ここが変だよ自己啓発本『仕事は楽しいかね?』

本屋で見つけて気になって図書館で借りて見た。


決定版 仕事は楽しいかね? —会社の宝になる方法 (日本語) 単行本 – 2007/3

副題をみると「会社の宝になる方法」とある。
あれ?そんな副題、おかしくない?なんか日本的じゃない?
これは翻訳本じゃなかったのか・・・・

というわけで、原題を調べてみた。

Better Than Perfect
Better Than Perfect: How Gifted Bosses And Great Employees Can Lift the Performance of Those Around Them

「会社の宝になる方法」と書いてあるのは、売れるように日本人が勝手に考えた副題だった。

翻訳者が「売れるように」魔界に魂を売った。

2012年の再版では、タイトルが変わっていた。


仕事は楽しいかね?《最終講義》 (日本語) 単行本 – 2012/8/1

さすがに「会社の宝になる方法」はまずいと悟ったのだろう。

このコピーを考えた人は、時代を間違えしまったらしい。

オトノネひろげるシェアぼたん

コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

経済学の船出

『経済学の船出-創発の海へ-』には、『合理的な神秘主義』『ドラッカーと論語』『複雑さを生きる』などででてきた人たちが登場する。
ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー、スピノザ、ドラッカー。
他の本では紙面のバランス上、ふかく取り扱われなかった人たち(ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー)に関して、なるほどと思える説明がなされている。
『合理的な神秘主義』よりもまず『経済学の船出』を読んだ方が、理解がしやすいかもしれない。

また『ありのままの私』でマツコデラックスさんとからめて話している「無縁」の概念を詳しくしてくれている。

経済学の本かと思えば、、
そうだ。経済とは、コミュニケーションを、人間らしさを助けるためにある、と考えている安冨さんにすれば、経済の話をすることは、人間のコミュニケーション、人間の学びの話をすることと同義なのだ。
そういうわけで、『経済学の船出』の終章では「アカデミズム」(=大学業界)の欠陥、盲点を指摘する。
経済の話をしたければ、数学を学び、歴史を学び、科学を学び、哲学を学び、人間を知れと。
そうして、すべてを結びつけた新しい学問の名前は、ドラッカーの言葉を使って「社会生態学」と呼ぶのが良いと。

ーー

追記:安冨さんが銀行で務めていた時の様子、銀行の有様笑、銀行という、今となっては悪い商売が成り立つしくみが知りたい方はp.150をお読みください笑

銀行員のやっている業務の本質は、関所の維持管理だ、ということになる。(p.156)

日本の銀行員は「企業家を見出す」という本来の能力を完全に失ってしまったのである。能力を失ったばかりか、そう言う仕事をしている、という意識さえも喪失してしまった。(p.156)

いろいろな「意味のない」仕事、創発的価値をもたない、拝金主義の例をあげてくれています。

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かつて、とある人に、「もし伝わらないのなら、100%自分(伝え手)が悪い」といわれたことがある。
果たしてそうなのか。
ずっと疑問だった。

いやいやまぁ、伝え方が下手だから、と、伝え手としての能力を向上させるための文句だったかもなぁとおもいながら。
どうやっても伝わらない、という人に、出会ってきたからおもうことだ。

ーーー

ドラッカーによれば、コミュニケーションの基本原理は次の4つである。
1コミュニケーションは認知である。
2コミュニケーションは予期である。
3コミュニケーションは要求する。
4コミュニケーションと情報とは、異なった、というよりほとんど反対のものであるが、それでも相互に依存している。

第一の原理は、「聞く人のいない森で樹が倒れたら、音はするか」という有名な公案に表現されている。ドラッカーによれば、これは、禅僧、イスラムのスーフィー、ユダヤ教のラビなどによって古くから考えられてきた問いであるという。この公安に対する正しい答えは「音はしない」である。音波が生じても、それを聞くものがいなければ音はしない。弟は認知によって創造されるものであり、音を聞くということは、すでにコミュニケーションなのである。
この公安は、コミュニケーションは受け手がするものだ、ということを含意している。いわゆるコミュニケーター、すなわち送り手は、コミュニケーションをしていない。彼は叫んでいるだけである。誰かが彼の叫び声を聞いて認知してくれるまで、コミュニケーションは発生せず、そこにはノイズがあるだけである。(略)

受け手が主体であるがゆえに、受け手の受容可能な範囲が、コミュニケーションの実現可能範囲となる。この点は、プラトンの『パイドン』のなかでソクラテスによって表現されている、とドラッカーは指摘する。ソクラテスは、人に話しかける際には、受け手の経験に基づく言葉で話さねばならず、例えば大工に話しかけるには、大工の比喩を使わねばならない、という。つまり、コミュニケーションの主体である受け手の機体の範囲内でしか、コミュニケーションは成立しない、とドラッカーは考える。(略)

ここでは受け手の「制約」について二つのことが言われている。第一に、受け手には、身体的、文化的、感情的制約があり、その範囲を超えたメッセージは無視される、ということである。第二に、受け手が経験に基づいて感情を変えるという意味での学習過程を作動させていなければ、コミュニケーションは成立しない、ということである。この両者は矛盾しているわけではない。第一の場合は、受け取り可能範囲の問題であり、そこを超えたメッセージは「無視」される、ということである。第二の場合は、たとえ受け取り範囲にメッセージが入ったとしても、それによって受け手に「経験に基づいて感情を変える」という出来事が生じなければ、メッセージは何の変化も起こさず、それゆえ「何も新しいことはない」という形で処理されてしまうのである。これは「黙殺」と言うことができる。先ほどのキャッチャーの比喩でいえば、たとえキャッチャーの受け取り可能なボールが投げられても、キャッチャーに受け取る気がなければ、ボールは受けられない、ということである。(『経済学の船出』安冨歩 p.118)

当たり前のようだが、なかなか気づきにくい。
とらわれてしまう。

ーーー

この人は、「黙殺」しているのか「無視」しているのか、受け取る範囲で言葉を投げられているのか、それとも、悪意があって受け取らないのか、判断することは難しいかもしれない。

たとえば「ああしたらこうする」という文化的な制度があったとしよう。慣習というやつだ。結婚したらブリを送るとか、かまぼこを送るとか。
で、「送られてくるはず」なのに、、送られてこなかったとしよう。

送られてくるはずのものが、送られてこない!

もしかしたら、県外の人で、そんなことを知らなかったのかもしれない。
届いているとおもっていたボール(今の状況なら、結婚したらブリを送るという慣習)が、実は手の届く範囲に投げられていなかった、という、メッセージの送り手のミスだ。
「県外からきたから、知らないんだろうな。どうしようかな」という相談をしたらよかったのに、それをしなかった、伝達ミスである。

もしくは伝達がなされている上で、「いや、それは富山県の慣習であって、私たちはそれをしようとおもいません」と心に決めて送っていなかったのかもしれない。

ーーー

そこで、例えば「ブリを送ることは大切なことなんだ!」ということを伝えたい人がいたとしよう。

例えば『スイッチ!』という本では、人が変わる、考え方を切り替える、新しい考えを学ぶための取り組みが書かれているわけだが。。。


『スイッチ!』
『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』のメモ

社会的な慣習や制度は「行為」を要求するが、「心」を要求しない。
「心」の関わり合いを排除して「学び」のプロセスを動かさずに「当然そのようにあるべきだ」というべきべきなくちゃ思考で苦しんでいる人が多い。
なのでブリの例をだしたのだが、、、
「母親として」「長男として」とか、「女性として」「男性として」「会社員として」「生徒として」といった立場を突きつけて肝心の「心」を攻撃することもできる。
文化・制度はそれ自身、非人間的なハラスメントを含んでいる。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

だが文化や制度・慣習を使うのは人間だ。個人だ。
そのなかで「生きる」のは人間だ。

さて、どうしたものだろうか??

ーーーー

僕らには聞こえていない「叫び声」が、オトノネが、今もどこかで響いているのかもしれない。

メッセージの発し手は「叫ぶ」だけであって、それだけではコミュニケーションは生じない。誰かがそれを受け止めて、心を動かすことが決定的条件である。コミュニケーションが生じるには、受け手が、自らの経験に基づいて感情を変える、と言う学習の構えを開いておかねばならない。

以上に立脚するドラッカー経営額の根幹は次のようにまとめることができる。
(1)自分の行為の影響の全てを注意深く観察せよ、
(2)人の伝えようとしていることを聞け、
(3)自分のあり方を改めよ。

これは個人に対しても、組織全体に対しても当てはまる。(『経済学の船出』安冨歩 p.130)

ーーーー

ドラッカーは学習回路の閉じた受け手に対して、ショックを与え、学習回路を作動させ、制約を取り払うケースについて興味深い議論を展開している。

 人の心おは、印象や刺激を、予期の枠組みに合致させようとする。それは「心を変えさせ」ようとする、つまり、受け取りを予期していないものを受け取らせ、予期しているものを受け取らせないよゆな、いかなる試みに対しても、頑強に抵抗する。もちろん、受け取ったものが予期に反しているという事実に気づかせることは可能である。しかしそれには、何が受け取られると予想されているか、を事前に知る必要がある。そしてさらに、「これは違う」という明確なシグナル、つまり連続性を打破するショックが必要である。

ドラッカーはこのショックについて、「聖書の伝えるところでは、神でさえ、サウルに衝撃を与えて盲目の状態にしてはじめて、パウロとして自らを立ち上がらせることができたのである」と指摘している。(『経済学の船出』安冨歩 p.122)

人が変わるためには、とてつもない何かを必要とする、というのは、僕も感じているところ。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

感じないように生きている大人たちにとって、子どもは、いつもきっかけを与えてくれているようにおもう。
子どもらしさを失った大人が蔓延しているこの狂った社会では、なおさら。


ひきこもり、不登校、いじめ、もしくは成績不振笑やウィスクの結果などという出来事からのメッセージを受け取れない、コミュニケーションつまり学習の回路を発動できずに、ただただ狂うだけのお母さんに育てられた子は、もはや学びの回路を焼き尽くされて、自分で作り直すのにだいぶ時間を使うだろう。まぁそれも、人が生きるプロセスの一部なのだろうけれど。

社会の構成要素は人々の行為であって、心ではない。個人でもない。
その行為を個人から導き出すための仕組みが、制度であり、規則だ。
社会はそれ自体、コミュニケーション、学びのプロセスをつくってはくれない。

『合理的な神秘主義』に書かれていて驚いたのだが、なるほど、学びのプロセスは、極めて個人的だ。
個人がナンバープレートに書かれて管理されるだけになっていないか。
学びのプロセスを発動すること、コミュニケーションが問題行動を意味する組織は、アウシュビッツと似ていないか。

「学校に行く意味って何ですか?」

学校の先生に聞いてみよう。

社会性を学べるとかいうのかな。

「社会性とはなんですか?」とさらに聞いてみよう。

囚人としての作法を、学べる、ということだろう。
「隷属することが前提」なのだから、仕方がない。話にならない。

ーーーー

組織が「衝撃」を受けるということは、そうとう大ごとだし、たいてい、隠蔽や欺瞞のシステムが働いて動じることがない。
本来なら「自己変革」をせざるを得ない状況でも、ただただ、それこそ権威を盾に無かったことにする仕組みが、学校にはある。

カレー事件も、結局、学校の組織、しくみをかえることなく、狂った教員がいなくなっただけで、狂った学校は、次の狂った教員をつくりあげてしまう。

「前例がない」「常識だ」「普通」「筋を通す」「みんな」「公平」「きまり」といった言葉を口にしてハラスメントを行なっている。
子どもたちの学びの回路を壊している。

学校は学びの場ではない。
学び合うおとなが、いないのだから。。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹
学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。
学校のしくみ【753教育】とは何か。学校って何?

学び合うこどもにであえる幸運に巡り会うこどもがいるだろうか。
その子どもたちの学びの回路を焼き尽くそうとする学校という場所で。

そういう仲間に巡り会えた子は、しあわせだ。

ーーーー

自分自身のマネジメントから、まずはやっていきたいとおもう。

自分のマネジメント
家族のマネジメント
仲間のマネジメント
職場のマネジメント

まずは、自分自身。

オトノネひろげるシェアぼたん

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

最近、問い合わせがあった。
学校で、先生にいじめられた子の話だ。
もちろん、よくある話で、社会的に、組織的に、合法的にいじめられる。

だからそれは「いじめ」ではない。
どれだけ富山県の外にきたお母さんが富山県で「いじめ」に合おうとも、富山県の中では、「いじめ」は「文化」であり「常識」であり「自然」であり「正しいこと」としてただただ、したがって行くしかない、みたいな、諦めの世界に人を誘う。

いじめに対して、このような大人の姿勢から子供が何を学ぶだろうか。
「いじめられたら、諦める」

「諦める?」

それが何を表しているのか。
「生きる」ことを意味しているのだろうか。それとも「死なない」ことを表しているのだろうか。
「命」を握りつぶすことを意味しているのだろうか。
それとも、「命」が輝くことを意味しているのだろうか。

もしくはいじめられたら、いじめた人に「攻撃する(いじめ返す)」大人もいるだろう。組織的に、計画的にいじめ返す人がいる。
いじめられた!といって、他人を攻撃することを意図した悪意ある大人もいる。

そしてもう相手が反撃してこれないように、徹底的に、潰す。(体裁的には相手が勝手に潰れるようにも見える)
多くの組織が、全体主義的な「ハラスメント」を別の組織に仕掛けている、といえるだろうか。あー頭が回らない。

大人の社会そのもの、と考えてもいい。

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

ーーーーー

ある子は、遊びに誘った同級生から「今日は○○ちゃんとあそぶから、あなたとは遊ばない」と言われたらしい。
これを、いじめ、ととることだってできるし、ただの心の構造、とみることもできる。
「遊ぶとは、誰かと契約関係を結ぶようなものである」という心があるかもしれないし、
「その子の“占有物”にならなければ、“遊ぶ”ことにはならない」という心があるのかもしれない(爆)。

わからない。

とにかく、

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

いじめは問題ではない、「いじめ」という現象が立ち現れたときに、その「心」とどう関わるかが問題なのだよ。
なぜなら、いじめは、なくならないからだ。

いじめとどうかかわる?

本当は、自分自身が、自分をいじめているのかもしれない。
本当は、お母さんから、いじめられているのかもしれない。

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

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生きる技法
『生きる技法』ではこれに対してズバッと方略を提示する。

「破壊的構え」の人を、バッサリ切るということだ。
(ちなみにではあるがメンタリストのダイゴさんも同じようにいう)

あまりにも手ごわい、心が追いつかない脅威に対しては、心を守るために逃げる、関わらないという選択肢が有効だと僕も思う。
僕自身が、自分の心を守り育てるために環境を選び続けて来た。

バッサリ切る、といっても安冨さんは、自分に余裕があるなら相手が「創造的構え」をとれるような姿勢を取るのが、「学」としては理想的だというが。
これは並大抵のことではない。

僕自身も、坂口安吾のいうように、「堕ち切る」ことによってしか、学びのプロセスを始動できない、とおもっている。
もしくは、「破壊的な人」に構うことにエネルギーを注ぐより、自分が「創造的な人」となって「創造的な人」と人間関係をつくることのほうが、第一優先だ、といってもいい。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

破壊的な構えをもった人は、欺瞞にあふれていて、対話というものができない。
何かにとらわれていて、心を開くことがない。ただ情報処理を行い、事前にプログラムされたシステムを発動させるだけの機械だ。
巧妙に、相手の心につけこみ、破壊するウィルスだ。

学校に蔓延している。
会社に蔓延している。
時として、家庭にも、蔓延している。

いじめをハラスメントとしてみれば、世の中に、いじめのない場所を探す方が難しい。(そんな場所をつくることが、「生きる」ためには大切になってくる)

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経済学の船出
『経済学の船出』安冨歩

この本では、「貨幣経済は縁切りによって安定する」「貨幣経済はもともと安定と不安定を繰り返す複雑系である」「貨幣は人間の関係性をよくする手段にもなるが、ハラスメントを引き起こす道具にもなる」ということが書かれている。
ざっくり笑それでいいのかな??

いじめを安冨歩さんのいう「ハラスメント」だとしてみよう。

以下の文章は、安冨さんはなんも喋っていない。
僕が考えたことなのであしからず。

ーー

私たちは貨幣を用いたいじめの加害者でもある。
「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。)
「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。

これは、いじめではないのか。

私たちは、マクドナルドにいくことで、家庭教師のトライ、あすなろを利用することで、もしくは「塾」に行くことで、または百円ショップを使うことで、いじめに加担している。
見て見ぬ振りをしている、傍観者になっている、それもいじめの一部だとしたら、立派ないじめであるし、卑しめでもある。

といってしまってもいいのだろうか。

「限りある資源」をどうつかうか(どう減らすか)。
生きるために…

という方向と

「限りある資源」をどう増やすか。
生きるために…

という方向があるだろう。

すると、お金はテクノロジーであり、どう使うか、使い方次第では、人間の精神を規定してしまうものになる、ということは簡単に想像がつく。
機械やテクノロジーによって、人間のあり方はだいぶ、制約をうけるようになった。

貨幣にも、その働きがある、ということを、思い出した方が良さそうだ。
僕自身、常々、思い出せずに暮らしてしまっている笑

工場で作られるような食べ物を買うことは、コンビニ弁当を買って暮らすことは、なるほど、便利かもしれない。カップ麺で暮らす人もいるだろう。
もし全員がカップ麺生活をし始めたら?きっと誰も、お手製のラーメンを食べられなくなってしまうかもしれない。「小麦粉」から自分で作らない限りは・・・極端な話だが。

安いものを手に入れるのと同時に、「阻害される人」がでてくる。みんなカップ麺だけ食べてたら、生の麺をつくる人がいなくなってしまう。「どうせみんなカップ麺食べるんだ。。」といって、いじめ抜かれていると、想像してみるとどうだろうか。
「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。)
「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。

「いじめられている人」の存在に気がつかないなんて、普通のことだし、まさか自分が加害者だなんておもうことなどそうそうない。
はたまた、「すべての人のことを知ろうとしたら、感じようとしたら、頭が狂ってしまう」といわれたら、なるほどと思える。

いじめは、普通の出来事なのだ。
自然な出来事なのだ。

いくら「牛肉は地球を壊すから食べちゃダメ!」といわれても、食べるのだ。
いやいや、食べる回数くらいは減らせるだろうが・・・

人間的な、出来事なのだ。
(SDGsは開発国の良心の呵責を埋める免罪符として機能している側面がある)

それこそ、「限りある人間」という存在をどう生かすか、どうやってこの情けないほどに「有限」な人間が生きていけるのか、はっきりとした態度がとれるようになったら、すこしは楽になるだろうとおもう。

その一つの考え方が、

そもそも「生きる」とはどういうことか。
という視点になるんだろうと、私は思うのだが。それを安冨さんは「学」に求めるのだし、「神秘」に求めるているのだろう。

破壊と創造の神シヴァに、聞いてみようか?笑

「死なない」ことを夢見るのではなく、「生きる」ことを夢見てみよう。
どうもよのなか、大人たちは「死なない」ことに全力を尽くしているような気がして、危うい。
否定形の夢は、否定を取った形で実現するらしいからね!(『生きる技法』)

===================


先生からも同級生からもいじめられている子のお母さんは、「学校に行く意味はなんですか」と聞いてくれた。

すごくいい質問だなとおもった。

僕の答えはこうだ。

「世の中、いじめなんて当たり前だ。その中で、どう生きるか、それを学ぶために学校がある。休むでもいい。言い返してみるでもいい。素直に従って隷属するのでもいい。やってみて、試して、心に感じたことをきちんと抱きしめて、そうしてじゃぁどうしようかと、心に聞いて見てほしい。休んでもいい。行かなくてもいい。行ってもいい。どうでもいい笑ただお母さんが、もしくは誰かが、その子の学びのプロセスを支えてあげることが、大切です。学校は何かを学びに行くところです。学べなければ意味がありません。今の状態で、何を学びますか?今、お子さんにとって、学校は、意味のないところのように私は感じます。もう学ぶことは学び尽くしたのか、学ぼうにも学べない状態なのか、わかりませんが。」

「いじめ」は「自然」。
「けんか」と同じ。

「いじめ」は「自然」。
「すれちがい」と同じ。

「いじめ」は「自然」。
「嫌な人」がいるのと同じ。

「いじめ」は「自然」。
世の中が、暴力で満ち溢れているのと同じ。

「いじめ」は「自然」。
暴力的な人が、組織のトップになりやすいのだから。

「いじめ」は「自然」。
だれもが劣等感や妬みや怒りや慢心をもって生きている。

決して、「いじめ」は、なくならない。
大人になったら、思う存分、いじめられるのだし。(思う存分、いじめる人もいるということ)
それにどう向き合うのか、向き合わないのか、かわすのか、つきあうのか、、、、

ただし、いじめはコミュニケーションの一つのあり方であって、反応次第では、関係が変わるかもしれない。
暴力、支配、干渉、過保護、人間疎外、自己疎外、そういったことが「自然」な世界で人とどう関係して行くか。自分をどう守って行くか。

ーーーーーーーーーーーー

「諦めて」学校に適応できるように、心を「つくりかえる」のでもいい、「何くそ」とおもって、学校の外で「創造的な」人間関係をつくるのに心を注いでもいい。
だがもし、学校という場所の狂気をきちんと認識して、学習の場として「もう無理」のサインを子どもが出したら、それは、きちんと受け取る以外に、その子の魂を守ることはできない。

その子自身が、その子でしかない、その子だからつくりあげる「心」そのものが、その子です。
「学」そのものが、その子です。

まだ学校の先生に、いじめた子に、何か働きかけられそうなのであれば、働きかけてもいい。
「だめだこりゃ」とあきらめられるまでやってもいい。
(ただ本当に学びの回路がないのか、それとも伝え方を強くしたり、伝え方を変えたらいいのかは、判断がつかない、つきにくいのが難点)

一方で、富山県の人たちの多くは「学校に、いけたらいいわね」とか「行く」ことが前提にあるらしい。
しかもそこにはコミュニケーションが介在しない。学校に、合わせる、というのが前提にあるらしい。
そういう呪文、呪縛、呪いから、身を守る方法をお母さん自身が学ぶ機会を、お子さんは与えてくれたのだ、とおもう。

破壊的な構えをする人は、学ぶことがない。
富山県の学校は基本、破壊的だ。
従属を求める。
ただ破壊兵器のように、相手を支配するために振る舞う。
(それは富山県の「文化」であって、「自然」であり「正常」であるがゆえに、恐ろしい)
富山のメンタルヘルスと「怪獣」
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。高岡高校の生徒はなぜ自殺したのか。
【ある古老の語る仮説】富山県で共働きが多い理由。
富山県で共働きが多い理由を考える。

このような関係性から何かを学び取るには、、少なくとも、学びの「フィードバック」をくれる人が必要になる。
「フィードバック」の機構それ自体を変えるような学びは、学びあえる人がいなければ、つくられない。
その大切な存在が、お母さんであると僕は信じている。(友達でもいいのだが・・・そういう友達とめぐりあえる子はしあわせだ)
子ども時代に、母親からこのような学びを替えれなかった場合、大人になって、この宿題に取り組むことになる。
コドモとして未成熟なオトナ

ーーーー

電話をくれたお母さんは「安心した」といっていた。
自分の感覚がおかしいんじゃないかと、もんもんとしていたのだ。周りの人が狂っているので。

オトノネに電話をしただけで、世界が変わる。
オトノネは、そんな場所です。

学習の回路が開いた方でなければ、なかなか利用することは、難しいでしょう。

学習の回路が開けずに、身体的に、もしくは心的に、死んでしまう人が、たくさんいます。
そういう稀有な人のための、オトノネです。

ーーーー

稀有な人が、富山で育った人にも、県外で育った人にもいる。
遺伝が50、環境が50という世界で、ひとりひとりが個性ある心をつくっていく。

狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。

とある発達心理学者は「発達とは、鈍感になっていくことである」と言った。
脳は「効率化」のために、全ての音を聞き取れていた赤ん坊を、学習によって限られた音しか聞き取れない大人にする。
世界から与えられる多くのメッセージを、切り刻んで、部分的にしてしまう。
社会は、文化は、その感じ方、モノの見方を教える装置だ。「効率的に」私たちが暮らせるように、人を、狂わせる。

その装置の中で悶え苦しむ魂がある。
僕自身がそうだし、同じように苦しむ人がいたら、オトノネに遊びにきたらいい。

狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。

それこそ、神秘に委ねられた、ありのままの世界として受け取るしかない、暗黙の次元に属する問いであろう。

『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

オトノネひろげるシェアぼたん

【暗黙の次元って何?】安冨歩さんの『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』のメモ

【暗黙の次元って何?】安冨歩さんの『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』のメモ

中間報告。
オトノネのネを感じる本(´,,•ω•,,`)

【暗黙の次元って何?】安冨歩さんの『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』のメモ

1「学」
2 ショッカーの世界
3「暗黙の次元」
4「生きる」ために

自分の勉強のために書いたものです。

まだ途中ですが流しておきます。

 

基本、安冨さんの本から引用しただけです。

意味付け、つながりをつくるための見出しをつけています。

構造化(解体再構成)しながらうーむと唸っています。

それからたまに僕の気持ちを書いています。

おとのねさんに興味を持たれた方はぜひオトノネに遊びにいらしてくださいぬん。

おとのねさんってどんな人?とおもった方は「愛」を語るおとのねさんの記事をお読みください。

愛とは?

。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。 ゜

本を読みながら、「生きている」ことと「死んでいない」ことの違いを感じています。

「生きる」とはなんだろうか。
僕らは「生きて」はおらず、「死んでいない」だけではないのか。

そんな問いを、僕は安冨さんからもらった気がします。

「学」

「仁」がなければはじまらない?

論語の思想の核心は、以下の八つの概念で表現される。
仁・礼・和・忠・恕・道・義・知
これらを「論語の基礎概念系列」と呼ぶ。このなかで最重要のものは、いうまでもなく「仁」である。あとは全てそこから派生する。「仁」という概念は、学習の回路が開いている状態をいう。学習回路が開いている、というのは、自分の言動が引き起こした影響を、しっかりと受け止めてその意味を把握し、そこから自分のあり方を改めることができる、ということである。そうして自らの実践から学び、どこまでも成長していくことのできる人間が「君子」である。学習に喜びを感ずることは、人間の本性である。ところが、一旦、何かを身につけた、あるいは手に入れた、と思い込むと人は、それに固執してしまう。そうなると、それにしがみついてしまい、自分を改めることが難しくなる。そうやって固陋(ころう)になった人を「小人(しょうじん)」と呼ぶ。小人は自分の非を認めることができず、強いものに怯えて追従し、弱いものには傲慢になる。そういう人は、学習回路が閉じているのである。

学習回路が開かれた「仁」なる人同士が出遇い、お互いにやりとりすると、双方おが互いの人格をお尊重しつつ、相手の言葉を、自分の振る舞いに対する「応答」として受け取り、常に自分自身の思い込みを改める形で自らの言葉を紡ぎだす、という姿勢が見られる。このとき、両者の対話のあり方を、「礼」という。(『合理的な神秘主義』安冨歩p.24)

問:学習の回路とは?学びが始まらない人は、どうするの?

行為することで知る。なぞることで知る。知は能動的。

試しにちょっと目を閉じて、人差し指をあなたのきている服の袖口にそっと置いて動かさないようにしてほしい。何か感じるであろうか。何も感じないので絵はないだろうか。次に指を静かに動かして服の表面をさすってほしい。衣服の繊維の作り出す微妙な凹凸を感じることができるであろう。指先から中枢神経を回ってサイド指先へと戻るサイクルを起動させ、指先を動かすという行為を組み込んで初めて近くは生じる。この場合にも、人差し指の先の神経は繊維そのものを入力とすることはできない。繊維のつくりだすちがいという普遍な状況が、指を動かすことによって手触りの変化という出来事を生み出して近くと行為の織りなすサイクルに入り込む。この簡単な実験は、指先の神経から入った刺激が脳に到達して対象の像を形成するという受動的な描写が事実ではないことを示唆している。皮膚感覚ばかりではなく、資格についても同様である。ものをじっと見るときには眼球が止まっているように思えるが、実際には眼球を支える筋肉が細かく振動しており、これによってはじめてものを見ることができる。さきほど服の手触りを感じるのに、指先を動かして袖口をさする必要があったのと同じように、目玉も世界をさすっているのである。生き物にとって世界は、者それ自体で構成されているのではなく、ちがいの知らせによって構成されている。われわれはこのちがいの知らせを手がかりとし、行為することで世界を読み解き、情報を抽出して生きている。抽出という主体的なかかわりなしに知覚は生じない。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.14)

たとえばネットサーフィンをしていたとしよう。「あれ?この記事・・・」とどうして私たちは思えるのか。「その情報をまさに求めていた」とまでは思わないが、「気になる」という心の状態がある。その状態に至るネットサーフィン=なぞりから学習は始まっていて、「気になる」ところから深みが生まれてくる、と思えば、youtube徘徊も、「学」の一部なのだろう、か。

「学」は「過ち」を認めるところから始まる。

ウィーナーのサイバネティックスは、『論語』に始まる儒家の思想と、強い相同性を持っている。その今回は、人間の身体の作動に基づいた、学習の過程に、社会の秩序の基盤を見出す、という点にある。両者の相同性はそればかりではない。すでに明らかにしたように、『論語』の論理構造には、サイバネティックな側面がある。
子曰、過而不改、是謂過矣。
子曰く、過ちを改めず、是を過ちと謂う

この章の意味は、「過ちを犯して、改めないのを、過ちという」ということである。これはフィードバック機構そのものである。サイバネティックスの用語を使って謂うなら、ここの行為が正しいか間違っているかは大きな問題ではなく、間違っていた場合に、それを改めるフィードバック機構が作動しているかどうかが、大きな問題だ、ということになる。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.189)

問:フィードバック機構それ自体の修正以前に、「過ち」と認められなければ、「学」は始まらないのだろうか。

子ども時代に学ぶべきこと。

ミラーは、このような闇教育の連鎖が人類社会を危機に陥れていると考えており、その連鎖を断つことが、私たちにとって何よりも必要なことだと説く。そのためには、自らがそのような悲惨な子ども時代を送ったのだ、ということを認めることが不可欠である。ところが人は、その痛みを引き受けず、そこから目を背ける強い傾向がある。ミラーは次のように指摘する。
(略)誤りを認めることは、どんな場合でも簡単ではありません。この能力もたぶん、他の多くの能力同様、子ども時代に獲得し、のちにそれをさらに発展させることが可能なのではないかと思います。もしも、誤りに対して叱りつけられるのではなく、愛を込めて、自分のふるまいのどこが適当でなかったのか、あるいはそれだけでなく危険でさえあったかを説明してもらえば、私たちは自然に後悔を感じ、人間というものは間違いを犯さずにはいられないという経験を、自分の内に組み込むことができるのです。ところが、親がごこう小さな間違いでも許さず、罰を下していると、私たちはそれによって、自分の失敗を打ち明けるのは危険だ、そのために両親の愛情が奪われてしまうから、という知恵を獲得することになります。このような経験は永続的な罪悪感と不安をもたらすことにもなりかねません。
ミラーのこのような指摘は多くの人々を震撼させた。それは誰もが自分自身に対して秘密にしていたことだからである。しかしミラーの著作は多くの国で読まれ、児童の虐待が新奥な反社会的行為である、という認識を広く知らしめることになった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.250)

問:失敗してもいい、間違えてもいい、ということを学んできましたか?

主体的「状況認識」

「アイヒマン実験」と一般に呼ばれるのは、彼がエルサレムで行われた裁判で「私自身はやりたくありませんでした。私は言われたことをやっただけです」と言い訳したからである。「実験者」が「先生」役の被験者に命令する場合には、「実験は、あなたが続けること必要としています。(The experiment requires that you continue.)」というように、単なる人間の命令を超えた客観的な印象を抱かせるような言葉が使われた。これによって被験者は、自分が置かれている状況を謝って(あるいは「正しく」)理解するのである。
被験者は、自分と同じような人間が、実験を続けて欲しがっているだけだ、ということを認識できなくなる。彼にとって人間という登場人物が視界から消え去り、「実験(The Experiment)」が非人格的な重圧を獲得してしまったのである。(略)
ここでミルグラムが指摘していることは、「コンテキスト」という深刻な問題である。ある行為の意味は、その行為そのものでは決まらず、その行為が置かれた状況に依存して変化する、というのである。しかも、その「状況」は、客観的状況ではなく、主体の「状況認識」に依存する。ミルグラムの実験では、大半の人は唯々諾々と電気ショックを与えたが、なかにはそれを決然と拒否する人がいた。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.256)

人間行動にとって本当に大切なことは、自分の状況をどのように把握するか、である。外部から設定された状況に「適応」してしまうことで「服従」が生じ、それが暴力を生み出す。グレッチェンのように、自分で自分の状況を把握しているなら、そのような暴力に身をまかせることはない。ミルグラムの実験は、まさにガンディーやキング牧師の「不服従」についての実験であり、つまりは、被験者の「魂の植民地化/脱植民地化」に関する実験だということになる。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.259)

「心」を働かせるために

「恕」というのは、「如」と「心」とでできている。これはつまり「心の如し」とおいおう意味である。「恕」には「おもいやり」というような訳語を与えられているが、それは、自らの内なる心の作動から生じるものであって、外面的なものではない論語には「恕」を定義した次のような問答がある。(略)「己所不欲、勿施於人」という句は、「自分のやりたくないことは、人にするな」という意味になる。これは一見したところ当たり前のことに見える。しかしもしあなたが組織に属しており、なんらかの命令を受ける立場にいるなら、当たり前ではなくなる。

「自分のやりたくないことは、人にするな」という論語の命題は、「私は法規や命令に従っただけだ」という言い訳を粉砕する。自分がやりたくない行為であれば、それがたとえ命令であっても、その業務に携わってはならない。携わったのであれば、「やりたくなかった」などと言い訳をしてはならない。それがこの論語の命題の含意である。(略)この覚悟がなければ、学習過程を開くことはできない。その意味で「恕」もおまた、「仁」と直結している。(『合理的な神秘主義』p.29)

問:従うだけの小人の心のしくみとは?

「学び」は身体的、故に個人的である。

ポラニーは次のように、知識と身体との関係を強調する。
我々の身体は我々が外界を知性的(intellectual)にあるいは実戦的(practical)に知ることすべてのための、究極の道具である。起きている間ずっと我々は、身体の外界のものとの接触への気づきを信頼し、それによってそのものに注意を向ける。我々自身の身体は、我々が通常は対象として経験しないこの世界の唯一のものであるが、我々は、身体から注意を向けている世界という形で、常に経験する。このように身体を知的(intelligent)に用いることで、我々はそれを、外界のものではなく、自分自身の身体だと感じるのである。

この意味で、我々がものを暗黙知の近似項(proximal term)として機能させるときには、それを、我々の身体に合体し(incorporate)、甚だしい場合にはそれを身体の中に包含し(include)、そうすることでわれわれはそのなかに住み込む(dwell)ようになる、ということができる。

この知識の新体制は、自然科学や数学の領域においても変わらない。(略)この身体の作動こそが知識にとって不可欠であり、それゆえ知識は常に「個人的」(personal)たらざるをえない。
それは、知識を保持する人の人格(personality)を包含しているとおいう意味で個人的であり、存在において原則的に孤独(solitary)である。しかしそこには、いかなる放縦の痕跡もない。
知識は、このように孤児院的・身体的であり、孤立的であるということが、何よりも重要なことである。(『合理的な神秘主義』p.173)

いくら説明をしても、学びは個人的、身体的だから、「仁」に至らない人がどうしたら「仁」にいたるの?

ソクラテス・孔子・仏陀
違和感、気づき、エッジ、身体的メッセージ
暗黙知は身体性を帯びている。この世界でせわしなく頭だけが飛び出しそうになるほどの勢いで動き続けている。その速さの中で、暗黙知は沈黙してしまっているかもしれない。

「学」に不可欠なフィードバック

このような意味での単純なフィードバックには、自分の行動の結果から、未来の行動を修正する場合の、その修正の仕方は変更されない。フィードバックが複雑になると、修正の仕方そのものが修正されることになる。この修正には、本質的に異なる2種類のやり方がある。第一のやり方は、修正の仕方があらかじめ記述されている場合であり、第二のやり方は、修正の仕方が記述されない場合である。第一のケースを別の言葉で言えば、修正の仕方そのものはあるメッセージで記述されていて、それはあらかじめ与えられていて、変更できない、ということである。つまりこの回路は、自らの振る舞いを修正するフィードバック回路を持つとともに、その修正の式アタを調整する回路をもっているが、後者の回路は固定している。これをいかに多重化しようとも、修正の仕方はあくまで事前に記述されている。つまり多重化したフィードバックは、一見したところでは修正の仕方を修正しているようになっているが、回路そのものの記述というレベルで見るならば、上から命令が降ってきてそのまま出ていく、一方通行の構造になっている。

ウィーなーは、このような多重化したフィードバックとは別の概念として、「学習learning」という概念を提出した。

学習とは、最も込み入った形態のフィードバックであり、ここの行為ばかりでなく、行為のパターンい影響を与える。それはまた、行動が環境の要求のなすがままにならないようにする方式である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.184)

固定されたフィードバックとはつまり「こうやってうまくいかないときはああやって対処する」とか「これでうまくいかなかったらああする」というやり方、考え方、行動様式が変わらないということだ。例えば背が低くて届かないところにあるものを取ろうとしたとき、ある人は椅子を持ってくるかもしれない。だが椅子がなかったら?「自分一人で」というフィードバック形式が固定されていたら「誰かに助けを求める」という修正された行為は導かれない。抱え込んで、立ち止まってしまう。

フィードバック自体の修正はどのようにして起きるか?→暗黙知

創発=新しいパターン

物理化学的世界の外から神の手によって生命が与えられたのではないとすると、医師の色の変化のルールカラうまいパターンが出現するような創発の過程、つまりせいめいのしゅつげんという過程を考えざるを得ない。同じことは生命が出現して以降の進化の過程にも見られる。無性生殖しかしなかった生命から有性生殖する生命が生まれる、単細胞生物から多細胞生物が出現する、中枢神経系を持たなかった生命から中枢神経系を持つ生物が出現する、さらにその果てには、自分の生命の意味を自分で考えようとするような人類の知性が出現する。このようにポラニーの創発という概念は、進化においてこれまでになぁつた機能が出現する過程を含む。
創発という過程の重要な副産物は「失敗」である。差異が差異を生み出す世界は創発の繰り返しによって階層的に構成されている。上位の階層の原理は下位の原理を破ることはないものの、下位の原理によっては規定されない。それゆえそこに新たな失敗の可能性を生み出す。上述のノイマンの自己増殖オートマトンの例では、石の白黒のうつりかわりは、必ずルールにしたがって行われる。しかし、初期の配置が少しでも間違っていれば、石のうつりかわりのなかでパターンが乱れ、自己増殖は実現されない。ルールに従いながら、それには規定されない自己増殖という機構の出現は自己増殖し損ねるという新たな失敗を伴っている。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.42)

「創発」人は悪をもっている?

生命の発生という最初の創発を原型として、進化の過程では次々と創発が繰り返され、新しい生命の携帯が、新しい原理とともに生み出されてきた。そのたびに新しい失敗の可能性も生み出されてきた。成長するという能力の創発は奇形という失敗を生む。新しい整理的機能の獲得は、その機能不全という失敗を生む。学習能力の獲得は、不適切な学習という失敗を生む。人間は道徳感情を持つがゆえに、邪悪になるという能力をも獲得してしまった。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.43)

「学」に至る、「よろこび」

学習能力は、脅しや圧力によっては、決して作動しない。『論語』の冒頭の言葉。
「学んで時にこれに習う、またよろこばしからずや」
という言葉の示すようにそれは、悦びにひょって作動する力である。この回路を保持するためには、人は勇気を持たねばならないが、それは子供時代に脅かされず、全面的に受け入れられることによって初めて、可能になることなのである。我々が境域の連鎖から抜け出し、正気の社会を構築するためには、私たちが子ども時代に何をされたのか、という決して知りたくはない真実に勇気を持って直面することである。それから我々の感覚を取り戻し、学習回路を作動させ、そうして初めて我々には、口先だけではなく、本当の意味で、子どもを守ることが可能となる。
子どもの魂を守ること。子どもから、子ども時代を奪わぬこと。
これが、我々の社会にとって、人類がこの危機の時代を生き延びるために、そして地球を破壊から守るために、何よりも大切なことなのである。これが多くの先人の智慧の教えるところだと、私は理解している。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.303)

「学」に至る、「カオス的遍歴」と「暗黙の次元」

無秩序状態から秩序状態への遷移は徐々に起きるのではなく突然に起る。まるで落とし穴に落ちるように秩序状態がやってくる。これに対して秩序状態から無秩序状態への移行は要素間の佐賀倍々ゲームで増大して最後にバラバラになる。これに対して秩序状態から無秩序状態への移行は要素間の差がバイバイゲームで増大して最後にバラバラになる。倍々ゲームなのでゆっくりと移行するとは言えないが、突然に移行が起きる訳ではない。このような無秩序状態と、さまざまの秩序状態との繰り返しが、自律的に起きるダイナミクスのことを「カオス的遍歴」と呼ぶ。

これで一応準備が整ったので、知ることとカオスの関係について考えてみよう。これに直接関係のある重要な研究が、においを感じる器官についてなされている。においがするという近くは、におい分子が鼻の穴に飛び込んできて、粘膜表面の受容器にくっつくところから始まる。におい分子は三ー二〇の炭素分子を含む比較的小さな物質であり、非常にたくさん(数十万以上)の種類がある。これに対して人間は数千から一万種類の匂いを識別する。鼻腔内の嗅粘膜には匂いを管んじる嗅細胞があり、その数は人間では訳四〇〇〇万、犬ではやく一〇億に達する。嗅細胞の先端からは一〇ー三〇本の線毛が生えており、そこににおいに対する受容器がある。この受容体で重要な役割を果たしているタンパクがあるが、その種類は数百から一〇〇〇程度とされる。それぞれの嗅細胞にはひとつの種類の受容体のみが対応している。
におに分子の種類が数十万あり、受容体が数百種類しかないということは、におい分子の種類と受容体の種類とが一対一に対応していないことを示す。あるにおい分子に複数の種類の受容体が反応し、またある受容体には複数の種類の匂い分子に反応する。さらに、においの受容体の種類が数百で、においの識別が数千から一万ということは、これらもまた一対一には対応していない。つまり、ある匂い分子にある受容体が反応すると、においを感じる、というような単純な描像は成り立たないのである。現実の世界のにおいは、複数のにおい分子が金剛しており、その可能な組み合わせは無限にある。しかもにおい分子Aによって活性化する受容体のセットaとお、におい分子Bに対応するセットbを考えた場合、ABをまぜあわせたものによって活性化する受容体のセットはa+bとはならず、新たなセットを生成する。人間お識別する「におい」はこの膨大な数の可能な組み合わせを、わずか数千種類にまとめていることになる。

このことは、嗅細胞の受容体ににおい分子が付いた段階では「何のにおいか」がわからないことを意味する。それどころか「何か匂いがする」ということすらわからない。受容体の活性化だけでは近くにも認識にも結びつかず、何かにおいがあるといった「知覚」はより高次のダイナミクスを必要とする。におい分子に反応することで受容体に発生した「ちがい」は軸索を通って鼻の奥にある嗅球という器官に集められる。フリーマンやケイによれば、嗅球の電気的活動は、におい刺激のない状態ではほぼ静止して弱いランダムな変動を示している。これに対して知っているにおいを嗅いだときには、周期解に似た動きをしたあとに、しばらく乱れた状態に推移し、それから別の周期会に似た動きを示し、また乱れ、ということをカオス的に繰り返すのである。つまり、
何もにおいがしない:ランダム
知っているにおいがある:周期解に近い弱いカオス
知らないにおいがある:カオス的遍歴
という関係が予想される。(略)フリーマンやケイによる一連の実験は、「知らないにおいがある」という自体がカオス的遍歴に対応し、「何もにおいがない」という事態がランダムな運動に対応することを明らかにしたことで、「知らないものを探求すること」が有り得ることを示したことになる。それは同時に、暗黙の次元の作動の実在を示したことにもなっている。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.53)

「学」に至る、「同期」

スピノザがホイヘンスの驚くべき同期実験を知っていたとすれば、その思想的意味をそこから汲み取らなかったと考える方が不自然である。そしてスピノザの思想は、このホイヘンスの実験と整合している。それは実験に由来する、というよりもむしろ、スピノザがもともと抱いていた思想が、ホイヘンスの実験と整合していた、と考えるべきであろう。ここでは、ホイヘンスの実験を念頭に置くことで、スピノザの南海とされる諸概念が、わかりやすいものになることを示す。たとえば、第二部補助定理三のなかの公理二の定義は次のようになっている。(略)
定義 同じあるいは異なった大きさのいくつかの物体が、他の書物体から圧力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらいくつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一個体を組織していると言う。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.98)

休憩にどうぞ

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ショッカーの世界

ー社会が狂わないようにするにはどうしたらいいか?健全な個人が増えるしかない?ー
ー健全な個人が増えるにはどうしたらいいか?という問いへの考察ー

蟻か人間か、それが問題だ。

ウィーナーは、このようなフィードバックと学習の質的祭という観点から、人間社会の特徴を、蟻の社会と比較した。そしてその両者の違いを、行動遂行のための機構が、事前に与えられているか、学習によって構成されるか、に求めた。蟻は幼虫から成虫になる時点で、変態を経て、身体の構造自体を根本的に再構成する。(略)これらのことから身体の構造上、蟻には多くのことを習いおぼえる機会のないことがわかる。
昆虫は、計算機に例えると、命令があらかじめ「テープ」に書き込まれており、その命令を変更する機会が非常に限られている機器に類似している。…言い換えれば、昆虫の成長はその身体のまとう拘束衣に制約されており、それがそのまま、行動パターンを制約する精神的な拘束衣ともなっている。

蟻の社会は、生まれながらに決定されているメッセージに従って、規則正しく行動する主体によって構成された、秩序正しい組織である。これに対して人間は、蟻と同じく社会的生物であるとはいえ、その本質は対照的である。人間の身体の特徴は、その発育不全にある。哺乳類は一般的に長期の幼年時代を親の庇護のもとに過ごすが、人間の赤ん坊は自分では全く何もできない完全な未熟状態で生まれてくる。一人前の身体構造を獲得するだけで十数年を必要とし、社会的に必要な知識とを獲得するには、さらにそれ以上の年月を必要とする。たとえ心身ともに一人前となったとしてもそれが終着地点ではなく、生きていく過程の中で、常に学習過程を作動させており、死ぬまで学習し続けている。それゆえ、
ありの社会が遺伝的パターンに基礎を置いているのと同じ意味で、人間社会は、学習に基礎を置いていると考えるのが、全く自然である。

ということができる。つまり、ウィーナーは、孔子をはじめとする儒家の思想家と主に、学習こそが、人間社会の秩序の基礎だ、と主張したのである。ウィーナーはこのような観点から、ファシズムをはじめとする人間の学習を阻害する社会を、次のように批判する。
ありのモデルを基礎とした人間のありさまを理想とするファシストの熱望は、蟻の本質と人間の本質とに対する深刻な誤解に起因する。…人間という素材を使ってファシスト流のあり社会を組織することは、私が示すように、まさしく人間の本質を乏しめるものであり、経済的に見て、人の持つ人間的価値の最低最悪の浪費である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.185)

問:蟻化した社会でどう人間として生きるか。それとも蟻として生きるか。

ショッカーにだって・・・

李卓吾の「假人」=蟻=童心のない人間

李卓吾の「童心」とは、人間に生まれながらに備わっている心身の作動のことである。これは孟子のいう「仁之端」を継いでいる。李卓吾は、この童心が失われる「魂の植民地化」の過程を次のように書く。
しかるに童心は、どういうわけか、ふいと失われる。(胡然而遽失)。蓋し、さいしょは、聞見が耳目から入ってきて、内の主となる、かくて童心が失われる。長じては、道理が聞見に乗じて入ってきて、内の主となる、かくて童心が失われる。

このように魂が植民地化された状況を李卓吾は、「假」という言葉で表現する。これは「仮面」の「仮」であり、中国語のニュアンスは「偽」に近い。
すでに聞見・道理をもって心となす。しからば、言うところのものは皆な聞見・道理の言にして、童心の自ら出せし言ではない。言、巧みなりと雖も、(真の)我と何のかかわりがあろうや。まさにこれ、假人にして假言を言い、事は假事、文は假文、なるものではないか。けだし、其の人すでに假なれば、ゆくとして假ならざるはないのである。かくて、假言をもって假人と語れば、假人喜ぶ。假事をもって假人と道えば、假人喜ぶ。假文をもって假人と断ずれば、假人喜ぶ。ゆくとして假ならざる無いのであるから、ゆくとして喜ばざるないのである。満場これ假なり、矮人なにをか弁ぜん。
「假人」というのは、単に他人を批判しているのではないと私は感じる。これは、自分自身のかつての姿への怒りなのだ。
『焚書』巻三「卓吾論略」によると、李卓吾は世間の「假」に順応する人間であり、さまざまな気苦労を重ねた。その上、祖父の訃報に接して葬儀と服喪のために家族を残して故郷に帰り、三年をそこで過ごした。家に戻ったおtきに、娘二人を飢餓で喪っていたことを妻から聞いた。「その時はじめて下駄の歯がぽっきりと折れる思いがした」と言う。それまで「假」のために奔走していた自分が、上の空であったことに気づいた、というのである。彼が「満場これ假」の世間に対して投獄されるほどの厳しい言葉を投げつけたのは、娘を殺した自らの愚かさが許せなかったからであろう。彼の思想は「異端」とされ、清朝の焚書目録に載せられたが、それは孔孟の教えを歪めたからではなく、その本質を取り出したがゆえであった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.76)

問:童心を取り戻すには、悲しみ、痛みしかないのであろうか。

マルクスの「経済決定論」=蟻社会=資本制社会

マルクスは、この経済的な諸関係が、人間お社会関係や慣習や思想をも制御しており、それに反するものは残存し得ない。と考えていた。これがいわゆる「経済決定論」である。(略)労働者のみならず、資本家もまた、厳しい競争に晒されており、「貯蓄せよ、貯蓄せよ。これがモーセで預言者だ」という抑圧の下にいる。かくして労働の所有者として振舞うことを要請される労働者のみならず、資本家もまた、自分自身の生き方に沿って生きることを阻害されており、資本の所有者として振る舞うように矯正される。だれもが、資本の貯蓄という火車に追われて、疎外され、走り続ける社会。それが資本制社会である。マルクスは、人間関係や社会慣習や思想が、生産関係を反映して作り出される、としていたが、それは、人間の本性を否定するものではない。彼は、このような上部構造が人間に押し付けられ、内面化することによって、人間の本性が抑圧されることを、告発していたのである。つまり、資本制社会においては、いかなる文化的要素も、経済関係に反しているものは存続し得ないので、結局のところそれを強化するイデオロギーに堕ちてしまい、真実を隠蔽する装置となって、人間の本性を破壊する暴力となってしまうのである。マルクスが示そうとしたことは、このような社会では、誰も幸福にならないのであり、その事実を各人が認識し、人間の本性に沿って、各人が幸福の追求を実現できるような、理性的な社会を作り出そう、ということであった。この理性は、結局のところ人間の本性の反映であるが、それはスピノザの欲望と理性との定義に沿ったものとなっている。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.118)

問:人間の本性に沿った経済活動のあり方とは、どのようなものだろう?

隠蔽される社会

フロムが、マルクスとフロイトとを高く評価するのは、その両者が、社会の隠蔽を解明したからであるマルクスは、資本制社会が生産物の再戦さんを通じて生産関係を再生産し合法的に搾取が行われ、隠蔽されている事実を解明し、フロイトは個々人の意識が、本当の衝動を隠蔽し、無意識へと抑圧している事実を解明した。フロムが行なったことは、フロイトの抑圧が、マルクスの搾取の隠蔽の結果として生じるとともに、その抑圧構造が、社会の再生産に貢献している、という循環関係の解明である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.200)

スピノザの教えは多くの点でブッダの教えと似ている。非合理的な動因(受動的情動)に流される人間は、必然的に自己及び世界に関して不十分な観念を持った人間、すなわち幻想を抱いて生きている人間である。理性に導かれる人間はもはやかんっ国は誘惑されないで、二つの〈能動的情動〉すなわち理性と勇気に従う人間である。マルクスは、真理を救いの条件と考える人びとの伝統の中にある。彼がなした仕事の全ては、良い社会とはどのようなものかという社会像を示すことが第一義ではなく、人間が良い社会を築き上げるのを妨げる幻想に対する容赦ない批判であった。マルクスが言ったように、人間は幻想を必要とするような環境を変えるために、幻想を打ち破らなければならない。フロイトもまたこれと同じ文章を、精神分析の理論に基づいた治療法にふさわしい格言として、定式化することもできただろう。彼は真実の概念を途方もなく拡大した。彼にとって真実とは、人が意識的に信じたり考えたりすることだけではなく、考えたくないゆえに抑圧するものをもさすのである。
フロイトの発見の偉大さは、個人が真実だと信じていることを超えた真実にまで達する方法を、考え出したことにある。そして彼は抑圧の及ぼす結果と、それに応じた合理化とを発見することによって、これをなしえたのである。彼は治療への道は自分自身の精神構造への洞察と、それによる〈抑圧の除去〉にあることを、経験的に実証した。真理は解放し治療するという原理をこのように応用したことが、フロイトのおそらくは最も偉大な業績なのである。(略)

「魂の脱植民地化」とは、まさに「人間がよい社会を築き上げるのを妨げる幻想に対する容赦ない批判」であり、本書に言う「合理的な神秘主義の系譜」とは、「真理を救いの条件と感g萎える人びとの伝統」に他ならない。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.202)

問:臨床心理学の方法さえ学べば、魂の脱植民地化は成功するのか?

社会的転移現象と服従人間の再生産

転移現象の背後にあるのは、子どもの無力さであり、それゆえ親に対して抱く保護の願望である。精神分析は、日分析者の幼児性を解明しようとするため、これが分析者に向けられることにあんるが、フロムが指摘したのは、大人もまた無力だ、という事実である。
子供にはどうすることもできない多くの場合にも、おとなはなすべきことを知っているが、結局はおとなもきわめて無力なのである。彼が直面する自然と社会との力はあまりにも圧倒的なので、多くの場合、彼はそれらに対しては、子供がその世界で無力であるのと同じように、無力である。
それゆえ、大人にもまた、この無力感から生じる転移現象が、普遍的な社会現象としてみられるのである。たとえば国家や政治や司法や専門家や知識人や経営者に対して、人々は容易にこの転移現象を起こす。それは、転移の対象となった人の資質に対して起きるのではなく、その社会的な位置付けに依るのである。それゆえ、人々が無力感に襲われているなら、社会的転移が起きやすくなり、それは体制・権力への盲従を生む。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.204)

フロムは、その両親が「社会の代理人」であって、社会的に望ましい性格の人間を再生産する役割を果たし、その結果、子どもは「社会的性格」を身につける、とした。社会的性格とは、特定の社会の機能の実現に役立つように形成される、精神エネルギーの特定の構造である。このような特定の構造を身に帯びることによって人は、その社会の生産過程における生産力として機能するように形作られる。この概念によってフロムは、マルクスの社会理論を拡張する。
ひとたびある社会が、その平均的人間の性格構造を、彼がなさねばならぬことをなすことを好むようにかたちづくるのに成功すれば、人間は、その社会が彼に課す、まさにその状態に満足するものである。かつてイプセンの劇中人物がいったように、彼がなしうることだけを彼は欲するから、彼がしたいと思うことはなんでもできるのである。いうまでもなく、服従に満足しているような社会的性格は、不具化した性格である。しかし、不具化していようと、いまいと、そのような性格は、それ固有の機能であるゆえに、服従的人間を獲得するという社会の目的に役立っているのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.205)

フロムは「財産と富との所有が中心的な欲望であった十九世紀資本主義」と区別して、「高度に産業化された社会においていっそう優勢となりつつある二〇世紀」社会を想定し、その社会的性格を消費人(homo consumens)とする。
消費人は、必ずしも第一にものを所有することを目標とはせず、ますます消費すること、従って彼の内的空虚・受動性・孤独・不安の代償を主目標とする人間である。巨大企業、巨大産業や政治機構や労働の官僚制によって特徴付けられる社会では、自分の労働環境をコントロールできない個人は、無能力・孤独・退屈・不安を感じる。同時に、大消費産業の求める利潤への欲求は、広告という媒体を通して、個人を、大食家に、ますます消費することを欲する永遠の幼児に変えてしまう。彼にとっては、すべてのものが消費の対象となる。すなわちタバコ・酒類・セックス・映画・テレビジョン・旅行、そして教育・書籍・講演でさえも消費の対象となる。新しい人為的な欲求が創造され、ひとびとの趣味が操作される。(消費人の性格は、その最も端的なかたちとしては、よく知られた精神病理学的現象である。それは隠された抑圧と不安の代償として、過食・買いすぎ・アルコール中毒へ逃避する抑圧された、あるいは不安な人間の多くの場合に見られる。)消費欲(フロイトが[口唇ー受容的性格]と呼んだ極端な形態)は、現代の産業化された社会における、支配的な精神的力となる。消費人は、無意識のうちでは自分の退屈さと受動性に悩んでいるのに、幸福であるかのような幻想をもっている。彼が機械に対してより大きな力を持てば持つほど、人間存在として彼がますます無力となる。より多く消費すればするほど。産業組織がつくりだして操作するたえず増大する欲求の奴隷となる。彼は、す率や興奮んを喜びや幸福と取り違え、物質的安楽を生きがいと取りちがえる。食欲を満足させることが人生の意義となり。それを求めることが一つの新しい宗教となる。消費する自由が、人間の自由の本質となってしまう。
フロムのこの指摘は、二一世紀になっても、今だに通用しているように私は感じる。ということは、経済的土台が、コンピュータの出現によって根本的に転換しつつあるとしても、社会的性格は、未だに変化していない、ということになる。フロムの目指した社会主義とは、このような貪欲の体制化とも言うべき消費社会の病理を治療するためのものであった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.206)

「闇教育」

ミラーは一九八〇年に出版された『あなた自身のため(邦題は、魂の殺人)』において「闇教育(black pedagogy)」という概念を導入した。「闇教育」というのは伝統的に「正しい」とされている各種の育児の手法のことであるが、実際には親が子どもの頃に受けた虐待によって生じた傷に振り回されてやっていることであり、同じ心の傷を子どもに負わせる虐待を正当化するための偽装にすぎない、というのである。
『魂の殺人』では、かつて、闇教育の教えを広めるために書かれた書物をたくさん引用しています。それらの書物では、子どもの生まれた最初の日から、従順と清潔追求の教育を行うよう、強力に薦めています。これらの教育書のおかげで私は(そしてその後私の本を読んでくださった方たちも)、ドイツの第三帝国時代、(たとえばアイヒマンのように)何の両親の咎めを感じることもなく、完璧な殺人機械として機能を果たした人たちのことが理解しやすくなりました。「人らーの熱心な意図実現者」になった人たちは、実は非常に古い勘定を払っていたのです。この人たちはそれまで、乳幼児期や子ども時代に体験させられた暴力に対してまともに反応することを、一度も許されていませんでした。この人たちの内部に潜在的な破壊傾向を生み出したのは、フロイトの「死の欲動」ではなく、非常に幼い時期に抑圧された情動上の反応だったのです。
この人々は隠された破壊衝動を発露する必要に駆られていたのであり、「ヒトラー箱の人たちに『合法的』に血祭りにあげられる犠牲を提供」したのである。彼は「罰せられる虞れなしに、幼時に抑圧した感情と復習欲をぶつけられる相手」を提供することで、人々の熱狂的支持を得た。もちろん、ヒトラー自身が典型的な事例である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.248)

親による子どもの搾取と欺瞞

ミラーは一九七九年に出版された『才能ある子のドラマ』によって、親の隠れた欲求を満たすために、子どもの愛情への欲求が利用され、搾取されていることを明らかにした。このため子供は自分の欲求を自分自身から隠してしまうことになり、親の都合に合わせた自己像を構築し、自分自身を牢獄に閉じ込めてしまうのである。ミラーは次のように指摘する。
幸福な、保護された子ども時代を送ったと信じ、そのイメージをもったまま心理療法の門を叩く人の数はおどろこうほど多いのです。そのような患者さんは、成長後の現在も可能性豊かで、才能を発揮している人もすくなくありません。その天与の才と成し遂げた仕事に対して賞賛を受けている人もいます。この人たちはほとんどの場合、一歳でオムツがいらなくなり、一歳半から五歳のときにはちゃんと上手に弟や妹の世話を手伝うような子どもでした。一般に信じられているところに従えば、このようなー親の誉れとも言うべきー人たちには、強靭で安定した自信があるはずなのですが、実際には話はまるで逆なのです。その人たちの手がけることは、すべてがうまく行き、素晴らしい結果に終わって、その人たちは賞賛されたりねたまれたりします。成功するということが大事な場合に失敗することはありません。けれども、何をしても駄目なのです。すべての成功の裏に憂うつ、空虚感、自己疎外、生の無意味さが潜んでいますー自分は偉大な存在だという麻薬が切れたり、「頂点」でなうなったり、間違いなくスーパースターとは言えなくなったりすると、あるいは突然、なんらかの、自分の理想像に合わなくなってしまったと感じたりしますと、隠れていたものが即刻頭をもたげます。それが始まると、不安発作や猛烈な罪悪、ならびに恥辱感に苦しめられるようになるのです。これほど才能に恵まれた人たちが、これほど深い障害を負っているのはなぜなのでしょうか。
ミラーはこの書物について、後に次のように述べている。
子どもの時に自分を率直に表現することを許されなかった人たちの悲劇は、その人たちが自分では知らぬままに二重の生を生きている点にあります。『才能ある子のドラマ』で述べたように、そのような人は子ども時代に偽りの自己を作り上げており、自分にもう一つ別の自己があるとは気づいていません。その、もう一つの別の自己の内部には、その人が抑圧した感情や欲求が閉じ込められています。ちょうど牢獄のように。その人たちはまだ一度も、その危機的状況を理解し、自分の感情や欲求が閉じ込められている牢獄をまさに牢獄として認知できるように、そしてそこから自己を解放し、自分の感情と真の欲求を言葉にするのを手伝ってくれる人に出会ったことがないのです。
このような人の行動は「自分の生を賭けた欺瞞を維持し続けるという目標」によって決定されており、彼らは「自分が本当は誰なのかがわからず、ただある役割を演じている」だけであって、「その役割というのは、周囲がその人に演じることを期待している、その役」なのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.246)

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エピクロスが「むなしい臆見と結びついた欲求」といったものをヴィトゲンシュタインは「語りうるものによってすべてを覆い尽くそうとする妄想」といい、李卓吾は「假」といい、ミラーは「自分に対する裏切り」といい、マルクスは「資本制社会」と呼び、ウィーナーが「人の持つ人間的価値の最低最悪の浪費」と呼ぶものであり、安冨歩が「暴力」と呼ぶものであり、こう言ったものを体現した人をフロムは「必然的に自己及び世界に関して不十分な観念を持った人間、すなわち幻想を抱いて生きている人間」「消費人」といい、孔子は「小人」といった。

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休憩・・・・

「暗黙の次元」

ポラニーの「暗黙知」

ポラニーは、戦前は科学者として活躍し、戦後に哲学者となった。最晩年ん違「暗黙の次元(tacit dimension)」という概念に到達した。ポラニーは「知る」という問題を徹底的に考えた。彼が強く批判したのは、知るという個人的過程を、「客観的知識」の「客観的操作」に置き換えよう、という迷信である。つまり、人間的主観的要素がある限り、知識は不完全であって、それをできるだけ排除すべきだ、という俗流の客観主義が、非科学的な妄想にすぎないということを、明らかにしたのである。パラニーは、たとえどんなに科学的な知識であっても、それは純粋に個人的な「知る」という過程の作動なしにはありえないことを、自らの科学者としての経験に基づいて示した。しかも、「知る」という過程を知ることは、原理的にできないので、これを「暗黙知(tacit knowing)」と名付けた。彼が強調したことは、知る、という過程を知ることができるのは、知っている本人だけであるが、知るという過程を知ろうとすると、知る過程そのものが止まってしまう、という問題である。知る過程そのものは、どう頑張っても、知ることのできない「暗黙の次元」に属している。(略)

私の最初の講義では、我々の暗黙知の力(our power of tacit knowing)を取り扱った。そこで示されたことは、暗黙知が住み込むこと)dwelling)によって理解(comprehension)を達成し、全ての知識(knowledge)がそういった理解の行為によって構成され、あるいはそれに根ざしている、ということであった。

このことから、「暗黙知」を「明示知」あるいは「形式知」といったものと対立させて理解することが、間違いであることが明らかとなる。全ての知識(knowledge)が暗黙知(tacit knowing)という人間の行為に根ざしている、ということを明らかにするのが、ポラニーの重要な論点なのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩p.170)

暗黙知=明示的知識以前の情報を、わたしたちは知っている。

ポラニーは「明示的知識explicit knowledge」だけが知識を成り立たせているのではなく、その背後に作動する「暗黙に知ることtacit knowing」の重要性を繰り返し指摘した。先ほどの鍼灸師の例で言えば、注意を向けている患部の状態についてのイメージが「明治的知識」であり、手に伝わる鍼の動きから幹部の状態を生成する働きが「暗黙に知ること」である。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.32)

差異(ちがい)の情報についてのベイトソンの議論が示すように、精神は差異を受け渡すサイクルに宿る。サイクルのなかには人間の皮膚の内側で閉じているものもあれば、皮膚を跨いでいるものもある。鍼治療のサイクルでは、鍼治療の手から針を通じて他社の皮膚の下の組織へと至っている。これ以外にも針灸師と患者の間に五感を通じたさまざまのコミュニケーションのサイクルが広がっている。皮膚の内側で閉じるさまざまのサイクルもある。例えば、神経系のなかで展開される神経細胞の発火が織りなす複雑な回路がそれである。我々の身体を舞台として、皮膚を跨ぐサイクルと、皮膚の内側で閉じるサイクルが複雑に相互作用している。全てのサイクルは差異を変換し情報を生み出している。この情報の相互作用のなかから「意味」が生成する。この「意味」が「知識」であり、精製の過程が「暗黙に知ること」である。「意味」が精製する以前に、皮膚を跨ぐサイクルのなかでは差異の変換が起きており、情報が生じている。言い換えれば、明示的知識が形成されるより前に、われわれの身体をめぐるサイクルに宿る精神は、すでに情報を「知って」いるのである。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.34)

例えば「これは、なんだろうか」というなぞめいた情報の中に私たちは住んでいる。何ものかがいる、あるにも関わらずそれに「気づき」はしないものの、身体は情報として、暗黙知としてそれをもっている場合もあるだろう。「違和感」として気づけるものもあれば、

ラッセルの「内なる声」

もしラッセルがはじめ確実な知識に到達する希望に燃えていたのでなければ、彼の哲学的方法は決して形成されなかっであろう、と私は信ずる。確実制が到達し得ないものであることを初めから心得ていたのならば、彼は哲学を捨てて経済学か歴史学かに没頭したであろう。
(略)ラッセつの「負け戦」が何との戦いであったかを知る上で、興味ふかい記述が『私の哲学の発展』のなかにある。彼が十六歳のときに書いた日記の一部である。
私がそれによって自分の行動を導き、かつそれにはずれることを罪と考えるところの、生活の規則は、幸福の強度と幸福に預かる人間の数の両方を考慮して最も大きな幸福を生み出すに違いないと思われるような仕方で行動すること、である。私の父母はこれを実行不可能な生活規則だと考えており、人は最大の幸福を生み出すものを決して知り得ないのだから、内なる声(the inner voice)に従う方がはるかによいといつも言っているのを、私は知っている。…私の信ずるところによれば、良心(conscience)は進化と教育との共同の産物であるにすぎないのだから、理性(reason)を捨てて両親に従うことは、馬鹿げている。
私には、ここからラッセルの無謀な戦いが始まっており、「理性」に絶対の信頼を置いたラッセルが全知全能を振り絞って戦いながら、「内なる声」を信ずる父母に、一歩一歩追い詰められて行った、ということではないかと考えている。内なる声は、単なる両親ではなく、よりふかい計算に支えられた、洞察・直感・直観・予見の源であった、ということであろう。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.143)

孟子の「怵惕惻隠之心」=「暗黙知」

孟子は、人間社会の秩序の根源を、「怵惕惻隠之心」に求めたのである。これは人間が、ハッとして、思わず抱く心の動きのことである。これは明確に『論語』の学習思想の継承であり、また発展である。なぜなら、学習過程は、このような意識される前の身体反応に依拠して生じるからである。その身体反応が正しく作動し、それを認識することのできる状態が「仁」であり、そうなっているない状態が「不仁」である。孟子の思想は「性善説」と呼ばれることがあるが、それは必ずしも正しい表現ではない。というのも「怵惕惻隠之心」が「善」なのか「悪」なのかは、それ自体としては判定のしようがないかあである。とはいえ、そのような生得的な身体反応に秩序の根源を見る、という意味で、「性が善」だというのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.47)

問:「怵惕惻隠之心」を守り、育てるためには?

清沢の「如来」=コントロールされぬもの、ただやってくるもの

「相対・有限」というのは「この私」、「絶対・無限」というのは「如来」のことだと考えれば良い。それゆえ精神主義というのは、この私と如来との合するところに生じる、実際上の問題、つまり、生きる、という場面での私自身の態度のことだ、というのである。どういう態度かというと、これは渋沢最晩年の「我は此の如く如来を信ず)我信念)」という論文に出てくる次の有名な文章は端的に示している。
人智は有限である、不完全であるといいながら、有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や無限なる実在を研究せんとする迷妄を脱却し難いことである。私も以前には、心理の標準や善悪の標準がわからなくては、天地も崩れ、社会も治らぬ様に思うたことであるが、今は、心理の標準や善悪の氷筍が人智で定まる筈がないと決着して居りまする。

つまり、人智を以て得られそうな標準で判断するのではなく、そのような能力の完全な欠如を自覚し、その上で、如来を信じて「虚心平気に此世界に生死する」のが「精神主義」である。

清沢の挙げている具体例を見ることにしよう。彼が論じているのは、部屋にいるときに地震にあったらどうするか、と謂う問題である。地震だからといって、走り出したら災害に遭うこともあれば、逆に走りでなくて災害に遭うこともある。それのどちらが良いのかは、あまりにむずかしいので「吾人の知見し得る所にあらざるなり」と言わざるをえない。ならばどうするか。清沢は言う。
知見し得ざることに対して狂乱するは無用のことなり、吾人は、此無用のことに対しては、勤めて虚心平気の工夫を尽くし、面して、走出るべきか走りいずべからざるかの直接問題に対しては、一に無限大悲の指命に待ち、もし走り出んとするの念起らば、幕直に走進し、若し走り出んとするの念起らずは、泰然として安坐すべきなり。
つまるところ、虚心平気に「走り出たい」と思うなら、それは如来の指命なのだから、まっすぐに走りでるべきであり、「走り出たい」と思わないなら、泰然自若としてそこにじっとしていれば良い、といのである。これが「他力」という態度である。しかしこれだけでは済まない。なぜなら、「其他力の指命が判然たらざる場合」、つまり何らの念も起きず、気持ちがはっきりとしない、という場合があるからである。これについて清沢は次のようにいう。(略)もしどうしかいいか判然としない場合には、それもまた如来の「妙巧」なのであるから、これまた虚心平気に、「指命を待ちつつ満足」して、迷っておれば良い、というのである。このような解決は、「○○という情況で、Aという行為と、Bという行為とが可能である。さてどちらが倫理的に正しいか」というタイプの選択問題を、すべて無意味にする。このような考え方は、「標準を求めるものであり、清沢はそれは人智を超えた問だ、と考えていた。それゆえ、こういう問の設定そのものが無意味だ、というのである。此のような発想は、「決定論/非決定論」という二項対立を打ち破る、二項同体の思考法である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.132)

問:ソクラテスのダイモーン、如来を「信じる」に至るプロセスは?

スピノザの「神」=「自然」=目的なき永遠・無限の実有

スピノザはこの世に存在するものすべて、つまり自然そのものが神である、という以外に、絶対無限の唯一鳴神はありえないとしたのである。スピノザのこの考え方は「神即自然」というように表現される。この世界そのものが神であり、神とはこの世界そのものである。神に「目的」はない。
我々が神あるいは自然とよぶあの永遠・無限の実有は、それが存在するのと同じ必然性をももって働きをなすのである。…神は、なんら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。

このような神は全能であり、誰にも拘束されることなく、自らの本性に従って無目的に作動し続ける。その作動とは、自分自身を自分自身で生み出し続けることであり、何かの「ために」あるいは何かの「目的で」作動する、というようなことは考えられない。この意味で神は絶対的に自由である。なお「自由」とは次のように定義されている。
自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。

このような神=自然は、この私自身と切り離されていない。それどころか、この私自身は、神=自然の働きの一部である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.89)

問:自らの本性に従って無目的に作動し続けるなら、「悪」なんてものはないのだろうか?

スピノザの「衝動」

人間の生への努力たるコナトゥスが根本にあり、それが精神のみに関して認識される場合には「意志」と呼ばれる。それが精神と身体とに関して認識されると「衝動」と呼ばれる。言い換えればスピノザは意志を、衝動の精神的側面と見ているのである。そして衝動に人間の本質を見る。その衝動を意識しているときに、それを「欲望」と呼ぶ。コナトゥスはすなわち「衝動」であり、その身体的側面を無視すると「意志」に見え、それを無視しない場合は「欲望」となる。そういう「衝動」「意志」「欲望」の対象となるものを「善」と判断するのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.94)

エピクロスの「快」=身体のメッセージ

エピクロスは、生きることそのものを肯定し「身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的」だと考える。そして次のようにいう。
快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、〈苦しんでいないときには〉われわれはもはや快を必要としない…まさにこのゆえに、われわれは、快とは祝福ある生のはじめ〈動機〉であり終わり〈目的〉である、と言うのである。(略)

この「快」は「思慮」と結びついている。すなわち、
思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには〈思慮深く美しく正しく生きることもできない〉、と教える。

という。このように生きる人物がすぐれた者である。(略)エピクロスの言う「快」は当然のことながら、肉体の教えるところである。それゆえエピクロスは肉体を肯定する。(略)この肉体の教える善を受け入れて快にしたがって生きることができないときに、我々は不正を為す。
けだし、自然な快が、われわれに不正を行わせるのではなくて、むしろ、むなしい臆見と結びついた欲求が、不正を行わせるのである。
(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.51)

問:「自然な快」はどんなもの?「むなしい臆見と結びついた欲求」とはどんなもの?

ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」「世界の外」にあるもの

彼はその主著、『論理哲学論考』の最後を、
七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
という命題でしめくくった。別の箇所でも、
六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。…世界の中には価値は存在しない…価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。
と述べている。ヴィトゲンシュタインは、語りうるものによってすべてを覆い尽くそうとする妄想が、世界の価値や意義を破壊していると考え、神秘を取り戻すことで人間を正常化しようとしていた。彼は次のようにも言っている。
六・五二 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これが我々の直感である。
(略)ヴィトゲンシュタインは命題(四・〇〇三)で、
「哲学的事柄についてこれまで書いてきた命題や問いの大部分は、偽なのではなく無意味なのである」
と大胆に指摘した。というのも、哲学が扱ってきた問題の多くが「語りえぬもの」だったからである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.162)

世界の外、というのは、「語りえぬもの」の世界、ポラニーの「暗黙知」が生まれる「暗黙の次元」のことであり、清沢の「如来」がおわしますところでもあり、スピノザの「生への努力(コナトゥス)ー衝動」が生まれるところであり、孟子の「怵惕惻隠之心」が生まれる場所であり、ラッセルの「内なる声」が発せられるところであり、李卓吾の「童心」がはたらくところでもある。「神秘」とも呼ばれる。

六・四四 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
六・五二二 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。
(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.166)

休憩入りまーす笑

「生きる」ために

ミルグラムの「小さな世界」実験
ミルグラムの「小さな世界」実験の結果は驚くべきものであった。途中で多数の封筒が転送されなくなってしまったが、それでも、数百通の封筒のうち、六四通がターゲットに到達した。その連鎖の長さは、たった二人〜十人であった。中央値は六人であったので、「六人いれば、アメリカに住む任意の二人は接続されうる」という結論に到達した。(略)
この研究は、「小さな世界」問題から立ち上がる特定の問題群から始まったが、その実行過程ははるかに広い話題を描き出している。それは潜在的なコミュニケーションの構造を明らかにし、その構造の社会的性質の解明が求められている。我々がこの潜在的なコミュニケーション・ネットの構造を理解した時、社会の統合一般についてはるかによく理解することになろう。多くの研究が社会科がkにおいて、個人がどのように、社会の他の部分から排除され切断されるかを示してきたが、この研究は、なんらかの意味で、我々はすべて緊密に編み上げられた社会的織物に共につなぎとめられていることを、証明したのである。
この最後の一文から、ミルグラムがこのすばらしい着想に到達した理由が明らかとなる。それは、アイヒマン実験と、密接に関係している。というのも、人と人との繋がりが、緊密に社会を覆い尽くしており、このつながりこそが「恕」に基づいた、学習に基づく秩序形成の契機でもあり、結果でもあることを、示唆しているからである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.262)

問:前向きになれる「作戦」を考えてみよう。

「頼りになるネットワーク」

我々の世界は非線形性に満ちており、そのような世界に直面しながら生きている、という事実の前では、なんらかの「確実なもの」にしがみつき姿勢は、隷属への道以外の何者でもない。我々は、複雑さの中で動的に対応していく能力を、生まれながらに持っているのであって、我々の身体に込められている驚くべき創発的計算能力を信頼し、その感覚に従って、信頼しうる人を信頼し、信頼し得ぬ人を信頼しないで、頼りになるネットワークを構築して生きていけば、それで十分なのである。問題は、我々が、子ども時代に無意識に埋め込まれた恐れによって、感覚が作動しなくなることである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.302)

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「暴力」

ヴィットゲンシュタインに倣ってこのように考えると、「では、経済について意味のある議論とは何か」という問いを自分自身に突きつけることになる。この深刻な問いに直面して私は、ポラニーの「暗黙の次元」という概念を基礎に据えるべきだ、という考えに至った。私はこの方向の上に、経済についての意味のある議論を展開できると考える。端的に言えば、
神秘によって支えられた「生きる」ということの実現が、「価値」を生成する
と考えるのである。この場合、価値がどこから来るか、価値とは何か、について語ることは無意味である。なぜならヴィットゲンシュタインの言うように、それは世界の外にあるのだから。そいれゆえ、我々と世界とに与えられている価値を生成する神秘の力は、それをありがたく受け入れれば良い。そしてその発揮を阻害し、あるいは破壊するものについて語るべきだとかんがえる 。なえzなら、そういうものは、「語りうるもの」のなかに入っているからである。ゆえに我々が考えるべき問題は、

「創発はいかに阻害・破壊されるか」
「創発を阻害・破壊するものとは何か」
「創発を阻害・破壊するものを、如何に排除するか」

だ。ということになる。私は、ヴィットゲンシュタイン以降の学問はすべて、文系理系を問わず、この問題をテーマとすべきだと考える。では具体的に、神秘的な生きる力を阻害するものとはなんだろうか。端的に言ってそれは「暴力」である。つまり、暴力の本質を明らかにし、それを排除する方法を考えるのが、全学問のテーマだということになる。(略)私が提案した「合理的な神秘主義」は、神秘の存在を前提にして構成されている。神秘の恵みを前提とし、ただありがたく受け取る。神秘を語ろうとするような冒涜はしない。その上で、我々一人ひとりにそなわる神秘の力を阻害するもの、その力を破壊する暴力を解明し、解除する。暴力は基本的に、「語りうる」からである。この合理的な神秘主義の観点から、すでに我々が手にしている知識を再編成しよう、というのが、私の提案する新しい学問である。この学問を「魂の脱植民地化」という。このアプローチこそが、ヴィットゲンシュタインの哲学を継承するするものだと私は信じている。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.164)

問:語りえぬものか、語りうるものかはどのように判断するのか。→何を、神秘と捉えるか。何を「生きること」と捉えるか。

親鸞の自己愛

親鸞とルターの違いは、ルターの『キリスト者の自由』と比較してみればわかりやすい。同署のルターの議論は次のように展開する。まず、神の戒め(旧約聖書の立法)に直面した人間は、そのうちのたった一つですら実践できないことを思い知る。絶望の果てにあるのは、「神の約束」(福音)であり、無力な人間は「信仰」することにより、すべての「戒め」から解き放たれる、とする。「キリスト者の自由」とは、「信仰すること」であり、戒めから解き放たれる」ことである。ここまでは親鸞に似ていると言えなくもない。これに続いて後半でルターは、「戒め」はキリスト者になるために守るのではなく、信仰を持つキリスト者が自ら守るものだという。なぜなら神に奉仕することが、キリスト者の悦びだからである。もし守れないとすると、それは信仰が足りないからだ、ということになる。この前半と後半とのセットにより、上手のような無限ループがmな悪ことにアンル。信仰と罪悪感とが手に手を取って深まっていく。これでは魂の蓋がマンホールのように重く、がっちりとはまってしまうように私には思われる。このような観点から見た場合、親鸞の思想は驚くべき内容を持っている。それを如実に示すのが、既に引用した『歎異抄』の唯円と親鸞との対話である。「念仏を称えてもさほどの喜びを感じられない」と告白する唯円に、親鸞は「自分もそうだ」と驚くべき発言をする。そして、阿弥陀の恩恵を感じられないような、そういう煩悩具足の凡夫であるという自覚が、阿弥陀の救いを明らかにしている、という。この思想によって親鸞は、上の図のように、どんどん緩む方向に信心の循環を作動させている。このようなシステムは、人の心に形成されて魂を抑え込む「蓋」を緩め、自分に対する裏切りを解消する方向への変化を自律的に引き起こす可能性がある。この考えが正しいとすると、罪悪感の裏返しとしての自己愛に駆動された繋縛強化の罠から、抜け出すことができる。この状態が、「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」であり、そうやって自愛(=阿弥陀の慈悲)の中に生きていく道が開かれる。これが親鸞のいう「現世利益」である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.69)

スピノザの「自己愛」

個々のものが、自らの有に固執する「努力」のことをラテン語で「コナトゥスconatus」と呼ぶ。これがスピノザ倫理学の基礎概念である。(略)コナトゥスを基盤としたスピノザの倫理は次の言葉に凝縮的に表現されている。
理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、ー一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めることを、要求する。これは実に全体がその部分よりも大であるというのと同様に必然的に真である。(略)(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.91)

責任とは何か

清沢は「精神主義[明治三四年講話]において、「精神主義は各個人が、宇宙万有に対して、全責任を負ふこと」だ、という。これは決定論と、決定的に異なっている。決定論においては、すべては必然であるがゆえに、免責されることになるからである。これに続けて彼はいう。(略)「万物一体の上に立つところの責任」というものに立つなら、責任に起因するすべての苦痛から解放される。なぜなら、そういう問題については、如来が必ず支援するはずだからである。つまり、演技にひょってつながりあった世界において責任を感ずる、というなら、全宇宙のすべての出来事に責任を持たねばならない。そうでなければ責任のとりようがないからである。ところが、人間にそんな能力はない。それゆえ、もしも人間が何かについて責任を取りうるとすれば、それは、如来の導きに依るしかない。如来の導きに依るなら、それは無責任ということである。かくして、全責任を負うときにのみ人は、無責任となる。これが、「全責任が無責任と同様の心情を持つ」という言葉の意味である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.134)

たとえば闇教育によって子どもが心に傷を負い、そのまま犯罪をしたとしよう。その責任はどこにあるのか?原因を求めるならば、親、親の親、親の親の親まで遡れるか?その「親」を作り出した社会の様々な暴力に原因をもとめるか?

問:世の中で使われる「責任」という言葉の背景を探ってみよう。

非平衡統計学
非線形科学
同期
決定論的カオス

チューリング
ベルーソフ

おとのねさんです。

スマイルくんです。

オトノネひろげるシェアぼたん

【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹

自己愛の構造
『<自己愛>の構造』和田秀樹
この本で、あまりにも頭の中からいろいろでてきてしまって困った。

一つ前に読んだ本の続きでコフートからいろいろ考えてみる。
【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

この記事はブレークタイムを挟んだ二部構成になっています笑

前半の終わりは、


笑うしか、ないかな。。。。

絶望までもう少し☆
きちんと絶望できるかな笑

です笑

後半の終わりは

内側へ、内側へ、オトノネへ。

です。

なんとか、持ちこたえました笑

悩めるおとのねさんにおつきあいしていただけるでしょうか?

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コフートの考えをまとめてみることにしました。
メモ風にいきます笑

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コフートの3つの心理的ニーズ(自己対象の3種類)

何かができるようになると、みせにくる。
みてもらいたい。
自分が輝いていること、プラスの自分を確認したい。
自分はプラスにいきたい。
褒めてもらいたい。

そういう自己のニーズを満たす自己対象を、鏡自己対象と呼びました、

逆に自分が弱い部分を助けてくれる、頼りになる、マイナスをプラスに向かわせてくれる、嫌な感情を補ってくれる対象のことを、理想化自己対象と呼びました。

不安になったり、生きる方向を見失った時に相談をしたり、お願いしたり、一人で、はできないことを一緒にやったり、勇気をもらえる対象のことです。「一人ではできないこと」を助けてくれる人。困った時に頼れる人。
社会的参照の対象、といえるでしょう。

鏡自己対象(プラス指向対象とでも呼びたい気分になってきました笑)を満たされるプロセスで、健全な自尊心や向上心が育っていく。

理想化自己対象(ゼロ指向対象)をみたされるプロセスで、不安や怒りや悲しみといった感情を処理し、ケロッとできる心が育っていく。手助けしてもらう。人間関係がうまくいく。負の感情の排泄ができるようになる。「弱い」自分に力を感じる。「大丈夫だ」と思える。落ち着ける。
Idealizing
For the young child, ‘ idealized selfobjects “provide the experience of merger with the calm, power, wisdom, and goodness of idealized persons”‘.

(グリッドやレジエリエンスや自己肯定感とかいう言葉も、こうした作用のまとまりだと考えたら、とてもアバウトな概念ですね)

双子自己対象は「自分と同じ」ということを感じることで安心を得られる自己対象?
 ありのままの自分を映し出してくれる対象?うーんよくわからない。
Alter ego/twinship needs
Lacan highlighted ‘the mirror stage … of a normal transitivism. The child who strikes another says that he has been struck; the child who sees another fall, cries.’

聞いても、返事が返ってこない、自分のことがわからない、喋れない子どもに出会うことがある。
自分のことを感じられないで、「え?なにそれ?わかんない」と答えるような子どもがいる。
で、その子のお母さんはとてつもなく管理が厳しい。全部親が決める。子どもはついていくだけ。

これはある意味、双子自己対象だけで心の仕組みがつくられた例といえないかとおもいます。
母親と一体化してしまう。母親がコントロールしてくれないと安心できない。というか、母親なしでは判断できない。「自分」がないように見える。言葉で表現される「その子自身」が、虚ろに聞こえる。。。)

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鏡自己対象や理想化自己対象を英語でなんというか調べたら、、、なにやら、、、意味がわからない、、翻訳がおかしい。。。。もう日本語わけわからない。。。
鏡自己対象は誇大自己対象と呼ぶべきところを、理想化自己対象と意味合いがかぶるから鏡自己対象と翻訳したんだろうか、、、鏡って、、、そんな、、、わからんやろ!笑

grandiose-exhibitionistic needsは誇大自己顕示欲求と訳せそうだが、これが鏡自己対象によって満たされるという。鏡、という言葉は翻訳としてよろしくない気がする。

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健全な〈自己の充足〉ではなく、不健全な〈自己の充足〉を考えてみてもいいでしょうか。

鏡自己対象(プラス指向対象)、自分のプラスを感じられるために、よく「ホメゴロス」人がいます。これは「ありのままの自分をみてくれていない」ことになったり「条件付きなんだ」ということになると不健全。おだててやらせるとか。子どもも自分を隠して、評価されるために頑張ってしまう。

理想化自己対象(ゼロ指向対象)、自分のマイナスをプラスの方向に持っていくために、ヒモのようになる。ただついていくだけ。弱い人間が強い人間の後ろについていく。権威主義。ただただ従属してしまう。

双子自己対象については見た通り。自分の感じ方、自分のしたいことではなく相手の基準に合わせる。とか、同じ服を着たり、同じものを買ったり、同一化して安心する。(孫とおばあちゃんでペアルックな光景をみてゾッとしたことがある。いやまぁいいけどさ。)

不健全でも健全でも、とりあえずは〈自己の充実〉はされるのでしょう。

そもそも、不健全とか健全とかがあるのでしょうか。
生きていれば、それでいい、のでしょうか。

それこそ、「人間とは、そういうものなのだ」と認めなくてはいけないことなのでしょうか。

別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。

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コフートの最初の悲劇人間の定義は、人間が何のために生きるかで分類できるという考え方に基づいている、

もし目標が欲動の活動に向けられていれば、これを罪責人間とよび、目標が自己の充実に向けられていれば、これを悲劇人間と呼ぶ。

精神装置心理学という概念は(略)罪責人間の精神障害と葛藤を説明するのに最適である。自己の心理学は(略)悲劇人間の心的障害と苦闘を説明するのに必要とされる。

コフートがいおうとしたのは、フロイトのころと現代ではあつかっている患者がちがうということだ。フロイトの頃の患者は自分の内なるエスからの欲望に動かされ、それに対して自我がコントロールしようとしたり、超自我が禁止行動を出そうとする、自我がエスに敗れて、「欲望に負けた」行動をとっても、超自我が強すぎて、「してはいけない」「であらねばならない」が強すぎても、罪悪感に苛まれるか、あるいはそれが無意識の罪悪感となって抑うつや神経症の症状を引き起こす。葛藤の場はつねに自分の内部にある。まさに復讐するは我にありの状況だ。「人間が自分自身の内部の葛藤に悩む限りは」これまでの自我心理学、つまり人間の心の内部の心的装置を仮定する心理学は役に立つ。しかし悲劇人間の営為の中心は、野心と理想という自己の二つの極の間に貼られた緊張弓である。(p.99)

人間は罪責人間と悲劇人間の両方をもっている。
結局一人ではできないから、誰かの力を借りて、変わっていく。
関わり方を変えていく。

というケースは本で読んだことがある。
(甘えられない自分を発見して、甘えるようにしてみたら、心が安定した、というケース)

病的な程度にまで至る自己の障害は、これら二つの発達機会の両方に失敗することによってのみ、生じる。

子どもにとって、
片方の曲が満たされないことは「悲劇」であるが、それでも本当うに病的になるのは、両方卯の曲が満たされない時なのだということは、子どもを育てる側の者にとっては、多少安心できる話といえるかもしれない(p.104)

その二つの機会とは、鏡自己対象と理想化自己対象だという。

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英語版のwikiを読みながら、Optimal frustrationという概念が大切だとおもえました。
optimalとは、適度な、最適な、最上のというう意味です。opticalは光の、という意味であり、「光明ある」という意味合いでとるとよいかもしれません。

つまるところ、心理的ニーズを満たす対象を探して満たされて自己愛を満たすプロセスのなかで心を成長させる「適度な挫折」であればいいのだが、挫折が大きすぎると、、、、というお話。学校という暴力のシステムのなかで、すでに「挫折」しているう部分があるのかもしれない。日本という場所、日本人という人たちの中で、自己を充実させられずに、子どもたちは挫けていないか。

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混乱しまくっている。
Empathy
Kohut maintained that parents’ failures to empathize with their children and the responses of their children to these failures were ‘at the root of almost all psychopathology’.

共感は3つの心理的ニーズすべての基礎になることは間違いない。
が、ここでも不健全な共感という考え方ができてしまう気がする。

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別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。

と書いた。

生態学を導入したいとおもった。

大人が心理的ニーズを満たす自己対象が子供しかいないという状況を考えてみよう。
人間の生態、日本人の生態をみると、会社でも地域でも家庭でも「立場」が優先される。としてみよう。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
心理的ニーズを満たす関係をつくれない。
心理的ニーズを満たす関係をつくる時間も場所もない。

ただ、子どもだけは別だ。近くにいる。

親にとって、子どもしか、〈自己の充実〉のための自己対象がいない。

(子どもとの関わりが希薄な父親の場合は、仕事漬けになるか酒に走るか何か)

学校の先生を考えてみよう。
まず一番大きいのは「立場」だ。
コフートの考えでは、〈自己の充実〉は相互依存関係だという。
とすれば、心理的ニーズは満たされていない。双方に、満たされていない。と僕は直感する。
ただ「立場」があるだけ。。。。
なんの共感もない。

殺伐としているおかげで子どもも〈自己の充実〉をするための関係を学校の中ではつくれない。
友達との関係を作れたらしあわせなほうだ。

一番簡単な方法が、親子がともに「母子カプセル」に入ることだ。
双子自己対象として、お互いに〈自己の充実〉をし合う。相互依存⭐︎

共依存。
狂依存。

ううーん。

人間の、現代社会の、日本人の生態を眺めると、とても、「自然」に思えてしまって怖い。

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悲劇人間は、現代社会で「自然」な人間の姿だということをみた。
一方で、また同時に、悲劇人間でありなおかつ罪責人間であることも、大いにありうる。

日本では超自我の禁止行動が主流だろう。
禁止を受けたせいで、心が磨り減った部分が、さらに、エスで酒まみれ、欲情まみれになったり。

バランスをとるのではなく、超自我を育てる文化。
コントロールされることに慣れることが、教育であるという文化。

これは「自己」ではなく「立場」を生きなければならない日本人の暮らし方だと考えたら。。。
「立場」を学び、「自己」を育てない生き方が、日本の精神文化だとしたら。。。

どこかからふっと湧いて与えられた「立場」(というか、立場をつくる=役をつくることでしか人間同士が関係できないので「立場」で考えなくては頭が回らないのでつくる)に従うロボット。ああ、だから日本は機械作るのがうまいんだ笑

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この記事を書きながら、気づいたのは、日本という場所で育まれた人的な生態系の自然なあり方が、ただただいまの目の前に広がっている、という事実を、私は文字に書き起こしただけだったということです。人によって、それは残酷にも、「当たり前」にも映るのだろうけれど。

「共感」には永遠に達しない、人間のいない世界を、僕は感じている。
人間と暮らしたい。

いや、人間、、、、これが、、、人間なんだ。。。。

目標が自己の充足に向けられている人は「悲劇人間」と呼ばれた。自己の充足のためには、自己対象が必要である、そういうう自己対象を周囲の人に求めて、自己の充足のために足掻く人、悲劇人間こそが、現代の精神分析に主たる患者たちであるとコフートは考えたのである。「罪責人間」の精神病理は個人の心の中の問題であり、「悲劇人間」の精神病理は環境への人間的な渇望の問題である。つまり、「罪責人間」は心理的に「個人」であるが、「悲劇人間」は個人以前なのである。(p.169)

人間関係の原理を、「立場」でシステム化してしまった。
想定された役を超えることは許されない。
会社や学校の外で人間関係をつくるような「自然」は日本にはない。
それこそ「自然に反して」つくっていくしかない。
そのためには「自己」が必要になる。
「個人」の強さが必要になる。

「個人」がある程度確立していれば、「不自然」に手を伸ばすことができる。
だが「個人」としても未熟であるなら、、、親子が心中するしかない。

日本では、一週間に二人、子どもが親に殺されている。
〈自己を充実〉させてくれない子どもだからといって、殺されている。

子どもが、「自己」を抹消する日本の「自然」に、飲み込まれていく。
子どもが、「自己」を抹消された大人の「怒り」を、受け止めて、死んでいく。

笑うしか、ないかな。。。。

絶望までもう少し☆
きちんと絶望できるかな笑

自分の小ささを、もっと感じないといけないなぁとおもった。

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ここでブレークタイム・・・

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〈自己の充実〉のために、双子自己対象を得るしくみはいろいろある。
同じ趣味、興味を持ってあつまる音楽サークル、もしくは子どものピアノ教室、習い事、部活動。
お母さんたちが「みんないっしょ」の安心感を得るために子供をつかう。

目標が、〈自己の充実〉だ。
それに子どもをつかう。

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コフートの心理学は、「臨床」のための心理学だ。
心の医者のところまできた人に対する手ほどきをするための枠組みが心理学だ。

いま僕は親子関係の「違和感」「不自然さ」が何なのかを知りたいとおもっている。

だが、コフートの心理学は、「病気になったり不都合がでてきたときに駆け込んでくるクライアントのための」心理学だ。
健康被害(?)がでる以前の「不自然さ」を扱ってはいないのだろうか。

コフートは、「昨日までの人」とは、ルネッサンスから1930年から40年ごろの生まれくらいまでの人たちであるという見解を明らかにしたうえで、彼らは、まだ「個人」の世界の人であり、自分の境界をはっきり持っている個人同士が、緊密な人間関係をもっていると述べた、しかし「今日の人」は違うのだと語った。

人々が定住化し、人々の均一性が増し、動き回れるスペースが減り、マスの動きと効率の良い全体主義が支配する世界では、人は心理的サバイバルのための新たな問題に直面することになるのです。(p.170)

他者との関係をもつ。

という一言にコフートの考えを要約してみよう。

もう簡単にしよう笑

オトノネの存在は、「お母さんがオトノネと関係を持つ」ことでしか生まれてこないということ。
けどオトノネは多くのお母さんの望む不健康な関係を望まない。

望まないよ・・・

悲劇人間の子供が拡大再生産されている現在、自己心理学は一般大衆向けの心理学として、どのように子どもと接し、どんな形で子どもに情緒的刺激を与える社会を作るべきかなどおいう問題を提起すべき時期がきているように思えてならない。そうでなければ、パソコンが創り出すサイバースペースにすべての人が引き込まれて、パソコンが創り出すファンタジーの世界でしか「生きる」意味を見出せない人間が当たり前になって、情緒的接触という言葉が事実上死語になりかねないからである。悲劇人間であれ、偽正常であれ、救えるのは人間しかいない。このような過少刺激の時代だから、子育てにかんしては過保護をおそれず、愛せる限り子どもを愛すべき時代なのだと私は考える。(p.174)

過保護=甘やかし

であるが、過保護=過剰コントロールでもある。

過剰コントロールは控えていただかないと困る。

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ああ、双子自己対象のヤバさ、書いてあった笑

悲劇人間は、個人として、自分の欲動に忠実には生きられない。これまでの他者の反応がそれなりによかった人たちは、それなりにしっかりした自己を持ち、ある程度は、その中核プログラムにそった行動をとれるのだろう。しかし、そうでなかった悲劇人間たちは、みずからの生きる意味を創り出すことができず、周囲に合わせて生きるだけの「偽正常」の病理に苦しむことになるだろう。そして、関係性理論の論客ミッチェルによると、この偽正常こそが、多くの現代的精神分析家のメインテーマなのである。コフートが亡くなる間際に双子自己対象の大切さを強調したのも、「同じ人間でいたい」という、偽正常の患者の心の叫びを受け止めたからなのんかもしれない。(p.173)

「みんなでいっしょ」には危ないという記事は書いてきた。
「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。
「みんなで一緒に」を喩えてみる。
「みんな一緒」の夢から早く覚めた子が、合格する。

けど「みんなでいっしょ」が染み付いた心をどうしたらいいか、それは「知る」ことではどうにもならない。
それこそ、堕落し切るしかないのだろうか。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)
義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。

心が感じなければ、変わろうとしなければ、変わらない。

と思っている。

だが「偽正常」が、あたりまえのストラテジーになってしまった。
「かつての」健全な人間関係はもはや望めない。
人間という資源が使えない。
そこで苦肉の策が「アイドル」とか「ブランド」とかでなんとか〈自己の充実〉をやろうというストラテジー。
「偽正常」であるが、それが「自然」だ。
「みんな一緒」が、「自然」だ。

そんな社会の中で、オトノネをする意味はあるんだろうか。
すくなくとも、オトノネを求めてくれる人がいる、ということだろう。
多くを望まず、小さく続けていこうかな、とおもう。

コフートの考える自己の欠陥は、親の反応性が良くなかったために、体や知的機能は大人になっているのに、心は子どものままの発達状態でいるというモデルである。(p.178)


大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。

コフートは、相手が共感的な反応を示してくれなかったり、自己愛が傷つけられたり、恥をかかされた時の激しい怒りを自己愛憤怒と読んだ。(p.181)

で、この中身は「放出したところで、軽減されてスカッとはしない」ものだそうです。
その根本は、自己愛を大切にできない心にあるから。


大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。

健康な心というものは自己対象によって作られる、そして健康な心を持てれば、周囲の世界から自己対象を選ぶ能力が高まるだろうし、それを利用する能力も高まるだろう。つまり自己対象に対して成熟した態度が取れるのである。

フロイトは、コフートも指摘するように、多くを知ることに大きな意味を置いた過去のことであれ、自分のことであれ、多くを知って心が賢くなれば、人間は自分の葛藤が克服できると。しかし、最近のトラウマ治療でも問題になっているように、「多くを知っても」人間の心は解放されない。もっと人間的な養分で心を元気にしてやらないといけないというのがコフートとの大きな教訓だった。(p.204)

この言葉はコフートではなく和田秀樹さんの言葉です。
少し変えてみようとおもいます。

健康な心というものは健康な心を持った自己対象によってつくられる。

病は感染する。
親子で特に感染する。
学校でも感染する。
地域社会でも感染する。

健康。

心の健康とはなんだろうか。

自分の身を守る。
自分の心を守る。

オトノネはオトノネを守る。
僕は僕を守る。

誰かが、「みんな一緒」でその人自身を守っているように。
子ども時代に、人生を通して作られてきたパターン(ああ、チューリングの本をもう一度よもうかな)は簡単に変えられない。
あるもので、やっていくしかない。

もしそれで「故障」して動けなくなったら、オトノネにきたらいい。
そんな風に、どーんと構えていたらいいのかな。

僕は僕らしく。
オトノネはオトノネらしく。
あなたは、あなたらしく。

僕から見たらあなたは不自然。
あなたから見たら僕は不自然。

だったら、関わらなければいい。

自然に付き合える人、自己対象をみつけるのが難しい、僕の生き方、オトノネのやり方。
それでも捨てられない僕だから、オトノネだから、まぁいいか笑

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双子自己対象の例で、いいものがのっていた。

いつものように「患者の苦しみをまったく理解してくれないので辛い」と私を非難したのに対して、私もふと、「患者をよくできない治療者というのも辛いものなのですよ」と対応した。すると、Bさんははじめて治療者に微笑み返した。その後、患者は現在の辛い内的体験をはっきりことばにして話すようになった。また過去の成功を私に時々話してくれるようになった。(略)治療者も同じ世界に住む人間であるという感覚を与えることができれば、治療の行き詰まりを高いすることができる可能性をこのケースは示唆している。「自分もおなじ状況にいれば、あなたと同じように感じるでしょうね」と伝えることが、患者に「他の人間の中にいる人間である、という感情の確信」を与えることになる。時には、患者に対して適切なタイミングの良い解釈を与えることが、「わかってもらえた」という感覚を与え、双子感を確立した。別の場合には、治療者の側の敵とな自己開示、つまり自分のプライベートな姿を垣間見せることが、患者に治療者も自分と同じ種類の人間なのだという感覚を与える。(p.230)

「わたしもあなたもいっしょ」というスキルを使うといいのかもしれない。
メタスキル はそのままに。
頑なな心を開くには、内側から満たすのがいいのだろう。
種だって、内側から開いていくのだから。

内側へ、内側へ、オトノネへ。

オトノネひろげるシェアぼたん

【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

自信がなくても幸せになれる心理学
『自信がなくても幸せになれる心理学』和田 秀樹

コフートという心理学者はそれ以前のフロイトの「自我」ではなく、「自己愛」もしくは「自己」という新しい言葉で人間を理解しようとしました。フロイトの考えた「自我」という言葉は、「自分の問題は自分の内部で、一人で解決する。自我を自分で鍛える」という背景をもっています。けれどもコフートは「人一人の問題は、どうやら一人では解決できなさそうだ。足りない部分をを他者で充実させよう」という背景を持った言葉を必要としたのです。心理学の人間観を変えるために、言葉を新しく作ったのです。「自我」は他者とは離れた心の内部にあるもの、「自己」は他者が触れられる、まさに他者が関係できるもの、と理解していいとおもいます。

コフートは、人間の行動のすべての原点は「自己愛」にあると考えました。人間とは「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義したのです。(略)実際、本書を読んでいただければわかるとおり、人が喜んだり、安心を感じたりするのは、この「自己愛」が満たされた時だと言い換えられます。逆に、人が落ち込んだり怒ったりするのは、「自己愛」を傷つけられた時です。(p.14)

コフートは「自己」という言葉とともに「自己対象」という言葉をつくりました。「自己」が「自己愛」を満たすための対象のことです。単純に言えば、甘えられる、認めてくれる相手のことです。

従来は

自己の充実=自分を鍛える(自力)

でしたが、

自己の充実=自己対象をもつ(他力)

ということに視点をかえました。
(もちろん、他力を発揮するための自力の部分は必要ですよ!)

コフートは、「甘え上手になりましょう」「頼りになりそうな人を見極める力をつけましょう」ということを提唱したのです。(p.19)

「自己の充実」とは、他者に支えてもらうために「他者を心理的にうまく頼る能力を高めよう」「他者とうまくつきあう能力を高めよう」というものです。(p.68)

人を頼りにするというと、依存である!とおもえるかもしれません。たしかに「よろしからぬ依存」はあるでしょう。ですがコフートは「健全な依存」を目指します。

ーーー

ここで僕は行為レベルと言葉レベルでの「依存」の区別をしたいとおもいます。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。
例えば「忙しいから代わりにやって!」とか、自分の代わりに誰かに手伝ってもらう、利用することは行為レベルです。
それはそれでいいでしょう。関係性があって、の話であれば。(もしくはそれがきっかけになって、関係性ができるのであれば)
ですが大切なことは言葉レベルでの「依存」だとおもいます。
相談する、素直に話す、悩みを、離す。
話をしながら、自己愛を充たしていく。
心が、大事にされる。

この境界線をいくのが、いわゆる「夜のお仕事」の現場でしょう。
ですが大抵、どちらかに分類できます。

最近の言葉で言えば、doingかbeingかということです。
言葉は両方に使われます。
抱きしめるという非言語でも、言葉レベルの関係はもちろん可能です。
そうすると、行為レベルと言語レベルという言葉は不適切かもしれません笑

ーーーーー

コフートは、自分を愛するために、誰かに頼ることを「よし」とします。
「人間、生きているだけで誰かの迷惑になる。気にすることはない。大丈夫だよ」と僕も誰かに言われた記憶があります笑

迷惑になるから、もしくはプライベートが他人に漏らされてゴシップになる、という恐れから、言語レベルで他者と関われない、つまり自己対象を喪失している人がいます。日本の地域社会では恨みと妬みと虚栄となにやらわけのわからないものが渦巻きがちで、なるほど、うまく自己対象をみつけられないかもしれないな、というのが私の直感ですが。

ーーーーー

自分を愛せない人に、他人を愛することはできません。コフートが「自己愛」を否定しないのは、こういったことにも起因します。要するに、「自己愛」が悪いのではなく、「自分勝手」が悪いのです。迷惑をかけたくないが故にカラに閉じこもってしまう人などは、その意思に反して、場合によってはむしろ「自分勝手」な人だということすらできます。(p.29)

コフートは人間を「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義しましたね。
なので、誰かの自己愛を充たせるようになったら、自分の自己愛も充たしていい(みたしてもらう)ことは「よし」だし、誰かに自己愛を充たしてもらったら、その人の自己愛も充たしてあげることは、とても「自然」である、ということです。

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

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ここで利己的な人間のことを思い出してみよう。
もらえるだけもらって、返さない・・・・
「いい人」「誰かの自己愛を充たす人」が、「我慢」をしていたら・・・・
病気になる人もいるでしょう。
「我慢」をしなくても、例えば「ありがとう」の一言で自己愛を満たせる人は、病気にはならないでしょう。関係の作り方、心のあり方は、人それぞれですね。

give and take

という言葉があります。

win winという言葉もあります。

アメリカのネィティブインディアンの世界では、
give away
という言葉があります。与え尽くす、という関係です。

健全な依存関係とはなんでしょうか?

「健全な依存関係を築けることが、成熟した人間の証である」(p.32)

健全な依存関係とはなんでしょうか?
give and takeの世界でしょうか?
give awayの世界でしょうか?
(もしくはtake away?????)

コフートは、何よりも人間の主観を大切にするという考え方をしますから、「やったほうが得だから、頑張ろう」という発想も肯定します。つまり、損得を考えて行動したとしても、コフートはそれを責めません。他の誰でもなく、自分自身が満足していなければ、人に親切にすることもできません。あなたが満足するためには、時には損得で動くことだってある。そう考えるのが、コフート流です。程度問題はあるでしょうが、頭が回ってつい損得勘定をしてしまう人も、そう気に止むことはないのです。(p.32)

つきつめれば、「この人嫌だな」とおもったら、関係をつくらなくてもいいということでしょう。
誰にでも親切に、などというのは菩薩にお願いしましょう笑

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
それがgive and takeでもgive awayでもいい(take awayでもいい???)。心に素直にしたがってみる。まずは、関わってみる。

そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。
コドモとして未成熟なオトナ

「自己愛」とはいってもそれぞれにレベルがあって、そこにはいびつな自己愛と、成熟した自己愛があるとしました。自分さえ良ければいいと相手を見下すような態度をとったり、人をバカにしたりすうるのは、いびつな自己愛によるものです。たとえば、「お前は浮気をしているだろう」などといいがかりをつけて妻を殴る夫は、「自分だけを愛して欲しい」「殴って自分だけスッキリしたい」という勝手ばかりで、妻には何も与えていません。そこにあるのは、いびつな自己愛だけです。(p.67)

子育てはどうなるだろううか。
お母さんの愛情は無償だとかいう言葉があるけれど。。。それは「自然」ではないでしょう。

母親は子供からちゃんと愛や喜びを受け取っているのです。子どもの笑顔や喜んでくれる姿があるからこそ、母親は大変な子育てをどうにかこうにか頑張っているのであって、決して一方的な関係ではありません。その少雨子に、やっぱり子供が扱いにくかったりきむずかしかったり、または自分になかなか懐いて狂えないと言った子があれば、いくら母親でも、ついついムッとしてしまう場面もあるわけですお母さんだって人間なのですから、当然のことです。(p.76)

お母さんが来ても反応しない、笑わない子がいます。

愛着理論の研究をするとよくよく観察されるケースです。
そういう子は、先天的に表情が読み取るのが苦手といった条件で生まれてきている可能性の他に、お母さんと関わっても何ももらえないし、逆に悪いものをもらうから、顔もみたくない、という状況を表しているときもあります。

ーーーーー

「まさかその一言でそうなるとは・・・」という事態があるでしょう。
「そんなはずでは・・・」ということも、よくあることかもしれません。

「役」や「立場」を超えて人間関係をつくることが異常に難しげな文化をもつ日本。

「自己愛」をみたそうとしていろいろなことを喋ったり、誘ったりすると、相手が予期せぬ反応をすることがある。
「ラインの番号、教えてくれない?」「いやだ」
「付き合ってくれない?」「いやだ」
「ご飯食べにいこうよー」「いやだ」
「ねぇねぇ・・・」「・・・」(そっけなさすぎですね笑)

こういう答えが返ってきて傷つくということは、話者同士にまだそこまで関係ができていない、という教訓としてうけとるといいかもしれません。(親子関係がこれだとひどいことになりそうです)

ここで相手を理解する、「共感」するということが大切になってきます。
「なんで嫌だっていうの!」と腹を立てていたら、、、、アレレです笑

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

「いやだ」という言葉のオトノネを感じれるかどうか。
感じられるなら、「そうだよね!じゃぁ別の人誘おう!」とか、「じゃぁ今日は一人でご飯食べるか!」ということにいなって心の健康が保たれる。

相手の状態を推し量って理解して認める。
相手のことだから本当かどうかはわからない。
だがとにかく他者の心はわからない。
わからないものをどうしようもない。
「どうしたの?」と聞いてみるのもいいが、そういう関係かどうか。

・・・・・

「健全な依存」に至るまでのプロセスは長い。
これを子ども時代に学んでおいたら、またそれなりの人生があるのだろう。

自分の感情を知り、相手の感情を知り、ただただそれを見つめてみること。
「しょうがない」ことは「しょうがない」と諦めるプロセスを踏むこと。
「それでも!」と思う気持ちがあるなら、、、、それで人がどう反応するか、やってみること。

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。

お子さんとこういう関わり合いをしてきましたか?

============

「悲劇の人」という言葉をコフートはつくりました。

「悲劇の人」は、成長のプロセスをふまずに、少しずつ「自己愛」の充たし方を、人間関係の方法を学ばずに。一気に「自己愛」を満たそうとする人のことです。「○○があったら」とか「○○したら」、自分は変わる、幸せになる、満たされると勘違いしている人のことです。「白馬の王子様が来てくれたら、私は幸せになれる!」と思っていたり、「お金があれば私は幸せになれる!」と思っている人です。

「子どもが○○になったら」と考えているお父さんお母さんは「悲劇の人」です。

もしも、あなたの周りにそういう人がいたとしたら、できる範囲でグチを聞いてあげてもいし、どこかしらほめてあげてもいい。少しでも、あなたにできるう範囲の安心感を与えて認めてあげることが、彼らを少しずつ変えていくことになるのです。そうすれば、認めてもらった、ほめてもらったと感じた人の「足りない部分」が少し埋まります。埋まってくると、心にも余裕ができてきます。すると、性格も穏やかになってきます。となれば、ほかにもその人と話してみよう、話してみたいと思う人がでてきます。恋人ができる可能性も上がってきます。こうして他者が介入する方法で、人は変わっていけると、コフートは考えたのです。

コフートは、「運」がなかった人たち、すなわち「悲劇の人」たちの治療として、「かつて満たされなかった感情を、もう一度、治療者との間で満たしてあげる」ことで、彼らを救おうと考えました。さらにその治療は、医師でなくてもできるといいいました。いったいどんな治療なのでしょうか。(p.35)

ーーーー

自己の充実のために満たしてあげるといい大切なものは、「認められること」「褒められること」だといいます。
いってしまえば、赤ちゃんがハイハイしたり、二本足で立ち上がったりしたときにみんなが「きゃー!すごいすごい!」とかいうあれでしょうか。

褒められると気持ちが変わる。
楽になる。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

世の中にでまわっている「誉め殺し」では逆に「なんだよ、嘘くさい」と感じてしまう人もいるでしょう。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

褒める、ということをこうとらえてもいいかもしれません。

「本当は自分ってよくがんばったな、とおもうけど、自分で自分を認めてやれない。そんな時に、誰かが、自分が出せない自分の代わりに、褒めてくれる」ことで、自分が自分を認められるようになるのだと。

「ねぇねぇ!みてみて!」といって、自分がつくったものをみてほしい。
自分が「やったったぞ!」という感情をきちんと感じたい。
どんな言葉で自分を認めたらいいのかわからない。

どう感じていいかわからない、けど興奮している。「この気持ちって、なんなんだろう!?」
そこで、子どもはお母さんに「みてみて!」とか「きいてきいて!」という。

ただ、一緒に感じてあげたらいい。
「よくつくったね。うれしいんだね。」
にっこり笑ってあげたら、子ども自分の笑顔をしっかり感じることができるだろう。

ーーーー

世界を知るための言語も同じ。
「青」という言葉をどうやって学んだだろうか。
「青」という言葉の中で、誰かと「青」という言葉を共有して初めて「青」を感じられるようになる。

「よろこび」も。
「かなしみ」も。

言葉を与えることで、「青」を眺めることができる。
「よろこび」を感じることができる。

そこには、生まれたから始まり指差しで開花する言葉の習得と似ている。
「この感情は、何ていうの?どうしたらいいの?」
「泣いていいんだよ」「笑っていいんだよ」「それは悲しいってことなんだよ」「それは嬉しいってことなんだよ」

ーーー

こうして「自分を愛する(自分を大切にする)」ことが「他者を愛する(他者を大切にする)」ことを通じなければ為されないことだと、子供は理解するかもしれません。
また、「自分を愛する」ために必要な他者は、誰でもいいわけではない、ということも学ぶでしょう。

あきらめず、いろんな人に声をかけ通づけていれば、必ず、「お前のこと、よくわかるよ」と言ってくれる人物は現れます。「わかってくれる人」というのは、頼れる人の第一条件です。まずは、「わかってくれる人」を探しましょう。もちろん、自分が行動しなければ、そんな人が現れることもありませんから、そこは自分で頑張らねばなりません。ここは重要なポイントです。(略)たとえそれがインターネットのなかであったとしても、自分と似たような感覚をもつ人や頼りになる人に出会えたなら、私たちの心はずっと楽になります。その出会いは、あなたを変えるきっかけにもなるでしょう。頼れる人、あなたを「わかってくれる」人とのコミュニケーションを通じて、あなたのいい部分が引き出され、「どうせ私なんてダメだから」といったネガティブな部分がなりをひそめていくことが期待できます。(p.40)

人付き合いが狭い範囲に限られてしまうと、かなり窮屈を感じてしまうでしょう。
「立場」や「役」にがんじがらめの人間関係の中では、「わかってくれる人」と出会うのは難しいかもしれません。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
そこで、歩き回る、探しにいくというのもいいし、ネットをつかってもいい。

とにかく、人に出会うこと。
人は、一人では変われない。
人は、一人では豊かに生きられない。

そういう前提が、コフートの心理学にはある。

例えばライブ会場。
同じアイドルが好きな人たちが集まる、というだけでも、人は居心地の良さを感じる。
アイドルに会いたいからいくのはもちろんだが、同じ人を、同じグループを好きな人がいる、ということも、ライブの本質ではないでしょうか。「カッコイイよね!わかるわかる!」という言葉を介さなくても、ライブ会場にいるというだけで、「共感」の空間にいられる。そういう魅力があって、若い子たちはアイドルのライブに夢中になっているような気もします笑

ポイントは、等身大の自分を認めてくれる人がいるかどうか、です。(p.43)

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人と出会う、認めてくれる人を探すということを難しい!と感じる人もいるでしょう。
狭い人間関係の中で、立場と役の縛りの中でしか人と付き合えなかったなら、なおさらです。
(本当は、学校や地域でそういう人と出会うのがいいのですが、そうならないのが現実です。学校も立場主義ですから)
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

「私には無理・・・」とそこで諦めるのか。
「ちょっと、やってみようかな」とおもえるのか。

コフートの出した答えを使うか使わないかは、その人次第です。
オトノネで一緒に初めてみませんか?

おそらくお子さんの方が早く変わるでしょう。
お子さんが変化するのをみて、お母さんが変わる、というのが、通常のプロセスです。

お子さんとオトノネの関係から、学んでみてほしいとおもいます。

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日本では名の知れた心理学者にアドラーがいる。アドラートの違いから、コフートの考え方を理解してみよう、と和田秀樹さんはいいます。

アドラーの考え方というのは、このように「目的論」ですから、「いつも目的をちゃんともち、また目的に対する解決方法をフレキシブルに変えていくことで、人間というのはいくらでも変わることができる」と考えた、と要約できるでしょう。

例えばここに、一人の不良少年がいたとします。治療者が彼の話を深く掘り下げて聞いていくと、過去に「親に愛されなかったと判明し、それが彼がグレた理由だと見えてくる。これが、フロイト流の考え方でしたね。対してアドラーは、勉強で認められず劣等感を抱えた少年には、「勉強で認められない代わりに悪いことをして認められよう」という「目的」があるのだ、としました。ですから、「こんな悪いことをしやがって」と周囲が騒ぎ立ててしまうと、それは不良少年の目的を満たすことになるため余計に悪いことをするようになる、と考えます。では、アドラーは、その不良少年をどうしたらいいとかんがえたのでしょうか?

みなさんは、『あしたのジョー』という漫画をご存知でしょうか。ドヤ街をうろついていた一人の不良少年が、ボクシングと出会い、最強のボクシングチャンピョンと試合をするまでに成長するお話です。アドラーは、この漫画の主人公である矢吹丈(ジョー)のように、「不良少年として目立つ」という目的ではなくて、「ボクシングチャンピョンになって目立つ」という目的をもったらいいじゃないか、と考えるわけです。つまり、悪いとされる目的を、別のいい目的にすり替えるのです。目的が変われば行動も変わるわけですから、必然、不良少年として悪行を重ねることもなくなります。

これがコフートなら、「その少年には愛情が足りていないから、周囲が愛情をもって接していこう」という考え方になります。

『あしたのジョー』でいえば、プロモーターとしてジョーをさまざまなかたちで支えるとともに、ひそかにジョーに好意を持ち続ける財閥令嬢、白木葉子といった役割でしょうか。もちろん、この白木葉子だけではなく、ボクシングの師匠である丹下段平をはじめ、多くの下町の人たちに支えられ、応援されたからこそ、ジョーは「下町の星」として、ボクサーの道を進んでいくことができたわけです。これが、コフート流の解釈です。

「原因」に働きかけるのがフロイトだとすれば、「結果」に働きかけるのがアドラーですから、「矢吹丈という不良少年にボクシングを教える」というのがアドラー流の解決法であり、ジョーがボクサーとして正しい道を歩み始めたなら、過去に親の愛情を受けずに施設に育ったことや不良少年であったことなど、もうどうでもいいことだ、ということになりますう。一方、コフートはそれでよしとはしません。あくまでもジョーの孤独な心を支え、愛情をかけ、いってみればジョーを内側から治療しよううとします。(p.59)

人は一人一人違っていて、心の健康度、心の強さ、心の習慣も違います。
コフートの考え方は、一番根源的であって、母性的であって、平和チックでしょう。「弱くてもいい」、それでも幸せになれると。
アドラーの考え方は、ある程度自己が確立していて、心のインフラができている人には向いているかもしれません。父性的
(こういう分け方もよろしからぬ時代になっていますが・・・)であり、「自分を高めていく」ことで得られるしあわせがあるのでしょう。

この両方が、成長のプロセスで一人の人間の中で回るなら、それがいいのかも知れません。
「目的」だけを追求することは、ある意味で、「孤独」になるかもわからない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)
「目的」を追求するうことに夢中になって、サイコパスになるかもしれない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)

「孤独だっていいじゃないか」という強さがある人は、アドラー流で考えてもいい。
だがその時に必要になる「共同体感覚」はどうやって手に入れるのか???この本では詳しく書かれていないが、それこそコフートの基礎があってのアドラーということはできないだろうか。子どものときの宿題をやったら、大人の宿題ができる。順序があべこべの人もいるが。。

「自分は自分だ」と思えるようになるためにも、コフートの考え方は、助けになるのではないかとおもいます。

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人によっては、「目的を持つ」ことに高いハードルを感じる人がいるでしょう。
がんじがらめになって自分の命のエネルギーを感じられない人がいます。
「立場」や「役」の世界にどっぷり浸かって、自分を感じられない人がいます。

そういう人たちには、フロイトのやったように「原因」をまずは事実として受け入れてから、コフートのいうように、まずは少しずつ「自己」を満たしてゆき、最後になにか「目的」と出会えたなら、アドラー流でいく、というプロセスを辿るとよいのかもしれません。

お母さんたちにもいろいろな人がいます。
心の段階もひとそれぞれです。

お子さんも、ひとりひとり違います。

ビリギャルのさやかさんは「目的」と同時に、坪田先生という「わかってくれる人」と出会いました。
なによりも、「わかってくれる」お母さんがいました。
ただ「いい先生」と出会えなかっただけで、不良?になっていたのでした。
学校で劣等生のレッテルを貼られていたわけですから・・・

大抵のお子さんは、コフート流の関わり合いを必要としていると私は感じています。

お子さんには「今」何が大切なのか、オトノネにきて、感じてみませんか。

アドラーとコフートでは、同じ「共感」という手段にしても、その目的は似て非なるところがありました。先ほども述べたように、アドラーは「相手の目的を知る」ために共感し、目的を達成されるう解決方法を提示してあげる、いわyる「勇気付け」を行い、コフートは「相手の心理ニーズを理解する」ために共感し、相手が不安ならそばにいてあげるし、ほめてほしいのであればほめてあげるわけです。いうなれば、アドラーは人間の本質的な「強さ」を信じた人。そして、コフートは人間の「弱さ」を肯定し、包みこもうとした人、です。(p.70)

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コフートのいう「自己の充実」のための心理的ニーズは3つしかないそうです。

鏡自己対象ニーズ
 自分が褒めて欲しい、認めてほしいポイントを押さえてくれていて、心理ニーズを満たしてくれる対象

理想化自己対象
 「この人は頼りになる」「この人がいればなんとかなる」「この人がいるから大丈夫だ」と思える対象
 
双子自己対象
 自分によく似た存在がいるうということで安心感、ちょっとした一体感を感じる対象

面白いことに、相互に凸凹でも、同時に自他が心理的ニーズを満たすことができる、ということです。

相互依存関係について、私はよく、こんな例え話をします。クラスにすごい秀才と、その秀才にいつもノートを借りてばかりの劣等生がいます。周囲の学生たちは、その劣等生のことを、「あいつはあの秀才のおかげで進級腕きてるよな」とか、「人に頼ってばかりで、ダメなやつだよね」なんて噂していました。そんななか、等のレッウ統制がみんなの前で、秀才に向かってこんなことを言います。

「真面目にとったノートを教えもなく貸してくれるなんて、お前みたいな性格のいいやつ、見たことないよ!」と。

秀才の誉れ高いその学生にとって、「成績がいいよね」「秀才だよね」なんていわれることに、たいした感動はありません。自分でもわかっていることだからです。しかし、この劣等生はみんなの前で、自分の「性格」をほめてくれた!いわゆる「ガリ勉」の彼は、どこか周囲の学生から嫌煙されることも多く、この劣等生の言葉は最大級に嬉しいものでした。隠して劣等生の一言によって、秀才である彼の「自己愛」は満たされ、二人の間には立派な「相互依存」の関係が気づかれたのです。(p.87)


関係において、どちらか一方が、というわけではない。
お互いにその場にいたり、何らかの行為や言葉を交換する、時間を共にする、その価値を交換できる。
能力の差があっても、give and take、自己の満たし合いはできる。

そのために必要なのは、正直に思ったことを話すこともそうだけど、、
やはり共感能力ではないだろうか。
「この人、どんな気持ちなのかな、僕にノートを見せてくれるその関係を、どうやって続けていけるかな。。。気持ちよく、この関係を続けたい。。。」

「共感」とは、相手の立場に立って物事を考えたり、想像してみることです。なぜ共感することが大切か?それは、共感することで、初めて見えてくるものがあるからです。あなたの周りの人を参考に、相手の立場にたって、「この人は、何をいわれたら嬉しいのだろか?」と、改めて考えて見ましょう。(略)相手が「本当は私は、自分のこういうところに中うう目してほしいんだけどな」と思っている、そのニーズをおさえることが重要なのです。相手が「認められたいとおもっているポイント」を見つけて、認めてあげるのです。(p.84)


共感するとは、自分があげたいものではなく、相手がほしいものを感じること、
自分の感情ではなく、相手の感情を汲み取ることです。

言葉だけではなく、行動でも、共感できます。
「ご飯でも食べに行こうか」「ドライブしようか」「飲みに行くか」

ナースコールを押しまくる患者さんがいたとする。コフートならどうするか?

おばあさんにナースコールを押させているのは、「不安」です。不安は、消えるまで人につきまといます。身体の不自由なお年寄りや病気をしたお年寄りが慣れない環境におかれれば、その不安は察するにあまりあるでしょう。不安が消えない限り、おばあさんはナースコールを鳴らし続けることになります。したがってこの場合は、「無視せず徹底的に対応すること」がコフート流の対応方法であり、それは実際、医療現場の正解です。(p.125)

相手の心を理解する、共感する、オトノネに耳を傾けるということ。

子どもであれば、例えば「勉強できない」というおもいから、なかなか宿題をしてこなかったり、スムーズに進まないことがあるでしょう。それでも時間をかけて、少しずつ、自信をつけて行く。「大丈夫だ」と思えるまで、付き合う。

そういう時間が、大切だということでしょう。

ーーーーーーー

この共感の能力を最大限に利用して人を恐怖に陥れるサイコパスという存在もいる笑

相手に気持ちのいいことをしてもらっているなら、当然こっちも、気持ちの良さを返す。
利己的かもしれないが、自己愛をみたすということは、お互いのニーズを満たし合うということなのだろう。

この考えが凝り固まると、「立場」や「役」というものが現れてくるかもしれません。
「あなたは私にこうすることになっている!」「わたしはこうしてるのに、あなたはしてくれない!」

そんな時は?
それこそ人間関係、崩れたり、ひっついたり、いろんなことがあっていいと思います。
離れて見て、お互いに気がつくこともあるでしょう。

別の対象を見つけてもいいでしょう。
大切な人であれば、相手のニーズに耳を傾けてもいいでしょう。
成長を願うからこそ、離れることもあるでしょう。
と、私はおもうのです。

が、

だが!

だがしかし!

コフートはその点、一貫しています笑

仮に他人に甘えすぎたり、自分のことばかり考えたりするような人がいたら、その人は周囲から好かれるでしょうか?難しいですね。だから注意が必要です。自分の満たされない気持ちを自分勝手なやり方で相手に埋めてもらおうとすれば、それこそストーカーとか、そういうことになってしまいます。

コフートは、人に好かれないとか、自己愛が満たされていないとか、そういったうまく「相互依存」ができていない状態のときに、人は不安定になるのだと言います。「俺は誰にも認めてもらえていない」「誰も私のことなんて好きじゃない」、誰でもそんな気分位なってしまうことはありますが、そう思っている時、私たちは自分で自分を大切に思うこともできず、不安定な状態になってしまいます。いわずもがな、四六時中そんな思いに囚われている人は、四六時中不安定ということになります。

対して、「愛情を十分に受けている人は、心が安定していて、必要以上に甘えよう、愛情を得ようという考えにはいたらない」とするのが、コフートの人間観です。(p.102)

つまり、「甘え方」「相互依存の上手な仕方」がわからないのだから、存分に甘えてみないと治らない。心が安定するまで、甘えることだと、言っているようですが????いいの???

甘えてくる人を甘やかすなんて、まさに「猫に鰹節」じゃないかともいえます。でもコフートは、「甘えてくるということは、すなわち自己愛が満たされていない状態なので、もう少し愛情を与えることで均衡のとれた状態に戻すことができる」、と考えるのです。(p.104)

この時、「甘えさせてるよ!」と親が思っていても、子どもが「甘えられていない」、子どもの心が「安定」していないのなら、「甘えが足りない」と、コフートは判断する。

一貫している笑

「親である私は愛情をかけているうつもりだ」では足りず、「子ども自身が愛情をかけられているとわかるように」接することが必要です。これがうまくいかないと、例に挙げた二人のよううに、「勉強ができなければ愛されない」とか、「顔がキレイだから愛されるんだ」という人げられない気持ちを生んでしまい、それが歪んだ価値観にまで繋がってしまいうるわけです。(p.107)

こうして、「健全な自信」をもった子どもは、競争で一番になれなくても、お金がなくても、うまく自己主張ができなくても、満足感を持った人間でいられる、のだそうです。

だが!!!だがしかし!

大切な人なら「甘やかせつくす」のもありかもしれないが、全くの他人の「悲劇の人」出会った場合は???

とりあえずいやな人と絵あった時に「ああ、この人はかわいそうな人なんだ」と思えばいい、ということです。(p.132)

もし大切に思う人であれば、話を聞いたり、共感したり、ほめてみることで心理的ニーズ、自己愛を満たすのでしたね。
素の自分を認めてもらえずに着飾っている人には、素の部分を認めるような関わりを。

何かが変化したら、、たぶん、その人はそれに気づいてほしいのかもしれない。
こうして、関わり合いは、続く・・・

========

心理的ニーズは3つあった。
そのうち「双子自己対象」ニーズはまだ登場していない笑

こんなところにでてきています。

コフートの場合は、叱るのではなく、「こういうミスってやりがちだよな。俺も若い頃はよくやらかしたもんだよ」とか、「次からはこういうふうににゃってみような」というように、相手の「双子」感を引き出しつつ正して行く、というやり方をします。(p.143)

お互いに、自己愛を満たし合いながら生きている人間同士、なかよくやる作法がある。
コフートは、3つの心理的ニーズという言葉で、その作法を教えてくれている。

オトノネひろげるシェアぼたん

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?

原発危機と東大話法
『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

安冨歩さんの本は「生きるための経済学」をきっかけにいくつか読んでいた。
安冨歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ

で、最近youtubeでもいろいろしゃべってくれていて、勉強になる。
安冨さんは学者というより、本当に本当の事実、真実を追う研究者であり、芸術家でもある。
東京に行ったらばったり会いたい人です笑

言葉のレッスンに力をいれている、というよりメタスキルに力を入れている、心を大事にするオトノネとだだガブリな思想?をもっている安冨さん。

名刺の抽象性、名詞のもつチカラをブログに書いたことがあるが、それを歴史的な事件にまで広げてくれるとは。。。

ーーー

子路は言った。「衛の君主が先生に政治をさせたとしましょう。先生はまず何をなさいますか」
先生は言った。「必ずや、名を正す」
子路は言った。「これだから、先生は迂遠だ」

「子路」というのは孔子の弟子の名前で、「衛」というのは国の名前です。子路は「先生は迂遠だ」と行っていますが、もちろん、迂遠ではないのです。何か大変な危機的事態になっている時、最も恐ろしいことは、人々が欺瞞的な言葉を使うことです。

たとえば日本は、戦争に負けそうになって、毎日、B29が飛来してナパーム弾を落としている時に、「日本は神の国だから負けない」という言葉を振り回していたので、自体をどうすることもできませんでした。降伏することすらできなかったのです。自体をなんとかするためには、「このままでは確実に負けて、国土が焦土になる」という自体を反映した言葉で施工し、行動しなければなりませんでした。

しかしそれをすることは、当時の政府の枢要な地位にあった人々にはできませんでした。そのために自体はどんどん悪化し、沖縄で膨大な犠牲者を出し、東京が焦土となり、二発の原爆を投下され、それでも戦争をやめられませんでした。最後に「日ソ不可侵条約」という紙切れ一枚を根拠に、友好国だと勝手に思い込んでいたソ連が参戦して、満州国に新ニュしてきたことで、ようやく幻想が剥がれ落ちました。そこで「国体護持」という言葉が見出され、日本は本土決戦の前に、かろうじて降伏することができたのです。なぜそんなに降伏するのが怖かったのかというと、「鬼畜米英」という相手に貼ったレッテルを、自分で新んじて「降伏したら全員殺される」と思ってしまったから、と言う側面があったと思います。

そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。言葉が歪むことで、人々が事実から目を背け、事実でないものに対処することで、全ての行動が無駄になり、無駄どころか事態を悪化させます。そして正しい言葉を使おうとするものは「非国民」扱いされ、口を封じられ、それでも封じないと殺されました。こう言うことが続くことで、表面上の平穏が維持され、やがて暴走が始まり、最後に破綻したのです。

(略)

これが「名を正す」ということの力です。孔子はそれうえ、「必ずや、名を正す」と言ったのです。名を正さないことには、何も始められないからです。

とはいえ、正しく言葉を使うことは、大変、勇気のいることです。たとえば、家庭でも、夫婦仲が悪くなっているというのに、「夫婦なんて、どこだって、こんなもんだ」ということにして、「夫婦仲が悪い」という言葉を出さないでいることにより、果てしない欺瞞と隠蔽とが生じ、困難と苦悩とが生まれます。それは夫婦のみならず、家族全員を窒息させてしまいます。

あるいは会社でも、こんなことをやっていたらいつまでも続くわけがない、とだれもが思っている事業が、いつまでも続けられるケースが多いのですどうしても、「これではだめだ」と言うことができず、無意味な労働と資源の浪費が続き、挙げ句の果てに会社が危機に落ちいぅてしまうのです。

それがどんなにつらくてひどいことであっても、事実にふさわしい言葉が用いられることにより、人間は事実に向かって対応することが可能となります。この勇気さえ持てるなら、人間は自体を乗り越えていく知恵を出すことが可能となるのです。その時、自体は好転し始めます。そればかりか、「危機」は新たなる「機会」へと変貌します。これが「名を正す」ということの意味です。(p.36)

学校という魔王の使う言葉、暴力、もしくは会社でのそれをそのまま「黙認」する、言葉にしない、無責任を取る(爆)ことで暴走が止まらない状況がある。それは「合格実績」だとか「大学」だとか「学歴」だとか「上場会社」とかいろんな言葉の物語を支えている。沈黙が、日本を支えている。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。
言いたいことが言えない。

「発達障害」「ウィスク」「遅れ」「学校」「支援級」「通常級」「いじめ」「保護者」「先生」「不登校」「生徒」そんな言葉の一つ一つが、呪いの言葉としてしか使われていない現状がある。一体、その言葉は、何を指し示しているのか、わけがわからない。

「いじめ」についても僕はブログで書いている。
「発達障害」についても書いている。
「不登校」についても書いている。
「合格実績」についても。

だが、だがしかしだ笑
多くの記事を読んでもらっているのに、反応がないし、届かないらしい。
言葉というのは、そういうものだ。と、諦め、られないのが、僕だ笑

僕の言葉の使い方は、まだ弱いのだ。
と、反省しながらも。

言葉の重み(俳優と演出家の役割)
困っているけど声を出せないお母さんなう

どうしたものかな?とおもいながら、ちょっと試してみたいことがあったりする。
(お楽しみに!)

まぁなんにせよ呪詛の強さに驚く。

「自然(自由)」と言うことについても書いている。
「子育て」と言うことについても書いている。
「責任」と言う言葉についても書いている。
「大人の宿題」と言う言葉についても書いている笑

ブログのカテゴリーに「言葉の玉手箱」を作ったのも、現実を知るために言葉を改めなくては、新しい言葉を作らなくてはいけないと思ったからだ。
本来、それは詩人の役割だった。
詩人はどこに行ったのか?キャッチコピーを考えて商品を売る魔王の手先になっってしまった。

この点、安冨さんも詩人だろうと僕はおもう。

宿題をやらないだけで、非国民扱いされる、学校はまだまだ戦争状態だ。日本はまだ、いまだに、戦時を生きている。
「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。
子どもも大人も月月火水木金金

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仮面ライダー新1号のオープニング主題歌の後には、

かめんらいだー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは、世界制覇を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!

という、私が子ども時代にしびれたナレーションが入っていますが、仮面ライダー・小出裕章も改造人間です。原子力村ショッカーが大学や大学院でいろいろ教え込んで、小出さんを改造したのですから。仮面ライダー・本郷猛が、精神まで改造される前に逃げ出し、ショッカーによって改造された身体を武器に戦っているのと同じように、小出さんはわずかの仲間とともに人間の自由のために原子力ムラと戦っています。小出さんもライダーも、ショッカーや原子力ムラが次々に繰り出してくる「怪人」と戦い続けていますが決して傷つかず、倒れません。

石森章太郎は、「世界がショッカーに支配されかかっており、人間の自由を守るには、一人一人が仮面ライダーとなって戦い続けるしかない!」という驚くべき真実を、当時の子どもたち(すでに私のように中年になっていますが)に伝えようとしていたのだと私は考えています。こんなことを大真面目に書くと、頭がおかしいのではないか、と思われるでしょう。それは覚悟の上です。私も、以前はこんな風には考えていませんでした。私が考えを改めたのは、東京大学に就職してからです。それも、しばらくはそんな風には考えなかったのですが、何年かの間、いろいろと奇妙で不愉快で悲しい体験を繰り返すうちに、ある時、ハタと、

「東大って、ショッカー?!」

と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。それ以来、「東大=ショッカー」説をあちこちではなしていたのですが、みなさん面白がってはくれるのですが、本気にはしてくれませんでした。しかしそれでも負けずに話していたところ、今回の原発事故が起きたのです。すると、ある精神科医の友人が、

安冨さんが東大について行っていたことは、面白いなと思っていたけれど、やはりお袈裟に行っているのだと思っていたんです。でも、原発事故で東大の人がテレビにたくさん出てきて、むちゃくちゃなことを行っているのをみて、「ああ、本当だったんだ」と思いました。特に、ネットで大橋教授という人の話す様子を見て、「こんなにも純粋の悪意を持った人間が、実在するんだ」とショックを受けました。それで、やっと本当だとわかりました。

と言ってくれました。(p.88)

僕は実はこの本を今読んだばかりで、ショッカーという言葉も今、なるほどなとおもった。

その前に、ラジオ番組で、話の最後にシューベルトの「魔王」が流された時、ああ、魔王ってたくさんいるよな。魔王に囲まれて僕らは暮らしているよなとおもった。

僕は純粋な悪、というもの、笑顔で近づいてきてさも正しいようなことをにこやかに喋りナイフで刺してくる人とたくさん出会ってきたので「魔王」の甘いささやきに覚えがあったのです。

それは学校の先生だったり、塾の経営者だったり、保護者だったり、会社員だったり、それこそ、道端で出会う人であったり。

「純粋の悪意を持った人間が、実在する」

しかもすぐ近くにいる。
その事実を、事実として認められますか。

そしてそういう人が役職のトップになる世の中だということを、認められますか。
(その傾向はパーソナリティー特性の本でも書いてあった)
『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

僕は、「魔王」という言葉で理解したものを、安冨さんは「ショッカー」という言葉で理解していた。
言語は違ったけれども、同じものを指している。僕は「魔王」は弾いたこともあったし身近だったが、仮面ライダーには疎かった笑

言葉をつくる。
事実を表す言葉を使う。
事実を認識していく。

そうして、心ができていく。

「東大って、ショッカー?!」と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。

と書いているのは、本当のことだとおもいます。「知る」ということが、「心」をつくるためには必要だからです。
「見えない」「感じない」のでは、どうして心がつくれるでしょうか。(それが多くの子どもたちの状況だとおもうと、悲しくなります)

で、世の中にたくさんいるショッカー(魔王)たちの使う欺瞞の言語に「東大話法」と安冨さんは名前をつけました。
新しい言葉をつくりましたー!

その言語を生み出した文化は、

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

こと、だそうです。

これは東大に限らない、日本のいたるところでみられる文化だと、すぐにわかりますか。
思い当たる節が、多々あるように、おもいます笑

===============

東大が憎いからと言って、東大を解体しても、無駄なのです。東大を潰せば、京大か慶応か早稲田か知りませんが、どこか他の大学がその機能を担って「東大化」するばかりです。必要なことは、「東大話法」に代表されるような、日本社会に蔓延する欺瞞話法を鋭く見ぬ浮くことです。他の人が仕掛けてくる「東大話法」を感知して、騙されないことです。これは自分自身を例外にしてできるものではありません。ここの人が、自らの中の「東大話法」を見出して取り除くことに努力せねばならず、そうすることではじめて、他人の欺瞞も見抜けるようになります。自分は欺瞞話法を駆使しつつ、他人の欺瞞話法を見抜くというのは、無理な相談だからです。そうやって多くの人が「免疫」を作動させれば、東大関係者も「東大話法」などを振り回せなくなり、真摯な思考に向かって一歩踏み出すことが可能となります。「東大話法」は東大だけが作り出しているのではありません。東大話法を振り回されていると恐れ入って感心したり、納得したりする人もまた、重要な加担者です。東大という権威をもっ東大話法を話せば、多くの人が納得し、その納得がまた東大の権威をも違える、というう相互依存構造になっているのだと私はかんえてています。単に相互依存しているばかりではありません東大話法を振り回せr多人が、畏れ入ってしまうと、今度はその人に東大話法が侵入してしまいます。かくてその人が今度は、別の人に東大話法を振り回します。それは単に言葉遣いがうつるというばかりではなく、その欺瞞的精神の作動そのものの感染です。誰かが東大話法を振り回し、誰かがそれに恐れ入ると、それが東大話法の話者を生み出し、その話者がまた東大話法を振り回し、さらに東大話法の話者を生み出します。人々が麺系を作動させないでいる限り、こうやって東大話法が鼠算式に自己増殖するのです。この自己増殖を放置すれば、あっという間に、社会全体が東大話法に感染します。

ですから、私が本書の読者にお願いしたいことは、東大話法を使っている人を見たら、感心して納得するのではなく、「これは東大話法だ!」とはっきりと認識して、笑っていただきたい。ということです。人々が東大話法を聞くたびに、納得するのではなく、笑っていただければ、東大話法を維持している相互依存関係は崩壊します。(p.192)

悪口、非難の文体をもった言葉がネット上で溢れている。
「やめろ!」「不正だ!」という人たちは、例えば「東大が潰れたあとで別の東大がでてくる」ことをわかっていない。政権が変われば日本はよくなる、と考えているのだろうか。

いやもちろん、自民公明党が調子乗りすぎだから止めた方がいいのは正しいとおもうが、その先が、ない。政権を握った途端に、ナポレオン化するだろう。これは日本の言語文化の問題なのだ、精神文化、心の問題なのだと、安冨さんはいっているのだろうし、僕もそうおもう。

けど現実は、自分の問題として、誰かのせいにする人が多い。
僕自身が、大切なことをまだ自分ごととしてみれていないことがある。

大人が子ども時代にやり残した宿題を、誰かに押し付けている。
それが、「自然」な世の中で、笑おうとしている子どもたちを僕は尊敬してしまう。
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
コドモとして未成熟なオトナ

一人一人が「言葉」を正して生きていく。
東大話法が溢れた「自然」の中で、欺瞞の心に感染されないように「健康」でいることが大切なのだと。
そのために「鼻で笑いましょう」と言っている。

ということは、ほとんどの人間と、話ができずに、鼻で笑う関係になってしまうだろう。
笑い合う人が増えるというのだから、いいものかもしれない。

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安冨さんは、「職」「役」「家」そして「立場」という言葉を検討する。

「職」は大化の改新で「氏」の連合体を天皇中心で中央集権させ官僚体制をつくるための仕組みであった。
例えば焼き物を作る「職」を担っていた土師氏という「氏」という単位が、平安末期には藤原家といった「家」に移行していった。

中世末期から近世初期にかけて、戦国大名は「職」ではなく「役」の体系を作り上げた。
「役」という言葉が、つくられた。
武士には「軍役」が課された。農民には「百姓の役」が課された。

で、

「役」は「家」と並行して成立したようです。

「氏」という大きな組織が「家」という小さな組織に再編成され、それに伴って「職」という言葉は「役」という言葉に変わった。

うーんちょっと掴みかねるので引用しておきます。

とおもったけど打ち込む元気がないことに気づきました。。

「家業」をすることで「家」は「役」を果たすことになり、「家業」が崩壊すれば、「役」を担えず、「家」は「立場」を失う。

ん?家業って、役なの?

ーーーー

このように「役」という概念は、日本社会の根底を支える哲学なのです。この「役の体系」は現代社会にも大きな影響を与えています。それは「役場」「役所」「役人」「重役」「取締役」「役員」「役者」「役割」「役得」「役回り」「役立たず」といった用語を見れば明らかでしょう。ここから先は私の考えなのですが、少なくとも現代日本社会においては、「役」がその背後にある「立場」と密接に相互作用している、と思います。つまり、

役を果たせば、立場が守られる。
立場には、役が付随する。
役を果たせなければ、立場を失う。

この原理は、国家体制と無関係なところでも明確に作動していきます。

たとえば現代日本の企業がそうです。現代日本社会では、個人の自由が憲法で保証されているはずですが、
企業の中ではそんなものは、そう簡単にはつううよううしません、地涌石で就職し、自由意志で勤務しているはずなのですが、尾藤さんのいうような「企業の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする」というような「誇りある」ことにはなかなかならないのです。

なんだか知らないけれど、いろいろな事情で自分にある役が回ってきて、その役を担っているという立場上、その役を果たさないと自分の立場がなくなってしまうので、その恐ろしさのあまり、身を粉にして役を果たす、という感じです。そうやって私が必死で立場を守るべく役を果たすことで、私の上司や動力も立場を守ることができて、その上司や同僚もまた必死で立場を守るべく役を果たすために頑張ることで、私の立場も守られます。

そういう立場と役との相互依存関係の巨大なネットワークが形成されていて、それが全員の必死の努力でかろうじて維持されているように見えますもしも誰かがどこかで「わがまま」を言って役を果たさないと、そこに穴が空き、そのほころびが急激に拡大して大穴となってしまい、周囲に大変な迷惑をかけるように思えるのです。しかし、そのネットワークの全体が、いったいどこに向かっているのか、自分の果たしている役が、いったいその全体とどういう関係にあるのかは、もはやサッパリわかりませんただひたすら、役を果たして立場を守っていれば、なぜか給料が振り込まれ、一定期間にわたってそれを続けていれば、どういうわけか昇進するのです。(p.221)

僕は軽く笑ってしまった。

親という立場と子どもという立場も同じじゃないかと。
多くの狂ったお母さんが、子どもをこういう関係に追いやっている。それと同じじゃないかと。
子どもは子どもという立場で、お母さんはお母さんという立場で。
お互いのメンツをかけて、依存しあっている。

立場を守るために役をつくる。役を作るために、、、いらない仕事を作る。
これは天下りの仕組みだし、立場をより強固なものにする仕組みでもある。
(本の中ではこの後に、原子力関係の「法人」がどれだけたくさんの「立場」の人間の天下り先になっているかを説明している。具体的に笑)

原発は、天下り先をつくるために、ある。
という事実をみんな知っているんだろうか。

最近の大学入試の外部なんちゃらに英検が入っているのも、文科省主催の全国学力テストも、英語の必須化、プログラミングのうんちゃらも、天下り先を増やす、立場を守るために役をたくさんつくっている、いらない仕事を作っているだけだということを、教師が知らない世の中だ。現実を知らない人間から何を教わっているのか??そうそう、先生と生徒という立場を教わる。

「立場」という戦時の文化を学ぶのが、学校だ。
と、はっきり言ってしまえそうだ。

そうすると学校の東大話法はあっさりと理解できる。

大学入試改革も、天下り先をつくるためにやった。
という事実をみんな知っているんだろうか。

僕らはただ欺瞞の言葉で語りかけられているにすぎない。
欺瞞に埋め尽くされている世の中で、頭がおかしくなるのが「自然」だろう。

もう声も届かない。
なのに。
発狂してしまったことを東大話法で隠蔽するお母さんもいる。

「この子には、自由を与えています」

虚しい。

義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

========

母親という立場を守るために、子どもという立場をつくりあげ子どもという役を与えて、子どもという仕事をさせるのは、もうやめませんか。
というのがオトノネの考えです。

学校という立場を守るために、生徒という立場をつくりあげ生徒という役を与えて、生徒という仕事をさせる学校から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

国という立場を守るために、国民という立場をつくりあげ国民という役を与えて、国民という仕事をさせる国から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

どうするかって?
言葉を正すことです。

お母さんは、やり残した宿題に、取り組みましょう。
一人でできますか?
やる気、ありますか?

【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三
子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
いつまでたっても、小学生。
コドモとして未成熟なオトナ
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??
【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三
【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹

========

最後に、どれだけ日本の多くの人が、「立場」に頼って生きているかがわかる話を引用します。
この話は衝撃でした。

これは家庭の中でも、会社の中でも、ママ友同士でも、どこでもありうることですね。

お子さんを守るために、福島市から関西に逃げられた方にお伺いした話では、放射能を恐れて非難するのは「非国民扱い」であり、夜逃げするようにしてスーツケース一つで、誰にも見送られずにきた、とのことでした。多くの人が山下教授の見解を信じており、それに疑いを挟む話をすることすら、憚れる状態だ、とのことです。

その方のお考えでは、福島県では、地元社会の束縛を嫌う人は、すでにほとんど出払っていて、残っている人々は、この近世以来のシステムに依拠する人々だとのことでした。そうすると、影響があるのかないのこあわからないような、しかも権力や権威が「影響はない」と言っている放射性物質を恐れて、「役」を捨てて逃げるというのは、決して許されることではない、というのです。

このような態度は、尾藤正英さんのおっしゃる「役の体系」を前提として考えれば、よく理解できます。日本の近世社会は地域集団と土地とが深く結びついており、ムラが土地を捨てて移動することは、ほぼあり得ないことでした。役の体系も、この住民と土地との結びつきを前提として形成されていました。それは、福島県だけの話ではないのです。東京でも同じことでした。ある関西在住の私の知り合いは、原発が爆発する前に、関東に嫁いでいた妹を、家族ごと非難させていました。ところがしばらくすると、原発が爆発したばかりだというのに妹が帰るというのです。驚いて理由を聞くと、

「ゴミ当番が回ってくるから」

というのでした日本の近隣社会で、ゴミ当番などの「役」を果たさないと、どれほど恐ろしい制裁を受けるかを、みにしみて感じている主婦が、このような判断をするのは、ある意味、当然なのです。放射性物質が大量に降り注いだ地域でも、「ゴミ当番」のために避難を諦めた人は、たくさんいるはずです。(p.235)

近世を生きている、もしくは戦時を生きている人たちが、富山県にも大勢いる。
それが、日本という土地に生きてきた人たちの積み上げた歴史の姿なのかとおもう。

マッカーサーが、「日本人は10歳だ」といったのも、わかる気がする。
それは悪口でもなんでもなく、西欧文化でいうところの「個」が自立できない土壌が、日本にはある、という事実を表現しているのだとおもう。

こんな現実、事実を知ると、心が揺らいでしまう。危ない危ない。心のシステムがしっかりしていなかったら、絶望してしまうだろう。
【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

だから、みんなショッカー(魔王)になっちゃんだけどね。
絶望して、ウルトラマンは、最近、闇落ちするらしいね。(子どもが教えてくれました)
ウルトラマンもショッカーの方にいっちゃう世の中だよ。

心が大事。

さてさて、僕も、鼻で笑う練習をしようかな笑

ーーーー

追記『合理的な神秘主義』p.287に
「官僚的」と呼ばれる性質について説明で、
「生存の不安からくる確実性や厳密性への渇望といった鬼気迫るものではなく、他人からとやかく言われないため、より端的にいえば「叱られない」ためのものであって、手続き的厳密性・整合性・隠蔽性に傾斜している」。

と書いてあった。

「叱られない」ため、というところが、腑に落ちた。

===

ここまで書いてきて、思うことがある。

東大話法という言語話者と、そうでない人がいるこの国で、二人はどのように生きていけるのか。
鼻で笑ったら、相手にされなかったら、東大話者はたぶん面食らってしまう。

言語環境、文化が違いすぎて、話にならない。
異なる文化の人間が混ざっている。

別にどちらかが正しい、というわけではない。
東大話者が大多数を占めており、息苦しい社会で、どちらの言語を習得させるか。どちらの文化を体得させるか。
子育てでは、その選択をまず、なによりも先にしておくといいのかもしれません。

学校では、東大話法を学びます。
地域でも、東大話法を学びます。
家庭で東大話法を使えば、その子は東大話法しか使えなくなるでしょう。

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

お子さんにこのような人になってほしいなら、そのように育てる、ということです。

「小さなガンジー」たちは、「僕は、私は東大話法なんて喋らないからね。東大話法に洗脳されたくないからね」と言っている子なので、お母さん自身の言語環境(心)を変えた方がいいのかもしれません。

話が通じないけど、別にどちらが悪いとかでもない。相手は「純粋の悪意を持った人間」です。
そういう異質な人が集まっているという認識が欠けている人たちが、東大話者だとしたら(自己中心的だからきっとそうだろう)、それこそ、少数派の人は大多数の東大話者の暴力から自分の身を守る心のしくみをつくったらいいのでしょう。

へらへらと、笑ってしまおう。

暴力に屈しない。
流れるようにー

さらさらさらーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三

「自分の働き方」に気づく心理学

『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三

この本は、おそらくリストラされた、失業した人に向かって書かれている。
とおもいきや!子育てをしているお父さんお母さんに「本当のこと」を伝えてくれているいい本だとおもう。

仕事を辞めた人には、仕事を喪失した人には、「やめたの?いいんじゃない?よかったね。幸せを掴むチャンスができて」と話してくれている。
そんなメッセージを、僕は読み取った。

僕も学校はとっととやめたらいいとおもっている。
少なからず、子どもの心を守る工夫は、必要だとおもっている。

加藤諦三さんも大人が子供時代にやり残した宿題を次の子供に背負わせる、と言う考えをしているし、それは事実だからそうなのだ。

事実を受け入れられないお父さんお母さんが、世の中に多すぎる。
だからオトノネで学んでもいいんじゃない??笑

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

人間というのは、これくらい周囲から幸せだと思われても心の底では不幸な人がいる、周囲の人が、彼を「幸せだ」と言ったのは、単に彼が世の中の形式を満たしているということにすぎない。そして、周囲の人間の望むような人間になった、といことにすぎない。

周囲の人が望むもの、つまりそれは商品である、

フロムはパーソナリティ市場という言葉を使っている。そして「人はその生活と幸福には関心をもたz、売り物となることに関心をもつのである」と述べている。他人を見る時、人はコオ頃の底を見ようとするよりも、形式を見ようとする。そして形式が整っていれば、それで幸せだというフロムの言葉を使えば「自分はいかに見事に『包装されているうか』である」(p.17)

高校卒業、大学卒業、学校というラッピング、お母さんというラッピング、長男というラッピング、本当にその人がそのひとらしく、そのままの姿でいることができない時間が、多すぎる。家の中ですら、子どもがラッピングされていることが多々ある。

大人も子どもも、中身が大切にされない。
中身で商品が選ばれることが、ないからだろうか。

まだ大和信仰が盛んな富山。(高岡の大和が潰れたのはいいことだとおもう)
形式優先の時代、価値観が画一的な時代を引きずっている。
学校信仰も強い。金沢は富山よりも強い。と僕は感じている。

他人のつくった幸せの基準でしか生きられないのはなんと息苦しいことだろう。
ラッピングで飾られ縛られた生活。

それが「ふつう」の世の中だ。
オトノネは、「ふつう」を問う。

幸せになりたければ、自分を市場に売り込むな。自分の独自性を発展させよ。(p.23)

独自性のない人はただ市場で機械のように働くしかない。
独自性を自分で見つけている人は、やりがいをもって、仕事ができる可能性がある。
その人も、組織の中で「独自性」を殺されるかもしれない。
「画一性」、商品を生み出す機械として雇用者を集める組織にいたら、独自性は成長しない。

大人も子どもも同じだ。

の人のパーソナリティーとか心の姿勢とかいうものを抜きに生きがいは考えられない。もともと生きがいを持てないパーソナリティーでありながら、「仕事に生きがいを持てない」といってもしょうがない。もともとエンジンがついていない車を運転しようとして、ガソリンが満タンなのに動かないと文句を言っているようなものである。

もともとケーキがうまく作れない人がいる。だが確かにケーキを作る小麦粉もバターも卵も十分にはない。そのケーキが美味しくできないという問題を「これはケーキを作る在z量が十分日本にはないからだ、これはアメリカとの貿易の不均等の問題だ」と叫んだりする。そしてそれが違憲として正しいとする。しかしその人に幸運は来ない。このときにケーキを作る材料がないなら「おはぎを作ろうか」と思う人がいたとする。そこで生きがいが生まれる。そこで幸運が訪れる。その人は幸せになれるだろう。(p.24)

心の問題を仕事で埋め合わせる、子どもで埋め合わせる、なるほど、自然と心は「定期テスト対策」的に目の前にすぐに手に入る資源を使おうとするかもしれない。

それで慢性的に、心の本当に大切な場所にスポットがあたらない。
病む。
学業にしても、本当に大切なことにスポットが当てられず、みんな新研究で「定期テスト対策」だけして、終わる。
病む。

劣等感、満たされなさを満たすために、暴力が生まれる。
塾に「行かせる」のも、学校に「行かせる」のも暴力かどうか。

我々は、自分が本当にやりたい仕事、つまりは生きがいを感じる仕事ということにおって職業を選択する動機の他に、もうひとつ、社会的評価を得たいという仕事を考える。そして幸せになれない人は、その間違った目標の達成に固執する。違った道があるのに、その間違った目標達成のために頑張る。不幸になるためにものすごいエネルギーを浪費する。老いた動物の介護で幸せになれるのに、競争に勝つことに全ての生きるエネルギーを浪費してしまう。深刻な劣等感のある人には幸せになるためのエネルギーは残っていない。復讐のためのエネルギーは残っているが、成長のためのエネルギーは残っていない。自分に失望した者には幸せになるためのエネルギーは残っていない。今よりさらに不幸になるための行動にしかエネルギーは残っていない。自分の深刻な劣等感と直面し、それを自分の中で乗り越える人が、生きがいのある仕事を見つけられる。(p.38)

こうして読んでみると、ずばっと表現していて爽快だが、まさに「幸せになれない人」にこの言葉は届かないとおもう。
だがこれは何にでもいることだ。

誤った目標達成のために、頑張って、不幸になる。
目標が違うのだ。
心が違うのだ。
そのことに気がつかないで、みんな「お勉強」をしている。
「小さなブッダ」はその中でなんとかバランスを取ろうとする。
学校の宿題は?親から受けるプレッシャーは?
「小さなブッダ」は、「小さなガンジー」になって、勉強をやらないかもしれない。

だって、親や学校が与えて聞いた目標は、「私の幸せ」にならないのだから。
魂まで植民地化されてたまるか。

毎日くたびれて働きお金を得て商品を購入し癒しを求めながらまた戦場に繰り出す人がいるう。
暮らしのささやかな喜びを感じながら、限られた時間を働き、生きる人がいる。

心が大事。

僕自身が、最近、違和感を感じていることでもある。

会社員として働くのではない、社会人として働く、生きる、暮らしを模索している。
模索しながら、「どうせなにをやっても」と感じることもある。
それは学習性無気力というもので、多くの子どもたち、大人たちが学ぶことであり、学校や社会全体がその構成員に教えていることでもある。
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?
学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら

無気力になってしまったら、しばらく休むといいだろう。
休むというチャンスを、自分でつくるのだ。
ひきこもりは、チャンスである。
次のチャンスを得るために、外からの刺激を受けない環境をつくるという、チャンスをつくったのだ。

チャンスはある。
けどチャンスは用意されていない。
チャンスは奪われる。
チャンスを奪い取ろうとする人たちが溢れている。
だからチャンスはつくらなくてはいけない。
チャンスは自分から取りに行かなくてはいけない。

チャンスは隠されている。
チャンスは埋もれている。
多くのチャンスは、社会的に殺されてしまう。
生き残ったわずかなチャンスをつかみとるには、取りに行くしかない笑

意欲を喪失した時に能力まで失ってしまう。
仕事の能力と生きる能力とは違う。このことが理解できるか理解できないかは、意味のある人生を送るためには決定的なことである。(p.43)

意欲とはなんだろうか?
英語でいえばMotivationらしい。

モチーフという言葉がある。
例えば画家や作曲家が作品の「題材」にするものだ。
花瓶であったり、あるメロディーだったり、夕焼けであったり・・・

人生のモチーフとは、なんだろうか。
何を描こうとしているのだろうか。

描こうとしているものが見えている状態、それを意欲がある、といってもいい。

世間は表面的なことを教えている。その結果成功した人は人に見せないことをしている。だから社会的に認められない仕事に怯える。80歳になったら四畳半でよい。二階屋は大きすぎる。ある高齢者である。オニギリにノリを巻かないで、水を入れるコップもない。ペットボトルもない。佃煮のビンに水を入れて、ビルの屋上で食べた。「これで楽しいかな」とやってみた。これで幸せなら、今の生き方を間違っていない。そう思ってやってみた。「楽しかった」そこでその高齢者は「お金がなくても80歳で生きられる」と思った。

「人が見たときにどう思うか」ではなく、「私がどう感じるか」である。これが生きる能力のある人である。生きる力のある人である。(p.47)

ラッピングではなく、中身。表面的なことではなく、中身。
この高齢者も、もともとはお金持ちだったのが、お金持たないになったかもしれない。だから、「これで楽しいかな」と実験できたのかもしれない。お金持ちになってからでないと、失ってからでないと、わからないことなのかもしれない。
ラッピングではなく、中身。表面的なことではなく、中身。

僕自身の生き方も、もっとちゃんと感じてみないと、ただあくせく息をしているだけで死んでしまう。
そうおもった。

あらゆる絶望というものは結局、一なのであるということを知らねばならないのである。つまりある唯一の価値観の偶像化、絶対化である。(p.49)

価値観を、喪失してみよう。
身について離れないその価値観を、喪失してみよう。

手放してみよう。

「え?不安?」

そうして不安なまま死んでいく人がいる。
不安なまま子どもに不安を押し付ける人がいる。
僕自身がそうかもしれない。

なぜ不安なのか。
何が不安なのか。

それこそ、不安とどう付き合うかという物語を描くモチーフを用意するといいのかもしれない。
「あなたの人生のモチーフはなんですか」

自分自身を学畜と称ぶ子どもたちはどう答えるだろうか。
まだまだ答えられないだろうか。子どもだから???

いやいや、「今」のモチーフがあればいい。
オトノネを響かせよう。

ーーーーー

エリートコースで自分が精神を患うか、かわりに子どもを精神病に追いやる人がいる。
子どもは大人を救う。
「代わりに僕が、私が、大人のやりのこした宿題をやるんだからね!」
大人は、宿題を子どもに背負わせていることに気づいていないことがおおい。
学校の先生すら、気づいていないのだから。
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』
8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
コドモとして未成熟なオトナ

働きだおして、死ぬまで子どもから離れられず、「親子」という仕事に子どもを巻き込む人がいる。
「真面目」という褒め言葉の裏には、闇がある。
現実の世界を観察する子どものコメント

ーーーーーーー

人と人が関係できない仕事がおおい。
人と人が暴力で結びつく仕事がおおい。

喜び合える仕事がすくない。
ハートワークが大切なのに、ハードワークのための組織がおおい。

親子関係すらハードワーク、ビジネスの原理にさらされている。
心がない親子関係が多い。お母さんも迫られている。魔王に追われているから仕方がない。。
といったら終わりだが。

ハートワーク、子育ての原理を強められないものだろうか。

ハートワークとは、、、、
自分の心を大事にできる働き方であり、暴力ではなくしあわせを生み出す仕事のことだ。
同じ職種であっても、ハートワークをしているところがあれば、アウシュビッツみたいにハードワークしている人もいる。
同じ組織の中にいても、ハートワークをする人もいれば、ハードワークをする人もいる。

子育ての原理とは?
心と行い、言葉と心が一致する生き方を指し示す。
ホンネの世界だ。ホントウの世界だ。

ハードワーク、ビジネスの原理とは?
お客さんを騙したり脅したり、無知を利用して陥れたり、買ったり、負けたりする仕事、生き方。

「学ぶ」という仕事は、ハートワークだろうか?ハードワークだろうか?
勉強する気になれない子??????

お子さんが正しい生き方をしています。
と僕は言い切りたい。

ーーーーーー

「社員のために」働くという経営者がいる。
なぜ社員がここにいるのかわかっていない。
お金のために??
そうして彼のしたことは工場の規模を大きくし、「外国人労働者」を大量に採用することだった。

会社を維持するために、他の会社を潰す。
これがビジネスの原理である。

「学び」がハードワークにしかならない学校は、学校という名に値しない。

—–

その仕事は、天職ですか。
あなたの個性値が、天の才が、どれだけ生かされていますか。
どれだけの喜びですか。

体を動かすのが得意なら、体を動かす仕事でいいでしょう。
神経質なら神経質でもできる仕事(神経質でなかったらできない仕事があります)でもいいでしょう。

あなたの個性値が、天の才が、どれだけ生かされていますか。

ふらふらと歩いていたら(ふらふら歩くというチャンスを生かしていたら)、生きがいを感じられる仕事がみつかった、という人もいるでしょう。

自覚なく、やってみて、感じていくのでもいいでしょう。

多くの心ある人が、心のない組織の一部になっていることを、僕は悲しくおもうのだけれど。

そこで本当に自分が生かされているのか。
組織は、個性を潰すのか、生かすのか。

そうやって、しあわせの在り処を探して行くことが、学び、というものなのかもしれないとおもう。

ーーーーーー

生活、は明治以降にできた近代的な用語。(だよね?)
暮らし、はもっと昔からあった。

生活という言葉には、いろいろな近代の魔王の呪いがかかっているかもしれない。
暮らし、という言葉を大切にしていきたい。

ーーーー

自分に目線を向けているときに、狂った人間が、魔王が、暴力を振るってくることは多々ある。
強さとは何か。大切なものを、しあわせの種を、守るチカラのことかもしれない。
大切なものがない人間に、強さはない。
大切なものがない人間は、虚しく暴力を振るい悲しみを世界に撒き散らすだけだ。

強さは得るものではなく、そこにあるもので、ただ「モチーフ」を目の前に多くだけでいい。
大切なものが、きちんと感じられているだろうか。

他人の評価に怯えていないか。
他人の暴力を恐れていないか。

世の中にいる多くの批判者から、お母さんは、お子さんを守れていますか?
お母さん自身が、お子さんを苦しめていることが多々あるから悲しいのだが。

多くの人間が、足を引っ張ってくる。
大人は子どもの足を引っ張っていないか。

大人の恐れが、子どもを傷つけることがある。
僕たちは、恐れていないか。

誰かを妬んでいないか。

そのごちゃごちゃした感情を、なんとかしてみませんか。

チカラになる

「弱くてもいいよ」という言葉があるが、そのうち強くなるから大丈夫。
弱くても弱いなりに暮らせるんだよ(強さはあるんだよ)ということだろう。
強くなるために、学ぼう。暮らそう。休もう。そして、話そう。
オトノネに来よう!笑

ーーーーーーー

運命とはなんだろうか。

運命とは、命が運ばれて行く道すじのこと。
歌って踊るしかない笑

============

もし、本当に自分が好きなもの、やりたいものに巡り合った時、それは救いの時である。その仕事が、どんなに過酷でも、あるいは社会的に評価の低いものであっても、決してその人の自我が崩壊したりすることはない。不安になったり、無気力、あるいは異様の喪失などということは起こらない。ある意味では、そうした社会的評価とか、結婚式という形式とかは、真実は得られることがなかったことの代償にしか過ぎないかもしれない。本当のものに巡り会えない人間が、せめてそうした形式だけによって、ある種の満足感を得ているだけに過ぎないこともある。社会的に権威ある仕事に執着して、若くして燃える着る人は結構いる。

好きで始まった恋愛では、別れる時にしがみつかない。不安や寂しさが動機で始まった恋愛は、別れる時には相手にしがみつく。そしていろいろなトラブルを起こす。恋愛が始まって相手の言動に対する要求が多くなってきた時には、それは不安や寂しさが同期で始まった恋愛である。

仕事も同じことである。好きで始めた仕事なら、やめたほうがいい時期が来れば、つまり適切な時期が来れば、やめられる。部長の立場が、体にきつければ、やめられる。部長の地位にしがみつかない。しかし権威が欲しい場合には健康を害するまでする。好きなことではなく、名誉とか何かの心の葛藤から始めた仕事は、やめるべき時期が来てもやめられない。(p.135)

親と子の関係も同じだと思う。
子育てが「好き」かどうかを問うてみる。
いや、子育ては「好き」とか「嫌い」じゃないだろう、というかもしれない。
では、子育てを「やめる適切な時」はいつですか。
「お母さん」という立場によって満たされる感情はありますか。
子育てをしながらしていく判断の動機が、お母さん自身の不安や寂しさではないのですか。

42歳、病院の院長、有名医科大学を疎通業、大学病院に勤めた後、開業したくて開業し、今は病院の院長になった。全部夢が叶ったにもかかわらず、どうしよもない無力感に苦しんでいる。全てそろっている。形の上では満たされている。納得もしている。でも満たされないし、納得もしていない。

それが実存的欲求不満である。

「すべての努力に目標も目的もないというこの体験を私は実存的欲求不満と名付けました」それは本当の自分に出会ったことのない人である。自分の真実に出会った人間の強さを体験したことのない人である。

「生活のすさみと虚しさ、内容の空虚と無意味さの感情がそれです」である。
自分自身を裏切ってしまったら、社会的にどんなに成功してもそこに残るのは空虚感である。

ところで先の病院の院長の話に戻る。この恵まれた人が生きがいを持てないのはなぜか。それは現実に対処してこなかったからである。青年期の心理的課題である「興味の覚醒」を怠ってきた、自分を知る努力をしてこなかった。親の意思に従うことで、42歳になるmで生きてきてしまった。

自分に正直であることと、自分を知ることは同じことである。self-awarenessが重要だということは、自分に正直であることの大切さを言っているのと同じである。自分の実際の感情を偽っていたら、自分はどんな人間であるかがわからない。(p.138)

与えられるものは与えられた。
手に入れられるものは手に入れた。
それでも虚しい。

そんなお父さんお母さんがたくさんいる。
もしお父さんお母さんが満たされているならば、子どもも満たされて育つはずだ。
青年期の心理的課題をやってこなかったツケを払うことは、、、

大人になって、家を買ったり、なんだりして身動きが取れなくなってしまった後では、すこしばかり大変なことに感じるかもしれない。発達段階を無視した「定期テスト対策」をすると、人として学ぶべき大切な心が育たない。

ーーーー

「手離すタイミング」というものがある。
それは自然にやってくる、わけではない。
多くの人が子供を手放せずにいつまでも心理的に一体化したままである。
小学生のときが児童虐待のピークなのは、「9歳」を通過するからだと僕は思う。
この9歳で子どもは親を離れることを試みる。その時に「一体化」しているままだと勘違いしている親が、コントロールを続けていると、子どもが死ぬ。中学生、高校生になって虐待が減るのは、子どもが逃げられるようになるからだ。もしくは順応して完全に母子カプセルの中でしか生きていけなくなり、「ありのままの自分」を捨てる選択をしたからだと僕はおもう。

そして思春期を迎えられず、自立できない。
親の人生を歩む。
自分の人生を歩めない。
もしそういう人が結婚して子供を産んだら。
その子どもも自分の人生を歩めない可能性が高い。
世代間連鎖という。

僕はそれを強めて「世代間の宿題なすりつけ現象」とでもいおうか。

大人が子ども時代にやらなかった宿題を、子どもに背負わせるのだ。
子どもはもちろん、宿題をどうやったらいいか教わらない。
さてさて、、どうしたものかな?

ーーー

あるテレビ局の有名な司会者がいた。その人の名前がついた○○ショーという番組が長く続いた。そしてその○○ショーが終わって彼はうつ病になった。おそらく本当に司会が好きではなかったのだろう。もし本当に視界がs気なら、そこまで夢位になれば、司会の仕事はいくらでもあるはずである。

彼は自分の生きている基準を変更できないでうつ病になった。彼の毎日は、スケジュールをこなしている毎日だったのである。彼は感情で「行きたくない」「出席したくない」がない。調子が悪くてもいく。とにかくスケジュールをこなすことで安心する生活をしていた。

彼は全部やるべきことをしていた。疲れるという意識なしにやるべきことをやる。限界を超えて、そしてうつ病。我慢をしてスケジュールをこなしてきた。目的が外から与えられている。

うつ病には目的地についても達成感がない。うつ病になった彼は、視界が好きでなくても人の注目があったうちはいい。決められた通りに動いている自分が見えていない。スケジュールをこなしているだけ。この道も、あの道も、その道もなくて、やり直す知恵もない。そういうときに「あそこに行きたい」という気持ちになったら、自分が見えてきた。自分の意思で動き始めた。(p.140)

スケジュールだらけのこどもの環境。
小さい頃から「ひま」がない。やりたいからやったというのが本当かどうかもわからないくらい「お稽古」をさせられる。

「遊び」というものがあることを、知らない。

どこかで時間つぶしのサービスを受けること、与えられることを人生の醍醐味だと勘違いしている人がいる。
暇つぶしに塾に行く。暇つぶしに学校に行く。別に行きたくもないけど、何もないと何をしていいかわからない。
そういう人がたくさんいる。

暇を埋めようとする人がいる。
遊びの時間などもってのほか。
本当にやりたいことなんてわからない。
自分がしたいことをしたことなんてない。
なにそれ意味がわからないからとりあえずイオンモールに行こう、そこにはブラブラ虚ろげに歩き回る人がいるという考え方。

うつ病になるまで、「世代間の宿題なすりつけ現象」を続けるしかない。
立ち止まれるまで、エンジンが壊れるまで、飛び続けるしかない。
走り続けるしかない。

人の心とは、そういうものだとおもう。
体からのメッセージを拒み続けて、そのまま死んで行く人がいる。
本当の自分の心に出会えずに、人として生まれた喜びを感じられずに、死んで行く人がいる。

人として成長できずに、自分がやらなかった宿題を子どもに押し付ける親がいる。

ーーー

うつ病の規範意識の背後には恐怖がある。うつ病者は恐怖感から気は錦が強いだけである。
やるべきことをしなかったときの恐怖感。それが規範意識。

「これをしないとすごいことが起きる」という小さい頃の恐怖感を再体験している。
ある女性である。

小さい頃母親が「ちょっと、そこの物をとって」と言った時に、すぐにとらないと殴られた。それが彼女の大人になってからの焦りの原因だった。別の女性であるいつも「なぜこの問題を解けないの」と怒られていた。しかし解き方を教えてくれない。「私はやる気がなかった」という。泣いている時に母親は無理やり勉強を教えようとした。私は勉強が嫌いだった。学校が嫌いだった。それは周りが敵だから。

この女性は大人になって、仕事は「倒れるまでやる」と言う。燃え尽きた後にはうつ病になった。彼女は今までの自分の決意で道を選んでいない。

嫌なことを我慢するのが限界にきている成功者もいる。企業を興して成功する人がいる。自家用ジェットを持つ。お金を使うことが幸せと思う。でも何をやっても何かつまらない。心の中で楽しむ能力がないと、合コンでシャンパンになってしまう。毎日コミュニケーションして築いていくものを、ある講演を聞いて、済ませようとしている。(p.141)

多くのお父さんお母さんは規範意識に縛られている。
そこから外れたらどうなるかわからないという恐怖がある。
お父さんお母さん自身が規範意識から外れたことがないからだ。
規範の中で動いてきた。
規範から外れるのが怖い。
いい子ちゃんにしてきた。
言いたいことをいわないできた。
本当にやりたいことを我慢してきた。

自分が経験してこなかった世界が怖い。
自分が安心できないことは子どもにもやらせない。
という考え方なのだろう。

いやいや、あなたと子どもは違う人間ですからね笑
という事実一つがわからない。

世の中からのプレッシャー「子育て」という規範意識も絡んでくる。
がんじがらめだ。

子どもが、親を超えて成長することができない。
親が、子どもを自分以上の人に育てようとしない。
親の想像力、親の価値観の中でしか、子供が育たない。
人間性は、どんどん縮小していく。
子どもは自分がもっている命のチカラを使えない。

自分を失った子供は考えることがない。
ありのままの自分を見てもらえなかった子どもは自分の命を感じることがない。
ただただ、与えられたシステムに流されながら、合コンでシャンパンをやったりアルコールやら仕事中毒になって潰れていく。そこまでいかないで質素に暮らしているとしても、規範意識のなかで狭苦しく鬱積したエネルギーははけ口を求める。

子どもが犠牲者になる。

精神的な虐待である。
あまりにも多くの大人が子どもをいじめたり、虐待しているので、みんな逮捕したら日本は潰れるだろう。

ーーー

自分自身の目的を持つ。
何になりたいかではなく、自分は何者であるか、それが「青年よ、大志を抱け!」の前提である。
それがわかれば宝くじ以上。宝くじに当たった人は不幸。自分の力を用いた人は幸せ。愛されることではなく愛すること。認められることではなく、認めること。理解されることではなく、理解すること。人の顔色を伺うのではなく、自分で決心をし、自分で責任を取る訓練をすること。これが他人に重心があるのではなく、自分に重心があるということである。

自分に嘘をつくな。自分を好きになれ。手抜きしないことは何か辛く感じないでできたことは何か。疲れていてもしたことは何か。人が期待したことをするのではない。自分がしたいことをする。同じことをしているの鬼、他人は続くが自分は続かない。楽しくない。(p.143)

オトノネの座右の名である。

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基本的依存心と自由への渇望の葛藤を解決しようとする。その試みが本質的に失敗したのが神経症である。

毛に主義的親の場合には、子どもは親を深く内面化してしまう。その内面化された親から抜け出すことが難しい。どうしても親の期待した人間になろうとする力が働く。親に喜んでもらうことが生きている意味になってしまう。親の期待した人間になるこどが大きなプレッシャーになる。

子どもにとって失敗が大きな打撃となるのは、親が子どもの失敗を望まないからである。大企業に就職してうつ病になる。あるいはエリート官僚になって自殺するなどの人たちは、おそらく彼らの性質としてはそのようなコースが適していなかったのだろう。

しかしどんな自分の適正に反しているとはいえ、それが親の期待するコースであり、そのコースを進むことが彼らの人生の意味であり喜びになってしまった。この二つの矛盾をカイケルできないままに、最終的に挫折していったに違いない。(略)

カレン・ホルナイの言うように、基本的不安感を持つ人は、優越することが「緊急の必要性」である。それなのに、優越できない。そこで神経症的自尊心を持った人は自分の独自性の強調を始める。(p.148)

「子育て」を失ったら、子どもに対する自分のコントロール権を失ったら、、、何をしたらいいんだろう?
子どもが「ちゃんと」「立派」になったことを周りの人に見てもらうために情熱を注がずに、何をしたらいいんだろう?

お父さんお母さんのもつ人生の虚しさを埋めるために、子供を利用しているお父さんお母さんが多い。
本当に充実している、満たされている、「生きている」親を持つ子どもは、しあわせだ。

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答えをほしがる世の中です。
何が正しいのか、正しいことを、安易に求めようとする世の中です。
その答えを他人に求める規範意識が強いお父さんお母さんがたくさんいます。

けれども人生はその人のものです。
世の中に一人として同じ人間はいないという事実を認めていますか。

いろいろなことをするから、自分にはこれが向いていないとか、これには向いているとかがわかってくる。(略)そういったことを体験するから、自分は政治家には向いていないなとか、作家に向いているかなとかわかってくる。詩人がよいわけでもなく、政治家がよいわけでもない。どちらが自分に適しているかと言うことだけである。その適性は体験からしかわからない。自分んは気が小さいとわかるから、自分の人生の洗濯ができてくる。政治家にでもなれば鈍感なことがものを言うであろう。しかし鈍感なことがよいわけでもない、繊細なことがよいわけでもない。

自分が繊細であるか、鈍感であるかは、何もしなければわかるはずがない。自分は何に向いているかなど体験からしかわからないであろう。(略)

自分の弱点を受け入れると自分の長所が見えてくる。自分の弱点を受け入れると頑張り方がわかってくる。自分の弱点を受け入れないと、頑張って努力しても最後にはノイローゼになることが多い。

「競争がよいか悪か」という議論は的を得ていない。

詩人の適性をもった人が政治家になり、偉くなろうと権力闘争をしてはならない。またビジネスパーソンになり、出世競争をしてはならない。しかし、詩人同士で良い詩を残そうと競争するのは結構な話であろう。お互いに同じ適性を持った人たちが競争するのは望ましいことであるが、自分の適性をまげて頑張るのは望ましいことではない。繊細な人が、鈍感な人と競争して頑張ってはならない。(略)

自分に適した仕事がある。しかしそれでは自分が満足できない。自分の傷ついた自尊心が湯うるさない。自分の能力に適した仕事では、小さい頃、受けた心の傷が癒されないのである。人にはそれぞれ天職といわれるものがある。心に葛藤のある人はそれを無視する。(p.159)

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こういうことが、感じられないから、みんな子どもの天の才を潰していく。
そうして今の日本ができた。
不安だらけの、人間の世界。
まぁどの時代でもそんなことは多々あった。
人間とはそういう存在なのだと割り切るといいかもしれない。
だとしたら、オトノネは何をしたらいいのか?
それこそ、自分のしたいことを、やりたいようにする「今」この過程を通じて、実験しているところ。

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私的な生活を需実させることと自分の神経症的な野心を達成することとは、全く違った価値観の世界のエネルギーの使い方である。仕事の能力はあるが生きる能力のない人は、自分の名誉を求めるためには惜しみなくエネルギーを使うが、自分の子どものしあわせのことにはエネルギーを使わない。(p.165)

多くのお母さんには、なんのことかわからないことだとおもいます。

「子どものしあわせのために」なんでもやっていると、勘違いしているのです。

難しい漢字で書くと、自己欺瞞です。


「子どものしあわせのために」ではなく、「私自身の不安や不満、自尊心や神経症のために」子どもを利用しているだけだと気がつかないのです。
子どもが、お母さんのために、心も体も捧げて、お母さんの不安や不満、自尊心や神経症の犠牲になっていることに、気づかない。

子どももそのうち、無感覚になってくる。
犠牲になるのが当たり前になってしまう。
あまりにも慢性的な「心の喪失」状態に、子どもの心が耐えられなくなり、閉ざす。

命をお母さんに渡してしまう。
お母さんはそれで輝けるのかといえば、輝けない。
ただ、子どもの命を浪費するだけ。
子どもの輝きをお母さんの心の中に閉じ込めて鈍い光に変えているだけ。

そういう状況にいる親子が多すぎる。

オトノネどころではない!??

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引用しまくって長くなっているけど続けます。

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生きがいを持って生きるうということは耐えず成長していくということである。それは成長に伴う不安との戦いでもある。
不安と不満の選択で不満を選べば、生きがいは無理である不満で文句を言っているのが心理的には楽であるが、生きがいはない。人間は矛盾した存在だから、どうしても不安と不満の選択を迫られることが多い。成長欲求と退行欲求の葛藤は人間の宿命である。生きがいとは葛藤の中で成長欲求に従うことである。ということは退行欲求を乗り越えることである。(p.169)

生きがいのある人生を選ぶか、虚しい人生を選ぶか。
時として体が決断することがある。
体が、主張することがある。

それが精神病であり神経症であり、うつ病であったりする。
それを薬でとめて、心のメッセージを読み取らずに虚しい人生を送るか。
それを子どもにふっかけて、子どもの命を喰らうか。

子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。

私たち世俗に生きる者にとって経済的利益があると言うことは大変な魅力である、そこでお金が入ることいなるとついつち浮かれ出す。バブルの時代の日本の企業のようなものである、しかしそうして大切なものを失ってしまう。生きがいと経済的利益が両立すれば問題はないしかし残念ながら両立はなかなかしない。少なくとも両立はしないと覚悟を決めた方が良い。

結果として両立すれば良いが、それは目標とすべきことではない。

ちょうど好きな人と恋愛結婚をして、快適な生活を望むようなものである。たまたまそうなるのならよいが、はじめからそんなことを望んでいれば、両方を失う。まさに「二兎を追うものは一兎をも得ず」である。ジブ運に適した仕事で経済的条件の良い会社などあるはずがない。(p.176)

世の中不安だ、だから子供には・・・・というお母さんがいる。
世の中の不安をより強くしていることに、気がついていない。
不安な社会をお母さん自身が助長していることに気づいていない。

お母さん自身が自分らしく生きられなくて、子どもに「やりなおし」をさせていることが多すぎる。
「私の時はこうだったから、この子をこうさせたら、こうなるのではないか」という、子どもをつかった「自分の人生の再実験」をしているお母さんが多いのです。

その願いは、あってもいいでしょう。
「私はまだ不満だ。だから子どもは満足できるように、もっと、もっと。。。。
もっと不満を拡大しますか?笑

自分の宿題は自分でやりましょう。
一人では難しいのはわかっています。
なのでオトノネで一緒にはじめませんか。
お母さん自身が自分の生き方を見直すことが、お子さんのしあわせになります。

長いこと「あることだけ」をしていると、脳のその分野だけが活動し、その分野だけが発達して全体としてバランスがとれていないことがある。スポーツばかりではない。勉強でも同じである。有名大学にはものすごく勉強しないと入学できない。その勉強も、ほとんどがいろいろなことを覚えているだけである。受験勉強をどんなに頑張っても、それで生きる能力が高まるわけでも何でもない生きる能力というう視点だけから考えると勉強の仕方によっては「その勉強は無駄」としか言いようがない場合がある。生きる能力とは、脳のいろいろな部分が正常に働くことである。(略)生きる能力とは運動も勉強も全体として脳が正常に働くことであるう。長い人生で、どうしても不得意領域に拘らないではいられないという時期もある。そういう時は、今自分は仕事の能力を高めているのではない、生きると言う能力を高めているのだというように、仕事を自分の人生の中で位置付ける。「仕事と私的なこととどちらかを重視する」という問題ではない。(p.205)

勉強は、成績を上げるためにするのではない。
自分の生き方を見つけるプロセスだ。
自分の全体を見る経験だ。

自分の個性、特性を知ること。
自分の限界を知ること。
自分の本当の気持ちを知ること。
自己決定すること。
自己選択すること。
積極的自己責任を負うこと。
責任
「責任」という言葉について
学校の責任と義務(責任について・・・いくつめ?)

オトノネがやっていることだ。

学校では学べない。

学校で何を学ぶのか?
無気力を学ぶ。
作業を学ぶ。

学び方は学ばない。

学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら『よくわかる情動発達』
学習性無力感・学習性無気力とは?
「絶対無理!」症候群!無気力の原因は?

定期テスト対策だけしかしない。
その子の全体をみない。
すべてが数値化される。
点数化される。

そして「あの子は何点だ」という世界。

劣等感
見栄
愛情飢餓

自己阻害され、他人とのつながりをつくれない人にとって、最後の砦は自己栄光化である。それによって自分の安全を守ろうとする。これが包括雨滴神経症的解決「a comprehensive neurotic solution」である。これに失敗すれば自殺するだろう。霞ヶ関のエリート官僚の自殺がこれではないか。日常生活のいろいろな悩みを一気に解決するのが包括的神経症的解決である。神経症的傾向の強い人にとって、それが仕事である。仕事で自分を栄光化することで、心の葛藤を一挙に解決しようとしている人がいる。そういう人にとって、心の葛藤を解決する手段が仕事である。(p.213)

子育てというものを、仕事として作業しているお母さんがいる。
「いや、そんなことはない!」というかもしれない。

心が大事。

子育ては仕事ではない。生きるという本質そのものだ。
生まれてきた子どもの子育てを、与えられた仕事だと勘違いしていないか。
子育てが、本当は嫌なんじゃないか。

しゃーなしでやっている。
他の誰もやらないし。
私がやるしかない!

と感じていないか。
子育てがストレスになっていないか。
あれも「しなくちゃいけない」
これも「しなくちゃいけない」

心が病んだ人の自己栄光化の特徴はあくまでも動機である。なぜ自己栄光化を求めるかと言うことである。神経症的自己栄光化の特徴は行動特性であって、性格特性ではない。神経症者が自己栄光化にエネルギーを注ぐ時には、日常生活が疎かにされる。(p.214)

日常生活ってなんだろう。
「生きるに値する暮らし」のことではないかと僕は思う。

お母さんの暮らしは、生きるに値しますか。
子供がいなければ、生きている意味がないですか。
それは病気なので今すぐ休んでください。

「ちゃんと」子育てをしたという証明がほしい。みんなに「子育て」で認められなかったら不安になる弱い心がある。
だから高校にも「ちゃんと」行って、大学にも「ちゃんと」行って、いい会社にも「ちゃんと」いって。。
規範意識の中で、「ちゃんと子育てした」という承認がなければ自分が傷つけられてしまう。
こどもを「ちゃんと」育てなかったら・・・

そこに子どもの意思はない。
子どもの意思を「ちゃんと」尊重しているようで、「ちゃんと」コントロールしている。
子どもは自分で考えられない。意欲も持てない。何をしていいかわからない。
スケジュールは管理されて、選択権がない。

劣等感で生きているお母さんに育てられた子はもっと深い劣等感の中で生きる。
自分でやらなかった宿題を押し付ける大人が、多い。

包括的神経症的解決としての子育ては、まさに「仕事」であって、よろこびでも生きがいでも幸せでもない。

発表会で自分の子を自慢することで自分の劣等感を埋め合わせる。
テストで点数が取れないと自分が評価されていないようで腹をたてる。
(もちろん先生からは、暴力的な言葉を言われるだろうが、劣等感をもっているから甘んじて受けるしかない。それを子どもにさらに押し付ける。)

子どもを塾に連れていき、親が自分自身の劣等感から解放されたい、解決したいとおもう。
そういう親を、世の中では毒親といいます。

悩んでいるときににはことに小さなことをきちんとすることが大切である。さらに「小さな仕事をうまくこなす人間を見つけたら、大きな仕事を与えて見ること」というのも先の本の中にある。小さなことが大切ということがわかるようにならないと充実した人生をおくることはできないし、もちろん仕事もできない。「することが見つからない」と悩んで相談に来る人がいる。なぜすることが見つからないかというと、自分を偉大に見せることばかりをしようと考えているからである。「することが見つからない」と悩んで相談に来る人は自分のできることをしようとしないで、自分の威信を高めることばかりをしようとする。そしてそう悩む人は小さなことを一つ一つ地道にしていく努力ができない。楽をして偉人になろうとしている。

カレン・ホルナイの言葉を借りれば、登山を望まないが、山の山頂に行きたい

生きがいとは、何かを求めて何かをしようと思う心なのだが、神経症者は何かを求めるのだが、何かをしようとしない。(p.217)

心の渇きを癒すものは日々の努力によってしか得られないある日突然自信を持てるなどとはおもわないこと。(略)カレン・ホルナイが言うように神経症者は自己栄光化の家庭で現実に対する感覚を失っている。小さいことをすることで神経症から普通の人の感覚を取り戻す。あなたの位置は「ここですよ」と言うことも教えてくれる。神経症者は想像の世界に行ってしまい、現実とは関係なく自分をすごいものと想像してしまう。カルト集団がその典型である。(p.218)

目の前の現実、子どもの心がみえていますか。

人間関係を始め、悩んでいる人は身近なことをきちんとすると言うことから出発していけば、かなりの部分、解決することが多い。親の愛情を感じられないままで学生時代になる。そこでも人間関係の訓練ができていない。さらになんの準備もないままで会社の人間関係に入っていく。会社に入る前にいろいろ体験していて、うまく生きていけるようになっていない。要するに心理的にまともな人間に成長しないままで、いきなり社会的に仕事を始めている。(p.227)

そこで自分の子ども時代に違和感を感じて、振り返って、自分で人生をやり直せる人がいる。
そうでない人もいる。

オトノネに関わってくれた人の中でも、紆余曲折で、今まさに、大人になってから、自分はこれからどうしようか、自分の人生を見つけ出した人がいる。その人は、長い長い時間、休んでいた。休みながら、いろんな人と関わっていた。その中で、問いかけていた。問いかける心を大事にした。感じる心を大事にした。

そういう時間も、新しい人間関係もなく、ただ同じところで窮屈な価値観の中で過ごしていたら、出て来るものもでてこない。
一生を、棒にふる。

僕自身、「やばい」とおもったら逃げてきた。
自分の能力の限界、環境の中で最大限生きる限界を引いて、マズイとおもったら、別の環境に移ってきた。
それが自分を守る自分の方法だった。
変えていく中で、学んで行った。
決して日本では学べなかったであろうことも、海外で学んだ。
決して日本では感じられなかったであろう生きる感触を、海外で学んだ。

大人になってから、親の選択、親の意思から離れて自分で生き直すのには、長い長い時間がかかる。
だって、子どものころにやれなかった宿題を、親の分まで、やらなくちゃいけないのだから。

子どもは、たくましい。。。

人々の心の中で、野球がイコール人生になったり、会社がイコール人生になったりしていることが問題なのである。野球の能力と生きる能力とは違う。会社で活躍する能力と生きる能力とは違う。仕事で挫折した時には生きる原点に戻ることである。(p.231)

挫折してから、堕落して落ちきってから、オトノネにきてください。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)
義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。

オトノネひろげるシェアぼたん

『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』

アダルト・チャイルドが自分と向きあう本
『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』

学校と塾と、何が違うか。
学校では保護者、という存在がほとんどない。
生徒指導で退学を迫るときにどうやって退学させるかとか、子どもを学校のコントロール下に置くために親をマインドコントロールするとか、無視するとか。

塾では、親と先に出会うパターンすらある。
そうしてみてみると、ほとんどのお母さんは不安の塊だ。
子供の姿が見えていない。(特に金沢では強くこれを感じた)

自分の感情に子どもを付き合わせるのに、子どもの感情には付き合わない。
それは差別だし、不平等だし、公平でないし、正しくない。暴力だ。横暴だ。
こういった暴力のありかたが、家庭という社会の中ですでに認められてしまっている。
こうした見えない暴力が、子どもに毎日、のしかかっている。

学校でも。家でも。
(いやいや、素晴らしいバランスを保っている家庭もありますよ!もちろん!学校はほとんどダメだけど)

それでも笑ったり、ひょんなきっかけでぽっと変われる子どもたちを、なんとまぁ、本当に、僕は尊敬してしまう。

お母さんの宿題、お父さんの宿題、子供の頃にやり残した自分の宿題を子供にやらせるパターンが多い。それが幼児期の宿題の人もいれば、思春期の宿題の人もいる。
例えばそれが精神的なものである場合もあるし、単純に「情報リテラシー」を得られなくて情報に振り回されている場合もある。どちらにしても、「知」は「心」であるから、お父さんお母さんが育てられなかった「心」の重荷を子供に背負わせていることには変わりがないのだが。。。

親が、「NO」ということを言えなかった。本当なら、思春期に世界を作り直すときに、自分自身が作り上げて来た価値観に対して「NO」ということが必要だった。それができずに、今まで「NO」といったことのない苦しみを、子供にぶるける人もいるだろう。子供にも、「NO」を言わせないのだ。自分への無意識の怒り、悲しみを、一人で処理できないのだ。

世の中の圧力にも「NO」といえないために、子供を戦場に送り出すしかない。
そんなお母さんもいるだろう。
「どこの戦場に行く?」という選択の自由を与えているから、いいのだ!と勘違いしている人もいる。

親のニーズ、親の価値観、感じ方から抜け出して、生き直す。
その思春期の子どもとしての課題をきちんと学び取れる子どもはしあわせだ。
お腹の中からでてきたのに、お腹の中で暮らし続けなくてはいけない子どもは、不幸せだ。

「あなたの不安は僕の不安ではありません」
「あなたの怒りは僕の怒りではありません」
こういう当たり前のことが、わからなくなってしまった大人がたくさんいる。

自分の仕事がうまくいっていない、人生に不満がある。不安がある。
それは、子どもとは関係がないですね???
(子どもがいる、ということだけでも不安になっているお母さんもいるだろう。こんなにも不安な日本という国なのだから本当に狂っている)

本当に、子どもは、大人を背負って生まれてくる。
大人は、背負われていることに気がついていない。
といったら、子どもの見方が変わるだろうか。

気がついて、いない。
気がついているフリをしていることもある。

実は、一人では難しいのだ。
誰かに言われたり、誰かと一緒に子どもへ眼差しを向けることで、子どもの本当の姿に気がつけるものなのだとおもう。
オトノネはそんな場所です^^

子どものオトノネに、耳をすませてみませんか。
あなたのオトノネに、耳をすませてみませんか。

泣けなくなった、ちょっとだけ体が大きくなった子どもが泣いている、声が、きこえてきますか。

ーーーーーーーーーーー

アルコール依存症のいる家庭で育つ子供の多くは、「いい子」になります。
飲んでいる親と、飲酒問題をなんとかしようと必死になっているもうひとりの親の間で、小さい頃から少しでも親を助けよう、親の役に立とう、親に世話をかけないようにしようとします。問題を一緒にか行けるしようとしたり、家族間の緊張をやわらげようとします。親をかばって、親の秘密を守ろうとします。でも、いくらがんばっても、自体はよくならないのです。だから、もっとがんばります。

懸命に親の期待に応えようとします。親から愛されよう、見捨てられまいとして、中には自分が問題を起こしたり病気になることで、体をはって両親を繋ぎとめようとする子どももいます。無意識の行動であっても、結果的には子どもはこうした問題を起こすことで家庭の崩壊をぎりぎりでくいとめている場合も多いのです。

つまり子どもたちは、自分が望むようにではなく、周囲の状況に反応して行動する自分をつくりあげます。「ありのままの自分」でいると、周囲に受け入れられず、傷ついてしまう。だから「ありのままの自分」は心の奥底に閉じ込めて、身を守るのです。このような、自分主体ではなく他人や周囲を主体とすることで自分を守ろうとする生き方を、「共依存」といいます。

子ども時代の生き方は、パターンとして身についていきます。大人になっても、このパターンは続きます。

そして、自分の人生が自分のものでないような気がするのです。

これは、アルコール依存症者のいる家庭だけに起こることではありません。両親の間がしっくりいかないなど、何かの問題のためにうまく機能しない家庭でも、子どもあちは自分の感情やニーズ・欲求はそっちのけにして、親の愛情・注目・評価を得ようと格闘します。ACという言葉の指す範囲は今ではアルコールに限らず、機能不全家や、感情を抑圧された家族のもとで育った人たちを広くさすようになりました。ー必死にがんばるのに、まだまだ足りない。周囲に期待される役割に縛られ、自分らしくいきられない。この苦しいパターンを作り出すのは、私たちが育った家族(原家族)だけではありません。社会も、こうしたパターンを私たちに植えつけます。(p.10)

ここに書かれていることは、ほとんど完璧?に、子どもが「家庭という社会の決定的な構成員であるにも関わらず構成員の一人としての敬意が払われない」現代社会の現実を表しているように思う。

ーーーーーーーー

子供が家族の中で演じる5つの役割(第6章)
ヒーロー・スーパーチャイルド(優等生/家族の誇り)
 評価されようと頑張る。家族の期待に応えようとする。
 完璧に期待に応えようとするが、疲れていて、休みたい。無邪気に遊びたい。けど努力をやめたら認めてくれないとおもっている。

スケープゴート(問題児/いけにえ)
 トラブルを起こす。悪いことをすることで家族の問題を自分のせいにして、家族の崩壊を防ぐ。
 または全く無視されているために「見て欲しい」から問題を起こす。
 「さびしい」「助けて」といった感情を言えず、もやもやした気持ちを怒りや破壊的行動で表す。
 
ロスト・チャイルド(いないふり/忘れられた子/仲間はずれ)
 隅っこで息をひそめる。目立たないようにして傷つけられることから身を守る。
 誰かと繋がりたい、でも、自分の殻の中から踏み出すのがこわい。

クラウン/マスコット/ファミリーペット(道化師/甘えっ子)
 おどけて家族の緊張をやわらげる。争いを回避しようとして笑う。注意を自分に向けさせる。
 自分の感情ははっきり言葉にしない。

ケアテイカー/プライケイター(お世話やき/なだめ役)
 親の面倒を見たり、愚痴や相談を聞いたり、後始末をする。
 「自分がなにをしたいのか」わからない。

ーーーーーーーーーー

過去と現在を見ていく地、自分が驚くほど同じパターンでものごとに反応し、行動していることに気づきます。
〈優等生〉は、今も周囲の期待を背負って努力奮闘しているかもしれません。
〈問題児〉は、今大胆な行動でまわりを引きずり回しているかもしれません。
〈忘れられた子〉は、今もひっそり部屋で思いをめぐらしているかもしれません。
〈道化師〉を演じていた人は、今も周囲が緊張すると、なんとかなごませようと必死かもしれません。
〈お世話やき〉の人は、今も周囲のケアを続けているかもしれません。
こうしたパターンは、私たちの個性や長所にもなります。同時に、その役割に縛られることで苦しさを作り出すもとにもなるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーー

私たちアダルトチャイルド(AC)がかかえる苦しさの核にあるのは、共依存=「自己の喪失」です。程度の違いはあっても、次のような傾向はACに共通するものです。

自分の感情やニーズ欲求がよくわからない
自分を主張できない
相手と自分との境界線が混乱している
ありのままの自分でよいと思えない。
自分が大切うな存在だと思えない。

ACの中には、周囲の期待に答えてがばり続け、挫折もなく、とくに問題を感じていない人もいるかもしれません、けれど多くのACは、なぜ、同じことが繰り返し自分の人生に起きるのかと、嘆いています。よくあるのは、人間関係でのつまずきです。とくに、親密な関係を作ったり維持していくことに困難を覚えます。恋愛や結婚に踏み込めずに悩んでいる人もいれば、度重なる破局に傷ついている人もいます。暴力や暴言に満ちた理不尽な関係から抜け出せずにいる人、見捨てられるう不安から相手にしがみついて結局は関係を壊してしまう人。YES・NOがはっきり言えずに相手につけこまれる人もいます、親と同じような問題をかかえた相手をパートナーに選ぶ場合も多いのです。また、「がんばりすぎ」もACに特徴的な傾向です。多くの仕事を抱え込んで仕事中毒になったり、自分を犠牲にしてまで相手の世話を焼いたりします。リラックスするのが苦手で、自分に必要な休息を与えてあげることができません。楽しむことにも罪悪感を感じます。(p.18)

アダルトチャイルド(AC)が育った家族には、どんな問題が起きていたでしょうか?

(略)両親のコミュニケーションがううまきっていなかったのかもしれません。たとえば、対面はつくろっていても関係は冷えていて、家庭内離婚んお状態だった。あるいは嫁姑の間の確執があった。父親が仕事依存で、妻にも家庭にも目を向けられない状態だった、夫の権威に妻が自分を殺して従わなければならない状態だった。どちらかの親が別の異性関係にはまり込んでいた、などです。親の満たされない思いが子供に向かっていったかもしれません。

たとえば、親として精神的に未成熟だったり、自己イメージがゆがんでいて、子供に自分の不満や怒りをぶつけていた。親が自分自身の生き方を見出せなかったり、目標を喪失していて、子どもにすべての期待をかけることで自己実現しようとした、などです。(略)

これは、「親が悪かった」という意味ではありません。たとえ「すばらしい人」の集まりであっても、関係として機能しない、ということはあるのです。(p.38)

共依存のルール(第5章)
話すな
信頼するな
感じるな

機能不全家族の8つのルール
問題について話し合うのはよくない。
感情は率直に表現してはいけない。
言いたいことは直接言わず、第三者を介す。
非現実的な期待ー強く、正しく、完全であれ。
利己的であってはならない。
私が言うようにせよ、するようにはするな。
遊んだり、楽しんだりしてはならない。
波風をたてるな。

逆に健康な家庭は、このルールを逆にしたもの。

問題があったら話あう。
感情は率直に表現する。
言いたいことは、直接言う。
現実的な期待ー弱くても、まちがっても、完全でなくてもいい。
自分のことを第一に考えていい。
本音で話す。
大いに遊び、楽しむ。
変化はワクワクするチャレンジだ。

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多くのどもたちは、泣くことが上手です。痛い時、つらいとき、何かが満たされない時、混乱してわけがわからないとき、声を限りに泣きます。

こんな場面にであっ歌ことはありませんか?

迷子になってしまった子どもが、表情をこわばらせています。お母さんがやってきたとたん、緊張が破れ、わーっと泣きながら抱きつくのでs。子どもは、やさしくなでてもらいながら、気がすむまで泣きます。やがて大泣きはすすり泣きに変わり、ひとしきりしゃくりあげたと思ったら、けろっとして元気に歩きだすのです。

十分泣いた子どもは、悲しみを引きずることがありません。「お母さんがいない」というショックと悲しみは、安心感に包まれて思いきりなくことで癒されたのです。

でも、もしもこのとき、しっかりと抱きとめてもらえなかったら?「泣いていないで、さっさと歩きなさい!」と叱られたら?どんな気持ちになるでしょうか。(p.92)

「ぼーっとしていないで、さっさと宿題をやりなさい!」

ぼーっとしている姿が、僕には泣いているように見えるときがあるのだけれど。

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『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア ブラック

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック , 水澤 都加佐
子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

ーーーーー

子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

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さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。

調査・日本の飲酒実態


家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です

日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは?

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
  【令和元年12月1日現在(概算値)】
    <総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
 眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
 理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
 ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
 知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

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