子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。

いやー、保育士すごい。

休日だけ働いている保育所、二人の兄弟がいる。
一人は2才、一人は4才、あ、もう5歳か。

で、春から一緒にいるのだけれど、、2歳の子が、なんと、お盆に入ってからイヤイヤ期に入ったらいい。
実際、「イヤ」とか「ジブンデ」というレパートリーを使う。

この時期は高次認知的情動、くやしとか、悲しいとか、嫉妬とか、見栄とか、複雑な感情と付き合い始めるとき。
新皮質と辺縁系が合わさって社会的に有効な感情と、その調整法学んでいく時期。
【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。高次認知的情動とは?

今までと違った行動パタンになりお母さんは「!?」となるらしいが。
保育中に僕がみた姿は、まさに、意欲の塊だった。

けど今までのすなおーな感じとは違っているところで、戸惑う僕。
そんな僕の目の前で、保育士さんはふつーに、自然に関わり合いをもっている。

関わり合う中で、「いや、これはやってほしい」ということをちゃんと伝えてそれを受け取ってもらえるのは、信頼関係というか、保育士がその子の心を尊重しているからだと。
子どもとうまくいかない!とおもったら?

伝えることは伝えるという凛とした態度は変わることがない。
ただ、その子が「いろいろと頭の中があっぷあっぷ状態!」であることを理解して、一つずつ、気落ちを抱きしめている。

という感じ。

ーーーーーーー

「ジブンデ」といって、今までやったことのなかった「ぞうきんがけ」をやった!
(モンテッソーリ教育の本で「お手伝いをしてもらう」というのがあったが、これはまさに、2歳の意欲を日常生活で発揮してもらうということだろう。よくできているなぁ)
笑顔で、どこで覚えたか、ちゃんと足を踏ん張って、ぞうきんをかけていく。くねりながら!

こんな意欲あるイヤイヤ期!
イヤイヤ期じゃなくて、ウハウハ期だぜ!
「おれっちったらあれもできるぜ!これもできるぜ!こんなに、感じてるんだぜ!」

ウハウハヾ(*´∀`*)ノ

思えば、はいはいができるようになったり、両手が自由になった時も、ウハウハしながらいろんな挑戦をした。
この時期はこの時期なりの身体能力、言語能力を駆使して、意欲的に、学んでいくんだろう。
(今まで貯めて来た、日常生活の所作を大人に混じってやることが、よいのかも?しれない。ある意味で、ままごとは、最強の拡散的あそびのようにおもう)
収束的あそびと拡散的あそび。

「イヤ」というとき、何か他のものに心が奪われているような。
「イヤ」という言葉は、「今頭の中それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」みたいな響きに、僕は感じた。

ーーーーーーー

自称進学高校で課題に潰されている子がいる。それを、とある子が「課題の海で溺れている」と表現してくれた。
毎日毎日押し寄せる、頭がいっぱいになって身動きがとれなくなる「課題の海」で溺れている高校生は「イヤ」ともいえず、「今それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」という気持ちでいるかもしれない。

その心を理解して、一つ一つ、気持ちを抱きしめてあげるだけでも、その子は落ち着いて、持ち前の意欲を発揮できるようになるかもしれない。

ーーーーー

寝起きが悪い、2歳児。お昼寝の後に、おやつを食べることになっている(食べることになっている)。

だがしかし、
布団から出ても座り込んで、ぼけーっとしている。
どうしたものかな。。。と思っていると、保育士さんが「お散歩する?」と聞く。

その子は、頷いた!

大人になっても、いろんな気持ちがあるけど、体が付いていかないこともある。
そういう時に、どうしたらいいか、この子は今、学んでいるのかもしれない。

最後に。
ウハウハ期は、1年くらいしたら終わるそうだ。
高次認知的情動との付き合いができるようになり、次は、抽象語を学ぶ、内言を鍛えると同時に他者の心に近づいていく怒涛の時期に入る。
ウハウハ期に入ってから、彼の言葉の使い方がはっきり変わった。
どしどし、言葉を使ってくる。

けど「ドウシテ」
とか「ナニ」とは聞かない。

今は、それどころではないのだ!

それは、3歳以降、次の段階の課題であるようです。

あせらず、たゆまず、心ゆくまで。
自分にあった発達段階、自分にあった発達の道を、ひとりひとりが鼻歌を歌いながら進んでいってほしいとおもいます。

そんなおとのねさんでした。

ーーーーー

ちなみにその子は全然おやつを食べなかった。今日、朝マックをしてきたというから、全然、お腹が空いていないのだ。
散漫なあそび、散漫な食事

ーーーー
ツイッターで、2歳のウハウハ期のツイートをみつけて、この記事を共有させてもらいました。
(おとのねさんがコメントにリンクを貼ったのを、みていただきました)
返事をいただけて、なんだか、とてもうれしくなりました。

SNSの使い方、研究中です!

オトノネひろげるシェアぼたん

放課後児童クラブ・学童保育も無償化にしていくんだろう。

学童保育の大半が、アルバイトで成り立っている。
つまり本気で学童保育、放課後児童クラブをやろうとしている人に、お金が行かない。

これから、学童保育も無償化になるかもしれない。
だから今のうちに、一人にしておけ!という話のようにもおもう。
大丈夫、学校の先生も、一人で40人とかみてるんだから。。。と。
保育所でも20人で一人をみている現実がある。

ーーーーー

僕はよくコーヒーを飲む。
プランテーションで搾取されている人たちを、コーヒーを買うことでどん底に突き落としている。
格差の仕組みを作っている。

けどその仕組みを、使うしかないくらい、僕は切羽詰まっている。
フェアトレードコーヒーを買うお金もない。

ーーーー

学童の料金は、高いだろうか?
保育料と比べたら?同じくらい、かな。。
どうして時間にして、放課後児童クラブが割高なのか。。。

放課後児童クラブに対抗して作った放課後子供教室という制度が頓挫した文科省が内閣と手を組んで、とうとう、学童をブラック化する方針。
と、おとのねさんはよみました。

もう十分ブラックだけどさ。。。

ーーーーーー

少数の大人で大人数の子供を管理する体制、仕組み、環境が強まっていく。
学童は厚生労働省の管轄だけど、内閣府として予算を配分することで干渉できる。

やばいね。
みんな元気でいてね。

SFみたいになってきたな。

そんな世の中になったら、オトノネは、どうなるでしょうか。

大人のいない、子どもの世界。
大人になっても、子どものままの、世界。
保護者のいない、子どもの世界。

SFみたいになってきたな。
さすが、漫画の国、日本である。

大人が算数できないんだから、子どもができなくても、しかたない?

オトノネひろげるシェアぼたん

保育園の太鼓隊考

あれは、群舞だろうか。

歴史的にみれば、「遊郭」が女性をプロモーションするために作り出したもの。
もしくは祭りの時に、男女がコミュニケーションをとるために作られたもの。

うーん、まぁ、保護者に子どもの晴れ姿をみせるとしたら「遊郭」のやることと同じだな。
だってコミュニケーションはとらないもの。
(もちろん子どもはそんなことも知らずに、楽しむ人は楽しむし、いやいややるこは、参加すらしない)

心が大事。

もっと近いのが、軍隊のマーチングバンドだろう。
決められた動作を決められたタイミングでキビキビとこなす。
軍隊式が、なぜ保育園にまで。。。。

これが、保育園として、ベストな選択か、関係者は考えてみたらいいとおもう。
やってもいいんだけどさ。。。それよりももっと大切な事、ないですか?
一対一で、楽隊の指揮をとる子どもの指導をするよりも、目の前で牛乳を飲めずに苦しんでいる子に、声をかけるべきではないのですか?

やっていることが、小学校と同じですよ(いや、小学校はみんな同じじゃないといけないから、やっぱり違うか)。
幼児教育者として、学校から、自立していますか?

保育士さんへ。

小学校の先生の目を気にしていませんか?
「あの保育園の子は、しつけがなっていない!」とか、普通に小学校の先生が喋るみたいですね。
そんなことを保護者に喋る、小学校の先生がいるらしい。

目の前の子どもの目をみていますか?

ーーーーーーー

で、なぜ、保育園に、こんな、幼稚園みたいなことが流行っているのか、わからない。

オトノネひろげるシェアぼたん

「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。

こんな見方ができる。
あくまで、見方。

「させる」世の中。

学校はまだ戦時で、工場に集団就職した子どもたちがいそいそと手を動かし、終わらない宿題・課題、そして矢継ぎ早に繰り返されるテストで休む間もない。そこで「させられる」以外の何かを見つけるとしたら、休憩時間に友達とおしゃべりをすることくらいである。夜、仕事が終わった後に、故郷の「民謡」を歌う女性労働者の物語を、僕は本で読んだことがある。学校帰りに、イヤホンでPOPミュージックを聴いている子どもたちのようだ。

塾業界は満足のために「できる気にさせる」「できている気にさせる」ことで夢を売り、お金をもらう。子どもが「楽しい!」とかお父さんお母さんが「ここにいたら安心!」と思えるような合格実績、その他のデザインを考えている。夢を「見させる」がんばれ!がんばれ!「勉強をさせる」なぜかそういう状況をお父さんお母さんが望んでいる場合がおおい。子どもに、お母さんお父さんも、夢を「みさせ」たいのだろう。数字を見せて「どうですか?この実績!」という姿は、どこかの営業マンのようだ。(実際、ビジネスなのだから仕方があるまい)

「主体性」の場である保育園ですら。お父さんお母さんを喜ばせるための運動会、発表会、保育士の自己満にもならないと僕にはおもえる掲示物(ぐちゃぐちゃに絵の具を塗った紙をカエルの形に切り抜いて、子どもたちになんのプラスがあるだろうか)。「あそばせ」続け、自分で「あそぶ」ことができない子どもたちもいる。(そのうちこの「あそべない」子どもたちの記事を書きます)。子どもの様子をみて、「的確な遊び」を絶え間なく与える保育士が評価される。子どもを楽しませる先生が、いい先生だということになる。らしい。

「させられ」続けながら、心を大事にできる人もたくさんいる一方、心をすり減らしてしまう人がいるのも確か。心と切り離された仕事をしてお金を稼がなくてはいけないお父さん、お母さんがいる(もちろん、心ある仕事をしている人もいる)数をこなすために、1を大切にできない職場もある。心を尽くして人と人が向き合う時間もなくなってきた。これが、発展した時代の、日本の最終形態なのだろうか?働き方改革と呼ばれているものは、どうにも、僕には国が税収入をあげようとしている作戦にしかみえない(余暇を外食産業に!エンターテインメントに!)。

あせらせる、やらせる、不安がらせる。
満足させる、喜ばせる、来させる。

人間が動物であるようだ。
実際、思春期がある動物だけど。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。

よくよく考えたら、動物の子どもが「思春期」で親に「反抗」したら、一発で死んじゃうよね。
不思議。

ーーーー

こちらはオトノネの宣伝です!

富山市の民間学童保育

ーーーーーー

そんな見方ができる。
あくまで、ものの見方。

ある場所では喜びに欠け。
ある場所では喜びに満ち。
ある場所では真実に欠け。
真実に満ちた場所を僕は歩き回りながら探してきたし、今は、自分で作ろうとしている。
(もちろん、僕にとっての真実)

ーーーーーー

昔々、社会、集団は、イコール、血縁がある組織だった。

血縁のないところに集団が生まれるために、「満足度」は大切であるし、「お金」は大切だろう。
(集団でいることの「満足」を確認するために文化祭とか体育祭といった祭りが利用される場合もあるだろう。青春!)
【高校選び】進学高校の高校生たちのブラックな青春が青になるとき

「祭り」と「お金」だけでは枯れてしまう心があるのも本当のこと。

ーーーーー

ところで、オトノネは、夢を売りません。(オトノネにきたら、夢が叶う!わけがありません)
一体何にお金を払うのでしょうか?

答えを出さずに不満足のままに終わるのがオトノネらしさかもしれません笑
夢を買いたいなら「逆転合格!」とか「偏差値30から!」とか「定期テストで+30点!」「◯◯大学◯人!◯◯高校◯人!」と宣伝している塾を選んだらいいとおもっています。(たまたま、夢が叶う人もいるでしょう。結局、いい先生と出会った人が、自分にとっていい環境を選べた人が、満足のいく受験を経験します)

ーーーーーーー

経済成長を夢見ながら、みんな一緒を続けていく生き方があります。
が、今は、別の生き方を模索しているひとがでてきています。
誰もが、時代から自立して、認められる時代になってきました。

オトノネは、そんな僕の、(僕が生まれ育った)時代からの自立という挑戦だとおもっています。

時代は変わりましたが、組織はあまり変わりません。
自己保存力が働きます。既得利益をなかなか!手放せません。
(それでも、組織を変えようとする人もたくさん出てくる時代です)

組織から自立する人、
時代から自立した組織を選び所属する人が、笑って生きられる世の中になると、僕は思っています。

組織からの自立って何?時代から自立した組織って何?
気になる方は、いろんな本があります。ぜひ、ご一読ください。
「長時間」「みんな一緒」「やらされる」で心が悲鳴をあげている人はもうすでに、この扉の前に立っているように、僕にはおもえます。

強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話

たった一度の人生を変える勉強をしよう
学校の「当たり前」をやめた。

学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

子どもの「遊び」は魔法の授業

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
売上を、減らそう。たどりついたのは業績至上主義からの解放
ハッタリの流儀 ソーシャル時代の新貨幣である「影響力」と「信用」を集める方法

こういった新しい価値観を生まれながらに持っている人もいます。
が、育っていく中でつくった価値観をだれもがもっているものです。
もしそれが「なんか変だ」と感じたら、その違和感を大切にしながら、進んでみてほしいとおもいます。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

堕ちて、堕ちて、堕ち抜いてください。
僕はそれを止めようとはおもいません。(一体、何をしてくれるんだオトノネは!)

堕ち抜くチカラは、あなたの本当のチカラになると、信じているからです。
(そのうち、浮上しているのか、墜落しているのかわからなくなるようになります。言葉って難しいんです笑)

ーーーーーー

その点、学校って、やっぱり、時代を作る原動力になるとおもう。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない?)

オトノネひろげるシェアぼたん

保育園もサバイバルな件(オトノネさん唖然)ー「あそび」という名の労働

聞く話では聞いていたが。。。

わかっちゃいたけど…

実際、現場の人の話を聞くと、やはり唖然というか、呆然というか。
そんな世の中になりました。

保育園の時から「させる」ことがたくさんあるらしい。
(いやいや、おしっこの自立とか、椅子に座ってご飯たべるとかそういうレベルではありません)
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

いわゆる、行事のための掲示物。
お母さんに見せるために、、、、つくる、、、、
6月はカエル。
7月はヒマワリ?


「ねぇ、これつくったらあそんでいいの?」という子ども。

保育士は「え?これは遊びじゃなかったの?」と驚いたという。

「次はなにをするの?」という子ども。
え?「あそばされてた」の?
大人のあそびにつきあってあげてるの?

大人という動くおもちゃがいなかったら遊べない子、「深く」取り組めない子がいる。

ーーーーーー

運動会、発表会、月一で入ってくる習い事や英語!は、実は子どもはそこまでうれしくない(まるで定期テストのよう)と僕はおもうのだが。
記憶には残るかもしれないが、、、

お母さんの思い出作り、他の園のお母さんとの話題のために、「行事」をしているようなものだ。
もしそれが、「子どもたちがやりたくてやっているもの」でないとしたら。
保育士の先生が「手持ち無沙汰」でないように、「行事」をしているようなものだ。
(若い先生の仕事を増やして笑っているワルイ先生がいるのかもしれない。まるで、小学校で、やたらバツをつけたがる先生のように。実際に、そういう先生、いますよ。)

お母さん、保育士のみなさんに、行事よりも、日常の保育に力を注いでもらうのはいかがでしょうか。
一部の保育園は、行事のためにブラック化しているらしいことが、SNSで情報を集めた僕の印象です。
保育士への負担は、子どもにも影響します。もちろん。
保育園の園長さん、保育へのプライドをもって、真心をもって、保育園のしくみを見直すのも、ひとつでは?

「行事」の文化は、伝統は、いつから、どこから始まったのか。
なぜ「保育園でそれをしなくてはならなく」なったのか。
それは本当に、大切なことなのか。

行事のおかげで、保育士の先生たちが子どもに注げるエネルギーを、削いでしまっていないか。
(子どもを喜ばせるなら、日々の保育で十二分ではないのか)

「毎月の季節」「日本の伝統」を経験するための行事が、学校になれば「定期テスト」という名前になります。
学校も定期テストのおかげで、先生たちは大切なことができていないのです。
声が聞こえるでしょう?「テストが終わったら、あそぼう!」
自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

同じことが、保育園でも起きていませんか?
それはもしかしたら、私の呼んでいる「保育」とは違うものなのかもしれませんが。

子どもに、「教えてはいけないこと」を教えていませんか?

ーーーー

その点、運動会を民営化(笑)した麹町の中学校はよくやっているとおもう。
また伝統的に、時期になると勝手に子供達が「発表会の準備を始める」保育園がある。
ある時期になると、年長さんが、遊ぶ暇もなく(?)あそびながら発表会の準備をしているのを、みれる環境を作っているのだ(年齢を超えて別のクラスの部屋に言ってもイイしくみができている。そしてこの保育園には、美術の時間がある!)

これは、清々しい。

小学校もサバイバルな件。

ーーーーーーー

お昼寝の時間、イベント、「全部食べるまで椅子から離れられない」信じられないようなことが、当たり前のように保育園で起きています。どうか、心を大事に。新しい時代を生きる子どもたちが、笑っていられるように。今まで当たり前のこと、それはもう役目を果たしたことかもしれません。「全部食べなきゃだめ」は戦時中、食糧難の時の話。保育園のイベントは、幼稚園の「キラキラ」しているのを、専業主婦のお母さんたちに見せていた(先進性をアピールしていた)時代の話。時代を繰り返そうとしている大人に育てられ、時代に揉まれる子どもたちの姿を、僕はあまりみたくありません。

お昼ご飯の時間ひとつにしても、「しくみ」は様々です。
ある保育所では、異年齢混合で、子どもたちが自分たちで、年長が年少者に食べ物を渡していく。嫌いなもの、少なくしてほしいもの、今日は少量で、といった交渉も言葉で子ども同士がやる。ある保育所では、配給は調理師さんがする(保育士はその時間、別のことができる)、もちろん、交渉は、調理師さんに子どもが直接する。給食の時間は固定されていない。遊びが早く終わった子は早く食べにいく。場所も決まっていない。その様子を見ながら、「◯◯ちゃん、◯◯ちゃんと仲直りしたねぇ」とかいいながら、子どもの様子をしっかりみる保育士さん。

やるか、やらないか。
ただ、始めればいいだけなのに。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

それができないのも、また人間なのです。
教育者、保育者としては、いかがなものかとおもいますが。

オトノネひろげるシェアぼたん

「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

おとのねさんの頭は混乱しています。

僕はいくつかの保育園で仕事(勉強)をしているが。

僕は僕なりに勉強をしていた。
(それが実はアンガーマネジメントとよばれるものだったりするのだが)

小さな子どもと関わり、慣れてきた最近。
とある保育士の先生からいろいろと言葉をもらった。

「ぼうっとしてるよ」
「何かしてあげないの?」
「導いてあげないのね」

公園に行ったらタンポポをふーっとしてみせていた。
それからその子は自分でもふーっとやるようになった。
園に帰ってシャボン玉をふーっとしてみせていた。
それから今日、その子は生まれて初めて、自分でシャボン玉を吹いた!
(もちろん、シャボン液につけるところは先生がやった)

1歳8ヶ月の子。

言葉がけや振る舞いのひとつひとつの意味の深さ、繋がりをしる。
できなかったことができるようになったその子は、とても、満足そうだった。

言葉にも、笑顔にもでていないが、真剣な顔、表情、その子が出す雰囲気をみたら、どんなに今彼が自分に驚いて、楽しくて、誇らしく思っているのか、感じることができた。

ーーーーーー

僕は「ぼうっと」しながら、子どもをみていた。
その場で何が起きるのか。子どもは何を見つけ、どのように関わろうとするのか。
僕が気になっていたのはそこだったから。

けどその先生は、何かを起こそうとして、環境を作っていた。関わり合いをし続けていた。
公園にいくときには「公園で何ができるか」考えていっていた。
公園を、その子たちが使い尽くせるような関わり合いをしているという。

日が強い日は日陰が多い公園を選ぶ、とかそういうレベルではない。

なるほど。

シャボン玉を膨らませるなど、教わらなければできないことだ。
そして目の前で、1歳8ヶ月の子がシャボン玉を吹いて満足している。
シャボン玉をこの歳に吹けるように「導く」先生の関わりがあったからだ。

ーーーーー

教育界で最近、話題の坪田信貴さんの指導法も、僕にとっては「導く」ものだ。
定めた目標に向かって、「進ませる」言葉がけ、関わり合いをする。
「導く」という言葉では生ぬるい、「引きずっていく」くらいがちょうどいいかもしれない。
引きずられて、心が擦り切れている子がたくさんいる。

「コレができるように」という目標設定がある。

僕にはそれはできないと思っている。
(まだ、僕にはできない)

(いやいや、目標が決まれば、それに本気で関われる状態になった人に対しては、「道案内」をすることができるし、それが学習塾オトノネの売りだぜ!導くって言葉が、僕にはどこか、合わない)

ーーーーーーー

「導く」か「任せる」か
それが問題だ。

「導かれる」ことで幸せになる人がいるかもしれない。
(実際、坪田さんの著書のあちこちに、「導かれて」人生が変わった人たちの記事が載ってる)

「導かれる」ことで多くの高校生たちが、大量の課題と学校の先生の呪いの言葉に埋もれて窒息しそうな暗い顔をしているのも現実。

「導く」ことの責任が、僕にはこわいのかもしれない。
(というか僕は五行でいうと「水」らしく、僕自身が「委ねる」感じの人間なのかもしれない。けど逆に解釈すると、悠々と誰かを「導く」チカラももっているかもしれない。言葉って難しい)

ーーーーーー

例えばネイチャーゲームとか、学校の授業もそうか。
「自然に触れる密度を高める」ための「導き」がある。
「自然にまかせていたら、得られない学び」をえるための「導き」がある。

そうおもったら、僕が不得手な「導く」という言葉も悪くない。
「任せる」ことができる環境に「誘う」と言い換えてもいいかもしれない。

喜び合えることが一つでも増えていけるように、という愛情だけではどうにもならない。
愛情にはカタチがない。
「導く」という愛もあっていい。

学校に行きたくないんだけど学校に行かなきゃと思っている子に、
「休んでもいいよ」という言葉は、「誘い」であり、「導き」であり、「任せる」ことの全てを含んでいるようにおもう。

保育士のプロは、愛をもって、知恵をもって、子どもと関わる。
その知恵が、保育園という場所で継承されているという。

僕はその知恵を、どうにかして体系化したいとおもっている。
オトノネをお母さんたちの仕事場にするために。(どうやら僕はここが気になっているらしい)

勉強する時間つくるか。
うーん。フルで働くか。保育園で。

あは

ーーーーーーーーーーー

「導いてもらいたい」という気持ちでお父さんお母さんは塾に子どもを通わせるだろう。
そこでオトノネは「いやここは任せるところですよ」というわけだから、度肝を抜くお父さんお母さんもいるだろう。

「導かれて」しあわせになるとはどういうことか、僕にはよくわかっていなかった。
ただ、目の前でシャボン玉を吹けるようになった(真面目な顔で、なんどもなんども吹いている!)その子の顔をみて、

僕は研究を始めようとおもった。

ーーーーーーーー

オトノネの本棚には、ずらりと高校入試、大学入試の「参考書」が並んでいる。
おとのねさんは、その子の発達段階、学習段階に応じて、そして志望校に応じてカリキュラムを組み立てられる。
そのために、どんなスケジュールで進めて行ったらいいかもいえる。(行為レベルの話ができる)
おとのねさんの話し方

今度は、別の棚に、「おもちゃ」を並べて、同じようなことをしようというのが、オトノネさんの計画だ。

その点、「勉強」も「遊び」も変わらないのかもね。

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

「導く」も「任せる」も、どちらでもいい。
どっちもあっていい。

どっちも必要だろう。

モンテッソーリ教具がその極みかもしれない。
「任せる」と同時に「導く」。

けど僕はもう少し、ぼくなりに、もっと素朴に、おもしろく、「あそびの体系化」をしていきたいなぁとおもった。
例えば、「ひも」というものでどんなあそびが発展していくのか。

乳児期の「ひも」との関わり合い
幼児期の「ひも」との関わり合い
学童期の「ひも」との関わり合い

この流れを体系化していけば、「あそび」がいわゆる「お勉強」にとって大切であると胸を張って言えるようになるかもしれない。

ーーーーーー

保育所でフルに働くかー
どうしよかー
ああーーーーー
残業とかまじで僕無理っすよ?
嫌なんだよなぁ‥保護者を喜ばせるための運動会とか、出し物を「やらせる」とか。(年長になったらやってもいいとおもうが)

その考え方も、改めないといけないかもしれないけど。
(イベント行事を一切(年に一回だけ)やめている保育所を知っている。日々、日常の保育のなかに全てを注ぐというスタンスの園だ。僕としてはそっちの方が好きなんだが。だって、保育士の先生の負担の代わりに得られるものが、小さすぎる(子どものアルバムの写真が増えるだけだ)と、僕はおもうから。子どもはそんな年に一回のイベントがきっかけを学びの時間にするチカラがあるだろうか?年長くらいになったら、できるのかな)

ーーーーーーーーー

有名な倉橋惣三という保育実践者がいる。
この人が掲げた「誘導保育」という考え方は、これなんだろうと、しみじみ、実感した。
「誘う」を英語にすると何か、グーグル先生に聞いてみた。

invite

と出た。

素敵だなぁとおもう。

くるかこないかはわからない。
けど、お誘いしますよ。という姿勢。
その距離感がいい。

この「誘い」を悪用すると、悪徳商法、マインドコントロールになってしまうところが人間臭い。

心が大事。

混乱していた頭が、少し整理できた。

ーーーーーー

あーでも保育園って、やっぱり文化があるから、いろんな保育園で「観察」した方がいいかなー
そうすると、アルバイトができなくなり、金欠になるなぁ困った!

とりあえず笑っとこう!

ーーーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

一緒にやってみるだけで大人だって子どもだって、ドキドキできる。

託児所での話。

お兄ちゃんと弟。

最近弟は、結構言葉でいろいろ答えてくれたり「これしたいあれしたい」を喋るようになった。
(昨日何があったとか、「自分から」喋ることはまだない)

その子がお兄ちゃんについて行って滑り台で遊ぼうとするが、「こわい」といって滑れない。
「じゃ、先生と一緒にすべりなよ」と保育士の先生。
「んー、僕大きすぎて滑り台に入れないなあ」と僕。
「じゃぁ僕と一緒に滑る?」とお兄ちゃん。
「うん!」と弟。

お兄ちゃんに後ろからしがみつくようにして、滑った!
むっちゃ笑顔^^

ーーーーーーーーーーーーーーー

はじめてのこと、ちょっと怖いこと、
不安なこと。一緒にやってくれる人がいるだけで、挑戦して、できるようになることがある。
大きくなるごとに学校で閉ざされてしまった心(隠れてしまったその子のなかに住んでいる子の家)の扉を叩くことと違って、小さい時の純粋な挑戦はとても単純に、素直に、受け入れられる。楽しめる。

だから子供は天才でなんでもできるといわれている。
挑戦する時間を与えられているからだ。

大人だって同じだ。

子どもと一緒にやるだけで、大人だって挑戦ができるし、新しいことを始められるし、不安なことも一緒にやってみることができる。
子どもに大人が教わる。

世の中にはいろんな大人の組織があるが、子どもっぽい、創造的な、自由な、そしてあそびのルールがしっかりしている組織(たとえばグーグル?)には活力があるし、人が集まる(そんな仕組みをつくってくれている気がする)。子どもっぽい、子どもらしさをもっている大人は、大人のあそびのリーダーになって、社会を作って行く。変えて行く。

「ブラック」企業でお金以外に通勤する価値を見出せないお父さん、お母さん。お金が不安。
「ブラック」学校で卒業資格(と部活と体育祭文化祭と友達とのおしゃべり)以外に通学する価値を見出せない子ども。卒業資格がないと不安。

大人も子どもも同じ場所にいる。
一緒にあそんでみたら、どうなるだろう。

一緒にあそべる人と出会えた人は、しあわせだ。
大切な仲間だ。

習い事ばかり、課題ばかり、残業ばかりで、挑戦できなくなっていないだろうか?

学ぶ価値は、働く価値は、そこにあるんだろうか?

好きなことを仕事にする?の意味。『三太郎の日記』

大人は、大人としての課題にちゃんと取り組めているだろうか?
学校と同じで、ただやらされているだけなのだろうか?
「ちゃんと」生きることは難しい。心を大事にすることは難しい。
そんな世の中になっている。

子どもは子どもでしっかりしていて、しあわせになるチカラをもっている。
お母さんはお母さんで、子どもからしあわせを分けてもらいながら、子どもから自立して、しあわせになれるだろうか。
だって、子どもは大きくなるんだもの。

ーーーーーーーーーーーー

そのあと、「こんどはお兄ちゃんが後ろで滑ってみたら?」ということになり、弟が前にいく。
お兄ちゃんが後ろにきて、逆に弟を抱きかかえようとしたら、

先に、弟が一人で滑っちゃった!

むっちゃ笑顔^^

オトノネひろげるシェアぼたん

子供のポテンシャルエネルギーを感じる

というか子供は姿勢がいい。
あれだけ自然に、ちょんとして凛として座っていられる。
またしゃんとして立っていられる。

何者だ???

大人だったら、崩れていたり、ブレていたり、力なく弱々しかったりすることもあるのだが。
(もちろん逆に歩き方がぎこちなかったり、ぐにゃっとしてしまう子もいる)

立ち方、振る舞い方、そこにいることで生まれるエネルギーが、その人のポテンシャルだ。
ポテンシャルを顕在化させようとして、大人は習い事をさせたり、いろいろとやらせる。

子どもは一流の学習者だからなんでもできるようになる。

あるとき、ある状況のなかで目を見開いて、「え?いつもの君はどこにいった?」という子もいる。
何をしているかというより、ポテンシャルが上がっている状況、そして落ち着いてそのエネルギーをコントロールできる環境を作っていくことを大切にしたい。(蛍光灯バチバチの環境でポテンシャルが下がる子もいる)

エネルギーを何に使うかなどは、二の次に考えようとおもう。
謎の輝き、神秘のチカラ、心のはたらき。可能性。どんな言い方もできる。
ただそのエネルギーの使い方をあまりにも限定されてしまい、気が滅入っている子が多いのではないか。

ということだ。

ーーーー

ポテンシャルエネルギーとは、簡単にいうと隠されたエネルギーで、地面からの鉛直方向の距離が長ければ大きくなる。
姿勢がいい、シャンとしているとは、このエネルギーが高い状況をいう。

アーノルド・ミンデルは量子力学と心理学を結びつけていますよ。
不確定な、挙動不審な、確率的な、決定論とは別の次元で動いている世界に、科学者も目を向けてはじめています。というか、もうバシバシ向けています。

関連した記事も是非お読みください^^
ワーキングメモリ容量の個人差があまりにも大きすぎる件。
人はどこまで遺伝に左右されるか。
「内向的な人が秘めている力」
遅れは取り戻せるのか?発達の可逆性について。
子供のポテンシャルエネルギーを感じる

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉への意欲、それは食欲の如し。

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

遠慮はいらない。

かぶりついて

指でつまんで汁をなめなさい

あごにたれないように……

芯も

軸も

内皮も

核も

種も

外皮も

捨てるところはないのだから。

『クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々』の中で紹介されている、イヴ・メリアムが命ずる「詩の食べ方」

言葉が出ない、とか、言葉が遅れている、という話をよく聞く。それで支援センターなどに行く人も大勢いる。支援センターはてんてこ舞いだ。それよりも食べる時間、味わう時間をつくるのはどうだろうか。

「この子、もしかしたら…」といって不安になるお母さんがいる。「診断」をうのみにして「治療」をさせようとしてしまう。クシュラの母親も医者に「知能障害時センター」に通って治療を受けるように申し出た。けれども、母親は施設に預けるのではなく、クシュラの“正常な部分”をみつけ、決意を持って不断の刺激を与え続けた。たった一つ、開かれた扉を見つけ、開き続けた。

18ヶ月の時に、クシュラがかなり進歩をとげつつあり、その進歩は、自分たちがあたえた励ましと刺激が、少なくとも一部には成果をあげていたのだ、とそう信じる根拠を、両親はつかんでいた。そのときに「正常でない」と烙印をおされたのである。両親は、それを的外れだと思った。施設へ、という忠告は、自分たちの努力に対する嘲りだとも思ったのである。

医者は診断はできても、人間を育てる「専門家」ではない。人間を育てるのは人間だ。

ジョアン・タフ著の『意味の焦点ー上手な幼児との対話』は、「教師、親をはじめ、成長期の子どもたちとつきあうすべてんぼ人たちが、乳幼児期に言語が果たす役割をより深く認識する助け」として書かれた。著者は、子供が考えていることをヒュオプ原子、同時に思考を深めようとするようにする言語の発達にとって、もっともよい機会を与える家庭環境を規定している。著者がとりあげたのは、3歳の男の子のマークが育つ家庭環境で、とくに大人との関係に注目している。「マークにとって大人とは、情報を提供する人、思考や議論にさそう人である……マークは、質問をすると情報が得られる、問題を解決する努力はほめ言葉となってかえってくる、そして言葉は過去の経験をよみがえらせるものだ、ということを学んだ。」このような大人と子どものかかわりあい、つまり複雑な言い回しを使って、議論し、予見し、計画し、熟考する両親という手本が、マーク自身の話し方に反映されている。こうしてマークは「考える道具」を獲得していく。(p.185)

食事も、言葉も、家が基本だ。そう考えた時に、オトノネができることなんて、本当に小さなことで、もう適当にやってもいいんじゃないかと思えてきた。僕は少し力を抜いてもいい気がする。家庭教育をお手伝い、くらいにしておこうか。

多くの「個別指導塾」がアルバイトの若い学生、学校と関わり合いのない先生との「会話の場所」になっているのも、子どもの心の表れなのだろうとおもう。子どもは大人を求めている。

オトノネひろげるシェアぼたん

保育所選び・学校選び・塾選び・学び場選び

もう訳がわからなすぎてどこでもいい!と思えてしまうほど、世の中は選ぶことで溢れている。いろんな選択肢がある。まさに自由という病だ。

富山のねいの里でやっている森のようちえんとか見学にいったり、保育士の先生の話を聞きながら、考えたことがある。

ある保育園には机がない。どろだらけになって遊んで、おやつはスルメとかを食べる。他の保育所で働いている保育士さんがこの保育所にお手伝いにくると、ショックを受けるという。前に書いた記事の〈けじめ〉がなっていない、というような話だった。

森のようちえんにも机はない。時計もない。それで小学校にいったら大丈夫だろうか?保育所よりもガチガチに学校教育をする幼稚園の生徒の方が、小学校での〈素行〉はよい、保育所によっては小学校の先生が「やっぱりこの子はこの保育所か」と思ってしまうほど、保育所の文化、子供の育て方が違う。という。(ちなみに、保育園に机がなくても、家には机がある。家庭にも文化がある

「小学校に行った時に、困らないように」という考え方がある。まぁ間違っているわけではないが。けどそのおかげで「小学生でも自宅学習を◯時間しましょう」という御触れがでるというではないか。高校のための中学、中学のための小学、小学のための保育、そうして子供はケッキョック、〈高等学校(初級)〉に入るかのごとく、小学校に入学するのかもしれない。部活動のように習い事をする小学生が近くにいないだろうか。

一体、〈いい保育所〉ってどこ???

神経質な子、繊細な子なら森のようちえんでも、小学校に入ったら自分をまわりに合わせられるだろうし、もしかしたら、やんちゃ坊主も森のようちえんで、あたたかく大人に見守られる段階を経て小学校に行くのがいいのかもしれない(規模が小さいから質が確保されている。保育所になると、担当する先生によって質が変わる)。保育所に入るまでに「しっかり」育った子なら、もう大人。ふつうの保育所でもうまくやっていけるはずだ。

〈いい大人〉はどこにいる???

保育園は、お母さんが子どもを客観的に観察する、子どもを知るための時間なのかもしれない。この子は今、どんなことを感じているんだろう?この子は今、何を感じているんだろう?この子は集団の中で、どんな振る舞いをするんだろう?この子は何が好きなんだろう?この子の性格はなんなんだろう?この子の癖は?(きちんと子どもをみてくれる、話をしてくれる先生にであえた子どもとお母さんはしあわせだ)

学校は社会だ。社会は学校だ。学校は会社だ。途中で変えてもいいし。無理して続けることがいい、わけでもない。「あれ?」とおもいうことがあったら、環境を変える、関わる大人を変えること、新しい場所をみつけること、人と出会うことを、まずやってみたらいいと僕はおもう。(もちろん、お父さんお母さん自身が変わることも含めて!)

お母さんが子どもをよく理解して保育所や習い事(関わる大人)を選ぶように、高校選びも、塾選びも、会社選びは子ども自身が自分自身を知っていることが大切だとおもう。自分自身を知るとは、社会の中の自分の姿が見える、社会の中で振る舞う自分、他人から見た自分、環境に置かれた時の自分がわかることだ。

少なくとも思春期がきたら、子どもに「生き方」「暮らし方」の話をしてあげては、どうだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん