創造力とは何か。

ファンタジー、創造性とは何か。
創造性のない個性は、切れない包丁だ。

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何も芸術家という職業につくために必要なことではない。
「ここにはない姿」「ここにはない何か」を思い描き、そこに向かっていく、つくっていくという人間の自然な姿だ。
インドネシアでは多くの創造的な人たち、芸術家に出会った。
ある人は、かつて栄えていた「帆船」の文化を省みて、海を移動する移動図書館を作った。
ある人は、コーヒー屋を営み、「僕はコーヒーを気にしてはいない。コーヒーを飲みに来る人のことを気にしているんだ」という言葉を僕に送ってくれた。今までにない、コーヒーを売らないコーヒー屋さんだ。

誰も決めてはくれない、自分一人の命の燃やし方。
一人で燃やすものでもない。
それをビジネスにする人もいれば、お金にはならなくても毎日が輝き続ける生活を送る人もいる。

誰も自分の人生を決めてはくれない。
流れていったら、流れ着く人生もある。
けどやっぱり人間は一人一人がオリジナリティを発揮するしかない。
「わたし」というものがあるからだ。
ひとりひとりに天の才が備わっているからだ。

ファンタジー、創造性という言葉を私が使う時、それは「自分の人生を自分でつくる」チカラを意味している。
不安定な社会で、これほど大切なチカラがあるだろうか?
このチカラはどうやって身につくのだろうか。
大人はどうやって子どもたちにこのチカラをつけていってもらったらいいのか?

それはオトノネのテーマでもある。
創造性は、教育の、子育ての、大きな指針であると思う。
個性という言葉の内実は、創造性にある。

創造性は、この現実世界の正しい知識、認識、経験の深さがあってはじめて生まれてくるように僕はおもう。
目の前にあるもの、(自分の中で起こっていることを含めて)目の前で起きていることを正しくみれなければ、感じていなければ、ファンタジーのチカラは現実世界に創造されず、虚構の世界にとどまってしまう。(そして多くの若者が御三家から中堅大学を経て若者サポートセンターへと向かうことをご存知だろうか。もちろんデータは非公開なので数値が言えないところが日本らしい)

創造性のない個性は、切れない包丁だ。
創造性を使うには????
自己選択能力、自己調整能力、メタスキル だ。

麻生は神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の犯人である少年に関する新聞記事の解釈に、次のような見解を述べています。

私が危惧するのは、この種の一般に流布しがちな見解が、ファンタジーと現実の関係について謝ったイメージを生み出してしまう危険性である、少年Aの問題は、ファンタジーが肥大し、現実が侵食されたことにあるのでは決してない。むしろ、彼の問題は、ファンタジーを生み出す力が十分に育っていなかったことにあるように思われる。堪え難い過酷な現実が目の前に聳え立つとき、私たち人間にはその現実に対抗するもう1つのリアリティを生み出す力が備わっている、それが物語やファンタジーを生み出す力である、少年Aの問題は、決してファンタジーの過剰にあるのではない。むしろ逆に、ファンタジーの希薄さにあるように感じられる。

麻生はその証拠として、少年Aのファンタジーにはオリジナリティが少なく、コピーが目立つことも指摘しています。用事が魔法のステッキやブレスレット、ヒーローベルトを手に入れて、そのまねをすることで今とは違う自分になろうとすることは他社のアイディアのコピーです。しかし、まねをしてみても返信できなかった時、どのようにすれば実現可能なのかを考え、自分なりに繰り返し修正を加えながらその実現可能性を試そうとする姿は、子どものオリジナリティが成せるものだと言えるでしょう。これは、これまで紹介してきた実験での用事の姿とも共通するものです。(略)他者の生み出したものにあこがれ、それを超えたものにするためには、自らの知識や経験をつなぎ合わせ、あれやこれや試行錯誤することが欠かせません。ヴィゴツキーは「創造物は経験(既有知識)の諸要素を様々に組み合わせることによって生み出されるものである」とし、「想像と経験は相互に依存する関係である」と述べています。経験や既有知識の量が多いほど、そのダンンペン同士の組み合わせが奥生じて想像力は広がりを見せ、その結果生まれた創造物はより豊かなものになるといううのです。このことからも言えるように、非現実的で魔術的な想像そのものが危険なわけではないのです。毎日の生活を思い切り生きているなかで獲得された知識をもとにした現実世界に根ざしたものであれば、非現実的で魔術的な想像も人間の生活をより豊かにするものとなり得るのです。4〜5歳頃の幼児はまさにこの現実と創造の世界を豊かに生きる住人になり始めているのだとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.154)

子どもの心的世界のゆらぎと発達: 表象発達をめぐる不思議

蛇足になるが、この本ではファンタジーという概念を共同幻想まで広げている。筆者の言葉によれば、「公的虚構」というものだ。個性、一人の人間が「自己」の天の才を発現するものを「私的虚構」だとすれば、サンタクロースは「公的虚構」だ。

作られている世界観、価値観が「ウソッコ」だったということに気づくのは9歳前後だという。
「いい子にしていれば」とか「一番になれば」とか「我慢していたら」という価値観、「どうしようもないんだ」「自分はこうなんだ」という気持ち、今まで感じたこと、経験してきたことが再構成される。
9歳。小学3、4年生。

これは2歳、15歳とはまた別様の思春期ではないか。
と僕は今思った。

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数列的には(これは僕のあそびです)
1+7×0=2
1+7×1=8(9にはならなかった・・・7でなく8にしたらよかったか)
1+7×2=15
生物の現象は指数的だというが、局地的にみればここは線型的、本当に長い人生のごくごく一部、ということだろうか。
この計算を続けると、
1+7×3=22(大学卒業?)
7、8年刻みのライフイベント笑
7、8年ごとに、自己は大きく揺れ動くのか!???

1というのは、いわゆる初語がでてくる一歳のことです。

8は無限の意味をもっている。∞
八百屋は野菜ならなんでも売ってるから8。
八百万の神はたくさんの神様。
八方美人は全方位に対応している。(この考えをつきつめると数秘主義とかいわれてしまう)

繰り返される成長。
子ども時代は、なんとまぁ輝いてみえることか。
大人だって、輝けるはずだ。と、僕は思う。

思春期、とは違うかもしれないけど発達のポイント、節目として5歳をいれたら。。。
そうやって思索にふけってしまうのが僕のいいところか、悪いところか。

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初潮が早まっているこの時代、思春期の定義を拡張するのもいいかもしれない。
教育制度が、時代についていっていない。

だからオトノネ!!!笑

小学3、4年生が、otonone-オトノネ-に来るのに、ちょうどいい時期、だということだろうか?
ファンタジーは、創造力は子どもたちの助けになる。
現実の世界、今ある世界を俯瞰的に眺められる、もう一つの視点をつくれる、世界は塞がれてはいない、窓があって、扉があって、外の世界と繋がっているということを知っていることは、現実世界を生きることの役に立つからだ。

ドキドキワクワクの源泉となる思いは、いったいどこでつくられていくのでしょう。筆者は、その鍵は幼児後期から児童前期(4歳半〜8歳)にかけての多元的世界の形成、すなわち、「リアル」世界でも「アリエナイ」世界でもない「第3の世界」の形成にあると思います。私たちは児童後期以降、表面的にはリアリティを基準に世界を大きく二分割していきていきますが、実際には、潜在意識に刻み込まれた多元的世界を胸に潜め、それに励まされて生きていくのです。児童文学研究家の松岡は、これと似た事柄を「サンタクロースの部屋」という巧みな言葉で表しています。「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間を作り上げている。サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに代わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる」。これとまさに同じことが、多元的世界の形成にも言えるように思います。(略)幼児後期から児童前期にかけての多元的世界の形成こそが、その後、多様な価値を受け入れたり、新たな価値を作り出したり、新しいことに対して常に新鮮な気持ちで接していけたりする、そうした豊かな人間生活を私たちに可能にさせてくれるのではないかとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.188)

ドキドキワクワクの人生。

心が大事。

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【メタスキル】歴史の勉強

生徒がバルカン同盟とは何かを調べている。
教科書の内容があまりにも貧相であるため、参考書、資料集、問題集まで駆使する。

定期テスト対策であれば、与えられたプリントを丸暗記する、このキーワードが出たらこれを答える!ということだけ考えたら点数がとれる。

一流の学習者は、
1何かの出来事を中心に
2なぜそれがおきたか
3その後どうなったか

を筋道を立てて説明できるようにする。
しかも、誰にでもわかりやすい言葉で。

「そこまで試験にでないよ」という子がいたら、なんて答えてあげたらいいだろう?
「そういう勉強法を、暗記って言って、すぐに忘れるんだよ」と言ってあげよう。

まぁ世界史なぞ、細かい用語などを覚えていても時が経てば忘れるもの。
大事なのは?

それがメタスキル というものだと僕は思う。

小さな国のいざこざを利用して大きな国が覇権を握ろうとするのはいつの時代も同じ。
米ソの冷戦の構造とも似ている。

今の時代、日本はまだ「近代」にいる。
アメリカの僕として働いている。

欧州でもイギリスがEUから離脱したのかなんだか。どうなったの?
日本は日本でまだ富国強兵、帝国主義政策をしている。

そんなことも、歴史を学びながら勉強できる。

今への視点をなくしてしまう歴史の授業ほど、意味のない、おもしろくないものはない。

歴史を読み替える。
例えば僕が「国Aがびびって、仲間を増やして多勢に無勢で国Bをいじめようとしたんだよ。国Aがびびりなんだな」とか言って歴史を解体してくれる先生がいたら、歴史が好きになっていたかもしれない。
僕のこの能力は大人になってから出てきた。

僕のこの能力は、自分の好きな「日本と外国の芸能史」を調べながら手に入れたもの。
メタスキルを育てる条件。それは、学校で学ばないことである笑

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ところで、歴史を学んで思うこと。
小さな革命が大国に潰されて行く歴史。
大国同士が潰し合う歴史。
そこで生まれた秩序のなかの混沌の中に、いま私たちが暮らしていること。

ゲルニカのメッセージは、届かなかったこと。
岡本太郎の太陽の塔の光は、届かなかったこと。

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生徒と勉強をしていて思いついた話。第一次世界大戦中、ドイツくんが空き地で無敵潜水艦ごっこをして、ボールが隣のアメリカさんの食料庫の窓を壊してしまいました。
怒ったアメリカさんはこう行って対戦に参戦しました。「どこのどいつだ!」

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独立・自立しようとする人々。
それを利用したり、拒んだりする人々。

ドイツって、二つの対戦両方で負けてるんだね。
自信をもって対戦初めてるんだろうけどね。
なんでだろうね。

ドイツの人は真面目、だという。
日本も真面目、だという。

敗戦でうまれた何かが歴史の中に根を張っているのだろうか。

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ユダヤ人迫害。
大人数が少数をいじめたら迫害。
少数が大人数をいじめたら?独裁。

日本人は自民公明党に迫害されていることに気がついていない。
歴史をいくら学んでも、心がなければ、気がつかない。

もちろんこの考え方も、ただの私のファンタジーだが。
ファンタジーがない勉強法を、暗記という。
ファンタジー力は、メタスキル です。

誰でももっているものを、もう一度、大切に引き出してみませんか?

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「学校」という「自然」、「校舎」という場所。

もう僕はいわゆる「学校」という言葉を使いたくない。
学べないからだ。
課題しか与えない。
教えてくれない。
試練しか与えない。
乗り越える勇気も、希望もない。
そんな場所を「学校」と呼びたくない。

「校舎」でいい。

「校舎」で学べている子もいる。
その子にとっては「学校」だろう。
ただ、そういう子は、中学校では全体の半分くらいだと僕はおもっている。

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いじめがあるとしよう。
トイレの奥に友達が連れて行かれて、ねちねちと恐怖体験を受けていることを目撃した子がいたとしよう。
どう振る舞うか?

いじめは、今の学校教育が、すでに移り変わった社会、時代を顧みずに明治時代の軍隊式の本質をそのまま受け入れていることで生まれている。いじめは文化である。社会的に作られた「自然」な姿だ。

けどそれってちょっとおかしくない?
いじめられる側になったとしたら、なおさらそれは「自然」であると同時に、「脅威」だ。
けれども「自然」はなくならない。そのままの姿でまたやってくる。

人間は、そこで何をしたか。

「学んだ」のである。

「学」という文字は「狭くなった建物を押し上げる人」を形象している。
建物は、「自然」から自分の身を守るものだ。
人は「恐ろしい」自然から身を守るために家を作った。
家を押し上げる。それは自分を自然から守る装置を作り変える、広げるということを意味する。
それが学びだ。

どうして「学び」の本拠地である学校でいじめが起きるのだろう?
学校という自然の脅威に対して、「学ぶ」しかない。

学校では「学べない」
学校が与えた試練を乗り越える手立てを、学ぶ手立てを、学校は準備できていない。

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自己肯定感を「この世にいることに安心している」状態と僕は説明した。
ひきこもりはどうか?
安心しているだろうか?
安らかだろうか?
そしてそれは、「自然」だろうか?

引きこもりをしながら、心が「自然」を受け入れていく、「自然」が脅威でなくなっていくこと。
そして安らかであること。

安らかとは、家の中にいる女の形象。

漢字から、家の大切さを思い知らされる。

自分の魂が安心していられる家を自分の中に作ること。
「わたしは大丈夫」
といったときの表情が引きつっていないこと。

これが、10歳からの発達の要であるようにおもえる。
いじめが増える時期。
学校の中で多くの「社会問題」が起きる。
学校という「課題」にどう向き合うか。
それが高校以降のその子の人生をつくる土台になると僕は思う。

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最近、神戸市の小学校のカレー事件があった。
小学校教員による教員いじめ、生徒いじめである。
この当事者がいったいつ、こんなことをする精神状態になったのかはわからない。
ただこのような事件が「自然」に起こるような状況が、学校に、社会にあるということ。

「わたしはルールを守らせる」「食べ物は残さずに食べなくてはいけない」「わたしは先生だ。羽交い締めにしても食べさせる。これが教育だ」という思考が「自然」に発生する世の中だ。

めちゃくちゃに壊れている、古い、もうボロボロの教育システムのなかで、強く生きるには?
いやいや、学校の中で生き残ることで得られたスキルを社会の中でどう生かす?

学校の成績がよいことに自己肯定感を抱く病気である人は、将来、学校が終わった後に、人に共感できないサイコパスっぽい人間になると、『嫉妬学』で和田秀樹は述べている。僕もそう思う。

「校舎」という場所できっかけを、子どもはもらっていく。
それは先生が出す宿題ではない。
「校舎」の外で出会う先生や友達、お父さんお母さんと一緒になって取り組まないと解けない宿題だ。

子どもだけではむずかしい。
お母さんと子どもでも難しい。
お母さんと子どもとお父さんでもむずかしい。
そこに別の誰かが入ったらどうなるだろう?

オトノネはそういう場所です。

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できないこと、しないこと、やれないこと、やらないこと。

小学生の時、僕は宿題を熱心にやらなかった。その時決まって先生にいうセリフがある。「宿題はできませんでした」と。しかし気が付いていた。「やろうとおもえばできたのだが、やらなかったのだ。だからできませんでしたではなくてやりませんでしたと言った方が正確ではないか」と。しかし、子供ながらに「やりませんでした」と言った場合、めんどくさくなるということを察知して「できませんでした」を採用することにした。それが小学6年生の話だ(自分のためにならない作業をどうしてこの時期、遊ぶ時間を減らしてまでやらなくちゃいけないんだろう?)。

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この時期になると志望校を決める、今までの勉強法を振り返って焦る、そんな時期。
不安になる時期だ。これでいいんだろうか?いわゆる「自称進学校」の生徒のお母さんから「うちの子は大丈夫でしょうか」という問い合わせが増えるこの時期。

今まで勉強をしてこなかったから、これからやればできる、と考えることもできる。
「やってなかっただけさ!」その通りだ。が。
『ビリギャル』の成功例や数々の風の噂が生み出す(そして多くのお母さんたちがそこにしがみつく)バイアス(心のお守り)の存在はさておき。

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勉強を果たして、してこなかったのか。
してこなかったのかもしれない。
やれなかった、のではないかどうか。
要するに、意思ではどうにもならない迷宮ラビリンスに入っている可能性はないか。

だとしたら、「これからやればできる」というのは、とりあえずうろうろと歩き回っていた迷路をダッシュで駆け抜けようとするのと同じで、同じ迷路の中にいることには変わりがない。

というのが僕の考えだ。

しなかったのではない。
できなかったのだ。
やらなかったのではない。
やれなかったのだ。

迷路から抜け出せなかったのだ。
道に迷って、もうダメだと、とぼとぼと歩いていたのだ。走れる気力がなかったのだ。走らなかったのではなく、走れなかったのだ。

迷路から抜け出すか、自分でできる?
もちろん、迷路を疾走してもいい。
もし抜け出したいと思うなら、「もう無理!」なら、オトノネに来てみたらいいとおもう。

一人じゃできない、やれない、のか、
一人でできる、やれる。のか。

オトノネは、一人じゃできない、やれない、わからない、そういう人のための学び場です。

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今から初めてみるといいかもしれない。
「しなかっただけだ。やればできる。できないのではない、やらなかっただけだ。」と考えてみて、ダッシュで迷宮を駆け抜けて成果が出る人もいるだろう。
なにせ発達は人それぞれ、十人十色、いろんなゴールの仕方がある。
やってみたらいい。できなかったら?できなかったのだ。。ということがわかるのは、おそらく合格発表が出てからだろう。そうして多くの人が、受験という経験を、受験という儀式を、未完了のまま、ただただ終える。「長い定期テスト期間だった」と。

オトノネなら、迷路を進むか、迷路に穴を開けてとりあえず抜け出して最短距離を走るか、そもそもゲームを降りるか(爆)というところから、問いかけたいとおもっている。もちろん、ひとそれぞれ。迷路から出た時の、あまりにも長い、遠い、ゴールまでの最短距離を目の当たりにして愕然とする人もいるだろう(自称進学校でバイアスをかけられた多くの生徒たち)。そもそもゴールが見えないほどの迷宮でずっとさまよっていたのだから。塾や学校の課題、一斉授業という小さな世界でしか暮らしてこなかったのだから。途方も無い世界の広さに、驚くかもしれない。遠くのものがもう見えなくなっている子もいる。

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有名な話だが、野生動物は、体の調子が悪いとき、自分で「必要なものを食べる」「必要なだけ休む」。
放牧された牛は、自分の健康管理を自分でする。草を選んで食べるのだ。

それと同じことが、人間にも言える。
与えられた飼料(課題)だけを食べて健康を保てていればそれでもいい。
けどそれでどれだけの鶏が短命で、病気になっていくか。

自主自立とは、「自分で選んで食べる」ことだ。

何をどう食べたらいいのか。
選ぶ力、食べる力は、小学生までにほとんどできあがっていると、僕はおもっている。

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人それぞれに完全に対応するのがオトノネの完全子別指導です。

お子さんへの期待に「愛」が込められていますか?
今のお子さんの姿を、きちんと見れていますか。見えないですか。見ることが、できませんか。見てみませんか?
受験勉強と、定期テスト対策勉強は違うのだということを、ご存知ですか?

思えば、フランチャイズの塾で働いていた時代、「あ、この子は、お母さんの影響が強すぎて勉強に迎えていないんだ」という生徒がたくさんいた。自営業を始めた今ならそのことをきちんという。言うからお客さん来ないんだろう。自分のしていることに気づかないお母さんが多い。フランチャイズ時代は、「お母さんは塾に、安心感、自分はこれでいいのだという安心感を買いに来る。だから「無理」な生徒でもだれでもかまわない、とにかく買いては保護者だ。お母さんさえ安心できればいい。多くのお母さんは子どもの成績はみているかもしれないが、子供はみていない。」ということを学んだ。

オトノネの生徒が増えないのも、そういった事情があるからなのだとおもう。

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