子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。

怖い話ではありません。
よくある話です。

こういう記事を書くのも、実際に、子どもを追い詰めるお母さんと某フランチャイズ塾で出会っているからです。
石川県は、この傾向が特に強い。死ぬな高校生!と思ったくらいだった。

結論から言えば成績が伸びないケースには「お母さんに食べられて」いるケースがあるということです。

ーーーー

バリ島のランダ、日本の山姥、伝説にでてくる鬼母神が、世の中にはある。
ばりのランダ

優しい母、育てる母、生み出す母。
一方で、食らう母、殺す母がいる。
ランダも山姥も母の二つの側面を物語っている。

「悪いおばあさん」の話がでてくるのは、その名残のようだ。
白雪姫だか、なんだか。西洋では、魔女のイメージになっているかもしれない。

魂の殺人

アリス・ミラーのこの本にもそういう大人たち、母親たちの姿が書かれている。
僕が某フランチャイズ塾で出会ったお母さんの中にも、「子どもを殺す母親」がいた。
もちろんお母さん自身は、気が付いていない。
成績は伸びるわけがないし、勉強も進まない。

成績が伸びないケースには「お母さんに食べられて」いるケースがあるということだ。

子どもによかれとおもっていろんなことを「やらせている」お母さん、子どもをちゃんとみてみたら、気がつけるかな・・・
お子さんのこと、ちゃんとみてあげていますか?みつめていますか?

これは学校の課題もそうかもしれないとおもうと、おもしろい。
「山で山姥におわれる」かのごとく課題の森に迷子になり、追いかけられる、職員室で捕まったら、食べられる!笑逃げ切ったと思っても、ついてくる笑

ここは笑えるところ!
イメージの普遍性について考察したいところ!

で、ここからこの記事に関連して来ます。
課題を真面目にやる無意味さに気がつくために、まずは堕落しよう!?

オトノネにはそういうお母さんが来てくれてもいい。
「どうしても、食べてしまうんです!」
オトノネには、そういう子が来てくれてもいい。
「どうしても、食べられちゃうんです!」

では、どうしたらいいのか。
どう考えたらいいのか。

これはもう、心と向き合うしかないことかも、しれません。

ーーーーーーー

最近、オトノネの生徒でついに進化して思春期を迎え、「小学校の時、わかんない宿題やらされて、私、心底怒っていたんだからね」と、お母さんに向かって言った子がいる。

子どもは、お母さんが大好きだから、小さいときには、何も言えずに、気持ちを抑圧してしまうことが、よくある。
まだ言葉にならない、どうしていかもわからない、だから、「お母さん」を学ぶ。

「一番信頼できる、一番頼りになる、一番助けてくれるお母さんが、僕を助けてくれるのに、どうして、怒りや悲しみが沸き起こってくるんだろう?」

その時、子どもには、わからないのだ。

オトノネひろげるシェアぼたん

3才から心が擦り切れている子どもたち。発達「障害」の意味を捉え直す。

堕ちる、堕ちないという話をした後でこの記事を書く。

NPO法人 富山ダルクリカバリークルーズ

薬物依存症の大人が回復する取り組み。

で、ふとおもった。

人間は、いつ何時でも、その時々の、発達課題をもっている。
お父さんも、お母さんも。
ただただ仕事をこなしてお金を稼ぐ以外で、何か、あるのではないか?
それは人と出会い、人と関わり、お互いにしあわせになるような活動をしてみたり。

最近出会った人に「おとのねは塾なんですけど、心が擦り切れている高校生のためにつくったんですが、お母さんたちの話を聞いていると小学生から心が削れているようなんです」と話したら「いえいえ、3才からですよ!」と返してくれた。実際、そうかもしれない。そういう子は、いる。

到底太刀打ちできない、どだい無理な「課題」を与えられて苦しんでいるのは、高校生だけではない。
小学生も、中学生も。3歳児ですら。

苦しみを紛らわすために、大人は娯楽に走り、子どもは部活に走る。
みんなゲームをしたり、ファンタジーに耽る。(大切な「逃げ」道です)

娯楽や部活に逃げてなんとか日々をやりすごしていても、どこか空虚なものとして、やりきれなかった「課題」として残るかもしれない。
いやいや、それはもちろん、人によりけりだからなんともいえない。
とにかく「課題」に苦しんでいるのは高校生だけではないということを僕は今日、はっきり気がつけた気がする。

あなたの「課題」は、一人では、どだい無理ですか?
それを見極めないといけない。
はいはいができない子が、二本足で歩き出すのは、困難の極みだから。

発達の「障害」になるものがあるなら、なんでも発達障害といえるし、先天的に、誰もが発達障害に出会う可能性をもっているし、発達障害をもっていない人間はいない。そうやって「発達障害」をとらえ直せば、発達障害という言葉を身近に感じることはできるだろうか。

別の「障害」と出会った時に、乗り越えられる、立ち向かえる、なんとか対処できるチカラを育てる。
「障害」が障害でなくなるように助けてくれる、一緒に笑ってくれる人と出会う。
「課題」にとりくむとは、そういうことではないかと僕は思う。

不登校、成績不振は「もう無理」のサインかもしれない。
学校のしくみのなかではやっていけない、という消極的な理由ではなく、「その子の能力、感性や性格」に合わせた積極的な教育をする、育ちを支えるきっかけとして、不登校や成績不振をとらえたらいいと僕は今、おもう。

海岸組のメンバーの人の話を聞いて、いろんなことを考えたのでまた別の記事で。

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉が遅れている?遅れか、障害か。そこでグンデルを使ってみる。

3歳になるが、言葉がでてこない。

ということでHPをみて相談に来てくれた。

児童発達支援の事業所を回りながらいろいろな話を聞いているとのこと。

その子と、お母さんと、お父さんと3人で来てもらった。

様子をみていると。。。
確かに、遅れている。

でもお母さんの話では、お兄ちゃんも同じように言葉が遅かったが、保育園に通い始めてから言葉がでてきたということ。
ではこの子は?保育園に最近行き始めたばかり。療育センターに通うことにもなっているが、利用できるのはまだ先で、今からでも始められるところはないかということだった。

ただの遅れなのか、それとも障害(生まれ持ったもの)なのか。
それをお父さんお母さんは気にしているところでもあった。
養護学校ではなく、普通の学校に入れるのか。。。。

ーーーー

普通の学校に入るために、普通になるためにその子に何かをするのではなく、その子の発達のために何ができるのかを僕は考える。
クシュラの物語を思い出した。(お父さんお母さん、必読です!

個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの場合は絵本だった。
その子の場合は、何だろうか?
それを探そうとして、いくつかあそびをやった。

あれも、これも、うーん。すぐに興味が消える。
あそびが続かない。集中して何かに取り組まない。
初めてのオトノネで混乱しているからだろうか。。。。

そこでグンデルに登場してもらった。
パングルを使って音をだした。
その子も出した。
いろんな音をだす。
その子もその子なりに音をだす。

結構な時間、続いた!
お母さんに背を向けて、お母さんを離れて集中してグンデルを挟んで僕と向き合っていた。

これかも。。。

おしまいには、その子は自分でパングルを置いて、意思表示をした。
(嫌なことは嫌と首を振って言える子だ)

「これをすれば必ず」というものは教育の世界にも療育の世界にもない。(保育の世界は少し例外らしいのだが。。)
オトノネはその子の世界を開く扉を探していく方法をとる。
その扉を叩き続ける。
一人で集中してできることは何か。
しかもそこに人とのコミュニケーションが存在することはなにか。

もし障害だとしても、ただの遅れだとしても、人と非言語であってもコミュニケーションをとる経験はこれからその子の役に立つ。

何がきっかけになるかはわからない。
もってうまれた気質もある。

それを「直そう」として心が歪むこともあるだろう。

あそびに没頭できない。
言葉が出てこない。

人間の不思議を解明しようとしていろんな研究者が研究をしているところで、現場はその研究の成果をなかなか取り入れられていないのではないかと思える今日この頃。まずはワーキングメモリの研究成果を調べてみよう。

自閉症・AD/HD、精神薄弱、いろんな言い方がされてしまうがその診断も、あいまいな乳幼児に対してできることは、祈るように、その子の世界の扉を叩き続けることなのではないかと、今の所僕はおもっている。

勉強を続けたい。

ーーーー

話の流れで、その子はスマホを手にするとホーム画面からyoutubeを自分で開いて、曲を選んで再生することができるという。
実際にやってもらった。

できている。。。
しかも取り上げられるまでずっと飽きずに見ているという。
ある意味でスマホにはその子の世界が開けている。

スマホの世界には開けている。

それにしても3歳児って、スマホ使えるんだ。。。。
ゲームならわかるけど。。。

youtube がどこにあって、どうしたら何が起きてという記号の意味を知っている。
どうやって学んだのか今度聞いてみよう。(出生児体重を聞くのも忘れた)

スマホがその子の世界を開くきっかけになるか。
うまくスマホの世界を使って、現実の世界で生きるチカラを育てられるだろうか。

これはかなり先進的な研究になるのではないかとおもうが、誰かやってくれるでしょうか?
ぜひやってください。

ーーーーー

保育園に行って、今までずっと一緒だったお母さんから離れることで、「やべぇ、喋んないと」とおもって言葉をだすかもしれない。
何がきっかけになるのかはわからない。
人間の神秘的な部分を大切に、僕ができることをしていこうとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

どうやら進学校に一人は、恐ろしい病気の先生がいるらしい。
なんの恐怖に狩られてか、生徒を恐怖に陥れる先生が、いる、らしい。(すこし誇張しすぎでしょうか。現実でしょうか)

なぜ不登校になるかといったら。
課題をやれとか、補講に来いとか、テストの点がどうこうとか、呼び出しとかされるときに心が擦り切れてボロボロになるからだということは、みなさん想像できるとおもう。進学校の日常風景だ。

ーーーーーーーーーーーーー

この記事を読んでもらう前に。

人は変えられない。
自分が変わるしかない。

という言葉がある。

世の中に出たら、実際にそういうケースが多々ある。
けど本当は、誰もが皆それぞれの事情や都合、歴史、育ち、物語をもっている。

だから本当は全員の声を聞きたいのだ。
学校の先生はどうしてそうなったのか。
僕自身、どうしてそうなったのか。
学校という組織は、どうしてそうなったのか。

学校は変えられない。

かもしれない。
けど対話はできる。
しかし対話が許される場所があるだろうか?
対話をするような関係が、あるだろうか?

オトノネには、学校の先生にも来てもらいたい。
オトノネは教えることよりも、対話をしながら、気持ちをはっきりさせたり、いつもは隠れている本当の気持ちを、心を大事にする場所だから。

いや、僕が学校に行って話をしたらいいだろうか?
そのうち話をしに行こうとおもう。

ーーーーーーー

こんな話がある。

あるお母さんの子が不登校になった。
その子の学校の担任は「担任が変わって学校に来てくれるなら担任を変えます」と。
お母さんが返事をする。「世の中に出たら合わない人と当たり前のように出会います。これから世の中にでて必要な大切な勉強をいまうちの子はしているところです。担任を変わってもらったら困ります」と。

そういう考え方もできる。

アウシュビッツに入ってもきっとたくさんのことを学べるだろう。

死ななかったのなら。

アウシュビッツで学んで、それがトラウマになった人の例を、そのお母さんは知らないのだろう。
もちろん、強くなって収容所を出る人もいるだろうが。

子どもは学校で戦争のような経験を学校でしているかもしれない。
いやいや、うまく遊びながら、息抜きしながらテキトーにやりすごす子もいる。
「子どもの発達課題として適当な試練か」どうかだ。

心が病んでしまうリスクのある発達課題など、僕は認めたくないのだが。

誰かが助けてくれて、乗り越えられるような課題がほしいものだ。

ーーーーーーーーーーー

リアルな話になります。

最近、おとのねさんは富山県のとある進学高校にオトノネのチラシを配りに行って、暴力的な先生に「指導」をされた。
大きな声で、威圧的に、やってもないことを「やったでしょ!警察よぶよ!証拠写真あるよ!」とのたまう。証拠写真見せてといったら、見せてくれない。そんな写真はないからね…
いや、本当に、怖い・・・何言っているのかわからない・・・先生、疲れているんじゃない?
学校が先生にとってもストレスな場所だということは知っている。休んでいいよ。先生。じゃないと生徒にしわ寄せがくるからね。
笑ってよ先生!
(今思えば、僕がもっと笑顔で幸せそうな顔をしたらよかった!)

本当に、その場で心が壊れそうなほど、暴力的な声だった。
(今思えば、僕がもっと笑顔で幸せそうな顔をしたらよかった!)
本当は優しい先生なのかな?その先生にどんな歴史があるのかはわからない。部活をやるためだけに学校に来ている先生もいる(先生も学校は好きではないケースが多い)。

あの声は、日常的にどこかで使って居なかったら出せない声だ。
使い慣れている声。
ああ・・・

そんな声に毎日怯えながら、先生の機嫌をとりながら1年間を過ごす高校生を尊敬してしまう。

心を大事に。

ああ、話には聞いて居たが、生徒4人(5人だったか)を不登校にさせる先生は本当に実在するのだと、身をもって感じた。
そのうち一人は、心を壊した。病気になってしまった。学校は、心が壊れたその子を登校させようとしている。いろいろ壊れている。
先生が生徒の心を壊しても、先生の責任は問われない。学校は、そういう場所だ。すべて「生徒自身や家庭の自己責任」になる。

自分の身は自分で守ろう。
学校は君を守ってはくれない。

心を大事に。

某有名な予備校でも心が壊れる子がいますね。
どうして学びの場所で、心が壊れるんでしょうか。その子が弱かっただけ?その子の責任?
それは学びの場所なのでしょうか。できなければ別のところで学べばいい。機会均等!なのでしょうか。
そう、その子の責任ではある。

が、「学校がそんな場所とは思わなかった」とわかった後で、どうするか。
そこから、その子が自分自身で、積極的に責任を負って行動していくことに僕は意味があると思う。
負わされる責任ではなく、自分で自ら選択し、進んで、未来に対して責任を負う。日本人が大好きな過去の過失に対する責任ではない。未来に対する肯定的な責任だ。

もし我慢して、1年間を過ごす間に、体がビクビクして緊張するような神経回路をつくあげる(防衛機構ができる)なら、一生、その子はその神経と付き合わなくてはいけないかもしれない。それも、生徒自身が選ぶこと。(実際、高校での恐怖体験、先生による脅迫で、「恐怖」で、ある話題になると、ある場面において、喋るときに声が細くなり震えてしまう子がいる)

ーーーーー

あの話を思い出すたびに、僕は少し怒ったようになってしまう。
けど、完璧な人間もいなくて、完璧な組織もないのも事実。
冷静に、まずは、離れよう。と僕は思う。君は?大丈夫?

本当に、怖かった。毎日ビクビクして教室でHRを受けるとしたら、気が狂う。僕ならね。

ーーーーー

オトノネは、自尊心や自立心を守りたい人が来てくれたらいいと思っている。
そんな旗を、立てよう。みんなにみえているかな?

オトノネひろげるシェアぼたん

ゲームは子どもの発達によいのか悪いのか(知育ゲームってどうなの)

ゲームは、悪いのか。
悪くないのか。買って与えるべきか。
買わざるべきか。

それが問題だ。

電車の中にいれば過半数がゲームをしているこの世の中。
ゲームは生活の中に溶け込んでいる。

人生これすなわちRPGとある業界(自己啓発・セミナー・企業などなど)では言われているほどだ。

ーーーーーーーーーーーーー

ゲームは悪いものではない。
と僕は思う。

ものすごい哲学が隠されているゲームもある。

疲れた心を現実から逃避させる、ゆとりをつくる効果もあるだろう。

昔と違って、今はゲームを通して世界中、日本中のプレイヤーとコミュニケーションが取れるようになった。
(有線でケーブル繋がないと対戦できなかったあの時代は、どこにいった?)

ゲームの良いと思われる側面をとらえるとそうなる。

ーーーーーーーーーーーーーー

ゲームは、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

ーーーーーーーーーーーーーー

あるゲームづくしの毎日を過ごしている子はこう言った。
「ゲームして一生を終えますよ。親のお金使い切って、それで終わりです。」

ゲームの世界「だけ」で生きるという暮らしを確立している!

中学生、高校生、思春期を超える頃にはある程度ゲーム世界との関わり方も固定されるかもしれない。

ーーーーー

ゲームを通じて活かされている人もいる。
ゲームを通じて、生きる希望を持っている人もいる。(世界一の大会にでるなんて、すごいことじゃないか??)

ゲームには、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

ーーーーーー

例えばパズルゲーム。
これは頭を使う!
そのゲームの「ルール」を理解して、それで試行錯誤を繰り返して、繰り返して、強くなって行く。
(ゲームはゲームが好きになるように、モチベーションが上がるように映像だとか効果音だとかボーナスだとかレベルアップとか新しい技とかアイテムという快楽回路が刺激される仕組み満載だ。)

ゲームは、やればやるほど、はまるようにできている。
(もし「ルール」を理解して試行錯誤しても強くならないのなら、自分にあったゲームを探せばいい。あなたが快楽を感じるゲームはいくらでも探せる)

ーーーーーーー

けど、やってもやってもうまくいかないことがあるのが人生だ。
ゲームから何を学ぶか。
ゲーム世界とどう関わるか。

ーーーーーーー

ゲームを悪く言うこともできる。
主に身体的な意味からだ。

まずゲームのやりすぎで眼球運動が苦手になる。
黒板が見られない。
目でものを終えない。

指先の操作はうまくなるかもしれないが腕や肩との協調運動ができなくなる(肩も使うタイプのゲーム機があるらしいが除外しておく)
ゲームの話しかできなくなる(青春はゲームの中)

とにかく時間を取られて他のことができない。
言葉が拙くなる。

(そしてこれらの話の例外も、そこらへんにゴロゴロ転がっている。めちゃくちゃ喋るのがうまいゲーム界の住人もいる。運動が超絶的なゲーマーもいる。さてさて、どうしたものか…)

ーーーーーー

子どもにゲーム機を持たせるのはいいことか?
スマホを持たせるべきか?持たせぬべきか?
親はある意味で、神だ。

はい、ここからが本題です。

ゲームの世界の外でも楽しみを見つけられる子になればいいと僕は思う。

そのためには、大事な大事な思春期まで、中学校頃までは、ゲームを与えないという選択肢が、賢明かもしれないと僕は思う。
子供がゲームをするかどうか、ということよりも、その子が日常の中で、一生懸命になる場面が、現実の世界で、笑顔になる場面があるかどうかを省みてみてほしい。

ゲームは悪いわけではない。
ただ、ゲームは「はまる」ようにデザインされている。
他の遊びだって同じだ。ゲームは悪いわけではない。

児童発達支援をしていたとき、未就学児の子がお母さんからゲームを与えられていたのを見ている。(知育ゲームである)
企業は、知育ゲームを開発してやらせてそのあとどうなるか、きちんと研究をしてくれないものだろうか。

公害は企業の責任が囚われた。心の問題は、企業に責任はないのだろうか?
「私たちには責任はありません。だって、選んで買っているんでしょ?」

子どもたちは、イヤホンをしている間、鳥の声を、虫の声を、聞いているだろうか。
画面を見ている間、目の前にいる人の表情を、人間を、感じているだろうか。

ゲームをしない時間も、大切にしてほしいとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

遅れは取り戻せるのか?発達の可逆性について。

うーん。

そうだよ。

遺伝か環境か。

遅れた発達は「取り返せるものなのか」どうか。

あのとき抑圧していたものは、解放され、自由になり、成長を始めるか。

子どもの時に、芽をだせなかったチカラを、大人になったときに感じることはよくある。
逆に子どもの時に芽を出していたチカラが大人になったときにも役に立つこともある。

デキナイこと、デキていないことに芽を向けてばかりで、できること、今持っているチカラをお世話するおとがおろそかになっては、何か本末転倒だろうか。

今、できること。

今。
今、その子の中にあるチカラは何か。

その子が持っている神秘的な力の計り知れない満ち満ちた未知に大人が向き合うとは?

人生の中で、別のイベントが発生したときに、その能力は、埋もれていたチカラは、「伸びなかった」チカラは、開花するかもしれない。
僕もそういうところがあるし、僕の友達にもそういう子がいる。

何がいつでてくるか。
其のチカラが誰かと結びつくことで、発揮される、意味を持つようになるかもしれない。
僕が子どもと出会って何かの意味をみつけたように。

ーーー

発達には個人差がある。
環境も、遺伝も関係する。
それを全て検査し、診断し、処方を与えられるわけではない。
事前に防いだり、とってつけたりすることもできないだろう。

で、大きくなって、いろんな大人と出会っていくと、なんだかんだ、デキナイことよりも、デキることを大切にした人が、笑っているような気がしている。

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オトノネひろげるシェアぼたん

「内向的な人が秘めている力」

Facebookを徘徊しながらこんな記事を見つける。

ふむ。

TEDって、価値の多様性、言葉のチカラを教えてくれる。

オトノネがやろうとしている児童発達支援、放課後学童保育も、「埋もれている内向性」、学校の中で、社会の中で興奮してしまった心を落ち着ける場所になるのではないかとおもっている。

人との出会いで、結びつきで、意味が生まれる。
まるで、真空中を飛び回るとある原子が、何かの原子と出会うように。

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ワーキングメモリ(短期記憶)とは、パソコンでいうと「メモリー」にあたり、その場その場でいろんな作業をこなす際につかう場所だとおもったらいい。
ワーキングメモリが大きいと、一度にいろんな作業ができる。途中で手順を忘れたりしないで、あれこれと組み合わせたり、「あ、そういえば」とかいうこともある。

ワーキングメモリが小さいと、「ん?今、何してたっけ?」という状態になったりする。いくつもの指示をだすと頭が混乱するタイプだ。
だからワーキングメモリは「作業記憶」とも呼ばれている。

ワーキングメモリが小さいと、考えを深めることが難しい。といえるのかもしれない。

僕はそういうことだと理解している。

で、ワーキングメモリを統計的にデータ化した表、個人差の大きいことを知った。

この表を見てください。
ワーキングメモリー
何が読み取れるだろうか?

7歳児の上位10%は10歳児の平均と一致する一方で、7歳児の下位10%は4歳児の平均を下回っている。
つまり7歳児のクラス全体をみれば、ワーキングメモリだけをみれば、4歳から10歳の子がいる、ということになる。

別の見方をすれば。

16歳の子でも、下位10%なら、10歳の平均レベルのワーキングメモリしかないということになる。
また10歳でも、上位10%なら、16歳の平均レベルのワーキングメモリをもっていることになる。

また別の見方をすれば。

4歳児でも、6歳児の平均並みの子がいる。つまり、データにはないが、おそらく(恐らくは)4歳児で2歳児の平均なみの子がいるのではないか。

うーん。

まずは、芸術をはじめましょうか。

ところでAD/HDの子とワーキングメモリの相関関係が気になる。
因果はあるだろうか。

言語遅滞とワーキングメモリの関係が気になる。
因果があるんだろうか。

うん。相手の心を読むのとワーキングメモリの関係はあるんだろうか?
仮説を立てて、検証して、仮説を立てなのして、検証して、前提を疑って、とか、そういうデータ処理は、ワーキングメモリと関係しているんだろうか?

うーん。

研究したい。

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大学行こうかな。
いや、行きませんが。

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というか子供は姿勢がいい。
あれだけ自然に、ちょんとして凛として座っていられる。
またしゃんとして立っていられる。

何者だ???

大人だったら、崩れていたり、ブレていたり、力なく弱々しかったりすることもあるのだが。
(もちろん逆に歩き方がぎこちなかったり、ぐにゃっとしてしまう子もいる)

立ち方、振る舞い方、そこにいることで生まれるエネルギーが、その人のポテンシャルだ。
ポテンシャルを顕在化させようとして、大人は習い事をさせたり、いろいろとやらせる。

子どもは一流の学習者だからなんでもできるようになる。

あるとき、ある状況のなかで目を見開いて、「え?いつもの君はどこにいった?」という子もいる。
何をしているかというより、ポテンシャルが上がっている状況、そして落ち着いてそのエネルギーをコントロールできる環境を作っていくことを大切にしたい。(蛍光灯バチバチの環境でポテンシャルが下がる子もいる)

エネルギーを何に使うかなどは、二の次に考えようとおもう。
謎の輝き、神秘のチカラ、心のはたらき。可能性。どんな言い方もできる。
ただそのエネルギーの使い方をあまりにも限定されてしまい、気が滅入っている子が多いのではないか。

ということだ。

ーーーー

ポテンシャルエネルギーとは、簡単にいうと隠されたエネルギーで、地面からの鉛直方向の距離が長ければ大きくなる。
姿勢がいい、シャンとしているとは、このエネルギーが高い状況をいう。

アーノルド・ミンデルは量子力学と心理学を結びつけていますよ。
不確定な、挙動不審な、確率的な、決定論とは別の次元で動いている世界に、科学者も目を向けてはじめています。というか、もうバシバシ向けています。

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ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

残酷すぎる成功法則

ながながしいが、引用。

困難に際して、マシュマロ実験で子供たちはただただ我慢をしたのではなかった!!

つまるところ、想像力を使って、目の前に立ちはだかる困難を「操作」すること。
ファンタジーの世界を「使って」現実の困難を、なんでもないこと、にするチカラだ。
ゲーム化するチカラ、といってもいい。

ーーーーーーーーー

ウォルター・ミシェルによる「マシュマロ実験」は広く知られているが、通常は、意志力との関連で語られることが多い。簡単に要約すると、「マシュマロをすぐ一個もらう? それとも我慢して、あとで二個もらう?」と尋ねられた幼児のなかで、我慢することができ、意志力を示した子は、後年社会的に成功する確率が高かったことを証明した研究である。
 しかしこの研究におけるもう一つの興味深い要素は、我慢した子のうち、かなり多くの子が誘惑を回避しようとした方法にあった。ほとんどの子が、ただ歯を食いしばって食べたい衝動を抑えつけたのではなく、超人的な意志力を示した。
 驚くべきことに、この子たちは「認知的再評価」を達成していたのだ。つまり、自分の置かれた状況を別のレンズを通して見たり、ゲームに見立てたりしていた。ミシェルは説明する。

子どもたちは、マシュマロを〝もっちりしたおいしいおやつ〟としてではなく、〝空中に漂うフワフワの雲〟として認識したのです。その場合、彼らはマシュマロとベルを目の前に置かれながら、私と大学院生たちがネをあげるまでじっと座っていました」

「認知的再評価」に取り組むこと、すなわち、自分自身に見方や発想を変えたストーリーを語ることにより、じつは従来の意志力のパラダイム全体を覆すことができる。

 元来、意志力は筋肉と同じで、使いすぎれば疲弊するといわれてきた。しかし意志力が枯渇するのは、そこに葛藤があるからだ。ところがゲームはこの葛藤を別のものに変えてくれる。ゲームはその過程を面白いものに変えるので、マシュマロ実験が示したように、私たちは意志力を枯渇させることなく、はるかに長く持ちこたえることができる。
 たとえば、あなたの目の前に山積みのコカインが置かれたとしよう(ここではあなたはコカイン中毒者ではないとする)。あなたはコカインから快感が得られると知っている。理由があるから人びとはコカインを吸う。ところが大多数の人は「いりません」と断る。その理由はなぜか?

 それはあなたのストーリーと一致しないからだ。

 私はコカインを吸うような人間ではない、と認識しているのである。そしてあなたはコカインがいらないさまざまな理由を思いつくだろう。あなたは目を閉じ、拳を握りしめ、お願いだからコカインを持ち去ってくれと懇願するだろうか? そんなことはしないだろう。コカインを拒絶するのに、意志力を働かせる必要がまったくないからだ。
 ところがこれが、肉汁のしたたるステーキだったらどうだろう? しかもあなたがステーキに目がなく、とくに空腹だったら? あなたが採食主義者でないかぎり、葛藤が生じ、意志力が消耗される。が、ここで自分に語るストーリーを変えてみると、ステーキを断っても意志力をまったく使わずに済む。ストーリーを変えれば、あなたの行動を変えられるのだ。そしてゲームも別の種類のストーリー、それも面白いストーリーだ。
 空想話は楽しいが、ここで人生の話に戻ろう。仕事はなぜ面白くないのだろう? じつはその答えは極めて単純だ。今日私たちの知っている仕事はつまらないゲームだからだ。

ーーーーーーーー

よく、心理学の領域でも「言葉にして、物語ること」「物語を書き換えること」が行われる。
今見ている世界の見方を変える。空想の世界、ゲームの世界、ありもしない「モノ」に目の前のものを置き換える。
そう思い込んで、浸る。

そうすると、心をすり減らさずに、意志を持続させられる、という。
いやぁ、勉強になりました。

よく引き合いに出してしまうが(それほど僕にとっては印象的なのだが)、DVをDVだとおもわない人(実は星の王子様を書いたサンテクジュペリもその一人)、学校の課題を当然のものと受け入れてしまう人は、きっと、それなりの空想に浸っているに違いない。

そうおもうと、誰もが、それぞれの空想の中で生きているのだ。
そうおもうと、現実も、虚構も、同じものなのかなとおもえる。

自分のストーリーを生きよう。
ただ、そうやってあそんで、明けて、暮らしていくのが人の性。
ーーーー

こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の放課後児童クラブ・学童保育

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遊びをせむとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ

『梁塵秘抄』

誰に何を言われようと、もし思い描いたファンタジーのなかで、他の誰かが、誰かが笑ってくれるのをみたなら、
誰に何を言われようとも、たった一度きりの命、つないでいく命、燃やさない手はない。と、僕はおもっている。

そこにビジネスマインドが入る余地があるか!?

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