子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』ジョン・H. ハーヴェイ

悲しみに言葉を
『悲しみに言葉を』

喪失(そうしつ)経験、という言葉がある。

誰かを失った、何かを失った。。。
安定していたものが、不安定になる。

そういう気持ちを言葉にすることが、安定への第一歩だ。という本。
喪失の経験が、成長につながると。

でも、そうした喪失を体験すれば、誰でも成長することができるのだろうか。私には、そうは思われない。本書で私は、喪失から何かしら肯定的なものに変容しようとするときに大切なことは、喪失を意味付けること、喪失から学び洞察を得ること、そして経験にもとづいて何か肯定的な事柄を他者に伝えるという、心の中の大変困難な作用であることを主張したいとおもう。(略)ヴィオストの本の真価は、生きている間じゅう、人はさまざまなタイプの喪失を経験するのだといことを伝えている点にあると思う。(p.5)

例えば、志望校には入れなかったことも喪失経験になるかもしれない。
バラ色の結婚生活だったものが、変わったことも、喪失経験といえるかもしれない。
「うまくいく」と思っていたことが失敗することも、喪失かもしれない。

女の人であれば、流産、子供ができない、、、といった状況も、喪失体験と呼べるかもしれない。
男性には感じられない深い命の感覚を、女性はもっていると僕はおもう。

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ちなみにこの本で取り扱っている喪失経験は次のよう。

親しい人の死による喪失
離婚・離別による喪失
理不尽な暴力による喪失(DVや性的虐待、犯罪)
戦争や大量虐殺による喪失
病気や事故による喪失(慢性的な病気や加齢を含む)
貧困、ホームレス、失業

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目次を読んでいると、こんな項目がみつかる「西側からの『喪失の輸入』ー映画・テレビの暴力とタバコ」
モノが、モノの移動が、喪失をもたらすという視点だ。

また、「公認されていない悲嘆とスティグマ化」では自殺や近親相姦、摂食障害にもふれている。
公認されていないとは、「悲しむことが認められていない」という意味でとらえてよいかしらん。

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人生のある時点における重大な喪失に圧倒されてしまい、その喪失を十分に消化できないまま、その後の人生で出会う喪失によってさらにひどく打ちのめされてしまう人もいる。(p.6)

打ちのめされるタイプはビッグファイブでいうところの神経質傾向がある人だろう。
打ちのめされずに、他人に暴力を振るう、支配的になるというタイプもいる。

打ちのめされる(自分を打ちのめす)にしても、(誰かを)打ちのめすにしても、どこかに歪みが生まれる。
自分自身の内的な問題として心に抱える心の仕組みを作った人などは、自分から苦しみに耐えかねてカウンセリングを受けるかもしれない。宗教に入るかもしれない。

打ちのめす側(例えばDVとか、ストーカーとか、犯罪とか、ネットで誹謗中傷、脅しをかける人とか)の問題は、なかなか取りざたされない。(日本の政治家のほとんどは、打ちのめす側にまわる。学校の先生も一部は自分が打ちのめされ、ほとんどの場合、こどもを打ちのめすことをしている。本人は、気づいていない。)

じつは打ちのめす側の人が、世の中にたくさんいる世の中が(打ちのめす側が有利な世の中が)、現実なのだが。

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僕は、人が生きるために大切なものが、最初からなくなってしまったのではないか(喪失している)と感じている。
簡単に言えば、人が生きるために大切な「人間」がいなくなってしまったと、感じている。
かつては、共同体の中で、精神的な支柱になるようなシャーマン、巫女、知恵をもった人がいた。
現代では、なかなかみつからない。(それで間違ってカルトに入ったりする)

そんななかで、「人間」と出会えた人はしあわせだ。

大地とともに、空を見上げることを教えてくれる人がそばにいてくれたら、しあわせだ。

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心は、語りたがる。

人も、語りたがる。(嫌な気持ちを口にするだけでも、愚痴るだけでも、気持ちが晴れるものだ)

『悲しみに言葉を』では、語るということが心にどんな開放感、前進する力を与えるのか書いてくれている。

悲しみを忘れるわけではない。
悲しみは忘れられるものではない。
ただ、悲しみは自分の一部であるし、それに寄り添って言葉をかけてあげる、悲しみの言葉を、自分が聞いてあげること。祈ること。そうした行動を積み重ねること。それを喪失経験という。

喪失を、きちんと、経験するということだ。

まるで、自分の中にいる悲しんでいるこどもを抱きしめて、声をかけてあげるようだ。

忘れる、ということとは、少し違うような気がする。

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話し始めると、まとまりがないかもしれない。
そのまとまりのない状態も、こどもにもよくあること。
言葉にしながら、気持ちを整理していく。

その時間が、プロセスが大切。

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子供の成績が悪くて、もしくは子供の振る舞いが気に入らなくて「怒る」感情は、どこからくるのか?それも「悲しみ」に還元できるのか?(実は怒りの方が一次的な感情であるらしいのだが。そうすると、この本のタイトルは『怒りに言葉を』になるだろう)

といったことを考えてみてもおもしろい。
バリ島では、感情は3つにまとめられている。
怒りと悲しみと、平穏である。

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離婚を乗り切るための有用な入門書としては、クラインクの『人生の問題に対処する』があげられる。彼のアドバイスは論理的かつ直接的である。彼によると、全体的に、どうしたら悲観の過程を進められるのかを知ることが必要だという。これには、われわれは他者や他者の決定を自分のものにしたりコントロールすることはできないという事実を受け入れることが含まれる。われわれはしばしば、たとえば彼らの決定が自分の欲求や利益に反するものであっても、それを尊重し受け入れなければならない。

親は、子供をコントロールできない、ということを、きちんと、本当に、心から、受け入れられるか。

コントロールにもいろんな程度があるだろう。
「育英に通わないと、お母さんが困るから」といって育英に通い続ける子がいる。
コドモはお母さんに気を使って、自分を犠牲にして生きているかもしれない。
親が、子供の選択肢を限りなく限定していることが、多々ある。

それでいて、「子供に選ばせている」という人がいるから、なかなかだ。
「あなたのため」は呪いの言葉でもあるが、脅迫でもあると僕はおもう。
詐欺でも使える言葉の響きをもっている。
ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち

ツイッターのコメントで見るニュースサイト・セロン

悲哀の仕事という課題を成し遂げるために十分に時間を取ること。それには、喪失という現実を受け入れること、苦痛や非嘆を経験すること、新しい生活に適応すること、新しい生活をうまくやっていくこと、などが含まれる。

受け入れるためには、長い時間がかかるかもしれない。
その間に、子供は成長して行く。成長する姿を、オトノネで感じながら、お母さんが「子どもを失う」、つまり子供が自立していく経験をしていくことが、大切なのかもしれません。

それは、考える、とか、無理やりそのように思考する、といったものではありません。

心が、大事なのです。

時間がかかることかもしれません。
だから、お母さんにも、お子さんにとっても、オトノネを大切にして欲しいのです。
響き渡るための、時間を。感じるための時間を、大切にして欲しいと思います。
その貴重な時間を、不安でいっぱいの定期テスト対策で終わらせて欲しくない、というのが、オトノネの思いです。

「この子はもう、大丈夫なんだ」と思えるようになるまで、お母さんがお子さんにしがみついたり、お世話を続けて行くと、サポステに行くことになります。高学歴な人が、社会に出られない、どうしたらいいかわからないという状況になる背景には、「させられた」勉強、「させられた」人生に対する無力感があるとおもっています。親が用意してくれなかったら、できない、という状態です。

子供を自立させる、それは、お母さんにとっては「こども」の喪失経験になるかもしれません。
こどもが「おとな」になることをお母さんが恐れていたら、こどもは「こどもとして未熟」のままオトナになるかもしれません。

これが、僕が「10歳になったらもうオトナ」と言う理由です。「こどもとして成熟」していなくてはいけない。10歳からは「未熟な大人」として関わって欲しいのです。そうして18歳には、「成熟した大人」として子どもが一歩、踏み出せるように。

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最後に、この本には「適応」という章がある。
喪失の経験を完了するための、語る以外の方法があるとしている。

その中のEMDRは、トラウマをなくす、忘れるために、記憶を思い出すと同時に眼球を左右に振るといいう動作をするだけである。
またロゴセラピーは苦悩を身体的・心理的な問題ではなく、目標の欠如から生まれるとして、意味ある目標へと向け直す方法をとっている。ブリーフセラピーやヨガ・ダルシャナの考えと類似している点だ。

例えば、ピアノを弾いたり、音楽をしたり、絵を描いたり、そういうコミュニティーの中で自分の新しい姿を想像すること。(例えばそれが旅行だとか食事だとかブランドのバックとかで作り上げる新しい自分では、消費だけだからおすすめしたくない)


怒りや悲しみに対して、「不安」や「絶望」を餌として与えないこと。
もっと別のもの、平穏を育てよう。という考え方だ。

そうして「子供」や「家庭」、「会社」以外に意味を作り出すことは大切だとおもう。
自分の人生を自分でつくること。
自分で選ぶこと。

これができて、成熟した大人になるのではないかとおもう。
だから大学受験というか、就職試験というのは、成人の儀式だと、僕はおもうのだ。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。

「そんなもの、わからないよ。新しい意味なんて」という人は、ダイゴのこの動画をみてもいいかもしれない。

人生の意味の喪失、これも、喪失経験かもしれない。慢性的!??

それから、こういう言葉が役に立つかもしれない。アインシュタインの言葉らしい。

人間は、私たちが宇宙と呼ぶ大きな全体の一部である。人間は、自分自身、そして自分の考えや感情を、それ以外のものと切り離されているかのように思っているが、それは人間の意識がなせる一種の錯覚である。この錯覚は私たちを個人的な欲望の世界に閉じ込め、自分の周りのごくわずかな人たちにしか愛情を向けないようにしてしまう。この錯覚は、私たちにとって監獄のようなものなのだ。私たちの課題は、この監獄から自らを解き放つことである。それは、私たちの思いやりの輪を広げて、生きとし生けるものすべてを、美しい自然の全てを包み込むことによって可能になる。(p.348)

日本であれば、「家系」とか「家」という概念はすでに壊れただと認める段階にあるのかもしれない。
そういう、宇宙的な時代がやってきている。

人は、宇宙に行ったらしいが、魂は地球においてきてしまった。
そんなかんじだ。

「家系」とか「家」とか「分家」とか「本家」とか「長男」という言葉で、どれだけの人が足止めを食らっているのか。(その悲劇を、本人は認めていない。喪失を、きちんと経験できていないとおもえば理解しやすいだろう)

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ある人は、人生の意味、自分の価値というものを埋める物語をつくるために、ボランティアに没頭する。
ある人は、お金儲け、会社の仕事に没頭するかもしれない。
ある人は、「古き良き時代」の喪失経験をしたくない(できない)ために、子どもを「つなぎとめる」ことに没頭するのかもしれない。立場主義を貫き既得権を放棄したくないということだろうか。古い世代の物語をきっと、ずっと語り続けるのだろうか。「おじいちゃん、今、2020年だよ!?こんな世の中なんだよ!?」と教えてあげたらいいのだろうか。経済学講義をしなくてはいけないのか?サポステの話をしたらいいのだろうか?大切な家族なら、そうして喪失経験を一緒にしてあげることも必要なのか?家族とはなんだろうか?

もしかしたら、子供自身が「そのような家に生まれてきたのだ」ということをきちんと受け止めること(喪失経験)だ大切なのだ、ということもできる、、、、かもしれないと思うと、誰が悪いわけでもない。

一体、どうしたころだろう??????

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。

ある人は、「こどもとして未成熟」なままで、政治家になってしまったりもする。

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。
そのバランスをとるための政治が、偏っているのは、僕にはいただけない。
暴力であふれた世界は、僕にはいただけない。

僕はだから、これから、音楽をすることになるんだとおもう。
それが僕の中で、僕自身のバランスをとることなのだと、そうおもう。

結局、誰かが悪いのではない、自分自身をよくするしかない、ということなのだろう。

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悲嘆に対して、ネガティブな感情に対して、中村天風は様々な実践を説いた。
笑う、ということだ。

中村天風の実践哲学における「笑い」で食卓を見直す

笑顔に包まれた食卓、それだけでも、人は生きる意味を作り出せる。

本当に、ただそれだけでも。

笑いあえる仲間に出会えた人は、しあわせだ。

誰にでも実践できること。

お試しあれ!

オトノネひろげるシェアぼたん