音の音(オトノネ)

この写真をみてふとああ、だいぶそっちの感覚と離れてしまったなとおもう。

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この写真の中で、風景の中で、曲が始まる前、誰か一人が歌を歌い出したとしよう。
木遣りのように長く長く、遠くへ、心を渡り響かせる、声。

空にしみ、雲にしみ、人の心にも染み込んでいく。
歌い手は感情を揺さぶられる。

揺さぶられ続ければ、自分の声をコントロールできなくなる。(歌うというのは、他の創造的知的活動がそうであるように、とてつもなく感情的で、理知的な活動だ)

もしそこに、歌詞がなければ、歌は続かなくなってしまうかもしれない。
感情がこみ上げて来て、言葉を失えば、それは慟哭、叫びになる。

歌詞はそれを整える。
整えて、道をつくり、声を導く。

規制、不自由、制約、決められたなにがしかによって、振る舞える自由がある。

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言葉の音は、決められているかもしれない(朝起きれば、おはようということになっている)。
けどそれを歌う歌い手の声、言葉の音の響き、音の音は、心を映し出していて、言葉の意味を超えて、いろんなものを伝えてくれる(今年はこんなことがありました。という心の反芻や、こんなことがありますようにと、心の祈りが伝わるかもしれない)。

人の心を表すのは、音ではなく、オトノネ。
オトノネに、耳を傾けてみませんか。

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批判とは何か。その2

例えば「国会議員の給料が高すぎる」ことを批判する(問うてみる)としてみよう。
なぜ給料が高いのか?それはさておき。給料の高さが維持されるのはどうしてだろう?
給料体系を変えるとしたら?そこには仲間の圧力がかかる。給料が低くなるのを「よし」とする良心的な国会議員は少ないという前提だ。そうすると、もし「給料を下げよう」といったら、仲間外れにされるだろう。(繰り返しになるが給料が低くなることをよしとする議員は少ない)。そうすると、自分の身が危険にさらされる。国会議員の給料が低くなると、他にどんなことが不都合になるだろうか。「おもてなし」をするしくみについていけなくなるだろう。

同じことが、僕たちにも言える。

大多数の、組織の構成員の同意がとれないと、もしくは同意がとれるようなしくみを作らないと、変化を起こすことは難しいだろう。今の給料をあてにして家のローン(借金である)を組んでいるなら、なおさらだ。

「いやでも国会議員の給料は高すぎる」としよう。けどそのために彼らは人生をかけてコネをつくり、汗を流して票を集めてきた。一生懸命になってやってきた努力は何だったのか?(議員というアイデンティティー=お金という前提で話している)。

そうした感情が、同じように、僕らにもあるはずだ。

批判は、自他共に含めた伝統、慣習、文化、「自然のなりゆき」への眼差しであって、自己変革のきっかけになる。
批判は対話であり、罵り、罵倒、悪口ではない。

批判のない世の中は、嫌味・言葉になっていない嘆き、罵りにあふれている世の中かもしれない。
そんな世の中で、耳を塞いで投票所にいかない人が増えても当たり前かもしれない。
投票率を上げたいなら?

批判(対話)ができるまで自己認識を高めるのがいい。

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自己批判が、自己否定になるケースもある。(自分に対する罵り・罵倒)。元気なくなるわ・・・
世の中でもうどうしていいかわらかないでぐるぐるしているお母さんとかいないだろうか。

自己批判は自己対話である。自己否定ではなく、自己肯定にしよう。
そうした態度で自分が安定してこそ、「振り返って母親の目をみて安心してハイハイを続ける」子供のように、前に踏み出せるもののように僕はおもう。

批判者の声に耳を傾けよう。

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誰かが舞台の前で発表をする。
それについての質疑応答の時間がある。

これは何の時間か。
発表者の立場に自分を置いてみて、自分を発表者に見立てて、自己内対話を他者と行うということだ。
「こういうことだったけど、こういうのはどうなの?」とか。
「ここらへんの説明、わからなかったけど、気になったからもう少し知りたい」とか。
「どんな気持ちでこんな発表をしたんだろう。きになる」とか。

それは問いかけであり、批判でもある(批判という言葉はかなり誤解されているが仕方ない。それが日本の文化だ)。

他者を自己に「みたてる」のが、この質疑応答時間だ。
自己を他者に「みたてる」としてもいい。(小さい頃からそんな遊びをしていただろうか)
他者を理解するために、問い合わせをすることだ。(もちろん批判という言葉は、単なる問い合わせ以上の強い要求を表す響きをもっていうけれど)

これって、普段している対話と同じじゃないか!?

もし誰かの話を聞いて、それが正しいか間違っているかを「私の判断’で「決めつける」のは批判ではない。
順序立てて説明して「私の正しさ」を立証することは批判ではない。

もし自分と相手が違う考えをもっているなら「どうしてそんな考えができたんだろう?どんな状況に相手は置かれているんだろう?どうしてこの人は、こんなことをいうんだろう?」と疑問を持つこと。

それが批判的精神であって、他者理解の欲求であり、多くの共感能力・間主観性をもっていなければただの「打ち負かし」になりかねない、心のあり方だと僕は思っている。

だから僕は批判する。
学校も保育園も大変だ。家庭も大変だ。
しくみや文化とどうやって向き合ったらいいのかな?
どうにかして最適化できないのかな?(最適化の方法はひとりひとり違いすぎて泣ける)
逃げてもいい、休んでもいい、というのも批判者の声。批判者は、結構やさしい顔をしているかもしれない。
(批判者は声を聞いてくれなくてストレスがたまって抑圧されると鬼のような顔になって「僕の話をどうして聞いてくれないの??」と癇癪を起こす場合があります。日本でのイメージはこちらでしょう)

それを手伝うのがオトノネの仕事だ。(ひとりひとり違いすぎるから泣ける)
批判者は変化を起こすものであり、道を指し示す人でもあり、現状を観察する人でもあり、決して、否定する人ではない。

「これでしばらくいけそうです。やってみます」という言葉を生徒から、お母さんから聞けることを、おとのねさんは喜ばしくおもっています。

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速すぎる時代で、役割を見失わないように。

おとのねさんはその時代の先を行こうとしているが笑

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人間は環境に適応するために、そして自然に暮らすために、文化をつくりあげた。
よりしあわせに、より安定して暮らすための知恵が、ルールであり、制度であった。

その制度が、文化が、知恵が、追いついていない。
時代が動きすぎている。
多くの人が、時代に飲まれながら、神にもすがるおもいで暮らしている人さえいる。

巨大な組織はそのスピードについていけない。
保育園では保育士の叫び声で満たされ、学校は教員の叱責と罰の呪力で縛られている。

大学でも時代をさらに突き動かすテクノロジー・理系の研究には予算が分配され、肝心の人間の生活、感覚、心を守るための研究がなおざりになっている。

よりしあわせに、より安定して暮らすための知恵が、ルールであり、文化であった。
かつて役に立っていた価値観・ツールが今の時代では、逆に不安を引き起こした。
多くの人が、困っている。(困ることすらできずに神にすがる人もいる)
伝統が、新しい時代の足枷になっていないか。
新しいなにかを学びとったら、もっと楽に生きられないか。

新しい時代でどう生きたらいいのか?
それを学ぶにはあまりにも時間がかかり、あまりにも膨大なエネルギーが必要になるようだ。
だから一部の学びのプロフェッショナルが学び、多くの人がその成果を享受して時代に合わせてしあわせに生きる仕組みが必要なのだ。が、研究機関が麻痺しているこの時代、リーダー不在のこの時代、人と人がしあわせのために繋がれなくなった。

役割分担ができなくなった。
が、役割分担をするだけでだいぶ楽になるはずだ。

僕ができることは僕がやって。
僕ができないことは、誰かにやってもらって、バランスをとろう。

お母さんには、お母さんにしかできないことを。
お母さんが頑張っている一部を、オトノネが担ったらいい。
お母さんは世界に一人だけだ。
お母さんにはお母さんにしかできないことがある。

一人で全部やろうとする習慣を、どこかで身につけていく。
(部活も宿題も習い事も学校も受験も全部・・・)
子どももお母さんも、無理しすぎなんじゃないか?

なんちゃって。

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いろんな人に助けてもらいながら、僕が踏み出したことのない一歩を踏み出そう。
世の中の流れに飲み込まれず、自分をコントロールするには、やっぱり誰かの助けが必要だと、改めて感じている。

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『ヨーガ療法ダルシャナ』メモ

ヨーガ療法ダルシャナ (伝統的ヨーガにもとづくヨーガ療法標準テキスト)
『ヨーガ療法ダルシャナ (伝統的ヨーガにもとづくヨーガ療法標準テキスト)』

だいたいが、僕が今まで学んできた臨床心理の知識で言い換えができる概念。
卓見は、ヨーガには二種類あるということ。

ハタ・ヨーガ 身体的・容姿・健康
ラージャ・ヨーガ 心の修行

フィットネスクラブでやっているのは、ハタ・ヨーガ。
それが基礎になって、心と体のバランスをとるために、ラージャ・ヨーガがある。
いわゆるマインドフルネスは、呼吸法、観察といった静観の姿勢という点で、ハタ・ヨーガに近い気がする。
現代心理学では、マインドフルネスの次の段階として認知行動療法がある。
いわゆるスキーマの修正だ。

悪循環を断つ、神経回路を変えるために、ラージャヨーガがある。
いわゆるマッサージはその場だけの癒し、定期テスト対策。
もちろんそれは心を守るために大切なことかもしれない。
けど、自分で自分をコントロールして「健康な状態」になるためには、心が学ぶといいんだろう。

「こういう効果があるよー」というメソッドではなく、知恵の部分だ。
学びのヨーガ。ラージャ・ヨーガ

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メモ

無知さ、理智の誤り、無常なるものを常なるものと錯覚

意識髄 顕在的に「今ここ」に「わたし」がいるところ。
理智髄 理智の修正 愛着・憎悪・善悪などのこだわり、執着。認知(スキーマ)の歪み(文化的・社会的につくられる)。不安が生み出される場所。

観喜髄 記憶の修正

理智との対話・客観視
未来は憶測・過去の繰り返し。ファンタジーは創造的・わくわく・未知。

①無智
②自我意識
③欲しがる心
④避ける心

問題の共有
ニーズ把握
インフォームドコンセント(目標の一致)
 自分のチカラ・強みを知る。新しい自己像をつくる。ストレスマネージメント。暴走する思考・意識のスローダウン・身体と心のバランス。セルフコントロール力。自立する。個別化する。関係性の修正(家庭・学校・地域)人生の意味づけは自分でする。自分の人生をつくる。(本当の「宿題」)

理智の修正プロセス
 やってみる(結果が出る)→結果の客観的解釈(言語的介入)→自己洞察(自覚)→代替案形成〈シュミレート〉
 本人が扱える課題に微小化する。積み重ねる。
 自分との、他者(学校・家族・地域など)との関係の結び直し。

 知識としての理智のしくみ
  怒りは与えられるのではなく、心の仕組みが作り出すもの。状況に対する反応であり、無意識の解釈。
  「こだわり」が喜びになるか、苦しみになるか。

 知識→体験(知識の修正)→知恵(体験の言語化・知識の身体化)

ハタ・ヨーガ 身体的・容姿・健康
ラージャ・ヨーガ 心の修行

不安を一人でなんとかするのは、きつい。

解決構成モデル
 問題には直接取り組まない。望ましい未来をつくることに、心的エネルギーを注ぐ。そのプロセスで、癒し・発見・洞察がある。流れていく川を遡らず、先に先に進みながら、オールの漕ぎ方をうまくしていく。

ブリーフセラピー
 うまくいったら?・一度でもうまくいった?・うまくいかなかった?

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善性優位7種
制感・凝念・禅那

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批判とは何か。

critic cri- 決定的な・判断する
crisisは決定的な出来事のこと

ゲームでよくいう「クリティカルヒット!」というのと同じ。

 批判とは、理性的な営みのことである。
 批判とは、決定的に、それによって人生に大きな力が加わる事態を生み出す、恐ろしいものでもある。

 批判ができる人間がどれだけいるか。
 

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 批判とは、つまるところ自己批判であり、大変危ないものだ。
 相手に言っていることは、すなわち自分に対する問いかけにもなる。
 「振り返る」「負のスパイラル」から抜け出すために自己批判が大変役立つ時がある。
 それは学びであり、教育である。
 批判は「問いかける」ことを表す一つの言葉であり、辛辣な響きがする、強い会話形式のひとつである。
 議論、討論、弁論、異質な価値観をもった人たちとの会話に不慣れな人にとっては、攻撃に聞こえるだろう。

 自己に対する批判を抜きにして、他者批判は成り立たない。

 「働く」ことを批判してみよう。
 働きすぎて、見えなくなっている、聞こえなくなっている声はないか。
 聞こえないように、見えないように、働き続けてはいないか。
 大切なものを、忘れていないか。

 批判というのは、判断することであり、判断とは「分ける」ことである。(鋭利な刃物で半分に分ける)
 新聞を批判的にみなければ、テレビを批判的に見なければ、情報に騙されて生き続けることになる。

 批判とは、情報リテラシーの一部であり、新しい時代をしあわせに生きるのに、必要なスキルだ。
 古い時代を生き続けたいなら、批判も、リテラシーも、必要ない。

 例えば、「森を守らなくては。木を植えなければ。木を切ってはいけない」という人がいたとしよう。
 日本にたくさん生えている人工林のスギやヒノキはもともと、戦後に家を建てるための資材として植えられたものだ。(日本にもともとあった雑木林、広葉樹林は切られた)スギの山・ヒノキの山は「古い時代」の人の願いであり、祈りであった。そして輸入材で資材が賄われるようになると、価格で負けて、日本の山は使われずに、荒れた。

 新しい時代の人が、今この時代に、古い時代の人たちの祈りをどう受け止め、変えていくのか。
 これも、問いかけであり、批判といえるものだと思うのは僕だけだろうか。

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天然の人間とは?

もしお店で「天然ものの人間だよ!」と売り出されている「人」がいると想像してみた。
それはどんな人間だろう?「地場産」の人間が売られているとしたら?どんな人が買うだろう。「グローバル」な人を買う人もいる。誰に買ってもらうのか。薬漬けで育った人もいる。過保護で育った人もいる。笑顔いっぱいで育った人もいる。野に咲く花のように育った人もいる。親の不安を一身に注がれて育った人もいる。

自分を自分でどう売り出すか。
誰に売るか。

商品としての自分の価値を、誰かに与えられるだけでなく、最後は自分でつくらなくてはいけない。
自分で価値を創造することが、能動的に、自由に、しあわせに生きるひとつのやり方だとおもう。

つくりつづける人、学び続ける人を、オトノネは応援したい。

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学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。

子どもは学校でたくさんのことを学べる。

学ぶスキルさえあれば。

めいいっぱい、学ぶことができる。
与えられた宿題をズルすること。

アウシュビッツでも、学ぶことができる。
与えられた労働をズルすること。

学ぶスキルさえあれば。

ズルも、美徳だ笑

大人もたくさんズルをしている。
社長だけお金を稼いで、雇用者は生活保護レベルの福祉業界。
これは、ズルじゃないのか?

ズルは、戦略だ。

オトノネは、学びのスキルを重視しています。

学びのスキルを使って、学校をやめることもできる。
学ぶことは、生きることだから。
学びを実践するために、学校をやめてもいい。
生きるために、学校に行かなくてもいい。

その積極的自己責任を負えるならば。

大丈夫、実験し、失敗や間違いだったとしても、本気でやることのすべては、君のチカラになる。

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『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』の著者は、大学を中退した。
著書を書きながら、ふと振り返って、当時大学を辞めることを決意しながら書いた手紙を見つけ出したという。

人生を変える決意をしている18歳の人間はこの世で最も昂ぶった生き物だ。しかし手紙が見つかってよかったことは嬉しかった。一瞬、この青春真っ只中の書き振りには耐えられないとおもったが、葛藤に満ちた若い日の自分におおいに同情を覚えたことも確かだった。(p.263)

そうして、文字通りの、アメリカを半分くらい横断する自転車の旅に出た。

「教育ゲーム」をやめて、最初ー今の自分ーからやり直した。

それから転々とキャリアを変えてゆきながら、「今回わたしがはじめた奇妙な冒険は、国の半分を横断する自転車旅行ではなかった。本を書くことだった。それがこの本だ」と、この本で書いている。

逆境はチカラになる。
転んでも一人で起きられる。
失敗は、なんとかできる。

失敗から学ぶ方法を教える先生が、自分自身のなかにできた子は、一流の学習者だと、僕はおもう。

失敗していい。
じゃぁ次どうするか、オトノネで考えてもいい。

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【集中力】って何?

集中するとは?
多幸感、充足感の中で、
自由を祝福することである。

集中しているとは?
一つの行為を、次の一手を、次の思考を、次の一歩を、全身全霊を込めて、打つこと。
その瞬間を生き抜いていること。
今その場にいる最良の自分を感じていること。

集中力とは?
世の中に必要ない言葉である。

お勉強に集中できない!で悩んでいる人がいたら、こうアドヴァイスしてあげたらどうだろう。

「今君が取り組んでいることは、君が集中できない類の、君にとって価値のないものなんだよ。しかたないよ。しあわせなんて、そう簡単に口にだせるもんじゃないんだから」

お手軽に集中したいなんて、まさか、誰もおもっているまい。

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心療内科に行く前に:医療の現場も【テスト対策】!?その薬、飲んで大丈夫?

こういう話を聞いて、怒りを感じてしまう。
けど怒っても、何もいいことがない。。。。
別のチカラにしよう。

だからぼくはオトノネをはじめたのかな。

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ある子が。

ある子が。

心身症で困っている。

その子は、薬を飲んでいる。
医者にかかって、薬を処方してもらえる。

テスト対策のように、その場で、手軽に、症状をなんとかしようとしたい気持ちはわかる。

けどその副作用の甚大さと、「症状」がでてくる心のしくみの深さを考えれば。

心身症を薬でなんとかしようというのは、よほどの決断でなければできない、とぼくはおもう。

副作用によって、大切な心を自分で守っていくチカラが奪われる可能性がある。
副作用で「別の体調不良」になり、それをさらに調整する元気も心にないとしたら。。悪循環だ。
そのリスクを背負ってまで、薬を処方する、薬を飲む価値があるのか(もちろん、危機的状況を脱するために、飲むこともあるかもしれないが、常用するのは。。。)。

クスリで活かされる魂もあれば、クスリで殺される魂もある。

結局、心次第。

学校教員が宗教団体で救いを求める時代、クスリなしでは生きていけない日常だとしたら、どんなにそれが不健康な状態なのか。

どうしたらいいのか。

その答えとして「クスリ」を安易に選んではいないか。

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短期的な救いのために、必要な応急処置があります。
例えば発展途上国で食糧難に陥っている人にとって、とにかくすぐに食料を渡すことが必要です。
一方で、持続的に、自給的に食料を手に入れられるようになる仕組みは?時間がかかります。ですが、自立して、自分の力で
短期的な食料供給(定期テスト対策)に頼らずに自分で自分の身を守るライフライン(恒久的な自己管理システム)をつくることが、オトノネの仕事です。

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医者は心身症を、心を理解しているんだろうか?
医者も点数稼ぎで忙しくて、心をみる余裕がないんだろうか。

体が出している自然な痛み、問いかけを受け取らずに、薬で抑圧していいのか。
抑圧しなくては生きられない心と体。
生きるってそんなもんだっけ。
痛みは、身体からの、無意識からの、心からのメッセージであって、別に薬を飲むことが悪いことではない。
そのメッセージを受け取った上で、「じゃぁ、ちょっと今は、待って。準備ができたら、君を救いにゆくよ、準備ができたら」といえるか。

そのうち良くなるさ、と受け身になっていないか。
仕方がないんだ、と諦めていないか。

学校の先生は学校の先生という立場でやらなきゃいけない業務がある。
医者先生も医者という立場上、何かしないとその後クレームが来るかもという不安もある。
それぞれが、お互いの都合で関係し合っている。

お互いの都合でだ。
だから自分の都合を、自分の目線で考えられるように、学ばなくてはいけない。
積極的自己責任を負うために。

学ぶとは、他人の都合と折り合いをつけながら(尊重しながら)、自分の人生を自分の都合で自分が生きるということかもしれない。
「先生、お言葉ですが、私はコレコレこういう理由で、このようにします」と言えばいい。

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知っている、知識としてもっていることの大切さを感じる。
と同時に、正しい知識を医者先生すらもっていないことに違和感を感じる。

アレルギーで苦しんでいる人がアレルギーに効く薬の副作用で悩んでいる。
ガンで苦しんでいる人が抗がん剤を飲んで悩んでいる。

薬をやめて食生活、運動、健康を総合的に見直すだけでアレルギーと付き合えるようになる。
薬を飲まずに、漢方にしただけで(お茶を飲んだだけで)ガンがよくなる。

そういう事実を、真実をしらずに、テスト対策でことを済ませてしまって、大丈夫だろうか。

あれ?これちがうんじゃない?と「違和感」を感じたら、学び始めよう。
大人も、子どもも、みな学ぶ過程にあるにんげんだとぼくは思う。

みんな生きるので精一杯。
医者先生も学校先生も、見る人の人数が多すぎて困っている。

だからオトノネは、完全個別にこだわっています。

医療に関する問題提起記事はこちら
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

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