子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。

いやー、保育士すごい。

休日だけ働いている保育所、二人の兄弟がいる。
一人は2才、一人は4才、あ、もう5歳か。

で、春から一緒にいるのだけれど、、2歳の子が、なんと、お盆に入ってからイヤイヤ期に入ったらいい。
実際、「イヤ」とか「ジブンデ」というレパートリーを使う。

この時期は高次認知的情動、くやしとか、悲しいとか、嫉妬とか、見栄とか、複雑な感情と付き合い始めるとき。
新皮質と辺縁系が合わさって社会的に有効な感情と、その調整法学んでいく時期。
【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。高次認知的情動とは?

今までと違った行動パタンになりお母さんは「!?」となるらしいが。
保育中に僕がみた姿は、まさに、意欲の塊だった。

けど今までのすなおーな感じとは違っているところで、戸惑う僕。
そんな僕の目の前で、保育士さんはふつーに、自然に関わり合いをもっている。

関わり合う中で、「いや、これはやってほしい」ということをちゃんと伝えてそれを受け取ってもらえるのは、信頼関係というか、保育士がその子の心を尊重しているからだと。
子どもとうまくいかない!とおもったら?

伝えることは伝えるという凛とした態度は変わることがない。
ただ、その子が「いろいろと頭の中があっぷあっぷ状態!」であることを理解して、一つずつ、気落ちを抱きしめている。

という感じ。

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「ジブンデ」といって、今までやったことのなかった「ぞうきんがけ」をやった!
(モンテッソーリ教育の本で「お手伝いをしてもらう」というのがあったが、これはまさに、2歳の意欲を日常生活で発揮してもらうということだろう。よくできているなぁ)
笑顔で、どこで覚えたか、ちゃんと足を踏ん張って、ぞうきんをかけていく。くねりながら!

こんな意欲あるイヤイヤ期!
イヤイヤ期じゃなくて、ウハウハ期だぜ!
「おれっちったらあれもできるぜ!これもできるぜ!こんなに、感じてるんだぜ!」

ウハウハヾ(*´∀`*)ノ

思えば、はいはいができるようになったり、両手が自由になった時も、ウハウハしながらいろんな挑戦をした。
この時期はこの時期なりの身体能力、言語能力を駆使して、意欲的に、学んでいくんだろう。
(今まで貯めて来た、日常生活の所作を大人に混じってやることが、よいのかも?しれない。ある意味で、ままごとは、最強の拡散的あそびのようにおもう)
収束的あそびと拡散的あそび。

「イヤ」というとき、何か他のものに心が奪われているような。
「イヤ」という言葉は、「今頭の中それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」みたいな響きに、僕は感じた。

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自称進学高校で課題に潰されている子がいる。それを、とある子が「課題の海で溺れている」と表現してくれた。
毎日毎日押し寄せる、頭がいっぱいになって身動きがとれなくなる「課題の海」で溺れている高校生は「イヤ」ともいえず、「今それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」という気持ちでいるかもしれない。

その心を理解して、一つ一つ、気持ちを抱きしめてあげるだけでも、その子は落ち着いて、持ち前の意欲を発揮できるようになるかもしれない。

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寝起きが悪い、2歳児。お昼寝の後に、おやつを食べることになっている(食べることになっている)。

だがしかし、
布団から出ても座り込んで、ぼけーっとしている。
どうしたものかな。。。と思っていると、保育士さんが「お散歩する?」と聞く。

その子は、頷いた!

大人になっても、いろんな気持ちがあるけど、体が付いていかないこともある。
そういう時に、どうしたらいいか、この子は今、学んでいるのかもしれない。

最後に。
ウハウハ期は、1年くらいしたら終わるそうだ。
高次認知的情動との付き合いができるようになり、次は、抽象語を学ぶ、内言を鍛えると同時に他者の心に近づいていく怒涛の時期に入る。
ウハウハ期に入ってから、彼の言葉の使い方がはっきり変わった。
どしどし、言葉を使ってくる。

けど「ドウシテ」
とか「ナニ」とは聞かない。

今は、それどころではないのだ!

それは、3歳以降、次の段階の課題であるようです。

あせらず、たゆまず、心ゆくまで。
自分にあった発達段階、自分にあった発達の道を、ひとりひとりが鼻歌を歌いながら進んでいってほしいとおもいます。

そんなおとのねさんでした。

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ちなみにその子は全然おやつを食べなかった。今日、朝マックをしてきたというから、全然、お腹が空いていないのだ。
散漫なあそび、散漫な食事

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ツイッターで、2歳のウハウハ期のツイートをみつけて、この記事を共有させてもらいました。
(おとのねさんがコメントにリンクを貼ったのを、みていただきました)
返事をいただけて、なんだか、とてもうれしくなりました。

SNSの使い方、研究中です!

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殴る蹴るの身体的なメッセージ

僕が遊んでいる最中に蹴りを入れる子がいる。
他の子には蹴りを入れないのはオトナだから大丈夫だと判断している子。
今思えば、遊んで欲しくて、蹴りを入れていたと僕はおもう。
僕は痛い、痛いからやめてよねというばかりだった。
だから何度も蹴り続けた!「なにいってんだよ!遊びたいっていってるのに!」と叫び続けていたんだろう。

情動を、エネルギーを、情を収束させて、利用できるカタチにする知恵が、まだその子にはないのだ。
愛とは?
誰かに解釈してもらう、情動を調整してもらう必要がある。
一緒に、調節の仕方を、学ぶのだ。

「一緒にあそぼう」なんて言葉にしたことがなかったんだろう。
言葉にならないで、どうしていいかわからなくて出てくる振る舞いもある。
一つ一つの振る舞いに隠されている心を感じるようにしていきたい。

今度、同じことがあったら、短い言葉で伝えよう。
けど、ヒットアンドアウェイを続けるその子にどうやって言葉をかけられるだろうか?

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小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。

「自由にさせたい」

ということが一つのキーワードになる。
ひとりひとりが自由に世界をつくっていけば、世の中はもっとおもしろくなるだろう。
では、

子どもに「自由に生きて欲しい」という祈りを届けるための、愛とは何か。

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さっき、ドジョウが2匹、死んだ。
正確に言えば蘇生しようとしているのか、死んでいこうとしているのかわからない。
とりあえず、フタをせずに「カルキも抜きたいし、水たっぷりにして泳がせたいし」ということで2匹が今、埃にまみれて瀕死。
奇跡的におとのねさんに食べられることを免れた命。
飼うつもりだった。
生存者は3名

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「自由にさせたい」
けれども、守らなくてはいけない。
何を?命を。

人間なら、僕はもっと別のものを大切にしてほしいと思っている。
心だ。

命、といってもいい。

その人が生まれて来て、燃やせるもの。
他の人にも与えられる炎。

で。

「自由」がうまく働かない場合がある。
自由は条件付きだ。
「みんなで一緒」で小学校・中学校を過ごした子どもたちが、高校になって、「みんなで一緒」になって、本気をだせずにいる。
「個別化」されるべき進路を「課題」に阻まれている。
3年間を学校で「みんなで一緒」のわけのわからない課題に耐え、終わる。
それがお父さんお母さんの望んだ「自由」の結果だろうか。

(学校変えるか、課題や定期テストを拒否するだけでいいのに…それは困難なのだろう)

それで、子どもは、「殺された」と言えないか。
お母さん、お父さんが「自由だ」といって子どもの大切な心を、命を殺していないか。
おとのねさんも「自由だ」といって子どもの心を殺してはいないか。

そこはおとのねさん、実にドライだ。
「もう育ってしまった。もう思春期を超えた。あとは、今あるものでやっていくしかない。もう高校生になったなら、痛みがなければ、変わらない」
発達課題を、思春期の意味を僕はそのように理解している。
入試が終わった後で、希望しない大学に入学した後で、大切なことに気がつけばいい。

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「自由」を大切にすることはいいことだとおもう。
ただそれで「自由」を発揮するチカラを育てられているか。
「自由」にすることで「不自由」になっていないか。

「教えてはいけないこと」と「教えるべきこと」をはっきりさせているか。

「みんな一緒」から子どもを守ることがお父さんお母さんの役割ではないのか。
学校で「みんな一緒」の価値観で育った心が「自由」を発揮する、「個性」を生かすチカラを発揮することができるだろうか。
障害にならないか。

学校という環境がつくる心から、子どもの命を守ることが大事ではないのか。
それほど学校の先生は、学校というシステムのなかで生き延びることに精一杯なことが多い。
(一部の先生が生徒の心に大きな負担をかけることも往往にしてある)

ーーーー

もし本当に「自由」を、「その子らしさ」を育てるなら、学校から子どもの心を「守る」ような関わり合いをしなくてはいけないのではないか。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
それは学校から「自立」することも意味するだろうとおもう。

「先生、いろいろ大変だね。まぁ、私は私でやっていくよ」という目線。

心を圧迫してくるあらゆる言葉、振る舞い(時として脅迫や精神的苦痛といういじめに相当するものが公然と教育の名で行われることもある)から自立すること。僕がよくDVをDVだと思わないお母さんの話をするが、それの学校バージョンだ。毒親の支配から逃げられない子どもに例えてもいい。

小学校、中学校の発達の課題には学校からの「自立」がある。
だからこれを意識して就学以前から、低学年から関わりあうこと。
小学校になってからも、「自立」できるように子どもの心を守ること。

ーーーー

テストの点数が悪くてもいいよ!とはいっていない。
学校という環境の中で、「その子」をみつけて、どうしたら「その子」が「その子」として自立できるか、かけがえのない命を燃やせるのか、他の誰かを照らす炎になるのか。見て、守ってあげることが大事だとおもう。(場合によっては、学校がいうことなど気にしなくていいと、言えるだろうか)

ーーーーー

子どもを「守る」ために課題をやらせ、テストの点数をあげさせようとするお父さんお母さんの心はわかる。
ドジョウを2匹、自由にして殺してしまった気持ちだ。

「自由」になるために「檻に入れる」のだ。

ーーーーー

勉強「させる」、習い事を「させる」のは悪いこととは限らない。
ただ発達の過程で刷り込まれた神経は残るということは知恵として知っておいて欲しいとおもう。

小さな子どもの「気を引き締める」「ケジメをつけさせる」のも同じだ。
その一挙手一投足が、子どもの心をつくる。神経を作り上げる。

ーーーーーー

命を守るとはどういうことだろう。
僕は生まれて来た命にかける願いを、祈りを、言葉で、仕草で、振る舞いで子どもにかけたい。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
そして高校生になったときに、本当の自分を社会にプロデュースするという課題に、向き合えるように。
そのための基礎が「自立」する心であって、これはつねに自分という物差しで、自分の心で世界をみる行い(自分が自分のことを語るという単純なこと)の繰り返しで強められる。

小学校、中学校で「みんな一緒」の「定期テストに追われる」、「学校の先生が怖くて従う」、「友達の視線が気になる」神経を作り上げる学校の環境から子どもを守ることが、「自由」のために教えなくてはいけないことではないのだろうか。命を、殺さないために。

小学校、中学校で「死にに行く」ことを覚えた体は、高校になってから「個別化」を拒むだろう。「自立」することが難しくなるだろう。
身体は記憶する。
気持ちとか、精神論とか、正論は関係ない。
わかっちゃいるけど、、
先生に頭ごなしに否定されると体がすくんで、心の元気がなくなる。
身体は記憶する。
心理学の一般書のコーナーにいけば、すぐにでも手に入る真実だ。

ーーーーーーーー

別に課題をしなくてもいい。
勉強しなくてもいい。
本気になれることさえあるなら。
それが個別化だ。

勉強ができなくても、しあわせを育てている人を、僕はたくさん知っている。
勉強ができても、しあわせそうではない人も、僕はたくさん知っている。

ーーーーー

自由にさせて、小学校・中学校で心をすり減らしていないだろうか。
「みんな一緒」を神経に、体に刷り込まれていないだろうか。
それは僕には、発達障害のようにもおもえる。「え?まだ学校から自立できていないの?」

子どもの命を殺していないだろうか。

知恵をもって、仕草をもって、愛のある言葉をもって、子どもと関わりたい。

(ブログの記事)
愛とはなにか?

そうして僕は、ドジョウを入れたボールにラップをかけた。

ボールの外から飛び出して「死ぬ」のは自由。
けどそれは、言い方を変えれば僕がラップをかけずに「殺した」ことにもなる。

小さな赤ん坊が、歩き始めた時、わけもわからず車道に出ようとするのを引き止めるように、学校から子どもを守ることも、命を守ることになるのではないかと、僕はおもっている。それほど学校は、生徒たちの心をすり減らしている。子どもたちは、笑いながら、「自由」であり続ける。

僕は子どもたちに、どんな祈りの言葉をかけよう。

小学校、中学校の発達の課題は学校からの「自立」と「個別化」だとおもう。
学校は利用するのであって、機会は「与えられている」のであって、「従わなければならない」法はない。

教育基本法 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

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論理を伝えること、論理の前提が崩れているとき、先生としての責務を果たすことと課題の多さの関係について。

論理的に話すということが無意味に感じることがある。

例えば学校で授業中に友達と話す子。
「なぜ授業中にはなしたらいけないとおもう?」
こういう問いをしてくれる先生がいるだろうか。

論理的に話すとこうなる。
「授業はみんなのためにやっているのであって、他の人の邪魔をするのは、他の人の迷惑になるから」
とても簡単だ。

教室は静かにするところ、では納得がいかない。論理的にそれがなぜか、落とせるところまで落とすとそういう答えになる。

もしこれが子どもに通じないとしたら?
話ができないとしたら?
大人はその子にどうかかわればいいのだろう?


私はいつも「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」を考えている。

それをはっきりさせるのが教育者の務めだと考えている。
教室の中で授業中友達と喋ることを黙認することは、身体的にそれを許していることになる。
「授業中、友達と喋っていてもいい」ことを教えていることになる。
私にとって、先生としての責務を果たすとは、「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」をはっきり伝えることだ。

ーーー

ちなみに、いつもでも友達がいないと何もできない、時間が過ごせない、というパターンは1歳すぎたらもう出来上がっているようだ。
先天的なものもあるだろうが、養育者との関わりも大きな要因になっているようだ。
保育園で働いているからわかることかもしれない。。。。

ーーーー

子どもの言い分もあるだろう。
「だって授業がつまらない」「意味がない」「役に立たない」
こういう言葉を聞いた時に、大人は何を感じるだろうか。論理の前提が違うとき!

私ならこう応える。
「意味がないと感じるなら話を聞かなくてもいい。それは自分の責任で。ただ、他の人の時間を傷つけるのは悪いことだ」

それで無言になって、結局喋り続ける子がいる。
論理の前提が、そもそも違う(ただ喋りたい一心なのだ!)ケースだ。
もっとよくあるケースは「勉強してなんの役に立つの?」という疑問がでるほど、学校生活が窮屈な場合。
どちらの場合も、生徒の心は擦り切れている。

健康的とは言えない。

そんなとき、僕はこう考える。
「本当にその子にとって有意義な、成長できる時間をつくるためには何をしたらいいのだろう?」
授業という形態、学校というシステムにも限界がある。
果たして、学校は、組織は、大人は、こうして育ってきて今も成長している子どもたちに何ができるか???

(ちなみに、学校の先生は、生徒が同感・同情してくれるような言葉かけ、振る舞いを日常的にしていることがある。「この先生だから、静かにしていよう」というやつだ。生徒指導の怖い先生の前では静かにしている、というパターンをつくりだす。それも一つの手なのだが。人を見てコロコロと態度を変える就学以前の子どもたちと同じだ。もちろん、それは人間関係の基本ではあるが、その「手」が新任の先生がどんどん辞めていく原因のひとつとなっている)

ーーーーー

全ての学校に、通信課程を導入するのも手だ。
友達と喋りたい!なら単位は通信課程で。
自習室で友達と喋りながら勉強したらいい。(そっちの方が勉強になるかもしれない!???)
授業が嫌だ!意味がわからない。それでも単位が欲しいなら、友達とおしゃべりしたいなら、通信課程で。
通信課程と一斉授業の仕組みが流動的に使えるようになればいい。

決して他の人の邪魔をしてはいけない。
学校の本分が、教室という場所が、そのようにできているから。
「教えなくてはいけないこと・教えてはならないこと」をはっきりと伝えて、なおかつ、生徒の教育上の安全も確保しよう。

学ぶ意味がわからない、こんなもの役に立たない、とおもう子のための学校があるだろうか?
友達とのおしゃべりを楽しむ以外で、《行き甲斐》のある学校があるだろうか?

大人がそういう問いを立ててもいい。
(私なりの答えがotonone-オトノネ-なのだが)

ーーーーー

その子を否定するのではない。排除するのではない。
そのためには、
その子が学校でその子なりに、高校生活という経験を全うするための手立てを、学校が持っていることが必要なのではないか。
(その一つの答えに「特別支援級」があったりする)

そして大人がきちんと「教えなくてはならないこと」を伝えること。
学校の先生には、こういう意識が必要なのではないかとおもう。
(教えるという言葉が妙な響きに聞こえるかもしれない。心を表すこと、と言い換えてもらえてもらってもいい)

論理を、そしてベースとなる「相手の気持ちと自分の気持ち」という人間の根本原理を教えること。
それはいい子になる、というものではない。それさえあれば、世の中やっていけるというくらい大切なことだと僕はおもっている。

ーーーーー

「難関国立大学に合格させる」という責務を負った進学校を選んで入る人は、課題を当然ながら、あまんじてこなすべきだと考えてもいい。
そこを選んで入ったのだから。

先生はその責務を果たそうとしている。

ただ、大量の課題や途切れのない模試・テストという方法にあまり実りがないことは、大人がきちんと考えなくてはいけないことだと思う。
大人は「課題についていけないない子に対して、学校が本分を果たすにはどうしたらいいか?」考えているだろうか。

業務(先生たちにも「課題」がある)から自立して、考えているだろうか?
業務自体が「教えてはならないこと」を伝えていないだろうか?(潜在的カリキュラムという)
考えていない、工夫ができていない、先生自身が成長できていないとすれば、先生としての責務を果たせていないことになるというのは、論理的に正しいだろう。しかしこの論理の前提が崩れているから、困るのだが。

otonone-オトノネ-は壊れた前提の中で、それでも成長していこうとする子どもたちを応援しています^^

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ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

残酷すぎる成功法則

ながながしいが、引用。

困難に際して、マシュマロ実験で子供たちはただただ我慢をしたのではなかった!!

つまるところ、想像力を使って、目の前に立ちはだかる困難を「操作」すること。
ファンタジーの世界を「使って」現実の困難を、なんでもないこと、にするチカラだ。
ゲーム化するチカラ、といってもいい。

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ウォルター・ミシェルによる「マシュマロ実験」は広く知られているが、通常は、意志力との関連で語られることが多い。簡単に要約すると、「マシュマロをすぐ一個もらう? それとも我慢して、あとで二個もらう?」と尋ねられた幼児のなかで、我慢することができ、意志力を示した子は、後年社会的に成功する確率が高かったことを証明した研究である。
 しかしこの研究におけるもう一つの興味深い要素は、我慢した子のうち、かなり多くの子が誘惑を回避しようとした方法にあった。ほとんどの子が、ただ歯を食いしばって食べたい衝動を抑えつけたのではなく、超人的な意志力を示した。
 驚くべきことに、この子たちは「認知的再評価」を達成していたのだ。つまり、自分の置かれた状況を別のレンズを通して見たり、ゲームに見立てたりしていた。ミシェルは説明する。

子どもたちは、マシュマロを〝もっちりしたおいしいおやつ〟としてではなく、〝空中に漂うフワフワの雲〟として認識したのです。その場合、彼らはマシュマロとベルを目の前に置かれながら、私と大学院生たちがネをあげるまでじっと座っていました」

「認知的再評価」に取り組むこと、すなわち、自分自身に見方や発想を変えたストーリーを語ることにより、じつは従来の意志力のパラダイム全体を覆すことができる。

 元来、意志力は筋肉と同じで、使いすぎれば疲弊するといわれてきた。しかし意志力が枯渇するのは、そこに葛藤があるからだ。ところがゲームはこの葛藤を別のものに変えてくれる。ゲームはその過程を面白いものに変えるので、マシュマロ実験が示したように、私たちは意志力を枯渇させることなく、はるかに長く持ちこたえることができる。
 たとえば、あなたの目の前に山積みのコカインが置かれたとしよう(ここではあなたはコカイン中毒者ではないとする)。あなたはコカインから快感が得られると知っている。理由があるから人びとはコカインを吸う。ところが大多数の人は「いりません」と断る。その理由はなぜか?

 それはあなたのストーリーと一致しないからだ。

 私はコカインを吸うような人間ではない、と認識しているのである。そしてあなたはコカインがいらないさまざまな理由を思いつくだろう。あなたは目を閉じ、拳を握りしめ、お願いだからコカインを持ち去ってくれと懇願するだろうか? そんなことはしないだろう。コカインを拒絶するのに、意志力を働かせる必要がまったくないからだ。
 ところがこれが、肉汁のしたたるステーキだったらどうだろう? しかもあなたがステーキに目がなく、とくに空腹だったら? あなたが採食主義者でないかぎり、葛藤が生じ、意志力が消耗される。が、ここで自分に語るストーリーを変えてみると、ステーキを断っても意志力をまったく使わずに済む。ストーリーを変えれば、あなたの行動を変えられるのだ。そしてゲームも別の種類のストーリー、それも面白いストーリーだ。
 空想話は楽しいが、ここで人生の話に戻ろう。仕事はなぜ面白くないのだろう? じつはその答えは極めて単純だ。今日私たちの知っている仕事はつまらないゲームだからだ。

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よく、心理学の領域でも「言葉にして、物語ること」「物語を書き換えること」が行われる。
今見ている世界の見方を変える。空想の世界、ゲームの世界、ありもしない「モノ」に目の前のものを置き換える。
そう思い込んで、浸る。

そうすると、心をすり減らさずに、意志を持続させられる、という。
いやぁ、勉強になりました。

よく引き合いに出してしまうが(それほど僕にとっては印象的なのだが)、DVをDVだとおもわない人(実は星の王子様を書いたサンテクジュペリもその一人)、学校の課題を当然のものと受け入れてしまう人は、きっと、それなりの空想に浸っているに違いない。

そうおもうと、誰もが、それぞれの空想の中で生きているのだ。
そうおもうと、現実も、虚構も、同じものなのかなとおもえる。

自分のストーリーを生きよう。
ただ、そうやってあそんで、明けて、暮らしていくのが人の性。
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こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の放課後児童クラブ・学童保育

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遊びをせむとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ

『梁塵秘抄』

誰に何を言われようと、もし思い描いたファンタジーのなかで、他の誰かが、誰かが笑ってくれるのをみたなら、
誰に何を言われようとも、たった一度きりの命、つないでいく命、燃やさない手はない。と、僕はおもっている。

そこにビジネスマインドが入る余地があるか!?

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新しい知見を得ました。こちらもどうぞ!
マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。

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子どもとお花見に行ってきたらドラマがあった。

いろいろあったー。

うさちゃんとお花畑

オトノネはなにをするところかよくわからない。間違いない表現をするなら、「おとのねさんがいるところ」がおとのねだ。で、川べりにいって、前回僕が話した「ヒメオドリコソウ」の話題を発展させてくれて「教科書に書いてあった!」といいながら、「オオイヌノフグリもかわいいよ!」といって見つけて、教えてくれた。かわいいやんか。白い謎の花が近くにあったから、「これ知ってる?」と聞くと知らないというので、教科書でみたら教えてねーと言った。で、ご飯を食べて、今日買った絵の具で絵描く?と聞くと描くというから書いてみる。最初は人を書いていたのが、お母さんに「せっかくだから桜かいたら?」といわれて桜をかいてみるその素直さが子どもらしく、のびのびとなんでもやってみようという気持ちを感じた。

この絵を描く前、この子の弟くんがやってきて、「僕もやる!」といった(そのとき僕は桜を描いていた)。で、僕が目を話した隙に・・・僕の絵に黒い絵の具でぶっとい線をぶっとく描いた!「だー!あー!」と僕は転げて泣き叫んだ!(その子は前にも壊したら人が悲しむものを壊した子だ)僕がめそめそしていると、体操座りになって反省会をはじめた(僕の悲しみを感じているんじゃないか。すごい)それをみて、僕も絵一枚で大人気ない、もっと子どもらしく執着しないでなんとか・・・と思ったその矢先、お姉さんが「枝にしたらいいじゃん」と。

天才じゃないか。それでその子に「この絵、僕が描いたんだけど、この線を枝にしたらおもしろそうだから、続き、描いてよ」と言った。気を取り直した彼は、書き始めた。うん、おもしろい絵になった。こういうこともあるんだなぁ。

ひとつの絵を描きながらドラマが起きる。(もっとたくさんのドラマがあったが割愛)それが個性であったり、発達の段階であったり、心の憂鬱として気持ちだったり、よろこびであったり。絵が上手くなることが大切なのではない。絵を描きながら、人間が人間と一緒にいる時間が大切なのだとおもえる。心から。そんな、昼下がりでした。

ちなみに、弟くんが気を取り直して絵を描き始めて、パレットの絵の具を使おうとしたとき、「これ、使っていい?」とちゃんと聞いてくれました。「僕はこの色しか使わないから、他の色は大丈夫だよ」と答えた。聞いてくれたね。お気遣いありがとう。お心遣い、ありがとう。「世界はいろんな意図で、意味で、計り知れない他人の心であふれている」ということを、体験して、学んでくれたのかもしれない。僕も、お姉ちゃんの一言から「創造的になること」を学びました。弟くんからも、人の成長する姿を、学びました。

ありがとう。楽しかったね!

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉の広がりと世界(意味)の広がり

さっき、皿回しの棒を折った子の記事を書いた。

頭の中は何処か不思議と、相似形をしている気がする。

たとえば動物は昔、bow-wowだったのが、つぎにmooとbow-wowがいるとわかり、gee-geeも動物だとわかり、baaという動物もいるとわかるようになる。こうやって分類は細分化されていく。(mamaがご飯の意味で使われるのも同じだ)

それと同じで、「棒」ときたら「折る」という動作以外に「大切なもの」という選択肢がなかった、といったらいいのだろうか。「それは折ってはいけない棒」だということを条件(たとえば、人の家にあるもの。その棒がなかったら皿が回せなくなるということ)から推理できなかったといおうか。野山にある棒なら、いくらでも折っていいのだが。

棒を折って、こっちをみてほしい(お母さんと喋っていたが、一緒に遊びたかったんだろう。いやぁ、ときには一人で遊んでくれ、子供よ!)気持ちを出したのは、自分一人の目線。自分一人の目線だけで「棒」と関わってしまえば、棒に関わる他の人たちがどうなるか、予想していなかった事態になる。

失敗したら、そこで成長したらいいんだぞ!子どもよ!大人もよ!ハッピーになろう!

オトノネひろげるシェアぼたん

しつけ

知育だとか食育だとか脳育だとかいろいろあるがどれも育てるということの一部を拡大してみせるだけで、全体のバランスを見失ってしまわないように気をつけなくてはいけない。

社会のなかで、ひとりひとりは別々の道のりで発達する。
親、幼稚園、保育所、学校、塾、友だち。。。

オトナの願いが呪いになってはいないか。
オトナの無知さが子どもを苦しめてはいないか。

この間、火垂るの墓を見た。「お国のために働いているんだから、あなたもぐうたらしてないで」というセリフを
「社会に出たら困るんだから、なまけれないで」とセリフを置きかえても、口調そのままに現代でも通じるものがあるとおもっておかしかった。基準に合わせようとする。その基準は社会の基準だ。しかたない。

仕方ないだろうか。どれだけ真面目に、オトナはその子の生涯を考えているだろうか。一日一日、変わっていく子ども。なにをしても、成長していくようにも思える子ども。オトナができることがあるとしたら、一日一日を後悔しないように、オトナとして関わること。手をつくして、コトバをつくして子どもに関わるオトナもいれば、落ち着いてその日その日を暮らせたらいいと思うオトナもいる。

基準に合せるためのプログラムに乗っからない子ども。
プログラムが間違っているのだ。
フレーベルの精神無き恩具。心なきモンテッソーリ教具。同じことをしていて、僕はどうもつまらないなと思う。

基準に合せるためのプログラムに乗っからない子ども。
基準が間違っているのだ。
どうして平均に合わせようとするのかって、それはオトナの傲慢かもしれない。
オトナがオトナとして責任をとるというのは、オトナが子どもに対して責任をとるというのは、コドモを基準に合わせることではない。
「私たちオトナは、アナタを標準的にしようと試みましたが、ムリでした。」
といえるだろうか?
「私たちオトナは、アナタを標準的にしました。おめでとう。」
コドモはソレを聞いて喜ぶだろうか。

標準にならなければその子は生きていけないのだろうか。
標準にならなければその子は死んでしまうのか。
標準にならなければその子はよりよく生きられないのか。
標準にならなければその子は孤立してしまうのか。

こうしてオトナは、コドモに呪いをかけていく。
それでもコドモにはオトナが必要だ。
それでもコドモは成長していく。
いびつになりながらも。その子が大きくなって、オトナにどんな眼差しを向けるだろうか。
どんな思いで目の前に現れるだろうか。呪いをものともせず、輝いているだろうか。

祝福のコトバを使おう。

コトバが生まれる瞬間を感じたことがあるだろうか。
人とココロが通う瞬間を感じたことがあるだろうか。
育たないコドモはいない。
オトナとは、成長を止めたコドモだ。

「教育」も「保育」も文部科学省と厚生労働省の住み分け、権力争いで生まれてきたようなコトバだ。
大人たちのコトバが乱れている時代に、コマーシャリズムに乗っからないようにしたい。
学級経営が困難になったから生まれてきた「療育」というコトバは、生まれつき、素行がわるい。
「療育」というコトバは、歴史的に、学校教育の標準を守るためにあるとしたら、発達支援とはなんだろう。
学校教育の枠を守るための努力だ。学校教育の制度を守ろうとするオトナのための努力だ。
学校教育をすんなり通ったオトナたちには、彼らの気持ちはわからない。オトナが、彼らに学ぶべきではないのか。

教育も療育も保育もいらない。ただ目の前の人間とちゃんと向き合うことだ。

自分自身に、ちゃんと、向き合うことだ。

泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク1)

高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク2)

富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導otonone-オトノネ-(リンク3)

暗記をせずに難関大学に合格したい人のための個別指導学習塾otonone-オトノネ-(リンク4)

富山県高岡市の家庭教師おとのねさんは登校拒否、不登校、成績不振で困っている小学生・中学生・高校生に向き合います。(リンク5)

保育士試験に合格するための筆記、実技、過去問の使い方、勉強法を教えます。(リンク6)

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