【魔法の使い方】『ふらいんぐうぃっち』

『ふらいんぐうぃっち』

日常。
暮らし。

魔法は?

魔法使いって、どんなひと?

物語を見ていくうちに、このアニメから伝わってくるものが、はっきり感じられるようになってくる。

魔法が使える人がでてくる物語で、ドンパチやるアニメもある。
魔法が使える人がでてきて、こんなにも、日常を見せてくれると、魔法の部分が、鮮やかに、彩られる。

魔法って、なんだろう。

リッチネス。

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おとのねさんの人となりと言葉について

おとのねさんはいろんな言葉を使う。

カウンセリングっぽいとき
「教える」とき
ブログかくとき
買い物するとき
面談のとき
だれか一人だけいるとき
複数いるとき
おなかすいているとき
ねむたいとき
子どもと遊んでいるとき
youtubeの動画にコメントするとき
Facebookに投稿するとき
「いいお母さん」を演じているお母さんと話すとき
心を開いている人と話すとき
(面談の時、一瞬、怖いイメージをもった、という人がいる。多分僕が瞬間的に「どんな言葉をつかったらいいんだろうかな」と考えていて真顔になっていたのかもしれない笑物腰、言葉遣い、表情、素ぶり、ひとつひとつが僕が言葉を選ぶ要素になる。頭おかしくなる。)

誰に話すか、どんな状況で話すか、そういう条件がひとつ違えば、雰囲気も変わる。(変わらない人もいるだろうが)
(このブログは僕のメモがわりに書いているものであって、決して読みやすく書いてはいない。多少は、配慮しているが笑)

場所が違えば文化も違う。
僕はそこになんとなく合わせているのか、変わってしまう。

たとえば、ウラとオモテで、オトノネの雰囲気は変わったとおもう。(問い合わせのおフォームとかないからね!ウラだからね!屋根裏部屋!)

どちらもオトノネです。
どれもぜんぶ、おとのねさんです。

よ!

人間だもの

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オトノネで、オトノネに、耳をすませてみる。

人にはウラとオモテ、というか、いろんな「自分」がいて一人の人間がつくられている。と考えてみよう。

家では家での作法があり、習慣があり、「家」という場所でつくられた自己がでてくる。
ピリピリしてしまう、怒ってしまう、苛立ってしまう。
大人が「家」という場所で経験して来た記憶が無意識のうちに再生されていることもあれば、
会社や学校でかかえたストレスを処理しきれずに出してしまうこともあるだろう。

同様にして、会社では会社の作法が、学校では学校での作法がある。
そこでも与えられた「立場」のなかで行儀よく振る舞うことを要求されて心がすり減るような感覚に苦しんでいるかもしれない。
苦しい、とまではいかなくても、本来の心の感覚、素直に感る心をそのままオモテだって出せない閉塞感を感じているかもしれない。
(大抵狂っており暴力が横行している)学校や会社で最適化された自己が、学校や会社では立ち現れてくる。

学校、会社、家、、、そのどこにもでてこれない、でてこない「自分」がいたとしたら?
自己疎外という言葉は、こういう文脈から生まれてくる。

ーーーーー

餅つきをしながら、遊びながら、みんなで何も考えずにご飯を食べて過ごす中で、オトノネで「いつもはでてこない自分」がでてきていることを感じたという感想を、何人かの人からもらった。僕にとってもオトノネは「いつもはだせない自分」が出せる場所であって、来てくれている人たちも同じように感じてくれたことに驚いて、うれしくもおもう。

オモテで頑張っている自分がいる一方で、ウラにもちゃんと自分がいて、いろんなことを感じているのだから。
どちらも大切な自分であって、心で繋がっているのだから。
心を大事にするというのは、自分を大事にするということだとおもう。
僕は、オトノネで、その練習をしているのだとおもった。

オトノネに、耳をすませてみませんか。

——

学校という場所の排他性
図書館という場所の排他性

図書館は「だれでもきていい」ことになっているが、ほんとうに「だれでもこられる」デザインになっているのか。
学校は「だれでも学べる」ことになっているが、ほんとうに「だれでも学べる」デザインになっているのか。

これはひきこもり不登校だけに限った者ではない。
自己疎外は人間疎外の社会から生まれる。

差別はいたるところにある。
富山県の内申点の配点の異常な高さ。
支援級、障害、発達障害に対する疎外感。
テストと先生への従順度一辺倒の評価。
差別は、人間疎外は、システムとして、社会に当たり前のように、ごくごく自然に、組み込まれている。
富山県立高校入試の内申点の配点が異常に高いことを知っておくと後悔しないかも。

内申書のために、部長をする。
内申書のために、いい子になる。
内申書のために、やりたいことを我慢する。
内申書のために、薬を飲んで学校に行く。
内申書のために、先生の理不尽をあまんじて受け取る。
内申書のために、、、、心をすり減らす。

上司からの評価のために、、
親からの評価のために、、
姑からの評価のために、、、
隣近所からの評価のために、、、

自己疎外は人間疎外の社会から生まれる。

オトノネに遊びにきてください^^

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オトノネとおとのねさんの関係

今でも覚えている。ある日突然、英語の辞書を引いているとき、手が止まった。窓際の、教室の真ん中くらいの席だった。私は鉛筆を置き、立ち止まった。私は「無意味さ」「生きる意味」を考えることになった。それを書き連ねて今もどこかにデータとして残されている膨大な文字たちのほとんどは、命という現象がただ私の中で鈍く輝いていることを表しているにすぎなかった。と、少したってから気がついた。「生きる無意味さ」と「死ぬ無意味さ」のなかで生きているのか死んでいるのかわからない妄想の世界をしばらくの間、とぼとぼと歩いていた。私はある時ふと、何かの拍子で「生きるというのはただの現象なのだ」という言葉でそれを理解した。生きるとはなんであろうか?それはただ火が燃えているのと同じ、現象なのだ。どうして火は燃えるのか、という問いの答えの果てにあるものは、宇宙である。夜、空を見上げれば天上に見える、星空は、宇宙である。私は宇宙の中でただただその光が消えるまで燃えているだけなのだったと、私は突然、感じられるようになったのである。

私は「意味」を探していた。けどその答えは、私の探していた場所には見つからず、突然どこからかふっと湧いてきたのか、わからない。とにかくやってきた。やってきた言葉を育てて、自分サイズにしていくのに、またまだ時間がかかりそうだ。命という現象を、身体化することに、私はだいぶ手間取っている。

「どうして生きるのか」「生きる意味とはなにか」「生きる価値とはなにか」という問いの答えが全くの死角から、世界のどこからかわからぬ場所からやってきた。同じような問いを、今度はされる側になってみよう。「どうして人を殺したらいけないの?」と子どもに聞かれたら僕はなんと答えるだろうか。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いが発せられる現象が表しているものは何か、という問いの方が、大切なのではないかと私はおもう。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いを子供の心に生み出した社会のあり方、人間関係、子ども時代が、この問いを生み出した。「どうして人を殺したらいけないの?」という問いに「人は一人では…」とか「自己は他者がいるから…」などと回答することは、不安げに差し出された眼差しに、平手打ちを食らわせるようなものだ。この問いを、言葉を、心を、すくい上げて目の前に見せてくれたその子の魂を抱きしめる他に、何ができるだろうか。

このように考えられるようになったのも、言葉の背景にある心の存在、言葉に含有されない心の不思議さを僕が知ることになったからだともう。僕がかつてそうであったように、言葉の背景にある心の世界を感じられない人がたくさんいる。僕がかつてそうであったように。みんなそのうち気づけるかな、とおもうこともできるが、どうやら、死ぬまで気づけなさそうな人たちがたくさんいるのだと、最近になって思い始めた。子どもたちが、そのおかげで苦しんでいる。心が擦り切れている。平手打ちを食らわされている。僕に何ができるだろうか?心を失った親から離れられない子どもに?学校で暴力を受けている子どもに?

そこで僕は思う。何かできるか、と思うことが、厚かましいのではないか。子どもは子どもで、生きている。僕は僕の命を輝かせればいい。生きるという現象を、強めていけばいい。風除けが必要なくらい小さな火だったのが、強くなって、山火事くらいになったら、みんなの命も燃え始めるかもしれない。今はそうおもって、薪を集めているところだと、自分で言い聞かせている。だがそれは自分の無力さを、小ささを隠すための私の心の弱さだった。自己欺瞞であった。

僕は小さい。小さいなりに音を出していこう。それが私にとっての、オトノネである。
オトノネという実験劇場で、僕はぼくなりに、しばらくやってみようとおもう。

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