環境と遺伝と自己(もしくは意志・人格)

意志(人格)は遺伝子にとっては環境と同じみたいだ。

とふとおもう。

意志(自己)が遺伝子のお世話をする、とおもったら、人は誰でも、自分という子どもを育てているのかもしれない。

遺伝とか、エピジェネティクスとか、人体のしくみを学ぶと、「私」というものは「遺伝子」にとっては他者のようなものだと、おもえた。

遺伝子が僕らの人格(意思決定装置)をつくる反面、私たちも民主的に、遺伝子と関わることができる。

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こういうファンタジー、虚構、物語の世界を書き下したらおもしろいかも。

「生きるための生物」
「生きるための数学」

生きるためシリーズ。

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神経細胞の発火の仕方は遺伝子レベルで決まっているんだろうか。
神経細胞もDNAをもっているのだから、脳のはたらきを遺伝子で説明することだってできるだろう(まだ詳しく分かっていないらしい)。
脳は情報を記憶するのと同様に、環境に応答するやり方も記憶している。

脳に対して、遺伝子と意志は対等だろうか。

人間づきあいを変えるのも大変かもしれないが、遺伝子づきあいを変えていくこと、再構成していくことも、大変だとおもう。

遺伝子にも自分にも「OK!」を出したら、もうすこし生きやすくなるんだろうか。

とふとおもう。

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そんなことを考えたりしないでも生きられるのだろうに。

ねぇ、デオキシリボ核酸くん。

オトノネひろげるシェアぼたん

【今日の面談】不安定な状況の大切さ。生活習慣病・ひきこもりは「自然」か。

最近、春先で頭がぼうっとしていて話題がたまに飛んだりします。
自覚あり。

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今日、飛び入りで面談があった。
言葉のレッスンに興味をもってくれたお母さんが来てくれた。

そこで「子どもがモニターラブ」な状況を話してくれた。
人と関わるよりも、モニターと関わる方が、好き、らしい。

それで「ちょっと心配」というお話だ。

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最近、お金の勉強をしながら、
全米No.1バンカーが教える 世界最新メソッドでお金に強い子どもに育てる方法

家庭教育の重みを感じる。

「自然」に任せていては「やりたいほうだい」になってしまう。
けれどもやりすぎると心が荒んでしまう。

いやいや、簡単なことで、家族のルールを決めたらいいんだろうか。
言葉がけなしに、自然と「できる」ようになることはない。
「いいか」「わるいか」の判断が自分でできるようになるには、試さなくてはいけない。

「それをやったら、どんな悪いことがおきるのか」

子どもはわからない。

何が「いい」のか。
何が「悪い」のか。

それを大人がどこまで伝えたらいいのか。
「大切なこと」はなんなのか。

それを学ぶための適切な「ギャップ」が必要なのだろう。
ギャップとは生態学用語で、生態系が局所的に変異するための環境の変化のこと。

それは時として不慣れで不安定になる状況を作り出すだろう。
けどれそれによって新しい生態系が生まれる。
あたらしい仕組みが生まれる。
あたらしい関係性がうまれる。

新しい技能、新しい価値観、新しい感性が生まれる。

その不安定な「ギャップ」は、「お勉強」の本質だ。
新しい言葉、新しい規則、新しい物語を取り入れるために、記憶を再編成する。

不安定な状況を作り上げる。
これが教育の一つの役割かもしれない。

そして、不安定さの中で、学ぶための命のエネルギーを絶やさずに、どうして教育の価値を謳うことができるだろう。

不安定さに対してどのようにバランスを取るのか。
その方法が、その子のキャラクターになる。

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「子どもがモニターラブ」な状況についていえば、、、
大人を含めた社会全体がモニターラブになっていると思えば、とても「自然」なことだともおもう。
(例えば、食生活を考えてみると、「健康的な」=「自然」とは言えないかもしれない)

人との付き合いが希薄になってきた世の中と思えば、それも「自然」だとおもう。
外で遊ぶのが好きでない、という子は普通にいる。

だからモニターを使ってどんなことができるのかを極めるのもいいかもしれない。
(インドネシアの小学生でyoutubeで英語の動画を見まくって英語が喋れる子がいた。そういう使い方は誰もが「OK」というだろう)

その子は趣味で絵をかくというのだから、タブレットで絵を描いて投稿するのもいいだろう。
お絵かき日記をつけるのもいいかもしれない。

「モニター」からでも多くのことを学べる。

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大人の知らない世界に子どもたちは生きている。(少なからず、別の世界をもっている)

ゲームの世界、ネットの世界、、、、
(もしかしたら、大人であっても、人によって世界は違う)

学校でもなく、ゲームやネットでもない世界があるんだ、わくわくできる場所があるんだ、とおもえたら、
そんな経験をしたら、そんな人と出会ったら、新しい扉ができるだろうか。

新しい扉の価値は、人生を豊かにする価値。
ネットの世界では、無限にコンテンツを享受できる。
扉はいつだって「リンク」の先に開いている。

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「人との付き合い」はネットの世界と現実の世界では違う。
どの世界で暮らすのか、、、、「自然」はモニターの世界へと人を誘うかもしれない。

現実の世界は、魅力がない、、、、のかもしれない。。。。
現実の世界の魅力を、大人は伝えているだろうか?子どもは感じているだろうか?

子どもは、何を「よろこび」と感じているんだろうか。

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気質はかわらないかもしれない。
インドアが好きな子、だっているだろう。

けど、

「本人の気持ち」が一番、というけど、本人の中に眠っている気持ち、というものもある。

かもしれない。

家の窓を開けて空気を入れ替えるように、子どもの心に風を送り込んであげることを、子育てに取り入れるのもいいとおもう。
美術館に行く、お出かけする、公園で遊ぶ、山に行く。。。

年齢によっては、もう「できちゃってる」子もいる。
9歳、がひとつの目安。

自分の能力の限界を知って、その中で、うまく生きようとする。
そんな9歳の生き方を理解してくれる大人と出会った子どもはしあわせだ。

オトノネは、ある意味で子どもの「ギャップ」になるだろう。
学校に適応した子にとっては「自己」が求められるオトノネは脅威だ。

キビシイ笑

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教育とはなんだろうか、ということをちょっと考えてみた。
伝えるべきこと、伝えてはいけないことが何か、僕が教師になった時からもんもんとしていること。

縄文時代であれば、はっきりと「生きる仕事」の手伝い=学びだったろう。
それも大人の真似から始まった。
大人の手伝いから始まった。

教育は、子どもではなく、大人の問題なのかもしれない。

「大切なこと」はなんだろう。
お守り
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えーストレス『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』

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飴玉が目の前にあるという環境で窒息死してしまう人がいる。
足腰が弱って寝たきりになって、寝たきりが加速して死んで行く人がいる。
ストレスで飽食したりアルコール中毒になったりして死んで行く人がいる。

「自然」は恐ろしい?

生まれて死んで行くだけなのに、やたら心配しちゃうなぁ

環境、遺伝、それから意志。

環境は変えられる。
意志は変えられる。
遺伝も変えられる(エピジェネティクスの範囲で)。

生まれて死んで行くだけなのに、やたらやきもきしちゃうなぁ

オトノネひろげるシェアぼたん

【生きる場所】硫黄と酸素と個別化と多様性

スーパーサラリーマン山田さんのおはなし。
(僕の妄想で言葉を使っているので、山田さん自身の考え方とはだいぶ異なった部分がありますあしからず)

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「みんな、しゃべらない」ということで、組織が崩壊している(組織が「生きて」いない。死んでいる。ぐったりと横たわった屍を晒している状態)。
PTAや自治会、山田さんのフィールドで、山田さんが困っていることは、「喋らない」文化であるという。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

これは生まれてこのかた、「喋っても無駄、何をしても変わらない」という諦め(無気力)と「何か言ったら後で後ろから槍を刺される」という恐怖が心に根付いているからだと、僕はおもうのだが。

言葉を口にして、自己開示、自己表現をして、「いいことなんてない」という文化、伝統を山田さんは変えたいと思っている。
言葉を殺すことは、「生きにくさ」をうむ。人との創造的な関わりを削るからだ。

ーーーーー

今現在、大人同士がコミュニケーションができない。
自治会やPTAでの「立場」「役」が固定されて、それを守らなければいけないという文化がある。
学校でも子供は「どうせ」とか「これをいっても」というのと同じだ。

人間の「素敵な部分」をだせない。
「人に生まれてよかったな」とおもえない。

僕であれば、そんなおもしろくもなんともない文化をもつ組織とは「関わらない」選択肢をとるかもしれない。
「いくら言っても無駄だった」「どんな関わり方をしても、ダメだった」という状況はよくある。
コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】


けどスーパーサラリーマン山田さんは、関わり続ける。

僕が、オトノネを通じて人と関わろうとしているのと、同じにおもえる。

自分が「苦労する」に値する場所だから、頑張れる。
といったらいいんだろうか。

なにがしかの神秘が、人を動かしているんだろうけれど。

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山田さんには山田さんのフィールドがある。
僕には僕のフィールドがある。

お互い違い状況、違う感性、違う人間だから、違っていて当たり前で、僕であれば「しんどくていられない」ような場所でも、山田さんは活動的になれる。
(生物でも、酸素で代謝しているやつもいれば、そいつからすれば「毒」である硫黄で代謝しているやつがいるのと同じ)

他の人は「スポーツ」というフィールドをもっていたり。

だから、おもしろい。

一人一人、関わり方も変わる。
サポートする関わり方もあれば、がっつり運営する人もいる。(多くの人がお客さん、ただの消費者だとつらいのだが)

だから、おもしろい。

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おもしろいものをおもしろい、
たのしいものをたのしいと感じることが、「命」や「コミュニケーション」の第一歩なんだとおもった。

赤ちゃんの姿を思い浮かべれば、ごくごく、当たり前の、「自然」だとおもうのだけれど。

どうでしょうか。

心が大事。

そうおもうと、富山県は、言葉を封じる、虐待の文化をもっている(いやまぁ日本という国がだけど)。
僕たちは、ずっと、長い間、日本という「自然」から虐げられてきたのかもしれない。

批判とは何か。その3(日本の遺伝子・伝統との闘い)
自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

トップが変えちゃえば意外とあっさり変わるものらしい。

オトノネひろげるシェアぼたん

まだまだ小学生。思春期はいつ来るのかな?来るのかな?笑

実話。

「オトノネにきて、感じたことは?」と、
オトノネに通うかどうかまだ迷っている子に聞いた。
「えっと、本がいっぱいある」
「他には?」
「教室が普通の家」
「笑他には?」
「自由」
「爆他には?」
以下略。

マルバツをつけてほしいのか?笑
一問一答型の、富山県の高校入試の問題形式がそのまま思考パタンになったかのような、穴埋めしたら済むような、やりとり。

いやいや、ちょっと・・・君は、人間だよ?

「いま答えてくれたことは、他の人でも感じられたよね。君じゃなかったら感じられないことは?」
こうして、やっと僕が聞きたかった返事を聞くことができた。

中学生である。
小学生ではない。
だが、小学生だ。
いつまでたっても、小学生。
【ずっと小学生その2】学校に魔王がたくさんいるのはなぜか。

どうしてこのようなやりとりになるのか。
質問の仕方が悪かった、ということもあるかもしれない。

「自分を出す」恐れがあったのかもしれない。
「自分の感情を出す」経験がなかったのかもしれない。

お母さんのこの子への関わり方を見ると、合点がつく。
この子は、感情を殺して生きている。
感情を殺さなければ、親子関係を結べない、と、この子は判断したのだ。
実際、そうなのだろうと、僕は感じた。

「自分殺し」がごくごく当たり前の世界。
政治がどうこう、という話は、まず、親子関係が支配的でないかどうか、子どもの自由を、個人としての人格をどれだけ認めているのか。選挙以前の、基本的人権の問題である。

多くのお母さん、お父さんは、ごくごく、当たり前に、子どもの心に傷を追わせ、子供の魂を毎日毎日、黙らせ、殴り殺している。
当の本人は、親は、それに気がついていないことが、あまりにも、多い。

自由という、権利がある。
だがその権利を使えないなら、守らないなら、ないのと同然だ。

この子は、無事に、思春期を迎えらるだろうか。
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
【中学生】思春期前か、思春期中か。とにかく最後の子ども時代。何をして過ごすか。
【思春期】は2歳のウハウハ期(イヤイヤ期)と似ている気がする。
思春期とは何か
【思春期】の課題は【幼少期】とは違うというお話。
【第一思春期】子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。【性格の強み】
大人にとっても大切な「ファンタジー」と思春期。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。
思春期と中学校と高校の違いと子どもの可能性と個別化と。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。
女性のメタ認知と【思春期】とライフステージ。ビジネスの原理と子育ての原理が乖離している世界で
【何のために子どもを育てるか】第二次思春期に社会化しないまま会社人になった人が孤独のスパイラルを生む可能性について。

何かのきっかけで、親を離れた時に、どうか、自由に生きてほしいとおもう。

この子は、「学習」する以前に、苦しんでいる。
勉強をしたくないのに、無理やり、やらされている。
でないと、親子関係を生き残れないと、判断したのだ。

子どもは、親に気を使っている。
思春期前までは!

カモン思春期!
けどそれも、自然に来るわけではない。
思春期を迎えられるように、きちんとなんとか育てていかないと、、、、人格も個性も薄っぺらくなる。

こういうお母さん、お父さんが、大人の宿題にも取り組めるのが、オトノネです。
子供だけにやらせるなんて、不公平だ!笑
大人の宿題

オトノネひろげるシェアぼたん

【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

自信がなくても幸せになれる心理学
『自信がなくても幸せになれる心理学』和田 秀樹

コフートという心理学者はそれ以前のフロイトの「自我」ではなく、「自己愛」もしくは「自己」という新しい言葉で人間を理解しようとしました。フロイトの考えた「自我」という言葉は、「自分の問題は自分の内部で、一人で解決する。自我を自分で鍛える」という背景をもっています。けれどもコフートは「人一人の問題は、どうやら一人では解決できなさそうだ。足りない部分をを他者で充実させよう」という背景を持った言葉を必要としたのです。心理学の人間観を変えるために、言葉を新しく作ったのです。「自我」は他者とは離れた心の内部にあるもの、「自己」は他者が触れられる、まさに他者が関係できるもの、と理解していいとおもいます。

コフートは、人間の行動のすべての原点は「自己愛」にあると考えました。人間とは「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義したのです。(略)実際、本書を読んでいただければわかるとおり、人が喜んだり、安心を感じたりするのは、この「自己愛」が満たされた時だと言い換えられます。逆に、人が落ち込んだり怒ったりするのは、「自己愛」を傷つけられた時です。(p.14)

コフートは「自己」という言葉とともに「自己対象」という言葉をつくりました。「自己」が「自己愛」を満たすための対象のことです。単純に言えば、甘えられる、認めてくれる相手のことです。

従来は

自己の充実=自分を鍛える(自力)

でしたが、

自己の充実=自己対象をもつ(他力)

ということに視点をかえました。
(もちろん、他力を発揮するための自力の部分は必要ですよ!)

コフートは、「甘え上手になりましょう」「頼りになりそうな人を見極める力をつけましょう」ということを提唱したのです。(p.19)

「自己の充実」とは、他者に支えてもらうために「他者を心理的にうまく頼る能力を高めよう」「他者とうまくつきあう能力を高めよう」というものです。(p.68)

人を頼りにするというと、依存である!とおもえるかもしれません。たしかに「よろしからぬ依存」はあるでしょう。ですがコフートは「健全な依存」を目指します。

ーーー

ここで僕は行為レベルと言葉レベルでの「依存」の区別をしたいとおもいます。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。
例えば「忙しいから代わりにやって!」とか、自分の代わりに誰かに手伝ってもらう、利用することは行為レベルです。
それはそれでいいでしょう。関係性があって、の話であれば。(もしくはそれがきっかけになって、関係性ができるのであれば)
ですが大切なことは言葉レベルでの「依存」だとおもいます。
相談する、素直に話す、悩みを、離す。
話をしながら、自己愛を充たしていく。
心が、大事にされる。

この境界線をいくのが、いわゆる「夜のお仕事」の現場でしょう。
ですが大抵、どちらかに分類できます。

最近の言葉で言えば、doingかbeingかということです。
言葉は両方に使われます。
抱きしめるという非言語でも、言葉レベルの関係はもちろん可能です。
そうすると、行為レベルと言語レベルという言葉は不適切かもしれません笑

ーーーーー

コフートは、自分を愛するために、誰かに頼ることを「よし」とします。
「人間、生きているだけで誰かの迷惑になる。気にすることはない。大丈夫だよ」と僕も誰かに言われた記憶があります笑

迷惑になるから、もしくはプライベートが他人に漏らされてゴシップになる、という恐れから、言語レベルで他者と関われない、つまり自己対象を喪失している人がいます。日本の地域社会では恨みと妬みと虚栄となにやらわけのわからないものが渦巻きがちで、なるほど、うまく自己対象をみつけられないかもしれないな、というのが私の直感ですが。

ーーーーー

自分を愛せない人に、他人を愛することはできません。コフートが「自己愛」を否定しないのは、こういったことにも起因します。要するに、「自己愛」が悪いのではなく、「自分勝手」が悪いのです。迷惑をかけたくないが故にカラに閉じこもってしまう人などは、その意思に反して、場合によってはむしろ「自分勝手」な人だということすらできます。(p.29)

コフートは人間を「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義しましたね。
なので、誰かの自己愛を充たせるようになったら、自分の自己愛も充たしていい(みたしてもらう)ことは「よし」だし、誰かに自己愛を充たしてもらったら、その人の自己愛も充たしてあげることは、とても「自然」である、ということです。

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

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ここで利己的な人間のことを思い出してみよう。
もらえるだけもらって、返さない・・・・
「いい人」「誰かの自己愛を充たす人」が、「我慢」をしていたら・・・・
病気になる人もいるでしょう。
「我慢」をしなくても、例えば「ありがとう」の一言で自己愛を満たせる人は、病気にはならないでしょう。関係の作り方、心のあり方は、人それぞれですね。

give and take

という言葉があります。

win winという言葉もあります。

アメリカのネィティブインディアンの世界では、
give away
という言葉があります。与え尽くす、という関係です。

健全な依存関係とはなんでしょうか?

「健全な依存関係を築けることが、成熟した人間の証である」(p.32)

健全な依存関係とはなんでしょうか?
give and takeの世界でしょうか?
give awayの世界でしょうか?
(もしくはtake away?????)

コフートは、何よりも人間の主観を大切にするという考え方をしますから、「やったほうが得だから、頑張ろう」という発想も肯定します。つまり、損得を考えて行動したとしても、コフートはそれを責めません。他の誰でもなく、自分自身が満足していなければ、人に親切にすることもできません。あなたが満足するためには、時には損得で動くことだってある。そう考えるのが、コフート流です。程度問題はあるでしょうが、頭が回ってつい損得勘定をしてしまう人も、そう気に止むことはないのです。(p.32)

つきつめれば、「この人嫌だな」とおもったら、関係をつくらなくてもいいということでしょう。
誰にでも親切に、などというのは菩薩にお願いしましょう笑

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
それがgive and takeでもgive awayでもいい(take awayでもいい???)。心に素直にしたがってみる。まずは、関わってみる。

そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。
コドモとして未成熟なオトナ

「自己愛」とはいってもそれぞれにレベルがあって、そこにはいびつな自己愛と、成熟した自己愛があるとしました。自分さえ良ければいいと相手を見下すような態度をとったり、人をバカにしたりすうるのは、いびつな自己愛によるものです。たとえば、「お前は浮気をしているだろう」などといいがかりをつけて妻を殴る夫は、「自分だけを愛して欲しい」「殴って自分だけスッキリしたい」という勝手ばかりで、妻には何も与えていません。そこにあるのは、いびつな自己愛だけです。(p.67)

子育てはどうなるだろううか。
お母さんの愛情は無償だとかいう言葉があるけれど。。。それは「自然」ではないでしょう。

母親は子供からちゃんと愛や喜びを受け取っているのです。子どもの笑顔や喜んでくれる姿があるからこそ、母親は大変な子育てをどうにかこうにか頑張っているのであって、決して一方的な関係ではありません。その少雨子に、やっぱり子供が扱いにくかったりきむずかしかったり、または自分になかなか懐いて狂えないと言った子があれば、いくら母親でも、ついついムッとしてしまう場面もあるわけですお母さんだって人間なのですから、当然のことです。(p.76)

お母さんが来ても反応しない、笑わない子がいます。

愛着理論の研究をするとよくよく観察されるケースです。
そういう子は、先天的に表情が読み取るのが苦手といった条件で生まれてきている可能性の他に、お母さんと関わっても何ももらえないし、逆に悪いものをもらうから、顔もみたくない、という状況を表しているときもあります。

ーーーーー

「まさかその一言でそうなるとは・・・」という事態があるでしょう。
「そんなはずでは・・・」ということも、よくあることかもしれません。

「役」や「立場」を超えて人間関係をつくることが異常に難しげな文化をもつ日本。

「自己愛」をみたそうとしていろいろなことを喋ったり、誘ったりすると、相手が予期せぬ反応をすることがある。
「ラインの番号、教えてくれない?」「いやだ」
「付き合ってくれない?」「いやだ」
「ご飯食べにいこうよー」「いやだ」
「ねぇねぇ・・・」「・・・」(そっけなさすぎですね笑)

こういう答えが返ってきて傷つくということは、話者同士にまだそこまで関係ができていない、という教訓としてうけとるといいかもしれません。(親子関係がこれだとひどいことになりそうです)

ここで相手を理解する、「共感」するということが大切になってきます。
「なんで嫌だっていうの!」と腹を立てていたら、、、、アレレです笑

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

「いやだ」という言葉のオトノネを感じれるかどうか。
感じられるなら、「そうだよね!じゃぁ別の人誘おう!」とか、「じゃぁ今日は一人でご飯食べるか!」ということにいなって心の健康が保たれる。

相手の状態を推し量って理解して認める。
相手のことだから本当かどうかはわからない。
だがとにかく他者の心はわからない。
わからないものをどうしようもない。
「どうしたの?」と聞いてみるのもいいが、そういう関係かどうか。

・・・・・

「健全な依存」に至るまでのプロセスは長い。
これを子ども時代に学んでおいたら、またそれなりの人生があるのだろう。

自分の感情を知り、相手の感情を知り、ただただそれを見つめてみること。
「しょうがない」ことは「しょうがない」と諦めるプロセスを踏むこと。
「それでも!」と思う気持ちがあるなら、、、、それで人がどう反応するか、やってみること。

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。

お子さんとこういう関わり合いをしてきましたか?

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「悲劇の人」という言葉をコフートはつくりました。

「悲劇の人」は、成長のプロセスをふまずに、少しずつ「自己愛」の充たし方を、人間関係の方法を学ばずに。一気に「自己愛」を満たそうとする人のことです。「○○があったら」とか「○○したら」、自分は変わる、幸せになる、満たされると勘違いしている人のことです。「白馬の王子様が来てくれたら、私は幸せになれる!」と思っていたり、「お金があれば私は幸せになれる!」と思っている人です。

「子どもが○○になったら」と考えているお父さんお母さんは「悲劇の人」です。

もしも、あなたの周りにそういう人がいたとしたら、できる範囲でグチを聞いてあげてもいし、どこかしらほめてあげてもいい。少しでも、あなたにできるう範囲の安心感を与えて認めてあげることが、彼らを少しずつ変えていくことになるのです。そうすれば、認めてもらった、ほめてもらったと感じた人の「足りない部分」が少し埋まります。埋まってくると、心にも余裕ができてきます。すると、性格も穏やかになってきます。となれば、ほかにもその人と話してみよう、話してみたいと思う人がでてきます。恋人ができる可能性も上がってきます。こうして他者が介入する方法で、人は変わっていけると、コフートは考えたのです。

コフートは、「運」がなかった人たち、すなわち「悲劇の人」たちの治療として、「かつて満たされなかった感情を、もう一度、治療者との間で満たしてあげる」ことで、彼らを救おうと考えました。さらにその治療は、医師でなくてもできるといいいました。いったいどんな治療なのでしょうか。(p.35)

ーーーー

自己の充実のために満たしてあげるといい大切なものは、「認められること」「褒められること」だといいます。
いってしまえば、赤ちゃんがハイハイしたり、二本足で立ち上がったりしたときにみんなが「きゃー!すごいすごい!」とかいうあれでしょうか。

褒められると気持ちが変わる。
楽になる。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

世の中にでまわっている「誉め殺し」では逆に「なんだよ、嘘くさい」と感じてしまう人もいるでしょう。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

褒める、ということをこうとらえてもいいかもしれません。

「本当は自分ってよくがんばったな、とおもうけど、自分で自分を認めてやれない。そんな時に、誰かが、自分が出せない自分の代わりに、褒めてくれる」ことで、自分が自分を認められるようになるのだと。

「ねぇねぇ!みてみて!」といって、自分がつくったものをみてほしい。
自分が「やったったぞ!」という感情をきちんと感じたい。
どんな言葉で自分を認めたらいいのかわからない。

どう感じていいかわからない、けど興奮している。「この気持ちって、なんなんだろう!?」
そこで、子どもはお母さんに「みてみて!」とか「きいてきいて!」という。

ただ、一緒に感じてあげたらいい。
「よくつくったね。うれしいんだね。」
にっこり笑ってあげたら、子ども自分の笑顔をしっかり感じることができるだろう。

ーーーー

世界を知るための言語も同じ。
「青」という言葉をどうやって学んだだろうか。
「青」という言葉の中で、誰かと「青」という言葉を共有して初めて「青」を感じられるようになる。

「よろこび」も。
「かなしみ」も。

言葉を与えることで、「青」を眺めることができる。
「よろこび」を感じることができる。

そこには、生まれたから始まり指差しで開花する言葉の習得と似ている。
「この感情は、何ていうの?どうしたらいいの?」
「泣いていいんだよ」「笑っていいんだよ」「それは悲しいってことなんだよ」「それは嬉しいってことなんだよ」

ーーー

こうして「自分を愛する(自分を大切にする)」ことが「他者を愛する(他者を大切にする)」ことを通じなければ為されないことだと、子供は理解するかもしれません。
また、「自分を愛する」ために必要な他者は、誰でもいいわけではない、ということも学ぶでしょう。

あきらめず、いろんな人に声をかけ通づけていれば、必ず、「お前のこと、よくわかるよ」と言ってくれる人物は現れます。「わかってくれる人」というのは、頼れる人の第一条件です。まずは、「わかってくれる人」を探しましょう。もちろん、自分が行動しなければ、そんな人が現れることもありませんから、そこは自分で頑張らねばなりません。ここは重要なポイントです。(略)たとえそれがインターネットのなかであったとしても、自分と似たような感覚をもつ人や頼りになる人に出会えたなら、私たちの心はずっと楽になります。その出会いは、あなたを変えるきっかけにもなるでしょう。頼れる人、あなたを「わかってくれる」人とのコミュニケーションを通じて、あなたのいい部分が引き出され、「どうせ私なんてダメだから」といったネガティブな部分がなりをひそめていくことが期待できます。(p.40)

人付き合いが狭い範囲に限られてしまうと、かなり窮屈を感じてしまうでしょう。
「立場」や「役」にがんじがらめの人間関係の中では、「わかってくれる人」と出会うのは難しいかもしれません。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
そこで、歩き回る、探しにいくというのもいいし、ネットをつかってもいい。

とにかく、人に出会うこと。
人は、一人では変われない。
人は、一人では豊かに生きられない。

そういう前提が、コフートの心理学にはある。

例えばライブ会場。
同じアイドルが好きな人たちが集まる、というだけでも、人は居心地の良さを感じる。
アイドルに会いたいからいくのはもちろんだが、同じ人を、同じグループを好きな人がいる、ということも、ライブの本質ではないでしょうか。「カッコイイよね!わかるわかる!」という言葉を介さなくても、ライブ会場にいるというだけで、「共感」の空間にいられる。そういう魅力があって、若い子たちはアイドルのライブに夢中になっているような気もします笑

ポイントは、等身大の自分を認めてくれる人がいるかどうか、です。(p.43)

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人と出会う、認めてくれる人を探すということを難しい!と感じる人もいるでしょう。
狭い人間関係の中で、立場と役の縛りの中でしか人と付き合えなかったなら、なおさらです。
(本当は、学校や地域でそういう人と出会うのがいいのですが、そうならないのが現実です。学校も立場主義ですから)
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

「私には無理・・・」とそこで諦めるのか。
「ちょっと、やってみようかな」とおもえるのか。

コフートの出した答えを使うか使わないかは、その人次第です。
オトノネで一緒に初めてみませんか?

おそらくお子さんの方が早く変わるでしょう。
お子さんが変化するのをみて、お母さんが変わる、というのが、通常のプロセスです。

お子さんとオトノネの関係から、学んでみてほしいとおもいます。

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日本では名の知れた心理学者にアドラーがいる。アドラートの違いから、コフートの考え方を理解してみよう、と和田秀樹さんはいいます。

アドラーの考え方というのは、このように「目的論」ですから、「いつも目的をちゃんともち、また目的に対する解決方法をフレキシブルに変えていくことで、人間というのはいくらでも変わることができる」と考えた、と要約できるでしょう。

例えばここに、一人の不良少年がいたとします。治療者が彼の話を深く掘り下げて聞いていくと、過去に「親に愛されなかったと判明し、それが彼がグレた理由だと見えてくる。これが、フロイト流の考え方でしたね。対してアドラーは、勉強で認められず劣等感を抱えた少年には、「勉強で認められない代わりに悪いことをして認められよう」という「目的」があるのだ、としました。ですから、「こんな悪いことをしやがって」と周囲が騒ぎ立ててしまうと、それは不良少年の目的を満たすことになるため余計に悪いことをするようになる、と考えます。では、アドラーは、その不良少年をどうしたらいいとかんがえたのでしょうか?

みなさんは、『あしたのジョー』という漫画をご存知でしょうか。ドヤ街をうろついていた一人の不良少年が、ボクシングと出会い、最強のボクシングチャンピョンと試合をするまでに成長するお話です。アドラーは、この漫画の主人公である矢吹丈(ジョー)のように、「不良少年として目立つ」という目的ではなくて、「ボクシングチャンピョンになって目立つ」という目的をもったらいいじゃないか、と考えるわけです。つまり、悪いとされる目的を、別のいい目的にすり替えるのです。目的が変われば行動も変わるわけですから、必然、不良少年として悪行を重ねることもなくなります。

これがコフートなら、「その少年には愛情が足りていないから、周囲が愛情をもって接していこう」という考え方になります。

『あしたのジョー』でいえば、プロモーターとしてジョーをさまざまなかたちで支えるとともに、ひそかにジョーに好意を持ち続ける財閥令嬢、白木葉子といった役割でしょうか。もちろん、この白木葉子だけではなく、ボクシングの師匠である丹下段平をはじめ、多くの下町の人たちに支えられ、応援されたからこそ、ジョーは「下町の星」として、ボクサーの道を進んでいくことができたわけです。これが、コフート流の解釈です。

「原因」に働きかけるのがフロイトだとすれば、「結果」に働きかけるのがアドラーですから、「矢吹丈という不良少年にボクシングを教える」というのがアドラー流の解決法であり、ジョーがボクサーとして正しい道を歩み始めたなら、過去に親の愛情を受けずに施設に育ったことや不良少年であったことなど、もうどうでもいいことだ、ということになりますう。一方、コフートはそれでよしとはしません。あくまでもジョーの孤独な心を支え、愛情をかけ、いってみればジョーを内側から治療しよううとします。(p.59)

人は一人一人違っていて、心の健康度、心の強さ、心の習慣も違います。
コフートの考え方は、一番根源的であって、母性的であって、平和チックでしょう。「弱くてもいい」、それでも幸せになれると。
アドラーの考え方は、ある程度自己が確立していて、心のインフラができている人には向いているかもしれません。父性的
(こういう分け方もよろしからぬ時代になっていますが・・・)であり、「自分を高めていく」ことで得られるしあわせがあるのでしょう。

この両方が、成長のプロセスで一人の人間の中で回るなら、それがいいのかも知れません。
「目的」だけを追求することは、ある意味で、「孤独」になるかもわからない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)
「目的」を追求するうことに夢中になって、サイコパスになるかもしれない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)

「孤独だっていいじゃないか」という強さがある人は、アドラー流で考えてもいい。
だがその時に必要になる「共同体感覚」はどうやって手に入れるのか???この本では詳しく書かれていないが、それこそコフートの基礎があってのアドラーということはできないだろうか。子どものときの宿題をやったら、大人の宿題ができる。順序があべこべの人もいるが。。

「自分は自分だ」と思えるようになるためにも、コフートの考え方は、助けになるのではないかとおもいます。

ーーーーーー

人によっては、「目的を持つ」ことに高いハードルを感じる人がいるでしょう。
がんじがらめになって自分の命のエネルギーを感じられない人がいます。
「立場」や「役」の世界にどっぷり浸かって、自分を感じられない人がいます。

そういう人たちには、フロイトのやったように「原因」をまずは事実として受け入れてから、コフートのいうように、まずは少しずつ「自己」を満たしてゆき、最後になにか「目的」と出会えたなら、アドラー流でいく、というプロセスを辿るとよいのかもしれません。

お母さんたちにもいろいろな人がいます。
心の段階もひとそれぞれです。

お子さんも、ひとりひとり違います。

ビリギャルのさやかさんは「目的」と同時に、坪田先生という「わかってくれる人」と出会いました。
なによりも、「わかってくれる」お母さんがいました。
ただ「いい先生」と出会えなかっただけで、不良?になっていたのでした。
学校で劣等生のレッテルを貼られていたわけですから・・・

大抵のお子さんは、コフート流の関わり合いを必要としていると私は感じています。

お子さんには「今」何が大切なのか、オトノネにきて、感じてみませんか。

アドラーとコフートでは、同じ「共感」という手段にしても、その目的は似て非なるところがありました。先ほども述べたように、アドラーは「相手の目的を知る」ために共感し、目的を達成されるう解決方法を提示してあげる、いわyる「勇気付け」を行い、コフートは「相手の心理ニーズを理解する」ために共感し、相手が不安ならそばにいてあげるし、ほめてほしいのであればほめてあげるわけです。いうなれば、アドラーは人間の本質的な「強さ」を信じた人。そして、コフートは人間の「弱さ」を肯定し、包みこもうとした人、です。(p.70)

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コフートのいう「自己の充実」のための心理的ニーズは3つしかないそうです。

鏡自己対象ニーズ
 自分が褒めて欲しい、認めてほしいポイントを押さえてくれていて、心理ニーズを満たしてくれる対象

理想化自己対象
 「この人は頼りになる」「この人がいればなんとかなる」「この人がいるから大丈夫だ」と思える対象
 
双子自己対象
 自分によく似た存在がいるうということで安心感、ちょっとした一体感を感じる対象

面白いことに、相互に凸凹でも、同時に自他が心理的ニーズを満たすことができる、ということです。

相互依存関係について、私はよく、こんな例え話をします。クラスにすごい秀才と、その秀才にいつもノートを借りてばかりの劣等生がいます。周囲の学生たちは、その劣等生のことを、「あいつはあの秀才のおかげで進級腕きてるよな」とか、「人に頼ってばかりで、ダメなやつだよね」なんて噂していました。そんななか、等のレッウ統制がみんなの前で、秀才に向かってこんなことを言います。

「真面目にとったノートを教えもなく貸してくれるなんて、お前みたいな性格のいいやつ、見たことないよ!」と。

秀才の誉れ高いその学生にとって、「成績がいいよね」「秀才だよね」なんていわれることに、たいした感動はありません。自分でもわかっていることだからです。しかし、この劣等生はみんなの前で、自分の「性格」をほめてくれた!いわゆる「ガリ勉」の彼は、どこか周囲の学生から嫌煙されることも多く、この劣等生の言葉は最大級に嬉しいものでした。隠して劣等生の一言によって、秀才である彼の「自己愛」は満たされ、二人の間には立派な「相互依存」の関係が気づかれたのです。(p.87)


関係において、どちらか一方が、というわけではない。
お互いにその場にいたり、何らかの行為や言葉を交換する、時間を共にする、その価値を交換できる。
能力の差があっても、give and take、自己の満たし合いはできる。

そのために必要なのは、正直に思ったことを話すこともそうだけど、、
やはり共感能力ではないだろうか。
「この人、どんな気持ちなのかな、僕にノートを見せてくれるその関係を、どうやって続けていけるかな。。。気持ちよく、この関係を続けたい。。。」

「共感」とは、相手の立場に立って物事を考えたり、想像してみることです。なぜ共感することが大切か?それは、共感することで、初めて見えてくるものがあるからです。あなたの周りの人を参考に、相手の立場にたって、「この人は、何をいわれたら嬉しいのだろか?」と、改めて考えて見ましょう。(略)相手が「本当は私は、自分のこういうところに中うう目してほしいんだけどな」と思っている、そのニーズをおさえることが重要なのです。相手が「認められたいとおもっているポイント」を見つけて、認めてあげるのです。(p.84)


共感するとは、自分があげたいものではなく、相手がほしいものを感じること、
自分の感情ではなく、相手の感情を汲み取ることです。

言葉だけではなく、行動でも、共感できます。
「ご飯でも食べに行こうか」「ドライブしようか」「飲みに行くか」

ナースコールを押しまくる患者さんがいたとする。コフートならどうするか?

おばあさんにナースコールを押させているのは、「不安」です。不安は、消えるまで人につきまといます。身体の不自由なお年寄りや病気をしたお年寄りが慣れない環境におかれれば、その不安は察するにあまりあるでしょう。不安が消えない限り、おばあさんはナースコールを鳴らし続けることになります。したがってこの場合は、「無視せず徹底的に対応すること」がコフート流の対応方法であり、それは実際、医療現場の正解です。(p.125)

相手の心を理解する、共感する、オトノネに耳を傾けるということ。

子どもであれば、例えば「勉強できない」というおもいから、なかなか宿題をしてこなかったり、スムーズに進まないことがあるでしょう。それでも時間をかけて、少しずつ、自信をつけて行く。「大丈夫だ」と思えるまで、付き合う。

そういう時間が、大切だということでしょう。

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この共感の能力を最大限に利用して人を恐怖に陥れるサイコパスという存在もいる笑

相手に気持ちのいいことをしてもらっているなら、当然こっちも、気持ちの良さを返す。
利己的かもしれないが、自己愛をみたすということは、お互いのニーズを満たし合うということなのだろう。

この考えが凝り固まると、「立場」や「役」というものが現れてくるかもしれません。
「あなたは私にこうすることになっている!」「わたしはこうしてるのに、あなたはしてくれない!」

そんな時は?
それこそ人間関係、崩れたり、ひっついたり、いろんなことがあっていいと思います。
離れて見て、お互いに気がつくこともあるでしょう。

別の対象を見つけてもいいでしょう。
大切な人であれば、相手のニーズに耳を傾けてもいいでしょう。
成長を願うからこそ、離れることもあるでしょう。
と、私はおもうのです。

が、

だが!

だがしかし!

コフートはその点、一貫しています笑

仮に他人に甘えすぎたり、自分のことばかり考えたりするような人がいたら、その人は周囲から好かれるでしょうか?難しいですね。だから注意が必要です。自分の満たされない気持ちを自分勝手なやり方で相手に埋めてもらおうとすれば、それこそストーカーとか、そういうことになってしまいます。

コフートは、人に好かれないとか、自己愛が満たされていないとか、そういったうまく「相互依存」ができていない状態のときに、人は不安定になるのだと言います。「俺は誰にも認めてもらえていない」「誰も私のことなんて好きじゃない」、誰でもそんな気分位なってしまうことはありますが、そう思っている時、私たちは自分で自分を大切に思うこともできず、不安定な状態になってしまいます。いわずもがな、四六時中そんな思いに囚われている人は、四六時中不安定ということになります。

対して、「愛情を十分に受けている人は、心が安定していて、必要以上に甘えよう、愛情を得ようという考えにはいたらない」とするのが、コフートの人間観です。(p.102)

つまり、「甘え方」「相互依存の上手な仕方」がわからないのだから、存分に甘えてみないと治らない。心が安定するまで、甘えることだと、言っているようですが????いいの???

甘えてくる人を甘やかすなんて、まさに「猫に鰹節」じゃないかともいえます。でもコフートは、「甘えてくるということは、すなわち自己愛が満たされていない状態なので、もう少し愛情を与えることで均衡のとれた状態に戻すことができる」、と考えるのです。(p.104)

この時、「甘えさせてるよ!」と親が思っていても、子どもが「甘えられていない」、子どもの心が「安定」していないのなら、「甘えが足りない」と、コフートは判断する。

一貫している笑

「親である私は愛情をかけているうつもりだ」では足りず、「子ども自身が愛情をかけられているとわかるように」接することが必要です。これがうまくいかないと、例に挙げた二人のよううに、「勉強ができなければ愛されない」とか、「顔がキレイだから愛されるんだ」という人げられない気持ちを生んでしまい、それが歪んだ価値観にまで繋がってしまいうるわけです。(p.107)

こうして、「健全な自信」をもった子どもは、競争で一番になれなくても、お金がなくても、うまく自己主張ができなくても、満足感を持った人間でいられる、のだそうです。

だが!!!だがしかし!

大切な人なら「甘やかせつくす」のもありかもしれないが、全くの他人の「悲劇の人」出会った場合は???

とりあえずいやな人と絵あった時に「ああ、この人はかわいそうな人なんだ」と思えばいい、ということです。(p.132)

もし大切に思う人であれば、話を聞いたり、共感したり、ほめてみることで心理的ニーズ、自己愛を満たすのでしたね。
素の自分を認めてもらえずに着飾っている人には、素の部分を認めるような関わりを。

何かが変化したら、、たぶん、その人はそれに気づいてほしいのかもしれない。
こうして、関わり合いは、続く・・・

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心理的ニーズは3つあった。
そのうち「双子自己対象」ニーズはまだ登場していない笑

こんなところにでてきています。

コフートの場合は、叱るのではなく、「こういうミスってやりがちだよな。俺も若い頃はよくやらかしたもんだよ」とか、「次からはこういうふうににゃってみような」というように、相手の「双子」感を引き出しつつ正して行く、というやり方をします。(p.143)

お互いに、自己愛を満たし合いながら生きている人間同士、なかよくやる作法がある。
コフートは、3つの心理的ニーズという言葉で、その作法を教えてくれている。

オトノネひろげるシェアぼたん

【メタスキル 】すべてをこなすことはできない。

今、この時代を生きる人にとって大切なことはなんだろか。

自分のものとして、自分の人生を生きること。

だと思う。

与えられるものではなく、自分が感じて、自分が意欲して、自分が欲して得るもの。
たとえそれが「欲しない」ということだとしても。
それ自体、欲しなくては得られない心のしくみなのだから。

そのためのメタスキル (感情知性といってもいい)には、「自分の痛みを自分のものとして認めて、自分で処理する。対処法を生み出して行く」ことがあるだろう。

ーーーーー

学校ではあれもこれも教わる。
というか、目の前にチラチラ入ってくる。
それこそテストは「全教科」やらなきゃいけない。
「やらなきゃいけないの?????」

それを「やること」として当たり前のように「自然」にやってきてダメになる子がおおい。
ひとりひとりの能力、関心、適性が違うにも関わらず、中学校になっても、高校になっても、同じやり方をする。

アホか、とおもう。
事実、学校は、アホなのだ。
狂っている。

「いやいやそうではないですよ」といっても、救いにならない。
データをだそうか???
その一言で終わる。
何が終わるかって、、、、話が通じない「魔王」だということがわかって、話が、終わる笑

AIだから、話ができないのだ。

ーーーーー

で、オトノネは「お勉強」を「心を守る」練習としてとらえている。
自分で選ぶ。
自分で責任を持つ。

その練習を、一人では難しいから、おとのねさんと一緒にやる。

「自分の気持ちを大切にする」ことが大切だとおもう。
勉強したくないならしなくていいと僕はいう。
「ただこのスピードだとあれだね、間に合わないねーどうするー???」という。

あせらない。
あせらせない。

あせらせていいことない笑
作業だったら焦っていいけど笑

ーーーー

高校入試は全教科まんべんなく出る。

それで塾ならば「全教科やらなきゃですね」とかいってお金を巻き上げて結局なんにもならずに終わる。

そんなビジネスであり「魔王」が塾には住んでいる。

そもそもが全部やろうとするからダメなのだ。

ーーーーーーー

点数が伸びない、成績が伸びない。。。

なんで????

いやいや好きな教科ひとつ伸びないんだったら何ものびないでしょう。
ということで好きな教科ひとつを極める中で、他の教科にも使えるメタスキルを育てる。

目の前の定期テストに追われていたらそんなことはできない。
捨てるしかない。

手離すしかない。

不安で手離せないなら・・・まぁそのまま進んでみなよ。というしかない。
僕の人生ではないから。

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与えられた課題を全て処理しなくてはいけないとうAI化の呪いを解かなくては、始まらない。
それこそAIとして与えられる仕事を放棄しなければ、人間にはなれない。

では、いつ始まるのか?

無料面談と有料体験の間で「気づいた」人は、オトノネで初めてください。
気づけなかった人は、気づけるまではじめられません。気づいてから、オトノネに来てください。

もっというなら、勉強よりも大切なことに、気づいてほしいのだけれど。
最低限、「塾」を諦めてから、オトノネにくると、とてもスムーズです。

オトノネひろげるシェアぼたん

AI化する子どもたち

AI
『AIに負けない子どもを育てる』新井 紀子

こんな本が出ているようだが。

そもそも子どもがAI化している、という視点を、オトノネのお母さんから聞いた笑
なるほどおもしろい言葉のつながりだなとおもって、オトノネを広げてみる。

ーーーーーーーーーーーー

「この子はAIだろうか?」とおもう子がいる。
何を喋っても、心から言葉が生まれてこない。

ロボットみたいな子供がふえている。
コントロールされている。
上の子は見事なロボットになれたかもしれない。
けど下の子はロボットになることを拒絶した。ということもある。
お父さんお母さんはそれに気づいているのか。

オトノネは、ロボットをつくる場所ではない。
ロボットを作ろうとする人に、オトノネの価値はない。

「どんな子になってほしいですか?」
「どんな人間になってほしいですか?」

オトノネは、オトノネを大切にする。
オトは出せても、オトノネがだせなかったら。。。

「日本的な時間」で育まれた社会の「自然」、
その自然のなかで「適応」するには、AI化が必要だったのだろうか。

オトノネは、人間には出せても、AIには出せない。

ーーーーーーーーーー

こんなニュースが最近。
子どもは、逃げられなかったのか。
親は、逃がせなかったのか。
AIとして育てられたために、「生きる」チカラがなかったためか。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20200122-00000077-jnn-soci

AIに、生きるチカラはない。

たとえば、一番子どもたちに身近なAIは学校の先生だ。
学校で学べるのは、AIとしてどうふるまうか、ということだろう。

不登校になって休学していて、「登校したい」といって行ったら、学校で歩いているAIは「休学延長をしにきたとおもった」といった。そういう世界が、AIの世界であり、学校だ。

宿題をしてこなかったら「再提出」という音声を出力するAI。

ディープラーニングはどうした

なるほど、AIに、すでに負けている

大人が

ーーーーーー

子どもが不登校になる、成績不振になるなど、お母さんの予測を超えた行動をとることがある。
というか別の人間なのでそんなことだらけだ。
(AIも予測不可能な「行動」をするだろうか?しないだろう。やっぱり人間は人間だからだ。)

だがそれが認められず、さらなるコントロールを受けた場合、子供は「AI」になる。
「AI」としての環境を与えられたのだから、「AI」になる。

環境というのは、そういうものだ。
「無能さ」しか与えられない環境では「無能な人間」になるのだ。
学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら『よくわかる情動発達』
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?


そういう学校という劣悪な学習環境を許して、子どもを塾に通わせるなどはお笑いごとだ。

学校に使われている、AIではないのか。

ーーーーーーーーーーー

「不登校になってくれてありがとう!」といえるようになれるか笑
「勉強しないでくれてありがとう!」といえるようになれるか笑
勉強をしない分、楽しいことをたくさん運んでくれるかもしれない。

子供からのメッセージ、子どもの現実を理解することで、「生きる」ことを大人は学べる。
AIの大人に育てられた子供はAIになるかもしれない。

親が、決定的だ。

その中でも、サバイブする子がいる。
傷ついて、それでもなんとか、気づいて、心を取り戻そうと修行の道に入る子がいる笑

ーーーーー

依存性のものがある。
薬もそうだけど。。。

エネジードリンクを飲む小学生

薬漬けになる子どもたち。
睡眠薬、精神安定剤、子供にどんな薬でも処方される。

こういう子も、AI化している。
ディープウラーニングできないただのロボットかもしれない。
AIという言葉は適切ではないかもしれないが、まぁ簡単にいうと人間さのかけた人間のような形をした何か、である。

本当の自分の心に触れることなく、「カラダからのメッセージ」を無視して薬を飲んで頑張って学校に行ったり???

エネジードリンクを飲んで「成長を止めて」「脳を殺して」「慢性的なストレスに脳を晒して」自分からAI化する子供たち。心を守れない。暴力に支配された「自然」の中で、暴力から身を守ることを学べる「自然」は淘汰されてしまったのだろうか。
社会という「自然」、社会という「不自然」

学校は暴力の世界だ。
生き残っただけでも赤飯ものだが、生き残る過程でAI化されているかどうかわからない。
人間として生き残れない、子供達をAI化するシステムが学校という組織だからだ。
(学校という環境がそもそもAIのようだ。何をディープラーニングしているのかって?それは、生徒をAI化するためのいままでの取り組みの膨大な情報を使って学び直すしかない哀れなAIだ。自分で意思を持って、創造的に情報を選択して、学び直すことができない。)

家庭も暴力に加担してしまって、どうして子どもの心を「自然」に伸ばすことができるのか。

ーーーーーー

ひきこもりは、身の安全確保です。
子どもが、自分の体のメッセージに素直に従った、とても「自然」なことです。

AIの子にはできない、素晴らしいことだと僕は思っている。

オトノネひろげるシェアぼたん

いつまでたっても、小学生。

こんな世の中で、体ごと死んでいる子もいる。
心が、殺される子もいる。

僕はそんな子どもたちの心を守って、一緒に遊びたいとおもう。

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とある本にこんなことが書いてあった。
ちなみにこの著者は、小学校で国語を専門にしている先生。
今はもう小学校で仕事はしていないようだけど・・・

教師は手綱を放してはならない。

子供が自主的に目当てを持ち、学習の計画を立て、実践し、その当否を検討確認し、学び方を身につけていく…。そんな子ども任せの授業論は、机上の空論に過ぎません。自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。私の授業では子どもが発言をするのではなく、発言させられるーつまり、発言しないわけにはいかない場に子供を追い込んでしまうのです。たとえば、「この意見は正しいと思うか、違うと思うか」いずれかを選ばざるを得ない状況をつくる。そうしてすべての子どもに自分なりの答えを選択さえ、あらためて「なぜそう思ったのか」を考えさせる、これが私のやり方です。

野口流 授業の作法

学ばねば、やってみなければ、わからないことがある。それを教えるのだと。
(この文章は「自主性尊重という名目に隠れた、放任型の手抜き授業です。」という、放任型の手抜き授業をする教師への言葉ともとれる)
なるほど。
その点、この本の著者である小学校教育では、たしかに手綱を離さない授業が、必要になるのかもしれない。
手綱というのは、知性を司る人間の、知性を働かせるための操縦法をいうのだと僕は思った。

管理、という意味ではない。

小学校が終わり、中学校に入ると子どもの世界が広がる。
人間を、大きな社会の中で捉えられるようになる。

そうすると、授業の教材がかわる。
教材が変わると、また大人の「手助け」が必要になる。
そうして、手綱は、ずっと、弛まない・・・のだろうか?

例えば、小六であれば、小学校の総決算として、小学6年生として自律的に授業を進められるのではないか。
どうだろう。
ずっと先生が、手綱を引かなくてはいけないのだろうか。

ーーーーーーーーー

生徒自身がメタスキルを使って、自分の興味関心・自分の道を深めていくプロセスは、いつ始まるのだろうか?
大人になってから急に「自分1人」になって、誰の助けも借りられずにサポステにいく高学歴の子どもが多い(もちろんサポステはその情報を出しませんが)。

人生そのものが、長い長い学びのプロセスだと言えば、別に学校なんて小さな出来事だということもできるんだけれど。

個別化はいつはじまるのだろうか???
おそらくそれは、学校教育ではない。
現代日本の学校教育に、個別化は望めない。

ーーー

別の国では○○プランとかいって、生徒の主体性・自主性を重んじた「プロジェクト」という学び方を採用している。
イエナプラン・ドルトンプラン・もしくはモンテッソーリとか。。。

ーーー

子どものときにメタスキル を、言葉のチカラをつけずに、大人になった子どもが、どんな生き方をするんだろう。

子ども「わかりません」
先生「じゃぁ他の人」

で進んでいく授業で、子どもは何を学ぶのだろう。
それこそ無気力を学ぶのではないか、心配している。

学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?

学校で、家で、小さい時に満たされなかった心を、大人になってから、DVやらモラハラ、パワハラ、もしくはドロドロのポジションの奪い合いの競争の中で満たしていく。それが現実ではないのか。

宿題をしてこない、課題を出さない、で叱責する自称進学高校の先生たち。
小学生か。
親を味方につけたり、罰を与えて、なんとか宿題、課題を出させようとする先生たち。
園児か。

周囲の考え方に合わせたり、機転を利かせる優等生がいる。
一方で、いつもギリギリの場所で、自分をみつめ、自分の感情を大切にしながら他者と関わろうとする子どももいる。(いわゆる「問題児」と学校で呼ばれる子)

こうしたいろんなタイプの子が集まってつくりあげる社会をつくるための「しくみ」を学ぶことが、大切なのだとおもうのだが。
学校では前者が善とされ、後者は排除されるか、隠されてしまう。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

なんて貧しい国なんだろう。

オトノネは、個別化を大切にしています。
オトノネは、個別化していく子どもたちが、お互いに学び合うことを、大切にしています。

オトノネひろげるシェアぼたん

富山のメンタルヘルスと「怪獣」

富山県のメンタルヘルスは数値化されていないもの、かなりやばいんじゃないかと思っている。
それはこういう理由で↓
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
(個人のメンタルヘルスではなく集団、組織のメンタルヘルスという概念はヨーロッパの心理学の世界では研究がすでに始まっています)
データの出典をメモっておらずなんだが、路上犯罪検挙数(だったとおもう)は人口で割ると東京都と同じ富山県。
それがほとんど富山県の都市部で起こっているとしたら、東京よりも危険な場所だということになる。

そりゃぁ、お母さんも心配するのもわかる。

ーーーーー

で、今日、社会人の人とレッスンをしながら、話をしながらたまたま思い浮かんだこと。

「そういえば、富山県って、魚津の方とか朝日町いかないと、海が海らしくないよな」
海と人間が、繋がっていない。
海からチカラをもらえていない。

と仮定してみる。

そういう視点で考えてみると、メンタルヘルスと海の綺麗さ・汚さは関係しているんじゃないか?
とおもったり。

綺麗さ。汚さという表現はよくないかもしれない。
どれだけ海と人が関わっているか、である。

たとえば、、、、
新湊の大きな橋を作るために、もともとあった船便がなくなった(まだ運行してるっけ?仕方ないんだろうか・・)
港町、に行っても港町らしさが感じられない。なんでだろう。。(漁港から、人・海のチカラが街のほうまで伸びて行かない)
そもそも富山県なのに魚の値段が高い(おかしい。不漁が続いているのかしらん)。
海浜浴場といっても、目の前にテトラポッドが・・・

釣りをしている人は、釣りをして海のリッチネスをもらっているだろう。
けど僕は釣りをしない。
だから海が遠いのかもしれない。

別の海を僕は知っている。富山よりももっと貧しい(県民所得が低い)、それでいて、海を味わえる場所があった。
海を味わっている人と出会ったから、海のリッチネスをもらえたのかもしれない。

もしかしたら、富山での僕の生活が、海から遠くなってしまっただけなのかわからない。
街中で、のたうちまわっている魚か笑

ーーーー

富山県は文句なしに、海の資源をもっている。
縄文の時代から、この内湾はすくなからずの「富」であった。
立山黒部からくるミネラル豊富な水が・・・とは説明されるが、果たして、現在、そのチカラをどれだけ使っているのか。
使えているのか。

これこそが、富山という場所の「個別化」である。
と僕は思う。
「世界一綺麗な○○」とか増やして定期テスト対策している場合ではない。
「商業施設作り直します」とか定期テスト対策している場合ではない。
休日にイオンとかファボーレ行っている場合ではない。

個別化だ!
個別化は別に、「その人だけ」とか「その場所だけ」を意味していない。
世界一である必要も、日本一である必要もない。
富山らしさ。
富山のもっているチカラを使えているかということだ。

子どもにも、ひとりひとりチカラがあるように。

と思っているのは僕だけか。
(ある人の話を思い出す。砺波の人だったか。。。夏は朝にお弁当をもって出発し海に向かう。楽しんで、1日かけて、また戻る。車がまだ普及してなかった時代の話だ)

なぜ、富山にきても魚は安くなく、また品数もすくないのか(おとのねさんはそれが特に不満です)。
(今の時期、こんなに少なかったっけ???)

富山という場所にいる「怪獣」も、だいぶお疲れのようだ。
だって、政(まつりごと)をする人たちがお金お金でドロドロだもん。
富山の「怪獣」さんはヘロヘロになっているだろう。
疲れている。
病んでいる。
だから人も病む。
人が死ぬ(自殺率が上位ランクイン)。
人が人を殺す。(去年、この時期に、発砲事件がありましたね。覚えていますか?)
【随時更新】富山でまた発砲事件 富山市内の小中学校が全て休校に

僕はそうおもっている。
誰も言わないの?命に関わることだよ?
みんな不思議に思わないの?

急勾配だという富山県の沿岸の地形。
その海底には何があるのか。

海王丸は、何を運んでいるのか。

富山のリッチネスは、なんだろう。
黒部立山を眺めるだけではないはずだ。
観光資源として「お金」にする以外のチカラをもっているはずだ。
人がしあわせになるチカラをもっているはずだ。

富山に暮らしながら、富山のリッチネスを探してみようかな。
一人一人が、富山のリッチネスを大切にしていたら、それだけでも何かが変わるはずだ。
と、おもったりする。

富山のリッチネス・・・・
(ある人は、「ゴールデンウィークでも人が来ないキャンプ場」といっていた。ゴールデンウィークも働かなくてはいけない僕には、そのリッチネスは堪能できないのが残念だ・・・だが別の場面で、富山の「おいしいところ」をいただいた。誰かが知っているリッチネスを別の誰かに伝えていく、一緒に味わう、結局はそういう人間らしい営みが大切なのかもしれない)

ーーーーーーー

ふと思いついた「メンタルヘルスと海」の関係。

人間とつながるだけでは、心を大事にすることは、どうやら、難しそうだ。
(沖縄はメンタルヘルスばっちりなんだろうか?ちゃんと調べたらおもしろそう)

人が、人しか見れない。
人が、人をお金にしか見れない世の中だとしたら。
悲しい。

富山で暮らす人の声を、もっと、大きくしていきたい。
それはきっと、人間らしいことだと、僕は信じているから。
オトノネは、そういう場所です。

オトノネに、耳をすませてみませんか。
あなたのオトノネに。
隣で眠っている人の、オトノネに。
この大地の、海の、オトノネに。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。

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「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?

これもよくある話。

「問題行動」という言葉がある。
これも半ば、呪いの言葉なのだが・・・

指し示しているものは「社会的に不適切とみなされた行動」だ。
校則違反も問題行動になるだろう。

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人の中には、怪獣がいる。
心には怪獣が住んでいる。

シャーマンの世界で言えば、守護霊のようなものだと僕はおもっている。
つまるところ、それはチカラだ。

たとえばこれが「やんちゃ坊主」の「問題行動」だとしよう。
それがただのけじめがついていないだけなら、「感情のコントロール」の仕方を学んでいってもらうために、お母さんは凛として言葉を使ったらいい。

しつけとけじめ

しつけ
勉強は「しつけ」か「あそび」か

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が。

それがどうも、その子の命のエネルギーが溢れてしょうがない状態、からでてくる「問題行動」もある。
と僕はおもう。

溢れさせてはいけない場面もあるだろう。
それこそ「気締め」、ケジメをつけなくては、映画館でも大変なことになるだろう。

だが、そのエネルギーを、命の炎を燃やせずに水をかけられるだけでは、子どもの輝きがなくなってしまうかもしれない。

「悪い」怪獣なのか?「良い」怪獣なのか?

「良い」怪獣として育てるには?
それこそ、学びだし、教育だし、自己理解だし、メタスキルだ。

例えば・・・・
エジソンだったか。
アインシュタインだったか。
だれだったか忘れたが「好奇心」という名前の怪獣がいたために、学校で除け者にされてしまった人がいる。
この子は「好奇心」という怪獣と一緒に成長できるように、お母さんが「ホームスクール」した。
つまり学校に行かなかった。

そうして、その子は、歴史に名を残す人物になりましたとさ。
もしその怪獣を殺そうとしたら、、、またそれは別のストーリーになっただろう。

「怪獣」とどうつきあうか、つまり「チカラ」をどうつかうかは、その子次第だし、その子の成長を見守る大人たち次第だ。

それは「ストレングス」とかいう言葉であらわしてもいい。
強み、自分らしさ。そうして「自分はこういう人間だ。だからこうして生きる」というメタ認知ができるようになったら、人生、楽しく生きられるようになるとおもう。

「自分は本当はこうなんだけど(怪獣は心にいるんだけど)、それを出したら(怪獣のチカラを見せたら)お母さんに怒られる・・・」といったイイ子に徹する子もいる。

「いやもう、これ、私だし」といって、御構い無しに怪獣をだしてくる子もいる。

ひとそれぞれ。

ただその関わり方を、出し方を、大人たちは教えることができるだろう。
「使い道」というのは、「社会でどう使うか」「そのチカラを、何に役立てるか」という知恵に繋がっているからだ。

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カスカネダの書いたシャーマンの生き方、修行の記録の中には、精霊との戦いというものがある。
精霊は、チカラをもっている。
シャーマンは、それを取り込み(?)、コントロールしなくては死んでしまう。
精霊に殺されてしまう。
精霊は悪霊にもなる。

同じことが、子どもたちの「チカラ」についてもいえるのではないか。

子供の中に現れた怪獣は、そのチカラを使いたがっている。
もしそれを檻にいれるだけしたら、脱走したり、本当に、人を食らうかもしれない。
(現代の漫画でよくあるストーリー)
もしくは、怪獣からもらっていたチカラをもらえなくなって、鬱、病になるかもしれない。

怪獣は、チカラをくれる存在だ。

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学校にすれば、「不登校」も問題行動なのかな。
「いじめ」も問題行動だ。(校長先生の評価が下がるからだ)
けど学校はそうした怪獣の存在なんて知らないし、「定期テスト対策」的な処世しかできないのが、現実。

学校の中では檻に入れられてしまう怪物を、子どものチカラとして、社会の中で使えるようにするには???
家庭教育、社会教育だろう。

学校は、学校のことで精一杯だから。

そういう視点で、「この子は今、どんな心をもっているのか。どんな発達段階にいるのか」といった見方を、まずはお母さんにしてほしいとおもっている。

気締めによって怪獣をコントロールすること。それは小さい時の気締めとかわらない。一人でできることもあるし、誰かの助けを借りて、コントロールできるようになっていくこともある。
そのための心のしくみを作って行くことが、人としての大きな成長になるとぼくはおもっている。

ゴジラがなんだかんだいって地球を守っているように、お子さんの「怪獣」も、お子さんを助けるチカラになるかもしれない。
まずはお子さんの怪獣と、話をしてみたらどうだろうか。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
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