戦争をさせられる子どもたち(学校という経験・受験という経験)

第二次世界大戦、というか太平洋戦争が終わるためにはたった一人の人間の声が必要だった。
アメリカは日本に核爆弾を二回落とした。「もうやめようぜ」と??

それでも日本は戦い続けた。
戦争は終わるのだ、と、気がついていた人がいたかもしれない。
けれど、最終的に、戦争が終わるには、たった一人の人間の声が必要だった。

もしその声がなかったら、今でも戦争を続けていたかもしれない。

一体、子どもたちの戦争は、いつ終わるんだろう。
課題・宿題という名の訓練。定期テストという名の実践訓練(三日三晩くらい、眠らない場合もあるだろう)。
精神的な暴力を振るう教師(体罰は禁止されているが呼び出しと指導という名の叱責は禁止されていない)。
そして、受験という名の、戦争。

僕が声を出していってみよう。
「もう、戦争はおわったよ」

えーっと、今度、ラジオ局にお金払って、流してもらおうかな笑

大学受験は、戦争ではない。
けど、「生きて帰ってくればよし」と言ってもいいほど、本当に「戦争だ」と思えてしまうほど、子供にとっては、過酷で残酷な経験になりうる。心を、殺してしまうかもしれないのだから。

心を閉ざして「戦争トラウマ」に陥る子どもも、たくさんいるだろう。

そんな戦場にいて、笑いながら暮らしている子どもたちがいる。
5年後に、10年後に、この子たちが聞く「時代のヒット曲」はどうなっているんだろう。
欅坂(けやきざか)46の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)

学校を、こうして、戦争に喩えてしまえるほど、泣いている子どもたちに、泣けずに、笑っている子どもたちに僕は出会って来た。

なんでだろうね??

素敵な「学校」もたくさんあるとおもうよ。
戦争のない国へ、行ってもいいんです。
日本では、現在、住む場所も、仕事も、学校も、選べる時代です。

「やーめっぴ!」

といって、やめれば、それで終わるのですが。
やっぱり、「みんなと一緒」じゃないと怖いですか?

怖い、かもしれません。
だから、戦争は終わらないのかも、わかりません。

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ジョンレノンのWar Is Overが頭の中に、流れて来たのは僕だけですか?

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日本はかつて、戦争による特需で潤った。それが高度経済成長期という現象を生み出すチカラとなり、8050問題の80の人が生まれた。
その後、景気は後退し、今、再び「小学英語」「プログラミング」「センター試験に変わる英語の検定試験」「ダンス・武道(あれ?結局入ったっけ?結構昔の話だよね)」によって特需を得ようとしているのかもしれない。僕の、読みが、深いだけか。もはや妄想の領域だ!頭おかしくなってきたから寝ます。子ども同士を争わせる戦いに、子どもを送り込むのは、誰でしょうか?

いやまぁ、そんなの屁でもないぜ!っていう子も、もちろんいるとおもうんですが。
早く戦争を終わらせるために、必死でペンを握る子もいます。

そんな大変な、受験とい経験を、学校という試練を乗り越えながら、通り過ぎていきながら、学べることを、学んで行って欲しいと思います。

オトノネひろげるシェアぼたん

「稽古」と「習い事」の違いと「労働」

かつて、芸能にたづさわる人たちは小さい時から「芸」を学んだ。
それは名実ともに、「稽古」だった。

芸能一家に生まれた運命と、芸能の世界に浸る環境とが揃い、芸能の道をまっすぐに進んだ。
芸能を学ぶことは、暮らしであり、息を吸うように当たり前のことだった。
ひとつのことを、繰り返した。
毎日、毎日。
だからこそ、メタスキル が育っていった。
寝る間を惜しんで稽古をしたこともあるかもしれない。
稽古をうけながらうとうとしていたことがあったかもしれない。

毎日、実戦にさらされ、フィードバックをもらい、鍛えていった。
練習、試行錯誤、知恵の拝借、実戦、フィードバック、実力があればすぐに「仕事」になる。
「だれだ、あの稚児は?」それが世阿弥のパターンだった。

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稽古は、習い事とは違うとおもう。
習い事は、「稽古ごっこ」に近い。
習い事は、そもそもが、戦後に、ブルジョワ階級が始めた「西洋ゴッコ」だ。とおもえばいい。

稽古は、やらないと、死んでしまうものだ。と大げさにいってもいいかもしれない。
今は「習い事」(というか学童保育の代わり)として生き残っているそろばんも、昔は「稽古」に近かった。
商人の子が、習いに来ていた。それは生業に直結する。
生きるために必要な、技術を獲得すること。それが稽古だ。

数多くの習い事を分単位でこなしていくのとはやっぱりなにか違う気がする。
もしいろいろやるなら、習い事は「あそび」と割り切るといい。
大丈夫だ。「あそび」をしながら、子どもはたくさんのことを学ぶから。

「あそばせる」のは遊びだろうか?
「あそび」にどれだけお金を使うか?
ちゃんと「あそんでいる」だろうか?

習い事をたくさんやることが悪いことなのではない。
習慣的に「自然」となるためには、それなりの「環境」が必要だということ。
まずは寝ようぜ!

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蛇足だが。

部活は、「稽古」でもなく、趣味やあそびの「習い事」でもないと僕はおもっている。
部活という「学校」にいっている子もいるし、部活という「ブラック企業」に勤めている子もいる。

いやいや、柔道部とか剣道部なら、趣味とか遊びではない、立派に心身を鍛える「稽古」だろう。
といえるかもしれない。

なるほど、「習い事」というには、真剣さが違うかもしれない。
だけど僕は、それは「本気のあそび」くらいでいいと思っている。

「あそび」という言葉の意味は、それほど、広いのです。

「習い事」は、心を豊かにするものであって、技術や機能を身につけることが目的であってはならない。と、僕はおもうのです。

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そうそう、保育園が、イベント的にお茶の先生とか体操の先生とか英語の先生呼びますね。
あれも、お母さんにとってはかなり「イイ」ようにみえますが。
子供にとっては、はた迷惑な可能性があります。
「今日は、何するの?」と、受け身の姿勢になるんですよね。これが。

月に一回、英語教師を保育所に入れるか、子どもの日常的なあそびのプロセスを守るか、はっきりさせたらいいとおもうんだけどなー
子供も、頭がごちゃごちゃしているかもしれない。

「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金と「非国民!」という声

賢いお母さんの「習い事」作戦。

習い事を「させられ続けた」子どもの心

大人の遊び心その1

大人の遊び心その2

ここまで本気であそべる?これは「習える」ことかどうか。。。

オトノネひろげるシェアぼたん

「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。

えっと確かこの本だったな。
うん、そうそう。
子どもの「遊び」は魔法の授業

どういうことかと言ったら、小さいうちからなんでもやらせすぎると、頭がパンクして整理ができなくて結局何にもならないという考えかた。実際の研究データを見つけることはできなかったが。

簡単なことで、子どもがあれもこれもやりすぎて「課題でパンクしている」のと同じ状態になっていないか!?という話。
子どもの睡眠時間が減っている。
睡眠時間が減ると何が起きるか。
目に見えないところでがんばっている脳みそが疲れる。
無意識に働いている神経細胞くんたちが絡まる、シナプスくんたちが「え?俺どこに何送ったらいいの?」みたいな状況。

かつて雇われていた塾では、小学生が英語をならっていた。たまたまその日僕がその子をみることになって、静かに話をしていたら、その子の目がトロンとしてきた。はじめはただ「僕の話がつまらないだけなのかな」とおもったが、そのうち、寝た。その子の担当の先生は明るい、喋り捲る、楽しませる先生だ。だからその子はその先生のリズムについていっていたわけで。本当は、その子はとても疲れていたのだ。座ったまま眠る子どもって…幼児ならわかるけどさ。そりゃ分刻みでお稽古事をしていく毎日、疲れるに決まっている。小学生からすでに神経をすり減らすほど、全体的にブラックになった(お金のために子供の神経をすりへらすのが塾か?研ぎ澄ますならいいんだけどね。すり減らしちゃ、だめでしょ笑)。

まさにこれ、でしょう。。。

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大人になってから「その道のプロ」になる人がいるように、子ども時代はメタスキルを学ぶことが大切だ。と僕はおもう。
メタスキル さえあれば、大人になってからの可能性が広がる。
逆にただのスキルだけを身につけようとして企業戦士よろしく、「習い事戦士」モードに入った子どもは、大人になったらどうなるのか?
因果関係はわからないが、それが虐待であったり犯罪につながっていると言ってもおかしくはない。
子どもには子どもの発達の課題がある。

笑って!

「できる」ことを誇るまえに。

褒められることに依存している子は、大人になってから、潰れてしまわないだろうか。

潰れてしまった時に、助けてくれる人と出会える子は、しあわせだ。
じっくりと潰れていられる時間がある子は、しあわせだ。

多くの人は、立ち直る時間もないほど、「無理!」を無理だと思えなくなるほど、働く。
貯金ができたら、定期的に、潰れてみるのもいいのかもしれない(バリ島では、文化的に、年に一度、バリ島の全員が、潰れる日がある)。

けど、大人も子供も、休日がない。
休んだら「非国民!」と言われるのが、今でも怖いのだ。

それが日本であって、日本らしい、近代性である。
で、そろそろ次の時代にいこうかなという人のためのオトノネです。

海軍のポスターで取り上げられた「月月火水木金金」
月月火水木金金
子どもも大人も月月火水木金金月月火水木金金

習い事を「させている」お母さん、大丈夫?何か勘違いしていないですか?
「稽古」と「習い事」

賢いお母さんの「習い事」作戦。

習い事を「させられ続けた」子どもの心

オトノネひろげるシェアぼたん

オトノネのしていることを学問的に理解しようとすると大変、難しくなる。

だからもう不思議の国のおとのねということにしてください。

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おとのねは

現代物理学の不確定性
生態学と文化の多様性
建築学と演劇の身体性

哲学の反省性と寛容性
科学の合理性と論理性
芸術の根源性と抽象性

そして心理学の統合性に基づいた関わり合いをしていきます。
それが教育・保育・療育を超えた人間性につながると考えています。
漢字が多くて意味不明ですね。おとのねさんは真面目だということです。

多くのお母さんたちは「塾」に現代物理学の原則に反する「確実性」を求めていると思いますが。
オトノネはそのようなものは出せません。合格実績も残念ながら、出しません。
他人の合格実績よりも大切なこと(オトノネの合格実績ポリシー)

科学的な「合理性(効率性)」ならいくらでも出せますが。

だからまず最初に、当然ながら、効率を求めるなら、まず非効率な課題をやめようぜ!ということができますが、それは心理学の「統合性」に反するケースがとても多いです。
つまるところもうがんじがらめで課題に心が囚われているところで、(学校の先生のプレッシャーが引き起こした心身症・学校恐怖症で「学習性無気力」で)課題をやらない、という選択肢を選べない子が多い。
それで、無理やり「やらせない」ようにして心が崩れてしまっても困るなぁと頭をかかえるのがおとのねさんです。
やってもいいんだけどさぁ、時間は限られているのよ?両方やってみる?やってみてもいいよ?けどルールを決めよ?

という感じ。

課題やテストをうまいとこマネージしないと「本気」が出せないくらい、課題が恐ろしいくらい出るのも事実。
学校が足枷になっている人がたくさんいる。(サーカスの像の話を、聞いたことはないですか?本当は、囚われていないのに、小さい時に、鎖を繋いでおくと、「学習性無気力」によって、大きくなってから、逃げられるはずなのに、「どーせ逃げられないんだろー!」といって、ちっぽけな杭を引き抜けなくなっているという話)

絶対に合格したい大学がある。
けどいくらやっても成績が上がらない。
なんでうまくいかないかわからない。
すでにムリをして心と体が疲れ切ってしまった。
けどしっかり将来を見据えて高校生活を送りたい。
受験勉強はもうしたくない。
小論文、AO入試で大学に行きたい。
けど何をしたらいいかわからない。
世の中がつまらない。
おもしろいことないの?
子どもが勉強しない。
子どもは平気そうだが私(お父さんやお母さん)が心配をしている。
子どもが不登校になった。
なにをどうしていいかわからない。
学校のやり方が変だとおもう。
新しい時代に向けてその子らしく学んでいってほしい。
けどそんな場所、どこにもなさそうだ。

そんな「アンビバレント」な人のためのおとのねです。
欅坂(けやきざか)46の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)

オトノネひろげるシェアぼたん

山田さんとあそぶおとのねさん

オトノネの新しい場所を山田さんに見てもらった。
いろいろと手伝ってもらえそうだ。というか、オトノネの主砲か笑ありがたい。
(勝手に主砲にしてごめんなさい。打ち上げたい時にドカンと打ちにきてください笑ドカンドカンと笑)

で、最近山田さんが開発した吹き矢を持って来てくれた。
(そもそも山田さんが誰か説明しないのは愛嬌です。スーパーお父さんです。)

山田さんの子ども(小学1年生)に吹いてもらった。

むちゃくちゃ飛ぶ。
物作りが好きな山田さん。
つつの太さを変え、長さを変え、吹き矢の形状を変え、素材を変え、一番うまくいく吹き矢をつくった。
(勉強も同じですよね)

動画がこちら…(そのうちアップします)

なぜ、筒が長いと、出てくる「矢」が早くなるのか。
僕には一瞬ではわからなかった。
山田さんは言った。
「空気抵抗を受けずに加速できるんですよ」
なるほど!まさかここでそんな話がでるとは!

空気を味方につける、空気を勉強できる吹き矢。
矢も円錐形であることが大切、そして使用に耐えるだけの強度と軽さが必要。
なるほど…

ちなみに吹き矢で「目でものを追う」チカラもつく。
ゲームの画面の中だけでうろうろしていたら、マジで世界みれなくなりますよ。

マトに当てるだけのゲームが、飛ばしたものを探すというゲームになった時、さらに「視野を広くして探す」というチカラも加えられた。

遊びは、発展する。

もちろんこの遊びは「言語遅滞」の子供達が児童発達支援事業所で「やらされる」口腔トレーニングのあそびバージョンだ。友達と競い合いながら、あそびながら、的を倒す、的に当てるという達成感(ゲーム的な要素)が子どもを自発的に成長させる。

そのほか、目白押し!
遊びってすげー

例えば。、小学生の時に多くの人が悩むという「単位」の計算がある。
山田さんは、こういうことを喋りながら、暮らしているらしい。
「この長さはなんて単位であらわすといいかな?」
そう言って机の一辺を指し示して、子どもが例えば「ミリメートル!」というと「うーん、それは大変そうだな!笑」といった具合だ。

生活の中に学びがある。
学校教育ではない家庭教育で、学校教育の教育課程をはるかに超えた学びをやっている。
ただ遊んでいるだけである。
あそびながら、言葉を尽くしているだけである(もちろん遊んでいる、つくっているだけでも「経験」は蓄積され、役立つ)。

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2017 とある私立中学入試問題

今まで算数を学んできたなかで実生活において算数の考え方が生かされて感動したり、面白いと感じた出来事について簡潔に説明しなさい。

この子は、合格しそうだ笑

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オトノネひろげるシェアぼたん

障害という言葉が生まれてくる場所

障害はなくならないかもしれない、けど、仲間として一緒に暮らす人との出会いがあれば、育っていくものがある。
それはいわゆる「障害児」も「健常児」も同じだ。
(今では「非定型発達児」「定型発達児」と呼ばれるようになった。僕もそのうち完全に切り替えよう)

例えば僕は韓国に行くときにアニョハセヨも知らなかった。
そこで3年間、劇団のみんなと一緒に暮らした。
ある日僕が聞いた「僕の韓国語、不自然に聞こえるんですか?」
そこでネ・チングは答えた。「コミュニケーションができている方が大事でしょ?すごいことだよ。君が今僕らと話をして、ご飯を食べて、笑えていることは」

ないものを障害ということもできる。
相手がそれを「障害」と思っていなければ障害ではない。と考えたら少しは楽にならないだろうか。
(そういう人と巡り会えたときに、生まれるものもあるだろう)

それはニュートン的に、絶対的にそこにある「障害」ではない。
相対的で、振り向くまで歩かないかわからないような、観測不可能な障害のように、僕には思える。

もし学校で困っている子がいたら、先生にこう聞いてみるのはどうだろう?
「先生は、ただの一度でも、うちの子と笑い合ったことがありますか?」
ない、と答えたら、もうその学校からは、少なくともその先生からは離れた方がいいのかもしれない。
その先生は、学校の余裕のなさに、先生の課題の海で溺れているのかもしれない。(学校の課題に先生も苦しめられている)

その学校は、「障害」が生まれる場所かもしれない。
発達障害を生み出すのは「人」であって、「場所」であって、その子自身ではない。
だから、場所を選べばいい。障害がない場所を。
その場所でこそ、生まれてくる、育てられる種がある。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。
忙しない社会で、生きる場所を探す、一緒に生きる人と出会うというごく当たり前のことを、
小さい時からやっていく、それだけのことだ、と言ってしまえば、残酷だろうか。

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学校で先生たちは生徒と、生徒は先生たちとコミュニケーションをしているだろうか。
非言語でも、言語でも。
そういうゆとりが、学校にあるだろうか。
ゆとりは「教育」のために必要ではない。コミュニケーションのために、「人間」のために絶対必要なのだ。
そういう先生と出会い、時間と、場所を見つけに行ける子はしあわせだ。
学校の中にも、休める場所はある。
先生のための学校ではない。
生徒のために学校がある。
だから、どんどん休んでもいい。
(ただしそれは、学校の先生の“機嫌”をそこないかねないことは、知っておいたほうがいい)

さて、疑問がでてきた。
先天的に笑うチカラがない、「笑うことのできない」人間が、いるのかどうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

胸に突き刺さる子供の言葉

ふと思いついたので書き留めておく。

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場面:三者面談、学校の教室。
目の前に教師がいて、母と子が隣同士で座っている。

教師「この子の成績だと、お子さんがこの学校に入るのは難しいですね。ご家庭でのご指導をお願いいたします。この成績だと、お子さんの将来が心配です」
お母さん「わかりました。この成績だと、私もこの子の将来が不安で、不安で。。。いい学校に入れてあげて、この子の将来の選択肢を広げてあげたいんです。この子のしあわせが、私のしあわせなんです…ねぇ、◯◯ちゃん?がんばろうね?」

◯◯ちゃん「私は今、しあわせよ。お母さんはしあわせじゃないの?」

オトノネひろげるシェアぼたん

保育園もサバイバルな件(オトノネさん唖然)ー「あそび」という名の労働

聞く話では聞いていたが。。。

わかっちゃいたけど…

実際、現場の人の話を聞くと、やはり唖然というか、呆然というか。
そんな世の中になりました。

保育園の時から「させる」ことがたくさんあるらしい。
(いやいや、おしっこの自立とか、椅子に座ってご飯たべるとかそういうレベルではありません)
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

いわゆる、行事のための掲示物。
お母さんに見せるために、、、、つくる、、、、
6月はカエル。
7月はヒマワリ?


「ねぇ、これつくったらあそんでいいの?」という子ども。

保育士は「え?これは遊びじゃなかったの?」と驚いたという。

「次はなにをするの?」という子ども。
え?「あそばされてた」の?
大人のあそびにつきあってあげてるの?

大人という動くおもちゃがいなかったら遊べない子、「深く」取り組めない子がいる。

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運動会、発表会、月一で入ってくる習い事や英語!は、実は子どもはそこまでうれしくない(まるで定期テストのよう)と僕はおもうのだが。
記憶には残るかもしれないが、、、

お母さんの思い出作り、他の園のお母さんとの話題のために、「行事」をしているようなものだ。
もしそれが、「子どもたちがやりたくてやっているもの」でないとしたら。
保育士の先生が「手持ち無沙汰」でないように、「行事」をしているようなものだ。
(若い先生の仕事を増やして笑っているワルイ先生がいるのかもしれない。まるで、小学校で、やたらバツをつけたがる先生のように。実際に、そういう先生、いますよ。)

お母さん、保育士のみなさんに、行事よりも、日常の保育に力を注いでもらうのはいかがでしょうか。
一部の保育園は、行事のためにブラック化しているらしいことが、SNSで情報を集めた僕の印象です。
保育士への負担は、子どもにも影響します。もちろん。
保育園の園長さん、保育へのプライドをもって、真心をもって、保育園のしくみを見直すのも、ひとつでは?

「行事」の文化は、伝統は、いつから、どこから始まったのか。
なぜ「保育園でそれをしなくてはならなく」なったのか。
それは本当に、大切なことなのか。

行事のおかげで、保育士の先生たちが子どもに注げるエネルギーを、削いでしまっていないか。
(子どもを喜ばせるなら、日々の保育で十二分ではないのか)

「毎月の季節」「日本の伝統」を経験するための行事が、学校になれば「定期テスト」という名前になります。
学校も定期テストのおかげで、先生たちは大切なことができていないのです。
声が聞こえるでしょう?「テストが終わったら、あそぼう!」
自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

同じことが、保育園でも起きていませんか?
それはもしかしたら、私の呼んでいる「保育」とは違うものなのかもしれませんが。

子どもに、「教えてはいけないこと」を教えていませんか?

ーーーー

その点、運動会を民営化(笑)した麹町の中学校はよくやっているとおもう。
また伝統的に、時期になると勝手に子供達が「発表会の準備を始める」保育園がある。
ある時期になると、年長さんが、遊ぶ暇もなく(?)あそびながら発表会の準備をしているのを、みれる環境を作っているのだ(年齢を超えて別のクラスの部屋に言ってもイイしくみができている。そしてこの保育園には、美術の時間がある!)

これは、清々しい。

小学校もサバイバルな件。

ーーーーーーー

お昼寝の時間、イベント、「全部食べるまで椅子から離れられない」信じられないようなことが、当たり前のように保育園で起きています。どうか、心を大事に。新しい時代を生きる子どもたちが、笑っていられるように。今まで当たり前のこと、それはもう役目を果たしたことかもしれません。「全部食べなきゃだめ」は戦時中、食糧難の時の話。保育園のイベントは、幼稚園の「キラキラ」しているのを、専業主婦のお母さんたちに見せていた(先進性をアピールしていた)時代の話。時代を繰り返そうとしている大人に育てられ、時代に揉まれる子どもたちの姿を、僕はあまりみたくありません。

お昼ご飯の時間ひとつにしても、「しくみ」は様々です。
ある保育所では、異年齢混合で、子どもたちが自分たちで、年長が年少者に食べ物を渡していく。嫌いなもの、少なくしてほしいもの、今日は少量で、といった交渉も言葉で子ども同士がやる。ある保育所では、配給は調理師さんがする(保育士はその時間、別のことができる)、もちろん、交渉は、調理師さんに子どもが直接する。給食の時間は固定されていない。遊びが早く終わった子は早く食べにいく。場所も決まっていない。その様子を見ながら、「◯◯ちゃん、◯◯ちゃんと仲直りしたねぇ」とかいいながら、子どもの様子をしっかりみる保育士さん。

やるか、やらないか。
ただ、始めればいいだけなのに。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

それができないのも、また人間なのです。
教育者、保育者としては、いかがなものかとおもいますが。

オトノネひろげるシェアぼたん

「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)

「ああすればこうなる」という世界に生きていた。
心がなんなのか、ぼんやりとも、わかっていなかった。

「こうなりたいんでしょ?じゃぁこうしよう」といって、無理をさせていた。
「この子の学力をあげよう。そうしたらこの課題をこうやってやらせて…」ハードルを下げるアプローチは今でも間違っていないとおもうが、やっぱり「やらせる」ことをしていた。

そして、「この方法は、正しいのに、できないのは、生徒がいけないんだ!努力が足りない!」とおもっていた。
同時に「もっといい方法はないのか!?」と「やらせる」ことを研究したり。

行為レベルで言葉を使っていた。
行為レベルで人と関わっていた。
自分に対しても、行為レベルで関わっていた。

いろんな出来事があった。
繰り返してきた。
何度も、人の心を壊してきただろう。
「堕落」を繰り返した。

その度に、浮き上がるたびに、新しい旅を始めた。
「自然」という旅だったり。
「演劇」という旅だったり。
「子ども」という旅だったり。

その中で、「物語」「民謡」「踊り」「芸術家」「カウンセリング」「心理学」「ヨガ」「ストレッチ」「歴史」いろんなことを学んだ。

旅をしながら、周り周り、巡りながら(何度も失敗をしながら)今も、繰り返しながら、ようやく、心を大事にすることを、学び始めている。

人の成長とは、発達とは、すぐにどうこうなるものでもない。
「ああして、こうして、こうする」ということを考えていたらみられなくなる、大切な「今」がある。
そしてその「今」に気がつくためには、いつも誰かの言葉があったし、出来事があったし、何よりもそれらを感じる「時間」があった。

「時間」は、大切にしたい。
焦っても、どうにもならないことがある。

こう言う場合、焦ってもダメだ!もがいたら沈んでいくだけだ!ということを、まずは学んでもいい。
(それを学ぶのが、大学の合格発表の日だったりする。それが模試の結果だったりする。突然やってくる。DVをうけてボロボロになって、何度も試みて、やっぱりダメで、「違う生き方をしよう」という日が、やってくる)

ーーーーーーー

「あー、これからどうなるんだろう…」とおもって友達に話すと
「どうすんのお前笑」とかいう適当な返事や
「おもしろそうだからそのまま行けば?」という何か逆に誇らしくなる返事や(いやもっと役に立つ返事くれよと当時はおもっていた笑)
「小説家になったら?」というちょっと気になる返事がでてきたり。

いくらもがいても、足掻いても、焦っても、わからないときはわからない。
わからないなりに、「違和感」を感じたまま、抱えたまま、明日を迎え続けて来た。

高校中退をした時から、不登校になった時から、いまだに僕は同じ「違和感」を抱えている。
それでもまだわからない。

そのくらい長い、ゆっくりした時間を感じられるようになったのも、「ある出来事」を境目にしてだった。
そういう日がくるらしい。

ーーーーーーー

突然やってくる日を、大切にしたい。
それはいつやってくるかわからない。

オトノネは出来事を起こそうとは思わない。
外ででてきた出来事を心できちんと感じ、フィードバックして、いつやってくるかわからない出来事に備える感じ。
(狙ってその出来事を起こす「導く」ことをまずはやってみるケースももちろんある)

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「仕組まない」ことで生まれる不思議があり、「仕組まない」ことで出会える心がある。
(芸術家は、生まれたもの感じたものを身体化、具現化する仕事であり、生まれたものを大切にしながら育てることをする)

僕はそれを大切にしたい。
(だからオトノネに来た人は困るらしい。「何をしてくれる場所なのかわからない」と)

人には誰しも、発達の段階、人生の曲がりくねった道の上にあり、僕が関われるのはほんのその一部だ。
到底、最後まで道案内することなどできないし、案内できるほど多くの道を知らない。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

だからもし、おとのねさんに会ってみて、話をしてみて、感じてもらって、僕ができる小さなことが、少しでもその人のチカラになると感じてくれたら、お付き合いをしたいとおもう。

例えば。

「◯◯ができない」
「私は◯◯」

という言葉を生み出す心を、僕は感じようとしている。
縛られているものから、少しでも抜け出して、心を自由にして、今置かれている状況の中で、精一杯、チカラを使って先に進んでほしい。
神経は、記憶している。だけど、心は、成長したいとおもっている。
僕自身が、今、そのプロセスの中にいる。

なにしろ、時間がかかるものだ。
定期テスト対策なんて、なんともまぁ、この悠々とした時間に比べたら、小さなことのように僕はおもう。
その小さなことの繰り返しが、人の心をつくるのだろうけれど。(高校生になっても定期テストでピリピリしている。定期テストという呪いだ。)

頭ではわかっていても、やっぱり定期テスト勉強に勤しんでしまわないと心が落ち着かない子もいる。
それでもいい。なにしろ、定期テストは、小さなことだから。

けどそれで大切な「時間」が減ってしまうとしたら、困ってしまうかもしれない。

時間は減るものではないのかもしれない。
ただ悠々として流れているものかもしれない。

もしその「時間」が課題・宿題というバケモノの姿をして牙をむいて、台風のように、終わりのない嵐のように君に襲いかかっているとしたら?
君は呪文を唱えて、「時間」を元の姿に戻してあげるのもいいかもしれない。

本当に大切なことは、本当に大切なものは、内側から、やってくる。
外から与えられるものではない。

もしかしたら、今君の中に生まれた、気持ちが、「大切なこと」を知っているかもしれない。
聞いてみてもいい。その子はきっと悠々とした「時間」の中にいる。

その子の「時間」に入っていけば、きっと、話ができるはずだ。

ーーーーーーーー

Do it! Doit!と英語で書いてみる。
綴りが、Idiot(馬鹿者)と似ているなぁとおもった。

オトノネひろげるシェアぼたん

欅坂(けやきざか)46の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)

いつも思う。

というか思い出した。

何年か前に「それいけ!アンパンマン!」をテレビでみるという幸運に巡り合った。
そして驚いた。

セリフを喋るスピード、場面転換までの速度が「速い」。
速いなんてもんじゃない。
「ない?」

こういう慌ただしい世界になってきた。
慌ただしい世界が、子どもの世界に入ってきた。
SNSに既読をつけたらすぐに返さなきゃいけないという謎のルールがある世界になってきた。
毎日毎日課題宿題に追われることが「ふつう」の世界になってきた。
時間の隙間に子供達が「あわてて」ゲームをする世界になってきた。
(ひまだなぁ、ゲームでもするかぁ、でなく、ゲームに追われているくらい、ゲームするかんじ笑)

ーーーーー

ちなみに俳優、歌手、芸能人、軽い声しか出せない人が増えている。(ストレスでそうなったかどうかは知らない)
本当の声を使える人を見つける、育てるよりも、もっと「お金」になる方法に、経営者たちは気が付いたのだ。
人間のチカラではなく、技術の力、テクノロジーの力。
そうした軽い声に触れていると、それを子どもも真似するだろう。
それが普通になってしまう。

ーーーーーー

そして最近、生徒に教わった曲が、欅坂(けやきざか)46の曲、その子が好きな曲のひとつに「アンビバレント」というものがあるというのでその場で聞いてみた。

まず僕には歌詞が聞き取れない。
映像が変わりすぎて見えない。

僕はやったことがないが、これは、薬物をやって幻覚をみている感じなのかなぁ、と思えるほど、イメージが曖昧で、しかも、曖昧すぎる強烈さがある。曲を最後まで聞いていたが、僕にとっては、まるで、「夢」のように、ただ強烈な「ああ、なんか、みた」というイメージしか、残さなかった。これが、子どもたちに響くというのだから、この時代はなかなか、不思議だとおもう。

いやまぁ、「ボカロ」ではその傾向があるのは知っていたが、「POP」でも同じ現象が起きているとは…
けどこれが子どもたちの世界だ。

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ツイッターでこんなことを書いたのだが、実際、そうらしい。

がんじがらめになってしまい、吹いてくる、肌にやさしく触れるような「風」が感じられなくなっているかもしれない。
そのくらい、感覚が、どこか、今の大人が暮らしてきた子ども時代とは、全く違う世界に今の子どもたちは暮らしている。
つなぎかえようとしても、できない。新しいものが、入ってこない。みえない。こんがらがっている。

頭が、混乱している状態で生きる作戦を、子供達は採用して、子どもたちは生きていくだろう。
上手く生きられなかった子どもが、8050問題を起こしたり、DVをやったり、生活保護の対象になって、日本は教育費にお金をまた出せなくなる。はい。そんな感じ。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

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子どもとはなんだろうか。

子どもたちが生きているこの時代は、どんな時代なんだろうか。

欅坂のこの歌をプロデュースする人は、それを知っている。
そしてそれを売ることで、時代から認められ、時代を加速させる。
商売とは、芸能とは、そういうものだ。大衆文化とは、そういうものだ。
そして少なからず、その時代を生きる人たちのチカラになる。
けどそれで時代が動くわけではない。(ナウシカも、ハルヒも、世界を変えられなかった)

(ちなみにこうやって組織的なアイドル、交代可能でそれを卒業というイベントにすらしてしまう超ビジネスマインド、見上げたものだが…これも学校と同じスタイルだと僕は思う。花を咲かせる人がいる。が、選ばれなかった人は、地下アイドルとして、一体どうやって暮らしているんだろう?)

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答えのない時代で、一人一人が助けを求める音楽が違う。
寄り添ってほしい音楽が違う。
それがこの時代の動く速さを象徴していたとしても。
今、その音楽に守られなかったら、壊れてしまう心がある。
今、その音楽を強く求める心がある。

今その人が必要としている音楽に助けてもらいながら、守られながら、次の一歩を踏み出してみてほしい。
ゆっくりと。力強く。

そのうち、音楽の趣味も変わるかもしれない笑

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ちなみにオトノネさんのブログの記事はどう考えても長いですね。
わかりにくいかもしれませんが。

このブログを最後まで読めるような時間を感じてくれる、時間の深さを感じてくれる人が、オトノネにきてくれたらいいかなとおもっています。
でなければ、せっかく来てくれても、「この塾、何もしてくれない!」と言われて終わってしまう気がする笑

何もしていない、、、、かも笑
正解は「何も《させない》」ですが。
いやいや、してくださいよ、勉強、やりたいだけ。
《したい》気持ちを、本気で、マックスで、応援します。

集中力という言葉がある。
それは、内的な動機付けがないとでてこない。
本気でないと出てこない。

集中力さえあれば、なんでもできる(ちょっと大げさだけど)、そのくらい、オトノネは本気を大切にしています。

「あれやって、次これやって…」
速すぎる速すぎる…

そんな「時間」を少しだけ操作するのがオトノネさんです。

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AKBあたりのヒット曲を時代を追って見ていくと、おもしろいかも。
歌詞とかね。

ねぇ、何をしたいの?
どこに行きたいの?

私だったら何もしたくない。

だそうです。

休んだら?
え?課題?宿題?やらなくてもいいから笑
いやもう、後ろで絡まったり積まれたりしているけやき坂の一人が、君なんだよね。

うまいなぁ。

積まれてないで、でておいでよ笑
もう、絡まりすぎてるのかもだけどね。

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けやきざか

バリ島でも、この時間感覚が変わってきている。

いわゆる、古老達のガムラン音楽は、時間を、創造している。
いわゆる若者たちのガムラン演奏は、時間を、機械的に、埋めようとしている。

どれだけテクニックを使っているか。
どれだけ速く演奏できるか。

新しい伝統が生み出されていくチカラ、若い人たちのチカラがバリ島には溢れている。

それは、ただ、変わって来ているものとして、受け入れるしかないのだろう。

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朝食をつくるに4時間、待つ大人の記事です。
ハプニングを受け入れる

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「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
「名詞」の抽象性
言葉が育てるもの。言葉が傷つけるもの。

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