【今日の面談】不安定な状況の大切さ。生活習慣病・ひきこもりは「自然」か。

最近、春先で頭がぼうっとしていて話題がたまに飛んだりします。
自覚あり。

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今日、飛び入りで面談があった。
言葉のレッスンに興味をもってくれたお母さんが来てくれた。

そこで「子どもがモニターラブ」な状況を話してくれた。
人と関わるよりも、モニターと関わる方が、好き、らしい。

それで「ちょっと心配」というお話だ。

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最近、お金の勉強をしながら、
全米No.1バンカーが教える 世界最新メソッドでお金に強い子どもに育てる方法

家庭教育の重みを感じる。

「自然」に任せていては「やりたいほうだい」になってしまう。
けれどもやりすぎると心が荒んでしまう。

いやいや、簡単なことで、家族のルールを決めたらいいんだろうか。
言葉がけなしに、自然と「できる」ようになることはない。
「いいか」「わるいか」の判断が自分でできるようになるには、試さなくてはいけない。

「それをやったら、どんな悪いことがおきるのか」

子どもはわからない。

何が「いい」のか。
何が「悪い」のか。

それを大人がどこまで伝えたらいいのか。
「大切なこと」はなんなのか。

それを学ぶための適切な「ギャップ」が必要なのだろう。
ギャップとは生態学用語で、生態系が局所的に変異するための環境の変化のこと。

それは時として不慣れで不安定になる状況を作り出すだろう。
けどれそれによって新しい生態系が生まれる。
あたらしい仕組みが生まれる。
あたらしい関係性がうまれる。

新しい技能、新しい価値観、新しい感性が生まれる。

その不安定な「ギャップ」は、「お勉強」の本質だ。
新しい言葉、新しい規則、新しい物語を取り入れるために、記憶を再編成する。

不安定な状況を作り上げる。
これが教育の一つの役割かもしれない。

そして、不安定さの中で、学ぶための命のエネルギーを絶やさずに、どうして教育の価値を謳うことができるだろう。

不安定さに対してどのようにバランスを取るのか。
その方法が、その子のキャラクターになる。

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「子どもがモニターラブ」な状況についていえば、、、
大人を含めた社会全体がモニターラブになっていると思えば、とても「自然」なことだともおもう。
(例えば、食生活を考えてみると、「健康的な」=「自然」とは言えないかもしれない)

人との付き合いが希薄になってきた世の中と思えば、それも「自然」だとおもう。
外で遊ぶのが好きでない、という子は普通にいる。

だからモニターを使ってどんなことができるのかを極めるのもいいかもしれない。
(インドネシアの小学生でyoutubeで英語の動画を見まくって英語が喋れる子がいた。そういう使い方は誰もが「OK」というだろう)

その子は趣味で絵をかくというのだから、タブレットで絵を描いて投稿するのもいいだろう。
お絵かき日記をつけるのもいいかもしれない。

「モニター」からでも多くのことを学べる。

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大人の知らない世界に子どもたちは生きている。(少なからず、別の世界をもっている)

ゲームの世界、ネットの世界、、、、
(もしかしたら、大人であっても、人によって世界は違う)

学校でもなく、ゲームやネットでもない世界があるんだ、わくわくできる場所があるんだ、とおもえたら、
そんな経験をしたら、そんな人と出会ったら、新しい扉ができるだろうか。

新しい扉の価値は、人生を豊かにする価値。
ネットの世界では、無限にコンテンツを享受できる。
扉はいつだって「リンク」の先に開いている。

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「人との付き合い」はネットの世界と現実の世界では違う。
どの世界で暮らすのか、、、、「自然」はモニターの世界へと人を誘うかもしれない。

現実の世界は、魅力がない、、、、のかもしれない。。。。
現実の世界の魅力を、大人は伝えているだろうか?子どもは感じているだろうか?

子どもは、何を「よろこび」と感じているんだろうか。

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気質はかわらないかもしれない。
インドアが好きな子、だっているだろう。

けど、

「本人の気持ち」が一番、というけど、本人の中に眠っている気持ち、というものもある。

かもしれない。

家の窓を開けて空気を入れ替えるように、子どもの心に風を送り込んであげることを、子育てに取り入れるのもいいとおもう。
美術館に行く、お出かけする、公園で遊ぶ、山に行く。。。

年齢によっては、もう「できちゃってる」子もいる。
9歳、がひとつの目安。

自分の能力の限界を知って、その中で、うまく生きようとする。
そんな9歳の生き方を理解してくれる大人と出会った子どもはしあわせだ。

オトノネは、ある意味で子どもの「ギャップ」になるだろう。
学校に適応した子にとっては「自己」が求められるオトノネは脅威だ。

キビシイ笑

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教育とはなんだろうか、ということをちょっと考えてみた。
伝えるべきこと、伝えてはいけないことが何か、僕が教師になった時からもんもんとしていること。

縄文時代であれば、はっきりと「生きる仕事」の手伝い=学びだったろう。
それも大人の真似から始まった。
大人の手伝いから始まった。

教育は、子どもではなく、大人の問題なのかもしれない。

「大切なこと」はなんだろう。
お守り
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えーストレス『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』

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飴玉が目の前にあるという環境で窒息死してしまう人がいる。
足腰が弱って寝たきりになって、寝たきりが加速して死んで行く人がいる。
ストレスで飽食したりアルコール中毒になったりして死んで行く人がいる。

「自然」は恐ろしい?

生まれて死んで行くだけなのに、やたら心配しちゃうなぁ

環境、遺伝、それから意志。

環境は変えられる。
意志は変えられる。
遺伝も変えられる(エピジェネティクスの範囲で)。

生まれて死んで行くだけなのに、やたらやきもきしちゃうなぁ

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉の遅れ?言語遅滞?専門家・プロがいない日本でどうしたらいいか。

言葉の遅れ?言語遅滞?専門家・プロがいない日本でどうしたらいいか。

みんなね、子供が生まれたらね、まずオトノネに来たらいいよ。
と思う。

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日本には、専門家がほとんどいない。

ということは知っておいたほうがいい。

子どもの自閉症と日本の療育
言葉の遅れに関しても、いやいやどうやって関わったらいいのか、マニュアルは伝わっているが、心が伝わっていない。
本質が伝わっていない。手順だけ伝わっている。

そんなマニュアル大国の日本で、こういう情報をみんな知っているんだろうか?
言葉の遅れを、一週間に一回、数時間の定期テスト対策じゃどうしようもない。
というかすべてのお母さんたちが、知っていたらいいのにとおもうことだ。

言葉は心。
伝わっているのか。
大人の工夫でだいぶ子供も楽に学べるようになる。
コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

学校も塾も医者も、専門家がまるでいない。
専門家がいないのだから、プロという言葉、本物という言葉の意味もみんな知らない、というのが現状だから、どうしようもない。
経験値だけ高いアマチュアが、プロと名乗っているのだから、どうしようもない。

いないものはしょうがないから、諦めるしかない。

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この記事を書こうとおもったきっかけはコレです。

で、さらに、youtubeでの実演。

2語をちゃんと、伝える、大人の、子供への、言葉の離乳食。
本来なら「自然と」子供の反応をみて、こういう選択をする賢いお母さんの子が、知的に育ち、言葉と心を鍛えていたのだろうが。
今は、それがどうやら、「自然」にはできない事情ができたのかもしれない。

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子育てをアプリに頼る時代、人間のマニュアル化の最先端であり伝統でもある学校の現場だけでは済まされなくなった人間疎外社会をどう生きるか。

もしかしたら、人間を諦めて、ロボットになったほうが、楽に死ねるんじゃないかとおもう。

言葉を覚えるのはいつだろう。
勝手に「自然に」覚える、その「自然」が、試される。
家庭、保育園、学校、地域、言葉を学ぶ、「自然」のリッチネスが、試される。

アメリカの古い、昔からある研究だが、「言葉」の発達は、上流階級の子供の方がいいそうだ。
親が抽象語を使うから、論理的に話すから、だという。

50%は遺伝、50%は環境と言う。
だが「言葉」はもっと高い割合で、環境だと、ぼくは思う。

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『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア ブラック

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック , 水澤 都加佐
子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

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子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

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さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。

調査・日本の飲酒実態


家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です

日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは?

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
  【令和元年12月1日現在(概算値)】
    <総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
 眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
 理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
 ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
 知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

オトノネひろげるシェアぼたん

【魔王と戦う知恵】情報リテラシーの宿題

https://www.nta.go.jp/information/release/kokuzeicho/2019/minkan/index.htm

問1:このデータによって内閣府が主張しうることは何か。
問2:問1で書かれた主張を反駁するためにはどのようなデータが必要か。

こんな大学入試問題だしたらいいのに・・・・

相手の心を読み取るには、相手の状況をまず、理解することが大切になります。
理解するには????「知る」ことです。
読み取るには???「心」です。

え??学校で教わらなかった?笑

オトノネひろげるシェアぼたん

【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

学ぶということはどういうことか。
本当に学ぶとは、自分の精神を未知の世界、危険にさらすことだ。

という一面があるように感じたので書き綴って見る。

封印されていた「事実」を知る。
感じられていなかった「本当の世界」を感じる。
そうした「知」が、人を不安にさせるかもしれない、ということだ。

日本の現実、本当の姿を知った人は、悲観せざるを得ないかもしれない。(喪失体験
絶望するかもしれない。
そうして死んでしまうかもしれない。

「知る」ということと同時に、「心をつくる」こと。
知行合一というが、僕は知心合一と言ってみたい。
でなければ、心は崩壊してしまう。。。。とおもった。
「知」のレベルは「心」が決める。というか、「知」はチカラだ。そのチカラを使うメタなチカラが、「心」だ。


心が大事。

だから逆に、心がしっかりしていなかったら、「学び」は薄っぺらくもたれかかる紙切れになってしまうだるおお。
心が、意味を、「知」の響きを感じられないからだ。
そう考えると、世の中で「知」と呼ばれているものは、大したことではないのだ。
ただの不安や欲求をかき乱す刺激なのだなとおもえてしまう。

だからオトノネ!笑

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僕が心を揺るがした記事はこれ。

人類とネアンデルタール人が想定よりも古くからセックスしていたことが判明
結構古い記事だ。

嫉妬がネアンデルタール人を絶滅に追いやった!
こっちの記事は、本当かどうかわからないけどいろんな情報が詰まっていて、刺激になる。書いた人の妄想、推測の部分が多い、。。。

で、僕はこういう疑問を持ってこれらの記事を読んだということ。
「人間の暴力性は、人間の本質なのか」

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かつて、「ホモ・サピエンスってネアンデルタール人に犯されてたんだってよ」と友達が言っていたのを覚えている。
それで、ネアンデルタール人が凶暴性をもっていた、暴力性がつよかった・・・・という前提で僕の思考は進む。
それでも死者を埋葬するという文化(?)があったらしいのだが。ネアンデルタール人の埋葬を改めて確認

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ネアンデルタール人は、狩がうまいとか、肉体的に強かった、という記述がある。
こういうところから、ネアンデルタール人→暴力性というイメージがでるのかも。
「ヒトは何故生き残ったのか 第二集の見どころ」
それが正しいとしよう。

また、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人よりも多様な音声言語が使えたという。
それも正しいとしよう。
ということは、ネアンデルタール人は埋葬の文化とかあったみたいだけど、文化を伝えるとかそういうものにはよわかったっぽい。
だからネアンデルタール人→新しい状況に耐えられない(暮らしを変更できない)
ホモ・サピエンスはなぜ生き残れたのか【ネアンデルタール人との違い】

ネアンデルタール人のネアンデルタール人らしさは、狩に行く男にあり、
ホモ・サピエンスのホモ・サピエンスらしさは、文化を子供に伝えたり、道具をつくる(?)女にある、としたら。。。

ネアンデルタールがお父さんで、ホモ・サピエンスがお母さんの組み合わせが最強だ。
もっとも環境に適応しやすかっただろう。

もっとも暴力的な男性が集団に必要な狩を成功させるために必要とされた。
またその男を組織化させるような平和的な女性が、集団を成立させるために必要とされた。

この記事にはこんなことが書いてある。

これまで、ヒトの起源であるホモ・サピエンスは、約6万年前にアフリカ大陸から移動を開始して世界各地に広がって行ったと考えられていました。その拡散の過程で、ホモ・サピエンスは当時まだ生存していたネアンデルタール人と交配を繰り返していたことが判明しています。これを裏付けるのが、現代のヒトが持つゲノムの中には、ネアンデルタール人に由来するDNAが1%から4%の割合で含まれているという事実です。なお、このDNAはヒトが持つ鬱(うつ)やニコチン中毒といった症状の元になっているとのこと。

ん?薬物とか酒とかタバコとかの依存症になるのは男性が多いってこういうこと?
男性の方が女性より、ネアンデルタール人のDNAが多いのかな???

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こうして妄想を進めると、人類の父であるネアンデルタール人はそもそも暴力性をもっており、
人類の母であるホモ・サピエンスは平和性(暴力性の対義語ってなんだっけ)をもっている、、という短絡的な人類像にいたる。
(この知識の不確かさはさておき)

そうすると、今の社会、というより人間の社会は、男性が動かしている限り平和にはならないというフェミニズムめいた考えになることもでき、さらにはかつて母系社会だったという話の意味もわかるかもしれない。中国の神話では女媧と伏犠が絡み合って世界を成り立たせている図がある。

また男と女の戦い(駆け引き)というものが、神話の世界にもよくある話。

一人の人間の中でも、この暴力性と平和性(いい言葉が浮かばない)が混ざっているとしたら。
一人の人間という宇宙のバランスを保つための心がなければ、どうして暴力性を止められるだろうか。

暴力も、平和も、人間の中に半分ずつ組み込まれている。
暴力は、人間の世界に、ある、のである。
平和も、人間の世界に、ある、のである。

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同じ話を、縄文人と弥生人でしてもいい。
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた

大和朝廷、現在の日本人のルーツとなる人たちは、日本の原住民、縄文人を制圧していった。(日本の歴史によれば)
南から、北へ、、、、先住民のたちは征服民の人たちから蝦夷の人と呼ばれていた。

なぜ、征服していったのか?
なぜ、人は、侵略するのか?
なぜ、人は争うのか?
平和に暮らせないのか?
平和とはなんなんだ!?

土着の人は、住んでたんだよ!
(侵略の歴史・暴力の歴史が、人類の歴史なのだろうか。実際、そんな歴史ばかりを学校で習う笑)

鬱=不安という感情の処理がうまくできず(言葉=心)、支配=コントロールという暴力に頼るしかなかったという、未熟な人間の姿が、今も、昔も、変わらないのではないかとおもってしまう。

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暴力性が、人間が生まれたときから刻まれている本性だとしたら。。。
この社会は、とても自然な状態であり、別に、泣いても笑っても、悲しんでも喜んでもなんでもない、ただただ、人間らしい姿なのだとおもえてしまう。暴力は人間の本性なのだと。支配は、人間の本性なのだと。児童虐待も、自殺も、DVも、人間の本性なのだと。

これが事実だとして、その事実を心はどう受け止めるか。
「だから、私もその暴力に加担しよう。暴力の中で生きよう」とおもうだろうか。
「だから、子どもにも暴力を持たせよう。子どもを、戦場に送ろう」とおもうだろうか。

「心」は「知」に耐えられるだろうか。

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もっと別のことを考えてもいいだろう。

女性が女性らしく生きる、ということは、男性と同じように働くこと、ではない、のではないか。
と僕はおもう。

男性と女性が、二つ合わさって、人間ができるのだから。

トランスジェンダーという言葉が最近話題になっているようだが。
それは、平和と暴力の境界、支配と自由の話なのかなと、僕はおもう。

ーーーーーーー

結局は女性の(男性)社会進出ではなく、
男性が女性社会を守るだけでいいのに。。。と僕は言葉を漏らして見みる。

女性社会とはなんだろうか?
人間として、女性という個性が尊重されることだろう。
子どもの個性は勝手に伸びると、とある先生はのたまったが、女性の個性は潰されていないか。

男性が、暴力があふれた世界で、女性を人間の個性として、捉え直してみたら、どうだろう。

お互いの世界を守る、お互いの本質を理解する。少なからず理解する、そういう世界があったらいいのだと思おもう。(だから男の人のオイタなことも、女の人は大目に見たらいいのかもしれないし、女の人のオイタなことも、男の人は大目に見たらいいのかな?)

心が大事。

現実を知るためにも。

心を育てよう。

暴力にさらされている命があることに、気づけるような心を。

自分の中にいる男性と女性が、自分の心の中で、平和な家庭を築けるような心を。

パーソナリティ特性の記事でも書いた気がするが、人間の半分は遺伝であり、半分は環境であるという。

富山県・もしくは日本という場所は、可能性の半分である環境がほとんど絶望的だとおもったら、もしそれが「現実」だとしたら、、、
その「知」に耐えるための「心」を、僕はもっているだろうか?
絶望の中で漂泊する人生を、送ってしまわないだろうか?

こういう戯言を、今日も長々と書いてしまって、全く申し訳なくおもう。

ーーーーーー

子どもは環境に順応する天才だ。
お父さんお母さんの心の歪みにも順応する。
お父さんお母さんの硬直した、「現実」を受け付けない心にも順応する。
順応した結果、「立ち止まる」かもしれない。
「立ち止まる」ことができなかった、大人の代わりに。(大人は、失敗したのだ!)
「立ち止まる」とは、成績が落ちるとか、勉強しないとか、病気になるとか、グレルとかそういうものも含めて。

性をもって生まれてくる子供。
命をもって生まれてくる子供。

親という環境、大人という環境の中でもう一度生まれ直したいとおもう子供もいる。
それすら支配してしまうなら、親の名前を捨ててヒトラーを名乗るといい。

「小さなブッダ」
「小さなガンジー」が僕らを見つめている。

あなたを見つめている。

ーーーーーーー

ネット上で、悪口をいうことが流行っている。
いやいや、事実を書き綴っているだけかもしれないが、、怒りを感じる。
僕が富山高校とか高岡高校とか富山中部高校とかに限らず事実を伝えながらも、僕の感情もでてきてしまうからいたしかたない、といえばそうだが。

怒りを感じて、
怒りを発信して、それで、何か、いいことがあっただろうか。
なんども怒りを発信して、暮らしは豊かになっただろうか。

いろいろな事実、相手を非難する事実を見つけては投稿し、罵るような人がいる。

同じ事実を見つめる人でも、その刺激に対して心の反応はまちまちだ。
「知」は生き方を生み出さない。生き方を生み出すのは、「心」だ。

やっぱり、心が大事。

ワクチンか何かを発見した人は、たしか、「たまたま」ウィルスが死んでいく現象を目撃した。
日常的に誰でも目にする「事実」でも、それに気付けない人がいる。
気づくことができるような、自然な心のあり方すら、暴力によって、壊されてしまっていないか。

僕自身、しっかり感じなきゃなとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』カール・ハインツ ブリッシュ

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ
『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』カール・ハインツ ブリッシュ

躾と気締めである。

しつけは身の美しさであって、けじめは気を締めること。だということにしておこう。

けじめをつけることの大切さを感じる。

自由、自由というが、そこで自分の気をコントロールできるかどうか。

たくさんあそんだ!それから次の行動に移っていく。

解放させた気を締めること。


それがケジメ。

もしくは如何にコントロールしながら、解放するか。


それがケジメ

「じぶんひとりなら」ダダ漏れしていた気を、その状況に応じて、調節すること。
それもケジメだ。
(家の外では出せない気を家の中で出していて、お母さんが怒る、という笑い話もある。外では出せないから、家の中で出しているのだ。例えばそれが「怠け癖」だとしたら・・・家の外でケジメをつけすぎていて、疲れているのかもしれない。)

気分が暗い時、暗い気持ちにけじめをつけて楽しいことをしてみること。楽しい気分でいるときに「あ、けどこれもやらなくちゃいけなかった」とか。当然といえば当然のこと。

しつけといって仕舞えば、「いい子」になることのように聞こえるが、けじめといえば「自律した子」のように聞こえる。しつけという言葉には、支配的な、文化的な響きがある。

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ケジメは、感情をコントロールすることだ。
感情をうまく使っていくことだ。

0歳の時から、このケジメは始まる。
泣いている赤ちゃんに「声をかけてから」ミルクの準備をする。
それを続けただけでも、「声をかける」ことで赤ちゃんは安心して、泣くのをやめるようになるかもしれない。
気を締める。

心は、0歳のときから、作られる。

少なくとも、感情を押しとどめる、「いい子」でいることはケジメではない。
それは気詰まりであり、息苦しさだ。(破裂するまで、しばらく辛いだろう)

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少し大きくなって、「褒める」ことばかりをしていると、何も考えない、できないと癇癪を起こす子になる。
「褒める」といいという定期テスト対策的子育てが流行っているらしいが、僕は全くオススメしない。
「与える」にしても同じだ。「なんだこんなもの」と大人が思い買って与えるだけでも、子どもにとっては「もの」ではなく、泣いたら、駄々をこねたら与えられるのだという現象を学ぶことになる。

ケジメは、いいこと、わるいことを教えることではない。
感情をコントロールできる、大丈夫だ、僕は一人でも大丈夫だ、という自立心と自信をもつこと。

これが、ケジメの目標だとおもう。

ケジメができていないと、将来どんなに生きづらくなるか。

ケジメは、押さえつけることではない。
自由を、使いこなすことだ。
自由を使いこなし、大切な人、大切なものを守るためのものだ。

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しつけという言葉は、子供をペットにしかねない。
ケジメ、という言葉をつかってほしい。

子供の気持ちを、どんなエネルギーに変えたらいいのか?
それもケジメのひとつ。

「学校でこんなことがあったの・・・」
こんなことを質問されたら、どう答えるだろうか?

まだ気が締まらない(どうやって気を整えたらいいかわからない)状況を、心が処理するしくみをつくること。
これもケジメをつけることだ。
ただただ押さえつけることではない。

「気にしなくて大丈夫だよ」というか。
「それは先生にいわないとね!」というか。
そのお母さんの言葉の感情が、その子にも伝わるだろう。

「どうしたかったの?」
「何を感じたの?」と、問いかけて、子供の頭の中で、心で、もう一度整理する時間をつくってあげることを、僕はオススメするけれど。

一人では難しい、心のプロセスを、手伝ってくれる人に出会った子どもは、しあわせだ。

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子供の未成熟さが、弱い子供、弱い大人をつくりだす。過保護が、子供を未熟にする。引きこもり、いじめ、8050問題、DVや暴力、ストーカーなどの社会現象の根源は、親の過保護にあり、親が過保護にならざるをえない社会の不安にある。人を愛せない、共感できない、相手のことを考えられないなど、多くの政治的社会的に高い地位にある大人たちも未熟な状態であるために、日本は混乱している。児童虐待もDVも不登校も、政治的な混乱もなくならないのは、過保護を引き起こす社会不安によるものだ。恥や罪の意識は子供にも伝わります。

子育ては、親育てでもあります。
子どもからたくさん学んでください。
お母さんが子供時代にやれなかった宿題を、子供にやらせずに、自分でやってみてください。
お子さんと同時に、お母さんの宿題のお手伝いも、オトノネはしたいとおもっています。
わかっているお母さんもいるとおもいます。
でもどうしていいかわからない・・・
お子さんに、お母さんやお父さんの心の未熟な部分を押し付けないですむ方法を、一緒に考えましょう。というか実践していきましょう。
怒りや不満、不安や悲しみを子供に押し付けてしまっていませんか。
僕もまだまだ未熟さをかかえたまま、前にすすんでいます。

大丈夫です。

「知る」ということだけでも変わるかもしれません。
お子さんの成長をみながら、「感じる」ことで変わるかもしれません。
そのプロセスはわかりません。
だから一緒に、はじめてみませんか。

いつまでも誰かにえらいえらいと言われていなければ心を保てない子、実力がないのに偽りの賞賛を与えられてきた子、本当の自分を隠してきた子。思春期に、悩まなかった子。悩むことを許されなかった子。自立した人間として向かい合ってくれる大人に出会えなかった子。「ノー」と言えない子。挫折・失敗に弱い子。病んだエネルギーは、誰に向かうのか?自分の心身症になる人もいれば、他者に対する暴力というかたちをとる人もいる。DVに気づかないお母さん、児童虐待に気づかないお母さんもいる。アルコール依存症、セックス依存症は、「もう自分ではどうしようもない」無気力、無力感の叫びだと、僕は思っています。

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オウム真理教を覚えていますか。
知っていますか。

「娘を教団に取られた」というお母さんが記者会見をしたときに、その娘さんが「お前たちは帰れ!私たちの邪魔をするな!」みたいなこと(すみません正確にセリフは覚えておらず、ただ自分のことを「私たち」と呼び、母を「お前たち」と呼んだということです)を言ったという。

よくある話で、教団に入って洗脳されてしまうような子に、子どもが育ったことに、お母さんが気がついていないのだ。

お母さんのせい、ではない。
といえるかもしれない。
この社会が悪いのだと。

では、子育てとはなんだろうか????

心から笑いあえる時間を大切にすること、といってもいいかもしれない。

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過保護とか、虐待とか、小さな暴力が当たり前の世の中になっている。
大人の世界がそうだから、子供の世界もそうなる。

大きくなってからの「治療法」をみると、、、やっぱり、鏡になって、向かい合ってくれるもう一人の自分との出会いなのだとおもう。(その関係が、医者とかカウンセラーでなかったのなら、一方的な関係は、続かないだろうが。。。)

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ

この本には「生まれる前から」「生まれた後も」妊娠・出産・子育ての段階でそれぞれ親の宿題に親が取り組む実践(ということは、親以外の人も取り組むということ)を書いている。
基本、話す、心から話すような状況をつくる、、ということなのだが(だいたいオトノネも同じことをしている)、話すだけに限らない。行動しながら、変わっていく。

この本は過保護だめよーというやつ。治療法とかは抽象的すぎてわかりにくい。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

【ずっと小学生その2】学校に魔王がたくさんいるのはなぜか。

熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)
『熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)』

振り返っていままでに買った本を読んでいる。
この本は大学時代か、教員時代かに買ったもの。

当時、その意味というか、現場でどれくらい役立てられていたか・・・(書かれていることの重みが、わかっていなかっただろう)

僕は高校の教員免許だけしかもっていないので、小学生・中学生のクラスは持ったことがないのだが。
疑問はただひとつ。

なぜ、小学生中学生で習っているはずの事柄を、高校生が知らないのか。

これは現実であって、教師としての仕事を全うできていない教師が多いという何よりの証拠だ。
これは事実だ。

ーーーーーー

人間に対する不信感を抱いている子もいる。
それこそ、教師、学校に対する不信感を、敵意を抱いてくる子もいる。

小学校・中学校で何を学んだのか。

お母さんたちは、ご存知だろう。先生には当たり外れがあると。
当たりの先生は、人がいい、かもしれない。
それは知恵と技術を持った、愛ある先生なのか、それとも、ただ慈しみのある情ある先生なのか。
愛とはなにか

情のある先生に出会えただけでも救いだろう。


けれども、愛がなければ、教師としての知恵と技術がなければ、子どもは「先生から何も教われない」

だから、たまたま「できる」子が先生からかってに学んで、「できない」子は置いていかれる。

その結果が、中学、高校になって出てくる。
高校受験・大学受験のレベルも落ちて来ている。

これは、事実だ。
(ノートがかけずに、プリントの穴を埋める作業する高校生たち)
(食べ物を自分で食べれず、流動食を流され続ける人とイメージを重ねない人はいないだろう)

人間の質は学ぶか否かにかかっていると僕は思う。
それはつまり、学び方を学ぶ、または「教えるべきこと」を教える教師の質にかかっている。

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子どものためを思うなら、教師をやめるのも手だ。
自分が病気だ、ただ作業として授業をしている、喜びを感じない、子どもの成長を感じないとおもうなら、教師をやめたほうがいい。
給料のために子どもを食いつぶしていないか。

ひどいものだ。

テストの後、グループにして、点数を見せ合う。
そんな魔王が、学校という場所に存在しているという。

恐れ憎しみ悲しみを育てて、どうするつもりなのか。
(もちろん、できる子に優越感を持たせてもっと勉強させるためである。貧困を助長している)

え?それで、励ましているつもりだって!?


身を落とすことを教えて、それを教師と言えるこの国がおかしい。
先生がいけないのではない。
先生という存在を生み出す仕組みが壊れているのだ。

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犯罪者は罰せられる。
犯罪者を生み出した社会は罰せられない。
この論理をとれば、多くの先生は犯罪者として罰されなくてはいけない。
だが、僕は先生を擁護したい。
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学ぶという仕組みが、壊れている。
「生き残れれば、それでいい」レベルまで教師のレベルが落ちている。
それは、学校という組織のレベルが落ちたことが原因だ(昔から低かったから今こうなったといってもいい)。

そのしくみも、この国独自のものだ。
教員免許は、「いい子」にしていたら誰でも取れる。
西欧なら大学院、もっと研鑽を積んでからでないと、教師の資格はとれない。
また現場に立つまでに定期テスト対策的な「教育実習」では終わらない修行期間がある。
その間、きちんとメンター、担当がついてくれる。

雑務で忙殺されている先生に、教師を育てる時間も、子どもを育てる時間も、期待できない。

だから、お母さんたちは困っているのだ。

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そうか!この学校の暴力を隠蔽するために、全国学力テスト対策をがんばっているんだ!
「いやいや、お母さん、学力はほら、富山県は全国トップレベルなんですよ!」とのたまう魔王の姿が目に浮かぶ。

そんな教師には、こういったらいい。
「最近、○○さん(先生と呼ぶ必要はない)は何を学ばれて、どんな実践を教室でされているんですか?」

教師という虎の皮をかぶった、魔王かどうか、ただの狐か、それとも本物の虎か、わかるかもしれない。

「どんな結果がでたか、報告もしてくださいね」と一言入れてあげよう。
お母さん、お父さんが、教師を育てなくてはいけないのか・・・・・全部、、、、家庭負担かよ。。

子どもを育てるために、お父さんお母さんが学校の先生をそだてなくてはいけない。
そんな世の中になってしまった。

オトノネひろげるシェアぼたん

いつまでたっても、小学生。

こんな世の中で、体ごと死んでいる子もいる。
心が、殺される子もいる。

僕はそんな子どもたちの心を守って、一緒に遊びたいとおもう。

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とある本にこんなことが書いてあった。
ちなみにこの著者は、小学校で国語を専門にしている先生。
今はもう小学校で仕事はしていないようだけど・・・

教師は手綱を放してはならない。

子供が自主的に目当てを持ち、学習の計画を立て、実践し、その当否を検討確認し、学び方を身につけていく…。そんな子ども任せの授業論は、机上の空論に過ぎません。自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。私の授業では子どもが発言をするのではなく、発言させられるーつまり、発言しないわけにはいかない場に子供を追い込んでしまうのです。たとえば、「この意見は正しいと思うか、違うと思うか」いずれかを選ばざるを得ない状況をつくる。そうしてすべての子どもに自分なりの答えを選択さえ、あらためて「なぜそう思ったのか」を考えさせる、これが私のやり方です。

野口流 授業の作法

学ばねば、やってみなければ、わからないことがある。それを教えるのだと。
(この文章は「自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。」という、放任型の手抜き授業をする教師への言葉ともとれる)
なるほど。
その点、この本の著者である小学校教育では、たしかに手綱を離さない授業が、必要になるのかもしれない。
手綱というのは、知性を司る人間の、知性を働かせるための操縦法をいうのだと僕は思った。

管理、という意味ではない。

小学校が終わり、中学校に入ると子どもの世界が広がる。
人間を、大きな社会の中で捉えられるようになる。

そうすると、授業の教材がかわる。
教材が変わると、また大人の「手助け」が必要になる。
そうして、手綱は、ずっと、弛まない・・・のだろうか?

例えば、小六であれば、小学校の総決算として、小学6年生として自律的に授業を進められるのではないか。
どうだろう。
ずっと先生が、手綱を引かなくてはいけないのだろうか。

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生徒自身がメタスキルを使って、自分の興味関心・自分の道を深めていくプロセスは、いつ始まるのだろうか?
大人になってから急に「自分1人」になって、誰の助けも借りられずにサポステにいく高学歴の子どもが多い(もちろんサポステはその情報を出しませんが)。

人生そのものが、長い長い学びのプロセスだと言えば、別に学校なんて小さな出来事だということもできるんだけれど。

個別化はいつはじまるのだろうか???
おそらくそれは、学校教育ではない。
現代日本の学校教育に、個別化は望めない。

ーーー

別の国では○○プランとかいって、生徒の主体性・自主性を重んじた「プロジェクト」という学び方を採用している。
イエナプラン・ドルトンプラン・もしくはモンテッソーリとか。。。

ーーー

子どものときにメタスキル を、言葉のチカラをつけずに、大人になった子どもが、どんな生き方をするんだろう。

子ども「わかりません」
先生「じゃぁ他の人」

で進んでいく授業で、子どもは何を学ぶのだろう。
それこそ無気力を学ぶのではないか、心配している。

学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?

学校で、家で、小さい時に満たされなかった心を、大人になってから、DVやらモラハラ、パワハラ、もしくはドロドロのポジションの奪い合いの競争の中で満たしていく。それが現実ではないのか。

宿題をしてこない、課題を出さない、で叱責する自称進学高校の先生たち。
小学生か。
親を味方につけたり、罰を与えて、なんとか宿題、課題を出させようとする先生たち。
園児か。

周囲の考え方に合わせたり、機転を利かせる優等生がいる。
一方で、いつもギリギリの場所で、自分をみつめ、自分の感情を大切にしながら他者と関わろうとする子どももいる。(いわゆる「問題児」と学校で呼ばれる子)

こうしたいろんなタイプの子が集まってつくりあげる社会をつくるための「しくみ」を学ぶことが、大切なのだとおもうのだが。
学校では前者が善とされ、後者は排除されるか、隠されてしまう。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

なんて貧しい国なんだろう。

オトノネは、個別化を大切にしています。
オトノネは、個別化していく子どもたちが、お互いに学び合うことを、大切にしています。

オトノネひろげるシェアぼたん

「子ども」に先生の値打ちを「問う」

「今日はなにを学んだの?」
と聞いた時に、「足し算」とか「漢字」とか、単元の名前とかがでてきたら、多分その子は大切なことを学べていない。
「今日は何を習って来たの?」「エチュードの○番」とか、「クリスマスの歌!」とか。
僕が聞きたいことはそこではない。

「今日はなにを学んだの?」
という質問をわかりやすくしてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

こう質問してみるといい。

心に残っている部分が、その子がその先生から学んだことの印象であり、実態だ。
それが「足し算」とか「文法」とかそんなものであってはいけない。

さっそく、新学期がはじまったら子どもに聞いてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

「宿題を期限までに出さなかったら○○だって」みたいな返事が返ってきたとしよう。
それが、その子と先生の関係なのかもしれない。

もう少し聞いてみてもいいだろう。
「一番、心に残ってる、大切な話はなかった?」
「うれしくなった言葉は?」
「かなしくなった言葉は?」

子どもたちは、どんな大切なことを、大人から学んでくるんだろう。
いいものを、先生からもらわずに、いったい何を先生からもらっているんだろう?
魔王の言葉???

学校は、ただの場所を表している。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。

先生は、学校の管理人であって、学びを与えてくれる人ではない。
囚人に日課(作業)を与えてはくれる警備員のようにもおもえてしまう(富山県の議会の部署(委員会?)で、教育と警察は同じ場所にいる。これは全国みんなそうなのか?)。
これは批判でも悪口でもなく、事実だ。(事実すら、見えない人には見えないのも、また事実)

先生の「子ども」にとっての値打ちを知りたければ、「問う」ことをしてみよう。
その答えから導き出される「子ども」にとっての先生の値打ちが、なんか変だな。とおもったら、オトノネに遊びに来てください。

「どんな先生?」
という言葉で聞いたら「やさしい」とか「いや」とか「たのしい」とか。いろんなエピソードを聞かせてくれるかもしれない。
それなら、学校に何をしに行っているのか、僕にはわからない。

聞き方も大切。

ん?学校に「しつけ」のために行っているのか?????
学校にいる子どもたちをみると、崩れていく日本の社会を新しくするチカラではなく、ただ崩れていくものに埋もれていく人柱にみえてしまう。
それは僕の偏見だろうか。いやいや。事実です。
言葉を育てず「躾」つまり体裁を整えるように、世の中は動いている。
その魔王の代表格が「学歴」とか「成績」という言葉だ!

事実に気がついたお父さんお母さんが、オトノネを大切にしてくれたらいいなぁと強く思っている。

しつけとけじめ
言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。
しつけと道徳的行動の関係の研究

オトノネひろげるシェアぼたん

親に「安心」を売る塾という名の魔王

あくまで、多くのお父さんお母さんの状況を僕が察しているわけでして。
オトノネのブログファンの方にはあまり新しい内容はないとおもいながら。

「じゃぁそもそも誰のために、この記事を書いているんだ?届けたい人に、届いて居ないじゃないか」と、
新年早々鬱々としているおとのねさんです。

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塾とは何か。

優れた塾とは何か。

優れた塾とは「親に」より便利でよりお手軽によりたくさんの安心感を提供する塾のこと。
このために合格実績やらさまざまに細分化されたコースを用意したり、「偏差値30から!」とか、「発達障害のお子さんのためのシステム」とか、送迎サービスを売ったりする。宗教とあまり変わらない。テレビのショッピング番組と変わらない。
(だからオトノネは塾ではありません。オトノネです。)

そうして子どもを塾に通わせながら、親は「安心」というサービスをうける。
子どもの学びではない(そうでなかったらなぜ何ヶ月も、何年も、子どもが学べて居ない塾に通わせることができるんだろう?)。
それが洗脳であっても、「行かないとお母さんが困るから(富山高校生の言葉)」という子どもの親への気遣いであっても。

「安心」したいという不安はどこからきているのか?
不安な世の中、こんな恐ろしいお母さんもいるという。

削除されたみたいなので別のページから貼りなおします。

実際、こういうお母さんがたくさんいる。
東大京大早慶でなかったとしても、「学校の定期テスト」レベルでやきもきしているお母さん。
「定期テスト対策」をさせているお母さんが多い。
「大学受験対策」を、小さい時に、頭を撫でながら行なっていく、こんな長期間にわたる「対策」で心が死ななかった子どもがいたら奇跡だ(もし、子どもに思春期すら許されなかったのなら、、、)。

それだけこの世のなかには不安が、魔王がチカラをもっている。
医療もそうだ。
宗教もそうだ。
教育もそうだ。
福祉もそうか?
政治なんてまさにそうだ。
頭をおかしくする、健康にならない、薬漬けにする、やたらレントゲンを撮りたがる医者(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
心を救う以上に、心に巣食う宗教(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
生徒の学びよりも自己保身にまわる学校(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
福祉ではなく福死の現場(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
倫理も論理もあったものではない政治(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)

不安が、魔王が、そこら中にいる。
悪霊に満ちている。
平和どころではない。

だから、「不安」を金儲けにする、「安心」を売るサービスが増える。
それは本来、教育業ではない。キャバクラやホストクラブと同じだ(実際、キャバクラ化・ホストクラブ化している学習塾・予備校の状況を、目の当たりにしてきたから言える)。「こんなコースをとったら?」「増やしたら?」「夏期講習だよ!」「ドンペリ開ける?」笑

いやべつにいいんだけどさ。。。
塾で出会う先生が、一体どんな先生か。
それで塾がキャバクラ・ホストクラブになるか、USJになるか、それとも人間としていろんな成長ができる場所になるかが決まってくる。

結局、塾のシステムでも合格実績でもなく、先生選びが大切。

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シューベルトの『魔王』

僕が中学校時代に出会って、譜面も読めないが全て友達の力を借りて弾いていた曲。
今日、ラジオ番組で流れていて、ああ、そういうテーマとして読み替えられるんだなと感じた。
芸術の力を、僕はうまくつかえていないようだ。

すでに子供は、魔王の手の中にある。
子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
子どもは小さく、親に抱かれる。

子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
そのうち、子どもはの心は、死んでしまう。

まず、魔王の存在を、きちんと感じてみよう。
感じすぎると、病むから注意(魔王を見るにも心の修行がいるようだ・・・)。

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治らない肩こりの痛みを和らげるために通い続けるマッサージ店と似ているかもしれない。

それで肩こりの原因となる心的肉体的負担が減るわけではない。

定期テスト対策で、子どもの何が成長するのか。
定期テスト対策をする習慣(もしくは赤点後の課題さえすればなんとかなるんだという処世術)を学ぶんだろうか。

子供がプレッシャーをうけずにいられる場所、という価値すら、輝いて見えてしまうほど、日本は不安に満ち満ちていると僕は感じている

子供にとっての塾の価値はなんだろう。

塾に価値があるとしたら、お客さんとして、学校のように叱責もされず、プレッシャーもうけず、ただただ過ごせる場所、という価値なのかもしれない。
それすらも、子供にとってはプラスになりうる。

そういう世の中になった。

新年一発目のブログは、「魔王」でした笑

教育は社会問題。
「成績が悪い」のはお子さんではなく、地域全体であり、日本です。
もう1人で悩むのは、やめませんか?

多くの事柄を個に起因して、社会(組織)としてとらえずにチカラ散財させることで、僕たちは力を奪われている。
魔王に。

協力することを、学んでこなかったからだ。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

みなさん、初詣で何かお祈りしてきましたか?
祈りの言葉を間違えると、魔王のチカラが増えてしまうので注意!

魔王のチカラを増幅させる塾や学校(自民公明党)には、注意!

心が大事。

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学歴社会、理想の母親像、テレビの中にでてくる豪邸、もしくは貧乏暮らし、「不安」を買い取り、「安心」を売るしくみに溢れた世界から、自分の身をまもるために。・・・やっぱり、子どもとしてきちんと成熟させてから、大人にしてあげたいとおもう。

社会は、こうした個人の歪みを和らげられずに、逆に歪みを拡大し、「不安」と「怒り」の市場を拡大させようとしている。
ああ、こわいこわい。

どうやって笑ったらいいか、わからなくなる。

オトノネひろげるシェアぼたん