『忘れる技術』岡野 憲一郎

『忘れる技術』岡野 憲一郎
忘れる技術

不安になったら振り向いて安心してまた探索を始めるとか、お母さんから安心をもらって内在化するといった言葉がよくわからなかった。

それは、意識しなく打てもキーボードが叩けるようになる、意識しなくても歩けるようになるのと同じように、記憶の中に、仕組みができるということだ、とわかった。(そんなことは書いてないが、それで説明できるからよし)

例えばキーボード。
「う」を打ちたい。
「う」ってどこだっけ?
ああこれこれ、どの指で押そうか?
人差し指にしよう。
押す。
を、

「う」を打ちたい。押す。
に省略できる。
間の記憶は、もう意識せずに、体が覚えていてくれる。

例えばお母さんからの安心。
嫌なことがあった。
不安になつた。
お母さんに離してみた。
眼差しをくれる。聞いてくれる。言葉をかけてくれる。
大丈夫だと思える。
を、

嫌なことがあった。けど大丈夫だと思える。
に短縮すること。
手続きを、省略できること。
無意識の中で、シミュレートしてしまうこと?

意識しているときは新皮質、無意識に落とされた部分は辺縁系で処理されるという。
お守りは、辺縁系にあるわけだ。

脳の中に、記憶に、しかるべき居場所をつくること。

これが忘れるということらしい。
決して消えるわけではない。もしかしたら、深く、刻まれるといっていいかもしれない。
ただその記憶に(怒りや悲しみに)居場所が与えられるということ。

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次の話題。

記憶には「頭の記憶」と「体の記憶」がある。
「体の記憶」は感情に関するもの。怖い、うれしい、ほがらか、悲しい、たのしい、そう感覚になるとき、身体はしらずと反応しています。動向が開いたり、汗がでたり、筋肉がほぐれたり、ひきつったり。
一方の「頭の記憶」はいつどこでなにが起こったか。どこになにがあったとか、どんな風景だったかとか、どんなことを話したとか、「体の記憶」にはならなかった記憶、情報だといえばわかりやすいでしょうか。
ちなみに「体の記憶」は扁桃核、「頭の記憶」は海馬で処理されるそうです。
扁桃体は好き嫌い、快不快を判断する場所ですね。

で、「体の記憶」と「頭の記憶」が一緒にならないで、どちらかになってしまうと、忘れられない記憶になってしまうという話。

え!!????

忘れられない記憶は、扁桃核と海馬の強調が崩れたとき、だと書かれています。

え!!!!????

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感動した出来事はよく記憶に残ります。(感情を伴って学ばないと、すぐ忘れる。暗記が不毛だという話)
それは扁桃体が強く反応する出来事に対して、扁桃体が海馬に「ちょっとこれ、大切だから覚えておいてよ!」と信号を送るそうです。

が!!!!!!

扁桃体があまりに強く反応してしまう場合、
あまりにも感情が揺れ動いた場合、海馬は、止まってしまう。

らしいのです。

信号が強すぎて、神経回路が壊れてしまうイメージでしょうか。

最後にこの本では忘れる技術が11くらい書かれている。
怒りは殴ると治るとか。
水を浴びると治るとか。
薬を飲むとか。
思考停止術を使うとか。
相手について知るとか。
話すとか。

これはひとつ、いいなぁとおもったのは、
与える人生を歩むこと。
何かを欲するのではなく、与えてみること。

あともう一つ。

訴えなくても、指摘はするべき。

法雨的手段に訴えるほど深刻な状況でなくても、相手から被った被害や不当さをなんらかの形で告発したくなる場面は、日常にいくらでもあります。たとえば職場で、皆の前で上司は軽い気持ちでも、受ける側にとってはかなりつらいものです。もしそれが限度を超えて、我慢できないときは、それをはっきりと相手に指摘するのも一つの方法です。

例えば某右舷を吐かれたら、「私がいたらなかったことは申し訳なく思っていますが、今の言い方はひじょうに不適切だと思います。その気持ちだけはお伝えしておきます」というのです。たとえ言っても、何も具体的に変わらないかもしれません。

しかしそれをはっきり言ったということで、あなたの気持ちはかなりしずまるでしょうし、上司への恨み、憎しみが忘れられないという悶々とした状態からは脱出できます。

これをしたら、あとで仕返しをされるのではないか、という不安が先立つとおもう。
日本ではいじめなど日常の一部だし、上司部下の関係ははっきり言って暴力の関係で成り立っているようなもの。

日本なら、影で愚痴ることで解消する文化があるかもしれない。
それだけ日本の歴史は暴力で支配されてきたということだろう。

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経済行動学の何かの本で、「しっぺがえし作戦」が有効だという話がある。
要するに、最初は「協調」する。相手が「裏切」ったらこちらも「裏切」る相手が「協調」したら、こちらも「協調」するというもの。

舐められない、きちんと威嚇する。
そういう姿勢が、ゲームの中では、有効だという。
現実の世界は、、、、どうなのだろう。

先にやったもん勝ち、というのが、一つの答えとして返ってくる。

「仕返し」はチームワークに有効とは言えない 「フリーライダー」を更生させる戦略はある?

これが競争(ビジネス)の原理である。
子育ての原理ではない。

オトノネひろげるシェアぼたん

【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

学ぶということはどういうことか。
本当に学ぶとは、自分の精神を未知の世界、危険にさらすことだ。

という一面があるように感じたので書き綴って見る。

封印されていた「事実」を知る。
感じられていなかった「本当の世界」を感じる。
そうした「知」が、人を不安にさせるかもしれない、ということだ。

日本の現実、本当の姿を知った人は、悲観せざるを得ないかもしれない。(喪失体験
絶望するかもしれない。
そうして死んでしまうかもしれない。

「知る」ということと同時に、「心をつくる」こと。
知行合一というが、僕は知心合一と言ってみたい。
でなければ、心は崩壊してしまう。。。。とおもった。
「知」のレベルは「心」が決める。というか、「知」はチカラだ。そのチカラを使うメタなチカラが、「心」だ。


心が大事。

だから逆に、心がしっかりしていなかったら、「学び」は薄っぺらくもたれかかる紙切れになってしまうだるおお。
心が、意味を、「知」の響きを感じられないからだ。
そう考えると、世の中で「知」と呼ばれているものは、大したことではないのだ。
ただの不安や欲求をかき乱す刺激なのだなとおもえてしまう。

だからオトノネ!笑

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僕が心を揺るがした記事はこれ。

人類とネアンデルタール人が想定よりも古くからセックスしていたことが判明
結構古い記事だ。

嫉妬がネアンデルタール人を絶滅に追いやった!
こっちの記事は、本当かどうかわからないけどいろんな情報が詰まっていて、刺激になる。書いた人の妄想、推測の部分が多い、。。。

で、僕はこういう疑問を持ってこれらの記事を読んだということ。
「人間の暴力性は、人間の本質なのか」

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かつて、「ホモ・サピエンスってネアンデルタール人に犯されてたんだってよ」と友達が言っていたのを覚えている。
それで、ネアンデルタール人が凶暴性をもっていた、暴力性がつよかった・・・・という前提で僕の思考は進む。
それでも死者を埋葬するという文化(?)があったらしいのだが。ネアンデルタール人の埋葬を改めて確認

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ネアンデルタール人は、狩がうまいとか、肉体的に強かった、という記述がある。
こういうところから、ネアンデルタール人→暴力性というイメージがでるのかも。
「ヒトは何故生き残ったのか 第二集の見どころ」
それが正しいとしよう。

また、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人よりも多様な音声言語が使えたという。
それも正しいとしよう。
ということは、ネアンデルタール人は埋葬の文化とかあったみたいだけど、文化を伝えるとかそういうものにはよわかったっぽい。
だからネアンデルタール人→新しい状況に耐えられない(暮らしを変更できない)
ホモ・サピエンスはなぜ生き残れたのか【ネアンデルタール人との違い】

ネアンデルタール人のネアンデルタール人らしさは、狩に行く男にあり、
ホモ・サピエンスのホモ・サピエンスらしさは、文化を子供に伝えたり、道具をつくる(?)女にある、としたら。。。

ネアンデルタールがお父さんで、ホモ・サピエンスがお母さんの組み合わせが最強だ。
もっとも環境に適応しやすかっただろう。

もっとも暴力的な男性が集団に必要な狩を成功させるために必要とされた。
またその男を組織化させるような平和的な女性が、集団を成立させるために必要とされた。

この記事にはこんなことが書いてある。

これまで、ヒトの起源であるホモ・サピエンスは、約6万年前にアフリカ大陸から移動を開始して世界各地に広がって行ったと考えられていました。その拡散の過程で、ホモ・サピエンスは当時まだ生存していたネアンデルタール人と交配を繰り返していたことが判明しています。これを裏付けるのが、現代のヒトが持つゲノムの中には、ネアンデルタール人に由来するDNAが1%から4%の割合で含まれているという事実です。なお、このDNAはヒトが持つ鬱(うつ)やニコチン中毒といった症状の元になっているとのこと。

ん?薬物とか酒とかタバコとかの依存症になるのは男性が多いってこういうこと?
男性の方が女性より、ネアンデルタール人のDNAが多いのかな???

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こうして妄想を進めると、人類の父であるネアンデルタール人はそもそも暴力性をもっており、
人類の母であるホモ・サピエンスは平和性(暴力性の対義語ってなんだっけ)をもっている、、という短絡的な人類像にいたる。
(この知識の不確かさはさておき)

そうすると、今の社会、というより人間の社会は、男性が動かしている限り平和にはならないというフェミニズムめいた考えになることもでき、さらにはかつて母系社会だったという話の意味もわかるかもしれない。中国の神話では女媧と伏犠が絡み合って世界を成り立たせている図がある。

また男と女の戦い(駆け引き)というものが、神話の世界にもよくある話。

一人の人間の中でも、この暴力性と平和性(いい言葉が浮かばない)が混ざっているとしたら。
一人の人間という宇宙のバランスを保つための心がなければ、どうして暴力性を止められるだろうか。

暴力も、平和も、人間の中に半分ずつ組み込まれている。
暴力は、人間の世界に、ある、のである。
平和も、人間の世界に、ある、のである。

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同じ話を、縄文人と弥生人でしてもいい。
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた

大和朝廷、現在の日本人のルーツとなる人たちは、日本の原住民、縄文人を制圧していった。(日本の歴史によれば)
南から、北へ、、、、先住民のたちは征服民の人たちから蝦夷の人と呼ばれていた。

なぜ、征服していったのか?
なぜ、人は、侵略するのか?
なぜ、人は争うのか?
平和に暮らせないのか?
平和とはなんなんだ!?

土着の人は、住んでたんだよ!
(侵略の歴史・暴力の歴史が、人類の歴史なのだろうか。実際、そんな歴史ばかりを学校で習う笑)

鬱=不安という感情の処理がうまくできず(言葉=心)、支配=コントロールという暴力に頼るしかなかったという、未熟な人間の姿が、今も、昔も、変わらないのではないかとおもってしまう。

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暴力性が、人間が生まれたときから刻まれている本性だとしたら。。。
この社会は、とても自然な状態であり、別に、泣いても笑っても、悲しんでも喜んでもなんでもない、ただただ、人間らしい姿なのだとおもえてしまう。暴力は人間の本性なのだと。支配は、人間の本性なのだと。児童虐待も、自殺も、DVも、人間の本性なのだと。

これが事実だとして、その事実を心はどう受け止めるか。
「だから、私もその暴力に加担しよう。暴力の中で生きよう」とおもうだろうか。
「だから、子どもにも暴力を持たせよう。子どもを、戦場に送ろう」とおもうだろうか。

「心」は「知」に耐えられるだろうか。

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もっと別のことを考えてもいいだろう。

女性が女性らしく生きる、ということは、男性と同じように働くこと、ではない、のではないか。
と僕はおもう。

男性と女性が、二つ合わさって、人間ができるのだから。

トランスジェンダーという言葉が最近話題になっているようだが。
それは、平和と暴力の境界、支配と自由の話なのかなと、僕はおもう。

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結局は女性の(男性)社会進出ではなく、
男性が女性社会を守るだけでいいのに。。。と僕は言葉を漏らして見みる。

女性社会とはなんだろうか?
人間として、女性という個性が尊重されることだろう。
子どもの個性は勝手に伸びると、とある先生はのたまったが、女性の個性は潰されていないか。

男性が、暴力があふれた世界で、女性を人間の個性として、捉え直してみたら、どうだろう。

お互いの世界を守る、お互いの本質を理解する。少なからず理解する、そういう世界があったらいいのだと思おもう。(だから男の人のオイタなことも、女の人は大目に見たらいいのかもしれないし、女の人のオイタなことも、男の人は大目に見たらいいのかな?)

心が大事。

現実を知るためにも。

心を育てよう。

暴力にさらされている命があることに、気づけるような心を。

自分の中にいる男性と女性が、自分の心の中で、平和な家庭を築けるような心を。

パーソナリティ特性の記事でも書いた気がするが、人間の半分は遺伝であり、半分は環境であるという。

富山県・もしくは日本という場所は、可能性の半分である環境がほとんど絶望的だとおもったら、もしそれが「現実」だとしたら、、、
その「知」に耐えるための「心」を、僕はもっているだろうか?
絶望の中で漂泊する人生を、送ってしまわないだろうか?

こういう戯言を、今日も長々と書いてしまって、全く申し訳なくおもう。

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子どもは環境に順応する天才だ。
お父さんお母さんの心の歪みにも順応する。
お父さんお母さんの硬直した、「現実」を受け付けない心にも順応する。
順応した結果、「立ち止まる」かもしれない。
「立ち止まる」ことができなかった、大人の代わりに。(大人は、失敗したのだ!)
「立ち止まる」とは、成績が落ちるとか、勉強しないとか、病気になるとか、グレルとかそういうものも含めて。

性をもって生まれてくる子供。
命をもって生まれてくる子供。

親という環境、大人という環境の中でもう一度生まれ直したいとおもう子供もいる。
それすら支配してしまうなら、親の名前を捨ててヒトラーを名乗るといい。

「小さなブッダ」
「小さなガンジー」が僕らを見つめている。

あなたを見つめている。

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ネット上で、悪口をいうことが流行っている。
いやいや、事実を書き綴っているだけかもしれないが、、怒りを感じる。
僕が富山高校とか高岡高校とか富山中部高校とかに限らず事実を伝えながらも、僕の感情もでてきてしまうからいたしかたない、といえばそうだが。

怒りを感じて、
怒りを発信して、それで、何か、いいことがあっただろうか。
なんども怒りを発信して、暮らしは豊かになっただろうか。

いろいろな事実、相手を非難する事実を見つけては投稿し、罵るような人がいる。

同じ事実を見つめる人でも、その刺激に対して心の反応はまちまちだ。
「知」は生き方を生み出さない。生き方を生み出すのは、「心」だ。

やっぱり、心が大事。

ワクチンか何かを発見した人は、たしか、「たまたま」ウィルスが死んでいく現象を目撃した。
日常的に誰でも目にする「事実」でも、それに気付けない人がいる。
気づくことができるような、自然な心のあり方すら、暴力によって、壊されてしまっていないか。

僕自身、しっかり感じなきゃなとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん