『忘れる技術』

『忘れる技術』岡野 憲一郎
忘れる技術

不安になったら振り向いて安心してまた探索を始めるとか、お母さんから安心をもらって内在化するといった言葉がよくわからなかった。

それは、意識しなく打てもキーボードが叩けるようになる、意識しなくても歩けるようになるのと同じように、記憶の中に、仕組みができるということだ、とわかった。(そんなことは書いてないが、それで説明できるからよし)

例えばキーボード。
「う」を打ちたい。
「う」ってどこだっけ?
ああこれこれ、どの指で押そうか?
人差し指にしよう。
押す。
を、

「う」を打ちたい。押す。
に省略できる。
間の記憶は、もう意識せずに、体が覚えていてくれる。

例えばお母さんからの安心。
嫌なことがあった。
不安になつた。
お母さんに離してみた。
眼差しをくれる。聞いてくれる。言葉をかけてくれる。
大丈夫だと思える。
を、

嫌なことがあった。けど大丈夫だと思える。
に短縮すること。
手続きを、省略できること。
無意識の中で、シミュレートしてしまうこと?

意識しているときは新皮質、無意識に落とされた部分は辺縁系で処理されるという。
お守りは、辺縁系にあるわけだ。

脳の中に、記憶に、しかるべき居場所をつくること。

これが忘れるということらしい。
決して消えるわけではない。もしかしたら、深く、刻まれるといっていいかもしれない。
ただその記憶に(怒りや悲しみに)居場所が与えられるということ。

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次の話題。

記憶には「頭の記憶」と「体の記憶」がある。
「体の記憶」は感情に関するもの。怖い、うれしい、ほがらか、悲しい、たのしい、そう感覚になるとき、身体はしらずと反応しています。動向が開いたり、汗がでたり、筋肉がほぐれたり、ひきつったり。
一方の「頭の記憶」はいつどこでなにが起こったか。どこになにがあったとか、どんな風景だったかとか、どんなことを話したとか、「体の記憶」にはならなかった記憶、情報だといえばわかりやすいでしょうか。
ちなみに「体の記憶」は扁桃核、「頭の記憶」は海馬で処理されるそうです。
扁桃体は好き嫌い、快不快を判断する場所ですね。

で、「体の記憶」と「頭の記憶」が一緒にならないで、どちらかになってしまうと、忘れられない記憶になってしまうという話。

え!!????

忘れられない記憶は、扁桃核と海馬の強調が崩れたとき、だと書かれています。

え!!!!????

ーーーー

感動した出来事はよく記憶に残ります。(感情を伴って学ばないと、すぐ忘れる。暗記が不毛だという話)
それは扁桃体が強く反応する出来事に対して、扁桃体が海馬に「ちょっとこれ、大切だから覚えておいてよ!」と信号を送るそうです。

が!!!!!!

扁桃体があまりに強く反応してしまう場合、
あまりにも感情が揺れ動いた場合、海馬は、止まってしまう。

らしいのです。

信号が強すぎて、神経回路が壊れてしまうイメージでしょうか。

最後にこの本では忘れる技術が11くらい書かれている。
怒りは殴ると治るとか。
水を浴びると治るとか。
薬を飲むとか。
思考停止術を使うとか。
相手について知るとか。
話すとか。

これはひとつ、いいなぁとおもったのは、
与える人生を歩むこと。
何かを欲するのではなく、与えてみること。

あともう一つ。

訴えなくても、指摘はするべき。

法雨的手段に訴えるほど深刻な状況でなくても、相手から被った被害や不当さをなんらかの形で告発したくなる場面は、日常にいくらでもあります。たとえば職場で、皆の前で上司は軽い気持ちでも、受ける側にとってはかなりつらいものです。もしそれが限度を超えて、我慢できないときは、それをはっきりと相手に指摘するのも一つの方法です。

例えば某右舷を吐かれたら、「私がいたらなかったことは申し訳なく思っていますが、今の言い方はひじょうに不適切だと思います。その気持ちだけはお伝えしておきます」というのです。たとえ言っても、何も具体的に変わらないかもしれません。

しかしそれをはっきり言ったということで、あなたの気持ちはかなりしずまるでしょうし、上司への恨み、憎しみが忘れられないという悶々とした状態からは脱出できます。

これをしたら、あとで仕返しをされるのではないか、という不安が先立つとおもう。
日本ではいじめなど日常の一部だし、上司部下の関係ははっきり言って暴力の関係で成り立っているようなもの。

日本なら、影で愚痴ることで解消する文化があるかもしれない。
それだけ日本の歴史は暴力で支配されてきたということだろう。

ーーー

経済行動学の何かの本で、「しっぺがえし作戦」が有効だという話がある。
要するに、最初は「協調」する。相手が「裏切」ったらこちらも「裏切」る相手が「協調」したら、こちらも「協調」するというもの。

舐められない、きちんと威嚇する。
そういう姿勢が、ゲームの中では、有効だという。
現実の世界は、、、、どうなのだろう。

先にやったもん勝ち、というのが、一つの答えとして返ってくる。

「仕返し」はチームワークに有効とは言えない 「フリーライダー」を更生させる戦略はある?

これが競争(ビジネス)の原理である。
子育ての原理ではない。

オトノネひろげるシェアぼたん

【ヒトラーに捧げる】『対象喪失の乗りこえ方』

『対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~』加藤 諦三

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

前書きにこう書いてある。

人は自分を支えてきた夢を捨てる時につらい思いをする。しかし、若い頃描いた夢がすべて実現するなどということはない。 「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。一つひとつの悩みを、その時その時に解決しながら生きている人がいる。逆に悩みが解決しないままで生きているひとがいる。その違いは悩みの核心を理解するか、しないかである。核心を理解できれば、先に進める。この本ではその核心を理解しようとした。(略)孤独に苦しんでいる人がいる。しかしその人は今現在、実際に「孤独と追放」をされているだけではなく、小さい頃に体験した「孤独と追放」を再体験して苦しんでいるだけということがある。小さい頃の体験で、長い人生を無駄にして良いのか?(略)仕事も、勉強も、運動も、恋愛も、何もかも「自分の不幸に気づかないようにする」ためであることがわかる。やることなすことすべて「自分の不幸に気づかないようにする」ための行為である。極端に言えば、息をするのも「自分の不幸に気づかないようにする」ためである。しかし大切なのは、現実に直面して先に進むことである。そのためには逃げている不幸に正面から向き合い、それを整理して心の中で消化することである。心の新陳代謝を活発にすることである。幸せの幻想を捨てて、先に進むにはどうしたら良いかをこの本では考えた。(p.5)

『悲しみに言葉を』は学術的に書かれているが、こちらは、もっとエッセイ風、というより、作者の思いを思う存分ぶちまけている文体である。

過去を恨むことに人生を支配されてはいけない。
「私は、愛のない家庭の育ったから、愛のある家庭を築きたい」といって早く結婚をして、失敗する人と、成功する人がいる。成功する人は、その自分の成長した家庭を自分の運命として受け入れた人である。断念した人である。その苦しみと悲しみを心底味わい、命をかけて乗り越えて心理的に成長する。その上で自分は「愛のある家庭を築きたい」と願い、行動する。(略)困難から立ち上がる人は、今までのひどい人間関係を直視する。そして、その人たちとは距離を置く。その人たちを恨むことで、その人たちに絡んで行かない。恨み続けて自分の人生を台無しにしない。つらい運命の自分を受け入れる。(p.24)

こっちで書いたことの、一つの答えがこの本では提示されている(驚いたことに、だ。)
子どもの自立と長男信仰と喪失経験『悲しみに言葉を』

つまり、「長男信仰」だろうがなんだろうが、それを「困難」と感じたところがスタート。それにどうやって自分を関わらせるかで、人生は変わるのだと。

結局、教育なのだ。
結局、心なのだ。

家庭を変えるなどできない。
誰かを恨むことでは変わらない。

自分が変わるしかない。
少なからず、きっかけは、(どれだけ小さくてもきっかけはきっかけだ)自分にある。

得られなかった「幸せな家庭生活」(つまるところ「嫌な思い出ばかりの家庭生活」)で暮らしている現状そのものが、悲哀のプロセス(喪失経験)の始まりなのだと。(ちなみにこの本では、「引っ越し」も「住み慣れた生活様式からの離別」として対象喪失の一つに数えている。なるほどだ。定年退職も、社会的な地位の喪失、今まで築いてきた関係性の喪失、という意味で、喪失だ。天下りというのは、こういう関係性を喪失させないようにするためのしくみだろう。未成熟な大人たちの「生き残る作戦」だろうか。長男が「家」に帰って来るようにしむける仕組みもある。これも長男を喪失しないように、という未成熟な大人の「甘え」だろうか。もうそんなことはどうでもいい。私は私で生きる。だって、私の生きている時代は、もうあなたの生きた時代ではないのだから。といえるようになれば、きっと楽に生きられるのかもしれない)

対象喪失には色々なものがある。失恋も、近親者の死も、故郷からの別れも、希望の喪失も、役割の喪失も様々なものがある。夫を失った妻がいる。悲しみを回避するために子供の教育に逃げた。子どもの幸せのために子供の教育に集中したのではない。夫を失った悲しみから逃げるためである。教育熱心の動機は苦痛回避である。表面的には立派な女性に見える。しかし子どもは躁鬱病になった。彼女はよりつらくなる。人は対象喪失の悲哀を経て回復する。一般に健康な人間は対象喪失にどのような反応をするのか。事業に失敗する、失恋する、そうした喪失が起きた時、誰でも素直に受け入れられない。夢ではないかとおもったり、何かの間違いではないかと思ったりする。失恋の場合であれば、「あの人は私の愛をためしているのではないか」「いつかきっと帰ってくる」などなど様々なことを考える。誰にでもそうした対象喪失を否認する時期がある。しかしやがて、失恋ということを認めざるを得なくなる時が来る。そうなれば今度は、自分を捨てていった恋人を恨んだり泣き叫んだりする。激しい憎しみにかられ、怒り心頭に発することもある。捨てられたとわかっても、なかにはしつこくつきまとう人がいる。そういう時期というものがある。これをいつまでもすると、相手の中にまだのこっている愛情まで失う。そのような悶え苦しむ時期を経て、喪失を最終的に受け入れていく。「だめだった」と断念する。そして断念の時を経て、新しい情熱の対象を発見する。しかし、これはあくまでの正常なケースである。逆境に強い人のケースである。逆境に強い人は解決を焦らない。待つことができる。アドラーが生きるのに望ましくない性格として「待てない」ということをあげえちるのがまさにその通りである。生きていく以上、誰にでも逆境は避けられない。誰にでも逆境の時はある。その逆境をじっと耐えられるかどうかである。逆境はすぐには終わらない。心も体も消耗する。冬が終わり、三寒四温で春が来るように、いつかやがて心身ともに回復するという心の姿勢が大切である。いつか時を経て傷ついた心が、自分のパーソナリティーのなかに組み込まれて、豊かな自分に成長する、そう信じて焦らない。それができれば人生を最後まで無事に生き抜ける。対象喪失の悲哀の過程を完遂すること。その一つひとつの完遂が、最高の自分への道である。その対象喪失の連続の中で人は成長する。(p.18)

スピード感のある、しかしなんとも爽快な書き方だ。
どストレートだ。見習いたい。

ある意味で神経症的傾向の強い人とは、断念できない人である、断念しようとしながらも断念できない、。それが人間である。しかし「それにもかかわらず」人間は断念しなければ生きていけないとフランクルはいう。私もそう思う。自らの運命を受け入れるということは、断念するということである。私は20歳前後の頃、枕元にニーチェを置いて寝ていた時がある。ニーチェのいう「運命を愛する」ということも、断念することであろうと私は理解している。まさに断念こそ「出口なし」といわれる人間の最後の出口なのである。絶望と断念は違う。断念は生きることである。逆境の中で生き抜くことである。(p.28)

断念できないのが人間だが、それでも断念せよ。というのは、目の前で断念できずに悶え苦しんでいるひとには酷だろうか。

「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。それは定年退職のような時ばかりではない。例えば自分は音楽が好きであった。しかし音楽を捨てなければならない時も来る。自分は音楽では食べて行かれない、そういう現実に直面しなければならない時もくる。希望の喪失である。自分の可能性が一つひとつ消えていく。そして悲哀を味わい絶望し、やがて「これが私の人生であった」と、素直に自分の人生を受け入れる。そうして心安らかに生きていく。そこに自分の人生の固有の意味を感じる。それこそが対象喪失の悲哀の過程を完遂したことである。(p.40)

どこか、日本仏教の説教を聞いているような・・・

実際、「オトナ」たちの話を聞くと、いろんな「諦め」をしてきた人がいるわいるわ。
諦めて(受け入れて)、捨てて、別の道にいって「落ち着く」という道筋は自然におもえる。

試してみた、信じていることを、貫こうとした。
本気でやってみた。進んでみた。
けどやっぱりちがったようだということはごくごく普通にある。

それなのに子供達に「こうしたらああなる」と言い続けたら、子どもは誤った心のしくみをつくるかもしれない。
教えてはならないことなのだ。

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断念する、ということに関しては、『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』にも書いてある。
残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

ようするに、「やり続けたほうがいいのか」「途中でやめたほうがいいのか」という問いだ。
いくつかのケースを具体的に示した後に出した答えは、、、「五分五分」であった。

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こんなことが書いてあった。

絶望してカルト集団に入っていく人も、もし執着していることを断念できたなら、カルト集団に入らなくて済んだのである。(p.48)

子どもに教えるべきは、断念する、ということなのだろうか。
例えば、ねだっていたものを断念する。
例えば、なりたかったリレーの選手になれなかったことを受け入れる。
テストで欲していた結果が出なかったのを、受け入れる。

この受け入れ(断念)が、本当に本人の納得いく形で行われなければ、恨みやら妬みになるかもしれない、とおもうのは僕だけだろうか。

本気でやって、やりぬいて、それで、ダメだった・・・そこまで子どもが味わい尽くすまで、大人は待てるだろうか。

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いいヒントがあった。

心理的に安定して成長した人は、目的を変えることもできるし、適切な目的なら引き続き頑張る。まず心の葛藤でエネルギーを消耗していないから、目的が適切なら、妨害に打ち勝とうとする努力の強化ができる。(略)執着性格者は、心のゆとりがないから、そのことに執着する。頑固とか意地をはるというのは、心にゆとりのない時の心理である。周りが敵の時である。ケチで頑固を特徴とするう肛門性格などは、実は何よりも心のゆとりがないということである。(p.56)

変化をつけるには、どうしたらいいか?
心のエネルギーを、葛藤で消耗させず、ゆとりをもつように、まずはすることだと。

ゆとりをつくる、エネルギーを消耗させない、という振る舞いは「小さなガンジー」とか、引きこもりとかいう現象になることもあるだろう。うつ状態になるのは、心の健全な回復プロセスの一部だと考えていい。

同じ「会社をやめる」でも、怠け者で「イヤ」になって会社を辞める人と、柔軟性があるから会社を辞める人がいる。この二人は生きる姿勢が根本から違う。この同期の違いを理解しない指導者は、創造的な人を「こらえ性がない」などといって、才能を潰してしまう。柔軟性があるから、会社を辞める人は次のことを始める。怠け者は会社を辞めても次にすることがない。
「会社を辞める」にも、色々な人がいる。
第一にうつ病の人や燃え尽きる人がいる。やり直しのきかない人、エネルギーのない人。そういう人には願望がない。
第二は怠け者だから辞める人。
第三は心が柔軟だから辞める人。
(略)
心の空洞がもたらす執着や無気力は、「このままこの道を進んではいけない」というメッセージである。(p.59)

だから、同じ「学校をやめる」「学校に行かない」にも3種類ある、ということだ。
(「不登校」という言葉がどれだけ曖昧か、意味不明か、現象の一部を切り取っているだけか、わかるだろう)

逆に考えると、同じ「学校に通う」「学校に行く」にも3種類ある、ということだろうか。
第一に、「学校に行くのは偉いんだ」「皆勤賞はすごいんだ」とか「私はいい子だ」とか「私はあの子よりすごい」と優越感で通う人。(「暴力・服従」)
第二は、イヤでイヤで仕方ないけど「行く」ことになっている人。(「非暴力・服従」)
第三は、心が柔軟だから通える人(先生のいうこともテキトーに聞く)。(「非暴力・不服従」)

学校に行く子のなかにも、「小さなガンジー」がいるようだ。

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「長男」を家に結びつけて離さない長男信仰は、空虚になったおじいちゃんの心を満たすために、存続している?古き良き時代への種着か。長男という確かな(?)「システム」の頂点には、まだ私がいる・・・・その幻想を支えたいのか?DVをうけても気がつかないお母さんと、DVするお父さんの関係のようにおもえてしまう。

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「僕は4番打者で投手になりたい」と願う。
すると、そうなれないことに悩み苦しむ。
そうなれないのは他人が悪いとなってしまう。
心理的健康な人は、「自分の野球の能力ではどのポジションかな」と考える。
自分の適性や能力や素質といったものを考えて、「選手になれるかなれないか」と考える。
そしてどうしたら選手になれるかを考える。
選手になれなくても苦しまない。
なぜなら自分を受け入れているから。(p.74)

これって、個性値教育だよね、。
イチローがこれだよね。

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自分を受け入れずに、騙し続けることを、自己欺瞞といったり、自己疎外といったりもする。
また自分を卑下する自己蔑視ともいえる。「どうせ自分は、、、」というやつだ。
心理学の用語ではよく、抑圧、とか、自己防衛、という言葉をつかう。
本当の自分の姿を欺いてみせたり、自分自身が本当の自分を感じないようにすることだ。
僕ならば、自分の声を、殺す、ということになるだろう。

自己実現・自己表現・自己表出をせずに、自分の声を出さずに、隠してしまう、本当の自分を閉じ込めてしまうことだ。
そう考えると、自己実現というものは、ありのままの自分を「今ここで」出すことを表しているにすぎないのではないか。

と思える。

小さな自己実現・自己表現が連続して行く先に、今の大人たちがよく考えるような「成功」が待っているようだ。
本当は、小さな(ありのままを出していくという!)「成功」が山のように、積み重なっての「実現」ということになる。

なるほど。

自分で言うのもあれだがいい考えだ。

ーーーーーー

八方美人、誰かに合わせて自分を出さない、媚びへつらう、認められたい人は、孤立感をもっている。
どこかに所属するというだけで、強くなった気になる。
けど本当は「本当の自分」でないために、孤立感に悩み続ける。
こうすると、所属する組織に依存することになる。(それが自治会でも会社でも政治組織でも家庭でも友達でも)

自分を守るために、他人の虚栄心、自己中心性、利己主義を満たす道具に自ら進んでなる。
自分を守るために、暴力の一部になる。

孤立している「本当の自分」を認めずに、実現せずに、誰かに気に入られることで(隷属することで)満たされようとした心がある。
自分の意思をもたず、付和雷同する、いじめられていた側が、いじめる側になる。「だって、そうしなきゃいじめられる(孤立する)」
孤立する、という自分の本性と向き合うのは大変かもしれない。
孤立させられた(つながりを失った)という現実を認めるのは大変かもしれない。

それでも、「その手を離してごらん」というのが、この本の、シンプルな答えのようだ。

仮面をかぶって自己卑下をし続けて本当の自分を隠し続けられるほど、人は強くない。

たよりないけどその手を離してごらん、私たち人間には、それしか生きる道はない。(p.183)

なるほど
これはもはや、知恵のレベルで、言い聞かすしかないのだろうか。
こっちの歌よりは安全で役に立つとおもう。

ーーーー

話が逸れてしまった。
自己蔑視・自己卑下は例えば「お前はダメなやつだ」と言われたり他人に期待されてそうなったとか、原因はいろいろあるけど結局は自分に対する怒りを生み出す。「お前はダメだ!」「お前はこうしなくちゃいけないんだ!」と自分が自分自身に言う(自己実現しない)のが自己卑下であるから、本当の自分は「何くそ!」と怒るのである。これが、人が変わった時に、例えば弱者に対して、現れる。

本当は自分自身に感じている怒りを、弱者に、ある時は子供に、ある時はパートナーに向けて打ち付ける。
(それが学校の先生とか保育所の先生とか会社の上司であることもこの時代、よくあること。)

誰かに満たしてもらえなかった感情を、別の人で満たそうとする。
その間、喪失は終わることなく、不安、怒り、妬み、恨み、苛立ちで自らを、もしくは他者を傷つける。
子供のよくやる、癇癪というやつだ。
子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。

モラハラ、パワハラ、DV、児童虐待、いじめ、犯罪は、実現されなかったことがらへの癇癪である。
こどもとして未成熟な大人は、こうして暴力を世の中にばらまく。

子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。
いつまで傷つけるのだろうか?

私は教育心理学者バスカリアの本を訳した。そのなかに、人は心理的に辞めば病むほど行動の選択の幅は狭くなる、とある。悲しみや靴から自分を守るために、自分の心を操作することでも挫折するが、また単純にこの対象喪失の悲しみに耐えられないというケースである。逆境を抜け出す人は焦らない。苦しみは瞬時に消えるものではない。時が熟するのを待つことである。なく時期があってこそ、苦しみを耐えていかれるよううに成長もする。朗らかに生きられる日が来る。いけないのは成長できないことである。長い人生には演歌をう歌う時期もあれば、同時に明るい南米の歌があってもいいのである。心豊かな人生とは、対象喪失に適応した人生である。それは決して悲哀のない人生ではない。悲哀に満ちた人生である。しかしそれは、その時々で悲しい過去と縁を切った人生である。心貧しい人とは、対象喪失という状態への不適応である。それは、先に進めない人生だから。(p.167)

俳優の字を語った時に、
優を憂う人と書いた。それがなぜ、優れていることになるのか。
こういう文章をよんではっとする瞬間があるのだなぁ。。。。
言葉の重み(俳優と演出家の役割)

なるほど。

子育てで大切なのは、断念すること。
これはケジメのことだろう。
躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』
感情知性といってもよい。
アンガーマネージメントといってもよい。
社会認知的スキルといってもよい(?)

自分の生きて行く道にいは必ず自分の生き方を妨害する人がいる。その人を「悔しい」と思っていたら、生きる道を踏み外す。ひどいい仕打ちにあって、「悔しい!」と眠れない夜を数越している時がまさに人生の道を踏み外す時である。自分を見失う時である。自分の中に核となる部分が無ければないほど、人はこのマイナスの感情に振り回されてしまう。その「悔しい」という感情で緊張し、所望し、病気にもなり早死にするのである。「あいつとは関係ない」と心の中でその人たちを断ち切ることである。回復力、復元力、立ち直り力の強い人は、皆心のなかに核をもっている。(p.195)

この「核」が何を示すのか、この本には書かれていない。。。笑!

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擬似成長、という言葉をマズローは使ったらしい。
これは僕の「コドモとして未成熟なオトナ」と似ている言葉のようにおもう。

擬似家族。
「仲のいいように見える」家庭の子が親を殺す。
社会的には適応しているが、情緒的には適応できていない。
仮面はかぶるが、心は、無意識は荒れ狂う感情を抑圧するうことにエネルギーが消費され、成長することがない。
外から見れば、成長している、円満な家族であっても、心理的には成長していない、戦争状態である。

小学生、中学生、高校生の生理学的な「思春期」すらも抑圧されている子がいる。
命が、、、、、、、命が。。。。。。。

これは家族単位での自己卑下であり自己抑圧、自己欺瞞、であろう。
これが学校単位、地域単位、国単位であるとしたら・・・もう本当に、どうしたらいいのかわからなくなる。

そうだ、まず、自分なのだ!

自己否定・自己卑下をやめて、どんなに小さいことでも自己実現・自己表現・自己認識。
子どものときなら、お母さんが排泄物を処理してくれたように、体に悪い、心に溜まってしまう感情を拭い取って気持ちよく笑えたかもしれない。今、ひとりで、どうしたらいいのか?わからなくなったら?

まずそのわからない苛立ちをそのまま抱いてみることなのだろう。
焦らない。ひとつひとつ、感じていけばいい。
投げ出さずに、時間をかけていい。
実はそれが、アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学の原理なのだが。

オムツにうんこをもらしてしまったとしよう。
「うんこでびしゃびしゃだよ!うわー!びしゃびしゃだ!」
しばらくその不快さを味わって、当たり散らすかもしれない。「気持ちわりんだよ!」と誰かに暴力を振るうかもしれない。誰かに媚びへつらってオシメを変えてもらいたいと告げるかもしれない。それでも誰もおしめを変えてくれないところまで、うんこと付き合ったのち、自分で新しいオムツを用意して、自分でうんこを処理することになるのかもしれない。

うんこをすることを禁止されている人がいるかもしれない。
もう、うんこをしたくても、できない体になってしまったような・・・
「まぁ、それならそれで出るまで待つさ」といえるかどか。
「うーん、野菜食べてみようか?」
お腹が痛くても、出ない、ということもあるかもしれない。

ながい、ながい、時間がかかる。
この辛いプロセスを、誰かと一緒に、片方の手を離す代わりに、もう片方の手を握ってくれる人がいてくれるなら、しあわせだ。

オトノネは、その片方の手になりたいとおもっている。
できんのかな笑いやいいや、やってきた。

メモ:交流分析のグールディングと言う人が書いた『自己実現への再決断』という本があるらしい。どんなものか。

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手を離そう。
休もう。

止めよう。

大人も子どもも。

手放すには、落ちき切るまで、落ちていかなくてはいけないのかもしれないけれど。
それも、プロセス。

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

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あ、そうそう、ヒトラーも安倍さんも劣等感の塊ですね。
そういう風に、育てられたのです。

さて、誰に悪口をいったらいいでしょうか?
歴史の勉強をしなかったあなた自身でしょうか。
彼らを生んだ母親でしょうか。
父親でしょうか。
それとも彼らの学校の先生でしょうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』

悲しみに言葉を

喪失(そうしつ)経験、という言葉がある。

誰かを失った、何かを失った。。。
安定していたものが、不安定になる。

そういう気持ちを言葉にすることが、安定への第一歩だ。という本。
喪失の経験が、成長につながると。

でも、そうした喪失を体験すれば、誰でも成長することができるのだろうか。私には、そうは思われない。本書で私は、喪失から何かしら肯定的なものに変容しようとするときに大切なことは、喪失を意味付けること、喪失から学び洞察を得ること、そして経験にもとづいて何か肯定的な事柄を他者に伝えるという、心の中の大変困難な作用であることを主張したいとおもう。(略)ヴィオストの本の真価は、生きている間じゅう、人はさまざまなタイプの喪失を経験するのだといことを伝えている点にあると思う。(p.5)

例えば、志望校には入れなかったことも喪失経験になるかもしれない。
バラ色の結婚生活だったものが、変わったことも、喪失経験といえるかもしれない。
「うまくいく」と思っていたことが失敗することも、喪失かもしれない。

女の人であれば、流産、子供ができない、、、といった状況も、喪失体験と呼べるかもしれない。
男性には感じられない深い命の感覚を、女性はもっていると僕はおもう。

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ちなみにこの本で取り扱っている喪失経験は次のよう。

親しい人の死による喪失
離婚・離別による喪失
理不尽な暴力による喪失(DVや性的虐待、犯罪)
戦争や大量虐殺による喪失
病気や事故による喪失(慢性的な病気や加齢を含む)
貧困、ホームレス、失業

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目次を読んでいると、こんな項目がみつかる「西側からの『喪失の輸入』ー映画・テレビの暴力とタバコ」
モノが、モノの移動が、喪失をもたらすという視点だ。

また、「公認されていない悲嘆とスティグマ化」では自殺や近親相姦、摂食障害にもふれている。
公認されていないとは、「悲しむことが認められていない」という意味でとらえてよいかしらん。

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人生のある時点における重大な喪失に圧倒されてしまい、その喪失を十分に消化できないまま、その後の人生で出会う喪失によってさらにひどく打ちのめされてしまう人もいる。(p.6)

打ちのめされるタイプはビッグファイブでいうところの神経質傾向がある人だろう。
打ちのめされずに、他人に暴力を振るう、支配的になるというタイプもいる。

打ちのめされる(自分を打ちのめす)にしても、(誰かを)打ちのめすにしても、どこかに歪みが生まれる。
自分自身の内的な問題として心に抱える心の仕組みを作った人などは、自分から苦しみに耐えかねてカウンセリングを受けるかもしれない。宗教に入るかもしれない。

打ちのめす側(例えばDVとか、ストーカーとか、犯罪とか、ネットで誹謗中傷、脅しをかける人とか)の問題は、なかなか取りざたされない。(日本の政治家のほとんどは、打ちのめす側にまわる。学校の先生も一部は自分が打ちのめされ、ほとんどの場合、こどもを打ちのめすことをしている。本人は、気づいていない。)

じつは打ちのめす側の人が、世の中にたくさんいる世の中が(打ちのめす側が有利な世の中が)、現実なのだが。

ーーーーーーー

僕は、人が生きるために大切なものが、最初からなくなってしまったのではないか(喪失している)と感じている。
簡単に言えば、人が生きるために大切な「人間」がいなくなってしまったと、感じている。
かつては、共同体の中で、精神的な支柱になるようなシャーマン、巫女、知恵をもった人がいた。
現代では、なかなかみつからない。(それで間違ってカルトに入ったりする)

そんななかで、「人間」と出会えた人はしあわせだ。

大地とともに、空を見上げることを教えてくれる人がそばにいてくれたら、しあわせだ。

ーーーーーーー

心は、語りたがる。

人も、語りたがる。(嫌な気持ちを口にするだけでも、愚痴るだけでも、気持ちが晴れるものだ)

『悲しみに言葉を』では、語るということが心にどんな開放感、前進する力を与えるのか書いてくれている。

悲しみを忘れるわけではない。
悲しみは忘れられるものではない。
ただ、悲しみは自分の一部であるし、それに寄り添って言葉をかけてあげる、悲しみの言葉を、自分が聞いてあげること。祈ること。そうした行動を積み重ねること。それを喪失経験という。

喪失を、きちんと、経験するということだ。

まるで、自分の中にいる悲しんでいるこどもを抱きしめて、声をかけてあげるようだ。

忘れる、ということとは、少し違うような気がする。

ーーーーー

話し始めると、まとまりがないかもしれない。
そのまとまりのない状態も、こどもにもよくあること。
言葉にしながら、気持ちを整理していく。

その時間が、プロセスが大切。

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子供の成績が悪くて、もしくは子供の振る舞いが気に入らなくて「怒る」感情は、どこからくるのか?それも「悲しみ」に還元できるのか?(実は怒りの方が一次的な感情であるらしいのだが。そうすると、この本のタイトルは『怒りに言葉を』になるだろう)

といったことを考えてみてもおもしろい。
バリ島では、感情は3つにまとめられている。
怒りと悲しみと、平穏である。

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離婚を乗り切るための有用な入門書としては、クラインクの『人生の問題に対処する』があげられる。彼のアドバイスは論理的かつ直接的である。彼によると、全体的に、どうしたら悲観の過程を進められるのかを知ることが必要だという。これには、われわれは他者や他者の決定を自分のものにしたりコントロールすることはできないという事実を受け入れることが含まれる。われわれはしばしば、たとえば彼らの決定が自分の欲求や利益に反するものであっても、それを尊重し受け入れなければならない。

親は、子供をコントロールできない、ということを、きちんと、本当に、心から、受け入れられるか。

コントロールにもいろんな程度があるだろう。
「育英に通わないと、お母さんが困るから」といって育英に通い続ける子がいる。
コドモはお母さんに気を使って、自分を犠牲にして生きているかもしれない。
親が、子供の選択肢を限りなく限定していることが、多々ある。

それでいて、「子供に選ばせている」という人がいるから、なかなかだ。
「あなたのため」は呪いの言葉でもあるが、脅迫でもあると僕はおもう。
詐欺でも使える言葉の響きをもっている。
ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち

ツイッターのコメントで見るニュースサイト・セロン

悲哀の仕事という課題を成し遂げるために十分に時間を取ること。それには、喪失という現実を受け入れること、苦痛や非嘆を経験すること、新しい生活に適応すること、新しい生活をうまくやっていくこと、などが含まれる。

受け入れるためには、長い時間がかかるかもしれない。
その間に、子供は成長して行く。成長する姿を、オトノネで感じながら、お母さんが「子どもを失う」、つまり子供が自立していく経験をしていくことが、大切なのかもしれません。

それは、考える、とか、無理やりそのように思考する、といったものではありません。

心が、大事なのです。

時間がかかることかもしれません。
だから、お母さんにも、お子さんにとっても、オトノネを大切にして欲しいのです。
響き渡るための、時間を。感じるための時間を、大切にして欲しいと思います。
その貴重な時間を、不安でいっぱいの定期テスト対策で終わらせて欲しくない、というのが、オトノネの思いです。

「この子はもう、大丈夫なんだ」と思えるようになるまで、お母さんがお子さんにしがみついたり、お世話を続けて行くと、サポステに行くことになります。高学歴な人が、社会に出られない、どうしたらいいかわからないという状況になる背景には、「させられた」勉強、「させられた」人生に対する無力感があるとおもっています。親が用意してくれなかったら、できない、という状態です。

子供を自立させる、それは、お母さんにとっては「こども」の喪失経験になるかもしれません。
こどもが「おとな」になることをお母さんが恐れていたら、こどもは「こどもとして未熟」のままオトナになるかもしれません。

これが、僕が「10歳になったらもうオトナ」と言う理由です。「こどもとして成熟」していなくてはいけない。10歳からは「未熟な大人」として関わって欲しいのです。そうして18歳には、「成熟した大人」として子どもが一歩、踏み出せるように。

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最後に、この本には「適応」という章がある。
喪失の経験を完了するための、語る以外の方法があるとしている。

その中のEMDRは、トラウマをなくす、忘れるために、記憶を思い出すと同時に眼球を左右に振るといいう動作をするだけである。
またロゴセラピーは苦悩を身体的・心理的な問題ではなく、目標の欠如から生まれるとして、意味ある目標へと向け直す方法をとっている。ブリーフセラピーやヨガ・ダルシャナの考えと類似している点だ。

例えば、ピアノを弾いたり、音楽をしたり、絵を描いたり、そういうコミュニティーの中で自分の新しい姿を想像すること。(例えばそれが旅行だとか食事だとかブランドのバックとかで作り上げる新しい自分では、消費だけだからおすすめしたくない)


怒りや悲しみに対して、「不安」や「絶望」を餌として与えないこと。
もっと別のもの、平穏を育てよう。という考え方だ。

そうして「子供」や「家庭」、「会社」以外に意味を作り出すことは大切だとおもう。
自分の人生を自分でつくること。
自分で選ぶこと。

これができて、成熟した大人になるのではないかとおもう。
だから大学受験というか、就職試験というのは、成人の儀式だと、僕はおもうのだ。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。

「そんなもの、わからないよ。新しい意味なんて」という人は、ダイゴのこの動画をみてもいいかもしれない。

人生の意味の喪失、これも、喪失経験かもしれない。慢性的!??

それから、こういう言葉が役に立つかもしれない。アインシュタインの言葉らしい。

人間は、私たちが宇宙と呼ぶ大きな全体の一部である。人間は、自分自身、そして自分の考えや感情を、それ以外のものと切り離されているかのように思っているが、それは人間の意識がなせる一種の錯覚である。この錯覚は私たちを個人的な欲望の世界に閉じ込め、自分の周りのごくわずかな人たちにしか愛情を向けないようにしてしまう。この錯覚は、私たちにとって監獄のようなものなのだ。私たちの課題は、この監獄から自らを解き放つことである。それは、私たちの思いやりの輪を広げて、生きとし生けるものすべてを、美しい自然の全てを包み込むことによって可能になる。(p.348)

日本であれば、「家系」とか「家」という概念はすでに壊れただと認める段階にあるのかもしれない。
そういう、宇宙的な時代がやってきている。

人は、宇宙に行ったらしいが、魂は地球においてきてしまった。
そんなかんじだ。

「家系」とか「家」とか「分家」とか「本家」とか「長男」という言葉で、どれだけの人が足止めを食らっているのか。(その悲劇を、本人は認めていない。喪失を、きちんと経験できていないとおもえば理解しやすいだろう)

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ある人は、人生の意味、自分の価値というものを埋める物語をつくるために、ボランティアに没頭する。
ある人は、お金儲け、会社の仕事に没頭するかもしれない。
ある人は、「古き良き時代」の喪失経験をしたくない(できない)ために、子どもを「つなぎとめる」ことに没頭するのかもしれない。立場主義を貫き既得権を放棄したくないということだろうか。古い世代の物語をきっと、ずっと語り続けるのだろうか。「おじいちゃん、今、2020年だよ!?こんな世の中なんだよ!?」と教えてあげたらいいのだろうか。経済学講義をしなくてはいけないのか?サポステの話をしたらいいのだろうか?大切な家族なら、そうして喪失経験を一緒にしてあげることも必要なのか?家族とはなんだろうか?

もしかしたら、子供自身が「そのような家に生まれてきたのだ」ということをきちんと受け止めること(喪失経験)だ大切なのだ、ということもできる、、、、かもしれないと思うと、誰が悪いわけでもない。

一体、どうしたころだろう??????

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。

ある人は、「こどもとして未成熟」なままで、政治家になってしまったりもする。

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。
そのバランスをとるための政治が、偏っているのは、僕にはいただけない。
暴力であふれた世界は、僕にはいただけない。

僕はだから、これから、音楽をすることになるんだとおもう。
それが僕の中で、僕自身のバランスをとることなのだと、そうおもう。

結局、誰かが悪いのではない、自分自身をよくするしかない、ということなのだろう。

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悲嘆に対して、ネガティブな感情に対して、中村天風は様々な実践を説いた。
笑う、ということだ。

中村天風の実践哲学における「笑い」で食卓を見直す

笑顔に包まれた食卓、それだけでも、人は生きる意味を作り出せる。

本当に、ただそれだけでも。

笑いあえる仲間に出会えた人は、しあわせだ。

誰にでも実践できること。

お試しあれ!

オトノネひろげるシェアぼたん

フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。

社会人もオトノネで学んでいる。

精神保健福祉士の資格をとるために一緒に勉強している人とテキストをみながら、フィンランドの自殺率は実は日本より高かった(過去形)ことを知った。
フィンランドの自殺率

元の記事はこちらから
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-034-08-09-g267

ではどういう試みをしたか?
というと。。

1972年、各自治体に保健医療センターの設置が義務付けられた。
1984年、日本で宇都宮事件の時、フィンランドはすでに入院医療から地域ケアへと施策を変えていた。
それから最速と言われる速さで入院医療が減る。それを支えたのは、保健医療センターとプライマリ医と他職種によるケアであったと。

フィンランドでは全国で200の保険医療センターがあり、その5つのセンターが集まったところに専門医のいる医療機関がある。さらに重篤なケースは全国に5箇所ある大学病院で対応する、というシステムだ。

精神保健、メンタルヘルスは病院の中だけでどうにかできることではない、地域、家族、学校、職場、あらゆる場所で鬱になる人が出て来て、自殺に至る。アルコール依存症のケースもある。それは病院の中だけで、定期テスト対策のように「対策」しても無駄だ。フィンランドはプライマリケアに尽くした。そもそも「定期テスト対策」にならないような生活、暮らしを作り出すようにした。そのための人材が、ソーシャルワーカーだ。

日本が15に対してフィンランドは150。
(そもそもソーシャルワーカーとは何か?ということを日本人は知っているだろうか)
読んだことがないけれど、ソーシャルワークとはなにかを理解するのに、これが一番だろうという本を紹介しておきます。
ソーシャルワーク

「定期テスト対策」ではない、暮らしレベルの福祉のために、フィンランドという国は施策を重ねて来た。
その結果が、この自殺率の減少。(再喝)
フィンランドの自殺率

日本でどれだけのメンタルヘルス、精神保健、心の健全さが保たれる社会的なしくみがあるだろうか?
フィンランドにある保健医療センターに該当する施設は、日本では精神保健福祉センターであり、県にひとつ。
いやいやそれ以外にも、サポートする場所はあるだろう。。。例えば、保育所はお母さんのメンタルヘルスの相談設けることになっている。
「タテマエ」は。

実際は、そうなっていない。
結果が、伴っていない。

子供の精神福祉のことだけを考えても。
児童相談所はてんてこまい。
スタッフは忙しすぎて、忙殺され、やめていく。
児童養護施設ははち切れる。
児童虐待が止まらない(子供は減っているが)。

成人の精神保健の現場も、日本はなんら変わっていない。

精神科のベットの数はなかなか減らない。塾や学校に縛り付けるのと同じように、多くの人が精神科のベットに縛り付けられている。

在院日数も日本はダントツだ。

入院にはお金がかかる。(しかしそれでお医者さんはお金儲けをしているのだからどうしようもない)
多額の税金が、「定期テスト対策」に使われる。
もっと多くの人にとって有益になる方法は?

クリエイティブに考えられないだろうか。
考えられていない、のが現状だ。それが日本の精神文化だとしたら??
それを国レベルで変えるのは教育しかない。大人がしくみをつくるしかない(が、自民公明党は作る気がない)。

これは精神保健だけの話ではない。

学校も、職場も、家庭も、地域も同様だ。

ーーーー

最後に一つ。
日本の人口は1億2千万くらい。
フィンランドの人口は600万人くらい。

それに対して先ほどの精神科スタッフの数をみてほしい。
この数字をどうみるか。
一体、日本人は、「なんのために働いているのか」
一体、日本政府は、「なんのために働かせているのか」
自民公明党はまだ昭和の夢をみているような気がするのは、僕だけか。

日本のシステムが壊れていることを数字で理解できないなら、教育がなんのために行われているのか、わからない。

ーーーーーー

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とりあえずお母さんが定期テスト対策をやめさせるところから始めたらいいと思います。

寒い国は自殺者が多いといいます。
鬱々しているからだと。では、どうやって北の国の人はメンタルヘルスを保ってきたのでしょうか?
それが富山県の精神文化なのだとおもいます。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県高岡市という子育ての条件。幸福度と自殺者。

さて、富山県の、日本の精神文化とは、なんなのでしょうか?

—–

ちなみに、フィンランドが発祥らしい、「オープンダイアローグ」なるものも有名だ。
対話、対話、フィンランドはオトノネの友達だ。

オープンダイアローグ

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

創造力とは何か。

ファンタジー、創造性とは何か。
創造性のない個性は、切れない包丁だ。

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何も芸術家という職業につくために必要なことではない。
「ここにはない姿」「ここにはない何か」を思い描き、そこに向かっていく、つくっていくという人間の自然な姿だ。
インドネシアでは多くの創造的な人たち、芸術家に出会った。
ある人は、かつて栄えていた「帆船」の文化を省みて、海を移動する移動図書館を作った。
ある人は、コーヒー屋を営み、「僕はコーヒーを気にしてはいない。コーヒーを飲みに来る人のことを気にしているんだ」という言葉を僕に送ってくれた。今までにない、コーヒーを売らないコーヒー屋さんだ。

誰も決めてはくれない、自分一人の命の燃やし方。
一人で燃やすものでもない。
それをビジネスにする人もいれば、お金にはならなくても毎日が輝き続ける生活を送る人もいる。

誰も自分の人生を決めてはくれない。
流れていったら、流れ着く人生もある。
けどやっぱり人間は一人一人がオリジナリティを発揮するしかない。
「わたし」というものがあるからだ。
ひとりひとりに天の才が備わっているからだ。

ファンタジー、創造性という言葉を私が使う時、それは「自分の人生を自分でつくる」チカラを意味している。
不安定な社会で、これほど大切なチカラがあるだろうか?
このチカラはどうやって身につくのだろうか。
大人はどうやって子どもたちにこのチカラをつけていってもらったらいいのか?

それはオトノネのテーマでもある。
創造性は、教育の、子育ての、大きな指針であると思う。
個性という言葉の内実は、創造性にある。

創造性は、この現実世界の正しい知識、認識、経験の深さがあってはじめて生まれてくるように僕はおもう。
目の前にあるもの、(自分の中で起こっていることを含めて)目の前で起きていることを正しくみれなければ、感じていなければ、ファンタジーのチカラは現実世界に創造されず、虚構の世界にとどまってしまう。(そして多くの若者が御三家から中堅大学を経て若者サポートセンターへと向かうことをご存知だろうか。もちろんデータは非公開なので数値が言えないところが日本らしい)

創造性のない個性は、切れない包丁だ。
創造性を使うには????
自己選択能力、自己調整能力、メタスキル だ。

麻生は神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の犯人である少年に関する新聞記事の解釈に、次のような見解を述べています。

私が危惧するのは、この種の一般に流布しがちな見解が、ファンタジーと現実の関係について謝ったイメージを生み出してしまう危険性である、少年Aの問題は、ファンタジーが肥大し、現実が侵食されたことにあるのでは決してない。むしろ、彼の問題は、ファンタジーを生み出す力が十分に育っていなかったことにあるように思われる。堪え難い過酷な現実が目の前に聳え立つとき、私たち人間にはその現実に対抗するもう1つのリアリティを生み出す力が備わっている、それが物語やファンタジーを生み出す力である、少年Aの問題は、決してファンタジーの過剰にあるのではない。むしろ逆に、ファンタジーの希薄さにあるように感じられる。

麻生はその証拠として、少年Aのファンタジーにはオリジナリティが少なく、コピーが目立つことも指摘しています。用事が魔法のステッキやブレスレット、ヒーローベルトを手に入れて、そのまねをすることで今とは違う自分になろうとすることは他社のアイディアのコピーです。しかし、まねをしてみても返信できなかった時、どのようにすれば実現可能なのかを考え、自分なりに繰り返し修正を加えながらその実現可能性を試そうとする姿は、子どものオリジナリティが成せるものだと言えるでしょう。これは、これまで紹介してきた実験での用事の姿とも共通するものです。(略)他者の生み出したものにあこがれ、それを超えたものにするためには、自らの知識や経験をつなぎ合わせ、あれやこれや試行錯誤することが欠かせません。ヴィゴツキーは「創造物は経験(既有知識)の諸要素を様々に組み合わせることによって生み出されるものである」とし、「想像と経験は相互に依存する関係である」と述べています。経験や既有知識の量が多いほど、そのダンンペン同士の組み合わせが奥生じて想像力は広がりを見せ、その結果生まれた創造物はより豊かなものになるといううのです。このことからも言えるように、非現実的で魔術的な想像そのものが危険なわけではないのです。毎日の生活を思い切り生きているなかで獲得された知識をもとにした現実世界に根ざしたものであれば、非現実的で魔術的な想像も人間の生活をより豊かにするものとなり得るのです。4〜5歳頃の幼児はまさにこの現実と創造の世界を豊かに生きる住人になり始めているのだとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.154)

子どもの心的世界のゆらぎと発達: 表象発達をめぐる不思議

蛇足になるが、この本ではファンタジーという概念を共同幻想まで広げている。筆者の言葉によれば、「公的虚構」というものだ。個性、一人の人間が「自己」の天の才を発現するものを「私的虚構」だとすれば、サンタクロースは「公的虚構」だ。

作られている世界観、価値観が「ウソッコ」だったということに気づくのは9歳前後だという。
「いい子にしていれば」とか「一番になれば」とか「我慢していたら」という価値観、「どうしようもないんだ」「自分はこうなんだ」という気持ち、今まで感じたこと、経験してきたことが再構成される。
9歳。小学3、4年生。

これは2歳、15歳とはまた別様の思春期ではないか。
と僕は今思った。

ーーーーー

数列的には(これは僕のあそびです)
1+7×0=2
1+7×1=8(9にはならなかった・・・7でなく8にしたらよかったか)
1+7×2=15
生物の現象は指数的だというが、局地的にみればここは線型的、本当に長い人生のごくごく一部、ということだろうか。
この計算を続けると、
1+7×3=22(大学卒業?)
7、8年刻みのライフイベント笑
7、8年ごとに、自己は大きく揺れ動くのか!???

1というのは、いわゆる初語がでてくる一歳のことです。

8は無限の意味をもっている。∞
八百屋は野菜ならなんでも売ってるから8。
八百万の神はたくさんの神様。
八方美人は全方位に対応している。(この考えをつきつめると数秘主義とかいわれてしまう)

繰り返される成長。
子ども時代は、なんとまぁ輝いてみえることか。
大人だって、輝けるはずだ。と、僕は思う。

思春期、とは違うかもしれないけど発達のポイント、節目として5歳をいれたら。。。
そうやって思索にふけってしまうのが僕のいいところか、悪いところか。

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初潮が早まっているこの時代、思春期の定義を拡張するのもいいかもしれない。
教育制度が、時代についていっていない。

だからオトノネ!!!笑

小学3、4年生が、otonone-オトノネ-に来るのに、ちょうどいい時期、だということだろうか?
ファンタジーは、創造力は子どもたちの助けになる。
現実の世界、今ある世界を俯瞰的に眺められる、もう一つの視点をつくれる、世界は塞がれてはいない、窓があって、扉があって、外の世界と繋がっているということを知っていることは、現実世界を生きることの役に立つからだ。

ドキドキワクワクの源泉となる思いは、いったいどこでつくられていくのでしょう。筆者は、その鍵は幼児後期から児童前期(4歳半〜8歳)にかけての多元的世界の形成、すなわち、「リアル」世界でも「アリエナイ」世界でもない「第3の世界」の形成にあると思います。私たちは児童後期以降、表面的にはリアリティを基準に世界を大きく二分割していきていきますが、実際には、潜在意識に刻み込まれた多元的世界を胸に潜め、それに励まされて生きていくのです。児童文学研究家の松岡は、これと似た事柄を「サンタクロースの部屋」という巧みな言葉で表しています。「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間を作り上げている。サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに代わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる」。これとまさに同じことが、多元的世界の形成にも言えるように思います。(略)幼児後期から児童前期にかけての多元的世界の形成こそが、その後、多様な価値を受け入れたり、新たな価値を作り出したり、新しいことに対して常に新鮮な気持ちで接していけたりする、そうした豊かな人間生活を私たちに可能にさせてくれるのではないかとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.188)

ドキドキワクワクの人生。

心が大事。

オトノネひろげるシェアぼたん

『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナーのメモ

未来のイノベーターはどう育つか
『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー

この本に出てくる「具体例」はだいたいどこぞのお偉い人、教育に信念をもって、慣習に流されずに育てた人たちの物語。
オトノネは一流の学習者しか育てるつもりがないのだなと、再確認。

日本でこうした子育ての本が出るとすれば「東大合格子育て」みたいなやつばっかり。
オトノネは一流の学習者しか育てるつもりがないのだなと、再確認。

イノベーターとは?
すごい人、新しいことをする人、変化を生み出す人、社会的に影響力がある人、という意味では少し狭いと思う。
自分の人生を自分で選んで自分の納得いくようにつくりあげていく人だと僕は思う。

諦める人、これでいいやと思う人はイノベーターではない。

世の中には「うちの子が素敵な人と出会うように」というお父さんお母さんがいるという。
自分ちの子供をその「素敵な人」にすることを考えていないのか。

イノベーター教育とは、お子さん自身がたくさんの人の笑顔をつくる「素敵な人」にお子さんをしたい人が今すぐ始めるべき
教育方針だとおもう。そしてそれは、オトノネの方法そのものだ。

イノベーターは選択肢を作る。そして多くの人がそれを共有できるようなしくみもつくるかもしれない。
自分の人生は限られていない。選べる。学び、見つければ、道は自分で作れるのだということを学ぶこと。
それがイノベーター教育だ。

ーーーーーー

イノベーターとは、自分の中にある天の才をそのまま育てることだ。
遊びの中でそれを育てながら、情熱をもって突き詰め、社会的な背景のなかで目的意識をもって人々と繋がって行く。
個人的な趣味でとどまるのでは、イノベーターではない。イノベーターとは、社会的な仕事をする人のことだ。会社員として仕事をする人のことではない。一人の主婦がイノベーターになることもできる。ホームレスがイノベーターになることもできる。もちろん、子どもも。

レールの上をガタゴトとドナドナと進んで行く人生がある。
ドナドナを歌いながら楽しむ人生もある。
どんな子に育って欲しいのか。
そのために、具体的に何をしたらいいのか。

遊び、情熱、目的意識というプロセスを作り上げることだという。

ーーーーーーー

内的モチベーションには遊び、情熱、目的意識という3つの要素がある。

遊び

遊びを通じて学ぶのは乳幼児だけではない。マサチューセッツ工科大学(MIT)の卒業生で、現在同大のメデゥアラボの講師をしているヨースト・ボンセンは、MITの有名ないたずらの伝統について話して暮れた。「独創性は、人間お中核をなす」とボンセンは言う。「私たちは好奇心があって、ふざけるのが好きな動物だ。ここMITでのいたずらの伝統をみるといい。ある時など15階建てのビルほどの高さがある大ホールの丸屋根に警察のパトpロールかーが置かれていたことがある(これはMITのいたずらではいちばん有名なものだ)。そこへの出入り口は鍵のかかった上げ蓋しかない。そんなことをいったいどうやってやったのか。まずパトカーは張りぼてで、警備の目をかいくぐってドームのすぐ下まで運ばれた。一番難しいのは、それをドームのてっぺんまで運び、見つからないように、そして怪我をしないように降りて来ることだ。警備員の動きをチェックして、注意をそらす仕掛けも必要だ。これらすべてをやり遂げるためには緻密な計算と、途方もなく大きなリーダーシップとチームワークが必要だ。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.40)

情熱
スティーブ・ジョブズは生前、若き起業家へのアドバイスを求められた時、こんなことを行っている。

「私のところにやって来て『起業家になりたいのです』という人は大勢いる。そこで私が『そりゃいね。どんなアイデアがあるんだい』と聞くと、『まだアイデアはありません』と言う。そんなとき私は、『自分が本当に情熱を傾けることが見つかるまで、ウエーターか何か仕事をするんだな。ウエーターだって大変な仕事だから』と言うことにしている。かなりの自信を持って言えるのだが、起業家として成功するかしないかの半分は、根気で決まる。……だから自分が情熱を感じられるアイデアや課題、あるいは正したいと思う間違いを見つけなくちゃいけない。さもないとそのために粘る根気が続かない」。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.41)

イノベーターたちの目的意識、それは例えば「歴史をつk類たい」とか「世界をあっと言わせたい」とか「世界をより良い場所にするためには快適になりたい」など、変化を起こすという使命感をもっている。

目的意識

私が話を聞いた若きイノベーターたちの人生には、遊びが情熱、そして目的意識へと進化していく線がはっきり見えた。彼らは子供時代に大いに遊んだが、その遊びは多くの子供の遊びと比べると極めて無秩序なものだった。そこには試行錯誤によって物事を探り、実験し、発見するチャンス、つまり冒険して失敗する余地があった。子供時代のこうしたクリエーティブな遊びを通じて、彼らは情熱を傾ける対象を(多くは青年時代に)みつけた。しかしその情熱を追求する過程で、関心の対象が代わり予想外の変化が起きる。それは新たな情熱を育み、時間が経つにつれて、よりh各成熟した目的意識へと発展していく。それはグループでやる大人の遊びのようなものだ。遊びが情熱、そして目的意識へと発展していく旅を通じて、彼らはアマビール教授が「クリエーティブな思考」と呼ぶものを身につけ、本物の「専門性」を獲得していった。たいていは」その過程で、内的モチベーションを育みながら。彼らは一定のリスクを引くいけて、辛抱することの重要性(とIDEOのモットー「速い段階でしょっちゅう失敗しろ」が重要である理由)を学ぶ。物事を学ぶ過程で失敗が果たす役割について、オーリン大学のある学生はこう言っていた。「『失敗』とう考え方はしない。これは『繰り返し(リテレーション)』だ」。だが若きイノベーターたちは、こうしたことをたったひとりで学んだわけではない。その過程で親や教師やメンターなど、少なくとも一人(しばしば複数)の大人のサポートを受けていた。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.43)

若きイノベーターの肖像

人がモノを創ったりイノベーションを起こしたりするには、内的モチベーションが必要だと言うことを話した。また兄的モチベーションを育てるには、子供のときの遊び、10代の情熱、大人になってからの目的意識が重要だと述べた。カークは子供の時、遊びを通じて身の回りの環境を探り、自分意図っていちばん興味のあることをみつけるよう励まされた。そしてその過程で科学とものづくりへの情熱を育んだ。だがいちばん重要なのは、早熟な子供を持つ多くの親と違って、カークの両親が息子は将来科学者になると決めつけて、カークの進路を固定してしまわなかったことではないか。フェルプス夫妻は、カークが探求を続けるよう後押しした。カーク自身も言っている。「両親はぼくが何に興味があるのかはあまり重要視していませんでした。むしろ僕が本当に興味のあることをみつけるプロセスが重要だと思っていました」と。フェルプス夫妻が常にサポートしてくれたからこそ、カークは大学時代も情熱を持って進化を続けられたのではないか。カークは、自分が本当にやりたいのは科学ではないと気づき、コンピューターサイエンスを学んでみたが、それもしっくりこなかった。だが、ついにスマートプロダクトゼザインという授業と出合い、自分がやりたいのは、仲間と形あるモノをつくることだと気が付いた。さらに授業助手という経験を通じて、その情熱は深い目的意識に進化したようだ。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.59)

学びのイノベーション

「この子たちは本当に偉い」と、ローゼンバーグはいう。「私だったら彼らの多くが経験してきたことに耐えられたかどうかわかりません。彼らは他人との結びつきや、まじめに受け止めてもらうことや、生きる目的を渇望しています。だから人お人を結ぶ糸を見つけて、タネを巻き、目的意識を育む手段や枠組みを与えてやるのが私たちの仕事です。目的意識がある人間は、多くのことに耐えられる。この部分が現在の教育システムにはすっぽりかけています。目的もわからずにあんな暗記作業をやりたい人間なんてどこにいるでしょうか」ローゼンバーグの問いは的を得ている。彼は生徒たちの情熱を目的意識を育てて、勉強する理由を持たせた。そして学校の玄関で子どもたちが「遊ぶ」様子を観察して、自分たちの遊びをもっと本格的にやってみろと挑発した。子どもたちが好奇心を持って学ぶ出発点として、音楽と若者文化を利用したのだ。ローゼンバーグの助けで子どもたちの「遊び」は情熱になり、その情熱が時間をかけて強烈な目的意識に発展し、子どもたちは成功に欠かせない自制心を養って言った。シリータの高校にローゼンバーグのような先生がいたら、つまり若者文化を真剣に受け止め、その活力とメイナス面の両方を子どもたちが理解できるよう助けてくれる人がいたら、シリータにとって大きな助けになっただろう。ローゼンバーグは子どもたちに、自分の経験や考えをもとに、自分の文化を作るよう教えていたのだ。本書で紹介してきた創造力豊かな教師たちと同じように、ローゼンバーグは実践的で、分野横断的で、グループベースの学習環境を創った。それはローゼンバーグ自身が子どもたちの内的な学習意欲を発見し、伸ばしてやれる環境でもある。そして彼もまた、学校では例外的な存在で、重要な活動の一部を学校の外に出さなければならなかった。ローゼンバーグの成功は、子供たちに深い敬意を払いながら信頼関係を築く重要性を示している。彼は子供たちの「目を見つめた」だけではない。カレッラの話に長い時間真剣に耳を傾け、子どもたちが自分のアイデアや夢を声に出すのを手伝った。若者たちがいうことの中には、挑戦的だったり破壊的なこともあるだろう。だが私たちが本当に「ひとりも落ちこぼれを作らず」に、すべての若者をイノベーターにしたいなら、そうした意見が出てくるリスクも受け止める必要がある。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.189)

これはアタッチメントの本当の意味に通じると思う。約束ができる人。言葉を信じてくれる人。

かつて韓国で演劇をしていた時に、ある舞台俳優はこう言った。「自分の言葉を、セリフを信じてもらえるように舞台の上で努力をするんだ。自分が本当に観客に伝えたい言葉に注いだ魂を観客に伝えるためには、信じてもらわなくちゃいけない。」

親であれ、教師であれ、「この人の言葉を信じよう」「この人がいうならやってみよう」と思ってもらうこと。
そうした大人の存在が、子どもの「遊び」を「情熱」にして、さらには「目的意識」へと変化させるために大切だ。

子どもがそれを自然に、誰の手も借りずに「遊び」を「目的意識」つまり社会的に価値のある活動にすることは困難だ。日本ではそれがスポーツや学習発表会、大会の中に閉じ込められている。スポーツ・音楽は「遊び」であり、「情熱」を注ぐように大人は促す。そして大会という「目的意識」が準備されている。これが遊びではなく仕事となり、情熱ではなく忍耐になっていく子どもの姿をみると、どうも大人たちは本当にスポーツや音楽を理解しているとは思えない。強制参加、罰。こうしたものはどれも創造性には結びつかない。その先にあるものは、管理社会。(といってもケジメ、教えるべきことはきちんと教えること。教えるべきことはなんなのか、きちんと大人が見定めること)

自由な環境で育てる、というお母さんの方針があるとしよう。
子どもは選択ができる。どうしようかな、といつも考える。

だが。
だが。

それが社会的に有意義な、人に認めてもらう経験をしてきただろうか。
大会に出て、人を感動させた。いいだろう。けどそれは「つくられた仕組み」の中でのはなしだ。
与えられた環境の中で想定されている行為をしただけの話。

選択肢から選ぶ以上に、情熱をもって、そこにないものを選び取るチカラが、イノベーションの能力。創造性。
このための練習を高校生くらいに経験した子どもは、しあわせだ。

イノベーションとは。
人が活動した結果、一番笑顔が増える行いのこと。
人が笑顔になるしくみをつくること。

与えられた仕事をこなして、目の前の人を笑顔にすることは、とても素晴らしいことだけれど、「情熱」が溢れ出て「目的意識」をもって変化を起こしていこうとしなければ、笑顔が社会的にならないならば(それはそれで素晴らしいことなのだけれど)、イノベーションとはいえない。文化を作り出す。例えばガンジーのような人間。歴史を作り出し、文化を作り出す。それがイノベーション。目の前の人を笑顔で変えていくのもイノベーションといってもいい。ただそれが笑顔の消費で終わるのではなく、「新しく」何かが生まれてくるならば。「イノベーション」とはそういうものだ。

かつて、川手鷹彦さんと出会ってこんな話を聞いたことがある。
川手さんは芸術の持つチカラを子どもたちと共有しながら心を育てる人。
http://kawatetakahiko.info/

とある子どもの集まりで、どうしても子どもがばたばたと落ち着かずに、ジャンプかなにかをしていた。そこで川手さんは、その行為を「もっとやってごらん!」と子どもに言葉をかけた。その後、その子は満足して落ち着いたと同時に、その場の雰囲気がよくなったという。

同じような話が、プロセス指向心理学にもある。ようするに身体の何かしらのメッセージを強めていくことで、無意識のメッセージがわかったり、無意識の心の働きが強まることで、膠着していたもの、ふさがって表現できていなかったことが出てくるというもの。これをむやみに押し殺したり、説得したり、わきまえさせたりすると、何も変化が生まれない。心が動かない。

学びのイノベーション 遊び

いい科学の教師になるには、科学をおもしろくしなければいけません。つまり子供たちが科学を『モノにする』こと、授業の内容を体得できるようにする必要があります。そうすれば子供達はやる気になるのです。もう一つの問題は、州の定めた広範な知識を教えるには、子供たちに答えを見つけさせるのではなく、教師が答えを教えなくてはいけないと教師たちが思っていることです。でもいちばん重要なのは、生徒が自分で疑問を持ち、自分で答えを探す余裕を与えてやること。そうやって学んだ方が、実際にはずっとたくさんの知識を覚えて入られます。(略)APの授業は生徒の口に知識を流し込んでいるような気がする。テストのために大量の知識を暗記させるけれど、応用する機会は一度もないのです。子供たちへのプレッシャーは大きく、そのせいで科学への愛が失われてしまう。究極的には、APの授業は大学に向けたいい準備にもならない。APのテストで一番高い成績の5をいくつももらって大学で生物入門の授業を取る必要がない生徒が、その上のレベルの授業で苦労する例は多いのです。自分が学んだことを応用する能力を身につけていないからです。(略)アロンゾは自分尾教え方の中心に遊びと情熱と目的意識をすえることで大きな成功を納めた。その一方で、APha科学を学ぶ「愛を奪って」しまうから、APの授業を受け持つのを断っている。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.193)

知を愛する自由を剥奪していないか。
その子がもっている世界への扉を閉ざしていないか。「こっちからみなさい」といっていないか。
とある本で「つぶれるようなものは個性ではない」という発言をどこかの偉い小学校の先生が言っていたのを思い出す。

デザイン、というものを、この先生は知らないのだろう。

生物学者のマルコム・キャンベルも同じことを語った。「子どもが自分の関心にふけるに任せておくのがいかに重要か私は学んできました。水玉模様の服と縞模様の服を一度に機体なら、それでいい。食べ物で絵を描きたいならそれでもいい。そのあとの掃除もきちんとやるならね」(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.253)

教えるべきことは、ちゃんと教えるということ。

ヂュカクは基本的なルールを守らせることと、「反逆児」になるのを許すことの境界線について語った。「親としていちばん重要なのは、子供の意見を尊重して耳を傾けること。でも自由にさせすぎないことも重要で、限界、境界線、秩序は必要です。ただしそれが多すぎると、つまり従順にさせようとすると、クリエーティブな衝動を殺しかねない。難しいのは、権威への敬意と、建設的な関与や建設的な犯行のバランスをとることです。強くなることを教えつつ、超えてはいけない壁を与えること。イノベーションは不服従と切り離せませんが、イノベーターになって銀行強盗をいsていたら始まらない」。私が話を聞いた親の多くは、子供のスケジュールをいっぱいにせずに、自由な遊びと発見の時間をたっぷり与える重要性に言及していた。彼らは皆子供達と時間をしたり遊んだりするのを楽しみつつ、「ヘリコプター・ペアレンツ」にならないことが重要だと理解していた。(略)ダンバービルト大学のクリスティーヌ・ソーンダース特任准教授(薬学)も、リンチと同じ意見だ。ダンバードからブラウン大学などの大学院に進む学生は、そのためにものすごく努力しています。でも自分が何をやりたいかはわかっていない。探求することはではなく、いい成績をとるように追い立てられてきたからです。自分が何に興味があるかわからない若者があまりに多いことには衝撃を受けます。私は自分の娘に、息をついて、考えて、自分のイマジネーションを使う時間をもっと持って欲しい。でも、よその親が子供のスケジュールを細かく組んでいるのをみると、自分が少数派で流れに逆らっているとよく感じます」。カーク・フェルプスの母親リア・フェリプスが、子供達の放課後を習い事やクラブ活動でいっぱいにせずに、外で自由に遊ぶ時間を確保しようとしたのをご記憶だろう。「面白いと思うことを自分で見つけられない子は、いつまでも退屈しているしかない」と、リアは言っていた。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.253)

彼らの意見はある一点で完全に一致している。おもちゃを減らすこと。与えるとすれば、想像力と発明を促すおもちゃにすること。(略)投資マネージャーのリンチの場合、子どもたちのいちばんのお気に入りの「おもちゃ」はスカーフだったという。「犬にスカーフを巻いたり、スーパーマンのマントみたいに自分に巻いたり。さらに読み聞かせしていた『ギルガメッシュ叙事詩』から思いついた遊びの衣装にもなりました。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.255)

ベス・ワイズ副園長は、子どもたちの想像力と創造力を伸ばす上で最も重要な「おもちゃ」と考えるものを教えてくれた。「砂、水、年度、絵の具、ブロックでしょう。こうした素材を扱えるようになると、なんでも作れます」。スクールにはコンピューターとデジタルカメラもあって、子供達が使えるようになっている。子供達はこうしたツールの使い方を学ぶと同時に、友達と一緒に使うことで社会性を養う。(略)ハートマン園長は、さらに説明してくれた。「私たちは子供の決定や選択に基づき指導する。子供たちが何をしようとしているのかを見極め、助けます。そのためには、子供達が何に関心を示しているのか見逃さないようにしなくてはいけません。教員の観察力が要求されます。ハートマン園長やワイズ副園長は、ビングの生徒たちに遊びから何をいちばん学んで欲しいと思っているのだろうか。ワイズ副園長はすぐに答えてくれた。「観察すること、問題を解決すること、自分の立場を決めること、他者に共感すること、複数の方法を使って問題解決を試みること、学ぶのを愛すること、そしてデザイン思考の能力」。そこに読み書き計算は入っていなかった。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.258)

今、日本の保育園では遊びを「発展させる」環境をつくるのだという。そのレベルに達していない、大人も子供も叫び声をあげていたり、鼓笛隊で子供を管理したり、大人が「させる」ことの多い園がたくさんあるのも事実だが。。保育士が子供を観察するとき、子供に手を貸しすぎていないか。日誌には子供がどんなことをしたか、遊びを発展させたかという目に見えるレベルではなく、子供がこれからどんな遊びにそれを発展させようとしているのかに目を向けられているか。どんなことに関心があって、次にどんなことに挑戦しようとしているのか。「この遊びをしたから、今度はこの遊びができるようにしよう」といって、遊びを準備するのではない。たくさん「遊ばせた」保育士が優秀なのではない。優れた教師、保育士は統率力があるのではない。管理能力があるのではない。観察力がある。観察する能力を鍛えるためには?日誌に書くのではなく、保育士同士が、教師同士が生徒のことについてもっと話し合う、気づき合う時間をつくらないといけない。日誌に記録する時間よりも、大切なこと。休憩室でみんな机に向かって一人一人が孤立して日誌を書いている保育園。資質向上は研修でなくて、現場でなされる。

ビングでは、読み書き計算に重点を置いていないが、本はたくさんあって、子供たちが気に入った本を読み受けることがd毛いるようになっている。教員が読み聞かせをすることも多い。するとよく子供たちはその物語を劇にする。こうなると本は、子供にとって遊ぶ道具の一つだ。(略)子供が成長したら、自分で読む習慣をつけさせることも重要だ。カーク・フェルブスの母親リアは毎日、学校の宿題とは関係のない本を読む時間をかならず設けていた。彼女の子供たちは、自分もいつか母親になったら子供にこの習慣をつけさせたいと言っているという。フェルブスフさんがこの習慣にこだわった理由のひとつは、学校であれを覚えてこい、この問題を解けと言われるプレッシャーを忘れる環境を作りたかったからです。自分が好きな本を選んで、自分の好きなスペースで読めるのは大きな違いです。私が多くの子供たちを観察したところでは、読書の習慣は集中力という筋肉と、自発的な学習の習慣を育むようだ。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.260)

学びのイノベーション 情熱

私が話を聞いた親たちはみな、自分の最も重要な仕事の一つは、子供が自分で情熱を傾けられることを見つけ、追いかけるのを応援することだと確信していた。特に情熱を見つけられる重要性は、ほぼ全員が口にしていた。カークの地被親のコード・フェルプスは、子供達が自分にとって本当に興味があることを見つけられるように、子供たちの前にできるだけバラエティーに富んだ「ビュッフェ」を置いた。(略)フランソワ・バローはBTグローバルサービスの元CEO。彼女はユニークな方法で子供に楽器を選ばせた。「子供たちが9歳と11歳のとき、楽器店に連れて言っていろいろな楽器を試させました。それぞれの楽器を試した時の反応を観察して、どれが子供にあっているか考えたんです。どんな子も自分をクリエーティブに表現できるツールを見つける必要があると思います」(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.261)

習い事をさせるのが、親の都合か、子供の意思かを分別することは大切だ。仕事の都合(大人の都合)で止むに止まれずそろばんや公文に通わせる親もいる。ただそれは、子供が情熱を注げる時間かどうか。そうではないことがほとんどだ。習い事を「させる」ことが子供にどんな影響を与えるのか、ほかに選択肢はないのか。誰かに協力してもらえないのか。大人が忙しすぎて、子供たちは困窮していないか。大人たちは協力して、子供たちのために何かできないか。自分の子供だけでなく、他の子に対しても。多くの人と関わることでしか育たない社会的情動スキルがある。

IQ(知能指数)よりもCQ(好奇心指数)とPQ(情熱指数)が大切です」と、フリードマンは言う。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.265)

学びのイノベーション 目的意識

エレン・クマタは、フィーチュン誌100社を顧客に持つカンブリア・コンサルティングのマネジングディレクターだ。「ビジネスリーダーはよく情熱の話をしますが、実は情熱だけではダメです。人間は成長してくると、『なぜ自分はこんなことにたくさん時間を費やしているんだろう』と思うものです。何かを好きだという以上に、何か大きなものが必要になります」。ベスト・バイのブラッド・アンダーソン前CEOには28歳と30歳の子供がいる。「クリエーティブな問題解決能力が必要ない人間なんていません。そして」クリエーティブな問題か地決能力は、自分がやっていることに夢中になることから生まれます。私が子供たちに一番求めているのは、自分にとって大事なことを気にかけ、夢中になること、自分に正直な人生を送ることです。その状態に近づけば近づくほど、人間はハッピーになります。でもそれは、子供たちが自分で見つけなくてはいけない。親は子供のコーチにはなれるが、押し付けないようにしなくてはいけないし、子供が自分らしくいられる余地をたくさん残しておく必要があります」(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.267)

親はたくさん余地を残していても、学校が余地を残してくれないことが多々ある。学校の宿題はある意味で家庭教育に対する越権行為だ。学校で夢中になれることに取り組む時間を潰されている子供がいる。親との関わりではなく、子供と学校の関わりを親が調整する必要がでてくる。学校でいろんなことを押し付けられる子供たちの目的意識、情熱、遊びのプロセスを守り育むような積極的な関わり方、子育てが必要な、大変疲れる時代になった。

自分が選んだ本を読むのが好きだけど、学校から与えられた本を読みたくないといって読まない子の担任に親が言った話。

「私はマックの担任の先生に会いに行き、マックが本を大好きで、いつかすばらしい読書家になるとわかっているけれど、いま読書を矯正したら本を嫌いになってしまうと説明しました。すると彼女は突然泣き始めて言いました。『そう言ってくれて、どんなに私が嬉しいかわかりますか。ほとんどの親は、先生がうちの子に読書を教えてくれないからでしょう、と怒鳴るのです』」(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.269)

学校の先生も大変なのだ。
親も、社会からプレッシャーを受けている。
大変なのだ。

正しい認識をしよう。
心が大事ということ。

ロビン・チェースは、世界最大規模のGoLocoの設立者であり元CEOだ。彼女と夫のロイ・ラッセルは、大学時代に二人の子供をもうけた。二人もやはり、子供が「正しい」大学に入学できるよう生活を管理する最近の子育てを断固拒否する「反逆者」だ。「子供たちを大学に向けて準備するようなことはしなかったし、履歴書を埋めるための活動をさせたこともない」と、チェースは言う。「子供たちが学習者になることを教え、自分が学ぶにはどこへ行けばいいか知る方法を教えることの方が重要だと感じていました。それにどの大学に行くかよりも、どの大学院に行くかのほうがずっと重要です」(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.274)

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これが最後に著者から未来のイノベーターたちへのメッセージ

君のご両親の世代の多くは消費者だった。知らないうちにこの地球の富と君の未来を食い尽くしていた消費者だ。今度は君が選択をする番だ。何よりもまず、君は物事を想像する人間でなくてはならない。そこで、君がイノベーターとして生きていくのを難しくしていること、そしてそれについて君にできることを考えてみよう。

君はときどき(もしかするとしょっちゅう)孤独だと感じている。君の考え方はみんなと違うし、世界観も違う。君の考えや言動は型破りで、周囲に理解されないことも多い。だから君が孤立感や孤独感を抱くのは避けられない。でも信じることだ。自分の情熱を追い続け、自身がついてくると、やがてその情熱や意見を共有できる人や、常識に屈しなかった君の勇気に敬意を表してくれる人があらわれる。こういう同志をみつけたら、連絡を取り合い、励まし合わなくては行けない。もっといいのは一緒にチームを組むことだ。なんでも全部自分でできるという誘惑の声に負けてはいけない。そんなことはできないのだから。

学校。これも難しい問題だ。ある賢い人がかつて言っていた。「学校を選ぶのは不満を選ぶようなものだ」と。(略)学校で重要あるいは有意義なことを学べるとこいもあるし、自分のやりたいことを実現するには学位がモノを言うこともたくさんある。ときには新しいことを学ぶのが、心からエキサイティングなこともある。だから私のアドバイスは、まず自分の教える科目に本当に情熱を持っている先生を探すことだ。その科目が何であれ、何かに対して情熱を持っている人の近くにいると、ハッとさせられることがあるものだ。それにこういう人たちは、単に深い知識を持っている人よりもずっと多くのことを教えてくれる可能性が高い。自分が関心のある科目に時間をかけ(そしていい成績を取り)、それ以外のことはあまり心配しないこと。自分の関心がある授業から得られることはなんで燃えて、課題は全部やって完全に自分のものにしよう。(略)

もうひとつ大変なのは、君は間違いなく失敗することだーーそれも何度も失敗する可能性が高い。失敗しないとすれば、それは無難にやったいからに過ぎない。失敗は恐ろしく身にこたえる。人前で失敗した時は尚更だ。だが最も価値ある教訓のいくつかは失敗から得られるものだ。成功した場合よりもずっと多くを学べるはずだ。(略)

何よりもむずかしいこと、そして何よりも重要なことの一つは、自分と自分のビジョンを信じることだ。特に失敗したときは自分を信じるのがむずかしい。しかし自分がやろうとしていることは正しいという内なる確信がなければ、根気を維持することはできない。なかには君の自信を傲慢だと勘違いする人がいるかもしれない。そして君は間違っているとしょっちゅう言うかもしれない。そういう批判には耳を貸さないことだ。だが、謙虚であろうと努力すること。(略)いろんな人の意見やアイデアに耳を貸す練習をしよう。カール・マルクスはかつてこう書いている。「凍った環境を動かすには、相手の旋律で歌わなくては行けない」。君も周囲の旋律に耳をすませよう。人類学者になって、君が起こそうとしている変化を後押しするか妨害する経済、社会、文化の影響を理解しよう。歴史の本と優れた小説を読んで、文化と登場人物を理解しよう。たくさんの質問をして、慎重に観察しよう。他人のアドバイスに耳を傾け、いくらかわり引いて受け止めよう。情熱的であろう。だが独善的になってはいけない。自分のアイデアを信じると同時にうたがおう。好奇心を持ち続けること。いろんな経歴、アイデア、信念を持つ人を理解しようとするのはすばらしいことだし、たいてい楽しいものだ。

楽しいといえば、いくらか楽しみを持とう。休息をとること。散歩か何かを自然の中ですること。定期的に体を動かし、音楽を聴き、絵画や写真を勉強しよう。ボランティアをしよう。こうしたことはどれも君が冷静でバランスが取れた人間でいるのを助け、創造的なエネルギーと物理的なエネルギー、それにスタミナを与えてくれる。(『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナー p.303)

オトノネひろげるシェアぼたん

『マシュマロ・テストー成功する子・しない子』ウォルター・ミシェル のメモ

マシュマロ・テスト
『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル

まずこのブログを読んでくれているお母さんが多くならないのはなぜか。
というか受験の話しか読んでくれないのがとても悲しい。

けどそれが現実。

心が大事。

成功するしないに関係なく、自分で自分をコントロールできるようになるためには?
実行機能とは?どんな関わり方が大切なの?

そういう問いに答えてくれるのがこの本。

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保育園でマシュマロの誘惑にうまく抗い、その後の年月も一貫して自制が得意だった人とそうでなかった人とで、前頭葉と線条体を結ぶ脳の神経回路網(動機付けと制御プロセスを統合する回路網)の活動がはっきり異なることがわかった。先延ばしにする能力の高い人では、効果的な問題解決や創造的思考、衝動的な行動のコントロールに使われる前頭前皮質領域の活動が、より盛んだった。それとは対照的に、先延ばしする能力の低い人では、腹側線条体の活動がより盛んで、情動的にホットで抗い難い刺激に対する反応をコントロールしようとしているときには、とくにそうだった。農夫描くの、より原始的な部分にあるこの領域は、欲求や快楽、中毒と結びついている。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.35)

私が研究のために未就学児を選んだのは、付随性というものを子どもが理解し始めるのがちょうどこの年頃であることが、自分の娘たちを眺めているうちに伺えたからだ。彼らは、少ない量のご褒美を今得ることを選べば、より望ましいご褒美をあとで得られなくなることを理解できる。またこれは、この能力における重要な個人差がはっきり見て取れるようになる年齢でもある。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.37)

うまく先延ばしにできる子供は、気をそらし、自分が経験している葛藤とストレスを和らげるために、ありとあらゆる工夫をした。意志の力を妨げられないように、楽しい空想の気晴らしを考え出して、つらい待ち時間を過ごしやすくした。例えば、短い歌を作って歌ったり、滑稽な顔やグロテスクな顔をしたり、鼻の穴をほじったり、耳掃除をして出て来た耳垢をいじったり、足の指を鍵盤に見立てて手で引いたりという具体だ。気をそらす手立てを使い尽くした挙句、目を閉じて眠ろうとする子もいた。ある女の子は、とうとうテーブルの上に手を組んで頭を乗せ、深い眠りに落ちた。その頭からベルまでは、わずか数センチしかなかった。こうした作戦は、未就学児が使うのを見ると目を見張らされるが、教室の最前列に座って退席するわけにもいかず、退屈な講義を最後まで聞く羽目になったことがある人なら誰にとってもお馴染みだろう。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.40)

マシュマロを我慢するのは、忍耐、だとしよう。
では、忍耐とは何か。
忍耐とは、ストレスをどう和らげて、目標に向けて自分を律していくかというものだ。
自白をするよう鞭で打たれている人が、忍耐を発揮しているときも同じことがいえる。

忍耐とは、辛いものから逃げたい、ストレスをなくしたい、目の前の利益にあずかりたいという気持ちを「抑えて」、目標に向かう力であり、最近の言葉を使えばグリッド(やり抜く力)となる。

手に入れたいものが今手に入らないもどかしさをなくす努力の一つに、ファンタジーがある。

ある実験の条件の一つでは、実験者が部屋を出る前に、実物のお菓子を眺め続けることになる子供たちに次のように言った。「もし、そうしたくなければの話だけれど、このお菓子は本物ではなくてただの写真だというふりをするという手もありますよ。頭の中で、写真のように額縁に入れてしまうんです」。一方、ご褒美の写真を目にし続けることになる子どもたちには、本物であるかのように思うように促した。「頭の中で、目の前にあるのは本物のふりをすることもできますよ。本物がそこにあると思えばいいんです」。報酬の画像を前にした子どもたちは、平均すると18分我慢できたが、自分の目の前にあるのが画像ではなく本物のお菓子であるふりをしたときには、6分もまてなかった。また、本物の報酬と向かい合った時でも、それが画像だと想像すれば、18分待てた。頭の中に呼び起こした心象が、テーブルの上でむき出しになっている現物に打ち勝ったのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.42)

そこにはないものをあるとみたてたり、あるものをないとみたてる。別のものにしてしまうチカラを、忍耐のために使うことができる。無知の痛みを和らげるために、忍耐を発揮した末に幻覚をみるようになる人を想像してもいい。

ホットな情報に敏感な脳の部分、線条体が暴走するのをやめるためには?
「甘くて柔らかくていい匂いがしてドキドキするマシュマロ」という情報を線条体に与えないために、前頭葉で情報を操作する作戦もある。

実験者は一方の条件では部屋を出る前に、もっちりして甘いマシュマロの味というう、ご褒美のホットで欲求をそそる魅力的な特徴を考えるように子供達を促した。一方、「クールに感g萎える」条件では、マシュマロのことを丸くふっくらした雲だと考えるように促した。子どもたちは、ご褒美のクールな特徴に注目するように仕向けられると、ホットな特徴に注目するように仕向けられた時の倍の時間、待つことができた。(略)「クール」に考えるように仕向けられたときには、簡単に待つことができたのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.44)

一人にして誘惑と向き合わせる前に、待っているあいだ、悲しくなるようなこと(泣いていても誰も助けてくれない状況など)について考えたりしてもいいと言っておくと、もらえるお菓子のことについて考えるように進めたときとおなじぐらい早く、待つのをやめた。楽しいことを考えたときには、その3倍近く、平均で14分弱待てた。9歳児を(例えば描いた絵について)褒めると、作品についてネガティブなフィードバックを与えた時と比べて、報酬をただちにではなく、待ったあとでもらうことを選ぶ場合がずっと多い。そして、子供達に言えることは大人にも当てはまる。ようするに、私たちは悲しい時や落ち込んでいるときのほうが、欲求充足を先延ばしにする可能性が低いのだ。慢性的にネガティブな情動に襲われたり鬱に陥ったりしがちな人も、幸せな人と比べると、あとでもっと価値ある報酬を得るよりも、それほど望ましく鼻い報酬をただちに手に入れることを好みがちだ。 (『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.44)

ストレスの影響、ネガティブな感情は人間につきものだ。それとどう向き合うか。疑念、疑問、あれ、嫌だな。と思った時に、大人がどうやって、おしめを替えてあげるように、ぬぐいとってあげるか。その情動処理の方法は文化的なものであり、人間が人間から教わっていくもの。そして「目標に向けて自制する」能力をよりよく発揮するためには、騒々しい家庭の一室では、子どもの脳に負担がかかることがある。

シェイクスピアのハムレットは、悲劇的なまでに非建設的な経験の評価法しか知らない人物の典型ではあるものの、この点は鋭く捉えていた。「善いものも悪いものもありはしない。考えようによってどちらにもなるのだ」。これまたハムレットが示しているとおり、刺激や、自分の中にしっかり植えつけられた経験をどう「頭の中で表象する」(考える)かを変えようとするのは、自分の脳を自分で外科手術しようとするのと同じで、無駄な場合もある。どうすれば出来事をより簡単かつ効果的に再評価して認識を変えられるかは、認知行動療法の最大の難問であり、しっかり確立された気質や習癖を変えようと真剣に取り組んでいる人にとっても同じだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.46)

外科手術をする前に、「頭の中で世界をつくりあげる」大切な幼児期に世界のストレスから身を守るお守りを渡せればいいのだが。大人になって、いろいろな人と出会うなかで、新しい状況で、見つめ直して「ああ、あかんわ」となるのは自然だ。時代も変わる。場所が変われば文化も変わる。組織が変われば価値観も変わる。その時に?シャーマニズムの世界では、儀式を行うだろう。儀式には二種類があると僕はおもう。一つは集団で行われるもの。もう一つは、呪術者と問題を抱えた困っている人の間だけで行われるもの。例えばアメリカのインディアンのスー族に受け継がれているスウェット・ロッジという儀式では、何人かが小さいロッジ(テント)の中に入る。ここで肌と肌が感じる距離で、自分の中にある不安や恐れ、困りごとなどの言葉を声にして語るという儀式だ。もちろんそこには、神(グレートスピリッツ)も居合わせている。安心感。外からやってきた困りごと、ストレスが人間の心の内部で暴れているのを、心の内部で沈める工夫である。大人でも男でも、この儀式の中で子どものようにわんわん泣く。泣いてもいい。テントを出た後、世界は変わっていないかもしれないが、世界の見方は変わっているだろう。少なくとも、誰かがそこにいて、自分の声を聞いてくれたという、お母さんにしてもらったことを、大人になってからも必要としている。こうした「不安を取り除く」社会的な装置が準備されている文化があった。

必要な力は前頭前皮質にあり、この皮質を活性化させれば、評価の仕方を変えてホットで魅力的な刺激を「冷却する」、ほとんど無尽蔵の方法を実現可能にしてくれる。前頭葉がまだ発達していない未就学児でさえ、おおいに想像力を活用し、すばらしいお手本を見せてくれた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.46)

年齢

3歳の子どもたちの大半は、質問が理解できず、どう答えていいかわからなかった。4歳児たちは、私たちの質問は理解できたが、たいてい最悪の戦略を選んだ。待っているあいだ、ご褒美をむき出しにし、それについて考え、それを眺め、食べたらどれほど美味しいかに意識を集中することを望んだ。なぜご褒美をむき出しにするのか訊かれると「そのほうが楽しいから」とか、「なんとなく、見ていたいから」とか「すごく美味しいから」とか答えた。どうやら、自分のほしいものに意識を集中しており報酬を目にしていると待つのが難しくなることが、まだ理解できていないらしい。あるいは、それを気にしてはいない。彼らは、自分が待ち望んでいるものを、すぐ目の前に置いいておきたかったのだ。そして、ご褒美をむき出しにしておいたために、待つという真剣な意図を無にしてしまい、自分がベルを鳴らしてお菓子を食べてしまったことに気づいて驚いた。彼らは、自分の行動を正しく予測できなかったばかりでなく、先延ばしにした報酬を獲得するのを不可能にするような条件を生み出すことにこだわった。このような研究結果を知れば、親は4歳児が相変わらず自制に苦しむ理由が理解しやすくなる。その後の1年ほどで子どもたちに起こる変化には驚かされる。5、6歳になると、たいていの子どもは自制の手段として、ご褒美を見えなくする戦略を選び、お菓子への関心を掻き立てるようなことを考えるのを一貫して拒んだ。そして、誘惑から気をそらそうとした。さらに年齢が上がると、付随する条件に意識を集中してそれを繰り返し口にすることの価値を理解し始めた(「もし待てば、マシュマロが二個もらえる。でも、ベルを鳴らしたら、一つしかもらえない」)。また、自分に忠告や指示を与えた。「『だめ。ベルをならしちゃいけない』っていうんだよ。もしベルを鳴らして先生が入ってきたら、これ一個しかもらえないから」。「マシュマロをもらうために待つのを楽にするには、どうすればいいかな?」と、私は9歳になる「サイモン」に尋ねた。すると、答える代わりに、マシュマロ・テストを受けている子供の絵を描いてくれた。それには吹き出しがついていて、「気をそらしてくれるような、何か自分の好きなもの」について考えていることが示されていた。彼はさらに、こんな助言を書き添えた。「自分が待っているものを見ないこと。頭をカラッポにしようなどとはしないこと。そんなことをすれば。それについて考えてしまうから。そのときそこにあるもので気晴らしをすること」。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.48)

これは心というよりも、戦術を誰かから教わり、それを習慣化し、前頭葉によってつくられる「世界」で線条体をコントロールする思考の回路にすること。子どもがそれに気が付いてもいいし、大人が言葉で教えてもいい。何かに我慢ができない状況があったとする。それを子供もわかっている。じゃぁどうしよう。お母さんが、大人が、子供に、作戦を、戦略を伝える。人間らしさを象徴するかのような前頭前皮質は、学ぶ。

ほとんどの子どもが、関心を掻き立てるホットな思考に勝るクールな思考の価値にようやく気付くのは、12歳ぐらいだった。(略)先延ばしを楽にする戦略を知っていると、子どもたちは(いや、それをいうなら大人も)、自分が抵抗しようとしている誘惑にコントロールされ、翻弄されることを免れやすくなるかというのが、この研究の原動力となる肝心の疑問だった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.50)

年齢はおおいに関係がある。4歳未満の子どもの大半は、マシュマロ・テストで欲求充足を先延ばしにし続けられない。誘惑に直面すると、たいてい30秒以内にベルを鳴らしたり、お菓子をかじり始めたりする。クールシステムがまだ十分に発達していないからだ。それとは対照的に、12歳になると、一部の実験では60%近い子どもたちが、25分もまたて。これは殺風景な小部屋でクッキーとベルに向かい合って座っているのには、恐ろしく長い時間だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.57)

私たちの大脳辺縁系は依然として、進化上の祖先の大脳辺縁系とほとんど同じように機能する。今でも情動的にホットな「ゴー!」システムのままで、快楽や苦痛、恐れといった情動を自動的に引き起こす強力な刺激に対する、素早い反応を専門としている。(略)脳のホットシステムと密接に相互接続しているのがクールシステムで、それは認知的で、複雑で、思慮深く、ゆっくり活性化する。おもに前頭前皮質に座を占める。(略)強いストレスがkぅーるシステムを押さえ込み、ホットなシステムの効果を高めることは、ぜひ指摘しておかなければならない。ホットシステムとクールシステムは、互いを補うかたちで絶え間なく相互作用し、一方が活発になるともう一方が活動を弱める。私たちは、ライオンに対処することは稀だが、現代社会の果てしないストレスとは日常的に直面しており、そこではホットシステムがしばしば優位に立ち、クールシステムが最も必要なときに、それが使えない状態になっている。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.54)

成績が悪い、で困っている人は、まずその子のストレスの状況、情動的かつ認知的な対話ができているかどうかということを振り返るといいかもしれない。

イェール大学のエィミー・アーンステンは、ストレスの影響についての研究を精査したあと、「急性の制御不能のストレスは、非常に軽いものでさえも、前頭前皮質の認知的能力を急速かつ劇的に減じる原因となりうる」と結論した。ストレスが長引くほど、こうした認知的能力が損なわれ、害はより永続的なものとなり、最終的には、心身両面の疾患につながる。こうして、創造的な問題解決を可能にする脳の部位が、必要とされればされるうほど使えなくなる。ハムレットを思い出して欲しい。ストレスが増大するにつれ、彼はしだいに窮地に追い込まれて苦しみ、怒りに満ちた思いと千々に乱れた感情の中で身動きがとれず、まともに考えることも振舞うこともできなくなり、周囲を混乱に陥れ、自らの破滅をさらに早めた。(略)ハムレットにはまるで勝ち目がなかった。ストレスがなば挽いた時、問題解決に欠かせないかれのクールシステム、具体的には前頭前皮質と記憶にとって重要な海馬が、萎縮を始めた。同時に、ホットシステムの核心にある扁桃体が、過度に大きくなった。この脳の変化の組み合わせのせいで、時制とクールな思考が不可能になった。そのうえ、彼のストレスが長期化するうちに、扁桃体は肥大から萎縮に展示、最終的には、正常な情動的反応を妨げ出した。ハムレットが悲劇の人物なのも無理はない。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.60)

保護者の悪口をいう「あれじゃぁ子どもが」とかいう保育者・学校の先生がいる。「子どもがかわいそうね」とかいったり子供の悪口をいうそういった人たちは、社会が見えていない。職場、目の前の仕事、仲間内での評価しかみえていない。周囲を混乱に陥れる人がいる。「その人が」悪いのだろうか。「学校の先生が」悪いのだろうか。「保育士が」悪いのだろうか。「親が」わるいのだろうか。それとも、つかみどころのない「世の中が」悪いのだろうか。

情動的でなおかつ認知的な対話で子どもの前頭前皮質の発達を促せなかったお母さんが悪いのか。
お母さんがそうした知的能力を発揮できずに仕事に駆り出されなくてはいけない世の中が悪いのか。

悪いものは悪い。
けどそれで悪いものをよくしようとおもっても、時間の無駄になることもある。
学校に掛け合うストレスを受けあって、よりよい結果が出せるだろうか?
悪いものは悪い。
けどそんなこと世の中にはたくさんある。
どうしたらいいいのか?

心の免疫は、学ぶしかない。

社会という人工的な「自然」のなかに生まれた
子どもという無垢の「自然」をどう育むか。

心の免疫力を強めること。
これをちょっとカリキュラム・プログラム化しようと僕は思いついた。

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メアリー・エインズワースの有名なストレンジャー法(愛着の意味)とマシュマロの関係

母親のいないあいだ、おもちゃで遊んだり、部屋を探検したり、いっしょに残された個人とかかわわったりして気をそらすことができた幼児は、ドアから離れられず、たちまち泣き出した子どもが経験した強烈な不安を避けられた。母親不在の2分間に用事が経験するストレスは、刻々と高まった。最後の30秒間は、永遠にも感じられたに違いない。このもっともつらい時間に用事が見せた行動が、その子の将来を占う上でとりわけ有用であることがわかった。完璧にはほど遠かったが、偶然よりもはるかに高い確率で、保育園でマシュマロ・テストを受けたときにどう振舞うかが予測できたのだ。具体的には、「新奇な場面」で別離の最後の30秒間を、母親からの不在から気をそらして過ごせた幼児は、5歳になってマシュマロテストを受けると、お菓子のためにより長く待ち、より効果的に気をそらすことができた。(略)この結果は、人生の早い段階からストレスをコントロールし、「冷却」するために注意を調整するのが重要であることを強く示している。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.65)

自制の力は時として、忍耐、というよりも、平常心と言い換えたほうがよいのかもしれない。悲しい出来事に陥ることなく、辛い出来事であっても、「大丈夫大丈夫」といえるポジティブさ、ということもできるだろうか。執着しているもの、見えてしまっているもの、禍々しい記憶、忘れたいことをすっかり忘れるなどなど、不安に対処する方法を知っている。気を紛らわせることができる。そうして楽に生きられる。この戦略を教えてもらっている子が(つまりこの1歳半の段階できちんと親子が対話できてい子が)、アタッチメントがしっかりできている子だといわれるようだ。

愛着ができているとは、自分で気晴らしができるスキルを子どもがもっていることを表している?
『よくわかる情動発達』をもう一度読み直さないとかなー。

ウハウハ期前の子どもの状態。
赤ちゃんを「ひとりで」遊ばせることの重要性。

ある研究で、生後半年から1年の赤ん坊が眠っているあいだにfMRIで脳をスキャンした。就寝中にとても腹立たしげな言葉を耳にすると、たえず対立している親と暮らしている赤ん坊は、それほど対立が見られない家庭の子供と比べて、情動とストレスを調節する脳の領域が盛んに活性化した。こうした研究結果から、発育にとって決定的な時期には、社会的環境に由来する比較的穏やかなストレス要因でさえ、ホットシステムに認識されることがうかがわれる。赤ん坊が発育するにあたり、初期の情動的経験は脳の構造に深くとどめられ、その後の人生の展開に重大な影響をもたらしうることは明らかだ。幸い、赤ん坊が情動を調節し、認知的スキルや対人関係のスキル、情動的スキルを伸ばすように手が差し伸べられれば、赤ん坊がダメージに最も弱い子の人生の初期段階には、改善の可能性がいちばん多くある。誕生から数カ月以内に、保育者は赤ん坊が苦悩の感覚に浸るのをやめさせ、子供が興味を持つような活動に注意を向けさせ始めることができる。これはやがて、赤ん坊が自分沖をそらして自らを落ち着かせるのを学ぶ助けとなる。神経のレベルでは、赤ん坊はネガティブな情動を「冷却」したり調整したりするための、注意コントロールシステムとして、脳の前頭皮質中部を発達させる。ともに自己調整機能発達の分野の先駆者でもあるマイケル・ポズナーとメアリー・ロスバートは、このプロセスについて論じるにあたり、こう述べている。「生後4ヶ月のときには示された刺激にすべて目をやる子どもたちも、一年半後に実験室に戻ってくるときには、自分自身の方針をしっかり持っている。自分の計画の方が優先順位が高いため、私たちのディスプレイに注目させるのは難しい。私たちは必死の努力をしてみた挙句、首を横に振り、この子たちは独自の考えを持っているとつぶやくしかない」(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.66)

不安定型アタッチメントを示す幼児が母親が戻ってきても省みない反応は、支配的な母親を「選択しない」子どもの賢い選択である。

就学前までに効果的な自制スキルを発達させた幼児はたいてい、とても支配的な母親が注意を求めると、そばを離れずにいる代わりに、ほかへ気をそらし、母親から(「1メートル以上」)距離を置き、部屋を探検したりおもちゃで遊んだりした。支配的な母親から距離を置き、母親が近くそぶりを見せると、文字通り離れていった幼児たちは、5歳のときにマシュマロ・テストで長く先延ばしにすることができた。注意コントロール作戦を使って欲求不満を「冷却」し、もっと幼かったときに支配的な母親から自分の気をそらしたのと同じやり方で、報酬とベルから気をそらすことで成功したのだ。これとは対照的に、同じぐらい支配的な母親を持ちながらも、注意を向けるように言われた時にそばを離れなかった子どもは、マシュマロ・テストに挑むと誘惑のもとに注意を集中し、たちまちベルを鳴らしてしまった。母親があまり支配的でない幼児に関しては、話が違っていた。母親が注意を引こうとした時に、そばを離れなかった子どもは、5歳になったときにマシュマロ・テストでより効果的な自制と「冷却」の戦略を見せた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.70)

安定型アタッチメントを示す幼児が、母親が戻ってきた時に表す喜びは、認めてもらいたい存在、影響力のある存在を母親にみていることを表している。情動的と同時に認知的な、言語的かつ非言語的な対話がなされているが故に、子どもは母親から多くを学び、自立している。

子どもの選択と、自由意志があるという感覚を後押しすることで自主性を奨励した母親の子どもは、のちにマシュマロ・テストで成功するのに必要な種類の認知的スキルや注意コントロールスキルが最も優れていることがわかった。(略)すなわち、幼児を過剰にコントロールする親は、子どもが自制のスキルを発達させるのを妨げる危険を犯しているのであり、一方、問題解決を試みる際の自主性を支え、奨励する親は、子供が保育園から帰ってきて、どうやってマシュマロを二個手に入れたかを嬉々として聞かせてくれる可能性を、おそらく最大化しているのだろう。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.71)

「イフ・ゼン」プラン

たびたび出てくるこの戦略は、あらかじめ「こういう状況になったら、こうする!」ことを決めておくことで骨の折れる情動のコントロールを楽にすること。

注意点

ホットシステムをまんまと騙して、あなたのために無意識のうちに反射的に働かせられるのだ。そうすれば、必要な時にホットシステムが台本に沿って望み通りのことを自動的にさせてくれるので、クールシステムは休んでいられる。だが、誘惑に抵抗するためのプランをあらかじめホットシステムに組み込んでおかなければ、そのプランが最も必要とされるときに発動される可能性は低い。なぜなら、ホットな誘惑に直面したときには情動的興奮とストレスがまし、ホットシステムを加速させて迅速で自動的な「ゴー!」反応を引き起こし、クールシステムの効果を弱める体。ホットな誘惑が現れた時には、しっかり確立した「イフ・ゼン」プランがなければ、自動的な「ゴー!」反応が勝ち目を収める見込みが大きい。だが、「イフ・ゼン」プランが確立されていれば、驚くほど多様な場面で、様々な人々や年齢層でうまく機能し、難しい目標ー以前ならとうてい達成不可能と考えていた目標ーを効果的に達成する助けになる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.80)

注意点2

「大人の言うことを聞いても何もいいことはない」と悟った子どもたちの目線と似ている。
約束を守らない人と接してきた未就学児は、驚くまでもないが、ただちにマシュマロ一個をもらわず、あとで二個もらおうとする率がはるかに低い。このような常識的な見通しは、実験によって、とうの昔に裏付けを得ている。人は、先延ばしにした報酬がもらえるとは思っていない時、合理的に行動し、その報酬を待たないことが立証されているのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.85)

今まで生きてきた中で、いろんな人と出会ったりなんだりしながら、自分の経験も加えると、多くの人はその場その場で直感的に考えている。目の前に出された広告を見て、反応する。定期テスト対策、大学受験、、、果たしてそれは?目の前の誘惑、キャンペーンで頭がいっぱいになって、相手の本当の意図に気がつかずに振り回されている人がたくさんいる気がする。子育ては理知的な仕事であって、長期的に、計画的に進めないといけないと最近は思うようになった。その時々、ぱっと選択しなくちゃいけない状況もたくさんあるけど。僕も最近頭の中で「安定をもとめなければ、本当にお金がない。身動きがとれなくなる」というホットな不安、恐怖、心配があると同時に、クールな部分で「じゃぁ、どうしたら僕がもっと楽に、僕にとって開放的に生きられるか、少し実験しようじゃないか」と対話ができるようになった。我慢することはないのだ。

人間の行動は、特定の環境に対する進化上の適応を反映しているかもしれない、低いレベルの自動的プロセスと、抽象的で普遍鉄器な論理的思考や将来の計画立案のための、より新しく進化した人間独特の能力とのあいだの競争によって支配されていることが多い。……人間の好みの持つこの特性は、私たちそれぞれの中に棲む、衝動的な大脳辺縁系のキリギリスと、先見の明のある前頭前皮質のアリとの競争を反映しているようだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.90)

DNA
約1.5Gバイトの遺伝子情報で、CD-ROM二枚を埋める量だが、DNA配列そのものは、よく尖らせた鉛筆の先に載りきる。

お腹の中にいる時から、遺伝子は新しい環境に向けて、親からもらったデフォルトを変形させる。

驚くべきことに、環境の影響は、受胎に先行することすらありうる。遺伝に関する従来の考え方とは相入れないが、最近の証拠からは、細胞の非ゲノム的な特徴の一部が遺伝することがうかがわれる。これは分子のレベルでは、社会的・物理的環境が引き起こしたこれらの特徴が、最終的に本人の子どもを創り出す細胞の特徴を変えうることを意味するとシャンペーンは指摘している。それがどのように起こるのかに関する詳細は、ようやく解明され始めたところだ。だが、対人関係における触れ合いに対処するときの危険と回復力の両方が世代間で遺伝するというのだから、はっとさせられる。これは、青少年や成人の生き方や、食べるもの、飲むもの、吸引するもの、対人関係でのふれあいや経験がもたらす喜びやストレスが、彼らの子どものゲノムのうち何が発現し、何が読まれずじまいになるかを、部分的に決めるということだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.101)

年齢
発達というのは、感覚が鈍くなっていくことだ。という言葉がある。つまるところ、認知能力が発達するにつれて、世界の情報で頭がパンクしてしまうのを防ぐために、情報を自動的に取捨選択していくということ。これができないと「平常心」が保てなくなる。自分で世界のどこにフォーカスをするか、コントロールする力(ある部分の情報は削ってしまえる力)をつけていくのが、発達だという。あれもこれもに目がいってしまうADHDという現象が起こる子は、体が大きくなっても、できることが増えてきても、では一体何をしたらいいのか。取捨選択ができない混乱状態にいるとおもったらいい。自制心とは「平常心」と読み替えたらよさそうだ。ある状況では、何が適しているか。そういった判断を適時、適当に行えると楽だ。そのつどそのつど、この状況でどうするんだっけ?と自動的に取捨選択ができない段階にいる子は、クールシステムの助けがなくて困っているだろう。

誕生後の1年間に、前頭前皮質は、自制と自発的変化に不可欠なかたちで発達を始める。ホットシステムとクールシステムというたとえを用いるなら、これはやがて自制を徐々に可能にするクールシステムの始まりを告げるものだ。おおむね3歳から7歳のあいだに、この発達のおかげで子どもたちは、目標をより効果的に追求するために、注意を移したり集中したり、情動を適応性のあるかたちで調整したり、望ましくない反応を抑制したりする能力をしだいに高めていく。こうした変化によって、子どもは年齢が上がるにつれ、自分の感情や藩王を調節したり、あらかじめ組み込まれているもののなすがままにならずに、その現れ方を修正したりし始められる。持って生まれた傾向の発言の仕方を変えるように自己調整するこの能力は、内気さの研究の第一人者で、ハーヴァード大学の発達心理学者ジェローム・ケーガンが語った逸話に余すところなく捕らえられている。彼の孫娘が保育園児で、内気さを克服しようと奮闘していた時に、彼女はうち気にならない練習ができるように、自分のことを知らないふりをしてくれとけーがんに頼んだ。そして、やがてそれが功を奏した。けーがんが以前に行った研究から明らかになっていたとおり、内気さのような傾向は遺伝的ルーツを持っているものの、変えることができる。就学前に良い経験を重ね、保護者が自分を律して過保護にならないようにできれば、内気な子どもがあまり引っ込み思案でなくなるのを助けられる。けーガンの孫娘は、内気さの研究の権威に、子ども自身が自らの発育における積極的な主体者となって、さまざまな戦略を使い、人生で自分の気質がどう発現するかを変えうることを示したのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.101)

この例は、就学前の子どもがすでに自分をかなり具体的に認知している例だ。僕はこの孫娘の認知発達はかなり進んでいるように思うのだがいかがだろうか。恐れ入った。

オトノネのキーワード「平常心」
 フォーカスは、別の部分に対するピンボケを意味する。
 平常心とは、世界に多くのピンボケを作ることである。
 また平常心とは、煩雑な感情、扱えないものから一歩二歩遠くへ距離を置くことでもある。→「遠近感」へ

遺伝が半分。育ちが半分。というのはもうご存知だろう。遺伝を生かすのも殺すのも育ちだと思えば、全ては、育ちだとおもうのだが。『パーソナリティの科学』ででてきたグッピーの話を思い出す。上流のグッピーが下流の環境に置かれたら、生き残る確率が減っただろうか。魚類と哺乳類(母親に育てられるかどうか)の違いかもしれない。

臆病な母親の元で育った遺伝的に大胆なマウスは、遺伝的に内気なマウスに似てきた。ここから二つの明確な結論が浮かび上がってくる。まず、遺伝的な資質は、行動の重要な決定要素であること。だが、それに劣らず重要なのが、幼い頃の、母親に関連した環境だ。その環境は、遺伝子がどう機能するかに強力な影響をもっている。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.103)

しあわせは前頭前皮質がつくる。
よろこびは扁桃体がつくる。

しあわせは静寂であり、動的平衡である。それは循環する。
よろこびは歓喜であって、憤怒・羨望と同じ根をもっている。一方的に、噴き出してくる。

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実行機能が働くためには、低ストレス環境が必要なのは、もう書きましたね。
自制心とは、注意深さ、とも言い換えられそうですね。「すぐに反応しない」「衝動から一歩下がってみる」「遠くから眺める」感覚。遠近的に目の前の状況を観察する力。これは、自分から距離を置くもう一人の自分がいること、自己フィードバックをかけられることでしょう。これは平常心とも似ているか。遠くのものを眺める。近視的にみない。自分との距離感を取る。

実行機能は、思考や衝動、行動、情動に対して、思慮深く意識的なコントロールを行うのを可能にする認知的なスキルだ。実行機能は私たちに、衝動的な欲求を抑制したり「冷却」したり、目標を追求して達成できるようなかたちで考えたり注意を柔軟に使ったりする自由を与えてくれる。こうしたスキルと神経のメカニズムは、良い人生を築くために不可欠だ。(略)首尾よく待てた子は、それぞれ独自のやり方で自制したが、彼らはみな、実行機能の三つの特徴を共有していた。第一に、自分が選んだ目的とそれに付随する条件(「もし今ひとつ食べたら、あとで二つもらえない」)を記憶し、たえず頭に浮かべておくこと。第二に、目的に向かってどれだけ進んでいるかを確認し、目的志向の思考と、誘惑を和らげるテクニックとのあいだで、注意を認知作用のスイッチを柔軟に入れ替えて、必要な修正を行うこと。第三に、目的を達成するのを妨げるような、衝動的な反応(誘惑のもとがどれほど魅力的かを考える、手を伸ばしてそれに触れようとする)を抑え込むこと。今や認知科学者は、誘惑に逆らおうとしている人をfMRIスキャナーにかけ、人間のこうした驚くべき偉業を可能にする前頭前皮質の注意コントロール・ネットワークを可視化し、これら3つのプロセスが脳の中で展開するのを目にすることができる。計画立案、問題解決、柔軟な思考を可能にしてくれる実行機能は、言語を使った論理的思考や学業での成功に欠かせない。実行機能がよく発達している子どもは、目標を追求するときに、衝動的な反応を押さえ込み、指示を念頭にとどめ、注意をコントロールできる。こういう子どもが、実行機能が未熟な同輩よりも、未就学段階で算数や言語、式辞のテストで良い成績を修めるのは、驚くまでもない。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.121)

オトノネのキーワード「遠近感」
 自分の現状を客観視する。→「自己フィードバック」、「自己内対話」
 すぐ目の前にあるものと自分とのあいだに無限のステップを見いだすこと。(時間的空間的距離は相対的なものである)
 空想に浸る力。ファンタジーにもなる。それは遠くの目標を見定めるチカラでもある。→「目標」「ファンタジー」

実行機能を発達させずに、全てを管理するのが日本の学校教育(恐育)

就学前に実行機能を十分発達させる子どもは、ホットな本能的誘惑が引き起こすストレスや葛藤に対処しやすい。それと同じスキルが、読み書き計算を習うときにも日頃から役に立つ。逆に、実行機能が十分発達していない未就学児(残念ながら、あまりに多過ぎる)は、学校時代を通して、ADHDをはじめ、さまざまな学習上の問題や情動的問題に直面する危険が高まる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.123)

実行機能は遠くのもの、空間的にも時間的にも自分とは離れている抽象的なものを見据える能力でもある。これのおかげで、他社の心に近くことができる。

実行機能のおかげで私たちは、目の前の状況や「今、ここ」という世界から抜け出し、現実の枠を超えて考えたり空想したり、不可能なことを想像したりできる。そして、実行機能は想像を容易にすることで、柔軟で適応性のある自制心の発達を促す。実行機能は、他者の心や感情を理解する能力とも強く結びついており、子供が触れ合う相手の意図を推測したり反応を予測したりするための、いわゆる「心の理論」を発達させるのを助ける。私たちは実行機能のおかげで、他者の感情や動機付けや行動を理解し、それを考慮に入れ、彼らの認識や反応が自分のものとはまったく違いうると気づくことができる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.124)

実行機能がうまく働いていると、たぶんしあわせだ。世界と自分とがあまりずれないし、ずれても微調整で済ますことができる。自分をコントロールしている、自分は大丈夫だとおもえること。自己効力感につながる。

人生の初期に実行機能が十分に発達すると、子どもたちは望むとおりの人生を築く可能性が高まる。そうした子どもたちには、私たちが自分の愛する人には備わっていてほしいと願うもののリストで当然高い順位を閉めると思われる、自己信念を築くための基盤ができている。この自己信念とは、自分には自制心や問題解決能力があるおいう意識(「できるとおもう!」という態度に反映される)や、将来に対する楽観的な見通しといった、相互に関連した信念だ。このような恵まれた「資源」は、各自の自分についての信念であり、外部の評価でも、達成度や力量の客観的なテスト結果でもないことは、ぜひとも理解しておかなければならない。ストレスのネガティブな作用が、本人がそのストレスをどう認識しているか次第であり、誘惑の影響が、本人がその誘惑をどう評価し、どう頭の中に思い描くか次第なのとちょうど同じで、私たちの能力や業績や将来の見通しがもたらしうる健康上の恩恵は、それらを私たちがどう解釈したり評価したりするかにかかっている。とても力量があるのに、ネガティブな自己評価を下し、身もすくむような自己疑念を抱いて自らを害している人を、あなたも知っているだろうから、そんな人のことを考えてみるといい。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.125)

低ストレス環境下における情動的かつ認知的対話によって発達した幼少期の実行機能は、メタ認知が強くなる中学生以降の「自分の人生は自分でつくるものだ」という自己効力感・自己肯定感・自尊心・自立心・主体性・能動性を育む。

テレサは次第に動揺し、不安になり、もう自分の人生が手に余ると感じていた。3回目のセラピーセッションのとき、どうやら興奮が頂点に達したようで、自分は正気を失いかけているのではないかと涙ながらに声を張り上げ訴え、ケリー医師に、どうか答えてほしいと懇願し、こう尋ねた。「私は気が変になりかけているのでしょうか?」ケリーはゆっくりと眼鏡を外し、彼女の顔に自分の顔を近づけ、真っ直ぐに目を覗き込んで訊いた。「そうなりたいですか?」テレサはハッとした。肩から大きな重荷を降ろしたかのように、途方もなく気が楽になった様子だった。どう感じるかを変える力が自分にあるかもしれないなどということは、思った試しがなかったのだ。突如として、「気が変になる」というのは避けようのない運命ではなくなり、一つの選択肢に変わった。自分はこれまでの経歴の受動的な犠牲者として、人生が崩れていくのを指をくわえて眺めている必要などない。彼女にしてみればこれが、「わかった!」の瞬間だった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.126)

低ストレス環境(安心)→実行機能(自由・自立のためのスキル)→自己肯定感(楽観主義)
楽観主義を、フォーカスをポジティブな部分に向ける実行機能のスキルだとみてもいい。
成長しながら課題に取り組むにつれ実行機能は戦略をさらに豊かにしていく。が、もしそれが学習性無気力や、どうしようもない壁にぶち当たってしまったとき、その時こそ誰かに「教わる」ことが大切かもしれない。小さいときに子どもが、お母さんからいろんなものをもらったように。今度は別の人から「学ぶ」といいのかもしれない。

シェリー・テイラーとその共同研究者たちは、楽観主義者の方がストレスに効果的に対処し、その不都合な影響を受けにくいことを示した。楽観主義者は、楽観の度合いが小さい人と比べると、自分の健康と将来の幸せを守るために多くの手を打ち、全般に、より健康な状態を保ち、鬱になりにくい。(略)悲観とは、ネガティブな面に焦点を当てたり、最悪の事態を予期したり、この上なく陰鬱な解釈をしたりする傾向をいう。(略)極端な悲観主義者は、無力感を覚え、意気消沈し、自分の人生をコントロールできない。自分の身に悪いことが怒ると、何が悪かったのかについて、状況に即した説明や、あまり自分を責めないような説明は受け入れられず、自分が一貫して持っているネガティブな特性のせいにする。(略)幼いとこいに、この悲観的な説明のスタイルが極端だと、将来が危ぶまれる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.132)

『「やればできる!」の研究』読むかな

自分の知能や、周りの世界をコントロールする能力、社交性、その他の特徴は、生まれた時から逃れようのないもの、あるいは恵まれているものではなく、鍛えたり発達させたりできる筋肉や認知的スキルのように柔軟性を持っていると、幼い頃から考える子どももいる。ドゥエックはそういう子どもを「拡張的知能観」の持ち主と呼ぶ。一方、自分の能力(偉いか愚かか、良いか悪いか、強力か無力か)を、自分には変えられない、生まれてこのかた固定された水準に凍りついているものとみなすのが、「固定的知能観」の持ち主だ。(略)固定的知能観から抜け出せない子どもは、学業がしだいに難しくなったときにはとりわけ苦労することになるという。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.128)

拡張的知能観の持ち主の特徴

たいてい自分は成功するだろうと見込んでいる8年性(14歳)の男の子たちは、ただ待つだけではなくうまくやり遂げられないと、多いものの先延ばしにされた報酬が手に入らない、そんな認知的課題に進んでと陸yむことがわかった。これは、少ないもののただちに手に入る報酬腕は手を打たないということであり、彼らは成功をあまり見込んでいない子どもと比べて、この選択肢を選ぶ割合が2倍近かった。成功に対してより大きな期待を抱く子どもは、新しい課題を与えられても、すでにそれで成功したことがあるかのように、自信を持って取り組んだ。彼らはしくじるとは思っていないので、それに「立ち向かう」ことを望み、進んで失敗の危険をおかした。彼らの見通しは、ただの夢想以上のものだった。過去に積み重ねた成功体験に基づいているからだ。それまでの成功が彼らのポジティブな期待を膨らませ、それが今度は、さらなる成功の可能性を高める行動や態度を奨励した。それがすべて合わさって、楽観主義をなおいっそう微笑ませる結果を生む。この結果からは、成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは、課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることもわかった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.135)

ストレスへの対処法の2タイプ。自分はどちらか?大抵は、情報を与えないで気をそらすだけでストレスを回避する選択をする。

治療中、あなたは視界に、何をしているか教えてもらいたいだろうか、それとも、頭の中でパズルにでも取り組んでいたいだろうか?もっと知りたい人は「監視者(モニター)」に、知らないほうがよく、自分の気をそらしたり、押さえ込んだりしたい人は「感覚を鈍らせる人(ブランター)」に分類される。(略)医療の現場であれば対人関係のばであれ、ストレスに直面した時、モニターはたいてい、多くを教えられた時にうまくいくし、ストレスを減らせる。どんな個人差を調べてもいえるように、ていうどのスケールでどちらかの極端に位置する人もいるが、大抵の人は、どこかその中間にいる。一般原則としては、自分の力が及ばない状況にあるためにストレスの減らしようがないときには、もっと知ろうとするとたいてい不安とストレスが増えるので、感覚を鈍らせたほうが、適応性があり、自分を守りやすい。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.160)

壁に止まったハエの視点で自分を眺める、距離を置く

「なぜ?」と自問して何とか良くなれる人もいる一方で、悪化する人も多いことを明らかにしてきた。そううい人はいつまでもくよくよと考え、反芻し、辛い経験を自分や友人や親身のセラピストに語るたびにいっそう落ち込むだけだ。果てしない反芻は、患者なが「その経験と折り合いをつける」のを助けるどころか、情動的な痛みを再発させ、怒りを改めて家たぎらせ、傷口を開いてしまうのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.165)

人間関係を恐れる人

「高RS(拒絶感受性(RS)が高い)」の人は、緊密な関係にある相手から拒絶されるのを極端に気にかけ、自分が「ミスれ垂れる」のではないかと心配し、自らの行動を通して自分が恐れているまさにその拒絶を誘うことがよくある。高RSは有害な影響をもっていて、その作用を緩和しないと、自己成就予言のような事態が展開する。(略)ビルのような高RSの人は、自分が「本当に」愛されているかどうかですぐに頭がいっぱいになり、一人で思いを巡らせているうちに、見放されるのではないかという恐れが募り、ホットシステム由来の怒りと憤慨がさらにほとばしり始める。自分の苦悩やパートナーの不満そうな反応に応じて彼はあからさまに、あるいは受け身の攻撃性を見せて、さらに高飛車に出て、相手が自分の思う通りに振る舞わないと気が済まなくなる。 (略)ミドルスクールでは、高RSの子どものほうが同輩たちから不当な扱いをつけたりいじめられたりしやすく、彼らは強い孤独感を抱いている。長い目で見ると、この弱点が著しい人は、より多くの巨舌を経験し続け、やがて自尊心が蝕まれ、鬱になる可能性が高まる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.177)

高RSの人はしばしば腹を立てて、敵意を感じるものの、深呼吸したり、戦略的に自分の思考を調節したり、長期的な目標について考えたりすることで、自分を「冷却」して落ち着かせれば、優位に立てる。自分のホットシステムの引き金(もし彼女が新聞を読んだら)や、内面的なキュー(もし怒りを判じ始めたら)を、、自制戦略(そのときには深呼吸をして、100から0まで逆に数字を数えていく)と結びつける」イフ・ゼン実行プランを立てて練習すれば、そうした戦略を努力一つしなくても自動的に実行に移せるようになる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.185)

社会的にうまくいっている残酷な経営者たちは自己高揚感があるゆえに健康的である。

自己高揚感の度合いが大きい人(自分を同輩と比較した時に自己肯定するような点の高い人)のほうが、実は慢性的な生物学的ストレスのレベルが低いことがわかった。生物学的にいうと、こうした結果になるのはおもに、消化から体温から、気分ん、性衝動、身体エネルギー、生物学的免疫系まで、ありとあらゆるものを調整する、視床下部・下垂体・副肝臓(HPA)軸の働きが原因だ。(略)自己高揚の度合いが大きい人は小さい人よりも、HPA軸が健康的だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.191)

現実をみなくなる。DVを受けているお母さんが幸せを感じていること。それでも、しあわせになれる心の働きが、人間にはある。果たしてそれが、「適応的か」それを見極めていくのが、もしくは適応的になれる場所を探すこと。

こうした研究結果は、多くのサイコセラピストが相変わらず辛抱している伝統的な考え方と矛盾する。その考え方によれば、ポジティブな幻想と自己高揚は、自らを守るためにネガティブな個人的特徴を否定するもので、誇張と神経症的なナルシシズムの表れであり、自分のネガティブな特徴を抑圧する試みには、大きな生物学的代償が伴う、ということになっている。だが実際には、ポジティブな幻想も含め、ポジティブで自己肯定的な精神状態は(現実を極端に歪めていないかぎり)、健全な生理的機能は神経内分泌機能を高め、ストレスのレベルの低下につながる。それに対して、自分のことをもっと正確に認識している現実主義者は、自尊心が低く、鬱を多く経験し、一般に心身の健康が劣る。逆に、より健康な人の自己認識には、たとえいくぶん幻想が混じったものであっても、温かな幸福感が伴う。(略)ダニエル・ギルバートが指摘している通り、両者はともに、二つの競合する必要性の狭間で、均衡をとらなければならない。生物学的な免疫系は、ウイルスのような外部からの侵入者があればそれを識別して破壊する必要があるが、体内の善玉の細胞を殺すことは避けなければならない。同時に、心理的な免疫系が、ほとんどの同輩よりも自分は優れているとあなたに信じ込ませたとしても、それは適応的であり、自尊心にとっては望ましいが、あなたが自分はほかの誰よりも優れていると考えるなら、話は別だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.192)

前頭前皮質が判断できない状況にある時、心理的な免疫系、ポジティブな思考は私たちの心を守る。

心理的な免疫系は、予想が外れた時に私たちがあまり落胆しないように守ってくれるが、間違っていることを一貫して示す証拠を私たちが目の前にしても、自分の信念にしがみ続けさせかねず、そのために私たちは誤りを犯し、高い代償を払う羽目になるということだ。楽観的な幻想は、そのせいで足に火傷をしているときにさえ、間違っていることを証明するのが難しい。20012年7月、カリフォルニア州サンノゼで、ポジティブ思考の威力を褒めそやす後援者に意欲を掻き立てられた21人のx聴衆が、熱い石炭の上を歩こうとして火傷を負い、治療を受けなければならなくなった。試しに石炭の上を歩いた人の多くはどうやら、足の火傷をものともせず、足を冷やした後には、人生を帰るようなポジティブな経験だったと感じたようだ(そしてそれによって、心理的な免疫系の力と、心理的な不協和音を和らげられる人間の能力をさらに立証したわけだ)。たとえ前頭前皮質が私たちを守ってくれず、「できると思う!」という考え方のせいで足に火傷をしたときにさえ、心理的な免疫系は、任務を果たし続けるのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.206)

脱感作

tool of the mind

実行機能の発達を促す目的で〈ツール・オブ・ザ・マインド〉(心の道具箱)というカリキュラムを作り、未就学児(平均年齢5.1歳)に、実行機能を向上させる活動を集中的に毎日40やらせた。これらの活動は、子どもが自分は何をするべきかを自分に告げるゲームのような訓練から、「ごっこ遊び」や、記憶力を改善する簡単な課題の練習、目的を持って注意を集中したりコントロールしたりすることの習得にまで及んだ。ダイアモンドの研究は、低い所得者層の多い学区にある20以上の教室で行われ、実行機能の能力に対する〈ツール・オブ・ザ・マインド〉の効果と、この学区での標準的でバランスのとれた読み書きのカリキュラム(似たような学習内容を扱っていたが、実行機能の向上を目指すものではなかった)の効果とを比較した。(略)ダイアモンドらの就学前教育の2年目に、両プログラムの子供達を実行機能に関する認知と神経系の標準的なテストで比べてみると、〈ツール・オブ・ザ・マインド〉のプログラムに参加した子どもたちが大差で優っていた。そして、実行機能が最低水準で始めた子どもたちに最も効果があった。実際、〈ツール・オブ・ザ・マインド〉のプログラムに参加した子供達の進歩はめざましく、一年目の終了時に、ある学校の教育者たちは実験をやめたいと言い出した。標準的でバランスのとれた読み書きのカリキュラムを受けていた大将軍の子どもたちにも〈ツール・オブ・ザ・マインド〉のプログラムに参加させたいから、ということだった。介入を通じて実行機能の発達に影響を与える機会は、就学前に限られてはいない。11歳から12歳の、学校で平均以下の子どもたちにわずか数時間のトレーニングをさせ、特定の「イフ・ゼン」実行プランや戦略の使い方を教えただけで、学業や成績評価平均値、出席率、品行が大きく改善した。(略)(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.262)

簡単な瞑想やマインドフルネスのエクササイズにも、実行機能をおおいに向上させる効果がある。「マインドフルネス・トレーニング」は、人が今この瞬間に注意を集中させるのを助け、沸き起こってくる感情や感覚や考え方の一つひとつにたやすく気づき、偏った判断をせず、細かい説明は求めずに、体験することはなんでも受け入れ、認めることを目指す。(略)マインドフルネス・トレーニングをすると、雑念が減り、集中力が高まり、アメリカの多くの大学院が入学の条件として採用している大学院進学適性試験のような標準試験での学生の点数が上がった。(略)同様に、正常な成人の脳や老年期の脳も、実行機能を高める比較的簡単な介入によるオン絵にあずかれる。とりわけ注意すべきものが2つある。一つは身体的なエクササイズで、程々の量や短時間の場合でも効果がある。もう一つは、孤独感を最小限に抑えたり、社会的な支援をもたらしたり、他人との絆やつながりを強めたりする介入で、そういうものならば事実上何でも効果がある。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.263)

回復の椅子

教室の一角に「回復の椅子」または「思考の椅子」が置かれている。昔の、教室の隅に立っている罰の代わりにその椅子に座っているという罰があるのではなく、生徒が感情を抑えられなくなりそうだ感じたり、今日が生徒を見てそうなりそうだと思ったりしたときに、生徒が冷静になるためにその椅子に座る。椅子のそばには砂時計があり、その近くの木安倍にはさまざまなメッセージが貼られていて、子どもたちが自分で落ち着きを取り戻すのを助ける。「興奮した状況から距離を置こう」「深呼吸をしよう」「数を逆から数えてみよう」「怒りがヘリウムガス入りの風船に乗って飛んで行くのを想像しよう」……。こうした戦略によって、落ち着き、自制心を取り戻し、熱くなった感情を冷まし、冷静に考えられるようになると、椅子を離れてクラスに戻る。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.273)

躾けるべきこと。教えるべきこと。
教えてはならないこと。

子どもたちに教えてあげますか。「強くなりなさい。どんな悪いことをしても、守ってくれるような、大きな組織に入りなさい。言われたことをやりなさい。そうすれば、入れてもらえるから」と。それが日本で生きる方法ですと、子どもに教えてあげますか。「いい子になりなさい。どんな人格になっても社会が許してくれるような、いい学校に入りなさい。…

大切なのは、自己決定。

私はディヴィッド・レヴィンに、KIPP校がジョージ・ラミレスのいうように、本当に「人生を救う」のかどうか訪ねた。彼は、誰の人生も救いませんときっぱり言いきり、こう述べ立てた。「私はチアリーダーであり、実際にプレイをしているのは子どもたちです。塚しいことをやっているのは彼らで、私たちは環境を整えてあげるだけです。肝心の骨折りは、本人がやらなければなりません」。さらにこうも語った。KIPPの指名は、子どもたちが選択肢の多い人生を送れるよう手助けすることだ。選択肢といっても、全員に同じ道が用意されているということではないーアイヴィーリーグの大学である必要はないし、大学である必要さえない。選択の自由とは、子どもたちが自分の人口統計学的データとは無関係に、どう人生を送るかについての正真正銘の選択肢を持つことなのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.275)

キャラクター教育

KIPPは教室でどのようにキャラクター教育を実現し、効力を持たせているのかと、私はディヴィッドに尋ねた。肝心なのは、生徒の学校で自制や粘り強さなどのキャラクター・スキルを伸ばすのに決定的に重要な行動を実践する機会を与えることだと彼は思っている。彼によると、「欲求不満を素早く乗り越え、失敗から立ち直り、集中して自主的に行動する方法を子どもに学んで欲しければ、学校の授業でこういったことをする機会を与えなければなりません。だから、教師は授業を構成するときに、このための時間を組み込む必要があります」。したがって、カリキュラムには実践するために相当の時間を含める。その時間に生徒は別の生徒とともに、あるいは小さなチームで、先生に頼らずに、集中力と継続的な努力が必要な難しい課題を自主的にやる。「カギは、もう教師は生徒たちの前に立って話をせずに、子どもたち自身に骨の折れる作業をさせることです」。キャラクター教育での進歩を追うために、生徒は年に数回、各楽器の終わりに自己評価をする。それぞれのキャラクター・スキル(とくに、自制、粘り強さ、楽観主義、熱意、社会的知能、好奇心、感謝)のt口調が現れている行動をどれだけ頻繁に、首尾よく実施できたか(「ほとんどできなかった」から「ほぼいつもできた」まで)を評価するのだ。各スキルにはそれぞれの特徴的な行動を示す、次のような説明が付されている。楽観主義の場合は、「物事がうまくいかなかったおtきでさえ、ずっとやる気を持ち続けられた」。粘り強さは、「始めたことはなんでもやり遂げることができた」。自制は二種類の自立能力に分けられている。も公表を念頭におき続け、集中力を保持したまま努力する能力(「注意を払い、気が散らないようにできた」)と、対人関係でいらいらさせられる状況で怒りと欲求不満をコントロールする能力(「批判されたり挑発させられたりしたときでさえ冷静でいられた」)だ。熱意に関しては、行動の特徴は「わくわくしながら精力的に新しい状況に取り組めた」といったものだ。そして社会的知性については、「他人んお気持ちを尊重できた」というような行動が挙げられている。教師は、生徒たちだけでなく自分お行動も同様のキャラクター発達の基準を使って観察したり評価したりするように求められている。学校全体の進歩を評価し、スキルの低下がないようにするためだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.277)

ホットシステムには現在志向の強いバイアスがかかっているので、誘惑に逆らうのは難しい。このシステムは、目の前の報酬は十分考慮するが、先延ばしにされた報酬は割り引いて考える。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.280)

練習、練習、練習。嫌なことを、戦略なしにやり続けるのが忍耐・自制だと思われがちだが。
戦略を使って目標に向かって行くこと、習慣化すること。「自然」になるまで、続けること。
イチローがバットと振り続けるように。
忍耐・自制は習慣化するまでのプロセスで必要な「戦略」を取り込むまでの、根気強さのことだ。
戦略なしに、いやだいやだとおもうことをやらせ続けることは、心を疲弊させる以外の何者でもない。

そしてそれが学校や会社などの圧力、しくみ、システムによるものである場合、ある程度容易になる。
環境を設定することで、人は変わるからだ。しかしそれが組織を超えて個人で取り組まなければならない場合・・・・本人が

「絶対に変わりたいと思わなければ話にならないのだ」(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.288)

難しいのはこの新たな振る舞い方をチョキに渡って維持し続けることであり、それはダイエットから禁煙に至るまで、自制心を強化する試みのほとんどに当てはまる。だが、ねばりずよくとりくめば、新しい行動によって満足が生まれ、それが努力を維持するのを助けてくれる。新たな行動自体が価値を持ち、もはや重荷ではなくマンン族と自身の源になるからだ。ピアノの練習にしろ、愛する人を傷つけないために自制心を発揮することにしろ、長年のパターンを変化させたり、新しいパターンを学習したりするために努力するときにはいつもそうなのだが、やるばきことは、パターンが自動的になり、自ずと満足が得られるようになるまで「練習、練習、また練習」しかない。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.286)

毒を飲み続け、薬を飲み続ける。【認知的再評価】
グルテンフリー食事療法を実施すれば治るのに、薬を飲まされてしまった患者がいる。グルテンフリー食事療法を実施することを進めずに簡単に薬を出した医者がいる。薬は飲み続けなくてはならない。副作用はもちろん、ある。で、後で調べてみると、この病気は世の中の食物のなかに含まれているグルテンを摂取しなければでてこない。医者に「どうして食事療法を教えてくれなかったのか」尋ねたところ「グルテンがあふれている世の中でグルテンフリー食事療法を続けるのに必要な自制心を持つ人などいないから」という答えだった。本当に変えたいとおもうなら、違和感を感じた時に、自分で調べる。そして、真実を、事実を知ること。そのまま暮らしていたら毒を食べて、薬を飲み続けるという意味不明な人生になっただろう。今まで喜びを得ていたそれは、実は、毒だ。という認識ができるまで、苦しまなくてはいけない。親しみのあった生き方が、親しみのある価値観が、実は毒だったということがわかるまで、毒を飲み続ける。その先に「本気で変えよう」とおもえるきっかけが生まれる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.290)

毒を飲み続けて、薬も飲み続ける。

そういう生き方もある。
ただ生き方が、違うだけだ。
よりよく生きるということがどういうことか、人によって違う。

「子どものために何をしてやればいいのでしょうか」という質問が親から出る。十分に時間があればまず、子供がお腹にいる間と生まれてからの数年間は、ストレスレベルを低くしておくことがとくに重要だと説明する幼いうちに子どもを長期にわたって極端なストレスにさらすと、恐ろしい害をその子に与えかねないことはよく知られている。それに比べるとあまり知られていないが、一シアになるまで、一見すると軽度のストレス要因い慢性的にさらされて暮らしている(たとえば、暴力を振るわないとはいえ両親が絶えず争っている)子どもたちは、眠っているあいだに怒鳴り声が聞こえただけで、脳内でのストレス反応が拡大する場合がある。赤ん坊のストレスレベルを低く保つための第一歩は、子ども生まれると親のストレスが高まる場合が多いことを自覚して、親が自分自身のストレスを減らすことだ。衝動や誘惑、拒絶される経験に対するホットシステムの反応を「冷却」してコントロールするときと同じ戦略が、真夜中に数時間おきに泣いてむずがる赤ん坊の面倒を見るときにも使える。あなたが疲れ果てているときにはなおさらだ。保護者は子どもが生後一年未満のころから、気をそらす戦略を使って子どもの心を苦悩の感情から遠ざけ、気晴らしになる刺激や活動の方に向けてやることができる。そのうちに、子供は自分で注意をコントロールし、自分の気をそらして苦悩を和らげることを学ぶ、これは、実行機能を発達させる基本的bな1ステップだ。親はこの変化の導き手として力を貸すことができる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.294)

具体例がある。

算数の問題が解けることよりも大切なこと。学校の先生が教えてくれない、とても大切なこと。オトノネではこういうことをお母さんたちに伝えられたらいいのかなとおもう。短期的なお勉強のことしか喋れないなら、学校が出してくる成績のことを気にして、目の前のお遊戯会でうまくやることのために、ただすぐに迫っているなにかの成果のために定期テスト対策をするよりも。本当に大切なこと、教えるべきことをはっきりさせて教えるということが、親の務めだと僕は思う。社会が定期テスト対策を強要してくるのだから。家庭で同じことをしてもしょうがない。定期テスト対策人間になってしまう。

あるとき、息子はお気に入りのテレビバッb組を待っていたが、見たいと思ったときに始まらないので、癇癪を起こした。ブルースはマシュマロ・テストの研究について耳にしたことがあり、子供は自分の気をそらせば、ごちそうを待てるとも聞いていたので、我が子で試してみることにした。そこで、息子をなだめ、もっと気楽に待てる方法がいろいろとあることを教えた。自分で気をそらして、ほかに面白いことを頭の中でやって理、実際にやったりするだけでいい、そのうち番組が始まるからと諭したのだ。すると息子はお気に入りのおもちゃを手にしてテレビのそばから離れ、番組が始まるまで楽しそうに遊んだ。ブルースは、息子がこの経験で基礎をそらす戦略を学習したらしいのを見て、あまりのたやすさに驚き、また喜んだ。息子はその後も自分で気をそらして、ほかの状況でも先延ばしに前より楽に対処し続けたのだった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.294)

子供の頃にこうしたことを学ばなかったら、大人になってから学ぶことになる。結構時間がかかる。というか、経済的に不安定な場合、「それどころじゃなくなる」。ここで選択肢が生まれる。とにかく経済的に豊かになるようにして(今の日本の仕組みでいえばよりお金儲けをしている会社・組織の上層部に入り)、大人になってから取り組むか。どうか。いやいや、十分に両立できる。子どものチカラは本当にすごい。大人がしっかりしさせすれば。と、僕はおもっているのだが。いかがだろうか。

大丈夫、前頭前皮質は30歳くらいまでは柔らかいです。
ただ学ぶことを助けてくれる人と出会っていなかったら、、、

学ぶべき段階で学ぶべきことを学べない子が多い。
心の準備ができているのに、環境が与えられない場合。教育をされない場合、もちろん心のその部分は育たない。
育つための言葉や振る舞い、人間になるための絶対必要不可欠な他者からんぼフィードバックがなかったら、心は育たない。
教えるべきことはたしかにある。それを僕ははっきりさせたかった。

エリザベスの例からは、子どもが幼いうちに、”自分には選択肢があってそれぞれの選択肢には結果が伴うのだ”と学ぶのを手助けすることがいかに大事であるかがよくわかる。また、ご褒美をうまく利用すれば適切な選択を促せることも一目瞭然だ。何を誤報ウビにすべきかは、親の価値観と何がその子に効くかによる。(略)子どもたちが発達させる自制戦略は、その子が生まれたそのときから、保育者への愛着を経験するなかで方向づけられる。(略)幼い我が子の欲求を敏感に捉え、求め荒れているときに手を差し伸べて力になってやるのと同時に、子供の自立を促せば、みだりに子どもを支配したり、子供の欲求よりも自分の欲求を重視したりする親に比べて、うまくいく可能性が高いだろう。子どもの自立心と責任感をともに高めるために、自ら決められている選択肢があること、それぞれの選択肢には結果が伴うこと(良い選択→良い結果、悪い選択→悪い結果)を幼いうちに子供が認識するのを、私たちは手伝ってやれる。ジョージ・ラミレスを思い出して欲しい。彼はサウス・ブロンクスで過ごした子供時代に荒れた環境で暮らし、自分を見失って途方に暮れていたが、その後、イエール大学に入学して優秀な成績を収めている。本人によれば、「人生を救われ」て新たな道を歩み始めたのは9歳の時だそうだ。そのときに、じぶんの選択とそれにより導かれる結果には因果関係があることを初めて学んだという。KIPPでの初日に、現実に自分には選択肢があること、決めるのは自分であること、その結果に対処するのは自分の責任であることを理解し始めた。ジョージの選択がしかるべき結果を招くように手段を講じるのは教師の責務だった。ジョージが教え込まれたこと、それは友達に噛み付くことに関してエリザベスが幼い息子に教えた、「噛み付くような子はデザートはもらえない」というのと同じ「イフ・ゼン」の教訓に他ならない。ジョージは、耳を傾けようとしない3年生は学習できないこと、「人に礼儀正しく接すれば、相手も礼儀正しく接してくれる」ことを教訓として学んだのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.296)

親や教師は、子どもの成長のパートナーである。管理者・支配者ではない。代行者では、決してない。

親は、幼い我が子がうまくやっていかれる条件を整えるためにさまざまな力添えができる。たとえばこんな有力な戦略がある。楽しいけれど難しく、しだいに難易度が上がる課題に一緒に取り組むのだ。ピアノを弾く練習をするのでも、積み木やレゴなどで何かを作るのでも、ジャングルジムに登るのでもいい。親にとって難しいのは、子供が必要と感じ、望んでいる手助けをしてやりながらも、子供に自力で取り組ませ、決して課題を引き受けたり代わりにやったりしてはならないという点だ。幼いうちに成功経験を積めば、子供は成功や力量に関して、楽観的で現実に基づいた見通しを持つようになり、自分にとって最後には自ずと満足できるようになる活動を自力で探す心構えを持ったりしやすくなる。(略)私たちは、子どもが不安になったり気落ちしたり逃げ出したりせずに挑戦し続けられるように、ときおり経験する失敗は人生や学びの一部であることを理解して受け入れるように導いてやり、そうした挫折を乗り越える建設的な方法を考えるように励ましてやれる。そして子供に、あとからご褒美をあげると約束した時に、欲求充実の先延ばしを厭わないようになってほしいとおもうなら、子どもとの約束を守るように心がけることだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.297)

実行機能を鍛えるための、熱烈な目標。これしかない。
この熱烈な目標がウワベ、タテマエの時がある。本気ではない。本音ではない。

目標を首尾よく追求するのには自生のスキルが欠かせないが、私たちに方向性や動機付けを与えてくれるのは、目標そのものだ。目標は、人生に対する満足感の重要な決定要素で、人生の初期に選んだ目標は、私たちが達成するのちの目標と、自分の人生について覚える満足感の両方に、驚くほどの影響を与える。人生の物語を推し進める目標は、どのように形作られたかには関係なく、その目標を達成しようとするときに必要とする実行機能に劣らず重要だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.304)

ご褒美をあげるから、こうしましょう。目標を達成したら、ご褒美がある。
こうしましょう。これを続けたら、目標に向かって進み続けたら、毎日ご褒美がある。

どちらがいいだろうか?

日常的に日々、満たされてしまっている子どもは、何か大きなご褒美にしか飛びつけなくなるだろう。
これをしたら、コーラをあげよう。これをしたら、ゲームをしてよい。「ご褒美」が外的である自覚をもって、明確な目標をもって取り組むのがよい。それも子どもとの関わり合いの中で変わってくる。実験。物質的に、満たされ続けているなら、何の意欲も持たなくなるかもしれない。ということは、いつでも注意していいようにおもう。簡単になんでも買い与えていませんか。本当に必要なものは、なんですか。

学校や家庭で教えるべきことと、教えてはならないことがあるように、
特に家庭で。買い与えるべきものと、買い与えてはいけないものの取捨選択をしたほうがいい。
そうした選択の一つ一つが、人間を作り上げる環境であり、自然であり、歴史だ。

磁性に関する研究が発する根本的なメッセージを要約するように言われた時には、私は「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの有名な金言を思い出す。心と脳の時勢についてこれまでにわかったことに基づけば、私たちは彼の主張から、「我思う、ゆえに我自らを変えうる」へと進むことができる。なぜなら、考え方を変えれば、何を感じ、何をし、何になるかを変えられるからだ。もしそれが、「とはいえ、私は本当に変われるのだろうか?」という疑問につながるのであれば、ジョージ・ケリーがセラピーを受けに来た人たちに言った言葉で答えよう。彼らは、自分の人生をコントロールできるようになるだろうかと、彼に執拗に尋ねることがよくあった。すると彼は相手の目をまっすぐ覗き込んで言ったーー「その気がありますか?」と。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.307)

オトノネひろげるシェアぼたん

1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。

マシュマロ

第16章 麻痺した意志
ホットシステムを冷却するためにクールシステムを使える。が、ホットシステムに働きかけることで、ネガティブな感情に対処できるようになる。

ジョン・チーヴァーの1961年の短編「橋の上の天使」は、自制のスキルに優れ、心理的な免疫系が最善を尽くしており、自制心と石の力を働かせようという動機付けがこれ以上ないほど強くてもなお、クールシステムが容易に損なわれるることを教えてくれる。物語の主人公は、マンハッタンに住む羽振りの良いビジネスマンだ。アルバン彼が家に帰るためにジョージ・ワシントン・ブリッジに近づくと、突然、猛烈な雷雨に襲われる。風が吹き荒れ、この大きな橋が揺れているように感じられて、主人公(名前は出てこないので、「ブリッジマン」と呼ぼう)は、橋が崩壊するのではないかという恐ろしい考えが頭に浮かび、パニックになる。彼はなんとか家まで帰り着くが、自分がジョージ・ワシントン・ブリッジだけでなくほかの橋に対しても、身動きが取れなくなるような恐れを抱いてしまったことに間も無く気づく。ブリッジマンは仕事のために橋をしばしば渡らなければならないので、意志の力で恐怖心を克服しようと必死になるが、どんなに懸命に努力してもうまくいかず、しだいに落ち込み、自分はどうしようもない泥沼にはまってくくだけなのだと思われてならなくなる。(略)幸いなことにチーヴァーの物語の中では、「天使」がブリッジマンを助けてくれた。それはある晴れた日のことだった。彼は橋を渡らないで目的地に着く道筋を見つけることができずに、渡らなければならない橋に近づいていくと、再び恐怖に襲われた。彼はそれ以上進むことができなかったので、しかたなく車を道路脇に止めた。そのとき、一人の愛らしい天使のような若い娘が小さなハープを持って近づいてくると、車に乗せてくれるように頼んだ。その長い橋を渡る間ずっと、娘が耳に心地よいフォークソングを歌って聞かせてくれたので、彼の恐怖心は消えていった。ブリッジマンは、ジョージ・ワシントン・ブリッジを私のはやはり用心して避け続けたが、ほどなく、他の橋を渡る行為は日常生活の一部に戻った。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.231)

これは何かと言えば、赤ちゃんが1歳くらいで「社会的参照」をするのと似ている。怖い、どうしたらいいかわからない、そういう時、励ましてくれる、安心させてくれる、そういう「お母さん」がいることで、恐ろしさに慣れ、ついには一人でも渡れるようになるというもの。恐ろしい原因は何か?といわれたら、ない。恐怖は感情であって、焦燥と同じように勝手に出てきてしまうものだ。石橋を叩いて渡る気持ちは、合理的に「この橋は石でできており構造計算が云々」だと理解して渡るのではない。みんな渡っているから安心だ。というので渡る。最愛の「お母さん」が一緒だからわたる。渡ってみたら平気なものだ。よし、今度は橋の上から川でも一緒に眺めてみよう。といって、世界を広げていく。世界を信頼していく。

ブリッジマンの話は、精神や心理の先生方にいわせればトラウマということになる。トラウマをどう克服するか?そのための手法も数多く研究された。有名なのが、EMDRという手法。ひと昔ではその方法が「極秘」だったが、今はどうかしらん。図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法

例えば昔話で怪物が現れる。そこにとある琵琶法師がやってきて、琵琶を奏でる。すると、怪物(その物語では蛇であった)がいろいろと喋り始めて、とりあえずいい方向に物語が進んだ。怪物は理性を超えた情動、人間の手に負えぬ自然を表していることが多い。神秘的であって合理性では太刀打ちできぬものに関わりあう一つの方法が、身体的感覚的なアプローチである。

これは人間恐怖症、人の中に入るのが怖いとか、家の外に出るのが怖いとか、意志や心が麻痺している人たちが世界を広げるための助けになる考えだ。

少しずつ、慣らしていく。恐怖を飼いならしていく。そのうち、恐怖と付き合えるというより、恐怖の人相が変わってくる。そんなアプローチだ。怖い顔をしていると思っていたのに、付き合ってみたら、まぁなんだ。笑えるではないか。という。

ウォルピは、筋肉をすっかり弛緩させて深呼吸をするリラクゼーションのエクササイズをすれば、患者が必要とする、不安と相反する反応が生じやすくなるだろうし、そうすればリラクゼーション反応が次第に恐怖刺激と結びつき、ついには恐怖心が消えるだろうと考えた。この種のセラピーでは、リラクゼーション反応はまず、トラウマとなっている刺激位とほんの少しだけ関係している刺激(たとえば日差しを浴びた穏やかな浅い池に架かる小さな橋の絵など)に結びつけラエッル。そして、こうした穏やかな恐れの元に対する不安が克服されると、患者は次のもう少し恐ろしい刺激を呈示され、それを段階的に繰り返すことで、ついにリラクゼーション反応は恐怖刺激について考えることに、そして最終的には恐怖刺激そのものに実際に近づくことに結び付けられる。この時点で、もしその刺激がジョージ・ワシントン・ブリッジなら、患者はリラックスした状態でその橋を渡ることができる。(略)短編では、いかにもフィクションらしく、橋を渡っているあいだ、愛らしい天使が歌ってくれるという、これ以上ないかたちでそれが実現した。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.234)

愛らしい天使の姿を子どもに見立てることはできないだろうか。

いろんな恐怖心・不安感を煽る世の中で、扁桃体は熱くなっている。
それを毎日、子どもの笑顔でリラックスをしていく。子どもから、橋を渡る(会社に出勤する)ためのリラックスした状態になるためのお守りをもらうかんじ。子どもからたくさんもらっているお母さんは、しあわせだ。

この心の機能の根底にあるものは「模倣」だ。
信頼できるだれか、憧れるだれかを真似たいとおもう。
踏み入れたことのない、不安と恐怖の世界に入ってみようとおもう。
情動によって情動を乗り越える。

よりポジティブな情動によって、「感情の習慣」を変えていく。
たとえばそれが「褒める」ということなのかもしれない(煽てるオダテルのではない)。

このシステムがまだ作り途中の幼少期にさまざまな感情と出会い、それと関わっていくことの大切さをおもう。大人になると、扁桃体の深く深くに、ある種の神経は埋没していくものだから。その配線を変えるための努力を要する。誰かの助けが必要になるのは、小さいときでも、大きくなってからも、かわらない。

時間をかけて、目の前で起こっている小さな出来事を感じて、噛み締めながら、記憶の奥底で眠っている子どもの心を呼び起こして育てなおす。いつだってやり直せる。大人なら、閉じ込めてしまった子どもが心のどこかに幽閉されていると感じる瞬間が、あるかもしれない。

子育てとは、大人が自分の中にいる子どもを、橋を渡るときに現れた天使を、大切にすることなのかもしれない。

子どものおかげで、いろんな人と出会えたり、世界が広がる。
それがよろこびにならないで、一体何になるだろう。

僕が昔、大切な人から教わったことがある。
「嫌な気分になったらどうするの?」僕は聞いた。
「寝る!」と、その人は答えた。

「失敗してくよくよしちゃったらどうするの?」僕は聞いた。
「ヘラヘラしてたらいいんだよ」と、その人は答えた。

寝たり、笑ったり。
大切なことは、どうやら、子どもが全部、教えてくれそうだ。

がんじがらめになった自分の心を解きほぐして、リラックス!!!!!!リラッX!!!!

大人になってからも、大切なことを、学び続ける。

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第17章 疲労した意志

ニューヨークのアッパーイーストサイドにある上品なハンガリー領事館でのレセプションで、疲れ切った聴衆がプログラムの開始を待っていた。長い1日の仕事が終わった夕方遅くだった。40歳ぐらいからずっと年上までの、ほとんどはグレイか黒のビジネススーツを着た「芸術に造詣が深い」人たちが、ロレックスの腕時計やiPhoneを再び見やり、目を閉じ始める。散々待たされた後で、突然、スピーカー0から大音量の音楽がどっと溢れ出した。

今、悪いことをしたいんだ!あとで苦しんだってかまうものか!

寄せ集めのようなバンドがステージ上でその歌詞をいかにも楽しそうにがなり立て、バイオリンやギターを荒々しく演奏し、ドラムやメタル缶を叩き、カスタネットを打ち合わせ、ラトルを振り鳴らした。小さな古びた中折れ帽を被り、ヒッピーのような服装をしたバンドのメンバーは、お互いに呆れるほどふざけあい、いかにもまじめそうなx聴衆にも誘いをかけてきた。ハンガリーに旅行に行きたいという気持ちを掻き立てるために。居眠りをしていた聴衆は度肝を抜かれて、ロックコンサートで若者があげるような興奮した感性と唸り声を思わずあげた。もしそうでなく、プログラムが型通り、ブタペストのすばらしさについてのビデオと講演ではじまっていたとしたら、咳が止まらなくなったふりをしながら出口に向かう人たちがたちまち続出していたことだろう。バンドが興奮を引き起こすまで、聴衆はおのおの自制心の発揮し過ぎで疲れ、そろって深刻な意志の疲労状態にあったように見えた。毎日意志の力を使った努力を続け、ストレスの多い長い1日の仕事をやり通すだけでも、人は披露しうる。聴衆は内なるキリギリスを今すぐ喜ばせてやりたくてうずうずしていたので、羽目を外せ、陽気にやれ、ホットシステムを楽しませろというバンドの誘いを嬉々として受け入れ、そのあいだ、働き過ぎたクールシステムは一休みしていた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.239)

疲労感、意志が消耗した、ホットシステムがうずうずしているという感覚が次にどんな反応を引き出すか。

ある人は寝る。
ある人はゲームをする。
ある人は散歩をする。
ある人は修行を始める。
ある人は無茶食いをする。
ある人は麻薬に手をつける。
ある人は人を殴る。
ある人は人を捕まえて喋りまくる。
ある人は音楽を聴く。
ある人はスマホを手に取る。
ある人は・・・

意志の力は消耗する、ということは実験で証明されているし、それは実際、現実に僕たちのみに起こっている。
僕たちにはご褒美が必要だ。

そのご褒美があまりにも頻繁だと、「自制心がない」とされる。

どうしよう・・・

で、人はこうした自制心をどのように学ぶか。というものだ。

この本では、やはり親を真似る。という研究結果がでているという。
親が厳しい基準で自分にご褒美を出すなら子どもはそれを真似る(子どもに厳しい条件を出して、自分へのご褒美は甘いと、子どもは甘い条件を採用する)。

ご褒美が遠く、遠くにあるときでも、ある一定の条件があれば、それに向かうことができる。
この本では、SEALという特殊任務集団のメンバーになるための訓練は「懸垂が100回できたら、それは次の30回を意味するようになる」といった、永遠とも思える意志の力を必要とするものだ。ご褒美は遠く、輝いている。それに向かって意志の力を働かせ続けられる人もいる。

マークの体験や成功が浮き彫りにしているのは、意志の力について人が暗黙のうちに持っている理論の重要性だ。努力や我慢強さを守り立てて持続させるような、熱烈に達成を望む目標と、人を奮い立たせてくれる手本とさまざまな支援を与えてくれる社会環境とがあれば、意志の力は事実上無限の発達を遂げられる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.252)

赤ちゃんが必死に立ち上がろうとしたり、はいはいをしようとしたとき、向こうでお母さんが笑顔で励ましてくれる。
何かを喋ろうとしたら、お母さんが反応してくれる。
指をさしたら、そっちのほうを向いて、興味を示してくれる。

そうした関わり合いが、赤ちゃんの発達を、成長する意志を、自立する意志を支えている。
人は一人では、なかなか成長できない。

無尽蔵の支援をする。
子どもは自立しようとしている。
(ところで、子どもにとっての1番のご褒美ってなんだろう?たぶん、抱きしめてもらうことだと僕はおもう。高校生になっても、大人になっても、大切なことかもしれない。肌が触れ合う距離で言葉を交わせる人がいることほどのご褒美はないんじゃないか。思春期の女の子にはよくあること。男の子は日本の文化的にそれがなかなかできなくて、うーん。。。。。)

お母さんが一人でできいないこともある。
「社会環境」が大切だ。

だから、僕はれいわ新鮮組の安冨さんに一票をいれます。

オトノネひろげるシェアぼたん

『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』のメモ

これを読んで、ああ本当に、人に伝えるということは、僕にとって、その人を変えることだったんだなとおもう。
僕が伝えたいことはほとんど、誰かにとっては、重すぎる、理解できないことだったようだ。
世界の見方が、僕と、多くの人と、なにかずれているらしい。

だから僕は伝えることをしなくなった。
ただもし困っていたり、つらかったり、不安だったり、変えたい!とおもっているなら、僕は役に立てるとおもっている。
世界を別の見方でみられるから。

年を重ねて、僕もだいぶ優しくなれた気がする。
だいぶ話し方をみんなに合わせられるようになってきた。

僕自身が変わりたいこと満載で、だけどパーソナリティ特性の本とか読みながら自分らしさを認めることも大切だとおもえる。
人の心、2つの脳。

親と子どもの対話。
そういうものの原理を、この本から学べる気がする。

自分自身を動かしていくときにも、僕が誰かに大切なことを伝えたいときにも、役立つだろう。
組織の中でやるのではなく、自分自身に対して。
大事な人に対して。

相手の行動を変えるには、その人の環境を変えなければならない。もちろん環境がすべてではない。アルコール依存症患者を矯正施設に送れば、環境が変わってきっぱりと酒をやめられるかもしれない。しかし彼が施設をさり、その影響から逃れたら?あるいは、営業担当責任者が付いている間は、セールスマンの成績が上がるかもしれない。しかし、そのあとでいつもの環境に戻ったら?相手の行動を変えるには、環境だけでなく、心と頭にも影響を与える日強があるのだ。しかし、一つ問題がある。心と頭はたびたび反発し合うということだ。それも、激しく。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.12)

はしりまわる目覚まし時計
ポップコーン

何かを変えたいなら、像と象使いの両方に訴えかけるべきだ。象使いの担当は計画や方針、象の担当はエネルギー。象使いにだけ訴えかけて象に訴えかけなければ、チーム・メンバーは頭では理解できても、やる気を出さないだろう。象にだけ訴えかけて象使いに訴えかけなければ、熱意はあっても、方向性が定まらないだろう。どちらも致命的な欠陥だ。やる気の内臓と頭を空回りさせる象使いがコンビを組んでも、何も変わらない。しかし、象と象使いが協力して動けば、たやすく変化を引き起こせる場合もあるのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.16)

ストレス環境で心は消耗する。

大学生には、一筆書きで複雑な図形を描くというパズルが出題され、試行錯誤でできるように何枚もの髪が配られた。実のところ、パズルはどうやっても解けない仕組みになっていた。研究者は、大学生がさじを投げるまえに、むずかしくてストレスのたまる課題をどれだけ長く続けられるかを確かめようとしていた。すると、「誘惑のない」学生、つまりチョコチップ・クッキーを我慢せずに済んだ学生は、課題に19分を費やし、問題を解こうと34回の妥当な試行錯誤を繰り返した。一方、大根を食べた学生はそれよりも我慢がたなかった。わずか8ふんであきらめてしまったのだ。(略)実は、セルフコントロールを使い果たしてしまったのだ。心理学者たちは、これと似た数々の研究で、セルフコントロールが消耗資源であることを発見している。(略)「セルフコントロールは消耗資源である」という認識は重要だ。なぜなら、「セルフコントロール」といっても、悪い習慣(喫煙、クッキー、アルコール)と戦う意志力のような狭い意味ではないからだ。より幅広い範囲の自己管理を示している。
(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.18)

セルフコントロールを消耗しているとき、人々がすり減らしているのは心の筋肉だ。これは、発想豊かに考えたり、集中したり、衝動を抑えたり、ストレスや失敗に耐え抜いたりするのに必要なものだ。つまり、大きな変化を引き起こすのに必要な心の筋肉そのものを消費しているといってもいいのだ。したがって、怠け者で頑固だから変わるのがむずかしいというのは、完全にまちがっている。実際にはその額だ。変わるのがむずかしいのは、体力を消費しているからだ。これこそ「変化」の二つ目の意外な事実だ。怠けているように見えても、じつは疲れ切っている場合が多いのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.20)

手袋の山

やる気のない像が変化の邪魔になることもあるのは事実だが、象使いにも象使いなりの問題がある。象使いは頭でっかちで、分析好きで、頭を空回りさせがちだ。象使いが進む方向に迷えば、像はその場をぐるぐると回ってしまうだろう。そそいて、これから説明するように、この象使いの性質から「変化」の三つ目の意外な事実がわかる。つまり、抵抗しているように見えても、実は戸惑っている場合が多いということだ。ウェストバージニア大学の保健の専門家、スティーブ・ブースーバターフィールド教授とビル・リーガー教授は健康的な食生活の推進方法を検討していた。過去の研究から、人々が行動を変える可能性が高いのは、求められている行動がとびきり明確な場合であることがわかっていた。しかし、ざんねんあがら、「健康的な食生活を送る」はまったく明確とは言えなかった。(略)では、アメリカ人に低脂肪乳を飲ませるにはどうすればよいか?冷蔵庫においてもらえばいい。ふざけているのわけではない。人間は、家にあるものを飲むからだ。(略)したがって、問題は思うよりも単純なのだ。飲食行動を変える必要はない。購入行動を変えればいいのだ。(略)公衆衛生キャンペーンのメッセージはたいてい退屈だが、低脂肪乳キャンペーンはパンチがあって具体的だった。ある広告では、コップ一杯のホールミルクにはベーコン5枚分の飽和脂肪が含まれていると訴えた。記者会見では、地元の記者に試験管入りの脂肪を見せた。約2リットルのホールミルクに含まれる脂肪の量と同じだ(象へのアピールに注目してほしい。象は「うわっ、気持ち悪い!」と反応するはずだ)。(略)人を変えたければ、とびきり明確な指示を与えなければならないということだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.25)

低脂肪牛乳を飲もう!

自立して選択する。

積極的自己責任をもつ。外向性
多様性を認め尊重する。調和性

彼は象使いに方向を与えた。目的地はとびきり明確だった。

「”ある程度の命”でもないし、”できるだけ早く”でもない。数は10万。期限は2006年6月14日の午前9時きっかりです」。しかし、「もっとがんばろう」というわけにはいかない(「もっと県k脳的に行動しよう」と「低脂肪乳を買おう」の違いを思い出して欲しい)。そこで、彼は「呼吸器をつけた患者の頭を持ち上げる」といった6つの具体的な行動を提案した。命を救うことにつながるとわかっていたからだ。彼は、あれこれと行動を変えるのではなく、6つの活動にはっきりと標準を絞ることで、象使いの体力を奪わないようにしたのだ。二つ目に、彼は象にやる気を与えた。変化の必要性を感じさせたのだ。長州の多くは救える命があるという事実をすでに知っていたが、知識だけでは不十分だった(ジョン・ステグなーの会社の重役も、山積みの手袋を目の前にして初めてやる気を出したのだ)。バーウィックは、知識だけで終わらせないために、医療ミスで娘を失った母親を聴衆と対面させた。また、バーウィックはプレゼンテーションに出席しなかった人々にもやる気を与えるすべを講じていた。彼は「医療を一変させよう」とか「医療に総合的品質管理を導入しよう」と訴えたわけではない。「10万人の命を救おう」と訴えたのだ。これは万人の象に響く言葉だ。三つ目に、彼は道筋を定めた。病院が変化を受け入れやすくなるように工夫した。いわば、バーウィックは医療改革のサポート・グループをつくりあげたのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.35)

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ブライトスポットをみつける

解決思考両方では、潜在的な問題を見つけるために、共通のテクニックを利用する。初回のカウンセリングの初めに、セラピストは患者の問題を訪ねた後、「奇跡の質問」を投げかける。「ちょっと変な質問をしてもいいでしょうか?今夜、ベッドに入ってぐっすり寝るとしましょう。夜中、眠っているときに奇跡が起こり、あなたがここで相談した問題がきれいさっぱり解決したとします朝起きたときに、”何かが変わった。問題がなくなっている!”と思う最初の小さなサインはなんですか?」(略)ミラクル・クエッションでは、奇跡そのものを説明させるわけではない。奇跡が起こったら、どのようなサインがあらわれるかを答えさせるのだ。(略)セラピストが伝えようとしているのは、患者が自分自身で問題を解決できるということだ。実際、患者は少なくとも一定の場面では、すでに問題を解決しているという証拠を挙げている。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.53)

ブライトスポット

マーフィーは、問題のある幼少期を掘り起こしたり、怒りや頑固さの原因を探し出したりしようとはしなかった。マーフィーにとって、そのおゆな情報は、ジェリー・スターニンの言葉を借りれば「真実だが役に立たない」情報だったのだ。もうひとつ、マーフィーが避けたのは、ジェネンテックのような反射的な疑いの眼差しだ。頭の中でこんな反論を並べるのは簡単だったはずだ。「スミス先生は他の先生よりも愛想がいいだけだ」。「彼女の授業は簡単なのだろう」。「教師が問題児のために自分のやり方を変える必要はない」など。そう考える代わりに、マーフィーはブライト・スポットを見つけ、それを信頼したのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.62)

ブライトスポットを探すということは、「いまうまくいっている部分は?それを広めるにはどうすればよいか?」と自問することにほかならない。当たり前じゃないかって?しかし、現実の世界で、この当たり前の疑問が尋ねられることはめったにない。代わりに、私たちは「何が壊れているか?それを治すにはどうすればよいか?」というように、問題に目を向けた疑問を唱える。(略)感情を表すもっとも基本的な24の英単語のうち、ポジティブな単語は6つしかないのだ!さらに詳しい研究では、心理学者が感情をあらわすすべての英単語を分析した。すると、全558単語のうち、ネガティブな単語は62%で、ポジティブな単語は38%しかないことがわかった。これはショッキングな差だ。古い都市伝説によれば、エスキモーは雪に関して100種類の単語を使い分けているという。まさに、ネガティブな感情は、私たちにとってエスキモーの雪のようなものなのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.65)

この「悪は善よりも強い」という方よりは、変化を引き起こすときに致命傷になる場合もある。これを「問題への注目」とでも予防。こんな場面を考えてみてほしい。ある日、あなたの子供が成績表を持って帰ってきた。5が一つ、4が4つ。1が一つ。親として、どこに時間をかけるか?この仮説は、作家のマーカス・バッキンガムがたてたものだ。彼はほとんとの親が1に目を向けると述べている。それも無理はない。ほとんどの親は「何か問題がある。解決しなければ。家庭教師を予防。それとも、罰を与えようか。この科目の成績が良くなるまで、外出禁止にしよう」と言うだろう。その代わりに、「すごい、この授業で5をとったのね。この科目があなたの強みね。どうやって伸ばそう?」と言う親は滅多にいない。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.68)

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大事な一歩の台本を書く

選択肢が増えると、それがどんなによい選択肢であっても、私たちは凍りつき、最初の計画にもどってしまう。このケースでは、つらくて傷の残る人工股関節置換手術だ。この行動はどう見ても非合理的だ。しかし、それが人間なのだ。意思決定は象使いの担当だ。そして、意思決定には入念な自己管理とセルフコントロールが必要なので、象使いの体力に負担がかかる。象使いは、選択肢wお与えられるほど披露していく。買い物が、買い物が、その他の気軽な活動と比べてはるかに疲れると感じたことはないだろうか。その理由はもうお分かりだろう。選択肢のせいだ。(略)グルメ食料品店の店内。(略)二十四種類のジャムを展示した日の方が、多くのお客さんが試食に立ち寄ってくれた。しかし、いざ買う段となると、なかなか決断を下せない。その結果、六種類のジャムを展示した日のほうが、10倍もジャムが売れた。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.72)

惰性と意思決定の麻痺のせいで、人々は古い習慣から抜け出せない。したがって、人々を新しい方向へと進ませるには、とびきり明確な誘導が必要だ。だからこそ台本を書くことが重要なのだ。(略)とはいえ、すべての行動に台本をつけることはできない。それはまるで、チェスの17て目を予言するようなものだからだ。重要なのは、大事な一歩だ。ウェストバージニア州の研究者がキャンペーンの対象を牛乳に絞ったのを思い出して欲しい。牛乳は一般的な食生活で最大の飽和脂肪の摂取源だからだ。研究者は、パン、炭水化物、バター、ポテトチップに関しては何もアドバイスしなかった。「低脂肪乳に切り替える」という大事な一歩の台本を書いたのだ。同じように、ベーリングの4つのルールは、財務的な優先順位づけにマトを絞っている。彼には長期的な計画を練る余裕はなかった。(略)大事な一歩に専念することで、彼は従業員の方向転換を促したのだ。(略)象使いを疲れさせ、変革活動を危険にさらすのはあいまいさだ。そして、ベーリングはあいまいさを排除した。投資の意思決定をするときには、彼のルールに照らし合わせれば正しい判断がわかった。この手法のパワーを見るために、再び医師と股関節炎の患者の例に戻ってみよう。病院の責任者が「大事な一歩」の台本を書いたとしよう。そして、そのひとつが「メスは最終手段としてのみ用いる」だったとしよう。このガイドラインを設けていたら、医師の意思決定に大きな変化が生まれていたことはまちがいない。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.79)

相手に行動を変えてもらうには、「新しい行動」をはっきりと説明する必要がある。新しい行動が明らかだと思い込んではいけない。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.86)

ファンダーバーグのチームの目的は、この親たちを変え、虐待をやめさせることだった。もし、考えが甘いとか於曽味がないと感じたなら、あなたはファンダーバークの仲間だ。彼女自身も、この研究に取り掛かったとき、同じ心配を抱いていたのだ。彼女は、親子相互交流両方(PCIT)と呼ばれる手法を実践している。その目的は、虐待の特徴である「強制とストレス」の悪循環を断ち切ることだ。PCITの第一段階では、親に課題が与えられる。「1日に5分間、子供と遊んでください。ただし、ルールがあります。子供に100%注目を注ぐこと。電話に出るのは禁止。ABCを教えてもいけない。ただ、子どもを楽しませるのです」。親たちは、5分間で何ができるのかといぶかしむ。「何をいっているのよ。1日の全ての時間をこの子に捧げているっていうのに」とある親は言った。(略)PCITをうけた親は20%しか虐待を繰り返さなかった。PCITは問題をとりのぞいたわけではない。実際、親の五人に一人は再び子供を虐待したのだ。しかし行動の変化という観点から見れば、驚くべき成果だった。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.90)

生徒たちは、印象的なスプレッドシート、図表グラフを用意していた。しかし、それだけではなく、複雑なデータを以外でシンプルな事実で言い換えていた。ハワードの住民が地元で使うお金を10%増やすだけで、地元の経済を700万ドルも押し上げられると計算していた。聴衆は感銘を受けた。そして、プレゼンテーションは期待以上の効果を上げた。生徒たちはマイナー郡の「最初の一歩」の台本を書くと、地元の住民はすぐさまその期待に応え、マイナー郡でお金を使うよう心がけた。一年後、サウスダコタ州の税務課は驚くべき数値を発表した。マイナー郡で消費されたお金が生徒の期待を二倍以上も上回り、1560万ドルも増えたのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.98)

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目的地を指し示す()mokutekichino ehagaki

クリスタル・ジョーンズは、子どもにやる気を与えるには子どもの言葉を使うべきだと理解していた。そこで、学年度の初め、彼女はクラスの目標をこう宣言した。「今年度の終わりまでに、3年生になりましょう」・彼女はこれなら生徒全員の心をつかめると踏んでいた。(略)この目標は粘性の心理にぴったりだった。1年生は、3年生がどんなものかを知っている。大きくて、頭が良くて、かっこいい。オピンピック選手の優雅さや力強さに惚れ惚れしているときに誰もが感じる気持ちだ。1年生は3年生に対してそれと同じ気持ちを抱いているのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.102)

変化を引き起こす場合には、もっと身近な目標を立てる必要がある両親、中間管理職、社会運動家でも目指すことができ、数十年ではなく数ヶ月や数年で取り組める目標が必要なのだ。このような近い将来に実現できる鮮明な未来像を「目的地の絵はがき」と呼ぶことにしよう。本書でまだ述べていなかったのはこの点だ。これまで、ブライト・スポットを探す重要性や、象使いに行動のしかたを教える方法については説明してきた。しかし、「私たちは最終的にどこに向かっているのか?」、「目的地はどこなのか?」というごく基本的な疑問についてはまだ触れていない。クリスタル・ジョーンズは、「もうすぐ3年生になれるわよ!」というすばらしい「目的地の絵はがき」を描いた。彼女が生徒に掲げた目標は、象使いに方向を教えただけではない。象にやる気も与えた。心を揺さぶり、感情に火をつけた。コリンズトポラスは、もく方には感情的な要素を盛り込むべきだと述べている。BHAGは壮大で魅力的なだけではいけない。「心に響く」ものでなければならないのだ。1年生にとって、9ヶ月で3年生になれるというのは、まさに心に響く目標なのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.105)

魅力的な目的地を描くことで、象使いの大きな弱点の一つ、つまり分析に迷い込んでしまうという弱点を正すことができる。変化の場面では、私たちはたいてい直感的に相手の象使いにデータを見せ、「これが変化の必要な理由です。この方、グラフ、チャートを見ればおわかりでしょう」と言おうとする。象使いはこれが大好きだ。データを検討し、分析して穴を指摘し、あなたの出した結論について話し合おうとする。象使いは「実行」段階よりも「分析」段階に満足を抱くことも多いが、それは変化にとっては危険だ。しかし、魅力的な目的地を指し示した場合はどうだろう。象使いは、その強みを生かして、「目的地にたどり着く方法」を探し始める。たとえば、エッサーマンが「「ひとつ屋根のした」のビジョンを宣言したことで、チームはその意味をじっくりと考え始めた。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.111)

「二度とチートスを食べない」や「絶対にワインは飲まない」といった白黒の目標は、まったく心躍るものではないという点に注意。100%縛られてしまう。さらに、目的地のビジョンを描くというよりは、行動の台本を書くものだ。では、「目的地の絵はがき」が持つ感情的なパワーと、正当化を許さない「白黒の目標」の強みを組み合わせることはできるのか?できる。その方法を説明するために、BPの事例を見てみよう。1991年、BPは白黒の目標を発表した。それは、石油業界で長年働いてきた従業員たちを驚かせた。「二度とチートスを食べない」の数十億ドル版だったからだ。(略)当時、BPの探査部門を率いていたイアン・ヴァンは、言い逃れの余地をなくす方法を考案した。彼は「空井戸を掘らない」という新たなビジョンを掲げた。ひとつもだ。採掘者は怒った。無理な目標だと考えた。空井戸を掘るのは、油田ビジネスでは日常茶飯事で避けようのないことだった。先ほど説明した通り、空井戸を掘る確率は成功の4倍もあった。いまや、ヴァンはそれを失敗とみなし始めたのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.120)

今ここでできること

目的地の絵はがきを適切な行動の台本で支えるというのが、成功のレシピだ。(略)あなたがスタート地点にいるなら、中間地点に頭を悩ませないようにしよう。中間地点は、たどり着いたときには風景が変わっているものだ。適切なスタートと適切なゴールを見つけて、あとは歩き始めればいいのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.128)

彼は自分お手に負える物事に専念した。「目的地の絵葉書」を描き(「IIに載るか死を選ぶか」)、従業員に好スタートを切らせるための「行動の台本」を描き、適切なスタートとゴールを描いた。その結果、道中でアムジェンのチャンスが浮かび上がったとき、チームにはチャンスに飛びつく準備が整っていたのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.134)

これまでのまとめ
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これまで、本書では象使いのさまざまな強みと弱みを学んできた。象使いの強みは先見性だ。長期的な利益のために、短期的な犠牲を払うこともいとわない(象使いが象とたびたび衝突するのはそのためだ。象は大抵その場の満足を選ぶ体)また、象使いは賢い戦術家でもある。地図を渡せば、完璧に従うだろう。しかし、象使いのさまざまな欠点もみてきた。体力には限界があり、あいまいさや選択肢に直面すると麻痺を起こし、解決策よりも問題ばかりに目を向ける。しかし悪い部分ばかりではない。象使いの強みは大きく、欠点は緩和できる。あなたが自分自身の象使いや、変えたい相手の象使いに訴えかけたいと思うなら、戦略はシンプルでなくてはならない。まず、ブライト・スポットを手本にしよう。まわりと違って栄養の足りていたベトナムの子供達や、高い売上をあげたジェネンテックの営業担当を思い出して欲しい。まわりを観察すれば、ほかよりもうまくいっている部分を見つけることができるだろう。失敗にこだわってはならない。むしろ、成功を観察し、広めるべきなのだ。次に、象使いに方向を教えよう。つまり、スタートとゴールを明確にするのだ。象使いに目的地の絵はがきをプレゼントし(「もうすぐ3ねんせいになれるわよ!」)、大事な一歩の台本を書こう(「低脂肪牛乳を買おう」)。この二つを行えば、象使いは変化を引き起こす準備万端だ。そして、怠け者で扱いづらいパートナー、つまり象と戦い続ける武器を手に入れることができるのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.135)

感情を芽生えさせる
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コッターとコーエンは、変革に成功した大半のケースで、変化は「分析し、考えて、変化する」の順ではなく「みて、感じて、変化する」の順序で起こることに気づいた。つまり、何らかの感情を芽生えさせる証拠を突きつけられた時、変化が起こるのだ。それは気がかりな問題かもしれないし、解決の一筋の希望かもしれない。あるいは、我に変えるような現実の描写かもしれない。いずれにせよ、漢書レベルであなたを揺さぶる何かだ。つまり、象に訴えかける何かといってもいい。(略)分析的な主張で惰性や無気力と戦うのは、溺れかけている人に消火器を投げ込むようなものだ。問題と解決策が一致していないのだ。しかし、人々が変化に力を貸さない理由を見分けるのが難しい場合もある。頭で理解していないからなのか、それとも心に響いていないからなのか?訴えかける必要があるのは象なのか、それとも象使いなのか?その答えはいつも明白とは限らない。専門家にとってさえも。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.146)

「マーケティングの観点から考えてみよう。マーケターは、短時間のテレビCMで視聴者の行動を変えることができる。しかし、それは情報のおかげではない。アイデンティティに訴えかけているからだ。”BMWを変えば、こんな人間いなれる。こういう休暇を取れば、エコな人間になれる”という具合にね」コールは理解し始めた。若者が投薬計画に従わなかったのは、知識の問題ではなく、感情の問題だったのだと。「血虚公のところ、アイデンティティの問題なのです。集中的な化学療法を体験すると、がんによって命を吸い取られた気分になります。すると、子供たちは考えるのです。”もとのボクに戻りたい”と。もう”病気の子ども”ではいたくないとおもうのです」と彼は話した。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.150)

自己欺瞞

変化すべき理由を非の打ち所がないくらい合理的に説明しても、人々は行動を変えない。(略)なぜ頭で考えるだけでは、新しい行動へと突き進むことができないのか?なぜなら、私たちはときに自分自身の考えさえ信頼できないからだ。(略)否定的な言葉を浴びせることなく、人々の肯定的幻想を振り払う方法はあるだろうか?(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.158)

人が変わるのは、危機に背中を押されたときだけだという話をよく聞く。つまり、恐怖、不安、危機感がなければ変わらないという話だ。組織の変革について示したハーバード・ビジネス・スクールの二人の教授によると変化を起こすのがむずかしいのは、人が過去にうまくいっていた習慣を変えたがらないからだという。「切迫した危機感がなければ、社員たちは何も変えようとしない」とふたりは記している。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.163)

ネガティブな感情が思考を狭めるのとは対照的に、ポジティブな感情には思考や行動の幅を「広げて養う」効果があるとフレデリク村は主要する。たとえば、喜びを抱いている時は、遊びたくなる。遊びには台本があるわけではなく、しようと思うものごとの幅を広げる。あれこれと考えて、新たな活動を探したり発明したりしたくなる。さらに、喜びは遊びを促すため、資質やスキルを養うことにつながる。たとえば、子供は混沌とした遊びを通じて身体能力を養う。おもちゃ、ブロック、クレヨンを使って遊ぶことで、モノの使い方を覚える。動物や英雄になりきることで、他人とのつきあい方を学ぶ。「興味」というポジティブな感情は、好奇心の幅を広げる。興味を持つと、それにかかわったり、新たな物事を学んだり、新たな体験をしたりしたくなる。そして、新しい考え方に心を開くようになる。個人的な目標を実現した時に湧き上がる「自信」というポジティブな感情は、将来の活動の幅を広げ、さらに大きな目標を追い求めるきっかけになる。私たちが組織や社会で目にする大きな問題のほとんどは、あいまいで変化し続けている。人々に困難な計画を理解させて本気で取り組んでもらわなければならない「燃える足場」のような状況ばかりではない。より大規模であいまいな問題を解決するには、柔軟な心、創造性、希望をはぐくむ必要があるのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.168)

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変化を細かくする

あなたが変化の主導者なら、まずはチームのカードに推せるさいしょのふたつのスタンプを探すべきだ。新しくなるてんや変わる点ばかりに注目するのではなく、すでに達成しているものごとを知らせよう。たとえば、「チームのみなさん、確かに組織構造は変わりますが、実は過去の案件で一度経験があるはずです」とか「20キロもやせるのはたいへんだと思うけど、炭酸を飲むのはもうやめたんだから、それだけでも今年中に2〜3キロは落ちるんじゃないか?」という具合だ。ビジネスでは、「ハードルを上げよ」という決まり文句がある。しかし、気乗りしない象にやる気を与えたいなら、それは得策とはいえない。むしろハードルを下げるべきなのだ。(略)やる気のない象を動かしたいなら、「変化を細かくする」べきなのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.177)

キッチン・タイマーを用意して5分間にセットする。次に、家の中で最悪の部屋に行く。ゲストには絶対に見せられないような部屋だ。そして、タイマーをスタートさせたら、手当たり次第に片付けて行く。タイマーがなったら作業は終わり。なんの未練も必要なし。悪くないだろう?これは象向けのトリックだ。像は短期的な見返りのないものごとをするのを嫌がる。象に重い腰を上げさせるには、そんなにきつい仕事ではないと思わせる必要がある。「ほら、たった5分なんだから、そんなにきついはずがないだろう?」(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.179)

セラピストたちは、患者にとって奇跡は遠く見えるため、目的地に着くまでやる気と希望を与え続けなければならないことを知っている。そこで、奇跡に対する進展の度合いを数値化する方法を考案した。それが「ミラクル・スケール」だ。数値の範囲は0〜10で、10が奇跡。初回のカウンセリングで、患者に現在の自分のスコアを尋ねることもおおい。患者の多くは2波と答える。すると、セラピストは興奮気味に「すごい!もう奇跡まで2割も進んでいるじゃないですか!」と答えるのだ。どこかで聞いた言葉だって?そう、セラピストは患者の洗車カードにスタンプを二つ押しているわけだ。カウンセリングを続ける間、セラピストは患者が報告するスコアを記録し続ける。セラピストは、勝利を重ねるたびにほめるよう訓練されている。(略)1から2へ、2から3への進歩を祝うことで、次の段階に進む自信がもてるのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.193)

特に練習の成果が現れた非には、チーム全員を集めて、このように言ったものです。「今日はよくやった。本当に実りある1日だった。ならば、明日はもう一歩、カンンペキに近づいたチームを見せてくれ。それができれば、日曜日のゲームへの準備は万端だ」すぐに手の届く小さな目標でも、一度達成されると、「自分たちにもできるのだ」というメッセージが頭にインプットされるものです。そしてまた、新しい目標を掲げる。そうしているうちに連敗から脱し、常勝チームへと変貌して行くのです。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.196)

=========」
人を育てる

デイビスとウッドは、病院に残っている看護師たちは看護という職業にたいへん忠実であることに気づいた。つまり、満足はアイデンティティの問題だったのだ。看護師という職業の尊さが働きがいを生み出していた。これを知った病院経営者たちは、看護師のこのアイデンティティを養うべきだと気づいた。例えば、優れた看護実績の評価方法を検討したり、看護という仕事のすばらしさを強調する新たなオリエンテーション・プログラムを考案したり、看護師が知識やスキルを磨くための指導プログラムを開発したりした。変化の最初の兆しは、年一回の従業員の満足度調査に現れた。看護師の満足度スコアがさまざまな分野で著しく上がったのだ。(略)影響はこの調査結果に止まらなかった。翌年の離職率が30%も減少したのだ。さらに、この成功は思わぬ飛躍を見せた。地域の調査で、ラブレース病院の患者の満足度評価も向上したのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.210)

この「発明家」というアイデンティティは企業の成功や従業員の満足に火をつけたが、そもそもつくられたものだ。ブラジラータの従業員は生まれつき「発明家」だったわけではない。「発明家」というアイデンティティが与えられ、従業員はその響きを気に入った。それは着てみたくなるマンとだった。発明家というアイデンティティがプライドや強みの源になったわけだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.213)

「頭がいいのね!」や「バスケットボールが上手だな!」という褒め方は、こちこちマインドセットを助長させる。しなやかマインドセットでは、「あのプロジェクトでずいぶんとがんばったわね!」、「コーチの話をよく聞いていたな。今日のジャンプシュートではちゃんとボールの真下にひじがあったぞ」というように、生まれつきの能力ではなく努力を褒める。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.222)

中学校時代はこちこちマインドセットの子供にとっては、ターニングポイントだ。ドゥエックは、小学校ではこひこちのマインドセットの子供としなやかマインドセットの子どもにそれほど能力差はないものの、中学校に入るとこちこちマインドセットの子供の成績がすぐに落ちはじめ、それから数年で下がり続けることを発見した。ドゥエックの研究対象になった子供たちは、「僕はバカだから」とか「私は数学がダメだから」というように、成績の低下についてこちこちマインドセット特有の言い訳をすることが多かった。注目すべきは、子どもたちが自分の能力を普遍の性質のように語っている点だ。まるで、「私の目は茶色い」と言っているようなものだ(他にも、「先生の教え方がへたくそだから」とか「数学の教師はデブでいやなやつ」など、人のせいにする子どももいた)。(略)しなやかなマインドセットを教えた生徒には、脳は筋肉と同じで練習すれば鍛えられると伝えた。(略)なかには劇的な変化を遂げた生徒もいた。『「やればできる!」の研究』のなかで、ドゥエックはこう述べている。「ある日、研究に参加してくれる生徒たちにしなやかマインドセットについて説明していると、突如、ジミーという、どうにも無気力で投げやりな生徒が目に涙を浮かべてこう言ったのだ。”ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね”。その日を境にしてジミーはがらりと変わった。夜遅くまで宿題と格闘するなんて、生まれて初めてのことだった。そうやってきちんと早めに宿題を提出するようになったので、返されてから間違いを見直すこともできるようになり、ジミーはめざましい進歩を遂げていった。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.224)

変化の時期には、自分自身や相手にも言い聞かせなければならない基本的な事実がある。脳や能力は筋肉と同じで練習すれば鍛えられるという事実だ。私たちはスケートボーダー、科学者、看護師として生まれるわけではない。スケボーの乗り方、科学の手法、病人の看護方法を学ぶ必要がある。そして、そのアイデンティティに従って行きたいという願いが、自分自身を変える意欲につながるのだモリー・ハワードのエピソードからわかるのは、新しいアイデンティティの向上心としなやかマインドセットの粘り強さを組み合わせれば、驚くべき偉業を実現できるということだ。人を育てるとはそういうことなのだ。この行動の変化は命をも救った。飲酒関連の交通事故の死亡者数は1988年の2万3626人から1992年の1万7858人まで減少した。ウィステンはテレビのパワーを利用して社会規範を疑似的に作り出した。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.236)

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環境を変える

人間の問題に見えても、実は環境の問題であることが多い。(略)私たちはたびたび環境のパワーを見落とす。スタンフォード大学の心理学者、リー・ロスは、さまざまな心理学研究を調査し、有名な論文をまとめた。彼はその論文のなかで、人は他者の行動のもとになる環境的要因を無視する傾向があると述べた。彼はこの根強い傾向を「根本的な帰属の誤り」と名付けた。この誤りが生まれるのは、私たちには人々の行動を「置かれている状況」ではなく「人間性」に帰属させる傾向があるからだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.242)

環境を変えるというのは、適切な行動を取りやすくし、不適切な行動をとりにくくするということだ。実にシンプルだ。たとえば、アマゾンのワンクリック注文について考えて欲しい。電話をかける10分の1のてまで、新しい本屋DVDが変える。これこそ瞬時の満足だ。アマゾンおウェブサイト・デザイナーは、望ましい行動(サイトでお金を使ってもらうこと)を少しラクにし、購入のハードルを人間尾限界まで下げた。そうすることで、何百万ドルもの増収を生み出したのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.246)

環境を変える、という考え方が不定型発達の子供達へのアプローチとして考えられている。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~koyanosato-sn/pdf/shienbu008.pdf

「問題行動」が起きるきっかけを減らして、その分、「いい行動」を増やすことにエネルギーを注ぐ。
そういう方法だ。できないことを叱り続けていても、しあわせは育たない。
できないことはできない。今は、今は!

脳が発達するにしたがって、できることが増える。
「自己肯定感」「自信」が強くなることで、できることが増える。
そういうアプローチが、ABC応用行動分析という考え方だ。

最近僕も生徒と喧嘩した。
「えんぴつちょうだい」と言われた。
高校生だ。
頭の中でいろいろ考えてしまった。
で、結局、その子は怒った。

あー、その子の「今」を僕はトレースできなかったなぁと反省しながら、その後、鉛筆を持ってくるという行動がとりやすい状況をつくろうとおもった(担任の先生は多分言葉で持ってくるようにということだけしか言わないだろうが。今度声をかけてみよう。うまくいったらいいな)。鉛筆を持ってくるための工夫ができる、そうして別のことにエネルギーが注げる。本人にとっても、周りにとっても、ハッピーがふえる。

そういう考え方だ。

タイムシートを紙で提出している従業員にオンライン・ルールを利用しない理由を尋ねた。紙の方がラクだからだと従業員はいう。疑問を持った調査員は、その従業員たちにオンライン・タイムシートを入力してもらい、作業を観察させてもらった。その結果は驚くべきものだった。オンライン・ツールに内蔵された「ウィザード」が表示されるや否や、多くの従業員がぶつぶつとお文句を言い始めた。皮肉なことに、そのウィザードはフォームの入力を支援するためのものだった。マイクロソフトオフィスで手紙を書いているとやたらと作業を手伝おうとしてくるわずらわしいイルカを思い浮かべて欲しい。しかも、その”手伝い”を受け入れるしか選択肢がないとしたら?そこで上司はフィザードを削除し、フォームに直接ジャンプできるようにした。すると利用率はすぐに上がった。そして数週間後には、全員がオンライン・ツールを使うようになっていた。「反抗しているわけではなかったのです」とブレグマンは話す。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.248)

「その子にとっての環境」をみることで、(子どもの環境を作り出す絶対的存在となりがちな)大人は、子どもの成長を助けることができる。この本に一つの例が書いてあった。「授業に遅れてくる子がいる。そこで教室の真ん前にふかふかのソファー席をつくった。すると、その席が取られてしまう前に、遅れずに来るようになった」もしかしたらその子は、机というものが、椅子というものがいやで嫌でしょうがなかったのかもしれない。だとしたら、椅子を変えるコストと、授業をうける利益を考えれば、これも一つの答えにしていいとおもう。

僕も、大抵の椅子が合わないから椅子の上であぐらをかくことがおおい。姿勢保持のために、ぶよぶよしたボールになら座れる子もいる。

この本では他に、看護師が注射のミスをなくすために「投薬中にはチョッキを着て投薬中だから集中させてねというサインにする」試みが行われた。これを実践した結果は次のよう。

筆記アンケートに書かれた看護師の言葉は痛烈だった。「ミスを犯す可能性がありますと自分から訴えているようなもの」。「劣等生のとんがり帽をかぶらせrている気分。自分じゃ何もできないバカな人間とおもわれそう」。これにヘルメットと三角コーンがあれば交通局で働ける」。「ずいぶんと痛烈でした」とリチャードは話す。全般的に不評だったので、リチャーズはもう少しでアイデアを撤回して別の案を試すところだった。そのとき、データが帰ってきた。半年の試験期間で、ミスは47%も減っていた。「息をのみました」とリチャーズは語った。データが出ると、嫌悪感は薄れて言った。この結果の感銘を受けて、「チョッキは必要ない」と主張したひとつの病棟を除く全病棟が投薬直帰を採用した。すると、病院全体が導入を開始した最初の月に、ミスは20%も減った。ただし、ある病棟だけはミスが増えた(どの病棟かはおわかりだろう)。全員に嫌われても効果のある解決策は、まちがいなく巧妙な解決策だといえる。実際、あまりにも効果的だったため、嫌悪は熱意に変わっていった。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.256)

航空機のコクピットの「無菌操縦席」という規則では、上昇中か下降中かにかかわらず、航空機が一万フィート未満を飛んでいる場合は、飛行に直接関わる内容を覗き、コクピット内での会話を禁止するという規則。

こうした規則をつくることでも、集中力、効率を上げられる環境がつくられる。

自分自身を行動を変えるときは、自分にセルフコントロールを課すよりも、環境を変える方がかならずうまくいくのだ。たとえば、第1章のポップコーン実験を行なったブライアン・ワンシンクは、ダイエット者たちから絶大な支持を受けている。ダイエットをする人々は「食器類のサイズを制限せよ。小さな皿、ボウル、コップをつかいなさい」という彼の基本アドバイスを忠実に守っているのだ。大きな皿を使うと、食べ物を皿いっぱいに盛り付けなければならないという義務感が生まれることをワンシンクは知っている。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.258)

目の前に宿題があれば、やってしまう、という子もいるだろう。
その宿題のせいで、何か悪いことが起きるとしても。

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習慣を生み出す。

アクション・トリガー
アンナを学校に送りつどけたらまっすぐジムに向かおう。
「翌朝に娘を学校に送り届ける」という環境の「引き金」に直面した時に、「ジムに行く」という「行動」を実行しようと決意するという心理的な計画。

自分がしなければとおもっていることに関しては、アクション・トリガーはやる気を生み出す大きなパワーとなるのだ。ゴルヴィツァーは、アクション・トリガーの価値は、意思決定の”事前装填”にあると述べている。先ほどの例で言えば、「あんなを学校に送り届ける」という行動が、「ジムに向かう」という次の行動の引き金になっている。「次は何をしようか」と頭で検討したりはしていない。「意思決定の事前装填」を行うことで、象使いのセルフコントロールを温存しているのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.281)

アクショントリガーを設定しよう。帰りの機内で、「電子機器の使用OK」のアナウンスが出たら、チームの全員に向けて感想を送信するのだ。アクション・とりがーは、通常の意識の流れをさえぎるくらいに具体的で明確でなくてはならない。「すばらしいことをした従業員をほめる」というトリガーは、あいまいすぎて使い物にならない。さらに、ゴルヴィツァーは、アクション・トリガーは象使いのセルフコントロールを極度に消耗するような状況でこそ効果を発揮することを証明している。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.282)

もう一つのグループのダイエット者は、通常の食事計画に加えて、毎日カップにはいのスープを飲むよう支持された。二杯のスープはいわばボーナスだ。参加者は一年で約7キロやせたが、その55%が「食欲がかなり満たされている」または「食欲がいっぱいにみたされている」と答えた。減った体重は少なかっ亜tが、満腹と感じている人の割合は大幅に上がった。1日二杯のスープを飲むというのは、ダイエットを支える典型的な習慣だ。実行するのも簡単だ。食べる量を増やすだけでいいからだ。さらに、より大きな目標の実現にもつながった。ダイエット者は食欲が満たされる中で、食事中に食べる量をコントロールしやすくなったのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.292)

問題が始まるのは、親が毎日学校のまえで子どもを車から下ろす瞬間からだった。「車にはブーン・タッ・タッ・ブーンという音楽が鳴り響いていて、母親たちはそのころにはもう子どもをどなりちらしているんです。学校に入ってくるころには、子どもたちはすっかり興奮してイライラしていることが多いのです」とエルダーは話す。そこで、エルダーや教職員は驚くような手に打って出た。”ボーイ”に転身したのだ。教師たちは、学校の建物に入る生徒一人ひとりにあいさつをすることにした。学校の外の歩道で待ち、子どもが到着すると車のドアを開け、親に笑顔でおはようといい、子どもを講堂まで連れて行くのだ。このボーイ・サービスのおかげで、多くの子どもたちは混乱した家庭環境から学校生活へと頭を切りかえることができた。子どもたちが講堂に集まると、エルダーは規律のある朝礼から1日を始める。「一貫性が子どもにとって大事なのです」とエルダーは話す。「この学校の子どもの生活に欠けているのは安定です。ここに来れば規律や秩序を身につけられると理解する必要があるのです」(略)エルダーは、新たな習慣によって筋道がスムーズになることを証明している。彼女は混乱するハーディ小学校を引き継いだ時、こう自問した。「この混乱のどの部分を和らげられるだろう?どのような朝の習慣を生み出せば、子どもたちが勉強の心構えをしやすくなるだろう?」彼女は、教室に足を踏み入れるまえから子どもたちの心をかき乱していた要因と戦わなければならなかった。(略)偉大な変革者はけっして「なぜこの人はこんなに悪い行動をするのか?それは悪い人間だからだ」とは考えない。「どのような環境を築き上げれば、人々の良い部分を引き出せるか?」と考えるのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.294)

ミシガン州のICUで一年半にわたってチェックリストを実践したところ、ライン感染がほとんど発生しなくなり、病院は推定で1億7500万ドルのコストを削減できた。ライン感染による合併症の治療が不要になったからだ。さらに、およそ1500名の命も救われた。これほどシンプルなチェックリストにここまでの効果があったのはなぜか?チェックリストは人々に最善策を教え、絶対に正しい行動を示してくれるからだ。つまり、チェックリストは象使いに方向を教えるのに効果的なのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.297)

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仲間を集める

1991年、キャンペーン開始から3年後、10人中9人が「指名ドライバー」という言葉を認知するようになった。その結果、人々の行動は変わった。全アメリカ国民の37%が指名ドライバーを務めた経験があると答え、酒好きの54%が指名ドライバーに家まで送ってもらったことがあると答えた。この行動の変化は命をも救った。飲酒関連の交通事故の脂肪シャスは1988年の2万3626人から1992年の1万7858人まで減少した。ウィステンはテレビのパワーを利用して社会規範を疑似的につくり出した。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.314)

モロゴロでの成功を受けて、キャンペーンはタンザニア全土で展開され、うわさは全国に広まった。タンザニア郊外でHIVクリニックを開設した公衆衛生スタッフの話によると、人里離れた村でさえ、ファ滝が話題に登るようになったと言う。キャンペーンの全国展開から数週間後には、タンザニアのタブロイド紙の第一面の大見出して、カヌンバという有名な俳優がファ滝と非難された(ランバダ・ホテルに若い女性とチェックインするのを目撃された)。タンザニアの国民は、内心ではずっと避難していた悪い行いを象徴する呼び名とキャラクターを手に入れたのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.320)

誰かに行動を変えて欲しいが、相手は変化に抵抗している。そこで、変えようとしている人々に対して影響力を持つ他者の支持を集める。つまり、文化を変えるということだ。そして、多くの場合、文化は組織の変化を成功させる要となる。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.328)

この研修医は、ケロッグのいう「対立的アイデンティティ」を生みてしていたわけだ。国家であれ組織でアレア、すべての文化はその言語によって強力に形作られている。α病院の改革志向チームのあいだでは、新しい価値観を映し出す新たな言語がはぐくまれた。改革派か保守派か。チームを信頼するか何もかも自分でやるか。効率をあげるか病院に寝泊まりするか。α病院の改革論者には、新たなアイデンティティを築くスペースと言語があった。しかし、β病院にはなかった。その教訓は明らかだ。組織の文化を変えようとおもうなら、改革派を集めることだ。それから、フリー・スペースも必要だ。反対派の目が届かないところで協力し合える時間が必要なのだ。また、直感とは反するかもしれないが組織に対立的アイデンティティを生み出すことも必要だ。しばらく「私たち」対「彼ら」の争いを見守ってみよう。これは確かに「われわれはひとつのチーム」という考え方とは矛盾する。対立は決して望ましくはないが、組織にとっては必要だ。いわば組織の脱皮期間と考えるべきなのだ。あなたの組織の文化を脱皮させるには、「筋道を定める」のパートで紹介した全ての道具を利用しよう。一つ目に、環境を変え、話し合いのフリー・スペースを設けるべきだ。α病院の回診チームには密かに顔をあわせる場所があった。それが新しいアイデンティティを養うフリー・スペースとなったのだ。あなたの組織には「改革派」が密かに集まって一致団結できる場所はあるだろうか?二つ目に、よい習慣を生み出すべきだ。アクション・トリガーの考え方を思い出して欲しい。重要な一歩を踏み出す時間と場所を思い描くのだ。α病院は実質的なアクション・トリガーを定めていた。午後9時がやってきて申し送りのプロセスが始まる時に、何を言うのか、どう行動するのかを思い描いた。当直の研修医から反論がでたときに、どう答えるかを頭の中でリハーサルした。あなたのチーム・メンバーは、組織の「保守派」の抵抗に遭ったとき、どう応じるかリハーサルしているだろうか?三つ目に、仲間を集めるべきだ。α病院では、リーダーたちが改革派の人々を引き合わせた。それにより、指名ドライバーやファ滝の例と同じように、改革派の人々が他者と価値観を話し合う言語を生み出し始めた。あなたがリーダーなら、改革派の人々にこのような言語を生み出させるのも一つの手だ。あなたが行おうとしている改革にはどのような違いやメリットがあるかをはっきりと表現する方法を見つけるべきなのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.331)

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変化を継続する。

夫のちょっとした欠点に悩まされたサザーランドは、接近法を用いることにした。「たった1回の調教でヒヒに働くようしつけることはっでいません。同じように、靴下を一束拾ったのをほめただけで、アメリカの夫がいつも汚れた靴下を拾ってくれるなんて期待してはいけないのです。ヒヒの場合、まずは小さなジャンプができたらご褒美をあげる。もっとジャンプできたら次のご褒美。もっともっとジャンプできたらそのまた次。夫のスコットの場合は、ちょっとした行動をつねにほめるようにしました。1マイルでもゆっくり運転してくれたら、1枚でも下着を選択かごにいれてくれたら、時間を守って来れたら、そのたびに褒めたのです」。そして、ほめられるうちに、スコットは変わっていった。(略)励ましこそ、長い旅の一歩目を超えて、に褒め、3褒め、100歩目へと進む秘訣だ。そして、そこに問題が潜んでいる。というのも、大半の人々は励ますのが下手だから。ほめるよりも批判しがちだ。職場では、不満を共有して同僚を絆を築こうとする(サザーランドはこの行動を「言葉による毛づくろい(バーバル・グルーミング)」と呼んでいる)。しかし、これらはすべてまちがっている。どんなに小さくても、ブライトスポットを見つけてごほうびをあげるべきだ。上司やチームに変わってほしければ、マンゴーくらいは奮発したほうがいいのだ。目標に近づいたことに気づいて褒めるには、つねに感k尿に目を配り、明るい兆しを探さなければならない。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.336)

この考え方は、「根本的な帰属の誤り」と似ているかもしれない。ただ、こちらの「褒める」は、ただ本当に小さなことに感謝する、小さな変化でもフィードバックを返すということだ。原因を見つけるとか、誰かのせいにするとかではない。同じように、性格診断、適性診断で「あなたは◯◯タイプ!」とかいうものがある。

カズウィンは親に「子どもたちのよい行いを拾い上げる」ように促している。「毎晩に時間、子どもに全力で宿題をやって欲しいと思うなら、宿題をやり終えてからほめたりご褒美をあげたりしようと思ってはいけません」と彼は話す。代わりに、小さなも好評を定めて、少しずつ積み重ねさせていくのだ。そして、子どもたちがちゃんとしてくれない場合には、カズディンはこうするようアドバイスしている。「”全体の一部でもしてくれていないだろか”と考えるのです。大抵の場合はしているはずです。そうしたら、その部分に着目して、”◯◯をしてくれてえらいわね”と言うのです」。カズウィンの私的によると、一定の状況では親たちはこのような励ましを本能的に行なっているという。たとえば、子供が初めて歩こうとしたときだ。「はいはいの姿勢から立ち上がろうと体を持ち上げた時、盛んにほめたはずです。両手を持ってナンンポカ歩かせ、”ほらほらすごい!歩いてるわよ!いい子ね!”と大声で励ましたでしょう。もちろん、本当にあるいてなんかいない。しかし、歩くまでの階段を徐々に強化していくことで、歩くという行動を形作ろうとしていたわけです」(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.338)

あの、空手の男の子を励ます動画

カズディンや動物の調教師の例からわかる重要な教訓とは、変化は一瞬の出来事ではなくプロセスだということだ。猿がスケボーの乗り方を覚えるのは、一瞬の出来事ではなくプロセスだ。子どもが歩き方を覚えるのは、一瞬の出来事ではなくプロセスだ。自治体が学校への投資を増やしたり、リサイクルを推進したり、公共スペースの美化に勤めたりしはじめるのも、一瞬の出来事ではなくプロセスだ。そして、プロセスを導くには忍耐が必要だ。長い旅にはたくさんのマンゴーが必要なのだ。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.339)

よろこびというマンゴー

オトノネひろげるシェアぼたん

『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ


『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル

パーソナリティーは、その人がどんな遺伝子変異体を持っているかによって、半ば(50%)決定される。

不幸な結婚生活にとどまる人々と、離婚する人々を区別するのは、外向性と調和性のレベルである。
死亡の翁予測原因は誠実性の低さだった。スコアが低い人の場合、どの年をとっても、死亡の確率はおよそ30%高かった。健康的な生活

誰にとっても、生きること、そして満足のいくパートナーをもつことは、経験の面からも進化の見地からも、人生の極めて重要な要素である。せいぜい10分程度で終わる質問しに答え、その氷帝尺度によってそれが予測されるのであれば、たとえ不完全であっても、私たちは姿勢を正してそれに向かわなくてはならない。人間の生活後不合理で予測のつかない煩雑さに満ちている以上、それらの尺度が何らかの予測的価値を持ちうるという事実を直視し、なぜそうなるこかを理解しようと務めるべきである。(p.43)

なぜその人は外向性があるのか。よく喋るから。
よく喋るのはなぜか。外向性が高いから。
パーソナリティー特性はどの行動が同時に起こりうるかを語る。

パーソナリティー特性における個人差のおよそ半分が、遺伝的変異に関連していることをはっきり示す。ビッグファイブで評定されたスコアが高いか低いかということはすなわち、ヒトゲノムに3万ほどある遺伝子のうちのいくつかにあるそうした変異体によって差異を生じている、ということなのである。いくつかのケースでは、すでにどの遺伝子が関わっているのかもわかりはじめている。(p.48)

状況は心のメカニズムの引き金を引き、それが一連の行動を促す。だがそれらのメカニズムが状況によって引き金を惹かれる度合いーどれほど強く、あるいはやすやすと引かれるかーには個体差がある。実を言えばこの点が、パーソナリティ特性のよき定義を打ち立てるのに役立っている。すなわちパーソナリティ特性とは、特定のタイプの状況に反応すべくデザインされた心のメカニズムの反応性における安定した個体差である。(p.51)

ポジティブにしろネガティブにしろ人生の出来事を経験する傾向にはかなりの遺伝性があることが、最近になって双子の研究から明らかにされた。一卵性双生児は、二卵性双生児に比べるて経験する人生の出来事がはるかににしている。考えられる理由はただひとつ、パーソナリティそのものに遺伝的な変異があり、これが状況選択と状況喚起を通じて、似通った状況パターンへと導くのだろう、人生というのはそれ自体、可能性の空間を曲がりくねって進んでいく流れのようなものだ。その中で私たちがとるどんな行動もつぎに直面する状況に影響を及ぼす。少なくとも豊かで自由な社会においては、人が成熟した大人になるまで、人生とは意識的と無意識的とにかかわらず、だいたいにおいて自分で選択した状況に、適切に反応していくことに他ならない。(p.55)

神経質傾向
ネガティブな情動が過度に活動すること。

遺伝子の影響
グッピーを捕まえ、水槽で繁殖させると、下流の生息環境で暮らしていた親の子は、上流の生息環境からきた親の子よりも、補足者のいる水槽で生き残る率が高いのである。当然、子には捕食者との経験がない。親が一度も見たことのないようなタイプの捕食者を水槽に入れた時も、結果は同じだった。(『パーソナリティーを科学する』p.82)

(シジュウカラが飛び回るタイプか枝にとまる時間が長いかという)探索スタイルに見られる個体差のおよそ30%〜50%が遺伝によるということが判明したのである。これは人間のパーソナリティ特性について見出される率と似た範囲に属する。(『パーソナリティーを科学する』p.85)

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放浪者ー外向性

外向性ー内向性

外向性が高い=ポジティブな情動(喜び、欲望、熱中、興奮)への反応性が高い
外向性が低い=内向的(人工的幸福?)、ポジティブな情動(喜び、欲望、熱中、興奮)への反応性が低い

薬物依存性=誠実性
内気=神経質傾向
社交性≠外向性
社交性=調和性
衝動性≠外向性

外向性と社交性を同一視することには、慎重であるべきだ。第一に、人が内気なのは、外向性が低いためというよりもむしろ、不安と神経質傾向が高いことによる場合がきわめて多い。外向性のスコアが低い人は必ずしもシャイではない。単に社交に価値をおかないだけで、社会的なつきあいがなくても対して気にしない。外向性の低い人々がしばしば人付き合いが悪いと見られるのはそのためである。もうひとつ気をつけるべきなのは、外向性の高さと、良好な社会的関係を混同してはならないということだ。外向性とは、人がどのくらいパーティに行くのが好きか、どれくらいの時間を社会活動で過ごすか、新しい友達をつくる才能があるかを予測するだけで、その友人関係がどれくらい良好であるかを測定するものではない。(略)外向的で同時に調和性の低い人物は、社会的にきわめて問題になることがある。彼らはパーティに行き、酒を飲んで酔っ払い、果ては初めて会った人と大げんかすると行った行為に非常な快感を覚えるのだ。外向的で調和性の低い人間は、ためらうことなく他の人々の前で完全に相手を無視できるし、それで自分が有利になると思えば、むしろ楽しんでその行為をするかもしれない。(略)外向的な人は、セックスと恋愛を楽しみ、野心をもつ(もちろん、彼らの野心の内容はきわめて特徴的ではあるが)。さらに、ステータスを手に入れることや、社会の注目を集めることに喜びを見出す傾向がある。彼らは名声や金を手に入れるためん猛烈に働く。もっとも、レジャーの追求にも熱心だ。活発なスポーツや旅行、新しい経験をするのが好きである。総じて彼らは、目標追求のためにあり余るエネルギーをもった、きわめて活動的な人々と見なされる。この外向性の中に、いわゆる「衝動性」がどの程度含まれているかについては、長年にわたって議論がなされている。ここでいう「衝動性」とは、事前に考えもせずに個人的、金銭的なリスクを引き受ける、賭け事やドラッグに手を出す、法をもてあそぶ、あるいはまた人生に少しばかり危険を求める、といった行動である、この種の行動は、外向性ともうひとつの次元、誠実性との共有領域に含まれる、ただし、依存症のような有害なものの大部分については、誠実性のスコアの方が予測値として優れている。(『パーソナリティーを科学する』p.92)

外向的な人はポジティブな情動を多くもつのである。外向性のスコアが高い人は、低い人に比べて日常生活のなかでたえず、喜び、欲望、熱中、興奮といった状態を示すことが多い。(略)ポジティブな情動とは何か、それらの情動はいずれも、何らかの望ましい資源を追求したり獲得したりするのに応じて、活性化する。欲望が引き起こされr、私たちに望むものを追求させる。その資源を手に入れることを予測して、興奮がます。手に入れた後には喜びがやってくる。いずれも、物事を手に入れる、あるいは手に入れようとして動くことに関わっている。だが、どんな「ものごと」なのだろう。ポジティブな情動の対象として普通に繰り返し見られるのは、潜在的に重要な他者からの関心(新しい友人をつくるなど)、ステータス(昇進を手に入れる、もしくはベストセラーを書く)、物的資源(昇給)、新しい配偶者の獲得、新しい技や仕事をマスターする、あるいは、ただたんに楽しい場所にいることなどである。ポジティブな情動を引き出して働かせるこれらの事柄のすべては、誘因(インセンティブ)とみなされる。(『パーソナリティーを科学する』p.94)

世界には二種類のインセンティブがある。条件付けによらないインセンティブとは、報酬がもたらされることを人が(そして動物も)うまれつきごく自然に知っているものだ、ラットに向かって、空腹なら食べるようにとか、水よりも砂糖水の方を好むようにとか、教える必要はない。(略)これとは別に、条件付けによるインセンティブがある。(略)たとえば、ほとんどの人は金を強いインセンティブと見るが、これは無条件の結びつきではありえない。金のもつ利益と何らかの自然なインセンティブとが、条件付けによる組み合わせを作り上げたということなのである。(『パーソナリティーを科学する』p.95)

「私にはひとつ目的があります。それはもう一度金持ちになることです。私にはそれができる。金持ちの生活がどんなに素晴らしいかわかっていますからね。人生なんて、金がなければ生きる値打ちはありません……引退なんかしたくないですね。死ぬまで働きたいと思っています。いまはロシア語を勉強しているところです。ロシアの女性は世界一美しいし、生き生きしていますからね……いつかウクライナ出身の女性と結婚して、彼女に良い生活を見せてやりたいと思っています」一度は頑張って百万長者にのし上がり、それからすべてを失い、またもや何もかもはじめからやり直そうとしているこの人物。彼の楽天主義、断固たる決断力、そして捨て身の蛮勇ぶりには、感服せざるを得ない。何よりも、彼がそうしようというのは、必要に迫られているからではないのだ。ビルにとっては、チャレンジを引き受け、報酬を手に入れることが猛烈に楽しいのである。(『パーソナリティーを科学する』p.98)

外向性の低い何人かは、インセンティブに対するこうした慎重なアプローチをはっきりと示している。「実際、楽しみにしていることなどあまりないのです。安定した職をみつけたら、両親の家から出てどこかで暮らし、ガールフレンドと付き合い、必要のないものを山のように買い込み、たぶん結婚して子供をつくり、彼らにまた物を買い……それからたぶん、死ぬんでしょうね……ま、そんなところです」このコメントで目につくのは、これがきわめてストイックなところである。こころからは、内向的な人間のモチベーションについてきわめて多くのことが読み取れる。(略)人々が汗をかいて手に入れようとするものー物質的財産、結婚、キャリアなどーが良いものだということは彼にもはっきりわかっている。だが彼にとって、そうしたものは他の人たちほどには効果を持たないのである。向こうからやってくれば受け取る、しかしやってこなくても、たぶん苦にしないのではないかー近くにいれば友人たちと合うが、いなくても気にならないのと同じように。どちらにしても彼は完全に満足した生活を送ることができる。内向性の人はある意味で、世間の報酬から超然としており、それらが彼におびただしい力と、報酬からの独立を与えるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.101)

外向性とは、ポジティブな情動の反応に見られる個人差である、外向性のスコアが高い人は反応性が高く、仲間、興奮、達成、賛美、ロマンスなどの快感を手に入れるために必死になる、一方、スコアの低い人はポジティブな情動システムの反応性が高いため、こうしたものを手に入れることの心理的利益も少ない。両者にとってそれらを手に入れるためのコストが同じだとすれば、内向的な人は外向的な人ほどその獲得に心をそそられないのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.104)

外向性の反応部位
腹側被蓋野・側坐核
中脳の報酬系構造体
ドーパミン系脳領域の反応レベル

外向性の抑制部位は?

外向性のリスクと利益

外向的な人はいつも突っ走っており、身体を動かすのが好きで、危険の多いことをしがちである。バスの運転手の調査では、事故を起こしたことのある運転手は外向性のスコアが普通より高いことが判明した。(略)外向性のコストと利益は、精妙に釣り合いが取れていると言える。人類の祖先の中で、外向的な人々のいくらかは何らかの状況のもとでおそらくきわめて成功したことだろう。そしていくらかは無謀な生き方をし、厄介な終わり方をしただろう。それにくらべて内向的な人は、つねにより慎重だった。こうして、適応という見地から見たこの特性の最適レベルは、境地的にはさまざまな状況ーほかの皆がなにをしているかを含めーに合わせて変動してきたのだろう。(略)大変面白いことに、DRD4の長いフォームが優勢になるのは、定住型社会より遊牧型社会のほうであり、この数千年間で大移動を行ってきた南米原住民のような集団では、とくにそれが高いという。このパターンが示唆するのは、放浪者であることが有利な状況では、DRD4の長いフォームが利点をもつということなのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.111)

外向性の高さ=変動する環境
外向性の低さ=安定した環境

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総括?

外向性の性質を理解することには価値があるー自分が生まれてきた時代を理解することが重要であるのと同じように。人生のある時点で他の人と長期の関係を築くに至った時、相手のレベルがあなたのレベルと違っているかもしれないのだから。結婚した相手があなたより高い外向性スコアをもっていたとしたら、その相手は時にあなたにとっては無意味で、効果で、理解に苦しむようなことをしたがるかもしれない。パーティに出かけたり、ポルシェを買ったり、クレイジーな趣味に熱中したり……逆に、自分より低い外向性スコアの持ち主と結婚したならば、相手がまり行動的でなかったり、あなたの新しい計画に関心を寄せないことに、時に失望することだろう。気にすることはない。彼らはたんにそのように配線されているだけなのだから。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.114)

日本人という遺伝子と戦っている。
とすれば、僕はへこたれてしまう。
遺伝子という伝統との戦い。
環境VS遺伝子
変異VS定型

環境に揺さぶられ、こっちが優位になるまで、忍ぶしかない。この特性は勝手に子供に「保存」される。
というのが、科学の答えのようにおもう。

もし僕が子供を産んだら。
「君は、この社会ではマイノリティーだ。だから、仲間を見つけないといけない。でないと孤独で死んでしまうだろう。君の本性を理解してくれる人は少ない。その少ない人と出会いなさい。子供ができたら問いかけなさい。君はこの遺伝子をもっている。それを生かすか、殺すかと」
この遺伝子を殺すための環境を作り上げるか。この遺伝子を生かす環境をつくるか。

そんな重苦しいことを考えてしまうくらい、僕はまだ自分と向き合えていない。

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悩む人ー神経質傾向

神経質傾向が低い=楽観的

神経質傾向=ネガティブなイメージに対する反応性
神経質傾向=不安障害、恐怖症、摂食障害、心的外傷後ストレス障害、強迫性障害、統合失調症
神経質傾向=「一人称+苦しみの動詞」の表現。
神経質傾向=ワーカホリック(取り憑かれたように仕事をする)

勤勉性=神経質傾向+誠実性???

神経質傾向が低い=エベレストの登山家集団
神経質傾向が低い=強引・攻撃的・社会のルールを破る(制裁への恐怖を感じない)
神経質傾向が低い≠不道徳
不道徳=結果への恐怖+思慮+他者への共感=神経質傾向の低さ+誠実性の低さ+調和性の低さ

面白い映画の一場面を見たり、自分の素晴らしい経験についてかいた後などに、外向性のスコアの高い人は、気分が大きく紅葉した。それと同じように、恐ろしい場面を見たり、ひどい経験について書いたあとなどに、どれほどネガティブな気分になるかを予測するのが、神経質傾向のスコアなのだ。日常生活の苦労や厄介ごとについても、神経質傾向のスコアの高い人は、スコアの低い人よりも、強い影響を受ける。つまり神経質傾向のスコアは、ネガティブな情動システムの反応性を測るもののようである。ネガティブな情動とはなんだろうか。このグループには恐怖、不安、恥、罪悪感、嫌悪感、悲哀がたがいに関連しあって含まれるが、どれも経験するものにとってきわめて不快である。思うにそうした不快感は、私たちにそれらん経験を避けるように教えるためのデザイン特性なのであろう。ポジティブな情動が、私たちにとって良い事柄を探し出し、それを目指すためにデザインされているのだとすれば、ネガティブな情動は、祖先の環境である買ったであろう事柄を感知し、それを避けるためにデザイナsれている。(略)(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.119)

コストと利益

コスト
本来これらの情動はいずれも、捕食者に殺されるリスク、ステータスを失うリスク、社会からの排斥のリスクといった深刻な危険を検知するようにデザインされたものだった、私たちの祖先にとって、こうしたリスクはどれも死の宣告を意味したことだろう。現実の脅威を見逃すことのコストを考えれば、自然淘汰がさまざまなやり方でそれらの情動を超高感度に設計したのは当然だった、捕食者に食われたり、餓死したりするよりは、少しばかり根拠のない心配の方がはるかによい、過酷な自然と激しい競争の状況では、これはどうしても必要なのだ。だが、そこにはまた困った一面もある、ネガティブな情動が正しく作動しているときでさえ、心配の大半は全く根拠がないということである。夜、眠れずに、有力な同僚を怒らせたかもしれないとくよくよしているあなたは、おそらく必要もないのに心配しているだけであろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.121)

コスト

神経質型のスコアの高い人について考えてみよう。それらのネガティブな情動を煙感知器の感度になぞらえて、その度合いを集団内部の分布図に描くと、はっきりしたベル型の偏差が見られる。そして、神経質傾向のスコアの高い人は、ベル型感知器の曲線の終端にいるのであるこれはどういうことかというと、例えば分布図の最中央部にあたる人々の場合は、悩んでいる時間の80%が根拠のない悩みで占められているのに比べて、神経質傾向のスコアの高い人の方は気の毒なことに、99%が意味のない悩みで占められているということである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.122)

コスト

ネガティブな情動はまた、悪いことが起こるとそれを最悪の解釈に持っていく(「何もかも私が悪かった」、「みんな私を嫌いなんだ」、「私は絶対に成功しない」等々。これを「私は最善を尽くしたけれど、状況が私に振りだった」、「あの人たちの方が勘違いをしている」、「今度こそうまくいくだろう」というような対応と比較してほしい)。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.122)

利益

ネガティブな情動は私たちの体と心を保護するシステムであり、それらを完全に欠いたならば、悲惨なことになるだろう。ときおり、先天的に痛みを感じることができない症例があるこの症状を持った人は、必ず早死にする。自分に危害を加える対象を検知できないためだ。(略)これと同じことが、恐怖、悲しみ、そして罪悪感と言う感情の喪失についても言えるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.133)

利益

作家、詩人、画家やアーティストについてん研究は、これらのグループではうつの(四惟)患率が極度に高く、神経質傾向が極めて高いことを示唆している。彼らの芸術活動の達成に、その神経質傾向が役立っていることはありうるだろうか(略)第一に、彼らは作品を一種のセラピーとして描くのかもしれない。(略)第二に、神経質傾向の高い人々は、ののごとの現状(世界における事柄だけでなく、自らの内部についても)が正しくないと感じ、それを変えたいと思っている。この意味で、彼らはさまざまな領域ーとくに事故を理解し、そこに意味を見いだすことに関わる分野ーで、いわば革新者となるだろう。これと関連して、神経質傾向の高い人は失敗を恐れるため、それが動機となって必死で努力非認知流。むろん何もできないほど落ち込んでいるときは別である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.137)

利益(勤勉性)

ワーカホリックには神経質傾向が高い人が多い。ジェイムズ・マッケンジーは、神経質傾向と大学生の学力達成度の関係について研究し、高い「自我の強さ」をもった学生たちのうち、神経質傾向のスコアが高いほど、よい学業成績を修めることを発見した。この「自我の強さ」は組織化と辞世の能力を計測するもので、ビッグファイブの中では誠実性のジャンルに含まれる。つまり、この学生たちが経験するネガティブな絵今日は、その燃料を行動に帰るだけの心の状態にあれば、より大きな仕事と達成に向けるエネルギー源となったようだ。だが、もし心があまりにも乱れた状態だったり、ネガティブな情動が病的状態との境目を超えた場合は、彼らの神経質傾向は利益になるよりもむしろ振りになるだろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.137)

利益(熟慮)
実行している目標が懸命でなかったならば、その「実行」段階にいることは必ずしも望ましいとは言えない。私たちは「熟慮」の段階に足を踏み入れる必要がある。そこで、正直かつ冷静に状況を見直し、必要ならプランを変え、あるいは捨て、あるいは規模を縮小する。この教区面では、私たちは過度に楽天的であるのをやめ、慎重になり、事柄の詳細な部分により多くの注意を払い、悩み、思い巡らすのだ。熟考に彩られたこの心の状況は、神経質傾向のスコアの高い人にとっては馴染みの場所だ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.138)

利益(熟慮)

現実生活のなかには、素面の批判的な目が尊ばれる多くのニッチがあると言うことになる。私たちの社会は、全員が陽気で、やる気満々である必要はない。ちょうど、個人としての私たちが、実行と熟慮という両方の精神状態を必要とするように。(略)世界には、これらが極めて貴重な価値を持つニッチがある。むろん、いずれもコストを伴う。人生の日々の道筋にまき散らされている、しばしば恐ろしいまでの苦しみがおれである。生きるこつとは、これらのコストにうまく対処し、ともに行き、押しつぶされないようにすることである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.141)

鬱は遺伝?

一回でもうつの発現を経験した人は、50%の確率で、2年以内に再び発症する。2年以内でなくとも、いつの時点かで再び発言する可能性は80%である。また、たとえ本格的な症状が出ていないときでも、うつにかかっている人の情動には、顕著な特徴が見られる。要するに、うつとはだしぬけに現れ、そのあと完全に消失するものではなく、基礎をなすパーソナリティ特性の結果として生じる、周期的でしばしば反応的な再発とみなすべきだろう。(略)洪水の例えで言うなら、神経質傾向の高い人は低地帯に暮らしているため、水面レベルがほんのちょっと上昇しただけで溺れてしまうのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.126)

神経質傾向=センシティブ?
神経質傾向の高さ=自尊感情の低さ。アイデンティティの不安定さ=

境界性パーソナリティー障害

人生設計と個人的目標が不安定であることで、これに価値がないとか空虚だといった感情が慢性的に伴う。彼らは多くの新しいライフ・プランを作り上げ、しばしば現実離れした不適切な結婚ーそれも短期で終わることが多いーをしてしまう。彼らがこうなるのは、自分がだれなのか、どうすれば幸福になれるのか、自分にはどんな価値があるのか、つねに疑いを抱いているからなのだろう。ロバート・マクレーとポール・コスタの洞察に満ちた表現によれば、神経質傾向のスコアの高い人は「ちょうど不眠症の患者が寝床のなかでなんとか快適な姿勢を見つけようともがいているように、つねに新しい自己定義を試し続けている」のだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.131)

神経質傾向(セロトニン・トランスポーター遺伝子が短い)
ネガティブなイメージを見た時に活発になる部位
小脳扁桃
側頭葉の下にある神経核

ネガティブな情動を抑制する部位
海馬
右背外側前頭前野

もし高い神経質傾向が、環境ないの脅威のキューにたいして過度に警戒させるのだとしたら、いったいどうして彼女は、虐待者、女たらし、大酒呑みといったろくでもない男たちと一緒になったのだろう。当然彼女の心の警戒システムは、この種の問題を示唆するようなどんなわずかなキューにも反応しただろうし、そうでなければ彼女はネガティブな情動の論理からして、問題をはらむ状況から遠く離れるか、すぐさま脱出しなくてはならないはずだった。なぜ彼女はそうしなかったのだろうか。(略)ネガティブな情動が影響を与えるのは、外の世界を評価するためのメカニズムdかえではない。それとまったく同じようにm私たちが自分と自分の価値を評価するメカニズムもまた、ネガティブな情動に影響されるのだ。(略)低い自尊感情と結びつくものに、自己概念が不安定だという特徴がある。神経質傾向の高い人は、自分の生き方が間違っていなかったかどうかにたえず思いをめぐらす。おそらく、ネガティブな情動が活発になると、自分が間違った生き方をしているのではないかとたえず疑い続けるのである。(略)スーザンもまた、大人になったあともずっとアイデンティティと目標を変え通づけてきた。彼女は書いている「私は始終自問したものですー生き方を間違えてはいないだろうかと」(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.129)

神経質傾向=知的専門職としての成功を予測する(弱い)ポジティブ要因(熟考するから)

私がいつも胸を打たれるのは、人間というものについて最大の洞察をもつ人々が、彼ら自身、不幸な人物であったように思えることだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.139)

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子育てとは。
50%の遺伝子の影響をさらに50%の環境により高めたり低めたりする文化的行い。

現代において大切な子育ては、神経質傾向を低めることだ。
もはや安定している。
神経質傾向を低めるとは?

ネガティブな情動を取り除く時に、お守りを渡してしてあげること。

子供が保育園にいるとき「保育園を変えたい」と言ったという。お母さんは理由を聞かず、「いいよ」といった。
そうして子供は別の園に通い始めた。後でいうに、寂しくて泣いていたら、保育士が毛布をばさっと顔にかけたのが怖かったのだと。言葉にできないことが、子供にはある。まだそこまで言葉を自由に使えない、そんな子供の感情を全力で感じ取って、受け止める。これはどこか、「ふらっと」でみた光景と同じような気がする。

環境に対するレジリエンス、忍耐はどうやって鍛えるのか?
神経質傾向を低めることである。(もう一つは誠実性を高めること?)

例えば「うつ」の家系であれば、その家系の人たちは「いかにうつにならないか」を知恵として、振る舞いとして、家系の文化として継承していくことでよりよい生き方を次世代に繋いでいけるだろう。もしお母さんがお父さんから暴力を受けていて「私はそんな男とは結婚しない」と思っていたのに結局今のお母さんがお父さんから暴力を受けたりなんだりしていたら、お母さんは生まれてきた子供に(それが女の子ならなおさら)「遺伝子をいかに克服するか」を学ぶように導くことによってしか、この連鎖を断ち切れないかもしれない(子供を多く生むほど、遺伝的にも環境的にもお母さんの影響が少なくなる可能性が高くなる(子供が多くなるほどお母さんも“慣れて”お母さんの手から子供が離れることで)かもしれない)。

今は「悪い」とおもわれるパーソナリティー特性が、他の特性を強めることで「良い」特性として使えることもある。自分を自分でデザインすること。

ある研修会で「ダウン症だが、ダウン症とわかっているために小さい時からトレーニングを積み重ね、(トレーニングすることを自然な環境にする子育てを実践し)不得意なことが問題にならないような工夫をし続けることで、ふつうの会社員として働いている」ことを取材したテレビ番組をみた。

子育てとは、このような計画・意図をもっていることが、「必要」だとおもう。この時代。
50%は遺伝。50%の環境を作り出すこと。

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自制できる人ー誠実性
誠実性ー衝動性

誠実性の低さ=依存症的ギャンブラー・アルコール、コカイン、マリファナの依存症
誠実性の低さ=無責任な行為と違法行為の繰り返し

遺伝
研究者たちは、ギャンブル、薬物依存、そして反社会的行動について、集団全体、家族内、そして双子を使って、その共存度を調査してきた。その結果、この種の抑制の帰化ニア行動には、共通した遺伝的傾向があるという結論に達している。(略)それは、そうした状況に引きずり込まれる人たちの気質構造を反映する。

誠実性が高い=衝動のコントロールができる。まじめ。
誠実性が低い=衝動がコントロールできない。気の向くままに行動し、意志が弱い。怠惰。

人のパーソナリティのうちで、どの特徴から依存性の問題が予測されるかについて調べた研究からは、重要な役割を果たすのは外向性よりもむしろ誠実性だということがはっきりしている。(略)外向性のスコアが高い人はスコアの低い人よりも、酒、ドラッグ、もしくはスリリングな勝負から手に入れる快楽が大きい。もたらされる側坐核の活動がより大きいからである。だが、もしかれらが誠実性のスコアも高いのであれば、どれほどその快楽が大きくても、二度と手を出さないと決心できるだろう。(略)繰り返すのは、快楽を求めるためではなく、ましてやむにやまれぬ渇望でさえなく、
一旦形成された習慣をやめる抑制メカニズムが無力だからなのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.150)

依存性=神経質傾向の高さ+誠実性の低さ
心身症・精神障害=神経質傾向の高さ+誠実性の高さ

誠実性の高さで活発になる場所
前頭葉
背外側前頭前野
眼窩前頭野(心破壊されて人格が変わった事例は有名)

コスト(怠惰・無気力)
誠実性とは、前頭葉におけるこのメカニズムー目先の反応を抑制して、目標もしくは規則の方を選ぶーの反応性の大きさなのである。そうなると、誠実性が極めて低い人というのは、たとえそれがどんなに有害であっても止めることができない依存症パーソナリティを意味する。彼らの大部分は、依存症や反社会的障害に陥るほど極端とはならない。それでも誠実性のスコアの比較的低い人全員が、軽くはあるがこの種の衝動のコントロールで苦労してる様子が見られる。私の通信員のうちで誠実性のスコアの低い人の欠いてくる物の中には、野心はあるけれども「怠け癖が邪魔をして……」とか、経済的な理由でキャリアアップする必要があるのだが「本音はやりたくない」とかいった文章が散見される。というのは、本来彼らには「集中力が欠如」しており、ぶらぶらしている方が好きだからである。実は誠実性のスコアが低めの人が不利となる主な領域が、「仕事」なのだ。全般的に見て職業上の成功を予測するうえでもっとも信頼できる要因は、誠実性である(特定のタイプの仕事に必要なパーソナリティとは別)。おおむね他の条件が同じであれば、誠実性のスコアが高ければ高いほど、成功の可能性も大きくなるだろう。職業的成功と誠実性との相関は特に強いわけではない。およそ0.2というそう感知は、他の多くの要素が影響していることを示している。(略)誠実性のスコアの高い人は、多くの目標を設定してそれらをこつこつと実行していくが、スコアの低い人は少ない目標しか設定せず、その目標に固執することもあまりない。スコアの低い人はものごとを先延ばしにしてぐずぐずし、目標を実行しないですますのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.153)

誠実性≠知能

眼窩前頭野に損傷をおった患者は、全般的な知的能力を失わないままで、衝動的になりうる、極めて頭の切れている人でいながら、薬物などの依存症に陥るケースも多い。なぜなら、知能はどんな心的メカニズムの機能とも関係していないからだ。知能とはむしろ、私たちの全神経システムがいかによくーいかに早く、いかに効率的にー働くかを測る包括的な尺度なのである。したがってIQの高い人の場合では、何もかも効率的に働くわけだ。それこそ基礎的反射から、運動技能、言語、記憶、報酬システム、そして抑制システムに至るまで……。けれども、それらのさまざまなシステムがその人物の中で働く時の相対的強さについて、IQは何も言っていない。それゆえ誠実性のレベルについても、何ら予測はしないのである。少なくともかつては、私はそう考えていた。知能と誠実性の関係に関する研究で最も衝撃的だったのは、両者の関係が(予想されるように)ポジティブではなく、わずかにネガティブだったということであった。つまり、頭が切れるほど、誠実性は低くなるのである。もっとも妥当な説明はこういうことだろう。要するに、頭の切れる人は、前もって準備しなくてはもうまくやれることがすぐにわかってしまうため、わざわざ時間を使って訓練に励もうとはしないのである。鋭い理解力に恵まれているため、勉強でも仕事でもどんなチャレンジもうまく切り抜けることができるからだ。(略)ここから言えるのは、低い誠実性と高い知能の間には何ら内在的な遺伝的関係はないことである。むしろその弱いネガティブな相関は、発達を通して現れてくるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.154)

コスト

誠実性とは、人がうちにもっている基準やプランに固執することである。(略)だが、誠実性がいきすぎた場合はまずいことになる。狩猟採集生活の多くは、予測不能な出来事のために前以て計画するのは不可能だった。目の前を走り過ぎていくヌーの群を見送りながら「実は水曜日はハチミツ集めの日なんでね」などというのは、けっして良い反応とは言えまい。(略)何かが怒った途端、それまでのプランをかなぐり捨て、すぐさま精力的かつ自発的に身体の反応を動員できた人たちが成功したのだった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.157)

利益
ADHD=高い神経質傾向+低い誠実性+低い調和性

この障害で際立って特徴的なものに、性別がある。少年のケースは、少女のそれにくらべて5倍に上るのである。(略)彼らは目の前の刺激に対し、強く精力的、かつ自発的に反応する。ADHDの若者で、プロスポーツの分野で成功している有名な例もいくつかある。狩猟最終卯の世界は予測不能であり、いくぶん無法で、ときとして暴力的で、また活動的で、つねに変化し続けていた。そのような世界では、このタイプの若者こそきわめて成功したはずである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.158)

ADHD、多動な人が働ける場所は?

コスト
誠実性が極端に高い=強迫性パーソナリティー障害OCPD(完璧主義)

「秩序、完璧主義、心と対人関係の統制に問わられ、柔軟性、開放性、効率性が犠牲にされる広範なパターンであり、成人期早期に始まりさまざまな状況で現れる。(略)OCPDの第二の特徴は驚嘆な完全主義であり、そのtまえにものごとをやり遂げることが不可能になる。ロナルドは会社で高く評価されているが、それは「彼が細かいことに気がつくため、会社の損失をときどき防いだことがある」からである。だが彼の完全主義はまた、こういう結果をも招くー「彼らは職場でもっとも仕事が遅く、たぶん最も生産的ではない。彼ディサービスが細部をきちんととらえるけれども、それを全体的視野に立ってバランスよく見ることができない。」OCPDの人たちの多くは完全性に固執しすぎるため、何事についても完成することがむずかしくなる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.159)

前成人のおよそ2%(自然発生的??)男性は女性の二倍。
誠実性が極端に高い=摂食障害(女性)

誠実性の高さ+神経質傾向の高さ=強迫性障害OCD

OCDは不安障害であり、患者はいちいち確認したり手を洗ったりするなど、特定の考えや行動を繰り返さないと気が済まない。これは不安の疾患であって、うつや全般性不安障害と同じグループに属する。したがって高い神経質傾向と関連しており、ある程度まで、セロトニン作動性抗うつ剤に反応する。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.158)

コスト(柔軟性のなさ)

OCPDでは、自発的反応を抑制し、自分が作ったルールやプランのほうを選ぶという前頭葉のメカニズムがきわめて協力であるため、自発的行動というものは全く存在しない。あるのはルールやプランだけである。そのため他者と、そして環境との間で、(その時点での)真の相互作用は不可能となる。したがって社会的な場でも、ロマンチックな領域でも、あるいはまた職業や経験の面でも、たとえ貴重な機会があってもとらえることができず、ただ素通りしていくだけとなる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.161)

コスト(柔軟性のなさ)

「私の職業倫理はいわば「軽躁状態(ハイポマニック)」といったところです。ほとんど四六時中何かに取り組んでいて、調査したり、考えたり、計画を立てたり、実行しています。私にとっては、何もしないというのが難しいのです……何もしないで時間を過ごしていたら、自分が怠け者で無駄な人間のように感じてしまいます……重要な事柄を先送りするようなことはしませんし、大して重要でないことでも大抵はすぐにやってしまいます。」(略)つきあいはあるようだが、親しい友人はほとんどいない。余暇にかんしても高尚で有益な趣味だけで、どうやら満足いくレない関係も経験したことがなさそうである、自分に設定したルールが、彼女を厳しい監督者に仕立て上げている。「これまで私は、生きる上での理念を磨き、それに従って行動しようと、必死で努力してきました。ときどき私は、その理念が禁じていることをやりたくなります。正しいことをするのはとても努力が要ります。」大学を卒業し、弁護士になるという最初の計画が挫折したいま、キャサリンは少々戸惑っているように思われる。学業優秀で誠実性の高い若者たちの間に、これと同じ症候群がよく見受けられる。高校。大学とつづくハシゴには、頻繁な試験と、勉強という目標がつねに用意されており、努力するための一連のターゲットが与えられていた。とつぜん学校から世界に吐き出されて、ふいに次の目標がわからなくなるのだ。彼らにとって、この時期は大いなる迷いの時期となる。このとき、誠実性の低い学生たちの方は、たいして問題にぶつかっているようでもない。彼らは旅に出かけたり、ぶらぶらして過ごし、遅かれ早かれいずれは目指すものが現れてくるのを待つ。キャサリンも、まもなく次の目標を見つけてくれるように願いたい。それでも彼女の文章は、楽観的な調子で終わっており、彼女の持つ高い学習能力を示している。どうやら彼女は、自分のパーソナリティーのもつ危険な要素についてしっかり理解しているようだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.164)

サポステにいく若者は、高い誠実性を、弱めたり、

誠実性が高い+神経質傾向が高い なら、ちょっと危ないかもしれない。

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例えばこのように対応させてもいい。

五行
水 開放性の高さ
火 外向性の高さ
土 誠実性の高さ
木 調和性の高さ
金 神経質傾向

水は火を弱める
開放性は外向性を弱める=芸術家は内向的傾向がある

木は火に弱い
外向性の高さは調和を欠く結果をまねく。

どれも、「過度」の状態が他のパーソナリティー特性を弱める結果を招くことを言っている。

五行は解釈、物語の世界に近い。
だがそうして「指針を得る」のは有効だ。
手相は統計学に基づくという。易もどんな根拠に基づいた「運勢判断」なのか。木になる。

木になる木

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共感する人ー調和性

調和性が、限りなく低かった。
僕はこれを変えた。変えた。ああ、確かに超意図的に変えてきた。だからもちろん、まだそのパターンにはほころびがあるけれども。(それでも遺伝子としては残っているから、もし子供が生まれたら、ちゃんと「教えなくちゃ」いけない。というか、「教えたい」のだ。)

心の理論とは、私たちに他者の心の状態を類推させる能力である。心の理論によって、私たちは、向かい側の小部屋にいる人が空腹を感じていること、食物を欲しがっていること、私たちが食べ物をわけてくれるべきだと思っていること、等々を類推できるのだ。先のチンパンジーの実験が示しているのは、そのチンパンジーがいつも他のチンパンジーに報酬のいかないレバーを選ぶということではない。彼らはただ、他のチンパンジーにとって結果がどうなるかなど、少しも意に介さなかったのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.170)

✳︎心の理論=メンタライジング+共感

調和性が高い=EQ(共感指数)が高い
調和性が高いとは、他者の心の状態に注意を払う傾向があるということであり、また決定的なのは、それを行動の選択要因のなかに含めるということである。(略)調和性のスコアが高い人は、他者を助け調和的な対人関係を持ち、良好な社会的サポートをもつ。人と争ったり、侮辱することもめったにない。何があってもすぐに許し、実際に相手が悪くてもあまり怒ることはないのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.175)

ボランティア、献血、カウンセラー、ソーシャルワーカー
人間関係への関心と道徳的喜び

「私は人とつきあうのが大好きです。同僚たちとの交流は私にとって喜びです。」家で仕事をすればもっと仕事ははかどるのだが、あえて研究室で仕事をするのはそのためなのだ。ほとんど毎日会っている家族、幸福な結婚生活……すべてが良好な人間関係を物語っている。それでも彼女は、自分が「あまりにも研究に打ち込みすぎて、愛する人たちをあまり顧みていなおいような気がして」いるので、仕事を制限することを決心したと書いている。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.176)

低い調和性パーソナリティーあまり他の人を信頼したり助けたりせず、冷暖だったり敵対的になる傾向が強い。また、人間ん関係は調和を欠き、「慰める」などの相互交流的、協調的な単語よりも、「襲撃する」のような個人中心的、競争的な言葉の処理に多くの時間を割く。心の理論の働きがすくなくなっているのは、偏執症(パラノイア)とも関連づけられている。結局のところ、相手の心の状態を正確に思い描くことができなければ、それを敵対的と見るしかないのかもしれない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.177)

調和性の低さ=敵意

マリアが家族との親密さについて書いているのとは対照的に、この人物は、「家族への不振に苦しんだ」幼い時代のことを語る。両親は「二人とも無責任な大バカものだった。やつらの種で遺伝子プールを汚染する権利なんかなかったし、ましてそれを育てるなんてとんでもない話だ」そうである。彼によれば、父親は「意気地なしで、嫉妬深くて、けちくさくて、幼稚な野郎」で、母親は「怠け者で、弱くて、愚かで……エゴイストで、幼稚で、なかでも嫌なのは嘘つきで……何一つ良いところのない、信用できない女」だった。客観的にこれが事実かどうかはともかく、調和性の低い人物のかいたもののなかでも、これほど他者について敵意ある評価をしている例は見たことがない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.178)

調和性の低さ=一人勝ちしたい(利己的)

マリアが他の人のためのさまざまな活動に道徳的満足を感じているのにくらべて、この人物が異常なほどの関心を寄せるのは、自分の個人的な成功である。「私には未来の自分んお姿を見ることがdけいる。そのとき、私は偉大な仕事を達成し、革命的な新しいアイデアを発見し、全世界の人々から畏敬の念を持って見られている。」そのような将来の展望が他の人々から利己的とみられることについて、彼ははっきりとこう述べる。「そんな批判は、頭の悪い人間どもが私の評価を落とそうとしているだけのことだ。自分より劣る人間たちのことになると、なぜいつもこの利他主義という考え方に屈服しなくてはならないのか。私が重視するのは、他のだれの利益でもない、つねに、疑いなく私の利益である……サバイバルとはそういうものではないのか」(略)「私は人を助けるのは好きではない」ー別の場面で彼は言うー「人道的な愛に駆り立てられて人類の病を救おうなどと、考えたこともない。」明らかにこの報告とマリアの道徳的満足についての報告は、調和性のスペクトルの対局にある。そして私たちの大半は両者の間のどこかに収まるのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.178)

調和性の極度に低い人=精神病質(サイコパシー)

完全に自己中心的で、冷酷で、不誠実で、愛する能力を欠き、もっぱら自らの目的を達せ雨するために他者を利用する傾向を持つとされる人物である。(略)サイコパスの多くは札付きの犯罪者である。彼らはしばしば人をペテンにかけ、欺き、あるいは巧みに操って、富や名声、もしくは満足を手に入れようとする。彼らはまた、きわだって攻撃的である。ただ、すべての攻撃行動がサイコパシーのサインというわけではない。神経質傾向の高い人もまた、特定の状況のもとでは衝動的に攻撃的になるかもしれない。すでにみてきたように、彼らは極めて強いネガティブ情動システムをもっており、驚異と感じる対象に強く反応しがちなのである。(略)サイコパスの攻撃はこれとは違う。サイコパスは道具として攻撃を使う。それは自分の利益になる何らかの目的を手に入れるためであり、事前に計画されたものである。標的とされる相手からの挑発もなければ、後悔を伴うこともない、彼にとって、相手が味わう苦痛など、文字通り何の重みももたないのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.180)

国ごとにパーソナリティを調べたらどうなるか。そこらへん知りたい。
知ったからって、どうすることができるかわからないけど。

この調査も、自己判断によるものであるため、「改ざん」しようとおもえばいくらでもできる。
そしてサイコパシーはこの意図を読み取り、裏切る。

サイコパスが国のトップになりがちな仕組みが、日本にある。韓国にもある。(パククネ、どうなったかしら?)
シビラシステムを取り入れても、きっと悪用するだろう。

犯罪性サイコパス=低い誠実性+低い調和性

人間のパーソナリティー特性の向社会的デザイン
反社会的な行動を抑制する要因=他者への共感+熟慮(衝動性の抑制)+恐怖=調和性の高さ+誠実性の高さ+神経質的傾向の高さ

調和性がきわめて低い人は共感を欠くが、それでも熟慮もしくは恐怖によって反社会的行動が抑制される、誠実性が低い人は熟慮を書くが、共感もしくは恐怖が彼を抑制するかもしれない。神経質傾向が低い人は恐怖をもたないかもしれないが、教官と熟慮によって抑制されるかもしれあい、この三者構成システムのおかげで、ありがたいことに、向社会的行動の確率が高くなるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.182)

低い調和性パーソナリティは必ずしも敵対行為に結びついていない。

(ディビッドは)外向性が低く、キャリアの野望や物質的成功にあまり心を動かされない人物である。ディヴィッドはまた調和性のスコアも低い。それにもかかわらず、彼はたよりになる夫で、良き父親であり、有能な教師であるとともに、信頼できる同僚である。(略)ただ、人間にはたいして興味がない。彼は自分の対人関係が「どちらかといえば限られている」と欠き、こう続けるー「大抵の場合、人間とのつきあいは私にとって退屈に思えます。私は一人でいる方が好きです。一人でいれば、自分の考えを好きなようにはばたかせられるのですから。」彼は自分でも、「人々への関心の欠如が、組織でうまくやっていくのを妨げている」ことを認めているが、それでも「自分を変えようとはおもいません」と言ってのける。たしかに、なぜそうする必要があるのか。別に誰にも害を与えていないのだ。彼が自分と人々との関係について書いているなかに、もう一箇所、興味をそそる部分があるー「だいたいにおいて、私は必要もないのにややこしい事態に巻き込まれるのを避けています。対人関係もしばしばその手の面倒をもたらします。そこには、ステータスやランキング競争にからむ隠された行為や信号が溢れており、私を苛立たせます。だからこそ、私はそんな交流に加わりたくないのです。」人間関係がステータスやランキングに関する信号で溢れているということは、私も否定しない。興味を引くのは、人々の会話が「隠された」事柄を含んでいると言っていることなのだ。言葉の下に隠された心の状態を解読するのに生まれつきあまり関心同い人たちにとって、人々との会話は複雑でほとんど不透明の代物なのだろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.183)

サイコパスはメンタライジングができても共感はしない。
自閉症はメンタライジングができないが、共感できる。

調和性は、メンタライジングよりも共感のほうにより近いようである。調和性が低いということは、自閉症と違って、他者の心の状態が解けないのではない。解いた結果に関心がないだけなのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.185)

調和性とは?

調和性の次元とは、本質的に人がどれほど他者に配慮しているかを示すものである。調和性スコアの低い人(サイコパスのように)は他社の利益をゼロに近いところに評価し、スコアの高い人(マリアのように)はかなり高く評価する。私たちの祖先の時代、(理論上)最高値の調和性スコアをもつ人は、絶対に適応することができなかっただろう。(略)なぜなら彼らは、集団の全員に行き渡るだけの食料がないとき(祖先の時代にはしばしびあそうであったように)にも、他のみんなが腹一杯になるまで食べようとしなかったからだ。現代の集団でこのタイプに最も近いのは、「依存性パーソナリティ障害」と呼ばれている状態である。(略)患者はその極端な調和性ゆえに、完全に自分の必要や価値観、選択の自由、楽しみ、そして目標を犠牲にして他者の欲求をみたそうとする。一方、連続体の反対の端には、向社会的傾向をまったくもたない人々が想定されるが、彼らもまたほとんど子孫を残さなかったと考えられる、このような人々は社会的に追放され、避けられたはずだからだ。したがって自然淘汰は、この二つの極端の中間のどこかにいた人々に有利に働いてきたことになる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.187)

コスト
調和性の低さ=昇進、社長、管理職になる確率の高さ
「いいやつ」ほど出世しない。
逆に、クリエイティブな仕事で成功するかどうかを予測するのは調和性の低さ。成功したいならば、冷酷でなくてはならず、自分自身と仕事を第一に考えなくてはならない。

もし「いい会社」「いい仕事」「いい人生」を送りたいなら、調和性を高くしないほうがいい。
冷酷に育てるといい。そういう人が管理職・経営者になっている社会が、今の日本だ。

外向性の高さと調和性の低さ。これが「地位と名誉」に必要なパーソナリティーだ。

男性は調和性が女性より低い傾向がある。
女性は調和性が男性より高い傾向がある。

女性は男性にやさしさと経済的豊かさを求めるが、両者の間には葛藤がある。親切と共感は高い親和性を意味するが、個人的成功は調和性の低さをいいしがちだからである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.192)

これがビジネスの原理と、子育ての原理の違いだ。

女性は男性よりもおたがいに強い友情を育て、一族の世話をする。心理学者のシェリー・てイラーは、すべての哺乳類において、脅威に対する「闘争もしくは逃走」反応は、実際にはオスだけに特有の反応だとさえ述べている。女性の場合、脅威に対する反応は「世話と友情」という方が適切であろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.194)

子育ての「明確な方針」をもったら、子育てに迷わないとおもう。
でなければ、子育ちであって、子育てではない。そういってしまうと、気負いしてしまうお母さんがいるかもしれないが。この時代、いろいろな情報に溢れた時代、子育てに信念があれば、楽になれるのではなかと、僕はおもった。もちろん、子育てをしながら、信念は変わって当然なのだけれど。

子育ての点で言えば「男性」の原理で動いている労働社会へと向かわせるために損なわれるであろう「女性」社会を補完するための仕組みが補償されていないことにある。保育園の無償化はただビジネスの原理を推し進めているだけだ。女性が「女性」となる環境を破壊されていることに気がついて、それを守ることが、男性の大切な役割ではないだろうか。子どもが「女性」を失えば「男性」原理のこの世界を動かしていくように、天秤が傾いていくのは自然なようにおもえる。サイコパスが増える。

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意欲 外向性
忍耐 誠実性
創造 開放性
熟慮 神経質傾向
共感 調和性

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詩人ー経験への開放性

余暇活動についての最近の研究によれば、開放性のスコアは、あらゆる種類の文化的余暇活動、芸術的活動にどれほど関わっているかを強くよそくするという。ひとによっては読書を好み、また人によっては画廊に行くのを好む、ということではない一方には読書にも画廊にも劇場にも音楽にも熱心な人がおり、他方ではそれらのどれに対して興味もない人がいる。あらゆる文化的ヨア活動に関わろうとするこの傾向は、ただひとつ、開放性によって予測される(開放性がネガティブに関わるのは二つの余暇活動だけで、残りはすべてポジティブである。その二つとは、ソープオペラを見ることと、ロマンス小説を読むことで、恐らくこれらの比較的努力を要さない活動は、他のもっと努力を要する趣味に当てられる時間がふえるについれて消えていくだろう)。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.198)

開放性=IQ?

開放性とIQスコアとの間にはポジティブな相関がある。相関係数はおよそ0.3で、ゼロよりもかなり大きい。知能のうちでも、言語と知識に基づく側面との相関は、非言語的もしくは空間的な推論部分と相関よりも高い傾向にある。(略)開放性は、前頭葉にある一連の認知回路の公立の個人差を反映しているということである。そうだとすれば、5番目のパーソナリティ要素は知能ときわめて近いことにいなる。この回路の効率はIQとも大きく関わっているからだ。しかしながら開放性には、知能とは全く異なるばかりか、完全に違った方向を指しているように見える、多くの相関や要素がある。(略)開放性の高い人間お典型が詩人もしくは芸術家だということである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.198)

芸術家が因習に刃向かう小w長であるのは、普遍的な現象である、ギンズバーク自身、活動的なカウンターカルチャーの象徴であり、確信主義者として政治に関わり、また性をめぐる時代の因習と反目していた。(略)異常な社会観をもつというだけではなく、多くの芸術家はその社会観を目まぐるしく方向転換する点でも異常であるようだ。多くの詩人と同様、ギンズバーグもまたさまざま職業、哲学、ライフスタイルを試し、自己表現の方法を絶えず探求して、メディア、写真、音楽、映画などの多様な形式で自分を表現しようとした。第三者の目には、それぞれの時期はばらばらで関連がなく、断片的にさえみえるかもしれない。だが詩人自身にとっては、全てが疑いなく同じ旅の一部だったのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.201)

開放性とは

このように、ギンズバーグの「吠える」のなかに、私たちは4つのテーマを見出すことができた。意味の連想の広がり、因習にとらわれない不断の行為、超自然的な信念、精神病に似た経験というこの4つは、詩人だけでなく、一般的にパーソナリティ次元としての開放性に特徴的である。そのうえこれらは、知能やIQとは全く無関係なのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.203)

詩人をはじめとして芸術家には精神障害の発症率がきわめて高い。この人たちは、開放性の高さではまさしく代表的存在なのだ、ほとんどの場合、彼らの症状は本格的な統合失調症ではない。はるかに一般的なのはうつであり、すでに述べたように、おおむねうつは開放性よりも神経質傾向と結びついている。(略)若い時の開放性はのちになってクリエイティブな活動に結びつくばかりでなく、精神医学の世話になる可能性をも予測している。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.204)

開放性が高く、神経質傾向も高いなら、芸術家に向いているということだ。

開放性=超自然的な信念、精神病に似た経験

異常体験の枠にはまる現象は、幻覚と擬似ー幻覚(幻聴、もしくは、自分が考えていることが声のように聞こえる)、近くの乱れ(すべてが奇異に見える、あるいは奇異な意味を持つように見える)、神秘的な考え方(超自然な力、頭を出入りするパワー、テレパシーの感覚)などである。(略)この異常体験のスコアとビッグファイブの開放性のスコアは相関している。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.205)

開放性のスコアの高い人は、伝統的な意味では必ずしも宗教的ではない。ほぼ全ての事柄で、彼らは伝統的ではないのだ、その上彼らは政治的にリベラルで、正統的な組織や団体の内部では居心地がようないといった傾向がある。だが彼らはしばしば世界の超自然的、あるいは霊的な活動に対して特異な強い信念をもっている。(略)開放性のスコアの高い人はまた、催眠術に比較的かかりやすい。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.206)

開放性=因習にとらわれない不断の行為

開放性のスコアの高い人は、芸術や研究関係の仕事に強く惹かれ、それらを追求するためにしばしば伝統的で画一的な組織ややりかたを避けるようだ。とくにまた、彼らにはつぎつぎと職業を変える傾向がある硫黄に思われる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.207)

開放性の「真性な」パーソナリティ特性とは、境界のゆるい連想/異常体験の特徴群である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.209)

開放性≠知能

開放性尺度には「私は複雑な考えを把握できる」というような項目が含まれる。もし質問が、「私は核連鎖反応がどのように起こるか理解できる」んはらば、答えとして叩き出されるのは重として知能であろう(少なくとも自己申告による知能だが)。一方もし質問が、「私は深遠な理念を理解できる」だったら、答えが反映するものはまったく違ってくる。世の中には、問題ー解決という点で恐るべき知性をもっているが、思索とか、まして神秘などといった非実際的な考えにはまったく関心のない人がる。そう敷いた人々は、知能は高いが、開放性は低いのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.210)

開放性=意味の連想の広がり、隠喩による連想の表現

人がある対象について連想するとき、使える連想の幅がどれだけあるかを示すのが拡散的思考課題(問題に対し型にはまらない多面的なアプローチ位をする創造的思考)であるが、その幅は開放性のスコアの高い人の方がスコアの低い人よりも広くなっている。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.211)

概念や知覚された対象がいずれも、広範な連想ラフトを活性化するのだとすれば、なぜ異常な信念が生まれるのかも理解できる。実際には「考え」であるものを聴覚と結びつけることによって、幻聴が生まれる。意味のない出来事が、そこにいない人物についての考えと結びつけば、テレパシー、もしくは超常現象という考えにたトリツク。要するに開放性が低ければ完全に別個のものとして保たれているはずの異なる領域と処理の流れは、ここではついには相互に作用試合、関連したものとして近くされるのだ。幻覚、錯覚、超常的信念はいずれも、この連想の緋色狩りが生み出した潜在的にネガティブな効果であるが、同時にそれらは、言語と資格の分野での創造性にとって強力なエンジンとなる。市の本質とはまさしく、異なる領域からの意味が結びついた言葉の印象的で隠喩的な仕様である。同じことがq活動についても言える。緩やかな教会を持って連想は、伝統的な知能のように規制の前提から問題解決を見出すだけではなく、全く新しいものへの味方へと飛躍して、新しい果実を生み、あるいは他社の注目を集める。開放性のスコアの高い人が、美術や文学において複雑絵複合的な意味を持った表現をおびただしく使い、異端的なステータスを選び、さまざまな追求に駆り立てられるのもここから説明できる。それゆえもし、開放性の心理学的基礎とは何かと問われれば、私はこう答えるだろうーかけてもいい、それは(低い開放性の心においては別々に保持されている)さまざまな処理ネットワーク間の相互作用の拡大なのだと。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.213)

利点

要するに私たち位は、自分を取り巻く言語的、表彰的表現に注意を払うように進化してきたのであり、芸術とは、その私たちの注意を引き、関心を捉えるのが最も巧みなもののひとつなのだ。したがって芸術家とは、連想の広がりゆえに、もっとも印象的で注意を引く表現を作り出せる人々ということができよう。(略)小規模の文化における良きシャーマンなどの呪術師について、その開放性を評価したならば、私たちの社会における詩人や芸術家と同じように、確実に高いスコアが出ることだろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.217)

利点

ジェフリー・ミラーによると、芸術的創造性は配偶者選択の基準として働く。もしそうなら、当然これらの領域で創造的な人間は後輩相手を惹きつけるために極めて有利なはずである。調査の結果、プロの画家や詩人は、趣味で活動している人や、あるいはまったく絵や市の創作に携わらない人よりも、一生のうちに関わる政敵パートナーが明らかに多かった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.217)

コスト

脳の内部でもともと別個であった処理の流れが前よりも相互交流し始めると、一つ一つの流れについては、本来の専門分野である狭い仕事の効率が落ちてくる。異常体験と知能の間に弱いネガティブな相関があるのは、おそらくそのためであろう。また、開放性の高いディサービスとが自分の性格を「気が散りやすい」と評価するのも、これによって説明できるだろう。開放性のスコアが低い人は高い人よりも、実際的な問題や現実的な問題ーきわめて難しい問題であってもーをとくのがたぶん上手なはずだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.218)

芸術家のニッチ

ある生態学的状況では生存こそが絶対的原則となる、そこでは人々は、家族がこれからの二冬を生き抜くのを助けてくれそうあ実際的で有能なタイプに惹きつけられるだろう。そのような状況では、開放性には何のプレミアムもない。逆に、次の二冬を生き抜くのに何の心配もない状況ならば、想像力にトム霊感的な資質がもてはやされるかもしれない。よく知られているように、人類の歴史を通じて特定の時期、特定の社会に、芸術活動お偉大な開花が見られる。考えられるのはまさしくその時期い、局地的環境が変化し、配偶と吸うテータスの決定基準がより芸術的な方向へと移動したということである。(略)開放性と繁殖の成功との関係には、他にももうひとつ、込み入った要素がある。芸術的名声は繁殖に有利に働くけれども、妄想状態という僻(スティグマ)をもつのは明らかに不利である。したがって自然淘汰による高い開放性の結果が、これら2つのなりゆきのうちどちらになるかは、極めて偶発的である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.220)

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あとの半分=遺伝によるのではない個体差

どの特性にも何らかの脳のメカニズムに基づく識別可能な中核があった。そしてどの次元においても、だんだん高くなっていくスコアには、利益とともにコストがあると考えていいだろう。これらのコストと利益は、それぞれの次元の真んかの歴史を作り上げてきた。だが同時にそれは、現代の人間が人生を切り抜けていく上で直面することになる利益であり、コストなのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.221)

行動遺伝学者によれば、パーソナリティにおける遺伝的構成要素のサイズは、全体のおおよそ50%だという。言い換えると、ビッグファイブのようなパーソナリティ特性に見られる個人差のほぼ半分は、遺伝子型の変異に結びついているというわけだ。残りの半分はむろん、遺伝子型とは無関係ということになる。パーソナリティ特性には、両親から受け継いだ遺伝子型とは関係のない、もう一つ重要な個体間の違いがあるわけだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.223)

僕も理解できていないが、子育てで子供の「パーソナリティは」変わるか。という問いに対して、学者たちの出した結果はこうであるという「親のパーソナリティは子供のパーソナリティになんら重要な影響を持ち得ない(もちろん遺伝子経由は別として)。子育てスタイル(どの子に対しても同じであるかぎり)は、子供のパーソナリティになんら重要な影響を持ち得ない。親の摂食、喫煙、家族数、教育、人生哲学、性についての態度、結婚生活の状況、離婚、もしくは再婚は、子供のパーソナリティにはなんら重要な影響を持ち得ない。もしこのうちのどれかが一貫した影響をもつとすれば、同じ家族で育った血の繋がらない子供どうしは、ランダムに選ばれたペアよりもパーソナリティが似ているはずである。だが実際にはそうはならないのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.228)」

これをどう解釈したらいいのか。筆者は一つの考え方(考え方であって、結論ではない)として環境(nurture)と学習(learning)の役割を区別することを述べている。この考え方をすれば、どうなるだろう。僕は考えて見た。子どもは親から行動パタンや価値観を模倣することで学習をしていく。しかしそれは遺伝レベルのパーソナリティとしてではなく、行動の一つの選択肢として、自由の一部として、遺伝子ではなく、脳に刻まれるのだと。つまりパーソナリティとは、いくつかの次元でのこの世界への反応の強弱であって、いかに反応するかという行動までは規定していない。子供は親から人生哲学を学ぶことはできるが、それを自分がどうやってパーソナリティに当てはめるかを考えることはできても、パーソナリティそれ自体を変えることはない。ということである(ビッグファイブのスコアが全く同じ人でも、全く同じ人間にならないのはそのためである)。僕の経験からいえば、パーソナリティは変えられる。ただしそれは、思春期を過ぎて青年になり、長い時間をかけて自分と向かい合い、(ふらふらとしながらも)修行した結果であって、親がどうこうできるものではない。と言える。「パーソナリティーは」、子育てによって変えられない。

個体差はどのようにしてうまれるか。遺伝以外の要因。

近年ますます明らかになってきたのは、多くの種において、妊娠期の母親の状態が子供の成長、代謝、さらには大人になってからの行動にまで、かなりの影響をもちうるということである。例えば、妊娠期間中にストレスを受けた母親から生まれたラットは、そうでない母親を持ったラットよりも不安になりやすい。彼らは、新奇な、あるいは開けた環境がはるかに多くの危険に満ちているかのように行動するのだ。これが私たちの興味を引くのは、ラットのこの行動がまさに人間の神経質傾向のように見えるからである。この仕組みはつまり、妊婦の状態がーおそらくストレスホルモンのメカニズムを通じてー子が生まれ出る環境の「天気予報」の働きをしているということだろうう。その「予報」によって、この反応は、直面しようとしている世界に適応するよう調節されるのである。(略)「天気予報」として役立つのは、母親のストレスホルモンだけではない。母親が栄養失調だったり、成長する胎児に与える栄養が不十分だったりすれば、環境の食料不足を示す指標になりうる。(略)母親の栄養が代謝の発達に与える影響については、幾らかの科学的根拠がある。低体重であったり、飢餓の時期に生まれた赤ん坊は、小さな体と不十分な食料に適応した循環系ならびに代謝系をもってうまれてくる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.239)

胎児期の影響という見地から、最近発表されたある興味深い事実を解釈することができる。いくつかの調査によって、パーソナリティの測定値が誕生の季節によぅて違うことが明らかになった。ことに秋と冬に北ヨーロッパの集団で生まれた人々は若者になってから、新奇性追求もしくは刺激追求の尺度でのスコアが、春と夏に生まれた人々より高い。新奇性追求もしくは刺激追求は、探索して報酬を求めようとする欲望に基づいた尺度であり、おそらく外向性の系列に属する。これら初見はまだ完全には説明されていない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.242)

身体をはじめとしてその人のもつ様々な特徴
足が速い、免疫システムが強い、魅力的な容姿をもっているなどの特徴(健康、知能、体格、魅力)に合わせてパーソナリティを調整する。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.243)

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メタ認知、自己意識の強化の時代。中学生。

大人になってからの収入の差を生む変数は十代のころの身長の高さであった。16歳という形成期の年齢において比較的背が高かった少年は、社交的で運動の得意な若者になり、これが恒久的に彼らをやり手になるように調整したようである。この時点を過ぎると、たとえ後期の急成長気ごろまでに背が高くなっても、何の違いもうまなかった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.244)

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影があり、光がある。生きるというのも絵画なのだよーヘンリック・イプセン『ブラン』

脳の配線を決めるのは、第一に遺伝子であり、第二に人生初期に受けたさまざまな影響だということ。では、パーソナリティは変えることができないのか。環境は、どのように個体差に影響するのか。パーソナリティは変えることができるのか。

個体差の要因1 遺伝子レベルの経年変化
初期の生物学的メカニズムによっておおむね固定されているビッグファイブ・パーソナリティー特性スコア

大人になり、歳をとるにつれて、調和性と誠実性のスコアがやや高くなり、外向性、開放性、そして神経質傾向がやや低くなっていく。生活史の面から見て、これはきわめて納得がいく。外向性と開放性には共通の部分がある。つまり、この二つの特性の高さに伴う行動ー野心、創造性、探究心、競争性ーは、人に社会的ステータスと資源を手に入れさせるのだ。心理学者のジョン・ディグマンが指摘したように、それらはエージェンしー(主体と自立の働き)として役だx日、基本的に世界での成功に導く。一方、調和性と誠実性の高いレベルは、他者への関係性を増すー前者は私たちの対人関係を調和のとれたものにし、後者は私たちに規範や規則を守らせる。この二つはコミュニオン(共同性)、つまり良き市民としての特性である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.251)

個体差の要因2 行動特パターンの選択

たとえば、外向性のスコアの高い人のなかで、一人は北極探検家になり、別の人はスカイダイビングに挑戦するかもしれない。さらにもう一人は、北極体験もスカイダイビングも試みるチャンスはなかったが、社会の中で活気ある顔(ペルソナ)を作り上げたかもしれない。要するに外向性ひとつとっても、多くの可能な行動表現の手段があるということであり、どれを採用するかは、個人個人の歴史、チャンス、そして選択によるということなのである。ただはっきり言えるのは、もしあなたの外向性のスコアが高ければ、少なくともそのうちのひとつを採用するだろうということだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.249)

行動の表出は「回転に合わせて」行われるのと同じように、「回転に逆らって」行われることもある。(略)回転位逆らった
行動はきわめて後半に見られる。たとえば、一緒にいることで自分の最悪の部分が引き出されるようなある種の人々を避けるというのも、そのひとつだ。自分の気に入らないパーソナリティの鏡面がでてくるような状況から、あえて離れていることもできるし、ピアノの練習を終えるまでは外出するのを自分に禁ずることもできる。あえて仕事を引き受けて、人々と会わざるを得ない状況に自分を追い込むこともできる。行動パターンを変えることによって自分のあり方を変えるというのは、容易なことではない。そのためには脳の意識的な実行機能を使って、心の深いところにある、極めて強力で、しばしば無意識のメカニズムと衝動をくつがえし、あるいは取り消す必要さえある。これは骨の折れる、また、熟慮を要する作業であり、しかも成功の保証はまったくない。行動パターンによっては、簡単に変えたり避けたりできるものもあるが、どうしゆおうもないほど変えるのが難しいパターンもある。それにもかかわらず、自分たちの性向を「回転に合わせて」表出する方法を選ぶか、あえて「回転にさからった」表出を作り出すかの間で、私たちにはある程度の個人的自由を手にすることになる。ー今の自分とこれからの自分を形成するうえで。

個体差の要因3 パーソナリティーライフストーリーの再編成

本人が誰であるか、何をしているのか、なぜそれをやっているのかについて、自らに語る主観的ストーリーである。人間が物語を語る生物だというのは、疑う余地がない。(略)全く同じ客観的出来事が無数のことなる物語へと解釈されうるのだ。キャリアでは成功しなかったものの、さまざまな経験をしてきた人間は、自分の物語を失敗と血管のそれとして語ることもあるだろうし、あるいはまた勝ち残りの競争からの心楽しき闘争のそれとして語ることもありうる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.250)

私たちがはるかに大きな自由を持つのは、自分をどう見るかという点である。第三のレベル、すなわち主観的なライフ・ストーリーでは、気質的な要素の制約はほんのわずかしかなく、実際に客観的事実による制約もあまりきいていないからである。例えば、あなたに今ほとんど金がないとして、これを欠陥とみるか美德ととるかは、かなりの程度まであなた次第である。あなたは、自分に金がないことの意味を様々に解釈することができる。このように、何かを客観的に変えることがむずかしい場合でも、少なくとも、それについての考え方は変えることができるのである。そのような再構成は、サイコセラピーでも、またもちろん個人の成長においても、極めて重要である。ただし、それは必ずしも簡単ではない。ことに高い神経質傾向はここでも制約となる。この特性が高い人は、極めて多くの悪いことを自分の身に引き寄せる傾向があるのだが、それより問題なのは、彼らには自分について肯定的なストーリーを語るのが難しいことだ。客観的に見て彼らの人生が肯定的な要素を含んでいる場合でさえ、そうなのである。彼らがネガティブな自己イメージや他者との比較を克服するには、しばしば何年もの苦しい努力と、認知行動療法のようなサポートが必要となる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.254)

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大切なのはむしろ、自分がたまたま受け継いできたパーソナリティ・プロフィールの強みを利用し、弱点からくる影響をできるだけ小さくすることによって、実り豊かな表出を見つけ出すことなのだ。このように見るならば、個人のもつ生活は利用されるべき資源であって、なくなってほしい災いではない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.258)

この一文の後に続くのは、誰かのパーソナリティによって自分が不足しているパーソナリティを補い、個人が補い合うことで、自分の役割を果たすことだ(それが共依存関係になることもあるだろうと僕はおもうが)。自分が苦手なものは他者がやる。他者にできなことを、自分がやる。孤立しないこと。「個人」が孤独ではなく、「個性」として組織化すること。例えばおとのねさんはビジネスマインドがない。広報が下手。車もってない笑。そこで、それを誰かにやってもらうことで、思いを同じくした仲間と一緒にやれば、うまくいく。という考え方だ。自分のニッチをつくり、生態系を作り上げる。そこには植物もいれば、蝶々もいる。そこに新しいニッチを求めて、生態系は複雑に、豊かになる。人間社会の豊かさの源は「個性」の多様性にある。

私たちはすべて、複合的に入り組んだ社会のネットワークにはめこまれている。家族、コミュニティ、そして組織……そのどれもがさまざまに専門化した多くのニッチを供給してくれる。大人のあなたが新年として持つようになった目的や価値がなんであれ、ただしいニッチを選ぶ限りは、自分のパーソナリティ傾向と調和しながらそれを実践して生きる方法がある。これまで何かに取り組んできて、一度として心が落ち着くことがなかったのであれば、ひょっとして自分にあったニッチを目指していなかったのかもしれない。家族や文化、あるいは時代に評価されるようなニッチはもういらない。そうしたプレッシャーに対して、あなたは敢然と立ち向かう覚悟をもつべきだ。現代の豊かな社会では、提供される社会的役割やライフスタイルは極めて多様である。社会にはおびただしい人々を押し込むスペースがあるーワーカホリック、家事労働者、親、庭師、あるいは道化、さらには資金調達者、科学者、そして奉仕者……。リストは際限なく続く。かつての社会はこれほど多様な人々の枠を支えることができなかった。今では、あなたのもつ特性がそのまま有利になるような適所を見いだすことは、これまでにないほど可能なはずである。だがその一方で、落とし穴にはまる危険もある。その手のニッチは世の中におびただしい。薬物依存者や犯罪者のためのニッチ、世界が自分なしで動いてくのを横目に見ながら一人孤立して苦しむ人々のためのニッチ。そしてなかでも、自分がなんのために生きているのかを見出せないまま、形だけの人生を生きる人々のためのニッチ……。自分にふさわしい良いニッチを探し出すとともに、間違ったニッチを避けるために、心を砕かなければならない。私たちはそのための自由と力と、そして責任がある。そのことは同時に、ある種の選択に必然的にともなうコストを理解することでもある。(略)いま述べたことのいずれも、あなたのパーソナリティを変えると言っているわけではない。これが意味するのは、パーソナリティが結果的に何を引き起こすかを理解し、その情報を使って賢い選択をするということだ。そのためには多くのことが必要とされる。自己を知るというのもそのひとつだ。自己認識というこの貴重な財産を自分のものにするうえで、本書が少しでも役に立つとすれば、私がこれを書いた目的は達せられたことになる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.260)

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