不登校とは、学校を変えるとは、県外に逃げるとか海外に行くとは、「戦うか逃げるか」という選択なのか。

学校に行くかいかないか、というのは、塾に行くかいかないかと同じくらいのレベルだとおもう。
塾にいかないなら、家でやるといい。
家でできないなら、それは別の場所を探さなくてはいけないが。

肝心なのは、子どもが学校の環境で困難を感じているということであって、どんな声かけをするか。
どんな風に、その子の学びの機会を補償できるか。

強みを、強められるか。

ーーーーーーーーーー

女性は男性よりもおたがいに強い友情を育て、一族の世話をする。心理学者のシェリー・てイラーは、すべての哺乳類において、脅威に対する「闘争もしくは逃走」反応は、実際にはオスだけに特有の反応だとさえ述べている。女性の場合、脅威に対する反応は「世話と友情」という方が適切であろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.194)

遺伝的にも、人格的にも不利な場所でも、環境の中で最適化をすることを選択する心がある。
遺伝的にも、人格的にも、不利な場所から抜け出しもっと有利な環境を目指す心もある。

それはひとりひとり違っている。
富山県はそもそも、選ぶための選択肢がないために、多くの人が「耐え忍ぶ」習慣をもっている。
動き出そうにも動き出せなくなるほど嫌味、悪口、脅しをかけられる感じ。

自称を含めた進学高校と同じだ。
学校全体にこういう傾向がある。

遺伝子が慣習として、文化として受け継がれ続けている。

女性にとっての脅威とは?
部落の女性の間のゴシップ、妬みやら恨みといったものだろうか。

わからない。
わからないのでとにかく逃げるということについて記事を書いてみる。

ーーーーーーー

環境が人間を作る。
もう遺伝子はもらっている。
残りは環境だ。

環境に合わせて、人間は「つくられる」。

環境の中で、環境との関わりで、子どもは学んでいく。
その環境の中で、よりよく「自分が」生き残る方法を学ぶ。

スラム街に生まれた子供は、それなりの生き方を覚える。
富山で生まれた子は富山で暮らすために最適化される。

でも、個性というものもある。
不登校、不適応は、「今の私はこの場所では最適化されません」というメッセージだ。
個性ある個人、尊重されるべき人間の叫びだ。

では、「最適化されません」と子供からメッセージをもらったら、どうするか?

ーーーー

不登校の原因は、富山という文化、日本という文化だけではない。
その文化で育ち暮らす大人がつくりだす環境がすべて子どもに影響する。

おとのねさんがブログで書きまくっているように、日本という組織は子育てにやさしくない。
正しく言えば、子ども環境は「昔から比べて」別の有様になっている。
引きこもりは、それまで生きて来た子どもが出した「適応」「最適化」の答えだ。

子供が出した答えに、大人がどう応えるか。

不登校は「よく答えをだしたね」といって、褒めてもいいことだ。
と僕は思う。


学びというチカラをつける、その子の進化の道をたどる個別化の道の一つが、逃げる、ということである。

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逃げる。

強くなること。
自分を信じること。
逃げたい心に向き合うこと。
「大丈夫だよ。君は強くなる」と励ませること。

ぐちゃぐちゃになっている頭を、リセットすること。

逃げたっていいんだよ。

もう少し文字を大きくしてみよう。

逃げてもいいんだよ。

逃げたっていいんだよ。

逃げてもいいんだけどねぇ。。。。

それができないのが「学習性無気力」だが。

ちなみにこんな記事もあります。
学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら

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こういう話もある。
小学校でいじめにあった。
不登校になった。
中学校でもいじめにあった。
不登校になった。
高校でもいじめになった。
不登校になった。

そこで「環境を変えても、人はかわらない」ということは正しいように思える。
本当だろうか?

僕も人は環境で変わらないとおもう。
人が変わるというのは、そうとうのライフイベントだ。
そう簡単に変わらない笑

たとえば「他の子が自分の悪口を言っているようにおもう」という現象がある。
(これが不登校の理由の第一位のようにおもう最近)

なるほど。大人になっても、人の悪口は絶えない。
どこに行っても、環境を変えても?

保育の現場すらこうですから。

そう、環境は、選べないらしい。

結局、「環境を変えても、人はかわらない」ということは正しいように思える。
(人は変わらないが、人間関係のしやすさは変わる。おかげで僕は今、学校と保育園で働けています。ありがたいことです。)

同時に「同じ環境の中にいても、結局変わらない」ということも、正しいように思える。


学校をサバイバルするための力をいつ、どういうきっかけで得るか。

学べることがないなら、学び方がわからないなら、それを学べる環境をつくる、見つけることだ。

選ぶとは、

別に日本にいても「学びのインフラ」があればよい。
「学びの資源」を手に入れられない人は、海外にいってもいい。

「転校しても変わらない」
「県外に行っても変わらない」

本当だろうか?

いじめられていたとしよう。
悪質ないじめだとしよう。
「環境を変えても人は変わらない」だろうか。

環境が変われば、周りの人が変わる。
いじめは無くならないかもしれないが、いじめに立ち向かっていける力をくれる友達と出会えるかもしれない。
学びの資源との出会いが大切。

もう資源が枯渇して、無理!という人は、逃げたらいい。
そこにいたら、死んでしまわないだろうか。

学習性無気力で。

学ぶことは、強くなること。

ーーーーーー

こんな話を最近聞いた。

就学以前、保育所に行っていた子が「行きたくない」といった。
どうしてか、理由を聞かず「いいよ」とお母さんは言った。
そうして保育所を変えた。

大きくなってから、子どもは告白した。
「お昼寝のとき、さみしくて泣いていたら、先生が黙って毛布を頭の上にどさって被せてきたのがこわかったの」

もしそのままその保育園にいたら、その子の心は、死んでしまっていたかもしれない。
逃げることが懸命なことは、多々ある。

逃げることが「負け」のように思う人がいるかもしれない。
逃げることが「楽」のように思う人がいるかもしれない。

その人は、逃げたことがないのだ。

逃げるには、コストがかかる。
逃げることは、ほとんど戦うことと同じだと僕は思う。

新しい保育所を探さなくちゃいけない。
送り迎えに時間がかかるかもしれない。
探すのに手間も時間もかかる。
新しく人間関係をつくることもしなくちゃ。

逃げることに後ろめたさを感じている人もいるかもしれない。

そういう呪いを、富山県の人は、たくさん受けてきた。
日本人が全般的にその傾向がある。

逃げることは、新しい環境に身を置かなくてはならないということ。
用意されたレールの上を歩けなくなるということ。

ただそれだけのことだ。

ーーーー
ーーーー

不登校の子は?
そう、逃げたのだ。
超重要なスキルを使った。
無気力どころではない。
逃げる気満々だ!
道無き道で闘いが始まるのだ!

では次は。
どこに向かうか!!!

逃げるために、学ぼう。
開かれた選択肢の中でもがこう。
直感と向き合おう。
よろこびをみつけよう。

逃げながら、管理されたシステムの外に自分を守るシステムをつくりあげよう。
不登校は、体のサインだ。

大丈夫、君にはそれができるから、君は不登校になった。
それは君の意思ではなく、体からの、心からのメッセージだ。

逃げるために、チカラをつけよう。
逃げ切って、たどり着こう。

自分が背負うしかない人生で自分が責任をもって正しい選択をしていくこと。

彷徨い続けてもいい。
さまよう中で、強くなれるなら、と僕は思う。
強くなるために。

僕も逃げて来た。
日本では得られなかった能力、価値観、チカラを、海外を旅することで得ることができた。
(もちろん、きっかけは日本にあったりするが)

そしてチカラをつけた。
そうして生き残った。

選んで来た。

必要最低限、必要なチカラ。
それは自分を個別化し、積極的な責任を自分で負うことであり、自分がリッチになれることをよろこぶことだ。

忍耐?自分が豊かになれない場所で忍耐力を発揮して、どうなるだろう?
それが、価値観だ。
「やらなきゃいけないことはやらなきゃ・・・」その判断は普遍的な事実ではない。
個人的な能力の限界に応じて、つくられる、ただの行動様式だ。

どうして、富山に、ここにある、過去に縛られる必要があるだろう?
不登校は、そのきっかけになる。

人生は、きっかけで溢れている。
新しく開けた窓からどんな風景がみえるだろうか。


窓の外をみて、わくわくして、飛び出したくなった子どもに、お母さんは、どんな眼差しと、声を、かけるだろうか。

ーーーー

今まで作って来た環境、家、学校、地域、すべてを含めて、壊すこと。
思春期の課題に向き合う子どもたちの挑戦を、大人はどうやって応援できるだろうか?
富山人、日本人であることを超えて、お母さんは、子どもとどう向き合えるだろうか?

「いや、家、建てちゃったし。」

子どもが生きるために、家にお金をかけるか。教育にお金をかけるか。まだ家を建てていないのなら考え直した方がいいかもしれない。

というのが僕の考えだが。
それも文化だから。
自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

大人も子どもも、伝統・歴史・文化を見つめ直して、新しく作り上げていったら、もっとハッピーになれるとおもうんだけど?

もちろん、僕自身の伝統・歴史・文化も、見つめながら。。。(自己批判)

オトノネも、もう少しきちんと明示してみようかとおもった。
「そのためには?」オトノネはもう少し答えをだしたらいいかなとおもった。

商売とは、商品とは、サービスとは、そういうものだとおもった
さて、何を売ろうかな。どんな夢を、見てもらおうかな。

オトノネは、「道」をつくるつもりはなかった。
けど、「道」があるから、歩く勇気を出せる人も、いるんだろうとおもった。

ーーーーー

日本というシステムから。

逃げられなかった人たちが、特にお父さんたちがいる。(富山の長男は大変だ)
お父さんから逃げられなかったお母さんたちが、いる。

(逃げグセがつく、という言葉を聞いたことがある。こうした呪いが日本のブラック経済を支えている。部活で、学校で、勉強で、企業で、保育園で、こういう言葉を使う人がたくさんいる)

その家に生まれた子どもが、いる。

「自分のようにはなってほしくない」
そうおもったら、手放すのも一つの選択肢。

もうその土壌は、その子が育つには、不足しているものが多すぎると。

たんぽぽが、タネを飛ばすのは、どうしてだろう。と考えてみてもいい。

たったそれだけのことなんだから、外にでてみたらいい。
今その子には、そのチカラがあるのだから。

少し休んだら。
旅にいっておいで。

旅にでながら、君の足が、君を支えてくれることに、君の心が、前に向かっていることに、気が付けるから。
君の顔が、まだ笑えることに、君の笑顔が、誰かをしあわせにすることに、気が付けるから。

——

SICT-SUSに「お話しませんか?」と問い合わせをしたところ、「お話しません」という返事が返ってきました。
倫理的に問題ある発言がでてきたので記事にはかけませんが。

泣きそう。

泣かないけど。

いろんな人がいるから。

いいんだよ。

ーーーー

教育環境

その子にとっての最良の環境を目指すことが、どうして不道徳であったり、責められることなのだろう?なぜ「我慢」が美徳なのだろう?パーソナリティ特性の違い(遺伝が半分)が環境に適していないことはよくある。「適応する」能力がないのも個性の一つだ。ではどうやって生きる?

「分をわきまえろ!」という士農工商の時代から、日本は「わきまえる」文化を背負っている。(アニメは、テクノロジーで進化した浄瑠璃のことだ。)それぞれの環境にとって最良の生物がいるとすれば、それぞれの生物にとっても最良の環境がある。

環境が変わる。遷移する。
不登校は不適応であり、環境からの離脱の宣言。
環境を変える。遷移させる。
不登校は適応であり、環境の積極的な選択の宣言。

お母さんにとっては「現代」を学び、子どもを見つめ直す、関わり直すきっかけ。
アフリカ大陸からベーリング海を渡っていった「環境不適応人間」のおかげで、私たち日本人がいるとおもえば、喜ばしいことではないだろうか。

「でも」というお母さんの声が聞こえる。

それは、デモという、批判者の抗議活動のことだ。
その心は大切にして大丈夫です。
行動だけ、変えたらいいんです。
環境だけ、変えたらいいんです。

心は、ふと自然に、突然、気がついたら、変わるものです。
心というものは、変えるものではないと、僕は思っています。
変わっていくものです。

心とは、そういう不思議なものなのです。

ーーーーーーー

✳︎どうして僕は日本にいるのか。
これはただの解釈だけど。
日本に生まれたものとして、日本のことは知っておきたい。
日本で泣くとはどういうことか。
日本で笑うとはどういうことか。
日本人のことを、知りたいとおもったから。

日本人らしくはなれないかもしれないけど。
僕は変わらないかもしれないけど。
学べることはたくさんある。
その中で、強くもなれるとおもっている。

今までずっと日本に「負けて」きたから、少し強くなったか、試しているのかもしれない。

オトノネひろげるシェアぼたん

学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。

子どもは学校でたくさんのことを学べる。

学ぶスキルさえあれば。

めいいっぱい、学ぶことができる。
与えられた宿題をズルすること。

アウシュビッツでも、学ぶことができる。
与えられた労働をズルすること。

学ぶスキルさえあれば。

ズルも、美徳だ笑

大人もたくさんズルをしている。
社長だけお金を稼いで、雇用者は生活保護レベルの福祉業界。
これは、ズルじゃないのか?

ズルは、戦略だ。

オトノネは、学びのスキルを重視しています。

学びのスキルを使って、学校をやめることもできる。
学ぶことは、生きることだから。
学びを実践するために、学校をやめてもいい。
生きるために、学校に行かなくてもいい。

その積極的自己責任を負えるならば。

大丈夫、実験し、失敗や間違いだったとしても、本気でやることのすべては、君のチカラになる。

ーーーー

『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』の著者は、大学を中退した。
著書を書きながら、ふと振り返って、当時大学を辞めることを決意しながら書いた手紙を見つけ出したという。

人生を変える決意をしている18歳の人間はこの世で最も昂ぶった生き物だ。しかし手紙が見つかってよかったことは嬉しかった。一瞬、この青春真っ只中の書き振りには耐えられないとおもったが、葛藤に満ちた若い日の自分におおいに同情を覚えたことも確かだった。(p.263)

そうして、文字通りの、アメリカを半分くらい横断する自転車の旅に出た。

「教育ゲーム」をやめて、最初ー今の自分ーからやり直した。

それから転々とキャリアを変えてゆきながら、「今回わたしがはじめた奇妙な冒険は、国の半分を横断する自転車旅行ではなかった。本を書くことだった。それがこの本だ」と、この本で書いている。

逆境はチカラになる。
転んでも一人で起きられる。
失敗は、なんとかできる。

失敗から学ぶ方法を教える先生が、自分自身のなかにできた子は、一流の学習者だと、僕はおもう。

失敗していい。
じゃぁ次どうするか、オトノネで考えてもいい。

オトノネひろげるシェアぼたん

収束的あそびと拡散的あそび。

アマラはとてもかわいい3歳半の子だが、年齢以上にしっかりして見える。マイケルはたくましい小さな男の子で、何にでも熱中するタイプである。友だちといっしょのグループに入っているアマラは、収束的な思考を要する遊び道具(たとえばパズルのような正しいやりかたが一つしかないおもちゃ)をたくさんあたえられる。一方、マイケルのグループは拡散的な遊び道具(ブロックのようなもの)を与えられる。どちらの子どももそれぞれのグループで仲間と楽しく遊んでいる。やがて、実験が始まり、両者のグループにいくつかの拡散的問題が出される。たとえば、45個のブロックを使って村を作るという課題である。研究者たちはおsれぞれのグループを詳しく観察し、子どもたちがどうするかをみている。そして、それぞれに組み立てた構造物の数と、それらの構造物を名付ける時に用いられる、独創的な名前の数を集計する。マイケルのぐる0ぷは拡散的な遊び道具で遊んでいたせいか、よりたくさんの構造物と独特の名称を思いついた。彼らは作業に集中し、行き詰っても諦めることはなく、試行錯誤を何度も繰り返した。アマラのグループは全く違っていた。一つの生活を持つ収束的なおもちゃで遊んでいたせいか、行き詰まると、そこで立ち止まり、何度も同じことを繰り返した。マイケルのグループよりあきらめるのも早かった。独創性は明らかにマイケルのグループの方にあふれていた。では、今、市場に出回っている高価な知育玩具はどうだろう?そのほとんどは収束的な性質を持っている。それらが主眼としているのはいろいろなスキルを教え込むことなので、一つの問題に対して一つの答えを探させようとするのが普通なのだ。しかし、ここで述べたばかりの研究は、マイケルのグループが問題解決において創造的であるだけでなく、忍耐力や熱意においても優っていることを示している。(『子どもの遊びは魔法の授業』p.358)

どちらの遊びも大切だろう。だが考えてみてほしい。学校では収束的な、答えが一つしかない問題で溢れている。一体いつ、拡散的な、答えのない、創造的なあそびを子どもたちはできるんだろうか?偏りすぎる富、貧困はお金の問題だけではない。心を使うあそびのバランスの悪さ、学校と学校の外の世界のバランスの悪さが、心のバランスの悪さを生み出す。

保育所にある「あそび」道具
砂場での出来事(拡散的あそび)
収束的あそびと拡散的あそび。

オトノネひろげるシェアぼたん

しあわせって何?ーICF国際生活分類の答えー学校についていけなくなった子のためにできること

ICFはWHOが定めた「人間の生活機能と障害に関する状況を記述することを目的とした分類」だ。
ICFの構成要素間の相互作用

各要素の定義
心身機能 :身体系の生理的機能(心理的機能を含む)
身体構造 :器官、肢体とその構成部分などの、身体の解剖学的部分
活動 :課題や行為の個人による遂行
参加 : 生活・人生場面への関わり
環境因子 : 人々が生活し,人生を送っている物的・社会的・態度的環境
個人因子 : 個人の人生や生活の特別な背景

簡単に見てみよう。

大切なのは、「健康状態」である。
「健康状態」は「心的機能・身体構造」と「活動」と「参加」が影響する。
「心的機能・身体構造」と「活動」と「参加」は「環境因子」と「個人因子」が影響する。

well being(よい存在・健全な存在)でいるためには、
自己の充実「活動」
他者との関わり「参加」が大切だということだ。

これが、学校の授業の中で、どれだけ保証されているのか。

ーーーーーー

この分類は「障害者の生活状況」を理解する枠組みとしてつくられた。
学校で「障害」に阻まれて進んでいないが、学年だけは進んでいく子どもたちにも使える枠組みだ。

障害は、人が作り出すもの。

学校の中でつくられる障害、お父さんお母さんが、正しく「学校の仕組み」を理解して、お父さんお母さんが、環境因子を変えてあげてください。
お子さんの「個人因子」を変えようとするのは、間違いです。

はっきり言います。
環境を変えましょう。

ちなみに、
お父さんお母さんも、環境の一部です。

オトノネひろげるシェアぼたん

学校のしくみ【753教育】とは何か。学校って何?

「教育七五三」の現場から-高校で7割・中学で5割・小学校で3割が落ちこぼれ

ゆとり教育は難しすぎ? 高校生3割が小学校レベルの勉強わからず

簡単にいうと、エリート選抜システムだ。
学校の授業、課題は平均以上の子のためにデザインされている。
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

変な表現で言うと、「おちこぼれをおとす」システム。
(もちろんいい先生もいますよ)
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。
なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

別の言い方をすれば


学校は、大切なことを学ぶための「試練」は提供するが、「試練を乗り越える」ところまで手伝ってはくれない

と思ったらいい。

統計的な事実を物語にすると、そうなります。

では、「試練を乗り越える」プロセスで学べる大切なこととは?
非認知能力だ。
情動知性といってもいい。
【ヘックマンのペリープロジェクト】テストでは計測できない“非”認知的能力が大切すぎる件

ーーーーー

多くの子どもにとって

学校は、受刑期間が過ぎるまで、耐える場所。
受刑が終われば、出なくてはならない場所。

だから、これがお母さんの大切な役割だとおとのねさんは思っています。
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えー

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉の心ーオトノネー

生徒がやってきた。
(生徒っていうのもなんだな・・・人がやってきた)

先週出していた「やってくること」の話はさておき、いろんな話をしてくれる。
喋りたい様子。

聞く。

適性診断をやってみた!「占いを研究し尽くした人がいるらしいんですけど、当たる確率は1%くらいらしいですね!」と。
よく情報を集めているではないか。

「この間、おとのねさんが言っていた女の人の記事みたんですけど、私は・・・・」
なるほど、調べてくれたのね。

「冷房の設定温度、環境省のオフィスが20度だってどういうことですか!しろくまが困っているから節電節電っていうのに!」
しばらく、動物の話題になった。

で、んー、どうしようかな、と考えながら・・・

「君は、言っていることとやっていることが違うのが、気になるの?それとも、動物が苦しんでいるのが嫌なの?」

こういう問答をしているうちに、ああ、この子が今もっているのは、怒りなんだなっと感じた。
聞いてみた。

「今喋っているとき、感じている感情って、何?」

怒り、だという。
うん、伝わっているよ。

そうか、怒りの感情はそれ自体、悪くない。
何かの理由があって、怒りも怒りの事情があって出てきているのだから。

「その怒りって、いつ頃から感じてるの?」
20年前だという。

生まれる前からかー

けど、それが、怒りが外に、言葉になって出てきたのは、1ヶ月前、その子が不登校になってかららしい。
お母さんの証言でも、そうだという。
「こんなに喋る子じゃなかった」と。

ーーーーー

不登校を認めてくれたお母さんは賢明だ。
そうしてオトノネを訪ねてきたのも、何か、お母さんの素敵な直感だろう。

その子は、ヒトカゲからリザードに進化したのだ。

一人でカラオケに行ったり、料理をしたり、今までやっていなかったことも急に、やりはじめた。
そう、今は、今まで溜めてきた怒りと向き合う時期なんだろう。
宿題どころではない。

といいながら、そのエネルギーを、いずれ、掌握することになるだろう。
怒りのエネルギーを、どう使ったらいいか。怒りとお付き合いを上手にして、怒りに助けてもらうことができるようになるだろう。

そのためには、、、、いろんな人との出会いが、経験が、場所が、大切になるのだろう。
今は、宿題どころではないのだ。

が、現在、発散しているエネルギーを、収束させることで、その子が次のステップに行く力を得ることにもなる。
その子は今、生まれたばかり。リザードになってから、まだ1ヶ月。
新しい自分と付き合う時間が、必要だとおもった。

ーーーーーー

けどお母さんは不安。
将来のことを考えると、計画的に勉強をしてほしい、、、

お母さんは、不安と付き合っている。

リザードに進化して、思春期を華々しく迎えた子と、どう付き合って行くか。
不安なのは、お母さん。
子どもは、進化して、今、ドキドキ中。

目には見えないけど、その子は、土の中で芽を出そうとしているタネのごとく、エネルギーに渦巻いている。
大丈夫。
自分で職業適性診断を探してやるくらい、将来のことを考えているから。
その子に、その子の時間をください。
と、僕は、伝えた。

といっても、お母さんは、不安!

だから、お母さんも、いろんな人に出会うといいかもしれない。
新しいことを始めるといいかもしれない。
新しい場所、新しい人、新しい気持ちで、不安と付き合うバランスを取れるように。
一人で心をなんとかするのは、とても大変だ。(無理無理!)
大丈夫ですよ。

人は、自立するチカラをもって、生まれてきます。

ーーーーーー

大人も子どもも、それぞれの段階で、別々の課題をもっている。
おとのねさんも、思春期真っ只中です。

帰り際に、お母さんの一言。
「オトノネは、はっきりものを言うから、ふつうのお母さんたちは、怖くてこれないですよー」

生徒が増えないわけだ!

ーーーーーーー

音が聞こえていても、その根、音色が聞こえていないことがある。
言葉には心がある。
オトノネに、耳を傾けて、みませんか?

オトノネひろげるシェアぼたん

教育の定義を考える【適応能力・選択能力・決断能力】

教育の目的は
成人をした時に、適応障害を作らないということ

であると定義してみよう。

あらゆる状況に「適応する」チカラ。
これはメタスキルだ。

適応するとは、本人が「生きていく」「持続的に代謝していく」ということ。

だとしてみよう。

「誰かに守ってもらう」ことで適応してもいい。
「好きなことを、伸びることを伸ばし続けて、特殊能力をもった人になる」ことで適応してもいい。
「にこにこしながら隅っこでじっとしている」ことで適応してもいい。
「なにをしてもへこたれない」ことで適応してもいい。

適応の仕方を、学んでいく。
「その子が」適応する、「その子の」適応の仕方を学んでいく。
それが教育だと。

定義してみよう。

これはキャリア教育であり、自分を生かす自己肯定の敎育でもある。

———–

思春期以降に学ぶことは。
(もっと行ったら、8歳以降は)

凹凸ある、非定型な、個別的な、ユニークな、特殊な、ひとりひとり違う、
生得的な、もしくは8歳までに作られたチャンネルに合わせて、取り入れる世界を内的世界の仕組みに合わせてカスタマイズする方法を学ぶことである。

凹凸ある、非定型な、個別的な、ユニークな、特殊な、ひとりひとり違う、生得的な、もしくは8歳までに作られた認知特性に合わせて学ぶ。働く。
それは、どのようにして学べるか?

「知識」は「お金」と一緒で、それ自体が目的になってしまえば、人生を壊すことになってしまう。気がする。

ーーーーーー

世界と関わる意欲がなければ、何も起きない。

心をみとめて、心の動き(意欲)を大切にしなければ、アウシュビッツ行きになってしまわないか、心配している。
心を認めてくれる人に出会えない学校なら、やめたほうがいい。
そこは、監獄だ。

関わる世界が、そのままその子に受容されるわけではない。
しかし、世界は確実に、何かしらの形で、受容されていく。心のシステムに、影響を与えていく。
さまざまな適応能力をつけるため、自己理解をするために学校があるのであって、学校が「適応対象」として適切かどうか。

ーーーーーーー

意欲が出るために、ゲームをする人がいる。
ゲームの世界で課金をしたり。
ゲームに時間を費やして、そこで生まれる成果で意欲を出す人がいる。

そういう世界も、ある。
そういう世界に、入り込む入り口が、いろんなところに開いている。

「世界の見方」はこどもひとりひとり違う。
「世界の見せ方」を、大人は考えているだろうか。
どんな世界を「見せる」か、大人は、考えているだろうか。

考える必要もないくらい、大人が、ちゃんと自分の世界を作っていたらいいのかもしれない。

ーーーーー


子供の見ている世界を、大人が教えてもらうのに、子供が自分の見ている世界を表現できるような、非言語、言語能力が一番大切なようにおもう。
それは、大人の方が、受け取れなかったら、いけないのだけれど。。。

オトノネひろげるシェアぼたん

ひきこもるとは。不登校の機能。

おとのねさんひきこもる宣言をした、「明日」がやってきました。
結局ブログを書いています笑

ーーーー

ひきこもりの代表は、シャーマン。
シャーマンになる前に、幻覚をみたり、瞑想状態になったり、夢をみるために、この世から断絶します。
日常の世界から離れることで、飲み物、食べ物、習慣、人との関わりを「みそぐ」ことで、生まれ変わる儀式です。

学校に行かない、学校から「ひき」別の世界に「こもる」ことも、ある意味で、次のステップへの大切な一歩だと僕はおもっています。

ーーーーー

ひきこもるためには、誰かに守られている必要があります。
もしくは、自分で自分の身を守る「時間」を作ることが必要です。
日々、日常のなかに「瞑想」を取り入れるなどはそのパターン。

プチ☆ひきこもり

心を大事にする、大切な振る舞いだと、僕はおもっています。

ーーーー

こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の民間学童保育

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オトノネひろげるシェアぼたん

算数で文章題ができないのはLDかスローラーンなだけか、それとも経験不足か。

算数ができない、という小学生がたくさんいるらしい。

で、よくよく聞くと、かなりいるらしい!

で、さらに聞くと、高校生ばりに、課題が多いらしい!

小学生に演習などいらない。
その時間を経験に使って欲しいのだが。

とおもえるくらい、小学生は算数の「抽象性」を支える「具体的」な経験が不足している。
理科でもよくあることだ。国語でもよくあることだ。社会だってそうだ。

「蛇」という言葉は知っているし、映像でみているし、変温動物であることもわかっているし、、、、そんな
「蛇」と関わる経験をもった子が少ない。中学生によくあるパターンは、「小問題ができても、文章題ができない」子。

この子は、ただただ練習させられ、「具体性のない」世界だけでなんとか自分なりにルールを作って計算できるようになったが、結局、「現実」という基礎がなっていなかったのだ。
小学生から勉強嫌いが多いという富山県(石川県もそうらしい)。

ーーーーーー

19800と6720のどちらが大きい数字ですか?

この問いすら、子どもにとっては強大で、おもしろいものだ。
お母さんと一緒に買い物をして、レジでお母さんが出すお金を実際に見ているだろうか。
その関係性を子どもは勝手に学ぶ。(クレジットカードで払っていたらわからない!)

単位などは、経験がなければまともに扱えない、かもしれない。
逆に、生活の中で単位と関わっていたら、「え?ふつうだよね」となる。

学校の中では、今の学校が採用する教育方法では、それは望めない。
(お父さんお母さんの時代とは、教え方が違うから、子どもが混乱する(だから学校に任せなさい)という塾や学校の先生がいるらしい。みてみると、確かに、全然、違う。わかりにくくなっている。子どもがムリ!なのもわかる)

富山県の学校教育に話をかぎろう。(石川県は、今、西南部中学校ががんばっているからさておき)
小学校の教育は、中学校の教育は、高校受験に向けて子供達を「振り分ける」場所になっている。
そう考えなければ、理解ができない。学校の先生たち、何をしているの?

だって、ありゃ、できないわ!
あの課題、子どものやくに立たないわ!

上位の生徒のための授業。
それが小学校でも変わらないという事実を最近知った。
もちろんそうではない学校もあるだろう。

マンモスになるほど、その傾向は強まる。

結局、学校から身を守り、学校の外で教育資源をみつけ、利用する家庭教育にシフトすることが大切だと、おとのねさんはおもいました。

僕の知り合いの山田さんのお子さんは、小一ですが。
お父さんと一緒に「遊び道具」をつくりながら、長さの感覚、単位の感覚をバッチリ育てていました。

「みんなで一緒に」学校に行くのではなく。
「私は私の都合で」学校に行くくらいがちょうどいいだろう。

学校は学校の都合で、授業をしているのだから。

それを選ぶ自由が法律的に、日本の「子ども」には認められています。

まだそこまで考えられない子どもを、お父さんお母さんの知恵で助けてあげてみてはいかがでしょうか。
学校には、学校の事情があるのです。

「名詞」の抽象性

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適切な行動の未学習か、
不適切な行動の誤学習によって
「問題の行動」が引き起こる。

「教えるべきこと」は何だろうか。
「これはダメあれもダメ」ではなく、「これがいい、あれがいい」を、適切な行動を学んでいこう。
学校の言語環境は、すこぶる悪い。「教えてはいけないこと」が、教え込まれている。

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発達が、平均より遅い子(スローラーナー)は、小学校の時、分数、割合という抽象概念を教わる時に、数学と決別することになる。
中学生になってから、もういちど、分数、割合をやればいいのに、学校ではわけのわからない文字式の操作を教わる。

ただ、その子のペースで学ぶだけで積み上がっていくものを、目の前の定期テスト、与えられた課題・宿題で潰してしまっていないだろうか。

なぜ「文章題」ができないか。

ひとつは「言葉」が弱い
ひとつは「論理」が弱い
ひとつは「計算問題をやらせすぎた(文章題は未学習)」
ひとつは「お腹が空いている」
いろんな「理由」が考えられる。

で、「できなくする」原因は何か。

「練習したらできる」子は少ないのです。
「やればできる」でやれる子は、少ないのです。
致命的に「やっても無理」な子にやらせていませんか。

その見極め一つで、お子さんの人生は変わってしまいます。
多くの高校生が、社会的な生活を送るチカラがなくなっていることを、教育現場にいるものとして、きちんと伝えなくてはいけないなとおもいます。

どうしたら、「できる」のでしょうか。

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「みんなで一緒に」を喩えてみる。

僕が高校生の時、駅でぼうっとしていたときの話。
(一度、ブログで書いた気がするがまあいいや)

目の前を通り過ぎる人たち。
それぞれの思いで、それぞれの足取りで。

「もしこの人たちが、一緒に何か一つのことをやろうとしたら、どんでもないチカラになるんじゃないか」

そう、ふと、突然に、思えた。

僕は孤独だったのだ。

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そんなわけで、「みんな一緒」という言葉を説明してみよう。

「みんな一緒」は、パッケージツアーのようなものである。
君の見たい風景を心ゆくまで味わう時間はない。
けどツアーだからいろんなところに(せわしなく)連れて行ってくれるし、「みんな」で行くから、安くなる。

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行動レベルでは「みんなで一緒」は可能でも、
感情のレベルで「みんなで一緒」はありえない。
そしてこの感情レベルに焦点が当てられないのが、日本の現代社会であり、近代性(時代遅れ)であろう。

ひとりひとりの成長を見守る保育園ですら、「小学校で椅子に長時間座れるように」という目標で子どもに関わっていることが多いと言う。
小学校でやりきれない課題を保育園に押し付けるのか。(小学校の先生は椅子に座れない子を「発達障害」にしてしまう)

保育園は学校の下部組織ではない。
だが、現実は、「小学生養成所」になっている場合がおおい。

小学校は「みんな一緒」に「授業」を受けられるように、子どもたちに要求する。
そうして机の「中」に引きこもって神経をやられる子どもたちがいる。

「みんな一緒」が悪いとはいわないが、それが「当たり前」になってしまった子どもたちの多くが、中学校、高校で苦しんでいる姿がある。

「みんな一緒」は大人たちが作り出した価値である。
その価値観で、子どもは「3歳から」育てられているらしい(3才の不登校(不登園?)児がいるという)。
「子ども」時代を知らずに「大人」にさせられていく多くの子どもたちが、「いやいや、無理無理」というサインを出している。

そんな子どもたちが「集団旅行パック」から離れ、自分で旅を始められるように、自分の一歩を進めるように、お手伝いをしていくのがおとのねです。学校は、利用する場所であって、「みんなが」「同じように」行かなくてはいけない場所ではありません。

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「みんなで一緒に」の価値をどこかで感じるために、「みんなで一緒に」の中で潰れないように。
バランスが大切。順序が大切。心が大切。

自分の心を「ちゃんと」大切にできる人間が、誰かの心を「大切に」できない道理はない。

行動レベルでの関わり方に、偏っていないだろうか。
おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か)

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