【8才からの内言】自立心と感情のコントロールと思春期

感情

私たちは、多くの時間を、あるいは大半の時間を、恐怖に囚われたり恋愛に夢中になったりすることなく過ごしている。このような特に情動の介在のない中立的な心の状態でいる時、私たちは、通常、きわめて論理的に思考することができる。私たちは頭が冴えており、他人のいいかげんな主張を比較的簡単に見抜くことができる。しかし、強い情動が私たちの中に沸き起こったり、強力な気分が私たちをのっとったりすると、事情は全く異なってくる。このようなとき、頭(理性)は心(情動)の奴隷となるのだ。(『感情』ディラン・エヴァンズ p.107)

「だけど!だけど!」頭ではわかっているけれど、不安、恐怖で心が動けなくなっていることがある。
当たり前にやってきたこと、今までにつくった「価値観」、もしくは、発達の段階で「その時は役に立ってくれたけど、成長した今となっては、足を引っ張っているもの」がある。

「やらされ」続けた経験は神経回路に組み込まれてしまう。
せっかく発達した「内言(思考に使われる心的言語)」の語りかけに対して、心が反応できなくなってしまう。
課題をしないと、意味不明な進研模試をうけないと呼び出されてねちねちやられる経験を続けていると、学校の奴隷になってしまう。
自分の本当のチカラを、フルに使えているだろうか。

神経は記憶する。
体は記憶する。

自立心とは、このような心の拘束状態から自由になることで育てられるのであって、「させられる」ことに埋め尽くされた言語環境では育たない。

佐藤学という有名な先生の話を聞いた時に「経験的に、内言が発露するのは小学3年生から」ということを学んだ。
年齢でいうと8才から9才であり、オトノネ的な「思春期」の始まりと被っている。


『学力では測れない非認知能力が子どもをのばす』中山芳一 p71より

思春期は、生理的な生殖機能の発達だけではなく、言語的な、精神的な自立の時期だと、おとのねさんはおもっています。
思春期は、自立のために、内言を育て、個別化にむけて選択してゆく、他の動物にはない、人間的なプロセスである。

小学生の高学年になるころには「させて」いた習い事を全部やめてみて、本人の気持ちを確認することをオススメするおとのねさんにとって、この時期が「自己対話」が可能になる時期だという話は、ありがたかった。

(蛇足ではあるが、とある保育園の保育士の先生から「9才までは、もっとお母さんに、子どもを抱っこしてほしい」という話を聞いた。9歳はギャングエイジが始まる時期であり、まだ自立以前、お母さんとのふれあいが必要だ、という意味だとおもいます)

ーーーーーー

感情のコントロール、育ちの中で得られた感情の癖、心の癖は、いたしかたなく生まれる。
だが、そのせいで内言が育たない、自己対話ができない、自分の力で自分を守る意志が働かないのでは、ずっとコドモのままになってしまうかもしれない。「通過儀礼」がなくなった現代で、これに変わる「儀式」が「受験」であるようだが、一人で乗り切るには辛すぎることもあるだろう。やっぱり助けてもらわないとなかなか乗り越えられない困難がある。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。

ーーーーーー

自立した一人の人間として、助けてくれる人と出会えた人は、しあわせだ。

そして、「記憶された感情」が消えた時に、準備ができたときに、「忘れた時」に、新しい人との出会いがある、というのも、不思議と、また事実であるようにも思える。時間を、悠々と燃えている命を、プロセスに任せるという態度も、大切かもしれない。

それは、新しい「ファンタジー」、新しい「物語」を語り始める時だと、僕はおもっている。

ーーーーーーーー

知能指数(IQ)は変化するのか?一生変わらないのか?

IQは人によって異なります。

IQが高い人もいれば低い人もいます。

ではIQの違いは遺伝なのか環境なのか?
答えは両方と言われています。

生まれ持ったものと育ってきた環境の両方が人のIQに影響します。

また、時期によってIQの意味合いは異なってきます。

一般的に、幼児期のIQというのは変動しやすいものです。

TOEICなど様々なテストを開発しているアメリカの機関、エデュケーショナル・テスティング・サービスに所属しているロナルド・ロック氏によると、

IQをより正確に出したいなら小学校3年生、早くても2年生以降と述べています。

つまり個人のIQの値が安定してくるのは9歳前後であることが予想できます。

ここでも、8歳がひとつの区切りになっています。

幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

オトノネひろげるシェアぼたん

佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

先日、富山大学附属特別支援学校でたまたま佐藤学という有名な先生の話を聞く機会に恵まれた。
いるんだね!こういう人!というか、友達になりたいとおもった。
「学びの共同体」という言葉で、理想の教育の姿を説明してくれた。

むかーしっから、やっているようです。
学びの共同体研究会

石川県金沢市立紫錦台中学校も参加しているらしい。
こちらが金沢市立紫錦台中学校のHPです!
富山県で「学びの共同体」を実施している場所は、みつからなかった…

ーーーーーーーーーーー
メモにとったもの。

学ぶことは、しあわせなことだ。
一人で学ぶことはできない。学びは、社会的なものであって、孤立していたらできない。
人間の大脳新皮質は他者との協同により発達する。

ペア、グループ、コの字型で向かい合うのが基本。

小学3年生にならないと、内言ができない。考えることができない。(経験的な法則)
だから小学1、2年生はペア。それ以降は、3人、4人にする。

学びは既知の世界から未知の世界への旅であり、新しい世界、新しい他者、新しい自己との出会いと対話である。
学びは個人的活動ではなく社会的活動であり、自然的過程(能力や技術の形式)ではなく、文化的過程(意味と関係の構築)である。

人間の学びはコピー(模倣)ではなく、再創造
人間の学びはコミュニケーションによる意味の再構成(社会的文化的実践)

学びを対象世界(テキスト)との対話、他者との対話、自己との対話の三つの対話的実践。
学びは認知的実践(世界づくり)であり、対人的実践(仲間づくり)であり、実存的実践(自分づくり)である。

人間の学びは、ほとんど短期記憶にしかならない。
人間は学び続けないといけない。
動物は生まれてからすぐ、立ち上がる。模倣のプロ。
人間は、模倣する力が動物より弱い。短期記憶にしかならない。

一歳になるまでに、一度シナプスが削ぎ落とされる。軸索を残して、消える。
1歳になったら、シナプスがズバーと出てくる。そうすると、言語が生まれる。

シナプスのつながり、すなわち関係の構築。

1”5”20
意味を、共同で見つける時、それが長期的な記憶、知恵になる。

東京オリンピックのときには、空港が無人化する。
35%が人工知能で賄われるらしいよ。

創造・探究・共同
今のところできないこと。。

もう、今までの教育は役に立たない。
理解中心から探究中心へ

「わからないこと」を恥じるのでなく、「探そうという気がないこと」を恥じ得る時代。

140年前に成立した一斉授業

世界からは30年前に消えている一斉授業
安い単純労働者をつくるシステム。単純労働をする?

エリートはコの字のテーブルで育つ。ハーバード大学の講義室(黒板に全ての机が向かっている教室)は一つだけ。

コピーで済むような授業はいらない。

経済が発達している国はアクティブラーニングをやっている。30年前に

30年前、TOP30のうち21社が日本
今、TOP30のうちで、ゼロ。

この30年間で変わった。

学ぶということが、即幸福である。

人間は7つの領域に分かれている。
Howard Gardner
あらゆる能力を持った人はいない。
なんの能力ももたない人もいない。
孤立して生きてはいけない。
一人で生きようとしてはいけない。

人との関係の中で、多元的に見なくてはいけない。
抜群の能力がある。

デザインはビジョンによって
プランは目標によって生まれるもの。

建築家はビジョンを見る。
デザインは生かそうとする。

目標思考の仕事workと労働labor
創造的な時間。activityはビジョン、デザインの世界。
文化的な意味と、社会的な関係を想像する。

学ぶ権利の実現。

ーーーーーー

こちらは

富山市の個別×子別指導学習塾オトノネ堀川教室

の宣伝です!クリックするとHPがでてきます( ˶˙ᵕ˙˶ )

富山市の個別指導塾オトノネ堀川教室

ーーーーーー

「待つこと」「見守ること」(谷川俊太郎、すきすき、きゅっ、好き好き、ちゅっ)子どもを受け入れられるか。
「させること」ではない。ここもおとのねだ。
おkどもへの信頼、子どもを尊敬する。これもオトノネだ。オトノネはこれを「自立している」と表現している。
学びの共同体は、リスペクトの共同体だ。そして、ケアの共同体

特別支援学校っで主流になっている「行動療法」は研究者が論文を書きやすいから。
「させる」ことで条件付けをする。それは「発達(心)」ではない。
行動レベルの導きだ。

思考、学習、内言。
外言が先。だから内言ができない子がたくさんいる。
対話の相手がいることで、モデルを得ることで、内言できる。
経験的に小学3年生。4人組で(人の話がきける?)
小学1、2年生は「考えることができない」まだ内言が使えない。無理無理!ペア。

「待てない」手を出す口を出す。がダメだ。
教師の仕事〈聴く・(子どもと子どもを)つなぐ・もどす(もう一回)〉
「だれだれくんの言ったこと、どうおもう?」

子どもが、学びの主人公だというのが基本。
いい教師は〈目と耳〉で仕事をする。
子どものテンポはゆっくり。教師が先に行かないで、待つこと。

ある意味で、戦国時代、三国志時代の武将のようである。

共有の学び:ほぼ全ての子どもたちが達成できるレベル
挑戦的な学び:三分の一の子どもたちの達成を期待する、つまり三分の2の生徒が「できない」課題を与える。
難しい問題だからこそ、子どもたちは大好き。飛びついてくる。
基礎を丁寧、丁寧に、積み上げるというやり方ではない。積み上げずに、引き上げる。
(そんなん無理無理!というものを出してみると、一生懸命に挑戦する子がいる)

——-

オトノネではメタスキルと呼ぶ「コミュニケーション能力」
創造的な仕事。
多様な人間が、それぞれの持分を出すことでしあわせがうまれる。
オトノネが求めている「先生像」

まことに同感できる、こういうことをきちんと言ってくれる人がいる。

昔の昔から、活動していて、少しずつ、広がっている。
こうした時代の流れの中に、オトノネはいる。
富山県に、オトノネは、いる笑

オトノネは「学校」をつくるにしたら、どうしたらいいかなと思っていたところで、いいモデルを見つけられた。
少しずつ。少しずつ。時に、大胆に。

オトノネひろげるシェアぼたん

【高次認知的情動】とは?情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論

情動には文化的な「表現様式」があるという話。
文化の中で、「望まれている」情動があるという話。いわゆる、県民性、国民性というやつだ。

日本人とアメリカ人に対してそれぞれ割礼儀式や吸引分娩、鼻の外科手術のような忌むべき内容を見せるという実験。この時、二つの条件で観察を行った。一つは、実験対象者が一人で見た場合。もう一つは、別の誰か(面接官)がいた場合。一人でいる場合は、日本人もアメリカ人も類似した表情が観察されたが、面接官が同席したときには、日本人はアメリカ人よりも多く微笑み、嫌悪感を表さなかったという。

この実験に関して最も面白いことは、その実験の様子を収めたビデオがスローモーションで再生され、検討されたときに、初めて明確になった。そうした再生においてのみ観察できたことであるが、面接官が同席する場合、日本人の実験協力者は、実際、市最初のうち、刹那、アメリカ人と同様に嫌悪の表情を浮かべるのだが、その後たちまち1秒にも満たないうちにその表情を隠してしまうのであった。(『感情』ディラン・エヴァンズp.13)

同じ「情動」を日本人もアメカジんも感じるものであり、それは不随意で、自動的で、制御が効かないものである。が、その一瞬あとに学習性の表示規則が押し当てられる。

文化によって情動を表す規則があるということ。

もう一つ。

高次認知的情動というものがあるという。
それは大脳辺縁系ではなく、大脳新皮質の影響、つまり意識的で論理的な影響をより多く受け、より計算的に、文化的に処理される情動であるという。その分、大脳辺縁系で処理されるような「基本情動」よりもゆっくりと立ち現れ、ゆっくりと消えて行く。

この高次認知的情動の例として、愛、罪悪感、恥、てれ・決まりの悪さ、誇り、羨み、嫉妬が含まれている。

「ヤバい、逃げろ!」みたいな臨戦体制に入るための情動はもちろんあるが、例えばこんな情動が、馬にもある。

象も子どもが死んだら悲しむとか、動物にだって「情」がある。
人間に特有の大脳新皮質の一つ下にある、より古くからあり、動物と人間が共通して持っている大脳辺縁系にも、同様の「情」が隠されているのかもしれない。そして不安や恐怖ではない、私たちが「あたたかみをかんじる」情の多くは、それが「子育て」に使われているような気がするのだが。

ーーーー

で、この高次認知的情動というものは、社会活動をするときに有効だという。罪悪感、誇り、嫉妬、妬み。例えばそれが「利己的」になりすぎることをいさめる機能を果たしたり、もっと「利己的」になることを促す機能を果たす。という。名詞にしてしまうと本質がつかめなくなってしまうが、情動とは、「心」の百面相に名前をつけていったものである。一人の人間の中には、社会的な生き方をするための様々な「自己」がいるとおもったらいい。

嘘をつくという社会的な行動がある。
それは「良心」からくるものもあれば「利己性」からくるものもあるだろう。

信頼、人と人の繋がりを円滑に、正常に、するための高次認知的情動がある。
一方で、利益を搾取するような、人を騙すような、利己的な情動もある。

利己性というものが、なんであるかはさておき。

例えば「復讐心(怒りの亜型)」というものがある。
もし理性的に考えて「結局、私は負けるのだから、戦うのはやめにしよう」とおもってしまえば、搾取され続ける、いじめられつづけるかもしれない。そこで、情動を解き放ってしかえしをすれば、結局は勝てなかったにしても、「あいつは根性あるやつだ。もっとひ弱なやつを探そう」ということになって困難を避けられるようになるかもしれない。不利益を与えた相手にも、不利益を与えようというのである。(ここのところは行動経済学の有名な「しっぺがえし」作戦と似ている。基本的に「利他的」な行動をしながら、「利己的」になった相手に「しっぺがえし」をすることで、双方よい関係を保つという作戦だ)

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情が適切に働くことで、人間は上手に社会化してこれたといっていい。

適切に、働くことで!

ーーーーーー

社会的に身についた、もしくは経験的に「学習性無気力」に陥った人たちは、「恐怖」「不安」によって「無抵抗」による利益を得ているようにおもう。たしかに。そうしてみんな、平和に(そう、平和に!)課題・テスト地獄の中に身を置いている。「闘争」もしくは「逃走」という選択肢がでてこない。平和の形も人それぞれだ。

ある意味で、従順でいることで、身を守っている。

ある種の感情を出さないことが「良い」ことだという刷り込みがなされる場合がある。
「不思議に思う」→「不思議をつきつめていきたい」→「けど誰もおもしろがらないし、大人は宿題をやれという」→「そもそも宿題をするので精一杯だから、不思議なんて感じない方が、心に負担がなくなる」
といったプロセスを辿っていき、「本気」になれるものから遠ざかる子どもたちがいる。

そんな中でも、自立心がある子は、自分で勝手に不思議を探究するかもしれない。
それはほんの一部の人間だ(そういう天の才を与えられた、ほんの、一握りだ)。

小中学校は「普通教育」の場であり、ほんの一握りの人間を育てるためにあるのではない。

ちなみに、「るろうに剣心」というアニメで、幕末、育ての親にいじめぬかれた宗次郎という人物が書かれている。
打たれて、泣いていると、もっと打たれる。打たれても笑っていたら、気味悪がられて殴られないことを発見し、「笑顔」以外の表情ができなくなった人として書かれている。これも「刷り込み」の一種。

ーーーーー

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。

情動には情動なりの固有の理性がある。
(『感情』ディラン・エヴァンズ)

ディランのいう情動に固有の理性を、EI(Emotional Intelligence)、感情知性と呼ぶこともできるでしょう。
IQとEQ
EQとは、社会の中で自分のパフォーマンスを発揮する(天の才を生かす)ために必要な能力
新しい時代、IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )

知性なき感情(闘争心?征服心?)を育てるのが軍隊であり、
知性を持った感情(信頼・共感、そして時として「しっぺ返し」のスキル)を育てるのが学校である、と二つを対比してもいいと、僕はおもう。
人間を社会化・組織化する二つの選択肢だ。

ーーーーーーーーーーーーーーー

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情という知性が、いわゆる「息詰まった」合理的知性の助けになる。

僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。
情動、というより、無意識のメッセージを体の変化から受け取る。その情動のプロセスを、大きくすることで、現在ぶち当たっているなにかしらの困難、繰り返されめぐりめぐる思考から抜け出すきっかけを得るというものだ。

考えてもしょうがない。
心に従ってみよう。心が、教えてくれる。
というものだ。

恋愛などもそうかもしれない。
夜なべしてラブレターを書く。
いやもう、書くしかない。
けど朝になってハッと読み返したら、というか恋文を書いたことを恥じたり、手紙を出すことを恥じらったりする。けれども情動として、もっと深いところにある心が、オモイが、やはり夜になると深まるのだろう。

そしてその手紙を出さなければ、前に進めないのが、恋愛である。
無用の苦しみに何年も耐えるより、さっぱりと愛を告白してみて、次のステップにいったらどう?と、心はのたまっているのである。

ーーーーーーーー
ーーーーーーーー

だがしかし、情動のそうした働き(切羽詰まっている時の心の助け舟)が、裏目に出てしまうときがある。
結論だけ話すと、「良い気分状態で急かされた」時、人は騙されやすくなる。ということだ。
(『感情』ディラン・エヴァンズ p.123)

塾、教育業界で、種や仕掛けを用意しておいて、体験授業のとき、もしくは通常授業のとき、「これ、東大の問題だよ!」とか「ほら、できるようになったでしょ!」といって、褒めちぎったあとでその場で契約をさせられるとき、疑う方がいいかもしれない。(いや、できる「気」にさせて、モチベーションを高めて、本当に能力をあげてくれるのかもしれないけれど)

高次認知的情動をもった動物として扱われていると思ったらいい。実際、大部分、そうだし。
(保険会社の説明会の会場をたまたま見たことがある。路上パフォーマーを読んで、音楽を流して、楽しませて、契約をさせていた)

「正しい選択」のための合理的な判断など、到底できるものではない。
だからこそ、こうしたビジネスが成り立つ。
サブリミナルな(潜在的な無意識に働きかける)効果とまではいかないが、情動に訴えるこの手法に、みんなやられている。

買わなくてもいいものを、イメージで、「欲望をかりたてられ」買わされていることが、たくさんある。
偏差値、買いたい人、いませんか?進学高校や塾というファンタジーの世界で、たくさん売っていますよ。

ナチスの手法は、日本でもよく使われています。
無償化!教育県!学力一位!には要注意。
お子さんを、心のアウシュビッツに入れてしまっていませんか?

ある意味で、新しい時代を生きる力を削いでいく学校教育は、社会的な犯罪ということもできる。(実際、法律を犯しているから、教育に関するいろんな法律がどんどん追加されていっている)
「集団心理」を利用した、(学力テストうんぬんで情報リテラシーのない人たちを騙す)マスコミを巻き込んだ、社会的な犯罪だ。(最近、ようやく「新しい時代」のための教育がマスコミに取り上げられるようになった)

と、強く言ってしまったら、反感を買うかもしれない。
これは「教育とは何か」という哲学の話であるから。
そもそも、主張でもなんでもなく、僕一人のタワゴトだとおもってくれたらいい。

だって、自由経済だもの!言論の自由があるもの!
けど、悪徳商法にはクーリングオフとかあっても、教育業界には、、、、ない!
時間と、お金が、もどってこないんです。

ーーーーーーー
ーーーーーーー

ある種の情動には「脅迫」「暴力」「支配」という行為が伴うかもしれない。
僕には「怒り」「嫉妬」という情動がその根底にあるように思える。
このような心に満ち溢れた場所があれば、戦うか、逃げるのが一番だとおもうのだが。そうだろう。

組織への「しっぺがえし」などなかなかできたものではない。。。

攻撃と報復の果てに、平和をみつけるのは、なかなか大変だろう。(復讐の連鎖が、どこかの国でまだ続いている)
だから、そこに生きる個人は、逃げるという方法も、生きる場所を選ぶという方法も、自分の身を守る、大切なものを守るためには、とびきり上等な選択肢であるとおもうのだが。

ちなみに、最近読んだ本の中では、「怒り」を感じた時点で、バリ人は「眠る」という行動をとるという話があった。

が、インドネシアに滞在していたとき、どうみても、インドネシアの人たちが「怒り」という感情を持たないような気がして聞いて見た。答えはこうだ「僕らはね、怒ったらね、隣の村に戦争をしかけるんだよ」だそうだ。
冗談かもしれないが、そうらしい。

「眠る」か「武器をとるか」。
なるほど。

ーーーーーーーー

イスラム教の人たちは、常にコーランを読みながら、感情をマネージメントしている。
日本人も、ヨガやヒーリング、外食、ゲームなどで、感情をマネージメントしている。
けどどれも「感情と距離をとる」ことはできても、「感情と積極的に関わる」ことはしていない。

ブッダの仏教、瞑想、座禅は前者であり、
カウンセリング、演劇、対話は後者である。

ーーーーーーーー

恐れというものが、とても強い人がいる。
恐れから派生するいろんな感情がある。嫉妬、妬み、不安、、、、
怖くなって、身が竦んでしまっている人がいる。

「今は無理だ。僕の中に恐れがある」ならそれを大切にしたらいい。
けど同時に、恐れとは別の情動がみつかるかもしれない。
どちらも平等に、対等に、感じてあげるといいだろう。


情動は心の百面相だ。
ひとつひとつに、言い分がある。

自分の持っている感情、情動のひとつひとつの言い分を、聞いてみるのもいいだろう。
僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。

ーーーーーーー

こういう先生が学校にはいる。
生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

「怒り」で生きている人間だ。
些細なことでクラクションを盛大に鳴らすイライラを募らせたドライバーと同じくらい、ストレスを抱えてしまっている先生がいる。
こうした理不尽な「怒り」に気がついて「ああ、私は疲れているのだな」とフィードバックが自分でできない人ほど、哀れな人はいない。もしこういった人に出会ったら、全くの他人でなく、少しでも情が湧いたなら、「疲れているでしょう?休んだらどうですか」と言ってあげてもいい。休めないのが、学校の先生であるのだが。

「良心」が届かない人もいる。
愛せないなら、立ち去るのもいい。

徳のある人間とは、情動を感じない人間ではなく、どの情動にも押し流されず、すべての中庸をいく人であるとおもえた。
情動が出てきた瞬間に、フィードバックをする人間。怒りに対して怒りで返さない。怒りに対して怯えで返さない。怒りに対して、笑いで返すことすらできる人。ある一つの感情だけを増幅させず、一度にあらゆる情動を感じられる人。ある意味で、宇宙的な広さを、心の中に感じている人。なんだか、気持ちがよさそうだ。

ちょうどいいバランスを、さがしていこう。

ーーーーーーーー

ところで、感情の学習、というものが、とても大切だと僕はおもっている。
保育士の先生は「怒り」の感情を伝えることがあるだろうか。「喜び」だけを伝えていないだろうか。
学校の先生は「喜び」を伝えているだろうか。「怒り」だけを伝えていないだろうか。

直接経験しなくてもいい。
ただ、映画とかではなく、現実に、こうした怒りや喜びを学ぶ機会があるともっといい。
それが、実は、芸能、芸術・演劇と呼ばれるものなのだが。

ーーーーーーー

怒りの感情を加えられた時、怒りや恐れで返すことなく、哀れみの情をもって、笑顔で返す、という神業を使う人に出会ったことがある。怒りを怒りで返したり、怒りを恐れで回避すれば、相手の怒りは回収されない。またいずれ、怒りを加えられることになるだろう。

完全に逃げるか。
そうでなければ、笑いながら、その人の悪霊に飴玉をあげよう。

愛せぬ者からは、立ち去るがいい。
と、ツァラツストラが言っていた気がするのだが。気のせいだろうか。

ーーーーーーー

感情と向き合う経験。
感情がでてきた後で、きちんと大人がフィードバックを返すこと。
「気締め」が必要なこともあるだろう。

そう考えると、子どもが関わる大人たちがみんな均一になってきているのも、末恐ろしいように感じる。
他者が感じている情動を見抜くチカラ、そしてそれに対してどんな情動で返すかという作戦をたてるチカラ。
それが、実は、EQと呼ばれているものである。(IQではない)

ーーーーーーー

コツコツと積み上げれば、、、とか、長時間やれば、、とか、一生懸命やれば、、、
という「美徳」というものもある。

忍耐、耐え忍べばいいことがある、という美徳もある(日本はまだ戦時である)。

これもある種の情動といえるし、文化的な、歴史的な「心の作戦」といえるかもしれない。(心理学用語でスキーマといってもいい)

新しい時代、昔から使われてきた作戦を社会的にプログラミングされてしまった心を、アップデートしてみたら、楽に生きられる時代になるとおもうのだが。

いかがだろうか。

結局、今、誰かが向かい合おうとしている課題は、きっと、日本の歴史、日本という場所からの自立を意味するのではないか。
日本という場所、日本という歴史がつくってきた「感情様式」が、うまくいかなくなって、体がヒーヒーいっているとしたら。

今が、自立の時なのかもしれない。

ーーーーーーー

アニメで「サイコパス」というものがある。youtubeでもみられます。是非是非。
シキソウというものをリモートでいつもチェックされていて、「汚れてくる」と、「クリニック」へ行くように通告される。「犯罪者」を世の中に出さないようにするシステムで成り立っている社会を描いている。ぜひ、学校に取り入れてみてほしい(「サイコパス」映画版か特別版かなにかで、国家的な詐欺をして、「心の汚れた人たち」がそのシステムを悪用するという設定もあった。要するに、どんなシステムも、どんな道具も、人間次第。)

感情・情動が動く場所には、ドラマがある。

がんばれ!がんばれ!
という言葉に、心がこもっていなければ、ドラマは生まれない。
多くの受験生は、心なき言葉に、亡霊に、呪いに、悩まされているような気がするのは、僕だけでしょうか。

幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

オトノネひろげるシェアぼたん

対話ができない政治家。令和時代の戦争とピクニック。

政治家と話をする機会があった。
いわゆる県議員と呼ばれる人たちと話をした。

まずもって、対話ができない。
僕の質問の意味がわからないらしい。

コミュニケーション的には、相手のレベルに合わせて喋れない僕が悪いのかもしれない。
政治のレベルは、そのレベルだとわかった。
というかそのまえに威圧的な権威的なその声の響やめてほしい。
おとのねさん、そういう声、嫌いなの。体が、本当に、無理っていうの。
宗教とかセミナーとかで聞く声ですよそれ。
あなたがしているのはなにですか。
目の前に学生がいるのに、学生の声を聞かないのですか。
あなたはなんのために、だれのために政治家をしているのですか。

言葉が、その人を表す。
喋ることが、その人を表す。

授業として、「政治とはなにか」を講義してくれるはずだったのだが。
演説を聞いただけだった。

それでも世界は回っている。
それで世界は回っている。

それで、子どもたちは、狂って踊っている。
小中学校に冷房入れた?それPTAのお金でしょ?中等教育学校?お金を教育に回したくないだけでしょ?
それが、何かの、意義ある政策かどうか。

それこそ、声を聞いたらいいのに。

富山県、石川県は、全国的に、教育にお金をかけていない県です。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない)

それで、子どもたちは、狂って踊っている、ようだ。

日本は他の国から遅れて、30年前に教育を変えられなかった。
日本は100年前の教育を今でも続けている。
もう、遅れてしまった。
どうして子どもたちは狂わずにいられるのだろう?
戦地に弁当をもってピクニックをする毎日。
頭の上を砲弾がかすめる。
笑いながら、お友達とお喋り。

ある意味この状況がシュールすぎて僕としては感動するのだが。
これが多くの小中高校生の日常だと、僕は、僕は、少なからず僕は、思っている。

‹‹\(´ω` )/›› ‹‹\(  ´)/›› ‹‹\( ´ω`)/››
オモッテルー

令和時代にもう戦争は終わりにしよう。
だか、悲しいかな、子どもたちは、選ぶことを、教わらなかった。
選ぶことを、学ばなかった。

と思える。
もしくは、「忍耐」を学んだ。

自分の命にたいする責任を自ら負うこと、学ばなかった。
自分が自分でいることの価値を学べなかった。
自分の命に対する「責任」を学ぶことのできる大人がいないのだから、しようがない。
創造的に対話をしてくれる大人に学校で(ほとんど)出会えないのだから、しょうがない。

政治家のみなさん、子どもたちは、あなたの生き様を見て、なにを学びますか?
「世の中、コネと金だよ」ということを教えていませんか。ある意味事実ですが!

教えるべきことはなにですか。

子どもは何を「教わるべき」?

ある意味で、学校に行っていない子どもの方が、新しい時代の価値観をもって、新しい時代でしあわせになるチカラをもっているようにもおもえる。

ーーーーーー

子どもの未来をつくる「学校」を新しい時代に向けて変えていこうとしない政治家は、今の日本には、必要ない。

ーーーーーーー

踊り疲れたら、おとのねにおいで。

戦争をさせられる子どもたち(学校という経験・受験という経験)

オトノネひろげるシェアぼたん

タニシを探しています。

最近、ドジョウを育て始めたおとのねさん。
水槽の掃除をしてくれるタニシが小さすぎてキャパオーバー。

タニシ、探しています!

ドジョウにまつわるブログの記事も書けていない今日この頃。

オトノネひろげるシェアぼたん

「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。

こんな見方ができる。
あくまで、見方。

「させる」世の中。

学校はまだ戦時で、工場に集団就職した子どもたちがいそいそと手を動かし、終わらない宿題・課題、そして矢継ぎ早に繰り返されるテストで休む間もない。そこで「させられる」以外の何かを見つけるとしたら、休憩時間に友達とおしゃべりをすることくらいである。夜、仕事が終わった後に、故郷の「民謡」を歌う女性労働者の物語を、僕は本で読んだことがある。学校帰りに、イヤホンでPOPミュージックを聴いている子どもたちのようだ。

塾業界は満足のために「できる気にさせる」「できている気にさせる」ことで夢を売り、お金をもらう。子どもが「楽しい!」とかお父さんお母さんが「ここにいたら安心!」と思えるような合格実績、その他のデザインを考えている。夢を「見させる」がんばれ!がんばれ!「勉強をさせる」なぜかそういう状況をお父さんお母さんが望んでいる場合がおおい。子どもに、お母さんお父さんも、夢を「みさせ」たいのだろう。数字を見せて「どうですか?この実績!」という姿は、どこかの営業マンのようだ。(実際、ビジネスなのだから仕方があるまい)

「主体性」の場である保育園ですら。お父さんお母さんを喜ばせるための運動会、発表会、保育士の自己満にもならないと僕にはおもえる掲示物(ぐちゃぐちゃに絵の具を塗った紙をカエルの形に切り抜いて、子どもたちになんのプラスがあるだろうか)。「あそばせ」続け、自分で「あそぶ」ことができない子どもたちもいる。(そのうちこの「あそべない」子どもたちの記事を書きます)。子どもの様子をみて、「的確な遊び」を絶え間なく与える保育士が評価される。子どもを楽しませる先生が、いい先生だということになる。らしい。

「させられ」続けながら、心を大事にできる人もたくさんいる一方、心をすり減らしてしまう人がいるのも確か。心と切り離された仕事をしてお金を稼がなくてはいけないお父さん、お母さんがいる(もちろん、心ある仕事をしている人もいる)数をこなすために、1を大切にできない職場もある。心を尽くして人と人が向き合う時間もなくなってきた。これが、発展した時代の、日本の最終形態なのだろうか?働き方改革と呼ばれているものは、どうにも、僕には国が税収入をあげようとしている作戦にしかみえない(余暇を外食産業に!エンターテインメントに!)。

あせらせる、やらせる、不安がらせる。
満足させる、喜ばせる、来させる。

人間が動物であるようだ。
実際、思春期がある動物だけど。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。

よくよく考えたら、動物の子どもが「思春期」で親に「反抗」したら、一発で死んじゃうよね。
不思議。

ーーーー

こちらはオトノネの宣伝です!

富山市の民間学童保育

ーーーーーー

そんな見方ができる。
あくまで、ものの見方。

ある場所では喜びに欠け。
ある場所では喜びに満ち。
ある場所では真実に欠け。
真実に満ちた場所を僕は歩き回りながら探してきたし、今は、自分で作ろうとしている。
(もちろん、僕にとっての真実)

ーーーーーー

昔々、社会、集団は、イコール、血縁がある組織だった。

血縁のないところに集団が生まれるために、「満足度」は大切であるし、「お金」は大切だろう。
(集団でいることの「満足」を確認するために文化祭とか体育祭といった祭りが利用される場合もあるだろう。青春!)
【高校選び】進学高校の高校生たちのブラックな青春が青になるとき

「祭り」と「お金」だけでは枯れてしまう心があるのも本当のこと。

ーーーーー

ところで、オトノネは、夢を売りません。(オトノネにきたら、夢が叶う!わけがありません)
一体何にお金を払うのでしょうか?

答えを出さずに不満足のままに終わるのがオトノネらしさかもしれません笑
夢を買いたいなら「逆転合格!」とか「偏差値30から!」とか「定期テストで+30点!」「◯◯大学◯人!◯◯高校◯人!」と宣伝している塾を選んだらいいとおもっています。(たまたま、夢が叶う人もいるでしょう。結局、いい先生と出会った人が、自分にとっていい環境を選べた人が、満足のいく受験を経験します)

ーーーーーーー

経済成長を夢見ながら、みんな一緒を続けていく生き方があります。
が、今は、別の生き方を模索しているひとがでてきています。
誰もが、時代から自立して、認められる時代になってきました。

オトノネは、そんな僕の、(僕が生まれ育った)時代からの自立という挑戦だとおもっています。

時代は変わりましたが、組織はあまり変わりません。
自己保存力が働きます。既得利益をなかなか!手放せません。
(それでも、組織を変えようとする人もたくさん出てくる時代です)

組織から自立する人、
時代から自立した組織を選び所属する人が、笑って生きられる世の中になると、僕は思っています。

組織からの自立って何?時代から自立した組織って何?
気になる方は、いろんな本があります。ぜひ、ご一読ください。
「長時間」「みんな一緒」「やらされる」で心が悲鳴をあげている人はもうすでに、この扉の前に立っているように、僕にはおもえます。

強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話

たった一度の人生を変える勉強をしよう
学校の「当たり前」をやめた。

学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

子どもの「遊び」は魔法の授業

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
売上を、減らそう。たどりついたのは業績至上主義からの解放
ハッタリの流儀 ソーシャル時代の新貨幣である「影響力」と「信用」を集める方法

こういった新しい価値観を生まれながらに持っている人もいます。
が、育っていく中でつくった価値観をだれもがもっているものです。
もしそれが「なんか変だ」と感じたら、その違和感を大切にしながら、進んでみてほしいとおもいます。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

堕ちて、堕ちて、堕ち抜いてください。
僕はそれを止めようとはおもいません。(一体、何をしてくれるんだオトノネは!)

堕ち抜くチカラは、あなたの本当のチカラになると、信じているからです。
(そのうち、浮上しているのか、墜落しているのかわからなくなるようになります。言葉って難しいんです笑)

ーーーーーー

その点、学校って、やっぱり、時代を作る原動力になるとおもう。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない?)

オトノネひろげるシェアぼたん