れてもらうことだ笑

子どもに聞いてみよう。
「いーれて!」

ダメ?笑

しあわせは育つのではなく、やはり育てるもののようにおもえた。
しあわせを育てる知恵と振る舞いを、僕は「愛」と呼んでいる。

子どもは世界を愛している。
大人たちは?いやぁだって、仕事で忙しいからね笑

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何でもかんでも人の心が追いつけない、感じるものも感じられなくなってしまった時代。
大人も子どももブラックな学校や会社で働く時代。

大切なことはなんだろうかと、「ちゃんと」感じてみると、何かが生まれるかもしれない。

欅坂の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
「名詞」の抽象性

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大人にとっても大切な「ファンタジー」と思春期。

子どもの発達の教科書を見るとよく出てくる

感覚遊び→象徴遊び→集団遊び(ルール遊び)という流れがある。
手を使って、体を使って遊ぶ→ごっこ遊び、なりきり遊び→鬼ごっこ、ドッジボール

で、これは
現実世界(物質世界・ここにあるもの)→精神世界(ファンタジー・ここにないもの)→人間世界(社会)
という発達とみてもいい。

心理学では「夢見」が大切にされている。
その人の本当の思い、心が現れる「夢見」の世界。

象徴遊び、ファンタジーの世界は、子どもが4歳くらいになったら現れる、とされている。
これはある意味で、幼児期の思春期だ。
「今の自分ではないもの」に思いを馳せ、なりきる。
やってみる。

子どもは、思春期がくるまでに、人間に必要な経験を一通り経験する。

いわゆる「思春期」は、0才から18歳までの間の長いスパンでみた「ファンタジー期」だとおもってもいい。

だから、「死ぬまで」というもっと長いスパンでみれば、誰もが「今ここにない」ファンタジー、思春期の状態だということができる。

「ブラック」な企業に務めているお母さんとよく出会うおとのねさん。
お母さんたちが現実世界で暮らしているのは仕方がないと思う反面、どこかで、社会の中で、ファンタジーを広げられる、遊べる場所が増えればいいなぁとおもう。

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FBで保育士の人が書いたとある投稿に、「お母さんたちが「私も資格とって保育園で働きたい!」と思える素敵な場所がたくさんできるとうれしいですね。」と僕がコメントした。

すると、「それ素敵です。実はわたしが関わらせていただいたお母さんが2名保育士免許取りました。素敵な母さん達です。ちなみに(笑)クラスに女の子が8人いましたが、3人は今保育士しています。」という返事があった。

いつだって夢をみられる。
だから、睡眠時間をとろうかな笑

思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。

この記事を要約すると。。。「身体的な生殖機能」の発達が早まり、「精神的な社会機能」の発達が遅れていることを意味しています。

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《企業からみた大学》同じ中堅なら、地方国立よりも、都会の私立の方がいい?高校は?

お金があるなら…

いや、お金には変えられない価値があるかもしれない。

私立大学に3人の子どもを送ったお母さんの話。

「私立大学、学費は高いけど、それなりのいいことをしている」という話。

私立の方がおもしろい、フレッシュだ。生き残ろうとしている分、学生のことを考えている。というお話。

施設が整っている。
資格検定のお世話やら、イベントごとの案内。
なにかしら、やはり「時代に合わせて」変わっているのが私立だ、というお話。

本来の「アカデミック」のチカラが強まっているわけではないかもしれない。
ゼミは、国立に比べたら大人数だという(実際のところはわからないが)。

新しい学部をつくったり、外部の講師がきたり。
自立しなくてはならない。(国から補助で運営されている公立大学とはちがう)
だから、私立は、時代にあっている。ということもできる。

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私立、高校のお話。

都会では小学校、中学校、高校といろんな私立学校があり、それぞれの「特色」をもっている。
受験勉強をさせ続ける私立学校もある。(そんな私立に行かせる価値があるのかわからない)

これが、巷で有名な開成中学校校長の言葉。
「入試は通過点にすぎない」開成中高校長が語る

あ、途中から有料ですね。
無料登録で月3本まで記事が観れるそうです。おすすめします。

とにかく開成中学は受験受験ではないよ。というお話。

こんな記事も見つけた。
人事がぶっちゃける「すごい高校」 高校で採用を決める時代がやってきた

はっと思うことがあった。

企業が、会社が、今の組織が求めているもののなかに「地頭」があるらしい。

部活部活で部活ばかりした後に、もしそれで部活をしながら地頭を鍛えていたとしたら、、、、
企業はそれを会社で育ててくれるのだろう。

そういうパターンもあると。
(うーん、すごい時代になってきた)

あ、これ、オトノネですね。

B氏:何かに熱中させてやり切らせることはすごい重要です。面接の時には「お前の狂気を見せてくれ」と投げかけてます。対象はなんでもいいんですよ。なぜかレンガがとにかく好きで、30分ずっと語れる、なんて人もいる。そんなことでも、ハマればすごい人材になるんですよ。

こういう人を、認めてくれる人に出会わないと、この「価値」がでてこない。
育てるということは、そういうことではないかとおもう。
よくある学校は「君はこれをやりきるチカラ(目の前に課題、小テストがある)があるか?」という労働者としての「価値」だけしかみていない気がするが。「そうではない!」という先生、ぜひコメントください!(おとのねさんが出会う人が喋る「学校」は、そんな場所です)

種を守るために、種を下ろす地面を、選んで行くチカラが大切かもしれない。
(マックでは「素早く正確にハンバーガーをつくるチカラ」が表彰される。そうして認めてあげることでアルバイトのやる気をださせているという仕組みがある。人が、人をつくる。)

「みている人」が、「みられている人」をつくる。

 高校って、多くの人にとっては初めて自分で選択できる環境だと思うんですよ。私立なのか公立なのか、地元か寮生活か。その自分が選んだ環境で、自分の世界を広げる経験があるといい。大学でもできるでしょうが、やっぱり早いほうがいい。

富山県、石川県の学校で「うちは、こういう教育をしている」という話を「具体的に」企業に話して、「それはすごい!」と感動してもらえる場所があるだろうか。

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子どものひとりひとりの「天の才」

小さい時はまだよくわからないかもしれない。

いつそれを感じられるかはわからないけれど。

その子を助けてくれる、その子のチカラになる、その子の生き方になる。
そういうチカラを子どもは育てている。守護霊、といってもいい。

「私は目標があればがっつりうごける」
「私はものごとを不思議におもうチカラがある」
「私には、超暗記能力がある(何かを不思議に感じるチカラはないが…)」とか。

それがいつわかるかわからない。
ただ受験受験、習い事習い事、勉強勉強、試験試験、課題課題でわからなくなることは多々ある。

だれかが「君にはこんなチカラがあるね」と言われなければわからないこともある。
自分で気がつくこともある。

高校生たちは社会に出ないと「自分の姿」がわかるようなきっかけがなかなかないのではないか。
学校の中で受ける先生たちの目線、お父さんお母さんの目線だけではみえないものもあるだろう。
慌ただしく暮らしていたら、自分の中にある芽に、気がつかないこともあるだろう。

お父さんお母さんが、そのチカラ(天の才)がでてきたときに、守ってあげるような環境をつくってあげてもいい。
それだけで、「自然に」伸びて行く。

youtubeをみて英語のチカラを勝手に伸ばすインドネシアの女の子。
「させる」以前に、開いた芽。
芽が開くように塾に「行かせる」、習い事を「させる」ことで、実際に開く芽もあるかもしれない。
それでストレスを受けて、開かれない世界の扉の前に呆然と立ちつくしている子どもがいるかもしれない。

不思議だ。

多くの人にとって、「大学」というものは「本当に自分と向き合えるような仲間と出会える」場所のようにおもう。
子供らしく、あそべる場所。本気で将来を考えられるばしょだとおもう。
ちゃんと遊べる仲間と出会える。
ちゃんと教えてくれる大人たちと出会える。
自分の種を大切にできる場所だとおもう。(もちろん、働いてもいい。働きながら、いろんな人と出会える)

そんな場所にいくまでの3年間、3年という時間を、どうか、心を守りながら、悠々と過ごしてほしいと僕はおもっている。

子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

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言いたいことが言えない。

大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

小さい頃は、「さかな」が「たかな」になったりする。
言いたいことがあるけど、まだ、「口」がついて行っていない。
もう少し、時間がたったら、食べ物をちゃんと食べて、いろんな音を出してみながら、遊びながら、「さかな」といえるようになる。

言いたいことが言えない。

と、一言いっても。
世の中には「もう、いわなくていいや」ということもたくさんある。
言葉が出るのが遅い子は、そんな気持ちではないのかとおもうこともある。

お母さんが全部守ってくれるし!
遊ばせてくれないし!楽しくないし!
なんかもう無理無理!なんでこんな世の中生きにくいのかな?

場面緘黙という言葉もある。

言葉のチカラを僕自身が、どこかですり減らされていないか。
まずは、僕はご飯をたべよう。
昨日、食べられず、寝てしまったのです。

ほとばしるエネルギー!

別にしゃべらなくても。
エネルギーが溜まっているのを、出すところが大切だと、おとのねさんは考えています。

ーーーーー

別のパターンもある。
「NO!」といえない人がいる。

「私、課題、やりません」と言う必要はないのだが、やらなくてもいいのに、やらなきゃいけない(内言レベルでNO!と言えない)人がいる。
「NO!」という練習、「NO!」という経験が少ないと、大人になって、こうなるのかどうかわからない。

本当に自分にとって大切なことを忘れてしまうほど、「させられてしまう」人がいる。
これもある意味、「さかな」が「たかな」になったりする、
言いたいことがあるけど、まだ、「口」がついて行っていない子どもと同じ。

といってしまえば、少し残酷だろうか。

大人は大人で、お母さんはお母さんで、子育てをしながら、お母さんではなく、人として、学び直すきっかけがでてくるという話を聞く。
本当にそうだとおもう。

ーーーーー

学校では、もしくは場所によっては保育園のときから、子供達は大人から「はたらきかけられる」ことが多くなる。
言葉を喋る価値がなくなる。言葉を喋っても、どうにもならない、受け取ってくれないことが増えてくる。(進学校にいったらさらに、それは激化する)

お母さんにも同じことがいえる。
「よくしよう」「この子のために」言葉を尽くして、子どもの心が沈黙してしまわないか。

子どもからのはたらきかけに答えることが大切。
それが言葉の基本であるし、心の大切な働きであるから。

だれも「応えてくれなくて」この世の中に埋もれている声に、おとのねさんは耳を傾けています。

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診断名とは何か。Human Disaster

例えばADHD。
Attention-deficit hyperactivity disorder

「不注意だね。衝動性があるね。多動だね。うん、じゃぁADHDだね」ということになる。
周りの環境があって、その振る舞いがでてくる。

社会的な困難(学校側の不都合)を表す言葉が診断名であって、その子が特別な病気を先天的にもっているわけではない。その子は、「ふつう」だ。
学校が、「その子は学校ではやっていけませんね、だって、◯◯ですから」という意味のわからない論理を使うため、使用される言葉になってしまっている気がする。。
そうではないのだが。

「この子が学校でやっていけないなんておかしい!何がいけないの?」という答えをお父さんお母さんが診断名に求めてしまうことがある。
けどそれもちがう。
その子はその子の「自然」をもって生まれる。
学校という場所で壊されてしまっている「自然」がある、というサインにつけれらた名前が、「診断名」です。

ーーーーー

誰もが持っている衝動性、多動性、不注意がある。
それに診断名をつける意味はなにか。

ADHDは先天的なものだという。(クスリが処方でき、結構効くらしい。もちろん副作用抜群だが)
なるほど。

けど「診断方法」をみると、「育ち」でなんとかなるもののようにも思えるのだが?
「もってうまれている」のか「育ち」なのか、わからないのが、人間らしいところだ。

同じ「ADHD」という診断名でも、程度には、天と地ほどの差がある。

ーーーーーーーー

「あの子はADHDだから」という理由で。
「教室」という場所があまりにも居心地がわるい子がいるのをどうしようかということで生まれてきたのがADHDという言葉だ。と僕は思っている。
日本では学級崩壊が起きた後に、ADHD研究が始まったような気が、気が、僕はするのだがどうだろう。(そのうち調べよう)

ADHD Europe で検索
ADHD Europe | Attention deficit hyperactivity disorder
すごい、このサイトみてたら、ADHDの歴史で、最初に書かれているのが「シェイクスピアのヘンリー8世」!

日本語版で僕が頼りにしているサイト
注意欠如・多動症(ADD,ADHD)

ADHD Japanで検索
ADHD(注意欠陥/多動性障害)を十分に理解し、正しく対処していただける情報をお届けいたします。
ここの「日常生活チェックリスト」をみると。ただただ「発達の課題」に取り組めなかった「ADHD」でない子にもあてはまる気がするのだが。
だからその「治療法」も、ただただ普通のことを丁寧にやって行く、という内容になっていr。

つまりどういうことか。
「ADHD」が先天的なものだからといって学校が「この子は障害をもっているから特別学校にいったらいい」とかお父さんお母さんが「この子は障害を持ってるから私たちの育て方が悪かったわけではない」とかいう言い訳として使われているケースがないかどうか。

社会性集団性のスローラーナーと考えることもできるからだ。
子育て環境が、家庭環境が、その子のもっている《ADHD性》を育てた可能性がある。
環境が違えば、もっと《別の神経》が作られていたかもしれない。

適切な関わりができなかった、学べないうちに育った可能性はないか。僕は、あると思う。
僕らが暮らしている世の中の「自然」のチカラはだいぶ弱まってしまったのだろう。自然に、任せて育てることが不安になる時代かもしれない。

遊ぶと多動でなくなる。
多動?

多動かな?と思ったら、あそびの環境を変えてみてもいい。

人間は不思議だ。
そんな不思議の中で、みんな生きている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

同じ診断名でも、まったく違うしくみなものに、

心身症というものがある。
例えば起立生障害、チックもそうだったか?過食、不眠。

不眠症は「不眠である」ことで不眠症と診断される。(睡眠障害の一部だっけ?)
それがただの「夜更かし」ではなく、なにか「心的ストレス」が原因となっていることが明らかにされれば、不眠症となる。
それで朝が起きられないと、「起立生障害」と呼ばれる可能性もある。

そうすると。
「思春期の女の子にはよくある症状ですよ」ということになり。
ストレスになっているもの(学校)から目を逸らさせるような言葉が現れてくる。

診断名に、真実が隠されてしまう。
言葉から真実を読み取るのは、人間だ。

そして読み取りが下手くそなのも、人間だ。

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disorder, disability, disease, 病気にもいろいろある。

一番怖いのは、human disasterであろう。

学習障害LDか、スローラーンなだけか。

そうおもうと、いわゆる偏差値の高い高校、進学校に入るということは、卒業するというのは「君は◯◯ではないね?◯◯でもないね?◯◯でもないよね???よし、合格!」と検品されにいくことを意味するのではないか。と思えてしまう。

そんな気がしてしまった自分の心が、たいそう貧相ではないかと思えてしまった。

As a result, places like school and the workplace can require skills that people with ADHD often do not have (e.g., organisation, time-management, and sustaining attention) which may lead to problems in education and employment, such as underachievement and risk of exclusion and dismissal.
結局、仕事や学校でうまく行かない人たちに目を向けるための、合言葉が、最近になって増えたということ。
その言葉をどう使うかは、人間次第。人次第。

ーーーーーー

その子に「障害」があるのではなく、学校がその子の「障害」になっているのだ。
「障害」とどう付き合うか。その経験は、大人になっても大切な、その子の本当のチカラになる。

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学習障害LDか、スローラーンなだけか。

学習障害児に対する指導について(報告)

文科省の資料だが。
古いなぁ。。。平成11年か。。

で、リンクのページの下の方に書いてある「学習障害の判断・実態把握基準(試案)」をみると

1  校内委員会における実態把握基準と留意事項

(1)  実態把握のための基準

A. 特異な学習困難があること

1 国語又は算数(数学)(以下「国語等」という。)の基礎的能力に著しい遅れがある。

・現在及び過去の学習の記録等から、国語等の評価の観点の中に、著しい遅れを示すものが1以上あることを確認する。この場合、著しい遅れとは、児童生徒の学年に応じ1~2学年以上の遅れがあることを言う。

小学校2,3年 1学年以上の遅れ
小4年以上又は中学 2学年以上の遅れ

なお、国語等について標準的な学力検査の結果があれば、それにより確認する。
・聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のいずれかに著しい遅れがあることを、学業成績、日頃の授業態度、提出作品、ノートの記述、保護者から聞いた生活の状況等、その判断の根拠となった資料等により確認する。

2 全般的な知的発達に遅れがない。

・知能検査等で全般的な知的発達の遅れがないこと、あるいは現在及び過去の学習の記録から、国語、算数(数学)、理科、社会、生活(小1及び小2)、外国語(中学)の教科の評価の観点で、学年相当の普通程度の能力を示すものが1以上あることを確認する。

ーーーーー

気が付いたこと

1:うん、まず、高校生の「学習障害」は考えられていない。
2:このページは「特別支援教育」の項目に含まれている。(ページの上に「トップ > 教育 > 特別支援教育 > 特別支援教育について > 資料(データ、通知、答申、報告書等) > 学習障害児に対する指導について(報告)」と書いてある)
3:中学生で二学年以上の遅れを持っている人は、半数いると思われる。(富山県の偏差値50とは、そういう意味だと僕は思っている)だから、半数は学習障害?

4:え?「二学年以上の遅れ」っていうことは、これは相対評価(テストの点数)ではなく絶対評価(指導要領の内容)ですね?いや、具体的に学校はどう評価しているのでしょうか。。。

2について。
学習障害の子は、特別支援学校に行けということでしょうか。

4について。
実際、「遅れている」「小学校サバイバル中」の子は療育センターで診断を受けるように言われたそうだ。
学校は評価のしくみを変えたり自分でちゃんと子どもをみる余力がのこっていない。

学習障害というものと、スローラーナーの違いが僕にはまだわからない。
ひとりひとり苦手得意な認知形態があるだけで、それで何が障害になるかわからない。

診断名について、考えてみました。
診断名とは何か。Human Disaster

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一緒にやってみるだけで大人だって子どもだって、ドキドキできる。

託児所での話。

お兄ちゃんと弟。

最近弟は、結構言葉でいろいろ答えてくれたり「これしたいあれしたい」を喋るようになった。
(昨日何があったとか、「自分から」喋ることはまだない)

その子がお兄ちゃんについて行って滑り台で遊ぼうとするが、「こわい」といって滑れない。
「じゃ、先生と一緒にすべりなよ」と保育士の先生。
「んー、僕大きすぎて滑り台に入れないなあ」と僕。
「じゃぁ僕と一緒に滑る?」とお兄ちゃん。
「うん!」と弟。

お兄ちゃんに後ろからしがみつくようにして、滑った!
むっちゃ笑顔^^

ーーーーーーーーーーーーーーー

はじめてのこと、ちょっと怖いこと、
不安なこと。一緒にやってくれる人がいるだけで、挑戦して、できるようになることがある。
大きくなるごとに学校で閉ざされてしまった心(隠れてしまったその子のなかに住んでいる子の家)の扉を叩くことと違って、小さい時の純粋な挑戦はとても単純に、素直に、受け入れられる。楽しめる。

だから子供は天才でなんでもできるといわれている。
挑戦する時間を与えられているからだ。

大人だって同じだ。

子どもと一緒にやるだけで、大人だって挑戦ができるし、新しいことを始められるし、不安なことも一緒にやってみることができる。
子どもに大人が教わる。

世の中にはいろんな大人の組織があるが、子どもっぽい、創造的な、自由な、そしてあそびのルールがしっかりしている組織(たとえばグーグル?)には活力があるし、人が集まる(そんな仕組みをつくってくれている気がする)。子どもっぽい、子どもらしさをもっている大人は、大人のあそびのリーダーになって、社会を作って行く。変えて行く。

「ブラック」企業でお金以外に通勤する価値を見出せないお父さん、お母さん。お金が不安。
「ブラック」学校で卒業資格(と部活と体育祭文化祭と友達とのおしゃべり)以外に通学する価値を見出せない子ども。卒業資格がないと不安。

大人も子どもも同じ場所にいる。
一緒にあそんでみたら、どうなるだろう。

一緒にあそべる人と出会えた人は、しあわせだ。
大切な仲間だ。

習い事ばかり、課題ばかり、残業ばかりで、挑戦できなくなっていないだろうか?

学ぶ価値は、働く価値は、そこにあるんだろうか?

好きなことを仕事にする?の意味。『三太郎の日記』

大人は、大人としての課題にちゃんと取り組めているだろうか?
学校と同じで、ただやらされているだけなのだろうか?
「ちゃんと」生きることは難しい。心を大事にすることは難しい。
そんな世の中になっている。

子どもは子どもでしっかりしていて、しあわせになるチカラをもっている。
お母さんはお母さんで、子どもからしあわせを分けてもらいながら、子どもから自立して、しあわせになれるだろうか。
だって、子どもは大きくなるんだもの。

ーーーーーーーーーーーー

そのあと、「こんどはお兄ちゃんが後ろで滑ってみたら?」ということになり、弟が前にいく。
お兄ちゃんが後ろにきて、逆に弟を抱きかかえようとしたら、

先に、弟が一人で滑っちゃった!

むっちゃ笑顔^^

オトノネひろげるシェアぼたん