おとのねさんの「小学生が一番(?)、教育に投資する時だ!」という思いを支持するデータを文科省の「子供の学習費調査」から読み取る。

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おとのねさんの「小学生が一番(?)、教育に投資する時だ!」という思いを支持するデータを文科省の「子供の学習費調査」から読み取る。

富山市の民間学童保育

幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

オトノネひろげるシェアぼたん

マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。

眠れなくなってyoutubeを徘徊していて、こんな動画を見つけた。
タイトルはものすごく刺々しいけれど。。。

見てみると。

僕が前にも記事にした「マシュマロ実験」と「ファンタジーの力」とは別の解釈というか、データを出してくれていたのでした。
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読。
(上の動画のマッシュルームの話が終わった後の話は、聞くに耐えないので聞くことをお勧めしません)

前の記事では「マシュマロを食べなかった子の忍耐力とは、ファンタジーによって時間を引き延ばすチカラをもっている子」だと紹介した。
この動画では「マシュマロを食べた子は貧乏な家庭で親からいつも嘘をつかれている環境で育った子。もしくは食べ物にいつも困っている子」だと喋っている。

この話が本当かどうか、わからない。
けど、本当な気もする。
言語は、使用される環境、文化の意識を心に移植し、機能させるから。

人の話が聞ける子と、そうでない子。
それは、人の言葉の力であり、信用であり、人への期待である。

未来に対して何も、期待ができない、未来の「しあわせ」が描けない。
目の前の欲求(「辺縁系」)が、ファンタジー(「新皮質」)を凌駕する。

目の前の定期テストが、その子の持つ創造性を凌駕する。

もし、「将来が思い描けなくて不安」なお母さんがいるとしたら、その不安は子どもに移る。
言葉が、感情を媒介する。


もし、「将来を思い描く」お母さんがいたら、その子も将来を思い描くようになるだろう。
お母さんがお母さんの将来を思い描くなら、子どもは、子ども自身の将来を思い描くだろう。
お母さんが子どもの将来を思い描くなら、子どもは、心を喰われてしまうかもしれない。

子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。


未来にレールを引く育て方は、近代、古い時代のやり方。
レールのない道を、人と関わりながら、どう歩いていくか。それが、新しい時代の子どもの育て方。

ニュートン力学ではない。
量子力学の世界観。

オトノネは家庭教育の大切さを感じている。
【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?

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富山市の民間学童保育

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実はオトノネさんもそうだが、学校という場所の影響をたくさん受けた。
大人の嘘、都合、言い訳、「筋」というなの、理不尽。
対話ができないこと。言葉に、創造的な機能がないこと。
背中に銃を突きつけながら、笑いかけること。


言語環境、という一点においていえば、学校は、最悪の場所だ。

と、おとのねさんは、おもっています。
もちろん、素晴らしい先生も、いますよ!ほんの、一握り。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

オトノネひろげるシェアぼたん

数であそぶ

数学は真面目にやったら新皮質だけで頭でっかちになる。
数学であそんだら、辺縁系も一緒になって、「あはは!」となる。
教科書では学べない数学的思考: 「ウーン!」と「アハ!」から学ぶ

小学生、数を「実際に」数える、というだけでも、ものすごく数学的なことができる。
規則性、対称性、分析して、場合分けして。。。

内言を獲得した後に抽象的な割合とか分数をやる以前に、こういう「数を数える」ことでたくさん数学の「どっきり」を経験してほしい。

高校生になったら、こうなる。

ふしぎくん


どきどきちゃん

で、文科省の指定通りに勉強すると、「概念の勉強不足」により、「暗記数学」への道が、ひらけてしまう。

いや別に、逆関数って言葉を使わなくてもいいんだけどね。
対数がわからないっていう子、結構たくさんいるらしいね。

逆関数、数Ⅲにならないとでてこないんですけど。
数Ⅱで必要になると、僕はおもうんだけど。

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分数の前に、数を数えること。
対数の前に、逆関数をやっておくこと。

積み重ねないで、「わからん」という人は、順番さえしっかりすればいいのに。
たったそれだけのことを、多くの高校生が、教わらない。

数の数え方、数の扱い方に十分に慣れずに割合、分数にすすみ、算数嫌い、数学嫌いになる子がいる。
その子のペースでやりさえすればいいのに。
たったそれだけのことができずに、宿題を「させる」ことが、どれだけふしあわせのタネをその子に植えつけてしまうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

バリ島の「感情」

バリ島に行って、ダランという語り部の先生にお世話になった。
そこで話を聞いていると、感情は3種類あるという。

それは、平穏、悲しみ、怒り。
しあわせ、がなかったことに驚いた。

バリ島では、喜ぶという感情が、どう表現されているのかわからない。

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日本では喜怒哀楽という言葉がある。
怒りと哀しみはわかるが、喜と楽の違いがわかりにくい気がする。

こんなふうに区別してみた。

接近(ある状態) 
喜び・嫌悪

喪失(ない状態)
楽・悲しみ 

好ましいものが近くにあれば、喜び
好ましくないものが近くにあれば、嫌悪

好ましくないものが近くになければ、楽しみ?
好ましいものが近くになければ、哀しみ

平穏(インドネシア語でダマイ)とは、喜びと楽しみを合わせたものなのか。
怒りとは、嫌悪と哀しみを混ぜたものだろうか。

インドネシアの語り部のストーリーは、だいたい、決まっている。

出来事が起きる。

怒り10%

出来事が起きる。

怒り40%

また何かが起きる。

怒りが溜まっていく。

そして、戦いが起こる!

戦いが終わった後で、、、平穏が訪れる。

僕の言うしあわせとは、心が落ち着いた状態であって、何かが得られて嬉しいというものではない。
うれしいことをうれしいと感じるメタスキル かもしれない。

僕の言うしあわせとは、和やかさのことで、平穏のことで、自由に、のびのびと生きることだとおもった。
だとしたら、今の僕は、なかなか、穏やかではないなぁ笑

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保育雑誌を読んでいて、天野耕太さんの記事に出会う。

こういう、すごい人がいるんだな。
「平和」を心に抱いて、世界を巡業するサーカス団。

そういえば、作家のミヒャエル・エンデ(時間泥棒の『モモ』の話で有名)も、サーカスの人たちの社会的な役割、人間にとってのサーカスをよくよく考察した人だった。
演技団。

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愛でる、という言葉がある。
これは「目出る」がオリジナルの日本語であるようにおもえる。
目が飛び出るくらい、みつめる、ということだと、僕は思って言う。

しあわせには自然発生的なものと人工的なものがある。と言う記事は、前に書いた。
僕の言う幸せは人工的なものであって、「しあわせになる」心ひとつで手に入るものだ。
これは、「得られなければ、幸せではない」という辺縁系レベルの感情ではなく、「なくても、それで、しあわせ」をつくりだす、想像の世界を作り出す新皮質レベルの感情だ。

「美味しいものを食べて幸せ!」ももちろん、大切だろうけれど。
誰かと一緒に暮らしながら、学んでいく「しあわせ」も味わえるようになったほうが、どうやら、人間らしいと僕はおもっている。

そうおもったら、一人分のお金だけ稼いで、あとは、小さく、生きていくのがいいのかもしれない。
おとのねさんは、どうやら、焦りすぎている気がする。

《放課後の学校》、趣味で、始めようか?
無料にしたらいい???笑

そんな考えすら、浮かんでくる。

そうして、厚生労働省は、文科省に予算も、社会的影響力も、とられてしまいましたとさ。

おとのねさんは、いつも悩んでいます。

オトノネひろげるシェアぼたん

学童期に大切な「学び」を保障する場所。

0歳から1歳 子ども(体外胎児期
 0歳:感覚と感情の経験

1歳から4歳 子ども(幼児期
 1歳:ニューロンの再構築(一度出来上がったシステムが、全く新しくなる)
    社会的所作の獲得開始(食べる・排泄する・)
 2歳:みえない友達
 3歳:
 4歳:サリートアン課題ができる

5歳から8歳 子ども(学童期
 指先の細かい動き
 5歳:
 6歳:
 7歳:
 8歳:

9歳から12歳 子ども(思春期
  9歳:数学的抽象概念の理解・言語的な社会化(内言の発露)
 10歳:
 11歳:
 12歳:

13歳から18歳 大人(思春期

感情にまだ名前がない、未分化な状況がある。
人間らしいシナプスが作られるようになるという1歳児から、子どもは、少しずつ、「名もなき感情」が生まれた時の「対処法」、感情との「対話法」を学んでいく。あこがれ、うらやみ、とまどい、怒り、、、少しずつ、少しずつ、、、、それがある程度、その子のデフォルトは、3歳になるまでに固まるという(保育士さんの経験則)。

高次認知的情緒とよばれるこうした「いろんな名前のついた感情」に、子ども自身が、子どもの内部で、心で対処していけるようになる。

友達を脅す子
友達に媚びる子
誰にでも対等に関わる子
ひとりで遊ぶ子

そしてどの子が持っている力も、社会化することで、「天の才」として、伸ばすことができる。(個別化)
それを子ども時代の大脳辺縁系の発達のままにしてしまうのではなく、人間として、大脳新皮質を育てることが大切だと、オトノネさんは思っています。

それは全て、人との関わり合いの中で、遊びの中で育つ。
プリントをたくさん解くことで育つのではない。

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3歳までの遊び方・学び方で、その子のその後の育ちがだいぶ、決まるらしい(保育士さんの経験則)。
実際、脳はいくら臨機応変だといっても、その時その時「育てたい部分」がある。
ある部分が、適した時期にある程度でき、そしてその次に、「基礎」をもとにして、新しい部分を作っていく。
人間の脳が、辺縁系の上に、新皮質がプラスされているように。

同時に全部、ではなく、やはり優先順序が、そのときどき、発達の段階で異なるということ。

乳幼児には、呼吸器や筋肉など、とにかく生きるために発達する。
幼児期には、人間として生活する所作を学ぶ(甘える・怒る・駄々をこねる・一人で静かにあそぶ・誰かにいつもひっついてあそぶ)。【自主性】
学童期には、鍛えられた探究心、身体性を最大限に使って、あそぶ。ルールを理解できる。(知識・技能・関心の個別化・深化)【自主性・創造性】
思春期(子ども)には、すでに独立して、他者から自立して内言をつかい、話し合うことができる。協同して学べる。ルールをつくれる。(自立・協同)【自主性・創造性・(小さな)社会性】
思春期(大人)には、子どものときに培った「天の才」を極めて、社会化するような学びを深める。多様性に接する。【自主性・創造性・(大きな)社会性】

18歳になったら、「職場」で学ぶ。
(大学は、もともと、研究者を要請する場所だった。大学という「職場」で学ぶことだった。それが今は、教育基本法改正(改悪)によって、高校と同じ「学校」になってしまった。今は「幼稚園」だけが学校に含まれているが、これから「認定こども園」を学校に入れようという動きが見られるだろう。それは、日本がアルイミで終わる瞬間だ)

それからは、組織を選んだり、自分にあった場所を探したり、、、いろんな生き方がある。
学び直すのもあり、、、外国にいくのも。旅をするのも。

次の発達段階、発達課題を見越した関わり合いが大切。
一つ前の段階から、次の段階のタネを育てていく。

例えば、学童期に創造的に「粘土」とか変わるために、「砂場」でたくさんあそぶこと。とか!
それは思春期になって、自分の「天の才」として、「土」の仕事を目指すきっかけになるかもしれない。

学童期の最初の段階、5歳で象徴的な「創造」「集中」「深化」の例として、他にKAPLAが挙げられる。
時間をかけて、ひとつのイメージに向かって、作り上げていく。

身体的な発達については、「検診」で診断される。
身体的な発達が遅れて入れば、その分だけ、精神的な発達にも影響があると考えるのが道理だが、そうとも限らないこともある。
アームストロング博士は有名だし、オトノネはクシュラを例として挙げたい。

1歳児半検診で「両手で叩ける」ことが検査項目にある。
身体的な機能、発達していく心を見越して、環境を与えること。

そんな当たり前を、おとのねはあたりまえにやろうとしています。

オトノネひろげるシェアぼたん

野性のチカラと企業戦士の矛の先と戦闘ゲームと虫取りとあそび

最近、保育園で子どもが「虫取り」をするのを見た。

というか、園内に昆虫が増えた笑

で、この虫取り、、、、、
すごい。

何が凄いかって。

まず目が鍛えられる。
「獲物を見つける」視野。

で、神経も鍛えられる
「獲物を捕まえる」俊敏さ。

で、指先も鍛えられる。
「殺さず、生かす」やわらかさ。

で、頭も鍛えられる。
「逃げられた!次はどうしたらいいか?」

捕まえた虫を観察したり。
飼ってみようとするなら、もっといろんなことを学ぶだろう。

あれだけ生き生きとしていた虫が、死ぬかもしれない。
そんなかんだで、心も鍛えられる。

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サッカーなどは、ゲルマン民族の「戦闘」能力をスポーツ化したものだという記憶が僕にはある。
テニスは「貴族の暇つぶし」。野球の起源はなんだったか。(ネットで調べて見たけど、不明らしい。あんな複雑な、バットを使ってボールをうんたらなんていうものがどうやってできたのか。場外に出す動作、打つ動作。走るどうさ。取る動作。うーん、想像できない。。。)

とにかく、体を使って奪いあったり、捕まえたり、物を放り投げたりする能力は、なかなか爽快だ。
的(獲物)に当たったら、めちゃくちゃ嬉しい笑笑

それこそ自分で「修行」をしたくなる。
そうして、強くなる。

宮本武蔵になれる笑

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スポーツも、ある程度のレベルまでいくと、相手との「心理戦」になる。
どれだけ相手の呼吸を狂わせるか。。。。

そこには野性味があるが、やはり対話がない。
いや、ある意味、対話だ笑

剣を通じて、拳を通じて、語り合う人がいるらしい。
北斗の拳とか??

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現代、この狩猟感覚はゲームの中で体験されている場合がおおい。
オトノネさん、実は生徒に教わって「戦闘ゲーム」を、最近、やってみた。
戦場に降りて、武器を見つけて、相手を狙って撃つ。
相手の足音、打たれた方角、現在地、向かっている先は全て画面に表示される。
けど肝心な情報は、「目視」するしかない。
20分くらい、逃げて、狙って、隠れて、戦い続けた。(結局3位になったが、銃は一回も使わなかった笑ビビりなのね)
オンラインで、世界中の人がやってくる。
時間が来ると、居場所が狭まっていき、敵との遭遇率も高くなる。


身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れた。

身体感覚が伴っていたら、大変なことになっていただろうが・・・
おとのねさんには、違和感、違和感・・・

ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。
この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。

脳は野性を、ある意味で求めているかもしれない。「男の子」はなおさらそうかもしれない。

それで高度経済成長期に、「男の子」は、企業戦士になって、戦ってきた。
今、その矛を置いて、さて、どうしたものか。
矛を下ろす先が、わからないのかもしれない。

矛を持ったままでもいいから、その矛で、子どもとあそんだらいいのに。
たったそれだけで、世界はたぶん、変わるから。
(それで少年野球に精を出すお父さんがいるという話もある。スポーツじゃなくて、「させる」んじゃなくて、あそんでほしいんだけどな)

そもそも、狩りは、昔の子どもにとって、純粋に遊びであり、本物の狩りの練習だった。
そうおもうと、昔の「狩り」は今の「宿題・課題・お勉強」なのかもしれない。あそぶように、当たり前のように、「学習習慣」を身につける世の中。


身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れている子どもが、どれだけいるだろうか

そこには野性味があるが、やはり対話がない。
いや、ある意味、対話だ笑

「テスト、どうだった?」
「赤点じゃなかった!」

テストの答案用紙を通じて、模試の結果を通じて、語り合う人がいるらしい。

ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。
この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。
「やった!今回も、平均以上だ!」次も頑張ろう!とか。

心が大事。

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ちなみに、オトノネでこの野性の要素を出せる環境は限られています。
走り回るスペースは、ありません笑

けど
お手玉とか、折り紙の手裏剣ごっことか、(山田さんの)吹き矢とか。
あ、この前、庭にトカゲが歩いてたな。。。

あれ?そうおもうと、あそびって、結構野性味があるな・・・

オトノネひろげるシェアぼたん

なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

だれもが、プロセスの中にいる。
いつ起きるかわからない心の動きで、人生が変わって行ったり、同じことを繰り返したりを繰り返しながら、進んでいく。

オトノネにきて、新しい心の動きが、人生を新しいプロセスに向かわせるように変わっていく人もいる。
いろんな人がいる。

ぐるぐるしながら、進んでいく。
いろんな人に出会いながら、人と出会うことで、変わっていく。

僕もそうしてオトノネを始めることになった。
人との出会いと同じくらい、お母さんにとっては「子ども」と出会うことは、とってもとっても、大切なことだとおもう。
誰かと一緒にいるから、何かが起きる。

近くにいる、誰かの心を大切にしているだろうか。

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心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。

こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。

「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。

それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。

また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。

「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。
無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。

その時は、役に立った。
困難を切り抜ける作戦として、有効だった。

しかし、
自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。

「何か変だ・・・」

ーーーーー

この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。

心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。

「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。
カウンセラーは、そのお手伝いをする。

本人が気がつかないような身体のメッセージがある。
少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。

自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。
そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。

こう語りかける。
「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。

「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。
けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい?
怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。

子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。
自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。

「大丈夫だよ、ほら、だって、今、あなたに僕の姿がみえるでしょう。僕のことを抱きしめてくれているでしょう。僕を、ちゃんと感じてくれているでしょう?」

子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。(それは子ども時代、に限ったことではないが。)
けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。
大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君(もしくは、大人になった後の、あの時の、あなた)を、おもいやれる。

だから、大丈夫だ。

悲しみを暖かく抱きしめる、今の私と、かつて悲しみにくれていた私が、出会う。

自分を抱きしめてみてもいい。
大切な誰かを抱きしめてみてもいい。

自分の心と、相手(自分自身)の心、を感じられたら、きっと、何かが動き出す。

動いていく心を感じてみよう。

ーーーー

無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。
感じること、を通じて、子どもの時の自分(もしくは大人になってからの、あの時の自分)、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。

感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。

そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか?
自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか?
(あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?繰り返される「自動思考」で頭がパンクしていないだろうか?)

「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。
今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・

「防衛」とは「感じないようにする」ことだ。
本当の自分を感じないようにして、誰かのために命を捧げることも、「防衛」といえる。
心を安定させるために、「その時」選んだ、最適解。

だから、防衛を解いて、感じることは、ある意味とてもつらいことだ。

一人では、とてもやっていけないくらい、つらいこと。

だから、、、、
だから、一人でがんばれる!とはおもってほしくない。

ーーーーーーー

自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。
もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。

そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。
これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。

「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。
「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。

もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。

目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。
君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。

本当にいるんだろうか?

ーーーーーー

多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。
それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。
「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。
「怒り」に気がつかない。

「怒り」にもいろんな名前がある。
妬み、憎しみ、悲しみ、恨み、、、、、

怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。
自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせることをしている親がいる。

子どもは、お父さん、お母さんが好きだから、

満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする人がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。

けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。
同じ人生を歩かせようとしてはいないか。

子どもはやさしい。
お父さん、お母さんを愛している。
だから、命をかけて、命を燃やして、身を捧げて、応えようとしているかもしれない。
その子の、一番大切なものを、捧げていく。

それは本当に「その子」のためだろうか。

子どもが大切な「今」を差し出している。
大人は、そんな子どもの心に、どんな「今」を差し出せるだろうか。
大切なものを、差し出せるだろうか。

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悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。
「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」

そうして悲しみを自分の一部にすること。

少しずつでも、少しずつでも、、、、

ーーーーー

痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。
苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。

弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。
(これを心理学用語で投影といいます。別に悪いことではありません。そういう現象を、投影といっているだけです)

嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。

情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。
心に向き合う時間を大切にしたい。

人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。
愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。

ーーーーー

古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。
個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。
「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」

という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。

人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。
輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。
それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。

人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。
「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」

痛みを感じないわけではない。
痛みと寄り添えるようになること。
痛みを抱きしめられるようになること。

それだけで、プロセスは動き出す。

大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。
学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。

心が大事。

ーーーーー

自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。

だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。
多くの受験生にとって、「やってたことをやる」習慣や、「できる自分」へのプライドがある。

「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。
「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。

大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。

それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。
思春期だと、おもっている。

もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。

先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。
僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

オトノネひろげるシェアぼたん

佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。

佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。

先日、富山大学附属特別支援学校でたまたま佐藤学という有名な先生の話を聞く機会に恵まれた。
いるんだね!こういう人!というか、友達になりたいとおもった。
「学びの共同体」という言葉で、理想の教育の姿を説明してくれた。

むかーしっから、やっているようです。
学びの共同体研究会

石川県金沢市立紫錦台中学校も参加しているらしい。
こちらが金沢市立紫錦台中学校のHPです!
富山県で「学びの共同体」を実施している場所は、みつからなかった…

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メモにとったもの。

学ぶことは、しあわせなことだ。
一人で学ぶことはできない。学びは、社会的なものであって、孤立していたらできない。
人間の大脳新皮質は他者との協同により発達する。

ペア、グループ、コの字型で向かい合うのが基本。

小学3年生にならないと、内言ができない。考えることができない。(経験的な法則)
だから小学1、2年生はペア。それ以降は、3人、4人にする。

学びは既知の世界から未知の世界への旅であり、新しい世界、新しい他者、新しい自己との出会いと対話である。
学びは個人的活動ではなく社会的活動であり、自然的過程(能力や技術の形式)ではなく、文化的過程(意味と関係の構築)である。

人間の学びはコピー(模倣)ではなく、再創造
人間の学びはコミュニケーションによる意味の再構成(社会的文化的実践)

学びを対象世界(テキスト)との対話、他者との対話、自己との対話の三つの対話的実践。
学びは認知的実践(世界づくり)であり、対人的実践(仲間づくり)であり、実存的実践(自分づくり)である。

人間の学びは、ほとんど短期記憶にしかならない。
人間は学び続けないといけない。
動物は生まれてからすぐ、立ち上がる。模倣のプロ。
人間は、模倣する力が動物より弱い。短期記憶にしかならない。

一歳になるまでに、一度シナプスが削ぎ落とされる。軸索を残して、消える。
1歳になったら、シナプスがズバーと出てくる。そうすると、言語が生まれる。

シナプスのつながり、すなわち関係の構築。

1”5”20
意味を、共同で見つける時、それが長期的な記憶、知恵になる。

東京オリンピックのときには、空港が無人化する。
35%が人工知能で賄われるらしいよ。

創造・探究・共同
今のところできないこと。。

もう、今までの教育は役に立たない。
理解中心から探究中心へ

「わからないこと」を恥じるのでなく、「探そうという気がないこと」を恥じ得る時代。

140年前に成立した一斉授業

世界からは30年前に消えている一斉授業
安い単純労働者をつくるシステム。単純労働をする?

エリートはコの字のテーブルで育つ。ハーバード大学の講義室(黒板に全ての机が向かっている教室)は一つだけ。

コピーで済むような授業はいらない。

経済が発達している国はアクティブラーニングをやっている。30年前に

30年前、TOP30のうち21社が日本
今、TOP30のうちで、ゼロ。

この30年間で変わった。

学ぶということが、即幸福である。

人間は7つの領域に分かれている。
Howard Gardner
あらゆる能力を持った人はいない。
なんの能力ももたない人もいない。
孤立して生きてはいけない。
一人で生きようとしてはいけない。

人との関係の中で、多元的に見なくてはいけない。
抜群の能力がある。

デザインはビジョンによって
プランは目標によって生まれるもの。

建築家はビジョンを見る。
デザインは生かそうとする。

目標思考の仕事workと労働labor
創造的な時間。activityはビジョン、デザインの世界。
文化的な意味と、社会的な関係を想像する。

学ぶ権利の実現。

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「待つこと」「見守ること」(谷川俊太郎、すきすき、きゅっ、好き好き、ちゅっ)子どもを受け入れられるか。
「させること」ではない。ここもおとのねだ。
おkどもへの信頼、子どもを尊敬する。これもオトノネだ。オトノネはこれを「自立している」と表現している。
学びの共同体は、リスペクトの共同体だ。そして、ケアの共同体

特別支援学校っで主流になっている「行動療法」は研究者が論文を書きやすいから。
「させる」ことで条件付けをする。それは「発達(心)」ではない。
行動レベルの導きだ。

思考、学習、内言。
外言が先。だから内言ができない子がたくさんいる。
対話の相手がいることで、モデルを得ることで、内言できる。
経験的に小学3年生。4人組で(人の話がきける?)
小学1、2年生は「考えることができない」まだ内言が使えない。無理無理!ペア。

「待てない」手を出す口を出す。がダメだ。
教師の仕事〈聴く・(子どもと子どもを)つなぐ・もどす(もう一回)〉
「だれだれくんの言ったこと、どうおもう?」

子どもが、学びの主人公だというのが基本。
いい教師は〈目と耳〉で仕事をする。
子どものテンポはゆっくり。教師が先に行かないで、待つこと。

ある意味で、戦国時代、三国志時代の武将のようである。

共有の学び:ほぼ全ての子どもたちが達成できるレベル
挑戦的な学び:三分の一の子どもたちの達成を期待する、つまり三分の2の生徒が「できない」課題を与える。
難しい問題だからこそ、子どもたちは大好き。飛びついてくる。
基礎を丁寧、丁寧に、積み上げるというやり方ではない。積み上げずに、引き上げる。
(そんなん無理無理!というものを出してみると、一生懸命に挑戦する子がいる)

——-

オトノネではメタスキルと呼ぶ「コミュニケーション能力」
創造的な仕事。
多様な人間が、それぞれの持分を出すことでしあわせがうまれる。
オトノネが求めている「先生像」

まことに同感できる、こういうことをきちんと言ってくれる人がいる。

昔の昔から、活動していて、少しずつ、広がっている。
こうした時代の流れの中に、オトノネはいる。
富山県に、オトノネは、いる笑

オトノネは「学校」をつくるにしたら、どうしたらいいかなと思っていたところで、いいモデルを見つけられた。
少しずつ。少しずつ。時に、大胆に。

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どうして9歳の子供にできて、大人にできないのだろう。
マッカーサーが言ったように、日本人は精神的に、10歳だということを、素直に受け入れてもいいのかもしれない。(といってしまえば、多くの国が、10歳レベル、ということになる?)

「教える」といった表現自体は、4歳になった頃にはあまりみられないが、年中も5歳頃には見られるようになり、年長にはより一般的なものになってくる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.168)

◆年長児のA子は編み物がとてもじょうずで、器用に長く編むことができる。同じ組のI子は、じぶんも編みたいのだが、どうしてもA子のようにはうまくできず、どのように編んだらよいのかをA子に聞いている。A子はI子の様子を見ながらI子に編み方を順序立てて教えている。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.174)

5歳:共同作業ースキルを知っている人が知らない人に教える。
9歳:異質さを繋げる。気づく、認める。

共同経験の効果が混合ペアの初心者のみに見られた。熟達者と共同で組み立てた経験が、事後テストでのレゴブロック課題の遂行に顕著な促進効果をもたらしたのである。そのやりとり過程を分析すると、初心者同士に比べ金剛ペアの初心者は相手(熟達者)の行動をより頻繁に観察することがみられ、熟達者も、熟達者同士の場合よりも説明やデモンストレーションを与えることが見られる。つぎはどこにレゴを置くべきか、なぜここにブロックを置くかなどを初心者に話すことが観察されたのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.175)

5歳であることを終わらせたらいけない。
大人も、5歳児のようにあるといい。

年長も6歳頃になってくると、子供同士が対等にアイデアや考えを出し合い、話し合いながらの協同的な課題解決がより巧くできるようになる。その表れが、「こうしたらどうや」「こうしたらいいやん」と、子どもたちがアイデアや工夫を持ち寄りながら協同でじぶんたちの遊びをつくりあげたり、問題解決的な場面において子どもたちがそれぞれの意見や工夫を第愛、もちよりながら解決していこうとする姿にも見られる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.177)

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いまではいじめは小学校からはじまっている。中学校になるといじめの強さも規模も大きくなって取りざたされるようになるが、小学校の中学年で不穏な雰囲気ただよう学校の雰囲気が強まるようだ。どういうことか。いろいろなお母さんがいるから一概には言えないが、9歳頃になると内言が発達し、4人でグループ学習をしてもみんな対等に関わり合える、異質な人としてコミュニケーションができるようになる、というようなことを佐藤学が講演会で言っていた(経験則らしい)。9歳からの発達課題はなにか。「どうしたらこの世界で、うまくやっていけるのか」をみつけることだと、今僕はおもう。それは異質な他者との「人間関係」を学ぶことである。感情だけではなく、内面性、深い場所にある自己、他者にとっての他者にとっての自己を含めた複雑な人間関係の中でホンネとタテマエのバランスをとる生活、人間関係をデザインしていくこと。虚構の世界へ向かっていたファンタジーが、「わたしという一人の人間は一方でこうであり、他方でこうである」という同時にいくつもの面をもっていることを認識する。それは心地の良いものではないかもしれない。大人たちが、何を「よし」とするか。そして子ども自身が、何を「よし」とするかという対立構造も生まれるだろう。

ワタシと友達の間ではOKだけど、その友達にとってはNGなことがあったらどうするか。部活でみんなと一緒にいるのは楽しけど、たまにいじめがあっていやだ。とか。ワタシがどう考え、どう行動したらいいか。

うれしいけどかなしい、といった2次感情が同時に生まれてくるのが何歳か忘れたが、それを基盤として今度は感情を超えて、「ひとりのわたし」の行為や振る舞いが多面化するのを手伝うことだ。日本の文化としては、オモテを闇に葬る、愚痴を言う、影でいじめをするという抑圧を子どもが学ぶ傾向がある(いまでは3歳からもう抑圧が始まっているようだが)。心の理論の二次、三次の能力もここで試される。自分から離れている関係の人に与えるワタシの行為、言葉の影響を考えることができる。考えてしまう。「われわれ」のなかに「われ」をどう位置づけるか。「われわれ」

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【高次認知的情動】とは?情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論

情動には文化的な「表現様式」があるという話。
文化の中で、「望まれている」情動があるという話。いわゆる、県民性、国民性というやつだ。

日本人とアメリカ人に対してそれぞれ割礼儀式や吸引分娩、鼻の外科手術のような忌むべき内容を見せるという実験。この時、二つの条件で観察を行った。一つは、実験対象者が一人で見た場合。もう一つは、別の誰か(面接官)がいた場合。一人でいる場合は、日本人もアメリカ人も類似した表情が観察されたが、面接官が同席したときには、日本人はアメリカ人よりも多く微笑み、嫌悪感を表さなかったという。

この実験に関して最も面白いことは、その実験の様子を収めたビデオがスローモーションで再生され、検討されたときに、初めて明確になった。そうした再生においてのみ観察できたことであるが、面接官が同席する場合、日本人の実験協力者は、実際、市最初のうち、刹那、アメリカ人と同様に嫌悪の表情を浮かべるのだが、その後たちまち1秒にも満たないうちにその表情を隠してしまうのであった。(『感情』ディラン・エヴァンズp.13)

同じ「情動」を日本人もアメカジんも感じるものであり、それは不随意で、自動的で、制御が効かないものである。が、その一瞬あとに学習性の表示規則が押し当てられる。

文化によって情動を表す規則があるということ。

もう一つ。

高次認知的情動というものがあるという。
それは大脳辺縁系ではなく、大脳新皮質の影響、つまり意識的で論理的な影響をより多く受け、より計算的に、文化的に処理される情動であるという。その分、大脳辺縁系で処理されるような「基本情動」よりもゆっくりと立ち現れ、ゆっくりと消えて行く。

この高次認知的情動の例として、愛、罪悪感、恥、てれ・決まりの悪さ、誇り、羨み、嫉妬が含まれている。

「ヤバい、逃げろ!」みたいな臨戦体制に入るための情動はもちろんあるが、例えばこんな情動が、馬にもある。

象も子どもが死んだら悲しむとか、動物にだって「情」がある。
人間に特有の大脳新皮質の一つ下にある、より古くからあり、動物と人間が共通して持っている大脳辺縁系にも、同様の「情」が隠されているのかもしれない。そして不安や恐怖ではない、私たちが「あたたかみをかんじる」情の多くは、それが「子育て」に使われているような気がするのだが。

ーーーー

で、この高次認知的情動というものは、社会活動をするときに有効だという。罪悪感、誇り、嫉妬、妬み。例えばそれが「利己的」になりすぎることをいさめる機能を果たしたり、もっと「利己的」になることを促す機能を果たす。という。名詞にしてしまうと本質がつかめなくなってしまうが、情動とは、「心」の百面相に名前をつけていったものである。一人の人間の中には、社会的な生き方をするための様々な「自己」がいるとおもったらいい。

嘘をつくという社会的な行動がある。
それは「良心」からくるものもあれば「利己性」からくるものもあるだろう。

信頼、人と人の繋がりを円滑に、正常に、するための高次認知的情動がある。
一方で、利益を搾取するような、人を騙すような、利己的な情動もある。

利己性というものが、なんであるかはさておき。

例えば「復讐心(怒りの亜型)」というものがある。
もし理性的に考えて「結局、私は負けるのだから、戦うのはやめにしよう」とおもってしまえば、搾取され続ける、いじめられつづけるかもしれない。そこで、情動を解き放ってしかえしをすれば、結局は勝てなかったにしても、「あいつは根性あるやつだ。もっとひ弱なやつを探そう」ということになって困難を避けられるようになるかもしれない。不利益を与えた相手にも、不利益を与えようというのである。(ここのところは行動経済学の有名な「しっぺがえし」作戦と似ている。基本的に「利他的」な行動をしながら、「利己的」になった相手に「しっぺがえし」をすることで、双方よい関係を保つという作戦だ)

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情が適切に働くことで、人間は上手に社会化してこれたといっていい。

適切に、働くことで!

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社会的に身についた、もしくは経験的に「学習性無気力」に陥った人たちは、「恐怖」「不安」によって「無抵抗」による利益を得ているようにおもう。たしかに。そうしてみんな、平和に(そう、平和に!)課題・テスト地獄の中に身を置いている。「闘争」もしくは「逃走」という選択肢がでてこない。平和の形も人それぞれだ。

ある意味で、従順でいることで、身を守っている。

ある種の感情を出さないことが「良い」ことだという刷り込みがなされる場合がある。
「不思議に思う」→「不思議をつきつめていきたい」→「けど誰もおもしろがらないし、大人は宿題をやれという」→「そもそも宿題をするので精一杯だから、不思議なんて感じない方が、心に負担がなくなる」
といったプロセスを辿っていき、「本気」になれるものから遠ざかる子どもたちがいる。

そんな中でも、自立心がある子は、自分で勝手に不思議を探究するかもしれない。
それはほんの一部の人間だ(そういう天の才を与えられた、ほんの、一握りだ)。

小中学校は「普通教育」の場であり、ほんの一握りの人間を育てるためにあるのではない。

ちなみに、「るろうに剣心」というアニメで、幕末、育ての親にいじめぬかれた宗次郎という人物が書かれている。
打たれて、泣いていると、もっと打たれる。打たれても笑っていたら、気味悪がられて殴られないことを発見し、「笑顔」以外の表情ができなくなった人として書かれている。これも「刷り込み」の一種。

ーーーーー

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。

情動には情動なりの固有の理性がある。
(『感情』ディラン・エヴァンズ)

ディランのいう情動に固有の理性を、EI(Emotional Intelligence)、感情知性と呼ぶこともできるでしょう。
IQとEQ
EQとは、社会の中で自分のパフォーマンスを発揮する(天の才を生かす)ために必要な能力
新しい時代、IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )

知性なき感情(闘争心?征服心?)を育てるのが軍隊であり、
知性を持った感情(信頼・共感、そして時として「しっぺ返し」のスキル)を育てるのが学校である、と二つを対比してもいいと、僕はおもう。
人間を社会化・組織化する二つの選択肢だ。

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情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情という知性が、いわゆる「息詰まった」合理的知性の助けになる。

僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。
情動、というより、無意識のメッセージを体の変化から受け取る。その情動のプロセスを、大きくすることで、現在ぶち当たっているなにかしらの困難、繰り返されめぐりめぐる思考から抜け出すきっかけを得るというものだ。

考えてもしょうがない。
心に従ってみよう。心が、教えてくれる。
というものだ。

恋愛などもそうかもしれない。
夜なべしてラブレターを書く。
いやもう、書くしかない。
けど朝になってハッと読み返したら、というか恋文を書いたことを恥じたり、手紙を出すことを恥じらったりする。けれども情動として、もっと深いところにある心が、オモイが、やはり夜になると深まるのだろう。

そしてその手紙を出さなければ、前に進めないのが、恋愛である。
無用の苦しみに何年も耐えるより、さっぱりと愛を告白してみて、次のステップにいったらどう?と、心はのたまっているのである。

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ーーーーーーーー

だがしかし、情動のそうした働き(切羽詰まっている時の心の助け舟)が、裏目に出てしまうときがある。
結論だけ話すと、「良い気分状態で急かされた」時、人は騙されやすくなる。ということだ。
(『感情』ディラン・エヴァンズ p.123)

塾、教育業界で、種や仕掛けを用意しておいて、体験授業のとき、もしくは通常授業のとき、「これ、東大の問題だよ!」とか「ほら、できるようになったでしょ!」といって、褒めちぎったあとでその場で契約をさせられるとき、疑う方がいいかもしれない。(いや、できる「気」にさせて、モチベーションを高めて、本当に能力をあげてくれるのかもしれないけれど)

高次認知的情動をもった動物として扱われていると思ったらいい。実際、大部分、そうだし。
(保険会社の説明会の会場をたまたま見たことがある。路上パフォーマーを読んで、音楽を流して、楽しませて、契約をさせていた)

「正しい選択」のための合理的な判断など、到底できるものではない。
だからこそ、こうしたビジネスが成り立つ。
サブリミナルな(潜在的な無意識に働きかける)効果とまではいかないが、情動に訴えるこの手法に、みんなやられている。

買わなくてもいいものを、イメージで、「欲望をかりたてられ」買わされていることが、たくさんある。
偏差値、買いたい人、いませんか?進学高校や塾というファンタジーの世界で、たくさん売っていますよ。

ナチスの手法は、日本でもよく使われています。
無償化!教育県!学力一位!には要注意。
お子さんを、心のアウシュビッツに入れてしまっていませんか?

ある意味で、新しい時代を生きる力を削いでいく学校教育は、社会的な犯罪ということもできる。(実際、法律を犯しているから、教育に関するいろんな法律がどんどん追加されていっている)
「集団心理」を利用した、(学力テストうんぬんで情報リテラシーのない人たちを騙す)マスコミを巻き込んだ、社会的な犯罪だ。(最近、ようやく「新しい時代」のための教育がマスコミに取り上げられるようになった)

と、強く言ってしまったら、反感を買うかもしれない。
これは「教育とは何か」という哲学の話であるから。
そもそも、主張でもなんでもなく、僕一人のタワゴトだとおもってくれたらいい。

だって、自由経済だもの!言論の自由があるもの!
けど、悪徳商法にはクーリングオフとかあっても、教育業界には、、、、ない!
時間と、お金が、もどってこないんです。

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ある種の情動には「脅迫」「暴力」「支配」という行為が伴うかもしれない。
僕には「怒り」「嫉妬」という情動がその根底にあるように思える。
このような心に満ち溢れた場所があれば、戦うか、逃げるのが一番だとおもうのだが。そうだろう。

組織への「しっぺがえし」などなかなかできたものではない。。。

攻撃と報復の果てに、平和をみつけるのは、なかなか大変だろう。(復讐の連鎖が、どこかの国でまだ続いている)
だから、そこに生きる個人は、逃げるという方法も、生きる場所を選ぶという方法も、自分の身を守る、大切なものを守るためには、とびきり上等な選択肢であるとおもうのだが。

ちなみに、最近読んだ本の中では、「怒り」を感じた時点で、バリ人は「眠る」という行動をとるという話があった。

が、インドネシアに滞在していたとき、どうみても、インドネシアの人たちが「怒り」という感情を持たないような気がして聞いて見た。答えはこうだ「僕らはね、怒ったらね、隣の村に戦争をしかけるんだよ」だそうだ。
冗談かもしれないが、そうらしい。

「眠る」か「武器をとるか」。
なるほど。

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イスラム教の人たちは、常にコーランを読みながら、感情をマネージメントしている。
日本人も、ヨガやヒーリング、外食、ゲームなどで、感情をマネージメントしている。
けどどれも「感情と距離をとる」ことはできても、「感情と積極的に関わる」ことはしていない。

ブッダの仏教、瞑想、座禅は前者であり、
カウンセリング、演劇、対話は後者である。

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恐れというものが、とても強い人がいる。
恐れから派生するいろんな感情がある。嫉妬、妬み、不安、、、、
怖くなって、身が竦んでしまっている人がいる。

「今は無理だ。僕の中に恐れがある」ならそれを大切にしたらいい。
けど同時に、恐れとは別の情動がみつかるかもしれない。
どちらも平等に、対等に、感じてあげるといいだろう。


情動は心の百面相だ。
ひとつひとつに、言い分がある。

自分の持っている感情、情動のひとつひとつの言い分を、聞いてみるのもいいだろう。
僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。

ーーーーーーー

こういう先生が学校にはいる。
生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

「怒り」で生きている人間だ。
些細なことでクラクションを盛大に鳴らすイライラを募らせたドライバーと同じくらい、ストレスを抱えてしまっている先生がいる。
こうした理不尽な「怒り」に気がついて「ああ、私は疲れているのだな」とフィードバックが自分でできない人ほど、哀れな人はいない。もしこういった人に出会ったら、全くの他人でなく、少しでも情が湧いたなら、「疲れているでしょう?休んだらどうですか」と言ってあげてもいい。休めないのが、学校の先生であるのだが。

「良心」が届かない人もいる。
愛せないなら、立ち去るのもいい。

徳のある人間とは、情動を感じない人間ではなく、どの情動にも押し流されず、すべての中庸をいく人であるとおもえた。
情動が出てきた瞬間に、フィードバックをする人間。怒りに対して怒りで返さない。怒りに対して怯えで返さない。怒りに対して、笑いで返すことすらできる人。ある一つの感情だけを増幅させず、一度にあらゆる情動を感じられる人。ある意味で、宇宙的な広さを、心の中に感じている人。なんだか、気持ちがよさそうだ。

ちょうどいいバランスを、さがしていこう。

ーーーーーーーー

ところで、感情の学習、というものが、とても大切だと僕はおもっている。
保育士の先生は「怒り」の感情を伝えることがあるだろうか。「喜び」だけを伝えていないだろうか。
学校の先生は「喜び」を伝えているだろうか。「怒り」だけを伝えていないだろうか。

直接経験しなくてもいい。
ただ、映画とかではなく、現実に、こうした怒りや喜びを学ぶ機会があるともっといい。
それが、実は、芸能、芸術・演劇と呼ばれるものなのだが。

ーーーーーーー

怒りの感情を加えられた時、怒りや恐れで返すことなく、哀れみの情をもって、笑顔で返す、という神業を使う人に出会ったことがある。怒りを怒りで返したり、怒りを恐れで回避すれば、相手の怒りは回収されない。またいずれ、怒りを加えられることになるだろう。

完全に逃げるか。
そうでなければ、笑いながら、その人の悪霊に飴玉をあげよう。

愛せぬ者からは、立ち去るがいい。
と、ツァラツストラが言っていた気がするのだが。気のせいだろうか。

ーーーーーーー

感情と向き合う経験。
感情がでてきた後で、きちんと大人がフィードバックを返すこと。
「気締め」が必要なこともあるだろう。

そう考えると、子どもが関わる大人たちがみんな均一になってきているのも、末恐ろしいように感じる。
他者が感じている情動を見抜くチカラ、そしてそれに対してどんな情動で返すかという作戦をたてるチカラ。
それが、実は、EQと呼ばれているものである。(IQではない)

ーーーーーーー

コツコツと積み上げれば、、、とか、長時間やれば、、とか、一生懸命やれば、、、
という「美徳」というものもある。

忍耐、耐え忍べばいいことがある、という美徳もある(日本はまだ戦時である)。

これもある種の情動といえるし、文化的な、歴史的な「心の作戦」といえるかもしれない。(心理学用語でスキーマといってもいい)

新しい時代、昔から使われてきた作戦を社会的にプログラミングされてしまった心を、アップデートしてみたら、楽に生きられる時代になるとおもうのだが。

いかがだろうか。

結局、今、誰かが向かい合おうとしている課題は、きっと、日本の歴史、日本という場所からの自立を意味するのではないか。
日本という場所、日本という歴史がつくってきた「感情様式」が、うまくいかなくなって、体がヒーヒーいっているとしたら。

今が、自立の時なのかもしれない。

ーーーーーーー

アニメで「サイコパス」というものがある。youtubeでもみられます。是非是非。
シキソウというものをリモートでいつもチェックされていて、「汚れてくる」と、「クリニック」へ行くように通告される。「犯罪者」を世の中に出さないようにするシステムで成り立っている社会を描いている。ぜひ、学校に取り入れてみてほしい(「サイコパス」映画版か特別版かなにかで、国家的な詐欺をして、「心の汚れた人たち」がそのシステムを悪用するという設定もあった。要するに、どんなシステムも、どんな道具も、人間次第。)

感情・情動が動く場所には、ドラマがある。

がんばれ!がんばれ!
という言葉に、心がこもっていなければ、ドラマは生まれない。
多くの受験生は、心なき言葉に、亡霊に、呪いに、悩まされているような気がするのは、僕だけでしょうか。

幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

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「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)

「ああすればこうなる」という世界に生きていた。
心がなんなのか、ぼんやりとも、わかっていなかった。

「こうなりたいんでしょ?じゃぁこうしよう」といって、無理をさせていた。
「この子の学力をあげよう。そうしたらこの課題をこうやってやらせて…」ハードルを下げるアプローチは今でも間違っていないとおもうが、やっぱり「やらせる」ことをしていた。

そして、「この方法は、正しいのに、できないのは、生徒がいけないんだ!努力が足りない!」とおもっていた。
同時に「もっといい方法はないのか!?」と「やらせる」ことを研究したり。

行為レベルで言葉を使っていた。
行為レベルで人と関わっていた。
自分に対しても、行為レベルで関わっていた。

いろんな出来事があった。
繰り返してきた。
何度も、人の心を壊してきただろう。
「堕落」を繰り返した。

その度に、浮き上がるたびに、新しい旅を始めた。
「自然」という旅だったり。
「演劇」という旅だったり。
「子ども」という旅だったり。

その中で、「物語」「民謡」「踊り」「芸術家」「カウンセリング」「心理学」「ヨガ」「ストレッチ」「歴史」いろんなことを学んだ。

旅をしながら、周り周り、巡りながら(何度も失敗をしながら)今も、繰り返しながら、ようやく、心を大事にすることを、学び始めている。

人の成長とは、発達とは、すぐにどうこうなるものでもない。
「ああして、こうして、こうする」ということを考えていたらみられなくなる、大切な「今」がある。
そしてその「今」に気がつくためには、いつも誰かの言葉があったし、出来事があったし、何よりもそれらを感じる「時間」があった。

「時間」は、大切にしたい。
焦っても、どうにもならないことがある。

こう言う場合、焦ってもダメだ!もがいたら沈んでいくだけだ!ということを、まずは学んでもいい。
(それを学ぶのが、大学の合格発表の日だったりする。それが模試の結果だったりする。突然やってくる。DVをうけてボロボロになって、何度も試みて、やっぱりダメで、「違う生き方をしよう」という日が、やってくる)

ーーーーーーー

「あー、これからどうなるんだろう…」とおもって友達に話すと
「どうすんのお前笑」とかいう適当な返事や
「おもしろそうだからそのまま行けば?」という何か逆に誇らしくなる返事や(いやもっと役に立つ返事くれよと当時はおもっていた笑)
「小説家になったら?」というちょっと気になる返事がでてきたり。

いくらもがいても、足掻いても、焦っても、わからないときはわからない。
わからないなりに、「違和感」を感じたまま、抱えたまま、明日を迎え続けて来た。

高校中退をした時から、不登校になった時から、いまだに僕は同じ「違和感」を抱えている。
それでもまだわからない。

そのくらい長い、ゆっくりした時間を感じられるようになったのも、「ある出来事」を境目にしてだった。
そういう日がくるらしい。

ーーーーーーー

突然やってくる日を、大切にしたい。
それはいつやってくるかわからない。

オトノネは出来事を起こそうとは思わない。
外ででてきた出来事を心できちんと感じ、フィードバックして、いつやってくるかわからない出来事に備える感じ。
(狙ってその出来事を起こす「導く」ことをまずはやってみるケースももちろんある)

ーーーーーーーーーー

「仕組まない」ことで生まれる不思議があり、「仕組まない」ことで出会える心がある。
(芸術家は、生まれたもの感じたものを身体化、具現化する仕事であり、生まれたものを大切にしながら育てることをする)

僕はそれを大切にしたい。
(だからオトノネに来た人は困るらしい。「何をしてくれる場所なのかわからない」と)

人には誰しも、発達の段階、人生の曲がりくねった道の上にあり、僕が関われるのはほんのその一部だ。
到底、最後まで道案内することなどできないし、案内できるほど多くの道を知らない。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

だからもし、おとのねさんに会ってみて、話をしてみて、感じてもらって、僕ができる小さなことが、少しでもその人のチカラになると感じてくれたら、お付き合いをしたいとおもう。

例えば。

「◯◯ができない」
「私は◯◯」

という言葉を生み出す心を、僕は感じようとしている。
縛られているものから、少しでも抜け出して、心を自由にして、今置かれている状況の中で、精一杯、チカラを使って先に進んでほしい。
神経は、記憶している。だけど、心は、成長したいとおもっている。
僕自身が、今、そのプロセスの中にいる。

なにしろ、時間がかかるものだ。
定期テスト対策なんて、なんともまぁ、この悠々とした時間に比べたら、小さなことのように僕はおもう。
その小さなことの繰り返しが、人の心をつくるのだろうけれど。(高校生になっても定期テストでピリピリしている。定期テストという呪いだ。)

頭ではわかっていても、やっぱり定期テスト勉強に勤しんでしまわないと心が落ち着かない子もいる。
それでもいい。なにしろ、定期テストは、小さなことだから。

けどそれで大切な「時間」が減ってしまうとしたら、困ってしまうかもしれない。

時間は減るものではないのかもしれない。
ただ悠々として流れているものかもしれない。

もしその「時間」が課題・宿題というバケモノの姿をして牙をむいて、台風のように、終わりのない嵐のように君に襲いかかっているとしたら?
君は呪文を唱えて、「時間」を元の姿に戻してあげるのもいいかもしれない。

本当に大切なことは、本当に大切なものは、内側から、やってくる。
外から与えられるものではない。

もしかしたら、今君の中に生まれた、気持ちが、「大切なこと」を知っているかもしれない。
聞いてみてもいい。その子はきっと悠々とした「時間」の中にいる。

その子の「時間」に入っていけば、きっと、話ができるはずだ。

ーーーーーーーー

Do it! Doit!と英語で書いてみる。
綴りが、Idiot(馬鹿者)と似ているなぁとおもった。

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