クレーン動作・クレーン現象の心

今、おとのねさんは「0歳から思春期までの子供の発達」を赤ちゃんの「気持ち」を代弁する「赤ちゃんの日記」をつくろうと思っています。

お母さんに「ねぇねぇ、このころの僕はね、こんな気持ちで、こういうことをしてるんだよ。だからね・・・」と、メッセージを伝える、赤ちゃんの日記のように、お母さんに読んでほしい。そして「ああ、今日、あなたがここまで成長したことに気がついたよ!」と書き込める、交換ノートのような。

名前、何がいいかな。

いやそれよりも内容笑 

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で、ハンドリガードのことを書こうとして、それが心の成長とどんな関係があるか書こうとして、クレーン現象というものを思い出した。

例えばこのページで紹介されているクレーン現象は下記のよう。

私の手を握る

お菓子の傍まで連れて行く

私の手を道具のように使い、お菓子を開けさせようとする

ああ、そうか、クレーン動作って、指差しもできず、言葉もでず、もしくは目を見れなくて安心が受け取れなくて怖い、だけど「したい!」という自己意識が強くなって、、、、「僕じゃ、開けられない、開けてもらおう!」「掴む自信がないな、遠いし。あ、たしか、この便利な腕は、僕が欲しいものを手に入れてくれるぞ!」

ということかな?
ある意味、他者をよく理解しているではないか!

自己の意識と身体の発達のバランスがとれなくなったとき起きるのが、クレーン動作のようだ。

クレーン現象が起きる年齢がとーってもまちまちらしいのもそのせいかもしれない。

自閉症の代名詞のように、現場では思われているが、実は、そうではないということ。

指差しを自分でする代わりに、相手にさせるってどういうことだろう?
指差しができないわけではないよね?

クレーンいろいろ

目を合わせずに、同意なしに、クレーンをする子どもがいたら???

さぁ、どうしましょうか。

こっちのブログおもしろいですね。
【発達障害】クレーン現象、逆さバイバイ、オウム返し…「自閉症児」の特徴と親がとりたい行動

言葉にもクレーン現象がある?らしい。

逆さバイバイやクレーン現象

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児童発達支援、放課後ディサービス。
障害児福祉、児童福祉に参入する組織の中にはお金儲けをするだけの事業所もある。
発達知能検査のための「テスト対策」のプログラムを続ける事業所もある。(これやって、あれやって、次はこれ!という事業所)

本当に大切なことは、その子の状況を、その子の世界を周りの人が理解して、受け止めていくことじゃないかとおもう。
言葉でいったら簡単だけど。

とにかく、お母さんが、子どもの姿に気がつくこと!(診断名に騙されないこと)
子どもの心に気がつくこと!ということで、オトノネではこのプログラムを用意しています。

認定NPO法人日本ポーテージ協会HP

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しあわせって何?ーICF国際生活分類の答えー学校についていけなくなった子のためにできること

ICFはWHOが定めた「人間の生活機能と障害に関する状況を記述することを目的とした分類」だ。
ICFの構成要素間の相互作用

各要素の定義
心身機能 :身体系の生理的機能(心理的機能を含む)
身体構造 :器官、肢体とその構成部分などの、身体の解剖学的部分
活動 :課題や行為の個人による遂行
参加 : 生活・人生場面への関わり
環境因子 : 人々が生活し,人生を送っている物的・社会的・態度的環境
個人因子 : 個人の人生や生活の特別な背景

簡単に見てみよう。

大切なのは、「健康状態」である。
「健康状態」は「心的機能・身体構造」と「活動」と「参加」が影響する。
「心的機能・身体構造」と「活動」と「参加」は「環境因子」と「個人因子」が影響する。

well being(よい存在・健全な存在)でいるためには、
自己の充実「活動」
他者との関わり「参加」が大切だということだ。

これが、学校の授業の中で、どれだけ保証されているのか。

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この分類は「障害者の生活状況」を理解する枠組みとしてつくられた。
学校で「障害」に阻まれて進んでいないが、学年だけは進んでいく子どもたちにも使える枠組みだ。

障害は、人が作り出すもの。

学校の中でつくられる障害、お父さんお母さんが、正しく「学校の仕組み」を理解して、お父さんお母さんが、環境因子を変えてあげてください。
お子さんの「個人因子」を変えようとするのは、間違いです。

はっきり言います。
環境を変えましょう。

ちなみに、
お父さんお母さんも、環境の一部です。

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脳はゆっくり変わっても、心は大きく、突然、変わる。

#8 ジェロマガジン ~キム・ピークに学ぶ~

自閉症と言われる人も、人との関わり合いの中で、自立していく。
人の中で喜びを感じ、「役割」を演じ、心を開いていく。

天の才、しあわせの種

もし彼が、生涯、施設の中に閉じ込められていたら。
学校の中に閉じ込められていたら。

誰も、彼を、見つけてくれなかっただろう。

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鳥は、脳が発達するわけではないのだが。
心の使い方で、いろんなことが、できるようになる。

心が大事。

動物にも、心がある。

植物にも、心がある。

とおもうのは、僕だけだろうか。

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遺伝か環境か、テクノロジーか


ディスレクシア

読み書き障害は完全に先天的だという。
文字が浮き上がったり消えたり、ゆがんだりする。
文字を書くにしても、線に沿ってかけなかったり、鏡文字になったりする。

タブレットによって、「できないこと」を補って暮らせるようになった。
努力した分だけ、報われる、こうして開かれて行った心がある。

テクノロジーをつかうのは支援になるだろう。
で、それで?子供が、何を学ぶか。

スマホを与える。
それで?
子供は、何を学ぶか。
子供は何が、学べなくなるのか。

年齢を重ねると、認知能力とともに、子ども自身が「作戦」をたてたり、実行しながら適応することができる。
個人レベルで、改善がないわけがない。
ただそれが、相対評価、WISCなどで測るとなると「争い」になるので、改善しないようにみえているだけである。
お友達が発達障害だったら?子どもに教えておきたい、発達障害のとらえ方と接し方

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なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

だれもが、プロセスの中にいる。
いつ起きるかわからない心の動きで、人生が変わって行ったり、同じことを繰り返したりを繰り返しながら、進んでいく。

オトノネにきて、新しい心の動きが、人生を新しいプロセスに向かわせるように変わっていく人もいる。
いろんな人がいる。

ぐるぐるしながら、進んでいく。
いろんな人に出会いながら、人と出会うことで、変わっていく。

僕もそうしてオトノネを始めることになった。
人との出会いと同じくらい、お母さんにとっては「子ども」と出会うことは、とってもとっても、大切なことだとおもう。
誰かと一緒にいるから、何かが起きる。

近くにいる、誰かの心を大切にしているだろうか。

ーーーーーーーーーー

心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。

こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。

「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。

それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。

また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。

「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。
無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。

その時は、役に立った。
困難を切り抜ける作戦として、有効だった。

しかし、
自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。

「何か変だ・・・」

ーーーーー

この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。

心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。

「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。
カウンセラーは、そのお手伝いをする。

本人が気がつかないような身体のメッセージがある。
少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。

自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。
そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。

こう語りかける。
「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。

「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。
けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい?
怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。

子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。
自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。

「大丈夫だよ、ほら、だって、今、あなたに僕の姿がみえるでしょう。僕のことを抱きしめてくれているでしょう。僕を、ちゃんと感じてくれているでしょう?」

子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。(それは子ども時代、に限ったことではないが。)
けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。
大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君(もしくは、大人になった後の、あの時の、あなた)を、おもいやれる。

だから、大丈夫だ。

悲しみを暖かく抱きしめる、今の私と、かつて悲しみにくれていた私が、出会う。

自分を抱きしめてみてもいい。
大切な誰かを抱きしめてみてもいい。

自分の心と、相手(自分自身)の心、を感じられたら、きっと、何かが動き出す。

動いていく心を感じてみよう。

ーーーー

無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。
感じること、を通じて、子どもの時の自分(もしくは大人になってからの、あの時の自分)、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。

感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。

そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか?
自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか?
(あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?繰り返される「自動思考」で頭がパンクしていないだろうか?)

「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。
今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・

「防衛」とは「感じないようにする」ことだ。
本当の自分を感じないようにして、誰かのために命を捧げることも、「防衛」といえる。
心を安定させるために、「その時」選んだ、最適解。

だから、防衛を解いて、感じることは、ある意味とてもつらいことだ。

一人では、とてもやっていけないくらい、つらいこと。

だから、、、、
だから、一人でがんばれる!とはおもってほしくない。

ーーーーーーー

自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。
もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。

そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。
これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。

「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。
「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。

もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。

目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。
君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。

本当にいるんだろうか?

ーーーーーー

多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。
それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。
「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。
「怒り」に気がつかない。

「怒り」にもいろんな名前がある。
妬み、憎しみ、悲しみ、恨み、、、、、

怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。
自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせることをしている親がいる。

子どもは、お父さん、お母さんが好きだから、

満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする人がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。

けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。
同じ人生を歩かせようとしてはいないか。

子どもはやさしい。
お父さん、お母さんを愛している。
だから、命をかけて、命を燃やして、身を捧げて、応えようとしているかもしれない。
その子の、一番大切なものを、捧げていく。

それは本当に「その子」のためだろうか。

子どもが大切な「今」を差し出している。
大人は、そんな子どもの心に、どんな「今」を差し出せるだろうか。
大切なものを、差し出せるだろうか。

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こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の民間学童保育

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悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。
「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」

そうして悲しみを自分の一部にすること。

少しずつでも、少しずつでも、、、、

ーーーーー

痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。
苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。

弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。
(これを心理学用語で投影といいます。別に悪いことではありません。そういう現象を、投影といっているだけです)

嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。

情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。
心に向き合う時間を大切にしたい。

人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。
愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。

ーーーーー

古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。
個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。
「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」

という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。

人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。
輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。
それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。

人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。
「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」

痛みを感じないわけではない。
痛みと寄り添えるようになること。
痛みを抱きしめられるようになること。

それだけで、プロセスは動き出す。

大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。
学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。

心が大事。

ーーーーー

自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。

だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。
多くの受験生にとって、「やってたことをやる」習慣や、「できる自分」へのプライドがある。

「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。
「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。

大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。

それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。
思春期だと、おもっている。

もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。

先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。
僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

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障害という言葉が生まれてくる場所

障害はなくならないかもしれない、けど、仲間として一緒に暮らす人との出会いがあれば、育っていくものがある。
それはいわゆる「障害児」も「健常児」も同じだ。
(今では「非定型発達児」「定型発達児」と呼ばれるようになった。僕もそのうち完全に切り替えよう)

例えば僕は韓国に行くときにアニョハセヨも知らなかった。
そこで3年間、劇団のみんなと一緒に暮らした。
ある日僕が聞いた「僕の韓国語、不自然に聞こえるんですか?」
そこでネ・チングは答えた。「コミュニケーションができている方が大事でしょ?すごいことだよ。君が今僕らと話をして、ご飯を食べて、笑えていることは」

ないものを障害ということもできる。
相手がそれを「障害」と思っていなければ障害ではない。と考えたら少しは楽にならないだろうか。
(そういう人と巡り会えたときに、生まれるものもあるだろう)

それはニュートン的に、絶対的にそこにある「障害」ではない。
相対的で、振り向くまで歩かないかわからないような、観測不可能な障害のように、僕には思える。

もし学校で困っている子がいたら、先生にこう聞いてみるのはどうだろう?
「先生は、ただの一度でも、うちの子と笑い合ったことがありますか?」
ない、と答えたら、もうその学校からは、少なくともその先生からは離れた方がいいのかもしれない。
その先生は、学校の余裕のなさに、先生の課題の海で溺れているのかもしれない。(学校の課題に先生も苦しめられている)

その学校は、「障害」が生まれる場所かもしれない。
発達障害を生み出すのは「人」であって、「場所」であって、その子自身ではない。
だから、場所を選べばいい。障害がない場所を。
その場所でこそ、生まれてくる、育てられる種がある。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。
忙しない社会で、生きる場所を探す、一緒に生きる人と出会うというごく当たり前のことを、
小さい時からやっていく、それだけのことだ、と言ってしまえば、残酷だろうか。

ーーーーーーー

学校で先生たちは生徒と、生徒は先生たちとコミュニケーションをしているだろうか。
非言語でも、言語でも。
そういうゆとりが、学校にあるだろうか。
ゆとりは「教育」のために必要ではない。コミュニケーションのために、「人間」のために絶対必要なのだ。
そういう先生と出会い、時間と、場所を見つけに行ける子はしあわせだ。
学校の中にも、休める場所はある。
先生のための学校ではない。
生徒のために学校がある。
だから、どんどん休んでもいい。
(ただしそれは、学校の先生の“機嫌”をそこないかねないことは、知っておいたほうがいい)

さて、疑問がでてきた。
先天的に笑うチカラがない、「笑うことのできない」人間が、いるのかどうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)

「ああすればこうなる」という世界に生きていた。
心がなんなのか、ぼんやりとも、わかっていなかった。

「こうなりたいんでしょ?じゃぁこうしよう」といって、無理をさせていた。
「この子の学力をあげよう。そうしたらこの課題をこうやってやらせて…」ハードルを下げるアプローチは今でも間違っていないとおもうが、やっぱり「やらせる」ことをしていた。

そして、「この方法は、正しいのに、できないのは、生徒がいけないんだ!努力が足りない!」とおもっていた。
同時に「もっといい方法はないのか!?」と「やらせる」ことを研究したり。

行為レベルで言葉を使っていた。
行為レベルで人と関わっていた。
自分に対しても、行為レベルで関わっていた。

いろんな出来事があった。
繰り返してきた。
何度も、人の心を壊してきただろう。
「堕落」を繰り返した。

その度に、浮き上がるたびに、新しい旅を始めた。
「自然」という旅だったり。
「演劇」という旅だったり。
「子ども」という旅だったり。

その中で、「物語」「民謡」「踊り」「芸術家」「カウンセリング」「心理学」「ヨガ」「ストレッチ」「歴史」いろんなことを学んだ。

旅をしながら、周り周り、巡りながら(何度も失敗をしながら)今も、繰り返しながら、ようやく、心を大事にすることを、学び始めている。

人の成長とは、発達とは、すぐにどうこうなるものでもない。
「ああして、こうして、こうする」ということを考えていたらみられなくなる、大切な「今」がある。
そしてその「今」に気がつくためには、いつも誰かの言葉があったし、出来事があったし、何よりもそれらを感じる「時間」があった。

「時間」は、大切にしたい。
焦っても、どうにもならないことがある。

こう言う場合、焦ってもダメだ!もがいたら沈んでいくだけだ!ということを、まずは学んでもいい。
(それを学ぶのが、大学の合格発表の日だったりする。それが模試の結果だったりする。突然やってくる。DVをうけてボロボロになって、何度も試みて、やっぱりダメで、「違う生き方をしよう」という日が、やってくる)

ーーーーーーー

「あー、これからどうなるんだろう…」とおもって友達に話すと
「どうすんのお前笑」とかいう適当な返事や
「おもしろそうだからそのまま行けば?」という何か逆に誇らしくなる返事や(いやもっと役に立つ返事くれよと当時はおもっていた笑)
「小説家になったら?」というちょっと気になる返事がでてきたり。

いくらもがいても、足掻いても、焦っても、わからないときはわからない。
わからないなりに、「違和感」を感じたまま、抱えたまま、明日を迎え続けて来た。

高校中退をした時から、不登校になった時から、いまだに僕は同じ「違和感」を抱えている。
それでもまだわからない。

そのくらい長い、ゆっくりした時間を感じられるようになったのも、「ある出来事」を境目にしてだった。
そういう日がくるらしい。

ーーーーーーー

突然やってくる日を、大切にしたい。
それはいつやってくるかわからない。

オトノネは出来事を起こそうとは思わない。
外ででてきた出来事を心できちんと感じ、フィードバックして、いつやってくるかわからない出来事に備える感じ。
(狙ってその出来事を起こす「導く」ことをまずはやってみるケースももちろんある)

ーーーーーーーーーー

「仕組まない」ことで生まれる不思議があり、「仕組まない」ことで出会える心がある。
(芸術家は、生まれたもの感じたものを身体化、具現化する仕事であり、生まれたものを大切にしながら育てることをする)

僕はそれを大切にしたい。
(だからオトノネに来た人は困るらしい。「何をしてくれる場所なのかわからない」と)

人には誰しも、発達の段階、人生の曲がりくねった道の上にあり、僕が関われるのはほんのその一部だ。
到底、最後まで道案内することなどできないし、案内できるほど多くの道を知らない。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

だからもし、おとのねさんに会ってみて、話をしてみて、感じてもらって、僕ができる小さなことが、少しでもその人のチカラになると感じてくれたら、お付き合いをしたいとおもう。

例えば。

「◯◯ができない」
「私は◯◯」

という言葉を生み出す心を、僕は感じようとしている。
縛られているものから、少しでも抜け出して、心を自由にして、今置かれている状況の中で、精一杯、チカラを使って先に進んでほしい。
神経は、記憶している。だけど、心は、成長したいとおもっている。
僕自身が、今、そのプロセスの中にいる。

なにしろ、時間がかかるものだ。
定期テスト対策なんて、なんともまぁ、この悠々とした時間に比べたら、小さなことのように僕はおもう。
その小さなことの繰り返しが、人の心をつくるのだろうけれど。(高校生になっても定期テストでピリピリしている。定期テストという呪いだ。)

頭ではわかっていても、やっぱり定期テスト勉強に勤しんでしまわないと心が落ち着かない子もいる。
それでもいい。なにしろ、定期テストは、小さなことだから。

けどそれで大切な「時間」が減ってしまうとしたら、困ってしまうかもしれない。

時間は減るものではないのかもしれない。
ただ悠々として流れているものかもしれない。

もしその「時間」が課題・宿題というバケモノの姿をして牙をむいて、台風のように、終わりのない嵐のように君に襲いかかっているとしたら?
君は呪文を唱えて、「時間」を元の姿に戻してあげるのもいいかもしれない。

本当に大切なことは、本当に大切なものは、内側から、やってくる。
外から与えられるものではない。

もしかしたら、今君の中に生まれた、気持ちが、「大切なこと」を知っているかもしれない。
聞いてみてもいい。その子はきっと悠々とした「時間」の中にいる。

その子の「時間」に入っていけば、きっと、話ができるはずだ。

ーーーーーーーー

Do it! Doit!と英語で書いてみる。
綴りが、Idiot(馬鹿者)と似ているなぁとおもった。

オトノネひろげるシェアぼたん

言いたいことが言えない。

大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

小さい頃は、「さかな」が「たかな」になったりする。
言いたいことがあるけど、まだ、「口」がついて行っていない。
もう少し、時間がたったら、食べ物をちゃんと食べて、いろんな音を出してみながら、遊びながら、「さかな」といえるようになる。

言いたいことが言えない。

と、一言いっても。
世の中には「もう、いわなくていいや」ということもたくさんある。
言葉が出るのが遅い子は、そんな気持ちではないのかとおもうこともある。

お母さんが全部守ってくれるし!
遊ばせてくれないし!楽しくないし!
なんかもう無理無理!なんでこんな世の中生きにくいのかな?

場面緘黙という言葉もある。

言葉のチカラを僕自身が、どこかですり減らされていないか。
まずは、僕はご飯をたべよう。
昨日、食べられず、寝てしまったのです。

ほとばしるエネルギー!

別にしゃべらなくても。
エネルギーが溜まっているのを、出すところが大切だと、おとのねさんは考えています。

ーーーーー

別のパターンもある。
「NO!」といえない人がいる。

「私、課題、やりません」と言う必要はないのだが、やらなくてもいいのに、やらなきゃいけない(内言レベルでNO!と言えない)人がいる。
「NO!」という練習、「NO!」という経験が少ないと、大人になって、こうなるのかどうかわからない。

本当に自分にとって大切なことを忘れてしまうほど、「させられてしまう」人がいる。
これもある意味、「さかな」が「たかな」になったりする、
言いたいことがあるけど、まだ、「口」がついて行っていない子どもと同じ。

といってしまえば、少し残酷だろうか。

大人は大人で、お母さんはお母さんで、子育てをしながら、お母さんではなく、人として、学び直すきっかけがでてくるという話を聞く。
本当にそうだとおもう。

ーーーーー

学校では、もしくは場所によっては保育園のときから、子供達は大人から「はたらきかけられる」ことが多くなる。
言葉を喋る価値がなくなる。言葉を喋っても、どうにもならない、受け取ってくれないことが増えてくる。(進学校にいったらさらに、それは激化する)

お母さんにも同じことがいえる。
「よくしよう」「この子のために」言葉を尽くして、子どもの心が沈黙してしまわないか。

子どもからのはたらきかけに答えることが大切。
それが言葉の基本であるし、心の大切な働きであるから。

だれも「応えてくれなくて」この世の中に埋もれている声に、おとのねさんは耳を傾けています。

オトノネひろげるシェアぼたん

診断名とは何か。Human Disaster

例えばADHD。
Attention-deficit hyperactivity disorder

「不注意だね。衝動性があるね。多動だね。うん、じゃぁADHDだね」ということになる。
周りの環境があって、その振る舞いがでてくる。

社会的な困難(学校側の不都合)を表す言葉が診断名であって、その子が特別な病気を先天的にもっているわけではない。その子は、「ふつう」だ。
学校が、「その子は学校ではやっていけませんね、だって、◯◯ですから」という意味のわからない論理を使うため、使用される言葉になってしまっている気がする。。
そうではないのだが。

「この子が学校でやっていけないなんておかしい!何がいけないの?」という答えをお父さんお母さんが診断名に求めてしまうことがある。
けどそれもちがう。
その子はその子の「自然」をもって生まれる。
学校という場所で壊されてしまっている「自然」がある、というサインにつけれらた名前が、「診断名」です。

ーーーーー

誰もが持っている衝動性、多動性、不注意がある。
それに診断名をつける意味はなにか。

ADHDは先天的なものだという。(クスリが処方でき、結構効くらしい。もちろん副作用抜群だが)
なるほど。

けど「診断方法」をみると、「育ち」でなんとかなるもののようにも思えるのだが?
「もってうまれている」のか「育ち」なのか、わからないのが、人間らしいところだ。

同じ「ADHD」という診断名でも、程度には、天と地ほどの差がある。

ーーーーーーーー

「あの子はADHDだから」という理由で。
「教室」という場所があまりにも居心地がわるい子がいるのをどうしようかということで生まれてきたのがADHDという言葉だ。と僕は思っている。
日本では学級崩壊が起きた後に、ADHD研究が始まったような気が、気が、僕はするのだがどうだろう。(そのうち調べよう)

ADHD Europe で検索
ADHD Europe | Attention deficit hyperactivity disorder
すごい、このサイトみてたら、ADHDの歴史で、最初に書かれているのが「シェイクスピアのヘンリー8世」!

日本語版で僕が頼りにしているサイト
注意欠如・多動症(ADD,ADHD)

ADHD Japanで検索
ADHD(注意欠陥/多動性障害)を十分に理解し、正しく対処していただける情報をお届けいたします。
ここの「日常生活チェックリスト」をみると。ただただ「発達の課題」に取り組めなかった「ADHD」でない子にもあてはまる気がするのだが。
だからその「治療法」も、ただただ普通のことを丁寧にやって行く、という内容になっていr。

つまりどういうことか。
「ADHD」が先天的なものだからといって学校が「この子は障害をもっているから特別学校にいったらいい」とかお父さんお母さんが「この子は障害を持ってるから私たちの育て方が悪かったわけではない」とかいう言い訳として使われているケースがないかどうか。

社会性集団性のスローラーナーと考えることもできるからだ。
子育て環境が、家庭環境が、その子のもっている《ADHD性》を育てた可能性がある。
環境が違えば、もっと《別の神経》が作られていたかもしれない。

適切な関わりができなかった、学べないうちに育った可能性はないか。僕は、あると思う。
僕らが暮らしている世の中の「自然」のチカラはだいぶ弱まってしまったのだろう。自然に、任せて育てることが不安になる時代かもしれない。

遊ぶと多動でなくなる。
多動?

多動かな?と思ったら、あそびの環境を変えてみてもいい。

人間は不思議だ。
そんな不思議の中で、みんな生きている。

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同じ診断名でも、まったく違うしくみなものに、

心身症というものがある。
例えば起立生障害、チックもそうだったか?過食、不眠。

不眠症は「不眠である」ことで不眠症と診断される。(睡眠障害の一部だっけ?)
それがただの「夜更かし」ではなく、なにか「心的ストレス」が原因となっていることが明らかにされれば、不眠症となる。
それで朝が起きられないと、「起立生障害」と呼ばれる可能性もある。

そうすると。
「思春期の女の子にはよくある症状ですよ」ということになり。
ストレスになっているもの(学校)から目を逸らさせるような言葉が現れてくる。

診断名に、真実が隠されてしまう。
言葉から真実を読み取るのは、人間だ。

そして読み取りが下手くそなのも、人間だ。

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disorder, disability, disease, 病気にもいろいろある。

一番怖いのは、human disasterであろう。

学習障害LDか、スローラーンなだけか。

そうおもうと、いわゆる偏差値の高い高校、進学校に入るということは、卒業するというのは「君は◯◯ではないね?◯◯でもないね?◯◯でもないよね???よし、合格!」と検品されにいくことを意味するのではないか。と思えてしまう。

そんな気がしてしまった自分の心が、たいそう貧相ではないかと思えてしまった。

As a result, places like school and the workplace can require skills that people with ADHD often do not have (e.g., organisation, time-management, and sustaining attention) which may lead to problems in education and employment, such as underachievement and risk of exclusion and dismissal.
結局、仕事や学校でうまく行かない人たちに目を向けるための、合言葉が、最近になって増えたということ。
その言葉をどう使うかは、人間次第。人次第。

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その子に「障害」があるのではなく、学校がその子の「障害」になっているのだ。
「障害」とどう付き合うか。その経験は、大人になっても大切な、その子の本当のチカラになる。

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学習障害LDか、スローラーンなだけか。

学習障害児に対する指導について(報告)

文科省の資料だが。
古いなぁ。。。平成11年か。。

で、リンクのページの下の方に書いてある「学習障害の判断・実態把握基準(試案)」をみると

1  校内委員会における実態把握基準と留意事項

(1)  実態把握のための基準

A. 特異な学習困難があること

1 国語又は算数(数学)(以下「国語等」という。)の基礎的能力に著しい遅れがある。

・現在及び過去の学習の記録等から、国語等の評価の観点の中に、著しい遅れを示すものが1以上あることを確認する。この場合、著しい遅れとは、児童生徒の学年に応じ1~2学年以上の遅れがあることを言う。

小学校2,3年 1学年以上の遅れ
小4年以上又は中学 2学年以上の遅れ

なお、国語等について標準的な学力検査の結果があれば、それにより確認する。
・聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のいずれかに著しい遅れがあることを、学業成績、日頃の授業態度、提出作品、ノートの記述、保護者から聞いた生活の状況等、その判断の根拠となった資料等により確認する。

2 全般的な知的発達に遅れがない。

・知能検査等で全般的な知的発達の遅れがないこと、あるいは現在及び過去の学習の記録から、国語、算数(数学)、理科、社会、生活(小1及び小2)、外国語(中学)の教科の評価の観点で、学年相当の普通程度の能力を示すものが1以上あることを確認する。

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気が付いたこと

1:うん、まず、高校生の「学習障害」は考えられていない。
2:このページは「特別支援教育」の項目に含まれている。(ページの上に「トップ > 教育 > 特別支援教育 > 特別支援教育について > 資料(データ、通知、答申、報告書等) > 学習障害児に対する指導について(報告)」と書いてある)
3:中学生で二学年以上の遅れを持っている人は、半数いると思われる。(富山県の偏差値50とは、そういう意味だと僕は思っている)だから、半数は学習障害?

4:え?「二学年以上の遅れ」っていうことは、これは相対評価(テストの点数)ではなく絶対評価(指導要領の内容)ですね?いや、具体的に学校はどう評価しているのでしょうか。。。

2について。
学習障害の子は、特別支援学校に行けということでしょうか。

4について。
実際、「遅れている」「小学校サバイバル中」の子は療育センターで診断を受けるように言われたそうだ。
学校は評価のしくみを変えたり自分でちゃんと子どもをみる余力がのこっていない。

学習障害というものと、スローラーナーの違いが僕にはまだわからない。
ひとりひとり苦手得意な認知形態があるだけで、それで何が障害になるかわからない。

診断名について、考えてみました。
診断名とは何か。Human Disaster

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