これで、一つの学校、一つの学年(第3学年)。
中国統一の試験で、どこに行けるかが決まる。二次試験なし。
これはベビーブームの時の子供達の最後の世代、らしい。
人数半端ない。
街中につくられたゲートは、保護者が寄付をして、この日のために用意したものだという。
親が、学校を動かす。
日本でも、親が、土曜日の補講をさせている。
富山・高岡・金沢で暮らしている保育士・高校英語教諭・塾長/芸術家のブログ。
はじめまして。教育・療育・保育/心と体の境目を芸術と科学と哲学でぶったぎるおとのねさんです。
で、「うなぎを買うことでうなぎを絶滅させることに一票投じている」という話を推し進めれば、
「今、日本にいるということは、今の日本に賛成している」ことになるのだろうか。
こんなことを考えていても、いいことは起きないきがする。
正しさなんてこの世にはない。悪は消えないし善も消えない。
ただ好きなことをして、この世界の情動にまみれて、今日は星がきれいだなとふっと息をつける瞬間だけあればいいのだろうか。
定期テスト対策をする塾と同じように、僕は誰かの欲望を掻き立てて、苦しみのスパイラルに落としていないだろうか。
合格実績で欲望を掻き立てる塾のように、欲望に駆り立てられた親子を苦しみのスパイラルに落としていないだろうか。
(僕は本当に、語るべきことを、語っているのだろうか)
清き正しきオトノネという名の無記名票を、世の中に、投じられているだろうか。
選挙の話ではない。生き方、意思表示、自己開示の話だ。
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うなぎの代わりに
ドジョウはいかが?
1歳(もうそろそろ2歳)と4歳の兄弟が砂場で遊んでいた。
部屋の中で、はさみをつかって「ふたこぶの山」をつくったあとだったから「山、つくろう!」といって作り始めた。ケッキョックヤマハ3つになり、そのうち、大きな一つの山になった。
もうひとりの保育さんが「穴、掘ろうよ!」と誘い、穴を掘ることになった。
で、穴を掘ると。。。4歳児は、穴を「掘れる」のだが、1歳児は、穴を掘ろうとすると、山を「崩す」ことになる。いやいや、掘るんだよ、と教えることもできるだろうが、4歳児がやっていることを真似るよりも、とにかく崩すことをしたいようだった。(ここで、穴の掘り方を教える保育士もいる)
1歳のころ、2歳の頃に、崩して、壊して遊び、飽きるまで崩し、「飽きて来たなーもう僕もレベルアップしたしなー」とおもったときに、「穴掘り」をしてみるといいかもしれない。
砂場に行くとその子の「今」がわかる。
掘る、道具を握る。
手首がしっかりする。
湿り気、乾燥、色の変化を感じる。
ファンタジーを使って形をつくる。
山が崩れないように工夫する。
山を作るための役割分担をする。
カチコチの泥の玉をつくる。。。
などなど。
山は、砂は、砂を口にいれなくなったら、どんな年齢の子どもにも、意味のある学びを提供する。
どの年齢にでも、その年齢なりに遊べる環境がいい。
(ゲームの世界も、そのようにできている。自分の興味、レベルに合わせて、ゲームソフトを決められる)
情動、感情はそんなに長くは持たないが、気分Moodは長時間、感じられる。
フロイトさんの「抑圧」によって「症状」が起きるという考えは、放出できず溜め込まれた心のエネルギーが「いきば」を失い腐ってしまう、淀んでしまう、と例えることができるだろう。だからやっぱり、「腐った水をまずは出す」ことが必要なのだと。これがカウンセリングの基本になったりすりわけだが。
悠々と流れる、偉大な「時間」というものがある。
「時間」はいろんなものを「流して」くれる。薄めてくれる。消去してくれる。
人の心の動きはそれぞれ違う。今の誰かにとっては、もう「時間」というプロセスがすでに心を癒していることもある。(それによって、DVを受けている人が「あれはDVではない」と言うように、完全に幻想世界に入っている可能性もあるが、それはそれで、時間を経て心がそのように適応したのだからOK!と考える)。
思い出してしまえば、言葉にして意識してしまえば、悪い情動、感情の波に押し流されてしまう。心がもたない。そういう経験をしてきた人がいる(うまく消去できずに妄想やら幻覚のように繰り返し困難な過去を思い出して頭が割れる思いをして心療内科に駆け込む人もいる。うまく消去もできない不器用な人間だ)。
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心的エネルギーが「たまって」うまく流れなくなる、と言う表現はこのように考えたらいい。「とりあえず」その場をしのぐ、その時の心の発達段階としてもっとも適当な作戦を使い、「防御」に徹したとしよう。「防御」に徹するというクセは残る。「防御」を選びがちになる。けど心が育ってきて、「攻撃」(実際になぐるわけではない)とか「逃げる」というコマンドをつかけるようになったけど、相変わらず癖で「防御」しかしないことを、「たまってしまう」「流れていない」つまり、心が育った新しい部分まで心的エネルギーが流れなくなる、とイメージしてもらったらいいとおもう。
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感情を消す、忘れるという操作が人を救うことはよくある。
その日に感じたイライラ、違和感を「消してしまえ!」といわんがごとく、音楽を聴いたり、好きな色の服を着たり、おいしいご飯を食べに行ったり、ドライブをしてみたり、花の匂いを嗅いで見たり。
コンビニはよく「セール」をやる。
この間は、◯◯円以上を買ったら、クジがひけて、何かの商品が当たるというもの。
実は今まで買わない商品を食べたり使ってもらう機会であったりするわけで。
一時的に支出が増えるが、これから商品を買ってもらうために、利益のためにキャンペーンをする。
その時は支出になるがそれは回復する。
回復する見込みがあるからやる。
設けたお金で、コンビニは新商品を開発する。
コンビニ同士の競争に勝たなくてはいけないからだ。
人をドキドキさせて、コンビニに飽きさせないように、マンネリ化しないように。
だからブランド性を高めようとする。
フランチャイズオーナーからほとんど搾取し、それでもオーナーはなかなか稼いでいる(店舗を増やすほど稼げる。そりゃそうだ)のだから本社はべらぼうに稼いでいる。
そのお金が海外進出の資金になったり、新しいコーヒーマシンを開発する資金になる。
けどそれで人がしあわせになっただろうか。
「私を見て!」といっているだけではないか。
コンビニは便利だ。だが、そこまで毎日コンビニの株を上げるわけにはいかないのだなぁとおもう。
高校生が、ノートをもっていない!?
穴埋め式になっている。もちろんこれは「できない子向けだ」
(教科書を変えるのではなくシステムを変えればいいのだが)
指示が通らない、できない、けど卒業「させなきゃいけない」から穴埋め式にする。
やっているつもりにさせる。
なんとか、授業に参加、「させる」。
けど、できない子は、できないままだという現実がある。
だって、発達の課題、スピードは、ひとそれぞれだから。
できる子が潰れていく。
できない子も、潰れていく。
いやいや、そもそも、穴を埋める気持ちすらない生徒がほとんどなのだから。
生徒のことをちゃんとみていたら、そんな方法にはならないはず。
けど、仕方がない。先生すら、すぐに移動させられて、落ち着いてその学校で教育ができないしくみだから。
教科書を読めない子供が増えても仕方がない。
読ませてもらえないのだから。
家庭教育が大切。
昔は、僕の生きていた時代は、ポケモンで「対戦ができる」ことがまず新しかった。
もちろん「線で繋げて」目の前の相手とポケモンを交換したり、バトルした。
今はどうか?
インターネットでも、無線でも、いろんな人と繋がれる。
もう時代が変わりすぎた。テクノロジーによって変わったものがある。
時代を超えても変わらないものもある。
ただ、これから生きる若い人たちの心を大人が理解していくには、今と昔とでは、状況が全く違う、(ポケベルの時代を僕は知らない)、ということを知って置いたらいいのかもしれない。家の固定電話でなければ友達の家に連絡ができなかった時代に、僕は育った。家に電話などなかった時代も、もちろんあったのだ。
で、技術は進歩していくけれど、文化は変わっていっただろうか?
僕ら大人は、新しい時代と、きちんと関わっているだろうか。
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ミアティブというゲームの配信アプリがある。
このアプリを使うと「配信」ができる。
「配信」すると、全世界の人と一緒にゲームが楽しめる。
で、今日、配信をしていて授業に遅れた子がいる。
「2000人以上、見にきてて、やめられなかったんです」という。
一度にプレイするわけではなく、4人づつ招待できる。一回負けたら一旦交代、というルールを彼が作って、、、「次俺!次俺!」ということになり、なかんだかんだして、遅れた。という。
実際に彼の配信を見たことはないが、これが、彼の暮らしている「ゲーム世界」だぁぁぁ!
小学校って、朝の会が始まる前に校庭でみんな走ったりしていますか?
体育の先生がいて、陸上の指導をしているようであった。体操服を着ている子もいれば、私服で走っている子もいる。
小学校って朝、走っていたっけ?
子どもは走るのが好きだ、ということはよくわかる。
勉強どころではない。走らなくては!というくらい。
だから、朝、走る、文化が、自由の中で生まれたなら、素晴らしいことだとおもう。
みていると、みんなおもいおもいに、走っている??ように思えた。
こういう場所もあるんだなぁ。
運動会前だから???
こういう文化をつくるエネルギーが、一体どこからでてくるのだろう。
一体、誰が、はじめたのだろう。
まさか、ここは、中学校じゃぁ、ないよね?