【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

学ぶということはどういうことか。
本当に学ぶとは、自分の精神を未知の世界、危険にさらすことだ。

という一面があるように感じたので書き綴って見る。

封印されていた「事実」を知る。
感じられていなかった「本当の世界」を感じる。
そうした「知」が、人を不安にさせるかもしれない、ということだ。

日本の現実、本当の姿を知った人は、悲観せざるを得ないかもしれない。(喪失体験
絶望するかもしれない。
そうして死んでしまうかもしれない。

「知る」ということと同時に、「心をつくる」こと。
知行合一というが、僕は知心合一と言ってみたい。
でなければ、心は崩壊してしまう。。。。とおもった。
「知」のレベルは「心」が決める。というか、「知」はチカラだ。そのチカラを使うメタなチカラが、「心」だ。


心が大事。

だから逆に、心がしっかりしていなかったら、「学び」は薄っぺらくもたれかかる紙切れになってしまうだるおお。
心が、意味を、「知」の響きを感じられないからだ。
そう考えると、世の中で「知」と呼ばれているものは、大したことではないのだ。
ただの不安や欲求をかき乱す刺激なのだなとおもえてしまう。

だからオトノネ!笑

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僕が心を揺るがした記事はこれ。

人類とネアンデルタール人が想定よりも古くからセックスしていたことが判明
結構古い記事だ。

嫉妬がネアンデルタール人を絶滅に追いやった!
こっちの記事は、本当かどうかわからないけどいろんな情報が詰まっていて、刺激になる。書いた人の妄想、推測の部分が多い、。。。

で、僕はこういう疑問を持ってこれらの記事を読んだということ。
「人間の暴力性は、人間の本質なのか」

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かつて、「ホモ・サピエンスってネアンデルタール人に犯されてたんだってよ」と友達が言っていたのを覚えている。
それで、ネアンデルタール人が凶暴性をもっていた、暴力性がつよかった・・・・という前提で僕の思考は進む。
それでも死者を埋葬するという文化(?)があったらしいのだが。ネアンデルタール人の埋葬を改めて確認

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ネアンデルタール人は、狩がうまいとか、肉体的に強かった、という記述がある。
こういうところから、ネアンデルタール人→暴力性というイメージがでるのかも。
「ヒトは何故生き残ったのか 第二集の見どころ」
それが正しいとしよう。

また、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人よりも多様な音声言語が使えたという。
それも正しいとしよう。
ということは、ネアンデルタール人は埋葬の文化とかあったみたいだけど、文化を伝えるとかそういうものにはよわかったっぽい。
だからネアンデルタール人→新しい状況に耐えられない(暮らしを変更できない)
ホモ・サピエンスはなぜ生き残れたのか【ネアンデルタール人との違い】

ネアンデルタール人のネアンデルタール人らしさは、狩に行く男にあり、
ホモ・サピエンスのホモ・サピエンスらしさは、文化を子供に伝えたり、道具をつくる(?)女にある、としたら。。。

ネアンデルタールがお父さんで、ホモ・サピエンスがお母さんの組み合わせが最強だ。
もっとも環境に適応しやすかっただろう。

もっとも暴力的な男性が集団に必要な狩を成功させるために必要とされた。
またその男を組織化させるような平和的な女性が、集団を成立させるために必要とされた。

この記事にはこんなことが書いてある。

これまで、ヒトの起源であるホモ・サピエンスは、約6万年前にアフリカ大陸から移動を開始して世界各地に広がって行ったと考えられていました。その拡散の過程で、ホモ・サピエンスは当時まだ生存していたネアンデルタール人と交配を繰り返していたことが判明しています。これを裏付けるのが、現代のヒトが持つゲノムの中には、ネアンデルタール人に由来するDNAが1%から4%の割合で含まれているという事実です。なお、このDNAはヒトが持つ鬱(うつ)やニコチン中毒といった症状の元になっているとのこと。

ん?薬物とか酒とかタバコとかの依存症になるのは男性が多いってこういうこと?
男性の方が女性より、ネアンデルタール人のDNAが多いのかな???

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こうして妄想を進めると、人類の父であるネアンデルタール人はそもそも暴力性をもっており、
人類の母であるホモ・サピエンスは平和性(暴力性の対義語ってなんだっけ)をもっている、、という短絡的な人類像にいたる。
(この知識の不確かさはさておき)

そうすると、今の社会、というより人間の社会は、男性が動かしている限り平和にはならないというフェミニズムめいた考えになることもでき、さらにはかつて母系社会だったという話の意味もわかるかもしれない。中国の神話では女媧と伏犠が絡み合って世界を成り立たせている図がある。

また男と女の戦い(駆け引き)というものが、神話の世界にもよくある話。

一人の人間の中でも、この暴力性と平和性(いい言葉が浮かばない)が混ざっているとしたら。
一人の人間という宇宙のバランスを保つための心がなければ、どうして暴力性を止められるだろうか。

暴力も、平和も、人間の中に半分ずつ組み込まれている。
暴力は、人間の世界に、ある、のである。
平和も、人間の世界に、ある、のである。

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同じ話を、縄文人と弥生人でしてもいい。
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた

大和朝廷、現在の日本人のルーツとなる人たちは、日本の原住民、縄文人を制圧していった。(日本の歴史によれば)
南から、北へ、、、、先住民のたちは征服民の人たちから蝦夷の人と呼ばれていた。

なぜ、征服していったのか?
なぜ、人は、侵略するのか?
なぜ、人は争うのか?
平和に暮らせないのか?
平和とはなんなんだ!?

土着の人は、住んでたんだよ!
(侵略の歴史・暴力の歴史が、人類の歴史なのだろうか。実際、そんな歴史ばかりを学校で習う笑)

鬱=不安という感情の処理がうまくできず(言葉=心)、支配=コントロールという暴力に頼るしかなかったという、未熟な人間の姿が、今も、昔も、変わらないのではないかとおもってしまう。

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暴力性が、人間が生まれたときから刻まれている本性だとしたら。。。
この社会は、とても自然な状態であり、別に、泣いても笑っても、悲しんでも喜んでもなんでもない、ただただ、人間らしい姿なのだとおもえてしまう。暴力は人間の本性なのだと。支配は、人間の本性なのだと。児童虐待も、自殺も、DVも、人間の本性なのだと。

これが事実だとして、その事実を心はどう受け止めるか。
「だから、私もその暴力に加担しよう。暴力の中で生きよう」とおもうだろうか。
「だから、子どもにも暴力を持たせよう。子どもを、戦場に送ろう」とおもうだろうか。

「心」は「知」に耐えられるだろうか。

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もっと別のことを考えてもいいだろう。

女性が女性らしく生きる、ということは、男性と同じように働くこと、ではない、のではないか。
と僕はおもう。

男性と女性が、二つ合わさって、人間ができるのだから。

トランスジェンダーという言葉が最近話題になっているようだが。
それは、平和と暴力の境界、支配と自由の話なのかなと、僕はおもう。

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結局は女性の(男性)社会進出ではなく、
男性が女性社会を守るだけでいいのに。。。と僕は言葉を漏らして見みる。

女性社会とはなんだろうか?
人間として、女性という個性が尊重されることだろう。
子どもの個性は勝手に伸びると、とある先生はのたまったが、女性の個性は潰されていないか。

男性が、暴力があふれた世界で、女性を人間の個性として、捉え直してみたら、どうだろう。

お互いの世界を守る、お互いの本質を理解する。少なからず理解する、そういう世界があったらいいのだと思おもう。(だから男の人のオイタなことも、女の人は大目に見たらいいのかもしれないし、女の人のオイタなことも、男の人は大目に見たらいいのかな?)

心が大事。

現実を知るためにも。

心を育てよう。

暴力にさらされている命があることに、気づけるような心を。

自分の中にいる男性と女性が、自分の心の中で、平和な家庭を築けるような心を。

パーソナリティ特性の記事でも書いた気がするが、人間の半分は遺伝であり、半分は環境であるという。

富山県・もしくは日本という場所は、可能性の半分である環境がほとんど絶望的だとおもったら、もしそれが「現実」だとしたら、、、
その「知」に耐えるための「心」を、僕はもっているだろうか?
絶望の中で漂泊する人生を、送ってしまわないだろうか?

こういう戯言を、今日も長々と書いてしまって、全く申し訳なくおもう。

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子どもは環境に順応する天才だ。
お父さんお母さんの心の歪みにも順応する。
お父さんお母さんの硬直した、「現実」を受け付けない心にも順応する。
順応した結果、「立ち止まる」かもしれない。
「立ち止まる」ことができなかった、大人の代わりに。(大人は、失敗したのだ!)
「立ち止まる」とは、成績が落ちるとか、勉強しないとか、病気になるとか、グレルとかそういうものも含めて。

性をもって生まれてくる子供。
命をもって生まれてくる子供。

親という環境、大人という環境の中でもう一度生まれ直したいとおもう子供もいる。
それすら支配してしまうなら、親の名前を捨ててヒトラーを名乗るといい。

「小さなブッダ」
「小さなガンジー」が僕らを見つめている。

あなたを見つめている。

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ネット上で、悪口をいうことが流行っている。
いやいや、事実を書き綴っているだけかもしれないが、、怒りを感じる。
僕が富山高校とか高岡高校とか富山中部高校とかに限らず事実を伝えながらも、僕の感情もでてきてしまうからいたしかたない、といえばそうだが。

怒りを感じて、
怒りを発信して、それで、何か、いいことがあっただろうか。
なんども怒りを発信して、暮らしは豊かになっただろうか。

いろいろな事実、相手を非難する事実を見つけては投稿し、罵るような人がいる。

同じ事実を見つめる人でも、その刺激に対して心の反応はまちまちだ。
「知」は生き方を生み出さない。生き方を生み出すのは、「心」だ。

やっぱり、心が大事。

ワクチンか何かを発見した人は、たしか、「たまたま」ウィルスが死んでいく現象を目撃した。
日常的に誰でも目にする「事実」でも、それに気付けない人がいる。
気づくことができるような、自然な心のあり方すら、暴力によって、壊されてしまっていないか。

僕自身、しっかり感じなきゃなとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』

躾と気締めである。

しつけは身の美しさであって、けじめは気を締めること。だということにしておこう。

けじめをつけることの大切さを感じる。

自由、自由というが、そこで自分の気をコントロールできるかどうか。

たくさんあそんだ!それから次の行動に移っていく。

解放させた気を締めること。


それがケジメ。

もしくは如何にコントロールしながら、解放するか。


それがケジメ

「じぶんひとりなら」ダダ漏れしていた気を、その状況に応じて、調節すること。
それもケジメだ。
(家の外では出せない気を家の中で出していて、お母さんが怒る、という笑い話もある。外では出せないから、家の中で出しているのだ。例えばそれが「怠け癖」だとしたら・・・家の外でケジメをつけすぎていて、疲れているのかもしれない。)

気分が暗い時、暗い気持ちにけじめをつけて楽しいことをしてみること。楽しい気分でいるときに「あ、けどこれもやらなくちゃいけなかった」とか。当然といえば当然のこと。

しつけといって仕舞えば、「いい子」になることのように聞こえるが、けじめといえば「自律した子」のように聞こえる。しつけという言葉には、支配的な、文化的な響きがある。

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ケジメは、感情をコントロールすることだ。
感情をうまく使っていくことだ。

0歳の時から、このケジメは始まる。
泣いている赤ちゃんに「声をかけてから」ミルクの準備をする。
それを続けただけでも、「声をかける」ことで赤ちゃんは安心して、泣くのをやめるようになるかもしれない。
気を締める。

心は、0歳のときから、作られる。

少なくとも、感情を押しとどめる、「いい子」でいることはケジメではない。
それは気詰まりであり、息苦しさだ。(破裂するまで、しばらく辛いだろう)

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少し大きくなって、「褒める」ことばかりをしていると、何も考えない、できないと癇癪を起こす子になる。
「褒める」といいという定期テスト対策的子育てが流行っているらしいが、僕は全くオススメしない。
「与える」にしても同じだ。「なんだこんなもの」と大人が思い買って与えるだけでも、子どもにとっては「もの」ではなく、泣いたら、駄々をこねたら与えられるのだという現象を学ぶことになる。

ケジメは、いいこと、わるいことを教えることではない。
感情をコントロールできる、大丈夫だ、僕は一人でも大丈夫だ、という自立心と自信をもつこと。

これが、ケジメの目標だとおもう。

ケジメができていないと、将来どんなに生きづらくなるか。

ケジメは、押さえつけることではない。
自由を、使いこなすことだ。
自由を使いこなし、大切な人、大切なものを守るためのものだ。

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しつけという言葉は、子供をペットにしかねない。
ケジメ、という言葉をつかってほしい。

子供の気持ちを、どんなエネルギーに変えたらいいのか?
それもケジメのひとつ。

「学校でこんなことがあったの・・・」
こんなことを質問されたら、どう答えるだろうか?

まだ気が締まらない(どうやって気を整えたらいいかわからない)状況を、心が処理するしくみをつくること。
これもケジメをつけることだ。
ただただ押さえつけることではない。

「気にしなくて大丈夫だよ」というか。
「それは先生にいわないとね!」というか。
そのお母さんの言葉の感情が、その子にも伝わるだろう。

「どうしたかったの?」
「何を感じたの?」と、問いかけて、子供の頭の中で、心で、もう一度整理する時間をつくってあげることを、僕はオススメするけれど。

一人では難しい、心のプロセスを、手伝ってくれる人に出会った子どもは、しあわせだ。

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子供の未成熟さが、弱い子供、弱い大人をつくりだす。過保護が、子供を未熟にする。引きこもり、いじめ、8050問題、DVや暴力、ストーカーなどの社会現象の根源は、親の過保護にあり、親が過保護にならざるをえない社会の不安にある。人を愛せない、共感できない、相手のことを考えられないなど、多くの政治的社会的に高い地位にある大人たちも未熟な状態であるために、日本は混乱している。児童虐待もDVも不登校も、政治的な混乱もなくならないのは、過保護を引き起こす社会不安によるものだ。恥や罪の意識は子供にも伝わります。

子育ては、親育てでもあります。
子どもからたくさん学んでください。
お母さんが子供時代にやれなかった宿題を、子供にやらせずに、自分でやってみてください。
お子さんと同時に、お母さんの宿題のお手伝いも、オトノネはしたいとおもっています。
わかっているお母さんもいるとおもいます。
でもどうしていいかわからない・・・
お子さんに、お母さんやお父さんの心の未熟な部分を押し付けないですむ方法を、一緒に考えましょう。というか実践していきましょう。
怒りや不満、不安や悲しみを子供に押し付けてしまっていませんか。
僕もまだまだ未熟さをかかえたまま、前にすすんでいます。

大丈夫です。

「知る」ということだけでも変わるかもしれません。
お子さんの成長をみながら、「感じる」ことで変わるかもしれません。
そのプロセスはわかりません。
だから一緒に、はじめてみませんか。

いつまでも誰かにえらいえらいと言われていなければ心を保てない子、実力がないのに偽りの賞賛を与えられてきた子、本当の自分を隠してきた子。思春期に、悩まなかった子。悩むことを許されなかった子。自立した人間として向かい合ってくれる大人に出会えなかった子。「ノー」と言えない子。挫折・失敗に弱い子。病んだエネルギーは、誰に向かうのか?自分の心身症になる人もいれば、他者に対する暴力というかたちをとる人もいる。DVに気づかないお母さん、児童虐待に気づかないお母さんもいる。アルコール依存症、セックス依存症は、「もう自分ではどうしようもない」無気力、無力感の叫びだと、僕は思っています。

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オウム真理教を覚えていますか。
知っていますか。

「娘を教団に取られた」というお母さんが記者会見をしたときに、その娘さんが「お前たちは帰れ!私たちの邪魔をするな!」みたいなこと(すみません正確にセリフは覚えておらず、ただ自分のことを「私たち」と呼び、母を「お前たち」と呼んだということです)を言ったという。

よくある話で、教団に入って洗脳されてしまうような子に、子どもが育ったことに、お母さんが気がついていないのだ。

お母さんのせい、ではない。
といえるかもしれない。
この社会が悪いのだと。

では、子育てとはなんだろうか????

心から笑いあえる時間を大切にすること、といってもいいかもしれない。

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過保護とか、虐待とか、小さな暴力が当たり前の世の中になっている。
大人の世界がそうだから、子供の世界もそうなる。

大きくなってからの「治療法」をみると、、、やっぱり、鏡になって、向かい合ってくれるもう一人の自分との出会いなのだとおもう。(その関係が、医者とかカウンセラーでなかったのなら、一方的な関係は、続かないだろうが。。。)

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ

この本には「生まれる前から」「生まれた後も」妊娠・出産・子育ての段階でそれぞれ親の宿題に親が取り組む実践(ということは、親以外の人も取り組むということ)を書いている。
基本、話す、心から話すような状況をつくる、、ということなのだが(だいたいオトノネも同じことをしている)、話すだけに限らない。行動しながら、変わっていく。

この本は過保護だめよーというやつ。治療法とかは抽象的すぎてわかりにくい。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

【ずっと小学生その2】学校に魔王がたくさんいるのはなぜか。

熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)
『熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)』

振り返っていままでに買った本を読んでいる。
この本は大学時代か、教員時代かに買ったもの。

当時、その意味というか、現場でどれくらい役立てられていたか・・・(書かれていることの重みが、わかっていなかっただろう)

僕は高校の教員免許だけしかもっていないので、小学生・中学生のクラスは持ったことがないのだが。
疑問はただひとつ。

なぜ、小学生中学生で習っているはずの事柄を、高校生が知らないのか。

これは現実であって、教師としての仕事を全うできていない教師が多いという何よりの証拠だ。
これは事実だ。

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人間に対する不信感を抱いている子もいる。
それこそ、教師、学校に対する不信感を、敵意を抱いてくる子もいる。

小学校・中学校で何を学んだのか。

お母さんたちは、ご存知だろう。先生には当たり外れがあると。
当たりの先生は、人がいい、かもしれない。
それは知恵と技術を持った、愛ある先生なのか、それとも、ただ慈しみのある情ある先生なのか。
愛とはなにか

情のある先生に出会えただけでも救いだろう。


けれども、愛がなければ、教師としての知恵と技術がなければ、子どもは「先生から何も教われない」

だから、たまたま「できる」子が先生からかってに学んで、「できない」子は置いていかれる。

その結果が、中学、高校になって出てくる。
高校受験・大学受験のレベルも落ちて来ている。

これは、事実だ。
(ノートがかけずに、プリントの穴を埋める作業する高校生たち)
(食べ物を自分で食べれず、流動食を流され続ける人とイメージを重ねない人はいないだろう)

人間の質は学ぶか否かにかかっていると僕は思う。
それはつまり、学び方を学ぶ、または「教えるべきこと」を教える教師の質にかかっている。

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子どものためを思うなら、教師をやめるのも手だ。
自分が病気だ、ただ作業として授業をしている、喜びを感じない、子どもの成長を感じないとおもうなら、教師をやめたほうがいい。
給料のために子どもを食いつぶしていないか。

ひどいものだ。

テストの後、グループにして、点数を見せ合う。
そんな魔王が、学校という場所に存在しているという。

恐れ憎しみ悲しみを育てて、どうするつもりなのか。
(もちろん、できる子に優越感を持たせてもっと勉強させるためである。貧困を助長している)

え?それで、励ましているつもりだって!?


身を落とすことを教えて、それを教師と言えるこの国がおかしい。
先生がいけないのではない。
先生という存在を生み出す仕組みが壊れているのだ。

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犯罪者は罰せられる。
犯罪者を生み出した社会は罰せられない。
この論理をとれば、多くの先生は犯罪者として罰されなくてはいけない。
だが、僕は先生を擁護したい。
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学ぶという仕組みが、壊れている。
「生き残れれば、それでいい」レベルまで教師のレベルが落ちている。
それは、学校という組織のレベルが落ちたことが原因だ(昔から低かったから今こうなったといってもいい)。

そのしくみも、この国独自のものだ。
教員免許は、「いい子」にしていたら誰でも取れる。
西欧なら大学院、もっと研鑽を積んでからでないと、教師の資格はとれない。
また現場に立つまでに定期テスト対策的な「教育実習」では終わらない修行期間がある。
その間、きちんとメンター、担当がついてくれる。

雑務で忙殺されている先生に、教師を育てる時間も、子どもを育てる時間も、期待できない。

だから、お母さんたちは困っているのだ。

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そうか!この学校の暴力を隠蔽するために、全国学力テスト対策をがんばっているんだ!
「いやいや、お母さん、学力はほら、富山県は全国トップレベルなんですよ!」とのたまう魔王の姿が目に浮かぶ。

そんな教師には、こういったらいい。
「最近、○○さん(先生と呼ぶ必要はない)は何を学ばれて、どんな実践を教室でされているんですか?」

教師という虎の皮をかぶった、魔王かどうか、ただの狐か、それとも本物の虎か、わかるかもしれない。

「どんな結果がでたか、報告もしてくださいね」と一言入れてあげよう。
お母さん、お父さんが、教師を育てなくてはいけないのか・・・・・全部、、、、家庭負担かよ。。

子どもを育てるために、お父さんお母さんが学校の先生をそだてなくてはいけない。
そんな世の中になってしまった。

オトノネひろげるシェアぼたん

いつまでたっても、小学生。

とある本にこんなことが書いてあった。
ちなみにこの著者は、小学校で国語を専門にしている先生。
今はもう小学校で仕事はしていないようだけど・・・

教師は手綱を放してはならない。

子供が自主的に目当てを持ち、学習の計画を立て、実践し、その当否を検討確認し、学び方を身につけていく…。そんな子ども任せの授業論は、机上の空論に過ぎません。自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。私の授業では子どもが発言をするのではなく、発言させられるーつまり、発言しないわけにはいかない場に子供を追い込んでしまうのです。たとえば、「この意見は正しいと思うか、違うと思うか」いずれかを選ばざるを得ない状況をつくる。そうしてすべての子どもに自分なりの答えを選択さえ、あらためて「なぜそう思ったのか」を考えさせる、これが私のやり方です。

野口流 授業の作法

学ばねば、やってみなければ、わからないことがある。それを教えるのだと。
(この文章は「自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。」という、放任型の手抜き授業をする教師への言葉ともとれる)
なるほど。
その点、この本の著者である小学校教育では、たしかに手綱を離さない授業が、必要になるのかもしれない。
手綱というのは、知性を司る人間の、知性を働かせるための操縦法をいうのだと僕は思った。

管理、という意味ではない。

小学校が終わり、中学校に入ると子どもの世界が広がる。
人間を、大きな社会の中で捉えられるようになる。

そうすると、授業の教材がかわる。
教材が変わると、また大人の「手助け」が必要になる。
そうして、手綱は、ずっと、弛まない・・・のだろうか?

例えば、小六であれば、小学校の総決算として、小学6年生として自律的に授業を進められるのではないか。
どうだろう。
ずっと先生が、手綱を引かなくてはいけないのだろうか。

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生徒自身がメタスキルを使って、自分の興味関心・自分の道を深めていくプロセスは、いつ始まるのだろうか?
大人になってから急に「自分1人」になって、誰の助けも借りられずにサポステにいく高学歴の子どもが多い(もちろんサポステはその情報を出しませんが)。

人生そのものが、長い長い学びのプロセスだと言えば、別に学校なんて小さな出来事だということもできるんだけれど。

個別化はいつはじまるのだろうか???
おそらくそれは、学校教育ではない。
現代日本の学校教育に、個別化は望めない。

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別の国では○○プランとかいって、生徒の主体性・自主性を重んじた「プロジェクト」という学び方を採用している。
イエナプラン・ドルトンプラン・もしくはモンテッソーリとか。。。

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子どものときにメタスキル を、言葉のチカラをつけずに、大人になった子どもが、どんな生き方をするんだろう。

子ども「わかりません」
先生「じゃぁ他の人」

で進んでいく授業で、子どもは何を学ぶのだろう。
それこそ無気力を学ぶのではないか、心配している。

学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?

学校で、家で、小さい時に満たされなかった心を、大人になってから、DVやらモラハラ、パワハラ、もしくはドロドロのポジションの奪い合いの競争の中で満たしていく。それが現実ではないのか。

宿題をしてこない、課題を出さない、で叱責する自称進学高校の先生たち。
小学生か。
親を味方につけたり、罰を与えて、なんとか宿題、課題を出させようとする先生たち。
園児か。

周囲の考え方に合わせたり、機転を利かせる優等生がいる。
一方で、いつもギリギリの場所で、自分をみつめ、自分の感情を大切にしながら他者と関わろうとする子どももいる。(いわゆる「問題児」と学校で呼ばれる子)

こうしたいろんなタイプの子が集まってつくりあげる社会をつくるための「しくみ」を学ぶことが、大切なのだとおもうのだが。
学校では前者が善とされ、後者は排除されるか、隠されてしまう。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

なんて貧しい国なんだろう。

オトノネは、個別化を大切にしています。
オトノネは、個別化していく子どもたちが、お互いに学び合うことを、大切にしています。

オトノネひろげるシェアぼたん

「子ども」に先生の値打ちを「問う」

「今日はなにを学んだの?」
と聞いた時に、「足し算」とか「漢字」とか、単元の名前とかがでてきたら、多分その子は大切なことを学べていない。
「今日は何を習って来たの?」「エチュードの○番」とか、「クリスマスの歌!」とか。
僕が聞きたいことはそこではない。

「今日はなにを学んだの?」
という質問をわかりやすくしてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

こう質問してみるといい。

心に残っている部分が、その子がその先生から学んだことの印象であり、実態だ。
それが「足し算」とか「文法」とかそんなものであってはいけない。

さっそく、新学期がはじまったら子どもに聞いてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

「宿題を期限までに出さなかったら○○だって」みたいな返事が返ってきたとしよう。
それが、その子と先生の関係なのかもしれない。

もう少し聞いてみてもいいだろう。
「一番、心に残ってる、大切な話はなかった?」
「うれしくなった言葉は?」
「かなしくなった言葉は?」

子どもたちは、どんな大切なことを、大人から学んでくるんだろう。
いいものを、先生からもらわずに、いったい何を先生からもらっているんだろう?
魔王の言葉???

学校は、ただの場所を表している。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。

先生は、学校の管理人であって、学びを与えてくれる人ではない。
囚人に日課(作業)を与えてはくれる警備員のようにもおもえてしまう(富山県の議会の部署(委員会?)で、教育と警察は同じ場所にいる。これは全国みんなそうなのか?)。
これは批判でも悪口でもなく、事実だ。(事実すら、見えない人には見えないのも、また事実)

先生の「子ども」にとっての値打ちを知りたければ、「問う」ことをしてみよう。
その答えから導き出される「子ども」にとっての先生の値打ちが、なんか変だな。とおもったら、オトノネに遊びに来てください。

「どんな先生?」
という言葉で聞いたら「やさしい」とか「いや」とか「たのしい」とか。いろんなエピソードを聞かせてくれるかもしれない。
それなら、学校に何をしに行っているのか、僕にはわからない。

聞き方も大切。

ん?学校に「しつけ」のために行っているのか?????
学校にいる子どもたちをみると、崩れていく日本の社会を新しくするチカラではなく、ただ崩れていくものに埋もれていく人柱にみえてしまう。
それは僕の偏見だろうか。いやいや。事実です。
言葉を育てず「躾」つまり体裁を整えるように、世の中は動いている。
その魔王の代表格が「学歴」とか「成績」という言葉だ!

事実に気がついたお父さんお母さんが、オトノネを大切にしてくれたらいいなぁと強く思っている。

しつけとけじめ
言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。
しつけと道徳的行動の関係の研究

オトノネひろげるシェアぼたん

親に「安心」を売る塾という名の魔王

あくまで、多くのお父さんお母さんの状況を僕が察しているわけでして。
オトノネのブログファンの方にはあまり新しい内容はないとおもいながら。

「じゃぁそもそも誰のために、この記事を書いているんだ?届けたい人に、届いて居ないじゃないか」と、
新年早々鬱々としているおとのねさんです。

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塾とは何か。

優れた塾とは何か。

優れた塾とは「親に」より便利でよりお手軽によりたくさんの安心感を提供する塾のこと。
このために合格実績やらさまざまに細分化されたコースを用意したり、「偏差値30から!」とか、「発達障害のお子さんのためのシステム」とか、送迎サービスを売ったりする。宗教とあまり変わらない。テレビのショッピング番組と変わらない。
(だからオトノネは塾ではありません。オトノネです。)

そうして子どもを塾に通わせながら、親は「安心」というサービスをうける。
子どもの学びではない(そうでなかったらなぜ何ヶ月も、何年も、子どもが学べて居ない塾に通わせることができるんだろう?)。
それが洗脳であっても、「行かないとお母さんが困るから(富山高校生の言葉)」という子どもの親への気遣いであっても。

「安心」したいという不安はどこからきているのか?
不安な世の中、こんな恐ろしいお母さんもいるという。

実際、こういうお母さんがたくさんいる。
東大京大早慶でなかったとしても、「学校の定期テスト」レベルでやきもきしているお母さん。
「定期テスト対策」をさせているお母さんが多い。
「大学受験対策」を、小さい時に、頭を撫でながら行なっていく、こんな長期間にわたる「対策」で心が死ななかった子どもがいたら奇跡だ(もし、子どもに思春期すら許されなかったのなら、、、)。

それだけこの世のなかには不安が、魔王がチカラをもっている。
医療もそうだ。
宗教もそうだ。
教育もそうだ。
福祉もそうか?
政治なんてまさにそうだ。
頭をおかしくする、健康にならない、薬漬けにする、やたらレントゲンを撮りたがる医者(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
心を救う以上に、心に巣食う宗教(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
生徒の学びよりも自己保身にまわる学校(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
福祉ではなく福死の現場(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
倫理も論理もあったものではない政治(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)

不安が、魔王が、そこら中にいる。
悪霊に満ちている。
平和どころではない。

だから、「不安」を金儲けにする、「安心」を売るサービスが増える。
それは本来、教育業ではない。キャバクラやホストクラブと同じだ(実際、キャバクラ化・ホストクラブ化している学習塾・予備校の状況を、目の当たりにしてきたから言える)。「こんなコースをとったら?」「増やしたら?」「夏期講習だよ!」「ドンペリ開ける?」笑

いやべつにいいんだけどさ。。。
塾で出会う先生が、一体どんな先生か。
それで塾がキャバクラ・ホストクラブになるか、USJになるか、それとも人間としていろんな成長ができる場所になるかが決まってくる。

結局、塾のシステムでも合格実績でもなく、先生選びが大切。

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シューベルトの『魔王』

僕が中学校時代に出会って、譜面も読めないが全て友達の力を借りて弾いていた曲。
今日、ラジオ番組で流れていて、ああ、そういうテーマとして読み替えられるんだなと感じた。
芸術の力を、僕はうまくつかえていないようだ。

すでに子供は、魔王の手の中にある。
子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
子どもは小さく、親に抱かれる。

子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
そのうち、子どもはの心は、死んでしまう。

まず、魔王の存在を、きちんと感じてみよう。
感じすぎると、病むから注意(魔王を見るにも心の修行がいるようだ・・・)。

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治らない肩こりの痛みを和らげるために通い続けるマッサージ店と似ているかもしれない。

それで肩こりの原因となる心的肉体的負担が減るわけではない。

定期テスト対策で、子どもの何が成長するのか。
定期テスト対策をする習慣(もしくは赤点後の課題さえすればなんとかなるんだという処世術)を学ぶんだろうか。

子供がプレッシャーをうけずにいられる場所、という価値すら、輝いて見えてしまうほど、日本は不安に満ち満ちていると僕は感じている

子供にとっての塾の価値はなんだろう。

塾に価値があるとしたら、お客さんとして、学校のように叱責もされず、プレッシャーもうけず、ただただ過ごせる場所、という価値なのかもしれない。
それすらも、子供にとってはプラスになりうる。

そういう世の中になった。

新年一発目のブログは、「魔王」でした笑

教育は社会問題。
「成績が悪い」のはお子さんではなく、地域全体であり、日本です。
もう1人で悩むのは、やめませんか?

多くの事柄を個に起因して、社会(組織)としてとらえずにチカラ散財させることで、僕たちは力を奪われている。
魔王に。

協力することを、学んでこなかったからだ。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

みなさん、初詣で何かお祈りしてきましたか?
祈りの言葉を間違えると、魔王のチカラが増えてしまうので注意!

魔王のチカラを増幅させる塾や学校(自民公明党)には、注意!

心が大事。

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学歴社会、理想の母親像、テレビの中にでてくる豪邸、もしくは貧乏暮らし、「不安」を買い取り、「安心」を売るしくみに溢れた世界から、自分の身をまもるために。・・・やっぱり、子どもとしてきちんと成熟させてから、大人にしてあげたいとおもう。

社会は、こうした個人の歪みを和らげられずに、逆に歪みを拡大し、「不安」と「怒り」の市場を拡大させようとしている。
ああ、こわいこわい。

どうやって笑ったらいいか、わからなくなる。

オトノネひろげるシェアぼたん

みなさんへの冬休みの宿題。

よし!冬休みだし。

このツイートのコメント欄には、いろんな情報がコメントされていておもしろかった。

そこで、、、いや、少子化対策で「子どもの福祉」だとか「無償化」とかは間違ってるよね?
そもそもそんな予算、割かれていないし変わっていない。

まぁいいや。

「少子化の原因は何か」

これがおとのねさんからみなさんへの宿題です。
ググるといろんなのがでてきます。

僕はこういうデータが役にたつかなとおもいますが、ひとりひとり観点がちがうので、違うからこそ、楽しいのです。学びになるのです。

果たして、「給付金」「無償化」で少子化はとまるのか??????
いや、お金の問題だろ!という方は、そのようなデータを、探してみてください。
僕は違った観点から、データを探してみました。

キーワードさえわかれば、、、辿っていけるはず・・・(ちなみにこうした大切な研究は「お金」にならないため大学でも行えていません。大学の先生も「定期テスト対策」で忙しいのです。大切なことだとおもうんだけどな。こういう問題を喋る人は全部「お金」の問題にしてしまう。僕は違和感を感じる。いやそもそも少子化は問題でもなんでもない。という人もいる。現象は、ただ生きて通り過ぎるためのものであると。。。政府は少子化してほしいと実は思っていたりする。労働力は海外から得た方が安い。給料も保険もいらない。会社は「お金」的に得をする)

あ、こんなのもあった。。。
『日本の世帯数の将来推計(全国推計) 2015(平成27)年~2040(平成52)年 2018(平成30年)年推計』

あ、あと、僕としては、あのデータもほしいかな・・・・とか、これが僕の、学び方です。
まず、直感。推論。根拠を探す。それでいけるっぽい!なら、いく!仮説を、検証していく。

知るって、ドキドキすることじゃないか!!??
少子化という抽象語を、現象として、具象として、きちんとみてみる。
そこに、「怪獣」がいるかもしれない。

大人も、宿題!笑(*’∀’人)

オトノネひろげるシェアぼたん

学歴は所得に本当に影響するの?【学歴の影】

フィンランドの所得を調べていたら日本のこんなサイトに出会った。
https://www.nenshuu.net/sonota/contents/gakureki.php

このサイトの結論は、「学歴は所得の差につながる」というもの。

で?

この結果に、データに疑問を持つ人がいたら、スバラシイ。

実感が伴っていなければ、直感が働くだけの経験、知識がなければ、出された資料を鵜呑みにせざるを得ない、
数字に隠された現実の姿が見えてこない。

ーーーーー

賃金構造基本統計調査
をみてみる。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html

調査の概要、という場所をみると。
この調査の対象になったのが誰か、母集団がわかる。

その選び方は、ランダムではない。
ランダムな「自然」さがどのようなものか、わからない。
偏りあるランダムなのか。(ちなみに「賃金構造基本統計調査」の学歴別のデータを僕は見つけることができませんでした。。どこ???)

ーーーー

つまりこういうことだ。

現実として、大学進学をしてニート、もしくはマクドナルドでアルバイト、などよくある話だ。
水商売をしてお金を稼いで大学に通い、その後、どうなったかわからない子もいる。
社会の闇が、このデータ(賃金構造基本統計調査)から消されている。

と、僕はおもうのだ。
他の都道府県への「タテマエ」でぬりつぶされたデータなど、全国学力テストで十分だ。
富山県は《教育県》か?(その1)全国学力テストの見方(情報リテラシーを身につけよう)

ーーーー

もちろん、給料が高い企業は、大学卒、大学院卒の人を採用するという話があるのは事実。
【イイ大学がイイのはナゼか】上場企業の保護者に聞いた。旧帝大でなかったら、東京の私立へ行った方がいい話。

で???

大学を出て無職の人たち、死んでいった人たち、知的で教養があり社会から排斥された人たちをカウントしない社会。

大人は、子どもに何を伝えたらいいだろうか。
伝えるべきだろうか。
伝えては、いけないのだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。

社会人もオトノネで学んでいる。

精神保健福祉士の資格をとるために一緒に勉強している人とテキストをみながら、フィンランドの自殺率は実は日本より高かった(過去形)ことを知った。
フィンランドの自殺率

元の記事はこちらから
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-034-08-09-g267

ではどういう試みをしたか?
というと。。

1972年、各自治体に保健医療センターの設置が義務付けられた。
1984年、日本で宇都宮事件の時、フィンランドはすでに入院医療から地域ケアへと施策を変えていた。
それから最速と言われる速さで入院医療が減る。それを支えたのは、保健医療センターとプライマリ医と他職種によるケアであったと。

フィンランドでは全国で200の保険医療センターがあり、その5つのセンターが集まったところに専門医のいる医療機関がある。さらに重篤なケースは全国に5箇所ある大学病院で対応する、というシステムだ。

精神保健、メンタルヘルスは病院の中だけでどうにかできることではない、地域、家族、学校、職場、あらゆる場所で鬱になる人が出て来て、自殺に至る。アルコール依存症のケースもある。それは病院の中だけで、定期テスト対策のように「対策」しても無駄だ。フィンランドはプライマリケアに尽くした。そもそも「定期テスト対策」にならないような生活、暮らしを作り出すようにした。そのための人材が、ソーシャルワーカーだ。

日本が15に対してフィンランドは150。
(そもそもソーシャルワーカーとは何か?ということを日本人は知っているだろうか)
読んだことがないけれど、ソーシャルワークとはなにかを理解するのに、これが一番だろうという本を紹介しておきます。
ソーシャルワーク

「定期テスト対策」ではない、暮らしレベルの福祉のために、フィンランドという国は施策を重ねて来た。
その結果が、この自殺率の減少。(再喝)
フィンランドの自殺率

日本でどれだけのメンタルヘルス、精神保健、心の健全さが保たれる社会的なしくみがあるだろうか?
フィンランドにある保健医療センターに該当する施設は、日本では精神保健福祉センターであり、県にひとつ。
いやいやそれ以外にも、サポートする場所はあるだろう。。。例えば、保育所はお母さんのメンタルヘルスの相談設けることになっている。
「タテマエ」は。

実際は、そうなっていない。
結果が、伴っていない。

子供の精神福祉のことだけを考えても。
児童相談所はてんてこまい。
スタッフは忙しすぎて、忙殺され、やめていく。
児童養護施設ははち切れる。
児童虐待が止まらない(子供は減っているが)。

成人の精神保健の現場も、日本はなんら変わっていない。

精神科のベットの数はなかなか減らない。塾や学校に縛り付けるのと同じように、多くの人が精神科のベットに縛り付けられている。

在院日数も日本はダントツだ。

入院にはお金がかかる。(しかしそれでお医者さんはお金儲けをしているのだからどうしようもない)
多額の税金が、「定期テスト対策」に使われる。
もっと多くの人にとって有益になる方法は?

クリエイティブに考えられないだろうか。
考えられていない、のが現状だ。それが日本の精神文化だとしたら??
それを国レベルで変えるのは教育しかない。大人がしくみをつくるしかない(が、自民公明党は作る気がない)。

これは精神保健だけの話ではない。

学校も、職場も、家庭も、地域も同様だ。

ーーーー

最後に一つ。
日本の人口は1億2千万くらい。
フィンランドの人口は600万人くらい。

それに対して先ほどの精神科スタッフの数をみてほしい。
この数字をどうみるか。
一体、日本人は、「なんのために働いているのか」
一体、日本政府は、「なんのために働かせているのか」
自民公明党はまだ昭和の夢をみているような気がするのは、僕だけか。

日本のシステムが壊れていることを数字で理解できないなら、教育がなんのために行われているのか、わからない。

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とりあえずお母さんが定期テスト対策をやめさせるところから始めたらいいと思います。

寒い国は自殺者が多いといいます。
鬱々しているからだと。では、どうやって北の国の人はメンタルヘルスを保ってきたのでしょうか?
それが富山県の精神文化なのだとおもいます。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県高岡市という子育ての条件。幸福度と自殺者。

さて、富山県の、日本の精神文化とは、なんなのでしょうか?

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ちなみに、フィンランドが発祥らしい、「オープンダイアローグ」なるものも有名だ。
対話、対話、フィンランドはオトノネの友達だ。

オープンダイアローグ

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

言葉の内実とは何か。
「言葉はいろいろなことを表現する。その内容は何か。実態は何か。」ということだ。

言葉に人間のような姿形があるなら、いったいどのようにその人は暮らしているか、という問いを自問自答してみる。

———-

僕は日本の精神文化は「源氏物語」と「浄瑠璃」に集約できるとおもう。
それは日本人の「感情」の表れであり表現だ。
どちらの作品にも「日本仏教」が付いて回るが、とにかくこれらの作品には「泣く」「怒る」という感情がよくよく表れている。官能もよくよく、含んでいる。世界中でもコンビニでポルノを売っている国など、日本の他にない(あるの?)。

それを例えばキリスト教を文化にもつ人たちに求めるなら?
長い間、聖書の物語が彼らの精神活動を支えていた。
聖書を紐解き、聖書の中に答えを見出そうとした。
そこで「解釈」のための論理学が精神の重要な部分となった(元をたどればポリス時代にその素地ができていた)と僕は考える。
海外の人と話をしていると、日本ではほとんど、ほとんど聞かない言葉をよく使っていることに気がつく。
「Why」という言葉だ。
この言葉は相手の論理、思考、考えを問う言葉。相手を解釈・理解しようとする言葉。
(日本人なら「どうして?」「なぜ?」を使う代わりに、驚きや拒絶、好き嫌いなどの主観的な感情を表現するだろう。)

日本人が「why」を使う状況は、、、大きな人間が小さな人間に問いかける時くらいだろうか。日本の大きな人間同士がこの言葉を使うのだろうか。。。

これは僕の印象だ。

人が誰かに助けを求める、お願いをする姿を思い描いてみてほしい。
どんな状況?
どんな言葉で?

僕は日本の農民が苦しんでいる、困っている状況を思ってみた。そこでその人は「どうか〇〇してください」と誰かにお願いするだろう。「行動」を「乞う」わけだ。「わたしたちの村は飢饉でもうこれこれこうで」と「感情」に訴えかける。

西洋の人が困っている状況でお願いするイメージを描いてみた。教会で人が神に祈りを捧げているイメージがでた。その人はこういう。「神様、私は、どうしたらいいでしょうか?」問う。「行動」するのは自分であり、「乞う」のではなく、「問う」。

人の感情に訴え行動を「乞う」日本。
神の理性に訴え言葉を「問う」西洋。
対比的にみると、僕はこうなんじゃないかとおもう。

今の内閣総理大臣がいろんな批判を浴びせられているが、「問い」に対する誠実さがない、「問い」を理解できていない、「問い」かけられているという認識すらない、「問う」という言葉の価値がないのは内閣総理大臣が変わればよいのではない。批判は内閣総理大臣という個人に浴びせられるものではない。少なくとも今の「問わせない」教育システムをつくりだした自民公明党という組織への批判であるべきだし、根本的には、この日本人の「乞う」精神文化、「問わせない」しくみを変えようとしない教育への批判であるべきではないのか。言葉の内実は歴史につながっており、それほどまでに深く人の意識を規定している。

しかしこの時代遅れの精神文化と呼ぶべきものは、本当に変えるべきなんだろうか?なにしろ相手は「歴史」である。
むしろ、この歴史に抗うことなく、ただただ「感情」と「行為」レベルの動物的な共産体制を保持して行くのも「自然」だろう。選挙に参加するということは歴史の流れに自分をどう位置付けるか、という大きな仕事だとつくづく思う。

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日本人が「言葉」を「解釈」し始め(ようとし)たのはいつか。
明治になって、新しい言葉を吸収しようとした時からではないか。そうして文豪たちは、西洋と日本の間を行き来しながら、新しい言葉の文化を作ろうとした。

現在、若者たちが、大人たちが、自分が使っている、触れている言葉、心を育てている言葉はどんな言葉か。
「源氏物語」や「浄瑠璃」の世界とどう違うか、少し立ち止まって、「問う」のも一興だ。

かの有名な言語学者が言った通り、言葉は意識そのものである。意識の道具ではない。意識そのものである。
言語環境は、その人の心をつくる。
保育所、幼稚園や学校で殺伐とした言語に日常的に囲まれている子どもたちの心が作る次の世の中は、どうなっているんだろう。

ーーーーー

この文章を書きながら、「問う」ことはすなわち考えることだとおもう。
「問う」ことで、心が満たされて行くように僕は感じている。(おとのねさんは学者らしい)

「乞う」ことで満たされるものは何か?
いくら食べても飽くことのない獣であるように思ってしまうのは私だけだろうか。

「問う」ことで満たされる心も、次の「問い」を飽くなきまでに求めるのだろうけれど。(こういう逆説的な、矛盾するような文章に楽しみを感じる人はオトノネの門をたたくと面白いのかもしれない)

C・S・ルイスが「子どもの本の書き方3つ」という評論の中で、児童文学のよくない書き方の1つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が並存するのだということを子供に知らせてはいけない、という見解に基づくものをあげている。また、子どもの欲するものだけを与えようとする書き方も戒められている。(略)もし子どもたちのことばでルイスの言葉を書き換えるとしたら次のようになるだろう。「大人のみなさん、あなたがたが勝手に頭で考えたものを私たちに与えないでください。ユートピアもモラルも、私たちが自分でつくるからこそ、すばらしいものができるのです。私たちにそれをつくる場と自由な時間をください」と。それにしても、ルイスがこのような忠告をしなければならなかった理由があったのだろうか。たしかに、子供達をとりまく大人たちの考え方の中にこのような忠告を必要とするような状況がある。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.54)

子どもたちは自分で「問う」ことで世界を作って行く。
人の顔色を見て世の中を渡る「行為」レベルの処世術ではなく、「心」のレベルで人と関われるようになってほしいと、僕はおもっている。
だってそっちの方が、僕は人が人らしく輝けるとおもっているから。

日本人は逆に、「問われる」ことで、輝きを失っているのが現状だろうけれど。
うーん、どうしようかな。
目の輝きが問われる前に、目をつぶって念仏を唱えるのが、日本人の言葉の内実、意識なのかもしれない。

ーーーー

言葉にチカラを。
これがオトノネのテーマだと、「問う」ことで僕は発見した。
「問う」ことは学びのメタスキルだ。

ところでおとのねさんはHPやフェイスブック、ブログでいろいろな「問い」を読者に伝えてきただろうか。
「情報」は「問い」ではない。

オトノネは「問う」ことを続けていこうとおもっている。
たとえそれが「わかりにくい」HPだったとしても?
「乞う」HPも作って両方の人がオトノネに来てくれるようにしようかとおもった。

二本立て!
オトノネはHPから、心を大事にしようとおもいます。
お腹すいた。

オトノネひろげるシェアぼたん