いつまでたっても、小学生。

こんな世の中で、体ごと死んでいる子もいる。
心が、殺される子もいる。

僕はそんな子どもたちの心を守って、一緒に遊びたいとおもう。

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とある本にこんなことが書いてあった。
ちなみにこの著者は、小学校で国語を専門にしている先生。
今はもう小学校で仕事はしていないようだけど・・・

教師は手綱を放してはならない。

子供が自主的に目当てを持ち、学習の計画を立て、実践し、その当否を検討確認し、学び方を身につけていく…。そんな子ども任せの授業論は、机上の空論に過ぎません。自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。私の授業では子どもが発言をするのではなく、発言させられるーつまり、発言しないわけにはいかない場に子供を追い込んでしまうのです。たとえば、「この意見は正しいと思うか、違うと思うか」いずれかを選ばざるを得ない状況をつくる。そうしてすべての子どもに自分なりの答えを選択さえ、あらためて「なぜそう思ったのか」を考えさせる、これが私のやり方です。

野口流 授業の作法

学ばねば、やってみなければ、わからないことがある。それを教えるのだと。
(この文章は「自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。」という、放任型の手抜き授業をする教師への言葉ともとれる)
なるほど。
その点、この本の著者である小学校教育では、たしかに手綱を離さない授業が、必要になるのかもしれない。
手綱というのは、知性を司る人間の、知性を働かせるための操縦法をいうのだと僕は思った。

管理、という意味ではない。

小学校が終わり、中学校に入ると子どもの世界が広がる。
人間を、大きな社会の中で捉えられるようになる。

そうすると、授業の教材がかわる。
教材が変わると、また大人の「手助け」が必要になる。
そうして、手綱は、ずっと、弛まない・・・のだろうか?

例えば、小六であれば、小学校の総決算として、小学6年生として自律的に授業を進められるのではないか。
どうだろう。
ずっと先生が、手綱を引かなくてはいけないのだろうか。

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生徒自身がメタスキルを使って、自分の興味関心・自分の道を深めていくプロセスは、いつ始まるのだろうか?
大人になってから急に「自分1人」になって、誰の助けも借りられずにサポステにいく高学歴の子どもが多い(もちろんサポステはその情報を出しませんが)。

人生そのものが、長い長い学びのプロセスだと言えば、別に学校なんて小さな出来事だということもできるんだけれど。

個別化はいつはじまるのだろうか???
おそらくそれは、学校教育ではない。
現代日本の学校教育に、個別化は望めない。

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別の国では○○プランとかいって、生徒の主体性・自主性を重んじた「プロジェクト」という学び方を採用している。
イエナプラン・ドルトンプラン・もしくはモンテッソーリとか。。。

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子どものときにメタスキル を、言葉のチカラをつけずに、大人になった子どもが、どんな生き方をするんだろう。

子ども「わかりません」
先生「じゃぁ他の人」

で進んでいく授業で、子どもは何を学ぶのだろう。
それこそ無気力を学ぶのではないか、心配している。

学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?

学校で、家で、小さい時に満たされなかった心を、大人になってから、DVやらモラハラ、パワハラ、もしくはドロドロのポジションの奪い合いの競争の中で満たしていく。それが現実ではないのか。

宿題をしてこない、課題を出さない、で叱責する自称進学高校の先生たち。
小学生か。
親を味方につけたり、罰を与えて、なんとか宿題、課題を出させようとする先生たち。
園児か。

周囲の考え方に合わせたり、機転を利かせる優等生がいる。
一方で、いつもギリギリの場所で、自分をみつめ、自分の感情を大切にしながら他者と関わろうとする子どももいる。(いわゆる「問題児」と学校で呼ばれる子)

こうしたいろんなタイプの子が集まってつくりあげる社会をつくるための「しくみ」を学ぶことが、大切なのだとおもうのだが。
学校では前者が善とされ、後者は排除されるか、隠されてしまう。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

なんて貧しい国なんだろう。

オトノネは、個別化を大切にしています。
オトノネは、個別化していく子どもたちが、お互いに学び合うことを、大切にしています。

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「子ども」に先生の値打ちを「問う」

「今日はなにを学んだの?」
と聞いた時に、「足し算」とか「漢字」とか、単元の名前とかがでてきたら、多分その子は大切なことを学べていない。
「今日は何を習って来たの?」「エチュードの○番」とか、「クリスマスの歌!」とか。
僕が聞きたいことはそこではない。

「今日はなにを学んだの?」
という質問をわかりやすくしてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

こう質問してみるといい。

心に残っている部分が、その子がその先生から学んだことの印象であり、実態だ。
それが「足し算」とか「文法」とかそんなものであってはいけない。

さっそく、新学期がはじまったら子どもに聞いてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

「宿題を期限までに出さなかったら○○だって」みたいな返事が返ってきたとしよう。
それが、その子と先生の関係なのかもしれない。

もう少し聞いてみてもいいだろう。
「一番、心に残ってる、大切な話はなかった?」
「うれしくなった言葉は?」
「かなしくなった言葉は?」

子どもたちは、どんな大切なことを、大人から学んでくるんだろう。
いいものを、先生からもらわずに、いったい何を先生からもらっているんだろう?
魔王の言葉???

学校は、ただの場所を表している。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。

先生は、学校の管理人であって、学びを与えてくれる人ではない。
囚人に日課(作業)を与えてはくれる警備員のようにもおもえてしまう(富山県の議会の部署(委員会?)で、教育と警察は同じ場所にいる。これは全国みんなそうなのか?)。
これは批判でも悪口でもなく、事実だ。(事実すら、見えない人には見えないのも、また事実)

先生の「子ども」にとっての値打ちを知りたければ、「問う」ことをしてみよう。
その答えから導き出される「子ども」にとっての先生の値打ちが、なんか変だな。とおもったら、オトノネに遊びに来てください。

「どんな先生?」
という言葉で聞いたら「やさしい」とか「いや」とか「たのしい」とか。いろんなエピソードを聞かせてくれるかもしれない。
それなら、学校に何をしに行っているのか、僕にはわからない。

聞き方も大切。

ん?学校に「しつけ」のために行っているのか?????
学校にいる子どもたちをみると、崩れていく日本の社会を新しくするチカラではなく、ただ崩れていくものに埋もれていく人柱にみえてしまう。
それは僕の偏見だろうか。いやいや。事実です。
言葉を育てず「躾」つまり体裁を整えるように、世の中は動いている。
その魔王の代表格が「学歴」とか「成績」という言葉だ!

事実に気がついたお父さんお母さんが、オトノネを大切にしてくれたらいいなぁと強く思っている。

しつけとけじめ
言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。
しつけと道徳的行動の関係の研究

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親に「安心」を売る塾という名の魔王

あくまで、多くのお父さんお母さんの状況を僕が察しているわけでして。
オトノネのブログファンの方にはあまり新しい内容はないとおもいながら。

「じゃぁそもそも誰のために、この記事を書いているんだ?届けたい人に、届いて居ないじゃないか」と、
新年早々鬱々としているおとのねさんです。

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塾とは何か。

優れた塾とは何か。

優れた塾とは「親に」より便利でよりお手軽によりたくさんの安心感を提供する塾のこと。
このために合格実績やらさまざまに細分化されたコースを用意したり、「偏差値30から!」とか、「発達障害のお子さんのためのシステム」とか、送迎サービスを売ったりする。宗教とあまり変わらない。テレビのショッピング番組と変わらない。
(だからオトノネは塾ではありません。オトノネです。)

そうして子どもを塾に通わせながら、親は「安心」というサービスをうける。
子どもの学びではない(そうでなかったらなぜ何ヶ月も、何年も、子どもが学べて居ない塾に通わせることができるんだろう?)。
それが洗脳であっても、「行かないとお母さんが困るから(富山高校生の言葉)」という子どもの親への気遣いであっても。

「安心」したいという不安はどこからきているのか?
不安な世の中、こんな恐ろしいお母さんもいるという。

削除されたみたいなので別のページから貼りなおします。

実際、こういうお母さんがたくさんいる。
東大京大早慶でなかったとしても、「学校の定期テスト」レベルでやきもきしているお母さん。
「定期テスト対策」をさせているお母さんが多い。
「大学受験対策」を、小さい時に、頭を撫でながら行なっていく、こんな長期間にわたる「対策」で心が死ななかった子どもがいたら奇跡だ(もし、子どもに思春期すら許されなかったのなら、、、)。

それだけこの世のなかには不安が、魔王がチカラをもっている。
医療もそうだ。
宗教もそうだ。
教育もそうだ。
福祉もそうか?
政治なんてまさにそうだ。
頭をおかしくする、健康にならない、薬漬けにする、やたらレントゲンを撮りたがる医者(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
心を救う以上に、心に巣食う宗教(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
生徒の学びよりも自己保身にまわる学校(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
福祉ではなく福死の現場(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
倫理も論理もあったものではない政治(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)

不安が、魔王が、そこら中にいる。
悪霊に満ちている。
平和どころではない。

だから、「不安」を金儲けにする、「安心」を売るサービスが増える。
それは本来、教育業ではない。キャバクラやホストクラブと同じだ(実際、キャバクラ化・ホストクラブ化している学習塾・予備校の状況を、目の当たりにしてきたから言える)。「こんなコースをとったら?」「増やしたら?」「夏期講習だよ!」「ドンペリ開ける?」笑

いやべつにいいんだけどさ。。。
塾で出会う先生が、一体どんな先生か。
それで塾がキャバクラ・ホストクラブになるか、USJになるか、それとも人間としていろんな成長ができる場所になるかが決まってくる。

結局、塾のシステムでも合格実績でもなく、先生選びが大切。

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シューベルトの『魔王』

僕が中学校時代に出会って、譜面も読めないが全て友達の力を借りて弾いていた曲。
今日、ラジオ番組で流れていて、ああ、そういうテーマとして読み替えられるんだなと感じた。
芸術の力を、僕はうまくつかえていないようだ。

すでに子供は、魔王の手の中にある。
子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
子どもは小さく、親に抱かれる。

子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
そのうち、子どもはの心は、死んでしまう。

まず、魔王の存在を、きちんと感じてみよう。
感じすぎると、病むから注意(魔王を見るにも心の修行がいるようだ・・・)。

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治らない肩こりの痛みを和らげるために通い続けるマッサージ店と似ているかもしれない。

それで肩こりの原因となる心的肉体的負担が減るわけではない。

定期テスト対策で、子どもの何が成長するのか。
定期テスト対策をする習慣(もしくは赤点後の課題さえすればなんとかなるんだという処世術)を学ぶんだろうか。

子供がプレッシャーをうけずにいられる場所、という価値すら、輝いて見えてしまうほど、日本は不安に満ち満ちていると僕は感じている

子供にとっての塾の価値はなんだろう。

塾に価値があるとしたら、お客さんとして、学校のように叱責もされず、プレッシャーもうけず、ただただ過ごせる場所、という価値なのかもしれない。
それすらも、子供にとってはプラスになりうる。

そういう世の中になった。

新年一発目のブログは、「魔王」でした笑

教育は社会問題。
「成績が悪い」のはお子さんではなく、地域全体であり、日本です。
もう1人で悩むのは、やめませんか?

多くの事柄を個に起因して、社会(組織)としてとらえずにチカラ散財させることで、僕たちは力を奪われている。
魔王に。

協力することを、学んでこなかったからだ。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

みなさん、初詣で何かお祈りしてきましたか?
祈りの言葉を間違えると、魔王のチカラが増えてしまうので注意!

魔王のチカラを増幅させる塾や学校(自民公明党)には、注意!

心が大事。

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学歴社会、理想の母親像、テレビの中にでてくる豪邸、もしくは貧乏暮らし、「不安」を買い取り、「安心」を売るしくみに溢れた世界から、自分の身をまもるために。・・・やっぱり、子どもとしてきちんと成熟させてから、大人にしてあげたいとおもう。

社会は、こうした個人の歪みを和らげられずに、逆に歪みを拡大し、「不安」と「怒り」の市場を拡大させようとしている。
ああ、こわいこわい。

どうやって笑ったらいいか、わからなくなる。

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