心療内科に行く前に:医療の現場も【テスト対策】!?その薬、飲んで大丈夫?

こういう話を聞いて、怒りを感じてしまう。
けど怒っても、何もいいことがない。。。。
別のチカラにしよう。

だからぼくはオトノネをはじめたのかな。

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ある子が。

ある子が。

心身症で困っている。

その子は、薬を飲んでいる。
医者にかかって、薬を処方してもらえる。

テスト対策のように、その場で、手軽に、症状をなんとかしようとしたい気持ちはわかる。

けどその副作用の甚大さと、「症状」がでてくる心のしくみの深さを考えれば。

心身症を薬でなんとかしようというのは、よほどの決断でなければできない、とぼくはおもう。

副作用によって、大切な心を自分で守っていくチカラが奪われる可能性がある。
副作用で「別の体調不良」になり、それをさらに調整する元気も心にないとしたら。。悪循環だ。
そのリスクを背負ってまで、薬を処方する、薬を飲む価値があるのか(もちろん、危機的状況を脱するために、飲むこともあるかもしれないが、常用するのは。。。)。

クスリで活かされる魂もあれば、クスリで殺される魂もある。

結局、心次第。

学校教員が宗教団体で救いを求める時代、クスリなしでは生きていけない日常だとしたら、どんなにそれが不健康な状態なのか。

どうしたらいいのか。

その答えとして「クスリ」を安易に選んではいないか。

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短期的な救いのために、必要な応急処置があります。
例えば発展途上国で食糧難に陥っている人にとって、とにかくすぐに食料を渡すことが必要です。
一方で、持続的に、自給的に食料を手に入れられるようになる仕組みは?時間がかかります。ですが、自立して、自分の力で
短期的な食料供給(定期テスト対策)に頼らずに自分で自分の身を守るライフライン(恒久的な自己管理システム)をつくることが、オトノネの仕事です。

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医者は心身症を、心を理解しているんだろうか?
医者も点数稼ぎで忙しくて、心をみる余裕がないんだろうか。

体が出している自然な痛み、問いかけを受け取らずに、薬で抑圧していいのか。
抑圧しなくては生きられない心と体。
生きるってそんなもんだっけ。
痛みは、身体からの、無意識からの、心からのメッセージであって、別に薬を飲むことが悪いことではない。
そのメッセージを受け取った上で、「じゃぁ、ちょっと今は、待って。準備ができたら、君を救いにゆくよ、準備ができたら」といえるか。

そのうち良くなるさ、と受け身になっていないか。
仕方がないんだ、と諦めていないか。

学校の先生は学校の先生という立場でやらなきゃいけない業務がある。
医者先生も医者という立場上、何かしないとその後クレームが来るかもという不安もある。
それぞれが、お互いの都合で関係し合っている。

お互いの都合でだ。
だから自分の都合を、自分の目線で考えられるように、学ばなくてはいけない。
積極的自己責任を負うために。

学ぶとは、他人の都合と折り合いをつけながら(尊重しながら)、自分の人生を自分の都合で自分が生きるということかもしれない。
「先生、お言葉ですが、私はコレコレこういう理由で、このようにします」と言えばいい。

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知っている、知識としてもっていることの大切さを感じる。
と同時に、正しい知識を医者先生すらもっていないことに違和感を感じる。

アレルギーで苦しんでいる人がアレルギーに効く薬の副作用で悩んでいる。
ガンで苦しんでいる人が抗がん剤を飲んで悩んでいる。

薬をやめて食生活、運動、健康を総合的に見直すだけでアレルギーと付き合えるようになる。
薬を飲まずに、漢方にしただけで(お茶を飲んだだけで)ガンがよくなる。

そういう事実を、真実をしらずに、テスト対策でことを済ませてしまって、大丈夫だろうか。

あれ?これちがうんじゃない?と「違和感」を感じたら、学び始めよう。
大人も、子どもも、みな学ぶ過程にあるにんげんだとぼくは思う。

みんな生きるので精一杯。
医者先生も学校先生も、見る人の人数が多すぎて困っている。

だからオトノネは、完全個別にこだわっています。

医療に関する問題提起記事はこちら
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

オトノネひろげるシェアぼたん

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

学校や保育園、子どもに関わる現場の大人たちは、大変なことになっている。

で、最近も、とある保育園にいって、素晴らしい園長先生、すばらしい保育士の先生の話が聞けた。
またその先生の実際の関わり合いは、まことに、多くを学べるものであった。僕個人として。

けれども、園全体として、他の保育士さんも含めて全体を眺めると、あからさまな改善点(違和感)がいくつもでてきてしまう。
いい先生がいても、その先生の影響は小さい。
いい影響よりも、悪い影響が目立ってしまう。

だから、いい先生が組織の中で埋もれてしまう。

だから、この保育園は、この学校は、素敵だなぁ、とおもえる保育園、学校は少ない。
(そんな中、金沢の桜丘高校の生徒たちの笑顔は、忘れられない。えーなんでだろ。桜丘の倍率が高くなって、偏差値が泉丘抜いたらいいのにとおもう。それはそれで、おもしろい現象だ。偏差値は「入りにくさ」であって、「テストの点数の高さ」ではない。そこのところ、みんな勘違いしている。「点数はそんな必要ないけど、入るのが難しい」とは、つまりどういう状況か、考えてみてください^^)はい、蛇足でしたすみません。

この保育園は、この学校は、素敵だなぁ、とおもえる保育園、学校は少ない。
なぜか。

この問いに簡単に答えられるキーワードを最近、覚えたので一言で答えられます。

「学び」を学んでこなかったからです。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

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「学び」とは、協同的なものであって、一人で完結するものではない。
対話して、言葉にされて、初めて顕在化するものだ。(それを一人でやってのけるのが、研究者であると、佐藤学さんは言っておられました)
だからこそ、「学び」の成果が、多くの人が「学び」を通じて情動を共にすることで、実現する。

のだが。
「不平」「不満」「愚痴」「要求」「忍耐」が現場に溢れている。
情動を「学び」のチカラに変えることができていないのが、多くの教育・保育の現場。

なぜか。

情動の処理の仕方は社会的なものであった。
【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。
そして、社会的なものである以上、学んでいくものなのである。


そして、今の大人たちの多くが学校で学んだことが、情動を「不平」「不満」「愚痴」「要求」「忍耐」として処理することである。
情動を「学び」に変えることを学ばなかった。協同して「学ぶ」「対話する」ことを学ばなかった。

「ん?なんか変だぞ?なんだこの状況は?」ということにも気がつかない。
心が閉じてしまっている。
目の前で「飲めない牛乳」を片手に一人苦しんでいる保育園児の「心」がみえていない。
目の前で「できない宿題」をさせられている小学生の「心」が見えていない。
目の前で「死ぬか生きるか」を考えている高校生の「心」が見えていない。
「学び」の基本である「心」が、世界に向かって、他者に向かって、「心」に向かって開いていない。

だから、個人単位でいい先生がいても、組織としては、協同ができない、対話、本当のコミュニケーションができない。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。
という問いへの、僕なりの答えです。(大発見です)

これはもう負のスパイラルだ。教育の負の連鎖だ。
「学ぶ」ことを学んでいない先生から「学ぶ」ことをどうして学べるだろうか。
協同できない先生から協同を教わることがどうしてできるのだろうか。

もともと、日本の学校教育が戦後から高度経済成長時代にかけて「一部のエリートを選抜する」および「安価で指示をよく聞く労働者を大量に育てる」ために作った仕組みをそのまま今の今でも続けているという背景があります。

伝統との戦いですね。
自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

はぁ・・・・

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だからこそ、使命感をもった人が、トップダウンで一気に仕組みを変えるのがいいとおもう。
ボトムアップをしても、変わらない(先生たちが「学ぶ」ことを学びなおす時間もお金もない)とおもう。
トップダウンで衝撃を与えながら、ちゃんと「労働」から解放してあげるだけでいい。

たったこれだけでいいと、僕は思っている。
麹町も、あれ、どこぞの学校も、トップダウンから始めている。(違っていたらごめんなさい)

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多くの先生が、「進学実績(もしくは退学者)」と「長時間労働」という(生徒に自分たちが与えているのと同じ)プレッシャーに苦しんでいる。

そんな学校では、先生という仕事は、職業というか、食業(食べるという生業)であって、教育という生業ではない。と思えてしまう。先生は、労働者ではなく、保育者だし、教育者だ。刑務所の監視員でも、遊園地の託児所のスタッフでもないはずだが。

やること、やってるの?
使命感、もってるの?

やることやってるよ!
課題も宿題もちゃんと出してるよ!
絶え間なく小テストと進研模試をやらせているよ!
やってこなかったら呼び出しもしているよ!という声が聞こえてきそうだ。

(僕は、公立学校での自分の能力の限界を感じて(公立学校で、教育者として自分が責任をとれないと判断して)、おとのねをはじめましたよ)

あー、ごめんなさい、表現がトゲトゲしいですね。
寝ます。ごめんなさい。

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結局、現場のいざこざ、先生たちの「学び」を保証することが、イコール、子どもたちの「学び」を保証することだとおもえる。
だからぎゃくに、子どもたちの「学び」を保証すれば、先生の「学び」も保証できる。

だから定期テストは廃止したらいいし、無駄な行事はやめたらいいし(生徒に任せるとか)、宿題も出さなければいい。

どうしてこんな簡単なことを、やらないのか。

論理的な武装なら、オトノネさんはいくらでも手伝いますよ。

どうしてこんな簡単なことを、やらないのか。

子どもたちと一緒です。
大人も怖いんです。せっかく今まで作り上げた自分の世界が崩れるのが。

人間ですから。

(だからこそ神話の世界ではトリックスター(世界を壊し、作り直す者)がでてきます。日本でも、何人かいますね。結構たくさんいますよ。校長先生、園長先生、いかがですか?そろそろ、子どもに習って、作り終わった城を、壊しませんか?大丈夫ですよ。新しい学校をつくるだけです)

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日本が国債を返済し終わることには、教育も負の遺産を返済できているだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

対話ができない政治家。令和時代の戦争とピクニック。

政治家と話をする機会があった。
いわゆる県議員と呼ばれる人たちと話をした。

まずもって、対話ができない。
僕の質問の意味がわからないらしい。

コミュニケーション的には、相手のレベルに合わせて喋れない僕が悪いのかもしれない。
政治のレベルは、そのレベルだとわかった。
というかそのまえに威圧的な権威的なその声の響やめてほしい。
おとのねさん、そういう声、嫌いなの。体が、本当に、無理っていうの。
宗教とかセミナーとかで聞く声ですよそれ。
あなたがしているのはなにですか。
目の前に学生がいるのに、学生の声を聞かないのですか。
あなたはなんのために、だれのために政治家をしているのですか。

言葉が、その人を表す。
喋ることが、その人を表す。

授業として、「政治とはなにか」を講義してくれるはずだったのだが。
演説を聞いただけだった。

それでも世界は回っている。
それで世界は回っている。

それで、子どもたちは、狂って踊っている。
小中学校に冷房入れた?それPTAのお金でしょ?中等教育学校?お金を教育に回したくないだけでしょ?
それが、何かの、意義ある政策かどうか。

それこそ、声を聞いたらいいのに。

富山県、石川県は、全国的に、教育にお金をかけていない県です。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない)

それで、子どもたちは、狂って踊っている、ようだ。

日本は他の国から遅れて、30年前に教育を変えられなかった。
日本は100年前の教育を今でも続けている。
もう、遅れてしまった。
どうして子どもたちは狂わずにいられるのだろう?
戦地に弁当をもってピクニックをする毎日。
頭の上を砲弾がかすめる。
笑いながら、お友達とお喋り。

ある意味この状況がシュールすぎて僕としては感動するのだが。
これが多くの小中高校生の日常だと、僕は、僕は、少なからず僕は、思っている。

‹‹\(´ω` )/›› ‹‹\(  ´)/›› ‹‹\( ´ω`)/››
オモッテルー

令和時代にもう戦争は終わりにしよう。
だか、悲しいかな、子どもたちは、選ぶことを、教わらなかった。
選ぶことを、学ばなかった。

と思える。
もしくは、「忍耐」を学んだ。

自分の命にたいする責任を自ら負うこと、学ばなかった。
自分が自分でいることの価値を学べなかった。
自分の命に対する「責任」を学ぶことのできる大人がいないのだから、しようがない。
創造的に対話をしてくれる大人に学校で(ほとんど)出会えないのだから、しょうがない。

政治家のみなさん、子どもたちは、あなたの生き様を見て、なにを学びますか?
「世の中、コネと金だよ」ということを教えていませんか。ある意味事実ですが!

教えるべきことはなにですか。

子どもは何を「教わるべき」?

ある意味で、学校に行っていない子どもの方が、新しい時代の価値観をもって、新しい時代でしあわせになるチカラをもっているようにもおもえる。

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子どもの未来をつくる「学校」を新しい時代に向けて変えていこうとしない政治家は、今の日本には、必要ない。

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踊り疲れたら、おとのねにおいで。

戦争をさせられる子どもたち(学校という経験・受験という経験)

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを支払う動物か)

話し方にはいろいろある。

いろんな分類ができる。

感情レベル
認知レベル
行為レベル

例えば、幼児期の子ども

感情レベルでは、「痛かったね」「嫌だったね」「悲しかったね」「楽しいね」といった感情と言葉を結びつけることとか
認知レベルでは、「あ、ほら、あそこに何々がいるよ」とか「待っているからね、ゆっくりでいいよ」とか
行為レベルでは、「おしっこしてくる?」「ほら、カバン入れるの忘れてるよ」とか
行為レベルのほとんどが、実は子どもからの応答になることが多いのだが。。

具体例をみればわかるように、
3つを厳密には区別できないくらい、つながっている。
特に近接する感情と認知、認知と行為の言葉の繋がりは大きい。

例えば、悩める高校生の話

例えば学校ではこういうことを言われるだろう
行為レベル「これをしなさい」「あれをしなさい」「君は補習だ(来なさい)」
認知レベル「この参考書は今頃、◯周目に入っているものだ」「うちの高校は多くの優秀な人材を…」
感情レベル、思いつきません。

人によって、状況によって、どのレベルで話をしらたいいか、どのレベルなら、今、受け取れるかを、伝えられるかを考えて、僕は話のレベルを変える。
今その状況では「感情レベル」や「行為レベル」を伝えない方がいい場合が多い。
小さい子であれば、「認知レベル」での話もできない可能性がある。(話して聞かせることができても、対話ができない場合、話をせずに、非言語で関わりあうことを僕はする)

僕が喋るほとんどが「認知」レベルの話だし、このブログにつらつらと書きとどめているのも「認知」レベルの話がほとんどだ。
(そしてできるだけ「感情」レベルの内言に触れるようにしているつもりだ)

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その点、純粋な物語(教訓とかそんなものが含まれていない不思議なもの)は、どのレベルにも等距離にあって、聞く人を「誘う」だろう。
「導く」「任せる」「誘う」。ご招待。

読み手に多くのことを「誘う」。
何も感じない人には感じない。
話しての、書き手の話し方、書き方によって感じれないだけかもしれない。

「任せる」という言葉が少し消極的であるとしたら、
「誘う」は積極的な意味を含めている。

話し手は、書き手、は、「任せる」以前に「誘う」ように、話し方を、書き方を強めていったらいい。
そうすることで多くの心が動くから。

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大きなスケールで考えてみよう。

行動レベルで、視点を大きくしてみようとしてみよう。
大きな時間の中で、考えてみよう。(例を出すだけで、もちろん別の言葉を考えることもできます)
学校や保育園の先生、お父さんお母さん、いろんな人がいろんな「行動レベル」の言葉を使っていると僕はおもう。

就学以前は?子どもが小学生になって、「椅子に座っていられるように」「宿題ができるように」「一人でもできるように(自立)」
小学生は?「先生にいわれたことをするように」「テストで悪い点をとらないように」「友達とたくさん遊べるように」
高校生は?「いい大学にいけるように」「あなたは、◯◯センターに行きなさい」社会に出て、「いい会社に行けるように」「会社を選べるように」

行動レベルで触れる多くは、他者からの言葉がけであるように感じた。

認知レベルでみてみよう。
就学以前は?「」

おとのねさんは今ふとおもった。
行動レベルの言葉をマクロで考えると、どこか「目標」めいたものがでてくる。しかもそれが「子どもの心と離れている」言葉が多いようにおもえる。(僕の頭がそうなっている)

認知レベルの言葉をマクロにするとどうなるか。

再度挑戦。

認知レベルでみてみよう。(言葉を使う人を、本人の内言とする)
就学以前は?「いろんな失敗はあるかもだけど、助けてくれる人がいる」「「やらなきゃいけないこと」をやったら、あそべる!」
小学生は?「世の中おもしろいことはたくさんある」「学校はつまんないことが多いけど、友達と会えるのはここしかない」「お父さんお母さんはこういう人間だから、私はこういう作戦でお父さんお母さんと関わろう」
高校生は?「僕たちの青春は、漆黒のブラックに染まっている」「課題の海で溺れている」「わけがわからない」「しゃーなしや!」

拙い例しかでてこなくて申し訳がない。
認知レベルはどこか「世界観」「世界のルール」、性格に関わってくるように思える。

感情レベルは?(内言として考えました)
「◯◯たのしい!」「◯◯したい!」「◯◯、行きたい!」「◯◯嫌だ!」「◯◯つらい…」

この部分は、未就学児でも高校生でも変わらないような気がする。
心に一番近い部分だからだだろうか。

うーん。

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抽象化するのも少し気がひけるが、
愛とはなにか?

感情とは、「情(心的エネルギー)を感じる」チカラであって、得体の知れぬ「気持ち」を表すだけではない。
感情豊かに、という言葉がその使用例。
そうすると、感情的に、という言葉は心的エネルギーを感じながら、という意味になる。

多くの心の「症状」はこの心的エネルギーがうまく「まわらない」「だせない」ことで起きてくるようにおもう。
情を感じるチカラで、心を大事にしてほしいと、僕はおもう。

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子ども時代は、厳しい現実から離れて、大人から守られている。
(大人ほどに現実の厳しさはない。愛をたくさんもらえる)

だからこそ、大人が作り出した環境が大切になる。そうでしょう?

「子ども時代」が長引くようになったこの世の中で、大人は、きちんと大人としての責任を自覚しているだろうか。

保育園卒業時の目標が「椅子に長時間座れること」だとしたら、認知レベルはどうなっているのか?感情レベルはどうなっているのか?小学校で子どもが突き当たるであろう困難さ、試練に対して、就学以前にどんな知恵を、振る舞いを与えて、自立していってもらうか。

願いであり祈りの言葉がけ。

おとのねさんは、「今目の前の状況に困っている」ことは、「死ぬまでの間にもう何度か出会うであろう困難さ」と向き合うための学びを得られる場所だとおもっています。だからそれは「行為レベル」であるよりも、「認知レベル」であることが多いし、「感情レベル」で感じてもらった方がいいこともある、ということを考えます。

おとのねさんは「こうすればああなる」という世界ではないという認識をしています。
不確定、不安の時代だから、です。日本が。

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AI、AIというが、もしそう言う時代になったら、行為レベルの関わり合いが強まるきがする。認知レベルも強まるだろう(AIの得意分野だ。ただ、データの外にある認知には疎い!)、そして、心の部分が、削がれていくだろう(インターネット上で「心」の現象を再現できても、どれもインターネットという限界を超えることができない。AIが進化するための条件、ビッグデータにどれだけ「心」が含まれているか)。

Siriを引き合いに出して申し訳ないが

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「深呼吸をして、温かいお茶を飲んでみてください(行為レベル)」
「この前もそんなこと言ってたよね」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「それはこうこうこういうことだからだとおもいます(認知レベル)」
「いやそれはわかっているんだけどさぁ」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「嫌だったのですね(感情レベル)」
「そうそう、僕の愚痴を聞いてくれるかい?」
「聞きますよ」

…そうしていろんなパターンを学びながら、フィードバックを受けながら、人の心と関わる機械が生まれるかもしれない。
かもしれない!かもね。けどそこに限界があると僕には思う。これから、人間が機械に近づいて行かない限りは…

機械の限界の中でしか暮らせない人間がいたとしたら、少し、僕にとっては、おもしろくない。

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人は、税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か。
大切なものを、大事にしていたら、お金に追われながらも、時間に追われながらお、しあわせになれはしないかと、僕はおもっている。
お金とどう関わるか、どのように死ぬか、そうした一人一人の人生観を、死生観を、子どもに伝えていけないだろうか。
(そのグランドデザインをつくる学校という場所が、病気だから、お父さんお母さんがしっかりしたほうがいい)

けど人はひとりひとり違う(課題がちがう。大抵、お父さんお母さんのやり残した課題に再び取り組む場合が多い)

この時代に生まれ、生きているというオリジナリティーもある。

だから、その子が進もうとしている場所に、一歩踏み出すだけでいい。と僕はおもう。

踏み出した先でまた、その子なりに取り組めるように。
同じところをぐるぐる回っている子(あ、これはあの時の繰り返しだと気づいた子)がいたら、オトノネさんはたぶん役に立つ。

非言語で。
言語で。

「教えるべきこと」と「教えてはいけないこと」を、今でもまだ考え続けている。

オトノネひろげるシェアぼたん

「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

おとのねさんの頭は混乱しています。

僕はいくつかの保育園で仕事(勉強)をしているが。

僕は僕なりに勉強をしていた。
(それが実はアンガーマネジメントとよばれるものだったりするのだが)

小さな子どもと関わり、慣れてきた最近。
とある保育士の先生からいろいろと言葉をもらった。

「ぼうっとしてるよ」
「何かしてあげないの?」
「導いてあげないのね」

公園に行ったらタンポポをふーっとしてみせていた。
それからその子は自分でもふーっとやるようになった。
園に帰ってシャボン玉をふーっとしてみせていた。
それから今日、その子は生まれて初めて、自分でシャボン玉を吹いた!
(もちろん、シャボン液につけるところは先生がやった)

1歳8ヶ月の子。

言葉がけや振る舞いのひとつひとつの意味の深さ、繋がりをしる。
できなかったことができるようになったその子は、とても、満足そうだった。

言葉にも、笑顔にもでていないが、真剣な顔、表情、その子が出す雰囲気をみたら、どんなに今彼が自分に驚いて、楽しくて、誇らしく思っているのか、感じることができた。

ーーーーーー

僕は「ぼうっと」しながら、子どもをみていた。
その場で何が起きるのか。子どもは何を見つけ、どのように関わろうとするのか。
僕が気になっていたのはそこだったから。

けどその先生は、何かを起こそうとして、環境を作っていた。関わり合いをし続けていた。
公園にいくときには「公園で何ができるか」考えていっていた。
公園を、その子たちが使い尽くせるような関わり合いをしているという。

日が強い日は日陰が多い公園を選ぶ、とかそういうレベルではない。

なるほど。

シャボン玉を膨らませるなど、教わらなければできないことだ。
そして目の前で、1歳8ヶ月の子がシャボン玉を吹いて満足している。
シャボン玉をこの歳に吹けるように「導く」先生の関わりがあったからだ。

ーーーーー

教育界で最近、話題の坪田信貴さんの指導法も、僕にとっては「導く」ものだ。
定めた目標に向かって、「進ませる」言葉がけ、関わり合いをする。
「導く」という言葉では生ぬるい、「引きずっていく」くらいがちょうどいいかもしれない。
引きずられて、心が擦り切れている子がたくさんいる。

「コレができるように」という目標設定がある。

僕にはそれはできないと思っている。
(まだ、僕にはできない)

(いやいや、目標が決まれば、それに本気で関われる状態になった人に対しては、「道案内」をすることができるし、それが学習塾オトノネの売りだぜ!導くって言葉が、僕にはどこか、合わない)

ーーーーーーー

「導く」か「任せる」か
それが問題だ。

「導かれる」ことで幸せになる人がいるかもしれない。
(実際、坪田さんの著書のあちこちに、「導かれて」人生が変わった人たちの記事が載ってる)

「導かれる」ことで多くの高校生たちが、大量の課題と学校の先生の呪いの言葉に埋もれて窒息しそうな暗い顔をしているのも現実。

「導く」ことの責任が、僕にはこわいのかもしれない。
(というか僕は五行でいうと「水」らしく、僕自身が「委ねる」感じの人間なのかもしれない。けど逆に解釈すると、悠々と誰かを「導く」チカラももっているかもしれない。言葉って難しい)

ーーーーーー

例えばネイチャーゲームとか、学校の授業もそうか。
「自然に触れる密度を高める」ための「導き」がある。
「自然にまかせていたら、得られない学び」をえるための「導き」がある。

そうおもったら、僕が不得手な「導く」という言葉も悪くない。
「任せる」ことができる環境に「誘う」と言い換えてもいいかもしれない。

喜び合えることが一つでも増えていけるように、という愛情だけではどうにもならない。
愛情にはカタチがない。
「導く」という愛もあっていい。

学校に行きたくないんだけど学校に行かなきゃと思っている子に、
「休んでもいいよ」という言葉は、「誘い」であり、「導き」であり、「任せる」ことの全てを含んでいるようにおもう。

保育士のプロは、愛をもって、知恵をもって、子どもと関わる。
その知恵が、保育園という場所で継承されているという。

僕はその知恵を、どうにかして体系化したいとおもっている。
オトノネをお母さんたちの仕事場にするために。(どうやら僕はここが気になっているらしい)

勉強する時間つくるか。
うーん。フルで働くか。保育園で。

あは

ーーーーーーーーーーー

「導いてもらいたい」という気持ちでお父さんお母さんは塾に子どもを通わせるだろう。
そこでオトノネは「いやここは任せるところですよ」というわけだから、度肝を抜くお父さんお母さんもいるだろう。

「導かれて」しあわせになるとはどういうことか、僕にはよくわかっていなかった。
ただ、目の前でシャボン玉を吹けるようになった(真面目な顔で、なんどもなんども吹いている!)その子の顔をみて、

僕は研究を始めようとおもった。

ーーーーーーーー

オトノネの本棚には、ずらりと高校入試、大学入試の「参考書」が並んでいる。
おとのねさんは、その子の発達段階、学習段階に応じて、そして志望校に応じてカリキュラムを組み立てられる。
そのために、どんなスケジュールで進めて行ったらいいかもいえる。(行為レベルの話ができる)
おとのねさんの話し方

今度は、別の棚に、「おもちゃ」を並べて、同じようなことをしようというのが、オトノネさんの計画だ。

その点、「勉強」も「遊び」も変わらないのかもね。

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

「導く」も「任せる」も、どちらでもいい。
どっちもあっていい。

どっちも必要だろう。

モンテッソーリ教具がその極みかもしれない。
「任せる」と同時に「導く」。

けど僕はもう少し、ぼくなりに、もっと素朴に、おもしろく、「あそびの体系化」をしていきたいなぁとおもった。
例えば、「ひも」というものでどんなあそびが発展していくのか。

乳児期の「ひも」との関わり合い
幼児期の「ひも」との関わり合い
学童期の「ひも」との関わり合い

この流れを体系化していけば、「あそび」がいわゆる「お勉強」にとって大切であると胸を張って言えるようになるかもしれない。

ーーーーーー

保育所でフルに働くかー
どうしよかー
ああーーーーー
残業とかまじで僕無理っすよ?
嫌なんだよなぁ‥保護者を喜ばせるための運動会とか、出し物を「やらせる」とか。(年長になったらやってもいいとおもうが)

その考え方も、改めないといけないかもしれないけど。
(イベント行事を一切(年に一回だけ)やめている保育所を知っている。日々、日常の保育のなかに全てを注ぐというスタンスの園だ。僕としてはそっちの方が好きなんだが。だって、保育士の先生の負担の代わりに得られるものが、小さすぎる(子どものアルバムの写真が増えるだけだ)と、僕はおもうから。子どもはそんな年に一回のイベントがきっかけを学びの時間にするチカラがあるだろうか?年長くらいになったら、できるのかな)

ーーーーーーーーー

有名な倉橋惣三という保育実践者がいる。
この人が掲げた「誘導保育」という考え方は、これなんだろうと、しみじみ、実感した。
「誘う」を英語にすると何か、グーグル先生に聞いてみた。

invite

と出た。

素敵だなぁとおもう。

くるかこないかはわからない。
けど、お誘いしますよ。という姿勢。
その距離感がいい。

この「誘い」を悪用すると、悪徳商法、マインドコントロールになってしまうところが人間臭い。

心が大事。

混乱していた頭が、少し整理できた。

ーーーーーー

あーでも保育園って、やっぱり文化があるから、いろんな保育園で「観察」した方がいいかなー
そうすると、アルバイトができなくなり、金欠になるなぁ困った!

とりあえず笑っとこう!

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オトノネひろげるシェアぼたん

生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

どうやら進学校に一人は、恐ろしい病気の先生がいるらしい。
なんの恐怖に狩られてか、生徒を恐怖に陥れる先生が、いる、らしい。(すこし誇張しすぎでしょうか。現実でしょうか)

なぜ不登校になるかといったら。
課題をやれとか、補講に来いとか、テストの点がどうこうとか、呼び出しとかされるときに心が擦り切れてボロボロになるからだということは、みなさん想像できるとおもう。進学校の日常風景だ。

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この記事を読んでもらう前に。

人は変えられない。
自分が変わるしかない。

という言葉がある。

世の中に出たら、実際にそういうケースが多々ある。
けど本当は、誰もが皆それぞれの事情や都合、歴史、育ち、物語をもっている。

だから本当は全員の声を聞きたいのだ。
学校の先生はどうしてそうなったのか。
僕自身、どうしてそうなったのか。
学校という組織は、どうしてそうなったのか。

学校は変えられない。

かもしれない。
けど対話はできる。
しかし対話が許される場所があるだろうか?
対話をするような関係が、あるだろうか?

オトノネには、学校の先生にも来てもらいたい。
オトノネは教えることよりも、対話をしながら、気持ちをはっきりさせたり、いつもは隠れている本当の気持ちを、心を大事にする場所だから。

いや、僕が学校に行って話をしたらいいだろうか?
そのうち話をしに行こうとおもう。

ーーーーーーー

こんな話がある。

あるお母さんの子が不登校になった。
その子の学校の担任は「担任が変わって学校に来てくれるなら担任を変えます」と。
お母さんが返事をする。「世の中に出たら合わない人と当たり前のように出会います。これから世の中にでて必要な大切な勉強をいまうちの子はしているところです。担任を変わってもらったら困ります」と。

そういう考え方もできる。

アウシュビッツに入ってもきっとたくさんのことを学べるだろう。

死ななかったのなら。

アウシュビッツで学んで、それがトラウマになった人の例を、そのお母さんは知らないのだろう。
もちろん、強くなって収容所を出る人もいるだろうが。

子どもは学校で戦争のような経験を学校でしているかもしれない。
いやいや、うまく遊びながら、息抜きしながらテキトーにやりすごす子もいる。
「子どもの発達課題として適当な試練か」どうかだ。

心が病んでしまうリスクのある発達課題など、僕は認めたくないのだが。

誰かが助けてくれて、乗り越えられるような課題がほしいものだ。

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リアルな話になります。

最近、おとのねさんは富山県のとある進学高校にオトノネのチラシを配りに行って、暴力的な先生に「指導」をされた。
大きな声で、威圧的に、やってもないことを「やったでしょ!警察よぶよ!証拠写真あるよ!」とのたまう。証拠写真見せてといったら、見せてくれない。そんな写真はないからね…
いや、本当に、怖い・・・何言っているのかわからない・・・先生、疲れているんじゃない?
学校が先生にとってもストレスな場所だということは知っている。休んでいいよ。先生。じゃないと生徒にしわ寄せがくるからね。
笑ってよ先生!
(今思えば、僕がもっと笑顔で幸せそうな顔をしたらよかった!)

本当に、その場で心が壊れそうなほど、暴力的な声だった。
(今思えば、僕がもっと笑顔で幸せそうな顔をしたらよかった!)
本当は優しい先生なのかな?その先生にどんな歴史があるのかはわからない。部活をやるためだけに学校に来ている先生もいる(先生も学校は好きではないケースが多い)。

あの声は、日常的にどこかで使って居なかったら出せない声だ。
使い慣れている声。
ああ・・・

そんな声に毎日怯えながら、先生の機嫌をとりながら1年間を過ごす高校生を尊敬してしまう。

心を大事に。

ああ、話には聞いて居たが、生徒4人(5人だったか)を不登校にさせる先生は本当に実在するのだと、身をもって感じた。
そのうち一人は、心を壊した。病気になってしまった。学校は、心が壊れたその子を登校させようとしている。いろいろ壊れている。
先生が生徒の心を壊しても、先生の責任は問われない。学校は、そういう場所だ。すべて「生徒自身や家庭の自己責任」になる。

自分の身は自分で守ろう。
学校は君を守ってはくれない。

心を大事に。

某有名な予備校でも心が壊れる子がいますね。
どうして学びの場所で、心が壊れるんでしょうか。その子が弱かっただけ?その子の責任?
それは学びの場所なのでしょうか。できなければ別のところで学べばいい。機会均等!なのでしょうか。
そう、その子の責任ではある。

が、「学校がそんな場所とは思わなかった」とわかった後で、どうするか。
そこから、その子が自分自身で、積極的に責任を負って行動していくことに僕は意味があると思う。
負わされる責任ではなく、自分で自ら選択し、進んで、未来に対して責任を負う。日本人が大好きな過去の過失に対する責任ではない。未来に対する肯定的な責任だ。

もし我慢して、1年間を過ごす間に、体がビクビクして緊張するような神経回路をつくあげる(防衛機構ができる)なら、一生、その子はその神経と付き合わなくてはいけないかもしれない。それも、生徒自身が選ぶこと。(実際、高校での恐怖体験、先生による脅迫で、「恐怖」で、ある話題になると、ある場面において、喋るときに声が細くなり震えてしまう子がいる)

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あの話を思い出すたびに、僕は少し怒ったようになってしまう。
けど、完璧な人間もいなくて、完璧な組織もないのも事実。
冷静に、まずは、離れよう。と僕は思う。君は?大丈夫?

本当に、怖かった。毎日ビクビクして教室でHRを受けるとしたら、気が狂う。僕ならね。

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オトノネは、自尊心や自立心を守りたい人が来てくれたらいいと思っている。
そんな旗を、立てよう。みんなにみえているかな?

オトノネひろげるシェアぼたん

ゲームは子どもの発達によいのか悪いのか(知育ゲームってどうなの)

ゲームは、悪いのか。
悪くないのか。買って与えるべきか。
買わざるべきか。

それが問題だ。

電車の中にいれば過半数がゲームをしているこの世の中。
ゲームは生活の中に溶け込んでいる。

人生これすなわちRPGとある業界(自己啓発・セミナー・企業などなど)では言われているほどだ。

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ゲームは悪いものではない。
と僕は思う。

ものすごい哲学が隠されているゲームもある。

疲れた心を現実から逃避させる、ゆとりをつくる効果もあるだろう。

昔と違って、今はゲームを通して世界中、日本中のプレイヤーとコミュニケーションが取れるようになった。
(有線でケーブル繋がないと対戦できなかったあの時代は、どこにいった?)

ゲームの良いと思われる側面をとらえるとそうなる。

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ゲームは、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

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あるゲームづくしの毎日を過ごしている子はこう言った。
「ゲームして一生を終えますよ。親のお金使い切って、それで終わりです。」

ゲームの世界「だけ」で生きるという暮らしを確立している!

中学生、高校生、思春期を超える頃にはある程度ゲーム世界との関わり方も固定されるかもしれない。

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ゲームを通じて活かされている人もいる。
ゲームを通じて、生きる希望を持っている人もいる。(世界一の大会にでるなんて、すごいことじゃないか??)

ゲームには、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

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例えばパズルゲーム。
これは頭を使う!
そのゲームの「ルール」を理解して、それで試行錯誤を繰り返して、繰り返して、強くなって行く。
(ゲームはゲームが好きになるように、モチベーションが上がるように映像だとか効果音だとかボーナスだとかレベルアップとか新しい技とかアイテムという快楽回路が刺激される仕組み満載だ。)

ゲームは、やればやるほど、はまるようにできている。
(もし「ルール」を理解して試行錯誤しても強くならないのなら、自分にあったゲームを探せばいい。あなたが快楽を感じるゲームはいくらでも探せる)

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けど、やってもやってもうまくいかないことがあるのが人生だ。
ゲームから何を学ぶか。
ゲーム世界とどう関わるか。

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ゲームを悪く言うこともできる。
主に身体的な意味からだ。

まずゲームのやりすぎで眼球運動が苦手になる。
黒板が見られない。
目でものを終えない。

指先の操作はうまくなるかもしれないが腕や肩との協調運動ができなくなる(肩も使うタイプのゲーム機があるらしいが除外しておく)
ゲームの話しかできなくなる(青春はゲームの中)

とにかく時間を取られて他のことができない。
言葉が拙くなる。

(そしてこれらの話の例外も、そこらへんにゴロゴロ転がっている。めちゃくちゃ喋るのがうまいゲーム界の住人もいる。運動が超絶的なゲーマーもいる。さてさて、どうしたものか…)

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子どもにゲーム機を持たせるのはいいことか?
スマホを持たせるべきか?持たせぬべきか?
親はある意味で、神だ。

はい、ここからが本題です。

ゲームの世界の外でも楽しみを見つけられる子になればいいと僕は思う。

そのためには、大事な大事な思春期まで、中学校頃までは、ゲームを与えないという選択肢が、賢明かもしれないと僕は思う。
子供がゲームをするかどうか、ということよりも、その子が日常の中で、一生懸命になる場面が、現実の世界で、笑顔になる場面があるかどうかを省みてみてほしい。

ゲームは悪いわけではない。
ただ、ゲームは「はまる」ようにデザインされている。
他の遊びだって同じだ。ゲームは悪いわけではない。

児童発達支援をしていたとき、未就学児の子がお母さんからゲームを与えられていたのを見ている。(知育ゲームである)
企業は、知育ゲームを開発してやらせてそのあとどうなるか、きちんと研究をしてくれないものだろうか。

公害は企業の責任が囚われた。心の問題は、企業に責任はないのだろうか?
「私たちには責任はありません。だって、選んで買っているんでしょ?」

子どもたちは、イヤホンをしている間、鳥の声を、虫の声を、聞いているだろうか。
画面を見ている間、目の前にいる人の表情を、人間を、感じているだろうか。

ゲームをしない時間も、大切にしてほしいとおもう。

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禁じられたあそび

今日はシャボン玉で遊んだ。1時間くらいシャボン玉で遊んだ。1時間くらい遊べる。おとぎの森で、子どもたちとあそべるな。とおもいながら。で、肝心なのは、目の前が通学路になっている、この道路で起きた出来事である。

まず最初に、下校中の低学年の子が通った。

ものすごい興味津々でシャボン玉を眺める子ども。で、「楽しそう?」と聞くと「うん!」という。遊びたそう!その時!別の子が「早くいくよ!」と言った。叫んだ。え?早くいくの?道草しないで帰りなさい、怪しい人に付いていってはいけませんと言われているからだろう。僕の前を通り過ぎたあとも「早く早く!」と言っていた。結局、低学年のみんなはシャボン玉を見て目をキラキラさせるだけでおわった。

その次に、高学年の子が通った。

向こうから走ってきた。「壊していい?」「いいよ!」「やってみたい!」「いいよ!」ちょっとだけ遊んだ。女の子も、男の子も。うん。ちょっとあそんだ。車がちょくちょく通る道だったから、車に注意しながらだったけど。。。うわー!といいながら。

この反応の違いはなにか?単純に高学年は思春期が近づいて、判断を自分でするようになって、大人に言われたことを鵜呑みにしなくなっているのだろう。これだけ反応が違うとは。。。僕もびっくりした。

すぐそこが交差点だった。そこにはボランティアの下校指導のおじさんが立っていた。僕と一緒にちょっと遊んだ子どもたちに「まっすぐ帰りなさい!」と指導をしていた。子どもに何かがあったら大変だ。「責任問題」になる!子どもを無事に家に届けるのが仕事だからね!

子どもの命を守るために、子どもの魂を大切にできなかったらどうなるだろう。これからの子育ては、本当に、いろいろと、大変だ。お金(税金)を使って子供を保護する学童の存在自体が、どこか、子どもの生きにくさを象徴しているようにも思えた。中学生になったら、放課後は部活という組織で管理されることになる。そのしくみも問題だ。子供はあそぶことをほとんど、禁じられている。

とあるNPO法人は、放課後に、学校で、子どもがちゃんと遊べるようなしくみをつくっている。学校の中に民間の団体が入っていく。


放課後アフタースクール

学校や自治体がそれを望んでいるわけだ。大人が、みんな、真剣に、子どもの暮らしを、リッチな暮らしを考えていけるだろうか。大人同士が仲良くならないと、子どもはしあわせになれないのかな。。。

ところで、シャボン玉で遊びながらいろんなことをしているのだ!ということを書いておく。風の観察力、風に合わせて道具を操るスピードを変える、手をやさしくスナップする微細動作、シャボン液の状態を把握する、大きなシャボン玉を作るとかたくさんシャボン玉をつくるとかいう課題設定をする、試行錯誤する、みんなと喜び合う、シャボン玉が割れるのはなぜか考える。空気についてシャボン玉を通じて感じる。車がこないかどうか気をつける。風に乗って踊る。世界のいろんなところに落っこちているしあわせを拾い集めること。

あそびがどれほど複合的な人間のチカラを引き出すのか、奥が深すぎる。

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医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

医療が発達して、障害児が増えた。

障害児認定されずとも、ふにゃふにゃして、力のない子が増えた。といわれたら、どうおもう?(特別支援学級など昔は、昔々は今ほどなかったといわれたら納得してもらえるだろうか)

医療が発達して、昔だったら生まれてこなかった人が生まれるようになった。

医療が発達して、昔だったら弱くてすぐに死んでしまっていた子が延命されるようになった。(晩婚化によって母体の生命力が・・・という話もできる)

それは、喜ばしいことかもしれない。

医療が発達して、人間はシアワセになっただろうか。
人はいつもテクノロジーの使い方で悩まされているようにおもう。
道具をつくり、道具に悩む生物。人間。

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ギターという楽器がある。これ一つと人間が一人で、どれだけの無限に近い音楽が生まれるだろうか。
ピッケルという登山道具がある。これ一つと人間が一人で、山登りの困難に立ち向かうことが可能になるのか。

道具を使う人間が豊かにならずして、道具だけが豊かに成長していく。
人間は成長しないもので、仕方がない。
といってしまうこともできる。

私は人を「道具を使う生物」であるとおもう。「道具に仕える生物」だとはおもっていない。
医療をどうつかおう?命とどう向き合おう?お金も一緒だ。
お金に操られていないか?お金をきちんと使えているか?お金に仕えていないか?

医療が発達した。「弱い命」が生まれ育つようになった。「弱き者」のための社会でないとしたら、医療は一体、どのような責任をとってくれるというのだろうか?医療は、無責任なのだろうか?(患者を2時間待たせて2分しかみないという笑い話がある)なぜ医療は発達したのだろうか?(悲しみを増やしているのではないか?と考えることもできる。延命治療も同様)

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低体重で生まれた子は、当然、認知発達も遅れるだろう。
遅れる可能性が高い。

なのに、「生まれてからの年齢」でベルトコンベアに乗せられて、「発達障害」「学業不振」のレッテルを貼られる子がいる。
今の日本の現状では、生まれが、その子の運命を握っているかもしれない。

ただ、その子に必要な学びの環境が、学校にはない、という理由だけで。

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かつて、どこの国でも「子どもを殺す」風習があった。もしかしたら、その時のお母さんの悲しみを、お母さんは、生まれた後で、子どもを育てながら、感じているのかもしれない(もしくは社会全体にその悲しみは分散されている。もしくはマスメディアにより、分散させられている。教育現場とか、家庭とか、保育所とかに)

悲しみと喜びの保存則!!

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学校の責任と義務(責任について・・・いくつめ?)

沖縄の那覇から船で1時間半の渡名喜幼小中学校の「校長先生」の挨拶を転載する。
これだけ時代を直視し、時代を感じさせ、使命感ある言葉を学校の先生が使っているのをみて、私は驚いたとともに、うれしくなった。

私の感じたことが、伝わるかどうかはわからない。
無理に伝えようとしなくてもいいのだろう。

読んでみてほしい。
あなたが通う高校の「校長先生の挨拶」と比べてみたらどうか。
比べる必要はないのかもしれない。
ただ、私はこの渡名喜幼小中学校の校長の言葉に、チカラを感じたのだった。

「責任」という言葉が上っ面のたわごとでわなく、使命として感じられたのは、私だけだろうか。

はじめに
 小学校は明治23年創立で今年度127周年、中学校は昭和24年創立で今年度67周年を迎える島唯一の学校である。更に、併設されている幼稚園は3年保育であり、ここ渡名喜の子ども達は、12カ年この幼小中学校で過ごしている。その子どもたちは中学を卒業すると、親元を離れ自活をする ケースがある。高校・島外という新しい環境や人間関係の中で、正しく適応・対応しつつ、自己 を発揮し、切磋琢磨しながら自ら成長しなければならない。そのため、卒業生や島外へ出る子ど もたちに「どんな状況にあっても夢や希望を持ち続け、強く生きてほしい」という保護者や島の 人の願いがある。その現状と期待を受け、我々は、子ども達に「試練を乗り越える力」、つまり 「生きる力」を幼小中学校12年間で身に付けさせるという責任と義務がある。
 渡名喜村は、狭隘な土地を忍耐強く耕し山頂近くまで広げた段々畑があった。勇気を持って荒 海を乗り越え、優秀な船乗りを多く輩出した。厳しい自然環境の中で力を合わせて生きてきた。苦しい時代を頑張った先人や地域の絆に大きな誇りを持っている。
 現在、過疎化により人口が減少している。しかし、島の村並みと自然景観が平成12年に国の重要伝統的建造物群に選定され、人々に渡名喜島の自信と誇りを再確認させてくれた。また、今年で98回目を迎える「水上運動会」や大正時代から続けている「朝おき会」に代用されるように、他校にはない独特の伝統行事が現在も続いている。
 幼児児童生徒がいきいきと活動し、島への愛着と誇りを高め、自分自身の頑張りを自信として抱き、将来に夢や希望を持って生きていく児童生徒の育成を目指し、「普遍性」「地域性」「時代性」の観点で教育計画を作成し、「積小為大」の精神で学校経営を進めているところである。

渡名喜幼小中学校のHP

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

オトノネひろげるシェアぼたん