女性のメタ認知と【思春期】とライフステージ

生理が早く来た女性は自分の女性性を受け入れるのが難しい。

という研究結果があると教えてくれた人がいる。

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メタ認知とはいわゆる内言が発達しながら自分のことをどんどん客体化していく認知の仕方。
外の世界ではなくて自分自身の認知だから「メタ」がつく。

内言というのは「よーしっ!虫捕まえてこよ!」みたいな思ったことをそのまま口に出す外言から、おもったことを頭の中でつぶやく言語処理の仕方をいう。内言は内省的で、外言は会話的。「よーしっ!虫捕まえてこよ!」はその中間くらい。(僕などもたまに「よーしっ!虫捕まえてこよ!」みたいなことをいう。それはそれで一つの言語形式であっていいのだが)

で、女性には生長期と第二次性徴とがある。
思春期の期間が長いというべきか、つぎつぎと変化が訪れるというべきか、今は違いをはっきりと説明できないが。

女性には女性の生き方があった。

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女性の性が秘め事になったり、男性の原理の後ろに隠されてしまったり、していないか。
女性には女性の時間がある。発達の過程がある。(勉強の面でおいては女性の方が言語的には優位でありまた第二次性徴までは女性の方が背が高かったりする。ADHDという現象がでてくるのはたいてい男性)

学校は競争原理で動く。男性。ビジネスの原理。
女性は放課後の帰り道、女子会を開きながら女性を花開かせる。

ビジネスの原理で女性が弱まっていないか。
男性は女性の、子育ての原理が弱すぎて残酷になっていないか。

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男女平等とかいいながら女性も男性もとにかく仕事をしてもらいたい政策の下で、女性が女性らしくライフステージを、発達の段階を迎えられるようなしくみが日本は弱い。子育て前、子育て中、子育て後。これだけでも男性はずーっと同じだが女性は変わってしまう。

子育て中のお母さんを手助けする社会的な装置が弱い。
会社はビジネスの原理。子育てか、キャリアかという謎の選択肢は、つまり女性をどうとらえるかというアイデンティティーの問題だ。

平和というものは、バランスの上に成り立つ。
どちらかにかたよっていないか。子どもに聞いたら教えてくれる。

帰って来たら、ぎゅっとだきしめて、「ただいま」というだけで、お母さんの女性も、子どものしあわせも、よろこぶんじゃないかなとおもう。

しあわせほころぶ。
しあわせよろこぶ。

そんな子育てを、オトノネは応援します。

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宗教とは何か。

平和に生きる。
心豊かに
ただただよいものを見つめて

そうすると、自民公明党がつくる地獄絵図を投票によってどうにかするということに意識がむかないかもしれない。
政治は、触れたら痛い、不快になる話に、おおいになりうるから。

ただただ良いものに関わる。
そのアプローチで幸福を得ようとする人の心を、宗教と呼んでいいのかもしれない。

宗教は心の免疫機能を集団で高めようとするしくみだ。
それがうまく機能すればいい。

ただ、選挙の時だけは「戦う人」の仮面を被って、あの無機質な選挙会場に赴くのはどうだろうかと、僕はおもうのだが。
自民公明党以外にとりあえず一票を。子どもたちのために。僕はれいわ新撰組の安冨さんにいれますが。

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こんな記事を書いたことがある。

で、宗教について。

言い方によっては、オトノネも宗教だし、学校も宗教だし、なんらかの価値観をもっている人たちがその信念をもって人と関わるものは全て宗教とすれば資本主義、共産主義、主義のつくものはみな宗教だ。
心理学自体、科学的に裏付けられた宗教といえるかもしれない。

人間は神秘の塊だ。
理解不能に苦しむ前頭前皮質と苦しみを生み出す扁桃体の果てしない戦いといってもいい。
と僕は思っている。

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バリヒンズーの話をすると。
バリではほとんどの人がヒンズーだ。バリの土着の信仰と、インド由来のヒンズー教が合わさってできたもの。
日本の原始信仰と仏教が合わさって日本仏教という世界にない、唯一の仏教が出来上がったのと同じ。

宗教は生活の一部だ。
宗教は、人が集まる場所をつくる。
宗教は、ごくごく自然なコミュニティーをつくる。
「祭りをすることになっている」から祭りをするのであり、その機能は人々がそこに何を求めるかできまる。

バリ島では、ほとんど儀式のために生活しているようなものだ。
儀式は装飾品(結構高い)で飾られ、食べ物が供され、芸能に人々は目の耳を楽しませる。
もちろん神様に向けてやるものであるが。十分に行きている人たちも楽しむ。
一族が、血を同じくした王家があつまる儀式(寺)もあれば、その地域に住む神様とつながった人たちが集まる儀式(寺)もある。

この場合、宗教は暮らしの一部であり、伝統と神様と人のつながりを守り、また子供達が芸能を通じて大人の社会にでる場所であった。
バリヒンズーはこのように機能している(だが近代化で、昔は夜通しやっていたものが短くなったり、いろいろ変わってきているが)。

儀式の中で、神がかる人がいる。
踊りながら、楽器を演奏しながら、とりつかれてしまう人がいる。
そういうことが許されているのがバリヒンズーだ。
そしてその人を「正気」にする手順もちゃんとある。

狂うことが許されている。
それがバリヒンズーであり、それを代表するのが「ランダとバロン」の戦いだと僕は思う。

バロンは、鬼母神であって、子どもを育てるいい母親と子どもを食らう悪い母親の両面を持つ。
日本で言えば山姥だ。金太郎のお母さんだ。善とともに悪である(鬼母神は歴史の中でおそらく獅子舞に吸収された日本である)。

バロンは聖なる動物で、善を司る。

で、ふたつの神はバトル。
そして、どちらも勝者にならず、儀式は終わる。

バリヒンズーはそういう世界。

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仏教はどうか。

仏教は「離れる」ところに焦点化される。現世を離れて涅槃にたどり着く。
ブッダが科学的に実験した末にたどり着いた、幸福のあり方。
それは社会的な祭りというよりも、個人的な修行、振る舞い、思考法によって完成される。
ブッダが寺をもったかはしらないが、もっていなかったのではないかとおもう。

ブッダの仏教には神はいなかった。
あるのは、「仏」の姿、修行した末の人間の姿だ。

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キリスト教。

ニーチェが「神は死んだ」と言ったことは有名だ。
神の死亡宣言は、どんな意味があったのか。

キリスト教が作り上げた中世、封建制で人々は教会に集まった。
教会は神とつながる場所であり、言葉は特権的な階級である人々に独占されていた。
人々は、祈った。

救われた。

ニーチェはいう。
そんなお手軽なのはなぜか。
それは、弱さだと。

人間の弱さを包み隠すために、教会があるのだと。
(教会がポルノの図書館であったことは有名な話だ)

それって変じゃないかということで、プロテスタントがでてくるわけだが。

ニーチェはそれを含めて、「いやいや、人間は人間らしく、人間らしい強さを大切にしたいよね」といったのだ。
だから弱さを隠してしまう、そして弱いものが集まって慰めあっているキリスト教を批判したのだ。

宗教は、人間観を表す。

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日本仏教はどうか。

日本仏教は、時代と主に大きく変わる。
中世まではだいたい貴族の教養。庶民に定着したのは何かといわれれば、歌や踊りの要素を深めた娯楽的なもの。
近世に入ってからはこの機能は大阪や江戸では歌舞伎が担うこととなった。武士は寺というよりも儒教、朱子学といった実利的なものを学んでいた。
明治になってからはもうボロボロ。

あまりにもめまぐるしく変わっていった。

現在は多くの新興宗教がある。

僕が大学時代に出会った人は「環境問題」に取り組む人で、いわゆる専業主婦のお母さんたちから高額のお布施(もちろん、金額は指定しないが一回、一筆文字を書くだけで1万円とか普通にもらっていた)をもらう。
グリーンピースだったか、クジラをまもるんだ!といいながらスポンサーからお金を集めている過激な団体もある。
富山では心に病んだ高校生を狙って神秘体験をさせる古着屋があったりする。結構な高校生がそこに通っているらしい。

富山県もいろんな信仰をもっている。
持ち家信仰。
長男信仰。
この二つは大きい。
学校信仰もある。
ママ友信仰。
野球信仰。

これをまとめて富山教と呼んでもいい。
生活に根ざした宗教だ。

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で、結局、宗教とはなんだろう。

そんなどうしようもない問いを立てる僕は研究者教かもしれないし、白痴にみえるかもしれない。

僕は宗教の機能を考えたい。

宗教は人が欲しいものを与える。
それがお金であれば、いわゆる「自己改革セミナー」とか。

宗教は人が一番欲しいものを与える。
たとえば「仲間」とか。

東京で阿波踊りを楽しみにしている人が集まって練習をしている。
それを宗教団体としてもいい。

宗教は人が欲しいものを与える。
点数が欲しくて塾に行かせるなら、塾も十分に宗教だ。

宗教は人が欲しいものを与える。
そこには、日常生活では聞くことのできない言葉に溢れている。

宗教は人が欲しいものを与える。
それは自分が何か力をもっているという証であるかもしれない。

とおもったときに、バリヒンズーはどこにも該当しない。

資本主義という宗教は、人々に渇きを与える。
欲しくないものでも。ただ生活の中にもう住み着いている。

ニーチェは言っている。
「神を勝手に作って、都合のいいように使うな」と。

真言宗の開祖空海は、実は本当は密教をやりたかった。
というか、山々を歩き回っているとおり、修験道の人間であった。
それがどうしてそうなったか、そう、人間の勝手で、新しい宗教の手本にされてしまった。
「いや、そんなつもりなかったんだけど」というのが、空海の気持ちではないか。
けど由緒正しさが求められる日本、空海は神様に祭り上げられた。

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最後に、シャーマニズムの話。

あれ?スエットロッジの話はどこかで書いたような・・・・

シャーマニズムは信仰の世界だ。
どれだけ人間に眠る神聖を自然と繋げるか。
自然に結びつけるか。

シャーマニズムは、基本、完全個別だ。
シャーマニズムが宗教とは違う点だと僕は思う。

祭司としての特権的な地位を持っているわけでもない。

そして、信頼は集めるが、お金はもらわない。
シャーマンとしての能力が、与えられているものだからだ。
それは運命であって、そうなるべくしてなった、といってもいい。
ぎゃくに、シャーマンとして生きなければ、死んでしまう。

お金にならなくても、やる。

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僕は、ちょっとその古着屋に関わっている高校生にはこう言った。
「お金がからむなら、やめておいたほうがいいよ」

何を得たいか。

宗教集団に限らず、組織は文化を持つ。
自分がしあわせを、よろこびを感じる組織や文化に所属したいとおもうのは当然だろう。
結局、ひとりひとりにとって、しあわせは違うのだ、というだけか。

芸能人に、少女たちに、お布施を渡している人が、たくさんいるではないか。

駅前で、お父さん、お母さん、子どもの3人が新興宗教のチラシを配っているのを見かけたとき、僕はおもう。
「この人は、しあわせになるために、お金をいくら払い続けるんだろう」

全国ツアーに同行する熱狂的なファンもいる。
その人は、しあわせになるために、お金をいつまで払い続けるんだろう。

貪るように本を読む人がいる。
その人は、しあわせになるために、お金をいつまで払い続けるんだろう。

新興宗教に入っている人は、選挙について考えるんだろうか?
宗教は、現実の問いには触れないのだろうか。
宗教は、たぶん、心のせいにするだろう。
環境のせいにはしない。社会のせいにはしない。
弱さのせいにはしない。強さのせいにもしない。
ただ、修行が足りないからだ。一緒にやろう。とかいうだろうか。

それだけの人が集まって、お金もあって、広範囲でやっていて、どうして社会は変わらないのか?
僕はいわゆる「宗教団体」をそのように見ている。
それだけ人が集まっても、世の中は変わらないのか。
人間には無理なのか。

宗教は、弱さなのか。
弱さを集めるから、弱いままなのか。

僕は人間の強さを発見したい。
人間の強さを生かしたい。

よりよく生きるためのエネルギー、力であるお金と時間の使い方が、果たしてそれでいいのだろうか。
僕自身にも全く同じことがいえる。だから僕は、オトノネをやりながら、自分なりのオトノネの形を、探しているところだ。

僕の強さのために。
しなやかさのために。

宗教団体、別にいいじゃん。

自分が力を感じる場所が、命を感じる場所が増えていけばいいとおもう。

誰もが、無力感、弱さを感じる心をもっている。
その心とどう向き合うか。きっかけも、みちのりも、歩き方も、人それぞれだ。

宗教団体の内部でコミュニケーションがとれても、外部では何も変わらないことがおおい。
それでも、何か「変わった!」といういっときがあるだけでも、楽になるものだ。
たとえ一時的であっても、それが何かのきっかけになることがあるだろう。

ただ、それだけ。
ただ、オトノネにお金が入らないから、僕はかなりふてくされているとおもう。

学校の先生が宗教団体に入らなくちゃならないほど、子どもの先生が宗教に入らないといけないほど。
学校の先生はもう限界。助けを求めている。

不登校の親の会みたいなのも、人によっちゃ「宗教みたいにあやしい」となるだろうか。
そう考えると、人が集まればなんでも宗教だ。

機械で24時間作業させ、人間が機械に従事する「二交替教」とか笑

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これからこの国で幸せになるには。

この国で、幸せとは何か、もう一度考えてみたい。

考えなくていいか。
感じてみたい。

この国で、この国のシステムのなかで、僕はもう少し強くなろうとおもった。

日本は日本仏教の国。
この国でしか使えない、この国の宗教。

この国ならではのしあわせが、あるような気がした。
しあわせをつくりだす社会的装置が故障している。
たまにボロボロになってでてくる心がある。

僕はその「たまにでてくる」ものに目を向けすぎなんだろうか。

昔みたいに、みんなで長屋に住むとか、寺に行くとか。

もう現実に、日本の孤児院、ぱんぱんだからね?
もう現実になりかけています。

こんなにも貧しい国で、しあわせになるには?
日々の暮らしに満足すること、なのでしょうか。

念仏を唱える代わりに、みんなテレビをみていますね。
念仏を唱える代わりに、みんなスマホをみていますね。

念仏が、必要なのでしょうか。

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子どもがもっている無限の余剰を僕たちが受け取ること。

オトノネのお母さんたちはたまに、僕にご飯を持ってきてくれる。

僕はもう泣きながら手を合わせて食べる。
美味しい。

おいしい。

このご飯、もちろん、家族のためにつくったしあわせを、僕がおすそ分けをもらっているだけ。
それが、うれしい。

余剰、というものがある。

お金でなくてもいい。
ただただ、溢れ出たもの。

しあわせって、そういうものだとおもう。

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リッチネス、という言葉をインドネシアで聞いた時に、ああ、リッチってそういうことなんだなと感じた。
青森で漁師をしながら、親方が趣味で、好きで釣った魚を知っている人に分ける。

しあわせの溢れた部分を、数珠つなぎにする。
しあわせのわ。

僕も取れたホタテを知っている人に送って、おいしいといってくれたことを今でもよく覚えている。
ホタテを送るお金で給料がなくなったけど笑

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子どもはしあわせの塊だ。

溢れ出ている。

僕は少しだけ、おこぼれをもらう。

家でご飯をつくるお母さんは、しあわせをつくっている。

ご飯を食べるしあわせ。

ご飯の場所を一緒に楽しむ。

しあわせの数珠つなぎ。

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余剰が、ないのだろうか。

お金も時間も、大人たちには足りない。
あってもあっても足りない。
どんどんなくなっていく。

子どもは?
子どもはしあわせの達人だ。

子どもに教えてもらおう。

僕は、いつも教えてもらっている。

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最近、オトノネの子と公園で、放課後に遊んだ。
校門前で知り合った男の子も遊ぶ!とうので、待ち合わせて遊んだ。
その子がいうに、いつもなら、家でスマホと宿題をしているだけだという。

リッチネス。

もっと子どもから分けてもらおう。
たったそれだけなのに。

と思ったりする。

また、遊ぼう。

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自分がしあわせになったときに、そのしあわせを渡したら、みんなしあわせになる。
保育園が無償化しても、それでしあわせが増えるかどうか。

そういう話を大人たちがしているようにはおもえない。

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8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。

バイリンガル環境で育った子供が、帰国して、「9歳のときに英語が喋れなくなる」のはよく聞く話。
これがどういうことかというと、脳が内言を強化する時期。
つまり今までに育ててきた言語能力が、前頭葉を刺激して「自己内対話」を行う時期。
この時期に、子どもは自分で考えて言葉を使って、自分の状況を説明したり、考えたりする。
その言葉を「口に出して」話し、応えてくれるだれかがいて、世界を理解するための、大人の言葉かけを前頭葉のなかに刻み込んでいく。
だから日々日常の中で使わない言葉を脳内に止めるコストよりも、脳は、日々日常にある言葉を使って自己対話能力を大きくしていこうとする。

「8歳、9歳で英語を忘れる」のはそのためだと僕はおもっている。

この時期に「宿題を全部終えてから」と言ってしまえば、好きなことをする前に嫌いなことをやらなきゃダメという価値観をつくるし
発達に合っていない理不尽なできない宿題でも「やらなきゃダメよ」といわれれば、人生そんなもんかとおもってしまう。

怒られてばっかりいたら、「どうせ僕は」という回路をつくるかもしれない。

逆に、感謝の気持ち、人間関係、オシッコやうんこのように怒りや悲しみを排出すること、
羨ましい!が妬みにならず尊敬の念になるような変換装置をつくること。
他人の気持ちについて話す機会をもつこと。
落胆した時、がっかりした時に、自分を励ませるようになること。
自分の使う言葉を、しっかりと噛みしめること。
世の中の仕組みを理解すること(感情はつくられるもの。それをどう使うかは、自由。とか。学校だけにこだわらなくてもいいんだよ。ほら、こういう人もいる。とか。)

そうした「心の言葉」が脳に刻まれるといい。
こうした心を渡せるのは、本当に、一番身近なのは、お母さんだ。
これはもう、そうなのだ。

お母さん!

そういう大切な時期、子供はなんだってできるようになる。
なんだってやらせるのはいいが、会話、対話によってこのような非認知能力、情動知性、社会的情動スキルの黄金期をやり過ごしてしまっていないか。子供は常に、学ぼうとしている。学ぼうとしていることを学ぶことを励ますだけでいい。

今、お母さんたちの不安の声が聞こえましたが。
その不安をマネージメントするのは、お母さんの宿題。
お母さんができない(やりたくない)宿題を子どもに押し付けないように。

例えば、「◯◯したくない」と子どもが言ったとしよう。
どうしたの?何があったの?もう少しお話してくれる?といって、まず感情が整理できるように。

「したくないことでもさせなきゃ忍耐力がつかないのではないか」と考えたら、アウトです。

それは、病気の学校の先生の考え方に近いような、、、

幼年期の刺激で発達しやすいのは、高度な精神的能力や人格というよりむしろ基本的な感覚運動能力である。しかも、そうした能力を培う力は成長するにつれ非常にゆっくりと衰えていく。(『子どもの「遊び」は魔法の授業』p.61)

「そのようなとても早い時期に、概念やいろいろなスキルを教えるのは、まったくの時間の浪費である。たとえ、丸暗記をさせてもそうだ。なぜなら、体験を伴わない理解は、学習にならないからだ。(『子どもの「遊び」は魔法の授業』p.61)

どうして多くの日本人は、しあわせになろうとしないんだろう。
子どもがいつでも教えてくれるのに。

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【中学生】思春期前か、思春期中か。とにかく最後の子ども時代。何をして過ごすか。

中学生時代は、思春期前の、最後の黄金期。
思春期でいろいろなイベントが発生するまえ、
こういう大切な時期でもある。

『オプティミストはなぜ成功するのか』を読んでデイヴィッド・レヴィンが最初に目を惹かれたのは、効果的な時期についてのセリグマンの主張だった。悲観主義の子供を楽観主義者に変えるのに最適な時期は「思春期よりまえ、しかしメタ認知ができる(思考についての思考ができる)程度には成長したころ」であるという。いいかえれば、ちょうど子供たちがKIPPのミドル・スクールにやってくるころだ。性格について話すこと、性格について考えること、性格を評価すること。これらは全てメタ認知のプロセスである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.148)

思春期と言っていいのか、どうか。
中学生。
思春期と被っている場合が多い気がする。
僕は思春期らしい思春期がなんなのかよくわからない。

ただ、2歳か3才の第一次ウハウハ期がすぎてから、15歳くらいの第二次ウハウハ期(思春期)までに、子供がどれだけ成長するか。
1歳、2歳、4歳、8歳、という規則的な数字の増加が次に目指す数は16だ。
これを目安にしていいかもしれない。(僕は16才のときにイベントが発生した)

2歳をすぎてから4才ころまでに他者の状況を理解できるまで認知能力が育つ。
4歳から8歳にかけては、内言(思考)のためにたくさんの時間をかける。
8歳からはルールとか複雑なことがわかるようになったり、もうプロの人間。

で、思春期を迎えるまでに、自己認識、メタ認知、自分を見つめる自分、自己対話の能力が育っていること。
これが、16歳までに終わらせておく課題だ。

自己対話能力を使って、思春期を乗り越える。

自己対話能力がない子どもが、まだベビーカーにいれられて運ばれ続ける子どもが、高校生になってもたくさんいる。

高校受験をする時期、もしくは中学生活とは、自己対話能力、自己認識能力を高める時期であるといえる。
受験ばかりを目にかけてこっちに目をかけてやれているか。

まぁ、子供は勝手に育つのだけれど。

メタ認知、自己意識の強化の時代。中学生。

大人になってからの収入の差を生む変数は十代のころの身長の高さであった。16歳という形成期の年齢において比較的背が高かった少年は、社交的で運動の得意な若者になり、これが恒久的に彼らをやり手になるように調整したようである。この時点を過ぎると、たとえ後期の急成長気ごろまでに背が高くなっても、何の違いもうまなかった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.244)

中学校時代はこちこちマインドセットの子供にとっては、ターニングポイントだ。ドゥエックは、小学校ではこひこちのマインドセットの子供としなやかマインドセットの子どもにそれほど能力差はないものの、中学校に入るとこちこちマインドセットの子供の成績がすぐに落ちはじめ、それから数年で下がり続けることを発見した。ドゥエックの研究対象になった子供たちは、「僕はバカだから」とか「私は数学がダメだから」というように、成績の低下についてこちこちマインドセット特有の言い訳をすることが多かった。注目すべきは、子どもたちが自分の能力を普遍の性質のように語っている点だ。まるで、「私の目は茶色い」と言っているようなものだ(他にも、「先生の教え方がへたくそだから」とか「数学の教師はデブでいやなやつ」など、人のせいにする子どももいた)。(略)しなやかなマインドセットを教えた生徒には、脳は筋肉と同じで練習すれば鍛えられると伝えた。(略)なかには劇的な変化を遂げた生徒もいた。『「やればできる!」の研究』のなかで、ドゥエックはこう述べている。「ある日、研究に参加してくれる生徒たちにしなやかマインドセットについて説明していると、突如、ジミーという、どうにも無気力で投げやりな生徒が目に涙を浮かべてこう言ったのだ。”ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね”。その日を境にしてジミーはがらりと変わった。夜遅くまで宿題と格闘するなんて、生まれて初めてのことだった。そうやってきちんと早めに宿題を提出するようになったので、返されてから間違いを見直すこともできるようになり、ジミーはめざましい進歩を遂げていった。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.224)

ーーーーー

中学生は、子ども時代の最後の時期。

やり残したことはないだろうか?

これまでに関わってきた人にはどんな人がいるだろうか?
これまでどんな言葉をかけてもらいながら大きくなっただろうか?
どれだけ人の心、自分の心を感じられるようになっただろうか?

高校入試で大変な時期かもしれない。
が、中学3年生の夏、一度家族みんなで旅にでたり、ゆっくり今を感じてみたり、そうやって中3の夏という時期を大切にしてみたらどうなるだろうか。
高校入試が終わって、高校にいってから、その日のことを思い出して、元気になれたりしないだろうか。

自分は、大丈夫だと。

—–

6ヶ月、1歳、2才、4才、8歳、16歳、どの時期にも終わりはある。
この時期が来るまでに、心置きなく、心ゆくまで、その時に大切な関わり合いがある、と僕は思っている。

自然さが失われていくこの時代、子育てのあるがままの姿、「自然」を求めることが大変な時代になってしまった。

なぁ。

オトノネひろげるシェアぼたん

【失敗はない】オトノネ流、学びのプロセス。

成長!といわれたら、直線的なイメージを思い浮かべていませんか?
伸びていく一方、とか。(某大手予備校の矢印のイメージ)

ビジネスの世界で伸び続けることはできるかもしれません。(富国強兵、経済的な利益を無理に伸ばそうとして自民党公明党は国民の安全安心を無視していますね。)
ですが子育て、学びの世界では、伸び続ける、ということは、ちょっと変な話です。
(子育てをしている家庭は全員、少なからず野党に投票してほしいとおもいます。ちょっと学べば、そう思えるはずです)

ホルモン剤を射ったら数値が上がるとかそういうものではないです。学びは。
と、僕はおもうのです。

ライフステージのそれぞれで、らせんの大きな変化が生まれたりします。
らせんを描きながら、小さく振動しているような学びもあります。

壮大な、ぐるぐる。

オトノネひろげるシェアぼたん

批判とは何か。その3(日本の遺伝子・伝統との闘い)

パーソナリティ特性の科学、とか、スイッチ!とかを読みながら、人間の生物くさい側面を大切にしたほうがいいなとおもった。
限りなく動物になったら、もっと楽になるような気がする。
人間らしく、動物らしく。

命。

SNSでいろんな「悪口」が飛び交っていることに疲れてしまってとりあえず考えたことをまとめました。

ーーーーーー

日本には日本の遺伝子がある。伝統がある。この伝統を変えるには、いろいろな実験をしたらいいとおもう。山本太郎を総理大臣にするのが一番手っ取り早い。そこまでたどり着くために、現政権の悪口をいうのではなく、大人同士がコミュニケーションをし、教養を高め、「明確な目標」をもって子どもを育てることが大切だとおもう。それは、利己的な、自分の能力を高めることに必死にさせるのではなく、共感能力をもった子どもを育てることになる。それはつまり、競争から子どもを外すことにつながる。多くの親がここで、古い時代に、日本の伝統に、科挙制度の歴史に、足を引っ張られているのだろう。

子どもは伝統と、日本の遺伝子と戦っている。歴史と戦っている。
大人がどうして、子どもの先頭に立って戦わないのか。戦場に送り出す司令官になっていないか。

国民の安全を守れない現政権を批判するのと同時に、子どもの育ちの環境を守れていないかどうか、自分自身を批判していかなくては、ただの悪口になってしまう。それをみた子どもは、悪口ばかりを言って、何も行動しない大人になるだろう。それが日本の伝統であり、精神文化であり、遺伝子のように、僕はおもう。どうしたらいいか?とりあえず、僕はオトノネをつくりました。これも実験。誰もやったことないんだから。

伝統と言うなの、遺伝子プールと言う名のアウシュビッツから、僕らはまだまだ自由になれそうにない?

オトノネひろげるシェアぼたん

定期テスト対策の弊害【自己改革・心理学系セミナー編】

よく「セミナー」で「マインドセット!」とか「ポジティブ!」とかいうのがある。そういった講演会が、学校でも行われているらしい。僕が聞いた話は、金沢で、だが。

それで生徒の何が変わるだろう。ビッグファイブで学んだ言葉を使えば、神経質傾向の人が楽観的になるスキーマを作り直すことだ(そんな大変なことをセミナーはやろうとしている?いやいや)。モチベーションを高くするとは、外向性を高めるということだ。それがたった一回の「セミナー」で変わることはないだろう。そうして「定期テスト対策」的にポジティブな言葉を喋るようにと完璧主義、誠実性の高い人が習慣を変えようとしたらどうなるか。今現に、課題に疲れ果てている、家庭が不安定で神経レベルで回路が出来上がってしまっている子どもの心に届くだろうか。「夢をもて!目標を高く!」という。その目標が、自己理解に基づいたものなのか。競争に駆り立てられて、設定させられたものなのか(難関大学の名前を口にする高校生によくあるパタンだ)。セミナーは心の弱い人を引き込むキャンペーンだ。「変わりたい」人に「変われる」夢を与えてお金をもらう。言葉で、身振りで、感情に訴えかけ、元気をもらう。それでお金をもらう。もちろんそれで人生が変わる子もいるだろう。一部には(将来、セミナーで大金をはたいてしまう子になるかもしれないから注意)。

けれど、今本当に多くの子どもたちが悩んでいるのは、神経質傾向だとおもう。ポジティブになれないのだ。神経質傾向の子どもに「ポジティブになろうぜ!」といったら、ポジティブでない自分に余計な劣等感を抱くかもしれない。そういう危うさを大人は判っていて、ポジティブな人を学校に呼んでいるのだろうか。学校で子どもたちは「選択できない」危うさと隣り合わせだ。

ーーーーー

オトノネのお母さんからこんな話をきいた。
夜公園を歩いていると、向こうから、親子が歩いてくる。
子どもは小学生くらいだ。
疲れた・・・という子ども。
それに親は「あ!ネガティブな言葉はダメだっていったのに!」と怒鳴りつける。

どうしようもない。
それが定期テスト対策。
マニュアル型学習。

心が大事。

コーチングにしても、マインドセットにしても、セルフコントロールにしても、言葉をメモしてその通りに「作業」することで変わるくらい簡単な心なら、もう誰もがしあわせになっているはずだ。
大切なことなら、「作業」はもうやめよう。

それはそろばん、ピアノの練習から始まったかもしれない。
それは学校の宿題から始まったかもしれない。

大切なことなら、心を大事にしてほしい。

僕らはあまりにも、現代の機械文明に慣れすぎた。
スイッチを押したらなんか変わるとおもっているかもしれない。

人間は生き物だ。
人間は動物だ。
人間は命だ。

人間は、機械のように、そう簡単にカスタマイズできない。

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子供達は、一発限りのイベント、瞬間的なきっかけではなく、持続的な学びの環境を求めている。と、僕はおもう。一時的な祭りではなく、日々そこから学び取れる、経験をつみながら成長できる環境だ。学校の先生が変わらないで、どうして生徒だけ変えようとするのか。大人は大人であれ。子どもは子どもであれ。大人も子どもも、定期テスト対策はもうやめようよ。定期テスト対策がお金になるのは知っているけどさ。それは子育てじゃないよ。お金儲けだよ。

日本国民は、市民としてみられていない。なぜなら、納税の義務を負わされた労働者であって、権利を持った市民として、自由を使っていないから。自由を使うための学びをしていないから。もちろん学校は子どもを義務を負った労働者として育てる。それは悪いことではない。家庭が、権利と自由、個人の尊重を教えているならば。学校を批判するとき、同時に家庭を省みたらいい。家庭を顧みるとはなにか。家庭の中で、権利と自由、個人が尊重されているかどうかである。それはつまり、親が、子供の権利と自由、個人としての尊厳を守っているかどうかなのだ。「個人」とはなにか。「個人」は文化的なものだ。近代が作り上げた人間だ。日本の遺伝子・伝統に逆らって「個人」を重んじるなら、そのように子育てをしないといけない。もしそれを、望むなら。「個人」とはどのようにしてできるのか。それは、自己認識をもった人間であり、自分の命、自由や選択に対して責任をもつ人間のことでもある。自分が選択する、自分が決定する、自分が感じたことを表現する、そういうあたりまえのことができない学校から離れて、親が凛として子どもを育てること。そのために、親は社会的な資源を、仲間を、子育てのために準備(もしくは子育てしながらつくりあげていく)することが大切だ。日本の子育てシステムは壊れている。その壊れたシステムを正しく「自然」にもどす手がかりを、オトノネは大切にしたいとおもう。

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お守り

子ども時代とは、新しく生まれてきた人に、大人がお守りを渡せる時間のこと。

どんな心を、お守りに入れてあげますか?
どんな記憶を、お守りに入れてあげますか?
どんな祈りを、お守りにかけますか?

子ども時代とは、新しく生まれてきてからだいぶ時間が経った人に、子どもがお守りを渡せる時間のこと。

どんな心が、お守りに入れてありますか?
どんな記憶が、お守りに入れてありますか?
どんな祈りが、お守りにかけられていますか?

そのお守りをつくっているその人の姿を思い浮かべるだけでもいい。
どんな表情で
どんな歌を口ずさみながら
どんな手つきで
どんなそぶりで
どんな物腰で
お守りを縫い合わせたのか。

命を、つむぎ出してきた、そのへその緒でできた、お守り。
命が、つむぎ出されてきた、そのへその緒でできた、お守り。

生まれ出た命のあたたかさを思い出すだけでもいい。
思い出してみて、感じたことを、考えずに、心に、抱き続けてみてほしい。

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