富山県で家を買ってローンという借金をして得たものは何か【大人の宿題】も完全個別×子別

このブログを書いた後で、「ああ、僕は今、怒っているな」と感じました。
どうにもできない、自分への怒りです。

あまりにも大きな、一足飛びに解決できない歯がゆさ、無力な自分への怒りです。

そこのところを了解してもらった上で、読んでいただけたらいいかともいます。

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家を買って、、仕事をして借金を返して暮らす多くの富山県の人たち。

富山県で共働きが多い理由を考える。
【ある古老の語る仮説】富山県で共働きが多い理由。

そして、子どもが・・・家に、閉じこもる。(いやべつに、いいんだけどね)
ひきこもるとは。不登校の機能。

家を守っているんですか?
子どもを守っているんですか?

何を、買ったんですか?
あなたの買った家の、価値は、なんですか。

家のリッチネスを、使っていますか。
家が、牢獄になっていませんか。

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こんな質問をされたら、「うっ!」となるだろうか。

困っているけど声を出せないお母さんなう
言いたいことが言えない。

大人の宿題、大人の学びを、オトノネは大切にしています。
学ぶための、考えるための、いろいろな知識というものがあります。
考えるにせよ、学ぶにせよ、「知る」ことは大切です。

ただ、「知る」ということ一つも、「学び」の一部であって、ほとんどのお母さんたちがやりのこしている【大人の宿題】だということを、多くの人が知らないのが現実です。
↓下の記事は難しいと思うので簡単にいうと、「現実の世界をみようとしても、感じようとしても、心がブロックされていたら、学べない、見えない、感じられない」ということです。
【暗黙の次元って何?】安冨歩さんの『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』のメモ

「学び」が始まるには、、、「堕落」が一番だと、今はそうおもいます。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

もしくは、「言い訳」をしている自分に気がついて、「飛び降りる」こと。

変わるというのは、そういうものなのだ。
だから、富山県は変わらない。
日本は変わらない。

変わるのは、人間しかない。

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富山ブラックにはいろいろなしかけがある。

家を買うことになっている。
「ローンを組むことになっている(この言い方は、経済界の作った呪いであり、正確に言うと「借金を背負うことになっている」)」。
共働きすることになっている。
「内申点」で学校から脅しを受けるようになっている。
お母さんが、不安になるように、作られている。

富山県の「どうしようもない」文化が、制度が、子どもを「どうしようもない」状況に追いやる。

たぶん、子どもは保育園で不当な扱いを受けているだろう。(残念ながら、僕の目から言わせれば、、、、社会福祉法人という組織自体が狂っている。そこで働いている人で、狂っていない人がいたら、奇跡的だ)
それでも、何が起きても、子供をお母さん自身が守ることができない、らしい。
なぜなら、借金を返すために、仕事をしなくちゃいけないから??????????????????

「どうしようもない」

「どうしようもない」

どうしようもない?

ということで、悪口を言ったり、愚痴を言ったり、息抜きに励むようになる。

「どうしようもない」

その無気力、無力感で富山県は、というか日本という場所は満ち溢れている。
学習性無力感・学習性無気力とは?
【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。高岡高校の生徒はなぜ自殺したのか。
富山のメンタルヘルスと「怪獣」
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
ブラックはラーメンだけでいい。学校はホワイトであってほしい。

そんななかで、独自の進化笑を遂げる人もいる。
ひとりひとり違う。

だが、富山という文化で育った心が「自然」と向かう先は、他者に付合することだ。(富山に限ったことではないが)
自立する、選択する、積極的自己責任を負う、といったメタスキルが弱いから、自然と生きる知恵として「決められたことをする」生き方になるしかない。
教育衰退国、富山で生きる知恵だ。(日本が全体、そうなっているが、富山はまたかなりヒドイ。そのデータ、根拠は随所で出しているので探されたし)
「育英」に入れる、というのも、知恵の一つだ。だって、判断する力が、行動する力が、弱いのだから、与えられた情報だけでやっていくしかない。

だがその「知恵」が、子どもの「命」を輝かせるかは、また別の話だ。

「宿題はやらなくちゃいけないものだ」という「知恵」が、多くの子どもたちの心をすり減らしている。
「家を買って借金を背負う」という「知恵」が、多くのお母さんの心をすり減らしている。

これは、事実だと、僕は思う。(そう見える人には、そう見えている)

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人は皆、誰もが、投資をしている。
借金をして家に投資したなら、家からいいものをたくさんもらったらいい。
もらえるだけの投資をしたらいい。
そうして「安心」のために塾に行かせるお母さんがやたら多いのだけれど。

家に投資をした。
それだけ大きな額を投じた。
であれば、投資をした分だけ、そこから得たらいい。

得られないとわかったなら、、、借金返済を長引かせて子育てが終わってから「宿題」として返していくのはどうだろう?

人は皆、投資家。
「自分」という資産の価値を理解した人間が、別の価値と出会い、自分の価値を上げていくプロセス。

たとえ、それが「お金」でなかったとしても。

「もの」に価値を感じる人がいる。
そういう人はブランドとか、見た目、にこだわる。

「もの」ではないものに価値を感じる人もいる。
そういう人は、旅行とか、食事とか(「もの」か?)、そういうものにこだわる。

あなたにとっての「家」の価値はなんでしょうか
投資した分だけ、その価値を享受しているでしょうか。
(僕だったらその家が子どもの心を豊かにするために、そして僕自身が研究するのに勝手がいいようにつかわれるだろう。「家」だって「組織」だって、生かすのも殺すのも人間次第)

もしかしたら、それだけ大きな投資をした「家」をきちんと使ってあげたら、うまくいくことがあるのかもしれない。

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一人では愚痴もいえない人がいる。
(そもそも愚痴は一人でいうものではないが。。。)

「なんか違うんだよなぁ」と思いながら、その感情を、情を、どうしたらいいかわからない人がいる。

答えはない。
答えは人からもらうものではない。
ただ、ひとりでは「自分の答え」がなかなか出せないのも事実。

そのプロセスが、ひとりひとり違う。(だからオトノネは完全個別×個別)

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ある人は、「いいもの」を感じることもできない。
ある人は「わるいもの」を感じることしかできない。

「いいもの」を感じる心が、潰されてしまっている大人がたくさんいる。
誰かから与えられた「いいもの」に合わせて心を潰している大人がたくさんいる。
(「学校の宿題はやらなきゃいけないもの」だとおもっている人がたくさんいる)

子どもはもちろん、その影響を受ける。
不登校やら、ひきこもりやら、ネット依存やら、なにやら、大人たちが「わるい」とおもっていることは、たいてい「いいもの」を潰されている子どもたちから出た、心をまもるしくみであって、まったく「わるい」ものではない。

僕は逆に、「いいもの」だとおもっている。
それをきっかけにして、大人がどう感じるのか。
感じ直すのか。

これが大人の宿題だ。

どんな生き方をしたいですか?
どんな声をあげたいですか?

日本国富山県ではこういう問いを発すること自体が「不自然」に感じられてしまう文化がある。

お母さん自身が、「ああしなきゃ」「こうしなきゃ」「しかたがない」でいっぱいになっていて、「いいもの」を受け付けられない文化がある。

お子さんと一緒に最後に笑ったのはいつですか。
お子さんの表情をみて、はっとしたのはいつですか。
お子さんの成長を感じられたエピソードはなんですか。
お子さんの話を聞いて、感動したことはありますか。

これが大人の宿題の、基礎の部分だ。

カリキュラムつくろうかな笑

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大人の宿題は、なかなか大変だ。

家を買ってしまった。
借金をしてしまった。
借金を返さないといけない。
お母さんもあくせく働かないといけない。
子どもは・・

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お金でなんとかしてください。
仕事をしているんでしょう?
お金を稼いでいるんでしょう?
なんのために?
家を買うために?
じゃぁ、その家をつかって、ちゃんと満足して子育てをしてください。

こうやって、突き放すこともできる。
(相手が気づく速度、感じる速度を無視して、殴りつけること、暴力)

「家に価値がある」から買ったんでしょ?
それで子どもが困ってる?お母さんが困っている?
自業自得だ。

こうやって、頭で考えることもできる。(言葉で殴りつけることもできる)

「家」のせいにすることができる。
「学校」のせいにすることができる。
「富山」のせいにすることができる。
「日本」のせいにすることができる。

で、「自分」は?
今ここで、この記事を読んでいる「自分」は?

自分自身の大人の宿題を放り出しておいて、「自分」を棚に上げておいて、何かのせいにしたい気持ちもわかる。
それだけお母さんは、アウシュビッツ状態だ。
アウシュビッツは自由・平等・平和の象徴か。

だがしかし。

お金を払って買った、借金を作って買った家に、子どもを閉じ込めて、お母さん自身を閉じ込めてしまっていないか。

それも、現実かもしれないということを、感じられるだろうか。

現実だと認めて、ではどうするか。

これが大人の宿題です。

踏み出したお母さんを、オトノネは応援します。


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ぼくたちはたびたび、「外」に解決策を求める。

まぁ、一人で心は変わらないとおもうからしょうがないのだが。

だが「外」に原因を求め、「外」に解決策を求めているだけでは、足りない。
悪口ばかりいって、誰かのせいにする何かのせいにすることで何かにすがることで自己欺瞞を続ける人は成長しない。

いやまぁたしかに、「外」に向かうことで解決することはあるかもしれない。
けどそれは正確に行って、解決ではない。

「外」で心を大事にすることを学んで、再び「内」に行けるかどうか。

場所を変えたら、例えば日本を出たら、「沈黙の文化」を使わなくていい、とかそういうものはある。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

僕自身が、日本では感じられないことを、日本の外でたくさん感じてきた。
それは、僕の場合。

学びのプロセスは、ひとりひとり違う。
だからオトノネは完全個別×子別です。

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学ぶか学ばないか。
自分ごとにするか、他人事にするか。

頼ってもいい。
けどそれが学びにならなければ、ただお互いに、人間性を、心をすり減らしていくだけだ。

それでは塾や学校と変わらない。
【ビジネスの原理】情を売る。

頼ってもいい。
ただその中で、学び取らなければ、ただただ、「命」を消耗するだけだ。

メタスキル という言葉は、「学びのための能力」と僕は簡単に説明している。
「学び」の回路を閉ざしている何かを、取り払うことで、この回路は動き出す。

だが富山の文化は「学び」の回路を閉ざすようにできている。
(「内申点」の異常な高さは、富山ブラックの象徴だと僕はおもっている)
富山県立高校入試の内申点の配点が異常に高いことを知っておくと後悔しないかも。

「責任」とか「義務」という言葉が呪いの言葉になっていることが、言葉の文化が、「学び」のプロセスをズタズタにしていることも否めない。
学校の責任と義務(責任について・・・いくつめ?)
「責任」という言葉について
責任
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

「命」がよろこぶ言葉、「命」が「生きる」言葉を使おう。
そして「命」がちゃんと輝けるように、「命」を守ろう。

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そのための、「学び」を始めるきっかけにオトノネがなれたらいいとはおもうのだが。

頭の中が借金でいっぱいのお母さんに、なんと声をかけたらいいのか、僕にはわからない。
僕は伝わらない言葉は使いたくないし、何を感じてくれたら伝わるのかを、一瞬一瞬、感じようとしている。
どんな声をかけたらいいのか、レッスンを通じて、僕自身が、感じていく、そしてそれを伝える。それがオトノネです。

頭の中が課題でいっぱいのお子さんに、なんと声をかけたらいいのか、僕にはわからない。

僕からしてみれば、子どもも大人も、同じ状況にいる。
それなのに、大人は高みの見物をして、子どもを「塾」や「学校」でどうにかしようとしていることが多いから、やるせない。

自分の宿題をしてほしい。

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子どもと暮らしていて、感動するエピソード、成長したと感じるエピソードを、心から話すことができるだろうか。
子どもの「いいもの」を「いいもの」としてみられない状況では、「命」の輝きを感じられない状態では、お母さんは、子育てをなんでしているのか、わからないのではないだろうか。

これが大人の宿題です。

子育てが「仕事」になっていませんか。
【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三

お母さんが家のローンを払う「暮らし」をする傍ら、子育てという「仕事」をしていたら、子どもは一体どこで、心を大事にしたらいいのか、僕にはわからない。


というわけで、少なくとも「学校の宿題はやらなくてもいい」というお母さんに問い合わせをしてほしいおとのねさんです。
「学校の宿題はやらなくてもいい」とおもっていないお母さんの「学び」のプロセスを動かせる自信は、オトノネにはありません。

愛を学ぶ、といってもいい。
「は?」
と思った人!
いますね笑
こちらをご覧ください。
愛とは何か?

借金地獄に子どもを巻き込んでいるなら、子どもは傍迷惑だ。
家を守る?
家に、子供を守ってもらう?
子どもを犠牲にして、家を守る??????
(いうても子どもは別にそんなこと感じちゃいないくらい生きているからまぁ大丈夫なんだろうけど。いくらでも人柱になりますよ。それがしあわせかはわかりませんが)


お金の使い方、時間の使い方、お母さん自身の「命」の燃やし方を、オトノネは、お母さんに問いかけます。

お母さんが「子どものために」買ったピアノが呪物になってしまうように、
お父さんがお母さんが買った家に縛り付けられてしまっているなら、やっぱり変だ、と感じるだろう。

心が大事。

【アタッチメント(愛着)の深い意味】幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、しあわせの種をまける。学童期のくもんとそろばんにお金をかけるまえに。
【お母さんもお父さんも必読】『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
意味不明な世界。不確実な世界で生きる「合格実績病」のお母さんに送る言葉。
「子どもの子ども」のためにお母さんにできる大切なこと
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。
好きなことをするお母さん!Hug*smile
お母さん、子どもを守るために、参政しよう。
子供の自立とお母さんのライフサイクル
勉強ができない理由はお母さんのしつけと習い事?
句読点が書けない?お母さん、心配しすぎ!
お父さん、お母さん、お子さんのビジネスに投資しませんか?
教育と福祉の架け橋がない。お母さんが学ぶべき子どもの発達のこと、現代の社会のこと、現代の育児本に書かれていないこと。
まだまだ小学生。思春期はいつ来るのかな?来るのかな?笑
成績が伸びない勉強しない簡単な理由。勉強より大切なこと。
保育士、お母さんたち必読の書。平井信義さんの「意欲」と「思いやり」の子育て。

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ところで、借家と、家を買うことの違いはいろあるけど、僕は「自分なりにカスタマイズしたい」なら家を買うのがいいとおもう。
それも、「自分の創造性を高めるために」という理由だ。
家の構造、家の雰囲気一つで心は変わってしまう。
自分が「創造的に」なるために家を立てるのはいいことだとおもう。

別の人は「見栄」のために立てるかもしれない。

家を買うといことは、その土地に自分を固定する、ということでもある。
それでいいのか。富山でいいのか。もっと、冒険してみたくないのか。考えてみてもいい。
誰かが言っていた。とあるお金持ちの人だ。「僕は家を買わない。子どもがいじめられたら、引っ越すことしか、僕にはしてやれないから」だそうだ。

お金の話をしたら、借りるのも買うのも、一世代だけが住むなら同じだと僕はおもっている。
手に入れた「家」が一代で終わるなら(子どもと富山にしばらないなら)、買う価値はない。

要するに家を買うという文化によって、富山人は富山で生まれた人を富山に縛り付け富山化させる。

これが、魔王の世界だ。

古い世代と新しい世代の関係性が、問題だ。
なぜこんなに新しい人たちは弱いのか?言いなりになるのか?
2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

オトノネひろげるシェアぼたん

コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

経済学の船出

『経済学の船出-創発の海へ-』には、『合理的な神秘主義』『ドラッカーと論語』『複雑さを生きる』などででてきた人たちが登場する。
ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー、スピノザ、ドラッカー。
他の本では紙面のバランス上、ふかく取り扱われなかった人たち(ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー)に関して、なるほどと思える説明がなされている。
『合理的な神秘主義』よりもまず『経済学の船出』を読んだ方が、理解がしやすいかもしれない。

また『ありのままの私』でマツコデラックスさんとからめて話している「無縁」の概念を詳しくしてくれている。

経済学の本かと思えば、、
そうだ。経済とは、コミュニケーションを、人間らしさを助けるためにある、と考えている安冨さんにすれば、経済の話をすることは、人間のコミュニケーション、人間の学びの話をすることと同義なのだ。
そういうわけで、『経済学の船出』の終章では「アカデミズム」(=大学業界)の欠陥、盲点を指摘する。
経済の話をしたければ、数学を学び、歴史を学び、科学を学び、哲学を学び、人間を知れと。
そうして、すべてを結びつけた新しい学問の名前は、ドラッカーの言葉を使って「社会生態学」と呼ぶのが良いと。

ーー

追記:安冨さんが銀行で務めていた時の様子、銀行の有様笑、銀行という、今となっては悪い商売が成り立つしくみが知りたい方はp.150をお読みください笑

銀行員のやっている業務の本質は、関所の維持管理だ、ということになる。(p.156)

日本の銀行員は「企業家を見出す」という本来の能力を完全に失ってしまったのである。能力を失ったばかりか、そう言う仕事をしている、という意識さえも喪失してしまった。(p.156)

いろいろな「意味のない」仕事、創発的価値をもたない、拝金主義の例をあげてくれています。

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かつて、とある人に、「もし伝わらないのなら、100%自分(伝え手)が悪い」といわれたことがある。
果たしてそうなのか。
ずっと疑問だった。

いやいやまぁ、伝え方が下手だから、と、伝え手としての能力を向上させるための文句だったかもなぁとおもいながら。
どうやっても伝わらない、という人に、出会ってきたからおもうことだ。

ーーー

ドラッカーによれば、コミュニケーションの基本原理は次の4つである。
1コミュニケーションは認知である。
2コミュニケーションは予期である。
3コミュニケーションは要求する。
4コミュニケーションと情報とは、異なった、というよりほとんど反対のものであるが、それでも相互に依存している。

第一の原理は、「聞く人のいない森で樹が倒れたら、音はするか」という有名な公案に表現されている。ドラッカーによれば、これは、禅僧、イスラムのスーフィー、ユダヤ教のラビなどによって古くから考えられてきた問いであるという。この公安に対する正しい答えは「音はしない」である。音波が生じても、それを聞くものがいなければ音はしない。弟は認知によって創造されるものであり、音を聞くということは、すでにコミュニケーションなのである。
この公安は、コミュニケーションは受け手がするものだ、ということを含意している。いわゆるコミュニケーター、すなわち送り手は、コミュニケーションをしていない。彼は叫んでいるだけである。誰かが彼の叫び声を聞いて認知してくれるまで、コミュニケーションは発生せず、そこにはノイズがあるだけである。(略)

受け手が主体であるがゆえに、受け手の受容可能な範囲が、コミュニケーションの実現可能範囲となる。この点は、プラトンの『パイドン』のなかでソクラテスによって表現されている、とドラッカーは指摘する。ソクラテスは、人に話しかける際には、受け手の経験に基づく言葉で話さねばならず、例えば大工に話しかけるには、大工の比喩を使わねばならない、という。つまり、コミュニケーションの主体である受け手の機体の範囲内でしか、コミュニケーションは成立しない、とドラッカーは考える。(略)

ここでは受け手の「制約」について二つのことが言われている。第一に、受け手には、身体的、文化的、感情的制約があり、その範囲を超えたメッセージは無視される、ということである。第二に、受け手が経験に基づいて感情を変えるという意味での学習過程を作動させていなければ、コミュニケーションは成立しない、ということである。この両者は矛盾しているわけではない。第一の場合は、受け取り可能範囲の問題であり、そこを超えたメッセージは「無視」される、ということである。第二の場合は、たとえ受け取り範囲にメッセージが入ったとしても、それによって受け手に「経験に基づいて感情を変える」という出来事が生じなければ、メッセージは何の変化も起こさず、それゆえ「何も新しいことはない」という形で処理されてしまうのである。これは「黙殺」と言うことができる。先ほどのキャッチャーの比喩でいえば、たとえキャッチャーの受け取り可能なボールが投げられても、キャッチャーに受け取る気がなければ、ボールは受けられない、ということである。(『経済学の船出』安冨歩 p.118)

当たり前のようだが、なかなか気づきにくい。
とらわれてしまう。

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この人は、「黙殺」しているのか「無視」しているのか、受け取る範囲で言葉を投げられているのか、それとも、悪意があって受け取らないのか、判断することは難しいかもしれない。

たとえば「ああしたらこうする」という文化的な制度があったとしよう。慣習というやつだ。結婚したらブリを送るとか、かまぼこを送るとか。
で、「送られてくるはず」なのに、、送られてこなかったとしよう。

送られてくるはずのものが、送られてこない!

もしかしたら、県外の人で、そんなことを知らなかったのかもしれない。
届いているとおもっていたボール(今の状況なら、結婚したらブリを送るという慣習)が、実は手の届く範囲に投げられていなかった、という、メッセージの送り手のミスだ。
「県外からきたから、知らないんだろうな。どうしようかな」という相談をしたらよかったのに、それをしなかった、伝達ミスである。

もしくは伝達がなされている上で、「いや、それは富山県の慣習であって、私たちはそれをしようとおもいません」と心に決めて送っていなかったのかもしれない。

ーーー

そこで、例えば「ブリを送ることは大切なことなんだ!」ということを伝えたい人がいたとしよう。

例えば『スイッチ!』という本では、人が変わる、考え方を切り替える、新しい考えを学ぶための取り組みが書かれているわけだが。。。


『スイッチ!』
『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』のメモ

社会的な慣習や制度は「行為」を要求するが、「心」を要求しない。
「心」の関わり合いを排除して「学び」のプロセスを動かさずに「当然そのようにあるべきだ」というべきべきなくちゃ思考で苦しんでいる人が多い。
なのでブリの例をだしたのだが、、、
「母親として」「長男として」とか、「女性として」「男性として」「会社員として」「生徒として」といった立場を突きつけて肝心の「心」を攻撃することもできる。
文化・制度はそれ自身、非人間的なハラスメントを含んでいる。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

だが文化や制度・慣習を使うのは人間だ。個人だ。
そのなかで「生きる」のは人間だ。

さて、どうしたものだろうか??

ーーーー

僕らには聞こえていない「叫び声」が、オトノネが、今もどこかで響いているのかもしれない。

メッセージの発し手は「叫ぶ」だけであって、それだけではコミュニケーションは生じない。誰かがそれを受け止めて、心を動かすことが決定的条件である。コミュニケーションが生じるには、受け手が、自らの経験に基づいて感情を変える、と言う学習の構えを開いておかねばならない。

以上に立脚するドラッカー経営額の根幹は次のようにまとめることができる。
(1)自分の行為の影響の全てを注意深く観察せよ、
(2)人の伝えようとしていることを聞け、
(3)自分のあり方を改めよ。

これは個人に対しても、組織全体に対しても当てはまる。(『経済学の船出』安冨歩 p.130)

ーーーー

ドラッカーは学習回路の閉じた受け手に対して、ショックを与え、学習回路を作動させ、制約を取り払うケースについて興味深い議論を展開している。

 人の心おは、印象や刺激を、予期の枠組みに合致させようとする。それは「心を変えさせ」ようとする、つまり、受け取りを予期していないものを受け取らせ、予期しているものを受け取らせないよゆな、いかなる試みに対しても、頑強に抵抗する。もちろん、受け取ったものが予期に反しているという事実に気づかせることは可能である。しかしそれには、何が受け取られると予想されているか、を事前に知る必要がある。そしてさらに、「これは違う」という明確なシグナル、つまり連続性を打破するショックが必要である。

ドラッカーはこのショックについて、「聖書の伝えるところでは、神でさえ、サウルに衝撃を与えて盲目の状態にしてはじめて、パウロとして自らを立ち上がらせることができたのである」と指摘している。(『経済学の船出』安冨歩 p.122)

人が変わるためには、とてつもない何かを必要とする、というのは、僕も感じているところ。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

感じないように生きている大人たちにとって、子どもは、いつもきっかけを与えてくれているようにおもう。
子どもらしさを失った大人が蔓延しているこの狂った社会では、なおさら。


ひきこもり、不登校、いじめ、もしくは成績不振笑やウィスクの結果などという出来事からのメッセージを受け取れない、コミュニケーションつまり学習の回路を発動できずに、ただただ狂うだけのお母さんに育てられた子は、もはや学びの回路を焼き尽くされて、自分で作り直すのにだいぶ時間を使うだろう。まぁそれも、人が生きるプロセスの一部なのだろうけれど。

社会の構成要素は人々の行為であって、心ではない。個人でもない。
その行為を個人から導き出すための仕組みが、制度であり、規則だ。
社会はそれ自体、コミュニケーション、学びのプロセスをつくってはくれない。

『合理的な神秘主義』に書かれていて驚いたのだが、なるほど、学びのプロセスは、極めて個人的だ。
個人がナンバープレートに書かれて管理されるだけになっていないか。
学びのプロセスを発動すること、コミュニケーションが問題行動を意味する組織は、アウシュビッツと似ていないか。

「学校に行く意味って何ですか?」

学校の先生に聞いてみよう。

社会性を学べるとかいうのかな。

「社会性とはなんですか?」とさらに聞いてみよう。

囚人としての作法を、学べる、ということだろう。
「隷属することが前提」なのだから、仕方がない。話にならない。

ーーーー

組織が「衝撃」を受けるということは、そうとう大ごとだし、たいてい、隠蔽や欺瞞のシステムが働いて動じることがない。
本来なら「自己変革」をせざるを得ない状況でも、ただただ、それこそ権威を盾に無かったことにする仕組みが、学校にはある。

カレー事件も、結局、学校の組織、しくみをかえることなく、狂った教員がいなくなっただけで、狂った学校は、次の狂った教員をつくりあげてしまう。

「前例がない」「常識だ」「普通」「筋を通す」「みんな」「公平」「きまり」といった言葉を口にしてハラスメントを行なっている。
子どもたちの学びの回路を壊している。

学校は学びの場ではない。
学び合うおとなが、いないのだから。。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹
学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。
学校のしくみ【753教育】とは何か。学校って何?

学び合うこどもにであえる幸運に巡り会うこどもがいるだろうか。
その子どもたちの学びの回路を焼き尽くそうとする学校という場所で。

そういう仲間に巡り会えた子は、しあわせだ。

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自分自身のマネジメントから、まずはやっていきたいとおもう。

自分のマネジメント
家族のマネジメント
仲間のマネジメント
職場のマネジメント

まずは、自分自身。

オトノネひろげるシェアぼたん

悲劇の舞台の上で踊る子どもたち

「学」という言葉が今の僕のテーマになっている。
人はなぜ学べないのか。
なぜ学ぼうとしないのか。
何が学びを阻害しているのか。
学べぬ人は、一生学べぬのか。

悪意と、どう関わればい良いのか。
悪意に満ちたこの世の中で。

「学び」が抑圧され、無視され、奪われ、殺されていくこの日本で。
「学び」が閉じ込められ、轡をはめられ、縛られている、この日本で。

ただただ、みんな、呑み込まれるのを、待っているのだ。
(飲み込まれるまで、踊るしかないのだろうか?せめて、この悲劇の中で与えられた、小さな小さな自分の場面だけは、自分を生きようと。

なぜ大川小学校だけが大惨事となったのか
大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
多くの児童らが犠牲に…大川小・遺族と卒業生が語る「失われた命の意味」

隠蔽、欺瞞、立場、ドロドロ。闇。別に悲観することでもない、これが事実。悪意。ショッカー。魔王。
そして会社によくあるパターン。
忙しく働いて、お金を稼いで、子供の魂を守れるかどうか。
習い事にいかせて、テスト勉強をさせて、子供の魂を守れるのか。


これは、学校だけの話ではない。
家庭でも同じだ。
会社でも同じだ。

「なぜ、18年間、逃げなかったのか」
「なぜ、過労死するまでやめられなかったのか」
「学校に行きたくない」という声
児童虐待・家庭内暴力・モラハラ・アル中の悲劇。あまりにも複層的な物語

「なぜ50分間逃げなかったのか」は明らかにならず 遺族が憤る大川小検証委・中間報告の内容
「山へ逃げよう」の大川小児童証言は“精査中”!? 教員の会話は「検証委とりまとめ案」に盛り込まれず
『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』大川小学校の悲劇。あまりにも複層的な物語

大川小訴訟 「なぜ我が子が死ななくてはいけなかったのか」 その一点を求めて

オトノネひろげるシェアぼたん

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?

原発危機と東大話法
『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

安冨歩さんの本は「生きるための経済学」をきっかけにいくつか読んでいた。
安冨歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ

で、最近youtubeでもいろいろしゃべってくれていて、勉強になる。
安冨さんは学者というより、本当に本当の事実、真実を追う研究者であり、芸術家でもある。
東京に行ったらばったり会いたい人です笑

言葉のレッスンに力をいれている、というよりメタスキルに力を入れている、心を大事にするオトノネとだだガブリな思想?をもっている安冨さん。

名刺の抽象性、名詞のもつチカラをブログに書いたことがあるが、それを歴史的な事件にまで広げてくれるとは。。。

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子路は言った。「衛の君主が先生に政治をさせたとしましょう。先生はまず何をなさいますか」
先生は言った。「必ずや、名を正す」
子路は言った。「これだから、先生は迂遠だ」

「子路」というのは孔子の弟子の名前で、「衛」というのは国の名前です。子路は「先生は迂遠だ」と行っていますが、もちろん、迂遠ではないのです。何か大変な危機的事態になっている時、最も恐ろしいことは、人々が欺瞞的な言葉を使うことです。

たとえば日本は、戦争に負けそうになって、毎日、B29が飛来してナパーム弾を落としている時に、「日本は神の国だから負けない」という言葉を振り回していたので、自体をどうすることもできませんでした。降伏することすらできなかったのです。自体をなんとかするためには、「このままでは確実に負けて、国土が焦土になる」という自体を反映した言葉で施工し、行動しなければなりませんでした。

しかしそれをすることは、当時の政府の枢要な地位にあった人々にはできませんでした。そのために自体はどんどん悪化し、沖縄で膨大な犠牲者を出し、東京が焦土となり、二発の原爆を投下され、それでも戦争をやめられませんでした。最後に「日ソ不可侵条約」という紙切れ一枚を根拠に、友好国だと勝手に思い込んでいたソ連が参戦して、満州国に新ニュしてきたことで、ようやく幻想が剥がれ落ちました。そこで「国体護持」という言葉が見出され、日本は本土決戦の前に、かろうじて降伏することができたのです。なぜそんなに降伏するのが怖かったのかというと、「鬼畜米英」という相手に貼ったレッテルを、自分で新んじて「降伏したら全員殺される」と思ってしまったから、と言う側面があったと思います。

そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。言葉が歪むことで、人々が事実から目を背け、事実でないものに対処することで、全ての行動が無駄になり、無駄どころか事態を悪化させます。そして正しい言葉を使おうとするものは「非国民」扱いされ、口を封じられ、それでも封じないと殺されました。こう言うことが続くことで、表面上の平穏が維持され、やがて暴走が始まり、最後に破綻したのです。

(略)

これが「名を正す」ということの力です。孔子はそれうえ、「必ずや、名を正す」と言ったのです。名を正さないことには、何も始められないからです。

とはいえ、正しく言葉を使うことは、大変、勇気のいることです。たとえば、家庭でも、夫婦仲が悪くなっているというのに、「夫婦なんて、どこだって、こんなもんだ」ということにして、「夫婦仲が悪い」という言葉を出さないでいることにより、果てしない欺瞞と隠蔽とが生じ、困難と苦悩とが生まれます。それは夫婦のみならず、家族全員を窒息させてしまいます。

あるいは会社でも、こんなことをやっていたらいつまでも続くわけがない、とだれもが思っている事業が、いつまでも続けられるケースが多いのですどうしても、「これではだめだ」と言うことができず、無意味な労働と資源の浪費が続き、挙げ句の果てに会社が危機に落ちいぅてしまうのです。

それがどんなにつらくてひどいことであっても、事実にふさわしい言葉が用いられることにより、人間は事実に向かって対応することが可能となります。この勇気さえ持てるなら、人間は自体を乗り越えていく知恵を出すことが可能となるのです。その時、自体は好転し始めます。そればかりか、「危機」は新たなる「機会」へと変貌します。これが「名を正す」ということの意味です。(p.36)

学校という魔王の使う言葉、暴力、もしくは会社でのそれをそのまま「黙認」する、言葉にしない、無責任を取る(爆)ことで暴走が止まらない状況がある。それは「合格実績」だとか「大学」だとか「学歴」だとか「上場会社」とかいろんな言葉の物語を支えている。沈黙が、日本を支えている。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。
言いたいことが言えない。

「発達障害」「ウィスク」「遅れ」「学校」「支援級」「通常級」「いじめ」「保護者」「先生」「不登校」「生徒」そんな言葉の一つ一つが、呪いの言葉としてしか使われていない現状がある。一体、その言葉は、何を指し示しているのか、わけがわからない。

「いじめ」についても僕はブログで書いている。
「発達障害」についても書いている。
「不登校」についても書いている。
「合格実績」についても。

だが、だがしかしだ笑
多くの記事を読んでもらっているのに、反応がないし、届かないらしい。
言葉というのは、そういうものだ。と、諦め、られないのが、僕だ笑

僕の言葉の使い方は、まだ弱いのだ。
と、反省しながらも。

言葉の重み(俳優と演出家の役割)
困っているけど声を出せないお母さんなう

どうしたものかな?とおもいながら、ちょっと試してみたいことがあったりする。
(お楽しみに!)

まぁなんにせよ呪詛の強さに驚く。

「自然(自由)」と言うことについても書いている。
「子育て」と言うことについても書いている。
「責任」と言う言葉についても書いている。
「大人の宿題」と言う言葉についても書いている笑

ブログのカテゴリーに「言葉の玉手箱」を作ったのも、現実を知るために言葉を改めなくては、新しい言葉を作らなくてはいけないと思ったからだ。
本来、それは詩人の役割だった。
詩人はどこに行ったのか?キャッチコピーを考えて商品を売る魔王の手先になっってしまった。

この点、安冨さんも詩人だろうと僕はおもう。

宿題をやらないだけで、非国民扱いされる、学校はまだまだ戦争状態だ。日本はまだ、いまだに、戦時を生きている。
「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。
子どもも大人も月月火水木金金

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仮面ライダー新1号のオープニング主題歌の後には、

かめんらいだー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは、世界制覇を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!

という、私が子ども時代にしびれたナレーションが入っていますが、仮面ライダー・小出裕章も改造人間です。原子力村ショッカーが大学や大学院でいろいろ教え込んで、小出さんを改造したのですから。仮面ライダー・本郷猛が、精神まで改造される前に逃げ出し、ショッカーによって改造された身体を武器に戦っているのと同じように、小出さんはわずかの仲間とともに人間の自由のために原子力ムラと戦っています。小出さんもライダーも、ショッカーや原子力ムラが次々に繰り出してくる「怪人」と戦い続けていますが決して傷つかず、倒れません。

石森章太郎は、「世界がショッカーに支配されかかっており、人間の自由を守るには、一人一人が仮面ライダーとなって戦い続けるしかない!」という驚くべき真実を、当時の子どもたち(すでに私のように中年になっていますが)に伝えようとしていたのだと私は考えています。こんなことを大真面目に書くと、頭がおかしいのではないか、と思われるでしょう。それは覚悟の上です。私も、以前はこんな風には考えていませんでした。私が考えを改めたのは、東京大学に就職してからです。それも、しばらくはそんな風には考えなかったのですが、何年かの間、いろいろと奇妙で不愉快で悲しい体験を繰り返すうちに、ある時、ハタと、

「東大って、ショッカー?!」

と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。それ以来、「東大=ショッカー」説をあちこちではなしていたのですが、みなさん面白がってはくれるのですが、本気にはしてくれませんでした。しかしそれでも負けずに話していたところ、今回の原発事故が起きたのです。すると、ある精神科医の友人が、

安冨さんが東大について行っていたことは、面白いなと思っていたけれど、やはりお袈裟に行っているのだと思っていたんです。でも、原発事故で東大の人がテレビにたくさん出てきて、むちゃくちゃなことを行っているのをみて、「ああ、本当だったんだ」と思いました。特に、ネットで大橋教授という人の話す様子を見て、「こんなにも純粋の悪意を持った人間が、実在するんだ」とショックを受けました。それで、やっと本当だとわかりました。

と言ってくれました。(p.88)

僕は実はこの本を今読んだばかりで、ショッカーという言葉も今、なるほどなとおもった。

その前に、ラジオ番組で、話の最後にシューベルトの「魔王」が流された時、ああ、魔王ってたくさんいるよな。魔王に囲まれて僕らは暮らしているよなとおもった。

僕は純粋な悪、というもの、笑顔で近づいてきてさも正しいようなことをにこやかに喋りナイフで刺してくる人とたくさん出会ってきたので「魔王」の甘いささやきに覚えがあったのです。

それは学校の先生だったり、塾の経営者だったり、保護者だったり、会社員だったり、それこそ、道端で出会う人であったり。

「純粋の悪意を持った人間が、実在する」

しかもすぐ近くにいる。
その事実を、事実として認められますか。

そしてそういう人が役職のトップになる世の中だということを、認められますか。
(その傾向はパーソナリティー特性の本でも書いてあった)
『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

僕は、「魔王」という言葉で理解したものを、安冨さんは「ショッカー」という言葉で理解していた。
言語は違ったけれども、同じものを指している。僕は「魔王」は弾いたこともあったし身近だったが、仮面ライダーには疎かった笑

言葉をつくる。
事実を表す言葉を使う。
事実を認識していく。

そうして、心ができていく。

「東大って、ショッカー?!」と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。

と書いているのは、本当のことだとおもいます。「知る」ということが、「心」をつくるためには必要だからです。
「見えない」「感じない」のでは、どうして心がつくれるでしょうか。(それが多くの子どもたちの状況だとおもうと、悲しくなります)

で、世の中にたくさんいるショッカー(魔王)たちの使う欺瞞の言語に「東大話法」と安冨さんは名前をつけました。
新しい言葉をつくりましたー!

その言語を生み出した文化は、

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

こと、だそうです。

これは東大に限らない、日本のいたるところでみられる文化だと、すぐにわかりますか。
思い当たる節が、多々あるように、おもいます笑

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東大が憎いからと言って、東大を解体しても、無駄なのです。東大を潰せば、京大か慶応か早稲田か知りませんが、どこか他の大学がその機能を担って「東大化」するばかりです。必要なことは、「東大話法」に代表されるような、日本社会に蔓延する欺瞞話法を鋭く見ぬ浮くことです。他の人が仕掛けてくる「東大話法」を感知して、騙されないことです。これは自分自身を例外にしてできるものではありません。ここの人が、自らの中の「東大話法」を見出して取り除くことに努力せねばならず、そうすることではじめて、他人の欺瞞も見抜けるようになります。自分は欺瞞話法を駆使しつつ、他人の欺瞞話法を見抜くというのは、無理な相談だからです。そうやって多くの人が「免疫」を作動させれば、東大関係者も「東大話法」などを振り回せなくなり、真摯な思考に向かって一歩踏み出すことが可能となります。「東大話法」は東大だけが作り出しているのではありません。東大話法を振り回されていると恐れ入って感心したり、納得したりする人もまた、重要な加担者です。東大という権威をもっ東大話法を話せば、多くの人が納得し、その納得がまた東大の権威をも違える、というう相互依存構造になっているのだと私はかんえてています。単に相互依存しているばかりではありません東大話法を振り回せr多人が、畏れ入ってしまうと、今度はその人に東大話法が侵入してしまいます。かくてその人が今度は、別の人に東大話法を振り回します。それは単に言葉遣いがうつるというばかりではなく、その欺瞞的精神の作動そのものの感染です。誰かが東大話法を振り回し、誰かがそれに恐れ入ると、それが東大話法の話者を生み出し、その話者がまた東大話法を振り回し、さらに東大話法の話者を生み出します。人々が麺系を作動させないでいる限り、こうやって東大話法が鼠算式に自己増殖するのです。この自己増殖を放置すれば、あっという間に、社会全体が東大話法に感染します。

ですから、私が本書の読者にお願いしたいことは、東大話法を使っている人を見たら、感心して納得するのではなく、「これは東大話法だ!」とはっきりと認識して、笑っていただきたい。ということです。人々が東大話法を聞くたびに、納得するのではなく、笑っていただければ、東大話法を維持している相互依存関係は崩壊します。(p.192)

悪口、非難の文体をもった言葉がネット上で溢れている。
「やめろ!」「不正だ!」という人たちは、例えば「東大が潰れたあとで別の東大がでてくる」ことをわかっていない。政権が変われば日本はよくなる、と考えているのだろうか。

いやもちろん、自民公明党が調子乗りすぎだから止めた方がいいのは正しいとおもうが、その先が、ない。政権を握った途端に、ナポレオン化するだろう。これは日本の言語文化の問題なのだ、精神文化、心の問題なのだと、安冨さんはいっているのだろうし、僕もそうおもう。

けど現実は、自分の問題として、誰かのせいにする人が多い。
僕自身が、大切なことをまだ自分ごととしてみれていないことがある。

大人が子ども時代にやり残した宿題を、誰かに押し付けている。
それが、「自然」な世の中で、笑おうとしている子どもたちを僕は尊敬してしまう。
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
コドモとして未成熟なオトナ

一人一人が「言葉」を正して生きていく。
東大話法が溢れた「自然」の中で、欺瞞の心に感染されないように「健康」でいることが大切なのだと。
そのために「鼻で笑いましょう」と言っている。

ということは、ほとんどの人間と、話ができずに、鼻で笑う関係になってしまうだろう。
笑い合う人が増えるというのだから、いいものかもしれない。

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安冨さんは、「職」「役」「家」そして「立場」という言葉を検討する。

「職」は大化の改新で「氏」の連合体を天皇中心で中央集権させ官僚体制をつくるための仕組みであった。
例えば焼き物を作る「職」を担っていた土師氏という「氏」という単位が、平安末期には藤原家といった「家」に移行していった。

中世末期から近世初期にかけて、戦国大名は「職」ではなく「役」の体系を作り上げた。
「役」という言葉が、つくられた。
武士には「軍役」が課された。農民には「百姓の役」が課された。

で、

「役」は「家」と並行して成立したようです。

「氏」という大きな組織が「家」という小さな組織に再編成され、それに伴って「職」という言葉は「役」という言葉に変わった。

うーんちょっと掴みかねるので引用しておきます。

とおもったけど打ち込む元気がないことに気づきました。。

「家業」をすることで「家」は「役」を果たすことになり、「家業」が崩壊すれば、「役」を担えず、「家」は「立場」を失う。

ん?家業って、役なの?

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このように「役」という概念は、日本社会の根底を支える哲学なのです。この「役の体系」は現代社会にも大きな影響を与えています。それは「役場」「役所」「役人」「重役」「取締役」「役員」「役者」「役割」「役得」「役回り」「役立たず」といった用語を見れば明らかでしょう。ここから先は私の考えなのですが、少なくとも現代日本社会においては、「役」がその背後にある「立場」と密接に相互作用している、と思います。つまり、

役を果たせば、立場が守られる。
立場には、役が付随する。
役を果たせなければ、立場を失う。

この原理は、国家体制と無関係なところでも明確に作動していきます。

たとえば現代日本の企業がそうです。現代日本社会では、個人の自由が憲法で保証されているはずですが、
企業の中ではそんなものは、そう簡単にはつううよううしません、地涌石で就職し、自由意志で勤務しているはずなのですが、尾藤さんのいうような「企業の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする」というような「誇りある」ことにはなかなかならないのです。

なんだか知らないけれど、いろいろな事情で自分にある役が回ってきて、その役を担っているという立場上、その役を果たさないと自分の立場がなくなってしまうので、その恐ろしさのあまり、身を粉にして役を果たす、という感じです。そうやって私が必死で立場を守るべく役を果たすことで、私の上司や動力も立場を守ることができて、その上司や同僚もまた必死で立場を守るべく役を果たすために頑張ることで、私の立場も守られます。

そういう立場と役との相互依存関係の巨大なネットワークが形成されていて、それが全員の必死の努力でかろうじて維持されているように見えますもしも誰かがどこかで「わがまま」を言って役を果たさないと、そこに穴が空き、そのほころびが急激に拡大して大穴となってしまい、周囲に大変な迷惑をかけるように思えるのです。しかし、そのネットワークの全体が、いったいどこに向かっているのか、自分の果たしている役が、いったいその全体とどういう関係にあるのかは、もはやサッパリわかりませんただひたすら、役を果たして立場を守っていれば、なぜか給料が振り込まれ、一定期間にわたってそれを続けていれば、どういうわけか昇進するのです。(p.221)

僕は軽く笑ってしまった。

親という立場と子どもという立場も同じじゃないかと。
多くの狂ったお母さんが、子どもをこういう関係に追いやっている。それと同じじゃないかと。
子どもは子どもという立場で、お母さんはお母さんという立場で。
お互いのメンツをかけて、依存しあっている。

立場を守るために役をつくる。役を作るために、、、いらない仕事を作る。
これは天下りの仕組みだし、立場をより強固なものにする仕組みでもある。
(本の中ではこの後に、原子力関係の「法人」がどれだけたくさんの「立場」の人間の天下り先になっているかを説明している。具体的に笑)

原発は、天下り先をつくるために、ある。
という事実をみんな知っているんだろうか。

最近の大学入試の外部なんちゃらに英検が入っているのも、文科省主催の全国学力テストも、英語の必須化、プログラミングのうんちゃらも、天下り先を増やす、立場を守るために役をたくさんつくっている、いらない仕事を作っているだけだということを、教師が知らない世の中だ。現実を知らない人間から何を教わっているのか??そうそう、先生と生徒という立場を教わる。

「立場」という戦時の文化を学ぶのが、学校だ。
と、はっきり言ってしまえそうだ。

そうすると学校の東大話法はあっさりと理解できる。

大学入試改革も、天下り先をつくるためにやった。
という事実をみんな知っているんだろうか。

僕らはただ欺瞞の言葉で語りかけられているにすぎない。
欺瞞に埋め尽くされている世の中で、頭がおかしくなるのが「自然」だろう。

もう声も届かない。
なのに。
発狂してしまったことを東大話法で隠蔽するお母さんもいる。

「この子には、自由を与えています」

虚しい。

義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

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母親という立場を守るために、子どもという立場をつくりあげ子どもという役を与えて、子どもという仕事をさせるのは、もうやめませんか。
というのがオトノネの考えです。

学校という立場を守るために、生徒という立場をつくりあげ生徒という役を与えて、生徒という仕事をさせる学校から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

国という立場を守るために、国民という立場をつくりあげ国民という役を与えて、国民という仕事をさせる国から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

どうするかって?
言葉を正すことです。

お母さんは、やり残した宿題に、取り組みましょう。
一人でできますか?
やる気、ありますか?

【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三
子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
いつまでたっても、小学生。
コドモとして未成熟なオトナ
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??
【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三
【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹

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最後に、どれだけ日本の多くの人が、「立場」に頼って生きているかがわかる話を引用します。
この話は衝撃でした。

これは家庭の中でも、会社の中でも、ママ友同士でも、どこでもありうることですね。

お子さんを守るために、福島市から関西に逃げられた方にお伺いした話では、放射能を恐れて非難するのは「非国民扱い」であり、夜逃げするようにしてスーツケース一つで、誰にも見送られずにきた、とのことでした。多くの人が山下教授の見解を信じており、それに疑いを挟む話をすることすら、憚れる状態だ、とのことです。

その方のお考えでは、福島県では、地元社会の束縛を嫌う人は、すでにほとんど出払っていて、残っている人々は、この近世以来のシステムに依拠する人々だとのことでした。そうすると、影響があるのかないのこあわからないような、しかも権力や権威が「影響はない」と言っている放射性物質を恐れて、「役」を捨てて逃げるというのは、決して許されることではない、というのです。

このような態度は、尾藤正英さんのおっしゃる「役の体系」を前提として考えれば、よく理解できます。日本の近世社会は地域集団と土地とが深く結びついており、ムラが土地を捨てて移動することは、ほぼあり得ないことでした。役の体系も、この住民と土地との結びつきを前提として形成されていました。それは、福島県だけの話ではないのです。東京でも同じことでした。ある関西在住の私の知り合いは、原発が爆発する前に、関東に嫁いでいた妹を、家族ごと非難させていました。ところがしばらくすると、原発が爆発したばかりだというのに妹が帰るというのです。驚いて理由を聞くと、

「ゴミ当番が回ってくるから」

というのでした日本の近隣社会で、ゴミ当番などの「役」を果たさないと、どれほど恐ろしい制裁を受けるかを、みにしみて感じている主婦が、このような判断をするのは、ある意味、当然なのです。放射性物質が大量に降り注いだ地域でも、「ゴミ当番」のために避難を諦めた人は、たくさんいるはずです。(p.235)

近世を生きている、もしくは戦時を生きている人たちが、富山県にも大勢いる。
それが、日本という土地に生きてきた人たちの積み上げた歴史の姿なのかとおもう。

マッカーサーが、「日本人は10歳だ」といったのも、わかる気がする。
それは悪口でもなんでもなく、西欧文化でいうところの「個」が自立できない土壌が、日本にはある、という事実を表現しているのだとおもう。

こんな現実、事実を知ると、心が揺らいでしまう。危ない危ない。心のシステムがしっかりしていなかったら、絶望してしまうだろう。
【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

だから、みんなショッカー(魔王)になっちゃんだけどね。
絶望して、ウルトラマンは、最近、闇落ちするらしいね。(子どもが教えてくれました)
ウルトラマンもショッカーの方にいっちゃう世の中だよ。

心が大事。

さてさて、僕も、鼻で笑う練習をしようかな笑

ーーーー

追記『合理的な神秘主義』p.287に
「官僚的」と呼ばれる性質について説明で、
「生存の不安からくる確実性や厳密性への渇望といった鬼気迫るものではなく、他人からとやかく言われないため、より端的にいえば「叱られない」ためのものであって、手続き的厳密性・整合性・隠蔽性に傾斜している」。

と書いてあった。

「叱られない」ため、というところが、腑に落ちた。

===

ここまで書いてきて、思うことがある。

東大話法という言語話者と、そうでない人がいるこの国で、二人はどのように生きていけるのか。
鼻で笑ったら、相手にされなかったら、東大話者はたぶん面食らってしまう。

言語環境、文化が違いすぎて、話にならない。
異なる文化の人間が混ざっている。

別にどちらかが正しい、というわけではない。
東大話者が大多数を占めており、息苦しい社会で、どちらの言語を習得させるか。どちらの文化を体得させるか。
子育てでは、その選択をまず、なによりも先にしておくといいのかもしれません。

学校では、東大話法を学びます。
地域でも、東大話法を学びます。
家庭で東大話法を使えば、その子は東大話法しか使えなくなるでしょう。

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

お子さんにこのような人になってほしいなら、そのように育てる、ということです。

「小さなガンジー」たちは、「僕は、私は東大話法なんて喋らないからね。東大話法に洗脳されたくないからね」と言っている子なので、お母さん自身の言語環境(心)を変えた方がいいのかもしれません。

話が通じないけど、別にどちらが悪いとかでもない。相手は「純粋の悪意を持った人間」です。
そういう異質な人が集まっているという認識が欠けている人たちが、東大話者だとしたら(自己中心的だからきっとそうだろう)、それこそ、少数派の人は大多数の東大話者の暴力から自分の身を守る心のしくみをつくったらいいのでしょう。

へらへらと、笑ってしまおう。

暴力に屈しない。
流れるようにー

さらさらさらーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア ブラック

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック , 水澤 都加佐
子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

ーーーーー

子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

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さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。

調査・日本の飲酒実態


家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です

日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは?

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
  【令和元年12月1日現在(概算値)】
    <総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
 眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
 理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
 ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
 知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

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批判とは何か。その3(日本の遺伝子・伝統との闘い)

パーソナリティ特性の科学、とか、スイッチ!とかを読みながら、人間の生物くさい側面を大切にしたほうがいいなとおもった。
限りなく動物になったら、もっと楽になるような気がする。
人間らしく、動物らしく。

命。

SNSでいろんな「悪口」が飛び交っていることに疲れてしまってとりあえず考えたことをまとめました。

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日本には日本の遺伝子がある。伝統がある。この伝統を変えるには、いろいろな実験をしたらいいとおもう。山本太郎を総理大臣にするのが一番手っ取り早い。そこまでたどり着くために、現政権の悪口をいうのではなく、大人同士がコミュニケーションをし、教養を高め、「明確な目標」をもって子どもを育てることが大切だとおもう。それは、利己的な、自分の能力を高めることに必死にさせるのではなく、共感能力をもった子どもを育てることになる。それはつまり、競争から子どもを外すことにつながる。多くの親がここで、古い時代に、日本の伝統に、科挙制度の歴史に、足を引っ張られているのだろう。

子どもは伝統と、日本の遺伝子と戦っている。歴史と戦っている。
大人がどうして、子どもの先頭に立って戦わないのか。戦場に送り出す司令官になっていないか。

国民の安全を守れない現政権を批判するのと同時に、子どもの育ちの環境を守れていないかどうか、自分自身を批判していかなくては、ただの悪口になってしまう。それをみた子どもは、悪口ばかりを言って、何も行動しない大人になるだろう。それが日本の伝統であり、精神文化であり、遺伝子のように、僕はおもう。どうしたらいいか?とりあえず、僕はオトノネをつくりました。これも実験。誰もやったことないんだから。

伝統と言うなの、遺伝子プールと言う名のアウシュビッツから、僕らはまだまだ自由になれそうにない?

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朝、校庭で走り回る小学生。

小学校って、朝の会が始まる前に校庭でみんな走ったりしていますか?

体育の先生がいて、陸上の指導をしているようであった。体操服を着ている子もいれば、私服で走っている子もいる。

小学校って朝、走っていたっけ?

子どもは走るのが好きだ、ということはよくわかる。
勉強どころではない。走らなくては!というくらい。
だから、朝、走る、文化が、自由の中で生まれたなら、素晴らしいことだとおもう。

みていると、みんなおもいおもいに、走っている??ように思えた。
こういう場所もあるんだなぁ。

運動会前だから???

こういう文化をつくるエネルギーが、一体どこからでてくるのだろう。
一体、誰が、はじめたのだろう。

まさか、ここは、中学校じゃぁ、ないよね?

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踊る小学英語

水泳、そろばん、塾、英語教室、公文。毎日分刻みで習い事に勤しむ小学生。
いつもは元気な先生とワイワイやっている小学英語の授業だが、今日は僕がピンチヒッター。
静かぁに話をしていると、白目を向いて気絶したかのように、眠った。
疲れてるんだね!気を張っているんだね!睡眠学習がいいとおもう!

小学英語が導入されて、子どもの心がよけい擦り切れていませんか?

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殴る蹴るの身体的なメッセージ

僕が遊んでいる最中に蹴りを入れる子がいる。
他の子には蹴りを入れないのはオトナだから大丈夫だと判断している子。
今思えば、遊んで欲しくて、蹴りを入れていたと僕はおもう。
僕は痛い、痛いからやめてよねというばかりだった。
だから何度も蹴り続けた!「なにいってんだよ!遊びたいっていってるのに!」と叫び続けていたんだろう。

情動を、エネルギーを、情を収束させて、利用できるカタチにする知恵が、まだその子にはないのだ。
愛とは?
誰かに解釈してもらう、情動を調整してもらう必要がある。
一緒に、調節の仕方を、学ぶのだ。

「一緒にあそぼう」なんて言葉にしたことがなかったんだろう。
言葉にならないで、どうしていいかわからなくて出てくる振る舞いもある。
一つ一つの振る舞いに隠されている心を感じるようにしていきたい。

今度、同じことがあったら、短い言葉で伝えよう。
けど、ヒットアンドアウェイを続けるその子にどうやって言葉をかけられるだろうか?

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脳はゆっくり変わっても、心は大きく、突然、変わる。

#8 ジェロマガジン ~キム・ピークに学ぶ~

自閉症と言われる人も、人との関わり合いの中で、自立していく。
人の中で喜びを感じ、「役割」を演じ、心を開いていく。

天の才、しあわせの種

もし彼が、生涯、施設の中に閉じ込められていたら。
学校の中に閉じ込められていたら。

誰も、彼を、見つけてくれなかっただろう。

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鳥は、脳が発達するわけではないのだが。
心の使い方で、いろんなことが、できるようになる。

心が大事。

動物にも、心がある。

植物にも、心がある。

とおもうのは、僕だけだろうか。

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