おとのねさんはなぜ謎なのか。

おとのねさんは音の国から来たので不思議のベールで包まれています。

とかいうから、謎なのです。

そういう人物だから、いいことがある。
それがオトノネのいいところです。

どんな人なの?
HPをみるといくつか写真が乗っていたりyoutube チャンネルにいくと見られたりするのですが。
誰かオトノネさんの写真とってくれないかな。

僕の写真をとってくれる人が近くにいないから謎、なのかもしれません。

どうぞオトノネにお越しください。
おとのねさんを実際に見てみてほしいです。
オトノネのいいところを感じ取って、使っていただければうれしくおもいます。

いいところ。
それは金儲けのためでなくて、心を豊かにするために、人と向き合う、ということだと、僕はおもっています。

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これからこの国で幸せになるには。

この国で、幸せとは何か、もう一度考えてみたい。

考えなくていいか。
感じてみたい。

この国で、この国のシステムのなかで、僕はもう少し強くなろうとおもった。

日本は日本仏教の国。
この国でしか使えない、この国の宗教。

この国ならではのしあわせが、あるような気がした。
しあわせをつくりだす社会的装置が故障している。
たまにボロボロになってでてくる心がある。

僕はその「たまにでてくる」ものに目を向けすぎなんだろうか。

昔みたいに、みんなで長屋に住むとか、寺に行くとか。

もう現実に、日本の孤児院、ぱんぱんだからね?
もう現実になりかけています。

こんなにも貧しい国で、しあわせになるには?
日々の暮らしに満足すること、なのでしょうか。

念仏を唱える代わりに、みんなテレビをみていますね。
念仏を唱える代わりに、みんなスマホをみていますね。

念仏が、必要なのでしょうか。

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子どもがもっている無限の余剰を僕たちが受け取ること。

オトノネのお母さんたちはたまに、僕にご飯を持ってきてくれる。

僕はもう泣きながら手を合わせて食べる。
美味しい。

おいしい。

このご飯、もちろん、家族のためにつくったしあわせを、僕がおすそ分けをもらっているだけ。
それが、うれしい。

余剰、というものがある。

お金でなくてもいい。
ただただ、溢れ出たもの。

しあわせって、そういうものだとおもう。

ーーー

リッチネス、という言葉をインドネシアで聞いた時に、ああ、リッチってそういうことなんだなと感じた。
青森で漁師をしながら、親方が趣味で、好きで釣った魚を知っている人に分ける。

しあわせの溢れた部分を、数珠つなぎにする。
しあわせのわ。

僕も取れたホタテを知っている人に送って、おいしいといってくれたことを今でもよく覚えている。
ホタテを送るお金で給料がなくなったけど笑

ーーーー

子どもはしあわせの塊だ。

溢れ出ている。

僕は少しだけ、おこぼれをもらう。

家でご飯をつくるお母さんは、しあわせをつくっている。

ご飯を食べるしあわせ。

ご飯の場所を一緒に楽しむ。

しあわせの数珠つなぎ。

ーーーー

余剰が、ないのだろうか。

お金も時間も、大人たちには足りない。
あってもあっても足りない。
どんどんなくなっていく。

子どもは?
子どもはしあわせの達人だ。

子どもに教えてもらおう。

僕は、いつも教えてもらっている。

ーーーー

最近、オトノネの子と公園で、放課後に遊んだ。
校門前で知り合った男の子も遊ぶ!とうので、待ち合わせて遊んだ。
その子がいうに、いつもなら、家でスマホと宿題をしているだけだという。

リッチネス。

もっと子どもから分けてもらおう。
たったそれだけなのに。

と思ったりする。

また、遊ぼう。

ーーーー

自分がしあわせになったときに、そのしあわせを渡したら、みんなしあわせになる。
保育園が無償化しても、それでしあわせが増えるかどうか。

そういう話を大人たちがしているようにはおもえない。

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8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。

バイリンガル環境で育った子供が、帰国して、「9歳のときに英語が喋れなくなる」のはよく聞く話。
これがどういうことかというと、脳が内言を強化する時期。
つまり今までに育ててきた言語能力が、前頭葉を刺激して「自己内対話」を行う時期。
この時期に、子どもは自分で考えて言葉を使って、自分の状況を説明したり、考えたりする。
その言葉を「口に出して」話し、応えてくれるだれかがいて、世界を理解するための、大人の言葉かけを前頭葉のなかに刻み込んでいく。
だから日々日常の中で使わない言葉を脳内に止めるコストよりも、脳は、日々日常にある言葉を使って自己対話能力を大きくしていこうとする。

「8歳、9歳で英語を忘れる」のはそのためだと僕はおもっている。

この時期に「宿題を全部終えてから」と言ってしまえば、好きなことをする前に嫌いなことをやらなきゃダメという価値観をつくるし
発達に合っていない理不尽なできない宿題でも「やらなきゃダメよ」といわれれば、人生そんなもんかとおもってしまう。

怒られてばっかりいたら、「どうせ僕は」という回路をつくるかもしれない。

逆に、感謝の気持ち、人間関係、オシッコやうんこのように怒りや悲しみを排出すること、
羨ましい!が妬みにならず尊敬の念になるような変換装置をつくること。
他人の気持ちについて話す機会をもつこと。
落胆した時、がっかりした時に、自分を励ませるようになること。
自分の使う言葉を、しっかりと噛みしめること。
世の中の仕組みを理解すること(感情はつくられるもの。それをどう使うかは、自由。とか。学校だけにこだわらなくてもいいんだよ。ほら、こういう人もいる。とか。)

そうした「心の言葉」が脳に刻まれるといい。
こうした心を渡せるのは、本当に、一番身近なのは、お母さんだ。
これはもう、そうなのだ。

お母さん!

そういう大切な時期、子供はなんだってできるようになる。
なんだってやらせるのはいいが、会話、対話によってこのような非認知能力、情動知性、社会的情動スキルの黄金期をやり過ごしてしまっていないか。子供は常に、学ぼうとしている。学ぼうとしていることを学ぶことを励ますだけでいい。

今、お母さんたちの不安の声が聞こえましたが。
その不安をマネージメントするのは、お母さんの宿題。
お母さんができない(やりたくない)宿題を子どもに押し付けないように。

例えば、「◯◯したくない」と子どもが言ったとしよう。
どうしたの?何があったの?もう少しお話してくれる?といって、まず感情が整理できるように。

「したくないことでもさせなきゃ忍耐力がつかないのではないか」と考えたら、アウトです。

それは、病気の学校の先生の考え方に近いような、、、

幼年期の刺激で発達しやすいのは、高度な精神的能力や人格というよりむしろ基本的な感覚運動能力である。しかも、そうした能力を培う力は成長するにつれ非常にゆっくりと衰えていく。(『子どもの「遊び」は魔法の授業』p.61)

「そのようなとても早い時期に、概念やいろいろなスキルを教えるのは、まったくの時間の浪費である。たとえ、丸暗記をさせてもそうだ。なぜなら、体験を伴わない理解は、学習にならないからだ。(『子どもの「遊び」は魔法の授業』p.61)

どうして多くの日本人は、しあわせになろうとしないんだろう。
子どもがいつでも教えてくれるのに。

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英語の応用の勉強って何?

オトノネyoutubeチャンネルでこんなコメントが届いた。

問い
英語の応用の参考書のおすすめとかあるでしょうか?

答え
受験英語にもいろんな英語があります。どんな英語を求められているのかによっても違うし、英語の好き嫌いもあるとおもいます。僕は国語の教科書にある文章を英作して先生にみてもらっていました。そういう勉強法もあるとおもいます。『英文解釈考』は有名ですね。僕は中原さんの『新英文読解法』も読んでいました。が、今の時代、生の英語からたくさん吸収するといいかもしれません。興味ある分野があれば、英語圏でその分野がある大学の「大学案内」をみたり、英語の記事をみたり。英語圏の人のツイッターをみたり。情報の入口がつかめるとおもいます。今の時代、そういった「応用」も簡単にできます。答えになっているでしょうか。美しい言葉と出会えるといいですね^^

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学校の先生を助けてあげよう。

もしこういう先生がいたら、お母さんから「休んでいいんですよ」と言ってあげてほしい。
学校の先生の多くが疲れて自分でも何をしているかわからない、のかもしれないから。

学校の先生は、病気の人が多い。職業病。

助けてあげなくちゃ、学校の先生はもう、限界を超えているから、無理なんだということ。
これからもっとたくさん忙しくなる。

学校の先生を助けてあげてほしい。

じゃないと宿題やったかとか罰を与えるロボットになってしまう。
そのくらい、先生は疲れている。疲れていない、実際に自動思考(プログラミング)で動いているロボットの先生もいる。

そうでなければ、先生という仕事を続けられない。
救いを求めて、こういう場所にいく先生もいる。
助けてほしい!と叫びたくても叫べない先生がいる。

いやもちろん、ちゃんとした先生もいるけれど。
っというか、ちゃんとした先生というくくりは属性に聞こえるかもしれないが、属性ではなくて、学んでいる先生、対話している先生、自立した先生、積極的に責任を負っている先生のことを、僕はちゃんとした先生といっている。

ーーーーー

子どもが疑問に思ったことを「学校の先生が言ったことだから」と、親が思考停止になってはいけない。
その「悪癖」は子どもに移る。否定せず、批判を試みるといい。
学校の先生から言われたことを鵜呑みにする子どもにならないためには。

学ぶ人間に「いわれたことだからする」というセリフはない。
学ぶ人間にあるものは対話であり、理性である。

納得できないなら、どうするか?
そこからは、社会情動的スキルの出番だ。

オトノネひろげるシェアぼたん

【中学生】思春期前か、思春期中か。とにかく最後の子ども時代。何をして過ごすか。

中学生時代は、思春期前の、最後の黄金期。
思春期でいろいろなイベントが発生するまえ、
こういう大切な時期でもある。

『オプティミストはなぜ成功するのか』を読んでデイヴィッド・レヴィンが最初に目を惹かれたのは、効果的な時期についてのセリグマンの主張だった。悲観主義の子供を楽観主義者に変えるのに最適な時期は「思春期よりまえ、しかしメタ認知ができる(思考についての思考ができる)程度には成長したころ」であるという。いいかえれば、ちょうど子供たちがKIPPのミドル・スクールにやってくるころだ。性格について話すこと、性格について考えること、性格を評価すること。これらは全てメタ認知のプロセスである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.148)

思春期と言っていいのか、どうか。
中学生。
思春期と被っている場合が多い気がする。
僕は思春期らしい思春期がなんなのかよくわからない。

ただ、2歳か3才の第一次ウハウハ期がすぎてから、15歳くらいの第二次ウハウハ期(思春期)までに、子供がどれだけ成長するか。
1歳、2歳、4歳、8歳、という規則的な数字の増加が次に目指す数は16だ。
これを目安にしていいかもしれない。(僕は16才のときにイベントが発生した)

2歳をすぎてから4才ころまでに他者の状況を理解できるまで認知能力が育つ。
4歳から8歳にかけては、内言(思考)のためにたくさんの時間をかける。
8歳からはルールとか複雑なことがわかるようになったり、もうプロの人間。

で、思春期を迎えるまでに、自己認識、メタ認知、自分を見つめる自分、自己対話の能力が育っていること。
これが、16歳までに終わらせておく課題だ。

自己対話能力を使って、思春期を乗り越える。

自己対話能力がない子どもが、まだベビーカーにいれられて運ばれ続ける子どもが、高校生になってもたくさんいる。

高校受験をする時期、もしくは中学生活とは、自己対話能力、自己認識能力を高める時期であるといえる。
受験ばかりを目にかけてこっちに目をかけてやれているか。

まぁ、子供は勝手に育つのだけれど。

メタ認知、自己意識の強化の時代。中学生。

大人になってからの収入の差を生む変数は十代のころの身長の高さであった。16歳という形成期の年齢において比較的背が高かった少年は、社交的で運動の得意な若者になり、これが恒久的に彼らをやり手になるように調整したようである。この時点を過ぎると、たとえ後期の急成長気ごろまでに背が高くなっても、何の違いもうまなかった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.244)

中学校時代はこちこちマインドセットの子供にとっては、ターニングポイントだ。ドゥエックは、小学校ではこひこちのマインドセットの子供としなやかマインドセットの子どもにそれほど能力差はないものの、中学校に入るとこちこちマインドセットの子供の成績がすぐに落ちはじめ、それから数年で下がり続けることを発見した。ドゥエックの研究対象になった子供たちは、「僕はバカだから」とか「私は数学がダメだから」というように、成績の低下についてこちこちマインドセット特有の言い訳をすることが多かった。注目すべきは、子どもたちが自分の能力を普遍の性質のように語っている点だ。まるで、「私の目は茶色い」と言っているようなものだ(他にも、「先生の教え方がへたくそだから」とか「数学の教師はデブでいやなやつ」など、人のせいにする子どももいた)。(略)しなやかなマインドセットを教えた生徒には、脳は筋肉と同じで練習すれば鍛えられると伝えた。(略)なかには劇的な変化を遂げた生徒もいた。『「やればできる!」の研究』のなかで、ドゥエックはこう述べている。「ある日、研究に参加してくれる生徒たちにしなやかマインドセットについて説明していると、突如、ジミーという、どうにも無気力で投げやりな生徒が目に涙を浮かべてこう言ったのだ。”ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね”。その日を境にしてジミーはがらりと変わった。夜遅くまで宿題と格闘するなんて、生まれて初めてのことだった。そうやってきちんと早めに宿題を提出するようになったので、返されてから間違いを見直すこともできるようになり、ジミーはめざましい進歩を遂げていった。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.224)

ーーーーー

中学生は、子ども時代の最後の時期。

やり残したことはないだろうか?

これまでに関わってきた人にはどんな人がいるだろうか?
これまでどんな言葉をかけてもらいながら大きくなっただろうか?
どれだけ人の心、自分の心を感じられるようになっただろうか?

高校入試で大変な時期かもしれない。
が、中学3年生の夏、一度家族みんなで旅にでたり、ゆっくり今を感じてみたり、そうやって中3の夏という時期を大切にしてみたらどうなるだろうか。
高校入試が終わって、高校にいってから、その日のことを思い出して、元気になれたりしないだろうか。

自分は、大丈夫だと。

—–

6ヶ月、1歳、2才、4才、8歳、16歳、どの時期にも終わりはある。
この時期が来るまでに、心置きなく、心ゆくまで、その時に大切な関わり合いがある、と僕は思っている。

自然さが失われていくこの時代、子育てのあるがままの姿、「自然」を求めることが大変な時代になってしまった。

なぁ。

オトノネひろげるシェアぼたん

【失敗はない】オトノネ流、学びのプロセス。

成長!といわれたら、直線的なイメージを思い浮かべていませんか?
伸びていく一方、とか。(某大手予備校の矢印のイメージ)

ビジネスの世界で伸び続けることはできるかもしれません。(富国強兵、経済的な利益を無理に伸ばそうとして自民党公明党は国民の安全安心を無視していますね。)
ですが子育て、学びの世界では、伸び続ける、ということは、ちょっと変な話です。
(子育てをしている家庭は全員、少なからず野党に投票してほしいとおもいます。ちょっと学べば、そう思えるはずです)

ホルモン剤を射ったら数値が上がるとかそういうものではないです。学びは。
と、僕はおもうのです。

ライフステージのそれぞれで、らせんの大きな変化が生まれたりします。
らせんを描きながら、小さく振動しているような学びもあります。

壮大な、ぐるぐる。

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねさんが泣いたワケ

おとのねさんは泣いていました。
この記事では、その理由を、お伝えします。

世界を勘違いしていた自分が情けなかったのか。
解釈はいろいろだけど。

無力感からか。

泣いていました。
混乱して、泣いてしまいました。

なんて小さな、小さな塾なんでしょう。
なんて弱い、弱いおとのねさんでしょう。

情けなくて、泣いたのかもしれません。

ーーーーーーー

ーーーーー

とある社会福祉法人が新しい事業をするというので、法人の偉い人と話す機会があった。
子ども関連の事業を立ち上げるけど、ノウハウがなく、人を探しているという。
で、結局何のためにその事業をするのかということを聞くと。

新しい事業をしないと、生き残れないから。

ということ。

僕は、現在の、大部分の放課後ディサービス、保育所、児童発達支援の「ずさんさ」を見てきたから、同じようにやったら不幸が増えるだけだと言った。

考え方が違うと一蹴された。
考えたこともないのだろう。

現在の、福祉に携わる人たちが薄給で長時間労働していて、時間もお金もなくて子育てもうまくできていないという話をしたら。

私はお金に困ったことがないからわからないと一蹴された。

新しい事業は、法人を潰さないためだ。
雇用者を守るためだ。
地域住民の人へのアピールだ。という。

福祉サービスは溢れている。
お客の取り合い。
それって福祉なの?

高齢者福祉業界は民間で高いお金を払って高いサービスを売る事業所が増えてきている。富山ではまだそうした民間参入はないが、新しい施設は、高額な利用料をとって運営するという。では、お金がない高齢者は?

そうした格差の問題は役所の仕事であって、私たちの仕事ではないと。

僕とは見ている世界が違う。

この人は、社会福祉法人の理事長から直々に命を受けて、この新規事業に着手している。
退職した後、いわゆるあまくだりだ。
役所とのコネもある。退職金もがっぷりもらっている(オトノネに寄付してくれといったら今はこの仕事が楽しいからそれどころではないと言われる)

話を聞いていると、心が伝わらない。
「能力の高さ」をプレゼンしていたように僕は思う。

自分たちが生き残ることを考える。
極めて当然のことかもしれない。
戦乱の世の中、食うか、喰われるかだから。

心なんて、いらないののだろう。

ーーーーーー

ナチスの党員の一人に、アドルフ・アイヒマンという人がいる。
いかにユダヤ人を強制収容所に送るかを計画し、合理的に、効率的に実行した人が、戦後の裁判で言った言葉。

「命令に従っただけだ」

心なんて、いらないのだろう。

心をもっていたら、殺されていただろう。

ーーーーーー

同じ福祉という言葉を使う、全く別の心をもった人間が目の前にいて使っている言葉の響きを聞いて、僕は泣いた。

かつて福祉というものは、篤志家(とくしか)が財産を叩いて、だれからの援助もなく心を尽くしていくものだった。
それが日本では「西欧と比べられても遜色ないように」と補助金を使って誰でも行えるものになった。

海外に対して成果をアピールする福祉の定期テスト対策。

事業所は「へいへい、お金をもらえるなら、あなたのお役にたちますよ」といいさえすれば、福祉を始められる。
欧米諸国にたいしてのアピールができれば、国は目標を達成できる。

福祉の本質は「日本の福祉の成績を上げること」であり、評価するのは「欧米諸国」といったところか。

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「必要最低限の生活」という言葉がある。

日本国憲法 第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

努めるというのは、努力義務であって、やらなくても罰則はない。
福祉は、必要最低限の生活のためにあって、だから生活保護レベルの給与しか払わなくてもOKらしい。

生活は必要最低限にして、心は最大限、豊かにしようか。

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事業を維持するために。
資金がいる。
時代は変わる。
新しいサービスが必要になる。
「よりよく」するために。
もし雇用者に十分なお金を払っていたら?新しい事業ができない。
雇用者が働いている組織のために、組織が潰れないために、儲けなくてはいけない(理事長が外車にのっていても)。

そもそも雇用者は「薄給を承知で」働いている。
だから、何も問題はない。

考え方が違うだけ。

働くことの対価に不満があれば、仕事を変えればいいだけ。

ーーーーー

社会福祉法人には歴史がある。
理事長が自分のお金で作った法人は、利益を一人が独占できる(外車パターン)。
昔ながらの、みんなが寄付を出し合ってつった法人は、理事が毎年変わっていく。

結局、一人一人人間が違うように、組織もひとつひとつ違うということ。
僕はその組織に文句をいうことはできない。

ただ僕は福祉という言葉を二度と使いたくないとおもった。

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るろうに剣心という漫画がある。
「ある出来事」がきっかけで、悲しみの末に、「殺さず」を誓い、逆刃刀で戦う剣士の話。

キングダムという漫画がある。
「ある出来事」がきっかけで、悲しみの末に、「殺しまくる」を誓い、誓いの矛で戦う剣士の話。

どちらの漫画の主人公にも、仲間がいる。

ワンピースという漫画がある。
いわゆる「悪い」海賊もいるし、「いい」海賊もいる。
どちらの海賊団にも、仲間がいる。

いろんな「つながり方」がある。

どちらかが潰れ、どちらかが生き残る。
争い。

よりよく生きるために。

必要最低限の生活を、雇用者に強いよう。
それが、現在、日本で組織が生きるルールだということ。

経済格差で悩んでいる人は、その職を選んだのだから、仕方がない。
積極的に自己責任を負っているのだから。
しょうがない。

僕が他人の生活にあれこれ口を出すことではない。

多くの事業所の福祉は国の「定期テスト対策」に協力しているのであって、本来の福祉well-beingを目指してはいない。
教育も、福祉もこの点、似ているようにおもう。

ルールは簡単だ。
これが現実だ。

現実が、これだ。

では、ゲームを始めよう。

ーーーーー

僕が泣いたのは、どうしようもなくコミュニケーションができなかった心の断絶を感じたからだった。
今でも覚えている。大学生の時、重度知的障害者施設で実習をしたとき、僕は泣いた。

その時と似ている。

ゲームを始める前から、泣いている。

ーーーーー

僕には僕の心があって、心の使い方がある。
が、こんな不安定な心では、前頭前皮質は発達できやしない。

手に余る。
なんと弱々しい。

僕は自分の心に幻滅したのだった。
なんという傲慢な、なんという世間知らずな、なんという、愚かな。

困っている人がいると思っていた。
けど困っている人はいなかった。

喜劇として笑うしかない。

一人ごっこ遊びをしている、ドンキホーテ。
サンチョがいたからこそ彼の旅は側から見て笑える文学になったのだろうが。

泣いている場合ではない。
自分の無力さに癇癪を立てている場合ではない。
それじゃぁ子どものままではないか。

とりこぼした「発達の課題」に今更とりくんでいるおとのねさんでした。

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経営者が一人で出資してつくった社会福祉法人は、経営者の私物だ。
みんなが出資してつくった社会福祉法人は、みんなで理事をまわしていく。

これから民間が参入して、お金をもった老人は、高額だけど、そっちを選ぶ。
だから高額のサービスを提供する。

子どもは?

子どもにも高額なサービスを提供するか。
高岡市の大人が子どものために高額な福祉サービスを選ぶか。
選ぶしかなくなるのだ。
その近くにある保育所が市立で、役所は費用がかかるその保育所を潰したいから。
(地方公務員として雇うよりも、賃金を安くできるから)
市立が潰れたら、その地域には、新しくできる高額の保育所しかなくなる。

選べない。

なんと戦略的な。
その人物は役場ともコネクションがあるから、そこまでできる。
役所も私物化される。

けどそれが現実。
放課後児童クラブも高岡市は民間に補助金を出さない方針だが。
それも、コネで解決するという。

そうして「地域に選ばれる社会福祉法人」を目指すという。

事業が縮小したら、それだけ雇用者が(もちろん無償で)残業する時間が減る。
それでいいではないか。
経営者がもらう利益が減るだけで。

けど老朽化で建物を建て替えないといけなかったり、なんだかんだお金は必要だ。

もう頭がパニックになる。

善悪なんてこの世にはない。
ただみんな勝手に自分がしあわせになるために生きている。
伸るか反るか。
自分次第。

世の中のルールは変わらない。

僕はまだこのルールを使いこなしていない。
僕は僕ひとりのしあわせだけ考えたらいいんだろうか。
それってしあわせなんだろうか?

僕は目の前の人が苦しんでいるのが気になる。
目の前の子どもが大人の金切り声の中で暮らしているのが気になる。

塾業界もそうだ。
一斉授業。効率的な経営。
利益は経営者に。
事業拡大。
収益を上げる。
競争。

目の前の生徒は見えていない。
見えているのは、遠くにいる、まだ塾にきていない親。
目の前にいる生徒は見ていない。
そういう塾が、お金を儲ける。

学校もビジネスだ。
生徒を追い込み、囲い込み、契約し、利益(実績)を得る。
学校の場合は収益が上がるわけではない。
ただ学校の見栄がハレルだけだ。
それでどれだけの生徒が苦しんでいるかなど、見向きもしない。
「ここを選んできたんでしょ?だったら、やりなよ」
たしかにそうだ。

たしかに。
目の前の生徒は見えていない。
見えているのは、学校の名誉であって、生徒の人生ではない。
目の前にいる生徒は見ていない。

同じ世界にいるはずなのに、これだけ考えていることが違う人間がいる。
そんな当たり前のことを、僕は今、学んだのかもしれない。

こんなわけだから、好きなことをして、ヘラヘラと生きていければいいんじゃないかとおもう。
ポジティブに生きる、人工的に幸せをつくりだす能力が、生きる力かもしれない。

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サイコな人が経営している社会福祉法人は弱肉強食の原理で成り立っている。
組織の内部に対しても。

僕は強く、やさしくなりたいとおもった。
雇用者の限界を超えた仕事をふりわけて新しい事業に手を伸ばそうとしているサイコが強者になる世界。
僕はそんな世界で、強くなりたいとおもった。

ありのままでいて、自分が強くなる姿勢。
合気道でもそう。自分の姿勢がかわれば、強くなる。
僕も強くなろう。

ーーーー

僕が出会ったこの人のパーソナリティ特性は明らかに「この仕事」に向いていた。
仕事が楽しくてやめられない、という。

誰のための仕事をしているとか、そいういう倫理には興味がない。

ただ拡大することがおもしろいのだ。

こういう人はいる。

羨むことも、嘆くこともなく、ただ自分を強くしていくしか、ないのかもしれない。
風車に向かって行く姿がドンキホーテにならないためには。

僕は弱いから、まだ強い人と戦えないというだけだ。
僕は強くなれるだろうか?
大切なものを守るために?

僕が強くなるためには。
僕のパーソナリティ特性を極限まで突き詰めるしかない。

それは、不足した僕の一部を、誰かに助けてもらうことを意味するのだけれども。

「お金に困ったことがない」管理職が、薄給で長時間違法労働をしながら目の前の利用者に日々関わり合っている献身的な労働者によって支えられているように。
お金はあるが、福祉には興味がない経営者が社会福祉法人をつくり、巨大化していくように。

本性を出すことが、強く生きることになるんだろうとおもう。
僕はこの時代で、僕らしく生きるために、いろいろと、捨てることがたくさんあるようにおもう。

僕は僕の持っているものを出す。
それで、何か、もっとハッピーなことは起きないか??????

「私にはひとつ目的があります。それはもう一度金持ちになることです。私にはそれができる。金持ちの生活がどんなに素晴らしいかわかっていますからね。人生なんて、金がなければ生きる値打ちはありません……引退なんかしたくないですね。死ぬまで働きたいと思っています。いまはロシア語を勉強しているところです。ロシアの女性は世界一美しいし、生き生きしていますからね……いつかウクライナ出身の女性と結婚して、彼女に良い生活を見せてやりたいと思っています」一度は頑張って百万長者にのし上がり、それからすべてを失い、またもや何もかもはじめからやり直そうとしているこの人物。彼の楽天主義、断固たる決断力、そして捨て身の蛮勇ぶりには、感服せざるを得ない。何よりも、彼がそうしようというのは、必要に迫られているからではないのだ。ビルにとっては、チャレンジを引き受け、報酬を手に入れることが猛烈に楽しいのである。(『パーソナリティーを科学する』p.98)

マリアが他の人のためのさまざまな活動に道徳的満足を感じているのにくらべて、この人物が異常なほどの関心を寄せるのは、自分の個人的な成功である。「私には未来の自分んお姿を見ることがdけいる。そのとき、私は偉大な仕事を達成し、革命的な新しいアイデアを発見し、全世界の人々から畏敬の念を持って見られている。」そのような将来の展望が他の人々から利己的とみられることについて、彼ははっきりとこう述べる。「そんな批判は、頭の悪い人間どもが私の評価を落とそうとしているだけのことだ。自分より劣る人間たちのことになると、なぜいつもこの利他主義という考え方に屈服しなくてはならないのか。私が重視するのは、他のだれの利益でもない、つねに、疑いなく私の利益である……サバイバルとはそういうものではないのか」(略)「私は人を助けるのは好きではない」ー別の場面で彼は言うー「人道的な愛に駆り立てられて人類の病を救おうなどと、考えたこともない。」明らかにこの報告とマリアの道徳的満足についての報告は、調和性のスペクトルの対局にある。そして私たちの大半は両者の間のどこかに収まるのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.178)

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批判とは何か。その3(日本の遺伝子・伝統との闘い)

パーソナリティ特性の科学、とか、スイッチ!とかを読みながら、人間の生物くさい側面を大切にしたほうがいいなとおもった。
限りなく動物になったら、もっと楽になるような気がする。
人間らしく、動物らしく。

命。

SNSでいろんな「悪口」が飛び交っていることに疲れてしまってとりあえず考えたことをまとめました。

ーーーーーー

日本には日本の遺伝子がある。伝統がある。この伝統を変えるには、いろいろな実験をしたらいいとおもう。山本太郎を総理大臣にするのが一番手っ取り早い。そこまでたどり着くために、現政権の悪口をいうのではなく、大人同士がコミュニケーションをし、教養を高め、「明確な目標」をもって子どもを育てることが大切だとおもう。それは、利己的な、自分の能力を高めることに必死にさせるのではなく、共感能力をもった子どもを育てることになる。それはつまり、競争から子どもを外すことにつながる。多くの親がここで、古い時代に、日本の伝統に、科挙制度の歴史に、足を引っ張られているのだろう。

子どもは伝統と、日本の遺伝子と戦っている。歴史と戦っている。
大人がどうして、子どもの先頭に立って戦わないのか。戦場に送り出す司令官になっていないか。

国民の安全を守れない現政権を批判するのと同時に、子どもの育ちの環境を守れていないかどうか、自分自身を批判していかなくては、ただの悪口になってしまう。それをみた子どもは、悪口ばかりを言って、何も行動しない大人になるだろう。それが日本の伝統であり、精神文化であり、遺伝子のように、僕はおもう。どうしたらいいか?とりあえず、僕はオトノネをつくりました。これも実験。誰もやったことないんだから。

伝統と言うなの、遺伝子プールと言う名のアウシュビッツから、僕らはまだまだ自由になれそうにない?

オトノネひろげるシェアぼたん