頭がいい人は人付き合いもうまい?

生徒がそんな質問を僕に投げかけた。

答えは「ひとそれぞれ」だろう。

「お勉強」ができるからといって人付き合いがうまいわけでもない。
「お勉強」ができても、引きこもりで人嫌いな歴史上の著名人はたくさんいる。

「お勉強」ができないけど、人付き合いがうまい、人もいる。
上手い下手が何を表すかはさておき。

人付き合いが上手い人は、「頭はいい」けどただ「お勉強」をする環境や動機がなかっただけかもしれない。
わからない。

「お勉強」ができるけど人の気持ちがわからないサイコパスのような人(魔王)が集まった場所もある。

ーーーー

とにかくその生徒が人間づきあいで今、多くのことを学ぼうとしていることがわかった。
勉強も、それなりに笑、進んでいる。

同じ状況でも、人によって感じ方、認知の仕方、処理の仕方、反応の仕方は違う。
ストレスを和らげる、その方略を学ぶことが、感情知性にとっては大切で、感情知性と呼ばれるものがなかったら、学力といった、より高度な(人によっては知的に楽しい)ストレスには耐えられないかもしれない。

ーーーーー

この子は「コミュ力が高いと、他の大人とか先生にもウケがいい」という観察・分析もしている。
実はこの子、芸術家の能力を持っている(パーソナリティー特性ビッグファイブ で開放性が高い)せいか、認知能力が高いようにおもう。
それを「お勉強」にどれだけ注げるか。

「お勉強」のために、どれだけ、「お勉強以外」を頑張るか。

僕はそうおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

【今日の面談】不安定な状況の大切さ。生活習慣病・ひきこもりは「自然」か。

最近、春先で頭がぼうっとしていて話題がたまに飛んだりします。
自覚あり。

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今日、飛び入りで面談があった。
言葉のレッスンに興味をもってくれたお母さんが来てくれた。

そこで「子どもがモニターラブ」な状況を話してくれた。
人と関わるよりも、モニターと関わる方が、好き、らしい。

それで「ちょっと心配」というお話だ。

ーーーーーーー

最近、お金の勉強をしながら、
全米No.1バンカーが教える 世界最新メソッドでお金に強い子どもに育てる方法

家庭教育の重みを感じる。

「自然」に任せていては「やりたいほうだい」になってしまう。
けれどもやりすぎると心が荒んでしまう。

いやいや、簡単なことで、家族のルールを決めたらいいんだろうか。
言葉がけなしに、自然と「できる」ようになることはない。
「いいか」「わるいか」の判断が自分でできるようになるには、試さなくてはいけない。

「それをやったら、どんな悪いことがおきるのか」

子どもはわからない。

何が「いい」のか。
何が「悪い」のか。

それを大人がどこまで伝えたらいいのか。
「大切なこと」はなんなのか。

それを学ぶための適切な「ギャップ」が必要なのだろう。
ギャップとは生態学用語で、生態系が局所的に変異するための環境の変化のこと。

それは時として不慣れで不安定になる状況を作り出すだろう。
けどれそれによって新しい生態系が生まれる。
あたらしい仕組みが生まれる。
あたらしい関係性がうまれる。

新しい技能、新しい価値観、新しい感性が生まれる。

その不安定な「ギャップ」は、「お勉強」の本質だ。
新しい言葉、新しい規則、新しい物語を取り入れるために、記憶を再編成する。

不安定な状況を作り上げる。
これが教育の一つの役割かもしれない。

そして、不安定さの中で、学ぶための命のエネルギーを絶やさずに、どうして教育の価値を謳うことができるだろう。

不安定さに対してどのようにバランスを取るのか。
その方法が、その子のキャラクターになる。

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「子どもがモニターラブ」な状況についていえば、、、
大人を含めた社会全体がモニターラブになっていると思えば、とても「自然」なことだともおもう。
(例えば、食生活を考えてみると、「健康的な」=「自然」とは言えないかもしれない)

人との付き合いが希薄になってきた世の中と思えば、それも「自然」だとおもう。
外で遊ぶのが好きでない、という子は普通にいる。

だからモニターを使ってどんなことができるのかを極めるのもいいかもしれない。
(インドネシアの小学生でyoutubeで英語の動画を見まくって英語が喋れる子がいた。そういう使い方は誰もが「OK」というだろう)

その子は趣味で絵をかくというのだから、タブレットで絵を描いて投稿するのもいいだろう。
お絵かき日記をつけるのもいいかもしれない。

「モニター」からでも多くのことを学べる。

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大人の知らない世界に子どもたちは生きている。(少なからず、別の世界をもっている)

ゲームの世界、ネットの世界、、、、
(もしかしたら、大人であっても、人によって世界は違う)

学校でもなく、ゲームやネットでもない世界があるんだ、わくわくできる場所があるんだ、とおもえたら、
そんな経験をしたら、そんな人と出会ったら、新しい扉ができるだろうか。

新しい扉の価値は、人生を豊かにする価値。
ネットの世界では、無限にコンテンツを享受できる。
扉はいつだって「リンク」の先に開いている。

ーーーーーー

「人との付き合い」はネットの世界と現実の世界では違う。
どの世界で暮らすのか、、、、「自然」はモニターの世界へと人を誘うかもしれない。

現実の世界は、魅力がない、、、、のかもしれない。。。。
現実の世界の魅力を、大人は伝えているだろうか?子どもは感じているだろうか?

子どもは、何を「よろこび」と感じているんだろうか。

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気質はかわらないかもしれない。
インドアが好きな子、だっているだろう。

けど、

「本人の気持ち」が一番、というけど、本人の中に眠っている気持ち、というものもある。

かもしれない。

家の窓を開けて空気を入れ替えるように、子どもの心に風を送り込んであげることを、子育てに取り入れるのもいいとおもう。
美術館に行く、お出かけする、公園で遊ぶ、山に行く。。。

年齢によっては、もう「できちゃってる」子もいる。
9歳、がひとつの目安。

自分の能力の限界を知って、その中で、うまく生きようとする。
そんな9歳の生き方を理解してくれる大人と出会った子どもはしあわせだ。

オトノネは、ある意味で子どもの「ギャップ」になるだろう。
学校に適応した子にとっては「自己」が求められるオトノネは脅威だ。

キビシイ笑

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教育とはなんだろうか、ということをちょっと考えてみた。
伝えるべきこと、伝えてはいけないことが何か、僕が教師になった時からもんもんとしていること。

縄文時代であれば、はっきりと「生きる仕事」の手伝い=学びだったろう。
それも大人の真似から始まった。
大人の手伝いから始まった。

教育は、子どもではなく、大人の問題なのかもしれない。

「大切なこと」はなんだろう。
お守り
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えーストレス『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』

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飴玉が目の前にあるという環境で窒息死してしまう人がいる。
足腰が弱って寝たきりになって、寝たきりが加速して死んで行く人がいる。
ストレスで飽食したりアルコール中毒になったりして死んで行く人がいる。

「自然」は恐ろしい?

生まれて死んで行くだけなのに、やたら心配しちゃうなぁ

環境、遺伝、それから意志。

環境は変えられる。
意志は変えられる。
遺伝も変えられる(エピジェネティクスの範囲で)。

生まれて死んで行くだけなのに、やたらやきもきしちゃうなぁ

オトノネひろげるシェアぼたん

ここが変だよ自己啓発本『仕事は楽しいかね?』

本屋で見つけて気になって図書館で借りて見た。


決定版 仕事は楽しいかね? —会社の宝になる方法 (日本語) 単行本 – 2007/3

副題をみると「会社の宝になる方法」とある。
あれ?そんな副題、おかしくない?なんか日本的じゃない?
これは翻訳本じゃなかったのか・・・・

というわけで、原題を調べてみた。

Better Than Perfect
Better Than Perfect: How Gifted Bosses And Great Employees Can Lift the Performance of Those Around Them

「会社の宝になる方法」と書いてあるのは、売れるように日本人が勝手に考えた副題だった。

翻訳者が「売れるように」魔界に魂を売った。

2012年の再版では、タイトルが変わっていた。


仕事は楽しいかね?《最終講義》 (日本語) 単行本 – 2012/8/1

さすがに「会社の宝になる方法」はまずいと悟ったのだろう。

このコピーを考えた人は、時代を間違えしまったらしい。

オトノネひろげるシェアぼたん

とある魔術の禁書目録【ファンタジーのリアル】敵がみえない世界。敵を殴って倒せない世界。

生徒から教わることがたくさんある。

日本という国の歴史を「未解決事件」を通じてまとめようとしている子がいる。
事件の裏には、「不都合な真実」がある。誰にとって不都合かといえば、「上級国民」と言われている人たち(魔王)。

僕が衝撃を受けたのが、プチエンジェル事件。
「上級国民」に虐げられた少女が口封じのために殺される、犯人もそれを取り巻く魔界の人たちもうやむやにされて未解決になった事件。
もちろん、警察も魔界に属しているため、追求はしない。

アメリカのトランプさんが発信している、といわれている(よくわからない)「Q」情報など、未解決も含め、僕らの手の届かない(ようにみえる)ところで大きなチカラが動いている。

僕は諦観をもつ。
「しょうがない」と。

おもいながら、心のどこかで、、、、

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最近、夜なべをしながら見たアニメがある。

「とある魔術の禁書目録」というライトノベルをアニメ化したものであるらしい。
日本のアニメ、漫画の哲学というか、深さを感じるものが多い。こっちの世界が、リアルに近い気がする。

で、

主人公の男の子は「魔術を無効にする」チカラをもっている。
おかげで、幸運すら無効にしてしまい自分は「不幸」なのだが。、、、

自分を不幸にするが、他の人にふりかかる悪い「魔術」を無効化していく物語。

チカラというものは、使い方、関わり方なのだ。。。
そのチカラが自分には不幸に働くかもしれないが、他の人の助けになる。

主人公が、戦っている相手に対して「説教」をする場面をつくってくれている。
それが結構、僕自身にも響くことがある。

アクセラレータとの2回目の戦いが、僕には印象的だった。

ーーーー

と同時に、大切な人がいて、敵がいて、その人のために戦えるということは、どれほど頭がすっきりするのだろうかとおもう。
(勇気を出さずに弱いものいじめをする人もちょくちょくでてくる。大切な「別の誰か」ではなく「自分の欺瞞を守る」ために人を傷つける人たちだ)
(ちなみに主人公の決め台詞の一つに「お前の幻想をぶち壊してやる!」というのがある。彼の右腕のチカラはイマジンブレーカーと呼ばれている。誰もが幻想を持って生きるもので、闇の中のかすかな光の暖かさを求める人と、闇のなかで落ち着く人がいる、どちらも、反対側の人間からすれば幻想と呼ばれてしまうものを求めているとしたら、、、結局、善悪もないし、戦いも終わらない。。???)

大切な人がいる、けど、敵が目の前にいない、というのが、現代を生きる人たちの状況だとおもう。
殴る相手が、目の前にいない???

組織、文化、、得体の知れない敵の「所在」のなさ。
未解決事件にしても、児童虐待にしても、「敵」は空の上にいて、対峙することができない。

とおもうと、諦めてしまう。
そういう気持ちもわかる。
振り上げた腕を、どこにふるえばいいのかわからない。。。。


わからないで鬱積してしまう。

が、

「とある魔術の禁書目録」の主人公は、とにかく目の前の「相手」を殴る。
殴って、魔力を無効化する。

とにかく目の前で泣いている、悲しんでいる、助けを求めている仲間、大切な人のために、戦う。殴る。思いをぶつける。
(この主人公は、思いをぶつけて、ちゃんと向き合って戦う、だから後で仲間になったりするからまた気持ちいい)

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アニメの世界、ゲームの世界では「相手」がはっきりしている。
はっきりしていたら、攻撃できる。

「相手」がはっきりしないことに、みんな困る。
だから西洋医学は「相手」を見つけようとして心も体もバラバラにしてしまったし、
「悪口」をSNSで呟きまくる人たちも「相手」をみつけて攻撃する。

ゲームは「敵」がきちんと出てくる。
ちゃんと自分のチカラを使える。
(ただし、誰かがそれで笑顔になるとか、助かるとかいうものがないのだが)

自分のチカラをどう使ったらいいのか、どう試したらいいのか、どう高めたらいいのか。
大人も子供もわからずに、ただただ働いていないか。

働きながら、大切なものの感覚を失っていないか。

オトノネは、誰もが「チカラ」をもっていて、そのチカラを理解する、使い方を知るということを大切にしている気がする。
「成績を上げる」という目標でもいいが、それで「大切な「別の誰か」ではなく「自分の欺瞞を守る」ために人を傷つける人たち」を増やそうとは思わない。

大切にしたい人が少なくなった。
大切にしたい人がいない。
大切にするために魔王と戦うチカラがない。
魔王と戦うチカラの使い方がわからない。

そういう世の中なのだとおもう。

おとのねさんも、オトノネで学んでいる。

僕がオトノネをつくったのは、「選択」ではない。
ただ、大切にしたい心を、大切にしただけだ。

「選択」をしようとしている間は、どうにも、心は落ち着かないものなのだろうとおもう。
ただただ、心を大事にしたらいいのだと、おもう。

自分を、自分を、、、自分を。自分。

そうだ、この主人公に、僕は説教されている感じ。

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生徒が「20万人が闇に飲まれている」と言った。
え?どういうこと?と質問した。

「幸せ」ってなんだと思う?それはね、お風呂でおしっこをぶちまけることだよ
とのたまうyoutuberのチャンネルに20万人登録している。というお話。

(こういう会話を夜なべして耳にしている子どもがいるんじゃないかとおもうとさみしくなる)

このyoutuberがおもいっきり「自分」を出すのと同じぐらい、僕も「自分」を出したらいいんだろう。。。。
心を大事に、その最大限の努力の僕自身の限界を、創造性を、僕はオトノネで試しているのだとおもう。

お風呂でおしっこをぶちまけるのもなかなか「しあわせ」だとはおもうが。
僕はもっとべつの「しあわせ」を探している。

painful world と名付けた楽曲があったのを思い出した。

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子どもがいじめられていたとしよう。
いじめはとても「自然」なものなのだが。お母さんは「怒」ってもいいとおもう。そうでなければ、「悪いことをしている」「もっといい方法がある」という学びのきっかけをその先生から奪ってしまうかもしれないから。
魔王は学校にはいない。だけど、目の前にいる、魔界の呪文で心を失っている先生を「殴る」ことはできるだろう。

正気に戻れよと。

怒っていい。

僕もこれから、オトノネに狂ったお母さんが来たら、怒る(怒りを伝える)ことにした(怒鳴るわけではない)。
(学校の場合は真剣に受け止めないと後先があるからだけどオトノネ は嫌だったら来なければいいから、ダメかな、、、伝わらないかな。いやいや、感じるはず。心に留めて置いて欲しいから。こんどから怒る徳はちゃんと怒ろうとおもおう。そのやり方は、カウンセリングではない。そもそも僕が怒りを感じる人は「学ぶ」構えがない人間だから、びっくりしてもらって構えを変えてもらうのがいいんだろう。「学ぶ」のが嫌な人がいるが、嫌なら帰ってもらえばいい。もうお人好しになるのは、やめようと思った。)

お母さんは、先生も育てなくてはいけないような。
人間というのは、誰もがそうやって手のかかる、世話を誰かに焼かれないと学べないものなのだろう。

全部お母さん、お母さん、、、お母さん、、、、ねぇ
【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねさんの人となりと言葉について

おとのねさんはいろんな言葉を使う。

カウンセリングっぽいとき
「教える」とき
ブログかくとき
買い物するとき
面談のとき
だれか一人だけいるとき
複数いるとき
おなかすいているとき
ねむたいとき
子どもと遊んでいるとき
youtubeの動画にコメントするとき
Facebookに投稿するとき
「いいお母さん」を演じているお母さんと話すとき
心を開いている人と話すとき
(面談の時、一瞬、怖いイメージをもった、という人がいる。多分僕が瞬間的に「どんな言葉をつかったらいいんだろうかな」と考えていて真顔になっていたのかもしれない笑物腰、言葉遣い、表情、素ぶり、ひとつひとつが僕が言葉を選ぶ要素になる。頭おかしくなる。)

誰に話すか、どんな状況で話すか、そういう条件がひとつ違えば、雰囲気も変わる。(変わらない人もいるだろうが)
(このブログは僕のメモがわりに書いているものであって、決して読みやすく書いてはいない。多少は、配慮しているが笑)

場所が違えば文化も違う。
僕はそこになんとなく合わせているのか、変わってしまう。

たとえば、ウラとオモテで、オトノネの雰囲気は変わったとおもう。(問い合わせのおフォームとかないからね!ウラだからね!屋根裏部屋!)

どちらもオトノネです。
どれもぜんぶ、おとのねさんです。

よ!

人間だもの

オトノネひろげるシェアぼたん

【大人の宿題】「愛」を学ぶ心の屋根裏部屋otonone-オトノネ-

カウンセリングルームでもつくろうかなとおもってきた。

そんなお話。

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お母さんが学ばないといけない理由は何度か記事にしてきたがもう一度。。

一人の人間を尊重するというのは、「人間」を尊重するのであって、「人間」でなければ尊重する必要はない(機械を尊重する必要はないのと同様)。
ただ、うまい具合に対処するだけだ。(日本は、そういう国だ。もう認めるしかない。)
考えること、感じることができない、目の前の子どもが見えていない人に子どものことを考えろ!感じろ!といっても無理なのだ。

だから、

学校の先生に何をっても、無理なのだ。
保育園の先生に、何を言っても、無理なのだ。

と割り切ってしまったほうが、自分自身の成長が望める。子どもにもプラスだ。
(「学び」の回路が閉じた人と関わってもなにも学べない)

そのくらい、「人間」らしさのない人間が多い世の中だ。
そんな「人間」が希少なこの世の中で、富山県で、子育てしているお母さんがいる。

本当に、大変なことだとおもう。

さて、僕にできることはなんだろう。
オトノネで試したいことはなんだろう。

大人の宿題のお手伝いかなーとおもっている。(大人は子供に宿題を出すが、子どもも、大人に宿題をだしている)
子育てのパートナーとして。

それは僕のお母さん自身が一人で、孤独で、悩みながら、狂いながら、僕を育ててくれたことに対する、僕なりの、なにがしかなようにおもっている。

子どもを塾に行かせるだけで子どもがしあわせになることはほとんど望めない。
お母さんが学ばないと、子どもはしあわせになれない。
そんな時代になってしまった。お母さんは、「ビジネスの原理」からの暴力のなかで、暮らしているからだ。
お母さんが自分を守る術を、学んだほうがいい。

しわよせは子どもにいく。

==============

お母さんに自覚的になってほしいことは次の二点。

どんな人になってほしいか。
お守り

そのためにどんな関わり合いをするか。
愛とは何か?

子育ては、この二点。
「自然」に任せていたら、「命」の輝きがが消されてしまう時代だから。
不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えー『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』
好きなことをして学ぶ。遊びながら学ぶ。子どもの自然な姿。
脳は断捨離する。そして自然のあるところに知恵は生まれる。

心に留めておいたほうがいい。

呪いのかかった暴力の支配する世界で、お守りと、愛がなかったら、子どもを魔王の世界に丁稚奉公させることになる。

つまるところ、自分自身を、子どもを、人間として尊重しているか、人間としてつきあっているか、というお話。

ーーーーーーーーーーー

第一段階は、「どんな人になってほしいか」という願い。
何を子どもに望むか。でもいい。
「何も望んでいません。この子の自由で」という言葉が返ってきたら、違和感を覚えるかもしれない。
「いい親」を演じているだけかどうか、それこそ、僕はちゃんと判断するだろう。
そのために、「自由とはなんですか?」と聞くだろう。
おそらく抽象的な答えが返ってくるだろう。
それを僕は具体化してもらう。
今現実の話をしてもらう。
「どんなときに、子供を心から褒めたか。感動したか」をはなしてくれたらいい。

目の前の「困りごと」はひとつのきっかけ。
「どんな人になってほしいか」を言葉にして出していくプロセスが必要な人もいれば、すでに答えを出せている人がいる。
対話をしながら、屋根裏部屋に閉じ込められた心の大事な部分を見つけていってもいい。

具体的なエピソードを語る。
子どものエピソードではなく、お母さんのエピソードを話してくれてもいい。
(というかお母さん自身が「生きる」価値を、よろこびを、積極的に捉えているかどうか、ただ擦り切れていくだけの暮らしをしているのかが、子どもにも影響している。人は人から学ぶ。お母さんの価値観がそのまま子どもに伝わると考えるのが自然だ)

言葉がでてこないなら、自分を感じる時間が、体験がプロセスを動かすきっかけになるだろう。
そのための「しかけ」をおとのねさんは考える。

=============

多くのお母さんたちの心は不安や恐怖でいっぱいになっていて、子どもの姿や自分の気持ちがわかっていない。
自分の不安を直視せずに、とにかく子どもを使って自分の不安を消そうとする。

「塾」に行かせて終わりのパターンだ。
第一段階でつまずく人は多い。

自分を騙している、自己欺瞞の程度が強いほど、心は落ち着かない。
どれだけ自分が自分の気持ちを隠蔽しているのか(政治家や企業がよくやる隠蔽よりも大切なことだ)。
どれだけ押しつぶされて「生き延びて」きたか。

そういう自覚のある人であれば、第一段階はとりあえず、終わっているといえる。

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第二段階は、現実的な話であるがゆえに、また別の困難さがある。
時間もお金も有限だ。

大切なものを守るために何をどうするのか。
いままで作り上げていきた自分自身の「伝統」をどう作り変えていくか。

変えていくか。

それこそ、成績が上がらないといって地団駄を踏んでいる子ども(実際は成績など大して気にしていないのだが)と変わらない。

変えていくための、現実との折り合いのつけ方を学ぶ。
その過程で、「お守り」も変わっていくかもしれない。

ーーーー

オトノネに長く、深く、関わってくれているお母さんの話を聞くと、親子関係がよくなった、子どもがすくすくと成長しているのを感じてうれしくなったらしい。
それが、僕が子どもに言う言葉を家でも使ってくれているらしい笑

言葉は心。

お母さんが子どもから学べるなら、それが一番いい。
子どもをちゃんとみられるなら、オトノネで変化する、もしくはオトノネで見せる子どもの様子をきちんと見つけられるお母さんなら、それで十分だ。

けどそれができないお母さんもいる。
そういうお母さんは、塾の代用としてオトノネを使っている。
笑うということがない。

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本当に変えたい人でないと、オトノネを使うことはできない。
「定期テスト対策」が好きな人、「宿題をやらなきゃいけない」と思っている人に、オトノネは合わない。

そんな風に、僕は思った。

自覚がない、堕ちきっていない人は、まずちゃんと、ボロボロにならないといけない。
それが、「大人の宿題」の基礎だ。


ボロボロになってから、オトノネに来てください。

僕自身がそうでした。きっと人間、そんなものなんだろうとおもっています。
ドラッカーが言う通り、自分を知ることが、マネジメントの基本だ。

家、家族をマネジメントするために、「大人の宿題」をきちんと認識してみてほしい。
その上で「質問」をしてほしい。

子どもの人生を変えたいなら、親の人生を変えるといい。
それが嫌で、無い物ねだりをして「塾」に甘えて子どもを強制収用するから、子どもはかわいそうだ。
そういう暴力的なお母さんが、たくさんいる。

ーーーーーー

ただ、ボロボロにならなくても済んでしまうようなさまざまな仕掛けを、文化は用意しているから、本当に日本は魔界そのものだとおもう笑

「甘え」の関係は、創造的であると同時に、破壊的だ。
「分別」とは、人間の理性とは、どちらに転ぶかわからない綱渡りを無事に終え、子どものように笑いながら死んでいくために、使うといいのかもしれない。

ねぇ、そうでしょう、ツァラツストラ。

オトノネひろげるシェアぼたん

学校のネグレクトに気がつく【児童虐待に気付きにくい理由】

おとのねさんは、ふと、気がつきました。

学校で学ぶべきことを学べず、お母さんが家で教えることになっているって変じゃない?
あまりにも当たり前に暴力的なことをいうから、気づかなかった!DVと同じだね!

学校教育の原理を家庭にまで持ち込むんだから、そりゃぁ、暴力ですよ。
宿題を家でやってくる前提も暴力だし、さらにお母さんに教えさせるなんて、甚だしい暴力だ。

けどそれが「自然」だから、やるせない。
みんな「宿題をして当たり前」「わからなかったら親が教えて当たり前」になっている。

いやいや、それっておかしいから。
学校が仕事サボっているだけだから。
学校がそもそも無理なことを子どもにさせていて、親に負担を背負わせているだけだから。

あまりにも暴力が普通すぎて、当たり前に暴力が目の前にありすぎて、それが「自然」な富山県。

さて、どうやって生きようか。

言われないと気づかない、なかなか気づかないことがある。

オトノネひろげるシェアぼたん

富山県で家を買ってローンという借金をして得たものは何か【大人の宿題】も完全個別×子別

このブログを書いた後で、「ああ、僕は今、怒っているな」と感じました。
どうにもできない、自分への怒りです。

あまりにも大きな、一足飛びに解決できない歯がゆさ、無力な自分への怒りです。

そこのところを了解してもらった上で、読んでいただけたらいいかともいます。

==========ー

家を買って、、仕事をして借金を返して暮らす多くの富山県の人たち。

富山県で共働きが多い理由を考える。
【ある古老の語る仮説】富山県で共働きが多い理由。

そして、子どもが・・・家に、閉じこもる。(いやべつに、いいんだけどね)
ひきこもるとは。不登校の機能。

家を守っているんですか?
子どもを守っているんですか?

何を、買ったんですか?
あなたの買った家の、価値は、なんですか。

家のリッチネスを、使っていますか。
家が、牢獄になっていませんか。

ーーーー

こんな質問をされたら、「うっ!」となるだろうか。

困っているけど声を出せないお母さんなう
言いたいことが言えない。

大人の宿題、大人の学びを、オトノネは大切にしています。
学ぶための、考えるための、いろいろな知識というものがあります。
考えるにせよ、学ぶにせよ、「知る」ことは大切です。

ただ、「知る」ということ一つも、「学び」の一部であって、ほとんどのお母さんたちがやりのこしている【大人の宿題】だということを、多くの人が知らないのが現実です。
↓下の記事は難しいと思うので簡単にいうと、「現実の世界をみようとしても、感じようとしても、心がブロックされていたら、学べない、見えない、感じられない」ということです。
【暗黙の次元って何?】安冨歩さんの『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』のメモ

「学び」が始まるには、、、「堕落」が一番だと、今はそうおもいます。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

もしくは、「言い訳」をしている自分に気がついて、「飛び降りる」こと。

変わるというのは、そういうものなのだ。
だから、富山県は変わらない。
日本は変わらない。

変わるのは、人間しかない。

ーーーーーーー

富山ブラックにはいろいろなしかけがある。

家を買うことになっている。
「ローンを組むことになっている(この言い方は、経済界の作った呪いであり、正確に言うと「借金を背負うことになっている」)」。
共働きすることになっている。
「内申点」で学校から脅しを受けるようになっている。
お母さんが、不安になるように、作られている。

富山県の「どうしようもない」文化が、制度が、子どもを「どうしようもない」状況に追いやる。

たぶん、子どもは保育園で不当な扱いを受けているだろう。(残念ながら、僕の目から言わせれば、、、、社会福祉法人という組織自体が狂っている。そこで働いている人で、狂っていない人がいたら、奇跡的だ)
それでも、何が起きても、子供をお母さん自身が守ることができない、らしい。
なぜなら、借金を返すために、仕事をしなくちゃいけないから??????????????????

「どうしようもない」

「どうしようもない」

どうしようもない?

ということで、悪口を言ったり、愚痴を言ったり、息抜きに励むようになる。

「どうしようもない」

その無気力、無力感で富山県は、というか日本という場所は満ち溢れている。
学習性無力感・学習性無気力とは?
【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。高岡高校の生徒はなぜ自殺したのか。
富山のメンタルヘルスと「怪獣」
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
ブラックはラーメンだけでいい。学校はホワイトであってほしい。

そんななかで、独自の進化笑を遂げる人もいる。
ひとりひとり違う。

だが、富山という文化で育った心が「自然」と向かう先は、他者に付合することだ。(富山に限ったことではないが)
自立する、選択する、積極的自己責任を負う、といったメタスキルが弱いから、自然と生きる知恵として「決められたことをする」生き方になるしかない。
教育衰退国、富山で生きる知恵だ。(日本が全体、そうなっているが、富山はまたかなりヒドイ。そのデータ、根拠は随所で出しているので探されたし)
「育英」に入れる、というのも、知恵の一つだ。だって、判断する力が、行動する力が、弱いのだから、与えられた情報だけでやっていくしかない。

だがその「知恵」が、子どもの「命」を輝かせるかは、また別の話だ。

「宿題はやらなくちゃいけないものだ」という「知恵」が、多くの子どもたちの心をすり減らしている。
「家を買って借金を背負う」という「知恵」が、多くのお母さんの心をすり減らしている。

これは、事実だと、僕は思う。(そう見える人には、そう見えている)

==========

人は皆、誰もが、投資をしている。
借金をして家に投資したなら、家からいいものをたくさんもらったらいい。
もらえるだけの投資をしたらいい。
そうして「安心」のために塾に行かせるお母さんがやたら多いのだけれど。

家に投資をした。
それだけ大きな額を投じた。
であれば、投資をした分だけ、そこから得たらいい。

得られないとわかったなら、、、借金返済を長引かせて子育てが終わってから「宿題」として返していくのはどうだろう?

人は皆、投資家。
「自分」という資産の価値を理解した人間が、別の価値と出会い、自分の価値を上げていくプロセス。

たとえ、それが「お金」でなかったとしても。

「もの」に価値を感じる人がいる。
そういう人はブランドとか、見た目、にこだわる。

「もの」ではないものに価値を感じる人もいる。
そういう人は、旅行とか、食事とか(「もの」か?)、そういうものにこだわる。

あなたにとっての「家」の価値はなんでしょうか
投資した分だけ、その価値を享受しているでしょうか。
(僕だったらその家が子どもの心を豊かにするために、そして僕自身が研究するのに勝手がいいようにつかわれるだろう。「家」だって「組織」だって、生かすのも殺すのも人間次第)

もしかしたら、それだけ大きな投資をした「家」をきちんと使ってあげたら、うまくいくことがあるのかもしれない。

==========

一人では愚痴もいえない人がいる。
(そもそも愚痴は一人でいうものではないが。。。)

「なんか違うんだよなぁ」と思いながら、その感情を、情を、どうしたらいいかわからない人がいる。

答えはない。
答えは人からもらうものではない。
ただ、ひとりでは「自分の答え」がなかなか出せないのも事実。

そのプロセスが、ひとりひとり違う。(だからオトノネは完全個別×個別)

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ある人は、「いいもの」を感じることもできない。
ある人は「わるいもの」を感じることしかできない。

「いいもの」を感じる心が、潰されてしまっている大人がたくさんいる。
誰かから与えられた「いいもの」に合わせて心を潰している大人がたくさんいる。
(「学校の宿題はやらなきゃいけないもの」だとおもっている人がたくさんいる)

子どもはもちろん、その影響を受ける。
不登校やら、ひきこもりやら、ネット依存やら、なにやら、大人たちが「わるい」とおもっていることは、たいてい「いいもの」を潰されている子どもたちから出た、心をまもるしくみであって、まったく「わるい」ものではない。

僕は逆に、「いいもの」だとおもっている。
それをきっかけにして、大人がどう感じるのか。
感じ直すのか。

これが大人の宿題だ。

どんな生き方をしたいですか?
どんな声をあげたいですか?

日本国富山県ではこういう問いを発すること自体が「不自然」に感じられてしまう文化がある。

お母さん自身が、「ああしなきゃ」「こうしなきゃ」「しかたがない」でいっぱいになっていて、「いいもの」を受け付けられない文化がある。

お子さんと一緒に最後に笑ったのはいつですか。
お子さんの表情をみて、はっとしたのはいつですか。
お子さんの成長を感じられたエピソードはなんですか。
お子さんの話を聞いて、感動したことはありますか。

これが大人の宿題の、基礎の部分だ。

カリキュラムつくろうかな笑

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大人の宿題は、なかなか大変だ。

家を買ってしまった。
借金をしてしまった。
借金を返さないといけない。
お母さんもあくせく働かないといけない。
子どもは・・

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お金でなんとかしてください。
仕事をしているんでしょう?
お金を稼いでいるんでしょう?
なんのために?
家を買うために?
じゃぁ、その家をつかって、ちゃんと満足して子育てをしてください。

こうやって、突き放すこともできる。
(相手が気づく速度、感じる速度を無視して、殴りつけること、暴力)

「家に価値がある」から買ったんでしょ?
それで子どもが困ってる?お母さんが困っている?
自業自得だ。

こうやって、頭で考えることもできる。(言葉で殴りつけることもできる)

「家」のせいにすることができる。
「学校」のせいにすることができる。
「富山」のせいにすることができる。
「日本」のせいにすることができる。

で、「自分」は?
今ここで、この記事を読んでいる「自分」は?

自分自身の大人の宿題を放り出しておいて、「自分」を棚に上げておいて、何かのせいにしたい気持ちもわかる。
それだけお母さんは、アウシュビッツ状態だ。
アウシュビッツは自由・平等・平和の象徴か。

だがしかし。

お金を払って買った、借金を作って買った家に、子どもを閉じ込めて、お母さん自身を閉じ込めてしまっていないか。

それも、現実かもしれないということを、感じられるだろうか。

現実だと認めて、ではどうするか。

これが大人の宿題です。

踏み出したお母さんを、オトノネは応援します。


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ぼくたちはたびたび、「外」に解決策を求める。

まぁ、一人で心は変わらないとおもうからしょうがないのだが。

だが「外」に原因を求め、「外」に解決策を求めているだけでは、足りない。
悪口ばかりいって、誰かのせいにする何かのせいにすることで何かにすがることで自己欺瞞を続ける人は成長しない。

いやまぁたしかに、「外」に向かうことで解決することはあるかもしれない。
けどそれは正確に行って、解決ではない。

「外」で心を大事にすることを学んで、再び「内」に行けるかどうか。

場所を変えたら、例えば日本を出たら、「沈黙の文化」を使わなくていい、とかそういうものはある。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

僕自身が、日本では感じられないことを、日本の外でたくさん感じてきた。
それは、僕の場合。

学びのプロセスは、ひとりひとり違う。
だからオトノネは完全個別×子別です。

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学ぶか学ばないか。
自分ごとにするか、他人事にするか。

頼ってもいい。
けどそれが学びにならなければ、ただお互いに、人間性を、心をすり減らしていくだけだ。

それでは塾や学校と変わらない。
【ビジネスの原理】情を売る。

頼ってもいい。
ただその中で、学び取らなければ、ただただ、「命」を消耗するだけだ。

メタスキル という言葉は、「学びのための能力」と僕は簡単に説明している。
「学び」の回路を閉ざしている何かを、取り払うことで、この回路は動き出す。

だが富山の文化は「学び」の回路を閉ざすようにできている。
(「内申点」の異常な高さは、富山ブラックの象徴だと僕はおもっている)
富山県立高校入試の内申点の配点が異常に高いことを知っておくと後悔しないかも。

「責任」とか「義務」という言葉が呪いの言葉になっていることが、言葉の文化が、「学び」のプロセスをズタズタにしていることも否めない。
学校の責任と義務(責任について・・・いくつめ?)
「責任」という言葉について
責任
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

「命」がよろこぶ言葉、「命」が「生きる」言葉を使おう。
そして「命」がちゃんと輝けるように、「命」を守ろう。

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そのための、「学び」を始めるきっかけにオトノネがなれたらいいとはおもうのだが。

頭の中が借金でいっぱいのお母さんに、なんと声をかけたらいいのか、僕にはわからない。
僕は伝わらない言葉は使いたくないし、何を感じてくれたら伝わるのかを、一瞬一瞬、感じようとしている。
どんな声をかけたらいいのか、レッスンを通じて、僕自身が、感じていく、そしてそれを伝える。それがオトノネです。

頭の中が課題でいっぱいのお子さんに、なんと声をかけたらいいのか、僕にはわからない。

僕からしてみれば、子どもも大人も、同じ状況にいる。
それなのに、大人は高みの見物をして、子どもを「塾」や「学校」でどうにかしようとしていることが多いから、やるせない。

自分の宿題をしてほしい。

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子どもと暮らしていて、感動するエピソード、成長したと感じるエピソードを、心から話すことができるだろうか。
子どもの「いいもの」を「いいもの」としてみられない状況では、「命」の輝きを感じられない状態では、お母さんは、子育てをなんでしているのか、わからないのではないだろうか。

これが大人の宿題です。

子育てが「仕事」になっていませんか。
【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三

お母さんが家のローンを払う「暮らし」をする傍ら、子育てという「仕事」をしていたら、子どもは一体どこで、心を大事にしたらいいのか、僕にはわからない。


というわけで、少なくとも「学校の宿題はやらなくてもいい」というお母さんに問い合わせをしてほしいおとのねさんです。
「学校の宿題はやらなくてもいい」とおもっていないお母さんの「学び」のプロセスを動かせる自信は、オトノネにはありません。

愛を学ぶ、といってもいい。
「は?」
と思った人!
いますね笑
こちらをご覧ください。
愛とは何か?

借金地獄に子どもを巻き込んでいるなら、子どもは傍迷惑だ。
家を守る?
家に、子供を守ってもらう?
子どもを犠牲にして、家を守る??????
(いうても子どもは別にそんなこと感じちゃいないくらい生きているからまぁ大丈夫なんだろうけど。いくらでも人柱になりますよ。それがしあわせかはわかりませんが)


お金の使い方、時間の使い方、お母さん自身の「命」の燃やし方を、オトノネは、お母さんに問いかけます。

お母さんが「子どものために」買ったピアノが呪物になってしまうように、
お父さんがお母さんが買った家に縛り付けられてしまっているなら、やっぱり変だ、と感じるだろう。

心が大事。

【アタッチメント(愛着)の深い意味】幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、しあわせの種をまける。学童期のくもんとそろばんにお金をかけるまえに。
【お母さんもお父さんも必読】『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
意味不明な世界。不確実な世界で生きる「合格実績病」のお母さんに送る言葉。
「子どもの子ども」のためにお母さんにできる大切なこと
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。
好きなことをするお母さん!Hug*smile
お母さん、子どもを守るために、参政しよう。
子供の自立とお母さんのライフサイクル
勉強ができない理由はお母さんのしつけと習い事?
句読点が書けない?お母さん、心配しすぎ!
お父さん、お母さん、お子さんのビジネスに投資しませんか?
教育と福祉の架け橋がない。お母さんが学ぶべき子どもの発達のこと、現代の社会のこと、現代の育児本に書かれていないこと。
まだまだ小学生。思春期はいつ来るのかな?来るのかな?笑
成績が伸びない勉強しない簡単な理由。勉強より大切なこと。
保育士、お母さんたち必読の書。平井信義さんの「意欲」と「思いやり」の子育て。

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ところで、借家と、家を買うことの違いはいろあるけど、僕は「自分なりにカスタマイズしたい」なら家を買うのがいいとおもう。
それも、「自分の創造性を高めるために」という理由だ。
家の構造、家の雰囲気一つで心は変わってしまう。
自分が「創造的に」なるために家を立てるのはいいことだとおもう。

別の人は「見栄」のために立てるかもしれない。

家を買うといことは、その土地に自分を固定する、ということでもある。
それでいいのか。富山でいいのか。もっと、冒険してみたくないのか。考えてみてもいい。
誰かが言っていた。とあるお金持ちの人だ。「僕は家を買わない。子どもがいじめられたら、引っ越すことしか、僕にはしてやれないから」だそうだ。

お金の話をしたら、借りるのも買うのも、一世代だけが住むなら同じだと僕はおもっている。
手に入れた「家」が一代で終わるなら(子どもと富山にしばらないなら)、買う価値はない。

要するに家を買うという文化によって、富山人は富山で生まれた人を富山に縛り付け富山化させる。

これが、魔王の世界だ。

古い世代と新しい世代の関係性が、問題だ。
なぜこんなに新しい人たちは弱いのか?言いなりになるのか?
2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

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【ビジネスの原理】情を売る。

愛を売る、と言われて思いつくのはホストとかキャバクラとかいう夜のお仕事だったりなんだり。

塾も学校も愛を売っているケースがある。

いやいや、愛は残念ながらスキルなので売れない。
愛とは何か?

情のエネルギーを注ぎ込む「型」になんと名前をつけたらいいのか、考えてみよう。

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塾にいる「やさしい」先生。
通学中にお腹が痛くなって迎えに来てくれる先生。
頑張って進級「させて」くれる先生。

どれも、「愛情」のあるいい先生のように思える。
行為レベルでは。

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言語レベルではどうだろう。
「やさしーくしていないと生徒はやめていくから甘やかす」
「迎えに行かないと学校何してんだと言われるし、生徒からもなんで来てくれなかったのかといわれるから行く」
「教育委員会からの評価も下がるし、親への対応もめんどくさいから進級させる」

これはどんな「情」からくるのだろうか。

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学校も塾も、情を売るサービスだといえるだろうか。
安心を売る塾。
卒業資格を売る学校。

「立場」や「役」をどう考えるか。
塾や学校は「安心を売る」「卒業資格を売る」ことで立場を守っている。
そのために「やさしい」とか「迎えに行く」とか「進級させる」という役を担う。

それが、ビジネスの原理。

僕にはどういうわけか、塾や学校がキャバクラやホストクラブと同じように思える。
愛のない情の世界で、子どもたちは、今日もスマホを手に、レバニラを探して歩いているのかもしれない。

レバニラかとおもって注文したら、ニラしか入っていないのが、「自然」な世の中になってしまった。
「レバニラ」を頼んだら、「ニラ」がでてくることに、違和感がなくなってしまった。
「ご注文の、レバニラです!」「え?レバーは入っていないんですか?」「え?入っていますよ?これが、レバニラです!」
そうして、「ニラ」を「レバニラ」と呼ぶようになった。

ビジネスの原理から子どもをどう守るか。
お母さんが、ビジネスとして子供を育てていたなら、もう、ニラばかりで、子どもは別の進化を遂げ始めている。

と、僕は感じている。

レバーのない世界で、子どもたちは、新しい生き方を、探し始めている。
レバーを諦める人もいる。
レバーを探す人もいる。

二つの文化が、お互いにお互いを尊重できるなら、いいのであるが。
2つの文化

愛は、情ではない。

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