「自己内対話」のメタスキルを伝える

メタスキル をもっている人は、どうやって勉強しているんだろう?
「できる」人と「できない」人の違いはなんなんだろう?

オトノネは、メタスキルを伸ばすために考えます。

例えば、「今の自分が取り組める量は、このくらいだ」というメタ認知をする能力。
この能力がないと、ただただ量に圧倒されて「できない」で終わる。

一斉授業であれば、ただ受けるだけで終わり、このメタ認知は育たない。
どんどん先に進むのにただついていくだけだからだ。

個別指導だと・・・分量を少なくするとか、やる範囲を狭めるとか、工夫はしてもらえるだろう。
もしくは丁寧に一問一問解説をしていくだけで終わるだろう。
それはそれでその子の役に立つかもしれない。
(ただしそれでメタスキルを育てずに先生に依存してしまう子もいる。)

オトノネは?

もしかしたら、「問う」メタスキルが使えていないのでは・・・・とおもう。
「問う」メタスキル は、実は、小さい頃に誰でも通ってきた遊びから学べることだ。

当てっこゲームというものがある。
誰か1人が、答えを決める。例えば、ライオン。
それから最初にヒントを出す。「毛が生えています」
それから、当てる側の人間は質問していく。「かわいいですか?」
YESかNOで答えられることもあれば、そうでないこともある。
「どこに住んでいますか?」

ライオンというもののありとあらゆる情報を、頭の中でつなげていく。
クイズが面白くなるように、答え方も考える。質問の仕方も考える。

ーーーーー

答えを「温暖前線」にしてみよう。
ここにたどり着くために、いろんな質問をしてみよう。
「どの単元ですか?」・・・地学ですね。
「宇宙と関係ありますか?」・・・ありませんね。
「寒い暑いに関係ありますか?」・・・・ありますね。(この時点で地質の範囲ではないとわかる)
「動きますか?」動きます。
「雨と関係ありますか?」ありますね。
「前線って言葉は入っていますか?」入っていますね。
「積乱雲ができますか、乱層雲ができますか?」。。。乱層雲です。
わかった!温暖前線だ!

というように。

こうした「問う」「答える」の繰り返しを、誰かとやるとゲームになる。
これを、1人でできるか?(「温暖前線」が答えになるような問いを自分で作れるか)

1人で問いを立て、答えるというメタスキルだ。

このスキルは人間の精神活動そのものだと僕はおもう。

ーーーーー

こういった学び方は、日常生活の中で出会ういろんな違和感、不思議に「問う」ことから自然と身につくもの。
大人が「それ、何?どんなの?教えて」という問いかけをすることで、子どものなかにできる言葉のチカラ。
大人の助けを借りて、内言が開花する9歳以降、子供は自分自身で内省をするようになる。

一つの言葉をいろんな言葉で説明していく。
つながっていく。
理解していく。

そうしたつながりを、問いを立てずにただただ「暗記」していく「定期テスト対策」でメタスキル は育たない。

もちろん、「問題」を解きまくることで「問い」をもらい続けることもできる。
与えられた「問い」に答えながら、「答える」ことができる。

けどそればかりでは「問う」スキルは得られない。

中学生くらいになったら、ほとんど成績の順位がかわらない(?)というのは、その時点ですでにこのメタスキルが「できる」子と「できない」子がいるからではないか。自問自答のメタスキル、抽象化、仮説をつくり始める年齢は9歳だ。小学校卒業までには「問い」を深めることができるようになる。

中学校になると、その範囲が広がる。
「問う」スキルが前提となって、宿題やら何やらがでてくる。

「問う」ことができずに、「教えてもらう」ことしかできない子が多いのは、そのせいかもしれない。

ーーーーー

自ら「問う」ことを励まさず、「行為」を要求するだけの大人が多すぎないか。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
だがそれに答えるためにもっと多くの「問い」を発するのが「自己内対話」である。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
自己内対話だけでやってしまうと鬱になることもある。
他者は必要だ。
そのバランスをとることが、大切だとおもう。

「話す」こともメタスキルだ。

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自己内対話のメタスキル、実は多くのスポーツ選手や芸術家がもっている。
「どうしたら、こうなるのか。よくなるのか。早く走れるのか。早く投げられるのか。強く蹴れるのか」
「どうしたらいい音がでるのか。どんな色が欲しいのか。どうやって書いたらいいのか。何を書くか。何を奏でるか」
その答えを探す道そのものが対話。

練習。
この場合は、肉体との対話になるわけだが。。。

スポーツができるのに、「勉強」はできない、、、という人もいる。
それがその子の特性だと認めなくてはならないかもしれない。

だとしたら、その天の才を自覚しながら、伸ばしながら、せめて「勉強」ではなく、自分自身の人生を「問う」、流されずに進んでいくメタスキルを伸ばしてほしいとおもう。

「問う」メタスキル は、きっとチカラになると、僕は信じている。
「問う」ことの限界も、その中で見えてくるはずだ。

その時その時、人生で「問い」、本気で「応える」積み重ねをしていくと、深みのある人間になると僕は思っている。

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メタスキル はメタスキル を育てる。
「問う」メタスキル によって、「聞く」メタスキル も育つ。
他者理解、他者との対話メタスキル も、育つ。

メタスキル とは、そういうものなのです。

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ついに解明?物理がわからない、理由。

カーン・アカデミーの動画は役に立つかも。
カーンアカデミー。基本から学びましょう。物理学入門 から始めましょう

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こうした勉強法を、子どもにも伝えていってください。東進よりもわかりやすいかもよ。無料だし。本質的だし。

自称進学校で物理でお悩みのみなさん。

お待たせしました。
なぜみなさんが物理がわからないかわかりました。
「やるべき順序でやるべき学びをしていない」という当たり前のことでした。

理由1:数1A2Bが終わっていないのに物理をやらされている。
数学的な道具を持たずして速度とかベクトルだとか角度とかやるから、頭がこんがらがる。(矢印が出てこない参考書はない)
理由2:学校が使わせる参考書でろくな解説をしてくれていない。
理由3:「問題の解き方」を教わるだけで「物理」を学んでいない。(体系的に学べない)

人によって、理由は違うと思いますが。
最近オトノネに来てくれた自称進学校の生徒が物理に悩んでいる理由は上の通りでした。

自称進学校の生徒が面談に来てくれて、判明したことです。

ちなみに、「中学校の間は、物理が得意だった」そうです。

今度、課程表みて、一年生から物理やっている学校のリストアップをしてみましょう。
理系の人は、その学校を避けるといいとおもいます。
(けど最近ブログにする記事が溜まっていて、しんどいです。誰か調べて教えてください)

進学校に行って意味不明な課題をやるくらいなら、定時制に行って、塾できちんと教わったらいいとおもいます。
学校に足を引っ張られたまま合格できるほど、難関大学に合格することは簡単ではないのですよー。
「みんなと一緒」に慣れてしまっていて、抜け出せそうにないなら。
小学校・中学校で身についてしまった「定期テスト」に反応する敏感な神経を取り除けるかどうか。

と、オトノネは考えています。

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こちらは

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いや、定期テストもやる!難関大も合格する!というなら、僕はそれもありだとおもう。
やってみてほしい。ただ、僕はそのパタンで合格した人を一人もみたことがない。ただの一人も・・・
でも可能性はゼロじゃない。
君は君だけのストーリーをもっていていい。
自分の受験であって、僕の受験ではないから。
自分の人生、思い切って、やってみてほしい。
本気をみせてほしい。

誰もが自分の条件のなかで暮らしているから。
自分が決めたルールで受験をしたらいい。
自分でルールを決められるのだから、きっと素晴らしい受験になるだろう。
実りのある受験という経験をしてほしい。

本気で難関大学に合格するなら、引っ張られている足をどうするか、心が大事だと、オトノネは考えています。
定期テストのために生きるか、受験勉強に生きるか。あれか、これかを選ばないといけないのが、難関大学。
難関大学に行く人は、そもそも定期テストのための勉強などしていないと僕はおもうのだが。いかがだろうか。

定期テストの結果と
受験の結果のデータが欲しいんだけど、だれかくれないかな?

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8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

はい。

最近知りました。
家にテレビがないおとのねさんです。

事件があったようですね。

現実ですね。
「うちの子は関係ない!」と思っているお父さんお母さんがいるかもしれません。
けどお子さんが暮らしていく世の中だと思ったら、気持ちも変わるでしょうか。
お子さんに、お子さんが生きていく時代のために、今、時代を生きる知恵をお父さんお母さん自身がつけておくのもいいのではないかとおもいます。

ちなみに今は8050問題と言っていますが、昔はこれが「オウム真理教」だったり「サカキバラ」だったり、名前が変わっているだけで、実態は変わりません。またそのうち忘れられるとおもいますが、あれから何も変わってないなぁとおもうおとのねさんでした。

ーーーー

簡単に言えば、日本で暮らす人たちは概してみんなひきこもっている。と僕はおもっています。
小学校から高校まではもちろん、高校卒業後、高学歴の人でさえひきこもる(オウム真理教の幹部は超高学歴でしたね)。
それが孤食という言葉に置き換えることもできる。
よくよく思い起こせば、高齢者が自宅で一人で孤独死するということも、ひきこもりだといえる。(みんなひきこもりたくて引きこもっているのではない)

さて、解釈(物語)をはじめましょう・・・・

−ーーーーーーーー

今、50才でひきこもり(人間関係がつくれない)をしている人がいるということは、どういうことだろうか?
今50歳の人が20才の時、どんな時代だったか。30年前。

1990年をバブル崩壊としよう。今、2020年だとしよう。ぴったり30年前だ。
20歳まで、バブル時代に育てた価値観をもつ親の影響を受けて育って来た世代だ。

1945年、終戦した年に生まれた人が今、75才。
1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた時代、三種の神器と呼ばれる家電製品、テレビ・冷蔵庫・洗濯機を夢見て働いていた時代を経て、ボンボンの子が学生時代に車を親の金で買ってもらい乗り回す時代を経てきた。

バブル時代の価値観を「働け。儲けろ。地位を築け。そうしたら幸福が手に入る。」と安直に考えてもいけない気がするが、それでいいとも思えてしまう。

20歳のとき、20年間をバブル時代の価値観で育った人たちが投げ出された世界は、どんな世界だっただろう。
異世界?「8050」の「50」の人がどんな暮らしをしてきたのかわからないが。想像はできる。

親の価値観から自立ができていないのだ。
自分の価値観で自分の生きている世界を見られない。
親から自立していない。

思い描いていた人生が崩れていった時、自分で立て直すことができなかったのだろうか。
親のつくった道を歩くことしかできなかった(そしてその道は失われた)のだろうか。

バブル崩壊から、いろんな社会現象が起きた。
その中で「発達課題」を超えられなかった人がいるということだろうか。

大学時代か、仕事をしている間か、どこかでなにかがおかしくなった。
うん。それでDVとかも増えるのね。

ーーーーーー

ここからは学歴の話。

学歴社会の始まりを申すと、明治時代に西洋を習って作られた大学から始まる。
大学で育てられた人がいく道は「官僚」もしくは「先生」、「役人」だ。
技術者ももちろんいただろう。いわゆる公務員。

学歴は「国に雇われる」ために必要だった時代。

そしてバブル時代といえば。逆に民間にいた方が儲かった時代。「なんで公務員になるの?」という時代。

それからバブル崩壊。「公務員っていいよね」となる。

で、いつからかわからないが、おそらく、ここが、ごちゃ混ぜになっている。
おそらくマスコミ、教育産業が台頭しはじめてから?

1955年河合塾、1957年代々木ゼミナール設立。
1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた時代の幕開けと共に、大手予備校は始まった。

おそらく、新しいテクノロジー、メディアに乗っかって「学歴最高だぜ!」という価値観を広げていたのかもしれないとおもって、河合塾の当時のCMを探して見た。7分11秒あたりからみてみてください。(いつのCMかは、わかりませんでした)

どうですか!
輝いてみえますか!

もう部分的には完全に学歴社会終わっているんだけどねー(実際に今も学歴が大切な採用基準であることは別の記事でも書いた。合理的にね。)
幻想はいつまでも抱き続けられる。

現在、高学歴”だからといって”いい会社に入れるわけでもないし、入れたとしても仕事ができない、人間関係ができなくてやめることになるかもしれない。不確定な時代だということしか、確かなことがない。ようこそ、量子力学の世界へ

富山中部高校にいっても、少なくとも3割の生徒は富山南高校と同じレベルの大学へ行く。学歴社会が高校時代から始まっているとしたら、その結果は、すでに大学受験でみえている。学歴社会ではないことが証明されているといってもいい。

一体「学歴社会」って何なの?
はっきりと説明できるひとがどれだけいるだろうか。

ーーーーー

日本はメディアがよく「幻想」を作り出す。8050問題も「幻想」かもしれない。
景気も「幻想」かもしれない。何しろ、不確定な時代だ。

ーーーーー

マスコミの影響を受け「景気がよい・わるい」で一喜一憂している世代と違い、もう今を生きる子供たちは、景気など知らん顔で暮らしているようにおもうし、実際もう(バブル時代がよかったというなら)好転しようがないほど日本はもう、戦後を離れた。経済の仕組みも変わった。

しかし町ぐるみで、いまだにそれを夢見ている人たちがいる。
同じ夢をみれない、みたくない人も「みんな一緒に!」するのはどうかとおもう。

ーーーーー

1975年から出生数は継続して下がっている。
日本をアメリカに売るためのプログラミング教育と小学英語教育じゃないの????

謎なことがたくさんありすぎて、不安定すぎて、もう頭が混乱する。
日本は、基本、不安な国だ。
そして不安に対する対処法が、引きこもりかもしれない。日本人のあるべき姿なのかもしれない。(だからこそアニメや漫画が発達した?)
そう考えれば、ひきこもりなど、8050問題など、新しいビジネスをつくろうとする人たちの目論見の一つなのだろう。
くらいに軽い気持ちでとらえられないだろうか。「お子さんの登下校、専属の警備員が守ります!」とか

そう考えることもできる。

ーーーーーー

そうそう。今日たまたま県議会に行くことがあって、パンフレットの中に謎の表現があることを発見。
「県議会の仕組み」→「常任委員会」→「教育警務委員会」→「教育委員会、公安委員会の書簡に関する事項を調査・審議します」

いやいや、なんでその2つが一緒になってるのよ。
ああそうか。学校のモデルがもともと刑務所と軍隊だからか。軍隊も警察も繋がっているからね。学校ってそういう場所です。歴史的に。

これから通学路に警官が配置される時代になるかもしれないね。
あ、国にはお金がないね。無理だね。やっぱりお金を出して護衛してもらうんですね。
「お子さんの登下校、専属の警備員が守ります!」

歴史、大切。

みんな、歴史を背負っている。
学校の先生は悪くないよ!しょうがないんだよ!

だから助けてくれる別の人が、学校の外にいたらいい。
と、オトノネは考えています。

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保育も教育も療育もすべて子(個)別性が大事。心が大事。

「そういえば、発達障害をもっている子のための保育案ってあるのかな?いわゆる健常児ならいついつころにはこれこれができるようになるからといって保育案(指導案)が作られるんだけど」という疑問を持ち、とあるFBグループ上で質問をしてみた。

そうしたら、ああ、なるほど、と思えるコメントをたくさんもらえた!
SNSをやっていて、SNSのよさを感じれた。うれしく、ありがたくおもえた。

で。

ーーーー

療育とは何か、発達障害と診断された子に対して大人はどういう気持ちで、心で関わったらいいか。
その心構えを書いている文書を紹介してもらったのでここでも紹介したいです。

発達が気になる子が過ごす地域の支援者様へ(倉敷市社会福祉部障がい福祉課)

この中で、やはりこの一文が響く

発達に特性がある児童が「療育」を利用するだけですべての課題が改善するわけではありません。(略)倉敷市は市内の事業所に対して、「本人の特性や物事の学び方を、家族や地域の支援者が理解し、成人期において、地域で自分らしく自立した暮しができるようになる」ことを療育の目的.....として支援するよう求めていますので、(以下略)

これは療育の目的というより、教育、保育の目的、人間の目的ではないのか。

別の子の経験が他の子に役立つわけでもなく、いつなにをするかも時期もまちまち。
「定型」を超えてその子が今求めているものに、発達しようとしているものに(自閉症、ADHDの子ももちろん発達する)目を向けてみる。

コメントをくれた方へのおとのねさんのコメント返しは次のようでした。

ありがとうございます。長い間、私の声に耳を傾けてくださったことに心から感謝しています。倉敷市の文書を読み、これは僕の考えている保育や教育、療育すべてにいえる指針のように思えました。オーダーメイド、ひとりひとりに焦点を当てたものと考えれば、児童の福祉にとどまらない、大人にとっても大切なことだと思いました。発達支援の勉強を深めながら、教育の畑で関わりきれなかった子どもたちと関わりあう知恵を、集めていきたいと、ああ、溢れるくらい感動しました。僕は勉強します。勉強します。たくさんの勇気をいただきました。ありがとうございました!

自分らしく自立する。
大人になっても、人は育ち続けている。
お互いの分子間力で、価電子を介した結合で、近づき、関わり合いながら。

ーーーー

個別指導塾はかず多くあるが、結局やること喋ることは同じなことが多い気がしませんか?
オトノネは、完全子別です。あ、名刺が世間体気にして「個別」になってたけど、「子別」になおそうとおもった。

保育の現場では、0から1才は「個人案」がある。けどそれ以降も、先生たちの間では「個人案」が作られ続ける。
療育は現場では「個人案」がつくられる。(建前だけの案をつくる事業所もあるが)
教育の現場では「授業案」が作られる。職員室では生徒の悪口と愚痴が飛び交う。(いい先生もいるよ!もちろん!)

そう、学校教育の校舎と校庭のモデルは監獄と軍隊(史実だから、許してね!)。
しくみは工場のベルトコンベアで最後には無理やり卒業させられる(酷い言い方かもだけど、許してね!)。
産業革命以降の大量生産性、均一な品質管理に悲鳴をあげている0から18才のためのオトノネです。

けどそれが日本のスタンダード。
その中で「あなた」はどう生きるか。僕は、どうやって生きようか。。。

心が大事。

教育基本法にあるごちゃごちゃした教育の目的よりか、倉敷市の療育の目的を指針にしたほうがよいかもしれない。
そして学校の現場は、やはり、法律違反(スクール・ヴァイオレーション)をしているけれど、人間だから仕方がない。

自分の身は自分でまもろう。自分の命は、自分で燃やそう。大丈夫。燃やし続けていれば、きっと、君の光をみつけてくれる仲間と出会えるから。DVの加害者を罰する法はない。逃げるしかない。身を守るしかない。

第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

ちなみに学校教育法はこちら

第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

学校の先生は、果たして自主、自立及び協同の精神をもっているのかしらん(現場の先生も、大変なんです。許してあげてください)。

第六章 高等学校
第五十条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第五十一条 高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。
三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。

国立大学、東大に進路を限定しようとする先生たちに、個性って何か聞いてみよう。高校で個性を確立することに努めるってどういうことか、聞いてみよう。(大丈夫です。日本は法治国家だから、答えてくれるはず!)

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「内向的な人が秘めている力」

Facebookを徘徊しながらこんな記事を見つける。

ふむ。

TEDって、価値の多様性、言葉のチカラを教えてくれる。

オトノネがやろうとしている児童発達支援、放課後学童保育も、「埋もれている内向性」、学校の中で、社会の中で興奮してしまった心を落ち着ける場所になるのではないかとおもっている。

人との出会いで、結びつきで、意味が生まれる。
まるで、真空中を飛び回るとある原子が、何かの原子と出会うように。

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子供のポテンシャルエネルギーを感じる

というか子供は姿勢がいい。
あれだけ自然に、ちょんとして凛として座っていられる。
またしゃんとして立っていられる。

何者だ???

大人だったら、崩れていたり、ブレていたり、力なく弱々しかったりすることもあるのだが。
(もちろん逆に歩き方がぎこちなかったり、ぐにゃっとしてしまう子もいる)

立ち方、振る舞い方、そこにいることで生まれるエネルギーが、その人のポテンシャルだ。
ポテンシャルを顕在化させようとして、大人は習い事をさせたり、いろいろとやらせる。

子どもは一流の学習者だからなんでもできるようになる。

あるとき、ある状況のなかで目を見開いて、「え?いつもの君はどこにいった?」という子もいる。
何をしているかというより、ポテンシャルが上がっている状況、そして落ち着いてそのエネルギーをコントロールできる環境を作っていくことを大切にしたい。(蛍光灯バチバチの環境でポテンシャルが下がる子もいる)

エネルギーを何に使うかなどは、二の次に考えようとおもう。
謎の輝き、神秘のチカラ、心のはたらき。可能性。どんな言い方もできる。
ただそのエネルギーの使い方をあまりにも限定されてしまい、気が滅入っている子が多いのではないか。

ということだ。

ーーーー

ポテンシャルエネルギーとは、簡単にいうと隠されたエネルギーで、地面からの鉛直方向の距離が長ければ大きくなる。
姿勢がいい、シャンとしているとは、このエネルギーが高い状況をいう。

アーノルド・ミンデルは量子力学と心理学を結びつけていますよ。
不確定な、挙動不審な、確率的な、決定論とは別の次元で動いている世界に、科学者も目を向けてはじめています。というか、もうバシバシ向けています。

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大学受験に必要な考え方(高校受験とは違う)

みんなに同じ課題を出す学校。

みんなに東大に行くよう指示する学校。

東大を目指すための勉強。

ひとりひとり違う目標に向けての勉強ではないことが多い。

とある大学を目指している高校生。その子が「自由課題」として出された物理の問題集がある。いやぁ、物理ですか・・・物理は「物理」で困っている人と「数学」で困っている人にわかれるが。さて。

一緒にやって見ると、その子は物理の「数学」で困っているようだった。(物理の問題なのに「数学」のチカラを問う大学がある)で、その子の行きたい大学の過去問を一緒にといてみると。。・・。

見事に、「物理」の問題だけであった。

つまり学校で配られた問題集を全部とく必要があるのではない。「あ、これは私には関係ない」と思ったら、とく必要がない問題が学校から出されることがあるということだ。見分けられずに「与えられたものを全部やる」のは、違う気がする。

誰のための進路か。

高校受験は県内同じ問題。だけど大学受験は違う。大学受験は「うちの大学で学びたいの?じゃぁこういう勉強してきてよ」という思いが、入試問題に込められている。まずはこのメッセージを読み取ることからはじめたらいい。(受験まじかの富山中部の子が「私は記述式いらないのに記述式も役に立つからといって記述式の問題を解かされる、まじでいみわからん」というのを聞いたことがある。その後、どうなっただろうか・・・受験生には自分のモチベーション、自立心を大切にしてほしい)

大学に行かない子もいる。(高校生の時に税金とか年金とか、手続きの話、子供が生まれたらどうするかなど本当に「生き抜く」ための基礎を教えないのはなぜだろう)

発達の段階からいえば、思春期を過ぎた高校生は、大人そのものだ。大人である。発達を助けるために、大人としての初めての試練として受験という経験で、儀式で、成長をしていくために、大人たちはどんな手伝いができるだろうか。

ひとりひとり違う音色をもって、音を響かせる方が、気持ちがいいし、みんなハッピーになれると僕は信じている。

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

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高岡市のコミュニティハウス、ひとのま訪問

ひとのま、という場所に行ってきた。
高岡市で誰でも行ける、そのままいける、という場所。
その場にいる小さい子から大人までの雰囲気を感じて、ああ、こういう場所が、街の中にもあるんだなぁとおもった。

こういう場所がどうしてできるんだろう。
どうやって・・・

オーナー(?)の宮田さんの話を聞くと、「誰かを助けるとか、誰かのためとか、そういう目線ではなくて、目の前にいる人をみていたらこういう場所をつくろうかとおもった」といった話。

大手の教育企業に勤めながら「目の前で悩んでいる、勉強じゃないもので困っている子をみながら、業務として子供達と接するのと、どっちがやりたいのかなっとおおって会社を辞めて塾を始めた。誰でもきていいよというスタンスでやっているからいろんな人が来た」それが大きくなって「ひとのま」ができたという。

原子も同じような気がする。
何事もなく、とにかくそのままの姿で存在しているだけで、場ができて、いろんなひとと反応していく。
「いや、俺は塩素と結合するから」といっていると生まれるものも生まれない。

やわらかく、確率の森の中で、不確定の中で委ねていくことで、生まれるときは生まれ、なくなるときはなくなる。
「今年になって、人に助けてもらうようにお願いしはじめたんです。そしたら、みんな助けてくれることがわかった。きちんと話して、思いを伝えて・・・」それでひとのまは続いている。無理をしてひとのまを支えようとも思わない、もしそれでなくなれば、それはそれ。こういう場所を守る人、という意識もなく、管理するとかも考えずに、ごくごく今はそれがあたりまえのようにひとのまは存在している。

この日は、晩ごはんをみんなで食べる日だった。ひとのまに来ている人の誰かが「仕入れた」とんかつをあたためて、キャベツを切って食べた。いろんなことが起きる。昔、私が無人島キャンプで感じていたような感覚。決められたことよりも、その日突然起きる出来事の新鮮さ。何かが起きるときにそれをちゃんと感じられるゆるさ、余裕、あそびがある。

オトノネはどこか、気を張って「子どもを守る」と言って来たきらいがある。
塾で苦しむ生徒をたくさんみてきたから。けど・・・
実は、高校生のアンケート結果をみながら、みんなしっかりしてるじゃないか。オトノネができることってなんなんだろう。。。
と思っていたところで、ああ、なんだか力が抜けた。

力が抜けたところで、ひとのまに行って、宮田さんと話して、また力が抜けた。

ゆらり。

だらり。

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現代文で要約の練習をする。

すると、回路図のような図が現れる。
書き方もいろいろあって、物理で回路図をやったことを思い出して笑う。
「センター試験に回路図の問題でました!先生とやったの思い出して解けました!」
という報告を今更うける。

うれしいものだ。

現代文で回路図をつかう。

さておき。

小論文の試験では要約をして考えを書くような二段構えになっていることが多い。
要約をするには、全体像を知ることが必要だ。
作者一人ひとり違う癖を見抜いて、何が大切か、骨子をつかむこと。

文章によっては、教養、文章以前に作者が想定している読者のレベルの基礎知識をもっていないと厳しいことがある。
文章の中には書かれていない、それは知っているという前提で表現されたものがあると、読めなくなって困る。

そういうときは、その文章はなかったことにする、とか、、、
作者も伝えようとしていろいろな比喩をだすわけだが、その比喩を読み取れないと辛い。

幸い、現代文の練習ではないから小論文を読むための要約の練習として文章を一緒に読んでいった。
鈴木大拙の文章。

読めば読むほど、文章というのは、不思議な織物なのだとおもう。

今日発見したこと。
小論文で、もしくは現代文で出される文章には二つのタイプがあって、「物の見方考え方・観点・認識」を与える文章と、「主張・提案」を述べるタイプの文章。
「主張・提案」タイプの文章でも、主張・提案に行き着くまでにいろんな考えや事実、根拠を出すだろう。

作者もどちらかのタイプを好んで書くような気がする。
ある作者は新しい視点でものを考える仕方を書いたり。
ある作者は、現代のいろんな現象を分析して提案してみたり。

けど2つはやっぱり繋がっていて、結局は読者がその文章を読んで何を学ぶか、何を考えるかが大切なのだろう。
それを主体的、主観的に書き留めるのが小論文だ。

「作者の話題にしていることがわかった。その話題について作者がどう考えているか、視点もわかった。私の視点はこうだ。」
というのが、小論文だ。

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良問とは何か(その2)

昔、良問とは何か云々と書いた気がする。

富山高校の生徒とセンターの勉強をしながら、「あ、これは良問だ」と思えるものにあたった。

回答までのプロセスが「マニュアル化」されていない問題のことだ。
当たり前、知っていることをつなげていかなくてはいけない。
けどその繋げ方は、教わったことがない。
考えて、試してみながら、その場で道を作っていくしかない。

そういう問題のことだ。

新しい問題が出るとすぐに受験業界は、教育業界は「マニュアル化」する。

三角関数の何かの定理を証明するような問題を東大が出す。
公式自体は、受験生なら誰でも知っているはずだ!
それを証明しろという問題を東大が出した。

公式つかってるけど、本当に「本当に」わかってるの?本質がわかってるの?
と受験生に問いただした。

その「意図」を汲まずに、受験業界は、問題の解き方を「マニュアル化」する。
新しい「解法」をどんどんつくっていく。
そうして受験生たちは、どんどん「暗記する量」が多くなり、パニックになる。

暗記ではないのに・・・

良問とは、暗記に頼っている受験生には解けない、「君、暗記勉強してるんじゃない?」というメッセージだ。

本質を理解するか、本質を知らずに暗記をするか。
難関大学に受かる生徒とそうでない生徒には、こんな違いがあるんだろう。

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