宗教とは何か。

平和に生きる。
心豊かに
ただただよいものを見つめて

そうすると、自民公明党がつくる地獄絵図を投票によってどうにかするということに意識がむかないかもしれない。
政治は、触れたら痛い、不快になる話に、おおいになりうるから。

ただただ良いものに関わる。
そのアプローチで幸福を得ようとする人の心を、宗教と呼んでいいのかもしれない。

宗教は心の免疫機能を集団で高めようとするしくみだ。
それがうまく機能すればいい。

ただ、選挙の時だけは「戦う人」の仮面を被って、あの無機質な選挙会場に赴くのはどうだろうかと、僕はおもうのだが。
自民公明党以外にとりあえず一票を。子どもたちのために。僕はれいわ新撰組の安冨さんにいれますが。

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こんな記事を書いたことがある。

で、宗教について。

言い方によっては、オトノネも宗教だし、学校も宗教だし、なんらかの価値観をもっている人たちがその信念をもって人と関わるものは全て宗教とすれば資本主義、共産主義、主義のつくものはみな宗教だ。
心理学自体、科学的に裏付けられた宗教といえるかもしれない。

人間は神秘の塊だ。
理解不能に苦しむ前頭前皮質と苦しみを生み出す扁桃体の果てしない戦いといってもいい。
と僕は思っている。

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バリヒンズーの話をすると。
バリではほとんどの人がヒンズーだ。バリの土着の信仰と、インド由来のヒンズー教が合わさってできたもの。
日本の原始信仰と仏教が合わさって日本仏教という世界にない、唯一の仏教が出来上がったのと同じ。

宗教は生活の一部だ。
宗教は、人が集まる場所をつくる。
宗教は、ごくごく自然なコミュニティーをつくる。
「祭りをすることになっている」から祭りをするのであり、その機能は人々がそこに何を求めるかできまる。

バリ島では、ほとんど儀式のために生活しているようなものだ。
儀式は装飾品(結構高い)で飾られ、食べ物が供され、芸能に人々は目の耳を楽しませる。
もちろん神様に向けてやるものであるが。十分に行きている人たちも楽しむ。
一族が、血を同じくした王家があつまる儀式(寺)もあれば、その地域に住む神様とつながった人たちが集まる儀式(寺)もある。

この場合、宗教は暮らしの一部であり、伝統と神様と人のつながりを守り、また子供達が芸能を通じて大人の社会にでる場所であった。
バリヒンズーはこのように機能している(だが近代化で、昔は夜通しやっていたものが短くなったり、いろいろ変わってきているが)。

儀式の中で、神がかる人がいる。
踊りながら、楽器を演奏しながら、とりつかれてしまう人がいる。
そういうことが許されているのがバリヒンズーだ。
そしてその人を「正気」にする手順もちゃんとある。

狂うことが許されている。
それがバリヒンズーであり、それを代表するのが「ランダとバロン」の戦いだと僕は思う。

バロンは、鬼母神であって、子どもを育てるいい母親と子どもを食らう悪い母親の両面を持つ。
日本で言えば山姥だ。金太郎のお母さんだ。善とともに悪である(鬼母神は歴史の中でおそらく獅子舞に吸収された日本である)。

バロンは聖なる動物で、善を司る。

で、ふたつの神はバトル。
そして、どちらも勝者にならず、儀式は終わる。

バリヒンズーはそういう世界。

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仏教はどうか。

仏教は「離れる」ところに焦点化される。現世を離れて涅槃にたどり着く。
ブッダが科学的に実験した末にたどり着いた、幸福のあり方。
それは社会的な祭りというよりも、個人的な修行、振る舞い、思考法によって完成される。
ブッダが寺をもったかはしらないが、もっていなかったのではないかとおもう。

ブッダの仏教には神はいなかった。
あるのは、「仏」の姿、修行した末の人間の姿だ。

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キリスト教。

ニーチェが「神は死んだ」と言ったことは有名だ。
神の死亡宣言は、どんな意味があったのか。

キリスト教が作り上げた中世、封建制で人々は教会に集まった。
教会は神とつながる場所であり、言葉は特権的な階級である人々に独占されていた。
人々は、祈った。

救われた。

ニーチェはいう。
そんなお手軽なのはなぜか。
それは、弱さだと。

人間の弱さを包み隠すために、教会があるのだと。
(教会がポルノの図書館であったことは有名な話だ)

それって変じゃないかということで、プロテスタントがでてくるわけだが。

ニーチェはそれを含めて、「いやいや、人間は人間らしく、人間らしい強さを大切にしたいよね」といったのだ。
だから弱さを隠してしまう、そして弱いものが集まって慰めあっているキリスト教を批判したのだ。

宗教は、人間観を表す。

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日本仏教はどうか。

日本仏教は、時代と主に大きく変わる。
中世まではだいたい貴族の教養。庶民に定着したのは何かといわれれば、歌や踊りの要素を深めた娯楽的なもの。
近世に入ってからはこの機能は大阪や江戸では歌舞伎が担うこととなった。武士は寺というよりも儒教、朱子学といった実利的なものを学んでいた。
明治になってからはもうボロボロ。

あまりにもめまぐるしく変わっていった。

現在は多くの新興宗教がある。

僕が大学時代に出会った人は「環境問題」に取り組む人で、いわゆる専業主婦のお母さんたちから高額のお布施(もちろん、金額は指定しないが一回、一筆文字を書くだけで1万円とか普通にもらっていた)をもらう。
グリーンピースだったか、クジラをまもるんだ!といいながらスポンサーからお金を集めている過激な団体もある。
富山では心に病んだ高校生を狙って神秘体験をさせる古着屋があったりする。結構な高校生がそこに通っているらしい。

富山県もいろんな信仰をもっている。
持ち家信仰。
長男信仰。
この二つは大きい。
学校信仰もある。
ママ友信仰。
野球信仰。

これをまとめて富山教と呼んでもいい。
生活に根ざした宗教だ。

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で、結局、宗教とはなんだろう。

そんなどうしようもない問いを立てる僕は研究者教かもしれないし、白痴にみえるかもしれない。

僕は宗教の機能を考えたい。

宗教は人が欲しいものを与える。
それがお金であれば、いわゆる「自己改革セミナー」とか。

宗教は人が一番欲しいものを与える。
たとえば「仲間」とか。

東京で阿波踊りを楽しみにしている人が集まって練習をしている。
それを宗教団体としてもいい。

宗教は人が欲しいものを与える。
点数が欲しくて塾に行かせるなら、塾も十分に宗教だ。

宗教は人が欲しいものを与える。
そこには、日常生活では聞くことのできない言葉に溢れている。

宗教は人が欲しいものを与える。
それは自分が何か力をもっているという証であるかもしれない。

とおもったときに、バリヒンズーはどこにも該当しない。

資本主義という宗教は、人々に渇きを与える。
欲しくないものでも。ただ生活の中にもう住み着いている。

ニーチェは言っている。
「神を勝手に作って、都合のいいように使うな」と。

真言宗の開祖空海は、実は本当は密教をやりたかった。
というか、山々を歩き回っているとおり、修験道の人間であった。
それがどうしてそうなったか、そう、人間の勝手で、新しい宗教の手本にされてしまった。
「いや、そんなつもりなかったんだけど」というのが、空海の気持ちではないか。
けど由緒正しさが求められる日本、空海は神様に祭り上げられた。

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最後に、シャーマニズムの話。

あれ?スエットロッジの話はどこかで書いたような・・・・

シャーマニズムは信仰の世界だ。
どれだけ人間に眠る神聖を自然と繋げるか。
自然に結びつけるか。

シャーマニズムは、基本、完全個別だ。
シャーマニズムが宗教とは違う点だと僕は思う。

祭司としての特権的な地位を持っているわけでもない。

そして、信頼は集めるが、お金はもらわない。
シャーマンとしての能力が、与えられているものだからだ。
それは運命であって、そうなるべくしてなった、といってもいい。
ぎゃくに、シャーマンとして生きなければ、死んでしまう。

お金にならなくても、やる。

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僕は、ちょっとその古着屋に関わっている高校生にはこう言った。
「お金がからむなら、やめておいたほうがいいよ」

何を得たいか。

宗教集団に限らず、組織は文化を持つ。
自分がしあわせを、よろこびを感じる組織や文化に所属したいとおもうのは当然だろう。
結局、ひとりひとりにとって、しあわせは違うのだ、というだけか。

芸能人に、少女たちに、お布施を渡している人が、たくさんいるではないか。

駅前で、お父さん、お母さん、子どもの3人が新興宗教のチラシを配っているのを見かけたとき、僕はおもう。
「この人は、しあわせになるために、お金をいくら払い続けるんだろう」

全国ツアーに同行する熱狂的なファンもいる。
その人は、しあわせになるために、お金をいつまで払い続けるんだろう。

貪るように本を読む人がいる。
その人は、しあわせになるために、お金をいつまで払い続けるんだろう。

新興宗教に入っている人は、選挙について考えるんだろうか?
宗教は、現実の問いには触れないのだろうか。
宗教は、たぶん、心のせいにするだろう。
環境のせいにはしない。社会のせいにはしない。
弱さのせいにはしない。強さのせいにもしない。
ただ、修行が足りないからだ。一緒にやろう。とかいうだろうか。

それだけの人が集まって、お金もあって、広範囲でやっていて、どうして社会は変わらないのか?
僕はいわゆる「宗教団体」をそのように見ている。
それだけ人が集まっても、世の中は変わらないのか。
人間には無理なのか。

宗教は、弱さなのか。
弱さを集めるから、弱いままなのか。

僕は人間の強さを発見したい。
人間の強さを生かしたい。

よりよく生きるためのエネルギー、力であるお金と時間の使い方が、果たしてそれでいいのだろうか。
僕自身にも全く同じことがいえる。だから僕は、オトノネをやりながら、自分なりのオトノネの形を、探しているところだ。

僕の強さのために。
しなやかさのために。

宗教団体、別にいいじゃん。

自分が力を感じる場所が、命を感じる場所が増えていけばいいとおもう。

誰もが、無力感、弱さを感じる心をもっている。
その心とどう向き合うか。きっかけも、みちのりも、歩き方も、人それぞれだ。

宗教団体の内部でコミュニケーションがとれても、外部では何も変わらないことがおおい。
それでも、何か「変わった!」といういっときがあるだけでも、楽になるものだ。
たとえ一時的であっても、それが何かのきっかけになることがあるだろう。

ただ、それだけ。
ただ、オトノネにお金が入らないから、僕はかなりふてくされているとおもう。

学校の先生が宗教団体に入らなくちゃならないほど、子どもの先生が宗教に入らないといけないほど。
学校の先生はもう限界。助けを求めている。

不登校の親の会みたいなのも、人によっちゃ「宗教みたいにあやしい」となるだろうか。
そう考えると、人が集まればなんでも宗教だ。

機械で24時間作業させ、人間が機械に従事する「二交替教」とか笑

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