好きなことをして学ぶ。遊びながら学ぶ。子どもの自然な姿。

子どもの「天の才」を、大人が台無しにしてしまわないか。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。
学習塾を名乗りながら、オトノネはいつも悩んでいる。

高校生なら、本気で受検に挑むことがその子の発達段階、課題として適切な場合が多い。
(社会的に決められている、そして本当に自分に向き合って将来を考え、出した答えに向かっていくという意味で)

けれども小学生で。。

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小学3年生、8歳が、とても大切な境目の時期だということはなんども書いている。
おとのねさんの「小学生が一番(?)、教育に投資する時だ!」という思いを支持するデータを文科省の「子供の学習費調査」から読み取る。
個別化・自立のための小学生の「お勉強」法(小学3年生からの家庭教育)
自立心と感情のコントロールと思春期と8才からの内言
「稽古」と「習い事」の違いと「労働」

そういえば、僕が家出をしようとおもったのは、小学4年生だった。
何事かに悩み出したり、本当に自分の姿が自分に映るようになる時期、かもしれない。

何度か、一緒に絵を描いたこともあるこの子は、筆ペンを持つとまた集中力が上がったり、描くことになにやら何かがある子。

おとのねさんが「この子にパステルはどうか」とおもって、使ってもらったら、筆を使って描く時とは様子が少し違って、シックリきているようだった。
体の皮膚感覚、体幹がしっかりしているこの子には、今のこの子には、筆を使うよりも、指先を直接使ったパステルの使い方の方が、無理なく、楽しめるんだろう。

「ブラックホール描く!」といって、「え?ブラックホールって、見えるの?」と僕。
光吸い込むから取れないんじゃないの?いやでもお母さんの話だと、要するにブラックホールの周りのまだ映る場所を写した影の部分がブラックホールだっていう写真があると。なるほど。

「惑星を描きたい!」というからネットで惑星を出した。
「輪っかが描きたい!」というから、木星か土星かどっちかと聞いた。(木星って、あれ、輪っかありましたよね?ないですか?)
土星の方がいいらしい。

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その子は踊りも歌もよくやる。

あまりにも綺麗に踊るものだから、「もういっかい!」とかいいながら遊んでいてしばらくすると。

歌詞を描き始めた。
漢字でもかけるらしいのだが。平仮名。(まぁいいけど)
歌詞を書きながら「わ」と「は」が間違っているけど。。

別に書かなくてもいい歌詞を、自分で、ひらがなで書き始める心がある。
オトノネにある大きな、自由に使えるホワイトボードがあるせいかもしれない。
そこで、踊りを踊って、歌詞が思い出せなくて、ネットで検索しながら、、、そういう遊びの物語の中から、ひらがなでホワイトボードに歌詞をかくという次なる遊びを発見。

思い出しながら、、、、、

「わ」と「は」が間違っているけど。。

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学校で「わ」と「は」を学ぶ時、今どき、穴埋めをやる。
高校生ですら穴埋めをしている。

これ、おとのねさん、はっきりいって、間違っているとおもう。
わかる人にはわかるでしょう。。。大人都合の、空所補充。
「は」というひらがな一文字の不思議を、伝えれば、子どもは勝手に学んでいくのに。。。。

まぁいいや。

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算数も、国語も、できない!のは経験不足なだけかもしれない。
けど算数や国語以外の、その子が本当に輝く、一生懸命に、本気になれることがある。

能力主義、能力主義の時代で、「ついつい後回しになる」大切な子どもの「天の才」を大人が勝手に摘み取らないように、と、僕は自分にいつも注意している。

僕だって「天の才」を自分で今、育て直しているようなもの。
オトノネは、そんな「自然」な学びを、追求していきたいと思っています。

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学校でできないのは、当たり前とおもってください笑
家庭教育、個別対応、自分にあったスピード。

小学生の時には、小学生にあった学び方、小学生だからこそできる心の育て方がある。
それが実践できる、オトノネでありたい。

ヒノキとアカシアの家、みんな遊びに来てくれるかな!?

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教育の定義を考える【適応能力・選択能力・決断能力】

教育の目的は
成人をした時に、適応障害を作らないということ

であると定義してみよう。

あらゆる状況に「適応する」チカラ。
これはメタスキルだ。

適応するとは、本人が「生きていく」「持続的に代謝していく」ということ。

だとしてみよう。

「誰かに守ってもらう」ことで適応してもいい。
「好きなことを、伸びることを伸ばし続けて、特殊能力をもった人になる」ことで適応してもいい。
「にこにこしながら隅っこでじっとしている」ことで適応してもいい。
「なにをしてもへこたれない」ことで適応してもいい。

適応の仕方を、学んでいく。
「その子が」適応する、「その子の」適応の仕方を学んでいく。
それが教育だと。

定義してみよう。

これはキャリア教育であり、自分を生かす自己肯定の敎育でもある。

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思春期以降に学ぶことは。
(もっと行ったら、8歳以降は)

凹凸ある、非定型な、個別的な、ユニークな、特殊な、ひとりひとり違う、
生得的な、もしくは8歳までに作られたチャンネルに合わせて、取り入れる世界を内的世界の仕組みに合わせてカスタマイズする方法を学ぶことである。

凹凸ある、非定型な、個別的な、ユニークな、特殊な、ひとりひとり違う、生得的な、もしくは8歳までに作られた認知特性に合わせて学ぶ。働く。
それは、どのようにして学べるか?

「知識」は「お金」と一緒で、それ自体が目的になってしまえば、人生を壊すことになってしまう。気がする。

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世界と関わる意欲がなければ、何も起きない。

心をみとめて、心の動き(意欲)を大切にしなければ、アウシュビッツ行きになってしまわないか、心配している。
心を認めてくれる人に出会えない学校なら、やめたほうがいい。
そこは、監獄だ。

関わる世界が、そのままその子に受容されるわけではない。
しかし、世界は確実に、何かしらの形で、受容されていく。心のシステムに、影響を与えていく。
さまざまな適応能力をつけるため、自己理解をするために学校があるのであって、学校が「適応対象」として適切かどうか。

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意欲が出るために、ゲームをする人がいる。
ゲームの世界で課金をしたり。
ゲームに時間を費やして、そこで生まれる成果で意欲を出す人がいる。

そういう世界も、ある。
そういう世界に、入り込む入り口が、いろんなところに開いている。

「世界の見方」はこどもひとりひとり違う。
「世界の見せ方」を、大人は考えているだろうか。
どんな世界を「見せる」か、大人は、考えているだろうか。

考える必要もないくらい、大人が、ちゃんと自分の世界を作っていたらいいのかもしれない。

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子供の見ている世界を、大人が教えてもらうのに、子供が自分の見ている世界を表現できるような、非言語、言語能力が一番大切なようにおもう。
それは、大人の方が、受け取れなかったら、いけないのだけれど。。。

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