「自己内対話」のメタスキルを伝える

メタスキル をもっている人は、どうやって勉強しているんだろう?
「できる」人と「できない」人の違いはなんなんだろう?

オトノネは、メタスキルを伸ばすために考えます。

例えば、「今の自分が取り組める量は、このくらいだ」というメタ認知をする能力。
この能力がないと、ただただ量に圧倒されて「できない」で終わる。

一斉授業であれば、ただ受けるだけで終わり、このメタ認知は育たない。
どんどん先に進むのにただついていくだけだからだ。

個別指導だと・・・分量を少なくするとか、やる範囲を狭めるとか、工夫はしてもらえるだろう。
もしくは丁寧に一問一問解説をしていくだけで終わるだろう。
それはそれでその子の役に立つかもしれない。
(ただしそれでメタスキルを育てずに先生に依存してしまう子もいる。)

オトノネは?

もしかしたら、「問う」メタスキルが使えていないのでは・・・・とおもう。
「問う」メタスキル は、実は、小さい頃に誰でも通ってきた遊びから学べることだ。

当てっこゲームというものがある。
誰か1人が、答えを決める。例えば、ライオン。
それから最初にヒントを出す。「毛が生えています」
それから、当てる側の人間は質問していく。「かわいいですか?」
YESかNOで答えられることもあれば、そうでないこともある。
「どこに住んでいますか?」

ライオンというもののありとあらゆる情報を、頭の中でつなげていく。
クイズが面白くなるように、答え方も考える。質問の仕方も考える。

ーーーーー

答えを「温暖前線」にしてみよう。
ここにたどり着くために、いろんな質問をしてみよう。
「どの単元ですか?」・・・地学ですね。
「宇宙と関係ありますか?」・・・ありませんね。
「寒い暑いに関係ありますか?」・・・・ありますね。(この時点で地質の範囲ではないとわかる)
「動きますか?」動きます。
「雨と関係ありますか?」ありますね。
「前線って言葉は入っていますか?」入っていますね。
「積乱雲ができますか、乱層雲ができますか?」。。。乱層雲です。
わかった!温暖前線だ!

というように。

こうした「問う」「答える」の繰り返しを、誰かとやるとゲームになる。
これを、1人でできるか?(「温暖前線」が答えになるような問いを自分で作れるか)

1人で問いを立て、答えるというメタスキルだ。

このスキルは人間の精神活動そのものだと僕はおもう。

ーーーーー

こういった学び方は、日常生活の中で出会ういろんな違和感、不思議に「問う」ことから自然と身につくもの。
大人が「それ、何?どんなの?教えて」という問いかけをすることで、子どものなかにできる言葉のチカラ。
大人の助けを借りて、内言が開花する9歳以降、子供は自分自身で内省をするようになる。

一つの言葉をいろんな言葉で説明していく。
つながっていく。
理解していく。

そうしたつながりを、問いを立てずにただただ「暗記」していく「定期テスト対策」でメタスキル は育たない。

もちろん、「問題」を解きまくることで「問い」をもらい続けることもできる。
与えられた「問い」に答えながら、「答える」ことができる。

けどそればかりでは「問う」スキルは得られない。

中学生くらいになったら、ほとんど成績の順位がかわらない(?)というのは、その時点ですでにこのメタスキルが「できる」子と「できない」子がいるからではないか。自問自答のメタスキル、抽象化、仮説をつくり始める年齢は9歳だ。小学校卒業までには「問い」を深めることができるようになる。

中学校になると、その範囲が広がる。
「問う」スキルが前提となって、宿題やら何やらがでてくる。

「問う」ことができずに、「教えてもらう」ことしかできない子が多いのは、そのせいかもしれない。

ーーーーー

自ら「問う」ことを励まさず、「行為」を要求するだけの大人が多すぎないか。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
だがそれに答えるためにもっと多くの「問い」を発するのが「自己内対話」である。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
自己内対話だけでやってしまうと鬱になることもある。
他者は必要だ。
そのバランスをとることが、大切だとおもう。

「話す」こともメタスキルだ。

ーーーーーーーーー

自己内対話のメタスキル、実は多くのスポーツ選手や芸術家がもっている。
「どうしたら、こうなるのか。よくなるのか。早く走れるのか。早く投げられるのか。強く蹴れるのか」
「どうしたらいい音がでるのか。どんな色が欲しいのか。どうやって書いたらいいのか。何を書くか。何を奏でるか」
その答えを探す道そのものが対話。

練習。
この場合は、肉体との対話になるわけだが。。。

スポーツができるのに、「勉強」はできない、、、という人もいる。
それがその子の特性だと認めなくてはならないかもしれない。

だとしたら、その天の才を自覚しながら、伸ばしながら、せめて「勉強」ではなく、自分自身の人生を「問う」、流されずに進んでいくメタスキルを伸ばしてほしいとおもう。

「問う」メタスキル は、きっとチカラになると、僕は信じている。
「問う」ことの限界も、その中で見えてくるはずだ。

その時その時、人生で「問い」、本気で「応える」積み重ねをしていくと、深みのある人間になると僕は思っている。

ーーーー

メタスキル はメタスキル を育てる。
「問う」メタスキル によって、「聞く」メタスキル も育つ。
他者理解、他者との対話メタスキル も、育つ。

メタスキル とは、そういうものなのです。

オトノネひろげるシェアぼたん

オトノネさんの言葉を多弁にするとダイゴになる(?)件。

目の前にあることを。
今感じていることを。

といいながら、僕自身が、その生き方を、やれているだろうか。
今までの経験を、使っているだろうか。
使えているだろうか????

創造力!

ダイゴすごい喋るな。。。
いろいろたくさん、本気でやってきたんだろうな。
僕ももう少し、遊ぼうかな笑

オトノネひろげるシェアぼたん

みなさんへの冬休みの宿題。

よし!冬休みだし。

このツイートのコメント欄には、いろんな情報がコメントされていておもしろかった。

そこで、、、いや、少子化対策で「子どもの福祉」だとか「無償化」とかは間違ってるよね?
そもそもそんな予算、割かれていないし変わっていない。

まぁいいや。

「少子化の原因は何か」

これがおとのねさんからみなさんへの宿題です。
ググるといろんなのがでてきます。

僕はこういうデータが役にたつかなとおもいますが、ひとりひとり観点がちがうので、違うからこそ、楽しいのです。学びになるのです。

果たして、「給付金」「無償化」で少子化はとまるのか??????
いや、お金の問題だろ!という方は、そのようなデータを、探してみてください。
僕は違った観点から、データを探してみました。

キーワードさえわかれば、、、辿っていけるはず・・・(ちなみにこうした大切な研究は「お金」にならないため大学でも行えていません。大学の先生も「定期テスト対策」で忙しいのです。大切なことだとおもうんだけどな。こういう問題を喋る人は全部「お金」の問題にしてしまう。僕は違和感を感じる。いやそもそも少子化は問題でもなんでもない。という人もいる。現象は、ただ生きて通り過ぎるためのものであると。。。政府は少子化してほしいと実は思っていたりする。労働力は海外から得た方が安い。給料も保険もいらない。会社は「お金」的に得をする)

あ、こんなのもあった。。。
『日本の世帯数の将来推計(全国推計) 2015(平成27)年~2040(平成52)年 2018(平成30年)年推計』

あ、あと、僕としては、あのデータもほしいかな・・・・とか、これが僕の、学び方です。
まず、直感。推論。根拠を探す。それでいけるっぽい!なら、いく!仮説を、検証していく。

知るって、ドキドキすることじゃないか!!??
少子化という抽象語を、現象として、具象として、きちんとみてみる。
そこに、「怪獣」がいるかもしれない。

大人も、宿題!笑(*’∀’人)

オトノネひろげるシェアぼたん

富山のメンタルヘルスと「怪獣」

富山県のメンタルヘルスは数値化されていないもの、かなりやばいんじゃないかと思っている。
それはこういう理由で↓
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
(個人のメンタルヘルスではなく集団、組織のメンタルヘルスという概念はヨーロッパの心理学の世界では研究がすでに始まっています)
データの出典をメモっておらずなんだが、路上犯罪検挙数(だったとおもう)は人口で割ると東京都と同じ富山県。
それがほとんど富山県の都市部で起こっているとしたら、東京よりも危険な場所だということになる。

そりゃぁ、お母さんも心配するのもわかる。

ーーーーー

で、今日、社会人の人とレッスンをしながら、話をしながらたまたま思い浮かんだこと。

「そういえば、富山県って、魚津の方とか朝日町いかないと、海が海らしくないよな」
海と人間が、繋がっていない。
海からチカラをもらえていない。

と仮定してみる。

そういう視点で考えてみると、メンタルヘルスと海の綺麗さ・汚さは関係しているんじゃないか?
とおもったり。

綺麗さ。汚さという表現はよくないかもしれない。
どれだけ海と人が関わっているか、である。

たとえば、、、、
新湊の大きな橋を作るために、もともとあった船便がなくなった(まだ運行してるっけ?仕方ないんだろうか・・)
港町、に行っても港町らしさが感じられない。なんでだろう。。(漁港から、人・海のチカラが街のほうまで伸びて行かない)
そもそも富山県なのに魚の値段が高い(おかしい。不漁が続いているのかしらん)。
海浜浴場といっても、目の前にテトラポッドが・・・

釣りをしている人は、釣りをして海のリッチネスをもらっているだろう。
けど僕は釣りをしない。
だから海が遠いのかもしれない。

別の海を僕は知っている。富山よりももっと貧しい(県民所得が低い)、それでいて、海を味わえる場所があった。
海を味わっている人と出会ったから、海のリッチネスをもらえたのかもしれない。

もしかしたら、富山での僕の生活が、海から遠くなってしまっただけなのかわからない。
街中で、のたうちまわっている魚か笑

ーーーー

富山県は文句なしに、海の資源をもっている。
縄文の時代から、この内湾はすくなからずの「富」であった。
立山黒部からくるミネラル豊富な水が・・・とは説明されるが、果たして、現在、そのチカラをどれだけ使っているのか。
使えているのか。

これこそが、富山という場所の「個別化」である。
と僕は思う。
「世界一綺麗な○○」とか増やして定期テスト対策している場合ではない。
「商業施設作り直します」とか定期テスト対策している場合ではない。
休日にイオンとかファボーレ行っている場合ではない。

個別化だ!
個別化は別に、「その人だけ」とか「その場所だけ」を意味していない。
世界一である必要も、日本一である必要もない。
富山らしさ。
富山のもっているチカラを使えているかということだ。

子どもにも、ひとりひとりチカラがあるように。

と思っているのは僕だけか。
(ある人の話を思い出す。砺波の人だったか。。。夏は朝にお弁当をもって出発し海に向かう。楽しんで、1日かけて、また戻る。車がまだ普及してなかった時代の話だ)

なぜ、富山にきても魚は安くなく、また品数もすくないのか(おとのねさんはそれが特に不満です)。
(今の時期、こんなに少なかったっけ???)

富山という場所にいる「怪獣」も、だいぶお疲れのようだ。
だって、政(まつりごと)をする人たちがお金お金でドロドロだもん。
富山の「怪獣」さんはヘロヘロになっているだろう。
疲れている。
病んでいる。
だから人も病む。
人が死ぬ(自殺率が上位ランクイン)。
人が人を殺す。(去年、この時期に、発砲事件がありましたね。覚えていますか?)
【随時更新】富山でまた発砲事件 富山市内の小中学校が全て休校に

僕はそうおもっている。
誰も言わないの?命に関わることだよ?
みんな不思議に思わないの?

急勾配だという富山県の沿岸の地形。
その海底には何があるのか。

海王丸は、何を運んでいるのか。

富山のリッチネスは、なんだろう。
黒部立山を眺めるだけではないはずだ。
観光資源として「お金」にする以外のチカラをもっているはずだ。
人がしあわせになるチカラをもっているはずだ。

富山に暮らしながら、富山のリッチネスを探してみようかな。
一人一人が、富山のリッチネスを大切にしていたら、それだけでも何かが変わるはずだ。
と、おもったりする。

富山のリッチネス・・・・
(ある人は、「ゴールデンウィークでも人が来ないキャンプ場」といっていた。ゴールデンウィークも働かなくてはいけない僕には、そのリッチネスは堪能できないのが残念だ・・・だが別の場面で、富山の「おいしいところ」をいただいた。誰かが知っているリッチネスを別の誰かに伝えていく、一緒に味わう、結局はそういう人間らしい営みが大切なのかもしれない)

ーーーーーーー

ふと思いついた「メンタルヘルスと海」の関係。

人間とつながるだけでは、心を大事にすることは、どうやら、難しそうだ。
(沖縄はメンタルヘルスばっちりなんだろうか?ちゃんと調べたらおもしろそう)

人が、人しか見れない。
人が、人をお金にしか見れない世の中だとしたら。
悲しい。

富山で暮らす人の声を、もっと、大きくしていきたい。
それはきっと、人間らしいことだと、僕は信じているから。
オトノネは、そういう場所です。

オトノネに、耳をすませてみませんか。
あなたのオトノネに。
隣で眠っている人の、オトノネに。
この大地の、海の、オトノネに。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。

オトノネひろげるシェアぼたん

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?

これもよくある話。

「問題行動」という言葉がある。
これも半ば、呪いの言葉なのだが・・・

指し示しているものは「社会的に不適切とみなされた行動」だ。
校則違反も問題行動になるだろう。

ーーーーー

人の中には、怪獣がいる。
心には怪獣が住んでいる。

シャーマンの世界で言えば、守護霊のようなものだと僕はおもっている。
つまるところ、それはチカラだ。

たとえばこれが「やんちゃ坊主」の「問題行動」だとしよう。
それがただのけじめがついていないだけなら、「感情のコントロール」の仕方を学んでいってもらうために、お母さんは凛として言葉を使ったらいい。

しつけとけじめ

しつけ
勉強は「しつけ」か「あそび」か

ーーーーーーーーーーー

が。

それがどうも、その子の命のエネルギーが溢れてしょうがない状態、からでてくる「問題行動」もある。
と僕はおもう。

溢れさせてはいけない場面もあるだろう。
それこそ「気締め」、ケジメをつけなくては、映画館でも大変なことになるだろう。

だが、そのエネルギーを、命の炎を燃やせずに水をかけられるだけでは、子どもの輝きがなくなってしまうかもしれない。

「悪い」怪獣なのか?「良い」怪獣なのか?

「良い」怪獣として育てるには?
それこそ、学びだし、教育だし、自己理解だし、メタスキルだ。

例えば・・・・
エジソンだったか。
アインシュタインだったか。
だれだったか忘れたが「好奇心」という名前の怪獣がいたために、学校で除け者にされてしまった人がいる。
この子は「好奇心」という怪獣と一緒に成長できるように、お母さんが「ホームスクール」した。
つまり学校に行かなかった。

そうして、その子は、歴史に名を残す人物になりましたとさ。
もしその怪獣を殺そうとしたら、、、またそれは別のストーリーになっただろう。

「怪獣」とどうつきあうか、つまり「チカラ」をどうつかうかは、その子次第だし、その子の成長を見守る大人たち次第だ。

それは「ストレングス」とかいう言葉であらわしてもいい。
強み、自分らしさ。そうして「自分はこういう人間だ。だからこうして生きる」というメタ認知ができるようになったら、人生、楽しく生きられるようになるとおもう。

「自分は本当はこうなんだけど(怪獣は心にいるんだけど)、それを出したら(怪獣のチカラを見せたら)お母さんに怒られる・・・」といったイイ子に徹する子もいる。

「いやもう、これ、私だし」といって、御構い無しに怪獣をだしてくる子もいる。

ひとそれぞれ。

ただその関わり方を、出し方を、大人たちは教えることができるだろう。
「使い道」というのは、「社会でどう使うか」「そのチカラを、何に役立てるか」という知恵に繋がっているからだ。

ーーーーー

カスカネダの書いたシャーマンの生き方、修行の記録の中には、精霊との戦いというものがある。
精霊は、チカラをもっている。
シャーマンは、それを取り込み(?)、コントロールしなくては死んでしまう。
精霊に殺されてしまう。
精霊は悪霊にもなる。

同じことが、子どもたちの「チカラ」についてもいえるのではないか。

子供の中に現れた怪獣は、そのチカラを使いたがっている。
もしそれを檻にいれるだけしたら、脱走したり、本当に、人を食らうかもしれない。
(現代の漫画でよくあるストーリー)
もしくは、怪獣からもらっていたチカラをもらえなくなって、鬱、病になるかもしれない。

怪獣は、チカラをくれる存在だ。

ーーーーー

学校にすれば、「不登校」も問題行動なのかな。
「いじめ」も問題行動だ。(校長先生の評価が下がるからだ)
けど学校はそうした怪獣の存在なんて知らないし、「定期テスト対策」的な処世しかできないのが、現実。

学校の中では檻に入れられてしまう怪物を、子どものチカラとして、社会の中で使えるようにするには???
家庭教育、社会教育だろう。

学校は、学校のことで精一杯だから。

そういう視点で、「この子は今、どんな心をもっているのか。どんな発達段階にいるのか」といった見方を、まずはお母さんにしてほしいとおもっている。

気締めによって怪獣をコントロールすること。それは小さい時の気締めとかわらない。一人でできることもあるし、誰かの助けを借りて、コントロールできるようになっていくこともある。
そのための心のしくみを作って行くことが、人としての大きな成長になるとぼくはおもっている。

ゴジラがなんだかんだいって地球を守っているように、お子さんの「怪獣」も、お子さんを助けるチカラになるかもしれない。
まずはお子さんの怪獣と、話をしてみたらどうだろうか。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。

オトノネひろげるシェアぼたん

【オトノネ原論】学習障害・不登校は呪いの言葉?祈りの言葉?オトノネとは何か。

先日、子どもが学習障害で、、、、というお母さんから問い合わせがあった。
発達障害、学習障害、言葉の遅れ…こういった問い合わせはよくあること。

かつて書いた記事がある。
学習障害LDか、スローラーンなだけか。

↑この記事に描かれている基準を学習障害とするなら、学校に通う子どもの半数以上は、学習障害をもっていることになってしまいます・・・それって障害?

こちらの記事もどうぞ。
診断名とは何か。Human Disaster

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「うちの子は学習障害です」という言葉を、使わない方がいい。
というのが僕の考え。

学習障害ですという言葉が意味するものはなんだろうか。

学習障害の「日本」での定義にあるように、スローラーンなだけで自然な発達をしている子の現状を学習障害と呼ぶのは変だ。

学び方には一人一人特性がある。

「うちの子は学習障害です」という言葉は、「うちの子は学び方の特性が学校の教え方、学校の学ばせ方と合っておらず、義務教育として受けるべき教育を受けられていない」という状況を伝えるものだと僕はおもう。

その声は、本来、本来!学校に届けられるべきものである。
学校は、本来、本来!学びの「家」であるからだ。
ただその声が届かない。それが現実だ。
学校は、その声を聞けない。
子どもたちの、お母さんのオトノネは、なかなか届かない。なかなか響かない。
(いやいや、対応してくれるところもありますが。それが中学になったら?高校になったら?社会人になったら?世の中、いい人ばかりではない。では、どうしましょう???)

↓【オトノネ原論】はもう少し下に行くと始まります笑↓

学習障害で困っているなら、学校の仕組みで困っているのだとおもわなくてはいけない。
自民公明党のつくりあげた学校のしくみを変えるには?

いやどの政党でも同じだろ・・・という方は、最近できた政党を調べてみてください。

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教育基本法には次のような文言がある。

第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

能力に応じてとは、何か。

診断書は、「その子には、その能力がない。だから、教育はこの程度でいい」ということを証明するものになってしまわないか。
診断書をもらわないと、支援級にいけない(少人数だけでも子どもには救いになる)などのルールがあるために、「うちの子は学習障害です」「発達障害です」というお母さんがいるかもしれない。

言葉を使う人間、言葉を使う人の心。

学習障害という言葉を通じてお子さんの特性をはじめて理解できる人もいるかもしれない。
けれども、「学習障害」とか「発達障害」という言葉を使うことで、何か悪霊のようなものが、取り付いてきやしないかと、僕は不安になる。

「不登校」という言葉も同じだ。

日本は、言葉にチカラを感じないことが多い。
「うちの子は不登校です」ではなく、「うちの子は古いシステムとは別の新しい学び方・生き方を模索しているところです」ぐらいに、具体化していった方がいい。その方が、心が元気になるはずだ。
「名詞」の抽象性

言葉は心。

【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?
ちなみにマシュマロテストの結果は今、覆されたというか、補強されて、親の経済能力が影響するという話です。その詳細も、重要ですが。

抽象の効果

「蛇」は抽象語か

↓【オトノネ原論】はじまります↓

言葉は心。

心は言葉。

音には心があります。
言葉は音で伝わります。
音の意は心にのってやってきます。
漢字をみるとまさにそう書かれていて笑えますね^^
(仏教でもそんなのあったような気がしますが、言葉という現象を理解するとそんなかんじになるとおもいます)

「不登校」「学習障害」という言葉に否定的な意を添えるか、肯定的な意を添えるか。
それは人の心にかかっています。
「不登校」「学習障害」という同じ言の葉、同じ音、であっても、その言葉の根っこ、オトノネは違うのです。

心を伝えるための言葉、その意味は、使う人の心によって変わって来ます。
誰かが使う言葉は、お母さんの元気をなくすかもしれません。

文化的に、社会的に、否定的な意を乗せられた言葉があります。
また本来、肯定的な意であったものが、否定的に使われている言葉もあります。

その言葉が、お母さんにとって、お子さんにとって、祈りの言葉になるのか。
呪いの言葉になるのか。

オトノネは心配しています。

(この考え方を使うと「ポジティブな言葉を使おう!」というセミナーになり、さらなる被害者がでてきます笑どっかの記事で書いたような。。ありました。定期テスト対策の弊害【自己改革・心理学系セミナー編】要するに、言葉を使う人間の心次第で、いくらでも言葉は意を変えて、呪いにも、祈りにもなるということです。人を助けたり、傷つけたり、よい「心」があったとしても、よい「意」が伝わらないこともあります。わるい「心」をよい「意」で伝えることもできます。)

「成績が…」「点数が…」「将来が…」「宿題が…」「勉強が…」そのお母さん、お父さんの言葉が、心が、伝わっているでしょうか。
世の中で呪いの意で伝えられている言葉を、お父さん、お母さんは心でどう受け止め直したらいいでしょうか。

お母さんがお子さんに使っている言葉が、祈りでありますように。
子どもの周りにいるすべてのオトナたちが使う言葉が、祈りの言葉でありますように。

言葉のチカラを育てるレッスンがあります。

オトノネの言葉のレッスンとは?

ーーーーーーー

ちなみにMSDのマニュアルにはこのように定義されています。
学習障害 – 23. 小児の健康上の問題 – MSDマニュアル家庭版

学習障害に対する最も有効な治療は、各小児に合うよう入念に調整した教育を行うことです。

オトノネに、遊びに来てくださいね^^

人一人の中でも、言葉がせめぎ合っていることがある。
自分を呪い殺すような言葉を使っていないか?それはどんな心からやってくるのか?心とどう関わればいいのか?
僕の心の中にも、か細い声で、祈り続けている僕がいるのかもしれない。

そんな声を、聞き取れるように、心を尽くしています。

言葉は、生きるチカラです。

オトノネひろげるシェアぼたん

学歴は所得に本当に影響するの?【学歴の影】

フィンランドの所得を調べていたら日本のこんなサイトに出会った。
https://www.nenshuu.net/sonota/contents/gakureki.php

このサイトの結論は、「学歴は所得の差につながる」というもの。

で?

この結果に、データに疑問を持つ人がいたら、スバラシイ。

実感が伴っていなければ、直感が働くだけの経験、知識がなければ、出された資料を鵜呑みにせざるを得ない、
数字に隠された現実の姿が見えてこない。

ーーーーー

賃金構造基本統計調査
をみてみる。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html

調査の概要、という場所をみると。
この調査の対象になったのが誰か、母集団がわかる。

その選び方は、ランダムではない。
ランダムな「自然」さがどのようなものか、わからない。
偏りあるランダムなのか。(ちなみに「賃金構造基本統計調査」の学歴別のデータを僕は見つけることができませんでした。。どこ???)

ーーーー

つまりこういうことだ。

現実として、大学進学をしてニート、もしくはマクドナルドでアルバイト、などよくある話だ。
水商売をしてお金を稼いで大学に通い、その後、どうなったかわからない子もいる。
社会の闇が、このデータ(賃金構造基本統計調査)から消されている。

と、僕はおもうのだ。
他の都道府県への「タテマエ」でぬりつぶされたデータなど、全国学力テストで十分だ。
富山県は《教育県》か?(その1)全国学力テストの見方(情報リテラシーを身につけよう)

ーーーー

もちろん、給料が高い企業は、大学卒、大学院卒の人を採用するという話があるのは事実。
【イイ大学がイイのはナゼか】上場企業の保護者に聞いた。旧帝大でなかったら、東京の私立へ行った方がいい話。

で???

大学を出て無職の人たち、死んでいった人たち、知的で教養があり社会から排斥された人たちをカウントしない社会。

大人は、子どもに何を伝えたらいいだろうか。
伝えるべきだろうか。
伝えては、いけないのだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。

社会人もオトノネで学んでいる。

精神保健福祉士の資格をとるために一緒に勉強している人とテキストをみながら、フィンランドの自殺率は実は日本より高かった(過去形)ことを知った。
フィンランドの自殺率

元の記事はこちらから
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-034-08-09-g267

ではどういう試みをしたか?
というと。。

1972年、各自治体に保健医療センターの設置が義務付けられた。
1984年、日本で宇都宮事件の時、フィンランドはすでに入院医療から地域ケアへと施策を変えていた。
それから最速と言われる速さで入院医療が減る。それを支えたのは、保健医療センターとプライマリ医と他職種によるケアであったと。

フィンランドでは全国で200の保険医療センターがあり、その5つのセンターが集まったところに専門医のいる医療機関がある。さらに重篤なケースは全国に5箇所ある大学病院で対応する、というシステムだ。

精神保健、メンタルヘルスは病院の中だけでどうにかできることではない、地域、家族、学校、職場、あらゆる場所で鬱になる人が出て来て、自殺に至る。アルコール依存症のケースもある。それは病院の中だけで、定期テスト対策のように「対策」しても無駄だ。フィンランドはプライマリケアに尽くした。そもそも「定期テスト対策」にならないような生活、暮らしを作り出すようにした。そのための人材が、ソーシャルワーカーだ。

日本が15に対してフィンランドは150。
(そもそもソーシャルワーカーとは何か?ということを日本人は知っているだろうか)
読んだことがないけれど、ソーシャルワークとはなにかを理解するのに、これが一番だろうという本を紹介しておきます。
ソーシャルワーク

「定期テスト対策」ではない、暮らしレベルの福祉のために、フィンランドという国は施策を重ねて来た。
その結果が、この自殺率の減少。(再喝)
フィンランドの自殺率

日本でどれだけのメンタルヘルス、精神保健、心の健全さが保たれる社会的なしくみがあるだろうか?
フィンランドにある保健医療センターに該当する施設は、日本では精神保健福祉センターであり、県にひとつ。
いやいやそれ以外にも、サポートする場所はあるだろう。。。例えば、保育所はお母さんのメンタルヘルスの相談設けることになっている。
「タテマエ」は。

実際は、そうなっていない。
結果が、伴っていない。

子供の精神福祉のことだけを考えても。
児童相談所はてんてこまい。
スタッフは忙しすぎて、忙殺され、やめていく。
児童養護施設ははち切れる。
児童虐待が止まらない(子供は減っているが)。

成人の精神保健の現場も、日本はなんら変わっていない。

精神科のベットの数はなかなか減らない。塾や学校に縛り付けるのと同じように、多くの人が精神科のベットに縛り付けられている。

在院日数も日本はダントツだ。

入院にはお金がかかる。(しかしそれでお医者さんはお金儲けをしているのだからどうしようもない)
多額の税金が、「定期テスト対策」に使われる。
もっと多くの人にとって有益になる方法は?

クリエイティブに考えられないだろうか。
考えられていない、のが現状だ。それが日本の精神文化だとしたら??
それを国レベルで変えるのは教育しかない。大人がしくみをつくるしかない(が、自民公明党は作る気がない)。

これは精神保健だけの話ではない。

学校も、職場も、家庭も、地域も同様だ。

ーーーー

最後に一つ。
日本の人口は1億2千万くらい。
フィンランドの人口は600万人くらい。

それに対して先ほどの精神科スタッフの数をみてほしい。
この数字をどうみるか。
一体、日本人は、「なんのために働いているのか」
一体、日本政府は、「なんのために働かせているのか」
自民公明党はまだ昭和の夢をみているような気がするのは、僕だけか。

日本のシステムが壊れていることを数字で理解できないなら、教育がなんのために行われているのか、わからない。

ーーーーーー

こちらは

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とりあえずお母さんが定期テスト対策をやめさせるところから始めたらいいと思います。

寒い国は自殺者が多いといいます。
鬱々しているからだと。では、どうやって北の国の人はメンタルヘルスを保ってきたのでしょうか?
それが富山県の精神文化なのだとおもいます。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県高岡市という子育ての条件。幸福度と自殺者。

さて、富山県の、日本の精神文化とは、なんなのでしょうか?

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ちなみに、フィンランドが発祥らしい、「オープンダイアローグ」なるものも有名だ。
対話、対話、フィンランドはオトノネの友達だ。

オープンダイアローグ

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

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言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

言葉の内実とは何か。
「言葉はいろいろなことを表現する。その内容は何か。実態は何か。」ということだ。

言葉に人間のような姿形があるなら、いったいどのようにその人は暮らしているか、という問いを自問自答してみる。

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僕は日本の精神文化は「源氏物語」と「浄瑠璃」に集約できるとおもう。
それは日本人の「感情」の表れであり表現だ。
どちらの作品にも「日本仏教」が付いて回るが、とにかくこれらの作品には「泣く」「怒る」という感情がよくよく表れている。官能もよくよく、含んでいる。世界中でもコンビニでポルノを売っている国など、日本の他にない(あるの?)。

それを例えばキリスト教を文化にもつ人たちに求めるなら?
長い間、聖書の物語が彼らの精神活動を支えていた。
聖書を紐解き、聖書の中に答えを見出そうとした。
そこで「解釈」のための論理学が精神の重要な部分となった(元をたどればポリス時代にその素地ができていた)と僕は考える。
海外の人と話をしていると、日本ではほとんど、ほとんど聞かない言葉をよく使っていることに気がつく。
「Why」という言葉だ。
この言葉は相手の論理、思考、考えを問う言葉。相手を解釈・理解しようとする言葉。
(日本人なら「どうして?」「なぜ?」を使う代わりに、驚きや拒絶、好き嫌いなどの主観的な感情を表現するだろう。)

日本人が「why」を使う状況は、、、大きな人間が小さな人間に問いかける時くらいだろうか。日本の大きな人間同士がこの言葉を使うのだろうか。。。

これは僕の印象だ。

人が誰かに助けを求める、お願いをする姿を思い描いてみてほしい。
どんな状況?
どんな言葉で?

僕は日本の農民が苦しんでいる、困っている状況を思ってみた。そこでその人は「どうか〇〇してください」と誰かにお願いするだろう。「行動」を「乞う」わけだ。「わたしたちの村は飢饉でもうこれこれこうで」と「感情」に訴えかける。

西洋の人が困っている状況でお願いするイメージを描いてみた。教会で人が神に祈りを捧げているイメージがでた。その人はこういう。「神様、私は、どうしたらいいでしょうか?」問う。「行動」するのは自分であり、「乞う」のではなく、「問う」。

人の感情に訴え行動を「乞う」日本。
神の理性に訴え言葉を「問う」西洋。
対比的にみると、僕はこうなんじゃないかとおもう。

今の内閣総理大臣がいろんな批判を浴びせられているが、「問い」に対する誠実さがない、「問い」を理解できていない、「問い」かけられているという認識すらない、「問う」という言葉の価値がないのは内閣総理大臣が変わればよいのではない。批判は内閣総理大臣という個人に浴びせられるものではない。少なくとも今の「問わせない」教育システムをつくりだした自民公明党という組織への批判であるべきだし、根本的には、この日本人の「乞う」精神文化、「問わせない」しくみを変えようとしない教育への批判であるべきではないのか。言葉の内実は歴史につながっており、それほどまでに深く人の意識を規定している。

しかしこの時代遅れの精神文化と呼ぶべきものは、本当に変えるべきなんだろうか?なにしろ相手は「歴史」である。
むしろ、この歴史に抗うことなく、ただただ「感情」と「行為」レベルの動物的な共産体制を保持して行くのも「自然」だろう。選挙に参加するということは歴史の流れに自分をどう位置付けるか、という大きな仕事だとつくづく思う。

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日本人が「言葉」を「解釈」し始め(ようとし)たのはいつか。
明治になって、新しい言葉を吸収しようとした時からではないか。そうして文豪たちは、西洋と日本の間を行き来しながら、新しい言葉の文化を作ろうとした。

現在、若者たちが、大人たちが、自分が使っている、触れている言葉、心を育てている言葉はどんな言葉か。
「源氏物語」や「浄瑠璃」の世界とどう違うか、少し立ち止まって、「問う」のも一興だ。

かの有名な言語学者が言った通り、言葉は意識そのものである。意識の道具ではない。意識そのものである。
言語環境は、その人の心をつくる。
保育所、幼稚園や学校で殺伐とした言語に日常的に囲まれている子どもたちの心が作る次の世の中は、どうなっているんだろう。

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この文章を書きながら、「問う」ことはすなわち考えることだとおもう。
「問う」ことで、心が満たされて行くように僕は感じている。(おとのねさんは学者らしい)

「乞う」ことで満たされるものは何か?
いくら食べても飽くことのない獣であるように思ってしまうのは私だけだろうか。

「問う」ことで満たされる心も、次の「問い」を飽くなきまでに求めるのだろうけれど。(こういう逆説的な、矛盾するような文章に楽しみを感じる人はオトノネの門をたたくと面白いのかもしれない)

C・S・ルイスが「子どもの本の書き方3つ」という評論の中で、児童文学のよくない書き方の1つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が並存するのだということを子供に知らせてはいけない、という見解に基づくものをあげている。また、子どもの欲するものだけを与えようとする書き方も戒められている。(略)もし子どもたちのことばでルイスの言葉を書き換えるとしたら次のようになるだろう。「大人のみなさん、あなたがたが勝手に頭で考えたものを私たちに与えないでください。ユートピアもモラルも、私たちが自分でつくるからこそ、すばらしいものができるのです。私たちにそれをつくる場と自由な時間をください」と。それにしても、ルイスがこのような忠告をしなければならなかった理由があったのだろうか。たしかに、子供達をとりまく大人たちの考え方の中にこのような忠告を必要とするような状況がある。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.54)

子どもたちは自分で「問う」ことで世界を作って行く。
人の顔色を見て世の中を渡る「行為」レベルの処世術ではなく、「心」のレベルで人と関われるようになってほしいと、僕はおもっている。
だってそっちの方が、僕は人が人らしく輝けるとおもっているから。

日本人は逆に、「問われる」ことで、輝きを失っているのが現状だろうけれど。
うーん、どうしようかな。
目の輝きが問われる前に、目をつぶって念仏を唱えるのが、日本人の言葉の内実、意識なのかもしれない。

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言葉にチカラを。
これがオトノネのテーマだと、「問う」ことで僕は発見した。
「問う」ことは学びのメタスキルだ。

ところでおとのねさんはHPやフェイスブック、ブログでいろいろな「問い」を読者に伝えてきただろうか。
「情報」は「問い」ではない。

オトノネは「問う」ことを続けていこうとおもっている。
たとえそれが「わかりにくい」HPだったとしても?
「乞う」HPも作って両方の人がオトノネに来てくれるようにしようかとおもった。

二本立て!
オトノネはHPから、心を大事にしようとおもいます。
お腹すいた。

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