言葉の重み(俳優と演出家の役割)

演劇の話をしても、わかる人いないだろーと思いながら。

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僕はよく俳優に言うセリフがある。
(というか劇団の外、外部の劇団と仕事をするときに)

「君の体はこのセリフの重みに耐えられますか」

音楽は、その力を俳優に与えるためのものだ。言葉の重み、場面に流れている空気の重み(もしくはその色や形、人々の呼吸、心)を感じることではじめて生まれてくる響きがある。

軽くて淡く、光り輝く色をする言葉を鈍く、重々しく、そして真っ黒にして喋る俳優もいる。
それは、アカンのです。言葉のセンスがない。

重たいセリフを重たく喋れる俳優がいなければ、演出家は、「重たいセリフを軽くする」ための演出をする。
(訓練法を知っている演出家なら訓練させるが、時間がかかる)
セリフの重みを感じられないで喋れば、言葉は崩壊するからだ。そうすると舞台は崩壊する。
だから初めから、ある程度壊しておくのだと。
言葉を別様に生かすのだと。

けどそれは俳優の力量のなさによることがほとんどだ。
(そしてほとんどの俳優がこれができないがために、舞台はほとんど崩壊している。喋らないほうがいい。それでは全部ダンスにしたらどうか?ダンサーもほとんど、体が死んでいる。本当にいいダンサーは、自分の体と心をつなげている。多くのダンサーは、体を機械にしてしまったようだ)

言葉の、セリフの「あり方」を感じられないことがほとんどなのだ。
(本当に感じられるとういことは、本当にその言葉の「その通り」に話せるということだ。つまり「重たいセリフの重みを支えられる」ということだ。)

だから観客は「言葉」を味わうのではなく、「ストーリー」を楽しむことになる。
演出、設定、舞台装置、衣装・・・「言葉」は舞台の上で、観客に届くことなく、ただただ、力なく横たわっている。

それが多くの「俳優」の世界だ。
(僕が音楽に感じている魅力は、言葉の本質が、まだまだ一部の音楽には残されているからだろう)

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「お母さん、学校行きたくない」という一言はどんな響きをしているだろう。
もしかしたら、そのセリフすら、言葉すら、子どもから奪われているかもしれない。
その一言すら言えない心。

「宿題」という言葉を使う以前に、「宿題」にがんじがらめにされている身体。
「宿題」に心が開かれるわけがない。
どうしてそんな心が、歪まずに成長できるだろう?

沈黙の舞台。

言葉を使う、価値のない世界。
言葉が暴力になる世界。
(僕はあまりにも煩すぎて劇の途中で出ることが多々あった。学校にも耐えられなかった。学校に溢れている、あの公然なる暴力の世界が、日本の標準であると考えると本当によくいままでみんな生きてきたなとおもう)

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舞台音楽の作曲家とは、演出家とは、こうした「ダメな俳優」をどう「舞台」に上がらせるかに腐心する。
その限界を超えた音楽を与えたら、俳優の存在意義がなくなってしまうから。

未熟な俳優が多すぎる。
(本当は「重い言葉」はちゃんと「重く」喋ってほしいんだよ)

すべてがコマーシャリズムに吸収されて、実力のある俳優が、でてこない。
短命な、俳優。

どうか、命を粗末にしないでほしい。
命を大切にすることを、演出家は俳優たちに教えることがない。

俳優とは、子どもとは、どういう「役割」をもった人間なのか。
演出家よ、音楽家よ、大人たちよ。
まずその問いに答えよ。

大抵の俳優は、まだ世の中(演劇)のことをしらないのだ。
知らない言葉を語るなどできない。
知らない言葉の響きを知らないなら、できない。

「君の心はこのセリフの響きをつくりだせますか」

それこそ、舞台の上でなにをするか、なにができるか、ではなく、
俳優という存在がどのようにして「ある」のかを見られている。

一生懸命演じるのはいい。
けどそれで、観客に媚びへつらうのではいけない。
媚びへつらう、心の「あり方」が伝わってしまう。
(その点、みんなで踊る群舞の伝統は、もともと遊女がお客をとるために編み出されたもので、よくよく伝統を受け継いだグループが、現代でも活躍中である。ちなみに、映画というものの多くは、俳優が空間、時間を意識しなくとも「編集」によってうまくみせられるようにできている。力量のない俳優でも映画に出て、商業として成り立つのはそのためだ。文字通り「売れる」のである。というか、そういう、カメラやマイクがなければ成立しない、生身の声や体を使えない小手先の「定期テスト対策」的な俳優が増えてくる。まぁそういう生き方も、あるのだが。。。)

言葉は心。
心は言葉。

体が開かれていなければ、心も開かれない、かもしれない。
もし学校の中でガチガチになってしまった心があるなら、離れてみるといい。
自分の心がちゃんと「ある」のだと、確かめられる、感じられるようになったらいい。

学校でも平気!になるための強い心、強い体をつくるためには、まず、自分の心が体とつながっていて、体はこの世界とつながっていて、学校の「日常」で埋もれた心からは出てこない言葉が、体が、心が自分の中にあることを、感じて見たらいい。そしてそれらを、強めていったらいい。心をシステムを、楽器を、作り出していくことだ。(音を増幅させる仕組みが、楽器には施されている)

それが大切な学びだと、僕はおもう。

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日本のとある演出家は、「重たい言葉を支える身体」をつくるトレーニング方法を生み出した。
その結果どうなったか?

ちょっと昔に、その演劇を見にいって直接感じたこと。
俳優のひとりひとりが、死んでいたことである。

俳優として、作品の上で与えられた役割をこなしたかもしれない。
ただその後、舞台から降りた俳優に、「人間として」言葉をかけたいと思えなかったのだ。

俳優は人にあらず、という言葉がある。
人にあらず、だがしかし、
憂う人でもある。(優れた人とは、憂う人なのだ!!?)

こうした俳優の両面性が削り取られた、黒一色の影が、舞台の上で動き回っていた。

「自分の声」を失った世界で、ただ何かの音が、耳元でざわついていた。

心を舞台の袖に、置いてきたのだろうか?
(俳優が舞台に載せられなかった心を補うように、この演出家は文章を書き、評論を書いているようにおもう)

「人間」という言葉の重みは、日に日に、重くなる。

俳優は人間の専門家であり、演出家は俳優を育てる専門家である。

俳優は演出家から学んだことを、今度は、観客に向かって伝えるわけだ。
だから俳優は、観客が人間を学ぶ先生でもある。

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人間を育てる意思のない社会で、演劇が衰退していくのも、当然といっちゃ当然だ。
俳優も演出家も、社会の中で生きているのだから。
演出家も俳優を、手駒として使う。
会社の社長も、社員を、、学校も、先生を・・・・
これが当たり前の人間関係として、普通のこと、になってしまった。
病院に行く医者と患者の関係、学校の先生と生徒の関係、会社の上司と部下の関係、、、

たいていの場合、人間らしさが、欠如している。

その中で、人間でありつづけようとする意志が、試されている気がする。

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駄文が続いてしまうが。

演劇の伝統といえば、日本には歌舞伎というものがある。
歌舞伎は昨日あった事件を1週間後には公演、みたいにして俳優のアドリブで成り立っていたようなところがある。
言葉が出てくる「基礎」になる身体、そして、心が出来上がっているから、あとは言葉を放つだけなのだった。

それは過去の話だ。
今の歌舞伎は?(博物館のショーケースの向こう側にいる感じだろう。実際、海外に「伝統」という商品を売る時のパッケージのひとつである。あ、ちなみに、地の文が、なんていうんだっけ、、舞台で動く俳優でなくて音曲専門の人たちが歌って、その音楽にのっかって俳優が動く、という形式は多分、浄瑠璃の影響を受けているんじゃないかと思う。ただの憶測だけどどうなんだろう。歌舞伎と浄瑠璃はライバルだったからね。たぶん、いろいろ学び合っていたのかな。)

僕らのチカラの一部であった「日本」は、すでに横たわって、死んでしまった。
今目の前にいて、不気味に振り返り、こちらを見ているのは、一体何者なのだろうか。

「君の名前は?」
「僕の名前は、○○だよ」

問:○○に入る言葉はなぁに?(二文字でなくてもいいです笑)

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