言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

言葉の内実とは何か。
「言葉はいろいろなことを表現する。その内容は何か。実態は何か。」ということだ。

言葉に人間のような姿形があるなら、いったいどのようにその人は暮らしているか、という問いを自問自答してみる。

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僕は日本の精神文化は「源氏物語」と「浄瑠璃」に集約できるとおもう。
それは日本人の「感情」の表れであり表現だ。
どちらの作品にも「日本仏教」が付いて回るが、とにかくこれらの作品には「泣く」「怒る」という感情がよくよく表れている。官能もよくよく、含んでいる。世界中でもコンビニでポルノを売っている国など、日本の他にない(あるの?)。

それを例えばキリスト教を文化にもつ人たちに求めるなら?
長い間、聖書の物語が彼らの精神活動を支えていた。
聖書を紐解き、聖書の中に答えを見出そうとした。
そこで「解釈」のための論理学が精神の重要な部分となった(元をたどればポリス時代にその素地ができていた)と僕は考える。
海外の人と話をしていると、日本ではほとんど、ほとんど聞かない言葉をよく使っていることに気がつく。
「Why」という言葉だ。
この言葉は相手の論理、思考、考えを問う言葉。相手を解釈・理解しようとする言葉。
(日本人なら「どうして?」「なぜ?」を使う代わりに、驚きや拒絶、好き嫌いなどの主観的な感情を表現するだろう。)

日本人が「why」を使う状況は、、、大きな人間が小さな人間に問いかける時くらいだろうか。日本の大きな人間同士がこの言葉を使うのだろうか。。。

これは僕の印象だ。

人が誰かに助けを求める、お願いをする姿を思い描いてみてほしい。
どんな状況?
どんな言葉で?

僕は日本の農民が苦しんでいる、困っている状況を思ってみた。そこでその人は「どうか〇〇してください」と誰かにお願いするだろう。「行動」を「乞う」わけだ。「わたしたちの村は飢饉でもうこれこれこうで」と「感情」に訴えかける。

西洋の人が困っている状況でお願いするイメージを描いてみた。教会で人が神に祈りを捧げているイメージがでた。その人はこういう。「神様、私は、どうしたらいいでしょうか?」問う。「行動」するのは自分であり、「乞う」のではなく、「問う」。

人の感情に訴え行動を「乞う」日本。
神の理性に訴え言葉を「問う」西洋。
対比的にみると、僕はこうなんじゃないかとおもう。

今の内閣総理大臣がいろんな批判を浴びせられているが、「問い」に対する誠実さがない、「問い」を理解できていない、「問い」かけられているという認識すらない、「問う」という言葉の価値がないのは内閣総理大臣が変わればよいのではない。批判は内閣総理大臣という個人に浴びせられるものではない。少なくとも今の「問わせない」教育システムをつくりだした自民公明党という組織への批判であるべきだし、根本的には、この日本人の「乞う」精神文化、「問わせない」しくみを変えようとしない教育への批判であるべきではないのか。言葉の内実は歴史につながっており、それほどまでに深く人の意識を規定している。

しかしこの時代遅れの精神文化と呼ぶべきものは、本当に変えるべきなんだろうか?なにしろ相手は「歴史」である。
むしろ、この歴史に抗うことなく、ただただ「感情」と「行為」レベルの動物的な共産体制を保持して行くのも「自然」だろう。選挙に参加するということは歴史の流れに自分をどう位置付けるか、という大きな仕事だとつくづく思う。

ーーーー

日本人が「言葉」を「解釈」し始め(ようとし)たのはいつか。
明治になって、新しい言葉を吸収しようとした時からではないか。そうして文豪たちは、西洋と日本の間を行き来しながら、新しい言葉の文化を作ろうとした。

現在、若者たちが、大人たちが、自分が使っている、触れている言葉、心を育てている言葉はどんな言葉か。
「源氏物語」や「浄瑠璃」の世界とどう違うか、少し立ち止まって、「問う」のも一興だ。

かの有名な言語学者が言った通り、言葉は意識そのものである。意識の道具ではない。意識そのものである。
言語環境は、その人の心をつくる。
保育所、幼稚園や学校で殺伐とした言語に日常的に囲まれている子どもたちの心が作る次の世の中は、どうなっているんだろう。

ーーーーー

この文章を書きながら、「問う」ことはすなわち考えることだとおもう。
「問う」ことで、心が満たされて行くように僕は感じている。(おとのねさんは学者らしい)

「乞う」ことで満たされるものは何か?
いくら食べても飽くことのない獣であるように思ってしまうのは私だけだろうか。

「問う」ことで満たされる心も、次の「問い」を飽くなきまでに求めるのだろうけれど。(こういう逆説的な、矛盾するような文章に楽しみを感じる人はオトノネの門をたたくと面白いのかもしれない)

C・S・ルイスが「子どもの本の書き方3つ」という評論の中で、児童文学のよくない書き方の1つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が並存するのだということを子供に知らせてはいけない、という見解に基づくものをあげている。また、子どもの欲するものだけを与えようとする書き方も戒められている。(略)もし子どもたちのことばでルイスの言葉を書き換えるとしたら次のようになるだろう。「大人のみなさん、あなたがたが勝手に頭で考えたものを私たちに与えないでください。ユートピアもモラルも、私たちが自分でつくるからこそ、すばらしいものができるのです。私たちにそれをつくる場と自由な時間をください」と。それにしても、ルイスがこのような忠告をしなければならなかった理由があったのだろうか。たしかに、子供達をとりまく大人たちの考え方の中にこのような忠告を必要とするような状況がある。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.54)

子どもたちは自分で「問う」ことで世界を作って行く。
人の顔色を見て世の中を渡る「行為」レベルの処世術ではなく、「心」のレベルで人と関われるようになってほしいと、僕はおもっている。
だってそっちの方が、僕は人が人らしく輝けるとおもっているから。

日本人は逆に、「問われる」ことで、輝きを失っているのが現状だろうけれど。
うーん、どうしようかな。
目の輝きが問われる前に、目をつぶって念仏を唱えるのが、日本人の言葉の内実、意識なのかもしれない。

ーーーー

言葉にチカラを。
これがオトノネのテーマだと、「問う」ことで僕は発見した。
「問う」ことは学びのメタスキルだ。

ところでおとのねさんはHPやフェイスブック、ブログでいろいろな「問い」を読者に伝えてきただろうか。
「情報」は「問い」ではない。

オトノネは「問う」ことを続けていこうとおもっている。
たとえそれが「わかりにくい」HPだったとしても?
「乞う」HPも作って両方の人がオトノネに来てくれるようにしようかとおもった。

二本立て!
オトノネはHPから、心を大事にしようとおもいます。
お腹すいた。

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【メタスキル】歴史の勉強

生徒がバルカン同盟とは何かを調べている。
教科書の内容があまりにも貧相であるため、参考書、資料集、問題集まで駆使する。

定期テスト対策であれば、与えられたプリントを丸暗記する、このキーワードが出たらこれを答える!ということだけ考えたら点数がとれる。

一流の学習者は、
1何かの出来事を中心に
2なぜそれがおきたか
3その後どうなったか

を筋道を立てて説明できるようにする。
しかも、誰にでもわかりやすい言葉で。

「そこまで試験にでないよ」という子がいたら、なんて答えてあげたらいいだろう?
「そういう勉強法を、暗記って言って、すぐに忘れるんだよ」と言ってあげよう。

まぁ世界史なぞ、細かい用語などを覚えていても時が経てば忘れるもの。
大事なのは?

それがメタスキル というものだと僕は思う。

小さな国のいざこざを利用して大きな国が覇権を握ろうとするのはいつの時代も同じ。
米ソの冷戦の構造とも似ている。

今の時代、日本はまだ「近代」にいる。
アメリカの僕として働いている。

欧州でもイギリスがEUから離脱したのかなんだか。どうなったの?
日本は日本でまだ富国強兵、帝国主義政策をしている。

そんなことも、歴史を学びながら勉強できる。

今への視点をなくしてしまう歴史の授業ほど、意味のない、おもしろくないものはない。

歴史を読み替える。
例えば僕が「国Aがびびって、仲間を増やして多勢に無勢で国Bをいじめようとしたんだよ。国Aがびびりなんだな」とか言って歴史を解体してくれる先生がいたら、歴史が好きになっていたかもしれない。
僕のこの能力は大人になってから出てきた。

僕のこの能力は、自分の好きな「日本と外国の芸能史」を調べながら手に入れたもの。
メタスキルを育てる条件。それは、学校で学ばないことである笑

ーーーーーーーー

ところで、歴史を学んで思うこと。
小さな革命が大国に潰されて行く歴史。
大国同士が潰し合う歴史。
そこで生まれた秩序のなかの混沌の中に、いま私たちが暮らしていること。

ゲルニカのメッセージは、届かなかったこと。
岡本太郎の太陽の塔の光は、届かなかったこと。

ーーーー

生徒と勉強をしていて思いついた話。第一次世界大戦中、ドイツくんが空き地で無敵潜水艦ごっこをして、ボールが隣のアメリカさんの食料庫の窓を壊してしまいました。
怒ったアメリカさんはこう行って対戦に参戦しました。「どこのどいつだ!」

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独立・自立しようとする人々。
それを利用したり、拒んだりする人々。

ドイツって、二つの対戦両方で負けてるんだね。
自信をもって対戦初めてるんだろうけどね。
なんでだろうね。

ドイツの人は真面目、だという。
日本も真面目、だという。

敗戦でうまれた何かが歴史の中に根を張っているのだろうか。

ーーーーー

ユダヤ人迫害。
大人数が少数をいじめたら迫害。
少数が大人数をいじめたら?独裁。

日本人は自民公明党に迫害されていることに気がついていない。
歴史をいくら学んでも、心がなければ、気がつかない。

もちろんこの考え方も、ただの私のファンタジーだが。
ファンタジーがない勉強法を、暗記という。
ファンタジー力は、メタスキル です。

誰でももっているものを、もう一度、大切に引き出してみませんか?

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難しいを簡単にするチカラ

複雑を単純にするチカラ。
ほとんどの教科で必須スキル。

世界史の教科書に難しい言葉が書いていた。
三国同盟って何?と聞く。
わからないという。
教科書に書いてあるよという、
それが、意味不明だという。

で、僕は翻訳した。
「ドイツがロシアにビビってイタリアとオーストリアと仲良くした」

三国協商を翻訳するとこうなる。
「イギリスはドイツといつも喧嘩していて、これを機にロシアとフランスを仲間にした」

世界史で、人間関係を学べる。

言葉を変えるだけで、理解ができる。
頭に残る。

だったら、その翻訳機をつくろうぜ!

ーーーー

日常生活にあるいろんな複雑そうにみえる問題も、こうして「大人が翻訳」していくことで、どう対処していいか、どう理解していいかを子供は学んでいく。

情動知性、感情知性、社会的非認知スキルというものも、こうした大人の世界観、大人の暮らしから、子供は学んでいくものだとおもう。

「今日学校でこういうことがあってへこんでるんです。お母さんならどうしますか」とおとのねさんはあるお母さんに聞いた。
「忙しすぎて、凹んでられないですね。次の仕事します笑」と、“笑って”答えてくれた。

言葉よりも、この笑いとその響きから、多くを学んだ。

しっかりして!おとのねさん!

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学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。

子どもは学校でたくさんのことを学べる。

学ぶスキルさえあれば。

めいいっぱい、学ぶことができる。
与えられた宿題をズルすること。

アウシュビッツでも、学ぶことができる。
与えられた労働をズルすること。

学ぶスキルさえあれば。

ズルも、美徳だ笑

大人もたくさんズルをしている。
社長だけお金を稼いで、雇用者は生活保護レベルの福祉業界。
これは、ズルじゃないのか?

ズルは、戦略だ。

オトノネは、学びのスキルを重視しています。

学びのスキルを使って、学校をやめることもできる。
学ぶことは、生きることだから。
学びを実践するために、学校をやめてもいい。
生きるために、学校に行かなくてもいい。

その積極的自己責任を負えるならば。

大丈夫、実験し、失敗や間違いだったとしても、本気でやることのすべては、君のチカラになる。

ーーーー

『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』の著者は、大学を中退した。
著書を書きながら、ふと振り返って、当時大学を辞めることを決意しながら書いた手紙を見つけ出したという。

人生を変える決意をしている18歳の人間はこの世で最も昂ぶった生き物だ。しかし手紙が見つかってよかったことは嬉しかった。一瞬、この青春真っ只中の書き振りには耐えられないとおもったが、葛藤に満ちた若い日の自分におおいに同情を覚えたことも確かだった。(p.263)

そうして、文字通りの、アメリカを半分くらい横断する自転車の旅に出た。

「教育ゲーム」をやめて、最初ー今の自分ーからやり直した。

それから転々とキャリアを変えてゆきながら、「今回わたしがはじめた奇妙な冒険は、国の半分を横断する自転車旅行ではなかった。本を書くことだった。それがこの本だ」と、この本で書いている。

逆境はチカラになる。
転んでも一人で起きられる。
失敗は、なんとかできる。

失敗から学ぶ方法を教える先生が、自分自身のなかにできた子は、一流の学習者だと、僕はおもう。

失敗していい。
じゃぁ次どうするか、オトノネで考えてもいい。

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【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?

忍耐という名詞を使ってもいいのだけれど。
使わない方がいいとおもう。
名詞の抽象性

じゃぁ、忍耐って、どうやってつけるの?
その一つの答えが、軍隊式、スパルタ式教育。
困難な状況に、慣れさせるというもの。(ただしこの困難な状況に慣れることができず、脱落する人たちがいる)

忍耐とう名詞を別の言葉に言い換えてみたほうが、もっとしあわせになれるよ!
というお話をします。

成功する子・失敗する子

自制心を最大限に発揮したい場合、どういう戦略やコツが最も効果的か?そうした技術は教えることができるのか?ミシェルの実験からはおもしろい結果がいくつか出ていた。例えば精神分析理論や鼓動理論が提示するところによれば、子どもにとってマシュマロをふたつ手に入れるための最良の動機付けとなるのは、ご褒美を意識の中心に起き続けること、最終的にそれを食べられた時にどんなに美味しいかを強調することであるはずだった。ところが実際の結果は正反対だった。子供たちはマシュマロが隠されていた時の方が、目の前にあったときよりもずっと長く我慢できた。この実験で最良の結果を出した子供たちは気をそらす方法を独自に考え出していた。いひ部の子供は実験者が戻ってくるのを待つ間、ひとりで喋っていたり歌ったりしていた。おやつから目をそらしたり、自分の手で目隠しをしていた子供もいた。昼寝を始めた達人もいた。ミシェルの発見によれば、子供が時間を引き延ばすために効果があるのはマシュマロについて違う考え方ができるような簡単な助言があった場合だった。頭に浮かぶおやつが抽象的であればあるほど我慢できる時間も伸びた。マシュマロを菓子ではなく丸く膨らんだ雲みたいなものと考えるように誘導された子供たちは、7分ほど長く我慢できた。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.110)

どういうことかと、課題に対して、自分なりの方法を編み出せることが重要であり、
忍耐、我慢強さという指標は、全くあいまいで、抽象的で、誤解を招く言葉であるから使わない方がいいという話。

オトノネは、「自分なりの方法を編み出す」お手伝いをします。
それが個別化であり、ファンタジーであり、あそびであり、受験という経験だと、僕はおもっています。

またこれが、世の中の「リッチ」なものを味わえる、メタスキル になることでしょう。

マシュマロ実験いろいろ
ライフシフト

自己主体感に関して難しいのは、寿命が長くなれば、考慮しなくてはならない未来の自己像が何通りも出現することだ。100年ライフでは、お金を使うことより貯めることが重要になるし、余暇時間をレクイエーション(娯楽)から自己のリ・クリエーション(再創造)に振り向ける必要性も高まる。家庭内での役割と互いの関わり方について、パートナーと難しい会話をする能力と意思も強化しなくてはならない。ここで問われるのは、未来に得られるかもしれない恩恵のために、いま厳しい決断ができるかどうかだ。(略)研究によれば、セルフコントロールの能力は人によって異なり、その違いは幼い時から現れる。例えば、3歳の子供に、いまマシュマロを食べるのを我慢すれば、30分後にもう一個マシュマロを上げようというと、満足を味わうのを先延ばしにしてセルフ・コントロールができる子どもと、それができない子どもがいる。ものごとに習熟するためには、満足を先延ばしできるかどうかが重要だ。なんらかのスキルを習得しようと思えば、長期の恩恵(たとえば、イタリア語を話せるようになること)のために、目先の快楽(例えば、お気に入りの連続ドラマを見ること)を我慢しなくてはならない場合が多いからだ。研究により、セルフ・コントロールは後天的に身につけられることがわかっている。ものごとに習熟するために快楽を先延ばしにする能力は、学習できるのだ。スタンフォード大学のキャロル・ドゥエックによれば、厳しい課題に向き合い、なにかに習熟したり、プロジェクトをやり遂げたりする能力をどの程度持っているかは、人によって異なる。ドゥエックの言う「成長思考」の持ち主は、快適なぬるま湯の外に出て生き、未来につながる道に思考を集中させようとすることにより、将来の計画を貫くことができる。そうした人たちは、「現在の暴虐」ーいつもすぐに手に入る果実ばかりを追い求めたり、手ごわい課題を与えられると動揺したりすることーをあまり経験しない。こうした思考習慣を身につけるためには、方法論を学ぶことが有効だと、ドゥエックは主張する。不可能とは言わないまでも困難な課題に取り組むように指導・奨励された子どもは、成長思考をはぐくみやすいというのだ。もしドゥエックに助言を求めれば、長い人生を通じて生産的でありたいと思う人は、困難な学習目標を立てて、強い覚悟を持ち、目標に向けて脱線せずに忍耐強く努力し続けるよう言われるだろう。100年ライフでは、人々に自己効力感と自己主体感をもたせ、計画と実験と習熟を後押しすることの重要性が高まる。教育機関と政府は、そのために貢献することができる。(『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』p.362)

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電動工具の修理とメタスキル

この瞬間を生み出す前に、丸ノコが動かずに、どうしようかとおもった。

1。レンタルする。
2。丸ノコを修理する。
3。手ノコで切る。

など、どうしようかと考えた。

結局、まずは、修理してみようと言うことになった。
(山田さんも電動工具を修理しているという話を聞いていたので、僕もできるかなーって感じ)

もちろん、初めてですよ。
電動工具の修理なんてしたことありません笑

ーーーーーー

まず、ネットで検索。

ふむ。。。

スイッチを押しても、回らないと言う状況。
たまに、不安定にぎゃんっ、、、と回ってすぐ止まる。

スイッチの回路は生きているか。確認。

ピンピンしている。

なんちゃらなんちゃらという部品が、摩耗していると動かなくなる、よくここが問題になる、というので、みてみることに。
引っ張って取れるらしいその部品が、とれない・・・

とっていいのか、わからない・・・・

ということで、さらに分解。

結局、長年の使用(不使用?)で、その部品がこびりついて、取れなくなっているだけだと判明。強く押して引っこ抜いて、ヤスリで少し削って動くようにした。で、動きました!丸ノコ!

こうして、アカシアの床は、完成しました。

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勉強する意味・何故勉強する・勉強する理由・どうして勉強しなくちゃいけないの?

テキストとは、本来、「問いかけるもの」である。
教科書とは、テキストブックである。

けれども日本は「再現させる内容」を一方的に「喋る」ものだ。

だから、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という問いかけは、「なんで一方的なおしゃべりをずっときいていなくちゃいけないの?」という問いだとおもっていい、と僕はおもっている。

ーーーーー

残念ながら、富山県、石川県の高校で「一方的なおしゃべりを聞く」以外の授業は受けられないと、僕はおもっている。

大人のつくった「しくみ」に君たちがどう答えるか、大人はそれにどう答えるか。

ーーーーーーー

学校で学ぶべき(「べき」という言葉を強く使いたい)ことは、メタスキル である。
一人一人の生きている世界が違う、価値観が違う、そんな世界で生きて行くことを学ぶためのスキル。
それがメタスキル だ。
メタスキル は学ぶために必要なスキルだ。

もしくは学んだことを使うスキルだ。

ーーーーーーーーー

学校で学んだメタスキルを使う、自分たちのフィールドが、どこか。
それがわからないまま、なんとなく、大学に流れてただただ、ベルトコンベアの終着地点でまた次の工場に向けて集荷されていく高校生がいる。

学んだメタスキル を生かす場所が、時間が、子どもたちの近くにあるか。
子供達は、定期テスト、外部模試以外で、自分の得たスキル、メタスキル を試す場所があるか。

「なんで一方的なおしゃべりをずっときいていなくちゃいけないの?」とう問いが起きる理由であると思う。
高校生たちがストレスを感じている状況を、こう説明したい。

自己と対話するメタスキル
他者と対話するメタスキル
世界と対話するメタスキル

このような対話を、学びのカリキュラムを発動させる学びの場が日本の公教育で(特に高等学校で)デザインされていない。

ーーーー

簡単に申し上げると。
問い:勉強する意味とは・何故勉強するか・勉強する理由・どうして勉強しなくちゃいけないの?
答え:そんな問いがでてくる勉強なら、しなくていい。

これが僕の、答え。

もし、これが君がほしい答えではなかったとしたら、

別の聞き方をしてみてほしい。

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教育の定義を考える【適応能力・選択能力・決断能力】

教育の目的は
成人をした時に、適応障害を作らないということ

であると定義してみよう。

あらゆる状況に「適応する」チカラ。
これはメタスキルだ。

適応するとは、本人が「生きていく」「持続的に代謝していく」ということ。

だとしてみよう。

「誰かに守ってもらう」ことで適応してもいい。
「好きなことを、伸びることを伸ばし続けて、特殊能力をもった人になる」ことで適応してもいい。
「にこにこしながら隅っこでじっとしている」ことで適応してもいい。
「なにをしてもへこたれない」ことで適応してもいい。

適応の仕方を、学んでいく。
「その子が」適応する、「その子の」適応の仕方を学んでいく。
それが教育だと。

定義してみよう。

これはキャリア教育であり、自分を生かす自己肯定の敎育でもある。

———–

思春期以降に学ぶことは。
(もっと行ったら、8歳以降は)

凹凸ある、非定型な、個別的な、ユニークな、特殊な、ひとりひとり違う、
生得的な、もしくは8歳までに作られたチャンネルに合わせて、取り入れる世界を内的世界の仕組みに合わせてカスタマイズする方法を学ぶことである。

凹凸ある、非定型な、個別的な、ユニークな、特殊な、ひとりひとり違う、生得的な、もしくは8歳までに作られた認知特性に合わせて学ぶ。働く。
それは、どのようにして学べるか?

「知識」は「お金」と一緒で、それ自体が目的になってしまえば、人生を壊すことになってしまう。気がする。

ーーーーーー

世界と関わる意欲がなければ、何も起きない。

心をみとめて、心の動き(意欲)を大切にしなければ、アウシュビッツ行きになってしまわないか、心配している。
心を認めてくれる人に出会えない学校なら、やめたほうがいい。
そこは、監獄だ。

関わる世界が、そのままその子に受容されるわけではない。
しかし、世界は確実に、何かしらの形で、受容されていく。心のシステムに、影響を与えていく。
さまざまな適応能力をつけるため、自己理解をするために学校があるのであって、学校が「適応対象」として適切かどうか。

ーーーーーーー

意欲が出るために、ゲームをする人がいる。
ゲームの世界で課金をしたり。
ゲームに時間を費やして、そこで生まれる成果で意欲を出す人がいる。

そういう世界も、ある。
そういう世界に、入り込む入り口が、いろんなところに開いている。

「世界の見方」はこどもひとりひとり違う。
「世界の見せ方」を、大人は考えているだろうか。
どんな世界を「見せる」か、大人は、考えているだろうか。

考える必要もないくらい、大人が、ちゃんと自分の世界を作っていたらいいのかもしれない。

ーーーーー


子供の見ている世界を、大人が教えてもらうのに、子供が自分の見ている世界を表現できるような、非言語、言語能力が一番大切なようにおもう。
それは、大人の方が、受け取れなかったら、いけないのだけれど。。。

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ドジョウを買うために必要なメタスキル

メタスキル 、それは、学ぶチカラ。
メタスキル 、それは、知識や技能を使うチカラ。
メタスキル 、それは、学校では教わらないチカラ。

昔々、おとのねさんは、スーパーでドジョウ をみつけましたとさ。おいしそうだったので、買って行きましたとさ。「なんて、チカラに溢れているんだ!」とさ。

そうして、飼うことになりました。

実は、この間にいろんなドラマがありました。

まず、大半のドジョウは、オトノネさんのために、命を燃やされてしまいました。

たまたま別の使命をもったドジョウが、別の容器に「避難」していたのです。
水槽を買うまで、そこで頑張ってね・・・

で、まさか、、、、と思ったことが。

ドジョウが、飛び出して、二匹、呼吸困難に陥っていたのです。
埃まみれになって。
救いはしたものの、一匹はその後、息を引き取りました。

残りの一匹は体が曲がってしまいながらも生き延びましたが、後で、死んでしまいました。

ーーー

大切にしようとおもっていたのに、大切にする方法がわからなくて、殺してしまうこと、傷つけてしまうことがある。
これは経験するしかない。

経験をしないで「あらかじめ与えられた手順を踏む」ことでこれは回避できる。
だが。

ーーーーーー

さて、その後、水槽がやって来た!

無事に五匹は水槽で泳ぐことができました。

だが。ドジョウなのに、土が入っていないその水槽。
ドジョウが安心して暮らせるようにと、土を探しに。。。田んぼへ。

そして、持って来た土を入れたら。。。。。
もちろんもくもくーと土埃が立って、水槽が汚れました。

ん???

ドジョウ君たちが、しきりに上に上がって来ます。

ん???

表情はないけど、苦しそう、何か、メッセージがありそう、。、

あ、コロイドだ。
田んぼの土の粘土質の細かいやつらが、ドジョウたちの呼吸を困難にしているようだった。
(墨汁に入れられている状態と、予想されます)

えー!!!!!!!!!

というわけで、また「避難」するドジョウたち。

水槽の水をかき混ぜて、上澄みを捨て、重たい粒子だけ残るように。。。
軽い粒子を流す。

ーーーーーーー

無事になんとか呼吸ができるようになった水槽。
息がしやすいようにと、なんとエアポンプを購入。
これでもう、大丈夫だべ!

水草でもいれるかー!

と思って浮き草も買った。

うんうん、ドジョウたちも浮き草の根っこで遊んだりしているし。。
いいのかな?

と思っていたら、浮き草が日に日に元気が無くなって行く。
また粒子のせいか?

理由が不明なまま、浮き草を撤去。
何かが、違っていたのか。その間、もう一匹が、死んでしまった。

残り、二匹。

ーーーーーーー

生き物を飼いながら、いろんなことを学ぶ。
好きだから、本気だから、一生懸命だから、得られるのが、メタスキル だ。

やらされていたのでは、全く、身につかない。
やらされていて身につくメタスキル は忍耐とか、従順心とか、そういうものだけだと、おもっている。

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子どもとうまくいかない!とおもったら?

子どもとあそんでみよう。
うまくいかなかった罰として!笑

「イヤ!」といわれたら?
泣いてせがんでみてもいい笑

気持ちがわからない、通じ合わない、感じられないなら、遊びはその壁を簡単に壊してくれる。
「悩んでいる新皮質」ではなく、「ありのままの辺縁系」が、表にてでくるからだ。

怒りを感じたら。
何かを伝えるときに、怒りをベースにしたら、多分うまくいかない。
ほとんどの場合は、真剣さだけで、凛とした言葉の響きで、言葉の強さで、ことたりるとおもう。

強く。強く。
言葉の力を。
それは、心の力なのだけれど。

言葉尻を強くする、ではありませんよ笑

こういう、やさしい人を見つけた。
僕だったら「学校というシステム」の問題にしてしまうのを、個人レベルで対応するように、手を差し伸べる人。やさしいな。

発達段階を理解することで、無用な怒りに触れなくてもすむかもしれない。

ーーーーーーー

ものを落とす1歳児に悪意はあるか。

「なんだこれ」とおもって、ひっぱっただけだ。
それが落ちて、それがどうなるか。
その重さは?落としたら壊れる?そもそも、落とす?
それをみた人が、どうおもうか。

見知らぬ「ものを落とす」ことに対しては、見当がついていなかっただろう。
それくらい、大人が見たら、「いや、それ、落とす?」というものを、落とした。
落としたのではなく、

ひっぱったら、落ちた。
というのが、彼の目線だろう。

子どもに悪意はあるか。
僕には「ない」と思っている。
全部、養育者を真似した結果か、防衛機構の一部として働いているとおもう。
「悪態をついて、欲しいものを得る」心
「悪態をつくことで、コミュニケーションをとる」心。

心で関わろうとするとき、どうか、怒りが、やさしさに包まれますように。

オトノネひろげるシェアぼたん