【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹

自己愛の構造
『<自己愛>の構造』和田秀樹
この本で、あまりにも頭の中からいろいろでてきてしまって困った。

一つ前に読んだ本の続きでコフートからいろいろ考えてみる。
【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

この記事はブレークタイムを挟んだ二部構成になっています笑

前半の終わりは、


笑うしか、ないかな。。。。

絶望までもう少し☆
きちんと絶望できるかな笑

です笑

後半の終わりは

内側へ、内側へ、オトノネへ。

です。

なんとか、持ちこたえました笑

悩めるおとのねさんにおつきあいしていただけるでしょうか?

===========
============

コフートの考えをまとめてみることにしました。
メモ風にいきます笑

ーーーーーー

コフートの3つの心理的ニーズ(自己対象の3種類)

何かができるようになると、みせにくる。
みてもらいたい。
自分が輝いていること、プラスの自分を確認したい。
自分はプラスにいきたい。
褒めてもらいたい。

そういう自己のニーズを満たす自己対象を、鏡自己対象と呼びました、

逆に自分が弱い部分を助けてくれる、頼りになる、マイナスをプラスに向かわせてくれる、嫌な感情を補ってくれる対象のことを、理想化自己対象と呼びました。

不安になったり、生きる方向を見失った時に相談をしたり、お願いしたり、一人で、はできないことを一緒にやったり、勇気をもらえる対象のことです。「一人ではできないこと」を助けてくれる人。困った時に頼れる人。
社会的参照の対象、といえるでしょう。

鏡自己対象(プラス指向対象とでも呼びたい気分になってきました笑)を満たされるプロセスで、健全な自尊心や向上心が育っていく。

理想化自己対象(ゼロ指向対象)をみたされるプロセスで、不安や怒りや悲しみといった感情を処理し、ケロッとできる心が育っていく。手助けしてもらう。人間関係がうまくいく。負の感情の排泄ができるようになる。「弱い」自分に力を感じる。「大丈夫だ」と思える。落ち着ける。
Idealizing
For the young child, ‘ idealized selfobjects “provide the experience of merger with the calm, power, wisdom, and goodness of idealized persons”‘.

(グリッドやレジエリエンスや自己肯定感とかいう言葉も、こうした作用のまとまりだと考えたら、とてもアバウトな概念ですね)

双子自己対象は「自分と同じ」ということを感じることで安心を得られる自己対象?
 ありのままの自分を映し出してくれる対象?うーんよくわからない。
Alter ego/twinship needs
Lacan highlighted ‘the mirror stage … of a normal transitivism. The child who strikes another says that he has been struck; the child who sees another fall, cries.’

聞いても、返事が返ってこない、自分のことがわからない、喋れない子どもに出会うことがある。
自分のことを感じられないで、「え?なにそれ?わかんない」と答えるような子どもがいる。
で、その子のお母さんはとてつもなく管理が厳しい。全部親が決める。子どもはついていくだけ。

これはある意味、双子自己対象だけで心の仕組みがつくられた例といえないかとおもいます。
母親と一体化してしまう。母親がコントロールしてくれないと安心できない。というか、母親なしでは判断できない。「自分」がないように見える。言葉で表現される「その子自身」が、虚ろに聞こえる。。。)

====
鏡自己対象や理想化自己対象を英語でなんというか調べたら、、、なにやら、、、意味がわからない、、翻訳がおかしい。。。。もう日本語わけわからない。。。
鏡自己対象は誇大自己対象と呼ぶべきところを、理想化自己対象と意味合いがかぶるから鏡自己対象と翻訳したんだろうか、、、鏡って、、、そんな、、、わからんやろ!笑

grandiose-exhibitionistic needsは誇大自己顕示欲求と訳せそうだが、これが鏡自己対象によって満たされるという。鏡、という言葉は翻訳としてよろしくない気がする。

====

健全な〈自己の充足〉ではなく、不健全な〈自己の充足〉を考えてみてもいいでしょうか。

鏡自己対象(プラス指向対象)、自分のプラスを感じられるために、よく「ホメゴロス」人がいます。これは「ありのままの自分をみてくれていない」ことになったり「条件付きなんだ」ということになると不健全。おだててやらせるとか。子どもも自分を隠して、評価されるために頑張ってしまう。

理想化自己対象(ゼロ指向対象)、自分のマイナスをプラスの方向に持っていくために、ヒモのようになる。ただついていくだけ。弱い人間が強い人間の後ろについていく。権威主義。ただただ従属してしまう。

双子自己対象については見た通り。自分の感じ方、自分のしたいことではなく相手の基準に合わせる。とか、同じ服を着たり、同じものを買ったり、同一化して安心する。(孫とおばあちゃんでペアルックな光景をみてゾッとしたことがある。いやまぁいいけどさ。)

不健全でも健全でも、とりあえずは〈自己の充実〉はされるのでしょう。

そもそも、不健全とか健全とかがあるのでしょうか。
生きていれば、それでいい、のでしょうか。

それこそ、「人間とは、そういうものなのだ」と認めなくてはいけないことなのでしょうか。

別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。

ーーーー

コフートの最初の悲劇人間の定義は、人間が何のために生きるかで分類できるという考え方に基づいている、

もし目標が欲動の活動に向けられていれば、これを罪責人間とよび、目標が自己の充実に向けられていれば、これを悲劇人間と呼ぶ。

精神装置心理学という概念は(略)罪責人間の精神障害と葛藤を説明するのに最適である。自己の心理学は(略)悲劇人間の心的障害と苦闘を説明するのに必要とされる。

コフートがいおうとしたのは、フロイトのころと現代ではあつかっている患者がちがうということだ。フロイトの頃の患者は自分の内なるエスからの欲望に動かされ、それに対して自我がコントロールしようとしたり、超自我が禁止行動を出そうとする、自我がエスに敗れて、「欲望に負けた」行動をとっても、超自我が強すぎて、「してはいけない」「であらねばならない」が強すぎても、罪悪感に苛まれるか、あるいはそれが無意識の罪悪感となって抑うつや神経症の症状を引き起こす。葛藤の場はつねに自分の内部にある。まさに復讐するは我にありの状況だ。「人間が自分自身の内部の葛藤に悩む限りは」これまでの自我心理学、つまり人間の心の内部の心的装置を仮定する心理学は役に立つ。しかし悲劇人間の営為の中心は、野心と理想という自己の二つの極の間に貼られた緊張弓である。(p.99)

人間は罪責人間と悲劇人間の両方をもっている。
結局一人ではできないから、誰かの力を借りて、変わっていく。
関わり方を変えていく。

というケースは本で読んだことがある。
(甘えられない自分を発見して、甘えるようにしてみたら、心が安定した、というケース)

病的な程度にまで至る自己の障害は、これら二つの発達機会の両方に失敗することによってのみ、生じる。

子どもにとって、
片方の曲が満たされないことは「悲劇」であるが、それでも本当うに病的になるのは、両方卯の曲が満たされない時なのだということは、子どもを育てる側の者にとっては、多少安心できる話といえるかもしれない(p.104)

その二つの機会とは、鏡自己対象と理想化自己対象だという。

=====

英語版のwikiを読みながら、Optimal frustrationという概念が大切だとおもえました。
optimalとは、適度な、最適な、最上のというう意味です。opticalは光の、という意味であり、「光明ある」という意味合いでとるとよいかもしれません。

つまるところ、心理的ニーズを満たす対象を探して満たされて自己愛を満たすプロセスのなかで心を成長させる「適度な挫折」であればいいのだが、挫折が大きすぎると、、、、というお話。学校という暴力のシステムのなかで、すでに「挫折」しているう部分があるのかもしれない。日本という場所、日本人という人たちの中で、自己を充実させられずに、子どもたちは挫けていないか。

=====

混乱しまくっている。
Empathy
Kohut maintained that parents’ failures to empathize with their children and the responses of their children to these failures were ‘at the root of almost all psychopathology’.

共感は3つの心理的ニーズすべての基礎になることは間違いない。
が、ここでも不健全な共感という考え方ができてしまう気がする。

=======

別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。

と書いた。

生態学を導入したいとおもった。

大人が心理的ニーズを満たす自己対象が子供しかいないという状況を考えてみよう。
人間の生態、日本人の生態をみると、会社でも地域でも家庭でも「立場」が優先される。としてみよう。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
心理的ニーズを満たす関係をつくれない。
心理的ニーズを満たす関係をつくる時間も場所もない。

ただ、子どもだけは別だ。近くにいる。

親にとって、子どもしか、〈自己の充実〉のための自己対象がいない。

(子どもとの関わりが希薄な父親の場合は、仕事漬けになるか酒に走るか何か)

学校の先生を考えてみよう。
まず一番大きいのは「立場」だ。
コフートの考えでは、〈自己の充実〉は相互依存関係だという。
とすれば、心理的ニーズは満たされていない。双方に、満たされていない。と僕は直感する。
ただ「立場」があるだけ。。。。
なんの共感もない。

殺伐としているおかげで子どもも〈自己の充実〉をするための関係を学校の中ではつくれない。
友達との関係を作れたらしあわせなほうだ。

一番簡単な方法が、親子がともに「母子カプセル」に入ることだ。
双子自己対象として、お互いに〈自己の充実〉をし合う。相互依存⭐︎

共依存。
狂依存。

ううーん。

人間の、現代社会の、日本人の生態を眺めると、とても、「自然」に思えてしまって怖い。

ーーーーーー

悲劇人間は、現代社会で「自然」な人間の姿だということをみた。
一方で、また同時に、悲劇人間でありなおかつ罪責人間であることも、大いにありうる。

日本では超自我の禁止行動が主流だろう。
禁止を受けたせいで、心が磨り減った部分が、さらに、エスで酒まみれ、欲情まみれになったり。

バランスをとるのではなく、超自我を育てる文化。
コントロールされることに慣れることが、教育であるという文化。

これは「自己」ではなく「立場」を生きなければならない日本人の暮らし方だと考えたら。。。
「立場」を学び、「自己」を育てない生き方が、日本の精神文化だとしたら。。。

どこかからふっと湧いて与えられた「立場」(というか、立場をつくる=役をつくることでしか人間同士が関係できないので「立場」で考えなくては頭が回らないのでつくる)に従うロボット。ああ、だから日本は機械作るのがうまいんだ笑

======

この記事を書きながら、気づいたのは、日本という場所で育まれた人的な生態系の自然なあり方が、ただただいまの目の前に広がっている、という事実を、私は文字に書き起こしただけだったということです。人によって、それは残酷にも、「当たり前」にも映るのだろうけれど。

「共感」には永遠に達しない、人間のいない世界を、僕は感じている。
人間と暮らしたい。

いや、人間、、、、これが、、、人間なんだ。。。。

目標が自己の充足に向けられている人は「悲劇人間」と呼ばれた。自己の充足のためには、自己対象が必要である、そういうう自己対象を周囲の人に求めて、自己の充足のために足掻く人、悲劇人間こそが、現代の精神分析に主たる患者たちであるとコフートは考えたのである。「罪責人間」の精神病理は個人の心の中の問題であり、「悲劇人間」の精神病理は環境への人間的な渇望の問題である。つまり、「罪責人間」は心理的に「個人」であるが、「悲劇人間」は個人以前なのである。(p.169)

人間関係の原理を、「立場」でシステム化してしまった。
想定された役を超えることは許されない。
会社や学校の外で人間関係をつくるような「自然」は日本にはない。
それこそ「自然に反して」つくっていくしかない。
そのためには「自己」が必要になる。
「個人」の強さが必要になる。

「個人」がある程度確立していれば、「不自然」に手を伸ばすことができる。
だが「個人」としても未熟であるなら、、、親子が心中するしかない。

日本では、一週間に二人、子どもが親に殺されている。
〈自己を充実〉させてくれない子どもだからといって、殺されている。

子どもが、「自己」を抹消する日本の「自然」に、飲み込まれていく。
子どもが、「自己」を抹消された大人の「怒り」を、受け止めて、死んでいく。

笑うしか、ないかな。。。。

絶望までもう少し☆
きちんと絶望できるかな笑

自分の小ささを、もっと感じないといけないなぁとおもった。

==========
===========

ここでブレークタイム・・・

==========
==========

〈自己の充実〉のために、双子自己対象を得るしくみはいろいろある。
同じ趣味、興味を持ってあつまる音楽サークル、もしくは子どものピアノ教室、習い事、部活動。
お母さんたちが「みんないっしょ」の安心感を得るために子供をつかう。

目標が、〈自己の充実〉だ。
それに子どもをつかう。

ーーーーーーーーーー

コフートの心理学は、「臨床」のための心理学だ。
心の医者のところまできた人に対する手ほどきをするための枠組みが心理学だ。

いま僕は親子関係の「違和感」「不自然さ」が何なのかを知りたいとおもっている。

だが、コフートの心理学は、「病気になったり不都合がでてきたときに駆け込んでくるクライアントのための」心理学だ。
健康被害(?)がでる以前の「不自然さ」を扱ってはいないのだろうか。

コフートは、「昨日までの人」とは、ルネッサンスから1930年から40年ごろの生まれくらいまでの人たちであるという見解を明らかにしたうえで、彼らは、まだ「個人」の世界の人であり、自分の境界をはっきり持っている個人同士が、緊密な人間関係をもっていると述べた、しかし「今日の人」は違うのだと語った。

人々が定住化し、人々の均一性が増し、動き回れるスペースが減り、マスの動きと効率の良い全体主義が支配する世界では、人は心理的サバイバルのための新たな問題に直面することになるのです。(p.170)

他者との関係をもつ。

という一言にコフートの考えを要約してみよう。

もう簡単にしよう笑

オトノネの存在は、「お母さんがオトノネと関係を持つ」ことでしか生まれてこないということ。
けどオトノネは多くのお母さんの望む不健康な関係を望まない。

望まないよ・・・

悲劇人間の子供が拡大再生産されている現在、自己心理学は一般大衆向けの心理学として、どのように子どもと接し、どんな形で子どもに情緒的刺激を与える社会を作るべきかなどおいう問題を提起すべき時期がきているように思えてならない。そうでなければ、パソコンが創り出すサイバースペースにすべての人が引き込まれて、パソコンが創り出すファンタジーの世界でしか「生きる」意味を見出せない人間が当たり前になって、情緒的接触という言葉が事実上死語になりかねないからである。悲劇人間であれ、偽正常であれ、救えるのは人間しかいない。このような過少刺激の時代だから、子育てにかんしては過保護をおそれず、愛せる限り子どもを愛すべき時代なのだと私は考える。(p.174)

過保護=甘やかし

であるが、過保護=過剰コントロールでもある。

過剰コントロールは控えていただかないと困る。

=======

ああ、双子自己対象のヤバさ、書いてあった笑

悲劇人間は、個人として、自分の欲動に忠実には生きられない。これまでの他者の反応がそれなりによかった人たちは、それなりにしっかりした自己を持ち、ある程度は、その中核プログラムにそった行動をとれるのだろう。しかし、そうでなかった悲劇人間たちは、みずからの生きる意味を創り出すことができず、周囲に合わせて生きるだけの「偽正常」の病理に苦しむことになるだろう。そして、関係性理論の論客ミッチェルによると、この偽正常こそが、多くの現代的精神分析家のメインテーマなのである。コフートが亡くなる間際に双子自己対象の大切さを強調したのも、「同じ人間でいたい」という、偽正常の患者の心の叫びを受け止めたからなのんかもしれない。(p.173)

「みんなでいっしょ」には危ないという記事は書いてきた。
「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。
「みんなで一緒に」を喩えてみる。
「みんな一緒」の夢から早く覚めた子が、合格する。

けど「みんなでいっしょ」が染み付いた心をどうしたらいいか、それは「知る」ことではどうにもならない。
それこそ、堕落し切るしかないのだろうか。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)
義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。

心が感じなければ、変わろうとしなければ、変わらない。

と思っている。

だが「偽正常」が、あたりまえのストラテジーになってしまった。
「かつての」健全な人間関係はもはや望めない。
人間という資源が使えない。
そこで苦肉の策が「アイドル」とか「ブランド」とかでなんとか〈自己の充実〉をやろうというストラテジー。
「偽正常」であるが、それが「自然」だ。
「みんな一緒」が、「自然」だ。

そんな社会の中で、オトノネをする意味はあるんだろうか。
すくなくとも、オトノネを求めてくれる人がいる、ということだろう。
多くを望まず、小さく続けていこうかな、とおもう。

コフートの考える自己の欠陥は、親の反応性が良くなかったために、体や知的機能は大人になっているのに、心は子どものままの発達状態でいるというモデルである。(p.178)


大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。

コフートは、相手が共感的な反応を示してくれなかったり、自己愛が傷つけられたり、恥をかかされた時の激しい怒りを自己愛憤怒と読んだ。(p.181)

で、この中身は「放出したところで、軽減されてスカッとはしない」ものだそうです。
その根本は、自己愛を大切にできない心にあるから。


大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。

健康な心というものは自己対象によって作られる、そして健康な心を持てれば、周囲の世界から自己対象を選ぶ能力が高まるだろうし、それを利用する能力も高まるだろう。つまり自己対象に対して成熟した態度が取れるのである。

フロイトは、コフートも指摘するように、多くを知ることに大きな意味を置いた過去のことであれ、自分のことであれ、多くを知って心が賢くなれば、人間は自分の葛藤が克服できると。しかし、最近のトラウマ治療でも問題になっているように、「多くを知っても」人間の心は解放されない。もっと人間的な養分で心を元気にしてやらないといけないというのがコフートとの大きな教訓だった。(p.204)

この言葉はコフートではなく和田秀樹さんの言葉です。
少し変えてみようとおもいます。

健康な心というものは健康な心を持った自己対象によってつくられる。

病は感染する。
親子で特に感染する。
学校でも感染する。
地域社会でも感染する。

健康。

心の健康とはなんだろうか。

自分の身を守る。
自分の心を守る。

オトノネはオトノネを守る。
僕は僕を守る。

誰かが、「みんな一緒」でその人自身を守っているように。
子ども時代に、人生を通して作られてきたパターン(ああ、チューリングの本をもう一度よもうかな)は簡単に変えられない。
あるもので、やっていくしかない。

もしそれで「故障」して動けなくなったら、オトノネにきたらいい。
そんな風に、どーんと構えていたらいいのかな。

僕は僕らしく。
オトノネはオトノネらしく。
あなたは、あなたらしく。

僕から見たらあなたは不自然。
あなたから見たら僕は不自然。

だったら、関わらなければいい。

自然に付き合える人、自己対象をみつけるのが難しい、僕の生き方、オトノネのやり方。
それでも捨てられない僕だから、オトノネだから、まぁいいか笑

========

双子自己対象の例で、いいものがのっていた。

いつものように「患者の苦しみをまったく理解してくれないので辛い」と私を非難したのに対して、私もふと、「患者をよくできない治療者というのも辛いものなのですよ」と対応した。すると、Bさんははじめて治療者に微笑み返した。その後、患者は現在の辛い内的体験をはっきりことばにして話すようになった。また過去の成功を私に時々話してくれるようになった。(略)治療者も同じ世界に住む人間であるという感覚を与えることができれば、治療の行き詰まりを高いすることができる可能性をこのケースは示唆している。「自分もおなじ状況にいれば、あなたと同じように感じるでしょうね」と伝えることが、患者に「他の人間の中にいる人間である、という感情の確信」を与えることになる。時には、患者に対して適切なタイミングの良い解釈を与えることが、「わかってもらえた」という感覚を与え、双子感を確立した。別の場合には、治療者の側の敵とな自己開示、つまり自分のプライベートな姿を垣間見せることが、患者に治療者も自分と同じ種類の人間なのだという感覚を与える。(p.230)

「わたしもあなたもいっしょ」というスキルを使うといいのかもしれない。
メタスキル はそのままに。
頑なな心を開くには、内側から満たすのがいいのだろう。
種だって、内側から開いていくのだから。

内側へ、内側へ、オトノネへ。

オトノネひろげるシェアぼたん

【花火大会】お餅を食べて、学んだこと。学ぶよろこび。食べるよろこび。

もちを初めて、食べた。
今度オトノネで餅つきをするというので実験をすることになって、作って食べた。

もち米を入れたら、機会が最後まで作ってくれる笑

で、最後に、、食べる、、、、

DSC_1050

なんだこれは!?

丸い塊になった餅を人差し指と親指の間でひねってとる。
なんだこの感触は。
柔らかさ、温かさ、そしてこれまでに体験しない餅と重力との対話。
それから口に持って行く前に、きな粉をつける。
なんだこの感触は。(硬い餅にきな粉をかけて食べたことしかない。)
口に入れるまでの経路は例えばおにぎりをたべるときとは違う。
なんだこの感覚は。
それから歯を噛み合わせる。
なんだこの感触は。
なんだこのあたたかさは。
やわらかさは。
そしてこの味は。

これはもう、神経細胞の花火大会だ。

「もちとはなんぞや」と問いかけるわけでもない。
ただ「もち」を経験するところに喜びを感じる。
喜びを学習する。

よろこびを、学ぶ。

オトノネで、学ぶ。

オトノネは、人間の価値を、大切にしたいとおもっています。

——

新しい言葉、あたらしい世界観、新しい「知」、新しい体験の価値はなんだろうか。
テストで点数をとることであろうか。
まさか。

ただ、この「価値」の問いの答えによって、その人の心がわかるように、僕は思う。

毎日世界がキラキラ輝いて見えていたときのことを、僕たちは思い出せるだろうか。

かつて僕らは歩くことそれ自体に喜びを感じていた。
地面から「やわらかさ」や「あたたかさ」「かたさ」や「つめたさ」を感じて花火大会をしていた。
地面から受けるその感触を受けて、対話をしていた。

それがいつのまにか、対話をやめて、ただただ、地面を歩くための場所、モノ、目的のための手段にしてしまった。
地面の気持ちなど、「今日の地面」などどうでもよくなってしまった。
地面との楽しいおしゃべりをやめてしまった、

のだろうか。

心次第では、歩くだけでも、人はしあわせになれるのかもしれない。
ただただ明けて暮らすだけでも、人はしあわせになれるのかもしれない。

たぶん、そうなんだろう。

と、できたてのおもちを食べておもった。

硬くなって、焼くだけのインスタントなお餅しか食べられない子どもは、今日も穴埋め問題プリントをやったり、ノートの穴を埋めたりしているんだろう。
本当のお餅、生きているお餅、重力と対話するお餅笑の喜びを知らずに。本当の学びの、喜びをしらずに。

なんてまぁ、貧しい国なんだろう。

ーーーーーー

グーグル社が作り上げたマインドフルネスは「ストレス社会」で「ストレス」を少なくするために開発されたスキルだ。

「ストレス社会」の中で、マインドフルネスをメタスキルとして使えば、心のあり方として使うならば、「ストレス社会」自体が、消えてなくなるのかもしれない。

「ストレス社会」は実在しない。
ただ心のあり方が、「ストレス社会」を作り出しているとおもえば、本当に、、、心が大事なのだとおもう。

ーーーーーーーー

それにしても、餅コメを入れたらつくところまでやってくれる機械をつくるのは、日本人らしいというのか。
機械をつくって、機会を使う時間を失ったのも、日本人らしいというか。

機械を使おう!
機会をつくろう!

というわけで、月一回はモチフェスをしたいなとおもっています^^

オトノネひろげるシェアぼたん

【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

自信がなくても幸せになれる心理学
『自信がなくても幸せになれる心理学』和田 秀樹

コフートという心理学者はそれ以前のフロイトの「自我」ではなく、「自己愛」もしくは「自己」という新しい言葉で人間を理解しようとしました。フロイトの考えた「自我」という言葉は、「自分の問題は自分の内部で、一人で解決する。自我を自分で鍛える」という背景をもっています。けれどもコフートは「人一人の問題は、どうやら一人では解決できなさそうだ。足りない部分をを他者で充実させよう」という背景を持った言葉を必要としたのです。心理学の人間観を変えるために、言葉を新しく作ったのです。「自我」は他者とは離れた心の内部にあるもの、「自己」は他者が触れられる、まさに他者が関係できるもの、と理解していいとおもいます。

コフートは、人間の行動のすべての原点は「自己愛」にあると考えました。人間とは「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義したのです。(略)実際、本書を読んでいただければわかるとおり、人が喜んだり、安心を感じたりするのは、この「自己愛」が満たされた時だと言い換えられます。逆に、人が落ち込んだり怒ったりするのは、「自己愛」を傷つけられた時です。(p.14)

コフートは「自己」という言葉とともに「自己対象」という言葉をつくりました。「自己」が「自己愛」を満たすための対象のことです。単純に言えば、甘えられる、認めてくれる相手のことです。

従来は

自己の充実=自分を鍛える(自力)

でしたが、

自己の充実=自己対象をもつ(他力)

ということに視点をかえました。
(もちろん、他力を発揮するための自力の部分は必要ですよ!)

コフートは、「甘え上手になりましょう」「頼りになりそうな人を見極める力をつけましょう」ということを提唱したのです。(p.19)

「自己の充実」とは、他者に支えてもらうために「他者を心理的にうまく頼る能力を高めよう」「他者とうまくつきあう能力を高めよう」というものです。(p.68)

人を頼りにするというと、依存である!とおもえるかもしれません。たしかに「よろしからぬ依存」はあるでしょう。ですがコフートは「健全な依存」を目指します。

ーーー

ここで僕は行為レベルと言葉レベルでの「依存」の区別をしたいとおもいます。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。
例えば「忙しいから代わりにやって!」とか、自分の代わりに誰かに手伝ってもらう、利用することは行為レベルです。
それはそれでいいでしょう。関係性があって、の話であれば。(もしくはそれがきっかけになって、関係性ができるのであれば)
ですが大切なことは言葉レベルでの「依存」だとおもいます。
相談する、素直に話す、悩みを、離す。
話をしながら、自己愛を充たしていく。
心が、大事にされる。

この境界線をいくのが、いわゆる「夜のお仕事」の現場でしょう。
ですが大抵、どちらかに分類できます。

最近の言葉で言えば、doingかbeingかということです。
言葉は両方に使われます。
抱きしめるという非言語でも、言葉レベルの関係はもちろん可能です。
そうすると、行為レベルと言語レベルという言葉は不適切かもしれません笑

ーーーーー

コフートは、自分を愛するために、誰かに頼ることを「よし」とします。
「人間、生きているだけで誰かの迷惑になる。気にすることはない。大丈夫だよ」と僕も誰かに言われた記憶があります笑

迷惑になるから、もしくはプライベートが他人に漏らされてゴシップになる、という恐れから、言語レベルで他者と関われない、つまり自己対象を喪失している人がいます。日本の地域社会では恨みと妬みと虚栄となにやらわけのわからないものが渦巻きがちで、なるほど、うまく自己対象をみつけられないかもしれないな、というのが私の直感ですが。

ーーーーー

自分を愛せない人に、他人を愛することはできません。コフートが「自己愛」を否定しないのは、こういったことにも起因します。要するに、「自己愛」が悪いのではなく、「自分勝手」が悪いのです。迷惑をかけたくないが故にカラに閉じこもってしまう人などは、その意思に反して、場合によってはむしろ「自分勝手」な人だということすらできます。(p.29)

コフートは人間を「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義しましたね。
なので、誰かの自己愛を充たせるようになったら、自分の自己愛も充たしていい(みたしてもらう)ことは「よし」だし、誰かに自己愛を充たしてもらったら、その人の自己愛も充たしてあげることは、とても「自然」である、ということです。

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

=====

ここで利己的な人間のことを思い出してみよう。
もらえるだけもらって、返さない・・・・
「いい人」「誰かの自己愛を充たす人」が、「我慢」をしていたら・・・・
病気になる人もいるでしょう。
「我慢」をしなくても、例えば「ありがとう」の一言で自己愛を満たせる人は、病気にはならないでしょう。関係の作り方、心のあり方は、人それぞれですね。

give and take

という言葉があります。

win winという言葉もあります。

アメリカのネィティブインディアンの世界では、
give away
という言葉があります。与え尽くす、という関係です。

健全な依存関係とはなんでしょうか?

「健全な依存関係を築けることが、成熟した人間の証である」(p.32)

健全な依存関係とはなんでしょうか?
give and takeの世界でしょうか?
give awayの世界でしょうか?
(もしくはtake away?????)

コフートは、何よりも人間の主観を大切にするという考え方をしますから、「やったほうが得だから、頑張ろう」という発想も肯定します。つまり、損得を考えて行動したとしても、コフートはそれを責めません。他の誰でもなく、自分自身が満足していなければ、人に親切にすることもできません。あなたが満足するためには、時には損得で動くことだってある。そう考えるのが、コフート流です。程度問題はあるでしょうが、頭が回ってつい損得勘定をしてしまう人も、そう気に止むことはないのです。(p.32)

つきつめれば、「この人嫌だな」とおもったら、関係をつくらなくてもいいということでしょう。
誰にでも親切に、などというのは菩薩にお願いしましょう笑

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
それがgive and takeでもgive awayでもいい(take awayでもいい???)。心に素直にしたがってみる。まずは、関わってみる。

そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。
コドモとして未成熟なオトナ

「自己愛」とはいってもそれぞれにレベルがあって、そこにはいびつな自己愛と、成熟した自己愛があるとしました。自分さえ良ければいいと相手を見下すような態度をとったり、人をバカにしたりすうるのは、いびつな自己愛によるものです。たとえば、「お前は浮気をしているだろう」などといいがかりをつけて妻を殴る夫は、「自分だけを愛して欲しい」「殴って自分だけスッキリしたい」という勝手ばかりで、妻には何も与えていません。そこにあるのは、いびつな自己愛だけです。(p.67)

子育てはどうなるだろううか。
お母さんの愛情は無償だとかいう言葉があるけれど。。。それは「自然」ではないでしょう。

母親は子供からちゃんと愛や喜びを受け取っているのです。子どもの笑顔や喜んでくれる姿があるからこそ、母親は大変な子育てをどうにかこうにか頑張っているのであって、決して一方的な関係ではありません。その少雨子に、やっぱり子供が扱いにくかったりきむずかしかったり、または自分になかなか懐いて狂えないと言った子があれば、いくら母親でも、ついついムッとしてしまう場面もあるわけですお母さんだって人間なのですから、当然のことです。(p.76)

お母さんが来ても反応しない、笑わない子がいます。

愛着理論の研究をするとよくよく観察されるケースです。
そういう子は、先天的に表情が読み取るのが苦手といった条件で生まれてきている可能性の他に、お母さんと関わっても何ももらえないし、逆に悪いものをもらうから、顔もみたくない、という状況を表しているときもあります。

ーーーーー

「まさかその一言でそうなるとは・・・」という事態があるでしょう。
「そんなはずでは・・・」ということも、よくあることかもしれません。

「役」や「立場」を超えて人間関係をつくることが異常に難しげな文化をもつ日本。

「自己愛」をみたそうとしていろいろなことを喋ったり、誘ったりすると、相手が予期せぬ反応をすることがある。
「ラインの番号、教えてくれない?」「いやだ」
「付き合ってくれない?」「いやだ」
「ご飯食べにいこうよー」「いやだ」
「ねぇねぇ・・・」「・・・」(そっけなさすぎですね笑)

こういう答えが返ってきて傷つくということは、話者同士にまだそこまで関係ができていない、という教訓としてうけとるといいかもしれません。(親子関係がこれだとひどいことになりそうです)

ここで相手を理解する、「共感」するということが大切になってきます。
「なんで嫌だっていうの!」と腹を立てていたら、、、、アレレです笑

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

「いやだ」という言葉のオトノネを感じれるかどうか。
感じられるなら、「そうだよね!じゃぁ別の人誘おう!」とか、「じゃぁ今日は一人でご飯食べるか!」ということにいなって心の健康が保たれる。

相手の状態を推し量って理解して認める。
相手のことだから本当かどうかはわからない。
だがとにかく他者の心はわからない。
わからないものをどうしようもない。
「どうしたの?」と聞いてみるのもいいが、そういう関係かどうか。

・・・・・

「健全な依存」に至るまでのプロセスは長い。
これを子ども時代に学んでおいたら、またそれなりの人生があるのだろう。

自分の感情を知り、相手の感情を知り、ただただそれを見つめてみること。
「しょうがない」ことは「しょうがない」と諦めるプロセスを踏むこと。
「それでも!」と思う気持ちがあるなら、、、、それで人がどう反応するか、やってみること。

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。

お子さんとこういう関わり合いをしてきましたか?

============

「悲劇の人」という言葉をコフートはつくりました。

「悲劇の人」は、成長のプロセスをふまずに、少しずつ「自己愛」の充たし方を、人間関係の方法を学ばずに。一気に「自己愛」を満たそうとする人のことです。「○○があったら」とか「○○したら」、自分は変わる、幸せになる、満たされると勘違いしている人のことです。「白馬の王子様が来てくれたら、私は幸せになれる!」と思っていたり、「お金があれば私は幸せになれる!」と思っている人です。

「子どもが○○になったら」と考えているお父さんお母さんは「悲劇の人」です。

もしも、あなたの周りにそういう人がいたとしたら、できる範囲でグチを聞いてあげてもいし、どこかしらほめてあげてもいい。少しでも、あなたにできるう範囲の安心感を与えて認めてあげることが、彼らを少しずつ変えていくことになるのです。そうすれば、認めてもらった、ほめてもらったと感じた人の「足りない部分」が少し埋まります。埋まってくると、心にも余裕ができてきます。すると、性格も穏やかになってきます。となれば、ほかにもその人と話してみよう、話してみたいと思う人がでてきます。恋人ができる可能性も上がってきます。こうして他者が介入する方法で、人は変わっていけると、コフートは考えたのです。

コフートは、「運」がなかった人たち、すなわち「悲劇の人」たちの治療として、「かつて満たされなかった感情を、もう一度、治療者との間で満たしてあげる」ことで、彼らを救おうと考えました。さらにその治療は、医師でなくてもできるといいいました。いったいどんな治療なのでしょうか。(p.35)

ーーーー

自己の充実のために満たしてあげるといい大切なものは、「認められること」「褒められること」だといいます。
いってしまえば、赤ちゃんがハイハイしたり、二本足で立ち上がったりしたときにみんなが「きゃー!すごいすごい!」とかいうあれでしょうか。

褒められると気持ちが変わる。
楽になる。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

世の中にでまわっている「誉め殺し」では逆に「なんだよ、嘘くさい」と感じてしまう人もいるでしょう。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

褒める、ということをこうとらえてもいいかもしれません。

「本当は自分ってよくがんばったな、とおもうけど、自分で自分を認めてやれない。そんな時に、誰かが、自分が出せない自分の代わりに、褒めてくれる」ことで、自分が自分を認められるようになるのだと。

「ねぇねぇ!みてみて!」といって、自分がつくったものをみてほしい。
自分が「やったったぞ!」という感情をきちんと感じたい。
どんな言葉で自分を認めたらいいのかわからない。

どう感じていいかわからない、けど興奮している。「この気持ちって、なんなんだろう!?」
そこで、子どもはお母さんに「みてみて!」とか「きいてきいて!」という。

ただ、一緒に感じてあげたらいい。
「よくつくったね。うれしいんだね。」
にっこり笑ってあげたら、子ども自分の笑顔をしっかり感じることができるだろう。

ーーーー

世界を知るための言語も同じ。
「青」という言葉をどうやって学んだだろうか。
「青」という言葉の中で、誰かと「青」という言葉を共有して初めて「青」を感じられるようになる。

「よろこび」も。
「かなしみ」も。

言葉を与えることで、「青」を眺めることができる。
「よろこび」を感じることができる。

そこには、生まれたから始まり指差しで開花する言葉の習得と似ている。
「この感情は、何ていうの?どうしたらいいの?」
「泣いていいんだよ」「笑っていいんだよ」「それは悲しいってことなんだよ」「それは嬉しいってことなんだよ」

ーーー

こうして「自分を愛する(自分を大切にする)」ことが「他者を愛する(他者を大切にする)」ことを通じなければ為されないことだと、子供は理解するかもしれません。
また、「自分を愛する」ために必要な他者は、誰でもいいわけではない、ということも学ぶでしょう。

あきらめず、いろんな人に声をかけ通づけていれば、必ず、「お前のこと、よくわかるよ」と言ってくれる人物は現れます。「わかってくれる人」というのは、頼れる人の第一条件です。まずは、「わかってくれる人」を探しましょう。もちろん、自分が行動しなければ、そんな人が現れることもありませんから、そこは自分で頑張らねばなりません。ここは重要なポイントです。(略)たとえそれがインターネットのなかであったとしても、自分と似たような感覚をもつ人や頼りになる人に出会えたなら、私たちの心はずっと楽になります。その出会いは、あなたを変えるきっかけにもなるでしょう。頼れる人、あなたを「わかってくれる」人とのコミュニケーションを通じて、あなたのいい部分が引き出され、「どうせ私なんてダメだから」といったネガティブな部分がなりをひそめていくことが期待できます。(p.40)

人付き合いが狭い範囲に限られてしまうと、かなり窮屈を感じてしまうでしょう。
「立場」や「役」にがんじがらめの人間関係の中では、「わかってくれる人」と出会うのは難しいかもしれません。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
そこで、歩き回る、探しにいくというのもいいし、ネットをつかってもいい。

とにかく、人に出会うこと。
人は、一人では変われない。
人は、一人では豊かに生きられない。

そういう前提が、コフートの心理学にはある。

例えばライブ会場。
同じアイドルが好きな人たちが集まる、というだけでも、人は居心地の良さを感じる。
アイドルに会いたいからいくのはもちろんだが、同じ人を、同じグループを好きな人がいる、ということも、ライブの本質ではないでしょうか。「カッコイイよね!わかるわかる!」という言葉を介さなくても、ライブ会場にいるというだけで、「共感」の空間にいられる。そういう魅力があって、若い子たちはアイドルのライブに夢中になっているような気もします笑

ポイントは、等身大の自分を認めてくれる人がいるかどうか、です。(p.43)

=======

人と出会う、認めてくれる人を探すということを難しい!と感じる人もいるでしょう。
狭い人間関係の中で、立場と役の縛りの中でしか人と付き合えなかったなら、なおさらです。
(本当は、学校や地域でそういう人と出会うのがいいのですが、そうならないのが現実です。学校も立場主義ですから)
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

「私には無理・・・」とそこで諦めるのか。
「ちょっと、やってみようかな」とおもえるのか。

コフートの出した答えを使うか使わないかは、その人次第です。
オトノネで一緒に初めてみませんか?

おそらくお子さんの方が早く変わるでしょう。
お子さんが変化するのをみて、お母さんが変わる、というのが、通常のプロセスです。

お子さんとオトノネの関係から、学んでみてほしいとおもいます。

========

日本では名の知れた心理学者にアドラーがいる。アドラートの違いから、コフートの考え方を理解してみよう、と和田秀樹さんはいいます。

アドラーの考え方というのは、このように「目的論」ですから、「いつも目的をちゃんともち、また目的に対する解決方法をフレキシブルに変えていくことで、人間というのはいくらでも変わることができる」と考えた、と要約できるでしょう。

例えばここに、一人の不良少年がいたとします。治療者が彼の話を深く掘り下げて聞いていくと、過去に「親に愛されなかったと判明し、それが彼がグレた理由だと見えてくる。これが、フロイト流の考え方でしたね。対してアドラーは、勉強で認められず劣等感を抱えた少年には、「勉強で認められない代わりに悪いことをして認められよう」という「目的」があるのだ、としました。ですから、「こんな悪いことをしやがって」と周囲が騒ぎ立ててしまうと、それは不良少年の目的を満たすことになるため余計に悪いことをするようになる、と考えます。では、アドラーは、その不良少年をどうしたらいいとかんがえたのでしょうか?

みなさんは、『あしたのジョー』という漫画をご存知でしょうか。ドヤ街をうろついていた一人の不良少年が、ボクシングと出会い、最強のボクシングチャンピョンと試合をするまでに成長するお話です。アドラーは、この漫画の主人公である矢吹丈(ジョー)のように、「不良少年として目立つ」という目的ではなくて、「ボクシングチャンピョンになって目立つ」という目的をもったらいいじゃないか、と考えるわけです。つまり、悪いとされる目的を、別のいい目的にすり替えるのです。目的が変われば行動も変わるわけですから、必然、不良少年として悪行を重ねることもなくなります。

これがコフートなら、「その少年には愛情が足りていないから、周囲が愛情をもって接していこう」という考え方になります。

『あしたのジョー』でいえば、プロモーターとしてジョーをさまざまなかたちで支えるとともに、ひそかにジョーに好意を持ち続ける財閥令嬢、白木葉子といった役割でしょうか。もちろん、この白木葉子だけではなく、ボクシングの師匠である丹下段平をはじめ、多くの下町の人たちに支えられ、応援されたからこそ、ジョーは「下町の星」として、ボクサーの道を進んでいくことができたわけです。これが、コフート流の解釈です。

「原因」に働きかけるのがフロイトだとすれば、「結果」に働きかけるのがアドラーですから、「矢吹丈という不良少年にボクシングを教える」というのがアドラー流の解決法であり、ジョーがボクサーとして正しい道を歩み始めたなら、過去に親の愛情を受けずに施設に育ったことや不良少年であったことなど、もうどうでもいいことだ、ということになりますう。一方、コフートはそれでよしとはしません。あくまでもジョーの孤独な心を支え、愛情をかけ、いってみればジョーを内側から治療しよううとします。(p.59)

人は一人一人違っていて、心の健康度、心の強さ、心の習慣も違います。
コフートの考え方は、一番根源的であって、母性的であって、平和チックでしょう。「弱くてもいい」、それでも幸せになれると。
アドラーの考え方は、ある程度自己が確立していて、心のインフラができている人には向いているかもしれません。父性的
(こういう分け方もよろしからぬ時代になっていますが・・・)であり、「自分を高めていく」ことで得られるしあわせがあるのでしょう。

この両方が、成長のプロセスで一人の人間の中で回るなら、それがいいのかも知れません。
「目的」だけを追求することは、ある意味で、「孤独」になるかもわからない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)
「目的」を追求するうことに夢中になって、サイコパスになるかもしれない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)

「孤独だっていいじゃないか」という強さがある人は、アドラー流で考えてもいい。
だがその時に必要になる「共同体感覚」はどうやって手に入れるのか???この本では詳しく書かれていないが、それこそコフートの基礎があってのアドラーということはできないだろうか。子どものときの宿題をやったら、大人の宿題ができる。順序があべこべの人もいるが。。

「自分は自分だ」と思えるようになるためにも、コフートの考え方は、助けになるのではないかとおもいます。

ーーーーーー

人によっては、「目的を持つ」ことに高いハードルを感じる人がいるでしょう。
がんじがらめになって自分の命のエネルギーを感じられない人がいます。
「立場」や「役」の世界にどっぷり浸かって、自分を感じられない人がいます。

そういう人たちには、フロイトのやったように「原因」をまずは事実として受け入れてから、コフートのいうように、まずは少しずつ「自己」を満たしてゆき、最後になにか「目的」と出会えたなら、アドラー流でいく、というプロセスを辿るとよいのかもしれません。

お母さんたちにもいろいろな人がいます。
心の段階もひとそれぞれです。

お子さんも、ひとりひとり違います。

ビリギャルのさやかさんは「目的」と同時に、坪田先生という「わかってくれる人」と出会いました。
なによりも、「わかってくれる」お母さんがいました。
ただ「いい先生」と出会えなかっただけで、不良?になっていたのでした。
学校で劣等生のレッテルを貼られていたわけですから・・・

大抵のお子さんは、コフート流の関わり合いを必要としていると私は感じています。

お子さんには「今」何が大切なのか、オトノネにきて、感じてみませんか。

アドラーとコフートでは、同じ「共感」という手段にしても、その目的は似て非なるところがありました。先ほども述べたように、アドラーは「相手の目的を知る」ために共感し、目的を達成されるう解決方法を提示してあげる、いわyる「勇気付け」を行い、コフートは「相手の心理ニーズを理解する」ために共感し、相手が不安ならそばにいてあげるし、ほめてほしいのであればほめてあげるわけです。いうなれば、アドラーは人間の本質的な「強さ」を信じた人。そして、コフートは人間の「弱さ」を肯定し、包みこもうとした人、です。(p.70)

========

コフートのいう「自己の充実」のための心理的ニーズは3つしかないそうです。

鏡自己対象ニーズ
 自分が褒めて欲しい、認めてほしいポイントを押さえてくれていて、心理ニーズを満たしてくれる対象

理想化自己対象
 「この人は頼りになる」「この人がいればなんとかなる」「この人がいるから大丈夫だ」と思える対象
 
双子自己対象
 自分によく似た存在がいるうということで安心感、ちょっとした一体感を感じる対象

面白いことに、相互に凸凹でも、同時に自他が心理的ニーズを満たすことができる、ということです。

相互依存関係について、私はよく、こんな例え話をします。クラスにすごい秀才と、その秀才にいつもノートを借りてばかりの劣等生がいます。周囲の学生たちは、その劣等生のことを、「あいつはあの秀才のおかげで進級腕きてるよな」とか、「人に頼ってばかりで、ダメなやつだよね」なんて噂していました。そんななか、等のレッウ統制がみんなの前で、秀才に向かってこんなことを言います。

「真面目にとったノートを教えもなく貸してくれるなんて、お前みたいな性格のいいやつ、見たことないよ!」と。

秀才の誉れ高いその学生にとって、「成績がいいよね」「秀才だよね」なんていわれることに、たいした感動はありません。自分でもわかっていることだからです。しかし、この劣等生はみんなの前で、自分の「性格」をほめてくれた!いわゆる「ガリ勉」の彼は、どこか周囲の学生から嫌煙されることも多く、この劣等生の言葉は最大級に嬉しいものでした。隠して劣等生の一言によって、秀才である彼の「自己愛」は満たされ、二人の間には立派な「相互依存」の関係が気づかれたのです。(p.87)


関係において、どちらか一方が、というわけではない。
お互いにその場にいたり、何らかの行為や言葉を交換する、時間を共にする、その価値を交換できる。
能力の差があっても、give and take、自己の満たし合いはできる。

そのために必要なのは、正直に思ったことを話すこともそうだけど、、
やはり共感能力ではないだろうか。
「この人、どんな気持ちなのかな、僕にノートを見せてくれるその関係を、どうやって続けていけるかな。。。気持ちよく、この関係を続けたい。。。」

「共感」とは、相手の立場に立って物事を考えたり、想像してみることです。なぜ共感することが大切か?それは、共感することで、初めて見えてくるものがあるからです。あなたの周りの人を参考に、相手の立場にたって、「この人は、何をいわれたら嬉しいのだろか?」と、改めて考えて見ましょう。(略)相手が「本当は私は、自分のこういうところに中うう目してほしいんだけどな」と思っている、そのニーズをおさえることが重要なのです。相手が「認められたいとおもっているポイント」を見つけて、認めてあげるのです。(p.84)


共感するとは、自分があげたいものではなく、相手がほしいものを感じること、
自分の感情ではなく、相手の感情を汲み取ることです。

言葉だけではなく、行動でも、共感できます。
「ご飯でも食べに行こうか」「ドライブしようか」「飲みに行くか」

ナースコールを押しまくる患者さんがいたとする。コフートならどうするか?

おばあさんにナースコールを押させているのは、「不安」です。不安は、消えるまで人につきまといます。身体の不自由なお年寄りや病気をしたお年寄りが慣れない環境におかれれば、その不安は察するにあまりあるでしょう。不安が消えない限り、おばあさんはナースコールを鳴らし続けることになります。したがってこの場合は、「無視せず徹底的に対応すること」がコフート流の対応方法であり、それは実際、医療現場の正解です。(p.125)

相手の心を理解する、共感する、オトノネに耳を傾けるということ。

子どもであれば、例えば「勉強できない」というおもいから、なかなか宿題をしてこなかったり、スムーズに進まないことがあるでしょう。それでも時間をかけて、少しずつ、自信をつけて行く。「大丈夫だ」と思えるまで、付き合う。

そういう時間が、大切だということでしょう。

ーーーーーーー

この共感の能力を最大限に利用して人を恐怖に陥れるサイコパスという存在もいる笑

相手に気持ちのいいことをしてもらっているなら、当然こっちも、気持ちの良さを返す。
利己的かもしれないが、自己愛をみたすということは、お互いのニーズを満たし合うということなのだろう。

この考えが凝り固まると、「立場」や「役」というものが現れてくるかもしれません。
「あなたは私にこうすることになっている!」「わたしはこうしてるのに、あなたはしてくれない!」

そんな時は?
それこそ人間関係、崩れたり、ひっついたり、いろんなことがあっていいと思います。
離れて見て、お互いに気がつくこともあるでしょう。

別の対象を見つけてもいいでしょう。
大切な人であれば、相手のニーズに耳を傾けてもいいでしょう。
成長を願うからこそ、離れることもあるでしょう。
と、私はおもうのです。

が、

だが!

だがしかし!

コフートはその点、一貫しています笑

仮に他人に甘えすぎたり、自分のことばかり考えたりするような人がいたら、その人は周囲から好かれるでしょうか?難しいですね。だから注意が必要です。自分の満たされない気持ちを自分勝手なやり方で相手に埋めてもらおうとすれば、それこそストーカーとか、そういうことになってしまいます。

コフートは、人に好かれないとか、自己愛が満たされていないとか、そういったうまく「相互依存」ができていない状態のときに、人は不安定になるのだと言います。「俺は誰にも認めてもらえていない」「誰も私のことなんて好きじゃない」、誰でもそんな気分位なってしまうことはありますが、そう思っている時、私たちは自分で自分を大切に思うこともできず、不安定な状態になってしまいます。いわずもがな、四六時中そんな思いに囚われている人は、四六時中不安定ということになります。

対して、「愛情を十分に受けている人は、心が安定していて、必要以上に甘えよう、愛情を得ようという考えにはいたらない」とするのが、コフートの人間観です。(p.102)

つまり、「甘え方」「相互依存の上手な仕方」がわからないのだから、存分に甘えてみないと治らない。心が安定するまで、甘えることだと、言っているようですが????いいの???

甘えてくる人を甘やかすなんて、まさに「猫に鰹節」じゃないかともいえます。でもコフートは、「甘えてくるということは、すなわち自己愛が満たされていない状態なので、もう少し愛情を与えることで均衡のとれた状態に戻すことができる」、と考えるのです。(p.104)

この時、「甘えさせてるよ!」と親が思っていても、子どもが「甘えられていない」、子どもの心が「安定」していないのなら、「甘えが足りない」と、コフートは判断する。

一貫している笑

「親である私は愛情をかけているうつもりだ」では足りず、「子ども自身が愛情をかけられているとわかるように」接することが必要です。これがうまくいかないと、例に挙げた二人のよううに、「勉強ができなければ愛されない」とか、「顔がキレイだから愛されるんだ」という人げられない気持ちを生んでしまい、それが歪んだ価値観にまで繋がってしまいうるわけです。(p.107)

こうして、「健全な自信」をもった子どもは、競争で一番になれなくても、お金がなくても、うまく自己主張ができなくても、満足感を持った人間でいられる、のだそうです。

だが!!!だがしかし!

大切な人なら「甘やかせつくす」のもありかもしれないが、全くの他人の「悲劇の人」出会った場合は???

とりあえずいやな人と絵あった時に「ああ、この人はかわいそうな人なんだ」と思えばいい、ということです。(p.132)

もし大切に思う人であれば、話を聞いたり、共感したり、ほめてみることで心理的ニーズ、自己愛を満たすのでしたね。
素の自分を認めてもらえずに着飾っている人には、素の部分を認めるような関わりを。

何かが変化したら、、たぶん、その人はそれに気づいてほしいのかもしれない。
こうして、関わり合いは、続く・・・

========

心理的ニーズは3つあった。
そのうち「双子自己対象」ニーズはまだ登場していない笑

こんなところにでてきています。

コフートの場合は、叱るのではなく、「こういうミスってやりがちだよな。俺も若い頃はよくやらかしたもんだよ」とか、「次からはこういうふうににゃってみような」というように、相手の「双子」感を引き出しつつ正して行く、というやり方をします。(p.143)

お互いに、自己愛を満たし合いながら生きている人間同士、なかよくやる作法がある。
コフートは、3つの心理的ニーズという言葉で、その作法を教えてくれている。

オトノネひろげるシェアぼたん

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?

原発危機と東大話法
『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

安冨歩さんの本は「生きるための経済学」をきっかけにいくつか読んでいた。
安冨歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ

で、最近youtubeでもいろいろしゃべってくれていて、勉強になる。
安冨さんは学者というより、本当に本当の事実、真実を追う研究者であり、芸術家でもある。
東京に行ったらばったり会いたい人です笑

言葉のレッスンに力をいれている、というよりメタスキルに力を入れている、心を大事にするオトノネとだだガブリな思想?をもっている安冨さん。

名刺の抽象性、名詞のもつチカラをブログに書いたことがあるが、それを歴史的な事件にまで広げてくれるとは。。。

ーーー

子路は言った。「衛の君主が先生に政治をさせたとしましょう。先生はまず何をなさいますか」
先生は言った。「必ずや、名を正す」
子路は言った。「これだから、先生は迂遠だ」

「子路」というのは孔子の弟子の名前で、「衛」というのは国の名前です。子路は「先生は迂遠だ」と行っていますが、もちろん、迂遠ではないのです。何か大変な危機的事態になっている時、最も恐ろしいことは、人々が欺瞞的な言葉を使うことです。

たとえば日本は、戦争に負けそうになって、毎日、B29が飛来してナパーム弾を落としている時に、「日本は神の国だから負けない」という言葉を振り回していたので、自体をどうすることもできませんでした。降伏することすらできなかったのです。自体をなんとかするためには、「このままでは確実に負けて、国土が焦土になる」という自体を反映した言葉で施工し、行動しなければなりませんでした。

しかしそれをすることは、当時の政府の枢要な地位にあった人々にはできませんでした。そのために自体はどんどん悪化し、沖縄で膨大な犠牲者を出し、東京が焦土となり、二発の原爆を投下され、それでも戦争をやめられませんでした。最後に「日ソ不可侵条約」という紙切れ一枚を根拠に、友好国だと勝手に思い込んでいたソ連が参戦して、満州国に新ニュしてきたことで、ようやく幻想が剥がれ落ちました。そこで「国体護持」という言葉が見出され、日本は本土決戦の前に、かろうじて降伏することができたのです。なぜそんなに降伏するのが怖かったのかというと、「鬼畜米英」という相手に貼ったレッテルを、自分で新んじて「降伏したら全員殺される」と思ってしまったから、と言う側面があったと思います。

そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。言葉が歪むことで、人々が事実から目を背け、事実でないものに対処することで、全ての行動が無駄になり、無駄どころか事態を悪化させます。そして正しい言葉を使おうとするものは「非国民」扱いされ、口を封じられ、それでも封じないと殺されました。こう言うことが続くことで、表面上の平穏が維持され、やがて暴走が始まり、最後に破綻したのです。

(略)

これが「名を正す」ということの力です。孔子はそれうえ、「必ずや、名を正す」と言ったのです。名を正さないことには、何も始められないからです。

とはいえ、正しく言葉を使うことは、大変、勇気のいることです。たとえば、家庭でも、夫婦仲が悪くなっているというのに、「夫婦なんて、どこだって、こんなもんだ」ということにして、「夫婦仲が悪い」という言葉を出さないでいることにより、果てしない欺瞞と隠蔽とが生じ、困難と苦悩とが生まれます。それは夫婦のみならず、家族全員を窒息させてしまいます。

あるいは会社でも、こんなことをやっていたらいつまでも続くわけがない、とだれもが思っている事業が、いつまでも続けられるケースが多いのですどうしても、「これではだめだ」と言うことができず、無意味な労働と資源の浪費が続き、挙げ句の果てに会社が危機に落ちいぅてしまうのです。

それがどんなにつらくてひどいことであっても、事実にふさわしい言葉が用いられることにより、人間は事実に向かって対応することが可能となります。この勇気さえ持てるなら、人間は自体を乗り越えていく知恵を出すことが可能となるのです。その時、自体は好転し始めます。そればかりか、「危機」は新たなる「機会」へと変貌します。これが「名を正す」ということの意味です。(p.36)

学校という魔王の使う言葉、暴力、もしくは会社でのそれをそのまま「黙認」する、言葉にしない、無責任を取る(爆)ことで暴走が止まらない状況がある。それは「合格実績」だとか「大学」だとか「学歴」だとか「上場会社」とかいろんな言葉の物語を支えている。沈黙が、日本を支えている。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。
言いたいことが言えない。

「発達障害」「ウィスク」「遅れ」「学校」「支援級」「通常級」「いじめ」「保護者」「先生」「不登校」「生徒」そんな言葉の一つ一つが、呪いの言葉としてしか使われていない現状がある。一体、その言葉は、何を指し示しているのか、わけがわからない。

「いじめ」についても僕はブログで書いている。
「発達障害」についても書いている。
「不登校」についても書いている。
「合格実績」についても。

だが、だがしかしだ笑
多くの記事を読んでもらっているのに、反応がないし、届かないらしい。
言葉というのは、そういうものだ。と、諦め、られないのが、僕だ笑

僕の言葉の使い方は、まだ弱いのだ。
と、反省しながらも。

言葉の重み(俳優と演出家の役割)
困っているけど声を出せないお母さんなう

どうしたものかな?とおもいながら、ちょっと試してみたいことがあったりする。
(お楽しみに!)

まぁなんにせよ呪詛の強さに驚く。

「自然(自由)」と言うことについても書いている。
「子育て」と言うことについても書いている。
「責任」と言う言葉についても書いている。
「大人の宿題」と言う言葉についても書いている笑

ブログのカテゴリーに「言葉の玉手箱」を作ったのも、現実を知るために言葉を改めなくては、新しい言葉を作らなくてはいけないと思ったからだ。
本来、それは詩人の役割だった。
詩人はどこに行ったのか?キャッチコピーを考えて商品を売る魔王の手先になっってしまった。

この点、安冨さんも詩人だろうと僕はおもう。

宿題をやらないだけで、非国民扱いされる、学校はまだまだ戦争状態だ。日本はまだ、いまだに、戦時を生きている。
「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。
子どもも大人も月月火水木金金

=============

仮面ライダー新1号のオープニング主題歌の後には、

かめんらいだー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは、世界制覇を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!

という、私が子ども時代にしびれたナレーションが入っていますが、仮面ライダー・小出裕章も改造人間です。原子力村ショッカーが大学や大学院でいろいろ教え込んで、小出さんを改造したのですから。仮面ライダー・本郷猛が、精神まで改造される前に逃げ出し、ショッカーによって改造された身体を武器に戦っているのと同じように、小出さんはわずかの仲間とともに人間の自由のために原子力ムラと戦っています。小出さんもライダーも、ショッカーや原子力ムラが次々に繰り出してくる「怪人」と戦い続けていますが決して傷つかず、倒れません。

石森章太郎は、「世界がショッカーに支配されかかっており、人間の自由を守るには、一人一人が仮面ライダーとなって戦い続けるしかない!」という驚くべき真実を、当時の子どもたち(すでに私のように中年になっていますが)に伝えようとしていたのだと私は考えています。こんなことを大真面目に書くと、頭がおかしいのではないか、と思われるでしょう。それは覚悟の上です。私も、以前はこんな風には考えていませんでした。私が考えを改めたのは、東京大学に就職してからです。それも、しばらくはそんな風には考えなかったのですが、何年かの間、いろいろと奇妙で不愉快で悲しい体験を繰り返すうちに、ある時、ハタと、

「東大って、ショッカー?!」

と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。それ以来、「東大=ショッカー」説をあちこちではなしていたのですが、みなさん面白がってはくれるのですが、本気にはしてくれませんでした。しかしそれでも負けずに話していたところ、今回の原発事故が起きたのです。すると、ある精神科医の友人が、

安冨さんが東大について行っていたことは、面白いなと思っていたけれど、やはりお袈裟に行っているのだと思っていたんです。でも、原発事故で東大の人がテレビにたくさん出てきて、むちゃくちゃなことを行っているのをみて、「ああ、本当だったんだ」と思いました。特に、ネットで大橋教授という人の話す様子を見て、「こんなにも純粋の悪意を持った人間が、実在するんだ」とショックを受けました。それで、やっと本当だとわかりました。

と言ってくれました。(p.88)

僕は実はこの本を今読んだばかりで、ショッカーという言葉も今、なるほどなとおもった。

その前に、ラジオ番組で、話の最後にシューベルトの「魔王」が流された時、ああ、魔王ってたくさんいるよな。魔王に囲まれて僕らは暮らしているよなとおもった。

僕は純粋な悪、というもの、笑顔で近づいてきてさも正しいようなことをにこやかに喋りナイフで刺してくる人とたくさん出会ってきたので「魔王」の甘いささやきに覚えがあったのです。

それは学校の先生だったり、塾の経営者だったり、保護者だったり、会社員だったり、それこそ、道端で出会う人であったり。

「純粋の悪意を持った人間が、実在する」

しかもすぐ近くにいる。
その事実を、事実として認められますか。

そしてそういう人が役職のトップになる世の中だということを、認められますか。
(その傾向はパーソナリティー特性の本でも書いてあった)
『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

僕は、「魔王」という言葉で理解したものを、安冨さんは「ショッカー」という言葉で理解していた。
言語は違ったけれども、同じものを指している。僕は「魔王」は弾いたこともあったし身近だったが、仮面ライダーには疎かった笑

言葉をつくる。
事実を表す言葉を使う。
事実を認識していく。

そうして、心ができていく。

「東大って、ショッカー?!」と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。

と書いているのは、本当のことだとおもいます。「知る」ということが、「心」をつくるためには必要だからです。
「見えない」「感じない」のでは、どうして心がつくれるでしょうか。(それが多くの子どもたちの状況だとおもうと、悲しくなります)

で、世の中にたくさんいるショッカー(魔王)たちの使う欺瞞の言語に「東大話法」と安冨さんは名前をつけました。
新しい言葉をつくりましたー!

その言語を生み出した文化は、

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

こと、だそうです。

これは東大に限らない、日本のいたるところでみられる文化だと、すぐにわかりますか。
思い当たる節が、多々あるように、おもいます笑

===============

東大が憎いからと言って、東大を解体しても、無駄なのです。東大を潰せば、京大か慶応か早稲田か知りませんが、どこか他の大学がその機能を担って「東大化」するばかりです。必要なことは、「東大話法」に代表されるような、日本社会に蔓延する欺瞞話法を鋭く見ぬ浮くことです。他の人が仕掛けてくる「東大話法」を感知して、騙されないことです。これは自分自身を例外にしてできるものではありません。ここの人が、自らの中の「東大話法」を見出して取り除くことに努力せねばならず、そうすることではじめて、他人の欺瞞も見抜けるようになります。自分は欺瞞話法を駆使しつつ、他人の欺瞞話法を見抜くというのは、無理な相談だからです。そうやって多くの人が「免疫」を作動させれば、東大関係者も「東大話法」などを振り回せなくなり、真摯な思考に向かって一歩踏み出すことが可能となります。「東大話法」は東大だけが作り出しているのではありません。東大話法を振り回されていると恐れ入って感心したり、納得したりする人もまた、重要な加担者です。東大という権威をもっ東大話法を話せば、多くの人が納得し、その納得がまた東大の権威をも違える、というう相互依存構造になっているのだと私はかんえてています。単に相互依存しているばかりではありません東大話法を振り回せr多人が、畏れ入ってしまうと、今度はその人に東大話法が侵入してしまいます。かくてその人が今度は、別の人に東大話法を振り回します。それは単に言葉遣いがうつるというばかりではなく、その欺瞞的精神の作動そのものの感染です。誰かが東大話法を振り回し、誰かがそれに恐れ入ると、それが東大話法の話者を生み出し、その話者がまた東大話法を振り回し、さらに東大話法の話者を生み出します。人々が麺系を作動させないでいる限り、こうやって東大話法が鼠算式に自己増殖するのです。この自己増殖を放置すれば、あっという間に、社会全体が東大話法に感染します。

ですから、私が本書の読者にお願いしたいことは、東大話法を使っている人を見たら、感心して納得するのではなく、「これは東大話法だ!」とはっきりと認識して、笑っていただきたい。ということです。人々が東大話法を聞くたびに、納得するのではなく、笑っていただければ、東大話法を維持している相互依存関係は崩壊します。(p.192)

悪口、非難の文体をもった言葉がネット上で溢れている。
「やめろ!」「不正だ!」という人たちは、例えば「東大が潰れたあとで別の東大がでてくる」ことをわかっていない。政権が変われば日本はよくなる、と考えているのだろうか。

いやもちろん、自民公明党が調子乗りすぎだから止めた方がいいのは正しいとおもうが、その先が、ない。政権を握った途端に、ナポレオン化するだろう。これは日本の言語文化の問題なのだ、精神文化、心の問題なのだと、安冨さんはいっているのだろうし、僕もそうおもう。

けど現実は、自分の問題として、誰かのせいにする人が多い。
僕自身が、大切なことをまだ自分ごととしてみれていないことがある。

大人が子ども時代にやり残した宿題を、誰かに押し付けている。
それが、「自然」な世の中で、笑おうとしている子どもたちを僕は尊敬してしまう。
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
コドモとして未成熟なオトナ

一人一人が「言葉」を正して生きていく。
東大話法が溢れた「自然」の中で、欺瞞の心に感染されないように「健康」でいることが大切なのだと。
そのために「鼻で笑いましょう」と言っている。

ということは、ほとんどの人間と、話ができずに、鼻で笑う関係になってしまうだろう。
笑い合う人が増えるというのだから、いいものかもしれない。

============

安冨さんは、「職」「役」「家」そして「立場」という言葉を検討する。

「職」は大化の改新で「氏」の連合体を天皇中心で中央集権させ官僚体制をつくるための仕組みであった。
例えば焼き物を作る「職」を担っていた土師氏という「氏」という単位が、平安末期には藤原家といった「家」に移行していった。

中世末期から近世初期にかけて、戦国大名は「職」ではなく「役」の体系を作り上げた。
「役」という言葉が、つくられた。
武士には「軍役」が課された。農民には「百姓の役」が課された。

で、

「役」は「家」と並行して成立したようです。

「氏」という大きな組織が「家」という小さな組織に再編成され、それに伴って「職」という言葉は「役」という言葉に変わった。

うーんちょっと掴みかねるので引用しておきます。

とおもったけど打ち込む元気がないことに気づきました。。

「家業」をすることで「家」は「役」を果たすことになり、「家業」が崩壊すれば、「役」を担えず、「家」は「立場」を失う。

ん?家業って、役なの?

ーーーー

このように「役」という概念は、日本社会の根底を支える哲学なのです。この「役の体系」は現代社会にも大きな影響を与えています。それは「役場」「役所」「役人」「重役」「取締役」「役員」「役者」「役割」「役得」「役回り」「役立たず」といった用語を見れば明らかでしょう。ここから先は私の考えなのですが、少なくとも現代日本社会においては、「役」がその背後にある「立場」と密接に相互作用している、と思います。つまり、

役を果たせば、立場が守られる。
立場には、役が付随する。
役を果たせなければ、立場を失う。

この原理は、国家体制と無関係なところでも明確に作動していきます。

たとえば現代日本の企業がそうです。現代日本社会では、個人の自由が憲法で保証されているはずですが、
企業の中ではそんなものは、そう簡単にはつううよううしません、地涌石で就職し、自由意志で勤務しているはずなのですが、尾藤さんのいうような「企業の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする」というような「誇りある」ことにはなかなかならないのです。

なんだか知らないけれど、いろいろな事情で自分にある役が回ってきて、その役を担っているという立場上、その役を果たさないと自分の立場がなくなってしまうので、その恐ろしさのあまり、身を粉にして役を果たす、という感じです。そうやって私が必死で立場を守るべく役を果たすことで、私の上司や動力も立場を守ることができて、その上司や同僚もまた必死で立場を守るべく役を果たすために頑張ることで、私の立場も守られます。

そういう立場と役との相互依存関係の巨大なネットワークが形成されていて、それが全員の必死の努力でかろうじて維持されているように見えますもしも誰かがどこかで「わがまま」を言って役を果たさないと、そこに穴が空き、そのほころびが急激に拡大して大穴となってしまい、周囲に大変な迷惑をかけるように思えるのです。しかし、そのネットワークの全体が、いったいどこに向かっているのか、自分の果たしている役が、いったいその全体とどういう関係にあるのかは、もはやサッパリわかりませんただひたすら、役を果たして立場を守っていれば、なぜか給料が振り込まれ、一定期間にわたってそれを続けていれば、どういうわけか昇進するのです。(p.221)

僕は軽く笑ってしまった。

親という立場と子どもという立場も同じじゃないかと。
多くの狂ったお母さんが、子どもをこういう関係に追いやっている。それと同じじゃないかと。
子どもは子どもという立場で、お母さんはお母さんという立場で。
お互いのメンツをかけて、依存しあっている。

立場を守るために役をつくる。役を作るために、、、いらない仕事を作る。
これは天下りの仕組みだし、立場をより強固なものにする仕組みでもある。
(本の中ではこの後に、原子力関係の「法人」がどれだけたくさんの「立場」の人間の天下り先になっているかを説明している。具体的に笑)

原発は、天下り先をつくるために、ある。
という事実をみんな知っているんだろうか。

最近の大学入試の外部なんちゃらに英検が入っているのも、文科省主催の全国学力テストも、英語の必須化、プログラミングのうんちゃらも、天下り先を増やす、立場を守るために役をたくさんつくっている、いらない仕事を作っているだけだということを、教師が知らない世の中だ。現実を知らない人間から何を教わっているのか??そうそう、先生と生徒という立場を教わる。

「立場」という戦時の文化を学ぶのが、学校だ。
と、はっきり言ってしまえそうだ。

そうすると学校の東大話法はあっさりと理解できる。

大学入試改革も、天下り先をつくるためにやった。
という事実をみんな知っているんだろうか。

僕らはただ欺瞞の言葉で語りかけられているにすぎない。
欺瞞に埋め尽くされている世の中で、頭がおかしくなるのが「自然」だろう。

もう声も届かない。
なのに。
発狂してしまったことを東大話法で隠蔽するお母さんもいる。

「この子には、自由を与えています」

虚しい。

義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

========

母親という立場を守るために、子どもという立場をつくりあげ子どもという役を与えて、子どもという仕事をさせるのは、もうやめませんか。
というのがオトノネの考えです。

学校という立場を守るために、生徒という立場をつくりあげ生徒という役を与えて、生徒という仕事をさせる学校から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

国という立場を守るために、国民という立場をつくりあげ国民という役を与えて、国民という仕事をさせる国から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

どうするかって?
言葉を正すことです。

お母さんは、やり残した宿題に、取り組みましょう。
一人でできますか?
やる気、ありますか?

【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三
子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
いつまでたっても、小学生。
コドモとして未成熟なオトナ
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??
【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三
【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹

========

最後に、どれだけ日本の多くの人が、「立場」に頼って生きているかがわかる話を引用します。
この話は衝撃でした。

これは家庭の中でも、会社の中でも、ママ友同士でも、どこでもありうることですね。

お子さんを守るために、福島市から関西に逃げられた方にお伺いした話では、放射能を恐れて非難するのは「非国民扱い」であり、夜逃げするようにしてスーツケース一つで、誰にも見送られずにきた、とのことでした。多くの人が山下教授の見解を信じており、それに疑いを挟む話をすることすら、憚れる状態だ、とのことです。

その方のお考えでは、福島県では、地元社会の束縛を嫌う人は、すでにほとんど出払っていて、残っている人々は、この近世以来のシステムに依拠する人々だとのことでした。そうすると、影響があるのかないのこあわからないような、しかも権力や権威が「影響はない」と言っている放射性物質を恐れて、「役」を捨てて逃げるというのは、決して許されることではない、というのです。

このような態度は、尾藤正英さんのおっしゃる「役の体系」を前提として考えれば、よく理解できます。日本の近世社会は地域集団と土地とが深く結びついており、ムラが土地を捨てて移動することは、ほぼあり得ないことでした。役の体系も、この住民と土地との結びつきを前提として形成されていました。それは、福島県だけの話ではないのです。東京でも同じことでした。ある関西在住の私の知り合いは、原発が爆発する前に、関東に嫁いでいた妹を、家族ごと非難させていました。ところがしばらくすると、原発が爆発したばかりだというのに妹が帰るというのです。驚いて理由を聞くと、

「ゴミ当番が回ってくるから」

というのでした日本の近隣社会で、ゴミ当番などの「役」を果たさないと、どれほど恐ろしい制裁を受けるかを、みにしみて感じている主婦が、このような判断をするのは、ある意味、当然なのです。放射性物質が大量に降り注いだ地域でも、「ゴミ当番」のために避難を諦めた人は、たくさんいるはずです。(p.235)

近世を生きている、もしくは戦時を生きている人たちが、富山県にも大勢いる。
それが、日本という土地に生きてきた人たちの積み上げた歴史の姿なのかとおもう。

マッカーサーが、「日本人は10歳だ」といったのも、わかる気がする。
それは悪口でもなんでもなく、西欧文化でいうところの「個」が自立できない土壌が、日本にはある、という事実を表現しているのだとおもう。

こんな現実、事実を知ると、心が揺らいでしまう。危ない危ない。心のシステムがしっかりしていなかったら、絶望してしまうだろう。
【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

だから、みんなショッカー(魔王)になっちゃんだけどね。
絶望して、ウルトラマンは、最近、闇落ちするらしいね。(子どもが教えてくれました)
ウルトラマンもショッカーの方にいっちゃう世の中だよ。

心が大事。

さてさて、僕も、鼻で笑う練習をしようかな笑

ーーーー

追記『合理的な神秘主義』p.287に
「官僚的」と呼ばれる性質について説明で、
「生存の不安からくる確実性や厳密性への渇望といった鬼気迫るものではなく、他人からとやかく言われないため、より端的にいえば「叱られない」ためのものであって、手続き的厳密性・整合性・隠蔽性に傾斜している」。

と書いてあった。

「叱られない」ため、というところが、腑に落ちた。

===

ここまで書いてきて、思うことがある。

東大話法という言語話者と、そうでない人がいるこの国で、二人はどのように生きていけるのか。
鼻で笑ったら、相手にされなかったら、東大話者はたぶん面食らってしまう。

言語環境、文化が違いすぎて、話にならない。
異なる文化の人間が混ざっている。

別にどちらかが正しい、というわけではない。
東大話者が大多数を占めており、息苦しい社会で、どちらの言語を習得させるか。どちらの文化を体得させるか。
子育てでは、その選択をまず、なによりも先にしておくといいのかもしれません。

学校では、東大話法を学びます。
地域でも、東大話法を学びます。
家庭で東大話法を使えば、その子は東大話法しか使えなくなるでしょう。

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

お子さんにこのような人になってほしいなら、そのように育てる、ということです。

「小さなガンジー」たちは、「僕は、私は東大話法なんて喋らないからね。東大話法に洗脳されたくないからね」と言っている子なので、お母さん自身の言語環境(心)を変えた方がいいのかもしれません。

話が通じないけど、別にどちらが悪いとかでもない。相手は「純粋の悪意を持った人間」です。
そういう異質な人が集まっているという認識が欠けている人たちが、東大話者だとしたら(自己中心的だからきっとそうだろう)、それこそ、少数派の人は大多数の東大話者の暴力から自分の身を守る心のしくみをつくったらいいのでしょう。

へらへらと、笑ってしまおう。

暴力に屈しない。
流れるようにー

さらさらさらーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三

「自分の働き方」に気づく心理学

『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三

この本は、おそらくリストラされた、失業した人に向かって書かれている。
とおもいきや!子育てをしているお父さんお母さんに「本当のこと」を伝えてくれているいい本だとおもう。

仕事を辞めた人には、仕事を喪失した人には、「やめたの?いいんじゃない?よかったね。幸せを掴むチャンスができて」と話してくれている。
そんなメッセージを、僕は読み取った。

僕も学校はとっととやめたらいいとおもっている。
少なからず、子どもの心を守る工夫は、必要だとおもっている。

加藤諦三さんも大人が子供時代にやり残した宿題を次の子供に背負わせる、と言う考えをしているし、それは事実だからそうなのだ。

事実を受け入れられないお父さんお母さんが、世の中に多すぎる。
だからオトノネで学んでもいいんじゃない??笑

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

人間というのは、これくらい周囲から幸せだと思われても心の底では不幸な人がいる、周囲の人が、彼を「幸せだ」と言ったのは、単に彼が世の中の形式を満たしているということにすぎない。そして、周囲の人間の望むような人間になった、といことにすぎない。

周囲の人が望むもの、つまりそれは商品である、

フロムはパーソナリティ市場という言葉を使っている。そして「人はその生活と幸福には関心をもたz、売り物となることに関心をもつのである」と述べている。他人を見る時、人はコオ頃の底を見ようとするよりも、形式を見ようとする。そして形式が整っていれば、それで幸せだというフロムの言葉を使えば「自分はいかに見事に『包装されているうか』である」(p.17)

高校卒業、大学卒業、学校というラッピング、お母さんというラッピング、長男というラッピング、本当にその人がそのひとらしく、そのままの姿でいることができない時間が、多すぎる。家の中ですら、子どもがラッピングされていることが多々ある。

大人も子どもも、中身が大切にされない。
中身で商品が選ばれることが、ないからだろうか。

まだ大和信仰が盛んな富山。(高岡の大和が潰れたのはいいことだとおもう)
形式優先の時代、価値観が画一的な時代を引きずっている。
学校信仰も強い。金沢は富山よりも強い。と僕は感じている。

他人のつくった幸せの基準でしか生きられないのはなんと息苦しいことだろう。
ラッピングで飾られ縛られた生活。

それが「ふつう」の世の中だ。
オトノネは、「ふつう」を問う。

幸せになりたければ、自分を市場に売り込むな。自分の独自性を発展させよ。(p.23)

独自性のない人はただ市場で機械のように働くしかない。
独自性を自分で見つけている人は、やりがいをもって、仕事ができる可能性がある。
その人も、組織の中で「独自性」を殺されるかもしれない。
「画一性」、商品を生み出す機械として雇用者を集める組織にいたら、独自性は成長しない。

大人も子どもも同じだ。

の人のパーソナリティーとか心の姿勢とかいうものを抜きに生きがいは考えられない。もともと生きがいを持てないパーソナリティーでありながら、「仕事に生きがいを持てない」といってもしょうがない。もともとエンジンがついていない車を運転しようとして、ガソリンが満タンなのに動かないと文句を言っているようなものである。

もともとケーキがうまく作れない人がいる。だが確かにケーキを作る小麦粉もバターも卵も十分にはない。そのケーキが美味しくできないという問題を「これはケーキを作る在z量が十分日本にはないからだ、これはアメリカとの貿易の不均等の問題だ」と叫んだりする。そしてそれが違憲として正しいとする。しかしその人に幸運は来ない。このときにケーキを作る材料がないなら「おはぎを作ろうか」と思う人がいたとする。そこで生きがいが生まれる。そこで幸運が訪れる。その人は幸せになれるだろう。(p.24)

心の問題を仕事で埋め合わせる、子どもで埋め合わせる、なるほど、自然と心は「定期テスト対策」的に目の前にすぐに手に入る資源を使おうとするかもしれない。

それで慢性的に、心の本当に大切な場所にスポットがあたらない。
病む。
学業にしても、本当に大切なことにスポットが当てられず、みんな新研究で「定期テスト対策」だけして、終わる。
病む。

劣等感、満たされなさを満たすために、暴力が生まれる。
塾に「行かせる」のも、学校に「行かせる」のも暴力かどうか。

我々は、自分が本当にやりたい仕事、つまりは生きがいを感じる仕事ということにおって職業を選択する動機の他に、もうひとつ、社会的評価を得たいという仕事を考える。そして幸せになれない人は、その間違った目標の達成に固執する。違った道があるのに、その間違った目標達成のために頑張る。不幸になるためにものすごいエネルギーを浪費する。老いた動物の介護で幸せになれるのに、競争に勝つことに全ての生きるエネルギーを浪費してしまう。深刻な劣等感のある人には幸せになるためのエネルギーは残っていない。復讐のためのエネルギーは残っているが、成長のためのエネルギーは残っていない。自分に失望した者には幸せになるためのエネルギーは残っていない。今よりさらに不幸になるための行動にしかエネルギーは残っていない。自分の深刻な劣等感と直面し、それを自分の中で乗り越える人が、生きがいのある仕事を見つけられる。(p.38)

こうして読んでみると、ずばっと表現していて爽快だが、まさに「幸せになれない人」にこの言葉は届かないとおもう。
だがこれは何にでもいることだ。

誤った目標達成のために、頑張って、不幸になる。
目標が違うのだ。
心が違うのだ。
そのことに気がつかないで、みんな「お勉強」をしている。
「小さなブッダ」はその中でなんとかバランスを取ろうとする。
学校の宿題は?親から受けるプレッシャーは?
「小さなブッダ」は、「小さなガンジー」になって、勉強をやらないかもしれない。

だって、親や学校が与えて聞いた目標は、「私の幸せ」にならないのだから。
魂まで植民地化されてたまるか。

毎日くたびれて働きお金を得て商品を購入し癒しを求めながらまた戦場に繰り出す人がいるう。
暮らしのささやかな喜びを感じながら、限られた時間を働き、生きる人がいる。

心が大事。

僕自身が、最近、違和感を感じていることでもある。

会社員として働くのではない、社会人として働く、生きる、暮らしを模索している。
模索しながら、「どうせなにをやっても」と感じることもある。
それは学習性無気力というもので、多くの子どもたち、大人たちが学ぶことであり、学校や社会全体がその構成員に教えていることでもある。
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?
学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら

無気力になってしまったら、しばらく休むといいだろう。
休むというチャンスを、自分でつくるのだ。
ひきこもりは、チャンスである。
次のチャンスを得るために、外からの刺激を受けない環境をつくるという、チャンスをつくったのだ。

チャンスはある。
けどチャンスは用意されていない。
チャンスは奪われる。
チャンスを奪い取ろうとする人たちが溢れている。
だからチャンスはつくらなくてはいけない。
チャンスは自分から取りに行かなくてはいけない。

チャンスは隠されている。
チャンスは埋もれている。
多くのチャンスは、社会的に殺されてしまう。
生き残ったわずかなチャンスをつかみとるには、取りに行くしかない笑

意欲を喪失した時に能力まで失ってしまう。
仕事の能力と生きる能力とは違う。このことが理解できるか理解できないかは、意味のある人生を送るためには決定的なことである。(p.43)

意欲とはなんだろうか?
英語でいえばMotivationらしい。

モチーフという言葉がある。
例えば画家や作曲家が作品の「題材」にするものだ。
花瓶であったり、あるメロディーだったり、夕焼けであったり・・・

人生のモチーフとは、なんだろうか。
何を描こうとしているのだろうか。

描こうとしているものが見えている状態、それを意欲がある、といってもいい。

世間は表面的なことを教えている。その結果成功した人は人に見せないことをしている。だから社会的に認められない仕事に怯える。80歳になったら四畳半でよい。二階屋は大きすぎる。ある高齢者である。オニギリにノリを巻かないで、水を入れるコップもない。ペットボトルもない。佃煮のビンに水を入れて、ビルの屋上で食べた。「これで楽しいかな」とやってみた。これで幸せなら、今の生き方を間違っていない。そう思ってやってみた。「楽しかった」そこでその高齢者は「お金がなくても80歳で生きられる」と思った。

「人が見たときにどう思うか」ではなく、「私がどう感じるか」である。これが生きる能力のある人である。生きる力のある人である。(p.47)

ラッピングではなく、中身。表面的なことではなく、中身。
この高齢者も、もともとはお金持ちだったのが、お金持たないになったかもしれない。だから、「これで楽しいかな」と実験できたのかもしれない。お金持ちになってからでないと、失ってからでないと、わからないことなのかもしれない。
ラッピングではなく、中身。表面的なことではなく、中身。

僕自身の生き方も、もっとちゃんと感じてみないと、ただあくせく息をしているだけで死んでしまう。
そうおもった。

あらゆる絶望というものは結局、一なのであるということを知らねばならないのである。つまりある唯一の価値観の偶像化、絶対化である。(p.49)

価値観を、喪失してみよう。
身について離れないその価値観を、喪失してみよう。

手放してみよう。

「え?不安?」

そうして不安なまま死んでいく人がいる。
不安なまま子どもに不安を押し付ける人がいる。
僕自身がそうかもしれない。

なぜ不安なのか。
何が不安なのか。

それこそ、不安とどう付き合うかという物語を描くモチーフを用意するといいのかもしれない。
「あなたの人生のモチーフはなんですか」

自分自身を学畜と称ぶ子どもたちはどう答えるだろうか。
まだまだ答えられないだろうか。子どもだから???

いやいや、「今」のモチーフがあればいい。
オトノネを響かせよう。

ーーーーー

エリートコースで自分が精神を患うか、かわりに子どもを精神病に追いやる人がいる。
子どもは大人を救う。
「代わりに僕が、私が、大人のやりのこした宿題をやるんだからね!」
大人は、宿題を子どもに背負わせていることに気づいていないことがおおい。
学校の先生すら、気づいていないのだから。
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
コドモとして未成熟なオトナ

働きだおして、死ぬまで子どもから離れられず、「親子」という仕事に子どもを巻き込む人がいる。
「真面目」という褒め言葉の裏には、闇がある。
現実の世界を観察する子どものコメント

ーーーーーーー

人と人が関係できない仕事がおおい。
人と人が暴力で結びつく仕事がおおい。

喜び合える仕事がすくない。
ハートワークが大切なのに、ハードワークのための組織がおおい。

親子関係すらハードワーク、ビジネスの原理にさらされている。
心がない親子関係が多い。お母さんも迫られている。魔王に追われているから仕方がない。。
といったら終わりだが。

ハートワーク、子育ての原理を強められないものだろうか。

ハートワークとは、、、、
自分の心を大事にできる働き方であり、暴力ではなくしあわせを生み出す仕事のことだ。
同じ職種であっても、ハートワークをしているところがあれば、アウシュビッツみたいにハードワークしている人もいる。
同じ組織の中にいても、ハートワークをする人もいれば、ハードワークをする人もいる。

子育ての原理とは?
心と行い、言葉と心が一致する生き方を指し示す。
ホンネの世界だ。ホントウの世界だ。

ハードワーク、ビジネスの原理とは?
お客さんを騙したり脅したり、無知を利用して陥れたり、買ったり、負けたりする仕事、生き方。

「学ぶ」という仕事は、ハートワークだろうか?ハードワークだろうか?
勉強する気になれない子??????

お子さんが正しい生き方をしています。
と僕は言い切りたい。

ーーーーーー

「社員のために」働くという経営者がいる。
なぜ社員がここにいるのかわかっていない。
お金のために??
そうして彼のしたことは工場の規模を大きくし、「外国人労働者」を大量に採用することだった。

会社を維持するために、他の会社を潰す。
これがビジネスの原理である。

「学び」がハードワークにしかならない学校は、学校という名に値しない。

—–

その仕事は、天職ですか。
あなたの個性値が、天の才が、どれだけ生かされていますか。
どれだけの喜びですか。

体を動かすのが得意なら、体を動かす仕事でいいでしょう。
神経質なら神経質でもできる仕事(神経質でなかったらできない仕事があります)でもいいでしょう。

あなたの個性値が、天の才が、どれだけ生かされていますか。

ふらふらと歩いていたら(ふらふら歩くというチャンスを生かしていたら)、生きがいを感じられる仕事がみつかった、という人もいるでしょう。

自覚なく、やってみて、感じていくのでもいいでしょう。

多くの心ある人が、心のない組織の一部になっていることを、僕は悲しくおもうのだけれど。

そこで本当に自分が生かされているのか。
組織は、個性を潰すのか、生かすのか。

そうやって、しあわせの在り処を探して行くことが、学び、というものなのかもしれないとおもう。

ーーーーーー

生活、は明治以降にできた近代的な用語。(だよね?)
暮らし、はもっと昔からあった。

生活という言葉には、いろいろな近代の魔王の呪いがかかっているかもしれない。
暮らし、という言葉を大切にしていきたい。

ーーーー

自分に目線を向けているときに、狂った人間が、魔王が、暴力を振るってくることは多々ある。
強さとは何か。大切なものを、しあわせの種を、守るチカラのことかもしれない。
大切なものがない人間に、強さはない。
大切なものがない人間は、虚しく暴力を振るい悲しみを世界に撒き散らすだけだ。

強さは得るものではなく、そこにあるもので、ただ「モチーフ」を目の前に多くだけでいい。
大切なものが、きちんと感じられているだろうか。

他人の評価に怯えていないか。
他人の暴力を恐れていないか。

世の中にいる多くの批判者から、お母さんは、お子さんを守れていますか?
お母さん自身が、お子さんを苦しめていることが多々あるから悲しいのだが。

多くの人間が、足を引っ張ってくる。
大人は子どもの足を引っ張っていないか。

大人の恐れが、子どもを傷つけることがある。
僕たちは、恐れていないか。

誰かを妬んでいないか。

そのごちゃごちゃした感情を、なんとかしてみませんか。

チカラになる

「弱くてもいいよ」という言葉があるが、そのうち強くなるから大丈夫。
弱くても弱いなりに暮らせるんだよ(強さはあるんだよ)ということだろう。
強くなるために、学ぼう。暮らそう。休もう。そして、話そう。
オトノネに来よう!笑

ーーーーーーー

運命とはなんだろうか。

運命とは、命が運ばれて行く道すじのこと。
歌って踊るしかない笑

============

もし、本当に自分が好きなもの、やりたいものに巡り合った時、それは救いの時である。その仕事が、どんなに過酷でも、あるいは社会的に評価の低いものであっても、決してその人の自我が崩壊したりすることはない。不安になったり、無気力、あるいは異様の喪失などということは起こらない。ある意味では、そうした社会的評価とか、結婚式という形式とかは、真実は得られることがなかったことの代償にしか過ぎないかもしれない。本当のものに巡り会えない人間が、せめてそうした形式だけによって、ある種の満足感を得ているだけに過ぎないこともある。社会的に権威ある仕事に執着して、若くして燃える着る人は結構いる。

好きで始まった恋愛では、別れる時にしがみつかない。不安や寂しさが動機で始まった恋愛は、別れる時には相手にしがみつく。そしていろいろなトラブルを起こす。恋愛が始まって相手の言動に対する要求が多くなってきた時には、それは不安や寂しさが同期で始まった恋愛である。

仕事も同じことである。好きで始めた仕事なら、やめたほうがいい時期が来れば、つまり適切な時期が来れば、やめられる。部長の立場が、体にきつければ、やめられる。部長の地位にしがみつかない。しかし権威が欲しい場合には健康を害するまでする。好きなことではなく、名誉とか何かの心の葛藤から始めた仕事は、やめるべき時期が来てもやめられない。(p.135)

親と子の関係も同じだと思う。
子育てが「好き」かどうかを問うてみる。
いや、子育ては「好き」とか「嫌い」じゃないだろう、というかもしれない。
では、子育てを「やめる適切な時」はいつですか。
「お母さん」という立場によって満たされる感情はありますか。
子育てをしながらしていく判断の動機が、お母さん自身の不安や寂しさではないのですか。

42歳、病院の院長、有名医科大学を疎通業、大学病院に勤めた後、開業したくて開業し、今は病院の院長になった。全部夢が叶ったにもかかわらず、どうしよもない無力感に苦しんでいる。全てそろっている。形の上では満たされている。納得もしている。でも満たされないし、納得もしていない。

それが実存的欲求不満である。

「すべての努力に目標も目的もないというこの体験を私は実存的欲求不満と名付けました」それは本当の自分に出会ったことのない人である。自分の真実に出会った人間の強さを体験したことのない人である。

「生活のすさみと虚しさ、内容の空虚と無意味さの感情がそれです」である。
自分自身を裏切ってしまったら、社会的にどんなに成功してもそこに残るのは空虚感である。

ところで先の病院の院長の話に戻る。この恵まれた人が生きがいを持てないのはなぜか。それは現実に対処してこなかったからである。青年期の心理的課題である「興味の覚醒」を怠ってきた、自分を知る努力をしてこなかった。親の意思に従うことで、42歳になるmで生きてきてしまった。

自分に正直であることと、自分を知ることは同じことである。self-awarenessが重要だということは、自分に正直であることの大切さを言っているのと同じである。自分の実際の感情を偽っていたら、自分はどんな人間であるかがわからない。(p.138)

与えられるものは与えられた。
手に入れられるものは手に入れた。
それでも虚しい。

そんなお父さんお母さんがたくさんいる。
もしお父さんお母さんが満たされているならば、子どもも満たされて育つはずだ。
青年期の心理的課題をやってこなかったツケを払うことは、、、

大人になって、家を買ったり、なんだりして身動きが取れなくなってしまった後では、すこしばかり大変なことに感じるかもしれない。発達段階を無視した「定期テスト対策」をすると、人として学ぶべき大切な心が育たない。

ーーーー

「手離すタイミング」というものがある。
それは自然にやってくる、わけではない。
多くの人が子供を手放せずにいつまでも心理的に一体化したままである。
小学生のときが児童虐待のピークなのは、「9歳」を通過するからだと僕は思う。
この9歳で子どもは親を離れることを試みる。その時に「一体化」しているままだと勘違いしている親が、コントロールを続けていると、子どもが死ぬ。中学生、高校生になって虐待が減るのは、子どもが逃げられるようになるからだ。もしくは順応して完全に母子カプセルの中でしか生きていけなくなり、「ありのままの自分」を捨てる選択をしたからだと僕はおもう。

そして思春期を迎えられず、自立できない。
親の人生を歩む。
自分の人生を歩めない。
もしそういう人が結婚して子供を産んだら。
その子どもも自分の人生を歩めない可能性が高い。
世代間連鎖という。

僕はそれを強めて「世代間の宿題なすりつけ現象」とでもいおうか。

大人が子ども時代にやらなかった宿題を、子どもに背負わせるのだ。
子どもはもちろん、宿題をどうやったらいいか教わらない。
さてさて、、どうしたものかな?

ーーー

あるテレビ局の有名な司会者がいた。その人の名前がついた○○ショーという番組が長く続いた。そしてその○○ショーが終わって彼はうつ病になった。おそらく本当に司会が好きではなかったのだろう。もし本当に視界がs気なら、そこまで夢位になれば、司会の仕事はいくらでもあるはずである。

彼は自分の生きている基準を変更できないでうつ病になった。彼の毎日は、スケジュールをこなしている毎日だったのである。彼は感情で「行きたくない」「出席したくない」がない。調子が悪くてもいく。とにかくスケジュールをこなすことで安心する生活をしていた。

彼は全部やるべきことをしていた。疲れるという意識なしにやるべきことをやる。限界を超えて、そしてうつ病。我慢をしてスケジュールをこなしてきた。目的が外から与えられている。

うつ病には目的地についても達成感がない。うつ病になった彼は、視界が好きでなくても人の注目があったうちはいい。決められた通りに動いている自分が見えていない。スケジュールをこなしているだけ。この道も、あの道も、その道もなくて、やり直す知恵もない。そういうときに「あそこに行きたい」という気持ちになったら、自分が見えてきた。自分の意思で動き始めた。(p.140)

スケジュールだらけのこどもの環境。
小さい頃から「ひま」がない。やりたいからやったというのが本当かどうかもわからないくらい「お稽古」をさせられる。

「遊び」というものがあることを、知らない。

どこかで時間つぶしのサービスを受けること、与えられることを人生の醍醐味だと勘違いしている人がいる。
暇つぶしに塾に行く。暇つぶしに学校に行く。別に行きたくもないけど、何もないと何をしていいかわからない。
そういう人がたくさんいる。

暇を埋めようとする人がいる。
遊びの時間などもってのほか。
本当にやりたいことなんてわからない。
自分がしたいことをしたことなんてない。
なにそれ意味がわからないからとりあえずイオンモールに行こう、そこにはブラブラ虚ろげに歩き回る人がいるという考え方。

うつ病になるまで、「世代間の宿題なすりつけ現象」を続けるしかない。
立ち止まれるまで、エンジンが壊れるまで、飛び続けるしかない。
走り続けるしかない。

人の心とは、そういうものだとおもう。
体からのメッセージを拒み続けて、そのまま死んで行く人がいる。
本当の自分の心に出会えずに、人として生まれた喜びを感じられずに、死んで行く人がいる。

人として成長できずに、自分がやらなかった宿題を子どもに押し付ける親がいる。

ーーー

うつ病の規範意識の背後には恐怖がある。うつ病者は恐怖感から気は錦が強いだけである。
やるべきことをしなかったときの恐怖感。それが規範意識。

「これをしないとすごいことが起きる」という小さい頃の恐怖感を再体験している。
ある女性である。

小さい頃母親が「ちょっと、そこの物をとって」と言った時に、すぐにとらないと殴られた。それが彼女の大人になってからの焦りの原因だった。別の女性であるいつも「なぜこの問題を解けないの」と怒られていた。しかし解き方を教えてくれない。「私はやる気がなかった」という。泣いている時に母親は無理やり勉強を教えようとした。私は勉強が嫌いだった。学校が嫌いだった。それは周りが敵だから。

この女性は大人になって、仕事は「倒れるまでやる」と言う。燃え尽きた後にはうつ病になった。彼女は今までの自分の決意で道を選んでいない。

嫌なことを我慢するのが限界にきている成功者もいる。企業を興して成功する人がいる。自家用ジェットを持つ。お金を使うことが幸せと思う。でも何をやっても何かつまらない。心の中で楽しむ能力がないと、合コンでシャンパンになってしまう。毎日コミュニケーションして築いていくものを、ある講演を聞いて、済ませようとしている。(p.141)

多くのお父さんお母さんは規範意識に縛られている。
そこから外れたらどうなるかわからないという恐怖がある。
お父さんお母さん自身が規範意識から外れたことがないからだ。
規範の中で動いてきた。
規範から外れるのが怖い。
いい子ちゃんにしてきた。
言いたいことをいわないできた。
本当にやりたいことを我慢してきた。

自分が経験してこなかった世界が怖い。
自分が安心できないことは子どもにもやらせない。
という考え方なのだろう。

いやいや、あなたと子どもは違う人間ですからね笑
という事実一つがわからない。

世の中からのプレッシャー「子育て」という規範意識も絡んでくる。
がんじがらめだ。

子どもが、親を超えて成長することができない。
親が、子どもを自分以上の人に育てようとしない。
親の想像力、親の価値観の中でしか、子供が育たない。
人間性は、どんどん縮小していく。
子どもは自分がもっている命のチカラを使えない。

自分を失った子供は考えることがない。
ありのままの自分を見てもらえなかった子どもは自分の命を感じることがない。
ただただ、与えられたシステムに流されながら、合コンでシャンパンをやったりアルコールやら仕事中毒になって潰れていく。そこまでいかないで質素に暮らしているとしても、規範意識のなかで狭苦しく鬱積したエネルギーははけ口を求める。

子どもが犠牲者になる。

精神的な虐待である。
あまりにも多くの大人が子どもをいじめたり、虐待しているので、みんな逮捕したら日本は潰れるだろう。

ーーー

自分自身の目的を持つ。
何になりたいかではなく、自分は何者であるか、それが「青年よ、大志を抱け!」の前提である。
それがわかれば宝くじ以上。宝くじに当たった人は不幸。自分の力を用いた人は幸せ。愛されることではなく愛すること。認められることではなく、認めること。理解されることではなく、理解すること。人の顔色を伺うのではなく、自分で決心をし、自分で責任を取る訓練をすること。これが他人に重心があるのではなく、自分に重心があるということである。

自分に嘘をつくな。自分を好きになれ。手抜きしないことは何か辛く感じないでできたことは何か。疲れていてもしたことは何か。人が期待したことをするのではない。自分がしたいことをする。同じことをしているの鬼、他人は続くが自分は続かない。楽しくない。(p.143)

オトノネの座右の名である。

====
====

基本的依存心と自由への渇望の葛藤を解決しようとする。その試みが本質的に失敗したのが神経症である。

毛に主義的親の場合には、子どもは親を深く内面化してしまう。その内面化された親から抜け出すことが難しい。どうしても親の期待した人間になろうとする力が働く。親に喜んでもらうことが生きている意味になってしまう。親の期待した人間になるこどが大きなプレッシャーになる。

子どもにとって失敗が大きな打撃となるのは、親が子どもの失敗を望まないからである。大企業に就職してうつ病になる。あるいはエリート官僚になって自殺するなどの人たちは、おそらく彼らの性質としてはそのようなコースが適していなかったのだろう。

しかしどんな自分の適正に反しているとはいえ、それが親の期待するコースであり、そのコースを進むことが彼らの人生の意味であり喜びになってしまった。この二つの矛盾をカイケルできないままに、最終的に挫折していったに違いない。(略)

カレン・ホルナイの言うように、基本的不安感を持つ人は、優越することが「緊急の必要性」である。それなのに、優越できない。そこで神経症的自尊心を持った人は自分の独自性の強調を始める。(p.148)

「子育て」を失ったら、子どもに対する自分のコントロール権を失ったら、、、何をしたらいいんだろう?
子どもが「ちゃんと」「立派」になったことを周りの人に見てもらうために情熱を注がずに、何をしたらいいんだろう?

お父さんお母さんのもつ人生の虚しさを埋めるために、子供を利用しているお父さんお母さんが多い。
本当に充実している、満たされている、「生きている」親を持つ子どもは、しあわせだ。

———-

答えをほしがる世の中です。
何が正しいのか、正しいことを、安易に求めようとする世の中です。
その答えを他人に求める規範意識が強いお父さんお母さんがたくさんいます。

けれども人生はその人のものです。
世の中に一人として同じ人間はいないという事実を認めていますか。

いろいろなことをするから、自分にはこれが向いていないとか、これには向いているとかがわかってくる。(略)そういったことを体験するから、自分は政治家には向いていないなとか、作家に向いているかなとかわかってくる。詩人がよいわけでもなく、政治家がよいわけでもない。どちらが自分に適しているかと言うことだけである。その適性は体験からしかわからない。自分んは気が小さいとわかるから、自分の人生の洗濯ができてくる。政治家にでもなれば鈍感なことがものを言うであろう。しかし鈍感なことがよいわけでもない、繊細なことがよいわけでもない。

自分が繊細であるか、鈍感であるかは、何もしなければわかるはずがない。自分は何に向いているかなど体験からしかわからないであろう。(略)

自分の弱点を受け入れると自分の長所が見えてくる。自分の弱点を受け入れると頑張り方がわかってくる。自分の弱点を受け入れないと、頑張って努力しても最後にはノイローゼになることが多い。

「競争がよいか悪か」という議論は的を得ていない。

詩人の適性をもった人が政治家になり、偉くなろうと権力闘争をしてはならない。またビジネスパーソンになり、出世競争をしてはならない。しかし、詩人同士で良い詩を残そうと競争するのは結構な話であろう。お互いに同じ適性を持った人たちが競争するのは望ましいことであるが、自分の適性をまげて頑張るのは望ましいことではない。繊細な人が、鈍感な人と競争して頑張ってはならない。(略)

自分に適した仕事がある。しかしそれでは自分が満足できない。自分の傷ついた自尊心が湯うるさない。自分の能力に適した仕事では、小さい頃、受けた心の傷が癒されないのである。人にはそれぞれ天職といわれるものがある。心に葛藤のある人はそれを無視する。(p.159)

====

こういうことが、感じられないから、みんな子どもの天の才を潰していく。
そうして今の日本ができた。
不安だらけの、人間の世界。
まぁどの時代でもそんなことは多々あった。
人間とはそういう存在なのだと割り切るといいかもしれない。
だとしたら、オトノネは何をしたらいいのか?
それこそ、自分のしたいことを、やりたいようにする「今」この過程を通じて、実験しているところ。

====

私的な生活を需実させることと自分の神経症的な野心を達成することとは、全く違った価値観の世界のエネルギーの使い方である。仕事の能力はあるが生きる能力のない人は、自分の名誉を求めるためには惜しみなくエネルギーを使うが、自分の子どものしあわせのことにはエネルギーを使わない。(p.165)

多くのお母さんには、なんのことかわからないことだとおもいます。

「子どものしあわせのために」なんでもやっていると、勘違いしているのです。

難しい漢字で書くと、自己欺瞞です。


「子どものしあわせのために」ではなく、「私自身の不安や不満、自尊心や神経症のために」子どもを利用しているだけだと気がつかないのです。
子どもが、お母さんのために、心も体も捧げて、お母さんの不安や不満、自尊心や神経症の犠牲になっていることに、気づかない。

子どももそのうち、無感覚になってくる。
犠牲になるのが当たり前になってしまう。
あまりにも慢性的な「心の喪失」状態に、子どもの心が耐えられなくなり、閉ざす。

命をお母さんに渡してしまう。
お母さんはそれで輝けるのかといえば、輝けない。
ただ、子どもの命を浪費するだけ。
子どもの輝きをお母さんの心の中に閉じ込めて鈍い光に変えているだけ。

そういう状況にいる親子が多すぎる。

オトノネどころではない!??

======

引用しまくって長くなっているけど続けます。

=======

生きがいを持って生きるうということは耐えず成長していくということである。それは成長に伴う不安との戦いでもある。
不安と不満の選択で不満を選べば、生きがいは無理である不満で文句を言っているのが心理的には楽であるが、生きがいはない。人間は矛盾した存在だから、どうしても不安と不満の選択を迫られることが多い。成長欲求と退行欲求の葛藤は人間の宿命である。生きがいとは葛藤の中で成長欲求に従うことである。ということは退行欲求を乗り越えることである。(p.169)

生きがいのある人生を選ぶか、虚しい人生を選ぶか。
時として体が決断することがある。
体が、主張することがある。

それが精神病であり神経症であり、うつ病であったりする。
それを薬でとめて、心のメッセージを読み取らずに虚しい人生を送るか。
それを子どもにふっかけて、子どもの命を喰らうか。

子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。

私たち世俗に生きる者にとって経済的利益があると言うことは大変な魅力である、そこでお金が入ることいなるとついつち浮かれ出す。バブルの時代の日本の企業のようなものである、しかしそうして大切なものを失ってしまう。生きがいと経済的利益が両立すれば問題はないしかし残念ながら両立はなかなかしない。少なくとも両立はしないと覚悟を決めた方が良い。

結果として両立すれば良いが、それは目標とすべきことではない。

ちょうど好きな人と恋愛結婚をして、快適な生活を望むようなものである。たまたまそうなるのならよいが、はじめからそんなことを望んでいれば、両方を失う。まさに「二兎を追うものは一兎をも得ず」である。ジブ運に適した仕事で経済的条件の良い会社などあるはずがない。(p.176)

世の中不安だ、だから子供には・・・・というお母さんがいる。
世の中の不安をより強くしていることに、気がついていない。
不安な社会をお母さん自身が助長していることに気づいていない。

お母さん自身が自分らしく生きられなくて、子どもに「やりなおし」をさせていることが多すぎる。
「私の時はこうだったから、この子をこうさせたら、こうなるのではないか」という、子どもをつかった「自分の人生の再実験」をしているお母さんが多いのです。

その願いは、あってもいいでしょう。
「私はまだ不満だ。だから子どもは満足できるように、もっと、もっと。。。。
もっと不満を拡大しますか?笑

自分の宿題は自分でやりましょう。
一人では難しいのはわかっています。
なのでオトノネで一緒にはじめませんか。
お母さん自身が自分の生き方を見直すことが、お子さんのしあわせになります。

長いこと「あることだけ」をしていると、脳のその分野だけが活動し、その分野だけが発達して全体としてバランスがとれていないことがある。スポーツばかりではない。勉強でも同じである。有名大学にはものすごく勉強しないと入学できない。その勉強も、ほとんどがいろいろなことを覚えているだけである。受験勉強をどんなに頑張っても、それで生きる能力が高まるわけでも何でもない生きる能力というう視点だけから考えると勉強の仕方によっては「その勉強は無駄」としか言いようがない場合がある。生きる能力とは、脳のいろいろな部分が正常に働くことである。(略)生きる能力とは運動も勉強も全体として脳が正常に働くことであるう。長い人生で、どうしても不得意領域に拘らないではいられないという時期もある。そういう時は、今自分は仕事の能力を高めているのではない、生きると言う能力を高めているのだというように、仕事を自分の人生の中で位置付ける。「仕事と私的なこととどちらかを重視する」という問題ではない。(p.205)

勉強は、成績を上げるためにするのではない。
自分の生き方を見つけるプロセスだ。
自分の全体を見る経験だ。

自分の個性、特性を知ること。
自分の限界を知ること。
自分の本当の気持ちを知ること。
自己決定すること。
自己選択すること。
積極的自己責任を負うこと。
責任
「責任」という言葉について
学校の責任と義務(責任について・・・いくつめ?)

オトノネがやっていることだ。

学校では学べない。

学校で何を学ぶのか?
無気力を学ぶ。
作業を学ぶ。

学び方は学ばない。

学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら『よくわかる情動発達』
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?

定期テスト対策だけしかしない。
その子の全体をみない。
すべてが数値化される。
点数化される。

そして「あの子は何点だ」という世界。

劣等感
見栄
愛情飢餓

自己阻害され、他人とのつながりをつくれない人にとって、最後の砦は自己栄光化である。それによって自分の安全を守ろうとする。これが包括雨滴神経症的解決「a comprehensive neurotic solution」である。これに失敗すれば自殺するだろう。霞ヶ関のエリート官僚の自殺がこれではないか。日常生活のいろいろな悩みを一気に解決するのが包括的神経症的解決である。神経症的傾向の強い人にとって、それが仕事である。仕事で自分を栄光化することで、心の葛藤を一挙に解決しようとしている人がいる。そういう人にとって、心の葛藤を解決する手段が仕事である。(p.213)

子育てというものを、仕事として作業しているお母さんがいる。
「いや、そんなことはない!」というかもしれない。

心が大事。

子育ては仕事ではない。生きるという本質そのものだ。
生まれてきた子どもの子育てを、与えられた仕事だと勘違いしていないか。
子育てが、本当は嫌なんじゃないか。

しゃーなしでやっている。
他の誰もやらないし。
私がやるしかない!

と感じていないか。
子育てがストレスになっていないか。
あれも「しなくちゃいけない」
これも「しなくちゃいけない」

心が病んだ人の自己栄光化の特徴はあくまでも動機である。なぜ自己栄光化を求めるかと言うことである。神経症的自己栄光化の特徴は行動特性であって、性格特性ではない。神経症者が自己栄光化にエネルギーを注ぐ時には、日常生活が疎かにされる。(p.214)

日常生活ってなんだろう。
「生きるに値する暮らし」のことではないかと僕は思う。

お母さんの暮らしは、生きるに値しますか。
子供がいなければ、生きている意味がないですか。
それは病気なので今すぐ休んでください。

「ちゃんと」子育てをしたという証明がほしい。みんなに「子育て」で認められなかったら不安になる弱い心がある。
だから高校にも「ちゃんと」行って、大学にも「ちゃんと」行って、いい会社にも「ちゃんと」いって。。
規範意識の中で、「ちゃんと子育てした」という承認がなければ自分が傷つけられてしまう。
こどもを「ちゃんと」育てなかったら・・・

そこに子どもの意思はない。
子どもの意思を「ちゃんと」尊重しているようで、「ちゃんと」コントロールしている。
子どもは自分で考えられない。意欲も持てない。何をしていいかわからない。
スケジュールは管理されて、選択権がない。

劣等感で生きているお母さんに育てられた子はもっと深い劣等感の中で生きる。
自分でやらなかった宿題を押し付ける大人が、多い。

包括的神経症的解決としての子育ては、まさに「仕事」であって、よろこびでも生きがいでも幸せでもない。

発表会で自分の子を自慢することで自分の劣等感を埋め合わせる。
テストで点数が取れないと自分が評価されていないようで腹をたてる。
(もちろん先生からは、暴力的な言葉を言われるだろうが、劣等感をもっているから甘んじて受けるしかない。それを子どもにさらに押し付ける。)

子どもを塾に連れていき、親が自分自身の劣等感から解放されたい、解決したいとおもう。
そういう親を、世の中では毒親といいます。

悩んでいるときににはことに小さなことをきちんとすることが大切である。さらに「小さな仕事をうまくこなす人間を見つけたら、大きな仕事を与えて見ること」というのも先の本の中にある。小さなことが大切ということがわかるようにならないと充実した人生をおくることはできないし、もちろん仕事もできない。「することが見つからない」と悩んで相談に来る人がいる。なぜすることが見つからないかというと、自分を偉大に見せることばかりをしようと考えているからである。「することが見つからない」と悩んで相談に来る人は自分のできることをしようとしないで、自分の威信を高めることばかりをしようとする。そしてそう悩む人は小さなことを一つ一つ地道にしていく努力ができない。楽をして偉人になろうとしている。

カレン・ホルナイの言葉を借りれば、登山を望まないが、山の山頂に行きたい

生きがいとは、何かを求めて何かをしようと思う心なのだが、神経症者は何かを求めるのだが、何かをしようとしない。(p.217)

心の渇きを癒すものは日々の努力によってしか得られないある日突然自信を持てるなどとはおもわないこと。(略)カレン・ホルナイが言うように神経症者は自己栄光化の家庭で現実に対する感覚を失っている。小さいことをすることで神経症から普通の人の感覚を取り戻す。あなたの位置は「ここですよ」と言うことも教えてくれる。神経症者は想像の世界に行ってしまい、現実とは関係なく自分をすごいものと想像してしまう。カルト集団がその典型である。(p.218)

目の前の現実、子どもの心がみえていますか。

人間関係を始め、悩んでいる人は身近なことをきちんとすると言うことから出発していけば、かなりの部分、解決することが多い。親の愛情を感じられないままで学生時代になる。そこでも人間関係の訓練ができていない。さらになんの準備もないままで会社の人間関係に入っていく。会社に入る前にいろいろ体験していて、うまく生きていけるようになっていない。要するに心理的にまともな人間に成長しないままで、いきなり社会的に仕事を始めている。(p.227)

そこで自分の子ども時代に違和感を感じて、振り返って、自分で人生をやり直せる人がいる。
そうでない人もいる。

オトノネに関わってくれた人の中でも、紆余曲折で、今まさに、大人になってから、自分はこれからどうしようか、自分の人生を見つけ出した人がいる。その人は、長い長い時間、休んでいた。休みながら、いろんな人と関わっていた。その中で、問いかけていた。問いかける心を大事にした。感じる心を大事にした。

そういう時間も、新しい人間関係もなく、ただ同じところで窮屈な価値観の中で過ごしていたら、出て来るものもでてこない。
一生を、棒にふる。

僕自身、「やばい」とおもったら逃げてきた。
自分の能力の限界、環境の中で最大限生きる限界を引いて、マズイとおもったら、別の環境に移ってきた。
それが自分を守る自分の方法だった。
変えていく中で、学んで行った。
決して日本では学べなかったであろうことも、海外で学んだ。
決して日本では感じられなかったであろう生きる感触を、海外で学んだ。

大人になってから、親の選択、親の意思から離れて自分で生き直すのには、長い長い時間がかかる。
だって、子どものころにやれなかった宿題を、親の分まで、やらなくちゃいけないのだから。

子どもは、たくましい。。。

人々の心の中で、野球がイコール人生になったり、会社がイコール人生になったりしていることが問題なのである。野球の能力と生きる能力とは違う。会社で活躍する能力と生きる能力とは違う。仕事で挫折した時には生きる原点に戻ることである。(p.231)

挫折してから、堕落して落ちきってから、オトノネにきてください。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)
義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。

オトノネひろげるシェアぼたん

【メタスキル 】すべてをこなすことはできない。

今、この時代を生きる人にとって大切なことはなんだろか。

自分のものとして、自分の人生を生きること。

だと思う。

与えられるものではなく、自分が感じて、自分が意欲して、自分が欲して得るもの。
たとえそれが「欲しない」ということだとしても。
それ自体、欲しなくては得られない心のしくみなのだから。

そのためのメタスキル (感情知性といってもいい)には、「自分の痛みを自分のものとして認めて、自分で処理する。対処法を生み出して行く」ことがあるだろう。

ーーーーー

学校ではあれもこれも教わる。
というか、目の前にチラチラ入ってくる。
それこそテストは「全教科」やらなきゃいけない。
「やらなきゃいけないの?????」

それを「やること」として当たり前のように「自然」にやってきてダメになる子がおおい。
ひとりひとりの能力、関心、適性が違うにも関わらず、中学校になっても、高校になっても、同じやり方をする。

アホか、とおもう。
事実、学校は、アホなのだ。
狂っている。

「いやいやそうではないですよ」といっても、救いにならない。
データをだそうか???
その一言で終わる。
何が終わるかって、、、、話が通じない「魔王」だということがわかって、話が、終わる笑

AIだから、話ができないのだ。

ーーーーー

で、オトノネは「お勉強」を「心を守る」練習としてとらえている。
自分で選ぶ。
自分で責任を持つ。

その練習を、一人では難しいから、おとのねさんと一緒にやる。

「自分の気持ちを大切にする」ことが大切だとおもう。
勉強したくないならしなくていいと僕はいう。
「ただこのスピードだとあれだね、間に合わないねーどうするー???」という。

あせらない。
あせらせない。

あせらせていいことない笑
作業だったら焦っていいけど笑

ーーーー

高校入試は全教科まんべんなく出る。

それで塾ならば「全教科やらなきゃですね」とかいってお金を巻き上げて結局なんにもならずに終わる。

そんなビジネスであり「魔王」が塾には住んでいる。

そもそもが全部やろうとするからダメなのだ。

ーーーーーーー

点数が伸びない、成績が伸びない。。。

なんで????

いやいや好きな教科ひとつ伸びないんだったら何ものびないでしょう。
ということで好きな教科ひとつを極める中で、他の教科にも使えるメタスキルを育てる。

目の前の定期テストに追われていたらそんなことはできない。
捨てるしかない。

手離すしかない。

不安で手離せないなら・・・まぁそのまま進んでみなよ。というしかない。
僕の人生ではないから。

ーーーーーーー

与えられた課題を全て処理しなくてはいけないとうAI化の呪いを解かなくては、始まらない。
それこそAIとして与えられる仕事を放棄しなければ、人間にはなれない。

では、いつ始まるのか?

無料面談と有料体験の間で「気づいた」人は、オトノネで初めてください。
気づけなかった人は、気づけるまではじめられません。気づいてから、オトノネに来てください。

もっというなら、勉強よりも大切なことに、気づいてほしいのだけれど。
最低限、「塾」を諦めてから、オトノネにくると、とてもスムーズです。

オトノネひろげるシェアぼたん

AI化する子どもたち

AI
『AIに負けない子どもを育てる』新井 紀子

こんな本が出ているようだが。

そもそも子どもがAI化している、という視点を、オトノネのお母さんから聞いた笑
なるほどおもしろい言葉のつながりだなとおもって、オトノネを広げてみる。

ーーーーーーーーーーーー

「この子はAIだろうか?」とおもう子がいる。
何を喋っても、心から言葉が生まれてこない。

ロボットみたいな子供がふえている。
コントロールされている。
上の子は見事なロボットになれたかもしれない。
けど下の子はロボットになることを拒絶した。ということもある。
お父さんお母さんはそれに気づいているのか。

オトノネは、ロボットをつくる場所ではない。
ロボットを作ろうとする人に、オトノネの価値はない。

「どんな子になってほしいですか?」
「どんな人間になってほしいですか?」

オトノネは、オトノネを大切にする。
オトは出せても、オトノネがだせなかったら。。。

「日本的な時間」で育まれた社会の「自然」、
その自然のなかで「適応」するには、AI化が必要だったのだろうか。

オトノネは、人間には出せても、AIには出せない。

ーーーーーーーーーー

こんなニュースが最近。
子どもは、逃げられなかったのか。
親は、逃がせなかったのか。
AIとして育てられたために、「生きる」チカラがなかったためか。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20200122-00000077-jnn-soci

AIに、生きるチカラはない。

たとえば、一番子どもたちに身近なAIは学校の先生だ。
学校で学べるのは、AIとしてどうふるまうか、ということだろう。

不登校になって休学していて、「登校したい」といって行ったら、学校で歩いているAIは「休学延長をしにきたとおもった」といった。そういう世界が、AIの世界であり、学校だ。

宿題をしてこなかったら「再提出」という音声を出力するAI。

ディープラーニングはどうした

なるほど、AIに、すでに負けている

大人が

ーーーーーー

子どもが不登校になる、成績不振になるなど、お母さんの予測を超えた行動をとることがある。
というか別の人間なのでそんなことだらけだ。
(AIも予測不可能な「行動」をするだろうか?しないだろう。やっぱり人間は人間だからだ。)

だがそれが認められず、さらなるコントロールを受けた場合、子供は「AI」になる。
「AI」としての環境を与えられたのだから、「AI」になる。

環境というのは、そういうものだ。
「無能さ」しか与えられない環境では「無能な人間」になるのだ。
学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら『よくわかる情動発達』
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?


そういう学校という劣悪な学習環境を許して、子どもを塾に通わせるなどはお笑いごとだ。

学校に使われている、AIではないのか。

ーーーーーーーーーーー

「不登校になってくれてありがとう!」といえるようになれるか笑
「勉強しないでくれてありがとう!」といえるようになれるか笑
勉強をしない分、楽しいことをたくさん運んでくれるかもしれない。

子供からのメッセージ、子どもの現実を理解することで、「生きる」ことを大人は学べる。
AIの大人に育てられた子供はAIになるかもしれない。

親が、決定的だ。

その中でも、サバイブする子がいる。
傷ついて、それでもなんとか、気づいて、心を取り戻そうと修行の道に入る子がいる笑

ーーーーー

依存性のものがある。
薬もそうだけど。。。

エネジードリンクを飲む小学生

薬漬けになる子どもたち。
睡眠薬、精神安定剤、子供にどんな薬でも処方される。

こういう子も、AI化している。
ディープウラーニングできないただのロボットかもしれない。
AIという言葉は適切ではないかもしれないが、まぁ簡単にいうと人間さのかけた人間のような形をした何か、である。

本当の自分の心に触れることなく、「カラダからのメッセージ」を無視して薬を飲んで頑張って学校に行ったり???

エネジードリンクを飲んで「成長を止めて」「脳を殺して」「慢性的なストレスに脳を晒して」自分からAI化する子供たち。心を守れない。暴力に支配された「自然」の中で、暴力から身を守ることを学べる「自然」は淘汰されてしまったのだろうか。
社会という「自然」、社会という「不自然」

学校は暴力の世界だ。
生き残っただけでも赤飯ものだが、生き残る過程でAI化されているかどうかわからない。
人間として生き残れない、子供達をAI化するシステムが学校という組織だからだ。
(学校という環境がそもそもAIのようだ。何をディープラーニングしているのかって?それは、生徒をAI化するためのいままでの取り組みの膨大な情報を使って学び直すしかない哀れなAIだ。自分で意思を持って、創造的に情報を選択して、学び直すことができない。)

家庭も暴力に加担してしまって、どうして子どもの心を「自然」に伸ばすことができるのか。

ーーーーーー

ひきこもりは、身の安全確保です。
子どもが、自分の体のメッセージに素直に従った、とても「自然」なことです。

AIの子にはできない、素晴らしいことだと僕は思っている。

オトノネひろげるシェアぼたん

不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??

「子どもに選ばせています」というお母さんがいる。

なるほど、聞こえはいいかもしれない。
とても「自然」に聞こえる。

しかしこういうこともある。

このような「全体」をみれば、「不自然」に聞こえるだろう。

「選ばせている」といいながら、一部ではしっかり管理していたり。
まぁ人間はそういうものなのだが。。。

どこまで責任を負わせるか。
中学生ならどこまで?
そういった見極めをするのが、大人であるかもしれない。
いやいや、「これは無理」とか「こういう助けが欲しい」という言葉が子供からでてくるように、小さい頃から関わりあうのがいいのかもしれない。

きっとそうだろう。
子どもを賢く育てるとは、そういうことなのだろう。

例えば変質者が「向こうのお友達もあとでくるってよ」といって誘拐しようとするとしよう。
変だな、とおもえたらいい。

「友達がくるんだったら、いかないとな」という心で溢れてしまっていては「いや、やっぱり変だ」と思えないだろう。
心の隙間を、魔王は狙ってくる。(世の中に溢れている商品などは、全部消費者の心の闇をターゲットにしている。塾がそうだね)

心のあり方を育てなければ、子どもを檻に閉じ込めておくしかない。
檻の中で学ぶことはない。

ひきこもるのではなく、閉じ込められている子どもが大変多い。

ーーーーー

本当に自分で選べていない人生を、多くの子どもは送っている。

人生を、お母さんに決めてもらう。
選択をお母さんにしてもおらう。
その習慣がつく。

「こうしたい」気持ちを認めてもらえない子は、喋るのをやめる。
主張するのをやめる。心を閉ざす。

受け身。
目の前に誰がいるのかわからない?
「あなたの心はどこにあるの?」

ーーーー

社会的参照、という言葉がある。
『マシュマロテスト』ウォルター・ ミシェル.1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。
「いいの?わるいの?あぶないの?大丈夫なの?」「どうしたらいいの?」ということをお母さんに聞くことだ。

子どもが何かしようとしていることを、励ますことだ。

したくもないことをやれやれということではない。
したくもない勉強をさせに塾に通わせることではない。

それができるのが、1歳だか1歳半だか、はいはいを始めたり動き出して、お母さんのそばを自分から離れるようになってから。それは身体的な「離れ」であり、同時に心理的な「離れ」でもあった。

それが大きくなるごとに、成長するごとに、どんどん「離れ」でいくのが、自然なはずだ。
それを、親が離さなかったらどうなるか。

心の成長が止まる。

自分で決定できない。
自分の身を自分で守れない。
誰かのいうことを聞くしかない。
自分に自信がない。
代わりにエンタメでやりすごす。

ーーーーー

子どもが巻き込まれる「自然」には、モノというものもある。
スマホが最たるものおだろう。
スマホに親が求めるものは?なぜ使わせる?どうつかったらいい?
結局、スマホもスキル。メタスキル 次第で、使い方は変わる。

子どものためにピアノを買う、というのは、どういう「自然」なのだろうか。
ピアノが上手くなるように?
けどそれは本当にその子が望んだこと?
その子にとって、家にあるピアノは、「練習しなくちゃいけない」ただの呪物かもしれない。

ピアノという、目の前にある「自然」は、子どもの心をどう作り上げているのか。

情報も「自然」の一部だ。

お父さんお母さんの口にする言葉。
テレビから流れてくるニュース。
ドラマ。

それを処理して行く心ができているだろうか。

「勉強」「宿題」という言葉を、子どもたちはどう受け取っているんだろうか。
「寝る時間」を内在化できないで「眠らされる時間」という規則としてしか受容できない。

自己管理ができない人間になるのだ。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。
これは僕の高校生の時の問いだ。

自然という言葉に僕は憧れを抱いていた。
なにか素晴らしい原理を含んでいるように思えていた。

自然を守ろう!

だが、人間という「自然」な生き物をこの歳までよくよく見ていると、自然がとても不自然に思えてくる。

自然を守ろう!

という言葉のオトノネは何か。

僕は「自分の自分らしい姿を守ろう」ということなのだと今は思っている。
だから、その子のその子らしい姿は何か。この問いを、オトノネにくるお母さんお父さんに投げかけたい。

オトノネは、お父さんお母さんと一緒に、その子のその子らしさを守る自然を育てたいとおもっています。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。

「魔王」がいたるところにいるこの世界(学校は特に密度が濃い)で、「魔王」に支配されることが、「自然」なのだろうか。
むしろ、「魔王」に対する免疫力、抵抗力、心の強さを作り出すこと、つまるところ「魔王に心を支配されない」「魔王に利用されない」ことなのだとおもう。「自然」に負けない、これが「自然」なのだ。「自然」を知らずに、「自然」を語れない。

で、「自然」って何なの????

まず、お母さんお父さんが、宿題を始めよう。
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
コドモとして未成熟なオトナ
いつまでたっても、小学生。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹


親の安心のために利用されている子どもたちは、僕にとって「不自然」だ。

わかりにくければ、こう表現しようか。

「いつまでその手を握っているつもりですか?」

生きているのに、死んでいる、心中社会の真っ只中で、オトノネは声を上げています。

オトノネひろげるシェアぼたん

成績が伸びない勉強しない簡単な理由。勉強より大切なこと。

成績は伸びない?

僕の経験上、というよりか、これまでに中学生が「勉強ができるようになる」という事例を眼前で目撃したことがない。
というか高校生でも、成績が伸びた、という子を目撃しない。

大抵の場合、成績は伸びないのだ。
なぜだろう?

今までに働いてきた塾、学校、どこでも。
「成績」というものを目標に据えて勉強するとしたら、ほとんど成績が伸びることを期待しても、期待はずれになりそうだ。

成績は伸びない。
(ただし定期テスト対策でガリ勉「させれば」中学校まではなんとかいける。定期テストだけ伸ばしてどうするのかわからないけど)

なぜか?

メタスキルを伸ばさないと成績は伸びないからだ。
心がないと、成績は伸びないからだ。
メタスキル とはなにか。
生き方そのものだとおもう。

お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

勉強=作業
勉強=とりあえずこなすもの

になってしまっていたら、学びのメタスキルを「お勉強」につかうことはできない。

勉強=作業
勉強=とりあえずこなすもの
というしくみをつくっている学校では「成績」など伸びるはずがない。
学校のしくみ【753教育】とは何か。学校って何?
小学校もサバイバルな件。
「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。
【高校選び】進学高校の高校生たちのブラックな青春が青になるとき

学校が、本来どういう場所なのか。
軍隊養成所でも、神風特攻隊をつくる場所でもない。
差別を生み出す場所でも青春を灰色にする場所でもない。

はずなのだが。

こういう学校をつくろうと、昔から活動している人がいる。にもかかわらず、、、である。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

ーーーーー

例えば、

「サボる」というスキルある。
このスキルをつかう心が、メタスキル だ。
自分が本当に学びたいこと、やりたいことと「やらされること」のバランスをとるために、「サボる」のである。
このスキルを、もちろん、「勉強しない」ということにも使える。
スキルをどうつかうかを決めるのが、スキルの使い方を決める能力が、メタスキルだ。
心だ。

「サボる」というスキルは行為レベルだからすぐにだって誰にだってできそうだ。
ただそのスキルをどのように使うかを決める能力、メタスキル は、簡単に手に入らない。
心だからだ。

ーーーーー

成績が伸びない、のはなぜだろう。

お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

とりあえず宿題をすることで、とりあえず出された課題をすることで、とりあえずぼうっと授業にでることで保たれてきた心がある。心が自分を守るために作り上げてきたシステムだということができる。

わからないところがあっても、別に知りたいわけでもないから放っておく。それも心のシステムであり、メタスキル だ。
「それ以上関わらない」という、人生に必要なメタスキルだ笑

それは成績を上げるという「望む成果」を出すために使えるメタスキル(心)ではない。
そもそもやってもおもしろくない、何も起きない、わくわくしない、そんな「作業」を求める子どもがいたらちょっとあやしい。

勉強しない、もっとよい勉強を目指さない、いわれないとやらない、というのは、子どもの「自己防衛」のメタスキルといえるだろう。

「いや、勉強どころじゃないんだよ」
「より良い自分?なにそれ?」

子どもはもう日常生活の堅苦しさ、狭さで心が疲れている。
「なんでもっと好きに生きてちゃいけないの?」

と、どこかでおもっているかもしれない。

その大切な問いに、大人はどう答えるだろうか。
個別化・自立のための小学生の「お勉強」法(小学3年生からの家庭教育)


お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

ーーーーーーー

宿題という作業はするけど学ぼうとしないのはなぜか?

もっと大切なメタスキル が育っていないからだ。
そのひとつは「自己決定」のメタスキルだと僕は思う。
「自己責任」のメタスキル だと僕は思う。

「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。

宿題すらやらないのは、なぜか?

宿題をやらない、というメッセージを大人はどう受け取るのか?

僕は、子供の中で「勉強」=「学校でやらされること」になっていて、
「勉強」=「したくないこと」であって、
「勉強」=「自分が選んでやること」ではないことが、問題だとおもう。


勉強しなくてもいいのだ。
もっと大切なものを、大切にできないのなら。

(お金がなくてもいいのだ。もっと大切なものを、大切にできるなら)

勉強がなぜ大切なのか。
という問いではなく、
勉強が一番大切なのか。
勉強よりも大切なことは何なのか。

問いかけてほしい。

お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

ーーーーーー

大人が用意した世界、価値観の中で過ごし、暮らしている。
本当は○○したい・・・けどお父さんお母さんに怒られる・・・先生に怒られる・・・(めんどい)

結局これは小さい時に遊ばないとこうなる。
これは、事実だ。

遊びと習い事は違う。
「稽古」と「習い事」の違いと「労働」
保育園もサバイバルな件(オトノネさん唖然)ー「あそび」という名の労働
お稽古事を「させる」ことは全くオススメしない理由

遊びは主体的だ。自分たちで遊びを決める。遊びを工夫する。おもしろくなければおもしろくする。
そういう心のしくみをつくらずに、9歳を迎えてしまったら。。。中学生になったら。。。

やり直し、自己調整、最終調整をするために「思春期」を使うしかないのだが、学校という戦場のなかで「思春期」をろくに過ごせずにそのまま未成熟なまま大人になる子が多い。
大人にとっても大切な「ファンタジー」と思春期。

僕自身、いくつかやり残した宿題がある。
意欲ある遊びの中で子供が学ぶ数学的推理力・機能的推理
好きなことをして学ぶ。遊びながら学ぶ。子どもの自然な姿。
収束的あそびと拡散的あそび。
散漫なあそび、散漫な食事
学童:厚労省:非認知能力 v.s. 学校:文科省:認知能力
学童期に大切な「学び」を保障する場所。
遊びの破壊力(山田さんありがとうございます)
筆ペンは、遊び道具である。
8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
保育所にある「あそび」道具
オトノネにあるおもちゃ
野性のチカラと企業戦士の矛の先と戦闘ゲームと虫取りとあそび

ーーーーーー

「目標をもとう!」という言葉がある。
今まで大人が、本当に自由に子どもに目標を持たせたことがあったか?
無謀にもみえる目標に立ち向かう子どもたちを応援したことがあるか?
そうして工夫しながら、達成しようとする子どもをみたことがあるか?
お父さんお母さんはそれにどう関わったか?見守ったか?

管理するだけにエネルギーを浪費してこなかったか?
心配するだけにエネルギーを浪費してこなかったか?

「目標をもつ」というメタスキルが、弱いなら、「目標をもとう!」なんて言葉は虚しく響くだけで心は動かされない。

ーーーーーーーーー

成績は伸びない。
「自己決定」「自己責任」のメタスキルが弱いならば。
ただ「学びの環境」がなかったから、環境のせいにすることはできる。
それでお父さんお母さんは塾を選んだり探したりする。
けど結局は、子ども自身の能力に応じて学ぶしかない、という部分がある。
メタスキルの程度に応じて、学べる。


お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

(学びのメタスキルの中でも「お勉強」だけのスキルしか伸ばせずにイイ高校イイ大学イイ会社に入って最後は燃え尽きて精神病になる人がどれだけいるのか。そんな大人の心を背負って、子どもは育つ)

成績は伸びない。
これが塾や学校で十分に経験してきて、僕が出した答えは、
「メタスキル 」だった。

メタスキルを伸ばすということは????

メタスキル を伸ばすとは、生き方を学ぶということだ。
生きるとはどういうことだろうか?
教育の根底には、子育ての根底には、この問いがある。
アウシュビッツで生き残った人の言葉のチカラ
好きなことを仕事にする?できることを仕事にする?趣味?の意味。『三太郎の日記』
創造力とは何か。『子どもの心的世界のゆらぎと発達』

それ相応の、大人の関わり合い、環境の整備が必要になる。
それを可能にするために、オトノネをつくりました。

【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えー『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』
【アタッチメント(愛着)の深い意味】幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、しあわせの種をまける。学童期のくもんとそろばんにお金をかけるまえに。
『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナーのメモ
『マシュマロ・テストー成功する子・しない子』ウォルター・ミシェル のメモ
【お母さんもお父さんも必読】『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』
『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。


お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

オトノネひろげるシェアぼたん

『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』

アダルト・チャイルドが自分と向きあう本
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』

学校と塾と、何が違うか。
学校では保護者、という存在がほとんどない。
生徒指導で退学を迫るときにどうやって退学させるかとか、子どもを学校のコントロール下に置くために親をマインドコントロールするとか、無視するとか。

塾では、親と先に出会うパターンすらある。
そうしてみてみると、ほとんどのお母さんは不安の塊だ。
子供の姿が見えていない。(特に金沢では強くこれを感じた)

自分の感情に子どもを付き合わせるのに、子どもの感情には付き合わない。
それは差別だし、不平等だし、公平でないし、正しくない。暴力だ。横暴だ。
こういった暴力のありかたが、家庭という社会の中ですでに認められてしまっている。
こうした見えない暴力が、子どもに毎日、のしかかっている。

学校でも。家でも。
(いやいや、素晴らしいバランスを保っている家庭もありますよ!もちろん!学校はほとんどダメだけど)

それでも笑ったり、ひょんなきっかけでぽっと変われる子どもたちを、なんとまぁ、本当に、僕は尊敬してしまう。

お母さんの宿題、お父さんの宿題、子供の頃にやり残した自分の宿題を子供にやらせるパターンが多い。それが幼児期の宿題の人もいれば、思春期の宿題の人もいる。
例えばそれが精神的なものである場合もあるし、単純に「情報リテラシー」を得られなくて情報に振り回されている場合もある。どちらにしても、「知」は「心」であるから、お父さんお母さんが育てられなかった「心」の重荷を子供に背負わせていることには変わりがないのだが。。。

親が、「NO」ということを言えなかった。本当なら、思春期に世界を作り直すときに、自分自身が作り上げて来た価値観に対して「NO」ということが必要だった。それができずに、今まで「NO」といったことのない苦しみを、子供にぶるける人もいるだろう。子供にも、「NO」を言わせないのだ。自分への無意識の怒り、悲しみを、一人で処理できないのだ。

世の中の圧力にも「NO」といえないために、子供を戦場に送り出すしかない。
そんなお母さんもいるだろう。
「どこの戦場に行く?」という選択の自由を与えているから、いいのだ!と勘違いしている人もいる。

親のニーズ、親の価値観、感じ方から抜け出して、生き直す。
その思春期の子どもとしての課題をきちんと学び取れる子どもはしあわせだ。
お腹の中からでてきたのに、お腹の中で暮らし続けなくてはいけない子どもは、不幸せだ。

「あなたの不安は僕の不安ではありません」
「あなたの怒りは僕の怒りではありません」
こういう当たり前のことが、わからなくなってしまった大人がたくさんいる。

自分の仕事がうまくいっていない、人生に不満がある。不安がある。
それは、子どもとは関係がないですね???
(子どもがいる、ということだけでも不安になっているお母さんもいるだろう。こんなにも不安な日本という国なのだから本当に狂っている)

本当に、子どもは、大人を背負って生まれてくる。
大人は、背負われていることに気がついていない。
といったら、子どもの見方が変わるだろうか。

気がついて、いない。
気がついているフリをしていることもある。

実は、一人では難しいのだ。
誰かに言われたり、誰かと一緒に子どもへ眼差しを向けることで、子どもの本当の姿に気がつけるものなのだとおもう。
オトノネはそんな場所です^^

子どものオトノネに、耳をすませてみませんか。
あなたのオトノネに、耳をすませてみませんか。

泣けなくなった、ちょっとだけ体が大きくなった子どもが泣いている、声が、きこえてきますか。

ーーーーーーーーーーー

アルコール依存症のいる家庭で育つ子供の多くは、「いい子」になります。
飲んでいる親と、飲酒問題をなんとかしようと必死になっているもうひとりの親の間で、小さい頃から少しでも親を助けよう、親の役に立とう、親に世話をかけないようにしようとします。問題を一緒にか行けるしようとしたり、家族間の緊張をやわらげようとします。親をかばって、親の秘密を守ろうとします。でも、いくらがんばっても、自体はよくならないのです。だから、もっとがんばります。

懸命に親の期待に応えようとします。親から愛されよう、見捨てられまいとして、中には自分が問題を起こしたり病気になることで、体をはって両親を繋ぎとめようとする子どももいます。無意識の行動であっても、結果的には子どもはこうした問題を起こすことで家庭の崩壊をぎりぎりでくいとめている場合も多いのです。

つまり子どもたちは、自分が望むようにではなく、周囲の状況に反応して行動する自分をつくりあげます。「ありのままの自分」でいると、周囲に受け入れられず、傷ついてしまう。だから「ありのままの自分」は心の奥底に閉じ込めて、身を守るのです。このような、自分主体ではなく他人や周囲を主体とすることで自分を守ろうとする生き方を、「共依存」といいます。

子ども時代の生き方は、パターンとして身についていきます。大人になっても、このパターンは続きます。

そして、自分の人生が自分のものでないような気がするのです。

これは、アルコール依存症者のいる家庭だけに起こることではありません。両親の間がしっくりいかないなど、何かの問題のためにうまく機能しない家庭でも、子どもあちは自分の感情やニーズ・欲求はそっちのけにして、親の愛情・注目・評価を得ようと格闘します。ACという言葉の指す範囲は今ではアルコールに限らず、機能不全家や、感情を抑圧された家族のもとで育った人たちを広くさすようになりました。ー必死にがんばるのに、まだまだ足りない。周囲に期待される役割に縛られ、自分らしくいきられない。この苦しいパターンを作り出すのは、私たちが育った家族(原家族)だけではありません。社会も、こうしたパターンを私たちに植えつけます。(p.10)

ここに書かれていることは、ほとんど完璧?に、子どもが「家庭という社会の決定的な構成員であるにも関わらず構成員の一人としての敬意が払われない」現代社会の現実を表しているように思う。

ーーーーーーーー

子供が家族の中で演じる5つの役割(第6章)
ヒーロー・スーパーチャイルド(優等生/家族の誇り)
 評価されようと頑張る。家族の期待に応えようとする。
 完璧に期待に応えようとするが、疲れていて、休みたい。無邪気に遊びたい。けど努力をやめたら認めてくれないとおもっている。

スケープゴート(問題児/いけにえ)
 トラブルを起こす。悪いことをすることで家族の問題を自分のせいにして、家族の崩壊を防ぐ。
 または全く無視されているために「見て欲しい」から問題を起こす。
 「さびしい」「助けて」といった感情を言えず、もやもやした気持ちを怒りや破壊的行動で表す。
 
ロスト・チャイルド(いないふり/忘れられた子/仲間はずれ)
 隅っこで息をひそめる。目立たないようにして傷つけられることから身を守る。
 誰かと繋がりたい、でも、自分の殻の中から踏み出すのがこわい。

クラウン/マスコット/ファミリーペット(道化師/甘えっ子)
 おどけて家族の緊張をやわらげる。争いを回避しようとして笑う。注意を自分に向けさせる。
 自分の感情ははっきり言葉にしない。

ケアテイカー/プライケイター(お世話やき/なだめ役)
 親の面倒を見たり、愚痴や相談を聞いたり、後始末をする。
 「自分がなにをしたいのか」わからない。

ーーーーーーーーーー

過去と現在を見ていく地、自分が驚くほど同じパターンでものごとに反応し、行動していることに気づきます。
〈優等生〉は、今も周囲の期待を背負って努力奮闘しているかもしれません。
〈問題児〉は、今大胆な行動でまわりを引きずり回しているかもしれません。
〈忘れられた子〉は、今もひっそり部屋で思いをめぐらしているかもしれません。
〈道化師〉を演じていた人は、今も周囲が緊張すると、なんとかなごませようと必死かもしれません。
〈お世話やき〉の人は、今も周囲のケアを続けているかもしれません。
こうしたパターンは、私たちの個性や長所にもなります。同時に、その役割に縛られることで苦しさを作り出すもとにもなるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーー

私たちアダルトチャイルド(AC)がかかえる苦しさの核にあるのは、共依存=「自己の喪失」です。程度の違いはあっても、次のような傾向はACに共通するものです。

自分の感情やニーズ欲求がよくわからない
自分を主張できない
相手と自分との境界線が混乱している
ありのままの自分でよいと思えない。
自分が大切うな存在だと思えない。

ACの中には、周囲の期待に答えてがばり続け、挫折もなく、とくに問題を感じていない人もいるかもしれません、けれど多くのACは、なぜ、同じことが繰り返し自分の人生に起きるのかと、嘆いています。よくあるのは、人間関係でのつまずきです。とくに、親密な関係を作ったり維持していくことに困難を覚えます。恋愛や結婚に踏み込めずに悩んでいる人もいれば、度重なる破局に傷ついている人もいます。暴力や暴言に満ちた理不尽な関係から抜け出せずにいる人、見捨てられるう不安から相手にしがみついて結局は関係を壊してしまう人。YES・NOがはっきり言えずに相手につけこまれる人もいます、親と同じような問題をかかえた相手をパートナーに選ぶ場合も多いのです。また、「がんばりすぎ」もACに特徴的な傾向です。多くの仕事を抱え込んで仕事中毒になったり、自分を犠牲にしてまで相手の世話を焼いたりします。リラックスするのが苦手で、自分に必要な休息を与えてあげることができません。楽しむことにも罪悪感を感じます。(p.18)

アダルトチャイルド(AC)が育った家族には、どんな問題が起きていたでしょうか?

(略)両親のコミュニケーションがううまきっていなかったのかもしれません。たとえば、対面はつくろっていても関係は冷えていて、家庭内離婚んお状態だった。あるいは嫁姑の間の確執があった。父親が仕事依存で、妻にも家庭にも目を向けられない状態だった、夫の権威に妻が自分を殺して従わなければならない状態だった。どちらかの親が別の異性関係にはまり込んでいた、などです。親の満たされない思いが子供に向かっていったかもしれません。

たとえば、親として精神的に未成熟だったり、自己イメージがゆがんでいて、子供に自分の不満や怒りをぶつけていた。親が自分自身の生き方を見出せなかったり、目標を喪失していて、子どもにすべての期待をかけることで自己実現しようとした、などです。(略)

これは、「親が悪かった」という意味ではありません。たとえ「すばらしい人」の集まりであっても、関係として機能しない、ということはあるのです。(p.38)

共依存のルール(第5章)
話すな
信頼するな
感じるな

機能不全家族の8つのルール
問題について話し合うのはよくない。
感情は率直に表現してはいけない。
言いたいことは直接言わず、第三者を介す。
非現実的な期待ー強く、正しく、完全であれ。
利己的であってはならない。
私が言うようにせよ、するようにはするな。
遊んだり、楽しんだりしてはならない。
波風をたてるな。

逆に健康な家庭は、このルールを逆にしたもの。

問題があったら話あう。
感情は率直に表現する。
言いたいことは、直接言う。
現実的な期待ー弱くても、まちがっても、完全でなくてもいい。
自分のことを第一に考えていい。
本音で話す。
大いに遊び、楽しむ。
変化はワクワクするチャレンジだ。

=========

多くのどもたちは、泣くことが上手です。痛い時、つらいとき、何かが満たされない時、混乱してわけがわからないとき、声を限りに泣きます。

こんな場面にであっ歌ことはありませんか?

迷子になってしまった子どもが、表情をこわばらせています。お母さんがやってきたとたん、緊張が破れ、わーっと泣きながら抱きつくのでs。子どもは、やさしくなでてもらいながら、気がすむまで泣きます。やがて大泣きはすすり泣きに変わり、ひとしきりしゃくりあげたと思ったら、けろっとして元気に歩きだすのです。

十分泣いた子どもは、悲しみを引きずることがありません。「お母さんがいない」というショックと悲しみは、安心感に包まれて思いきりなくことで癒されたのです。

でも、もしもこのとき、しっかりと抱きとめてもらえなかったら?「泣いていないで、さっさと歩きなさい!」と叱られたら?どんな気持ちになるでしょうか。(p.92)

「ぼーっとしていないで、さっさと宿題をやりなさい!」

ぼーっとしている姿が、僕には泣いているように見えるときがあるのだけれど。

オトノネひろげるシェアぼたん