悲劇の舞台の上で踊る子どもたち

「学」という言葉が今の僕のテーマになっている。
人はなぜ学べないのか。
なぜ学ぼうとしないのか。
何が学びを阻害しているのか。
学べぬ人は、一生学べぬのか。

悪意と、どう関わればい良いのか。
悪意に満ちたこの世の中で。

「学び」が抑圧され、無視され、奪われ、殺されていくこの日本で。
「学び」が閉じ込められ、轡をはめられ、縛られている、この日本で。

ただただ、みんな、呑み込まれるのを、待っているのだ。
(飲み込まれるまで、踊るしかないのだろうか?せめて、この悲劇の中で与えられた、小さな小さな自分の場面だけは、自分を生きようと。

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隠蔽、欺瞞、立場、ドロドロ。闇。別に悲観することでもない、これが事実。悪意。ショッカー。魔王。
そして会社によくあるパターン。
忙しく働いて、お金を稼いで、子供の魂を守れるかどうか。
習い事にいかせて、テスト勉強をさせて、子供の魂を守れるのか。


これは、学校だけの話ではない。
家庭でも同じだ。
会社でも同じだ。

「なぜ、18年間、逃げなかったのか」
「なぜ、過労死するまでやめられなかったのか」
「学校に行きたくない」という声
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オトノネとおとのねさんの関係

今でも覚えている。ある日突然、英語の辞書を引いているとき、手が止まった。窓際の、教室の真ん中くらいの席だった。私は鉛筆を置き、立ち止まった。私は「無意味さ」「生きる意味」を考えることになった。それを書き連ねて今もどこかにデータとして残されている膨大な文字たちのほとんどは、命という現象がただ私の中で鈍く輝いていることを表しているにすぎなかった。と、少したってから気がついた。「生きる無意味さ」と「死ぬ無意味さ」のなかで生きているのか死んでいるのかわからない妄想の世界をしばらくの間、とぼとぼと歩いていた。私はある時ふと、何かの拍子で「生きるというのはただの現象なのだ」という言葉でそれを理解した。生きるとはなんであろうか?それはただ火が燃えているのと同じ、現象なのだ。どうして火は燃えるのか、という問いの答えの果てにあるものは、宇宙である。夜、空を見上げれば天上に見える、星空は、宇宙である。私は宇宙の中でただただその光が消えるまで燃えているだけなのだったと、私は突然、感じられるようになったのである。

私は「意味」を探していた。けどその答えは、私の探していた場所には見つからず、突然どこからかふっと湧いてきたのか、わからない。とにかくやってきた。やってきた言葉を育てて、自分サイズにしていくのに、またまだ時間がかかりそうだ。命という現象を、身体化することに、私はだいぶ手間取っている。

「どうして生きるのか」「生きる意味とはなにか」「生きる価値とはなにか」という問いの答えが全くの死角から、世界のどこからかわからぬ場所からやってきた。同じような問いを、今度はされる側になってみよう。「どうして人を殺したらいけないの?」と子どもに聞かれたら僕はなんと答えるだろうか。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いが発せられる現象が表しているものは何か、という問いの方が、大切なのではないかと私はおもう。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いを子供の心に生み出した社会のあり方、人間関係、子ども時代が、この問いを生み出した。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いに「人は一人では…」とか「自己は他者がいるから…」などと回答することは、不安げに差し出された眼差しに、平手打ちを食らわせるようなものだ。この問いを、言葉を、心を、すくい上げて目の前に見せてくれたその子の魂を抱きしめる他に、何ができるだろうか。

このように考えられるようになったのも、言葉の背景にある心の存在、言葉に含有されない心の不思議さを僕が知ることになったからだともう。僕がかつてそうであったように、言葉の背景にある心の世界を感じられない人がたくさんいる。僕がかつてそうであったように。みんなそのうち気づけるかな、とおもうこともできるが、どうやら、死ぬまで気づけなさそうな人たちがたくさんいるのだと、最近になって思い始めた。子どもたちが、そのおかげで苦しんでいる。心が擦り切れている。平手打ちを食らわされている。僕に何ができるだろうか?心を失った親から離れられない子どもに?学校で暴力を受けている子どもに?

そこで僕は思う。何かできるか、と思うことが、厚かましいのではないか。子どもは子どもで、生きている。僕は僕の命を輝かせればいい。生きるという現象を、強めていけばいい。風除けが必要なくらい小さな火だったのが、強くなって、山火事くらいになったら、みんなの命も燃え始めるかもしれない。今はそうおもって、薪を集めているところだと、自分で言い聞かせている。だがそれは自分の無力さを、小ささを隠すための私の心の弱さだった。自己欺瞞であった。

僕は小さい。小さいなりに音を出していこう。それが私にとっての、オトノネである。
オトノネという実験劇場で、僕はぼくなりに、しばらくやってみようとおもう。

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