【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

最近、問い合わせがあった。
学校で、先生にいじめられた子の話だ。
もちろん、よくある話で、社会的に、組織的に、合法的にいじめられる。

だからそれは「いじめ」ではない。
どれだけ富山県の外にきたお母さんが富山県で「いじめ」に合おうとも、富山県の中では、「いじめ」は「文化」であり「常識」であり「自然」であり「正しいこと」としてただただ、したがって行くしかない、みたいな、諦めの世界に人を誘う。

いじめに対して、このような大人の姿勢から子供が何を学ぶだろうか。
「いじめられたら、諦める」

「諦める?」

それが何を表しているのか。
「生きる」ことを意味しているのだろうか。それとも「死なない」ことを表しているのだろうか。
「命」を握りつぶすことを意味しているのだろうか。
それとも、「命」が輝くことを意味しているのだろうか。

もしくはいじめられたら、いじめた人に「攻撃する(いじめ返す)」大人もいるだろう。組織的に、計画的にいじめ返す人がいる。
いじめられた!といって、他人を攻撃することを意図した悪意ある大人もいる。

そしてもう相手が反撃してこれないように、徹底的に、潰す。(体裁的には相手が勝手に潰れるようにも見える)
多くの組織が、全体主義的な「ハラスメント」を別の組織に仕掛けている、といえるだろうか。あー頭が回らない。

大人の社会そのもの、と考えてもいい。

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

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ある子は、遊びに誘った同級生から「今日は○○ちゃんとあそぶから、あなたとは遊ばない」と言われたらしい。
これを、いじめ、ととることだってできるし、ただの心の構造、とみることもできる。
「遊ぶとは、誰かと契約関係を結ぶようなものである」という心があるかもしれないし、
「その子の“占有物”にならなければ、“遊ぶ”ことにはならない」という心があるのかもしれない(爆)。

わからない。

とにかく、

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

いじめは問題ではない、「いじめ」という現象が立ち現れたときに、その「心」とどう関わるかが問題なのだよ。
なぜなら、いじめは、なくならないからだ。

いじめとどうかかわる?

本当は、自分自身が、自分をいじめているのかもしれない。
本当は、お母さんから、いじめられているのかもしれない。

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

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生きる技法
『生きる技法』ではこれに対してズバッと方略を提示する。

「破壊的構え」の人を、バッサリ切るということだ。
(ちなみにではあるがメンタリストのダイゴさんも同じようにいう)

あまりにも手ごわい、心が追いつかない脅威に対しては、心を守るために逃げる、関わらないという選択肢が有効だと僕も思う。
僕自身が、自分の心を守り育てるために環境を選び続けて来た。

バッサリ切る、といっても安冨さんは、自分に余裕があるなら相手が「創造的構え」をとれるような姿勢を取るのが、「学」としては理想的だというが。
これは並大抵のことではない。

僕自身も、坂口安吾のいうように、「堕ち切る」ことによってしか、学びのプロセスを始動できない、とおもっている。
もしくは、「破壊的な人」に構うことにエネルギーを注ぐより、自分が「創造的な人」となって「創造的な人」と人間関係をつくることのほうが、第一優先だ、といってもいい。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

破壊的な構えをもった人は、欺瞞にあふれていて、対話というものができない。
何かにとらわれていて、心を開くことがない。ただ情報処理を行い、事前にプログラムされたシステムを発動させるだけの機械だ。
巧妙に、相手の心につけこみ、破壊するウィルスだ。

学校に蔓延している。
会社に蔓延している。
時として、家庭にも、蔓延している。

いじめをハラスメントとしてみれば、世の中に、いじめのない場所を探す方が難しい。(そんな場所をつくることが、「生きる」ためには大切になってくる)

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経済学の船出
『経済学の船出』安冨歩

この本では、「貨幣経済は縁切りによって安定する」「貨幣経済はもともと安定と不安定を繰り返す複雑系である」「貨幣は人間の関係性をよくする手段にもなるが、ハラスメントを引き起こす道具にもなる」ということが書かれている。
ざっくり笑それでいいのかな??

いじめを安冨歩さんのいう「ハラスメント」だとしてみよう。

以下の文章は、安冨さんはなんも喋っていない。
僕が考えたことなのであしからず。

ーー

私たちは貨幣を用いたいじめの加害者でもある。
「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。)
「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。

これは、いじめではないのか。

私たちは、マクドナルドにいくことで、家庭教師のトライ、あすなろを利用することで、もしくは「塾」に行くことで、または百円ショップを使うことで、いじめに加担している。
見て見ぬ振りをしている、傍観者になっている、それもいじめの一部だとしたら、立派ないじめであるし、卑しめでもある。

といってしまってもいいのだろうか。

「限りある資源」をどうつかうか(どう減らすか)。
生きるために…

という方向と

「限りある資源」をどう増やすか。
生きるために…

という方向があるだろう。

すると、お金はテクノロジーであり、どう使うか、使い方次第では、人間の精神を規定してしまうものになる、ということは簡単に想像がつく。
機械やテクノロジーによって、人間のあり方はだいぶ、制約をうけるようになった。

貨幣にも、その働きがある、ということを、思い出した方が良さそうだ。
僕自身、常々、思い出せずに暮らしてしまっている笑

工場で作られるような食べ物を買うことは、コンビニ弁当を買って暮らすことは、なるほど、便利かもしれない。カップ麺で暮らす人もいるだろう。
もし全員がカップ麺生活をし始めたら?きっと誰も、お手製のラーメンを食べられなくなってしまうかもしれない。「小麦粉」から自分で作らない限りは・・・極端な話だが。

安いものを手に入れるのと同時に、「阻害される人」がでてくる。みんなカップ麺だけ食べてたら、生の麺をつくる人がいなくなってしまう。「どうせみんなカップ麺食べるんだ。。」といって、いじめ抜かれていると、想像してみるとどうだろうか。
「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。)
「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。

「いじめられている人」の存在に気がつかないなんて、普通のことだし、まさか自分が加害者だなんておもうことなどそうそうない。
はたまた、「すべての人のことを知ろうとしたら、感じようとしたら、頭が狂ってしまう」といわれたら、なるほどと思える。

いじめは、普通の出来事なのだ。
自然な出来事なのだ。

いくら「牛肉は地球を壊すから食べちゃダメ!」といわれても、食べるのだ。
いやいや、食べる回数くらいは減らせるだろうが・・・

人間的な、出来事なのだ。
(SDGsは開発国の良心の呵責を埋める免罪符として機能している側面がある)

それこそ、「限りある人間」という存在をどう生かすか、どうやってこの情けないほどに「有限」な人間が生きていけるのか、はっきりとした態度がとれるようになったら、すこしは楽になるだろうとおもう。

その一つの考え方が、

そもそも「生きる」とはどういうことか。
という視点になるんだろうと、私は思うのだが。それを安冨さんは「学」に求めるのだし、「神秘」に求めるているのだろう。

破壊と創造の神シヴァに、聞いてみようか?笑

「死なない」ことを夢見るのではなく、「生きる」ことを夢見てみよう。
どうもよのなか、大人たちは「死なない」ことに全力を尽くしているような気がして、危うい。
否定形の夢は、否定を取った形で実現するらしいからね!(『生きる技法』)

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先生からも同級生からもいじめられている子のお母さんは、「学校に行く意味はなんですか」と聞いてくれた。

すごくいい質問だなとおもった。

僕の答えはこうだ。

「世の中、いじめなんて当たり前だ。その中で、どう生きるか、それを学ぶために学校がある。休むでもいい。言い返してみるでもいい。素直に従って隷属するのでもいい。やってみて、試して、心に感じたことをきちんと抱きしめて、そうしてじゃぁどうしようかと、心に聞いて見てほしい。休んでもいい。行かなくてもいい。行ってもいい。どうでもいい笑ただお母さんが、もしくは誰かが、その子の学びのプロセスを支えてあげることが、大切です。学校は何かを学びに行くところです。学べなければ意味がありません。今の状態で、何を学びますか?今、お子さんにとって、学校は、意味のないところのように私は感じます。もう学ぶことは学び尽くしたのか、学ぼうにも学べない状態なのか、わかりませんが。」

「いじめ」は「自然」。
「けんか」と同じ。

「いじめ」は「自然」。
「すれちがい」と同じ。

「いじめ」は「自然」。
「嫌な人」がいるのと同じ。

「いじめ」は「自然」。
世の中が、暴力で満ち溢れているのと同じ。

「いじめ」は「自然」。
暴力的な人が、組織のトップになりやすいのだから。

「いじめ」は「自然」。
だれもが劣等感や妬みや怒りや慢心をもって生きている。

決して、「いじめ」は、なくならない。
大人になったら、思う存分、いじめられるのだし。(思う存分、いじめる人もいるということ)
それにどう向き合うのか、向き合わないのか、かわすのか、つきあうのか、、、、

ただし、いじめはコミュニケーションの一つのあり方であって、反応次第では、関係が変わるかもしれない。
暴力、支配、干渉、過保護、人間疎外、自己疎外、そういったことが「自然」な世界で人とどう関係して行くか。自分をどう守って行くか。

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「諦めて」学校に適応できるように、心を「つくりかえる」のでもいい、「何くそ」とおもって、学校の外で「創造的な」人間関係をつくるのに心を注いでもいい。
だがもし、学校という場所の狂気をきちんと認識して、学習の場として「もう無理」のサインを子どもが出したら、それは、きちんと受け取る以外に、その子の魂を守ることはできない。

その子自身が、その子でしかない、その子だからつくりあげる「心」そのものが、その子です。
「学」そのものが、その子です。

まだ学校の先生に、いじめた子に、何か働きかけられそうなのであれば、働きかけてもいい。
「だめだこりゃ」とあきらめられるまでやってもいい。
(ただ本当に学びの回路がないのか、それとも伝え方を強くしたり、伝え方を変えたらいいのかは、判断がつかない、つきにくいのが難点)

一方で、富山県の人たちの多くは「学校に、いけたらいいわね」とか「行く」ことが前提にあるらしい。
しかもそこにはコミュニケーションが介在しない。学校に、合わせる、というのが前提にあるらしい。
そういう呪文、呪縛、呪いから、身を守る方法をお母さん自身が学ぶ機会を、お子さんは与えてくれたのだ、とおもう。

破壊的な構えをする人は、学ぶことがない。
富山県の学校は基本、破壊的だ。
従属を求める。
ただ破壊兵器のように、相手を支配するために振る舞う。
(それは富山県の「文化」であって、「自然」であり「正常」であるがゆえに、恐ろしい)
富山のメンタルヘルスと「怪獣」
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。高岡高校の生徒はなぜ自殺したのか。
【ある古老の語る仮説】富山県で共働きが多い理由。
富山県で共働きが多い理由を考える。

このような関係性から何かを学び取るには、、少なくとも、学びの「フィードバック」をくれる人が必要になる。
「フィードバック」の機構それ自体を変えるような学びは、学びあえる人がいなければ、つくられない。
その大切な存在が、お母さんであると僕は信じている。(友達でもいいのだが・・・そういう友達とめぐりあえる子はしあわせだ)
子ども時代に、母親からこのような学びを替えれなかった場合、大人になって、この宿題に取り組むことになる。
コドモとして未成熟なオトナ

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電話をくれたお母さんは「安心した」といっていた。
自分の感覚がおかしいんじゃないかと、もんもんとしていたのだ。周りの人が狂っているので。

オトノネに電話をしただけで、世界が変わる。
オトノネは、そんな場所です。

学習の回路が開いた方でなければ、なかなか利用することは、難しいでしょう。

学習の回路が開けずに、身体的に、もしくは心的に、死んでしまう人が、たくさんいます。
そういう稀有な人のための、オトノネです。

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稀有な人が、富山で育った人にも、県外で育った人にもいる。
遺伝が50、環境が50という世界で、ひとりひとりが個性ある心をつくっていく。

狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。

とある発達心理学者は「発達とは、鈍感になっていくことである」と言った。
脳は「効率化」のために、全ての音を聞き取れていた赤ん坊を、学習によって限られた音しか聞き取れない大人にする。
世界から与えられる多くのメッセージを、切り刻んで、部分的にしてしまう。
社会は、文化は、その感じ方、モノの見方を教える装置だ。「効率的に」私たちが暮らせるように、人を、狂わせる。

その装置の中で悶え苦しむ魂がある。
僕自身がそうだし、同じように苦しむ人がいたら、オトノネに遊びにきたらいい。

狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。

それこそ、神秘に委ねられた、ありのままの世界として受け取るしかない、暗黙の次元に属する問いであろう。

『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

オトノネひろげるシェアぼたん