コドモとして未成熟なオトナ

文章を書くときには、これが誰に読まれる文章なのか、わからないのが1番困る。

お母さんもいろんな状況の中にいる。
「イイ先生」に出会えなくて辛い思いをしているお母さんもいる。

こどもを苦しめているお母さんもいる。。。。
子供を苦しめていることにも気づかないお母さん。
「また怒ってしまった」といつも反省しているお母さんもいる。

いろんなお母さんがいて、ひとりひとりの気持ちも心も違う。
だからこそ、直接、話さないと、何も生まれないような気がする。

ブログに書いてもなぁ・・・・

といいながら、最近「こどもとして未成熟なおとな」という言葉を思いついたので、書き残して置こうとおもう。

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世の中の不幸を拾い集めると、大人の大人としての未熟さ、大人の子どもとしての未熟さを感じる。
僕自身も未熟さをもっている。
そんななかで学ぶ人、気づく人、と学ばない人、気づかない人がいる。
魔王もいる笑

たとえば「こどもとして未成熟」であれば、大人は無条件で愛されたかったという願望を、もしくはもっと別の人生を歩みたかったという願望を子供にぶつけているかもしれません。

たとえば「おとなとして未成熟」であれば、今この世のなかのメディアが流す、もしくは巷で流されている情報を丸呑みにしてしまって子供に無駄な、理不尽なプレッシャーを与えているかもしれません。

この両方が、混ざっていることもあります。

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そんなとき、子どもは、「沈黙」や「暴力(いじめを含む)」や「小さなガンジー」になって、お母さんに訴えるかもしれません。
小さなガンジーとは?

お母さんが大切にできなかったこと、お母さんが忘れていたこと、我慢してきたことを、子どもは教えてくれます。
将来への不安も、誰かへの怒りも、誰からも認められないというわだかまりも、もしかしたら、結婚を通じて感じている、パートナーへの不信感も。。。。子どもは僕らに伝えてくれています。言葉でなくても、行動でも。(お母さんは、なんとか大丈夫だったことでも、子どもはまだ、大丈夫にできるまで心のしくみができていないのです)

お母さんよりも、より繊細になっているかもしれません。

例えば、お母さんのその行為は、学校のためなのか、学校の先生のためなのか、自分のためなのか、それとも親のためなのか、ママ友のためなのか、果たして、よくわからない、ありもしない将来のためなのか・・・(結局それは誰のための将来なのか)

ということを、こどもはおそらく感じているのです。

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お父さんなら、小さい頃から親にコントロールされて育ったため、大人になっても殴ったり蹴ったり、言葉を荒げて命令口調になるという、自分がやられたことを繰り返してしまうこともあります。自分がたくさん要求されて来た過去を、子どもにも繰り返すという状況は、よくあることです。

おそらく会社でもこき使われたり、感情を押し殺したりして、ストレスが溜まっているかもしれません。
お父さんはお父さんで、自分のケジメをつけられていないかもしれません。
それは大人として、というより、大人の「子どもとしての未成熟さ」と呼べるものだとおもいます。


大人の(大人としての、もしくは子どもとしての)未成熟な心を、子どもは写し返してくれます。

(未熟な大人が作った社会で、子どもたちは暮らしています。「成熟した大人」の知恵はすでに崩壊しています。)

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例えば、恋愛の時から、「未成熟さ」をほとんど誰もがもっている、と考えていいかもしれません。

価値がない自分だから、、、頼られたい。
そうやって始めた恋愛で子どもが生まれて、子どもを甘やかして(頼らせて)しまう人がいるかもしれません。

とにかく認めて欲しい・・・
そうやって恋愛を重ねながら、つぎつぎと男女関係を変えていく人もいます。

傷ついてしまうから、関係を作るのが怖い・・・という人もいるでしょう。

パートナーとの関係の悪さを、子供にぶつけてしまう・・・という人もいるでしょう。

いろいろありすぎて書ききれません笑

恋愛中は気づかなくても、結婚してから気づくこともあるでしょう。

いつもぐるぐる、何度も同じ場所を、過去を繰り返している、、、と気づくかもしれません。
「ああ、またやってしまった・・・・」

何をしても、何度繰り返しても・・・

やっぱり、一人では、ムズカシイのです。
ここが辛いところです。

何かの、誰かの、助けがないと、なかなか、うまくいかないものです。
パートナーと、お互いのそうしたうまくいかないことを励まし合いながら、認め合いながら、少しずつ、何か、何か!変化する日常を作り出せるなら、しあわせです。
だから子どもといるお母さんは、しあわせなのだと僕はおもいます。
子供から、いろんなチカラをもらえるのですから。。

例えば、感じている怒りを遊びのなかで、もしくは絵や音楽の中で表現する子もいます。
遊びの中で、芸術の中で体を使って懸命に外に出そうとします。
素晴らしいことではないですか?
大人が表現できないことでも、子供は表現できるのです。

溜まっていたものを出す。
出したものを、誰かに見せる。言葉を使ってもいい。体を使ってもいい。
それだけでも、プロセスは動き始めます。

それを受け取る大人の準備ができていれば、そのプロセスはよりはっきり、強く、動いて行くでしょう。

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「小さなガンジー」もそうです。
学校に行かない、というだけで、新しいプロセスは動き始めます。
ただただ息を殺して学校に行ったらただただ抑圧される感情を、別のエネルギーに変えることができれば、心は息を吹き替えすかもしれません。(そこで孤独になってしまう子が多い、子どもと子どもが出会う場所が学校の外にあまりない、というのが、未成熟な大人の作り出したこの日本の社会です。子育ては一人でするものではありませんから。)

それを受け取る大人の準備ができていれば、そのプロセスはよりはっきり、強く、動いて行くでしょう。


大抵の大人は、大人としての、もしくは子どもとしての自分の未成熟さを、認められない。

気づけない。
どうしたらいいか、わからない。

そうすると、プロセスが止まってしまいます。
成長できなくなってしまいます。

子どもが変わるよりも、大人が変わった方が、より多くの場合、子どもにとってよい影響を与えます。大人は子供の大切な、環境の一部ですから。だから大人が変わると子どもも変わります。オトノネでは、子どもとオトノネの関わり合いを通じて、子供の成長をみて、大人が学んでいくようです(それに気づけないお母さんも、もちろんいますが)。そうしてイイ循環が生まれたら、もうオトノネ卒業です笑ホースセラピーとかドルフィンセラピーとかドッグセラピーとかあるから、チャイルドセラピーがあってもいいのかもしれませんね。

子どもが問題ではなく、
お父さんやお母さんの不安が問題なのかもしれません。

やり残した宿題に、お子さんと一緒に、オトノネで取り組んでみませんか。

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こどもは自立する心を、生まれた時からもっている。
それを感じられれば、いいのだと、僕はおもっています。

どれだけ心配しても、障害を取り除こうとしても、予測のできないことは起きて来ます。
その全てに保険をかけることはできませんから。。。。

目の前で成長していくこどもを、今ここで、強くしていく。
親が将来が不安だから、、、、子供に○○させる、では殺されてしまう心があります。
それも、こどもの発達段階に応じて、大きく変わっていくものです。

今、伸びようとしている、輝こうとしている命を大切にする。
それがオトノネのやり方です。

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こどもの成長を促すものがあって、はじめてお母さんの「お母さん」としての役割が生まれます。
こどもの成長を促すものとは?それは人であったり、環境であったりそれぞれです。

自律・自立の欲求にたいして困難に立ち向かう時に、「お母さん」の役割が生まれます。
こどもの心に生まれた感情をつまらせずに、排泄してあげる、外に出すときに「お母さん」の役割が生まれます。
健康的な探索、冒険を阻むもの(大抵大人が作り出したどうしようもないもの)からこどもの心を守る時に、「お母さん」の役割が生まれます。


よくよく考えれば、こうしてみると、「お母さん」の役割は、こどもとかかわるただの「人間」ではないか、と僕にはおもうのですが。

いかがでしょうか。

他者の情動世界に敏感性をもって共感的にかかわる方法を伝える、一番子供の近くにいる人が、一番親しい人が、お母さんだというだけではないでしょうか。
お母さんが一人で子育てする必要はないし、それはキビシイです。。

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ただ笑いながら、暮らしていきたいだけなのに、
なかなか難しいようにおもえてしまう世の中になりました。

いえい!

成熟したオトナって、どんな人なんだろう?

オトノネひろげるシェアぼたん

躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』

躾と気締めである。

しつけは身の美しさであって、けじめは気を締めること。だということにしておこう。

けじめをつけることの大切さを感じる。

自由、自由というが、そこで自分の気をコントロールできるかどうか。

たくさんあそんだ!それから次の行動に移っていく。

解放させた気を締めること。


それがケジメ。

もしくは如何にコントロールしながら、解放するか。


それがケジメ

「じぶんひとりなら」ダダ漏れしていた気を、その状況に応じて、調節すること。
それもケジメだ。
(家の外では出せない気を家の中で出していて、お母さんが怒る、という笑い話もある。外では出せないから、家の中で出しているのだ。例えばそれが「怠け癖」だとしたら・・・家の外でケジメをつけすぎていて、疲れているのかもしれない。)

気分が暗い時、暗い気持ちにけじめをつけて楽しいことをしてみること。楽しい気分でいるときに「あ、けどこれもやらなくちゃいけなかった」とか。当然といえば当然のこと。

しつけといって仕舞えば、「いい子」になることのように聞こえるが、けじめといえば「自律した子」のように聞こえる。しつけという言葉には、支配的な、文化的な響きがある。

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ケジメは、感情をコントロールすることだ。
感情をうまく使っていくことだ。

0歳の時から、このケジメは始まる。
泣いている赤ちゃんに「声をかけてから」ミルクの準備をする。
それを続けただけでも、「声をかける」ことで赤ちゃんは安心して、泣くのをやめるようになるかもしれない。
気を締める。

心は、0歳のときから、作られる。

少なくとも、感情を押しとどめる、「いい子」でいることはケジメではない。
それは気詰まりであり、息苦しさだ。(破裂するまで、しばらく辛いだろう)

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少し大きくなって、「褒める」ことばかりをしていると、何も考えない、できないと癇癪を起こす子になる。
「褒める」といいという定期テスト対策的子育てが流行っているらしいが、僕は全くオススメしない。
「与える」にしても同じだ。「なんだこんなもの」と大人が思い買って与えるだけでも、子どもにとっては「もの」ではなく、泣いたら、駄々をこねたら与えられるのだという現象を学ぶことになる。

ケジメは、いいこと、わるいことを教えることではない。
感情をコントロールできる、大丈夫だ、僕は一人でも大丈夫だ、という自立心と自信をもつこと。

これが、ケジメの目標だとおもう。

ケジメができていないと、将来どんなに生きづらくなるか。

ケジメは、押さえつけることではない。
自由を、使いこなすことだ。
自由を使いこなし、大切な人、大切なものを守るためのものだ。

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しつけという言葉は、子供をペットにしかねない。
ケジメ、という言葉をつかってほしい。

子供の気持ちを、どんなエネルギーに変えたらいいのか?
それもケジメのひとつ。

「学校でこんなことがあったの・・・」
こんなことを質問されたら、どう答えるだろうか?

まだ気が締まらない(どうやって気を整えたらいいかわからない)状況を、心が処理するしくみをつくること。
これもケジメをつけることだ。
ただただ押さえつけることではない。

「気にしなくて大丈夫だよ」というか。
「それは先生にいわないとね!」というか。
そのお母さんの言葉の感情が、その子にも伝わるだろう。

「どうしたかったの?」
「何を感じたの?」と、問いかけて、子供の頭の中で、心で、もう一度整理する時間をつくってあげることを、僕はオススメするけれど。

一人では難しい、心のプロセスを、手伝ってくれる人に出会った子どもは、しあわせだ。

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子供の未成熟さが、弱い子供、弱い大人をつくりだす。過保護が、子供を未熟にする。引きこもり、いじめ、8050問題、DVや暴力、ストーカーなどの社会現象の根源は、親の過保護にあり、親が過保護にならざるをえない社会の不安にある。人を愛せない、共感できない、相手のことを考えられないなど、多くの政治的社会的に高い地位にある大人たちも未熟な状態であるために、日本は混乱している。児童虐待もDVも不登校も、政治的な混乱もなくならないのは、過保護を引き起こす社会不安によるものだ。恥や罪の意識は子供にも伝わります。

子育ては、親育てでもあります。
子どもからたくさん学んでください。
お母さんが子供時代にやれなかった宿題を、子供にやらせずに、自分でやってみてください。
お子さんと同時に、お母さんの宿題のお手伝いも、オトノネはしたいとおもっています。
わかっているお母さんもいるとおもいます。
でもどうしていいかわからない・・・
お子さんに、お母さんやお父さんの心の未熟な部分を押し付けないですむ方法を、一緒に考えましょう。というか実践していきましょう。
怒りや不満、不安や悲しみを子供に押し付けてしまっていませんか。
僕もまだまだ未熟さをかかえたまま、前にすすんでいます。

大丈夫です。

「知る」ということだけでも変わるかもしれません。
お子さんの成長をみながら、「感じる」ことで変わるかもしれません。
そのプロセスはわかりません。
だから一緒に、はじめてみませんか。

いつまでも誰かにえらいえらいと言われていなければ心を保てない子、実力がないのに偽りの賞賛を与えられてきた子、本当の自分を隠してきた子。思春期に、悩まなかった子。悩むことを許されなかった子。自立した人間として向かい合ってくれる大人に出会えなかった子。「ノー」と言えない子。挫折・失敗に弱い子。病んだエネルギーは、誰に向かうのか?自分の心身症になる人もいれば、他者に対する暴力というかたちをとる人もいる。DVに気づかないお母さん、児童虐待に気づかないお母さんもいる。アルコール依存症、セックス依存症は、「もう自分ではどうしようもない」無気力、無力感の叫びだと、僕は思っています。

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オウム真理教を覚えていますか。
知っていますか。

「娘を教団に取られた」というお母さんが記者会見をしたときに、その娘さんが「お前たちは帰れ!私たちの邪魔をするな!」みたいなこと(すみません正確にセリフは覚えておらず、ただ自分のことを「私たち」と呼び、母を「お前たち」と呼んだということです)を言ったという。

よくある話で、教団に入って洗脳されてしまうような子に、子どもが育ったことに、お母さんが気がついていないのだ。

お母さんのせい、ではない。
といえるかもしれない。
この社会が悪いのだと。

では、子育てとはなんだろうか????

心から笑いあえる時間を大切にすること、といってもいいかもしれない。

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過保護とか、虐待とか、小さな暴力が当たり前の世の中になっている。
大人の世界がそうだから、子供の世界もそうなる。

大きくなってからの「治療法」をみると、、、やっぱり、鏡になって、向かい合ってくれるもう一人の自分との出会いなのだとおもう。(その関係が、医者とかカウンセラーでなかったのなら、一方的な関係は、続かないだろうが。。。)

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ

この本には「生まれる前から」「生まれた後も」妊娠・出産・子育ての段階でそれぞれ親の宿題に親が取り組む実践(ということは、親以外の人も取り組むということ)を書いている。
基本、話す、心から話すような状況をつくる、、ということなのだが(だいたいオトノネも同じことをしている)、話すだけに限らない。行動しながら、変わっていく。

この本は過保護だめよーというやつ。治療法とかは抽象的すぎてわかりにくい。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉の重み(俳優と演出家の役割)

演劇の話をしても、わかる人いないだろーと思いながら。

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僕はよく俳優に言うセリフがある。
(というか劇団の外、外部の劇団と仕事をするときに)

「君の体はこのセリフの重みに耐えられますか」

音楽は、その力を俳優に与えるためのものだ。言葉の重み、場面に流れている空気の重み(もしくはその色や形、人々の呼吸、心)を感じることではじめて生まれてくる響きがある。

軽くて淡く、光り輝く色をする言葉を鈍く、重々しく、そして真っ黒にして喋る俳優もいる。
それは、アカンのです。言葉のセンスがない。

重たいセリフを重たく喋れる俳優がいなければ、演出家は、「重たいセリフを軽くする」ための演出をする。
(訓練法を知っている演出家なら訓練させるが、時間がかかる)
セリフの重みを感じられないで喋れば、言葉は崩壊するからだ。そうすると舞台は崩壊する。
だから初めから、ある程度壊しておくのだと。
言葉を別様に生かすのだと。

けどそれは俳優の力量のなさによることがほとんどだ。
(そしてほとんどの俳優がこれができないがために、舞台はほとんど崩壊している。喋らないほうがいい。それでは全部ダンスにしたらどうか?ダンサーもほとんど、体が死んでいる。本当にいいダンサーは、自分の体と心をつなげている。多くのダンサーは、体を機械にしてしまったようだ)

言葉の、セリフの「あり方」を感じられないことがほとんどなのだ。
(本当に感じられるとういことは、本当にその言葉の「その通り」に話せるということだ。つまり「重たいセリフの重みを支えられる」ということだ。)

だから観客は「言葉」を味わうのではなく、「ストーリー」を楽しむことになる。
演出、設定、舞台装置、衣装・・・「言葉」は舞台の上で、観客に届くことなく、ただただ、力なく横たわっている。

それが多くの「俳優」の世界だ。
(僕が音楽に感じている魅力は、言葉の本質が、まだまだ一部の音楽には残されているからだろう)

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「お母さん、学校行きたくない」という一言はどんな響きをしているだろう。
もしかしたら、そのセリフすら、言葉すら、子どもから奪われているかもしれない。
その一言すら言えない心。

「宿題」という言葉を使う以前に、「宿題」にがんじがらめにされている身体。
「宿題」に心が開かれるわけがない。
どうしてそんな心が、歪まずに成長できるだろう?

沈黙の舞台。

言葉を使う、価値のない世界。
言葉が暴力になる世界。
(僕はあまりにも煩すぎて劇の途中で出ることが多々あった。学校にも耐えられなかった。学校に溢れている、あの公然なる暴力の世界が、日本の標準であると考えると本当によくいままでみんな生きてきたなとおもう)

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舞台音楽の作曲家とは、演出家とは、こうした「ダメな俳優」をどう「舞台」に上がらせるかに腐心する。
その限界を超えた音楽を与えたら、俳優の存在意義がなくなってしまうから。

未熟な俳優が多すぎる。
(本当は「重い言葉」はちゃんと「重く」喋ってほしいんだよ)

すべてがコマーシャリズムに吸収されて、実力のある俳優が、でてこない。
短命な、俳優。

どうか、命を粗末にしないでほしい。
命を大切にすることを、演出家は俳優たちに教えることがない。

俳優とは、子どもとは、どういう「役割」をもった人間なのか。
演出家よ、音楽家よ、大人たちよ。
まずその問いに答えよ。

大抵の俳優は、まだ世の中(演劇)のことをしらないのだ。
知らない言葉を語るなどできない。
知らない言葉の響きを知らないなら、できない。

「君の心はこのセリフの響きをつくりだせますか」

それこそ、舞台の上でなにをするか、なにができるか、ではなく、
俳優という存在がどのようにして「ある」のかを見られている。

一生懸命演じるのはいい。
けどそれで、観客に媚びへつらうのではいけない。
媚びへつらう、心の「あり方」が伝わってしまう。
(その点、みんなで踊る群舞の伝統は、もともと遊女がお客をとるために編み出されたもので、よくよく伝統を受け継いだグループが、現代でも活躍中である。ちなみに、映画というものの多くは、俳優が空間、時間を意識しなくとも「編集」によってうまくみせられるようにできている。力量のない俳優でも映画に出て、商業として成り立つのはそのためだ。文字通り「売れる」のである。というか、そういう、カメラやマイクがなければ成立しない、生身の声や体を使えない小手先の「定期テスト対策」的な俳優が増えてくる。まぁそういう生き方も、あるのだが。。。)

言葉は心。
心は言葉。

体が開かれていなければ、心も開かれない、かもしれない。
もし学校の中でガチガチになってしまった心があるなら、離れてみるといい。
自分の心がちゃんと「ある」のだと、確かめられる、感じられるようになったらいい。

学校でも平気!になるための強い心、強い体をつくるためには、まず、自分の心が体とつながっていて、体はこの世界とつながっていて、学校の「日常」で埋もれた心からは出てこない言葉が、体が、心が自分の中にあることを、感じて見たらいい。そしてそれらを、強めていったらいい。心をシステムを、楽器を、作り出していくことだ。(音を増幅させる仕組みが、楽器には施されている)

それが大切な学びだと、僕はおもう。

ーーーーー

ーーーーー

日本のとある演出家は、「重たい言葉を支える身体」をつくるトレーニング方法を生み出した。
その結果どうなったか?

ちょっと昔に、その演劇を見にいって直接感じたこと。
俳優のひとりひとりが、死んでいたことである。

俳優として、作品の上で与えられた役割をこなしたかもしれない。
ただその後、舞台から降りた俳優に、「人間として」言葉をかけたいと思えなかったのだ。

俳優は人にあらず、という言葉がある。
人にあらず、だがしかし、
憂う人でもある。(優れた人とは、憂う人なのだ!!?)

こうした俳優の両面性が削り取られた、黒一色の影が、舞台の上で動き回っていた。

「自分の声」を失った世界で、ただ何かの音が、耳元でざわついていた。

心を舞台の袖に、置いてきたのだろうか?
(俳優が舞台に載せられなかった心を補うように、この演出家は文章を書き、評論を書いているようにおもう)

「人間」という言葉の重みは、日に日に、重くなる。

俳優は人間の専門家であり、演出家は俳優を育てる専門家である。

俳優は演出家から学んだことを、今度は、観客に向かって伝えるわけだ。
だから俳優は、観客が人間を学ぶ先生でもある。

ーーーーー

人間を育てる意思のない社会で、演劇が衰退していくのも、当然といっちゃ当然だ。
俳優も演出家も、社会の中で生きているのだから。
演出家も俳優を、手駒として使う。
会社の社長も、社員を、、学校も、先生を・・・・
これが当たり前の人間関係として、普通のこと、になってしまった。
病院に行く医者と患者の関係、学校の先生と生徒の関係、会社の上司と部下の関係、、、

たいていの場合、人間らしさが、欠如している。

その中で、人間でありつづけようとする意志が、試されている気がする。

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駄文が続いてしまうが。

演劇の伝統といえば、日本には歌舞伎というものがある。
歌舞伎は昨日あった事件を1週間後には公演、みたいにして俳優のアドリブで成り立っていたようなところがある。
言葉が出てくる「基礎」になる身体、そして、心が出来上がっているから、あとは言葉を放つだけなのだった。

それは過去の話だ。
今の歌舞伎は?(博物館のショーケースの向こう側にいる感じだろう。実際、海外に「伝統」という商品を売る時のパッケージのひとつである。あ、ちなみに、地の文が、なんていうんだっけ、、舞台で動く俳優でなくて音曲専門の人たちが歌って、その音楽にのっかって俳優が動く、という形式は多分、浄瑠璃の影響を受けているんじゃないかと思う。ただの憶測だけどどうなんだろう。歌舞伎と浄瑠璃はライバルだったからね。たぶん、いろいろ学び合っていたのかな。)

僕らのチカラの一部であった「日本」は、すでに横たわって、死んでしまった。
今目の前にいて、不気味に振り返り、こちらを見ているのは、一体何者なのだろうか。

「君の名前は?」
「僕の名前は、○○だよ」

問:○○に入る言葉はなぁに?(二文字でなくてもいいです笑)

オトノネひろげるシェアぼたん

いつまでたっても、小学生。

とある本にこんなことが書いてあった。
ちなみにこの著者は、小学校で国語を専門にしている先生。
今はもう小学校で仕事はしていないようだけど・・・

教師は手綱を放してはならない。

子供が自主的に目当てを持ち、学習の計画を立て、実践し、その当否を検討確認し、学び方を身につけていく…。そんな子ども任せの授業論は、机上の空論に過ぎません。自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。私の授業では子どもが発言をするのではなく、発言させられるーつまり、発言しないわけにはいかない場に子供を追い込んでしまうのです。たとえば、「この意見は正しいと思うか、違うと思うか」いずれかを選ばざるを得ない状況をつくる。そうしてすべての子どもに自分なりの答えを選択さえ、あらためて「なぜそう思ったのか」を考えさせる、これが私のやり方です。

野口流 授業の作法

学ばねば、やってみなければ、わからないことがある。それを教えるのだと。
(この文章は「自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。」という、放任型の手抜き授業をする教師への言葉ともとれる)
なるほど。
その点、この本の著者である小学校教育では、たしかに手綱を離さない授業が、必要になるのかもしれない。
手綱というのは、知性を司る人間の、知性を働かせるための操縦法をいうのだと僕は思った。

管理、という意味ではない。

小学校が終わり、中学校に入ると子どもの世界が広がる。
人間を、大きな社会の中で捉えられるようになる。

そうすると、授業の教材がかわる。
教材が変わると、また大人の「手助け」が必要になる。
そうして、手綱は、ずっと、弛まない・・・のだろうか?

例えば、小六であれば、小学校の総決算として、小学6年生として自律的に授業を進められるのではないか。
どうだろう。
ずっと先生が、手綱を引かなくてはいけないのだろうか。

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生徒自身がメタスキルを使って、自分の興味関心・自分の道を深めていくプロセスは、いつ始まるのだろうか?
大人になってから急に「自分1人」になって、誰の助けも借りられずにサポステにいく高学歴の子どもが多い(もちろんサポステはその情報を出しませんが)。

人生そのものが、長い長い学びのプロセスだと言えば、別に学校なんて小さな出来事だということもできるんだけれど。

個別化はいつはじまるのだろうか???
おそらくそれは、学校教育ではない。
現代日本の学校教育に、個別化は望めない。

ーーー

別の国では○○プランとかいって、生徒の主体性・自主性を重んじた「プロジェクト」という学び方を採用している。
イエナプラン・ドルトンプラン・もしくはモンテッソーリとか。。。

ーーー

子どものときにメタスキル を、言葉のチカラをつけずに、大人になった子どもが、どんな生き方をするんだろう。

子ども「わかりません」
先生「じゃぁ他の人」

で進んでいく授業で、子どもは何を学ぶのだろう。
それこそ無気力を学ぶのではないか、心配している。

学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?

学校で、家で、小さい時に満たされなかった心を、大人になってから、DVやらモラハラ、パワハラ、もしくはドロドロのポジションの奪い合いの競争の中で満たしていく。それが現実ではないのか。

宿題をしてこない、課題を出さない、で叱責する自称進学高校の先生たち。
小学生か。
親を味方につけたり、罰を与えて、なんとか宿題、課題を出させようとする先生たち。
園児か。

周囲の考え方に合わせたり、機転を利かせる優等生がいる。
一方で、いつもギリギリの場所で、自分をみつめ、自分の感情を大切にしながら他者と関わろうとする子どももいる。(いわゆる「問題児」と学校で呼ばれる子)

こうしたいろんなタイプの子が集まってつくりあげる社会をつくるための「しくみ」を学ぶことが、大切なのだとおもうのだが。
学校では前者が善とされ、後者は排除されるか、隠されてしまう。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

なんて貧しい国なんだろう。

オトノネは、個別化を大切にしています。
オトノネは、個別化していく子どもたちが、お互いに学び合うことを、大切にしています。

オトノネひろげるシェアぼたん

親に「安心」を売る塾という名の魔王

あくまで、多くのお父さんお母さんの状況を僕が察しているわけでして。
オトノネのブログファンの方にはあまり新しい内容はないとおもいながら。

「じゃぁそもそも誰のために、この記事を書いているんだ?届けたい人に、届いて居ないじゃないか」と、
新年早々鬱々としているおとのねさんです。

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塾とは何か。

優れた塾とは何か。

優れた塾とは「親に」より便利でよりお手軽によりたくさんの安心感を提供する塾のこと。
このために合格実績やらさまざまに細分化されたコースを用意したり、「偏差値30から!」とか、「発達障害のお子さんのためのシステム」とか、送迎サービスを売ったりする。宗教とあまり変わらない。テレビのショッピング番組と変わらない。
(だからオトノネは塾ではありません。オトノネです。)

そうして子どもを塾に通わせながら、親は「安心」というサービスをうける。
子どもの学びではない(そうでなかったらなぜ何ヶ月も、何年も、子どもが学べて居ない塾に通わせることができるんだろう?)。
それが洗脳であっても、「行かないとお母さんが困るから(富山高校生の言葉)」という子どもの親への気遣いであっても。

「安心」したいという不安はどこからきているのか?
不安な世の中、こんな恐ろしいお母さんもいるという。

実際、こういうお母さんがたくさんいる。
東大京大早慶でなかったとしても、「学校の定期テスト」レベルでやきもきしているお母さん。
「定期テスト対策」をさせているお母さんが多い。
「大学受験対策」を、小さい時に、頭を撫でながら行なっていく、こんな長期間にわたる「対策」で心が死ななかった子どもがいたら奇跡だ(もし、子どもに思春期すら許されなかったのなら、、、)。

それだけこの世のなかには不安が、魔王がチカラをもっている。
医療もそうだ。
宗教もそうだ。
教育もそうだ。
福祉もそうか?
政治なんてまさにそうだ。
頭をおかしくする、健康にならない、薬漬けにする、やたらレントゲンを撮りたがる医者(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
心を救う以上に、心に巣食う宗教(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
生徒の学びよりも自己保身にまわる学校(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
福祉ではなく福死の現場(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。
倫理も論理もあったものではない政治(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)

不安が、魔王が、そこら中にいる。
悪霊に満ちている。
平和どころではない。

だから、「不安」を金儲けにする、「安心」を売るサービスが増える。
それは本来、教育業ではない。キャバクラやホストクラブと同じだ(実際、キャバクラ化・ホストクラブ化している学習塾・予備校の状況を、目の当たりにしてきたから言える)。「こんなコースをとったら?」「増やしたら?」「夏期講習だよ!」「ドンペリ開ける?」笑

いやべつにいいんだけどさ。。。
塾で出会う先生が、一体どんな先生か。
それで塾がキャバクラ・ホストクラブになるか、USJになるか、それとも人間としていろんな成長ができる場所になるかが決まってくる。

結局、塾のシステムでも合格実績でもなく、先生選びが大切。

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シューベルトの『魔王』

僕が中学校時代に出会って、譜面も読めないが全て友達の力を借りて弾いていた曲。
今日、ラジオ番組で流れていて、ああ、そういうテーマとして読み替えられるんだなと感じた。
芸術の力を、僕はうまくつかえていないようだ。

すでに子供は、魔王の手の中にある。
子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
子どもは小さく、親に抱かれる。

子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。
そのうち、子どもはの心は、死んでしまう。

まず、魔王の存在を、きちんと感じてみよう。
感じすぎると、病むから注意(魔王を見るにも心の修行がいるようだ・・・)。

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治らない肩こりの痛みを和らげるために通い続けるマッサージ店と似ているかもしれない。

それで肩こりの原因となる心的肉体的負担が減るわけではない。

定期テスト対策で、子どもの何が成長するのか。
定期テスト対策をする習慣(もしくは赤点後の課題さえすればなんとかなるんだという処世術)を学ぶんだろうか。

子供がプレッシャーをうけずにいられる場所、という価値すら、輝いて見えてしまうほど、日本は不安に満ち満ちていると僕は感じている

子供にとっての塾の価値はなんだろう。

塾に価値があるとしたら、お客さんとして、学校のように叱責もされず、プレッシャーもうけず、ただただ過ごせる場所、という価値なのかもしれない。
それすらも、子供にとってはプラスになりうる。

そういう世の中になった。

新年一発目のブログは、「魔王」でした笑

教育は社会問題。
「成績が悪い」のはお子さんではなく、地域全体であり、日本です。
もう1人で悩むのは、やめませんか?

多くの事柄を個に起因して、社会(組織)としてとらえずにチカラ散財させることで、僕たちは力を奪われている。
魔王に。

協力することを、学んでこなかったからだ。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

みなさん、初詣で何かお祈りしてきましたか?
祈りの言葉を間違えると、魔王のチカラが増えてしまうので注意!

魔王のチカラを増幅させる塾や学校(自民公明党)には、注意!

心が大事。

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学歴社会、理想の母親像、テレビの中にでてくる豪邸、もしくは貧乏暮らし、「不安」を買い取り、「安心」を売るしくみに溢れた世界から、自分の身をまもるために。・・・やっぱり、子どもとしてきちんと成熟させてから、大人にしてあげたいとおもう。

社会は、こうした個人の歪みを和らげられずに、逆に歪みを拡大し、「不安」と「怒り」の市場を拡大させようとしている。
ああ、こわいこわい。

どうやって笑ったらいいか、わからなくなる。

オトノネひろげるシェアぼたん

「自己内対話」のメタスキルを伝える

メタスキル をもっている人は、どうやって勉強しているんだろう?
「できる」人と「できない」人の違いはなんなんだろう?

オトノネは、メタスキルを伸ばすために考えます。

例えば、「今の自分が取り組める量は、このくらいだ」というメタ認知をする能力。
この能力がないと、ただただ量に圧倒されて「できない」で終わる。

一斉授業であれば、ただ受けるだけで終わり、このメタ認知は育たない。
どんどん先に進むのにただついていくだけだからだ。

個別指導だと・・・分量を少なくするとか、やる範囲を狭めるとか、工夫はしてもらえるだろう。
もしくは丁寧に一問一問解説をしていくだけで終わるだろう。
それはそれでその子の役に立つかもしれない。
(ただしそれでメタスキルを育てずに先生に依存してしまう子もいる。)

オトノネは?

もしかしたら、「問う」メタスキルが使えていないのでは・・・・とおもう。
「問う」メタスキル は、実は、小さい頃に誰でも通ってきた遊びから学べることだ。

当てっこゲームというものがある。
誰か1人が、答えを決める。例えば、ライオン。
それから最初にヒントを出す。「毛が生えています」
それから、当てる側の人間は質問していく。「かわいいですか?」
YESかNOで答えられることもあれば、そうでないこともある。
「どこに住んでいますか?」

ライオンというもののありとあらゆる情報を、頭の中でつなげていく。
クイズが面白くなるように、答え方も考える。質問の仕方も考える。

ーーーーー

答えを「温暖前線」にしてみよう。
ここにたどり着くために、いろんな質問をしてみよう。
「どの単元ですか?」・・・地学ですね。
「宇宙と関係ありますか?」・・・ありませんね。
「寒い暑いに関係ありますか?」・・・・ありますね。(この時点で地質の範囲ではないとわかる)
「動きますか?」動きます。
「雨と関係ありますか?」ありますね。
「前線って言葉は入っていますか?」入っていますね。
「積乱雲ができますか、乱層雲ができますか?」。。。乱層雲です。
わかった!温暖前線だ!

というように。

こうした「問う」「答える」の繰り返しを、誰かとやるとゲームになる。
これを、1人でできるか?(「温暖前線」が答えになるような問いを自分で作れるか)

1人で問いを立て、答えるというメタスキルだ。

このスキルは人間の精神活動そのものだと僕はおもう。

ーーーーー

こういった学び方は、日常生活の中で出会ういろんな違和感、不思議に「問う」ことから自然と身につくもの。
大人が「それ、何?どんなの?教えて」という問いかけをすることで、子どものなかにできる言葉のチカラ。
大人の助けを借りて、内言が開花する9歳以降、子供は自分自身で内省をするようになる。

一つの言葉をいろんな言葉で説明していく。
つながっていく。
理解していく。

そうしたつながりを、問いを立てずにただただ「暗記」していく「定期テスト対策」でメタスキル は育たない。

もちろん、「問題」を解きまくることで「問い」をもらい続けることもできる。
与えられた「問い」に答えながら、「答える」ことができる。

けどそればかりでは「問う」スキルは得られない。

中学生くらいになったら、ほとんど成績の順位がかわらない(?)というのは、その時点ですでにこのメタスキルが「できる」子と「できない」子がいるからではないか。自問自答のメタスキル、抽象化、仮説をつくり始める年齢は9歳だ。小学校卒業までには「問い」を深めることができるようになる。

中学校になると、その範囲が広がる。
「問う」スキルが前提となって、宿題やら何やらがでてくる。

「問う」ことができずに、「教えてもらう」ことしかできない子が多いのは、そのせいかもしれない。

ーーーーー

自ら「問う」ことを励まさず、「行為」を要求するだけの大人が多すぎないか。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
だがそれに答えるためにもっと多くの「問い」を発するのが「自己内対話」である。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
自己内対話だけでやってしまうと鬱になることもある。
他者は必要だ。
そのバランスをとることが、大切だとおもう。

「話す」こともメタスキルだ。

ーーーーーーーーー

自己内対話のメタスキル、実は多くのスポーツ選手や芸術家がもっている。
「どうしたら、こうなるのか。よくなるのか。早く走れるのか。早く投げられるのか。強く蹴れるのか」
「どうしたらいい音がでるのか。どんな色が欲しいのか。どうやって書いたらいいのか。何を書くか。何を奏でるか」
その答えを探す道そのものが対話。

練習。
この場合は、肉体との対話になるわけだが。。。

スポーツができるのに、「勉強」はできない、、、という人もいる。
それがその子の特性だと認めなくてはならないかもしれない。

だとしたら、その天の才を自覚しながら、伸ばしながら、せめて「勉強」ではなく、自分自身の人生を「問う」、流されずに進んでいくメタスキルを伸ばしてほしいとおもう。

「問う」メタスキル は、きっとチカラになると、僕は信じている。
「問う」ことの限界も、その中で見えてくるはずだ。

その時その時、人生で「問い」、本気で「応える」積み重ねをしていくと、深みのある人間になると僕は思っている。

ーーーー

メタスキル はメタスキル を育てる。
「問う」メタスキル によって、「聞く」メタスキル も育つ。
他者理解、他者との対話メタスキル も、育つ。

メタスキル とは、そういうものなのです。

オトノネひろげるシェアぼたん

富山のメンタルヘルスと「怪獣」

富山県のメンタルヘルスは数値化されていないもの、かなりやばいんじゃないかと思っている。
それはこういう理由で↓
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
(個人のメンタルヘルスではなく集団、組織のメンタルヘルスという概念はヨーロッパの心理学の世界では研究がすでに始まっています)
データの出典をメモっておらずなんだが、路上犯罪検挙数(だったとおもう)は人口で割ると東京都と同じ富山県。
それがほとんど富山県の都市部で起こっているとしたら、東京よりも危険な場所だということになる。

そりゃぁ、お母さんも心配するのもわかる。

ーーーーー

で、今日、社会人の人とレッスンをしながら、話をしながらたまたま思い浮かんだこと。

「そういえば、富山県って、魚津の方とか朝日町いかないと、海が海らしくないよな」
海と人間が、繋がっていない。
海からチカラをもらえていない。

と仮定してみる。

そういう視点で考えてみると、メンタルヘルスと海の綺麗さ・汚さは関係しているんじゃないか?
とおもったり。

綺麗さ。汚さという表現はよくないかもしれない。
どれだけ海と人が関わっているか、である。

たとえば、、、、
新湊の大きな橋を作るために、もともとあった船便がなくなった(まだ運行してるっけ?仕方ないんだろうか・・)
港町、に行っても港町らしさが感じられない。なんでだろう。。(漁港から、人・海のチカラが街のほうまで伸びて行かない)
そもそも富山県なのに魚の値段が高い(おかしい。不漁が続いているのかしらん)。
海浜浴場といっても、目の前にテトラポッドが・・・

釣りをしている人は、釣りをして海のリッチネスをもらっているだろう。
けど僕は釣りをしない。
だから海が遠いのかもしれない。

別の海を僕は知っている。富山よりももっと貧しい(県民所得が低い)、それでいて、海を味わえる場所があった。
海を味わっている人と出会ったから、海のリッチネスをもらえたのかもしれない。

もしかしたら、富山での僕の生活が、海から遠くなってしまっただけなのかわからない。
街中で、のたうちまわっている魚か笑

ーーーー

富山県は文句なしに、海の資源をもっている。
縄文の時代から、この内湾はすくなからずの「富」であった。
立山黒部からくるミネラル豊富な水が・・・とは説明されるが、果たして、現在、そのチカラをどれだけ使っているのか。
使えているのか。

これこそが、富山という場所の「個別化」である。
と僕は思う。
「世界一綺麗な○○」とか増やして定期テスト対策している場合ではない。
「商業施設作り直します」とか定期テスト対策している場合ではない。
休日にイオンとかファボーレ行っている場合ではない。

個別化だ!
個別化は別に、「その人だけ」とか「その場所だけ」を意味していない。
世界一である必要も、日本一である必要もない。
富山らしさ。
富山のもっているチカラを使えているかということだ。

子どもにも、ひとりひとりチカラがあるように。

と思っているのは僕だけか。
(ある人の話を思い出す。砺波の人だったか。。。夏は朝にお弁当をもって出発し海に向かう。楽しんで、1日かけて、また戻る。車がまだ普及してなかった時代の話だ)

なぜ、富山にきても魚は安くなく、また品数もすくないのか(おとのねさんはそれが特に不満です)。
(今の時期、こんなに少なかったっけ???)

富山という場所にいる「怪獣」も、だいぶお疲れのようだ。
だって、政(まつりごと)をする人たちがお金お金でドロドロだもん。
富山の「怪獣」さんはヘロヘロになっているだろう。
疲れている。
病んでいる。
だから人も病む。
人が死ぬ(自殺率が上位ランクイン)。
人が人を殺す。(去年、この時期に、発砲事件がありましたね。覚えていますか?)
【随時更新】富山でまた発砲事件 富山市内の小中学校が全て休校に

僕はそうおもっている。
誰も言わないの?命に関わることだよ?
みんな不思議に思わないの?

急勾配だという富山県の沿岸の地形。
その海底には何があるのか。

海王丸は、何を運んでいるのか。

富山のリッチネスは、なんだろう。
黒部立山を眺めるだけではないはずだ。
観光資源として「お金」にする以外のチカラをもっているはずだ。
人がしあわせになるチカラをもっているはずだ。

富山に暮らしながら、富山のリッチネスを探してみようかな。
一人一人が、富山のリッチネスを大切にしていたら、それだけでも何かが変わるはずだ。
と、おもったりする。

富山のリッチネス・・・・
(ある人は、「ゴールデンウィークでも人が来ないキャンプ場」といっていた。ゴールデンウィークも働かなくてはいけない僕には、そのリッチネスは堪能できないのが残念だ・・・だが別の場面で、富山の「おいしいところ」をいただいた。誰かが知っているリッチネスを別の誰かに伝えていく、一緒に味わう、結局はそういう人間らしい営みが大切なのかもしれない)

ーーーーーーー

ふと思いついた「メンタルヘルスと海」の関係。

人間とつながるだけでは、心を大事にすることは、どうやら、難しそうだ。
(沖縄はメンタルヘルスばっちりなんだろうか?ちゃんと調べたらおもしろそう)

人が、人しか見れない。
人が、人をお金にしか見れない世の中だとしたら。
悲しい。

富山で暮らす人の声を、もっと、大きくしていきたい。
それはきっと、人間らしいことだと、僕は信じているから。
オトノネは、そういう場所です。

オトノネに、耳をすませてみませんか。
あなたのオトノネに。
隣で眠っている人の、オトノネに。
この大地の、海の、オトノネに。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。

オトノネひろげるシェアぼたん

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?

これもよくある話。

「問題行動」という言葉がある。
これも半ば、呪いの言葉なのだが・・・

指し示しているものは「社会的に不適切とみなされた行動」だ。
校則違反も問題行動になるだろう。

ーーーーー

人の中には、怪獣がいる。
心には怪獣が住んでいる。

シャーマンの世界で言えば、守護霊のようなものだと僕はおもっている。
つまるところ、それはチカラだ。

たとえばこれが「やんちゃ坊主」の「問題行動」だとしよう。
それがただのけじめがついていないだけなら、「感情のコントロール」の仕方を学んでいってもらうために、お母さんは凛として言葉を使ったらいい。

しつけとけじめ

しつけ
勉強は「しつけ」か「あそび」か

ーーーーーーーーーーー

が。

それがどうも、その子の命のエネルギーが溢れてしょうがない状態、からでてくる「問題行動」もある。
と僕はおもう。

溢れさせてはいけない場面もあるだろう。
それこそ「気締め」、ケジメをつけなくては、映画館でも大変なことになるだろう。

だが、そのエネルギーを、命の炎を燃やせずに水をかけられるだけでは、子どもの輝きがなくなってしまうかもしれない。

「悪い」怪獣なのか?「良い」怪獣なのか?

「良い」怪獣として育てるには?
それこそ、学びだし、教育だし、自己理解だし、メタスキルだ。

例えば・・・・
エジソンだったか。
アインシュタインだったか。
だれだったか忘れたが「好奇心」という名前の怪獣がいたために、学校で除け者にされてしまった人がいる。
この子は「好奇心」という怪獣と一緒に成長できるように、お母さんが「ホームスクール」した。
つまり学校に行かなかった。

そうして、その子は、歴史に名を残す人物になりましたとさ。
もしその怪獣を殺そうとしたら、、、またそれは別のストーリーになっただろう。

「怪獣」とどうつきあうか、つまり「チカラ」をどうつかうかは、その子次第だし、その子の成長を見守る大人たち次第だ。

それは「ストレングス」とかいう言葉であらわしてもいい。
強み、自分らしさ。そうして「自分はこういう人間だ。だからこうして生きる」というメタ認知ができるようになったら、人生、楽しく生きられるようになるとおもう。

「自分は本当はこうなんだけど(怪獣は心にいるんだけど)、それを出したら(怪獣のチカラを見せたら)お母さんに怒られる・・・」といったイイ子に徹する子もいる。

「いやもう、これ、私だし」といって、御構い無しに怪獣をだしてくる子もいる。

ひとそれぞれ。

ただその関わり方を、出し方を、大人たちは教えることができるだろう。
「使い道」というのは、「社会でどう使うか」「そのチカラを、何に役立てるか」という知恵に繋がっているからだ。

ーーーーー

カスカネダの書いたシャーマンの生き方、修行の記録の中には、精霊との戦いというものがある。
精霊は、チカラをもっている。
シャーマンは、それを取り込み(?)、コントロールしなくては死んでしまう。
精霊に殺されてしまう。
精霊は悪霊にもなる。

同じことが、子どもたちの「チカラ」についてもいえるのではないか。

子供の中に現れた怪獣は、そのチカラを使いたがっている。
もしそれを檻にいれるだけしたら、脱走したり、本当に、人を食らうかもしれない。
(現代の漫画でよくあるストーリー)
もしくは、怪獣からもらっていたチカラをもらえなくなって、鬱、病になるかもしれない。

怪獣は、チカラをくれる存在だ。

ーーーーー

学校にすれば、「不登校」も問題行動なのかな。
「いじめ」も問題行動だ。(校長先生の評価が下がるからだ)
けど学校はそうした怪獣の存在なんて知らないし、「定期テスト対策」的な処世しかできないのが、現実。

学校の中では檻に入れられてしまう怪物を、子どものチカラとして、社会の中で使えるようにするには???
家庭教育、社会教育だろう。

学校は、学校のことで精一杯だから。

そういう視点で、「この子は今、どんな心をもっているのか。どんな発達段階にいるのか」といった見方を、まずはお母さんにしてほしいとおもっている。

気締めによって怪獣をコントロールすること。それは小さい時の気締めとかわらない。一人でできることもあるし、誰かの助けを借りて、コントロールできるようになっていくこともある。
そのための心のしくみを作って行くことが、人としての大きな成長になるとぼくはおもっている。

ゴジラがなんだかんだいって地球を守っているように、お子さんの「怪獣」も、お子さんを助けるチカラになるかもしれない。
まずはお子さんの怪獣と、話をしてみたらどうだろうか。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。

オトノネひろげるシェアぼたん

フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。

社会人もオトノネで学んでいる。

精神保健福祉士の資格をとるために一緒に勉強している人とテキストをみながら、フィンランドの自殺率は実は日本より高かった(過去形)ことを知った。
フィンランドの自殺率

元の記事はこちらから
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-034-08-09-g267

ではどういう試みをしたか?
というと。。

1972年、各自治体に保健医療センターの設置が義務付けられた。
1984年、日本で宇都宮事件の時、フィンランドはすでに入院医療から地域ケアへと施策を変えていた。
それから最速と言われる速さで入院医療が減る。それを支えたのは、保健医療センターとプライマリ医と他職種によるケアであったと。

フィンランドでは全国で200の保険医療センターがあり、その5つのセンターが集まったところに専門医のいる医療機関がある。さらに重篤なケースは全国に5箇所ある大学病院で対応する、というシステムだ。

精神保健、メンタルヘルスは病院の中だけでどうにかできることではない、地域、家族、学校、職場、あらゆる場所で鬱になる人が出て来て、自殺に至る。アルコール依存症のケースもある。それは病院の中だけで、定期テスト対策のように「対策」しても無駄だ。フィンランドはプライマリケアに尽くした。そもそも「定期テスト対策」にならないような生活、暮らしを作り出すようにした。そのための人材が、ソーシャルワーカーだ。

日本が15に対してフィンランドは150。
(そもそもソーシャルワーカーとは何か?ということを日本人は知っているだろうか)
読んだことがないけれど、ソーシャルワークとはなにかを理解するのに、これが一番だろうという本を紹介しておきます。
ソーシャルワーク

「定期テスト対策」ではない、暮らしレベルの福祉のために、フィンランドという国は施策を重ねて来た。
その結果が、この自殺率の減少。(再喝)
フィンランドの自殺率

日本でどれだけのメンタルヘルス、精神保健、心の健全さが保たれる社会的なしくみがあるだろうか?
フィンランドにある保健医療センターに該当する施設は、日本では精神保健福祉センターであり、県にひとつ。
いやいやそれ以外にも、サポートする場所はあるだろう。。。例えば、保育所はお母さんのメンタルヘルスの相談設けることになっている。
「タテマエ」は。

実際は、そうなっていない。
結果が、伴っていない。

子供の精神福祉のことだけを考えても。
児童相談所はてんてこまい。
スタッフは忙しすぎて、忙殺され、やめていく。
児童養護施設ははち切れる。
児童虐待が止まらない(子供は減っているが)。

成人の精神保健の現場も、日本はなんら変わっていない。

精神科のベットの数はなかなか減らない。塾や学校に縛り付けるのと同じように、多くの人が精神科のベットに縛り付けられている。

在院日数も日本はダントツだ。

入院にはお金がかかる。(しかしそれでお医者さんはお金儲けをしているのだからどうしようもない)
多額の税金が、「定期テスト対策」に使われる。
もっと多くの人にとって有益になる方法は?

クリエイティブに考えられないだろうか。
考えられていない、のが現状だ。それが日本の精神文化だとしたら??
それを国レベルで変えるのは教育しかない。大人がしくみをつくるしかない(が、自民公明党は作る気がない)。

これは精神保健だけの話ではない。

学校も、職場も、家庭も、地域も同様だ。

ーーーー

最後に一つ。
日本の人口は1億2千万くらい。
フィンランドの人口は600万人くらい。

それに対して先ほどの精神科スタッフの数をみてほしい。
この数字をどうみるか。
一体、日本人は、「なんのために働いているのか」
一体、日本政府は、「なんのために働かせているのか」
自民公明党はまだ昭和の夢をみているような気がするのは、僕だけか。

日本のシステムが壊れていることを数字で理解できないなら、教育がなんのために行われているのか、わからない。

ーーーーーー

こちらは

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ーーーーーー

とりあえずお母さんが定期テスト対策をやめさせるところから始めたらいいと思います。

寒い国は自殺者が多いといいます。
鬱々しているからだと。では、どうやって北の国の人はメンタルヘルスを保ってきたのでしょうか?
それが富山県の精神文化なのだとおもいます。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県高岡市という子育ての条件。幸福度と自殺者。

さて、富山県の、日本の精神文化とは、なんなのでしょうか?

—–

ちなみに、フィンランドが発祥らしい、「オープンダイアローグ」なるものも有名だ。
対話、対話、フィンランドはオトノネの友達だ。

オープンダイアローグ

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

言葉の内実とは何か。
「言葉はいろいろなことを表現する。その内容は何か。実態は何か。」ということだ。

言葉に人間のような姿形があるなら、いったいどのようにその人は暮らしているか、という問いを自問自答してみる。

———-

僕は日本の精神文化は「源氏物語」と「浄瑠璃」に集約できるとおもう。
それは日本人の「感情」の表れであり表現だ。
どちらの作品にも「日本仏教」が付いて回るが、とにかくこれらの作品には「泣く」「怒る」という感情がよくよく表れている。官能もよくよく、含んでいる。世界中でもコンビニでポルノを売っている国など、日本の他にない(あるの?)。

それを例えばキリスト教を文化にもつ人たちに求めるなら?
長い間、聖書の物語が彼らの精神活動を支えていた。
聖書を紐解き、聖書の中に答えを見出そうとした。
そこで「解釈」のための論理学が精神の重要な部分となった(元をたどればポリス時代にその素地ができていた)と僕は考える。
海外の人と話をしていると、日本ではほとんど、ほとんど聞かない言葉をよく使っていることに気がつく。
「Why」という言葉だ。
この言葉は相手の論理、思考、考えを問う言葉。相手を解釈・理解しようとする言葉。
(日本人なら「どうして?」「なぜ?」を使う代わりに、驚きや拒絶、好き嫌いなどの主観的な感情を表現するだろう。)

日本人が「why」を使う状況は、、、大きな人間が小さな人間に問いかける時くらいだろうか。日本の大きな人間同士がこの言葉を使うのだろうか。。。

これは僕の印象だ。

人が誰かに助けを求める、お願いをする姿を思い描いてみてほしい。
どんな状況?
どんな言葉で?

僕は日本の農民が苦しんでいる、困っている状況を思ってみた。そこでその人は「どうか〇〇してください」と誰かにお願いするだろう。「行動」を「乞う」わけだ。「わたしたちの村は飢饉でもうこれこれこうで」と「感情」に訴えかける。

西洋の人が困っている状況でお願いするイメージを描いてみた。教会で人が神に祈りを捧げているイメージがでた。その人はこういう。「神様、私は、どうしたらいいでしょうか?」問う。「行動」するのは自分であり、「乞う」のではなく、「問う」。

人の感情に訴え行動を「乞う」日本。
神の理性に訴え言葉を「問う」西洋。
対比的にみると、僕はこうなんじゃないかとおもう。

今の内閣総理大臣がいろんな批判を浴びせられているが、「問い」に対する誠実さがない、「問い」を理解できていない、「問い」かけられているという認識すらない、「問う」という言葉の価値がないのは内閣総理大臣が変わればよいのではない。批判は内閣総理大臣という個人に浴びせられるものではない。少なくとも今の「問わせない」教育システムをつくりだした自民公明党という組織への批判であるべきだし、根本的には、この日本人の「乞う」精神文化、「問わせない」しくみを変えようとしない教育への批判であるべきではないのか。言葉の内実は歴史につながっており、それほどまでに深く人の意識を規定している。

しかしこの時代遅れの精神文化と呼ぶべきものは、本当に変えるべきなんだろうか?なにしろ相手は「歴史」である。
むしろ、この歴史に抗うことなく、ただただ「感情」と「行為」レベルの動物的な共産体制を保持して行くのも「自然」だろう。選挙に参加するということは歴史の流れに自分をどう位置付けるか、という大きな仕事だとつくづく思う。

ーーーーーー

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日本人が「言葉」を「解釈」し始め(ようとし)たのはいつか。
明治になって、新しい言葉を吸収しようとした時からではないか。そうして文豪たちは、西洋と日本の間を行き来しながら、新しい言葉の文化を作ろうとした。

現在、若者たちが、大人たちが、自分が使っている、触れている言葉、心を育てている言葉はどんな言葉か。
「源氏物語」や「浄瑠璃」の世界とどう違うか、少し立ち止まって、「問う」のも一興だ。

かの有名な言語学者が言った通り、言葉は意識そのものである。意識の道具ではない。意識そのものである。
言語環境は、その人の心をつくる。
保育所、幼稚園や学校で殺伐とした言語に日常的に囲まれている子どもたちの心が作る次の世の中は、どうなっているんだろう。

ーーーーー

この文章を書きながら、「問う」ことはすなわち考えることだとおもう。
「問う」ことで、心が満たされて行くように僕は感じている。(おとのねさんは学者らしい)

「乞う」ことで満たされるものは何か?
いくら食べても飽くことのない獣であるように思ってしまうのは私だけだろうか。

「問う」ことで満たされる心も、次の「問い」を飽くなきまでに求めるのだろうけれど。(こういう逆説的な、矛盾するような文章に楽しみを感じる人はオトノネの門をたたくと面白いのかもしれない)

C・S・ルイスが「子どもの本の書き方3つ」という評論の中で、児童文学のよくない書き方の1つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が並存するのだということを子供に知らせてはいけない、という見解に基づくものをあげている。また、子どもの欲するものだけを与えようとする書き方も戒められている。(略)もし子どもたちのことばでルイスの言葉を書き換えるとしたら次のようになるだろう。「大人のみなさん、あなたがたが勝手に頭で考えたものを私たちに与えないでください。ユートピアもモラルも、私たちが自分でつくるからこそ、すばらしいものができるのです。私たちにそれをつくる場と自由な時間をください」と。それにしても、ルイスがこのような忠告をしなければならなかった理由があったのだろうか。たしかに、子供達をとりまく大人たちの考え方の中にこのような忠告を必要とするような状況がある。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.54)

子どもたちは自分で「問う」ことで世界を作って行く。
人の顔色を見て世の中を渡る「行為」レベルの処世術ではなく、「心」のレベルで人と関われるようになってほしいと、僕はおもっている。
だってそっちの方が、僕は人が人らしく輝けるとおもっているから。

日本人は逆に、「問われる」ことで、輝きを失っているのが現状だろうけれど。
うーん、どうしようかな。
目の輝きが問われる前に、目をつぶって念仏を唱えるのが、日本人の言葉の内実、意識なのかもしれない。

ーーーー

言葉にチカラを。
これがオトノネのテーマだと、「問う」ことで僕は発見した。
「問う」ことは学びのメタスキルだ。

ところでおとのねさんはHPやフェイスブック、ブログでいろいろな「問い」を読者に伝えてきただろうか。
「情報」は「問い」ではない。

オトノネは「問う」ことを続けていこうとおもっている。
たとえそれが「わかりにくい」HPだったとしても?
「乞う」HPも作って両方の人がオトノネに来てくれるようにしようかとおもった。

二本立て!
オトノネはHPから、心を大事にしようとおもいます。
お腹すいた。

オトノネひろげるシェアぼたん