人と人が集まるとできること

今日、オトノネにお客さんがきた。
お客さんというより、オトノネが好きな人が来てくれた。

女性(なぜかオトノネは生徒も女性の人が多い。なぜかは知らない。いやお母さんたちとよく喋るからそんな気がするだけだろうか)。

現在、家庭教師のトライで搾取(6割をトライがもっていく。トライを利用する人はこの構造に加担していることを知っているだろうか。コンビニは本社が5割もっていく)されていて、でも子どもたちとのやりとりを聞いていると、ああ、子どもが出会って素敵に成長できる人なんだなとおもえた。

この人にパーソナリティー特性のビッグファイブの評定を出してもらった。
ビッグファイブって何?という方はこちらへどうぞ。

僕の評定と見比べると、一致している場所もあれば、一致していない場所もある。

気があう、とおもうのはたぶん一致している場所で。

だけどもっとおもしろいのは、女性、男性という違いからか。
でこぼこしている場所が、二人だったら補える感じ。

それがとてもおもしろかった。
子どもにとって何がいちばん「適切か」は違う。
僕一人ではできない関わりが、他の人にはできるかもしれない。

一人でできることもあるけれど、誰かと一緒だからこそできることがある。
それが家族、であったり、仲間、であったり、同僚、であったりするはずで。

管理する側される側。
命令する側される側。
そういう図式を潜在的に教えてしまう学校のシステム、会社のシステムで、このよろこびが味わえるのか。

あれだけの人数が集まっているのだから、すごく楽しいことが、すごくいいことが、すごくしあわせになれることができるはずなのに。

組織になると、どうしてか、それがうまくいかない。

らしい。

男性と女性。
太極図のように、そこには優劣がない。
得意不得意がある。

この二つの原理がお互いに組み合わさって行く中で、子どもは自分のバランスをとりながら、成長して行く。
それがとても、しあわせなことのようにおもう。

ビジネスの原理を家庭に持ち込んでいないか。
お母さんにはお母さんの役割がある。

宿題やったの?というセリフにも、分担があるのかもしれない。
お母さんなら、、、宿題、難しいの?などと、声をかけるのかもしれない。

お母さんはお母さんの言葉で。
お父さんはお父さんの言葉で。

そういう多様な言葉の中で育つこどもは、

しあわせだ。

オトノネ家族募集中!!

オトノネひろげるシェアぼたん

本当に不思議な【富山ブラック】富山県高岡市という子育ての条件。幸福度と自殺者。


富山県で子育てをしているお母さんへのメッセージです。
高岡市のオトノネがなくなるかも(うーん。うーん)ということで書き始めたこの記事。富山県の話になりました。

知らない単語や話題が出てくるとびっくりしてしまうお母さんにはつらいかもしれませんが。
できるだけわかりやすくしたつもりです。

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まず最初にこのデータから

自殺者数、とありますが、人口10万人あたりの数値に置き換えているので、自殺率、になります。

自殺者数 [ 2016年第一位 秋田県 ]https://todo-ran.com/t/kiji/18573

自殺者数 [ 2016年第一位 秋田県 ]

https://todo-ran.com/t/kiji/18573

自殺率でいえば、東京よりも多い。
最近、富山県に住む知り合いの知り合いの人が2人ほど自殺したと聞きました。
そこで調べたわけなんですが。

その方は「富山県は闇が深いから、外に出なさい」と親から言われたそうです。

こちらは、幸福度ランキング2018

都道府県幸福度ランキングで高知県が最下位はなぜ?理由が意外だった!?

幸福度調査をした母集団の人たちが誰か、偏りがないか。
(自殺者の多くは無職の人、無職の人に幸福度の調査はできないだろう)

福井県は自殺者が少なく、幸福度が高い。
無職者の数はどこの県でも同じだというのが僕の直感。で、調べてみた。

完全失業者とは、仕事をしていない人のこと。
留意点としては、統計として把握しきれていないので、あくまでめやす程度にしてください。ということ。
https://todo-ran.com/t/kiji/11187

富山県は低い。2016年

生活保護受給世帯をみると。
http://grading.jpn.org/y2040003.html#map

富山県は、なんと、47都道府県で生活保護受給世帯が一番、日本一、少ない。

なんで、死ぬの?

経済的な問題ではない。
ではなにか。

心の問題で死ぬ。

と僕は思う。

奥田小の事件もありましたね。

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生徒が集まらなかったら本当に高岡のオトノネを閉じないといけなくなりそうだ。
お金に余裕があってやっているわけでもなく、生徒やお母さんをカモにするためにやっているのでもないオトノネ。

子どもの学びと成長を大切にしているオトノネ。
定期テストの点数を取ろうとして大丈夫かと本気で心配するオトノネ。

そんな心づくしのオトノネに、なぜか生徒が集まりません。
なぜかわかりません。
たぶん、出会ったことのない人への、高岡市の人たちの反応(恐怖心)なのだとおもいます。
男の人が怖い(お父さんからDVを受けている人たちがいます)人は男の自営業の人というだけで、オトノネを選択肢にいれないこともあるとおもいます。

いろいろな都合があるのだとおもいます。

けど本当にわかりません。
なぜでしょうか。

この文章が悪口に聞こえるひとは一度こちらの記事をご覧ください。
批判とは何か。その1

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いろんなお母さんたちに出会いながら、とりあえず県外からきた人が多くのカルチャーショックを受けて、価値観が違いすぎてストレス満載で暮らしていることが多いとわかった。少しでも部活の応援を休むと村八分にされる。親だけでなく子どもも村八分にされる。そんな話も聞く。大人だってひとりひとり違うのに、「みんな一緒」にされてしまう。

自分のペースで、自分の興味を、自分のバランスで取ろうとすると叩かれる。
学校でもそうだ。
子どものペースで、子どもの興味を、子どものバランスでやろうとすると「成績が下がる」のだ。
そして、成績が下がることは、どうしてか、「悪い」こととされている。

長男と結婚をした人はさらに、お父さんからDVをうけたり、お父さんのお母さんからいじめられることで心をすり減らしていることが多い。富山県、特に高岡市だろうか。ストレスフルに子ども時代を過ごしたお父さんがビジネスの原理でしか人間関係を築けないことがおおい。家族であっても。そういうギリギリのところで暮らしている高岡市の財政はさらに狂ってきている。日本はもうどこもやばいが。教育費にお金を出さずに、統合する。ただただ、縮小していくだけ。このような不安でさらに家を買うという風習で重圧がかかる。富山市も汚職で有名だし、まだまだ経済開発し続けている、教育費に税金を使わない、御三家信仰をまだ作り続ける。

このような場所で、

困っている人がいる。

はずなのに。
(別に困っていない人が普通に学習塾だからきていいのだが)

オトノネには人が来ない。

不思議だ。

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子育てに税金を使わずとりあえず国から与えられた条件で、市町村は頑張っている。
舟橋村も頑張っている(ようするに、選択なのだ)。
舟橋村は子育てで有名だ。富山市や高岡市が大きく、力があるなら、どうして子育てがこんなにも困難なのか?
放課後児童クラブは小学6年生までが対象だが、小学2年生までの学校がほとんど。それでも、役所は平気な顔をしている。

そうなのだ。

役所には役所の事情がある。
高岡市には高岡市の事情がある。
学校には学校の事情がある。

それぞれの都合で生きている。

お母さんたちが部活の試合で厚化粧をしていく事情がある。
子どもの部活の試合で厚化粧をしたい心理がお母さんのなかにある高岡市。

お母さんが、子どもの部活の応援でしか輝けないのだろうか。
子どもの進学先(高校名)でしか、子どもを褒められないお母さんが多いんじゃないか。
オトノネにきてくれるお母さんたちの話を聞くと、そんな想像をしてしまう。

子どもはもっとすごいチカラをもっているのに。。
僕はオトノネで、ひとりひとりのもっているチカラをみているし、気づくし、それをお母さんにも伝えている。
もっと自信をもって、お子さんを褒めてほしいから。

お母さんももっとハッピーになってほしいから。

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不登校が恥ずかしくて相談できない?
誰かに話すだけで陰口を叩かれて村八分?

そうして困っているお母さんもいるとおもう。
誰のためでもないけれど、もし一人で悩んでいるお母さんがいたら、気軽に来られるようなオトノネにしたい。

日本でタブー視されている政治の話をするのは、オトノネが本気で子育てを考えているからです。
が、別に政治活動をしているわけではありません。健全な精神活動の一つに、子育てへの広い視野の中に、政治への眼差しは不可避的にはいってしまいます。子育てする環境を考えるのですから。

ただただ自民公明党に票を入れるお父さんお母さんは、考えを改めてほしいとおもう。
子どもが育つ一番いい環境は、お父さんお母さんが生きているこの暮らしがもっと、心から、豊かになることだと。
自分の利益のために自民公明党に入れるより、もっと大きな視点で子どもたちの暮らしを守ってほしい。

表現の自由・信仰の自由・学問の自由が、この国で、どんどん小さくなっていく。
子どもも、そのサイズに合わせて、成長していく。

僕は、そんな子どもが大人になっても、僕が楽しく遊べないとおもうから、いやなのだ。
受け身で仕事をする、言われたことだけやる会社員か引きこもりの大人を育てるつもりは、オトノネにはありません。

人と違うことをして生きていい。
人と違う道を歩いてもいい。
オトノネでそうした信念を強くしていってもいい。

人と同じでもいい。
価値観にいい悪いはない。ただ学び続ける、批判し続けることでしか、人間は成長しない。
人と違うことをすると叩かれる高岡市で、困っているお母さんがいたら、もっと話をしてみたいとおもう。

話をするだけでも、「私はこのままでもいいんだ」「私が悪いわけじゃないんだ」とおもってもらうだけでも、お子さんにはその安心感が伝わるはずだから。お母さんが自分を苦しめていたら、子どもも苦しくなってしまう気がして、僕はいやなのだ。

理不尽の中で多くの才能を消耗している子ども。
お母さんも同じ状況かもしれない。

お母さんの天の才を、子どものために、伸ばしませんか。
オトノネはそういう場所です。

ちなみに、勉強をちゃんとやりたい、一流の勉強方法をしたいという人がきてもいいんですよー。

というかそのつもりで開塾したんですが笑

オトノネは、深い闇の中でどう生きるか、実験しているところです。

心が大事。

オトノネひろげるシェアぼたん

1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。

マシュマロ

第16章 麻痺した意志
ホットシステムを冷却するためにクールシステムを使える。が、ホットシステムに働きかけることで、ネガティブな感情に対処できるようになる。

ジョン・チーヴァーの1961年の短編「橋の上の天使」は、自制のスキルに優れ、心理的な免疫系が最善を尽くしており、自制心と石の力を働かせようという動機付けがこれ以上ないほど強くてもなお、クールシステムが容易に損なわれるることを教えてくれる。物語の主人公は、マンハッタンに住む羽振りの良いビジネスマンだ。アルバン彼が家に帰るためにジョージ・ワシントン・ブリッジに近づくと、突然、猛烈な雷雨に襲われる。風が吹き荒れ、この大きな橋が揺れているように感じられて、主人公(名前は出てこないので、「ブリッジマン」と呼ぼう)は、橋が崩壊するのではないかという恐ろしい考えが頭に浮かび、パニックになる。彼はなんとか家まで帰り着くが、自分がジョージ・ワシントン・ブリッジだけでなくほかの橋に対しても、身動きが取れなくなるような恐れを抱いてしまったことに間も無く気づく。ブリッジマンは仕事のために橋をしばしば渡らなければならないので、意志の力で恐怖心を克服しようと必死になるが、どんなに懸命に努力してもうまくいかず、しだいに落ち込み、自分はどうしようもない泥沼にはまってくくだけなのだと思われてならなくなる。(略)幸いなことにチーヴァーの物語の中では、「天使」がブリッジマンを助けてくれた。それはある晴れた日のことだった。彼は橋を渡らないで目的地に着く道筋を見つけることができずに、渡らなければならない橋に近づいていくと、再び恐怖に襲われた。彼はそれ以上進むことができなかったので、しかたなく車を道路脇に止めた。そのとき、一人の愛らしい天使のような若い娘が小さなハープを持って近づいてくると、車に乗せてくれるように頼んだ。その長い橋を渡る間ずっと、娘が耳に心地よいフォークソングを歌って聞かせてくれたので、彼の恐怖心は消えていった。ブリッジマンは、ジョージ・ワシントン・ブリッジを私のはやはり用心して避け続けたが、ほどなく、他の橋を渡る行為は日常生活の一部に戻った。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.231)

これは何かと言えば、赤ちゃんが1歳くらいで「社会的参照」をするのと似ている。怖い、どうしたらいいかわからない、そういう時、励ましてくれる、安心させてくれる、そういう「お母さん」がいることで、恐ろしさに慣れ、ついには一人でも渡れるようになるというもの。恐ろしい原因は何か?といわれたら、ない。恐怖は感情であって、焦燥と同じように勝手に出てきてしまうものだ。石橋を叩いて渡る気持ちは、合理的に「この橋は石でできており構造計算が云々」だと理解して渡るのではない。みんな渡っているから安心だ。というので渡る。最愛の「お母さん」が一緒だからわたる。渡ってみたら平気なものだ。よし、今度は橋の上から川でも一緒に眺めてみよう。といって、世界を広げていく。世界を信頼していく。

ブリッジマンの話は、精神や心理の先生方にいわせればトラウマということになる。トラウマをどう克服するか?そのための手法も数多く研究された。有名なのが、EMDRという手法。ひと昔ではその方法が「極秘」だったが、今はどうかしらん。図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法

例えば昔話で怪物が現れる。そこにとある琵琶法師がやってきて、琵琶を奏でる。すると、怪物(その物語では蛇であった)がいろいろと喋り始めて、とりあえずいい方向に物語が進んだ。怪物は理性を超えた情動、人間の手に負えぬ自然を表していることが多い。神秘的であって合理性では太刀打ちできぬものに関わりあう一つの方法が、身体的感覚的なアプローチである。

これは人間恐怖症、人の中に入るのが怖いとか、家の外に出るのが怖いとか、意志や心が麻痺している人たちが世界を広げるための助けになる考えだ。

少しずつ、慣らしていく。恐怖を飼いならしていく。そのうち、恐怖と付き合えるというより、恐怖の人相が変わってくる。そんなアプローチだ。怖い顔をしていると思っていたのに、付き合ってみたら、まぁなんだ。笑えるではないか。という。

ウォルピは、筋肉をすっかり弛緩させて深呼吸をするリラクゼーションのエクササイズをすれば、患者が必要とする、不安と相反する反応が生じやすくなるだろうし、そうすればリラクゼーション反応が次第に恐怖刺激と結びつき、ついには恐怖心が消えるだろうと考えた。この種のセラピーでは、リラクゼーション反応はまず、トラウマとなっている刺激位とほんの少しだけ関係している刺激(たとえば日差しを浴びた穏やかな浅い池に架かる小さな橋の絵など)に結びつけラエッル。そして、こうした穏やかな恐れの元に対する不安が克服されると、患者は次のもう少し恐ろしい刺激を呈示され、それを段階的に繰り返すことで、ついにリラクゼーション反応は恐怖刺激について考えることに、そして最終的には恐怖刺激そのものに実際に近づくことに結び付けられる。この時点で、もしその刺激がジョージ・ワシントン・ブリッジなら、患者はリラックスした状態でその橋を渡ることができる。(略)短編では、いかにもフィクションらしく、橋を渡っているあいだ、愛らしい天使が歌ってくれるという、これ以上ないかたちでそれが実現した。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.234)

愛らしい天使の姿を子どもに見立てることはできないだろうか。

いろんな恐怖心・不安感を煽る世の中で、扁桃体は熱くなっている。
それを毎日、子どもの笑顔でリラックスをしていく。子どもから、橋を渡る(会社に出勤する)ためのリラックスした状態になるためのお守りをもらうかんじ。子どもからたくさんもらっているお母さんは、しあわせだ。

この心の機能の根底にあるものは「模倣」だ。
信頼できるだれか、憧れるだれかを真似たいとおもう。
踏み入れたことのない、不安と恐怖の世界に入ってみようとおもう。
情動によって情動を乗り越える。

よりポジティブな情動によって、「感情の習慣」を変えていく。
たとえばそれが「褒める」ということなのかもしれない(煽てるオダテルのではない)。

このシステムがまだ作り途中の幼少期にさまざまな感情と出会い、それと関わっていくことの大切さをおもう。大人になると、扁桃体の深く深くに、ある種の神経は埋没していくものだから。その配線を変えるための努力を要する。誰かの助けが必要になるのは、小さいときでも、大きくなってからも、かわらない。

時間をかけて、目の前で起こっている小さな出来事を感じて、噛み締めながら、記憶の奥底で眠っている子どもの心を呼び起こして育てなおす。いつだってやり直せる。大人なら、閉じ込めてしまった子どもが心のどこかに幽閉されていると感じる瞬間が、あるかもしれない。

子育てとは、大人が自分の中にいる子どもを、橋を渡るときに現れた天使を、大切にすることなのかもしれない。

子どものおかげで、いろんな人と出会えたり、世界が広がる。
それがよろこびにならないで、一体何になるだろう。

僕が昔、大切な人から教わったことがある。
「嫌な気分になったらどうするの?」僕は聞いた。
「寝る!」と、その人は答えた。

「失敗してくよくよしちゃったらどうするの?」僕は聞いた。
「ヘラヘラしてたらいいんだよ」と、その人は答えた。

寝たり、笑ったり。
大切なことは、どうやら、子どもが全部、教えてくれそうだ。

がんじがらめになった自分の心を解きほぐして、リラックス!!!!!!リラッX!!!!

大人になってからも、大切なことを、学び続ける。

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第17章 疲労した意志

ニューヨークのアッパーイーストサイドにある上品なハンガリー領事館でのレセプションで、疲れ切った聴衆がプログラムの開始を待っていた。長い1日の仕事が終わった夕方遅くだった。40歳ぐらいからずっと年上までの、ほとんどはグレイか黒のビジネススーツを着た「芸術に造詣が深い」人たちが、ロレックスの腕時計やiPhoneを再び見やり、目を閉じ始める。散々待たされた後で、突然、スピーカー0から大音量の音楽がどっと溢れ出した。

今、悪いことをしたいんだ!あとで苦しんだってかまうものか!

寄せ集めのようなバンドがステージ上でその歌詞をいかにも楽しそうにがなり立て、バイオリンやギターを荒々しく演奏し、ドラムやメタル缶を叩き、カスタネットを打ち合わせ、ラトルを振り鳴らした。小さな古びた中折れ帽を被り、ヒッピーのような服装をしたバンドのメンバーは、お互いに呆れるほどふざけあい、いかにもまじめそうなx聴衆にも誘いをかけてきた。ハンガリーに旅行に行きたいという気持ちを掻き立てるために。居眠りをしていた聴衆は度肝を抜かれて、ロックコンサートで若者があげるような興奮した感性と唸り声を思わずあげた。もしそうでなく、プログラムが型通り、ブタペストのすばらしさについてのビデオと講演ではじまっていたとしたら、咳が止まらなくなったふりをしながら出口に向かう人たちがたちまち続出していたことだろう。バンドが興奮を引き起こすまで、聴衆はおのおの自制心の発揮し過ぎで疲れ、そろって深刻な意志の疲労状態にあったように見えた。毎日意志の力を使った努力を続け、ストレスの多い長い1日の仕事をやり通すだけでも、人は披露しうる。聴衆は内なるキリギリスを今すぐ喜ばせてやりたくてうずうずしていたので、羽目を外せ、陽気にやれ、ホットシステムを楽しませろというバンドの誘いを嬉々として受け入れ、そのあいだ、働き過ぎたクールシステムは一休みしていた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.239)

疲労感、意志が消耗した、ホットシステムがうずうずしているという感覚が次にどんな反応を引き出すか。

ある人は寝る。
ある人はゲームをする。
ある人は散歩をする。
ある人は修行を始める。
ある人は無茶食いをする。
ある人は麻薬に手をつける。
ある人は人を殴る。
ある人は人を捕まえて喋りまくる。
ある人は音楽を聴く。
ある人はスマホを手に取る。
ある人は・・・

意志の力は消耗する、ということは実験で証明されているし、それは実際、現実に僕たちのみに起こっている。
僕たちにはご褒美が必要だ。

そのご褒美があまりにも頻繁だと、「自制心がない」とされる。

どうしよう・・・

で、人はこうした自制心をどのように学ぶか。というものだ。

この本では、やはり親を真似る。という研究結果がでているという。
親が厳しい基準で自分にご褒美を出すなら子どもはそれを真似る(子どもに厳しい条件を出して、自分へのご褒美は甘いと、子どもは甘い条件を採用する)。

ご褒美が遠く、遠くにあるときでも、ある一定の条件があれば、それに向かうことができる。
この本では、SEALという特殊任務集団のメンバーになるための訓練は「懸垂が100回できたら、それは次の30回を意味するようになる」といった、永遠とも思える意志の力を必要とするものだ。ご褒美は遠く、輝いている。それに向かって意志の力を働かせ続けられる人もいる。

マークの体験や成功が浮き彫りにしているのは、意志の力について人が暗黙のうちに持っている理論の重要性だ。努力や我慢強さを守り立てて持続させるような、熱烈に達成を望む目標と、人を奮い立たせてくれる手本とさまざまな支援を与えてくれる社会環境とがあれば、意志の力は事実上無限の発達を遂げられる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.252)

赤ちゃんが必死に立ち上がろうとしたり、はいはいをしようとしたとき、向こうでお母さんが笑顔で励ましてくれる。
何かを喋ろうとしたら、お母さんが反応してくれる。
指をさしたら、そっちのほうを向いて、興味を示してくれる。

そうした関わり合いが、赤ちゃんの発達を、成長する意志を、自立する意志を支えている。
人は一人では、なかなか成長できない。

無尽蔵の支援をする。
子どもは自立しようとしている。
(ところで、子どもにとっての1番のご褒美ってなんだろう?たぶん、抱きしめてもらうことだと僕はおもう。高校生になっても、大人になっても、大切なことかもしれない。肌が触れ合う距離で言葉を交わせる人がいることほどのご褒美はないんじゃないか。思春期の女の子にはよくあること。男の子は日本の文化的にそれがなかなかできなくて、うーん。。。。。)

お母さんが一人でできいないこともある。
「社会環境」が大切だ。

だから、僕はれいわ新鮮組の安冨さんに一票をいれます。

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どんぐり山共同保育園

特定非営利活動法人どんぐり山共同保育園

とある夏の雨の日に。
富山県の呉羽山の麓フモトにあるどんぐり山共同保育園に行きました。
気になって気になっていた、一味違う、で有名な保育園。

森のようちえんと同じく、お母さんたちが自分たちの子育てをしていくために、チカラを合わせて始めた、という歴史がある。

行政からの補助なしでがんばってきたが、やっぱり厳しくなってきた(保護者の負担が増えた・・)、ので、こども園にした。
行政の介入を受けながら、なんとかがんばっている。

機能的でないさまざまな指示もある。
それでもバランスをとって運営していく、回していくために、制度を利用する選択をした。

いろんな発見があったので書き留めておきます。

椅子

3ウェイ!これはびっくり。

サーキット

子育ての方針としての体幹、体を育てる基本に忠実。
雨の日だからやるのかなーとおもったら、午前の時間はたいていやる、という。音楽に合わせていろいろな動物の動きをやったり、遊び、というか修行が入っているが、自然なしなやかさを外で遊びながら野山を駆け巡りながら獲得していた時代を保育園という狭い空間のなかで再現することは難しいだろう。。。

小麦粉の粘土でもあそべる。
掴んだり引っ張ったり伸ばしたり。
もちもちした感触、粘土の温度、うーん。たのしそう!

ジャンプ

年少か年中の子が、チャレンジをする。
子どもたちのチカラをきちんと把握して設定された距離。
あとは、心、気持ち。

坂を登る

サーキットの一部。
小さい子も踏ん張って登る。こりゃすごいわー。
園長先生が「体幹」という言葉をつかっていた。要するに勉強するにしても何をするにしても、姿勢が安定していなかったら何もうまくできない、というお話。

挑戦したり、自分で何度も繰り返しながら楽しむ。そういうことができる時間。遊び道具。

絵本

で、絵本は絵本でものすごい食いついて見る。聞く。
他の保育園の年中、年長さんと違っていると感じたのは、見知らぬ僕がみんなの遊びをみるために端っこにいると、、、

話しかけてくる。

その話しかけ方、目線、振る舞いに安定感がある。
話かけるけどふいっとどこかにいってしまうのではなくて、ちゃんとリアクションを待っている。
僕の反応をしっかり見ているかんじ。

とある学童にいくと自分から「誰?」と聞いておきながら返事を聞かずにどこかに行ってしまう子もいる。

ごはん

おいしい。
そしてもりもり食べる。
おかわりは自分で。

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組織をみていると、見学に行くと、園全体の雰囲気というものがある。
園内にいい先生はたくさんいるかもしれない。けど上司が、理事が、園長がしっかりしていないと、どこか違和感を感じる。

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