【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?

忍耐という名詞を使ってもいいのだけれど。
使わない方がいいとおもう。
名詞の抽象性

じゃぁ、忍耐って、どうやってつけるの?
その一つの答えが、軍隊式、スパルタ式教育。
困難な状況に、慣れさせるというもの。(ただしこの困難な状況に慣れることができず、脱落する人たちがいる)

忍耐とう名詞を別の言葉に言い換えてみたほうが、もっとしあわせになれるよ!
というお話をします。

成功する子・失敗する子

自制心を最大限に発揮したい場合、どういう戦略やコツが最も効果的か?そうした技術は教えることができるのか?ミシェルの実験からはおもしろい結果がいくつか出ていた。例えば精神分析理論や鼓動理論が提示するところによれば、子どもにとってマシュマロをふたつ手に入れるための最良の動機付けとなるのは、ご褒美を意識の中心に起き続けること、最終的にそれを食べられた時にどんなに美味しいかを強調することであるはずだった。ところが実際の結果は正反対だった。子供たちはマシュマロが隠されていた時の方が、目の前にあったときよりもずっと長く我慢できた。この実験で最良の結果を出した子供たちは気をそらす方法を独自に考え出していた。いひ部の子供は実験者が戻ってくるのを待つ間、ひとりで喋っていたり歌ったりしていた。おやつから目をそらしたり、自分の手で目隠しをしていた子供もいた。昼寝を始めた達人もいた。ミシェルの発見によれば、子供が時間を引き延ばすために効果があるのはマシュマロについて違う考え方ができるような簡単な助言があった場合だった。頭に浮かぶおやつが抽象的であればあるほど我慢できる時間も伸びた。マシュマロを菓子ではなく丸く膨らんだ雲みたいなものと考えるように誘導された子供たちは、7分ほど長く我慢できた。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.110)

どういうことかと、課題に対して、自分なりの方法を編み出せることが重要であり、
忍耐、我慢強さという指標は、全くあいまいで、抽象的で、誤解を招く言葉であるから使わない方がいいという話。

オトノネは、「自分なりの方法を編み出す」お手伝いをします。
それが個別化であり、ファンタジーであり、あそびであり、受験という経験だと、僕はおもっています。

またこれが、世の中の「リッチ」なものを味わえる、メタスキル になることでしょう。

マシュマロ実験いろいろ
ライフシフト

自己主体感に関して難しいのは、寿命が長くなれば、考慮しなくてはならない未来の自己像が何通りも出現することだ。100年ライフでは、お金を使うことより貯めることが重要になるし、余暇時間をレクイエーション(娯楽)から自己のリ・クリエーション(再創造)に振り向ける必要性も高まる。家庭内での役割と互いの関わり方について、パートナーと難しい会話をする能力と意思も強化しなくてはならない。ここで問われるのは、未来に得られるかもしれない恩恵のために、いま厳しい決断ができるかどうかだ。(略)研究によれば、セルフコントロールの能力は人によって異なり、その違いは幼い時から現れる。例えば、3歳の子供に、いまマシュマロを食べるのを我慢すれば、30分後にもう一個マシュマロを上げようというと、満足を味わうのを先延ばしにしてセルフ・コントロールができる子どもと、それができない子どもがいる。ものごとに習熟するためには、満足を先延ばしできるかどうかが重要だ。なんらかのスキルを習得しようと思えば、長期の恩恵(たとえば、イタリア語を話せるようになること)のために、目先の快楽(例えば、お気に入りの連続ドラマを見ること)を我慢しなくてはならない場合が多いからだ。研究により、セルフ・コントロールは後天的に身につけられることがわかっている。ものごとに習熟するために快楽を先延ばしにする能力は、学習できるのだ。スタンフォード大学のキャロル・ドゥエックによれば、厳しい課題に向き合い、なにかに習熟したり、プロジェクトをやり遂げたりする能力をどの程度持っているかは、人によって異なる。ドゥエックの言う「成長思考」の持ち主は、快適なぬるま湯の外に出て生き、未来につながる道に思考を集中させようとすることにより、将来の計画を貫くことができる。そうした人たちは、「現在の暴虐」ーいつもすぐに手に入る果実ばかりを追い求めたり、手ごわい課題を与えられると動揺したりすることーをあまり経験しない。こうした思考習慣を身につけるためには、方法論を学ぶことが有効だと、ドゥエックは主張する。不可能とは言わないまでも困難な課題に取り組むように指導・奨励された子どもは、成長思考をはぐくみやすいというのだ。もしドゥエックに助言を求めれば、長い人生を通じて生産的でありたいと思う人は、困難な学習目標を立てて、強い覚悟を持ち、目標に向けて脱線せずに忍耐強く努力し続けるよう言われるだろう。100年ライフでは、人々に自己効力感と自己主体感をもたせ、計画と実験と習熟を後押しすることの重要性が高まる。教育機関と政府は、そのために貢献することができる。(『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』p.362)

オトノネひろげるシェアぼたん

「世の中」と向かい合う前に。

世の中、って誰のことだろう。

世の中は、甘くない。
世の中は、学歴、
世の中は、、、

結局、選ぶ、決断するというスキルがないために、
自分が決断して、世の中を選ぶことができないために、
世の中の仕組みを知らないために、漠然とした世の中と対峙することになる。

それはとてつもない不安だ。

世の中で心がすり潰される子どもたちがいる。
どんどん、世の中に染まって行くのだ。
心がすり潰されて行くのが、世の中だ。
くらいどんよりとした、たった一箇所、か細い光の先にしか出口がないような世の中だ。
「もうそんな世の中、うんざりだよ」という子どもの言い分がある。
学業不振?やる気がない?あそびほうける?それが、世の中の標準であることを、お父さんお母さんは認めているだろうか。

そう考えたら、世の中というものは、勝手に作り出した幻想にすぎないとわかるだろうか。
世の中は、目の前にあるものではなく、
お父さんお母さんの瞳の中に写っているものだ。

「成績が伸びないしくみ」になっている学校の成績を上げようとすることは、世の中に逆らうことだ。
だったら、子どもが世の中に逆らっても、大人は何も言えない。

世の中ってなんだろう?

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お父さんお母さんのファンタジー(世の中物語)のなかに子どもを閉じ込めて、子どもが滅入っていることもある。
「それは、あなたたちの生き方でしょう?私の生き方ではないでしょう?」と、子どもは心におもっているかもしれない。
「もっと別の世の中を、みせてくれない?僕はまだ、子どもなんだ」と、子どもは心におもっているかもしれない。

いろんな生き方がある。

いろんなオトノネがある。

その子の見ている世界と、僕らの見ている世界が同じなわけがない。
大人が勝手に「世の中」を語るとき、子どもはそれを「ファンタジー」だとおもっているかもしれない。
8歳、9歳でその区別がつき始める。
「いやいや、目の前の現実が大人には見えていないんだね」と子どもは冷静に思っているかもしれない。

子ども曰く。
「どうして大人は、わけわかんないことを言っているんだろう?」

世の中を語る前に、心を語りたい。
その子の瞳に映ってる世の中を教えてもらうのはどうだろう。

その子の人生の舞台に上がっているのは、その子なのだから。

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動いているブランコに突進するのは、経験不足なだけか、スローか、無理か。

オトノネ関係者で放課後ディの人がいる。

ダウン症の子、小学生。
危ないはずのブランコに、自ら突進する。

これは、ブランコで痛い目にあう経験値が足りていないからか。
それとも、痛い目にあったことが、利用できないしくみになっているのか。

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野外教育業界で、こんな言葉がある。

怪我をしない子は、初めてのことでも、一切怪我をしない。
怪我をする子は、何度でも怪我をする。

危機察知ができるのは、経験の集積を抽象化して、法則化して、「あ、これは、気をつけないとな」とおもって、
慎重に行動を起こしたりすること。雰囲気を敏感に、肌で感じること。


危ないな、と「予測」して、「慎重に」振舞うこと。
様子を見て「観察」したり、道具の威力がわかるまで「実験」する。

こうした反応も、危険、危ない、失敗という経験から作られるだろう。

だが、「予測」や「慎重さ」や「観察」「実験」ができない子がいる。
それは、もう、どうしようもないものなのか。

それとも、ゆっくり発達して行って、いつかは「あ、動いているブランコに突進したら危ないんだ」といわかるだろうか。
道路に飛び出したら死ぬことが、わかるだろうか。(一才の子にはよくあることだが)
実際に事故に遭わなくても、危険を回避するチカラがある。

大きくて、動いているものは、危険!
という単純なことなのだが・・・・
ある意味でこれはファンタジーするチカラの応用だろう。

例えば、虫が好きで、虫を触っていて、噛まれるとわかって、つかむ場所を考えたりすることでも、この能力は、経験は、蓄積される。
それで「学習」ができるか。

なぜかオトノネにいた、噛まれると痛そうなヤツ。そういえば、自転車をこいでる時、何かがぶつかってきたような・・・この虫は、ヤヴァイだろ。ぜってー噛むって!!!笑

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僕は、学習できるんじゃないかとおもっている。
ずいぶん大人になったダウン症の人が、人間関係をつくる「戦略」をもっているという話を聞いたことがある。
ただそのためには、時間と、経験の蓄積が、必要になるんだとおもう。
似たような状況でなければ、反応できないかもしれない。

「その子の」学びの環境を整えること。
個別化すること。

放課後デイのスタッフの少なさでは、利用者の数では、ほとんど「管理」になるのが現状。
だ。という話だった。

これは、学校でも、塾でも同じ。
その場所が、学びに適しているか。ただ、安心のために利用するか。
お父さん、お母さん次第。

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失敗をしたり、「あ、これは、危ないものだな」と思えるものに関わる、そういうちょっと危ない状況を観察したり感じる経験が、やたら少なくなったようにおもう。

いろんな人の法則、物の法則は、学校のお勉強では学べない。

例えば。

知らない人に声をかけられたら、逃げる。という指導が学校ではされているかもしれない。
人間を見て、判断をつける。「あ、この人は、危ないな」とか「あ、この状況は、何か、違うな」と思えるだけの、多様な出来事、経験が少なかったら、本当に、囲われた世界でしか、画一的な世界でしか生きられなくなるかもしれない。

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冒険、挑戦が許されるあそびの世界が、少なくないか?
子供が挑戦するのを、見守る大人が、少なくないか?
おもいっきり擦り傷を作って家に帰る子が、いるだろうか。

いるに違いないが!

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子どもにとって、その子に関わる大人にとって、一番「障害」になるものは何か。

「話が通じない親である」で、意見は一致した。

高岡は特別支援学校も、普通の学校も、財政難のためにマンモス化している。
子どもにお金をかけないこの街に、どんな未来がまっているだろう。

お父さん、お母さんも、子どもも、疲れている。

それでも、子どもたちは、笑っているから、僕はほんとうに彼らを尊敬している。

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適切な行動の未学習か、
不適切な行動の誤学習によって
「問題の行動」が引き起こる。

「教えるべきこと」は何だろうか。
「これはダメあれもダメ」ではなく、「これがいい、あれがいい」を、適切な行動を学んでいこう。
学校の言語環境は、すこぶる悪い。「教えてはいけないこと」が、教え込まれている。

オトノネひろげるシェアぼたん

マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。

眠れなくなってyoutubeを徘徊していて、こんな動画を見つけた。
タイトルはものすごく刺々しいけれど。。。

見てみると。

僕が前にも記事にした「マシュマロ実験」と「ファンタジーの力」とは別の解釈というか、データを出してくれていたのでした。
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読。
(上の動画のマッシュルームの話が終わった後の話は、聞くに耐えないので聞くことをお勧めしません)

前の記事では「マシュマロを食べなかった子の忍耐力とは、ファンタジーによって時間を引き延ばすチカラをもっている子」だと紹介した。
この動画では「マシュマロを食べた子は貧乏な家庭で親からいつも嘘をつかれている環境で育った子。もしくは食べ物にいつも困っている子」だと喋っている。

この話が本当かどうか、わからない。
けど、本当な気もする。
言語は、使用される環境、文化の意識を心に移植し、機能させるから。

人の話が聞ける子と、そうでない子。
それは、人の言葉の力であり、信用であり、人への期待である。

未来に対して何も、期待ができない、未来の「しあわせ」が描けない。
目の前の欲求(「辺縁系」)が、ファンタジー(「新皮質」)を凌駕する。

目の前の定期テストが、その子の持つ創造性を凌駕する。

もし、「将来が思い描けなくて不安」なお母さんがいるとしたら、その不安は子どもに移る。
言葉が、感情を媒介する。


もし、「将来を思い描く」お母さんがいたら、その子も将来を思い描くようになるだろう。
お母さんがお母さんの将来を思い描くなら、子どもは、子ども自身の将来を思い描くだろう。
お母さんが子どもの将来を思い描くなら、子どもは、心を喰われてしまうかもしれない。

子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。


未来にレールを引く育て方は、近代、古い時代のやり方。
レールのない道を、人と関わりながら、どう歩いていくか。それが、新しい時代の子どもの育て方。

ニュートン力学ではない。
量子力学の世界観。

オトノネは家庭教育の大切さを感じている。
【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?

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こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の民間学童保育

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実はオトノネさんもそうだが、学校という場所の影響をたくさん受けた。
大人の嘘、都合、言い訳、「筋」というなの、理不尽。
対話ができないこと。言葉に、創造的な機能がないこと。
背中に銃を突きつけながら、笑いかけること。


言語環境、という一点においていえば、学校は、最悪の場所だ。

と、おとのねさんは、おもっています。
もちろん、素晴らしい先生も、いますよ!ほんの、一握り。
いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

オトノネひろげるシェアぼたん

実際に、数を数える

算数で困っている子。

頭の中でなくて、実際に数える経験がないから無理やりつくる。
本当は、大人の仕事の手伝いをしながら、数を覚えるのが、自然なのだろうけれど。。。

「大人」になるまで仕事ができない世の中。
生活の中でどんどん、数と関わるような家庭教育が大切。

だけどお母さんが、お父さんが、仕事で目一杯になっていたら、しんどい。。。。

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おはじきを使って、数を数えながら。この子は勝手にあそびで「みっきー!」をつくった。
あ、これ、割り算だな。

とおもって、話をそっちにもっていくことに。

こういう偶然がどんどんでてきたらいい。
子どもは、実際、遊びながら、こういう経験を積む。
こういう経験が、「数の操作」として抽象化される段階になって、スローラーンであったり、不得手な部分を持った子が、置いてきぼりになる。
じっくりと、その子のペースで、学ぶだけでいいのに。

当たり前のことを、当たり前にやるおとのねです。


クラゲ、だそうです。
すごい感性!

宿題、宿題で終わらせないで、その子の心が向かっている先を、歩けるような、ちょっとしたお手伝いをしたい。
絵の具だけじゃなくて、パステル、切り絵なんか、この子には向いてるんじゃないかな。。。

とか。


別の日には、お花になりました。

ファンタジーは、生きるチカラです。

オトノネひろげるシェアぼたん

夢見る時間を大切にする。

日常の動作がはじまってしまえば、消えてしまう。
きっと大切なものを見せてくれている。
けど、日常の中で、すぐに消えてしまう大切な時間がある。

記憶に残そうとしても、意識しようとしても、残らない。。。。

「夢見ている」状態でペンを握って、記録しよう、という考えが浮かんでも、夢見ている状態で、手を動かすことができない。
(自動書記ができる人がいるらしいが、僕にはまだ、まだ!できない)

いろんなものが詰まっている僕の頭が、話しかけてくる断片的な物語。
つじつまがない、子どものおしゃべりのような、物語。

意味がよくわからない話でも、子どもにとっては、何かしらの心の働きがあって、言葉になってでてきているものだ。
そうおもうと、子どもの「今日ね!◯◯ちゃんがね!」という話ひとつが、愛おしく感じられる。

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インディアンの人たちは伝統的に、黄昏の時間、夜の時間をdream timeと呼んで、特別な時間にしている。
夢を見ているような状態をdreamingという。

心を大事にしたいなら、眠りを、休息を、そして仲間を大事にしないとなぁ。
やっぱり、《放課後の学校》は無料にするか。

学習塾で、お金稼ぐ?
オトノネさんの単価は、どんどん低くなります。
そのうち空気みたいに、無料で、大切なものになるのでしょうか。

それでも、いい生き方だと、思えてしまうくらい、僕は今空気に憧れています。

そうしたファンタジーを大切にして、現実の壁を乗り越えて、プロセスを進めていこう。
というわけで、無料でいいですね?

1万6千円とか、普通の値段にするのは、いやです。
それよりも、無料にして、何が起こるか、みてみたい。

そっちのドキドキの方が、僕にとっては大切な事のように思える。

あれ?またコンビニのバイト始めないとムリじゃない?笑

誰か、影分身の術を教えてください。

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夢にいろいろ、教えてもらおう。

意識の世界ができることなんて、ほんとうに、小さなことなんだ。
それは不可解かもしれない。偶然かもしれない。
そんなものが今の僕をつくってきた。

だから、寝ます笑

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ファウストは、いろいろなことを知っていました。
ですが、大切なことがわからず、メフィストフェレスという悪魔と手を組むことになりました。

悪魔はファウストに、夢を見させたのです。

悪魔という名前でなかったとしたら、メフィストフェレスは、立派に、ファウストの「止まってしまった」思考、もう意識の世界では動かすことのできないプロセスを、動かしたのでした。そのように解釈することができる。

悪魔の名前を、感情知性と言うこともできる。

だから、寝ます笑

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僕が最後に、死ぬまでに曲をつけたいという戯曲が、実は、ファウストだったりするのです。
友達だもん。

すごく普遍性がある物語。
今の高校生たちにも、見てほしいな。
高校生バージョン、つくるよ笑

そういう芸術家としての僕を、まだ日本でちゃんと見てあげれていない、気がしている。
いつも、いつも、後回しになっちゃうね。ごめんねー。

夢で会えるかな

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねさんなう

どこにいっても「うまくいかない」ことはある。
どこにいっても「ああ、この問題には、ぶち当たるな」
とおもって、だったら、好きなことをして、苦労しようとおもった。

楽をしないで、楽しもうとおもった。
僕は、僕のやりたいことをする。

そうしてオトノネははじまりましたとさ。

最近、少し、肩に力が入りすぎている気がする。
もう少し、楽しいことだけしてみようかな。
《放課後の学校》無料でいいですか?

いやですか?
みなさん、無料には慣れているでしょう?

どうしますか?
値段を考えるの難しすぎてですね。

願わくば、ご意見、おきかせください。
僕は大丈夫ですよ。一人分なら、副業でなんとかしますから。

そもそも、ムリをしてしまう、やっていて疲れてしまうことが、本当に、好きなことなんだろうか?
そんなことを考えてしまうくらいだから、今、僕は、ご飯を食べて寝たほうがいいとおもっています笑

少し、ギアを下げたいのですが。
家賃が発生しているため、ギアを下げられないのです。

もっと、残酷な心を持てばよかったと、おもいます。
だから僕が生きるフィールドは、ココではないのかもしれません。
と、思ってしまうほど、今僕は、寝たほうがいいのです笑

夢の中で、いろいろと、学べることもあるでしょう。

明日は、《放課後の学校》のフローリングを受け取ります。
無垢のアカシアです。
みんな、裸足になって、喜んでくれるかな。
わからなくてもいいんだよ。
きっと体は、感じてくれるから。

なかなかわからないものだよ。
大切なものがなんなのか。

ここに、あるんだけどね。

オトノネひろげるシェアぼたん

2種類の幸福

The surprising science of happiness

高校の授業のゲストで、岩井伸太郎さんがきてくれた。
世界一周をした経験から瞑想、マインドフルネスを加賀市で実践している。
子どもたちが生き方を学ぶ、勉強も教える塾をやっているそうだ。
塾生が増えているということで、いやぁ、おとのねも見習いたい。

そんなかんだで、僕も「夏休み前だし!」とおもって、英語の授業で「しあわせ」についてみんなとなんかやろうとおもった。
そこで見つけたのが、このTEDの映像。

ーーーーー

幸福には2種類がある。
自然発生的幸福と、人工的幸福。

自然発生的幸福は、「欲しいものを手に入れる」時に得られるしあわせ。
人工的幸福は、「自分でつくりだす」しあわせ。

「え?不幸じゃないの?」と一見、思える状況でも「しあわせです」と言える人は、人工的幸福を作り出せる人だ。
僕はこういうとき、いつもDVの被害者の状況を重ねてしまう。
一見、はたからみると「それって幸せ?」とおもえることでも、「しあわせ」にしてしまう、脳の働きがある。

(この脳の働きを利用してみんなで幸せになろう!というのが、ブッダのオリジナルの仏教かもしれない)

けど、この人工的幸福の価値は、世間では一般的ではないという。
みんな、「ほしい」未来に向かっている。
子どもたちに「こうなってほしい」未来に向かわせているお父さん、お母さんがいる。

今、この時に、この場所で、しあわせを感じられているだろうか。
「今ここ」でしあわせを感じるチカラも、大切にできているだろうか。

僕自身、よくよく思い返したい。。。。

ーーーーーー

自然発生的幸福とは、「得られるよろこび」である。
「こうなったらいいな。ああなったらいいな」とおもったものが、得られたとき、しあわせになる。

自由、選択、意志、といった近代的な価値観は、自然発生的幸福観の土壌になっているという。

マーケットの原理だ。

もし僧侶のように人々が「そのままでしあわせ」になったら、イオンも、ファボーレも成り立たない。
経済が動かない。行政に税金が入らない。だから「もうこれで、いい」ではなく、「もっと、もっと!」しあわせになれるように、行政も働きかける。

(よく、子どもの数が少なくなった、ヤバイ!日本の未来が!というが、それは「しくみ」を変えれば済む話で、別の「しあわせ」の形を探せばいいだけの話で、子どもを増やして昔のままの価値観を維持しようとすることが、また働き続けて昔のままの価値観を維持しようとすることが、果たして「政策」として本当に民意にあっていることか。そもそも「しくみ」の話を学校でも教わらないから、旧来の「しあわせ」に誘導されているとおもっていい。)

ーーーーーーー

オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。
自立する、という意味で。

けど実際、自由、選択、意志が及ばない「天の才」、「宿命」を受け入れることでたどり着ける境地があるとも思っている。

オトノネは、自由、選択、意志を肯定的に捉えている。
「世の中の思惑」から、自立する、という意味で。

「天の才」、「宿命」を受け入れるために。
自分らしく、命を尊ぶために。

要するに、使い方なのだ。

ーーーーーーーー

自然発生的幸福は、いってしまえば狩猟時代に「獲物が捕れた幸せ」に相当するだろう。
次の狩りへの動機付けにもなる。
これは大脳辺縁系、扁桃体とかそこらへんが絡んでいるしあわせのようにおもえる。(勉強したい)
ある意味で、動物的なしあわせだ。

人工的幸福は、これは「つくられたしあわせ」であって、ファンタジーの世界だ
そこにないものを、作り出す前頭葉(大脳新皮質の一部分)の働きだろう。(勉強したい)
これは、人間的なしあわせである。

どれだけ、人工的に、しあわせをつくれるか。
人工的にしあわせをつくりだすための「インフラ」をつくるか。

これが人生の楽しみであり、ワクワクであるようにおもう。

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どこかに辿りつくまでの道すがら、しあわせを集めること。
「我慢我慢。この労働(課題)の果てに、しあわせになる!」といいながら、不確定な世界で、「得られなかった」時の幻滅、失望は計り知れないかもしれない(給料は必ずやってくるからまだいい。課題は最悪)。やってみるといい。そのあとで、しあわせへの道をさがしたらいい。僕も長い間「求めよ、さらば、与えられん」の道を歩いてきた。ある意味でそれも真実だが、「求めなければ、得られるもの」もある。

カスカネダが記述したインディアンの教えでは、これを「心ある道」と呼んでいる。
これは実は、道教のタオ(道)でもある。

入り口を探すまでもない、道。
僕は今、入り口を探しているような気がしている。
そんなものないのに笑

On the path to happiness, you will discover all that you want to be or do, or have.
しあわせへの道すがら、あなたはあなたがなりたいあなた、あなたしたいこと、あなたがほしいこと、全てに出会えるだろう。

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完全個別指導の学習塾、少人数の《放課後の学校》のレッスン料は高い。
それは「求める」ことでしか得られないものだろう。
どこかで矛盾していることが、わかっているから、僕はいつも、困っている。


けど、家でなにがしかの節約をして、「しあわせ」のやりくりをすることで、払えない金額ではない、ともおもっている。

お母さんのハートワークを増やしたい、と願うオトノネさん。
そのためにお金を稼がないといけないと思うオトノネさん。

この心を大切にするために、やっぱり、お金が、必要なのです。
この心を大切にするために、やっぱり、個別、少人数にしたいのです。

わがままですか?
僕のわがままに付き合ってくれる方に、オトノネを応援してもらえたら、うれしいです。

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【8才からの内言】自立心と感情のコントロールと思春期

感情

私たちは、多くの時間を、あるいは大半の時間を、恐怖に囚われたり恋愛に夢中になったりすることなく過ごしている。このような特に情動の介在のない中立的な心の状態でいる時、私たちは、通常、きわめて論理的に思考することができる。私たちは頭が冴えており、他人のいいかげんな主張を比較的簡単に見抜くことができる。しかし、強い情動が私たちの中に沸き起こったり、強力な気分が私たちをのっとったりすると、事情は全く異なってくる。このようなとき、頭(理性)は心(情動)の奴隷となるのだ。(『感情』ディラン・エヴァンズ p.107)

「だけど!だけど!」頭ではわかっているけれど、不安、恐怖で心が動けなくなっていることがある。
当たり前にやってきたこと、今までにつくった「価値観」、もしくは、発達の段階で「その時は役に立ってくれたけど、成長した今となっては、足を引っ張っているもの」がある。

「やらされ」続けた経験は神経回路に組み込まれてしまう。
せっかく発達した「内言(思考に使われる心的言語)」の語りかけに対して、心が反応できなくなってしまう。
課題をしないと、意味不明な進研模試をうけないと呼び出されてねちねちやられる経験を続けていると、学校の奴隷になってしまう。
自分の本当のチカラを、フルに使えているだろうか。

神経は記憶する。
体は記憶する。

自立心とは、このような心の拘束状態から自由になることで育てられるのであって、「させられる」ことに埋め尽くされた言語環境では育たない。

佐藤学という有名な先生の話を聞いた時に「経験的に、内言が発露するのは小学3年生から」ということを学んだ。
年齢でいうと8才から9才であり、オトノネ的な「思春期」の始まりと被っている。


『学力では測れない非認知能力が子どもをのばす』中山芳一 p71より

思春期は、生理的な生殖機能の発達だけではなく、言語的な、精神的な自立の時期だと、おとのねさんはおもっています。
思春期は、自立のために、内言を育て、個別化にむけて選択してゆく、他の動物にはない、人間的なプロセスである。

小学生の高学年になるころには「させて」いた習い事を全部やめてみて、本人の気持ちを確認することをオススメするおとのねさんにとって、この時期が「自己対話」が可能になる時期だという話は、ありがたかった。

(蛇足ではあるが、とある保育園の保育士の先生から「9才までは、もっとお母さんに、子どもを抱っこしてほしい」という話を聞いた。9歳はギャングエイジが始まる時期であり、まだ自立以前、お母さんとのふれあいが必要だ、という意味だとおもいます)

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感情のコントロール、育ちの中で得られた感情の癖、心の癖は、いたしかたなく生まれる。
だが、そのせいで内言が育たない、自己対話ができない、自分の力で自分を守る意志が働かないのでは、ずっとコドモのままになってしまうかもしれない。「通過儀礼」がなくなった現代で、これに変わる「儀式」が「受験」であるようだが、一人で乗り切るには辛すぎることもあるだろう。やっぱり助けてもらわないとなかなか乗り越えられない困難がある。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。

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自立した一人の人間として、助けてくれる人と出会えた人は、しあわせだ。

そして、「記憶された感情」が消えた時に、準備ができたときに、「忘れた時」に、新しい人との出会いがある、というのも、不思議と、また事実であるようにも思える。時間を、悠々と燃えている命を、プロセスに任せるという態度も、大切かもしれない。

それは、新しい「ファンタジー」、新しい「物語」を語り始める時だと、僕はおもっている。

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知能指数(IQ)は変化するのか?一生変わらないのか?

IQは人によって異なります。

IQが高い人もいれば低い人もいます。

ではIQの違いは遺伝なのか環境なのか?
答えは両方と言われています。

生まれ持ったものと育ってきた環境の両方が人のIQに影響します。

また、時期によってIQの意味合いは異なってきます。

一般的に、幼児期のIQというのは変動しやすいものです。

TOEICなど様々なテストを開発しているアメリカの機関、エデュケーショナル・テスティング・サービスに所属しているロナルド・ロック氏によると、

IQをより正確に出したいなら小学校3年生、早くても2年生以降と述べています。

つまり個人のIQの値が安定してくるのは9歳前後であることが予想できます。

ここでも、8歳がひとつの区切りになっています。

幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

オトノネひろげるシェアぼたん