環境と遺伝と自己(もしくは意志・人格)

意志(人格)は遺伝子にとっては環境と同じみたいだ。

とふとおもう。

意志(自己)が遺伝子のお世話をする、とおもったら、人は誰でも、自分という子どもを育てているのかもしれない。

遺伝とか、エピジェネティクスとか、人体のしくみを学ぶと、「私」というものは「遺伝子」にとっては他者のようなものだと、おもえた。

遺伝子が僕らの人格(意思決定装置)をつくる反面、私たちも民主的に、遺伝子と関わることができる。

ーーーーーーー

こういうファンタジー、虚構、物語の世界を書き下したらおもしろいかも。

「生きるための生物」
「生きるための数学」

生きるためシリーズ。

ーーーーーー

神経細胞の発火の仕方は遺伝子レベルで決まっているんだろうか。
神経細胞もDNAをもっているのだから、脳のはたらきを遺伝子で説明することだってできるだろう(まだ詳しく分かっていないらしい)。
脳は情報を記憶するのと同様に、環境に応答するやり方も記憶している。

脳に対して、遺伝子と意志は対等だろうか。

人間づきあいを変えるのも大変かもしれないが、遺伝子づきあいを変えていくこと、再構成していくことも、大変だとおもう。

遺伝子にも自分にも「OK!」を出したら、もうすこし生きやすくなるんだろうか。

とふとおもう。

ーーーーーー

そんなことを考えたりしないでも生きられるのだろうに。

ねぇ、デオキシリボ核酸くん。

オトノネひろげるシェアぼたん

【大人の宿題】「愛」を学ぶ心の屋根裏部屋otonone-オトノネ-

カウンセリングルームでもつくろうかなとおもってきた。

そんなお話。

ーーーーーーーーー

お母さんが学ばないといけない理由は何度か記事にしてきたがもう一度。。

一人の人間を尊重するというのは、「人間」を尊重するのであって、「人間」でなければ尊重する必要はない(機械を尊重する必要はないのと同様)。
ただ、うまい具合に対処するだけだ。(日本は、そういう国だ。もう認めるしかない。)
考えること、感じることができない、目の前の子どもが見えていない人に子どものことを考えろ!感じろ!といっても無理なのだ。

だから、

学校の先生に何をっても、無理なのだ。
保育園の先生に、何を言っても、無理なのだ。

と割り切ってしまったほうが、自分自身の成長が望める。子どもにもプラスだ。
(「学び」の回路が閉じた人と関わってもなにも学べない)

そのくらい、「人間」らしさのない人間が多い世の中だ。
そんな「人間」が希少なこの世の中で、富山県で、子育てしているお母さんがいる。

本当に、大変なことだとおもう。

さて、僕にできることはなんだろう。
オトノネで試したいことはなんだろう。

大人の宿題のお手伝いかなーとおもっている。(大人は子供に宿題を出すが、子どもも、大人に宿題をだしている)
子育てのパートナーとして。

それは僕のお母さん自身が一人で、孤独で、悩みながら、狂いながら、僕を育ててくれたことに対する、僕なりの、なにがしかなようにおもっている。

子どもを塾に行かせるだけで子どもがしあわせになることはほとんど望めない。
お母さんが学ばないと、子どもはしあわせになれない。
そんな時代になってしまった。お母さんは、「ビジネスの原理」からの暴力のなかで、暮らしているからだ。
お母さんが自分を守る術を、学んだほうがいい。

しわよせは子どもにいく。

==============

お母さんに自覚的になってほしいことは次の二点。

どんな人になってほしいか。
お守り

そのためにどんな関わり合いをするか。
愛とは何か?

子育ては、この二点。
「自然」に任せていたら、「命」の輝きがが消されてしまう時代だから。
不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えー『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』
好きなことをして学ぶ。遊びながら学ぶ。子どもの自然な姿。
脳は断捨離する。そして自然のあるところに知恵は生まれる。

心に留めておいたほうがいい。

呪いのかかった暴力の支配する世界で、お守りと、愛がなかったら、子どもを魔王の世界に丁稚奉公させることになる。

つまるところ、自分自身を、子どもを、人間として尊重しているか、人間としてつきあっているか、というお話。

ーーーーーーーーーーー

第一段階は、「どんな人になってほしいか」という願い。
何を子どもに望むか。でもいい。
「何も望んでいません。この子の自由で」という言葉が返ってきたら、違和感を覚えるかもしれない。
「いい親」を演じているだけかどうか、それこそ、僕はちゃんと判断するだろう。
そのために、「自由とはなんですか?」と聞くだろう。
おそらく抽象的な答えが返ってくるだろう。
それを僕は具体化してもらう。
今現実の話をしてもらう。
「どんなときに、子供を心から褒めたか。感動したか」をはなしてくれたらいい。

目の前の「困りごと」はひとつのきっかけ。
「どんな人になってほしいか」を言葉にして出していくプロセスが必要な人もいれば、すでに答えを出せている人がいる。
対話をしながら、屋根裏部屋に閉じ込められた心の大事な部分を見つけていってもいい。

具体的なエピソードを語る。
子どものエピソードではなく、お母さんのエピソードを話してくれてもいい。
(というかお母さん自身が「生きる」価値を、よろこびを、積極的に捉えているかどうか、ただ擦り切れていくだけの暮らしをしているのかが、子どもにも影響している。人は人から学ぶ。お母さんの価値観がそのまま子どもに伝わると考えるのが自然だ)

言葉がでてこないなら、自分を感じる時間が、体験がプロセスを動かすきっかけになるだろう。
そのための「しかけ」をおとのねさんは考える。

=============

多くのお母さんたちの心は不安や恐怖でいっぱいになっていて、子どもの姿や自分の気持ちがわかっていない。
自分の不安を直視せずに、とにかく子どもを使って自分の不安を消そうとする。

「塾」に行かせて終わりのパターンだ。
第一段階でつまずく人は多い。

自分を騙している、自己欺瞞の程度が強いほど、心は落ち着かない。
どれだけ自分が自分の気持ちを隠蔽しているのか(政治家や企業がよくやる隠蔽よりも大切なことだ)。
どれだけ押しつぶされて「生き延びて」きたか。

そういう自覚のある人であれば、第一段階はとりあえず、終わっているといえる。

============

第二段階は、現実的な話であるがゆえに、また別の困難さがある。
時間もお金も有限だ。

大切なものを守るために何をどうするのか。
いままで作り上げていきた自分自身の「伝統」をどう作り変えていくか。

変えていくか。

それこそ、成績が上がらないといって地団駄を踏んでいる子ども(実際は成績など大して気にしていないのだが)と変わらない。

変えていくための、現実との折り合いのつけ方を学ぶ。
その過程で、「お守り」も変わっていくかもしれない。

ーーーー

オトノネに長く、深く、関わってくれているお母さんの話を聞くと、親子関係がよくなった、子どもがすくすくと成長しているのを感じてうれしくなったらしい。
それが、僕が子どもに言う言葉を家でも使ってくれているらしい笑

言葉は心。

お母さんが子どもから学べるなら、それが一番いい。
子どもをちゃんとみられるなら、オトノネで変化する、もしくはオトノネで見せる子どもの様子をきちんと見つけられるお母さんなら、それで十分だ。

けどそれができないお母さんもいる。
そういうお母さんは、塾の代用としてオトノネを使っている。
笑うということがない。

===========

本当に変えたい人でないと、オトノネを使うことはできない。
「定期テスト対策」が好きな人、「宿題をやらなきゃいけない」と思っている人に、オトノネは合わない。

そんな風に、僕は思った。

自覚がない、堕ちきっていない人は、まずちゃんと、ボロボロにならないといけない。
それが、「大人の宿題」の基礎だ。


ボロボロになってから、オトノネに来てください。

僕自身がそうでした。きっと人間、そんなものなんだろうとおもっています。
ドラッカーが言う通り、自分を知ることが、マネジメントの基本だ。

家、家族をマネジメントするために、「大人の宿題」をきちんと認識してみてほしい。
その上で「質問」をしてほしい。

子どもの人生を変えたいなら、親の人生を変えるといい。
それが嫌で、無い物ねだりをして「塾」に甘えて子どもを強制収用するから、子どもはかわいそうだ。
そういう暴力的なお母さんが、たくさんいる。

ーーーーーー

ただ、ボロボロにならなくても済んでしまうようなさまざまな仕掛けを、文化は用意しているから、本当に日本は魔界そのものだとおもう笑

「甘え」の関係は、創造的であると同時に、破壊的だ。
「分別」とは、人間の理性とは、どちらに転ぶかわからない綱渡りを無事に終え、子どものように笑いながら死んでいくために、使うといいのかもしれない。

ねぇ、そうでしょう、ツァラツストラ。

オトノネひろげるシェアぼたん

【ビジネスの原理】情を売る。

愛を売る、と言われて思いつくのはホストとかキャバクラとかいう夜のお仕事だったりなんだり。

塾も学校も愛を売っているケースがある。

いやいや、愛は残念ながらスキルなので売れない。
愛とは何か?

情のエネルギーを注ぎ込む「型」になんと名前をつけたらいいのか、考えてみよう。

ーーーーー

塾にいる「やさしい」先生。
通学中にお腹が痛くなって迎えに来てくれる先生。
頑張って進級「させて」くれる先生。

どれも、「愛情」のあるいい先生のように思える。
行為レベルでは。

ーーーーー

言語レベルではどうだろう。
「やさしーくしていないと生徒はやめていくから甘やかす」
「迎えに行かないと学校何してんだと言われるし、生徒からもなんで来てくれなかったのかといわれるから行く」
「教育委員会からの評価も下がるし、親への対応もめんどくさいから進級させる」

これはどんな「情」からくるのだろうか。

ーーーーー

学校も塾も、情を売るサービスだといえるだろうか。
安心を売る塾。
卒業資格を売る学校。

「立場」や「役」をどう考えるか。
塾や学校は「安心を売る」「卒業資格を売る」ことで立場を守っている。
そのために「やさしい」とか「迎えに行く」とか「進級させる」という役を担う。

それが、ビジネスの原理。

僕にはどういうわけか、塾や学校がキャバクラやホストクラブと同じように思える。
愛のない情の世界で、子どもたちは、今日もスマホを手に、レバニラを探して歩いているのかもしれない。

レバニラかとおもって注文したら、ニラしか入っていないのが、「自然」な世の中になってしまった。
「レバニラ」を頼んだら、「ニラ」がでてくることに、違和感がなくなってしまった。
「ご注文の、レバニラです!」「え?レバーは入っていないんですか?」「え?入っていますよ?これが、レバニラです!」
そうして、「ニラ」を「レバニラ」と呼ぶようになった。

ビジネスの原理から子どもをどう守るか。
お母さんが、ビジネスとして子供を育てていたなら、もう、ニラばかりで、子どもは別の進化を遂げ始めている。

と、僕は感じている。

レバーのない世界で、子どもたちは、新しい生き方を、探し始めている。
レバーを諦める人もいる。
レバーを探す人もいる。

二つの文化が、お互いにお互いを尊重できるなら、いいのであるが。
2つの文化

愛は、情ではない。

オトノネひろげるシェアぼたん

2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

お母さんから相談があった。

お母さんは悩んでいるらしい。
お父さんは悩んでいないらしい。
子どもが学校で先生にいじめられている件について。

もしかしたらお母さんは県外出身かもしれない(まだきいていない)。
お父さんは、富山県の人だろう笑

いやいや、お父さんはなぜか子どもの事情に口を出すことがすくない印象を受けるこの頃。

男と女、でもいいし、学校と家、でもいい。
まったく違う文化があったときに。

その二つの文化が摩擦を生み出しているときに。
どうするか。

ーー

インドネシアのスラウェシ島で聞いた話。

「村には村の儀式がある」
「結婚するときも違うしきたりがあって、島が違えば、儀式も違う」

え?じゃぁ、別の村、地域、島の人同士が結婚するときって、どうするの?
と僕は聞いた。

「どっちもやる」

が答えでした笑

ーーーーー

もちろんこれは儀式であって、行為、振る舞いを変えて二度結婚式をするようなもの。
それで、「よし」なのだ笑

どちらか一方に染まる必要はない。
優劣はない。
二つの文化の思いを背負った二人の人間のための、またその二人を見守る二つの文化への敬意だ。

ーーーーー

郷に入れば郷に従え、という言葉が、日本にはある。
なるほど、例えば最近、日本にやってくる外国からくる観光客の素行が問題となっているらしいが。
(温泉の入り方とか、道にゴミ巻いて行くとか、食べ歩くとか、、いろんなレベルがあるが)

「郷に入れば業に従え」笑というやり方は、日本のどんな精神文化を表しているのだろう。

人間疎外、全体主義の国といっていいんだろうか。
「うちの会社に入ったんだから、従え」
「学校に来たんだから、従え」
「うちの子に生まれたのだから、従え」

人と人のコミュニケーションが、人と人の学びが、そこには生じない。
人間疎外。

そうして、「従って」自己疎外が始まる。


これは人と人の境界線を越えて精神を犯してくる暴力、ナルシシズムとみることもできる。
他者を自分の(じぶんたちの)一部だとみなすこの文化は、ナルシシズムだと僕はおもっている。

集団的なナルシシズム。
凶悪だ。

========

「従え」という言葉は使わないが、常日頃の日常会話の中で、振る舞いの中で、子どもを「従え」ているナルシシストなお母さんがいる。

例えば。

「支援級に行ったら、子どもはお嫁にいけなくなる」といって普通級に止まらせて勉強についていけないと悩んでいるお母さんがいる。
しかも「普通級にいるのは子どもの意思だ」という。

これが自己欺瞞であり、子どもから大事な子ども時代を搾取していても気がつかず、親が子どもを人間として疎外している例だ。
(将来が不安だから勉強「させて」いい大学に「行かせ」るために塾に「行かせる」のと同じで凶悪だ)

他にもいろいろなパターンがある。

欺瞞に満ちた多くのお母さんは「子どもの意思を尊重している」といって、自分に対する欺瞞を認めない(欺瞞とはそういうものだ)。

他者を欺き、自己も欺き、子どもも欺く。

なんのためか。

目的はない。

狂っているだけだ。

しかもその、自覚がない。
ナルシシストとは、そういうものだ。

========

さて、2つの文化の話に戻しましょう笑

ーーーー

例えば。

お母さんは「宿題はやらなくちゃだめ」といっている。
お父さんは「宿題をやらなくてもいい」と言っている。
そういう家庭を想像してみよう。

学校では「それはダメだ」と言われ、家では「それはイイよ」という状況を想像してみよう。

9歳を過ぎていたら、それを疑問に思うだろう。
「へ?どっちだよ!」

その二つの文化、二つの考え方に対して、自分はどう関わって行くのか。
どう「理解」をしていくのか。

「解釈」していくのか。

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
8歳、9歳は、大切な時期ですーファンタジーと現実のあいだ
【8才からの内言】自立心と感情のコントロールと思春期
学童期に大切な「学び」を保障する場所。

一方の文化を尊重し、もう一方の文化も尊重し、お互いの考えを知ること。
(学校の考えは学校が教えてくれることがないので聞かなくてもいいが、結局は「学校のため」であるから別に聞く意味もないだろうが)
どちらも「大切」なら、両方受け入れてもいい。

両方受け入れられるような心をつくるしくみ、やりかた、振る舞いを学んでいけばいい。
板挟みになって、自分の心が擦り切れてしまう、隠蔽してしまうのが、欺瞞が、一番、ダメダメなパターン。

自分を大事にできなかったら、他の人を本当に大事にすることなんて、できないから。

どうしようもない狂人、魔王は実在する。
その人たちの「文化」とは別に、自分の「文化」を守ろう(破壊しにやってくるから、守ろう)というのが、オトノネのスタイルです。

学校というナルシシズム組織から、子供の心を守りましょう。
子どもから子ども時代を搾取する組織から、子どもの心を守りましょう。

と、おとのねさんは、おもいましたとさ。

オトノネひろげるシェアぼたん

まだまだ小学生。思春期はいつ来るのかな?来るのかな?笑

実話。

「オトノネにきて、感じたことは?」と、
オトノネに通うかどうかまだ迷っている子に聞いた。
「えっと、本がいっぱいある」
「他には?」
「教室が普通の家」
「笑他には?」
「自由」
「爆他には?」
以下略。

マルバツをつけてほしいのか?笑
一問一答型の、富山県の高校入試の問題形式がそのまま思考パタンになったかのような、穴埋めしたら済むような、やりとり。

いやいや、ちょっと・・・君は、人間だよ?

「いま答えてくれたことは、他の人でも感じられたよね。君じゃなかったら感じられないことは?」
こうして、やっと僕が聞きたかった返事を聞くことができた。

中学生である。
小学生ではない。
だが、小学生だ。
いつまでたっても、小学生。
【ずっと小学生その2】学校に魔王がたくさんいるのはなぜか。

どうしてこのようなやりとりになるのか。
質問の仕方が悪かった、ということもあるかもしれない。

「自分を出す」恐れがあったのかもしれない。
「自分の感情を出す」経験がなかったのかもしれない。

お母さんのこの子への関わり方を見ると、合点がつく。
この子は、感情を殺して生きている。
感情を殺さなければ、親子関係を結べない、と、この子は判断したのだ。
実際、そうなのだろうと、僕は感じた。

「自分殺し」がごくごく当たり前の世界。
政治がどうこう、という話は、まず、親子関係が支配的でないかどうか、子どもの自由を、個人としての人格をどれだけ認めているのか。選挙以前の、基本的人権の問題である。

多くのお母さん、お父さんは、ごくごく、当たり前に、子どもの心に傷を追わせ、子供の魂を毎日毎日、黙らせ、殴り殺している。
当の本人は、親は、それに気がついていないことが、あまりにも、多い。

自由という、権利がある。
だがその権利を使えないなら、守らないなら、ないのと同然だ。

この子は、無事に、思春期を迎えらるだろうか。
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
【中学生】思春期前か、思春期中か。とにかく最後の子ども時代。何をして過ごすか。
【思春期】は2歳のウハウハ期(イヤイヤ期)と似ている気がする。
思春期とは何か
【思春期】の課題は【幼少期】とは違うというお話。
【第一思春期】子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。【性格の強み】
大人にとっても大切な「ファンタジー」と思春期。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。
思春期と中学校と高校の違いと子どもの可能性と個別化と。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。
女性のメタ認知と【思春期】とライフステージ。ビジネスの原理と子育ての原理が乖離している世界で
【何のために子どもを育てるか】第二次思春期に社会化しないまま会社人になった人が孤独のスパイラルを生む可能性について。

何かのきっかけで、親を離れた時に、どうか、自由に生きてほしいとおもう。

この子は、「学習」する以前に、苦しんでいる。
勉強をしたくないのに、無理やり、やらされている。
でないと、親子関係を生き残れないと、判断したのだ。

子どもは、親に気を使っている。
思春期前までは!

カモン思春期!
けどそれも、自然に来るわけではない。
思春期を迎えられるように、きちんとなんとか育てていかないと、、、、人格も個性も薄っぺらくなる。

こういうお母さん、お父さんが、大人の宿題にも取り組めるのが、オトノネです。
子供だけにやらせるなんて、不公平だ!笑
大人の宿題

オトノネひろげるシェアぼたん

悲劇の舞台の上で踊る子どもたち

「学」という言葉が今の僕のテーマになっている。
人はなぜ学べないのか。
なぜ学ぼうとしないのか。
何が学びを阻害しているのか。
学べぬ人は、一生学べぬのか。

悪意と、どう関わればい良いのか。
悪意に満ちたこの世の中で。

「学び」が抑圧され、無視され、奪われ、殺されていくこの日本で。
「学び」が閉じ込められ、轡をはめられ、縛られている、この日本で。

ただただ、みんな、呑み込まれるのを、待っているのだ。
(飲み込まれるまで、踊るしかないのだろうか?せめて、この悲劇の中で与えられた、小さな小さな自分の場面だけは、自分を生きようと。

なぜ大川小学校だけが大惨事となったのか
大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
多くの児童らが犠牲に…大川小・遺族と卒業生が語る「失われた命の意味」

隠蔽、欺瞞、立場、ドロドロ。闇。別に悲観することでもない、これが事実。悪意。ショッカー。魔王。
そして会社によくあるパターン。
忙しく働いて、お金を稼いで、子供の魂を守れるかどうか。
習い事にいかせて、テスト勉強をさせて、子供の魂を守れるのか。


これは、学校だけの話ではない。
家庭でも同じだ。
会社でも同じだ。

「なぜ、18年間、逃げなかったのか」
「なぜ、過労死するまでやめられなかったのか」
「学校に行きたくない」という声
児童虐待・家庭内暴力・モラハラ・アル中の悲劇。あまりにも複層的な物語

「なぜ50分間逃げなかったのか」は明らかにならず 遺族が憤る大川小検証委・中間報告の内容
「山へ逃げよう」の大川小児童証言は“精査中”!? 教員の会話は「検証委とりまとめ案」に盛り込まれず
『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』大川小学校の悲劇。あまりにも複層的な物語

大川小訴訟 「なぜ我が子が死ななくてはいけなかったのか」 その一点を求めて

オトノネひろげるシェアぼたん

【花火大会】お餅を食べて、学んだこと。学ぶよろこび。食べるよろこび。

もちを初めて、食べた。
今度オトノネで餅つきをするというので実験をすることになって、作って食べた。

もち米を入れたら、機会が最後まで作ってくれる笑

で、最後に、、食べる、、、、

DSC_1050

なんだこれは!?

丸い塊になった餅を人差し指と親指の間でひねってとる。
なんだこの感触は。
柔らかさ、温かさ、そしてこれまでに体験しない餅と重力との対話。
それから口に持って行く前に、きな粉をつける。
なんだこの感触は。(硬い餅にきな粉をかけて食べたことしかない。)
口に入れるまでの経路は例えばおにぎりをたべるときとは違う。
なんだこの感覚は。
それから歯を噛み合わせる。
なんだこの感触は。
なんだこのあたたかさは。
やわらかさは。
そしてこの味は。

これはもう、神経細胞の花火大会だ。

「もちとはなんぞや」と問いかけるわけでもない。
ただ「もち」を経験するところに喜びを感じる。
喜びを学習する。

よろこびを、学ぶ。

オトノネで、学ぶ。

オトノネは、人間の価値を、大切にしたいとおもっています。

——

新しい言葉、あたらしい世界観、新しい「知」、新しい体験の価値はなんだろうか。
テストで点数をとることであろうか。
まさか。

ただ、この「価値」の問いの答えによって、その人の心がわかるように、僕は思う。

毎日世界がキラキラ輝いて見えていたときのことを、僕たちは思い出せるだろうか。

かつて僕らは歩くことそれ自体に喜びを感じていた。
地面から「やわらかさ」や「あたたかさ」「かたさ」や「つめたさ」を感じて花火大会をしていた。
地面から受けるその感触を受けて、対話をしていた。

それがいつのまにか、対話をやめて、ただただ、地面を歩くための場所、モノ、目的のための手段にしてしまった。
地面の気持ちなど、「今日の地面」などどうでもよくなってしまった。
地面との楽しいおしゃべりをやめてしまった、

のだろうか。

心次第では、歩くだけでも、人はしあわせになれるのかもしれない。
ただただ明けて暮らすだけでも、人はしあわせになれるのかもしれない。

たぶん、そうなんだろう。

と、できたてのおもちを食べておもった。

硬くなって、焼くだけのインスタントなお餅しか食べられない子どもは、今日も穴埋め問題プリントをやったり、ノートの穴を埋めたりしているんだろう。
本当のお餅、生きているお餅、重力と対話するお餅笑の喜びを知らずに。本当の学びの、喜びをしらずに。

なんてまぁ、貧しい国なんだろう。

ーーーーーー

グーグル社が作り上げたマインドフルネスは「ストレス社会」で「ストレス」を少なくするために開発されたスキルだ。

「ストレス社会」の中で、マインドフルネスをメタスキルとして使えば、心のあり方として使うならば、「ストレス社会」自体が、消えてなくなるのかもしれない。

「ストレス社会」は実在しない。
ただ心のあり方が、「ストレス社会」を作り出しているとおもえば、本当に、、、心が大事なのだとおもう。

ーーーーーーーー

それにしても、餅コメを入れたらつくところまでやってくれる機械をつくるのは、日本人らしいというのか。
機械をつくって、機会を使う時間を失ったのも、日本人らしいというか。

機械を使おう!
機会をつくろう!

というわけで、月一回はモチフェスをしたいなとおもっています^^

オトノネひろげるシェアぼたん

【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

自信がなくても幸せになれる心理学
『自信がなくても幸せになれる心理学』和田 秀樹

コフートという心理学者はそれ以前のフロイトの「自我」ではなく、「自己愛」もしくは「自己」という新しい言葉で人間を理解しようとしました。フロイトの考えた「自我」という言葉は、「自分の問題は自分の内部で、一人で解決する。自我を自分で鍛える」という背景をもっています。けれどもコフートは「人一人の問題は、どうやら一人では解決できなさそうだ。足りない部分をを他者で充実させよう」という背景を持った言葉を必要としたのです。心理学の人間観を変えるために、言葉を新しく作ったのです。「自我」は他者とは離れた心の内部にあるもの、「自己」は他者が触れられる、まさに他者が関係できるもの、と理解していいとおもいます。

コフートは、人間の行動のすべての原点は「自己愛」にあると考えました。人間とは「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義したのです。(略)実際、本書を読んでいただければわかるとおり、人が喜んだり、安心を感じたりするのは、この「自己愛」が満たされた時だと言い換えられます。逆に、人が落ち込んだり怒ったりするのは、「自己愛」を傷つけられた時です。(p.14)

コフートは「自己」という言葉とともに「自己対象」という言葉をつくりました。「自己」が「自己愛」を満たすための対象のことです。単純に言えば、甘えられる、認めてくれる相手のことです。

従来は

自己の充実=自分を鍛える(自力)

でしたが、

自己の充実=自己対象をもつ(他力)

ということに視点をかえました。
(もちろん、他力を発揮するための自力の部分は必要ですよ!)

コフートは、「甘え上手になりましょう」「頼りになりそうな人を見極める力をつけましょう」ということを提唱したのです。(p.19)

「自己の充実」とは、他者に支えてもらうために「他者を心理的にうまく頼る能力を高めよう」「他者とうまくつきあう能力を高めよう」というものです。(p.68)

人を頼りにするというと、依存である!とおもえるかもしれません。たしかに「よろしからぬ依存」はあるでしょう。ですがコフートは「健全な依存」を目指します。

ーーー

ここで僕は行為レベルと言葉レベルでの「依存」の区別をしたいとおもいます。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。
例えば「忙しいから代わりにやって!」とか、自分の代わりに誰かに手伝ってもらう、利用することは行為レベルです。
それはそれでいいでしょう。関係性があって、の話であれば。(もしくはそれがきっかけになって、関係性ができるのであれば)
ですが大切なことは言葉レベルでの「依存」だとおもいます。
相談する、素直に話す、悩みを、離す。
話をしながら、自己愛を充たしていく。
心が、大事にされる。

この境界線をいくのが、いわゆる「夜のお仕事」の現場でしょう。
ですが大抵、どちらかに分類できます。

最近の言葉で言えば、doingかbeingかということです。
言葉は両方に使われます。
抱きしめるという非言語でも、言葉レベルの関係はもちろん可能です。
そうすると、行為レベルと言語レベルという言葉は不適切かもしれません笑

ーーーーー

コフートは、自分を愛するために、誰かに頼ることを「よし」とします。
「人間、生きているだけで誰かの迷惑になる。気にすることはない。大丈夫だよ」と僕も誰かに言われた記憶があります笑

迷惑になるから、もしくはプライベートが他人に漏らされてゴシップになる、という恐れから、言語レベルで他者と関われない、つまり自己対象を喪失している人がいます。日本の地域社会では恨みと妬みと虚栄となにやらわけのわからないものが渦巻きがちで、なるほど、うまく自己対象をみつけられないかもしれないな、というのが私の直感ですが。

ーーーーー

自分を愛せない人に、他人を愛することはできません。コフートが「自己愛」を否定しないのは、こういったことにも起因します。要するに、「自己愛」が悪いのではなく、「自分勝手」が悪いのです。迷惑をかけたくないが故にカラに閉じこもってしまう人などは、その意思に反して、場合によってはむしろ「自分勝手」な人だということすらできます。(p.29)

コフートは人間を「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義しましたね。
なので、誰かの自己愛を充たせるようになったら、自分の自己愛も充たしていい(みたしてもらう)ことは「よし」だし、誰かに自己愛を充たしてもらったら、その人の自己愛も充たしてあげることは、とても「自然」である、ということです。

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

=====

ここで利己的な人間のことを思い出してみよう。
もらえるだけもらって、返さない・・・・
「いい人」「誰かの自己愛を充たす人」が、「我慢」をしていたら・・・・
病気になる人もいるでしょう。
「我慢」をしなくても、例えば「ありがとう」の一言で自己愛を満たせる人は、病気にはならないでしょう。関係の作り方、心のあり方は、人それぞれですね。

give and take

という言葉があります。

win winという言葉もあります。

アメリカのネィティブインディアンの世界では、
give away
という言葉があります。与え尽くす、という関係です。

健全な依存関係とはなんでしょうか?

「健全な依存関係を築けることが、成熟した人間の証である」(p.32)

健全な依存関係とはなんでしょうか?
give and takeの世界でしょうか?
give awayの世界でしょうか?
(もしくはtake away?????)

コフートは、何よりも人間の主観を大切にするという考え方をしますから、「やったほうが得だから、頑張ろう」という発想も肯定します。つまり、損得を考えて行動したとしても、コフートはそれを責めません。他の誰でもなく、自分自身が満足していなければ、人に親切にすることもできません。あなたが満足するためには、時には損得で動くことだってある。そう考えるのが、コフート流です。程度問題はあるでしょうが、頭が回ってつい損得勘定をしてしまう人も、そう気に止むことはないのです。(p.32)

つきつめれば、「この人嫌だな」とおもったら、関係をつくらなくてもいいということでしょう。
誰にでも親切に、などというのは菩薩にお願いしましょう笑

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
それがgive and takeでもgive awayでもいい(take awayでもいい???)。心に素直にしたがってみる。まずは、関わってみる。

そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。
コドモとして未成熟なオトナ

「自己愛」とはいってもそれぞれにレベルがあって、そこにはいびつな自己愛と、成熟した自己愛があるとしました。自分さえ良ければいいと相手を見下すような態度をとったり、人をバカにしたりすうるのは、いびつな自己愛によるものです。たとえば、「お前は浮気をしているだろう」などといいがかりをつけて妻を殴る夫は、「自分だけを愛して欲しい」「殴って自分だけスッキリしたい」という勝手ばかりで、妻には何も与えていません。そこにあるのは、いびつな自己愛だけです。(p.67)

子育てはどうなるだろううか。
お母さんの愛情は無償だとかいう言葉があるけれど。。。それは「自然」ではないでしょう。

母親は子供からちゃんと愛や喜びを受け取っているのです。子どもの笑顔や喜んでくれる姿があるからこそ、母親は大変な子育てをどうにかこうにか頑張っているのであって、決して一方的な関係ではありません。その少雨子に、やっぱり子供が扱いにくかったりきむずかしかったり、または自分になかなか懐いて狂えないと言った子があれば、いくら母親でも、ついついムッとしてしまう場面もあるわけですお母さんだって人間なのですから、当然のことです。(p.76)

お母さんが来ても反応しない、笑わない子がいます。

愛着理論の研究をするとよくよく観察されるケースです。
そういう子は、先天的に表情が読み取るのが苦手といった条件で生まれてきている可能性の他に、お母さんと関わっても何ももらえないし、逆に悪いものをもらうから、顔もみたくない、という状況を表しているときもあります。

ーーーーー

「まさかその一言でそうなるとは・・・」という事態があるでしょう。
「そんなはずでは・・・」ということも、よくあることかもしれません。

「役」や「立場」を超えて人間関係をつくることが異常に難しげな文化をもつ日本。

「自己愛」をみたそうとしていろいろなことを喋ったり、誘ったりすると、相手が予期せぬ反応をすることがある。
「ラインの番号、教えてくれない?」「いやだ」
「付き合ってくれない?」「いやだ」
「ご飯食べにいこうよー」「いやだ」
「ねぇねぇ・・・」「・・・」(そっけなさすぎですね笑)

こういう答えが返ってきて傷つくということは、話者同士にまだそこまで関係ができていない、という教訓としてうけとるといいかもしれません。(親子関係がこれだとひどいことになりそうです)

ここで相手を理解する、「共感」するということが大切になってきます。
「なんで嫌だっていうの!」と腹を立てていたら、、、、アレレです笑

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

「いやだ」という言葉のオトノネを感じれるかどうか。
感じられるなら、「そうだよね!じゃぁ別の人誘おう!」とか、「じゃぁ今日は一人でご飯食べるか!」ということにいなって心の健康が保たれる。

相手の状態を推し量って理解して認める。
相手のことだから本当かどうかはわからない。
だがとにかく他者の心はわからない。
わからないものをどうしようもない。
「どうしたの?」と聞いてみるのもいいが、そういう関係かどうか。

・・・・・

「健全な依存」に至るまでのプロセスは長い。
これを子ども時代に学んでおいたら、またそれなりの人生があるのだろう。

自分の感情を知り、相手の感情を知り、ただただそれを見つめてみること。
「しょうがない」ことは「しょうがない」と諦めるプロセスを踏むこと。
「それでも!」と思う気持ちがあるなら、、、、それで人がどう反応するか、やってみること。

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。

お子さんとこういう関わり合いをしてきましたか?

============

「悲劇の人」という言葉をコフートはつくりました。

「悲劇の人」は、成長のプロセスをふまずに、少しずつ「自己愛」の充たし方を、人間関係の方法を学ばずに。一気に「自己愛」を満たそうとする人のことです。「○○があったら」とか「○○したら」、自分は変わる、幸せになる、満たされると勘違いしている人のことです。「白馬の王子様が来てくれたら、私は幸せになれる!」と思っていたり、「お金があれば私は幸せになれる!」と思っている人です。

「子どもが○○になったら」と考えているお父さんお母さんは「悲劇の人」です。

もしも、あなたの周りにそういう人がいたとしたら、できる範囲でグチを聞いてあげてもいし、どこかしらほめてあげてもいい。少しでも、あなたにできるう範囲の安心感を与えて認めてあげることが、彼らを少しずつ変えていくことになるのです。そうすれば、認めてもらった、ほめてもらったと感じた人の「足りない部分」が少し埋まります。埋まってくると、心にも余裕ができてきます。すると、性格も穏やかになってきます。となれば、ほかにもその人と話してみよう、話してみたいと思う人がでてきます。恋人ができる可能性も上がってきます。こうして他者が介入する方法で、人は変わっていけると、コフートは考えたのです。

コフートは、「運」がなかった人たち、すなわち「悲劇の人」たちの治療として、「かつて満たされなかった感情を、もう一度、治療者との間で満たしてあげる」ことで、彼らを救おうと考えました。さらにその治療は、医師でなくてもできるといいいました。いったいどんな治療なのでしょうか。(p.35)

ーーーー

自己の充実のために満たしてあげるといい大切なものは、「認められること」「褒められること」だといいます。
いってしまえば、赤ちゃんがハイハイしたり、二本足で立ち上がったりしたときにみんなが「きゃー!すごいすごい!」とかいうあれでしょうか。

褒められると気持ちが変わる。
楽になる。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

世の中にでまわっている「誉め殺し」では逆に「なんだよ、嘘くさい」と感じてしまう人もいるでしょう。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

褒める、ということをこうとらえてもいいかもしれません。

「本当は自分ってよくがんばったな、とおもうけど、自分で自分を認めてやれない。そんな時に、誰かが、自分が出せない自分の代わりに、褒めてくれる」ことで、自分が自分を認められるようになるのだと。

「ねぇねぇ!みてみて!」といって、自分がつくったものをみてほしい。
自分が「やったったぞ!」という感情をきちんと感じたい。
どんな言葉で自分を認めたらいいのかわからない。

どう感じていいかわからない、けど興奮している。「この気持ちって、なんなんだろう!?」
そこで、子どもはお母さんに「みてみて!」とか「きいてきいて!」という。

ただ、一緒に感じてあげたらいい。
「よくつくったね。うれしいんだね。」
にっこり笑ってあげたら、子ども自分の笑顔をしっかり感じることができるだろう。

ーーーー

世界を知るための言語も同じ。
「青」という言葉をどうやって学んだだろうか。
「青」という言葉の中で、誰かと「青」という言葉を共有して初めて「青」を感じられるようになる。

「よろこび」も。
「かなしみ」も。

言葉を与えることで、「青」を眺めることができる。
「よろこび」を感じることができる。

そこには、生まれたから始まり指差しで開花する言葉の習得と似ている。
「この感情は、何ていうの?どうしたらいいの?」
「泣いていいんだよ」「笑っていいんだよ」「それは悲しいってことなんだよ」「それは嬉しいってことなんだよ」

ーーー

こうして「自分を愛する(自分を大切にする)」ことが「他者を愛する(他者を大切にする)」ことを通じなければ為されないことだと、子供は理解するかもしれません。
また、「自分を愛する」ために必要な他者は、誰でもいいわけではない、ということも学ぶでしょう。

あきらめず、いろんな人に声をかけ通づけていれば、必ず、「お前のこと、よくわかるよ」と言ってくれる人物は現れます。「わかってくれる人」というのは、頼れる人の第一条件です。まずは、「わかってくれる人」を探しましょう。もちろん、自分が行動しなければ、そんな人が現れることもありませんから、そこは自分で頑張らねばなりません。ここは重要なポイントです。(略)たとえそれがインターネットのなかであったとしても、自分と似たような感覚をもつ人や頼りになる人に出会えたなら、私たちの心はずっと楽になります。その出会いは、あなたを変えるきっかけにもなるでしょう。頼れる人、あなたを「わかってくれる」人とのコミュニケーションを通じて、あなたのいい部分が引き出され、「どうせ私なんてダメだから」といったネガティブな部分がなりをひそめていくことが期待できます。(p.40)

人付き合いが狭い範囲に限られてしまうと、かなり窮屈を感じてしまうでしょう。
「立場」や「役」にがんじがらめの人間関係の中では、「わかってくれる人」と出会うのは難しいかもしれません。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
そこで、歩き回る、探しにいくというのもいいし、ネットをつかってもいい。

とにかく、人に出会うこと。
人は、一人では変われない。
人は、一人では豊かに生きられない。

そういう前提が、コフートの心理学にはある。

例えばライブ会場。
同じアイドルが好きな人たちが集まる、というだけでも、人は居心地の良さを感じる。
アイドルに会いたいからいくのはもちろんだが、同じ人を、同じグループを好きな人がいる、ということも、ライブの本質ではないでしょうか。「カッコイイよね!わかるわかる!」という言葉を介さなくても、ライブ会場にいるというだけで、「共感」の空間にいられる。そういう魅力があって、若い子たちはアイドルのライブに夢中になっているような気もします笑

ポイントは、等身大の自分を認めてくれる人がいるかどうか、です。(p.43)

=======

人と出会う、認めてくれる人を探すということを難しい!と感じる人もいるでしょう。
狭い人間関係の中で、立場と役の縛りの中でしか人と付き合えなかったなら、なおさらです。
(本当は、学校や地域でそういう人と出会うのがいいのですが、そうならないのが現実です。学校も立場主義ですから)
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

「私には無理・・・」とそこで諦めるのか。
「ちょっと、やってみようかな」とおもえるのか。

コフートの出した答えを使うか使わないかは、その人次第です。
オトノネで一緒に初めてみませんか?

おそらくお子さんの方が早く変わるでしょう。
お子さんが変化するのをみて、お母さんが変わる、というのが、通常のプロセスです。

お子さんとオトノネの関係から、学んでみてほしいとおもいます。

========

日本では名の知れた心理学者にアドラーがいる。アドラートの違いから、コフートの考え方を理解してみよう、と和田秀樹さんはいいます。

アドラーの考え方というのは、このように「目的論」ですから、「いつも目的をちゃんともち、また目的に対する解決方法をフレキシブルに変えていくことで、人間というのはいくらでも変わることができる」と考えた、と要約できるでしょう。

例えばここに、一人の不良少年がいたとします。治療者が彼の話を深く掘り下げて聞いていくと、過去に「親に愛されなかったと判明し、それが彼がグレた理由だと見えてくる。これが、フロイト流の考え方でしたね。対してアドラーは、勉強で認められず劣等感を抱えた少年には、「勉強で認められない代わりに悪いことをして認められよう」という「目的」があるのだ、としました。ですから、「こんな悪いことをしやがって」と周囲が騒ぎ立ててしまうと、それは不良少年の目的を満たすことになるため余計に悪いことをするようになる、と考えます。では、アドラーは、その不良少年をどうしたらいいとかんがえたのでしょうか?

みなさんは、『あしたのジョー』という漫画をご存知でしょうか。ドヤ街をうろついていた一人の不良少年が、ボクシングと出会い、最強のボクシングチャンピョンと試合をするまでに成長するお話です。アドラーは、この漫画の主人公である矢吹丈(ジョー)のように、「不良少年として目立つ」という目的ではなくて、「ボクシングチャンピョンになって目立つ」という目的をもったらいいじゃないか、と考えるわけです。つまり、悪いとされる目的を、別のいい目的にすり替えるのです。目的が変われば行動も変わるわけですから、必然、不良少年として悪行を重ねることもなくなります。

これがコフートなら、「その少年には愛情が足りていないから、周囲が愛情をもって接していこう」という考え方になります。

『あしたのジョー』でいえば、プロモーターとしてジョーをさまざまなかたちで支えるとともに、ひそかにジョーに好意を持ち続ける財閥令嬢、白木葉子といった役割でしょうか。もちろん、この白木葉子だけではなく、ボクシングの師匠である丹下段平をはじめ、多くの下町の人たちに支えられ、応援されたからこそ、ジョーは「下町の星」として、ボクサーの道を進んでいくことができたわけです。これが、コフート流の解釈です。

「原因」に働きかけるのがフロイトだとすれば、「結果」に働きかけるのがアドラーですから、「矢吹丈という不良少年にボクシングを教える」というのがアドラー流の解決法であり、ジョーがボクサーとして正しい道を歩み始めたなら、過去に親の愛情を受けずに施設に育ったことや不良少年であったことなど、もうどうでもいいことだ、ということになりますう。一方、コフートはそれでよしとはしません。あくまでもジョーの孤独な心を支え、愛情をかけ、いってみればジョーを内側から治療しよううとします。(p.59)

人は一人一人違っていて、心の健康度、心の強さ、心の習慣も違います。
コフートの考え方は、一番根源的であって、母性的であって、平和チックでしょう。「弱くてもいい」、それでも幸せになれると。
アドラーの考え方は、ある程度自己が確立していて、心のインフラができている人には向いているかもしれません。父性的
(こういう分け方もよろしからぬ時代になっていますが・・・)であり、「自分を高めていく」ことで得られるしあわせがあるのでしょう。

この両方が、成長のプロセスで一人の人間の中で回るなら、それがいいのかも知れません。
「目的」だけを追求することは、ある意味で、「孤独」になるかもわからない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)
「目的」を追求するうことに夢中になって、サイコパスになるかもしれない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)

「孤独だっていいじゃないか」という強さがある人は、アドラー流で考えてもいい。
だがその時に必要になる「共同体感覚」はどうやって手に入れるのか???この本では詳しく書かれていないが、それこそコフートの基礎があってのアドラーということはできないだろうか。子どものときの宿題をやったら、大人の宿題ができる。順序があべこべの人もいるが。。

「自分は自分だ」と思えるようになるためにも、コフートの考え方は、助けになるのではないかとおもいます。

ーーーーーー

人によっては、「目的を持つ」ことに高いハードルを感じる人がいるでしょう。
がんじがらめになって自分の命のエネルギーを感じられない人がいます。
「立場」や「役」の世界にどっぷり浸かって、自分を感じられない人がいます。

そういう人たちには、フロイトのやったように「原因」をまずは事実として受け入れてから、コフートのいうように、まずは少しずつ「自己」を満たしてゆき、最後になにか「目的」と出会えたなら、アドラー流でいく、というプロセスを辿るとよいのかもしれません。

お母さんたちにもいろいろな人がいます。
心の段階もひとそれぞれです。

お子さんも、ひとりひとり違います。

ビリギャルのさやかさんは「目的」と同時に、坪田先生という「わかってくれる人」と出会いました。
なによりも、「わかってくれる」お母さんがいました。
ただ「いい先生」と出会えなかっただけで、不良?になっていたのでした。
学校で劣等生のレッテルを貼られていたわけですから・・・

大抵のお子さんは、コフート流の関わり合いを必要としていると私は感じています。

お子さんには「今」何が大切なのか、オトノネにきて、感じてみませんか。

アドラーとコフートでは、同じ「共感」という手段にしても、その目的は似て非なるところがありました。先ほども述べたように、アドラーは「相手の目的を知る」ために共感し、目的を達成されるう解決方法を提示してあげる、いわyる「勇気付け」を行い、コフートは「相手の心理ニーズを理解する」ために共感し、相手が不安ならそばにいてあげるし、ほめてほしいのであればほめてあげるわけです。いうなれば、アドラーは人間の本質的な「強さ」を信じた人。そして、コフートは人間の「弱さ」を肯定し、包みこもうとした人、です。(p.70)

========

コフートのいう「自己の充実」のための心理的ニーズは3つしかないそうです。

鏡自己対象ニーズ
 自分が褒めて欲しい、認めてほしいポイントを押さえてくれていて、心理ニーズを満たしてくれる対象

理想化自己対象
 「この人は頼りになる」「この人がいればなんとかなる」「この人がいるから大丈夫だ」と思える対象
 
双子自己対象
 自分によく似た存在がいるうということで安心感、ちょっとした一体感を感じる対象

面白いことに、相互に凸凹でも、同時に自他が心理的ニーズを満たすことができる、ということです。

相互依存関係について、私はよく、こんな例え話をします。クラスにすごい秀才と、その秀才にいつもノートを借りてばかりの劣等生がいます。周囲の学生たちは、その劣等生のことを、「あいつはあの秀才のおかげで進級腕きてるよな」とか、「人に頼ってばかりで、ダメなやつだよね」なんて噂していました。そんななか、等のレッウ統制がみんなの前で、秀才に向かってこんなことを言います。

「真面目にとったノートを教えもなく貸してくれるなんて、お前みたいな性格のいいやつ、見たことないよ!」と。

秀才の誉れ高いその学生にとって、「成績がいいよね」「秀才だよね」なんていわれることに、たいした感動はありません。自分でもわかっていることだからです。しかし、この劣等生はみんなの前で、自分の「性格」をほめてくれた!いわゆる「ガリ勉」の彼は、どこか周囲の学生から嫌煙されることも多く、この劣等生の言葉は最大級に嬉しいものでした。隠して劣等生の一言によって、秀才である彼の「自己愛」は満たされ、二人の間には立派な「相互依存」の関係が気づかれたのです。(p.87)


関係において、どちらか一方が、というわけではない。
お互いにその場にいたり、何らかの行為や言葉を交換する、時間を共にする、その価値を交換できる。
能力の差があっても、give and take、自己の満たし合いはできる。

そのために必要なのは、正直に思ったことを話すこともそうだけど、、
やはり共感能力ではないだろうか。
「この人、どんな気持ちなのかな、僕にノートを見せてくれるその関係を、どうやって続けていけるかな。。。気持ちよく、この関係を続けたい。。。」

「共感」とは、相手の立場に立って物事を考えたり、想像してみることです。なぜ共感することが大切か?それは、共感することで、初めて見えてくるものがあるからです。あなたの周りの人を参考に、相手の立場にたって、「この人は、何をいわれたら嬉しいのだろか?」と、改めて考えて見ましょう。(略)相手が「本当は私は、自分のこういうところに中うう目してほしいんだけどな」と思っている、そのニーズをおさえることが重要なのです。相手が「認められたいとおもっているポイント」を見つけて、認めてあげるのです。(p.84)


共感するとは、自分があげたいものではなく、相手がほしいものを感じること、
自分の感情ではなく、相手の感情を汲み取ることです。

言葉だけではなく、行動でも、共感できます。
「ご飯でも食べに行こうか」「ドライブしようか」「飲みに行くか」

ナースコールを押しまくる患者さんがいたとする。コフートならどうするか?

おばあさんにナースコールを押させているのは、「不安」です。不安は、消えるまで人につきまといます。身体の不自由なお年寄りや病気をしたお年寄りが慣れない環境におかれれば、その不安は察するにあまりあるでしょう。不安が消えない限り、おばあさんはナースコールを鳴らし続けることになります。したがってこの場合は、「無視せず徹底的に対応すること」がコフート流の対応方法であり、それは実際、医療現場の正解です。(p.125)

相手の心を理解する、共感する、オトノネに耳を傾けるということ。

子どもであれば、例えば「勉強できない」というおもいから、なかなか宿題をしてこなかったり、スムーズに進まないことがあるでしょう。それでも時間をかけて、少しずつ、自信をつけて行く。「大丈夫だ」と思えるまで、付き合う。

そういう時間が、大切だということでしょう。

ーーーーーーー

この共感の能力を最大限に利用して人を恐怖に陥れるサイコパスという存在もいる笑

相手に気持ちのいいことをしてもらっているなら、当然こっちも、気持ちの良さを返す。
利己的かもしれないが、自己愛をみたすということは、お互いのニーズを満たし合うということなのだろう。

この考えが凝り固まると、「立場」や「役」というものが現れてくるかもしれません。
「あなたは私にこうすることになっている!」「わたしはこうしてるのに、あなたはしてくれない!」

そんな時は?
それこそ人間関係、崩れたり、ひっついたり、いろんなことがあっていいと思います。
離れて見て、お互いに気がつくこともあるでしょう。

別の対象を見つけてもいいでしょう。
大切な人であれば、相手のニーズに耳を傾けてもいいでしょう。
成長を願うからこそ、離れることもあるでしょう。
と、私はおもうのです。

が、

だが!

だがしかし!

コフートはその点、一貫しています笑

仮に他人に甘えすぎたり、自分のことばかり考えたりするような人がいたら、その人は周囲から好かれるでしょうか?難しいですね。だから注意が必要です。自分の満たされない気持ちを自分勝手なやり方で相手に埋めてもらおうとすれば、それこそストーカーとか、そういうことになってしまいます。

コフートは、人に好かれないとか、自己愛が満たされていないとか、そういったうまく「相互依存」ができていない状態のときに、人は不安定になるのだと言います。「俺は誰にも認めてもらえていない」「誰も私のことなんて好きじゃない」、誰でもそんな気分位なってしまうことはありますが、そう思っている時、私たちは自分で自分を大切に思うこともできず、不安定な状態になってしまいます。いわずもがな、四六時中そんな思いに囚われている人は、四六時中不安定ということになります。

対して、「愛情を十分に受けている人は、心が安定していて、必要以上に甘えよう、愛情を得ようという考えにはいたらない」とするのが、コフートの人間観です。(p.102)

つまり、「甘え方」「相互依存の上手な仕方」がわからないのだから、存分に甘えてみないと治らない。心が安定するまで、甘えることだと、言っているようですが????いいの???

甘えてくる人を甘やかすなんて、まさに「猫に鰹節」じゃないかともいえます。でもコフートは、「甘えてくるということは、すなわち自己愛が満たされていない状態なので、もう少し愛情を与えることで均衡のとれた状態に戻すことができる」、と考えるのです。(p.104)

この時、「甘えさせてるよ!」と親が思っていても、子どもが「甘えられていない」、子どもの心が「安定」していないのなら、「甘えが足りない」と、コフートは判断する。

一貫している笑

「親である私は愛情をかけているうつもりだ」では足りず、「子ども自身が愛情をかけられているとわかるように」接することが必要です。これがうまくいかないと、例に挙げた二人のよううに、「勉強ができなければ愛されない」とか、「顔がキレイだから愛されるんだ」という人げられない気持ちを生んでしまい、それが歪んだ価値観にまで繋がってしまいうるわけです。(p.107)

こうして、「健全な自信」をもった子どもは、競争で一番になれなくても、お金がなくても、うまく自己主張ができなくても、満足感を持った人間でいられる、のだそうです。

だが!!!だがしかし!

大切な人なら「甘やかせつくす」のもありかもしれないが、全くの他人の「悲劇の人」出会った場合は???

とりあえずいやな人と絵あった時に「ああ、この人はかわいそうな人なんだ」と思えばいい、ということです。(p.132)

もし大切に思う人であれば、話を聞いたり、共感したり、ほめてみることで心理的ニーズ、自己愛を満たすのでしたね。
素の自分を認めてもらえずに着飾っている人には、素の部分を認めるような関わりを。

何かが変化したら、、たぶん、その人はそれに気づいてほしいのかもしれない。
こうして、関わり合いは、続く・・・

========

心理的ニーズは3つあった。
そのうち「双子自己対象」ニーズはまだ登場していない笑

こんなところにでてきています。

コフートの場合は、叱るのではなく、「こういうミスってやりがちだよな。俺も若い頃はよくやらかしたもんだよ」とか、「次からはこういうふうににゃってみような」というように、相手の「双子」感を引き出しつつ正して行く、というやり方をします。(p.143)

お互いに、自己愛を満たし合いながら生きている人間同士、なかよくやる作法がある。
コフートは、3つの心理的ニーズという言葉で、その作法を教えてくれている。

オトノネひろげるシェアぼたん

【メタスキル 】すべてをこなすことはできない。

今、この時代を生きる人にとって大切なことはなんだろか。

自分のものとして、自分の人生を生きること。

だと思う。

与えられるものではなく、自分が感じて、自分が意欲して、自分が欲して得るもの。
たとえそれが「欲しない」ということだとしても。
それ自体、欲しなくては得られない心のしくみなのだから。

そのためのメタスキル (感情知性といってもいい)には、「自分の痛みを自分のものとして認めて、自分で処理する。対処法を生み出して行く」ことがあるだろう。

ーーーーー

学校ではあれもこれも教わる。
というか、目の前にチラチラ入ってくる。
それこそテストは「全教科」やらなきゃいけない。
「やらなきゃいけないの?????」

それを「やること」として当たり前のように「自然」にやってきてダメになる子がおおい。
ひとりひとりの能力、関心、適性が違うにも関わらず、中学校になっても、高校になっても、同じやり方をする。

アホか、とおもう。
事実、学校は、アホなのだ。
狂っている。

「いやいやそうではないですよ」といっても、救いにならない。
データをだそうか???
その一言で終わる。
何が終わるかって、、、、話が通じない「魔王」だということがわかって、話が、終わる笑

AIだから、話ができないのだ。

ーーーーー

で、オトノネは「お勉強」を「心を守る」練習としてとらえている。
自分で選ぶ。
自分で責任を持つ。

その練習を、一人では難しいから、おとのねさんと一緒にやる。

「自分の気持ちを大切にする」ことが大切だとおもう。
勉強したくないならしなくていいと僕はいう。
「ただこのスピードだとあれだね、間に合わないねーどうするー???」という。

あせらない。
あせらせない。

あせらせていいことない笑
作業だったら焦っていいけど笑

ーーーー

高校入試は全教科まんべんなく出る。

それで塾ならば「全教科やらなきゃですね」とかいってお金を巻き上げて結局なんにもならずに終わる。

そんなビジネスであり「魔王」が塾には住んでいる。

そもそもが全部やろうとするからダメなのだ。

ーーーーーーー

点数が伸びない、成績が伸びない。。。

なんで????

いやいや好きな教科ひとつ伸びないんだったら何ものびないでしょう。
ということで好きな教科ひとつを極める中で、他の教科にも使えるメタスキルを育てる。

目の前の定期テストに追われていたらそんなことはできない。
捨てるしかない。

手離すしかない。

不安で手離せないなら・・・まぁそのまま進んでみなよ。というしかない。
僕の人生ではないから。

ーーーーーーー

与えられた課題を全て処理しなくてはいけないとうAI化の呪いを解かなくては、始まらない。
それこそAIとして与えられる仕事を放棄しなければ、人間にはなれない。

では、いつ始まるのか?

無料面談と有料体験の間で「気づいた」人は、オトノネで初めてください。
気づけなかった人は、気づけるまではじめられません。気づいてから、オトノネに来てください。

もっというなら、勉強よりも大切なことに、気づいてほしいのだけれど。
最低限、「塾」を諦めてから、オトノネにくると、とてもスムーズです。

オトノネひろげるシェアぼたん

躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』カール・ハインツ ブリッシュ

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ
『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』カール・ハインツ ブリッシュ

躾と気締めである。

しつけは身の美しさであって、けじめは気を締めること。だということにしておこう。

けじめをつけることの大切さを感じる。

自由、自由というが、そこで自分の気をコントロールできるかどうか。

たくさんあそんだ!それから次の行動に移っていく。

解放させた気を締めること。


それがケジメ。

もしくは如何にコントロールしながら、解放するか。


それがケジメ

「じぶんひとりなら」ダダ漏れしていた気を、その状況に応じて、調節すること。
それもケジメだ。
(家の外では出せない気を家の中で出していて、お母さんが怒る、という笑い話もある。外では出せないから、家の中で出しているのだ。例えばそれが「怠け癖」だとしたら・・・家の外でケジメをつけすぎていて、疲れているのかもしれない。)

気分が暗い時、暗い気持ちにけじめをつけて楽しいことをしてみること。楽しい気分でいるときに「あ、けどこれもやらなくちゃいけなかった」とか。当然といえば当然のこと。

しつけといって仕舞えば、「いい子」になることのように聞こえるが、けじめといえば「自律した子」のように聞こえる。しつけという言葉には、支配的な、文化的な響きがある。

ーーーーーー

ケジメは、感情をコントロールすることだ。
感情をうまく使っていくことだ。

0歳の時から、このケジメは始まる。
泣いている赤ちゃんに「声をかけてから」ミルクの準備をする。
それを続けただけでも、「声をかける」ことで赤ちゃんは安心して、泣くのをやめるようになるかもしれない。
気を締める。

心は、0歳のときから、作られる。

少なくとも、感情を押しとどめる、「いい子」でいることはケジメではない。
それは気詰まりであり、息苦しさだ。(破裂するまで、しばらく辛いだろう)

ーーーーー

少し大きくなって、「褒める」ことばかりをしていると、何も考えない、できないと癇癪を起こす子になる。
「褒める」といいという定期テスト対策的子育てが流行っているらしいが、僕は全くオススメしない。
「与える」にしても同じだ。「なんだこんなもの」と大人が思い買って与えるだけでも、子どもにとっては「もの」ではなく、泣いたら、駄々をこねたら与えられるのだという現象を学ぶことになる。

ケジメは、いいこと、わるいことを教えることではない。
感情をコントロールできる、大丈夫だ、僕は一人でも大丈夫だ、という自立心と自信をもつこと。

これが、ケジメの目標だとおもう。

ケジメができていないと、将来どんなに生きづらくなるか。

ケジメは、押さえつけることではない。
自由を、使いこなすことだ。
自由を使いこなし、大切な人、大切なものを守るためのものだ。

ーーーーーー

しつけという言葉は、子供をペットにしかねない。
ケジメ、という言葉をつかってほしい。

子供の気持ちを、どんなエネルギーに変えたらいいのか?
それもケジメのひとつ。

「学校でこんなことがあったの・・・」
こんなことを質問されたら、どう答えるだろうか?

まだ気が締まらない(どうやって気を整えたらいいかわからない)状況を、心が処理するしくみをつくること。
これもケジメをつけることだ。
ただただ押さえつけることではない。

「気にしなくて大丈夫だよ」というか。
「それは先生にいわないとね!」というか。
そのお母さんの言葉の感情が、その子にも伝わるだろう。

「どうしたかったの?」
「何を感じたの?」と、問いかけて、子供の頭の中で、心で、もう一度整理する時間をつくってあげることを、僕はオススメするけれど。

一人では難しい、心のプロセスを、手伝ってくれる人に出会った子どもは、しあわせだ。

ーーーーーーーーー

子供の未成熟さが、弱い子供、弱い大人をつくりだす。過保護が、子供を未熟にする。引きこもり、いじめ、8050問題、DVや暴力、ストーカーなどの社会現象の根源は、親の過保護にあり、親が過保護にならざるをえない社会の不安にある。人を愛せない、共感できない、相手のことを考えられないなど、多くの政治的社会的に高い地位にある大人たちも未熟な状態であるために、日本は混乱している。児童虐待もDVも不登校も、政治的な混乱もなくならないのは、過保護を引き起こす社会不安によるものだ。恥や罪の意識は子供にも伝わります。

子育ては、親育てでもあります。
子どもからたくさん学んでください。
お母さんが子供時代にやれなかった宿題を、子供にやらせずに、自分でやってみてください。
お子さんと同時に、お母さんの宿題のお手伝いも、オトノネはしたいとおもっています。
わかっているお母さんもいるとおもいます。
でもどうしていいかわからない・・・
お子さんに、お母さんやお父さんの心の未熟な部分を押し付けないですむ方法を、一緒に考えましょう。というか実践していきましょう。
怒りや不満、不安や悲しみを子供に押し付けてしまっていませんか。
僕もまだまだ未熟さをかかえたまま、前にすすんでいます。

大丈夫です。

「知る」ということだけでも変わるかもしれません。
お子さんの成長をみながら、「感じる」ことで変わるかもしれません。
そのプロセスはわかりません。
だから一緒に、はじめてみませんか。

いつまでも誰かにえらいえらいと言われていなければ心を保てない子、実力がないのに偽りの賞賛を与えられてきた子、本当の自分を隠してきた子。思春期に、悩まなかった子。悩むことを許されなかった子。自立した人間として向かい合ってくれる大人に出会えなかった子。「ノー」と言えない子。挫折・失敗に弱い子。病んだエネルギーは、誰に向かうのか?自分の心身症になる人もいれば、他者に対する暴力というかたちをとる人もいる。DVに気づかないお母さん、児童虐待に気づかないお母さんもいる。アルコール依存症、セックス依存症は、「もう自分ではどうしようもない」無気力、無力感の叫びだと、僕は思っています。

===========

オウム真理教を覚えていますか。
知っていますか。

「娘を教団に取られた」というお母さんが記者会見をしたときに、その娘さんが「お前たちは帰れ!私たちの邪魔をするな!」みたいなこと(すみません正確にセリフは覚えておらず、ただ自分のことを「私たち」と呼び、母を「お前たち」と呼んだということです)を言ったという。

よくある話で、教団に入って洗脳されてしまうような子に、子どもが育ったことに、お母さんが気がついていないのだ。

お母さんのせい、ではない。
といえるかもしれない。
この社会が悪いのだと。

では、子育てとはなんだろうか????

心から笑いあえる時間を大切にすること、といってもいいかもしれない。

ーーーーーーーー

過保護とか、虐待とか、小さな暴力が当たり前の世の中になっている。
大人の世界がそうだから、子供の世界もそうなる。

大きくなってからの「治療法」をみると、、、やっぱり、鏡になって、向かい合ってくれるもう一人の自分との出会いなのだとおもう。(その関係が、医者とかカウンセラーでなかったのなら、一方的な関係は、続かないだろうが。。。)

アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ

この本には「生まれる前から」「生まれた後も」妊娠・出産・子育ての段階でそれぞれ親の宿題に親が取り組む実践(ということは、親以外の人も取り組むということ)を書いている。
基本、話す、心から話すような状況をつくる、、ということなのだが(だいたいオトノネも同じことをしている)、話すだけに限らない。行動しながら、変わっていく。

この本は過保護だめよーというやつ。治療法とかは抽象的すぎてわかりにくい。

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん