言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

言葉の内実とは何か。
「言葉はいろいろなことを表現する。その内容は何か。実態は何か。」ということだ。

言葉に人間のような姿形があるなら、いったいどのようにその人は暮らしているか、という問いを自問自答してみる。

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僕は日本の精神文化は「源氏物語」と「浄瑠璃」に集約できるとおもう。
それは日本人の「感情」の表れであり表現だ。
どちらの作品にも「日本仏教」が付いて回るが、とにかくこれらの作品には「泣く」「怒る」という感情がよくよく表れている。官能もよくよく、含んでいる。世界中でもコンビニでポルノを売っている国など、日本の他にない(あるの?)。

それを例えばキリスト教を文化にもつ人たちに求めるなら?
長い間、聖書の物語が彼らの精神活動を支えていた。
聖書を紐解き、聖書の中に答えを見出そうとした。
そこで「解釈」のための論理学が精神の重要な部分となった(元をたどればポリス時代にその素地ができていた)と僕は考える。
海外の人と話をしていると、日本ではほとんど、ほとんど聞かない言葉をよく使っていることに気がつく。
「Why」という言葉だ。
この言葉は相手の論理、思考、考えを問う言葉。相手を解釈・理解しようとする言葉。
(日本人なら「どうして?」「なぜ?」を使う代わりに、驚きや拒絶、好き嫌いなどの主観的な感情を表現するだろう。)

日本人が「why」を使う状況は、、、大きな人間が小さな人間に問いかける時くらいだろうか。日本の大きな人間同士がこの言葉を使うのだろうか。。。

これは僕の印象だ。

人が誰かに助けを求める、お願いをする姿を思い描いてみてほしい。
どんな状況?
どんな言葉で?

僕は日本の農民が苦しんでいる、困っている状況を思ってみた。そこでその人は「どうか〇〇してください」と誰かにお願いするだろう。「行動」を「乞う」わけだ。「わたしたちの村は飢饉でもうこれこれこうで」と「感情」に訴えかける。

西洋の人が困っている状況でお願いするイメージを描いてみた。教会で人が神に祈りを捧げているイメージがでた。その人はこういう。「神様、私は、どうしたらいいでしょうか?」問う。「行動」するのは自分であり、「乞う」のではなく、「問う」。

人の感情に訴え行動を「乞う」日本。
神の理性に訴え言葉を「問う」西洋。
対比的にみると、僕はこうなんじゃないかとおもう。

今の内閣総理大臣がいろんな批判を浴びせられているが、「問い」に対する誠実さがない、「問い」を理解できていない、「問い」かけられているという認識すらない、「問う」という言葉の価値がないのは内閣総理大臣が変わればよいのではない。批判は内閣総理大臣という個人に浴びせられるものではない。少なくとも今の「問わせない」教育システムをつくりだした自民公明党という組織への批判であるべきだし、根本的には、この日本人の「乞う」精神文化、「問わせない」しくみを変えようとしない教育への批判であるべきではないのか。言葉の内実は歴史につながっており、それほどまでに深く人の意識を規定している。

しかしこの時代遅れの精神文化と呼ぶべきものは、本当に変えるべきなんだろうか?なにしろ相手は「歴史」である。
むしろ、この歴史に抗うことなく、ただただ「感情」と「行為」レベルの動物的な共産体制を保持して行くのも「自然」だろう。選挙に参加するということは歴史の流れに自分をどう位置付けるか、という大きな仕事だとつくづく思う。

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日本人が「言葉」を「解釈」し始め(ようとし)たのはいつか。
明治になって、新しい言葉を吸収しようとした時からではないか。そうして文豪たちは、西洋と日本の間を行き来しながら、新しい言葉の文化を作ろうとした。

現在、若者たちが、大人たちが、自分が使っている、触れている言葉、心を育てている言葉はどんな言葉か。
「源氏物語」や「浄瑠璃」の世界とどう違うか、少し立ち止まって、「問う」のも一興だ。

かの有名な言語学者が言った通り、言葉は意識そのものである。意識の道具ではない。意識そのものである。
言語環境は、その人の心をつくる。
保育所、幼稚園や学校で殺伐とした言語に日常的に囲まれている子どもたちの心が作る次の世の中は、どうなっているんだろう。

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この文章を書きながら、「問う」ことはすなわち考えることだとおもう。
「問う」ことで、心が満たされて行くように僕は感じている。(おとのねさんは学者らしい)

「乞う」ことで満たされるものは何か?
いくら食べても飽くことのない獣であるように思ってしまうのは私だけだろうか。

「問う」ことで満たされる心も、次の「問い」を飽くなきまでに求めるのだろうけれど。(こういう逆説的な、矛盾するような文章に楽しみを感じる人はオトノネの門をたたくと面白いのかもしれない)

C・S・ルイスが「子どもの本の書き方3つ」という評論の中で、児童文学のよくない書き方の1つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が並存するのだということを子供に知らせてはいけない、という見解に基づくものをあげている。また、子どもの欲するものだけを与えようとする書き方も戒められている。(略)もし子どもたちのことばでルイスの言葉を書き換えるとしたら次のようになるだろう。「大人のみなさん、あなたがたが勝手に頭で考えたものを私たちに与えないでください。ユートピアもモラルも、私たちが自分でつくるからこそ、すばらしいものができるのです。私たちにそれをつくる場と自由な時間をください」と。それにしても、ルイスがこのような忠告をしなければならなかった理由があったのだろうか。たしかに、子供達をとりまく大人たちの考え方の中にこのような忠告を必要とするような状況がある。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.54)

子どもたちは自分で「問う」ことで世界を作って行く。
人の顔色を見て世の中を渡る「行為」レベルの処世術ではなく、「心」のレベルで人と関われるようになってほしいと、僕はおもっている。
だってそっちの方が、僕は人が人らしく輝けるとおもっているから。

日本人は逆に、「問われる」ことで、輝きを失っているのが現状だろうけれど。
うーん、どうしようかな。
目の輝きが問われる前に、目をつぶって念仏を唱えるのが、日本人の言葉の内実、意識なのかもしれない。

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言葉にチカラを。
これがオトノネのテーマだと、「問う」ことで僕は発見した。
「問う」ことは学びのメタスキルだ。

ところでおとのねさんはHPやフェイスブック、ブログでいろいろな「問い」を読者に伝えてきただろうか。
「情報」は「問い」ではない。

オトノネは「問う」ことを続けていこうとおもっている。
たとえそれが「わかりにくい」HPだったとしても?
「乞う」HPも作って両方の人がオトノネに来てくれるようにしようかとおもった。

二本立て!
オトノネはHPから、心を大事にしようとおもいます。
お腹すいた。

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