【知の個別性・主観性】フルーツバスケットより

世界で一番バカな旅人

たった一人になっても。
たった一人でも。

誰かにとっての真実は
誰かにとっての真実ではない。

自分の感じていることは
他の誰かは感じていない。

それを、愛しいと感じるか。
それを、憂いと感じるか。

心が大事。
【言葉を超えたもの】『僕の青春ラブコメはまちがっている』と「欺瞞」

オトノネひろげるシェアぼたん

権力者が共感能力が低くなるのは「自然」らしい

正しくいうと、権力を握ると、共感能力が低くなるというのはとても人間らしい「自然」だということ。

らしい。

自然だらけだなぁ。

これは去年の夏のだいごさんの動画ですが。

でもそれがいいことかって、「自然」だからって許されるのか、いいのか、それがどうなの?
というのは、人間の問題。

人間らしさ。

人の愚かさを、自分自身が気づくことから。
魔王だらけの世界。

で、大人は子どもに対してチカラをもっている、権力者であることを、認識しているのだろうか。
権力者をつくる権力の構造は確固たるものとなり、もう権力者たちは開き直っている。殴ってみよう。(非暴力の方法でもいい。殴ればいい)
【ファンタジーのリアル】敵がみえない世界。敵を殴って倒せない世界。

日本わけわからない。
混乱中。

オトノネひろげるシェアぼたん

【2歳】ウハウハ期にウハウハできないから思春期を迎えられない?という仮説。

を勝手に立てた。

今、ナルシシズムの本を読みながら、幼児期に適切に心の仕組みをつくれなかった子が、大きくなって、ナルシシストになって人を不幸にしていく話を読んだ。

保育園を見学しまくっていた時期に、2歳児クラスがどうも2歳児っぽくない印象を受けたのを今でも覚えている。
そして1歳児のクラスを見た時、あまりにも窮屈で過酷な保育環境に、大人の叫び声で子どもの声が聞こえない保育室の雰囲気を、今でも覚えている。

あれをしたらあれをする、これをしたら、次はこれ。
そういう流れ作業が目について、情緒的な関わりはほとんどない。いや、一切なかった。

(誇らしげにある保育士が「おしめを替える競争をしていたよ!」と冗談半分で言っていたが、狂っている。)

児童福祉施設、乳児院でも同様のケースをみてきた。(いやいや、ちゃんと子どもと関われているところは、関われている。組織のあり方で、がらっと変わってしまう)
この背景には、大人の組織が言語レベルではなく行為レベルでしか成り立っていない、コミュニケーションではなく、ただの支持・命令・規則でしか動けないという文化が影響している。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

「やることやってから喋れ!」というアレである。
いやいや、それをやるかやらないかが問題なんだけど。が、通じない。

「まずは3年黙って働け!」というアレである。
いやいや、3年間、新しい時代の人たちの思考力・感性を無力化してどうするの。

発達は生まれた瞬間から始まる関わり合いの積み重ねだ。
0歳、1歳のとき、、、、

ーーーーーーーー

2歳になる前に、子供は保育士から暴力を受けるとしよう。(暴力が当たり前の文化になってしまった組織ではごくごく当たり前に子供は暴力にさらされている)
学校のネグレクトに気がつく【児童虐待に気付きにくい理由】
そうすると、2歳になってウハウハすること、自分を出すこと、ほとばしる感情、自立心、もしくは挑戦する心、探究心を出すことができない。
1歳のときにすでに、心がすり減らされているからだ。とおもえてしまった。
「怒られる」「怒鳴られる」
小さい子も立派に学んでいる。
小さいなりに、無力なりに、生き残ろうとする心のしくみがはたらく。

その子が大人になって、自立して、しあわせを感じて生きていけるだろうか。
それが問題だ。多くの本の答えは「NO」である。

もちろん「NO!」

ーーーーーーーー

お母さんは家で子どもと情緒的な関わりができているだろうか。
人間的に関われているだろうか。
くたくたで会社から帰ってきて、子どもと情緒的に関わることができているのか。

思春期を迎えられない子どもが多い。
探究心、自立心、2歳のウハウハで学ぶことが学べていないのだから、そうなってもしょうがない。
思春期を支える大人、励ましてくれる大人と出会えない子どもが多い。
(それでもちゃんと頑張って思春期を彼らなりにやっている高校生を僕は知っているから、命は本当に神秘的だと思う)

たとえ励ましてくれる大人がいても、もはや「命」がクタクタになっていて、思春期を迎えられない子がいるのではないか。

子どもたちから、子ども時代を搾取する大人が、保育士という資格の下、社会福祉法人という名の下に、公然と、笑顔で、子どもを迎えにきたお母さんを出迎える。
もちろん、本人はそれが普通だから、気がつかない。

小学生になっていじめが起きたり、人間関係がうまく行かなくなるのも、当たり前だ。
発達は、積み重なって行くものだから。

と、おとのねさんはおもいましたとさ。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

オトノネひろげるシェアぼたん

【ビジネスの原理】情を売る。

愛を売る、と言われて思いつくのはホストとかキャバクラとかいう夜のお仕事だったりなんだり。

塾も学校も愛を売っているケースがある。

いやいや、愛は残念ながらスキルなので売れない。
愛とは何か?

情のエネルギーを注ぎ込む「型」になんと名前をつけたらいいのか、考えてみよう。

ーーーーー

塾にいる「やさしい」先生。
通学中にお腹が痛くなって迎えに来てくれる先生。
頑張って進級「させて」くれる先生。

どれも、「愛情」のあるいい先生のように思える。
行為レベルでは。

ーーーーー

言語レベルではどうだろう。
「やさしーくしていないと生徒はやめていくから甘やかす」
「迎えに行かないと学校何してんだと言われるし、生徒からもなんで来てくれなかったのかといわれるから行く」
「教育委員会からの評価も下がるし、親への対応もめんどくさいから進級させる」

これはどんな「情」からくるのだろうか。

ーーーーー

学校も塾も、情を売るサービスだといえるだろうか。
安心を売る塾。
卒業資格を売る学校。

「立場」や「役」をどう考えるか。
塾や学校は「安心を売る」「卒業資格を売る」ことで立場を守っている。
そのために「やさしい」とか「迎えに行く」とか「進級させる」という役を担う。

それが、ビジネスの原理。

僕にはどういうわけか、塾や学校がキャバクラやホストクラブと同じように思える。
愛のない情の世界で、子どもたちは、今日もスマホを手に、レバニラを探して歩いているのかもしれない。

レバニラかとおもって注文したら、ニラしか入っていないのが、「自然」な世の中になってしまった。
「レバニラ」を頼んだら、「ニラ」がでてくることに、違和感がなくなってしまった。
「ご注文の、レバニラです!」「え?レバーは入っていないんですか?」「え?入っていますよ?これが、レバニラです!」
そうして、「ニラ」を「レバニラ」と呼ぶようになった。

ビジネスの原理から子どもをどう守るか。
お母さんが、ビジネスとして子供を育てていたなら、もう、ニラばかりで、子どもは別の進化を遂げ始めている。

と、僕は感じている。

レバーのない世界で、子どもたちは、新しい生き方を、探し始めている。
レバーを諦める人もいる。
レバーを探す人もいる。

二つの文化が、お互いにお互いを尊重できるなら、いいのであるが。
2つの文化

愛は、情ではない。

オトノネひろげるシェアぼたん

2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

お母さんから相談があった。

お母さんは悩んでいるらしい。
お父さんは悩んでいないらしい。
子どもが学校で先生にいじめられている件について。

もしかしたらお母さんは県外出身かもしれない(まだきいていない)。
お父さんは、富山県の人だろう笑

いやいや、お父さんはなぜか子どもの事情に口を出すことがすくない印象を受けるこの頃。

男と女、でもいいし、学校と家、でもいい。
まったく違う文化があったときに。

その二つの文化が摩擦を生み出しているときに。
どうするか。

ーー

インドネシアのスラウェシ島で聞いた話。

「村には村の儀式がある」
「結婚するときも違うしきたりがあって、島が違えば、儀式も違う」

え?じゃぁ、別の村、地域、島の人同士が結婚するときって、どうするの?
と僕は聞いた。

「どっちもやる」

が答えでした笑

ーーーーー

もちろんこれは儀式であって、行為、振る舞いを変えて二度結婚式をするようなもの。
それで、「よし」なのだ笑

どちらか一方に染まる必要はない。
優劣はない。
二つの文化の思いを背負った二人の人間のための、またその二人を見守る二つの文化への敬意だ。

ーーーーー

郷に入れば郷に従え、という言葉が、日本にはある。
なるほど、例えば最近、日本にやってくる外国からくる観光客の素行が問題となっているらしいが。
(温泉の入り方とか、道にゴミ巻いて行くとか、食べ歩くとか、、いろんなレベルがあるが)

「郷に入れば業に従え」笑というやり方は、日本のどんな精神文化を表しているのだろう。

人間疎外、全体主義の国といっていいんだろうか。
「うちの会社に入ったんだから、従え」
「学校に来たんだから、従え」
「うちの子に生まれたのだから、従え」

人と人のコミュニケーションが、人と人の学びが、そこには生じない。
人間疎外。

そうして、「従って」自己疎外が始まる。


これは人と人の境界線を越えて精神を犯してくる暴力、ナルシシズムとみることもできる。
他者を自分の(じぶんたちの)一部だとみなすこの文化は、ナルシシズムだと僕はおもっている。

集団的なナルシシズム。
凶悪だ。

========

「従え」という言葉は使わないが、常日頃の日常会話の中で、振る舞いの中で、子どもを「従え」ているナルシシストなお母さんがいる。

例えば。

「支援級に行ったら、子どもはお嫁にいけなくなる」といって普通級に止まらせて勉強についていけないと悩んでいるお母さんがいる。
しかも「普通級にいるのは子どもの意思だ」という。

これが自己欺瞞であり、子どもから大事な子ども時代を搾取していても気がつかず、親が子どもを人間として疎外している例だ。
(将来が不安だから勉強「させて」いい大学に「行かせ」るために塾に「行かせる」のと同じで凶悪だ)

他にもいろいろなパターンがある。

欺瞞に満ちた多くのお母さんは「子どもの意思を尊重している」といって、自分に対する欺瞞を認めない(欺瞞とはそういうものだ)。

他者を欺き、自己も欺き、子どもも欺く。

なんのためか。

目的はない。

狂っているだけだ。

しかもその、自覚がない。
ナルシシストとは、そういうものだ。

========

さて、2つの文化の話に戻しましょう笑

ーーーー

例えば。

お母さんは「宿題はやらなくちゃだめ」といっている。
お父さんは「宿題をやらなくてもいい」と言っている。
そういう家庭を想像してみよう。

学校では「それはダメだ」と言われ、家では「それはイイよ」という状況を想像してみよう。

9歳を過ぎていたら、それを疑問に思うだろう。
「へ?どっちだよ!」

その二つの文化、二つの考え方に対して、自分はどう関わって行くのか。
どう「理解」をしていくのか。

「解釈」していくのか。

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
8歳、9歳は、大切な時期ですーファンタジーと現実のあいだ
【8才からの内言】自立心と感情のコントロールと思春期
学童期に大切な「学び」を保障する場所。

一方の文化を尊重し、もう一方の文化も尊重し、お互いの考えを知ること。
(学校の考えは学校が教えてくれることがないので聞かなくてもいいが、結局は「学校のため」であるから別に聞く意味もないだろうが)
どちらも「大切」なら、両方受け入れてもいい。

両方受け入れられるような心をつくるしくみ、やりかた、振る舞いを学んでいけばいい。
板挟みになって、自分の心が擦り切れてしまう、隠蔽してしまうのが、欺瞞が、一番、ダメダメなパターン。

自分を大事にできなかったら、他の人を本当に大事にすることなんて、できないから。

どうしようもない狂人、魔王は実在する。
その人たちの「文化」とは別に、自分の「文化」を守ろう(破壊しにやってくるから、守ろう)というのが、オトノネのスタイルです。

学校というナルシシズム組織から、子供の心を守りましょう。
子どもから子ども時代を搾取する組織から、子どもの心を守りましょう。

と、おとのねさんは、おもいましたとさ。

オトノネひろげるシェアぼたん

善悪の彼岸

心のある記事が、心のない記事にされてしまっている現場を発見。

もともとはこのツイートをみて、ん?とおもって調べていた。

心のない記事
不平不満を言いまくると「脳が物理的に変わる」と科学的に判明! 愚痴を言うだけで「深刻なリスク」

今、金沢の西南部中もショッカーや魔王に叩かれている。
心ある行いが、心のない行いに責められている。

心あるもとの記事

In fact, our brain possesses something that is called the negativity bias, meaning that the brain has a tendency to focus more on what’s wrong via our perception, not what’s going right or the positive events in our life. These negative thoughts can actually drown out the lighter experiences over time so that you aren’t able to even see the good events that are taking place in your life.

Neuroscientist, Dr. Rick Hanson sums up the negativity bias quite nicely,

“Negative Stimuli produce more neural activity than do equally intensive positive ones. They are also perceived more easily and quickly.”

What Happens To Someone’s Brain When They Complain Too Much

不平不満を言うこと、だけでなく、不安や心配、ネガティブな世界に生きていたら、「よろこび」に「気がつく」ことができなくなる。
「しあわせ」が入ってくる窓がどんどん小さくなってしまう。

外向性と神経質傾向の二つの因子の説明を見ていたので、ああ、と思うところがあった。
『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

ネガティブだからこそ、小さなしあわせに気が付けるかもしれない。
ポジティブだからこそ、小さなしあわせに気が付けないかもしれない。

ポジティウブでもネガティブでもいいから、小さなしあわせに、気が付けるようになりたいなぁとおもう。
小さな「なにか」を感じていようとおもう。

息を吸ったり吐いたりしている、霞を食べるしあわせを感じるには、まだまだ遠い笑

オトノネひろげるシェアぼたん

【メタスキル 】すべてをこなすことはできない。

今、この時代を生きる人にとって大切なことはなんだろか。

自分のものとして、自分の人生を生きること。

だと思う。

与えられるものではなく、自分が感じて、自分が意欲して、自分が欲して得るもの。
たとえそれが「欲しない」ということだとしても。
それ自体、欲しなくては得られない心のしくみなのだから。

そのためのメタスキル (感情知性といってもいい)には、「自分の痛みを自分のものとして認めて、自分で処理する。対処法を生み出して行く」ことがあるだろう。

ーーーーー

学校ではあれもこれも教わる。
というか、目の前にチラチラ入ってくる。
それこそテストは「全教科」やらなきゃいけない。
「やらなきゃいけないの?????」

それを「やること」として当たり前のように「自然」にやってきてダメになる子がおおい。
ひとりひとりの能力、関心、適性が違うにも関わらず、中学校になっても、高校になっても、同じやり方をする。

アホか、とおもう。
事実、学校は、アホなのだ。
狂っている。

「いやいやそうではないですよ」といっても、救いにならない。
データをだそうか???
その一言で終わる。
何が終わるかって、、、、話が通じない「魔王」だということがわかって、話が、終わる笑

AIだから、話ができないのだ。

ーーーーー

で、オトノネは「お勉強」を「心を守る」練習としてとらえている。
自分で選ぶ。
自分で責任を持つ。

その練習を、一人では難しいから、おとのねさんと一緒にやる。

「自分の気持ちを大切にする」ことが大切だとおもう。
勉強したくないならしなくていいと僕はいう。
「ただこのスピードだとあれだね、間に合わないねーどうするー???」という。

あせらない。
あせらせない。

あせらせていいことない笑
作業だったら焦っていいけど笑

ーーーー

高校入試は全教科まんべんなく出る。

それで塾ならば「全教科やらなきゃですね」とかいってお金を巻き上げて結局なんにもならずに終わる。

そんなビジネスであり「魔王」が塾には住んでいる。

そもそもが全部やろうとするからダメなのだ。

ーーーーーーー

点数が伸びない、成績が伸びない。。。

なんで????

いやいや好きな教科ひとつ伸びないんだったら何ものびないでしょう。
ということで好きな教科ひとつを極める中で、他の教科にも使えるメタスキルを育てる。

目の前の定期テストに追われていたらそんなことはできない。
捨てるしかない。

手離すしかない。

不安で手離せないなら・・・まぁそのまま進んでみなよ。というしかない。
僕の人生ではないから。

ーーーーーーー

与えられた課題を全て処理しなくてはいけないとうAI化の呪いを解かなくては、始まらない。
それこそAIとして与えられる仕事を放棄しなければ、人間にはなれない。

では、いつ始まるのか?

無料面談と有料体験の間で「気づいた」人は、オトノネで初めてください。
気づけなかった人は、気づけるまではじめられません。気づいてから、オトノネに来てください。

もっというなら、勉強よりも大切なことに、気づいてほしいのだけれど。
最低限、「塾」を諦めてから、オトノネにくると、とてもスムーズです。

オトノネひろげるシェアぼたん

不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??

「子どもに選ばせています」というお母さんがいる。

なるほど、聞こえはいいかもしれない。
とても「自然」に聞こえる。

しかしこういうこともある。

このような「全体」をみれば、「不自然」に聞こえるだろう。

「選ばせている」といいながら、一部ではしっかり管理していたり。
まぁ人間はそういうものなのだが。。。

どこまで責任を負わせるか。
中学生ならどこまで?
そういった見極めをするのが、大人であるかもしれない。
いやいや、「これは無理」とか「こういう助けが欲しい」という言葉が子供からでてくるように、小さい頃から関わりあうのがいいのかもしれない。

きっとそうだろう。
子どもを賢く育てるとは、そういうことなのだろう。

例えば変質者が「向こうのお友達もあとでくるってよ」といって誘拐しようとするとしよう。
変だな、とおもえたらいい。

「友達がくるんだったら、いかないとな」という心で溢れてしまっていては「いや、やっぱり変だ」と思えないだろう。
心の隙間を、魔王は狙ってくる。(世の中に溢れている商品などは、全部消費者の心の闇をターゲットにしている。塾がそうだね)

心のあり方を育てなければ、子どもを檻に閉じ込めておくしかない。
檻の中で学ぶことはない。

ひきこもるのではなく、閉じ込められている子どもが大変多い。

ーーーーー

本当に自分で選べていない人生を、多くの子どもは送っている。

人生を、お母さんに決めてもらう。
選択をお母さんにしてもおらう。
その習慣がつく。

「こうしたい」気持ちを認めてもらえない子は、喋るのをやめる。
主張するのをやめる。心を閉ざす。

受け身。
目の前に誰がいるのかわからない?
「あなたの心はどこにあるの?」

ーーーー

社会的参照、という言葉がある。
『マシュマロテスト』ウォルター・ ミシェル.1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。
「いいの?わるいの?あぶないの?大丈夫なの?」「どうしたらいいの?」ということをお母さんに聞くことだ。

子どもが何かしようとしていることを、励ますことだ。

したくもないことをやれやれということではない。
したくもない勉強をさせに塾に通わせることではない。

それができるのが、1歳だか1歳半だか、はいはいを始めたり動き出して、お母さんのそばを自分から離れるようになってから。それは身体的な「離れ」であり、同時に心理的な「離れ」でもあった。

それが大きくなるごとに、成長するごとに、どんどん「離れ」でいくのが、自然なはずだ。
それを、親が離さなかったらどうなるか。

心の成長が止まる。

自分で決定できない。
自分の身を自分で守れない。
誰かのいうことを聞くしかない。
自分に自信がない。
代わりにエンタメでやりすごす。

ーーーーー

子どもが巻き込まれる「自然」には、モノというものもある。
スマホが最たるものおだろう。
スマホに親が求めるものは?なぜ使わせる?どうつかったらいい?
結局、スマホもスキル。メタスキル 次第で、使い方は変わる。

子どものためにピアノを買う、というのは、どういう「自然」なのだろうか。
ピアノが上手くなるように?
けどそれは本当にその子が望んだこと?
その子にとって、家にあるピアノは、「練習しなくちゃいけない」ただの呪物かもしれない。

ピアノという、目の前にある「自然」は、子どもの心をどう作り上げているのか。

情報も「自然」の一部だ。

お父さんお母さんの口にする言葉。
テレビから流れてくるニュース。
ドラマ。

それを処理して行く心ができているだろうか。

「勉強」「宿題」という言葉を、子どもたちはどう受け取っているんだろうか。
「寝る時間」を内在化できないで「眠らされる時間」という規則としてしか受容できない。

自己管理ができない人間になるのだ。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。
これは僕の高校生の時の問いだ。

自然という言葉に僕は憧れを抱いていた。
なにか素晴らしい原理を含んでいるように思えていた。

自然を守ろう!

だが、人間という「自然」な生き物をこの歳までよくよく見ていると、自然がとても不自然に思えてくる。

自然を守ろう!

という言葉のオトノネは何か。

僕は「自分の自分らしい姿を守ろう」ということなのだと今は思っている。
だから、その子のその子らしい姿は何か。この問いを、オトノネにくるお母さんお父さんに投げかけたい。

オトノネは、お父さんお母さんと一緒に、その子のその子らしさを守る自然を育てたいとおもっています。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。

「魔王」がいたるところにいるこの世界(学校は特に密度が濃い)で、「魔王」に支配されることが、「自然」なのだろうか。
むしろ、「魔王」に対する免疫力、抵抗力、心の強さを作り出すこと、つまるところ「魔王に心を支配されない」「魔王に利用されない」ことなのだとおもう。「自然」に負けない、これが「自然」なのだ。「自然」を知らずに、「自然」を語れない。

で、「自然」って何なの????

まず、お母さんお父さんが、宿題を始めよう。
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
コドモとして未成熟なオトナ
いつまでたっても、小学生。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹


親の安心のために利用されている子どもたちは、僕にとって「不自然」だ。

わかりにくければ、こう表現しようか。

「いつまでその手を握っているつもりですか?」

生きているのに、死んでいる、心中社会の真っ只中で、オトノネは声を上げています。

オトノネひろげるシェアぼたん

『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア ブラック

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック , 水澤 都加佐
子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

ーーーーー

子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

ーーーーーーーーーー

さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。

調査・日本の飲酒実態


家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です

日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは?

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
  【令和元年12月1日現在(概算値)】
    <総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
 眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
 理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
 ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
 知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

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