【インディアンの教え】ドリームタイム

夜、夜更かしをする。
ということが、よく思春期の子にはある。

大人でもよくある。

夜の時間は、ネイティブインディアンの言葉で「ドリームタイム」と呼ばれている。

神聖な時間。

不思議な時間。

神秘の時間。

つながる時間。

この時間に、現実の世界からちょっと離れて、
アニメを見る。

youtubeを見る。

そういう子どもたちは、まさに、「夢の時間」で、本当の気持ちを感じようとしているのかもしれない。

バリ島、夜、この時間まで儀式を続けていた。
夜の時間。

社会的にドリームタイムが、人の心のインフラとして整備されていた。

夜の時間が、何か大切なものを、教えてくれる。

オトノネひろげるシェアぼたん

【2歳】ウハウハ期にウハウハできないから思春期を迎えられない?という仮説。

を勝手に立てた。

今、ナルシシズムの本を読みながら、幼児期に適切に心の仕組みをつくれなかった子が、大きくなって、ナルシシストになって人を不幸にしていく話を読んだ。

保育園を見学しまくっていた時期に、2歳児クラスがどうも2歳児っぽくない印象を受けたのを今でも覚えている。
そして1歳児のクラスを見た時、あまりにも窮屈で過酷な保育環境に、大人の叫び声で子どもの声が聞こえない保育室の雰囲気を、今でも覚えている。

あれをしたらあれをする、これをしたら、次はこれ。
そういう流れ作業が目について、情緒的な関わりはほとんどない。いや、一切なかった。

(誇らしげにある保育士が「おしめを替える競争をしていたよ!」と冗談半分で言っていたが、狂っている。)

児童福祉施設、乳児院でも同様のケースをみてきた。(いやいや、ちゃんと子どもと関われているところは、関われている。組織のあり方で、がらっと変わってしまう)
この背景には、大人の組織が言語レベルではなく行為レベルでしか成り立っていない、コミュニケーションではなく、ただの支持・命令・規則でしか動けないという文化が影響している。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

「やることやってから喋れ!」というアレである。
いやいや、それをやるかやらないかが問題なんだけど。が、通じない。

「まずは3年黙って働け!」というアレである。
いやいや、3年間、新しい時代の人たちの思考力・感性を無力化してどうするの。

発達は生まれた瞬間から始まる関わり合いの積み重ねだ。
0歳、1歳のとき、、、、

ーーーーーーーー

2歳になる前に、子供は保育士から暴力を受けるとしよう。(暴力が当たり前の文化になってしまった組織ではごくごく当たり前に子供は暴力にさらされている)
学校のネグレクトに気がつく【児童虐待に気付きにくい理由】
そうすると、2歳になってウハウハすること、自分を出すこと、ほとばしる感情、自立心、もしくは挑戦する心、探究心を出すことができない。
1歳のときにすでに、心がすり減らされているからだ。とおもえてしまった。
「怒られる」「怒鳴られる」
小さい子も立派に学んでいる。
小さいなりに、無力なりに、生き残ろうとする心のしくみがはたらく。

その子が大人になって、自立して、しあわせを感じて生きていけるだろうか。
それが問題だ。多くの本の答えは「NO」である。

もちろん「NO!」

ーーーーーーーー

お母さんは家で子どもと情緒的な関わりができているだろうか。
人間的に関われているだろうか。
くたくたで会社から帰ってきて、子どもと情緒的に関わることができているのか。

思春期を迎えられない子どもが多い。
探究心、自立心、2歳のウハウハで学ぶことが学べていないのだから、そうなってもしょうがない。
思春期を支える大人、励ましてくれる大人と出会えない子どもが多い。
(それでもちゃんと頑張って思春期を彼らなりにやっている高校生を僕は知っているから、命は本当に神秘的だと思う)

たとえ励ましてくれる大人がいても、もはや「命」がクタクタになっていて、思春期を迎えられない子がいるのではないか。

子どもたちから、子ども時代を搾取する大人が、保育士という資格の下、社会福祉法人という名の下に、公然と、笑顔で、子どもを迎えにきたお母さんを出迎える。
もちろん、本人はそれが普通だから、気がつかない。

小学生になっていじめが起きたり、人間関係がうまく行かなくなるのも、当たり前だ。
発達は、積み重なって行くものだから。

と、おとのねさんはおもいましたとさ。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

オトノネひろげるシェアぼたん

【ビジネスの原理】情を売る。

愛を売る、と言われて思いつくのはホストとかキャバクラとかいう夜のお仕事だったりなんだり。

塾も学校も愛を売っているケースがある。

いやいや、愛は残念ながらスキルなので売れない。
愛とは何か?

情のエネルギーを注ぎ込む「型」になんと名前をつけたらいいのか、考えてみよう。

ーーーーー

塾にいる「やさしい」先生。
通学中にお腹が痛くなって迎えに来てくれる先生。
頑張って進級「させて」くれる先生。

どれも、「愛情」のあるいい先生のように思える。
行為レベルでは。

ーーーーー

言語レベルではどうだろう。
「やさしーくしていないと生徒はやめていくから甘やかす」
「迎えに行かないと学校何してんだと言われるし、生徒からもなんで来てくれなかったのかといわれるから行く」
「教育委員会からの評価も下がるし、親への対応もめんどくさいから進級させる」

これはどんな「情」からくるのだろうか。

ーーーーー

学校も塾も、情を売るサービスだといえるだろうか。
安心を売る塾。
卒業資格を売る学校。

「立場」や「役」をどう考えるか。
塾や学校は「安心を売る」「卒業資格を売る」ことで立場を守っている。
そのために「やさしい」とか「迎えに行く」とか「進級させる」という役を担う。

それが、ビジネスの原理。

僕にはどういうわけか、塾や学校がキャバクラやホストクラブと同じように思える。
愛のない情の世界で、子どもたちは、今日もスマホを手に、レバニラを探して歩いているのかもしれない。

レバニラかとおもって注文したら、ニラしか入っていないのが、「自然」な世の中になってしまった。
「レバニラ」を頼んだら、「ニラ」がでてくることに、違和感がなくなってしまった。
「ご注文の、レバニラです!」「え?レバーは入っていないんですか?」「え?入っていますよ?これが、レバニラです!」
そうして、「ニラ」を「レバニラ」と呼ぶようになった。

ビジネスの原理から子どもをどう守るか。
お母さんが、ビジネスとして子供を育てていたなら、もう、ニラばかりで、子どもは別の進化を遂げ始めている。

と、僕は感じている。

レバーのない世界で、子どもたちは、新しい生き方を、探し始めている。
レバーを諦める人もいる。
レバーを探す人もいる。

二つの文化が、お互いにお互いを尊重できるなら、いいのであるが。
2つの文化

愛は、情ではない。

オトノネひろげるシェアぼたん

2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

お母さんから相談があった。

お母さんは悩んでいるらしい。
お父さんは悩んでいないらしい。
子どもが学校で先生にいじめられている件について。

もしかしたらお母さんは県外出身かもしれない(まだきいていない)。
お父さんは、富山県の人だろう笑

いやいや、お父さんはなぜか子どもの事情に口を出すことがすくない印象を受けるこの頃。

男と女、でもいいし、学校と家、でもいい。
まったく違う文化があったときに。

その二つの文化が摩擦を生み出しているときに。
どうするか。

ーー

インドネシアのスラウェシ島で聞いた話。

「村には村の儀式がある」
「結婚するときも違うしきたりがあって、島が違えば、儀式も違う」

え?じゃぁ、別の村、地域、島の人同士が結婚するときって、どうするの?
と僕は聞いた。

「どっちもやる」

が答えでした笑

ーーーーー

もちろんこれは儀式であって、行為、振る舞いを変えて二度結婚式をするようなもの。
それで、「よし」なのだ笑

どちらか一方に染まる必要はない。
優劣はない。
二つの文化の思いを背負った二人の人間のための、またその二人を見守る二つの文化への敬意だ。

ーーーーー

郷に入れば郷に従え、という言葉が、日本にはある。
なるほど、例えば最近、日本にやってくる外国からくる観光客の素行が問題となっているらしいが。
(温泉の入り方とか、道にゴミ巻いて行くとか、食べ歩くとか、、いろんなレベルがあるが)

「郷に入れば業に従え」笑というやり方は、日本のどんな精神文化を表しているのだろう。

人間疎外、全体主義の国といっていいんだろうか。
「うちの会社に入ったんだから、従え」
「学校に来たんだから、従え」
「うちの子に生まれたのだから、従え」

人と人のコミュニケーションが、人と人の学びが、そこには生じない。
人間疎外。

そうして、「従って」自己疎外が始まる。


これは人と人の境界線を越えて精神を犯してくる暴力、ナルシシズムとみることもできる。
他者を自分の(じぶんたちの)一部だとみなすこの文化は、ナルシシズムだと僕はおもっている。

集団的なナルシシズム。
凶悪だ。

========

「従え」という言葉は使わないが、常日頃の日常会話の中で、振る舞いの中で、子どもを「従え」ているナルシシストなお母さんがいる。

例えば。

「支援級に行ったら、子どもはお嫁にいけなくなる」といって普通級に止まらせて勉強についていけないと悩んでいるお母さんがいる。
しかも「普通級にいるのは子どもの意思だ」という。

これが自己欺瞞であり、子どもから大事な子ども時代を搾取していても気がつかず、親が子どもを人間として疎外している例だ。
(将来が不安だから勉強「させて」いい大学に「行かせ」るために塾に「行かせる」のと同じで凶悪だ)

他にもいろいろなパターンがある。

欺瞞に満ちた多くのお母さんは「子どもの意思を尊重している」といって、自分に対する欺瞞を認めない(欺瞞とはそういうものだ)。

他者を欺き、自己も欺き、子どもも欺く。

なんのためか。

目的はない。

狂っているだけだ。

しかもその、自覚がない。
ナルシシストとは、そういうものだ。

========

さて、2つの文化の話に戻しましょう笑

ーーーー

例えば。

お母さんは「宿題はやらなくちゃだめ」といっている。
お父さんは「宿題をやらなくてもいい」と言っている。
そういう家庭を想像してみよう。

学校では「それはダメだ」と言われ、家では「それはイイよ」という状況を想像してみよう。

9歳を過ぎていたら、それを疑問に思うだろう。
「へ?どっちだよ!」

その二つの文化、二つの考え方に対して、自分はどう関わって行くのか。
どう「理解」をしていくのか。

「解釈」していくのか。

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
8歳、9歳は、大切な時期ですーファンタジーと現実のあいだ
【8才からの内言】自立心と感情のコントロールと思春期
学童期に大切な「学び」を保障する場所。

一方の文化を尊重し、もう一方の文化も尊重し、お互いの考えを知ること。
(学校の考えは学校が教えてくれることがないので聞かなくてもいいが、結局は「学校のため」であるから別に聞く意味もないだろうが)
どちらも「大切」なら、両方受け入れてもいい。

両方受け入れられるような心をつくるしくみ、やりかた、振る舞いを学んでいけばいい。
板挟みになって、自分の心が擦り切れてしまう、隠蔽してしまうのが、欺瞞が、一番、ダメダメなパターン。

自分を大事にできなかったら、他の人を本当に大事にすることなんて、できないから。

どうしようもない狂人、魔王は実在する。
その人たちの「文化」とは別に、自分の「文化」を守ろう(破壊しにやってくるから、守ろう)というのが、オトノネのスタイルです。

学校というナルシシズム組織から、子供の心を守りましょう。
子どもから子ども時代を搾取する組織から、子どもの心を守りましょう。

と、おとのねさんは、おもいましたとさ。

オトノネひろげるシェアぼたん

『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア ブラック

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック , 水澤 都加佐
子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

ーーーーー

子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

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さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。

調査・日本の飲酒実態


家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です

日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは?

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
  【令和元年12月1日現在(概算値)】
    <総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
 眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
 理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
 ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
 知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

オトノネひろげるシェアぼたん

現実の世界を観察する子どものコメント

こんな観察眼が育ってしまう生徒がいる、、、、

バイト先(飲食店)に来た家族が・・・
お母さんが娘に向かって「○○ちゃん、こっちとこっち、どっちにする?」とか「ストローきたよ!」とか喋る感じ。
その娘さんは、死んだ魚のような目をしていた。娘さんは、大学に行く前か大学生か就職前くらいの年齢だったという。

生徒曰く「怖いよ。やばいよ。なんなのあの家族」
暴力の雰囲気を感じられるようになった分だけ、心を強くしていってほしいとおもう。

被害者?加害者?
テレビ番組で、呪いの手紙をもらって「被害者」として登場していたひと(家族持ち、男性)が、実は不倫をしていて、「加害者」は不倫相手だった。という。不倫相手は加害者なのか。加害者は夫(被害者)ではないか。というお話し。

うーん、するどいな。。。

—-

高校の上履きの4方向に名前を書かなければいけなかったという話も聞いた。
なぜだろう????

もちろん、魔王の策略だ笑

オトノネひろげるシェアぼたん

躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』カール・ハインツ ブリッシュ

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ
『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』カール・ハインツ ブリッシュ

躾と気締めである。

しつけは身の美しさであって、けじめは気を締めること。だということにしておこう。

けじめをつけることの大切さを感じる。

自由、自由というが、そこで自分の気をコントロールできるかどうか。

たくさんあそんだ!それから次の行動に移っていく。

解放させた気を締めること。


それがケジメ。

もしくは如何にコントロールしながら、解放するか。


それがケジメ

「じぶんひとりなら」ダダ漏れしていた気を、その状況に応じて、調節すること。
それもケジメだ。
(家の外では出せない気を家の中で出していて、お母さんが怒る、という笑い話もある。外では出せないから、家の中で出しているのだ。例えばそれが「怠け癖」だとしたら・・・家の外でケジメをつけすぎていて、疲れているのかもしれない。)

気分が暗い時、暗い気持ちにけじめをつけて楽しいことをしてみること。楽しい気分でいるときに「あ、けどこれもやらなくちゃいけなかった」とか。当然といえば当然のこと。

しつけといって仕舞えば、「いい子」になることのように聞こえるが、けじめといえば「自律した子」のように聞こえる。しつけという言葉には、支配的な、文化的な響きがある。

ーーーーーー

ケジメは、感情をコントロールすることだ。
感情をうまく使っていくことだ。

0歳の時から、このケジメは始まる。
泣いている赤ちゃんに「声をかけてから」ミルクの準備をする。
それを続けただけでも、「声をかける」ことで赤ちゃんは安心して、泣くのをやめるようになるかもしれない。
気を締める。

心は、0歳のときから、作られる。

少なくとも、感情を押しとどめる、「いい子」でいることはケジメではない。
それは気詰まりであり、息苦しさだ。(破裂するまで、しばらく辛いだろう)

ーーーーー

少し大きくなって、「褒める」ことばかりをしていると、何も考えない、できないと癇癪を起こす子になる。
「褒める」といいという定期テスト対策的子育てが流行っているらしいが、僕は全くオススメしない。
「与える」にしても同じだ。「なんだこんなもの」と大人が思い買って与えるだけでも、子どもにとっては「もの」ではなく、泣いたら、駄々をこねたら与えられるのだという現象を学ぶことになる。

ケジメは、いいこと、わるいことを教えることではない。
感情をコントロールできる、大丈夫だ、僕は一人でも大丈夫だ、という自立心と自信をもつこと。

これが、ケジメの目標だとおもう。

ケジメができていないと、将来どんなに生きづらくなるか。

ケジメは、押さえつけることではない。
自由を、使いこなすことだ。
自由を使いこなし、大切な人、大切なものを守るためのものだ。

ーーーーーー

しつけという言葉は、子供をペットにしかねない。
ケジメ、という言葉をつかってほしい。

子供の気持ちを、どんなエネルギーに変えたらいいのか?
それもケジメのひとつ。

「学校でこんなことがあったの・・・」
こんなことを質問されたら、どう答えるだろうか?

まだ気が締まらない(どうやって気を整えたらいいかわからない)状況を、心が処理するしくみをつくること。
これもケジメをつけることだ。
ただただ押さえつけることではない。

「気にしなくて大丈夫だよ」というか。
「それは先生にいわないとね!」というか。
そのお母さんの言葉の感情が、その子にも伝わるだろう。

「どうしたかったの?」
「何を感じたの?」と、問いかけて、子供の頭の中で、心で、もう一度整理する時間をつくってあげることを、僕はオススメするけれど。

一人では難しい、心のプロセスを、手伝ってくれる人に出会った子どもは、しあわせだ。

ーーーーーーーーー

子供の未成熟さが、弱い子供、弱い大人をつくりだす。過保護が、子供を未熟にする。引きこもり、いじめ、8050問題、DVや暴力、ストーカーなどの社会現象の根源は、親の過保護にあり、親が過保護にならざるをえない社会の不安にある。人を愛せない、共感できない、相手のことを考えられないなど、多くの政治的社会的に高い地位にある大人たちも未熟な状態であるために、日本は混乱している。児童虐待もDVも不登校も、政治的な混乱もなくならないのは、過保護を引き起こす社会不安によるものだ。恥や罪の意識は子供にも伝わります。

子育ては、親育てでもあります。
子どもからたくさん学んでください。
お母さんが子供時代にやれなかった宿題を、子供にやらせずに、自分でやってみてください。
お子さんと同時に、お母さんの宿題のお手伝いも、オトノネはしたいとおもっています。
わかっているお母さんもいるとおもいます。
でもどうしていいかわからない・・・
お子さんに、お母さんやお父さんの心の未熟な部分を押し付けないですむ方法を、一緒に考えましょう。というか実践していきましょう。
怒りや不満、不安や悲しみを子供に押し付けてしまっていませんか。
僕もまだまだ未熟さをかかえたまま、前にすすんでいます。

大丈夫です。

「知る」ということだけでも変わるかもしれません。
お子さんの成長をみながら、「感じる」ことで変わるかもしれません。
そのプロセスはわかりません。
だから一緒に、はじめてみませんか。

いつまでも誰かにえらいえらいと言われていなければ心を保てない子、実力がないのに偽りの賞賛を与えられてきた子、本当の自分を隠してきた子。思春期に、悩まなかった子。悩むことを許されなかった子。自立した人間として向かい合ってくれる大人に出会えなかった子。「ノー」と言えない子。挫折・失敗に弱い子。病んだエネルギーは、誰に向かうのか?自分の心身症になる人もいれば、他者に対する暴力というかたちをとる人もいる。DVに気づかないお母さん、児童虐待に気づかないお母さんもいる。アルコール依存症、セックス依存症は、「もう自分ではどうしようもない」無気力、無力感の叫びだと、僕は思っています。

===========

オウム真理教を覚えていますか。
知っていますか。

「娘を教団に取られた」というお母さんが記者会見をしたときに、その娘さんが「お前たちは帰れ!私たちの邪魔をするな!」みたいなこと(すみません正確にセリフは覚えておらず、ただ自分のことを「私たち」と呼び、母を「お前たち」と呼んだということです)を言ったという。

よくある話で、教団に入って洗脳されてしまうような子に、子どもが育ったことに、お母さんが気がついていないのだ。

お母さんのせい、ではない。
といえるかもしれない。
この社会が悪いのだと。

では、子育てとはなんだろうか????

心から笑いあえる時間を大切にすること、といってもいいかもしれない。

ーーーーーーーー

過保護とか、虐待とか、小さな暴力が当たり前の世の中になっている。
大人の世界がそうだから、子供の世界もそうなる。

大きくなってからの「治療法」をみると、、、やっぱり、鏡になって、向かい合ってくれるもう一人の自分との出会いなのだとおもう。(その関係が、医者とかカウンセラーでなかったのなら、一方的な関係は、続かないだろうが。。。)

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ

この本には「生まれる前から」「生まれた後も」妊娠・出産・子育ての段階でそれぞれ親の宿題に親が取り組む実践(ということは、親以外の人も取り組むということ)を書いている。
基本、話す、心から話すような状況をつくる、、ということなのだが(だいたいオトノネも同じことをしている)、話すだけに限らない。行動しながら、変わっていく。

この本は過保護だめよーというやつ。治療法とかは抽象的すぎてわかりにくい。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
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「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?

これもよくある話。

「問題行動」という言葉がある。
これも半ば、呪いの言葉なのだが・・・

指し示しているものは「社会的に不適切とみなされた行動」だ。
校則違反も問題行動になるだろう。

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人の中には、怪獣がいる。
心には怪獣が住んでいる。

シャーマンの世界で言えば、守護霊のようなものだと僕はおもっている。
つまるところ、それはチカラだ。

たとえばこれが「やんちゃ坊主」の「問題行動」だとしよう。
それがただのけじめがついていないだけなら、「感情のコントロール」の仕方を学んでいってもらうために、お母さんは凛として言葉を使ったらいい。

しつけとけじめ

しつけ
勉強は「しつけ」か「あそび」か

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が。

それがどうも、その子の命のエネルギーが溢れてしょうがない状態、からでてくる「問題行動」もある。
と僕はおもう。

溢れさせてはいけない場面もあるだろう。
それこそ「気締め」、ケジメをつけなくては、映画館でも大変なことになるだろう。

だが、そのエネルギーを、命の炎を燃やせずに水をかけられるだけでは、子どもの輝きがなくなってしまうかもしれない。

「悪い」怪獣なのか?「良い」怪獣なのか?

「良い」怪獣として育てるには?
それこそ、学びだし、教育だし、自己理解だし、メタスキルだ。

例えば・・・・
エジソンだったか。
アインシュタインだったか。
だれだったか忘れたが「好奇心」という名前の怪獣がいたために、学校で除け者にされてしまった人がいる。
この子は「好奇心」という怪獣と一緒に成長できるように、お母さんが「ホームスクール」した。
つまり学校に行かなかった。

そうして、その子は、歴史に名を残す人物になりましたとさ。
もしその怪獣を殺そうとしたら、、、またそれは別のストーリーになっただろう。

「怪獣」とどうつきあうか、つまり「チカラ」をどうつかうかは、その子次第だし、その子の成長を見守る大人たち次第だ。

それは「ストレングス」とかいう言葉であらわしてもいい。
強み、自分らしさ。そうして「自分はこういう人間だ。だからこうして生きる」というメタ認知ができるようになったら、人生、楽しく生きられるようになるとおもう。

「自分は本当はこうなんだけど(怪獣は心にいるんだけど)、それを出したら(怪獣のチカラを見せたら)お母さんに怒られる・・・」といったイイ子に徹する子もいる。

「いやもう、これ、私だし」といって、御構い無しに怪獣をだしてくる子もいる。

ひとそれぞれ。

ただその関わり方を、出し方を、大人たちは教えることができるだろう。
「使い道」というのは、「社会でどう使うか」「そのチカラを、何に役立てるか」という知恵に繋がっているからだ。

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カスカネダの書いたシャーマンの生き方、修行の記録の中には、精霊との戦いというものがある。
精霊は、チカラをもっている。
シャーマンは、それを取り込み(?)、コントロールしなくては死んでしまう。
精霊に殺されてしまう。
精霊は悪霊にもなる。

同じことが、子どもたちの「チカラ」についてもいえるのではないか。

子供の中に現れた怪獣は、そのチカラを使いたがっている。
もしそれを檻にいれるだけしたら、脱走したり、本当に、人を食らうかもしれない。
(現代の漫画でよくあるストーリー)
もしくは、怪獣からもらっていたチカラをもらえなくなって、鬱、病になるかもしれない。

怪獣は、チカラをくれる存在だ。

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学校にすれば、「不登校」も問題行動なのかな。
「いじめ」も問題行動だ。(校長先生の評価が下がるからだ)
けど学校はそうした怪獣の存在なんて知らないし、「定期テスト対策」的な処世しかできないのが、現実。

学校の中では檻に入れられてしまう怪物を、子どものチカラとして、社会の中で使えるようにするには???
家庭教育、社会教育だろう。

学校は、学校のことで精一杯だから。

そういう視点で、「この子は今、どんな心をもっているのか。どんな発達段階にいるのか」といった見方を、まずはお母さんにしてほしいとおもっている。

気締めによって怪獣をコントロールすること。それは小さい時の気締めとかわらない。一人でできることもあるし、誰かの助けを借りて、コントロールできるようになっていくこともある。
そのための心のしくみを作って行くことが、人としての大きな成長になるとぼくはおもっている。

ゴジラがなんだかんだいって地球を守っているように、お子さんの「怪獣」も、お子さんを助けるチカラになるかもしれない。
まずはお子さんの怪獣と、話をしてみたらどうだろうか。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。

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創造力とは何か。『子どもの心的世界のゆらぎと発達』木下 孝司

子どもの心的世界のゆらぎと発達: 表象発達をめぐる不思議
『子どもの心的世界のゆらぎと発達』木下 孝司

ファンタジー、創造性とは何か。
創造性のない個性は、切れない包丁だ。

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何も芸術家という職業につくために必要なことではない。
「ここにはない姿」「ここにはない何か」を思い描き、そこに向かっていく、つくっていくという人間の自然な姿だ。
インドネシアでは多くの創造的な人たち、芸術家に出会った。
ある人は、かつて栄えていた「帆船」の文化を省みて、海を移動する移動図書館を作った。
ある人は、コーヒー屋を営み、「僕はコーヒーを気にしてはいない。コーヒーを飲みに来る人のことを気にしているんだ」という言葉を僕に送ってくれた。今までにない、コーヒーを売らないコーヒー屋さんだ。

誰も決めてはくれない、自分一人の命の燃やし方。
一人で燃やすものでもない。
それをビジネスにする人もいれば、お金にはならなくても毎日が輝き続ける生活を送る人もいる。

誰も自分の人生を決めてはくれない。
流れていったら、流れ着く人生もある。
けどやっぱり人間は一人一人がオリジナリティを発揮するしかない。
「わたし」というものがあるからだ。
ひとりひとりに天の才が備わっているからだ。

ファンタジー、創造性という言葉を私が使う時、それは「自分の人生を自分でつくる」チカラを意味している。
不安定な社会で、これほど大切なチカラがあるだろうか?
このチカラはどうやって身につくのだろうか。
大人はどうやって子どもたちにこのチカラをつけていってもらったらいいのか?

それはオトノネのテーマでもある。
創造性は、教育の、子育ての、大きな指針であると思う。
個性という言葉の内実は、創造性にある。

創造性は、この現実世界の正しい知識、認識、経験の深さがあってはじめて生まれてくるように僕はおもう。
目の前にあるもの、(自分の中で起こっていることを含めて)目の前で起きていることを正しくみれなければ、感じていなければ、ファンタジーのチカラは現実世界に創造されず、虚構の世界にとどまってしまう。(そして多くの若者が御三家から中堅大学を経て若者サポートセンターへと向かうことをご存知だろうか。もちろんデータは非公開なので数値が言えないところが日本らしい)

創造性のない個性は、切れない包丁だ。
創造性を使うには????
自己選択能力、自己調整能力、メタスキル だ。

麻生は神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の犯人である少年に関する新聞記事の解釈に、次のような見解を述べています。

私が危惧するのは、この種の一般に流布しがちな見解が、ファンタジーと現実の関係について謝ったイメージを生み出してしまう危険性である、少年Aの問題は、ファンタジーが肥大し、現実が侵食されたことにあるのでは決してない。むしろ、彼の問題は、ファンタジーを生み出す力が十分に育っていなかったことにあるように思われる。堪え難い過酷な現実が目の前に聳え立つとき、私たち人間にはその現実に対抗するもう1つのリアリティを生み出す力が備わっている、それが物語やファンタジーを生み出す力である、少年Aの問題は、決してファンタジーの過剰にあるのではない。むしろ逆に、ファンタジーの希薄さにあるように感じられる。

麻生はその証拠として、少年Aのファンタジーにはオリジナリティが少なく、コピーが目立つことも指摘しています。用事が魔法のステッキやブレスレット、ヒーローベルトを手に入れて、そのまねをすることで今とは違う自分になろうとすることは他社のアイディアのコピーです。しかし、まねをしてみても返信できなかった時、どのようにすれば実現可能なのかを考え、自分なりに繰り返し修正を加えながらその実現可能性を試そうとする姿は、子どものオリジナリティが成せるものだと言えるでしょう。これは、これまで紹介してきた実験での用事の姿とも共通するものです。(略)他者の生み出したものにあこがれ、それを超えたものにするためには、自らの知識や経験をつなぎ合わせ、あれやこれや試行錯誤することが欠かせません。ヴィゴツキーは「創造物は経験(既有知識)の諸要素を様々に組み合わせることによって生み出されるものである」とし、「想像と経験は相互に依存する関係である」と述べています。経験や既有知識の量が多いほど、そのダンンペン同士の組み合わせが奥生じて想像力は広がりを見せ、その結果生まれた創造物はより豊かなものになるといううのです。このことからも言えるように、非現実的で魔術的な想像そのものが危険なわけではないのです。毎日の生活を思い切り生きているなかで獲得された知識をもとにした現実世界に根ざしたものであれば、非現実的で魔術的な想像も人間の生活をより豊かにするものとなり得るのです。4〜5歳頃の幼児はまさにこの現実と創造の世界を豊かに生きる住人になり始めているのだとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.154)

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蛇足になるが、この本ではファンタジーという概念を共同幻想まで広げている。筆者の言葉によれば、「公的虚構」というものだ。個性、一人の人間が「自己」の天の才を発現するものを「私的虚構」だとすれば、サンタクロースは「公的虚構」だ。

作られている世界観、価値観が「ウソッコ」だったということに気づくのは9歳前後だという。
「いい子にしていれば」とか「一番になれば」とか「我慢していたら」という価値観、「どうしようもないんだ」「自分はこうなんだ」という気持ち、今まで感じたこと、経験してきたことが再構成される。
9歳。小学3、4年生。

これは2歳、15歳とはまた別様の思春期ではないか。
と僕は今思った。

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数列的には(これは僕のあそびです)
1+7×0=2
1+7×1=8(9にはならなかった・・・7でなく8にしたらよかったか)
1+7×2=15
生物の現象は指数的だというが、局地的にみればここは線型的、本当に長い人生のごくごく一部、ということだろうか。
この計算を続けると、
1+7×3=22(大学卒業?)
7、8年刻みのライフイベント笑
7、8年ごとに、自己は大きく揺れ動くのか!???

1というのは、いわゆる初語がでてくる一歳のことです。

8は無限の意味をもっている。∞
八百屋は野菜ならなんでも売ってるから8。
八百万の神はたくさんの神様。
八方美人は全方位に対応している。(この考えをつきつめると数秘主義とかいわれてしまう)

繰り返される成長。
子ども時代は、なんとまぁ輝いてみえることか。
大人だって、輝けるはずだ。と、僕は思う。

思春期、とは違うかもしれないけど発達のポイント、節目として5歳をいれたら。。。
そうやって思索にふけってしまうのが僕のいいところか、悪いところか。

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初潮が早まっているこの時代、思春期の定義を拡張するのもいいかもしれない。
教育制度が、時代についていっていない。

だからオトノネ!!!笑

小学3、4年生が、otonone-オトノネ-に来るのに、ちょうどいい時期、だということだろうか?
ファンタジーは、創造力は子どもたちの助けになる。
現実の世界、今ある世界を俯瞰的に眺められる、もう一つの視点をつくれる、世界は塞がれてはいない、窓があって、扉があって、外の世界と繋がっているということを知っていることは、現実世界を生きることの役に立つからだ。

ドキドキワクワクの源泉となる思いは、いったいどこでつくられていくのでしょう。筆者は、その鍵は幼児後期から児童前期(4歳半〜8歳)にかけての多元的世界の形成、すなわち、「リアル」世界でも「アリエナイ」世界でもない「第3の世界」の形成にあると思います。私たちは児童後期以降、表面的にはリアリティを基準に世界を大きく二分割していきていきますが、実際には、潜在意識に刻み込まれた多元的世界を胸に潜め、それに励まされて生きていくのです。児童文学研究家の松岡は、これと似た事柄を「サンタクロースの部屋」という巧みな言葉で表しています。「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間を作り上げている。サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに代わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる」。これとまさに同じことが、多元的世界の形成にも言えるように思います。(略)幼児後期から児童前期にかけての多元的世界の形成こそが、その後、多様な価値を受け入れたり、新たな価値を作り出したり、新しいことに対して常に新鮮な気持ちで接していけたりする、そうした豊かな人間生活を私たちに可能にさせてくれるのではないかとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.188)

ドキドキワクワクの人生。

心が大事。

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